ヒューストン法会での説法

李 洪 志

一九九六年十月十二日


 ヒューストン市政府とヒューストン市民が私に与えた栄誉に非常に感謝し、また、多くの法輪功弟子が私と同様に彼らの大法に対する支持と熱愛に感謝するよう希望しています。拍手によって私たちの謝意を表してみてはいかがでしょうか?(拍手) 私は、ヒューストン市政府の友好な誠意とヒューストン市政府が私に与えた栄誉をすべての法輪功弟子と中国人とともに共有したいと思います。

 私は以前から白人、黒人、黄色人種やほかの種族を含むアメリカの法輪功弟子に会いたいと思っていました。法を得られたのはあなたたちの縁が実を結んだからであり、私は皆さんがいかに修煉しているのか、ずっと以前から見に来たいと思っていました。

 多くの人は私に会ったことがないのですが、多くの人は本を読んだことがあり、この法についても知っており、どうしても師父に会わないと安心できず、私に会って初めて安心できると思っています。実は、私はそれらの短文――あなたたちは経文と呼んでいますが――の中ですでに皆さんに教えましたが、私に会わなくても同じように修煉でき、同様に得るべきものを得られ、何も違うものはありません。真の修煉は形式にとらわれず、師父に会ったことがあるかどうかは関係ありません。皆さん知っているように、釈迦牟尼佛は世を去ってすでに二千年あまり過ぎましたが、後世の人はずっと修煉しています。彼らも釈迦牟尼佛に会うすべはありませんが、同じように修煉して成就することができます。これは彼の経書が世間に残されており、彼の法身が人々を済度しているからです。

 私はこれほど大きな法を伝えだし、皆さんも本の中からすでに分かっているように、これほど大きなことを行ない、真に完全で系統的な天に上る道理を人類に教えた人は歴史の中に今まで一人もいません。過去の人類社会では、人類にこのようなものを残すことは絶対に許されていませんでした。

 もちろん、多くの人が釈迦牟尼佛の経書を読んだことがありますが、それは後世の人が整理したものであり、完全なものではなく、ある程度の道理を話していますが、後世の人は整理の際、伝説や記憶に頼り、それによってできたものは途切れ途切れになっています。これはなぜでしょうか? 神が唯一それをその歴史の時期に人類に残すことを許しているからです。当時、釈迦牟尼佛は確かに多くのことを話しましたが、その頃、インドにはまだ文字が無かったため、すぐに記録することができず、釈迦牟尼佛がいなくなって五百年後の後世の人がやっと釈迦牟尼佛の話したことを、文字を使って整理しました。もちろん、時間、場所、場面、そして対象とした当時の人の環境がすべて変わったので、その時のすべてを思い出すことは不可能でした。それでも、佛経は真に修煉しようとしている人に佛理を理解させることができます。しかし、洪大な佛理からみればそれは完全なものではなく、ましてや系統的な宇宙の根本の法ではありません。しかし、釈迦牟尼は佛であり、彼の話した言葉は確かに佛性とその次元の佛理の現れを帯びています。イエス・キリスト、老子も釈迦と同じ状況で、当時の彼らの説法の記録は残りませんでした。歴代に修煉して成就できた高僧も同じです。

 私はよくこのようなことを話します。私は今まで誰もしたことがないことを行なったということです。弟子の中でも、先生は人間に天に上るはしごを残してくださったという言葉が伝わっています。この話は、神も話しています。神たちは、「あなたは天に上るはしごを人に残した」と話しています。釈迦、イエス・キリスト、そして老子が残したものは非常に少なく、或いは不完全で、これは過去にはそうすることが許されなかったからです。

 私が説いたこの法は非常に大きく、この法に従って修めさえすればあなたは円満できます。これは過去の衆生にとっては想像もつかなかったことで、非常に多くの大きな天機に関連しています。しかし、あなたが修煉しないのなら、この本を開いて読むと、これは人にいかにして良い人になるかを教える本だと思います。説いたことはその道理であり、このような本です。もし、あなたが修煉したいのなら、もう一回読んでみると、意識して一文字一文字の意味を探らないで、ただ真剣に一通り読めば、二回目読み終わった後、あなたはこの本が一般の本ではないことに気付くはずです。一回目に読んだときに受けた感銘と中の内涵も全て変化したことを感じるでしょう。三回目読み終えるころには、内涵はまた変化しており、前の二回とはまた違っていることに気付くでしょう。こうして読み進み、完全に三回読み終われば、あなたはもうこの本を手放すことができなくなっているでしょう。一生涯離れられなくなるでしょう。これはなぜでしょうか? 人の表面上から言うと二つの原因があります。一つは、人はみな知識と真理を切望しているということです。もう一つは、人にはみな佛性があるということです。本の中で説いてあるのは佛理であり、あなたたちの佛性の一面と相通じており、読めば親しいと感じます。真の法理はあなたを感動させ、これこそがあなたの求めているものだと感じるでしょう。

 また、修煉には過程があり、法を学び始めたころ、あなたたちは良い人になる道理しか理解できません。実質的にこの本には異なる境地の理、異なる次元の理が含まれています。佛教の中でいわれていることですが、三界内には三十三層の天があり、三界内には異なる次元があり、ある層の天まで修めるには、その層の天の理を知る必要があり、その基準まで達して初めて昇華できるのです。修煉によって三界を超えたい場合は、三界外の理を分からなければそこまで修められません。この法にはあなたが異なる高い次元に向けて修煉することを指導できる要素があり、さもなければ、私が話したように、小学校の教科書を持って大学に行ってもあなたはやはり小学生なのです。大学の知識を理解できておらず、大学での学習を指導することができません。こういう道理なのです。しかも、この本では多くの天機をもらしているにも関わらず、修煉しない人は表面上からは何も見えてきません。あなたが修煉しようとして、真剣にこの本を読んで初めて、その内涵が非常に大きいことに気付きます。どれほど大きいのかと言えば、どれほど高い次元であろうと、あなたが修めることができる次元まで指導することができます。

 皆さんにお話ししますが、法輪大法を得られる人はみな特別な背景があり、縁がある人で、とても高い次元から来た生命もいます。あなたたちが世の中で見た人は、みな同じように見えますが、表面上彼が誰なのか分からないからです。しかし、私はよくこのことを話しますが、これほど大きな法は誰にでも簡単に得させるわけにはいきません。ですから、この法を聞くことができたのは、あなたと縁があり、縁によることです。私が話した言葉に根拠のない言葉は一言もなく、これは将来証明されることになります。もちろん、私はこれほど大きな法を伝え出したからにはそれに対して責任を負わなければなりません。人を済度できなければ、勝手に天機をもらすことになり、天の法を破壊することになるので、これは絶対に許されず、誰もこのようにする勇気はありません。

 ご存知のように、過去には誰かが勝手に天機を漏らせば天罰を受けなければなりません。修煉者はなぜ口を閉じて話さないのでしょうか? 一つには、人はあまりにも頑迷になりすぎています。二つには、修煉しない者は真相を知ることが許されていません。修煉者は天理を知っており、話すことはすべて天機であり、随意に常人に話すと天機を漏らすこととなり、修煉者自身の次元が落ちます。それでは、今日私はなぜそれができるのでしょうか? なぜ、こんなに多くの人が修煉して次元が上り、やがて円満できるのでしょうか? それは私がこのすべてに対して責任を負うことができるからです。しかも、私はこれを行なうときに最初から人、人類社会、各界の衆生や宇宙に対して責任を負うという基点に基づいて行なっており、こうすることによってよく行なうことができたのです。法は異なる次元の内涵を含んでおり、修煉者は比較的高い次元から来ているため、すでに非常に高い次元まで修煉できた弟子もいますが、やはりこの法によって指導されています。

 この法はどれほど高いのでしょうか? 過去に常人の中で法を伝える人は佛の次元を越えた法を話すことが許されませんでした。更に高い次元には佛がいるのか、神がいるのかを人が知ることを防ぐためでした。この中には次のような原因があります。人はどうしても人の認識で神佛を想像し、これは神佛に対する不敬です。更に高い次元の佛が人に知られると、勝手に佛の名前を言うことは佛を罵ることになります。さらには、現代の人は無意識の内に佛を汚しています。過去に古人は真に神佛を敬っていましたが、現在の人はそれを信じているとしても誠の心ではありません。多くの人が自分はとても佛を敬っていると思っていますが、佛の名前が彼の口に付いているように直接佛の名前を口にしています。これはすでに佛を罵ることをしています。過去の人は佛という言葉を話す時にさえ、仰ぎ敬う心、崇敬の心が生まれ、とても神聖に感じるのです。現在の人はそれがなくなり、食事のメニューにさえ「佛跳墻」という名前があって、とても気軽に使っています。

 皆さん、考えてみてください。佛は人と比べて神聖無比であり、常人の思惟、論理、思想構造、話の表現方式は佛の境地にはありません。そのため、人心を持って佛に対すればどのようにしても不敬なのです。しかし佛は人に対して慈悲であり、人は迷いの中にいて、しかも反対の理の環境にいることを知っているため、人の過ちを気に留めず、人を済度するために佛の存在を人が知ることを許しています。更に高い次元の佛、更に高い神を人が知ると、人は彼らに対して業を造りやすく、不敬になりやすいのです。これが原因で人に知らせず、人は更に高い次元の佛を知ることができないのです。如来佛が人間を見れば、人、常人はかわいそうなほど小さなもので、塵のようなものです。しかし非常に高い次元の神にとっては、振り返って見れば、如来佛も常人のように見えます。彼らの次元はあまりにも高いからです。それでは彼らに人はどのように見えるのでしょうか? 何ものでもないように見えるのです。皆さん考えてみてください、人類はずっと、人は常人社会でとてもいい暮らしをしていて、宇宙の中で一番えらい生命であると思っていますが、実際は常人社会のこの環境はこの宇宙の最低次元であり、宇宙の生命にとって最も汚いところだといえます。非常に高い次元の神にとって、人類のこのところは宇宙のごみ捨て場であり、高層生命の糞便の溜まり場なのです。そのため、汚い糞便の中から佛の名前を呼ぶ声が発せられたら、それ自体が不敬なのです。このため、更に高い神はその存在を人には知らせないのです。

 私が先ほど話したことを皆さんはあまり気にしなかったかもしれませんが、私は、私が伝えるこの法は人が気軽に知識として聞くようなものではなく、来ることができればあなたに縁があるのかもしれません。皆さん、私が話したことを覚えておいてください。もちろん、どれほど大きな縁があろうと、法を得たら、あなたはそれを大切にすべきです。もちろんここに座っている皆さんはみな大切にするでしょう。遠路はるばる外国から来た人、香港から、甚だしきに至ってはヨーロッパから来た人もいて、みな修煉のためにやってきたのです。一つは師父に会うため、もう一つは説法を聞くためです。あなたが善に向かい修煉しようとしているからです。多くの人が師父の話したことを真理としていますが、実は、人の真理で大法を評価することはできません。大法は宇宙の根本なのです。私は、ここに座っている一人一人がこの縁を大切にすべきだと思っています。この法を得たからには、修め続け、この機会を逃さないでください。

 この法が伝えだされた方式は歴史上のいかなる済度とも違います。なぜでしょうか? 皆さんはすでに違いが分かっていますね。いかなる種類の佛法が伝えだされたときも人に出家するよう言っていますが、私はここでそうは言いません。なぜかというと、佛教は佛教の範囲で佛教の話をし、道教は道教の範囲で道法の話をし、そして西側の宗教も彼らの教義を飛び越えることができないのですが、私は今回完全に宗教の範囲を超えて宇宙の根本の法を話しているのです。

 昔、修煉したいのなら常人の一切の物質利益を放下し、深山や古い森に入ったり、廟に行ったりして完全にこの世間、世俗と隔離されて初めて清浄になり修煉することができると話す人がいましたが、その目的は物質利益の執着心から抜け出すことを強化するためです。私はあなたたちにこのような道を歩むよう導いたりはしません。なぜかというと、私はこのような情況を知っているからです。つまり、人が出来るだけ早く円満に到達し、同時に多くの世人が修煉できるようにするには、常人社会の中で修めることによってこそ可能になるということです。実は、複雑な環境の中でこそ真に自分自身を修煉でき、しかもこの複雑な環境を避ける場合よりも修煉の時間が大幅に短縮されます。もう一つの肝心な問題は、多くの修煉方法では自分自身を修めることができず、副元神を修めているということです。昔はこれが一つの大きな天機だったということを、皆さんも本を読んで知っていると思います。今日私はあなたたちに自分で自分自身を修めさせ、この法を本当のあなたに与えるために、あなたたちが常人の複雑な環境の中で修煉することを選択したのです。このように修めることは人類にとっても良いことで、修煉において常人社会に影響を及ぼさず、また人類社会に良いことをもたらします。修煉者も社会の一員であり、正常な仕事、生活をもち、法を学んで修煉して円満することができるのです。

 私はあなたたちにこのような修煉の道を選んだので、ほかの法門の修煉とは完全に異なります。あなたたちは完全に宗教の範囲を飛び越えているので、私はよく、私たちは宗教ではなく、私はただこの法を人に伝え、人が法を得られるようにしているだけで、最後まで修めることができる者は円満できるといいます。もし、ある人が今生に修煉できなくても、彼がこの法の表面の道理が分れば、良い人になれます。そうすれば社会にも良いことですし、人心を善に向かわせることもできます。

 現在の社会では問題が次々と表れています。ご存知のように、どれだけ多くの法律が制定されてもやはり罪を犯す人がいます。ひとたび問題が出現すると新しい法律を制定し、再び犯罪があれば、また制定します。人類自身に対する制限が多くなりすぎて、しかも人類は現在すでにどうしようもなく、自らが作り出したこのすべてに耐えています。自分を厳しく封鎖すればするほど、この方面でますます極端に走り、同時に人はますます宇宙の真理に気付きにくくなります。実は、社会が不安になる原因は法律の条文の多少にあるのではなく、民族から個人まで全ての不安要素はただ一文字――徳なのです。つまり人の心性がだめになり、現在の人は人としての規範を失い、そのため社会がこんなに乱れるのです。人がみな非常に高い思想境地の中にいて、みな非常に高い心性を持っていればこの社会はどのようなものか、皆さん考えてみてください。人類社会全体はどのようになるのでしょうか? 人々がみな、悪事は良くないもので、自分に対しても他人に対しても良くないことを知って、誰もが悪い事をしなければ、警察さえも必要がなくなると私は思うのですが、そうではありませんか? 人々はみな自覚して人類の道徳規範を守ることになります。

 もちろん、人類のこれらのことを私が主に行おうとしていることではありません。私がこの法を伝えだしたのは皆さんが法を得て修煉して円満できるようにするためですが、常人社会の中で修煉するにあたって、必然的にこのような作用を果たすことができます。これがこの法が社会で人類にもたらす良いことなのです。修煉者にとっては、人が真に法を得ることができるということです。複雑な環境の中で、現実の利益の中で、あなたが抜け出すことができるのなら、あなたは立派であり、円満すべきなのです。それでは、この中には何か条件があるのでしょうか? 人はこの法を修めると物質上のものは全て手放さなければならないのでしょうか? そうではありません。この法を伝えだしたとき、私はこの法が広く伝えられることを考慮し、歴史を通して今日いかに法を伝えるかの準備が行なわれてきたのです。気功の出現も私が今日法を伝えるための準備です。中国大陸では、当時の気功の形勢を、神を造る運動と呼ぶ人がいました。最初にこのような環境がなかったら、今日私は法を伝えにくくなっていたでしょう。実際のところ気功は私の伝法の準備をしていたのです。もちろん現在、偽気功師が出てきてかき乱していますが、自然に出現したのなら、それも正常なことです。人類はすでにこうなってしまったからです。正法が伝えだされているので、必ず正しくない要素を刺激します。正しいものがあれば邪なものもあり、人がどの門に入るのかを見ます。修煉の中で悪い要素の邪魔があると、人は修煉の中で昇華することができます。悪いものの邪魔がなければ、修煉できないと私は思います。個人の修煉はこのようなものなので、多くの要素を刺激するのです。

 人はこの世に生きているからには気持ちよく生活したいと思っています。常人がこのように考えるのは間違いではありません。人はどうしてもよりよい暮らしや楽しくて苦の少ない生活を求めるものです。しかし、修煉者であるあなたに教えますが、ある程度苦を嘗めるのは悪いことではありません。宇宙の理は人類のところでは反対になり、人類のこの空間の理は逆なのです。考えてみてください。人類社会の人々がみな快適な暮らしを求めると、お互いに争って利益を得ようとし、ほかの生物にも悪影響を及ぼします。人は生きているときは業を造り、他人やほかの生物に危害を与えています。それではただ業を造って業を返さず、苦を嘗めず業を消さないでいると、考えてみてください。業は溜まれば溜めるほど大きくなり、最後にはどのような問題が起こるのでしょうか? 人が内から外まで全部黒い業力に占められたとき、この生命は滅ぼされてしまいます。人の生命が本当に滅ぼされてしまい、永遠に存在しなくなるのです。言いかえれば、ある程度苦を嘗め、つらい目に遭い、苦痛の中で業を消せば、後で幸せになれるのです。これは宇宙の正理と生命循環の規則です。昔年配の人が、人は子供のころに病気にかかったり、若いころにつらい目に遭ったりすれば、後で比較的良い生活ができるとよく言っていました。一般的にはこうです。これは人が業を消すことの原則で、業を消さないと幸せが得られません。業力が多すぎると、幸せはどこから来るのでしょうか? この業力そのものが、あなたが辛くなったり、多くの苦を嘗めたり、多くの犠牲を払わせる根本的な原因なのです。これは人についての話です。

 皆さん考えてみてください。修煉者として、業力を消さず、苦を嘗めずにただ心地良く過ごしたいのであれば、修煉できるのでしょうか? ここに座って「私は今日三界を突破して明日に佛になりたい」と考えても得られるものではありません。実際の修煉の中で、現実社会の中で風雨に打たれ、常人の中での執着心を取り除き、放下できない執着心を放下しなければなりません。もちろん文化レベルがある程度高い人や年配の人は比較的よく行なうことができます。一般の人とトラブルが発生し、困難に遇ったときに冷静になって他人と同じように争わないようにすることができます。これは長期にわたる社会経験の中で分かったことで、その中には人の恐れる心となすすべのなさがあります。修煉者は最初からこの問題を見透うしています。
 修煉者はトラブルに遇ったとき、それに耐えるべきです。耐えることができてこそ、真に昇華できるのです。他人にいじめられたとき、あなたは徳を得られます。いじめられているとき、あなたは確かにつらい目に遭っているので、あなた自身の業力も消され、徳が生まれます。あなたは修煉している人なので、徳はやがて功に変わります。それではあなたの功も上がるのではありませんか? あなたが耐えていると同時にそれを正しく認識し、怒りや憎しみを起こさないでいられるのであれば、あなたは自分の心性も高まっているのではありませんか? この理はまさに反対なのです。

 私はよくこう話しますが、他人にいじめられたとき、厄介なことをもたらされたとき、あるいは苦難に遭ったとき、その人を憎まないでください。あなたは修煉しているからです。その人がトラブルを起こさなければ、その人が向上する機会をあなたに与えなければ、あなたはどのように修煉して向上することができるのでしょうか? だからあなたは憎んではいけないばかりか、心の中でその人に感謝すべきです。人としてあまりにも女々しすぎるのではないかと思う人がいますが、そうではありません。このような環境がなければ、確かに業力を消すことはできません。あなたが求めるのは安逸ではなく、あなたたちの修煉も常人社会の修煉環境から離れてはなりません。

 先ほど話しましたが、この法を伝えだすときに社会上どれほどの衝撃をもたらし、どれほどの人が学びに来るのかは、私は初めから分かっていました。現在中国でこの法を毎日修煉しているのは一千万人あまりで、この法を知っていて、修めているかいないかあいまいな状態の人も含めると一億人あまりにのぼります。さらに、近い将来、世界で非常に大きな衝撃をもたらすことを私は知っています。現在この法はまだ科学界に理解されていませんが、将来の人類社会の科学もこれによって非常に大きく変化するでしょう。私は確かに人類に多くの天機を漏らしました。人類は完全に閉ざされています。人類の智慧も制御され、あなたが常人社会でどれほど学問があってどれほど立派な肩書きを持っていても、やはり常人にすぎないのです。現在の実証科学はまた、人類を閉ざす方向に人を導き、人は宇宙の真相を認識できないでいます。

 人が修煉の際にある程度苦を嘗めたり、苦痛に遭ったりするのは良いことだということをここまで話してきました。法輪大法を修煉するからには、気持ちよく修煉して、魔難がなくても功が上がり、あれこれのトラブルなどの妨害はあるべきではないと言う人がいます。修煉者は業を償わず、境地を高めなければ永遠に功は上がりません。またある人は、家族が修煉を許さず、修煉する条件を与えてくれず、甚だしきに至っては離婚の話まで出たと言いますが、これは本当だとは限りません。あなたにとって修煉の比重がどれだけ大きいか試しているのかもしれませんが、表面上は確かに激烈です。修煉は厳粛なものです。一つの関一つの難は決して冗談ではなく、修煉者として何かトラブルが起きたときには必ず原因があります。実は、誰かがあなたとトラブルを起こしているとき、それはみなあなたの向上を手伝っています。あなたは思想境地を高めると同時に、あなたは苦痛に耐える中で業を消しています。そして同時にあなたがこの法に対して確固たる信念を持っているかどうかを試しています。この法に対して確固たる信念を持っていなければ話にもなりません。

 説法の中で私は学習者たちの困惑しているところを見つけ、それについて話しており、必ずしも系統的ではありません。皆さんも私が今日話したことを今後の修煉を系統的に指導するものとして扱わないでください。あなたたちの修煉を系統的に指導するのは『転法輪』だけです。今後私が話すことはみな『転法輪』について話しています。皆さんの修煉を指導するのは『転法輪』だけであり、これがもっとも系統的なものです。ここにいる多くの人は文化レベルが比較的高い人たちです。台湾、中国大陸、あるいはほかの国から来た華人であっても、古くからの華僑以外はみな文化レベルが高い方に属します。華人の中の精鋭ともいえるでしょう。この法が伝えだされ、ほかの気功とは非常に大きな差があると私はよく言います。ほかの気功を練る人は年配者が多く、その中でほとんどの人は退職後やることがなく、体を鍛えたいと思って気功を練っており、しかもそれらはみな気を練るものです。しかし法輪大法は違います。年配者は一部を占めていますが、青年、壮年が占める割合は非常に大きく、しかも彼らの文化レベルは比較的高いのです。

 私が法を説き功を伝えるときには、ほかの気功師とは違います。一般の気功師は簡単に道理を説明してから動作を教え、信息を発します。私はこのようにはしません。真に法を伝えてあなたたちを向上させるには、私はまず法を説かなければなりません。毎回の講習会のとき、毎日私は一時間法を説いて、その後に円満の手段である煉功の動作を教えます。ほかの気功とは違うのです。法理の内涵も非常に深く文化知識の広い人ほどよく理解でき、この法が素晴らしいと思います。知識の豊富な人は容易に理性で法を認識することができます。もちろん、文化レベルの低い人も縁があって来られたので、神佛に対しては一定の認識があり、特に法理上ではっきりと認識できれば、速く向上できます。

 ここにいる皆さんの中には法輪功についてまだあまり分かっていない人もいるので、もう少し概括的に法輪功の状況を話したいと思います。ここに来たからには皆さんに少しでも多く話したいのです。私の伝えるこの法は非常に古い歴史を持っていて、話し始めると長くなります。現在の人類社会は、何回もの文明の興廃を経た後、人類が再び新たに発展して出来たものです。これはどういう意味でしょうか? この米国の陸地、つまり南北アメリカ大陸を例に挙げると、この大陸は何度も海底に沈み、何度も地上に上がってきたものです。この大陸上の文明も何度も繰り返され、毎回の文明は人間にとってはみな遥か長い年月です。もちろん、比較的期間が短いのもあり、これは人類の道徳があまりにも早く堕落したのが原因です。常人を超越した角度から歴史を見れば、常人が見た歴史とは概念が違います。常人はただ現在の人類文明の中で歴史をみますが、修煉者および常人を超越した者の歴史に対する認識は今期の人類の文明を遥かに越えています。そのため、私が歴史を見るときは非常に遠い歴史を見ているのです。

 この法輪大法の歴史も非常に古く、相当昔からあります。その起源をたどると、現在の人類の時間に対する概念では表すことが難しいのです。皆さんに教えますが、法輪大法の法理は非常に大きく、次元は測る事ができないほど高いのです。この法門で修煉する弟子は円満した後、法輪世界、またはそのほか多くの天国世界に行くことができます。天国世界に触れたので、皆さんに教えますが、宇宙の中には無数の神の世界があり、私たちの銀河系の範囲内でも多くの対応している天国があります。人類も佛に対してある程度の認識があり、阿弥陀佛は極楽世界を司り、その他にも琉璃世界、蓮花世界、美好世界、神が司る神の世界があります。西側宗教のイエス、聖母マリアそしてほかの正教もそれぞれの天国があります。もちろん、一部の天国は人類が認識する宇宙の範囲を遥かに超えており、この小宇宙の範囲を超えています。そのため、私が修煉のことを話すと、時間的にも空間的にも非常に大きなことに及ぶのです。

 先史の遥か遠い昔、今期の人類文明以前に、私は世の人に広く法を伝え、人を済度したことがあります。そのときは今の佛教のように人を済度していました。しかし今回私は大法の根本的な法でさらに大きなことを行なっており、話し始めると内涵が非常に大きくなります。行なおうとしていることが非常に大きいため、多くの佛、神、道も私の行なっていることに協力しています。この法は佛家の理だけでなく、宇宙全体の理を話しているからです。

 宇宙は全て「真・善・忍」の物質要素から構成されています。非常に高い境地では「真・善・忍」なのです。真・善・忍の中から「良い」ということが生まれ、美、慈悲、そして正と反の二種類の要素も生まれます。「忍」の中からは忍耐できることと忍耐できないことが生まれ、このように法は下へ行くほど法理が大きく複雑になっていきます。陰陽、相生相克も「真・善・忍」から生まれたものです。各次元、境地の中で、下の方へ行き人類の所にたどり着くと、きわめて複雑になります。人類には善と悪、良し悪し、情がありますが、しかも人間の理は逆になっています。その理の中には、王者が国を治め、武力で天下を奪い、強者が英雄となることが現れました。人類は半神文化のあと、人類社会でのいわゆる仁、義、礼、智、信などのさらに複雑な文化的表現が現れました。人類には正の法理が無いため、人は宇宙の真の法が何かを知らず、真の良し悪しも分別できません。また、人はみな佛性と魔性で同時に構成されています。人が情緒不安定なとき、悪念や衝動に駆られたとき、それは魔性の一面が働いています。人が理性のある状況の下、心和やかに物事を行なっているときは、佛性の一面が働いています。

 法輪大法は宇宙の全ての次元の理と物質生命の表現を包括しており、含まれないものはなく、漏れるものもなく全てが法の中におさまっています。大法は佛家の範囲を超え、全ての佛、道、神の理、そしてそれらを超える理を含み、全てが中に入っています。大法は宇宙を生み出し、宇宙の全ての基準を定め、各次元の衆生を創造しました。大法を伝える中、多くの各次元の神、佛、道が私に協力しています。今のところ、衆生が法を得ることにおいて、もっとも法を得難いのは宗教の中の人たちです。彼らの心の中には彼らが信じる神、彼らの佛、彼らの道がいて、ほかにも神、佛、そしてさらに高い神がいることを信じません。これによってこの人たちは大法を聞いたり読んだりしようとせず、これは彼らが法を得ることを妨げる要素となっています。ここでは彼らが良くないと言っているのではありません。ただ彼らが信じているのは過去の真の神、正の神であるがゆえに、彼らは法を得ることが難しくなり、障碍となります。彼らは、宗教が人を済度できない時期にきており、神たちもこの法を得ているということを知りません。

 皆さんが知っているように、釈迦牟尼は「私の法は末法の時期には人を済度することができない」と言いました。この言葉を気にする人はほとんどいませんが、実は現在末法の時期に入ってすでに長い時が経ち、法は完全に失われました。現代の人は、宗教の中の神佛が過去に話した法の真の意味を理解できず、出家した人も経書の本来の意味が分からなくなりました。しかも歴代の多くの和尚が書いた多くの書物も経書として人々に読まれています。法は乱れ、世の人はどう修めればいいのか分からなくなりました。私はキリスト教の人に、イエスが話したことがある「ほかの人があなたの左の頬を殴ったら、あなたは右の頬をも差し出しなさい」というのはどういう意味か、聞いたことがありますが、彼らもよく分かりませんでした。つまり今では神が話した言葉の真の意味を理解できる人はほとんどおらず、ほとんどが現代人の思想観念の上で神と神の言葉、過去の大覚者の話した言葉を理解しようとして、法をまったく理解できません。実は、イエスの話した言葉の意味はとても簡単です。ほかの人があなたを殴った時、その人はあなたに徳を与えます。あなたが苦痛を味わう時、自分自身の業も取り除くことができます。あなたが平然としてもう一方の頬を差し出すことができるならば、あなたはすでにとても高い境地にいます。信教は実はまさに修煉で、もともと修は己にあり、功は師にありなのです。あなたが人の一面をよく行なえば、イエス、神、佛は功の演化を助けてくれるのです。彼らはみなこのように彼らの済度する生命を手伝っています。当時の文化と言語、文字等の制限で、イエスはただ理の表面を話しただけで、その実質を話しませんでした。

 私は今日法を伝える中で宇宙の法理を全面的に話しましたが、それでもやはり末法の時期に人が法を得ることは難しいのです。今回私がこの法を伝えるにおいて、私は衆生が法を得やすい時機を選んで伝え始めました。全ての宗教が末期に入り、人類がもっとも良くない時期に入ってから伝え始めました。このときの世の人は心に人としての基準がなく、真に神を信じる人もほとんどいません。こういう時を選んでこの法を伝えだしたのです。先ほど、法を伝える中で人に対して責任を負い、社会に対しても責任を負うということを話ましたが、実は神にも責任を負うことになり、何一つ宗教に干渉していません。今では宗教の神たちもその宗教を認めていません。社会がこの時期まできて人の心がみな悪くなったからです。しかし多くの人はいまだ佛性と善根があるということを私は知っています。彼らはただ人類の腐敗の流れに従って下へ落ちていっているだけで、この時期の人はやはり済度することができます。しかも法は大きく、済度する力も大きいのです。

 この法は人類社会でただ一日、二日間の一時的な賑わいで終わるものではなく、人を済度すると同時に未来を打ち立てています。法が大きいため、非常に大きな内涵を含んでおり、人が修煉の過程で功の中で煉りだすものも非常に豊富です。皆さんご存知のように、功能には多くの種類があり、各次元でも何万種以上あります。大法は佛家だけではなく、全ての能力を持つ宇宙の法だからです。それでは、これほど大きなものなら、皆さん考えてみてください。修煉を通して最後に円満するとき、果たしてどれだけ多くのものが修煉を通して作り出されるのでしょうか? 修煉で円満するとき、次元は高く、威力も大きく、法力も相当大きいのです。

 先ほど私は「相生相克」という言葉を使いましたが、相生相克とはなんでしょうか? 私はこの理を皆さんに話したいと思います。神はなぜ人類社会の悪人、天上の魔、そして下の鬼などを全てきれいに取り除かないのでしょうか? そうしてはいけないからです。なぜいけないのでしょうか? どの境地の生命でも、負の一面の生命の作用がなければ、努力することも、困難を経験することもなく成功し、低い次元の生命は苦しみと勤勉を経験することなく、欲しいものが手に入り、生命は得たものを大切にすることが分からなくなるからです。また、貴重なものを得たという感覚もなく、さらには何が成功で何が失敗であるかも分からず、満足の喜びがなく、何が苦痛であるかも分からず、さらには幸福が何かも分かりません。宇宙の高い次元に正と負の生命があるからこそ、下へ行くと善と悪があり、さらに下には魔と佛、神と妖、善人と悪人がいて、宇宙の生命は生きがいを感じ、対立する中でこそ生命は生きる楽しさを感じることができます。

 先ほど空間のことを話したので、宇宙の空間と生命の表面物質の形式についてさらに話したいと思います。宇宙の非常に高い境地では有形の生命は存在しなくなります。そして宇宙に充満している無形できわめて微小な物質は、これも生きている霊体で、これよりさらに小さいものもあります。それでは、表面にくるほど宇宙の粒子の粒は大きくなります。人類の現在の科学は分子、原子、中性子、電子、クォーク、中性微子などの粒子を知っていますが、物質粒子の最後――本源の物質まではほど遠いのです。人類のこの空間のあらゆる物質はみな分子の粒子で構成されています。空気、今私が使っているこの机、その上に敷かれている布、鉄、土、石、水、あらゆるものは分子の層の粒子で出来ています。私はよくこの道理を話しますが、人の脳は神に制御されています。科学者の脳も神に制限されています。人はどうしてもこの空間を突き抜ける方法を思いつくことができません。分子にしても、原子にしても、彼らはただ粒子の個体の形式、一つの点、いくつかの粒子の存在する形式に注目して研究するだけで、全ての分子と原子の存在する面を見ることは出来ません。もちろん現在このような科学技術はまだありません。人が本当にこの面を見たとき、人は他の空間を発見することになります。ただこんなに簡単なのです。それらの空間は相当広く、美しく、その時空と大小の概念は常人の理念、常人の思想方式では認識できません。人はこの思想状態から抜け出さなければ、それを認識できません。多くの微小な粒子から構成された空間は私たちのこの空間よりも広大です。

 粒子はみなエネルギーを持っていて、このことから、今までこの宇宙はエネルギーによって構成されているとされてきました。人類は原子には放射性があり、原子核と中性子も放射性を持っていることを発見しましたが、クォークや中性微子、微小な物質ほど大きなエネルギーを持っていて、放射性が強いことを皆さんご存知ですか? 人類にとっては、分子によって構成されているこの表面物質も放射性を持っていることを認識できません。人の身体は分子によって構成されており、物質世界の全ては分子によって構成されているため、人は分子のエネルギーと放射性を感じることができません。人類世界の科学研究に使われる道具、実験に使われる機器自体が分子で構成されている表面物質であり、人類がエネルギーを測定する機器も分子で構成されているのであれば、いかにして分子がエネルギーを持っていることが分かるでしょうか? このため人は分子のエネルギーを実験で見つけることができません。宇宙の中で分子は絶対に最後の層の粒子ではなく、分子より一層大きな粒子上の生命も、人が原子を見ているようにエネルギーがあります。修煉中の修煉者は、高い方へ功が伸びるだけでなく、低い方へも功が伸びます。その次元に立って人を見れば、さらに別の意味合いがあります。つまり、分子の層はまだもっとも表面上の、もっとも大きな粒子ではないということです。

 私たちは、原子の中には原子核と電子があると知っています。電子が原子核の周りを回る形式はこの地球と惑星が太陽の周りを回る形式と似ていないでしょうか? それは小さく、粒子は微小ですが、その層の面はさらに大きく、つまり合計の体積がとても大きいのです。人を例にとると、人の一つの分子の粒子を見るだけでは人は見えません。人を構成する層の全ての粒子で構成される表面を見ることができて初めて人が見えます。仮に、高倍率の超広角の顕微鏡で原子を地球と同じ大きさに拡大して、その上にどれだけの生命がいるのかを見ることができたとしましょう。もちろん現在の人はできませんが、もしもそれが見えたら、それはまた違った景色でしょう。それらの生命にとってはそれも広大な天地なのです。

 私が先ほど話したように、分子は表面上の最大の粒子ではありません。それでは、最大の層の粒子は何でしょうか? 最大の粒子が何であるか、人は永遠に分かることがありませんが、分子より一層だけ大きな粒子なら皆さんの目にも見えます。しかし、ただそう考えるのを恐れています。天空のこれらの星、宇宙の中の星たちは一層の粒子ではないでしょうか? あなたたちの概念は現代のこの科学にとどまっています。天体の中に星たちが散布しているように見えますが、星たちはみな内在の連係があります。マクロの観点から見て、もしも人体が星を遥かに越え、あなたの体積、身体、思想、容量が星を遥かに越えたとき、それはまるで人が分子を見ているかのようです。このとき振り返ってみてみると、この星たちは微小粒子の構造と似ていないでしょうか? 人はそれほど大きな智慧と想像力がありません。私に言わせると、佛陀こそ最大の科学者です。人類の科学は人類自身を封じ込めています。人類の実証科学は人に多くの落とし穴をもたらし、制限しています。それを超えると、科学に基づいていないと言われ、このようないわゆる科学で自分をより厳しく封じ込み、より宇宙の真相を知ることができません。現在の実証科学では、人の発展は進化によってもたらされたといっていますが、実は進化論はまったく存在せず、人は進化してきたのでもありません。人類は歴史の中で絶えず何度も文明が出現し、それぞれの文明時期には異なった内容があります。私は話し始めると皆さんにもっと分かってもらいたいので、皆さんは文化レベルも比較的高く、理解する能力も高いので(拍手)、私はこの方面についてもう少し話したいと思います。

 宇宙の構成は現在の科学者の話すように大爆発によって形成されたものではありません。人は類人猿から進化したのではありません。当初ダーウィンが進化論を持ち出したとき、進化論は全く欠陥だらけでした。彼自身もびくびくしながら持ち出したのです。その中の最大の欠陥は、猿が人へ進化する中での相当長い歴史の過程が無いという点です。実物は現在になっても出現しておらず、今日になっても見つかっていません。しかし人はそれを受け入れ、真理のように信じました。現在の実証科学は一種の仮相で、人類は方向を間違え、宇宙の真理を認識できなくなり、ほかの空間の存在を認めることができません。しかし、他の空間のさまざまな説明のできない現象が人類のこの空間に反映されているにも関わらず、人はそれを科学的ではないと思い、それを受け入れ、認めようとしません。もし現代の科学方法で、今まで認識できないものを認識できたら、それもまた科学となるのではないでしょうか? 科学が科学に定義を下したため、人はそれを超越して認識することができません。

 私は宇宙について話したとき、小宇宙の概念に触れました。この小宇宙はどれだけ大きいかを人は想像する勇気がありません。もちろん、人の思想も今までずっと宇宙がどれだけ大きいのかを探索しようとしていますが、私の話す小宇宙は現代科学の中ではまだこういう概念がありません。科学では宇宙はただ目に見えるこの宇宙だけだと認識していますが、私の話すこの宇宙はどれだけ大きいのでしょうか? 人類の数字、人類の言語では言い表せませんが、大体の構造を話すことはできます。小宇宙の中に銀河系のような星団がどれだけあるのか皆さんご存知ですか? ここに座っている皆さんの中にはこの方面に詳しく、書物から学んだことのある人もいるかもしれませんが、私が話すことは違います。銀河系のような星団はこの小宇宙の中で二十七億あまりあり、三十億弱です。これは人の目で物体を見る方式、人が認識できる星の構造の形式で表したもので、将来の宇宙はまたこの数字とは違います。釈迦牟尼は、如来佛はガンジス川の砂の数のように多いと言ったことがあります。釈迦牟尼も如来佛で、彼は如来佛がガンジス川の砂の数のように多いと言いました。これは佛の目で物体を見る方式で見ています。実は小宇宙内の星体を漏れなく見ると、それは砂のように多く、分子のような密度があります。この小宇宙の範囲も一番外に殻があります。それでは、それは果たしてこの宇宙の最大の範囲でしょうか? もちろん違います。さらに大きな広大な空間から見れば、この小宇宙もまた巨大な空間の中の一つの粒子に過ぎません。

 宇宙の外はどうなっているのでしょうか? とても長い時空過程を経て、遠くから見ると一つの光る点があるように見えます。その点に近づくにつれて、光る点はだんだん大きく、だんだん大きく、だんだん大きくなり、このとき、それも一つの宇宙だと気づきます。私たちのこの宇宙の大きさとあまり変わらない宇宙です。それではこのような宇宙はどれだけあるのでしょうか? やはり人が物体を見る方式で言うと、大体三千のこのような宇宙があります。これはみな人の認識および一種の物質要素に対する認識の概念の数字です。宇宙の構造はきわめて複雑です。この外側にはさらに一層の殻があり、これが第二層の宇宙をなします。そしてこの第二層の宇宙の外側のさらに大きな範囲でもさらに三千の同じ大きさの宇宙があり、第三層の宇宙を構成します。これは幾層の空間という意味ではありません。常人社会の宗教が唱える九層の天を、私はこの層の粒子で構成される面に反映させると、この九層の天は三界内にある一層の粒子に構成される空間に反映される九大惑星の範囲となります。私たちの太陽系はあの須弥山の南端にあります。私はよくこう言いますが、生命と宇宙は永遠に人類の謎であり、人は永遠に宇宙の真相を知ることはなく、生命を構成する最も本源の原因を探り当てることもできません。人は永遠に科学技術をそこまで微小なものが見えるほどに発達させることはできないからです。このように進めば人類の科学技術はますます高くなっていくのではないか、と思う人がいますが、実はそうではありません。人類の科学技術はほかの星の生物によって直接コントロールされていますが、人の科学技術とこれらのほかの星の生物は同時に神によってすでに按排されており、科学技術はただ神によって按排されたとおりに進んでいるに過ぎないのです。人類社会はただ天象の変化にしたがって動いているだけで、過去の歴史は絶えず繰り返され、今日の歴史もさらに昔の歴史の繰り返しと修正なのです。

 私が先ほど話したこれらのことはあなたたちの思想を広くするためで、あなたたちの修煉にとってもよいのです。宇宙は人類が認識できるようなものではありません。それではこの宇宙は一体どれだけ大きいのでしょうか? 皆さんに話しますが、宇宙の概念はさらに億万層の範囲に達しても、巨大な天体の中の一粒の塵に過ぎません。人に対して私は道理とたくさんの数字を用いて話すことができますが、人はそれを感じ取ることができませんし、永遠にそれを見ることもできません。人は神のような神体構造がなく、人の思想容量と智慧でそれを受け入れることができず、人はまたそのような思惟形式がなく、巨大な概念を人の大脳は受け入れることができません。修煉者が高い次元に達すると、大脳、思想、身体が全て高エネルギー体となったときになって初めてそのような大きなエネルギー、大きな体積、大きな智慧を得ることができるのです。そのため人の大脳は人類より遥かに高い感覚や高い次元に現れる現実を感じることができず、人の求められる知識も限られています。

 もう一方で、人が高い認識を持つのなら、それにあった高い道徳の境地を具えなければなりません。神は、人が人心を持ったまま佛の次元に達することを許しません。たとえば人類の科学技術を佛と同じレベルに発達させることは絶対に不可能です。なぜかと言えば、皆さんご存知のように人には人の情、各種の執着心、もろもろの情欲があまりにも多く、さらには闘争心、嫉妬心などもあります。皆さん考えてみてください。本当に佛の境地に達したら、佛界を乱してしまうのではありませんか? もしかするとあなたが佛の世界で何かによって嫉妬心を起こして佛とトラブルを起こすかも知れません。これは絶対に許されないことです。色欲の心を取り去ることなく、美しい大菩薩を見て、この神に対して色欲の心を起こし、これは天上では絶対にありえないことです。このため人の科学技術は永遠に神佛の境地まで発展することはできないのです。つまり、人類の科学技術は永遠に神の境地に達することはできず、これは確実なことです。

 私は先ほど相生相克の理について話したので、ここで続けて話そうと思います。非常に高い境地では、生命の存在も非常に単純で、思想も非常に単純で清浄としていますが、智慧はきわめて大きいのです。下の方へいくと、同一生命の二つの異なる性質が現れてきます。さらに下へいくと、それは二種類の異なる物質要素となります。宇宙の天体は非常に大きく、さらに下へいくと二種類の異なる物質要素は徐々に対立性を持ち始めます。さらに下へいくと、二種類の異なった対立性物質の異なる特性はだんだんとはっきりとして、正と負の生命の存在形式が現れます。さらに下へいくと佛(法王)と魔(魔王)が現れ、同時に陰陽、太極など多くの対立要素も出現しました。さらに下へいくと相生相克の理が生まれ、二種類の異なる物質の矛盾も次第に大きくなります。

 特に人類社会まで達すると、この相生相克の理はかなり明らかになります。人は良いことや悪いことを行うときにおいて、相対する矛盾を克服してやっとそれを完成させることができます。一人の個人にしろ、団体、現代社会における会社、または政府にしても、あることを成し遂げるには多くの矛盾を克服しければ成し遂げられません。天意に従えば、成り行きで自然に成し遂げられますが、そうでなければ、何事をするにも気持ちよく一気に成し遂げることはできません。人の次元の理に立って話せば、人が良くないことをしてもたらした多くの業力が原因となり、いったん何かをしようとすると業を返さなければならないからです。相生相克の理はほぼいたるところにあるため、人は何をするにも必ず困難が伴います。それではそれはどのような良いところがあるのでしょうか? 法理は円容なものです。もう一方から話せば、一つの生命は相応の困難を克服し、欲しいものを得て初めてありがたさを感じ、それを大切にしようと思い、その後の満足感を得られ、勝利の後の喜びや幸せを感じます。このような対立性がなければ、皆さん想像してみてください。物事をしたいように行ない、やれば必ず成功し、何でもやりたいことができて、何も争う必要がなく、何をしても非常に容易に、困難なくできるのでは、あなたは生きることがつまらないと感じるでしょう。困難を乗り越えて得たことに初めて幸せを感じるのです。これが人類の生存状態であり、このおかげで人は活力を持って生きることができます。

 先ほど話したことを通して、皆さんの思想が広がり、修煉の中で精進する助けとなることを希望します。これらを話し始めれば話すことはあまりにも多く、時に私はあれもこれも話したいことがありますが、時間がとても短いので、こうしたいと思います。皆さんは多くの質問を持ってここに来て、私に会って言いたいことが多くあると思うので、私は出来るだけ皆さんに時間を与え、皆さんの質問に答えたいと思います。皆さん真剣に聞いてください。これも説法であり、しかも具体的な問題に関係することです。それでは今から皆さんの質問に答えたいと思います。立ち上がって声を上げて皆に聞こえるように質問してもよく、紙に書いて私に渡してもかまいません。

 座っている人は手を上げて質問すれば結構です。紙に書いた質問は長すぎると読むのに時間がかかるので、皆さん単刀直入に、一つ目の質問、二つ目の質問というように簡単に書いてください。


弟子:年配で円満していない人はどうすればよいのでしょうか?

師:この学習者が提出したのは代表性のある問題です。ここに座っている中にも多くの年配の方がいます。彼の質問は、年配で円満していない人はどうすればよいのかということです。修煉は非常に厳粛なことです。現在の中国大陸のように、みな人脈を使って問題を解決する、そのようなことはありえません。それではどうしたらよいのでしょうか? 真に着実にしっかりと自分を修煉しなければいけません。

 この質問に回答すると同時に、まずは修煉と仕事の関係について話したいと思います。修煉は日常生活には影響しません。社会で会社を経営したり、政府の高級官僚になったり、世の中の全ての仕事の中で修煉することができます。昔イエスは、金持ちが天国に上がるのは、駱駝が針の穴を通ることより難しいと話したことがあります。なぜこのように言ったのでしょうか? 多くの人が金銭に対する執着を取り除くことができないからです。皆さんに教えますが、実はお金がどれだけあってもかまいません。あなたの家がお金を積み上げて作られていても、あなたの家の道が金で敷き詰められていても、あなたがどれだけ高位の官僚でも、大統領になっても、良い人として努めることができます。あなたの環境の中で、あなたの階層のトラブルの中で自分を修めることができます。皆さん考えてみてください。今ここに座っている皆さんの中にも異なる階層の人がいます。なんとか食べていけるだけの暮らしを立てている人たちは、低い生活レベルの人たちの間でのトラブルがあり、この階層の人たちはトラブルの中で苦痛に耐え、良い人であり続けることで修煉の基準に達し、最後に円満できます。そして中層階級の人たちもその階層でのトラブルがあり、彼らはそのトラブルの中で良い人になり、向上することで、最後に円満成就まで修煉することもできます。いかなる階層においても人は向上することができ、修煉できると私には分かっています。大統領も彼なりの苦悩があり、自分の階層のトラブル、国家間、民族間のトラブルがあります。人類はみな同じなのです。人がこの世で生きるには必ず苦しみがあり、だから修めることができるのです。私がこういうのは、弟子たちに宗教の枠を超えて修煉について認識し、真の修煉を実現して欲しいからです。

 高齢の人が修煉する上でも同じです。私の功は性命双修の功法で、修煉しながら寿命を延ばすことができるので、時間は足りるのではないでしょうか? しかし前提として、高齢の人はさらに精進し、厳粛に修煉に対応しなければなりません。高齢の人が何らかの原因で本当に円満できなかった場合、生命の最後になって臨終の前に、来世は必ず修煉すると誓いを立てれば、法輪とその他の修煉のものを持ったまま生まれ変わり、前世に引き続いて修めることができます。(拍手) また、あまりにも苦しくて、もうこの世に戻って来たくない場合はどうするのかというと、修煉した分だけ得ることができます。その段階での修煉の次元がどこであるかを見て、もしも三界の中のどこかの層の天に達していれば、その層の天に行き、その層の生命となります。三界を超えていて円満までは達していない場合は、天国世界に行き、そこの衆生になることができます。これらの世界は人が想像するように、中は佛と菩薩ばかりでほかに何もないわけではなく、その中には無数の衆生がいて、非常に繁栄した美しくて素晴らしい世界であり、中には天人の衆生もいます。(拍手) しかし人にとっては彼らも神であり、世の人とは比較になりません。彼らはただ果位がないだけです。あなたの質問にはほぼ解答しました。(拍手)

弟子:真に修めている弟子には病がないということをどのように理解すればよいのでしょうか?

師:中国大陸の多くの地域で人々はこのようなことを言っています。病気にかかって治らない人がいれば、必ず周りの人はその人に「早く法輪功を学びに行きなさい。学べばすぐ良くなります」と言います。なぜこのようになるのでしょうか? 法輪功はとても早く修煉者の身体を調整できるからです。調整後にすぐに修煉を始められるので、常人が考えているのとはまた少し違います。功を学びに来るとき、病を治す考えをまったく持たずに来るのが、もっともよいのです。修煉では執着しないことを要求し、求めない中で病が治ります。少しでも何かを求めるとそれは執着心で、結果はかえって良くありません。あなたがただ病を治すためだけに来たのなら、あなたには執着があります。大法が世に伝えられたのは人の病を治すのが目的ではなく、人を済度しに来たのです。病が治るのは、済度される者のために身体を調整しているのです。執着のために来たのなら、病のことが気になって心から離れられないということになり、そのため病は良くなりません。

 人類の理念は宇宙の理と比べると反対になっており、求めれば求めるほど手に入らなくなります。何かを求める心がなくなって初めて、病のことを気にしなくなったことになります。修煉を始めたら病を治すことは考えないでください。つまり、何も求めないでください。病がある人は煉功する中で、病のことを考えないでください。何も求めず、気にせず、ただ煉功のことを考えれば、煉れば煉るほど状態が良くなり、煉功を終えた後に家に帰って一晩で全ての病が治るかもしれません。(拍手) このような現象が中国大陸の多くの地域で言い伝えられ、みな非常に不思議に思い、多くの人が学びに来て、そのためどんどん学ぶ人が増えています。

 私はこの道理を話しました。何も求めないと一番早く、何かを求める人は遅くなります。私は病に対してこのような見方を持っています。私が弟子にこれらのことをするときも、病を治すとは呼ばず、修煉者の本体を浄化するといいます。浄化する目的は、修煉の基礎を作るためです。病のある身体を抱えていては、功は出ません。それではどうするのでしょうか? 煉功するときはただ煉功することを考え、何も執着を持たないでください。何も求めずにいれば最も良いのです。こうすれば私はあなたの身体を浄化し、ほとんど病のない状態にすることができます。しかし、修煉に影響を与えないほどに、少しだけ業を取り除くときや病のときの感覚を残すこともたまにあります。なぜ少し残すのでしょうか? 悟性を向上しなければならない修煉者がいるためにこのようなことをしているのです。皆さん考えてみてください。人の表面上の身体にまったく病がないとき、それは超常的な状態です。業を取り除く感覚さえないのは修煉とはいえません。そのようではもちろん信じます。信じないことがありえるでしょうか? 最後まで信じるでしょう。そのため、一部の人には状況に応じて少し修煉のための要素を残すことがあります。あなたが信じるかどうかを見て、修煉者に悟りの中で乗り越えさせようとするのです。そうではないでしょうか?(拍手)

 しかし、もう一つの問題を皆さんに話したいと思います。人は修煉するにおいて面倒なことや困難なことに遭うことがあります。この難は二つの方面に現れます。一つは体の具合が悪くなること、もう一つはほかの人があなたに腹を立たせることをするのです。体の具合が悪くなる原因は、皆さんに教えますが、病ではありません。しかし現れる状態は病と同じです。皆さんすでに知っているようにそれは業を取り除いているのです。業を取り除くとはどういうことでしょうか? 実は私はあなたの身体全体を浄化しようとしているのです。人は常人に生まれ、一生一世、繰り返し生まれ変わり、二十数世、三十数世、あるいはさらに長い人もいます。それだけ多く生まれ変われば、人の中で生々世々生まれ変わるたびに大量の業を造ります。もちろん、毎回の人生で病にかかったり苦痛を味わったりしていくらかの業を取り除くことはできますが、毎回多くの業を造り、多くたまると病にかかります。人は病にかかると医者にかかります。医者は病を治療するとき、身体の表面を治すだけで、人は病にかかる苦痛から少し業を取り除くことができますが、ほとんどの業力と本質的に病の元となる根本的な原因は他の空間にあり、医者はそれを動かすことができません。病の根本的な原因はそこにあるため、人は毎回の人生でいくらかの業を残していきます。

 皆さんは、現在の人の身体がどのようになっているのか知っていますか? 私は講義しているとき、骨髄の中まで黒い塊が満ちた学習者を見ることがあります。もちろん、この空間では見えません。業力は他の空間にあるからです。それではどうすればよいでしょうか? 人の身体は微小な粒子から表面の粒子まで、小さなものから大きなものまで一層一層立体的に見れば、木の年輪のように一輪一輪あって、その全ての層が汚れています。私はその最も中心からあなたの身体を浄化するのです。あなたが修煉したくなければ、誰もこのようなことはしてくれません。昔佛教では、人は一生の修煉だけでは成就できないと言われてきました。人は自分で自分を浄化することができず、向上するのはなおさらです。向上したいのであれば正法でなければできません。あなたたちが大法の中で修煉するなら、私はあなたたちの身体の中にたまった業力、残った汚れ、身体が悪くなった全ての原因を押し出します。一気に表面物質の身体から押し出したのでは、人は耐えられずに死んでしまいます。それではどうするのかというと、押し出す過程で大部分は他の空間から移動させ、あなたの身体から引き離して、僅かな一部分をあなたの身体の表面から押し出します。

 それではなぜ表面から押し出すのでしょうか? すべてほかの空間から取り除けばよいのではないでしょうか? しかしこのようにすれば天理に合わないのです。得るものがあれば失うものがあり、借りがあれば返さなければならず、これは天理です。人は業を造ると返さなければならず、修煉者はなおさらです。実は、私はあなたにただ少し返させているだけですが、それであなたが全てを返したことになります。なぜならあなたが修煉する願望を持っているためです。私はあなたに表面上で少し耐えさせるだけですが、それでもあなたにとっては突然体が重病にかかったように非常に具合が悪くなり、もう生きていられないと感じる人さえいます。悟性の良い人は知っています。修煉を始めたのだから怖れることは何もない、法を聞いて、本も読み、道理は分かったのだから、さらに怖がることは何もないと思って、この素朴で確固たる一念ですが、それは金よりも光り輝いています。その人は薬も飲まず、医者にもかからずに、突然何事も無かったかのように治ります。これで一つの大きな難が過ぎ、多くの業が取り除かれ、さらに多くの業はほかの空間から押し出されました。実は表面から出たのはほんの少しだけですが、これでこの業は取り除かれ、あなたが償ったということになります。そのため、修煉の過程で体の具合が悪くなる人が現れますが、この辛い感覚はいかなる病とも違います。だからこのような状況が起こり、その中であなたが根本的にどれだけ確固として法を信じているのか、難の中であなたが自分を修煉者としてみることができるのか、このときあなたはまだこの法を信じているのかということを見ます。佛を修めるのは非常に厳粛なことです。

 世間法を超えて修煉するにおいて、身体は高度に浄化され、これは羅漢体とも呼ばれています。そのころになると身体はすでに高エネルギー物質の身体に昇華し、常人の細胞は全くなくなり、表面上は常人と同じですが、違います。このときになるともう病業はなくなります。世間の病はもうあなたのこの高エネルギー物質で構成された身体に影響を与えることはできないからです。世間法を超えるとすでに全ての病業を押し出しています。世間法の修煉では身体の具合が悪くなったり、危険なことに出遭ったりします。そのときあなたは恐怖を覚えることはないのですが、 周りの人はとても恐怖を感じます。このようなことも現れます。真に大法を修めている弟子は多くいますが、修める中で何も問題はありませんでした。あなたが修めさえすれば私はあなたを守ります。もちろんあなたが修めなければ私はあなたの面倒を見ません。私は修煉者のためにこのことをしているのです。だからあなたたちはほかの人を病気の治療のためにここに連れてこないでください。常人の事は、私は今面倒を見ません。法を破壊するようなこともしないでください。人は修煉しなければ、自分の全ての借りを返さなければならず、たとえどんなことに遭っても全て因果関係があるのです。これでこの質問の解答は終わりです。

弟子:今日皆さんの身体、特にほかの功を学んで身体に残されたものを浄化できますか?

師:皆さん安心してください。皆さんに教えますが、あなたたちがここに座って講義を聞き終わり、出て行くときにはみなすっかり変わっていることを保障します。ここまで話して、精進しない学習者にも告げますが、あなたは修煉者になろうとしているのですが、自分に対して厳しく要求せず、学んでも学ばなくても、修めても修めなくてもかまわないようでは、身体に問題が現れます。真に修めないと身体が常人の状態に戻ります。そのときになるとあなたは、どうして身体がいつも悪いのだろうと思います。修煉は厳粛です。なぜ身体が悪いのでしょうか? これはあなた自身に聞かなくてはいけません。あなたは法を信じていますか? 自分が修煉者だと信じていますか? あなたの心は落ち着いていますか? あなたが真に修煉を貫き、人心を取り除くことができれば、一秒足らずであなたの病状は全てなくなります。(拍手) 修煉は曖昧さを許しません。修煉する際、心が落ち着かずに、「この法は本当にこうなのか」と考えるようでは、「私は本当に修煉しているのか? 私は今常人なのか? それとも修煉者なのか?」と言っているに等しいのです。

 真の佛法の修煉は、末法の時期の宗教のように気ままにしてはいけません。修煉は非常に厳粛なことで、固い信念がなければ全てが無駄になります。あなたが名、利、情を放下できたのに、あなたが円満できなければ私もそれは不公平だと思います。人が名、利、情を放下できるということは、命を放下できることに等しいのです。人は何のために生きているのでしょうか? お金や、名誉、そして人の情のためではないでしょうか? これらを放下できれば、あなたはまだ人間でしょうか?(拍手) 人はこれらのために生きており、神にはこういうものがありません。(拍手) しかし皆さんに教えますが、神も、人が想像したように動かない彫像のようではありません。人は知りませんが、天上は非常に美しくて素晴らしいのです。彼らは人より遊び方を知っていますが、そこは高尚で、慈悲で、限りなく美しくて素晴らしいところです。彼らはそれだけ高い心性があるため、そのような能力があり、身体はあちこちに浮かんで飛び回ることができます。どこでもそのように素晴らしく、人の言葉では表せません。そこの色もここにはない色で、神の姿はみな非常に美しく、あまりにも素晴らしいのです。

 ここに座っている人には年配の人や、もちろん若い人もいますが、修煉の中で人の身体はあなたの先天の本来の姿に戻ります。人は上へ行くほど若くなり、真に先天の本来の姿に戻ると、自分が非常に若いことに気づきます。人によっては、本人の年齢はとても高いのですが、その元神は若い人もしくは子供かもしれません。皆さんご存知のように、多くの年配者は老年性痴呆症にかかり、人は彼らを年寄りの子供と呼びます。彼らは子供たちと食べ物を取り合ったり、一緒に遊んだりするからです。なぜでしょうか? 人は、この人は年をとって、あまりにも年をとりすぎたからだといいます。現代の科学で解釈するとそうなりますが、実は、人は年を取り執着心を放下し、人生の全ての目的、追求も全てなくなり、全てを放下したとき、自分の本性が戻ってきます。その人の元神がもともと子供だった場合、年寄りの子供のようになるのです。本当にこういうことなのです。修煉は上へ行くほど美しく若くなります。下の層の生命を見ると、髪の毛もまっすぐ梳くことができずに、振り乱していると言う人がいますが、下へ行くほど醜くなるためです。修煉の中で上へ向上するほど美しく、身体は病がないだけでなく、より清浄になります。

 「特にほかの功を学んで身体に残されたもの」についてですが、真に修煉さえすれば、これらのものは私が全て処理します。これらのことを気にしないで、もう考えないでください。自分の思想からそれをなくしてください。ただこのことのために来たのであれば、それは解決できません。執着しすぎて、それをつかんで放さずにいると、私がそれを取り除いてもあなたはやはり安心できません。真に修煉したければ、どんな良くないものでも私はすべて取り除いてあげます。

弟子:私たちが今回法を聞きに来て、私たちに法輪をくださいますか?

師:修煉しに来た人として、ここに来て法を聞きに来た人も、来られなかった人も私はみな面倒を見ます。法輪をあげるだけでなく、大法を修煉するからには私は全面的に学習者の身体を調整します。そのため私に会えても会えなくてもみな同じで、修煉しさえすれば、あるべきものはみなもらえます。中国で私の講義を聞いたことがある人はたった数万人ですが、現在修煉している人は全国どこにでもいます。あんなに多くの人は私に会ったことがないのですが、大法を修煉するのに必要な全てを彼らは持っています。私はこんなに大きな法を伝えるには、何もかも私の主体が行おうとしても手が回らないので、一人ひとりに顔を合わせて面倒を見ることはできません。私はあなたに法輪をあげて、あなたが修煉さえすれば、この本を読んで法が良いと思い、大法を修めたいと思い、真にこの一念が起こりさえすれば、身体にきっと変わった感覚が現れることに気づくはずです。

 私はあなたたちに法輪を与えるだけではありません。皆さん考えてみてください。一人の修煉しない人、一つの修煉に必要な機制が備わっていない身体では何を煉りだすことができるのでしょうか? 法輪は私があなたに与える全てのものの根本です。そのほかにもあなたの業力を取り除き、この世および各層の空間での恩讐と各種の因縁関係を解消し、身体の内外に身体の変化をもたらす機制をとりつけて、そして丹田などの部位に数万種の功能を生成することに必要なものを植え付けてあげて、さらに将来にはあなたたちを地獄から除名します。これはあなたたちが知っていいことですが、あなたたちのためにさらに多くのことをしてやっと真に修煉でき、大法の中で真に修煉して成就できるのです。

 私は偽の気功は人をだましているといいますが、彼らは本当に人をだましています。彼らはあなたに何をしたのでしょうか? 何もしてくれません。これらのものがなければどうやって煉ることができるでしょうか? 煉りだすことができるでしょうか? しかも、修煉の中であなたを守らなければ生命の危険があります。人は業を返さなければならないからです。あなたを守らなければ、あなたが以前誰かの命を傷つけた場合どうすればよいのでしょう? 現在の人で命を傷つけたことがない人などいるのでしょうか? 生々世々の人生で今に至るまでどれほどの業があるのでしょうか? 人の世はとにかく険悪で、人に対して責任を負わなければ人を害していることになり、ですから、彼らは人をだましているのです。あなたたちは大法を修めているので、この全てを皆さんのために解決しなければなりません。真に学べば得ることができます。

 ここに座っている人たちの中には文化レベルの比較的高い人がいますが、現代の理論に制限されないでください。この『転法輪』の本は、天目が開いている人が見れば、一つ一つの文字が卍であり、一つ一つの文字が佛であることに気づくはずです。考えてみてください。この法はどれだけの力があるのか、この本にどれだけの佛がいるのでしょうか? しかも一つ一つの文字に多くの層の佛がおり、この本は宇宙の異なる次元の理を含んでいるからです。修煉の中で次元が向上するたびに、本を読むと同じ言葉でも以前読んだときとは違った意味になっています。あなたはまた新しい認識を持ち、もう一つの層の意味になります。一つ一つの文字には一層一層重なり合う無数の層の佛がいます。もちろん、常人には見えません。だから私はみなさんに、この本は非常に貴重だといっているのです。過去の講義のときには本を尻の下に敷いていた人もいましたが、あなたはこの法が何なのかまだ認識できていません。あなたが認識できたとき、この全てが非常に厳粛なものであると気づくはずです。修煉の中であなたの動じた一念は全て知られています。どのような念が動じたのかは、その一念が動じる前にすでに知られています。人は、人の思惟反応が非常に速いと思っていますが、少しだけ速い空間の中で、あなたの思惟は非常にゆっくりとした反応過程で、あなたが考え終わる前にあちらではすでに知っており、あなたの念が動じ始めたときにはすぐ分かるのです。

 「先生、私の家の誰々が来ていないので、お金を払いますから彼にも法輪をいただくことができますか?」と私に言う人がいます。もちろんこれを言った人を責めたりしていません。その人は、修煉をしていない人にこういうものを与えてはいけないということを知らないのです。皆さんに教えますが、あなたが何億払っても買えません。これは常人の中にはないもので、超常のものであり、神のものです。ある意味からいうと、その生命はあなたの現在の人の生命よりも遥かに貴重なものです。それは高級生命であるので、どうして金銭の価値と比べられるでしょうか? しかし人が修煉をしたいというなら、私は無条件で与えます。しかもこれだけではなく、最後まであなたが円満するまでずっとあなたを守ります。

弟子:生命が天寿に達しないまま死亡することはどう説明できますか? また、このような人はどうすればよいのでしょうか?

師:今後皆さんの修煉と関係のないことは質問しないでください。紙銭を燃やすのは意味があるのかということさえ私に聞く人がいますが、これらのことは大法の修煉とは関係なく、解答する時間もありません。天寿に達しないまま死亡した人のその後は哀れなものです。私はこういう道理を話しました。人が誕生するとき、その人の一生はすでに神によって按排されています。天寿に達しないまま突然死んだら、その人はきわめて苦痛な境地に立たされます。どのような苦痛な境地でしょうか? 生命には按排があります。あなたの飲むもの、食べるもの、社会での地位、人生の立脚点、これらは全て按排されています。人がいきなり死んだら、これらを失ってしまい、天寿に達していないので転生もできず、亡くなった後の魂は非常に荒涼とした空間に入ります。そこには何もなく、まるで人は火星に行ったようです。実は、火星には人がいますが、その人たちは別の空間におり、我々が見えたのはこちら側の荒涼とした空間です。もしいきなりこの境地に立たされると、何もなく飲まず食わずで非常に苦痛なのですが、餓死することはありません。その人はずっとこの空間で待ち続け、人の世のもともとの天寿になってからやっと転生できます。これらがすなわち孤魂野鬼といわれる生命です。昔佛教では供養、供養と話していましたが、現在の人は供養が何か分からなくなりました。このようにして死んだ人だけを供養するのです。普通の人はこちらで死んだらすでに転生しており、供養する必要はありません。昔は供養といえばこれらの生命を供養することを指していたのです。

 ついでにある問題、ある社会問題に触れたいと思います。現在多くの国で「安楽死」を提唱する人がいます。皆さんに教えますが、一部の病人が苦痛に耐えられず死のうとするのは彼ら自身のことですが、病人に「安楽死」を行なった人は殺人をしたことになり、殺人の大きな業を作ります。神もこのように見ています。しかもその死んだ人をもっとも苦痛な境地に立たせ、さらに苦しい空間に行かせたのです。「安楽死」を求める人自身は何も知らず、そのところに行ってから後悔します。生きて苦痛を味わったほうがまだましなのです。人はなぜ苦痛があるのでしょうか? 人はこの世で生きているうちに業を造ります。業力が大きな人もいれば、小さな人もいます。死ぬ直前に苦痛を味わう人もおり、苦痛の中で一生に造った多くの業を返して、来世には良い生活が得られます。造った業力を死の直前に全て返せば、転生後には業力がなくなるからです。しかし苦痛を味わって業を返したくないのであれば、来世に生まれるときに病体をもって生まれるか、甚だしきに至っては身体障害者として生まれ、あるいは長生きしない可能性があります。人はこのことが分からず、ただ「現実」のものを信じます。人は現在の科学の仮相により厳しく閉じ込められているので、「安楽死」のようなことを考え出したのです。実は少しも安楽ではありません。

弟子:修煉者として、常人社会の仕事や学習を努力すべきでしょうか?

師:するべきです。私は先ほどすでにこの問題について話しました。なぜでしょうか? 私がこの法を伝えるときにすでにこの問題を考慮しました。法を学ぶ人はとても多く、相当多くなります。将来には人類社会全体に普及することになります。この法は素晴らしく、宇宙の法を人に修煉させるからです。人が多くなれば最大の社会問題をもたらします。皆が出家してしまうとこの人類社会がなくなるのではないでしょうか? ですからそれではいけません。あなたたちに常人社会の中で修煉させているため、修煉者は最大限常人社会に符合して修煉することができ、この問題を解決できます。同時に人は自分で真に法を得られます。

 あなたはあらゆる常人の正常な仕事をすることができます。修煉者はあらゆる生活環境の中にいて、いかなる仕事をしても良い人になることができます。一人の修煉者として、あなたはどこにいても良い人でなければなりません。修煉者として、常人社会でしっかりできないのは必ず自分の責任で、自分を修煉者として厳格に要求していないためです。経営者に雇われているのに、しっかり仕事ができず、学生なのに、宿題をせず授業中も話を聞かないのであれば、それではあなたが良い人だといえるのでしょうか? 良い人はいかなる環境の中でも良い人でなければなりません。あなたが学生ならばしっかり学習をするべきで、あなたが会社員ならば仕事をきちんとこなすべきです。自分と社会、自分と人の関係を正してください。あなたたちはみな思想があるのですから。皆が日常良く行なうことができれば、トラブルも小さく、少なくなります。しかしトラブルはやはり存在します。

 皆さんの向上のためにはいくらかの試練を与えます。修煉の中でトラブルはしばしば突然起こるのですが、あなたは修煉しているのでそのトラブルは偶然ではありません。あなたが修煉したいので、私は修煉者を向上させるためにあなたの修煉の道、そして生活を新たに按排します。そのためぶつかるトラブルはしばしば突然出現し、偶然のように見え、表面上では人と人の間のトラブルと変わりません。決して、神が来てあなたにトラブルをもたらすようなことは起こりません。表面上ではすべて人があなたにもたらしたトラブルであり、これで初めてあなたの向上に役に立ちます。それではどのようにすればこれらの問題をうまく処理できるのでしょうか? 普段から慈悲の心を保ち、トラブルに遭遇したら自分のことを反省してください。私はある日皆さんにこのようなことを話しましたが、あなたの敵を愛さなければ佛にはなれません。神あるいは修煉中の人はどうして常人を敵と見なすことができるのでしょうか? どうして敵があるのでしょうか? もちろんあなたたちは今まだできませんが、徐々にできるようにして、最終的にはできるようにならなければなりません。あなたの思っている敵は常人の中の人です。人はどうして神の敵になれるのでしょうか? 神の敵になる資格はあるのでしょうか?

弟子:先生は、人は生まれてから死ぬまで神に按排されているとおっしゃいましたが、堕胎は胎児の生命に対してどのような影響があるのでしょうか?

師:すでに修煉を始めた人としては、以前に何かをしたことがあってもまずそれを放下してください。過去に無知の中でやった事は仕方ありません。何も考えずに、ただ修煉のことを考えてください。修煉の中で絶えず向上することが最優先です。あなたが真の修煉者であるとき、私はどんなことでもあなたのために解決します。また、私はそれが解決できます。しかし、間違いだと知った後に、間違っていると知りながら同じ間違いをすると、それは修煉者に対する要求に従わず、修煉者ではなくなります。

 堕胎に関して、皆さんに私に見えるある光景を話したいと思います。病院では、多くの病院の入り口と部屋の中には多くの赤ん坊の霊体が浮かんでいて、四肢が不完全なのもいます。これらの小さな霊体は行き場がなく、とても哀れで、母親と昔いつかの一生で親縁関係があるのもいます。これからは注意してください。あなたが修煉するので、私は何でもあなたのために解決できます。

弟子:先生、なぜ功法は輔導員によって教えられているのですか? ずれが生じる心配はありませんか?

師:この問題はこういうことです。私は輔導員に功を教えるとき『法輪功』という本の中に説明したように教えることを要求しています。動作は、一人ひとりが同じ鋳型からとったようにまったく同じになることはありえません。少しだけ違っていてもかまいません。しかしできるだけ基準の動作にして、できるだけ要領にしたがって行なってください。法輪功の煉功はほかの功法の練功とは違います。ほかの功法は練習が終わると止まり、功を収めなければなりません。あなたたちは違います。法輪功は法が人を煉るので、二十四時間功に煉られています。なぜそのようなことができるのでしょうか? それは、私があなたに植えつけた機制が自動的で、あなたはなぜ煉功するのかというと、あなたは私が植えつけてあげた機制を強化しているのです。皆さん覚えておいてください。あなたたちが煉功するのは、私があなたたちに植えつけた機制を強化するためで、真にあなたたちを煉るのはその機制であり、それは功を動かして二十四時間止まらずに人を煉っています。大法の煉功ではその機制につれられて煉ります。そのため、動作が少しだけ違っていても影響することはありません。しかし、必ずできるだけ基準に従って行なってください。動作はやはり規範に合わせるべきです。

弟子:多くの未発達の地域では功を教えるビデオを見ることができず、動作は一人から二人目、二人目から三人目というように伝えられています。そのため私たちの煉功場では動作が違う人がいます。

師:煉功をする人は時が経つにつれて増えていき、学習者は互いに行き来し、これらは全て素早く解決されます。多くの人は法を得るのは非常に容易ではないということを、私は知っています。皆さんも法がいいと思い、この法をほかの人に伝えたいと思い、黙々と多くの仕事をしてきたことも私は知っています。功徳は無量です。

弟子:私には二歳の娘と二カ月の息子がいます。今日はもう少しで彼らをつれてくるところでした。彼らをどのような方式で、できるだけ早く学法、煉功に触れさせることが出来るでしょうか?

師:中国大陸では、三歳や四歳の子供の煉功者もいます。三歳の子供は比較的少ないのですが、四歳の子供は非常に多く、一般的です。あなたも彼が子供だから、理解できないと思わないでください。あなたに教えますが、彼は先天の本性が良ければ、大人よりもよく理解できるかもしれないのです。人はみな子供の受け入れ能力が比較的高いといいますが、なぜ高いのでしょうか? それは、子供の先天の智慧がまだ完全に覆い隠されていないからで、そのためときに子供はとても明白です。もしもその子供が何かの使命を持ってこの世に来たのなら、その慧根がさらに良いでしょう。

弟子:天目の問題はどのように理解すればよいでしょうか? 天目が異なる次元で開くにつれて、煉功では宇宙の真相についてさらに深い認識が得られますか? それでは佛の宇宙の真相に対する認識はどのようなものでしょうか?

師:皆さんに教えますが、人が永遠に宇宙の真相を知ることができないのは人が人の次元にいるからです。佛が宇宙を認識できるのは、佛の次元境地が決めるものです。低い次元の神はさらに高い次元の宇宙の状況を認識できません。つまり修煉者が異なる次元で悟りを開き、あるいは異なる次元の覚者が見えたのは彼らのいる次元での宇宙の真相であり、彼ら以上のものは見えないのです。

 そのほか、あなたたちの修煉の過程では全ての人の天目が開くわけではありません。佛のように何でもはっきりと見えるのなら修めることができなくなるので、非常にゆっくりしたものになります。天目が本当に開くと、見えるほかの空間はこの人の空間よりもはっきりとして真実なのです。立体感と物体に対する感覚も人を見るよりはっきりして、真実なのです。一般的には私は、見える学習者にほかの空間の状況の一部しか見せることができず、特殊な状況ではない限り、大きな範囲が見える人の見た情況は普通でもぼやけているか、あるいは低い次元の情況しかはっきり見えません。なぜでしょうか? 人々に皆はっきり見せたら、人々はきっと皆修煉しに来て、しかもきっと確固として修煉し続けます。それでは謎はすでに破られて、悟りも存在しなくなり、修めることにはならないのです。人は迷いの中でしか修煉できず、迷いの中でしか悟ることができず、このように苦を嘗めなければなりません。全てがはっきりと見えるなら、いくら苦を嘗めても不満を訴えることはありません。佛の次元ではなぜ向上するのが難しいのでしょうか? あらゆる真相が見えているのでは、どのようにして向上できるのでしょうか? 嘗める苦がないので、非常にゆっくりとしか向上できません。人は真相が見えないからこそ修めることが出来るのです。見えないことも苦であり、人としては全てが苦なのです。

 「先生、私は煉功をしているのに、なぜまだ病気が治らないのですか」と聞く人がいますが、あなたは病気を治しに来たのですか、それとも修煉しに来たのですか。修煉しに来たのなら、病気のことは何も考えないでください。完全にこれらのことを考えなくなり、執着がなくなって初めてよくなります。あなたはまだもとの常人の心を持っており、自分を煉功者だと見なしていません。根本的に人の執着を取り除けばどうなるか見てください。眠れない人がいますが、眠れないときはちょうど煉功できるのではないでしょうか? そうして眠れるかどうか見てください。皆さんに教えますが、ただこの一念の差ですが、人と神の違いはこの一念にあるのです。放下できれば修煉者で、放下できなければただの人です。

弟子:現在専業で修煉している人はいますか。いるのなら、私が専業で修煉する弟子になれますか。

師:法が伝えだされてほとんどの人はこのように修めています。もちろん尼僧や和尚で大法を修めている人もいます。大法の修煉は形式を重視しません。天上の佛、道、神はみなこのように見ています。佛は常人の中の形式を重視しておらず、人の心を修めて取り除くことを重視します。どれだけ多く廟を建てたとしても、毎日佛像に向かって叩頭しても、外に出るとわがままに振舞うのであれば、これは修煉ではありません。一途に自分を修煉すれば、佛は見たら嬉しくなります。形式にこだわらず、真に修めるのであれば師父は面倒を見ます。修煉はただ人のこの心を修めて取り除くのです。(拍手) 実は、この複雑な人の群れから離れるとかえって修煉が遅くなります。もちろん、あなたが出家して修煉したくても、私たちは現在まだこの条件が整っていません。

弟子:人の身体が高エネルギー物質に転化した後に食べた物はどのような影響があるのでしょうか?

師:食べた物は修煉中の機制によって転化されます。修煉は普通どおりにしてください。

弟子:アメリカで生まれた中国人で、英語しか話せない人は修煉して円満することができますか?

師:現在多くの白人の弟子がいて、どの言語を話すかは修煉に影響しません。私はスウェーデンで白人の弟子たちに講義をしましたが、彼らはとてもよく理解できて、修煉の中で向上するのもとても速いのです。華人は古い歴史があり、非常に豊かな文化を持っていますが、華人の特徴はとても内向的で、心の中に多くのことがあります。道理の上で華人に納得させるには、その理を深く話さなければならないのですが、白人は違います。彼らは外向的で、話をするときもはっきりと話します。怒るときも顔に表れて、喜ぶときも顔に表れ、心の中に隠すことはなく、全て表面上にあります。彼らの直感は華人より強く、あまり深い道理を必要とせず、話せばすぐに分かります。心理的障碍があまり無いので、修煉するのがとても速いです。

 中国語が分からなくても同様に修煉できます。しかし、英語では私の話した表面の意味しか翻訳できず、とても正確に表面上の意味を訳すことはできません。しかし、高い次元の内涵に影響することはありません。将来の人が法を学ぶとき、表面の人の次元のものがとても重要になってきます。そのため、将来の人は中国語が分からないとかなり難しくなるでしょう。

弟子:異なる人種には異なる天国がありますが、なぜアフリカの黒人にはないのでしょうか?

師:黒人も彼らを造った神がいますが、彼らはすでに忘れてしまいました。

弟子:すべての宗教には天国がありますか?

師:天国は正教にしかありません。邪教には天国はありません。それに末法の時期に、実際真の神がつかさどる宗教はなくなりました。過去に神が人に守るようにと言ったことを人は守らなくなり、宗教の中に率先してよくないことをする人もいます。宗教の身分を利用して金儲けをして、政治屋をしている人や、率先して社会を堕落させる人もいます。彼ら自身も神を信じなくなり、彼ら自身も修煉できなくなりました。出家した人に、「あなたは私を円満させることが出来ますか。そしてあなたは円満できますか」と聞いてみてください。私は、出家して六、七十年たつ人に聞いたことがありますが、彼は極楽世界が存在すると言い切れませんでした。そのようではいかに修めることができるでしょうか? 天国の門はすでに閉ざされています。めちゃくちゃなものはもともと神から伝えられたものではなく、天国はなおさら話にもなりません。

弟子:夢の中で先生が私たちに教えていて、私たちと話をしていました。この夢をどう解釈すればよいでしょうか?

師:根基が比較的いい人たちは確かに接触できます。子供は割合多いのです。一般的な情況で坐禅して入定したときに私を見たのなら、ほとんどはあなたに話しかけることはありません。話をしても諭すだけです。先生が夢の中で功を教えてくれたという人がいますが、この点については警戒してください。あなたに何の功を教えているのかを見なければいけません。この五式の功法以外であればそれは必ずあなたを邪魔するためです。話すことが私の伝える法理でなければ、それは絶対に私ではありません。偽者です。偽者に遭ったときはそれを追い払ってください。私は法輪大法を修煉するので、あなたのものは要らないと言って、それでも立ち去らないときは私の名前を呼んでください。

弟子:苦を嘗めると業を取り除くことができますが、病気を忍耐しても業を取り除くことができますか?

師:病気を忍耐する、人は苦痛に耐えているときはすべて業を取り除いています。病気に耐えるときも業を取り除いています。人は生涯でまったく病気にならないと、亡くなった後には必ず地獄に落ちると先ほど私は言いましたが、それはその人が生涯に業を造るだけで、返していないためです。幸福は常人が求めるもので、修煉者は少し苦を嘗めなければ、以前造った業力を返すことができません。同時に思想上での向上がなければ、それは修煉ではありません。

弟子:いつになったら専修の弟子が現れるのですか?

師:私は皆さんに専修してはいけないと言っているのではありません。廟の和尚でも大法の修煉を始めた人もおり、彼らはすでに出家しているので、俗に還ることができなくなり、そのためある期間内にこういう状況が存在します。しかしほかの出家していない人は家で修めて下さい。私があなたたちに残したのは常人社会の中で修煉する道です。

弟子:先生が皆さんの天目を開くことを希望します。

師:これは話さなくてもいいことです。あなたの修煉の過程で、本を読む過程ですでにあなたのために行なっています。修煉者が必要とする全て、天目を含めて全部開いてあげます。しかし全ての人が見えるようにすることはありません。

弟子:私の夫は亡くなり、私は彼が懐かしくて仕方がありません。私はどうしたらこの心を放下できるでしょうか?

師:あなたが「懐かしくて仕方がない」のは常人の心で、修煉するにはそれを放下しないといけません。皆さんに簡単な道理の例をあげましょう。人はみな常人の中の肉親の情に執着します。あなたが常人の中で何回生まれ変わったのか知っていますか? あなたはすでにどれだけ多くの父母、兄弟、妻、子供そして夫がいたのか知っていますか? あなたが常人の中で生まれ変わるとき、毎回の人生のすべての身内の人たちに対して、あなたはかつて、今と同じような想いを持っていました。それだけ多いのにあなたは手に負えるでしょうか? 誰があなたの真の身内でしょうか? あなたの生命を創造したあの場所こそがあなたの真の身内で、彼はあなたが帰るのを待っているのですが、あなたはここで迷ってしまい、これらの一時的なものに執着してしまっています。

 皆さんが一つの家庭に転生するのも、この世にやってくるのも、旅館に泊まるようなものです。ただ一晩泊まって、翌日には別れてしまい、来世には誰が誰かを覚えているのでしょうか。あなたの周囲にもあなたがかつて愛した夫やほかの身内の人がいますが、あなたは覚えていますか? その人たちはあなたを覚えていますか? 私が話したのは法理です。皆さんに親孝行をするなといっているのではなく、この心を放下するように言っているのです。いかなる心に引きずられても修煉はできません。それはあなたを執拗に引きずってあなたを修煉させず、成佛させません。この角度から見ると、それはあなたを邪魔しているのではないでしょうか? あなたが成佛するのを妨げているのではないでしょうか? あなたは自分ではまだどういうことなのか分かっていません。亡き人は、すでに過ぎ去ったのに、いまだにあなたに付き纏っており、あなたはなおさらそれを放下すべきです。私は皆さんに道理を話しているのであって、皆さんに分かってもらいたいのです。修煉をしない常人であっても、常人の中でいつも亡き人のために嘆き苦しんでいるのであれば、幸福な生活はできません。人生は非常に短く、佛の世界で常人社会を見るとさらに短いものです。二人の佛が話をしているとき、ふと見るとあなたが生まれ、それからさらに一言二言話してまた見ると、あなたはすでに天寿を終えて亡くなっています。こんなに速いのです。人は人のこの時間場の中でとてもゆっくり感じるのです。

弟子:時には雑念が現れます。良くないものだと知っているのですが、なかなか排除することができません。これは魔なのでしょうか?

師:その雑念が良くないものだと分かっているなら、出来るだけ排斥してください。みなさんに教えますが、人はこの世に生きているとき、自分で考えて自分で生きているのではないときがよくあります。今日の人を見てください。どの国の人でも、一日中慌ただしく、どうやって生きているでしょうか? 皆さんに教えますが、半分を自分で生きているのではない人や、さらには全部自分で生きているのではない人もいます。

 特に現代の人は自分がどのように生きているのか知っているでしょうか? 人は一生の中で子供から大人になる過程で、生活の中で多くの経験をしてきましたが、これらの経験により人の思想観念が形成されます。人がトラブルに遭ったとき、こうすればうまく処理できると思い、このように月日の経つうちに固定観念が形成されます。多くのことを、あなたは非常にうまく処理できたと思いますが、実はあなた自身がいなくなって、あなた自身は眠りについています。常人社会の中に生活しているあなたは、あなたの肉身がこれらの後天に形成された観念により主宰されて、これをしよう、あれをしようと、毎日ぼんやりして生活しています。しかもこれらの観念はすべてあなたが損害を蒙らないように防備することによって生じたものです。あなたが損害を蒙らなければ業を返すことができず、あなたは得るべからざる利益を得ることになるので、あなたは他人を傷つけ、絶えず業を造ってしまいます。これらの業力も生きているものであり、後天的な観念と業力により人の大脳に思想業力が形成されます。あなたが修煉するとき、それを取り除かなければなりません。人が修煉しているので、それを修めてはいけません。それを修めてあなたを修めないのであれば、あなたも納得いかないし、もちろん私も許しません。

 私はあなたを成佛させ、修煉させようとしています。修煉の中であなたは後天の観念を取り除き、あなたに取って代わっている思想業力を取り除かなければなりません。皆さん考えてみてください。これらのものを取り除こうとすると、これらも生きているものなので、取り除かれることを承知しません。これらがあなたの脳にあるため、あなたの思想を動揺させ、思想を不安定にさせて、あなたに法を学ばせないよう、信じさせないように、あんなことやこんなことをさせて、さらには自覚しないうちに悪事をさせます。あなたが以前修煉をしていなかったときに、人を罵しったことがあり、悪いことを考えたことがあったのでこれらの業力が形成されたのです。それで、思想業はすべてあなたの思想に反映させ、人を罵る言葉や法を信じないように、さらには私を罵るようにさせるのです。私はあなたたちの過ちを気にしません。それは、あなたが私を罵っているのではないからです。さもなければ、あなたの罪はとても大きくなります。あなたの思想業力が私を罵っているのですが、修煉の中でそれを排除しなければ、あなたが罵っていることになります。あなたがそれを排除、排斥して、自分が罵っているのではなく、業力と魔が作用していると分かれば、私たちは一緒にそれを取り除き、自分自身を取り戻します。今のところ、この世に生きる多くの人は自分自身が生きているのではなく、彼らの意識や後天に形成された観念のために生きているのです。

弟子:天象とはなんですか? どれだけ高い次元の修煉者になれば天象の暗示を受けないようになりますか?

師:天象は人に対して暗示することはありません。現在、人を操るようなことをしているのは、人類が悪くなったこの時期の、霊気を得た動物だけです。神は天上に人類のためにとても大きな円盤を作り、それが回っています。人類社会のどの時期にどのような状態が現れるのか、円盤の上に定めています。ある時期に回ってきたら、人類社会には知らず知らずのうちにある状態が現れ、これがすなわち天象の変化です。

弟子:「輪廻」の基準はなんですか?

師:輪廻にも基準がある? 一つの生命は輪廻の中で今生は人でも来世では動物、もしかすると植物に転生するかもしれません。とにかく何にでも転生する可能性があります。何に転生するかは人の業力の大小によって決まります。

弟子:宿命通は未来を予知できますか?

師:宿命通で未来を予知できる? 宿命通は人の一生あるいは数回の人生、あるいはさらに多くのことを知ることができます。自分がどこから来たのかが分かる人もおり、自分の将来も知ることができ、自分のことが分かるだけではなく、ほかの人のことも分かります。これが宿命通なのです。

弟子:佛と菩薩はどれだけ長く過去と未来を知ることができますか?

師:漏れがなくなって初めて佛、菩薩になることができ、漏れがなければ何でも知ることができます。これらを知識として追求しないでください。私もこれらの問題に解答するわけにはいきません。「佛はどのように生活しているのですか?」と私によく聞く人がいますが、人は絶対に佛がどのように生活しているのかを知ることはできません。佛の生活ぶりを知りたいなら、修めて佛になることです。極楽世界や法輪世界、またほかの世界を見た人がいますが、それはその人のいる次元の中での現れです。その真相を完全に見たいなら、佛の基準に到達しなければ、その真相を見ることはできません。この法のように、この次元で見るとこの次元の法理なのですが、ほかの次元で見ると、またほかの次元の法理になります。低い次元に高い次元の真相を現してはいけない、これは宇宙の理です。

弟子:拝んだことによって生まれた偽の佛たちは将来どうなるのでしょうか?

師:彼らの善悪によって決まります。社会と宇宙に乱れをもたらすものは全て取り除かなければなりません。もちろん、良い者は機会を与えて転生させます。全てに按排があります。

弟子:心性の修煉は系統的な方法がありますか?

師:あなたたちに教えたこの法がもっとも系統的なもので、これより系統的なものはありません。『転法輪』を読んでください。

弟子:「悪人も悔い改めればすぐに佛になれる」は佛教で話されていますが、法輪門ではどうですか?

師:これは釈迦牟尼が話した言葉ではなく、後の人が話したものです。このようなことがあるので佛教は末法の時期には、修煉が難しくなったと言っているのです。佛の話ではないものを佛の話としてしまい、現代人はどういうことなのか全く分からなくなりました。これは佛理ではありません。どれだけ人を殺しても、刀を棄てれば佛になれる、このようなことがあるわけがありません。良い人でも修めなければならないのです。この道理ではないですか? もちろん、この中の意味としては、今後は悪事をせず、修行をするという意味もあるかもしれませんが、佛とはあまりにもかけ離れています。

弟子:「身体が大きくなる」についてさらに詳しく解釈していただけますか?

師:修煉者の思想、身体の容量、体積はすべて大きくなります。そのため、站樁をするときに自分がとても大きくなったと感じることがあるのです。また、とても小さくなったと感じる人もいます。良く修煉できた他の空間の身体は大きくなったり小さくなったりできるからです。修煉者の身体は確かに大きくなります。さもなければ、高い次元での宇宙の真相に対する認識に耐えられないからです。修煉の中で身体は一つの空間を突破するたびに大きくなります。私のここに座っている肉身はあなたたちが見ているこの大きさですが、私のあちらの身体は一つ一つ徐々に大きくなります。その大きさは、この中にいる天目が一番良く開いている人でも私の足の指の背面は見ることができず、底面しか見えないほどです。これはまだ一番大きいのではありません。もちろん、これは誇示しているのではありません。師と弟子の間ではいい加減なことは話しません。皆さんに教えますが、修煉者の身体は確かに体積が大きくなっています。インドのヨガの一枚の絵画を覚えていますが、その絵画には、博伽梵が彼の弟子に対して、「見てください。全ての神は私の身体の中にいる」といっている場面が描かれています。絵画の中の衆神はみな彼の身体の中にいます。修煉ですから、目的は神になることです。神の大小は次元の大小であり、果位の高低であり、それによって神の身体が果位の次元に符合するのです。

弟子:今回アメリカに来られて九日間の講習会を開かれる予定はありますか?

師:いいえ、この法はすでに系統的に話しました。『転法輪』を出版して以来、私は系統的に話すことをしなくなりました。さらに話すと、一字も変わらず『転法輪』と同じように話すことはありえないからです。私の講義には原稿がありません。わたしは学習者の異なる状況に応じて話し、同じ問題でも違う角度から話すことがあるため、毎回話すことが違います。私が再び講習会を開いて系統的に法を話すと、学習者が『転法輪』に従って修煉する妨げになります。私は同じ問題について、話せば話すほど高いレベルのことを話すようになってきていることに気付きました。私はますます学習者に分かってほしいからです。(拍手) そのため、話したことは学習者の修煉の妨げになります。この法はすでに印刷されていて、さらに系統的に講義することはできません。しかし皆さんはただ『転法輪』に従って修めれば、同じことです。このように皆さんの修煉の個別の問題に解答するのはかまいません。

弟子:世界中でこんなに多くの人がいて、先生はどうやって誰が修煉しているのか分かるのですか?

師:修煉は高い境地と低い境地では思想の認識が異なり、あなたの人の考えで想像することとは違います。人は修煉の過程で一定の境地に達すると法身が現れます。さらには無数の法身が現れることもあります。法身は主体(主尊ともいう)を手伝って弟子の世話、保護など多くの具体的なことをします。法身は私の智慧の表れであり、このような智慧は神の形もあり、はっきり言うとそれは私自身なのです。だから私の法身は私自身の全体の形象と考えをもっており、どんなことも行なうことができ、主体とは区別がありません。しかしその次元以下では誰もこの内在の連繋を見ることはできません。その次元を超えて初めて見えるようになります。具体的なことを行なう中では私自身が行なうのと同じように行ないます。それは私の思想の形ある体現だからです。

弟子:「求めずに自ら得る」と「留まらずにその心を生かす」はどのような関係がありますか。

師:大法の修煉の中で佛教の経書を解釈するのはあまり適していないと思います。小さいことから言えば、釈迦牟尼が話したのは彼の一門のもので、ここでは私の法門の話です。これは不二法門の問題です。大きく言えば、全て大法がもとになっており、あなたが知らない複雑な要素も多くあります。そのため宗教の中の言葉や概念を私は全く解釈したくありません。時に何かのついでにそれを少し話したり例を挙げたりするのですが、それは私の法を話しています。皆さんも、頭の中に宗教のものがあれば、法輪大法を修め始めたからには、早くそれらを放下し、自分をきれいに洗ってください。そうしなければ深刻にあなたの邪魔をし、あなたは佛教の中のもので私の話した法を評価するようになり、修煉できなくなります。佛教の中でも不二法門を話していますが、現在は末法の法の乱れた時期なので、皆さん注意してください。

 不二法門に言及しましたが、実は宗教の中でどれほどの人が真にその意味が分かっているのでしょうか? 宗教の中では何でも修める人がいます。禅宗を修めながら密宗を修め、どんな経書も読み、浄土を修めているのに禅宗のものを取り入れる和尚もいます。ある門を修めればその門の経だけを読むべきです。経は全て釈迦牟尼の話したことではありません。『華厳経』を読んで修めれば華厳世界へ行き、阿弥陀佛の経を読めば極楽世界へ行きます。後の人は経書が全て釈迦牟尼のものだと思い、そのためいったん混ぜ入れて修めると、どの佛もその人を管理しなくなります。現代の佛を信じる人は皆このような考えがあります。どの佛もみんな佛だから、誰を拝んでもいいのではないか? どれもみな佛の書だから、どれを読んでもいいのではないか? ということです。これは人の考えです。

 なぜ『転法輪』を読んで修煉すれば法輪世界へ行くことができ、修煉の中で法輪などこの一門で得るべきものを得ることができるのか皆さん知っていますか? 宗教の経書も同じで、その門を修めれば、その門のものを得て、その法門の神はあなたの身体にその門のものを植え付けます。それなのにあなたはほかの門の書も読み、そのほかの門もあなたにその門のものを植え付けて、どの門のものも植え付けられたら、あなたの身体は乱れてしまい、どのように修煉することができるのでしょうか? たとえば、テレビの中に洗濯機の一つの部品を入れると、テレビは機能しなくなります。人が考えるように簡単で容易なことではありません。

 修煉は非常に厳粛で、複雑な功と生命昇華の演化の過程です。それは人類のもっとも精密な機械よりも精密で、そのため修煉のものは混ぜてはならず、混ざることもありません。人がいったんこのようなことをすると、佛があなたはこれも修めあれも修めているのを見ると、皆自分の一門のものをあなたに何も与えなくなります。これも修煉者の心性の問題です。如来佛はいくつもの人生での苦しい修煉を通して彼自身のものを作りだし、彼の世界を構成しました。彼の世界もすべて彼の修煉の要素で構成されています。人であるあなたがそれを思うまま適当に変えられるのでしょうか? 同時に二つの法門を修めることは、あなたが二つの佛の法を破壊しようとしていることに等しく、同時に三つの法門を修めることは三つの佛の法を破壊していることになります。これは罪ではないでしょうか? 私はそれを知らなかったという人がいますが、あなたが知らないからこそ、佛はあなたに何も与えず、あなたがこの罪を犯さないようにしているのです。これが不二法門の根本的な原因です。人はこれを知らず、混ぜて学ぶと広く多くのことを知ることができると思っていますが、これは執着です。

 ある門を修めればその門だけを修めなければなりません。禅宗なら禅宗、浄土なら浄土、華厳なら華厳、天台なら天台、そして密宗なら密宗だけを修めなければなりません。しかも密宗の中でも混ぜて修めてはいけません。紅教なら紅教、白教なら白教というように、決して混ぜてはいけません。修煉はもっとも厳粛で、もっとも厳粛なことです。人類にはこれより厳粛なことはありません。それはもっとも偉大で、そのため厳粛に対処しなければなりません。もちろん、私はあなたにどうしても法輪功を学ばなければならないといっているのではありません。あなたが佛教の中のどれかの門で円満できると思うなら、それを学んでください。しかし私があなたにはっきり説明しなければ、あなたに責任を負っていないことになります。あなたは縁があってここに座っているので、私はあなたに教えます。宗教は末法の時期になり、出家した人も修めることが非常に難しくなっています。出家した人たちに、「あなたは円満できますか?」と聞いてみてください。私は何でも知っています。世間の出家した人たちは、全世界を含めて、世間法を超えて初果羅漢に達することができるのはわずか数人だけです。しかも一つの足は門の中にあり、もう一つは門の外にあります。そして副元神が修煉している人たちです。実は、彼らも皆佛が来るのを待っています。あなたは彼らに済度してほしいと頼みますが、どこに済度してくれるのでしょうか? 彼は羅漢で、彼も修めて佛の世界へ行くことしかできず、そのうえ佛が彼を受け入れるかどうかは佛の判断であり、彼はあなたをどこに済度できるのでしょうか?

弟子:先生は高い次元では完全に自動的に煉功できるとおっしゃいましたが、どういうことですか?

師:中国で気功が現れたばかりのころは、気功では円満することができないという人がいましたが、これは当時伝えられていた気功が全て病を取り除いて身体を健康にする次元のものだったからです。私は先ほどあることを言いました。実は気功は私が法輪大法を伝える準備のためのもので、気功が伝えられなければ私が今日大法を伝えることは非常に難しくなります。私は最も厳しい社会でこれを伝えだすことができたので、将来歴史上、どの社会で伝えても問題はないはずです。

 気功は有為の法で、釈迦牟尼は有為の法は夢幻であり、水の泡に映る影のように円満できないと話した、という人がいます。実はこう言う人は自分でも有為が何なのか分かっていません。彼らは煉功の動作そのものが有為だといいますが、道家の功の多くは動作があるにもかかわらず、修めればかなり高い次元の大道になることができます。先天の大道を修めて多くが普通の神佛よりも高い次元に達しており、動作があると有為ということではありません。密宗も手印を結び、漢民族地域の和尚も異なる手印を結び、結跏趺坐や半跏趺坐をします。これらは動作ではないでしょうか? 有為や無為は動作の多少によって決められるのでしょうか? 「有為」とはそういう意味ではありません。「有為」とは人が修煉の中で執着を放下せず、人の形式にこだわり、方法や技能や法術を探し求めて、それによって向上できると思い、執着心を取り除くことを根本とせず、小手先の技を求めて有為なことをすることなのです。出家した人は金儲けを求めたり、多くの廟を建てたり、社会で福祉をしたり、政治に参与したりする、このようなことこそ有為なのです。これらのために修めることこそ夢幻や水の泡に映る影で、自分の修行に迷い失い、これで円満できるのでしょうか? 佛のためにどれだけ多くの廟を建てたからといって、佛の次元に上がってもらう、ということはありません。あなたのこの常人の心を取り除かなければ、神の境地に上がれたとしても、あなた自身がそこにいるだけの勇気はありません。神聖で厳粛で清浄無比な神佛と比べ、あなたは恥じ入り、穴があったら入りたいと思うでしょう。あなたの思想境地とあまりにもかけ離れているため、自分がここにいるべきではないと気づき、自分自身で降りてくるでしょう。動作は有為ではなく、人の執着こそが真の有為なのです。

 私は、修煉の中での思想活動も問題を起こしやすいので、できるだけ念を動かさず、有為にならないようにすべきだといいました。いかなる物体もほかの空間では生きており、生命があります。私があなたに植え付けた修煉の機制を、あなたは煉功の中で強化しており、それがある程度強化されると、自動的に動き出します。将来煉功するときには毎回九回繰り返してそれをさらに強化し、最終的には、回数を数えることなくただ煉功すれば九回目を終えると自分で法輪を押し回して、自動的に結印になります。回数を数えなくてもすむようになります。

弟子:全ての人は自分が世間法を突破したと知ることができますか?

師:一部の人は根基が非常に良いので、彼らが先天の場所に戻れるように、何も彼らに教えません。少しでも教えると、彼らの道を壊し、彼らが元の位置に戻れなくなります。そのため、個人の異なる状況によって決めなければなりません。時に知ることができます。僅かな人は知ることができます。

弟子:将来には寺院で修煉する専修弟子も常人の中で行脚するとおっしゃいましたが、この「将来」とは、今回の人類なのか、それともその前ですか?

師:出家した人は常人とは違います。私は彼らがほかの大法弟子と同じようにさらに高い果位に達することができるように、さらに大きな威徳を成就できる環境を与えます。

弟子:法身が保護してくれているかどうか、そして身体に法輪があるかどうかはどうして分かりますか?

師:法輪は、敏感な人は感じることができ、そうでない人は感じません。誰もが感じられるのではなく、法輪が回るのを感じられる人でも、その法輪がその人の身体で安定すると容易には感じられなくなります。心臓の拍動のように、手で触れなければ心臓が動いているとは感じません。それがあなたの身体の一部になるとあなたはそれを感じられなくなります。しかし初めから何も感じない人もいますが、これは身体が敏感でないからで、別に問題ありません。人の身体の状況は非常に複雑で、一人ひとり違います。

弟子:もしも一人の若い人が円満してすぐに天国に行なったならば、彼は彼の父母や子供に対して責任を負えなくなり、それでは他人に困難を残したことになるのではないでしょうか?

師:あなたはまだ円満していないので、それほど高い思想を持たず、常人の思想でこの問題を見ています。人はあのような境地に達したとき、あらゆるものに対する認識が変わっています。そして修煉中の威徳で周囲の状況も変えています。実は、人はそれぞれ自分の運命があり、誰もほかの人の運命を左右することはできません。どうしても自分の後世の人を幸せにしたいという人がいますが、後世の人に福がなければ、どれだけの財産を残しても、全てむだに使われてしまい、或いは火事で焼きつくされたり、紛失したり、盗まれたりしてしまいます。福があれば、その財産は継承することができます。人は各自運命があり、誰も他人を左右することはできません。あなたの身内も、この世ではあなたの身内であっても、来世では他人の身内になるかもしれず、前世でも他人の身内だったのかもしれません。人は各自運命を持っているため、誰をどうしようとしても、どうしようもありません。人の生命は人によって按排されるのではなく、神によって按排されているからです。あなたが彼らに苦痛を残すか残さないかの問題でもありません。これらの問題にはすでに按排があります。これらの事はあなたが思うようなものとは違うのです。その境地にいなければ、問題を見るときも全て常人の考えになるのです。実は、修煉して神佛になるとはなんという威徳でしょうか。その後の事は修煉の過程ですでに按排されています。

弟子:煉功の際に頭が揺れます。

師:これはすべて良い現象です。脈を通すとき、頭部がエネルギーの流れに押されて揺れることがあります。実は、煉功の中で現れる現象は多く、何万種類もあります。どんな状態が現れても正しくそれに対処してください。修煉の道ではあらゆるところに修煉者の悟性に対する試練があります。功の中には多くの成分があり、人の表面でもっとも敏感なのが電気です。初期に功の作用でどこかが動くだけで身体の不具合を感じることもあります。また、良いものを煉り出しても、病ではないかと疑い、なぜ具合が悪くなったのかと考えます。こんなようではどうやって修めていけるでしょうか? あなたは修煉者なので、それを良い現象だととらえてください。そしてそれは確かに良い現象なのです。脈を通すときはとても気持ちが悪く、局部に痛みを感じたり、身体の変化も気分が悪いと感じたりする場合もあります。ときにはたくさんの虫が身体の中を這っているように感じることがあります。脈は幾万もあり、知られている数本の脈だけでなく、縦横に交錯した脈は数多くあります。全身に電気が通ったり、冷たく感じたり、熱く感じたり、しびれたり、重くなったり、回る感じがしたり、あまりにも多くの状態があります。感覚の上では全て身体の気分が悪く感じますが、それは良いことです。それはエネルギーと身体の変化によるものです。あまりにも多くの感覚がありますが、皆さんはそれをすべて良いことだと思ってください。それは確かに良いことなのです。

弟子:覚者は大自在です。先生は大法を伝え、多くの学習者に責任を負うことができますが、いかに「大自在」を認識すればよいでしょうか?

師:あなたたちを済度するために自在とは言えません。私はあなたたちの罪を代わりに耐えています。あなたたちの業を代わって引き受けるときもあります。(拍手) 当時の釈迦佛、キリストもこのようにしました。「先生、あなたはあんなに能力があるのに、なぜ面倒なことがあるのですか?」と聞く人がいますが、実は面倒なことは皆あなたたちのことです。たとえば、ある学習者のために業を取り除き、残りの少しの面倒なことをその人自身に耐えさせようとするのですが、やはり耐えることができません。このような小さな面倒なことに耐えられないからといってその人を台無しにさせるわけにもいかないので、私が代わりに耐えるのです。このようにして面倒なことは私のところにやってきます。

 人を済度するのは非常に難しく苦しいものです。私はキリストがなぜ十字架に磔にされたのかを知っており、釈迦牟尼がなぜやむを得ず涅槃したのか、そしてなぜ老子が急いで『五千言』を書き残して去っていったのかも知っています。正法を伝えるのはあまりにも難しいのです。正しくないものを伝えるならば、誰もそれを気にかけず、悪事をしたあとで自分が地獄に落とされて破滅するだけです。自分で自分を害しているからです。

弟子:高い次元の天魔はどのようにして高い次元や低い次元の覚者を認知しますか。誰がこれらの天魔を制御しますか?

師:神はさらに高い次元の神に管理され、高い次元の神はさらに高い神に管理されています。魔は宇宙の正と負の生命の表現であり、高い次元では低い次元のような認識ではありません。羅漢の次元に達したとき、人間のあらゆる考えはなくなっています。人は亡くなった後に自分の身体(肉体)から出てくるとき、一生に行なったこと、三歳のときに行なったことでさえも、一分前に行なったばかりの事のように一つ一つ目の前に現れます。この空間と時間を離れると違った空間、時間になります。そこでは全てが行なったばかりのようで、そのとき、一生のうちに行なった正しいことや間違ったこと、全てを知ることになり、そのときになって初めて後悔します。そのときに人の抑制された部分の思想が開放されますが、佛の智慧とは異なります。佛にはさらに大きな能力があります。

弟子:いかに師父の法身を供養すればいいのでしょうか?

師:法身は即ち私です。佛教を信じる多くの人は焼香したり、念佛したり、叩頭したり、経を唱えたり、毎日拝んだり、儀式も非常に盛大に行なうのですが、儀式を終えると再びわがままで好き勝手になるのでは、何の意味もありません。人間はすでにどのように佛に対して敬慕の念を表すか分からなくなりました。一人の修煉者として修煉の中で苦を楽とし、自分の全ての執着を取り除き、慈悲を持って向上し、修煉の中で絶えず精進しているならば、どんな儀式を行なうよりも私は嬉しいのです。私はこの法を伝えるとき、人に対しほかに要求はなく、ただあなたが法を得て、その常人の心を取り除き、最終的にあなたを済度することだけが目的です。

 もちろん、佛の法身も食物を必要とします。人が話すように、佛は何も食べないということではありません。佛は食物を食べないと言う人がいますが、その人が本当に知っているにせよ、知らないにせよ、この言葉は間違ってはいません。佛は人間の食物は食べません。しかし彼らは彼らの境地の中の食物を食べます。神は食物を食べなくても飢え死にすることはありませんが、餓えて痩せてしまいます。そのため、彼らも食物が必要なのです。しかし、表面の物質ではなくさらに微小な粒子で構成された物体です。焼香にも実質的な意味があります。今の和尚になぜ焼香をするのか聞くと、佛を敬うことだと答えます。なぜ佛を敬うために焼香するのでしょうか? ほかの事を行なってはできないのでしょうか? 実は、焼香で出てくる煙も物質で、それを構成する物質も表面の物体だけではなく、煙にもほかの物質体があります。神佛はこれらを演化して弟子を加持するのです。

弟子:法身と化身?

師:私は化身について話したことはありません。釈迦牟尼佛の話した多くのことは正しいのですが、佛教の中で話している多くのことは釈迦牟尼佛のもとの言葉と意味ではなくなっています。佛教の経書は釈迦牟尼佛が世を去って五百年後に整理されて出来上がりました。五百年、皆さん考えてみてください。現在でいうと、五百年前にはアメリカはまだありませんでした。五百年前に誰かが何かを話したのを、今になって初めてそれを整理してだす場合、これは当時とどれだけの差異があるでしょうか。環境、時間、地点、その言葉の話された状況など、差異が非常に大きくなります。私が伝える法は佛教ではなく、化身を話したことはありません。私はただ法身について話しました。私は現在の人の思惟と現在の人類の文化に結びつけて話したのです。

弟子:アインシュタインが光速は一定だと話しましたが、これはほかの空間にも適用できますか?

師:アインシュタインが認識したこの理は人類の範囲内での理で、今のところこの方面の認識は人類の最高の認識です。しかし人類の境地を超越したとき、アインシュタインの発見したものは絶対的なものではなくなることに気付くでしょう。異なる次元には異なる理と物質の表現形式があります。上へ行くほど真理に近づき、正しくなります。高い次元で振り返り下の方を見ると、下の認識は宇宙の根本的な理ではなく、あるいは根本的な理からはさらに遠いものです。真理を認識する勇気がある人は、前人が下した法則を突破する勇気がある人です。もしその法則の中に留まっていては、どのように研究しても、その法則を下した人の足跡に付いて歩むしかできません。それを突破できるなら、あなたは真理へ向かってさらに一歩近づくことになるでしょう。

 人々は今の認識を超えたときに、過去の認識は絶対的な真理ではないことに気づきます。アインシュタインは光速が最高の速度だと話しましが、みなさんに教えますが、同じ次元にいる生命の念力は光速よりも速いのです。しかも、人類のこの次元を超えたさらに高い次元では、時間の違いにより、もっとも遅い速度でも低い次元の最高の速度より速いのです。生命には次元があり、異なる次元には異なる時間と空間の形式があります。全ての衆生と物質はそれぞれの時間と空間の制限を受けます。次元が高いほどその速度は速くなり、そのため高い次元での最も遅い速度でも低い次元での光速よりも速くなるのです。佛陀の能力は人のそれよりも大きく、さらに高い次元の佛はさらに大きくなり、人類が知っている光速を遥かに超えています。

 これらを話したのは、人類には人類の次元の理と認識すべき物質世界がありますが、これはただ人の認識であり、決して宇宙の真理ではないということを皆さんに教えるためです。これらを絶対的なものと見なさないでください。それはただこの次元での認識です。釈迦牟尼はなぜ法には定法無しという言葉を話したのでしょうか? 彼は最後にまた「私は生涯、何の法も説いていない」とも話しましたが、なぜなのでしょうか? 彼は悟りを開いたとき、まだ如来の境地には達していませんでした。彼は、さらに上へ修めることを知っており、晩年にやっと非常に高い如来の次元に達しました。彼は四十九年間の伝法のなかで彼の宇宙に対する低い次元の認識から徐々に高めてきた認識を話していました。彼は、以前に話したのは最高の理ではなく、さらに向上したときには以前話したことよりも高い認識を持っているということを知っていました。そしてそれも最後の根本的な理ではなく、話したばかりのことはまた間違っていると気付きました。これは彼がまた向上したためです。釈迦牟尼佛は、彼が一生に話した法は宇宙最高の法、最高の真理ではないことを知っていたので、晩年のとき、彼は「私は生涯、何の法も説いていない」と言いました。しかし、彼はまた、異なる次元の法理は最高の理ではないが、それぞれの次元の生命が守るべき理であり、つまり、その次元の中での理である、ということを知っていました。異なる次元の理は上へ行くほど根本的な理に近づきますが、宇宙の中の神々は最終の根本的な法理を知ることはできません。そのため彼は「法には定法無し」と話したのです。

 アインシュタインが認識した道理は常人の中ではすでに最高のものです。アインシュタインがさらに研究を続けることができたなら、彼がさらに高い理を発見できたなら、彼もまた自分の以前の認識を翻すでしょう。実は、彼はすでに宗教の中にはさらに高い認識があるということに気付きました。アインシュタインはなぜ晩年に宗教を信じるようになり、宗教の門に入ったのでしょうか? 彼が宗教の中で話した理こそ真の理だということに気付いたからです。なぜ多くの科学者が最後に宗教を信じるようになったのでしょうか? しかも彼らは科学の領域で相当の実績がある人々です。これはあの絶対的な実証科学の観念から考えれば不可思議なことです。実は、あまり実績もなく、ただほかの人が下した定義の中で歩き回る人こそ有名無実の守護者なのです。真に実績がある人の思想は何らかの定義や結論によって制限されることはありません。それこそ聡明な人なのです。

弟子:煉功のときに心が静かにならないときは『転法輪』を暗誦してもいいですか?

師:はい、かまいません。初期の煉功者にとって完全に入静するのは容易ではなく、一定の期間煉功してきた人でも完全に入静するのはとても難しいことです。なぜでしょうか。皆さん考えてみてください。あなたたちは常人の中で生活し、常人の中で修煉をしています。修煉しているのはあなたたち自身であり、あなたたち自身が常人の中で生活しているからこそ、食べていくため、住まいのため、着るものや、子供を大学に行かせること、また、今日誰かが病気になったり、明日にはまた何かの急用があったりと、人の世のあらゆることがあなたの邪魔をし、あなたは考えたくなくても考えざるを得ません。修煉の中で常人の心が執着しているものを非常に淡泊に見られるようになったとき、はじめて静かになれるのです。これは常人の中で修煉することと矛盾していません。仕事や学習をしっかりすることとも矛盾していません。つまり、何事をするにも自分の得失に執着しなければ、徐々にできるようになります。初期にはできません。常人の心を淡白にして、非常に淡白になって、最後に執着しなくなったら、このとき心は自然と清浄になれます。

 入静するには、宗教の中でも方法はありません。阿弥陀佛を唱えると静まることができるという人がいますが、それは煉功の方法であり、その過程ではやはり静まることはできません。阿弥陀佛をどのように唱えるのでしょうか? 一心不乱に唱えなければなりません。阿弥陀佛という文字が目の前に現れ、何もかもが空になり、何も考えなくなるまで唱え、この境地に達して初めて真に心を静めることができます。その過程ではこの境地に達することはできません。最初から一心不乱に唱えることはできるはずがありません。初めのうちは達することができません。たとえば、ある人が口の中で阿弥陀佛を唱えていても、心では病気になった子供のことを考えたり、誰々があまりにも私をいじめることや、彼女や彼氏はどうしたのか、などということを考えたりして、しかし口ではまだ阿弥陀佛を唱えています。執着がたくさんあってどうして心を静めることができましょうか。修煉するに従って、常人の中の執着が淡白になるにつれて、あなたは自然と心を静めることができるようになるのです。しかし一時的に静まることができなくても修煉と向上の障害にはなりません。みなさん、このことを必ず覚えておいてください。しかしほかの法門で修煉するときはこのことをとても重く見ます。それは、ほかの法門では副元神を修煉しており、主元神を作用させないようにしているからです。

 ほかの法門では「識神死して、元神生ず」といって、副元神を元神として扱っています。識神とはあなた自身で、あなたの識神が死ぬとあなたは本当に死に、代わりに副元神が身体を司ることになります。私のこの法門では、修煉者が最後に完全に心を静めることができるようになっても、自分がここで煉功をしているというかすかな意識を保たなければなりません。これは執着ではありません。あなたが自分自身さえも分からなくなってしまってはどうやって修めるのでしょうか? 佛は自分さえも分からないのでしょうか? そうではありません。

弟子:法輪功を修煉している人にとって、佛教徒の友人との関係をいかにすればよいでしょうか?

師:皆さんに教えますが、今日宗教を信じている人たちを修煉者として見なさないでください。皆さんに一つの真理を教えましょう。神佛は人類の宗教形式や宗教に力を注いでいる人たちを一切認めておらず、真に修めている人だけを認めます。宗教は後世の人が始めたもので、釈迦牟尼は当時宗教を創立したわけではなく、集団で修煉する形式を創立したのです。彼は、人々が執着しないように、出家して山中の森や洞窟で坐禅を組むようにしたのです。それをこのような宗教の形式にしたのは後世の人であり、社会の人がそれを宗教と呼ぶようになったのです。しかし現在の人は分からなくなり、それを一種の宗教の形式にしているのです。宗教というものを神佛は認めていません。洗礼を受けたり、受戒したりしたからといって神佛が認めるわけではありません。それは人が認めているのです。洗礼を受けたり、受戒したりすると天国に行くことができるというわけでもありません。帰依すれば佛家の人になれるということではありません。佛は人が願をかけるときの心が誠か否か、そして人が真に修めるかどうかを見るのです。佛は形式を認めません。それは宗教が認めるものです。

 佛教徒の友人に関しては、彼らを普通の人として接してください。人が何を信じようと人の勝手です。あなたたちは常人の中で修煉しているので、必ずほかの誰かに接触します。彼らにどのような信仰があっても真に修めることはできません。常人の友人として接すればいいのです。

弟子:法輪功を修煉し始めてからほかの学業は全部やりたくなくなり、ただ一心に修煉したいのです。

師:これは両面から話さなければなりません。一つは、この人は悟性が大変良く、根基が非常によいということです。法を得てすぐにこれがどういうものなのかが分かり、修煉して向上が非常に速い人です。根基が良いので、悟性に優れ、多くの心を放下することができます。生命の根本は変わっておらず、ただ表面が俗世に汚染されただけで、表面の汚染を取り除けば、すぐ佛法の真理を認識できます。もともと常人のものにあまり執着しておらず、このような人は私が先ほど話したように比較的良い人です。

 もう一つの情況は、根基が良くて、修煉の中で大法が良いと知っているのですが、まだ理性的に完全に大法の修煉に対する要求を理解できず、過去の修煉方式や出家した人の影響を受けて、こういう情況が現れることもあります。

 どんな原因であろうと、極端に走ってはいけません。私があなたに常人の中で修煉するようにと言うのは大法の修煉方式が決めたものです。しかも、大法は、修煉者がどこにいても優秀であるよう求めます。学生であればしっかりと学習し、社会の一員であればしっかりと仕事をして、同時にまた修煉者でもあるのです。

弟子:学法と煉功を始めて一年たった今でも思想業がまだあり、心の中であせっているのですが、どうすればよいでしょうか?

師:学習者はみな優れた人たちです。自分の不足を認識できるのは、つまり修煉しているのです。私はこの人が言っていることが何なのか分かります。先ほど一つの問題を話しましたが、あなたが法輪功を修煉し始めたら、私はすぐにあなたの身体を浄化し、人の表面の最大の分子でできた層、あなたの思想の部分も含めてほとんど全部浄化しました。しかしあなたが常人の中で生活でき、常人の中で修煉できるように一部分を残さなければなりません。つまり、人心がすべてなくなると人の世では生存できなくなります。人のものがなくなれば、あなたは人の世に一分もいたくなくなります。私はあなたたちが再び執着を起こさないよう、できるだけ今ある執着を放下できるようにしているのです。

 実は、もう一方から話すと、あなたのこれらの思想を完全に取り除き、よくない思想を全部取り除き、執着を直接取り去ることもできます。しかしこれはいけません。これは修煉ではありません。しかしあることを私はできます。つまり、表面からあなたを浄化して、思想をある程度まで清浄にすることができますが、修煉のために少し残さなければなりません。さらに取り除くとあなたは修煉できなくなります。あなたが常人の中で修煉できるように、私は内側の微小粒子の部分からあなたの身体を浄化し、外部の表面にはあまり多くの神通が現れないようにして、常人の中で修煉できる状態を維持します。あなたの生命のもっとも微小な部分から、内から外へと浄化し、最後にもっとも表面まで浄化し終えたとき、あなたの最後に残った少しのものも取り除かれたなら、あなたは円満になります。取り除かれていない表面のものは、最後まで修煉できるようにわざと残されたもので、あなたが常人の中での生活を維持できるようにするためです。それがなくなればあなたは本当に常人の中にいることができなくなり、常人の如何なることにも興味を感じなくなります。このような状態が現れます。そのため、最後の一歩になってその僅かなものが全部取り除かれるのです。

 これはもっとも良い方法です。あなたが常人の中で修煉できると同時に、常人の中で正常に生活できます。同時に、あなたは自分に対して厳しく要求し、常人のように強い執着心を持っていてはいけません。あなたたちはこの道を歩み、このように修煉をしているのです。みなさんに教えますが、しばらくの間、少し常人の思想や執着があっても気にしないでください。それらはわざと残されたものです。しかし、もう一つのことにも注意してください。もともとあまり修煉に精進していない人がいますが、そのような人がこれを聞いて、「そうか、これは私に残されたものか。それでは気にしなくてもいい」と思い、自分を放任し、執着をなくそうとしなくなり、自分に厳しくしなくなります。これではいけません。それは修煉をしていないことになります。

弟子:結婚はしていいのでしょうか?

師:私はあなたたちに常人の中で生活できる要素を残しました。弟子の中で若い人たちは、やはり所帯を持つように私は希望しています。将来の人類社会でみな大法を学びにきて、誰も結婚しなくなったら、この人類社会も終わり、なくなってしまいます。これはいけません。しかも、若い人は未来の人のために子孫を残さなくてはなりません。そして未来の新しい人類のために修煉の方式も残さなくてはなりません。

弟子:法輪世界はどれほど大きいのですか?

師:法輪世界は非常に大きいのです。(笑い)無量の衆生がいて、多くの佛、菩薩や羅漢がいます。

弟子:法輪功を修煉していても阿弥陀佛を唱えていいですか?

師:念佛は修煉であり、阿弥陀佛を唱えれば浄土の法門を修煉することになります。法輪功を修煉してさらに阿弥陀佛を唱えると混ぜて煉っていることになります。私はどうしても法輪大法を修めるようにと言っているのではなく、どうしても放下できないのであれば阿弥陀佛を唱えに行ってください。道理はすでにはっきりと話しました。末法の時期に宗教の中では円満するのは非常に難しくなっています。業をもって往生するという人もいますが、常人が考えるように容易なことではありません。人は自分の思想境地をかなり向上させて、主要な業力がみな取り除かれた状態で、残りの少しの執着をゆっくりと取り除くことができ、このようにして特別な状況が現れ、業をもって往生することができます。非常に汚い身体を持ったまま、この上なく清らかな天上に行って、佛の世界に行ったら、あなたをどこに置けばいいのでしょうか? そうではありませんか?

弟子:夜中に煉功するときに、魔の邪魔を感じます。夜中に煉功をしてはいけないのでしょうか?

師:あなたが真に法輪大法を修煉し、ほかのものを混ぜて煉っていないのであれば、どんなものもあなたを傷つけることはできません。新しい学習者がほかのものを混ぜて練ることがあり、そのため彼は大法のこの一門だけを修めているとは言えません。法の要求に従わず、ただ動作を練習するのは真の修煉とは言えず、問題が起こって私の名前を呼んでも私は面倒を見ることが難しいのです。先生はどうして私の面倒を見ないのか、といいますが、あなたは大法を修めていますか? 私の要求に従って修めていますか? こういう道理ではないでしょうか? 佛を修めるのは厳粛なことです。

弟子:太極拳と法輪功を一緒に煉ってもいいですか?

師:いけません。太極、形易、八卦などの拳はみな気功の要素があります。ほかの武術をするのは問題ありません。長拳、洪拳、南拳や少林などは問題ありません。しかも太極拳は完全に気功に属します。

 太極拳は今の人はどう使えばいいのか分かっていません。身体を鍛える体操としてみている人もいます。実は、太極拳は内外兼修の多くのものがあります。今の人はどう修めればいいか分からなくなりました。これは張三豊が太極拳の修煉の心法を人に残さず、動作だけを残したためです。だから後世の人は修煉できないのです。太極拳の動作はゆっくりとしていますが、そのエネルギーは表面の空間にはありません。人間の空間で人の動きがいかに速くても、太極拳の動作の速さには及びません。太極拳の動作はゆっくりしているように見えますが、それはほかの空間を通ります。皆さんが知っている古代の物語のように、神仙が普通に歩いていて、後から人が馬に乗って追いかけても追いつくことができません。常人から見ればとてもゆっくりと歩いているのですが、実はほかの空間を歩いているのです。

 人は自分の撃ち出した拳が非常に速いと感じますが、それは永遠に他の時空の速さには及びません。そのため、太極拳の拳や掌の動きは非常に遅く見えますが、あなたの動作がいくら速くてもそれにはかないません。その拳はとっくに届いています。ただ今の人はこのようなレベルに達していないのです。しかもその掌には功能があり、このような功能は人には耐えられません。武術は映画の中ではきれいに戦っていますが、なぜ実戦の場合では動作がでたらめで、むやみに撃ったり蹴ったりするだけで武術の功夫が見えないのでしょうか? なぜきれいな武術の技量がないのでしょうか? それは功夫がないからです。もし功夫があるとしたら、人はそれをよけなければ耐えられません。技量を使わなければ防御できないのです。今の武術にきれいな技が見られないのは内外の功夫がないからです。

 太極拳はほかの空間に入ることができ、すでに修煉の中にあるので、完全に気功に属します。太極拳を煉る人は体の変化とともに、思想の境地も向上して、初めてものを煉り出すことができます。修めて成就した道は比べものにならないほど神聖で、人が想像するようなことではありません。現在の人は今の堕落した観念の中で古人のことを考えていますが、古人はそうではありません。

弟子:法輪は時計回り、逆時計回りだけでなく、斜めに回ったり、横になって回ったりすることもありますか?

師:そうです。法輪はあなたの身体の状況に応じて適切にあなたの身体を調整します。このように回ったり、あのように回ったりしてあなたの身体を調整します。初期に身体を調整するとき、法輪は任意に回り、回転の速さも変わります。身体の調整を終えると、法輪は下腹部に安定し、時計回りに九回、逆時計回りに九回まわる正常な回転になります。

弟子:息子は私が煉功することに反対します。

師:一部の人に家の人が反対する情況は確かにあります。やはりあなた次第です。修煉を始めると試練があるもので、魔があなたの息子を利用してあなたの邪魔をしている可能性もあります。あなたが真に大法の修煉に入り、真に修めることができれば、私はそれを処理することができます。試練の中で私はあなたがどのように考えているのか、まだ修煉をしたいのかどうかを見ます。佛を修めるのは厳粛なことであり、意志がしっかりしていなければなりません。

弟子:坐禅するときは、できれば結跏趺坐がいいでしょうか?

師:最後には結跏趺坐できるようになってください。あせらず煉ってください。皆できるようになります。中国で八十歳を超えるお年寄りでも徐々にできるようになりました。大丈夫です。あなたが煉りさえすれば、やがて出来るようになります。誰でも初めから出来るわけではなく、無理やり組もうとしてもいけません。半跏趺坐もできないのであれば、あぐらにしても構いません。あぐらでも出来なければ、膝が少し高くなってもかまいません。座っているうちに膝は徐々に下がってきます。毎回少しずつ下がってきて、最後に完全に下がれば半跏趺坐ができるようになります。半跏趺坐の初めに膝が高く上がりますが、問題ありません。毎回煉功するたびに、膝は少しずつ下がってきて、毎回下がってきます。膝が完全に下がり、半跏趺坐で両足が完全に水平になれば結跏趺坐をしてください。足が平らになって、もう一方の足を上に持ち上げることができれば結跏趺坐ができるようになります。

弟子:なぜ混血児はかわいそうなのですか? この世では中国人でも、次の世では外国人になることもあり、地球上の人種、元神は多くの種族があるのではないですか?

師:転生は元神が転生するもので、混血されたのは肉体です。異なる神が自分たちの異なる人を造り、歴史の中で常に自分が造った人を管理し続けてきました。白人は白人であり、黒人は黒人であり、黄色人種は黄色人種です。世界のいかなる民族も天に対応している人種です。混血後は天の神と対応しなくなり、人を創造する神はその人の面倒を見なくなります。これらの人にとってはとてもかわいそうなことです。それではどうしたらいいのかと聞く人がいますが、皆さんは心配しないでください。私が話したのは人の表面の状況です。人の元神は混じっていないため、修煉したいのであれば私はあなたを修煉させることができます。最後まで修煉できれば同様に円満でき、ほかの人と区別はありません。修煉に問題はありません。

 常人がこのような状況であればとてもかわいそうに生きることになります。このような状況が集中している地域では、上の神が認めないので、一般的にはその地域の人たちは暮らしが貧しく、生活が困難です。

弟子:外国で学校に行っている中国の子供は西側の教育を受けています。修煉の中で彼らは外国語で『転法輪』を理解しています。黄色人種に対応する世界へ行くことができるでしょうか?

師:元神が来た場所へ帰ることができます。表面の身体には影響されません。よく修めることができれば同じように円満できます。しかし中国語の表面の意味は理解しにくく、表面の違いは解決できません。しかし修煉の中で人類の内涵を超越したので影響を受けません。

弟子:人の脳は非常に発達しているにも関わらず、なぜ動物に制御されるのでしょうか?

師:人の脳は少しも発達していません。人が自分で発達していると思っているのであり、しかも人も自分で脳の七割以上は使えないということを知っています。実は神によって閉ざされているのです。いかなる生物でも、いったん霊気を得たら、この次元を超えてほかの生命を制御できるようになります。天理は許さないことですが、人が悪いことをしてそれらの望みに符合したら、つまり自分でそれらを求めていることになり、それらはこれを理由にして人を制御できるのです。

弟子:功と法の関係はどのように理解すればいいですか? 法輪功の向上と法理はどのような関係ですか?

師:これらはすでに『転法輪』の中にはっきりと書いてあります。この問題は話せば非常に大きくなるので、簡単に話します。政治理論を専門とする人は、物質が第一かそれとも精神が第一かということで常にこの種のイデオロギーの論争が行なわれてきました。皆さんに教えますが、物質と精神は同一のものです。功は法であり、法は功でもあり、精神はそれ自身が物質です。修煉者の心性の向上には基準があり、表面上も尺度があります。心性が向上すれば功も伸びます。功はあなたの頭上で功柱を形成し、功柱の表面には尺度が刻まれており、それが心性の高さの基準です。心性が高ければ尺度が上がり、それが上がれば功も伸びます。功の演化も非常に速いのです。ただあなたの心性が向上するかしないか、心性が向上すれば功が上がります。そのため心性の高さはこの功の高さであることは絶対の真理で、どの法門でも同じで、ただ小道の修煉はこれが分かっていません。

 西側の宗教は功を講じません。釈迦牟尼が法を伝えたときも功のことは話さず、道だけが功を話しました。わたしが話したのは佛、道、神全てを含んでいます。もとより全ての神、全ての法はみな宇宙の根本的な法から悟ったものです。法を話す中でわたしはできる限りあなたに理解できるようにして、あなたが理解できる言葉を使っています。西側の宗教は修煉ではなく、東方の宗教は坐禅するので修煉だという人がいます。西側の宗教は修煉ではないのでしょうか? 西側の宗教も修煉です。イエスは、彼を信じさえすれば天国に行くことができると話しましたが、どういう意味なのでしょうか? イエスはいつも表面のことを話し、人にどのように行なうのかを教えています。これは西側の文化と同じで、内在の意味を講じず、行なえばよいということです。現在の人はイエスが説いた、信じるということがどういうことなのか分かっていません。イエスは、私を信じさえすれば天国に行くことができると話しました。実は、信じるということは、イエスの話した通りに行なって初めて真に信じているといえます。イエスの話した通りに行なわない人は真に信じているといえるでしょうか? 人は教会で礼拝を行い、食事の前にも「アーメン」と唱えますが、常人社会に戻れば悪いことばかりをしているのは、イエスを信じているといえるでしょうか? イエスが話したことはただ「私を信じれば天国に行くことができる」ということだけでしょうか? なぜ彼はあれほど多くの人としての道理を話したのでしょうか? 彼の言うとおりに行なえば天国に行くことができるということなのではないでしょうか? 「信じる」というのは概括的な言葉で、自分を修めて向上させないままで天国に入れるのでしょうか? 時間どおりに礼拝すれば天国へ行くことができ、口の中で常に神の名前を唱えていれば神を信じたということになるのでしょうか? 時間を待つだけで天国に行くことができるのでしょうか? それではいけません。

 あなたが懺悔をする目的はなんですか? 懺悔は自分の間違いを知り、さらに良く行なおうとするもので、懺悔をしながら悪いことをするということではありません。今日殺人をして、寛大に見てもらい、明日にまた殺人を犯して許しを求めるとしたら、誰が許してくれるでしょうか? こういう道理ではないでしょうか? あなたが悪いことをして懺悔をし、後に再び行なわず、真にそれをしなくなり、あるいは自分に良くない心があるのを見つけ、懺悔の中でイエスに対して「イエスさま、私をお助けください。私には良くない考えがありました」と言って、それから普段良く行なうならば、これはまさに人の心性を向上させているのではないでしょうか? まさに自分を修煉しているのではないでしょうか? イエスは功を話したことはありません。修は己にありて、功は師にありなのです。私はあなたたちが身体も修め、身体を変化させるため、功に重点を置いて話しました。イエスが功について話さなかったのは、知る必要がないためです。ただ自分の心を修めれば、功はイエスが面倒を見てくれます。そのため彼は功については話さなかったのです。修煉は人の良くない思想と行為を修めて取り除くことです。境地が向上すれば、師父はあなたの功を演化する、という道理です。

弟子:釈迦佛は数億万年前に得道しましたが、生命が生まれるときに全てが「真・善・忍」に同化しているのではありませんか、どうして得道する必要がありますか?

師:天上の衆生は全て果位を持っているわけではなく、全てが佛ではありません。全ての生命は宇宙の大法が造りだし、大法が創造したもので、宇宙の中で生まれたのです。しかしこれは得道することとは同じ概念ではありません。得道とは自分の果位を実証して悟ることです。釈迦は佛であり、非常によい佛です。しかし私のところで修めるのは釈教ではありません。あなたはこの法についてまだ真に認識していません。皆さんに教えますが、「真・善・忍」は全宇宙の法理で、全宇宙を創造する根本であり、つまり全ての最も原始的な神、および宇宙の全過程の全ての神を創造する根本なのです。釈迦牟尼佛ももちろんその中に含まれています。宇宙も成、住、壊、滅の過程があります。釈迦佛はもっとも原始的な神ではなく、宇宙の中の全ての生霊は壊滅へと向かいます。三界に近い衆生が世に下って新たに修煉するのはその範囲の生命を純浄にする方法です。釈迦牟尼の話した理は彼がその次元で「真・善・忍」から悟った如来の法です。全ての如来は宇宙の真の根本的な法を話すことはできません。これは宇宙の根本の大法が宇宙を超越し、宇宙の全ての生命を超越しているためです。衆神はそれぞれの次元で自分の認識を悟り出すしかできず、それは彼の一門のものです。それぞれの神は人を済度する際、自分より低い次元の衆生にしか成就させることができません。しかし大法は根本的な大道であり、最も早く最も簡単に修めることができ、それほど多くの要求もありません。法はピラミッドのように、辺縁では低く、その次元の神はその高さしか理解できず、済度される者もその次元でしか円満できません。如来がその次元で円満すれば、それぐらいしか悟ることができず、弟子にも自分の一門のことだけを話します。それぞれの佛はそれぞれのものを悟っていますが、全ては真・善・忍の大法の法理の中で宇宙の真・善・忍の根本的な大法を理解しています。彼らはさらに高い次元の神佛の加持を得て、正しく修め正しく悟り、理解できた分だけ知ることができて、それにより自分の修煉したものを形成し、その次元の法に同化します。

弟子:坐禅するときになぜ頭が先生の法像へ向くのでしょうか?

師:あなたの分かっている一面が私を見ているからです。私の法身があなたを諭すときもあり、そのときは異なる方法を使います。あることをしたときにそれをうまく行なえたかどうか、正しく処理できたかどうか知りたいときは、本の中の私の写真、またほかの私の写真を見てください。天目が開いているか否かに関わらず、あなたが何か間違ったことをした場合、私はとても厳しい顔をしていますが、正しく行なえたのであれば私はあなたに向かって笑っています。(拍手)

弟子:先生の説法を聴いているとき、とても正しく素晴らしいと思い、時にはまるで自分の心を指して話されているように感じますが、終わってから、先生の話されたことを全部覚えることができなかったことに気づきますが、どうしたらよいでしょうか?

師:実際、私の説法を聴く場合、皆このような状態があります。私はたくさん法を話しましたが、あなたがそれを全部はっきり覚えるのは不可能です。大丈夫です。修煉の中で問題にぶつかったとき、あなたは自分を修煉者として正しく対応できれば、私の話したことを思い出すことができます。きっとそうなります。もしその時、あなたが腹を立てて頭が混乱して冷静でなければ、思い出すことができず、つまりしっかり修煉できていないということです。しかし、一般の情況下では私の説いた法を思い出すことができるでしょう。もしその人がもう修煉できなくなったら、彼は永遠に私の説いた法を思い出すことができなくなります。私はくり返し強調しましたが、この法は常人に聞かせるものではありません。ここに座っている皆さんは、みな縁があり、そうでなければ、あなたはここには入れません。

弟子:他人に見捨てられた小動物を飼うのは業を造りますか?

師:これは業を造ることはありません。常人にとっては良いことを行なっているのですが、過去の佛教では殺さない、飼わないとしていました。殺さない、飼わないのには訳があります。「殺さない」というのは、修煉者はみな分かっていますが、「飼わない」ことには二つの理由があります。一つは修煉の際にこれらの動物は霊気を得やすいということです。霊気を得ると、多くの悪いことをするかもしれません。中国で古くから言われている言葉でいうと、「精霊に成る」ということです。動物自身は修煉することが許されていません。二つ目の理由はこれらを飼うのはとても面倒なことで、心を分散します。そのことを考えるのも執着で、修煉に影響します。もちろん修煉者にとって動物好きは一種の執着でもあります。

 皆さんにある物語を教えましょう。皆さんご存知のように、釈迦牟尼はバラモン教にもっとも反対し、邪道に変わった宗教だと言いました。バラモン教と釈迦牟尼の佛教はもっとも対立していました。実は、釈迦牟尼が反対したのはバラモン教であり、バラモンの神ではありません。しかもバラモン教がもっとも原始の時期に信じていた神はみな佛であり、釈迦よりもさらに早期の佛です。しかし長い時間がたち、人は佛に対する正信を放棄し、この宗教を邪なものに変え、さらには殺生をして佛を祀るようになりました。最後には信奉していた神も佛の形ではなくなり、怪物の形をした妖魔鬼怪を信奉し始めました。人が宗教を邪なものに変えたのです。もし佛教がこのように発展していくのなら、釈迦牟尼もそれを認めなくなります。それでは皆さん考えてみてください、暫らく年月が経ってから、そのときの修煉者が振り返って歴史の過去のこの宗教を見ると、それは邪なものではないでしょうか? 同じことです。人が宗教を邪なものにしたのであり、神は邪なものではありません。

 遠い昔のインドで、修煉に非常に精進していた一人のバラモンの弟子がいました。彼は山の中で独修をしていました。ある日、一人の猟師が一匹の鹿を追って、その鹿を撃って傷つけました。この鹿がこの弟子のところに逃げてきて、彼は鹿を隠して保護しました。彼は山の中で一人でとても寂しく、この鹿を飼い始めました。人は執着心に注意しなければ大変なことになります。常人の憐憫の心や人心の情に対する執着は全てこの小鹿に注がれ、後に彼はこの鹿に対してとても執着するようになりました。最後にはこの鹿は彼のもっとも親密な仲間となり、その結果彼は全ての精力をこの鹿に注ぎ、坐禅を組むときにも思想を静められなくなり、鹿に何を食べさせようかと考えるようになり、精進することを緩めてしまいました。

 数年が経ち、この鹿はある日突然死んでしまいました。彼はとても苦痛に思い、いつもこの鹿を想うようになり、さらに精進できなくなりました。このとき彼の年齢はすでにかなり高くなっていました。修煉者でなければ生命は延長できず、彼はもう修煉できなくなったので、彼の生命も終わってしまいました。彼は生命が終わるときになっても修めていた佛法のことを考えずに、あの鹿のことを考えており、このために彼は死後一匹の鹿に転生しました。人が死ぬ間際に執着して何かを考えると、その人はその考えているものに転生することがあります。そのため彼は一匹の鹿に転生したのです。これはとても悲しいことです。一人の修煉者が、とてもよく修煉していたのに、最後に駄目になってしまいました。修煉者はできるならやはり動物に執着しないほうがいいのです。

弟子:焦る時、他人に対して我慢できなくなった場合どうすればよいでしょうか?

師:我慢できないことも質問になりますか? 我慢できなくても我慢しなければなりません。修煉者としては慈悲でなければなりません! 先ほど話したように、あなたは自分の敵を愛することができなければ修煉して成就することができず、佛になることができません。皆さん考えてみてください、誰かがあなたに対してよくないことをしたときは、それはあなたが前世でその人に借りがあった可能性がありませんか? その人に償いをしなくてもいいのですか? 当時あなたがその人に対して行なったことは、もしかするとその人が今あなたに対して行なっていることよりも悪いことかもしれません。その人にもたらされた苦痛はあなたのよりも大きいかも知れません! 修煉の中でトラブルが起こるとき、偶然にみえます。誰かがあなたを怒らせたとき、あなたも以前偶然にその人を怒らせました。トラブルが発生する前にあなたに教えるわけはありません。あなたが前世私を怒らせたから、この世で私もあなたを怒らせると教えるようなことはありません。多くのことは偶然にみえますが、偶然ではありません。

 もしあなたが以前このようなことがなかったとしても、修煉者として向上させるために、あなたにこのような環境を作り出さなければなりません。あなたにとってこのトラブルがなくてはいけません。私もまたこのトラブルを利用してあなたの心性を向上させます。心性が向上すると同時にあなた自身の功も伸びます。心性が向上しているからです。誰かがあなたにトラブルをもたらしたとき、彼はあなたに徳を与えています。あなたは苦痛の中で自分の業力も徳に転化しています。あなたは一挙四得となりました。あなたはその人に感謝すべきですが、かえってその人を恨み、その人に対して我慢できず、それは間違っています。またある人はこう考えます。師父が私に耐えろといったので、私は怒りを抑えてみましょう。しかし時間が長くなると、あなたは「先生、私は抑えて抑えて、大変苦しいのです」と言うでしょう。私が見るところ、それは忍ではありません。真の修煉者は少しも怒ることはありません。どれだけ大きなことでも心は動じません。これこそ修煉者です。なぜ苦しくなるまで抑える必要がありますか? また面子を気にして我慢する人がいますが、これも本当の忍ではありません。しかし修煉している人は、今の段階で要求に達することができなければ、やはり少し抑えて我慢したほうがよいでしょう。

弟子:多くの大気功師は若い師父であり、多くの門派の師父が功を伝えています?

師:多くの人が功を伝えるのは天象がもたらしたことで、目的があります。しかし皆さんに教えますが、多くの気功師は自分で自称しているだけで、実は気功師ではなく、偽者です。多くの人は動物の憑き物やほかのでたらめなものによってもたらされたものです。世間の小道も多くの師父が伝えていますが、話したのはその次元の理です。このほかにも山の中で修煉する人がいて、私が接触した人の中には四千年あまりも修煉している人もいます。彼らはなぜこんなに長い間修煉するのでしょうか? 彼らの次元が足りず天に上がれないわけではありません。彼らの中には三界を遥かに超えている人もいますが、上に行くことができないのです。彼らが上に行くことは許されません。彼らを受け入れる世界がないためです。彼らはなぜ功が伸びるのですか? これもこの層の法理によって決定されたことです。しかしそれらの世間の小道はまた異なっており、人為的にもたらされた場合もあります。初めは一つの門だけを修め、道家または佛家で修め、修めているうちに彼はとてもいいと思いますが、他の人からこれを修めに来ないかと誘われると、彼はそれを学びにいきました。そうすると彼の功は乱れてしまいました。もともと上のほうで師父が彼の面倒を見ていたのですが、この人がこうしているのをみて、上の師父はこの人を見捨ててしまいます。上に受け入れられないので、彼は三界を出ることができなくなりました。三界以外の生命は三界に入ることが許されず、三界以内の生命は三界を出ることも許されません。いくら高く修めても上から迎えに来なければ出ることができません。彼は混ぜて修めたため、その功は乱れ、三界に留まることしかできません。これは世間の小道の修煉で正果を得られない一つの原因です。そのため私は不二法門も非常に厳粛な問題だと話しました。

 本を読んだことのある人で、先生、あなたは道家の師父と佛家の師父から伝えられたのではないですか、と聞く人がいます。皆さんに教えますが、私が行なうことは違います。私は宇宙の法を話しています。私は佛家の法や道家の法、またはどれかの具体的な一門の法を話しているのではなく、宇宙の根本の大法を伝えているのです。だから私はいつもそれを大法、大法と呼んでおり、これは宇宙の根本の法なのです。宇宙の中の全ての法門はこれに含まれています。皆さんに教えますが、私の今世の師父である佛、道、神はみな数世前に私が彼らに伝えたもので、目的は彼らがこのときになって私が大法を伝えるときに私に伝え返し、私の記憶を開いて、そしてあなたたちに伝えるためです。(拍手) 常人社会の中で起こる全てのことは偶然ではありません。大法を伝えるというのはこれほど大きなことであり、将来には学ぶ人はさらに多くなります。そのため宇宙の各種の正しくない要素の邪魔および三界内での大法を伝える邪魔をするもの、またこれらのむちゃくちゃな霊気を得た動物および低い霊が撹乱して邪魔をすることも偶然ではありません。

弟子:私たちのこの次元では本物と偽者の気功師を区別することができません。今後どのように対処すればよいでしょうか?

師:あなたが今本物と偽者の気功師を区別しようとする目的は何ですか? あなたは今やはりほかの講習会に参加したいのですか? そうでなければなぜ区別する必要があるでしょうか?(拍手) 私が考えるには、気功の講習会に参加したことのない人がおり、その人たちは私が話したことを聞いて、修煉はこんなに博大で奥深いものなのかと思い、ほかの気功師が話すことも聞いて、多くの知識を手に入れようとするのだと思います。このように考えるのは間違いです。私が話すのは大法であり、ほかのところではこれを聞くことはできません。不二法門は非常に厳粛な問題です。

 また、これらのことを知識にして、あるいはほかの法門に参加したなら、私が話した法をあなたはたぶん一言も思い出さないでしょう。修煉は厳粛なことです。本物と偽者の気功師をあなたは見分けることができません。彼らの表現は金を騙し取ることです。表面上は善を話す人もいますが、腹の中はお金のことを考えていることがあり、見分けるのは非常に難しいのです。

弟子:大法に対して興味を持っているが、修煉するかどうかを決めかねて、自分を修煉者として律することもできない人に対して、私たち輔導員は手伝うべきですか?

師:学習者によってはやはり認識の過程が要る人もいると思います。入門したばかりの人が、長い間修めている学習者のような高い境地に達することはできません。彼らには認識の過程を与えてください。煉功に来たければ来ればよいのです。煉功したければ教えてあげてください。徐々に彼が良いと思うようになったら『法輪功』を貸してあげて読ませ、あるいは本を買って読むようにさせてください。こうして彼がとても良いと思い、認識も高まってくれば『転法輪』を読ませ、彼自身がだんだんと深い認識を持てるようになります。もしあなたが彼に「私たちの功を煉ると薬を飲んではならない、私たちの功を煉るとすぐほかの信仰をやめなければならない、私たちの功を煉ると一気にどれくらいのレベルに到達しなければならない」と要求すれば、彼を怖がらせて追い返してしまいます。まず試しに煉功させてみて、良いと思うなら彼は自分でどのようにすべきか分かるでしょう。

 人を済度するのはとても難しいことです。その人が長期にわたり不二法門の修煉を堅持することができず、あるいは動作だけをして本を読まないのであれば、ほかの気功を練習するように勧めてあげてください。そうしなければ問題が起こり、彼に対してもよくないのです。彼がここにいてもよくない作用があります。彼がここでまじめに修めなければ私の法身も彼の面倒を見ないので、彼はただの常人です。常人は時が来れば病にかかり、法を乱す魔が彼を利用して何かをして、突然変な状態になるかもしれません。修煉は専一でなければならないことを常人は知らず、いったん問題が出ると私たちにとても大きな損害をもたらします。彼が専一に修煉し、法を学ぶことができないのであれば、離れるように勧めるか、もしくは彼の家族に話して、もう煉功しないように彼を説得してください。

弟子:私は以前学校で武術を教え、武術の教師をしていました。今は法輪大法を学び、太極拳を練習しなくなりましたが、学生に教えることができますか?

師:かまいません。しかし、修煉の要素があるもの、太極拳を含めて、全て修煉の問題に関わってきます。あなたがこの仕事で生計を立てているのなら、行なってもかまいません。学校で太極拳を教えているのなら教えても結構です。特殊な状況は特殊に処理します。このような状況でないのなら専一に修煉すべきです。しかし私は思うのですが、法輪大法を彼らに教えたらもっといいのではないでしょうか?(拍手) 中国では学校の教師が体育の時間に法輪大法を教えている人もおり、煉功した後、みな座って学生に本を読んで聞かせます。授業中これほど静かになったことはないと学生自身も話しています。

弟子:法輪は見えるほかに聞こえることもありますか?

師:法輪功を煉るとどんな功能も出ます。天耳が通じるとほかの空間の音声が聞こえる人がいます。

弟子:大法を修煉する人は結婚することができますか?

師:できます。修煉の中で私もあなたたちに自分を修めるものを残し、あなたたちが常人の中で修煉でき、常人の生活方式の状態に符合して修煉できるようにしています。また、未婚の人がみな満足いく良い相手を見つけて家庭を築くよう希望します。将来あなたたち二人とも修煉することができるなら、あなたの相手も済度されたことになります。しかしこれを基準にして、相手が修煉しなければその人と結婚しない、というようなことはしないでください。常人の状態に符合して修煉すべきです。

弟子:先生が先ほど話された仕事において努力する問題に関して、私は非常にがんばって仕事をしているのですが、上司は私のことを用いて同僚に圧力をかけており、私はとても困っています。

師:上司がどうしようとあなたとは関係ありません。もし上司があなたに他人へ圧力をかけるように指示したら、私はこれは処理しやすいと思います。あなたは円滑に自分の意思を伝えればいいのです。修煉者として私たちはほかの人を傷つけてはいけません。ただこれはあなたの責任なので、行なっても問題ありません。しかし善をもって問題を処理すべきです。会社に損失をもたらさないために、正当なことであれば、あなたも行なうべきだと思います。このような具体的なことは、全てうまく行なうことができます。しかし、絶対に修煉者の原則を越えてはいけません。悪いことをしてはいけません。

弟子:私たちアメリカでは法律でいろんなことを訴えることができますが、真・善・忍を考えると、それらをしないほうがよいと思いますが、どうでしょうか?

師:些細なことで警察を呼ぶようなことはしないでください。トラブルの中にはあなたたちの修煉や業を返すこと、そして向上することなどの要素を含んでいます。そのためトラブルが発生したとき、それが非常に深刻な脅威でなければ、あなたを傷つけることがなければ、全ては偶然なことではないでしょう。本当に人があなたを殺しに来たり、家に火をつけようとしたりしてあなたに非常に大きな傷害を与えようとするのなら、警察を呼んだり、あるいは法に則って解決してください。そうでなければ、このようにしなくてもいいと思います。

 修煉者として、個人の修煉の中で、個人の認識の向上の過程ではあなたの修煉と関係ないことは起きないようにしています。修煉後の個人の修煉での向上の道は私が細かく按排したもので、必要のないものはあなたたちには按排しません。(拍手) 法律はいくら健全でも人の心を管理することはできません。見えないところでやはり悪事が行なわれます。法律を多く制定すると人に対して害のほうが多く、多くて人もそれを覚えられません。何をしても法律に反する、というようなことも起こるかもしれません。法律を制定する人はこの法律で他人を管理しようとしているのですが、いったん制定するとその法律は法律を制定した人自身をも管理してしまいます。人はすでに自分たちのために作りあげた全てに耐えています。法律は厳しくなる一方で、人に対する制限は厳しくなる一方です。将来には動物を管理するように人を管理するでしょう。人はそのようなことを望んでいませんが、それもまた人が自分で作りだしたもので、自分でそれに耐えなければなりません。現在の人はすでに自分が自分たちのために作りあげた全てに耐えており、しかもこの全ては絶えず人類を封じ込めています。

 神は人の法律を認めません。神は、それは人が堕落し仕方がなく採った手段と見ています。神は心法と道徳のみを認めます。道徳があれば法律がなくても人は悪いことはしません。そうではないでしょうか?

弟子:上帝とは何ですか?

師:異なる民族は異なる神が造ったものです。人にとっては彼らを造った神が彼らの上帝になります。これは人の身体を指していっていることで、人の元神はまたほかの由来があります。

弟子:アメリカで修煉する法輪功と中国大陸で修煉するのとはどういう違いがありますか?

師:違いはありません。西側の国家では東方の黄色人種とは確かに各自の空間の異なる体系があり、宇宙のさらに大きな空間の中の異なる体系に対応しています。これらの異なる空間の体系は全てそれぞれの空間を構成する特殊な物質要素があり、東方の人も彼らの特殊な物質で構成された要素があります。多くの人はアメリカに来て、時差以外にも、もう一つの適応する過程があり、何となく内在的そして外在的に慣れないと感じます。これはまさに物質要素の違いと生活環境の違いによるところです。昔の人は、「所変われば品変わる」といいましたが、本当にそういうことです。これらの要素は常人にとって非常に主要なもので、東方の人の文化の内涵は西側とは異なります。たとえば中国人は数術と発音にこだわります。「八」と「発」や、「死」と「四」など、よい音を好み、悪い音を言うことを嫌います。東方のこの物質の環境の中でも確かにこのような物質要素があり、常人に対しても小さな作用があります。しかしこれは西側にはなく、西側には西側の物質環境の要素があります。たとえば、東方の人は地理方位の風水がありますが、西側の人には効きません。絶対に効きません。アメリカの白人や黒人、あるいはほかの民族のために風水の指南をしても、まったく効き目がありません。西側の人は「十三」という数字を非常に嫌います。それと彼らが星座のことを講じますが、これらは東方の人に対してはぜんぜん関係はなく、効き目もありません。そのため「十三」は東方の人に対しては何の実質的な意義もありません。空間の環境はその物質の構成成分があり、そんなに簡単ではありません。どのようなものでも、物質環境により構成された基礎がなければ成立できません。

弟子:邪魔と先生によって按排された魔難をどうすれば区別できますか?

師:私の按排自体を魔難と呼んではいけません。実は私はあなたに何かを造ったわけではなく、あなたにもともとあったものを利用して按排しています。あなたにもともとあった業力の一部を取り除き、残りの少しを心性を向上させるために乗り越える関として使い、あなたの修煉の過程の適当な位置に置きます。そのときになって向上すべきときになれば関を乗り越えるために使います。そのためあなたがトラブルにあったときには正しく認識すべきです。これは私があなたに按排したもので、真の修煉者のようにできさえすれば乗り越えられます。

弟子:先生が私たちに行なってほしいことと、行なってはいけないことをどのようにしたら分かりますか?

師:法を学びさえすれば、行なうべきこと、行なうべきでないことは自分で分別できます。私が思うには、危ないことやよくないことであなたが行なうべきでないことをどうしても行なおうとすると、どうしてもそれが出来なくなり、さらにそれを行なおうとするとトラブルに遭います。これらのことはあなたが分別できます。自分で悟ってください。全てあなたに教えたら、どうやって修めることができるのでしょうか?

 修煉でのある笑い話をしましょう。中国のある学習者は電気技師をしていました。あるとき彼は電流が流れたままの状態で仕事をして、変圧器を修理していました。変圧器は三万ボルトもの高圧であり、人が触れると瞬時に身体は電流に貫かれ、同時に焼け焦げてしまいます。この学習者は変圧器のもう一方に回ってねじをねじ込もうとしました。そのとき彼をさえぎるものは何も見えませんでしたが、彼はどうしてもそこへ足を踏み入れることができませんでした。これは危険があることを彼に知らせ、彼を行かせないようにしていたのです。しかし彼はどうしても向こうに行こうとしました。電流が流れたまま仕事をしていたため、その結果彼は向こう側に行ってねじに触れたとたん「パッ」と感電しました。このように行なうべきでないことや危険があるときはあなたたちに教えます。普通の人であればその場で焼け焦げた一塊になるところでしたが、彼は大法を修めていたため、生命に危険はありませんでした。彼は自分が爆発したかのように感じました。身体全体が「ドカーン」と音がしたのです。彼はすぐに冷静になりましたが、ほかの人は大変驚きました。ほかの人たちは、その瞬間、「ドーン」と音がして彼の全身が大きな火だるまになったように見えました。電流は彼の手から身体に入り、足の裏に穴を開けました。そのとき彼は、私は修煉者だから大丈夫だと思い、怖がることもなく、自由に行動でき、何事もなかったかのようでした。しかしその後その電力会社の管理者が来て、彼にどうしても病院へ行き、検査するように言いました。仕方なく病院へ検査に行くと、医師も非常に驚きました。不思議なことです! これほどの高圧電流では普通焼けこげて人はとっくに死んでしまいます。電流は上から下まで足の裏に穴まで開けて、なぜ死ななかったのでしょうか? 足の裏の穴から血も出ず、穴の中は焼け焦げています。医師も非常に不思議に思いました。

 大法を修煉する人の身体は高エネルギー物質によって同化されているため、常人の電気ではたいしたことは起こりません。しかし彼のもっとも表面の部分はまだ完全に修めておらず、この層は電流に貫かれました。この層だけ感電し、身体の全体は傷害を受けませんでした。このことを話したのは皆さんに、大法を修煉する人には驚くようなことはあっても危険はないということを教えるためです。しかし誰かがこれによって執着心を起こし、わざとすべきでないことを行なうならば、本当に危険になります。

弟子:私たちはなぜアメリカで修煉するように按排されたのでしょうか?

師:アメリカの科学技術は発達しており、これらを学んで将来必要になるかもしれません。アメリカに来ているのはみな東方の優れた人たちです。(拍手)

弟子:坐禅を組むときは必ず入静しなければいけませんか?

師:あなたがただ坐禅を組む練習をするのならそれでもかまいません。人によってはどうしても足が悪くて多く練習したい人もいます。それでは坐禅のためではなく、足を組む練習をすると同時に入静できればさらによいのではないでしょうか? ただ足を組む練習をするためでもかまいません。煉功するときは入静しなければなりません。

弟子:『転法輪』を読むときに坐禅を組むと何か役に立つでしょうか?

師:役に立ちます。本を読むときに坐禅を組む利点としては、一つは坐禅を組むことをたくさん練習でき、二つ目は、それは煉功でもあるということです。これはとても良いことです。

弟子:私の友達の子供は生まれつき耳が聞こえません。法輪功を修煉することはその子にとって役に立つでしょうか?

師:その子の病気を治せるかということでしょうか? これは簡単にはいえません。病気を治すために修煉してはいけません。しかしあなたに教えますが、聾は彼の肉体であり、彼の元神は聾ではありません。人が真に修煉すれば、どんな身体でも正常になれます。修煉者には修煉者の基準もあります。ただこの病気のために来て、心の病を放下できなければよくなることはありません。佛法修煉は厳粛なものです。

弟子:夫が絶食して私が煉功することに反対します。

師:このことは実際あなたがどう対処するかの問題です。家族の人が邪魔をするのは次のようなことが考えられます。一つはあなたの信念が堅いかどうかを見るため、二つ目は修煉者の心性がどうなのかを見るため、三つ目は身内の人が業を取り除く手伝いをしている、ということです。完全に大法を受け入れられない人もきわめてまれですがいます。

弟子:先生は説法の中で神の生、老、病、死の形式に触れましたが、それについて少し話していただけますか?

師:過去の宇宙には成住壊滅があり、宇宙の中の生命は生老病死があり、ただ異なる空間で時間の長さが違いました。違いは非常に大きく、時間が長く生死がないかのようなところもあれば、短くて一瞬にして終わってしまうところもあります。成、住、壊の形式の中では、たとえば宇宙の形成の段階、安定した時期、そして衰え壊れることです。これは過去の宇宙の根本的な形式で、宇宙の中の全ての生命物質の運動の規律でした。

 質問はまだ解答し終わっていませんが、まだたくさん残っています。私が法を話し終える時間が来ており、会場ももうすぐ閉まるので、多くの人はまだ私の解答を聞きたいとは思っていますが、こうするしかありません。機会があればまたほかの都市で会えると思います。今回はこれぐらいにします。私はヒューストンの地元の学習者に非常に感謝しています。彼らの企画のおかげで私はここに座って皆さんと会う機会ができたのです。もともと決めていたのは午後の時間だけで、スタッフの人たちも退勤する時間になり、私たちもこれで終了しましょう。とても残念ですが、皆さんも別れたくありません。師に一度会わなければ安心できない人は、今回私に会ったので安心したでしょう。実はあなたが修煉しさえすれば、私は常にあなたの側にいます。

 ここに座っている全ての人がこの時機を逃さないように願っています。私の説法を聞くことのできる人は多くありません。このような機会、説法の機会は今後さらに少なくなるかもしれません。だから皆さんに私たちが今回会えたことを大切にしてほしいのです。修煉の中であなたは自分に対して責任を負わなければなりません。この法を得たので修煉を続けてください。あなたの仕事が影響されることもありません。どんなに忙しくても試しにやってみてください。私が話した通りにならなければ、あなたはしなくてもかまいません。何も失うことはないのです。良いと思うなら修煉を続けてください。佛法の真相は徐々にあなたに顕現するでしょう。

 皆さんが今回の機縁を大切にするよう願っています。今後の修煉の中でも絶えず精進し、真に修煉して、真剣に『転法輪』の本を読んでいくことを願っています。多く多く読んで、それに加えて煉功してください。そうすれば絶えず向上することができます。毎回本を読むときに異なる感受と問題を感じるでしょう。あなたたちが昇華してきたら、あなたが感じた問題は次回本を読むときに解決されます。しかしあなたは新しい問題をまた感じるようになり、さらに一遍読むと間違いなくそれも解決されるでしょう。そうするとあなたはまた新しい問題を感じるようになります。このように絶えず修煉し、絶えず前に進み、昇華するのです。

 同時に、トラブルや魔難、苦痛や辛酸に遇ったときは、私はこの言葉を中国の学習者にも話したことがあります。それが行ない難いと思っていても、試しに行なってみてください。耐え難いことだと感じていても、試しに耐えてみてください。将来皆さんが絶えず修煉して向上したときには、私たちが再び会うときには今とは違っているでしょう。皆さんが修煉の過程で絶えず向上し、円満するまで精進し続けることを願っています。修煉の中で私に会いたいと思うなら、実は私はあなたの側にいます。(拍手) 今日はここまでにします。





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