シンガポール佛学会成立式典での説法

李 洪 志

一九九六年七月二十八日


 こうしましょう。私はここに立って、皆さんがよく見えるようにします。各方面で法輪佛学会に支援してくれたシンガポールの各分野の皆さんにお礼を申し上げます。私も皆さんを代表して法輪佛学会の設立にあたってわれわれに支援してくれたシンガポールの各分野の皆さんに感謝の意を表したいと思い、皆さん、拍手をお願いします。(拍手) 佛学会の設立によって、より多くの人が法を得ることになり、更に多くの縁のある人がこの法を学ぶことができるようになります。国の法律の保障の下で、今後、皆さんにとって煉功にしても、多くの民衆のためによりよくこの素晴らしいことを行なうことにしても、便利な条件を提供してくれました。

 あまり準備をしていませんので、これから、この大会の機会を利用して、思いついたことを話してみたいと思います。まず法輪功について少し紹介します。法輪功の歴史はかなり長いのです。修煉界の人はみな知っていますが、人類社会において、文明は一度だけ現れたのではなく、人類社会に何度も文明が現れたことがあります。長い歴史の中で、人類の道徳が次第に退廃に向かった時、人類も没落に向かっていきました。大体このようです。しかも、その発展は最後の時期に至ったとき、物質の変異や精神の退廃がすでに最頂点に至った時、人類の道徳観念の下落をもたらします。このような状態の下、人類が没落に向かうことになります。人類において何度もこのような情況が現れたことがあり、ですから人類の文明も一回だけではなく、何度も文明が現れたことがあります。人間の言う石器時代も一回だけではなく、人類に何度も石器時代が現れたことがあります。人類にこのような厄介な事が現れた時、人類のすべての労動に必要な道具とすべての知識も壊滅されてしまいます。

 皆さんご存知のように、今期の人類文明の初期、四、五千年前、この地球上でかつて一度大洪水が現れたことがあり、全ヨーロッパの白人の文明は完全に壊滅されました。当然ながら残された遺跡は非常に少なく、一部の文化古跡から少し先史のものが見られます。例えば大昔のギリシア文化から残されたいくつかの出土文物の中から、まだ少し先史文明が存在した痕跡を見つけることができます。東方では、大洪水の後に残されたものは比較的に多かったのです。皆さんは大禹治水の物語を知っていますが、当時の洪水は非常に大きかったのです。水が引いた後、大禹は人々を率いて水に浸された大地の水を排出しました。歴史上にこのような記録があります。人類の当時の古代文明、前期の文明は洪水により壊滅されましたが、中国人の祖先は洪水の後に多くの人が生き残り、文明も比較的多く残されました。西洋人は生きて残った人は比較的少なかったので、今の西洋文化は全く新しい文化で、古代の歴史になかった全く新しい文化です。このように中国の古代文明は非常に源流が長い歴史があり、しかも、現代科学の歩んだ道と同じ道ではありません。

 これらの古代文明の中には、現在の人が分からないものがたくさんあり、しかも現代の文化と連帯関係もありません。ですから、西洋人を含む多くの人は知っているように、中国この地にはたくさんの神秘的なものがあり、現代人はそれを解明していません。中国人も知っていますが、中国のこの地には、たくさんの古代文化があり、それは現代人に認識されていません。それを聞いたこと、見たことがある人もいますが、解釈することができません。それらの古いものを公にして人々に説明する人もいません。中国人の祖先は当時その時残された人が比較的多かったので、上古の文化が一部残されたのです。

 昔、上古時代の中国の種族の中心地帯は今の黄河流域ではなく、新疆の辺りでした。当時この民族の最も繁栄した時期もこの辺りに現れたのです。昆侖山がこの辺りの近くにあり、周囲の地形は比較的高く、当時のあの洪水は二千メートルあまりに達し、全地球を浸し、多くの人は洪水が発生した時、昆侖山に逃げ込んで生き残ったので、一部の上古時代の文化が残されました。例えば中国で今でも人々が解明していない河図、洛書、太極、先天八卦など、及び今日の人々が認識した一部の古代の気功もそのようなものです。

 はっきり言いますと、この気功は、われわれ現在の人々が発明したものではなく、一種の先史文化であり、中国のこの地には比較的に多いです。昔、気功は気功と呼ばれていなかったのですが、何と呼ばれていたのでしょうか? 修煉と呼ばれていたのです。もちろん、修煉は次元が分かれていますが、常人社会のこの次元において、ただ人々にどのように病気を治療するか、どのように健康保持ができるかを教えることしかできません。いかに人の体を健康にするかのことです。ですから一部の気功師はこの方法を使って人々のために有益なことを行なったのです。つまり社会で伝わっているもの、各国に行った気功師を含めて、ただ病気治療と健康保持の次元のものしか伝えていません。ここでは他の人の気功が良くないと言っているのではなく、彼らは高い次元のものを伝えておらず、ただ病気治療と健康保持のものを伝え、同時にいくつかの功能の演出を行なっていることを皆さんに教えているのです。病気を治療する時に、いくつかの功能が必要になるため、いくつかの超能力の演出があったのです。

 この「超能力」はただ一つ近代の名詞で、実際は生命の本能にほかなりません。現在、物の豊かさの増加と科学の進歩とともに、人々はますます現実のものを認識するようになり、ますます人間の先天的な本能、最も古いものを棄てるようになっています。もしこのように歩み続けるならば、将来、技術はますます発達するかもしれませんが、人間はますます退化します。今、電車、自動車、飛行機があり、皆あまり道を歩く必要がなくなりました。将来、ますます物質の発達が進むとともに、人間は酷く退化することになるかもしれません。いわゆる進化論の理論に従って推論すれば、将来表面の人体も退化し、最後には四肢も変異、退化して、大きな頭だけが残ります。もちろん、これは喩え話だけですが、つまり人間の本能的なもの、先天的なものがますます多く棄てられることになるのです。

 中国のこの地で、その古代社会はこのように発展してきたのではありません。中国の古代社会の状態に従って発展していけば、技術の進歩がありうるのかと思う人がいるかもしれません。もちろん、現在のこの科学技術理論の枠の中で他の科学を認識するなら、永遠に認識できません。現代科学の枠から跳び出して他の科学を認識しなければなりません。そのような文化の中で人々は同様にそのような社会状態が現れるのは当たり前のことだと思うはずです。「もし古代東方人の社会状態に従って発展するならば、自動車や飛行機がありえますか? 私は昨日香港からシンガポールまで飛んできて、3時間あまりで着いたので、とても速いのです。人類の発展はかなり進歩しており、もし中国の古代社会の状態に従って進んでいけば、このようになれるのでしょうか?」と言う人がいます。

実は皆さんも知っているように、異なる科学方法は異なる科学の発展の道をもたらすことができます。例えば、もし古代中国の社会状態の道に沿って発展すれば、皆さんが知っているように、気功修煉で人体の潜在能力を開発することができます。つまり、気功修煉により無形のものを有形のものにすることができ、見えないものを最後に見えるものにすることができます。しかも、いかなる器具も使わず、いかなる現代科学技術の手段も使いません。気功修煉で座禅を組んで入静した後、始めの時にあまり大きな感覚はありませんが、完全に入静できた時、体の外形は動いていませんが、体の中が動いており、内側が動いているのを感じます。しかも、この動きははっきり感じられない状態から次第にはっきり感じるようになり、最後に自分の意識がこの動きを制御できるまではっきり感じるようになります。これで無形から有形になったのです。最後にこのような意識と感覚は徐々に煉功者が絶えず昇華するとともに、有形のものを形成することができるようになります。宇宙の中にまだたくさんの現代の科学技術で認識できないエネルギー物質が存在しており、これらのエネルギーは絶えず煉功者を強化する場合、これらの見えない無形の物質は次第に有形になり、人の目で見えるようになり、ひいては運用もできるようになります。このような発展の道に沿って進んで行けば、必ず人の素質の昇華が現れます。昔、学生は儒生と呼ばれ、授業を受ける前、座禅を組み、息を調え、心を静めてから本を読み始めます。昔はこのようにしていたのです。中国古代の各業種の中で、ほとんどみな息を整え、心を静めることを講じます。このような状態の下で、普通ではできない事をたくさんやり遂げられます。これはすでに気功の修煉に非常に近づいています。古代中国人の思想観念の中でずっとこのような文化が伝わっています。

 先ほど話しましたが、このように発展すれば、飛行機がありえるのか、電車がありえるのかと思っている人がいます。異なった科学の発展の方向により異なった科学の状態をもたらすことができます。皆さん考えてみてください。もし人間は飛ぶことができ、漂い浮き上がることができれば、まだ飛行機や電車が必要でしょうか? 中国にも、インドにも、アメリカにも、いずれもこのような人がいて、法輪功修煉者の中でもこのような人がたくさんいます。どうしてこのようにできるのでしょうか? 人の全身の脈が完全に貫通された後、塞がるところはまったく無くなったら、この人は空中に浮き上がることができるようになります。もちろん、現代科学の研究ではなぜできるか分りません。実はもともと研究する勇気がある人はおらず、信じようとしないそれらのいわゆる科学者にあざ笑われ、名声を失ってしまうことを恐れています。皆さんが知っているように、暫く前に、あるアメリカ人がシンガポールに来てパフォーマンスを行ない、多くの人は彼が空中で飛んでいたことを見ました。これはすべて真実に存在する現象であり、人は確かに浮き上がることができます。それでは皆さん考えてみてください、昔、中国人は、来るときに跡が見えず、去るときに影も見えない、という言い方があります。多くの気功師は、あるところから別のところまで千里を離れていても数秒間で着くことができます。彼はなぜこのようにできるのでしょうか? 当然ながら、多くの未知のことを詳しく分析して説明しなければならないのですが、今日は詳しく説明しません。私はただ概括的に異なる科学の発展が異なる状態をもたらすことができると話しています。飛行機があるので、3時間で香港からシンガポールまで飛んでくることができるとあなたは言いますが、彼はそこに坐れば浮かび上がって、十数分間で漂って飛んでくるかもしれず、しかもそのような大げさな機械を作る必要もありません。話してみればこれらの事は摩訶不思議なことでもありません。人々が解釈できないたくさんのことは次第に科学で実証されています。確かにこのような状態に達することができます。あなたは現在の科学から別の科学の道を認識しようとしてはいけません。

 もちろん、気功は現代の名詞で言っても一つの科学であり、しかも、さらに古くさらに高級な科学です。たくさんの科学者は人体科学と古代科学を実証する勇気があり、彼らは気功現象の真在が見えたからです。

 もちろん、気功の存在に反対する人もいます。在席の法輪功学習者の皆さんに教えますが、あなたが他の人に法輪功を学びにくるようにと教える時、信じない人、ひいては反対する人もいるかもしれません。これもごく正常なことです。なぜでしょうか? 人類社会はこのように矛盾して存在しているからです。もし、誰でも気功を信じ、誰でも佛法を信じ、誰でも修煉できるならば、人類社会は存在しなくなり、すべての人は天人になり、神になります。反対する人、支持する人、信じる人、信じない人がいるからこそ、このような矛盾して相生相克の社会が構成されたのです。各業種において、常人社会のすべての事を含めて、いずれも正と反の二つ方面の要素が同時に存在しています。一つの良い事を行ないたければ、必ず良くない事が現れます。この困難を突破してはじめてその良い事をやり遂げることができます。もちろん、人が悪い事をやるのも容易なことではなく、国家の法律があり、良い人も許しません。ですから物事はこのように存在しており、これはいずれも正常なことです。この宇宙の中に二種類の異なった性質の物質が対立して存在しており、下へ進んでいけば、一陰一陽の太極の理論が生まれました。更に下へ進んだら、相生相克の理が現れました。この相生相克の理は常人社会での現れが最も突出していて、ですから私は先ほど話した古代科学に関して、信じない人がいれば、信じる人もいます。私が今日伝えたこの佛法修煉を含めて、支持する人がいれば、反対する人もいます。これもすべて正常なことです。皆さんも今後いずれこのような事に出遭うこともあり、別に驚くほどのことではないと私はそう思います。

 私は法輪功の歴史を話す前に、一歩深く踏み込んで先ほどのことを話しました。人々の今日認識した気功も、一種の古い科学です。法輪功を含めて、いずれも先史文化です。李洪志は今日頭が熱くなり、一通りのものを編み出して皆さんに伝え分けたのではありません。そのようにすれば人を害することになります。現在たくさんの偽気功師が人を騙して、人を害し己を害しています。一般の情況下では功が発せられた時、この空間を通らないので、人の肉眼では見えないから、多くの偽気功師は人を騙して、本物を装い、真偽が混同されています。もともと気功を信じない人がたくさんいるので、こうなると更に気功に反対することになってしまいます。特に現代人の道徳はもう駄目になり、どんな事にも本当のことと偽のことがあり、商品さえも偽のものがあり、まして気功はなおさらです。当然ながら、気功は勝手に一通りのものを編み出して人を騙してはならず、このようにすれば人を害して、自分をも害します。なぜなら、人を騙す者もどんなものを練り出すことができるのか知らないからです。もちろん、何も練り出すことができなければ、それはかまいませんが、もし本当に何かを練り出すことができたなら、人を危険な境地に落とす可能性もあり、これは偽気功が人々にもたらした危険です。

 それでは、この法輪功はどのように生まれたのでしょうか? いつ生まれたのでしょうか? 遡ってみれば、その歴史はかなり長いのです。常人が聞いたら摩訶不思議に思うので、今言わないようにしましょう。皆さんは徐々に分かるようになります。しかし、皆さんに教えますが、人類の先史の時期に、法輪功は主要な佛法としてこの世で人を済度したことがあり、二千五百年前に釈迦牟尼が人を済度した時と同じように、かつてこの世で普く衆生を済度したことがあります。かなり長い歴史の間に人類に法輪功を示したことはありませんでした。相当長い歴史になったので、特に今の世の人は更に分らなくなりました。法輪功の歴史は相当長く、相当昔からあるのです。

今日、なぜ法輪功を伝え出すことができるようになったのでしょうか? もちろん、私は最も分かりやすく、最も表面の情況しか話せません。私は一つの情況が見えました。どんな情況でしょうか? 人類社会で物質的に豊かになり、科学の急速な推進とともに、人類の道徳は大きく滑落しています。現在の人々はみな科学を信じ、現代科学が真理だと思っています。しかし、人々は一つの問題に気づいておらず、現在の科学は完備されておらず、科学に認識されていないものがまた多くあり、その上、科学に排斥されているものもたくさんあります。多くの頑なな人がこの完備されていない科学を用いて科学で解釈できない人々の信じている現象を攻撃しています。しかし、これらの科学により解釈できない原因不明の現象は、確実に現実の人類社会のこの空間に現れています。現代科学はそれを認める勇気がありません。科学に認められていないから、科学を信じている多くの人々は同じ観念を抱いて反対しています。しかしこの科学は本当に健全なものではありません。例えば、数千年来、人々は徳を重んじてきましたが、現在多くの人はこの徳が人の思想の中、頭の中の一種の善良な意識で、人に対する一種の精神的な要求だと思っているだけで、それ以上多く考えていません。しかし皆さんに教えますが、宇宙の中のいかなるものはすべて物質により構成されたものであり、だからその要素の存在がありえたのです。この徳は真に物質的な存在であり、確実な物質存在の現れです。昔、東方の人、特に中国において、年配の人はよく徳を積む、徳を積むと言います。若い人はなぜ徳を積むのか? どんな徳を積むのか? この無形のものをどのように積むのかが分かりません。実は皆さんに教えますが、徳は形があるもので、ただ人の目では見えず、別の空間に存在しています。しかも常にそこに存在しています。良い事を行ったら徳を積む事ができます。苦しみに耐えれば、徳を積む事もできます。徳は何回生まれ変わっても人に付いていて、この徳によりあなたの将来の福報が決められます。高官になる人がいれば、多くの財産を築く人もおり、大きなビジネスに成功する人もいます。これはすべてその人が以前あるいは前世において徳を積んだので、今生に福を得たからです。なぜ多くの人は生活において他の人ほど豊かではないのでしょうか? つまりその人は他の人ほど徳が多くなく、それほど積んでいないからです。これはその原因であり、だからこの徳はきわめて肝心なものです。さっき私は科学が完備されていないと話しましたが、現在、この科学は人類のこの物質空間を突破することができなく、他の空間を認識することができません。しかし今多くの特別に優れた科学者はすでに別の時空の存在があることを認識しました。まだ突破することができませんが、理論上にはすでに浅い論述があり、このような問題を提出し、彼らは別の時空の存在があると考えています。それでは、その時空に生命がありますか? その生命はどのようなものなのか、どのような存在形式なのか? その中の時間とわれわれのこの空間の時間とはどのような違いがあるのか? その空間の概念、生命の形象、物質の形式はどのようなことなのか? これは現在の人類科学にとってすべて未知のことです。現代科学は別の空間の存在を認めず、徳の存在も認めていません。皆さん考えてみてください、人類はあまりにも科学を信じているから、科学が認めないものなら人々も信じません。これにより、科学は人類の道徳が激しく滑落する要素をもたらしたのではありませんか? 人々が徳を積む、徳を重んじるなどの徳のことに言及すれば、多くの現代意識に染められた人は、「あなたは迷信を言っています。それはすべて迷信です。私達は科学を信じ、それらの迷信を信じません」と言います。皆さん見てご覧なさい、すでにこの科学の棍棒を用いて人間の最も本質のものを叩いています。これではこの科学が完備されたものだと言えるのでしょうか? 先ほど話しましたが、人類の物質上の生活はとても豊かになりましたが、どうして道徳の観念が滑落しているのでしょうか? 現在の科学は他の空間と高級生命の存在を実証することができず、人類には輪廻と応報があることを実証することができず、徳の存在を実証することができないから、人々は悪事をする勇気があるのです。現代人の多くの人は、「これはすべて迷信で、非科学的だ」と思っています。神の存在を信じないから、悪事をする勇気があるのです。応報を信じず、すべて迷信だと思っています。これは現在この科学の不足によってもたらされた最大の問題です。

 私は思い付いたことを話しています。先ほど法輪功の由来に言及しましたので、話を広げてこの問題について話しました。

 たくさんの修煉界で話していることは、常人社会で話すことができません。しかし常人社会の中でもたくさんの人が見たり聞いたりすることによって少し知っており、たまに解釈できない現象を見たり感じたり、あるいは特別の現象に触れることもあるかもしれません。しかし、それらを実証し、系統的に研究する人はいません。

 先ほど学習者が講壇の上でこの法はきわめて貴重なものだと話しました。私もここで皆さんにたくさん話しました。まだ本を読んでいない人は『轉法輪』を読んでみれば分かることでしょう。『轉法輪』は法理であり、法はもちろん修煉者に伝えるものです。修煉と言うなら、多くの人はとても難しいことだと思っています。実は修煉自身は難しくなく、常人の心を放下すること、人の執着を放下することこそ最も難しいのです。常人の心はどんなものでしょうか? たとえば一人の修煉者としてまず殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないようにできなければなりません。常人はできません。彼らは常人だからです。修煉者は必ずできなければなりません。しかも他人にいじめられたとき、あなたは怒りも恨みも持ってはならず、平然と対処し、ひいては恩讐を一笑に付し、殴られてもあなたを殴った人に心から感謝しなければなりません。常人はこんなことをまったく理解できず、どうしてこのような人になるのか? ひ弱になりすぎると思っています。実は他人にいじめられた時、彼はあなたに徳をあげており、まぎれもなくあなたに徳をあげています。この宇宙の中にたくさん人の肉眼で見えない厖大な物質が存在しており、現在の科学でも発見できません。これらの更にミクロ的な数多くの厖大な物質は、みな霊性があり、生命があるもので、自分たちより低いすべての生命を制御しており、同時に全体的に宇宙の中のすべてのものの均衡を保っています。しかも、この宇宙の中に失わなければ得られず、得るには失わなければならぬという理があります。人は何かを得ようとすれば交換しなければなりません。これは得失と言います。どのように失うのでしょうか? この空間の中で常人は見えませんが、時に感じることができます。一般の人は苦労して努力することによって得たいものを得るのですが、苦労したくなく無理やり得た場合、神から償わせることになります。例えばある人が他人のものを奪い取ったり、人を殴ったりした場合、この人は利益や精神の上で無理やり得ようとし、補償を支払うことを考えていません。しかし、この宇宙は得た人に強制的に補償を支払わせ、失いたくなくても失わせなければなりません。どのように失うのでしょうか? あなたはこちら側で他人を殴ったり、いじめたり、あるいは他人のものを占有したりして、得れば得るだけ、他の空間ではあなた自身の範囲内からそれに相応する徳が飛んで行って相手に与えます。しかも、この徳は利益や金銭に替わることができます。つまり人は強制的にものを失わせた場合、相手はこの人に補償を与えなければなりません。常人はこのことが見えないので、悪事をする勇気があるのです。多くの人は商売をしている時に騙されて、あるいは強制的に何かを失わされた場合、もし自分が悪事をして徳を失ったことによってもたらした結果でなければ、暫く時間が立ってから、また同額の報酬が得られます。それは即ち損失をもたらした人に強制的に補償をさせたものです。しかし、人々はそれを偶然なことだと思い、あるいは自分の努力によって得られたものだと思ってしまい、人間は本当の原因が見えません。ここで皆さんに教えますが、徳はきわめて貴重なもので、いかなるものにも転化することができます。科学はこれらのものが見えないから、現代人はこれらのことを信じません。これも人類の道徳水準の大滑落をもたらした原因の一つです。しかし、この宇宙の厖大な物質、高級生命は確かにこの宇宙の関係を均衡しています。あなたは失うべきではないものを失ったら、補償、還付が得られます。相手は失いたくなくてもだめです。宇宙の力は直接他の空間で作用しているからです。これは一つの簡単な例です。実は被害者の得たものは更に多いのです。だから時に私は人が苦しみを嘗めるのは、悪い事とは限らないと話しています。過去のお年寄りの人、特に中国のお年寄りの人はみな、今苦しみを嘗めれば将来は楽になると言いますが、つまりこういう道理です。イエスは人に左の顔を殴られた時、右の顔も差し出しなさいと言いました。人々はこれを理解できず、実は今多くのカトリック教徒、キリスト教徒もこれを理解できません。道理から言うなら、どうしてこのようにしますか? イエスはただ表面のことだけを話して、更に深い内涵を言いませんでした。つまり、彼はあなたのこちらの顔を殴っている時、あなたに徳をあげており、同時にあなたの罪業を消すことを手伝っています。それでも、人を殴る者の鬱憤がまだ払いきれていなければ、あなたは更に反対側の顔を突き出して殴ってもらえばよいです。彼はあなたの業を消すことを手伝っていると同時にあなたに徳をあげているのではありませんか? あなたは苦痛を味わったのであなた自身の業力も消されます。人々はみな業を造っています。殺生をしたり、人をいじめたり、人を罵ったり、人を恨んだり、あるいは悪事に働いたりすることは、すべて業を造ってしまいます。業は一種の黒色の物質で、人体の周囲に存在しています。業力はその人の苦痛と疾病を決定し、あるいは厄介なことに遭い、商売がうまくいかず、人に殴られたり罵られたりなどたくさんの苦痛をもたらします。誰かに殴られたり、いじめられたりした時、あなたを殴る人はあなたに徳をあげなければならず、あなたは苦痛を味わっている時、あなた自身の黒色の業力も徳に転化されます。これで一挙両得になります。常人として一挙両得できますが、一人の修煉者として、これは乗り越えなければならない関です。苦痛の中でうまく関を乗り越えることができれば、心性が向上できます。心性の向上はつまり次元の向上であり、功も伸びます。徳は功に転化されます。理をはっきり話しましたが、実際の修煉の中でやはり皆さん自身に頼るしかできません。

 実は私は法を伝えているだけではなく、私は今まで誰もやったことのないことを行ない、本当に人間に天に昇るはしごを残しました。あなたはこの大法に従って修煉すれば、必ず円満成就できます。この法は今まで誰も説いたことがなく、特にこの人類の次元において、信じなければ古今東西の書物を調べてみればよいのです。『道徳経』、『聖書』、『佛経』にはいずれもこのように天機をすべて漏らして法を説くことはありません。

 釈迦牟尼は佛であり、人々は釈迦牟尼佛が佛法を残したと思っていますが、釈迦牟尼佛自身は私が一生の中で何の法も残していないと言いました。人々は彼の言った言葉の意味が分からないので、禅宗は法がなく、釈迦牟尼佛さえ佛法を残されておらず、他の誰も佛法を説くことができず、説いてはならず、説いたら佛法ではなくなると思っています。この理解は完全にずれてしまいました。それでは、釈迦牟尼佛のこの話はどんな意味でしょうか? 釈迦牟尼は神であり、彼は人を済度するために常人社会に転生して来て、円満した後、佛に成就しました。彼の話は佛性を持っています。彼が説いたのは、系統的な修煉の佛法ではありませんが、佛性を持っている言葉はその一層の中の法理であり、しかし、系統的な宇宙の根本の法ではありません。実は後代の人の整理した経書もとぎれとぎれで、系統的なものではありません。確かにこのようです。釈迦牟尼は二千五百余年前にその時の人に対して法を説きましたが、釈迦牟尼佛は今日の人類の情況をも見えました。それで、釈迦牟尼佛は当時、末法の時期になると彼の法が人を済度できなくなると話しました。実は現在の人は釈迦牟尼佛の説いたことを理解できなくなりました。

 西方宗教の『聖書』を含めて、現在、人々はそれらを正しく理解できなくなりました。現代人の思想が非常に複雑になったからです。人々がこのように理解し、あのように理解し、すべて現実的な感情と利益の心をもって理解していて、本当の内涵は現在の人は却って理解できなくなっています。

 皆さんに教えますが、『轉法輪』この本は確かにとても貴重であり、人類のいかなる本も比類できないものです。これは修煉の本であり、人を円満まで導くことができる非常に厳粛な大法です。先ほど『轉法輪』を開いて見ると、すべての字が金色に輝いていると話した人がいました。もし皆さんが修煉し続けていけば、円満まで精進することができれば、あなたが精進する過程の中で、修煉の過程の中で、あなたはたくさんの常人が見えない、体験できない感覚や光景を見たり、体験したりすることができます。その時あなたはこの本がどのような本なのかが分かるようになります。私はここで如何に説明しても限られており、多く言うと不可思議に思われるので、やはり皆さんが自分で悟り、自分で実証した方がよいと思います。私がただ皆さんに教えたいのは、この法はきわめて貴重なものなのです。

 私が当時この法を伝え出す時、多くの高級生命、大覚者から伝えないようにと私に言いました。人類の道徳がすでにここまで堕落したのに、あなたはまだこんな素晴らしいものを持ち出して、人類は最も良い時期にも、あなたは伝え出さなかったのに、今になってまだ伝えるなんて?と彼らは言いました。神もこのように思っています。

 皆さん考えてみてください。私は先ほど業力と徳の問題を話しましたが、業力と徳は人について転生するのです。人はこの世のものを何も持っていかれず、ただこれらのものが人について輪廻するのです。輪廻に言及しましたので、皆さんに教えますが、宗教の中に言われた人が死んだら別の空間に入り、特に東方の宗教の中にみな六道輪廻の説があり、人間は確かに転生できます。これは真実なのです。修煉界ではまったく疑いようがなく、みなはっきり見えています。なぜ転生できるのですか? 人が死んだらすべて終わるのではないかと言う人もいます。死んだのは後天に人類の食べ物を食べて成長してきた部分であり、人の生命は死んでいません。

 現在の人類が認識できる方式から言えば、皆さん考えてみてください、人間の身体は分子の粒子によって組み合わさった表面物質によって構成されたものであり、これは誰もが知っています。地球の周りの空気、木、建築物のセメント、鋼鉄を含めて、これらはすべて異なった分子の粒子から組み合わさった表面の物質です。それでは分子はまた原子から構成され、原子はまた中性子、電子、原子核から構成され、更に下へ追及し続ければ、原子核はまたクオークから構成され、原子核はまた中性微子から構成され、更に下へ追及し続けていけば、人間はもう知る術がありません。実は人が死んだ時、ただ分子の粒子から組み合わさった表面の物質空間の肉体を脱いだに過ぎません。まるで衣服を脱ぐことと同じです。しかし、原子から構成したもの、原子核から構成したもの、クオークより更にミクロの物質から構成された体の部分は、全然死んでおらず、人体の表面物質の死亡とともに死ぬはずはありません。皆さん考えてみてください、原子核は分裂が起きたら、核爆発になります。人が死ぬ時に原子核を分裂させるほどの大きな力がありうるのでしょうか? 現在の科学で核分裂を起すには、かなり大きな熱量とかなり大きな重力の衝突のもとではじめてその原子核の分裂を起すことができます。常人の体に核分裂を起すほどの大きなエネルギーはありえますか? 火葬場のその温度は絶対に原子核の分裂を起すことができません。つまり人体を構成した更にミクロの物質は、焼却炉の火によって破壊されません。もしその火で本当に体の原子核を分裂させることができたら、それはつまり核爆発です。一人の人間の体に存在する核物質は爆発したら、相当大きな範囲の都市を壊滅させることができます。原子ですから、エネルギーは相当大きいのです。どうしてこのような事が発生しないのでしょうか? つまり人体の中に存在する原子の成分が破壊されていないからです。

 皆さんは原子核を知っていますが、原子は人体にとって強い放射性があり、つまりそれは一種のエネルギーです。実は更にミクロの物質──クオークのエネルギーの放射性は原子核の放射性よりもっと大きいのです。さらに中性微子の放射性はクオークでは比べられないほど強いのです。ミクロへ行くほど粒子のエネルギーがますます大きくなります。皆さんに教えますが、皆さんの煉り出した功の中に強大な原子、中性子、更にミクロに至るまでの物質があります。煉り出した功はなぜ病気を治すことができるのか? どうして人の体を変えることができるのか? なぜ修煉者はさまざまな奇跡を起すことができるのか? 功と功能はこのような更に高級のエネルギー物質によって構成されたからです。しかも、正法修煉の中のこれらの物質はすべて生命と善良な本性を持っていて、修煉者本人の意識により制御されていて、人の考えにより指揮されていて、科学の方法で原子分裂を起した時のような悪質な破壊性はありません。科学の方法で原子爆弾を爆発させることによって放出したエネルギーは悪質なもので、指向性もなく、人やその他の生命に対してすべて傷害の作用があり、人の生存環境に対しても強く傷害を与えます。しかし、修煉者が放射したエネルギーは意識があり、正しい作用を発揮できます。中国科学院の研究員は私に対して計測、鑑定を行なったこともあります。私が法を説く時に放出したエネルギー物質は測定できます。中国科学院の高能物理研究所は高エネルギー物理を研究する専門機関です。彼らは説法の会場の四隅や真中、様々な場所に機器を設置し、私の説法に使うテーブルの上にも機器を設置しました。彼らの測定した結果、私が放出したエネルギーの中に原子の成分以外に中性子の成分も相当大きかったのです。もちろん、彼らはこの程度しか測れず、もっとミクロの物質に対して彼らはそれを測定する機器を持っていません。彼らが不思議に思ったのは、私の放出したエネルギー場は均等に分布しており、エネルギーは指向性があります。現在の科学研究から知っているのは、核物質から出たエネルギーは、指向性がなく、どこへ放射して行くか分からず、しかも近い所は強く、遠い所は弱く、輻射範囲内ですべてのものに対して傷害を与えます。もちろん、現在の科学は完備されておらず、過剰にそれを信じれば、人類にとってきわめて有害なことです。

 先ほど人の生命が人の死亡とともに亡くなることはないと話しました。つまり人の元神はこの空間の死亡した肉体から解脱することができます。元神はもともと他の空間に存在し、生まれる時にこの空間の人体と合わせて一体になります。この空間の体が死んでしまう時、元神は解脱して出てきます。宗教の中で言われた六道輪廻も真実なことです。生命は六道輪廻の中で転生できます。人は繰り返し人に転生できますし、物質に転生し、動物に転生し、さらに高級生命に転生し、あるいは他のものに転生することもできます。

 佛教の中では天眼通、慧眼通、法眼通、佛眼通など五通が言われています。もし、法眼通まで開かれたら、あなたの前に現れた世界はこの様子ではなくなります。どんな様子でしょうか? あなたは自分の目があなたの次元でのあらゆる物体を透して見えることに気づきます。更にミクロの物質が見え、しかもあらゆる物体は全部生命があることに気づきます。物体はあなたがそれらを見えることが分かった時、それらはあなたと交信することになります。言語での交信、思惟での交信を行ないます。一部の常人はこれらは摩訶不思議な話、怪しげな話だと思います。もちろん、これらは修煉の中の事であり、法輪大法の学習者に対して話したことです。皆さんはすべて修煉者であり、私は常人に対して話しているのではなく、勝手に常人に話してはいけません。多くの常人はこれらのことを信じないのです。

 それでは、その時になると、あなたはどの物体の生命も以前人間であったかも知れず、死んだ後、また他の物体に転生した事が分かるでしょう。ここまで話しましたので、少し説明します。転生する人は業力を持っており、同時に徳も持っています。現在の人類は道徳の堕落に伴って、徳という物質はますます少なくなり、業力はますます多くなっています。生命は交互に転生しているので、現在、見た目では人身の上に黒い業力があるだけではなく、物体の上にも黒い業力があります。生命は六道輪廻の時、これらの業力を持って行くので、あらゆる物体の上に、すべて業力が存在する可能性があり、すべてが病気を引き起こす可能性があります。業力の人類のこの空間の表現は、ミクロのウィルスです。現在、業力が多すぎていかなる物も業力を持っている可能性があります。皆さんが知っているように、昔中国の農民は、農地で耕作する時に手を怪我したら、土の粉末を少し抓んで傷口につけて、そのまま放っておけば、間もなく良くなります。今の土は触れることも恐ろしく、常人はそれに触れたら感染して化膿するかもしれず、また破傷風に罹って死んでしまうかもしれません。なぜでしょうか? これは今の土がすべて業力を持っていることを示しています。ですから、高次元の空間から振りかえって地球を見てみると、至る所に業力であり、黒い波がうねっています。人の目では見えないので、人々はまだとても良いと思っています。

 皆さんはインフルエンザを知っているでしょう。インフルエンザは実は濃度のかなり高い業力の塊が流れてきてもたらしたことです。それらの癌やエイズなどは、特定対象のある悪質な業力の病気です。エイズは性の乱れと同性愛に対してやって来たものであり、それは密度がもっと高い業力であり、普通、業力の多い地方では人が病気になりがちです。濃度の高い業力はその地区で現れたら、その地区は流行病が発生します。これはこの地区の人々の造った業が多すぎることによってもたらされたことです。

 私はなぜこれを話したのでしょうか? 私は人類の道徳の滑落がかなり激しく、もしこのまま進めば、人間はもっと大きな危険に直面するようになると見えています。もし天上の神は人間を人間として見なさなくなった時、それは本当に危険なことになります。人間は人間の行為があるべきであり、人間の外形があるだけで人間だと限らず、サルも人間に似た外形を持っています。もし人間は人間の道徳規範がなければ、人間の道徳基準がなくなったら、神はもう人間を人間と見なさなくなります。そうなったら、人間は最大の危険に直面するようになります。なぜなら、人間は神によって造られ、神によって管理されており、人類の正統な文化も神の意思によって現れたものであり、人間は人間の規範から離れると、神は人間を淘汰することになるからです。人間は自覚せず知らないうちに、波に流されているうちにすべてを悪くしてしまい、自分を悪くし、社会を悪くし、特に人類の道徳を悪くしてしまったことに私は気づいています。現在、最も顕著に現れたのは文化の魔性化によって人間の気性が悪変したことです。それによって、社会に暴力団や麻薬の氾濫、性の乱れ、同性愛が現れ、人類社会に虚言が満ちており、甚だしきに至っては暴力団のボスも崇拝の対象になりました。このようなさまざまな事は、皆さん考えてみてください、これは正常なことですか? 人類の観念はこれほど大きく変わってしまいました。これだけに止まらず、各方面、各領域の中で人々の思想に大きな魔性が存在しています。私がこの法を伝える目的は、人々をこの険悪な環境から離脱させて、真に修煉の中で済度させることです。もしあなたが本当に修煉し続けていくことができれば、私は本当にあなたを円満させることができます。

 さっきこの社会の現象を話しましたが、私は現在、この社会のために何かをしたいのではなく、このようにしようとも思っていません。しかし、この法は人を済度することができ、人に善に向かうことを教え、本当に人の心性から、本質からあなたを変えることができます。多くの人は修煉しませんが、この法を知ってから、良い人になることを心がけるようになります。人々は悪人になれば自分自身に対して大きな傷害をもたらすことが分かれば(拍手)、自ら良い人になるように努めます。そういう意味で、正法が一旦伝え出されたら、必ず社会に対して有益なことになります。

 私はこの数年間の法を伝える中で、ずっと一つの原則に基づいています。つまり人に対して責任を負い、社会に対して責任を負う態度でこのことを行なっています。私はでたらめにしたことはありません。皆さんが知っているように、私は法を伝え、遠路はるばるシンガポールに来て、私は皆さんから1円をもらうつもりもありません。このことが終わったらすぐ帰ります。私はただこの法を皆さんに残したいのです。多くの学習者は次のように私に尋ねたことがあります。「先生、この宇宙の中に失わなければ得られずという理があります。得るには失わなければならないし、失ったら必ず得ることになります。あなたはこのように代価を構わずに私達を済度し、私達にこんなたくさん素晴らしいものを与え、私たちに法を教え、私達を見守って修煉させ、私達の業を消して、その上私達の体に多くのものを植えつけ、また異なる次元での私達の問題を解決して、まさに修は己にありて功は師にありです。それではあなたは何が要るのですか?」 私は何も要らないと言いました。私はあなた達と違い、私はこの事をするために来たのです。私が何かを要ると言えば、私は皆さんのその心、修煉の心、善に向かう心だけが要ります。(拍手)

 私は時間を占用しすぎたのではありませんか?(笑) もし時間があれば、私は続いて話します。佛を修める方法はたくさんあります。皆さんが知っているように、皆さんが修煉しているこの法輪功は佛家の理であり、ただ私は釈迦牟尼の当時の言葉を使って説いていないだけであり、使うのも不可能で、今の言語は変化が生じたため、今の言語を使って法を説くしかなく、現在の人類の言語を使って功を伝えることにしました。私が今日伝え出した法は、当時の釈迦牟尼の説いた佛法と差異があります。なぜでしょうか? 私が修煉者に与えた修煉方式、修煉対象はみな、昔の方式ではなく、修煉者の心性及び次元に対する要求はより高く、果位もより高く、なぜなら私が説いたものは、宇宙の最も本質的な法です。釈迦牟尼佛が当時話したことは佛性を持っており、その次元の佛法だとも言えますが、宇宙を造成する根本の法、最高の真理ではありません。宇宙の最高の真理は即ち真、善、忍です。いかなる物質、鋼、鉄、木、石、空気、水、土、すべてのミクロの物質を含めて、その本源の構成からその表面の物質に至るまで、すべて真、善、忍の特性が存在しています。全宇宙のすべての生命、すべての物質に全部真、善、忍が貫いています。これは宇宙の最も本質の特性です。私は現代の最も平易な言葉を用いて分かりやすく理を説きました。大法はピラミッドのように、上へ行くほど簡単になり、下へ行くほど厖大で複雑になります。そのため、人類と宇宙の下層は複雑です。最も高いところ、佛法の最も頂点に至ると、真、善、忍の三文字で概括できます。宇宙の中のすべての最高の物質と要素は全部「真、善、忍」から構成されたのです。真、善、忍は即ち宇宙の精神、宇宙の特性、本当の佛法の根本です。昔は、これは最高の天機で、多くの高級生命もこれを知りませんでした。私は本の中で多くの天機を示し、皆さんも見えました。しかし、私は不用心に天機を漏らしたのではありません。李洪志は勝手に天機を漏らし、目的なしに話して、皆に楽しんでもらえばそれで終わってしまい、あるいはあなた達にそれを知識として聞かせているのならば、私はここで勝手に天理を破壊していることになります。もしそのようにするならば、李洪志は今日ここに立っていることはありえず、とっくに天罰を受けてどこかへ消えてしまったはずです。法を伝える中で私が皆さんに対して責任を負うことは、皆さんが修煉して上へ上がれるようにするためです。そういう意味から言えば、私のこの事は的なく矢を放つのではなく、一時的に頭が熱くなって勝手気ままにしていることではありません。実はこの事は歴史上に遥か昔に按排されたことであり、この事のために遥か昔から準備してきました。今日皆さんがここに座って法を聞くことができるのは、あなたにはこの縁があり、あなたの縁がすでに来ているからです。あなたは世人の中でどれほど輪廻したことがあるかに関わらず、今日あなたの縁が来ているから、あなたは法を得られるようになったのです。

 釈迦牟尼佛はこの宇宙は根本的にどれほど大きいのか見えなかったし、更にミクロの次元はどこまであるのかも見えませんでしたが、彼はすでに相当ミクロのものが見えました。彼は一粒の砂の中に三千大千世界があることが見えました。この三千大千世界はどんな意味なのでしょうか? たとえば私達のこの銀河系の中に、佛から見れば、人類、天地体系及び神佛の存在する生命系統が三千個あり、その中にも人類のような社会が存在し、各大千世界に無数の生命があり、天神と地球の人類が存在する体系と同じです。佛は一粒の砂の中に三千個のこのような世界があると言いました。皆さん考えてみてください、釈迦牟尼はどれほどミクロのこと、どれほど壮観なことを語ったのでしょう。これは決して摩訶不思議なことではありません。例えば、地球は太陽を巡って回転しており、現在の科学者は、電子も同じ方式で原子核を巡って回転していることを発見しました。これは地球が太陽を巡って回転することと何の違いがありますか? 同じです。もしその電子をわれわれの地球ほどの大きさまで拡大した時、その上に生命あるかどうか、どれほどの生命があるのか、それらの生命はどのような形象であるかを見えるようになります。更にミクロ的には更にミクロの生命が存在しています。釈迦牟尼は一粒の沙の中に三千大千世界があると言いました。釈迦牟尼が説いたこの理を沿って追っていけば、その沙の中に三千大千世界があり、その沙の中の三千大千世界に人類の世界のような河川、湖、海があるのではありませんか? ならば、その河川、湖、海の中にもまだ砂があるのではありませんか? それではその砂の中にまだ三千大千世界があるのではありませんか? もしこの論理を沿って推理していけば、この砂の中の砂の中にまだ三千大千世界があるのではありませんか? 私が見たところでは、数え切れないほど多いのです。更に高次元の大覚者も生命及び物質のミクロは尽きることがないと思っています。それでは物質はどれほどミクロなのでしょうか? かなり高い次元の神佛もその本源が見えず、物質がどのように本源を構成しているのかが見えません。人類の科学はこの方面においてまだかなり幼稚であり、永遠に知ることができず、佛法と比べることはできません。現代の科学は中性微子、クオークまでしか認識できず、実は現代科学はクオーク、中性微子の存在だけを検知できましたが、見えていません。なぜなら、それほど大きな倍率の顕微鏡がないからです。ですから私は先ほど話しましたが、釈迦牟尼佛も物質の本源が何なのかを見えず、宇宙の最大の物質が何なのかをも見えなかったのです。ですから彼は「その大は外なく、その小は内なし」という言葉を話しました。大と言えば、この宇宙の果てが見えず、小と言えば物質の末が見えません。如来佛は、すでに相当高く、相当の程度見えますが、やはり最後までは見えません。

 つまりこの宇宙はかなり広大で、物質は相当に繁多です。物質の本源と言いますと、実はすでに物質とは言えなくなり、それは真、善、忍の法力と特性により本源の要素を初期物質に合成させて、更に真、善、忍により幾重に組み合わせてもっと大きな異なる次元の物質を合成し、更により大きな一層の物質、更に人類が現在認識できた中性微子、クオーク、原子核、原子、分子、ずっと表面の物質に至るまで、すべて真、善、忍という特性によって合成されたのです。ですからこの宇宙の最終の理は「真、善、忍」であり、これこそ佛法の根本なのです。

 話せば三文字だけでとても簡単ですが、もしこの法が広がれば、それは相当大きくなります。「真」の中に多く異なる次元の理を含んでおり、「善」と「忍」の中にも多く異なる次元の理を含んでいます。常人のこの次元になると、その「真」の中には仁、義、礼、智、信などのさまざまな人間の理が含まれており、「善」は常人の次元になると、情を含んでいます。これらはすべて真、善、忍という本当の根本的な大法から派生した法理です。

 情と言いますと、もし人類は情がなければ、人間は二つの状態が現れます。一つは宇宙生物のように冷酷で、もう一つは神のように慈悲が満ちる状態です。人間は情があるから、人間と言えるのです。人が嬉しいとか、嬉しくないとか、これは情です。人は何かが好きとか、何かが好きではないとか、誰かと喧嘩したり、誰かと親しくなったり、喜んで何かをしたり、幾らかお金が欲しいとか、高官になりたいとか、やりたいすべての嗜好、あれこれの夢……世間のすべては全部この情の中にあります。人々はこの情に動かされて執拗に追求しています。法は人類社会のところまで至って、人間を造成し、人間の空間を造成し、同時に人間の状態を確立しました。修煉とは、実は人間の状態の中から抜け出して、情に動かされる心を取り除き、修煉の中で徐々に淡泊になり、徐々に自分を高めます。情がなければ生きていてもつまらないと思う人がいます。映画も見ない、きれいな彼女(彼氏)との付き合いもない、美味しいご馳走も求めず、何てつまらないと思うでしょう。あなたに教えますが、これはあなたが常人の角度から理解しているのです! もしあなたが高い境地に昇華して行くことができれば、その境地の美しい状態が分かるようになるでしょう。人類のこのところより更なる美しいそのすべて、その美しさを言葉で言い表すこともできません。その美しいものを得るために、常人の情に動かされて人間の利益に執着するその心を放下しなければなりません。常人の執着を放下することができれば、はじめて更なる美しいものを得られるのです。

 皆さんはみな学習者であり、修煉の過程の中で、私は皆さんに対する要求がかなり高いかもしれません。修煉過程の中で、たくさんの常人の執着心が一時的に放下できなくても、大丈夫です。今日法を説き終わってから、あなた達はみなすべてやり遂げることができれば、それでは直ちに佛になります。(拍手) 初心者は誰もできず、人間のすべてを一気に放下してしまうことは、それは不可能なことです。皆さんがここに座って法を聞いてとても心地良く感じ、私の話を聞きたいのですが、これは正法の威徳によることです。正法を修煉する者の持っているエネルギーは慈悲であり、和やかなもので、すべての不正な要素を正し、取り除くことができます。ですから、皆さんがここに座っていてとても心地良く感じます。将来皆さんが修煉して成就できれば、このようになれます。初めの頃、皆さんは一気に達成することができず、たくさんの執着心がまだ取り除かれず、正念がまだ強くないからです。常人社会の中で、あなたがぶつかったすべての人と人との感情や利益の摩擦は、一定の妨害をもたらし、同時に業を滅する中で、体調の不良、苦しさ、困難の中で自分をしっかり律することができるかどうか、あなたが自ら向上することができれば、常人と同じようにトラブルに対処せず、すなわち、あなたは向上しており、正念を増強しています。人に殴られた時、自分が煉功者であることを忘れず、あなた達は常人なので、私はあなた達と違うと思うことができれば、即ちあなたが高まっているのです。あなたは確かに「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さず」ということができれば、他の人は利益の上であなたと奪い合う時、あなたはこの心を淡泊にすることができれば、これはただ一念の違いですが、あなたはすでに常人と大きく違ってきました。あなたはこれをやり遂げたいならば、常人の中で徐々に修煉し、向上して、はじめて達成できます。一気に達成できると思っても、なかなか難しいのです。必ず実践の中で、試練の中で執着を取り除いて、このように修煉して向上することが、最も確実なことです。

 人類の科学は永遠に佛の境地まで達することができません。なぜでしょう? 人類の知恵が高級生命に制約されており、制御されているからです。それはなぜでしょうか? 人間は神により造られたもので、人間の理も逆になっています。「佛」とは、何でしょうか? 佛はその次元の衆生の保障であり、衆生の庇護者であり、宇宙の真理の守衛者です。皆さん考えてみてください、人は各種の執着心、名、利、七情六欲、嫉妬心を持ったままで佛の境地に行ったら、もしかすると、佛と争うかもしれません。それはたいへんなことになります! だからあなたは常人の中でこれらの人心を取り除いてから、はじめてその境地と位置に達することができます。現在、常人に対して、「あなたは即ち佛です! あなたは念佛したので、亡くなった後、あなたは佛になります。佛になりたくなくてもなるしかないのです!」と言う和尚がいます。これは佛を誹謗し、法を誹謗しています。和尚は人間であり、本当に修煉している人であっても、ただの修煉者であり、修煉がうまくできなければ常人と同じで、何もならないのです。彼が過ちを起したなら、罪は常人より大きいのです。これは「佛の服を身につけたままで佛法を破壊する」と言います。だからそれらの真に修めていない出家者を盲信しないでください。本当の修煉はつまり人の心を修煉するのです。人の心を取り除かなければ、永遠にその境地に達することができません。もし人間が科学技術の手段でその境地に達することができれば、本当に星と星とで戦争、宇宙戦争が起ってしまいます。ですから佛にはそういう状態の発生が許されないのです。それはただの科学の幻想であり、永遠に実現できないことです。人間は高い次元へ行きたければ、更に高級の生命を認識したければ、あなたは高級の生命になりたければ、本当に宇宙の真理を認識したければ、一つの道しかありません。即ち修煉です。これだけです。それで、皆さんに教えますが、今後、皆さんは常人社会の中で、どんなトラブルにぶつかっても、心性の摩擦や誰かがあなたの気を触ったり、誰かがあなたの利益を占有したり、誰かがあなたをいじめたり、あなたが何かの苦痛を受けたりした時、皆さんに教えますが、それは悪い事とは限りません。あなたが本当に修煉したければ、あなたに教えますが、あなたのこの人生の道を新たに按排しなければなりません。どうして新たに按排しなければならないのでしょうか? 人は人の一生があり、人が修煉する前に彼の将来も常人の一生であり、いつの日か彼の寿命が終わるかも知れません。少し長生きできる人もいて、いつか彼が大きな病気に罹り、何年も病気が続くかもしれません。このような人はどうやって修煉するのですか? あるいは大きな災難に遭う人もいて、このような人はみな修煉できません。私はあなたのためにこの道を整理してあげなければならず、これらのものを全部片付けて、一つの修煉の道を按排してあげます。もちろん、勝手に常人のためにしてあげてはならず、修煉の人にしかしてあげられないのです。

 それでは、なぜ修煉の人はこんなに特別なのでしょうか? 人が生きているのは人になるためではありません。あなたの生命はこの地球から由来したのではなく、あなたの生命は更に高い層の空間から由来したもので、元に戻ることが、あなたの生きている目的です。そのため、修煉したい心が一旦現れると、黄金よりも輝き、十方世界の佛にはみな見えます。人はこの一念が動けば、修煉したければ、これほど貴重なのです。常人のことを勝手に動かしてはいけません。通常、常人は前生に良いことを行なっていなければ、今生に償わなければなりません。勝手に彼の業を取り除いてあげたら、勝手に彼の難を取り除いてあげたら、それは悪い事をしても償わなくてよいということになります。これは佛理を破壊し、天法を破壊していることです。こんな道理はありうるのでしょうか? 絶対にありえません。佛道神はみな宇宙の理を守っており、真、善、忍の法理を守って物事を運んでいます。ですから、一人の煉功者として、あなたが苦痛を受けた時、魔難に出遭った時、あなたは四種類のものが得られます。人にいじめられた時、あなたが損失を被られた時、あなたの利益が奪われた時、彼はいずれもあなたに徳をあげなければなりません。しかも、これらはもっと大きな利益に替わることもできます。同時に、あなたが苦痛を受けた時、あなたは失う方に属します。それではあなたは苦痛を受けたので、自身の業力は徳に転化し、どれほどの苦痛があれば、それだけ徳に転化します。あなたは修煉者なので、このトラブルの中であなたは他の人と同じように争っておらず、あなたは心の中で彼と同じようにこの問題に対処しなかったので、あなたの功が伸びてきます。なぜでしょうか? あなたの心性が高まってきたから、心性の高さは功の高さなのです。これは絶対的な真理です。功は高く伸びてきましたが、心性は高まっていない、これはありえないことです。なぜなら、この宇宙の法はすべての生命を制約しているからです。この宇宙のすべての物質はみな生命であり、みな真、善、忍により造成されたものであり、彼らも人を制約しており、あなたはこの基準に符合していなければ、すべての要素はみなあなたを上がらせません。私が説いた一つの道理のように、一つの瓶の中に汚いものをいっぱい入れて、それを水の中に投げ込むと、「どん」という音で水の底まで沈んでしまいます。あなたは瓶の中の汚いものを少し出せば、それが少し浮き上がってきます。更に少し出せばまだ少し浮き上がってきます。あなたが瓶の中の汚いものを全部出してしまう時、押さえても沈まず、完全に浮き上がってきます。それはその位置にあるべきです。あなたが真に修煉すれば、汚いものを棄てると同じく、どれぐらい棄てたかによって、あなたはそこまで修煉できるはずです。つまりこのような道理なのです。

 話したいことはたくさんあります。私は皆さんに多く法を得させたいので、話し出したら皆さんに多く伝えたくなります。もちろん、私が言いたいことをこの限られた時間ですべて皆さんに伝えるのも不可能です。この『轉法輪』の本は、私が中国で功を伝える時、幾つかの講習会で話した内容をまとめた後、私が自ら修正した後出版したのです。これは系統的に修煉を指導する法です。現在、また私の講習会での録音、録画があり、皆さんが参照して聴いたり、見たりしたらよいでしょう。
 
 更に皆さんに教えますが、私は佛法の中の威力、私自身の多くの能力を、すべてこの本の中に盛り込み、この法の中に盛り込みました。録画テープにしろ、録音テープにしろ、或いはこの本にしても、あなたは勉強さえすれば、必ず変化が現れます。あなたは勉強さえすれば、あなたの病気がきっと取り除かれます。あなたは修めさえすれば、あなたの体はきっと本質的な変化が発生します。あなたは修煉し続けて行くことさえできれば、あなたはきっと能力を持つようになり、見えたり、聞こえたりすることができ、大法の洪恩を感じるようになります。真に修煉する者に、私は佛法のすべての威力を与えます。あなたは修煉さえすれば、きっと得られます。もちろん、あなたが修煉しなければ、何も得られません。

 本の中の内涵はとても深いのですが、第一回目では読み取れません。皆さんに一歩一歩修煉させるので、常人から修煉し始めたばかりのこの次元の中で、あなたの修煉を指導するこの次元の法があります。あなたが修煉して高まってきたら、またこの理であなたの修煉を指導するのは、もうできなくなります。例えばあなたが中学校に入ったのに、また小学校の教科書であなたを指導すれば、あなたはやはり小学生です。あなたは大学に入ったのに、また小学生の教科書であなたを指導すれば、あなたはやはり小学生のままです。つまり、あなたは修煉の進む次元に応じて、その次元の法が現れてあなたを指導して、あなたははじめて修煉して上がってこられるのです。『轉法輪』この本は、常人のこの境地から宇宙の最高の境地までの法理を結び合わせたので、すべての次元の法理は、全部この本の中に収まっていますが、表面上では読み取れません。第一回目に読むとき、どのように良い人になるかという道理を感じ、第二回目に読むとき、あなたは初回の時と同じではないことに気づき、第三回目に、あなたはこれが本当の修煉の本であることが分かるでしょう。あなたが更に読み続けると、これは一冊の天書であることに気づきます。同じ言葉に対して異なった次元、異なった境地において、あなたは異なった認識、異なった理解があります。本の中に盛り込んだ内涵は相当大きいのです。現在、たくさんの人はこの本を読んでいます。すでに百回以上読んだ人はまだ読み続けています。あなたは一万回読んでも、もう読むところはないと思わないのです。かえってまたたくさん体得していないものがあると気づき、また多くの新しい理解が得られます。ですからこの本はとても貴重なのです。私はここでそのすべての内容を一通り話すことは不可能です。もしあなたが修煉できれば、真剣に学び続けるべきだと思います。繰り返し読んでいるうちに、何でも得られます。第一回目に感じた問題は、第二回目本を読む時にすべての問題に全部解答が得られます。更にあなたはまた新しい問題が生じ、第三回目読む時にすべての問題にまた全部解答が得られます。それから更に読めば、また更に高い問題が生じるはずです。あなたは絶えず本を読みさえすれば、全部解答が得られます。

 私の話したことは、皆さんの期待していることと合ったかどうか分かりませんが、(拍手)皆さんが修煉して早く上がって来られるよう切に期待しているので、話したことは少し高かったのです。適当ではないところがあれば、皆さん提出してください。ありがとうございました。(長時間拍手)





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