北京国際交流会での説法

李 洪 志

一九九六年十一月二日・北京


 私は皆さんの気持ちが分かっていますし、皆さんのことを心に思っています。皆さんに教えますが、あなたがよく修煉しているならば、私はいつもあなたたちの傍にいます。多くの学習者は、よく修煉できていますし、悟りを開く寸前になっている学習者が多くいます。

 最近、私は一部の学習者に次のような話をしたことがあります。つまり、この法を得るのは、そんなに容易なことではありません。自分がどこかで情報を聞いて、あるいは友達から教えられて、あるいは偶然に大法の本を見かけて、あるいは新聞から情報を得て大法を学びに来て、そして、簡単に大法を修煉する道に入ったと思っている人がいるかもしれません。見かけはとても簡単で、表面からみれば非常に容易に法を得ることができました。なぜならば、神仙からあなたに法を得るように教えてくれることはほとんどなく、多くの場合は常人のような形式で、簡単に大法のことを知ることができたからです。しかし、あなたに教えますが、あなたがこの法を得るためには、相当苦労しました。あなたが自分の前半生で苦労してきたのは、全部この法を得るためだったのかもしれません。これはあなたが知っていることです。まだ、あなたが知らないこともあります。あなたの幾つかの前世、ないし更に長い間に苦労したこと、苦難を受けたことは、全部この法を得るためだったのかもしれません。また、この法を得るために、更に大きな苦難を受けた人もいます。これはあなたが知らないことです。将来、あなたが円満成就すれば、これらのことを知ることができ、 見ることもできます。それはそんなに容易なことではありません。この法に関して、皆さんはすでによく知っています。なぜ皆さんはこのように修煉することができるのでしょうか? 皆さんがこの法は普通の法ではないことを知っているからです。昔の佛教の中で、釈迦牟尼佛はたくさんのことを悟り、人間に多くのものを残しました。しかし人間は、釈迦牟尼佛から残されたものを継承する過程で、次第に多くのものを失ってしまいました。しかも、経書の内容が、人々に改変され、変更されています。佛教の経書の中で、同じ事についても、版本が異なれば記載内容も違います。これも釈迦牟尼佛から伝えられたものが末法に入った原因の一つです。もちろん、末法の時期に入ったのは、まだ他の原因があります。

 今日のこの社会は、相当複雑になっています。これによって、人間を修煉させることはさらに難しくなりました。私が伝えたこの法は非常に大きな法であると私は言っていますが、この点は学習者がすでに察しているかも知れません。歴史の中で、本当の宇宙の法理を人間に教え、しかも、人間に如何に修煉し、如何に上まで修煉できるのかを系統的に教えた人は、誰もいませんでした。もちろん、釈迦牟尼は佛であり、彼が言ったことは、佛性を帯びています。しかし、皆さんに教えますが、釈迦牟尼佛は確かに宇宙の根本的な法を人間に伝えておらず、ですから、釈迦牟尼佛が晩年、「私は何の法も説いていない」と言い、最後に彼は弟子たちに「戒めを以って、師とせよ」と教えました。なぜそうしたのでしょうか? 釈迦牟尼佛は、最後の末法時期に現れる現象、および彼が伝えた法が乱されることを知っていたからです。彼は自分の弟子に次のことを教えました。「あなたが私の教えたこの戒律をもとに修めれば、あなたは修煉者の基準に到達でき、円満成就できます」。ですから、彼が本当に人に残したのは、戒律でした。

 もちろん、釈迦牟尼は佛であり、彼が説いた話は佛性を帯びているので、彼が説いた話が法ではないとはいえません。しかし、彼が説いた話は宇宙の根本的な大法、最高の天理ではありません。私が今日、皆さんに残したのは、この宇宙の中で常人から、最高の次元に至るまでの法を全部含んでいます。しかし、常人は『転法輪』の字面から、これらのことを読み取ることができません。なぜなら、修煉しようと思わない人は、この本を一回、目を通したら終わってしまい、読み終わった感想としては、「これが人に人としていかに生きるべきかを教える本です」。 一回目読み終わった時には、皆このような感じです。皆さんが修煉し始めた時にも、このような感じだったかもしれません。しかし、二回目読み終わった時に、あなたはこのような感じではなくなったと気がつきます。一回目読む時に感じた問題は、二回目読む時に全部解決されます。同時に、これは常人の本ではないことに気がつきますが、一体どういう本なのか、あなたは結論を出すことができないかもしれません。しかし、三回目に読むと、これは本当の修煉の本であることに気がつきます。もし、四回、五回読むことができれば、これ以後、この本はあなたに一生伴うことになり、あなたはこの本を手離せなくなります。

 なぜこういうことができるのでしょうか? わたしがすでに話したように、常人の道理を用いて修煉を指導して佛の境地まで到達することは不可能です。しかし、この本の内涵は非常に大きく、あなたは異なる次元、異なる境地において、同じ言葉であっても、感じ方や理解した内容も異なります。一般の常人の書籍の中では、絶対このような感覚はありません。なぜなら、たくさんの奥深いことがこの本の中に秘められているからです。私は皆さんに何かの神通力を見せたこともなく、人の病気を治療することも、当時の気功情況に符合して行なっただけで、そうでなければ、病気治療も行ないません。あなたが修煉しようと思うなら、あなたの身体を変化させるため、佛法神通の全てを得させるため、絶えず次元を向上させるため、さらに円満成就した後に得るべき全てを得させるために必要なものを、私は全部この法の中に溶け込ませました。あなたが学びさえすれば、あなたの身体は変わり、あなたが読みさえすれば、あなたの思想が昇華していき、あなたが修めさえすれば、異なる次元の異なる境地の状態が現われ、もし最後まで読むことができるなら、この本の指導の下であなたは円満成就できます。このような本なのです。しかし、常人はその博大な内涵を知ることができません。

 もちろん、この中にもう一つの問題があります。在席している法を得たすべての人、大法の中で修煉しているすべての人は、みなよく知っていますが、皆さんが修煉する過程ですでに体験し、悟ったように、異なる次元、異なる境地で大法の異なる次元の内涵を感じられます。このため、この法は一般の法ではなく、この法は宇宙の特性であり、私は宇宙の最も根本的なものを人に伝えたのです。もちろん、行なっていることはとても大きいので、私は再三「大法、大法」と強調しています。一部の人は、私が説いた内容が非常に多いので、大法だと呼ばれていると思っています。実際はそうではありません。私が言っている大法は、高くて奥深いものを意味しています。

 高い境地で修煉している学習者は、ある光景が見えます。つまり、人間だけが大法を学んでいるのではなく、高い境地の生命も皆この法を学んでおり、この法がとても大きいことに気がつきます。在席の皆さんは皆縁がある人なので、この法を得ることができました。私はまた同じことを言いますが、すべての人がこの法を聞くことができるのではありません。皆さんが広い公園の中で煉功している時、周りに行ったり来たりする人が多くいますが、その中に、まったく無関心の人がいれば、尋ねに来ても受け入れられない人もいます。このような人は何も得られません。すべての人が法を得られるわけではありません。本を読んだら良いと思う人がいれば、受け入れられない人もいます。人それぞれです。しかし、この中に原因もあります。先ほど私が話したように、この本は常人の本ではないからです。私はアメリカでもこのように話しました。この大法はなぜ人々が高い境地まで修煉することを指導できるのでしょうか? なぜなら、この法は低い次元から見れば、一句一句が全て道理を語っていますが、もしあなたがその中の真実の情況を見られるなら、一字一字がすべて佛の姿形であることに気づきます。もし、あなたが高いところまで修煉できて、あなたの天目も高いところまで見られるならば、あなたはある現象に気づくでしょう。つまり、一字一字の背後には数え切れない異なる次元の佛が一層一層に重なるように現れているのです。皆さん考えてみてください。これはどれほど高い内涵があるのでしょうか? どうして同じ言葉が異なる境地に異なる状態の変化があり、異なる次元の中ですべての法理に変化が生じるのでしょうか? つまり、こういうことです。ですから、皆さんは、この本を常人の本と見なさないで、必ず大切にしてください。

 昔の人は、佛のことを話す時、限りなく敬う心が生じ、非常に殊勝な状態の中で佛、菩薩、羅漢のことを語っていました。しかし、今日の人々は佛のことを語る時に、何にも気を遣わず、非常に不用意で、まるで日常の会話のようです。これは人類が神を信じないことによって起きた結果です。佛は人々に勝手に口にされるものではなく、これは佛に対して敬うかどうかの大事なことです。しかし、現在の人々は勝手に佛という言葉を使って冗談を言っており、甚だしいことに食事をする際にも佛を誹謗しています。たくさんの料理の名前にも佛を誹謗する意味があります。例えば、「羅漢斎」とか「佛跳墻」とかのような名前も使われています。これらはすべて佛を罵り、誹謗しています。甚だしいことに、これらの精進料理の店は、居士、僧侶が経営しているものもあります。彼らはすでにこれが佛を罵っていることだと分からなくなったようです。なぜ出家した人が修煉できなくなったのでしょうか? 彼らはすでにどうやって修めれば良いのかが分からなくなったのです。彼らは「羅漢斎と言ってどこが悪いのか」と思っているかも知れません。皆さん考えてみて下さい。羅漢は世間の食べ物の色と味に対する執着を一切持っていません。しかし、「羅漢斎」という料理は色と味が揃っているものです。その境地に立ってこの問題を見れば、羅漢を罵っていることと同じではありませんか? 「佛跳墻」というのは、佛さえ人間のこの美味しいものの匂いを嗅いだら、壁を飛び越えて来るという意味ですが、これは佛を罵っているのではありませんか? 佛は人間の食べ物に執着することがあり得るのでしょうか? これは今日の現象について話していますが、実際は多くのことが佛に対してすでに相当な不敬になっているのです。どの程度までなったのでしょう! 佛を口にする時、人々はまったく正念を持っておらず、甚だしい場合、直接佛を罵ることもあり、文芸作品の中でも悪辣に佛を貶しています。すでにここまでになりました。皆さん考えてみて下さい。人類社会はどうなってしまったのでしょうか? 皆さんに教えますが、この本、この大法は私が伝えたもので、私はすべての正しくないものを正すことになります。法の中には無数の次元の各境地にいる佛、道、神の法理を含めています。そのため、皆さんはぜひこの本を大切にして下さい。勝手にどこかに投げたり置いたりしないで下さい。法を伝える初期に、私はこの問題を話しませんでした。当時、講習会の参加者の中に、この本をお尻の下に敷いて座っていた人もいました。その時、あなたはこのことを知らなかったので、あなたの問題としません。今日、皆さんは修煉して向上してきて、この法がどういうものなのかを分かってきたので、私は今日になって、はじめてこの問題を話し、皆さんにこれらのことに気をつけるように教えました。

 もう一つの問題を、私は皆さんについでに話しましょう。われわれの学習者の中に、たくさんよく修煉できている人がいます。自分自身も自分の修煉がかなり進んでいることを感じていますが、時に頭の中にまだ変なことが浮かび、考えの中に常人が執着しているもの、さまざまな情の現れが浮かんできます。これによって、一部の学習者は、「自分の修煉はどうなっているのか?」と、とても心配しています。皆さんに教えますが、もし、あなたは自分が修煉者であることを自覚しており、修煉の基準に従って自分を律しているならば、思想の中にこのような状態が現れる時、心配する必要はありません。なぜでしょうか? 常人社会で修煉する場合、あなたの常人の要素や業力を全部取り除いたら、皆さんに教えますが、あなたは常人の中で一日も居られません。常人の思想の中に現れてくるさまざまな考え方に、あなたは耐えられません。なぜなら、常人の一言、一行、一念は、すべて目的を持っており、しかも、その目的は往々にして私心のためのものですから、あなたは耐えられません。常人の要素がなくなったら、あなたは常人のことを見通すことができるので、常人に接触する時、きっと耐えられません。常人の一言一行が持つ強烈な執着を感じることができれば、あなたは常人の中で修煉することができなくなり、この環境に居ることもできなくなり、仕事もできなくなります。ということで、私は皆さんの表面上の常人の要素を徐々に取り除いており、円満成就になる直前まで、全部取り除くことにします。

 常人の中で生活することができるために残されている僅かな常人の要素は、あなたが常人の中で修煉できるように保障しています。自分の考えの中に浮かんでくるこれらの要素は良くないものだと自分が認識できれば、すなわち、あなたが向上しています。あなたはこれらのものを排斥することができれば、すなわち、あなたは自分を修めています。しかし、これらのものを一気に取り除くことができないかもしれません。なぜならば、それは修煉の中で徐々に取り除いていくものだからです。皆さんはこれをはっきり認識しなければなりません。円満成就の時に、これらのものが全部取り除かれることになります。

 もう一つのことを、皆さんにお話しますが、修煉は本当に大変苦しいことです。皆さんは常人の中で修煉しているので、利益と情の中で執着心を取り除くときにそれを感じることができます。新しい弟子たちは、まだこの状態に入らないうちは、それほどの難しさを感じることができません。人には業力があるので、業力によって形成されるこれらの要素は、人々の修煉を阻むことになります。具体的な現れとしては、仕事中の困難や、仕事がうまくいかないこと、人と人とのトラブル、或いは身体の調子が悪くなることです。これらの煩わしいことは、往々にして突然に、しかも強烈にやってきます。時には、皆さんはこれが自分の修煉のためであると知りながら、やはりその心を捨て難いのです。私はこれを知っています。しかし、最終的に皆さんは修煉の中でこれを乗り越えなければなりません。あなたが望もうと、望むまいと、いずれもこのような事を経験し、たえずあなたを練磨して、最後にこの心を放下させなければなりません。

 もう一つの問題について、皆さんに教えますが、法を聞いた人、法を得た人は、皆縁がある人です。私が今日皆さんに説いた法は、確かに高いもので、皆さんに与えたものも高く、皆さんが修めるのも大変速いのです。特に最近法を得た人は、とても速く向上しているように感じています。私が今回米国に行った時に感じたことは、多くの大陸からの人、台湾からの人、国外にいる多くの華僑、留学生、博士、修士、知識人、あるいは教授、研究者などの弟子は、次元の突破がとても速いのです。もちろん、彼らの学歴が高いから良いと言っているのではなく、根基が良いと言っているのです。なぜなら、彼らは法を得たのは遅いのですが、一旦法を得た後、一般的に徐々に認識する過程がないと私は感じているからです。これまで、多くの人たちは法を認識する過程が必要で、徐々に向上してきたのです。彼らの多くは、このような過程がなく、法を得た後、すぐ真剣に修煉し始めたのです。理解が速いだけではなく、すぐ法の中に溶け込みました。これは、如何に常人の高い学歴があるからと言ってできることではなく、実質上、根基に関わる問題です。もちろん、法を得た人には、縁の要素があるのです。

 私はすでに系統的に、この法を全部皆さんに伝えました。伝えるべき法をすべて皆さんに残しました。しかも、説いた最高の法理は、すでに相当高いものです。もし、私が再三に法を説き、繰り返し法を説けば、かえって妨害する作用が起こります。なぜなら、私は法を説く時、毎回一字の違いもなく説くことはありえません。そうすると、残されたものは、すでに皆さんに与えたこの形が定まった法を妨害するかも知れません。従ってそのため、私は再び系統的に法を説かなくなりました。もし、特殊な情況が現われなければ、今後、私が説くものは、すべて人類社会が直面している問題と将来の事情に関するものです。これらはすべて人間の事情になります。この時期の修煉に関するものは、すでに全部皆さんに渡しました。『転法輪』に書かれたものは、すでに相当に高いものです。その後のある時期に、私はまた一部他のものを説きました。将来整理して出版することになります。しかし、皆さんに教えますが、本当に皆さんが修煉できるようにするものは、『転法輪』だけです。他にいくらたくさん本を出版しても、いずれも『転法輪』の補助にすぎません。ですから、皆さんが修煉するにあたって、必ず『転法輪』に基づいて修めなければなりません。

 我々の学習者は、佛に関する具体的な概念が乏しく、佛に対する認識が欠けています。なぜなら、私はこの数年来、法を伝えることに専念して、佛の各境地の情況および佛、道、神と宇宙の情況について、ほとんど話さなかったからです。話さなかった理由は、私が伝えたこの法は、とても大きく、如何なる具体的なものも法の中に入れるべきではなく、入れる価値もないからです。したがって、多くの学習者は、この方面に対する認識が乏しく、佛および上下の異なる次元にいる衆生に対する認識があまりなく、佛、菩薩、あるいは佛の境地、佛の世界などに関してあまり分かっていません。実際は、本当に具体的な佛の生活の話をすると、皆さんはきっと人間の考え方でそれを理解してしまうので、それは佛に対する不敬です。将来、修煉の中で皆さんの多くは、その具体的な様子が見えるようになり、皆さんは自らこの部分の認識を充実することできます。

 この宇宙は、相当複雑なもので、その複雑さの程度は、人間だけではなく、佛、道、神さえも驚愕しています。人間が認識しているこの宇宙は、ただ一次元での表面の様子です。私は以前話したことがありますが、人類が認識できる物質の表面、見える最大の粒子は、星および銀河系であり、機器を用いて認識できる最小の粒子は、分子、原子、原子核、中性子、電子、クオーク、中性微子などがあります。さらに小さい物はもう認識できません。しかし、これは人間の本源物質、生命を構成する本源物質まで、まだ程遠いのです。これの無数億倍、無数無数億倍であっても、まだ物質の本源にまで及びません。物質はこれほどミクロ的なものです。しかし、物質は、ミクロになればなるほど、その全体の体積が益々大きくなります。一つの粒子だけを見てはいけません。一つの粒子は、その体積の一点にすぎず、しかし、それらが一つの全体なのです。物質の粒子は、ミクロになるほど、その全体の面がより大きいのです。物質を構成する粒子が大きいほど、その次元の面が必ずしも大きいとは限らないのです。人類は、分子により構成されたこの空間しか認識できていないのに、すでにうぬぼれて、さらにさまざまな実証科学の定義を用いて自らを封じ込めており、突破することができません。例えば、空気、水、鉄鋼、木材および人間の身体を含めて、この生活空間のすべては、全部分子によって構成されたものであり、人間はまるで分子の境地の海の中で、分子により構成されたこの立体画面の中で生活しているようです。宇宙船がいくら高く飛ぼうとも、分子から構成されたこの空間から飛び出すことができません。コンピューターがいくら発達しても、人間の頭脳には及ぶことができません。もちろん、人類社会は、まったく突破したことがないのでもありません。人類はすでに、分子、原子、クオークおよび中性微子を認識できました。しかし、科学方法で見えたのは、粒子の存在している一点に過ぎず、異なる粒子の存在する全体の面は見えません。もし、その全体の面を見ることができれば、人類は、宇宙の別の空間に存在する真実の様子が見えることになります。その原子は、人類に見えたその単一の粒子だけではありません。たとえその単一の粒子だけであっても、それを拡大して、一つの小さな星の大きさまで拡大して見ることができれば、原子物質で構成された物体の上に、それらの原子から構成された生命、物質、水、植物など、すべての物質的存在の形式が見えるようになります。人類は、まだこの壁を突破することができません。

 実際に、人間は二種類の粒子の間に生活しており、周りのすべてを構成している粒子は分子であり、我々が肉眼で見える最大の粒子は星なのです。人間は分子と星の間に生存しています。私が今日話さなければ、科学者たちはまだ認識できないのですが、人類は星も粒子であるとまだ思いつきません。さらに無数の星から構成されたのは、もっと大きな粒子であり、つまりそれぞれの銀河系です。しかも、このような星団がまた更なる大きな宇宙範囲を構成しています。これにしてもまだ最大の粒子ではありません。もちろん、私が話したこの概念は、あなたの考えを一気に相当高いところまで押し上げたかもしれません。もし、あなたの身体が星のような粒子から構成されたそれほど大きなものであれば、あなたは振り返って地球を見てみれば、分子のような粒子に見えませんか? 人類の物質に対する認識方法で見れば、星は確かに一層の粒子なのです。これは、マクロ的な角度からの話です。

 人々はよく天に上ると話していますが、どこが天なのでしょうか? どこが上なのでしょうか? この宇宙の中には、上下左右前後のような概念はまったく存在していません。上に行けば上と言えますが、下に行くのも上ではありませんか? この宇宙は円い形をしており、地球はほぼその中心に位置しています。左も上で、右も上、下も上、頭上もまた上です。それでは、ここで一つの天機を話すことにしましょう。先ほど私は話しましたが、粒子がミクロになればなるほど、その次元の面がより大きくなるのです。実は、一つの生命が、よりミクロの次元に入ることができれば、すなわち、この生命はすでにより大きく、より高い境地におり、すでに天の上にいるのです。なぜならば、粒子がよりミクロになるほど、その次元はより高くなるからです。これは、一種の広大な概念からの認識です。先ほど皆さんに話した宇宙に対する認識は、ほんの僅かなものであり、一種の空間認識の方法にすぎません。さらに複雑なものもあります。より多くのことは、将来、皆さんが悟りを開いた後に自ら認識するでしょう。

 天上の具体的なものを多く人間に残してはいけません。もし、人類の実証科学が相当高いレベルまで発展したり、あるいは人類の境界を超えたら、それは人類にとってより危険なことです。なぜなら、人間は絶対に科学技術的な手段で、佛の境界に達することができず、それは絶対に許されないことだからです。人間には七情六欲やさまざまな執着心があり、闘争心や、嫉妬心、色欲など、これらのものを天上に持って行ったら大変なことになります。そうなれば、佛や菩薩と争いを起こし、本当に宇宙大戦が起きてしまいます。人間が常人の心を持ちながら、その科学技術を佛の境界まで到達させることは、永遠に許されません。ですから、人類の科学技術は、事前に定められたように発展するしかありません。もし、その発展が高すぎたら、その科学技術自体は人類と同様に消滅される危険があります。これは、私が見た状況です。

 次は、この空間の話に戻ります。私が先ほど話したこの空間形式は、一つの概括的な認識方法です。釈迦牟尼佛も当時、一定範囲の宇宙に対する認識を話したことがあります。彼は人類および三界内と三界外の一定範囲の具体的情況を話しました。例えば、須弥山のこと、須弥山の存在形式についても話しました。須弥山の四つの側面に四大部の洲、二大層の天があります。実は、釈迦牟尼佛が説いたことは中国に伝わってきて、中国語に翻訳される際に、或いはインドで伝わっている過程で、すべて誤りがありました。釈迦牟尼佛が説いたこの須弥山の二大層の天は、実は二大層の天ではなく、二つの宇宙の概念であり、小宇宙と第二層の宇宙との認識なのです。

 第二層の宇宙とは、どのような認識なのでしょうか? 人類が認識しているこの宇宙は、たくさんの銀河系により構成されたもので、つまり、われわれが通常話している宇宙です。これは、また人類が認識できるこの一層の空間の構造からの話です。この宇宙でさえ、われわれ人類は、永遠にその境を見ることができません。しかし、この宇宙は天体の中の唯一の宇宙でもなければ、広大な天体の中での最も大きな一層の粒子でもありません。また、たくさんのこのような大きな宇宙がさらに大きな宇宙範囲を構成しており、それにも外殻があり、それもまた更なる大きな一層の粒子を構成しているに過ぎないのです。この宇宙はあまりにも広大なもので、人間にとって不可思議なものですが、神にとっては、それはただ一層の粒子の僅かな一部分に過ぎないのです。さらに大きな佛から見れば、その小ささは何ほどのものでもありません。異なる境地の考え方、思惟方法、観念には、すべて変化が生じています。

 先ほど話した釈迦牟尼佛が実証し悟ったあの須弥山は、われわれ人類が生存しているこの銀河系および太陽系の北側にあります。ここでの「北」という概念は、あまりはっきりしていません。なぜなら、宇宙の中にこのような概念はなく、地球も回転しているからです。ここでは、釈迦牟尼佛が説いたことにしたがって話を進めましょう。このように話を進めれば、皆さんはこの概念を理解しやすいのです。そうでなければ、私はいま須弥山がここにあると話したら、明日にはまた他のところに回って行ってしまうのです。釈迦牟尼佛が説いたように北側にあるとしましょう。この須弥山はどれくらいの高さなのでしょうか? 須弥山は、銀河系を超えており、私が先ほど説いたこの宇宙範囲、数々の星系から構成されたこの範囲を超えています。皆さん考えてみてください。数多くの数え切れないほどの星系は、どれほど大きいのでしょうか? しかも、星系と星系の間にまた一定の距離があります。実は、須弥山は、この宇宙範囲を超えて、第二層の宇宙の中心にあるのです。これほど大きな山なのです。実際は、須弥山は、三つの山が一つに繋がった大きな山です。この三つの山が表しているのは、阿弥陀佛、観音菩薩、大勢至菩薩です。阿弥陀佛は、この境地の第一位の佛です。

 釈迦牟尼佛が実証し悟ったことは、人々の彼に対する認識を遥かに超えています。釈迦牟尼佛は、たくさんの天上の物語、彼の前世の物語を語りましたが、自分の本当の身上に関してすべてを語らなかったのです。特に涅槃した後の事はあまり知られていません。

 皆さんもご存知のように、佛はみな、自分の世界をもっています。阿弥陀佛には極楽世界があり、瑠璃世界は、薬師佛により主宰されています。また、蓮華世界や美好世界などがあり、イエスや原始天尊にも彼らの世界があります。人類が生存するこの銀河系の範囲に、百以上のこのような天国世界があります。佛もたくさんいます。如来の境地に達した佛は、釈迦牟尼佛の言葉で言えば、ガンジス川の砂の数ほど多くいます。如来佛は一人ずつ一つの天国を主宰しています。考えてみてください、この宇宙はどれほど大きなものなのでしょうか? 釈迦牟尼佛がここに下ってくる時の最後の次元は、第六層の宇宙でした。この数字は相当大きなものです。六層の宇宙ですよ、六層の天ではありません。彼はそこに一つの世界をもっており、大梵世界と呼びます。後に、釈迦牟尼佛は、常人社会に来て人を済度するようになりました。彼は悟りを開いた後、四十九年間法を伝えていました。彼は元の世界に戻らなかったのです。なぜなら、釈迦牟尼佛は、自分の力量、自分の次元の高さによって、副元神しか済度できず、しかも、それらの修煉者に一世で相当高い次元まで修煉させることができなかったからです。

 皆さんもご存知のように、佛はみな自分の世界がありますが、釈迦牟尼佛も自分の世界をもっていると、誰か聞いたことはあるのでしょうか? これに触れた人はいませんでした。釈迦牟尼佛は娑婆世界におられると言っていますが、娑婆世界はどこにあるのでしょうか? それは三界のことです。つまり、この三界のことであり、人間も含まれているのです。どうして佛の世界は人間と同じ世界なのでしょうか? 誰もこの問題を考えていませんでした。実際、釈迦牟尼佛は、普段ずっと大梵天にいます。彼は大梵世界から下ってきたので、自分の滞在しているその一層の天を「大梵天」と名づけました。大梵天は、無色界の最高の天上にあり、三界の中でもあります。彼は、なぜここに留まって帰らなかったのでしょうか? 大法が伝え出される前に、彼はずっと佛の信徒を守っていたのです。実は、二千五百年の間に、彼はずっと大法が伝え出されるのを待っていたのです。釈迦牟尼佛がここに下ってくる前の最後の次元は、大梵世界でしたが、彼はそこに留まることになりません。なぜなら、彼はこの世で大法が伝え出されるために文化を築き、常人の中で苦しみを嘗めたので、大法に同化した後、彼は更なる高い境地に戻ることになるからです。これは私が皆さんに説いた釈迦牟尼佛の真実の情況です。

 多くの人はよく「先生、あなたはどなたですか?」と私に聞きますが、私に関する物語を語れば、それは相当に相当に長い話になります。私は一層また一層の宇宙の異なる天体を経て下ってきて、一層一層に転生し、さらに人の世で分身して転生してきました。一世の中にもたくさんの私が存在していました。複雑さは語ろうとしても語りきれないほどです。私はごく簡単に皆さんに教えましょう。私はすべての天体宇宙の外におり、すべての神佛や衆生はみな、その中にいます。

 宇宙には、成、住、壊の問題があり、これは宇宙の規律です。宇宙の年齢は非常に大きく、この宇宙の過程の中で、早期に生じた佛、道、神の年齢は相当大きくなり、生きていることさえ、退屈に感じるようになりました。時間があまりにも長すぎたので、神たちに歴史を忘れさせるほどになっているのです。彼らは、自分の以前のことを忘れるほどになっているのです。次元が高ければ高いほど、その時間はより遅く、その範囲と体積がより大きくなります。成、住、壊の概念は、より高い境地の中で、相当長いことであり、一つの生命にとって、それを考える必要さえも感じません。これほど大きなことです。一切の時間と宇宙範囲の外にいる主佛は、衆生こそ宇宙存在の意義だと思っています。宇宙の中で異なる次元にさまざまな劫難が現れたことがあったので、最高の境地を除けば、最も原始の宇宙の様子を知る生命はもういないのです。更新された後、以前のすべては存在しなくなりますが、宇宙内の衆生を残すために、この問題を解決するのは、極めて難しいことです。

 宇宙が生まれ始めた頃、多くの神々にはすでに末劫の時期に宇宙に現れる問題が見えました。これらの神々は、非常に心配し、自ら救う方法を考えました。しかし、もし彼らにそれほど高い威徳がなければ、このことを阻止することができないばかりか、自らも戻れなくなります。一層一層の神々はみな、このことをやりたかったので、歴史上に多くの神々がここにやってきました。

 しかし、宇宙にはこれまで一つの理が存在していました。即ち、ある層の生命は、さらに高い一層に生命があるかどうかを知りません。さらに高い一層の生命は、それよりさらに高い一層に生命があるかどうかも知らないのです。各層の神は、自分こそ最高の生命だと思っています。それで、西方のイエスは自分の父親のエホバが主だと言いました。エホバはユダヤ人種を造った主であり、ユダヤ人種の創造者です。つまり、彼はユダヤ白人種とそれに関係する異なる次元の生命の中で最も高い生命です。しかし、その他の体系の中にまだ他の人種の主がいます。しかも、もっと高い次元、もっともっと高い次元にまだ神と衆生がいます。これらのことは、低い次元の神と世人が知らないことです。神さえも、自分のいる次元の法理しか知りません。彼らに最終の結末が見えた時、神々はみな、宇宙の成住壊滅の最終段階の恐ろしい結末を解決する方法を求めて、次々とこの世に下ってきました。このようにたくさんの神々がここにやって来ました。一部の神々は、必要な威徳を備えるために、自分の一層の宇宙の始めから終りまでのすべての苦しみを嘗め尽くして、救うことをやり遂げようとしました。しかし、彼らは同じ問題にぶつかりました。彼らは最高の生命ではなく、もしもっともっと高い境地にも問題が発生したら、彼らがいた元の境地も劫難の中にあります。そうすると、下ってきた神々も、何もできずに壊滅されてしまうことになります。そのため、下ってきた神々は、この結末を解決することができず、しかも戻ることもできなくなりました。実際は、このすべてはすでにこのように発生しているのです。私は衆生を済度することと上へ法を正している中で、たくさんこのようにやってきた神々を法に同化させてから、元のところに送り返しました。

 皆さんもご存知のように、今日私が説いたこの問題は相当高いものです。釈迦牟尼佛はかつて「将来、いついつの時期になると、弥勒佛がやって来られることになっている」と言いました。私はこの時期にやって来たのですが、私は弥勒佛の次元の生命ではありません。

 私は、皆さんに一つとても高い天機を教えます。このことは、私が以前説いたことがあります。天上の佛、例えば、皆さんが知っている如来や菩薩は、実際はみな一人だけではありません。約十年、あるいは十年にならないうちに一度交替しています。現在の阿弥陀佛も、最初のあの阿弥陀佛ではなくなりました。観音菩薩も最初のあの観音菩薩ではなくなりました。これはどうしてでしょうか? 人類の三界は、あまりにも複雑で、彼らは三界に近すぎるので、下の良くないものが直接彼らに影響することがあります。なぜなら、佛や菩薩は人間を救い済度しているので、人間はさらに佛と菩薩に影響を与えやすいのです。もし彼らが長期にわたって人間を済度していくなら、彼らは落ちてしまいます。そのため、われわれのこの空間では、およそ十年で彼らは一度交替します。しかし、他の世界の中では、これは相当長い時間です。さらに大きな空間の中で、その具体的な空間の時間はかえって速く進んでいます。十年という時間は、一部の空間ではすでに一万年も過ぎています。したがって、このような状態の中で、佛、菩薩は、これ以上長く居ることができません。天上に一つの規定があります。一定の次元の中の神は、一定の時期になったら、すべて交替しなければなりません。その目的は、彼らを守って落ちないようにするためです。

 以前、この世で記録されたものの中に、このような記述がありましたが、ただ、人々はそれがどういうことか分らなかったのです。皆さんがよく知っている観音菩薩ですが、歴史上に異なる記述があります。例えば、南海観音菩薩という名があれば、妙庄王の娘が観音菩薩に成就し、また、インドの双馬童子が観世音菩薩に成就した等々があります。これらはすべて本当のことです。しかし、互いに同じ生命ではありません。「観音菩薩」とは、荘厳、殊勝、大慈悲の大覚者の原始的形象と不変的な慈悲の名号です。毎回、一人の観音菩薩が成就した場合、すぐ地上から将来自分の引継ぐ人を選び始めます。その人が自分と同じ程度の慈悲まで修煉できるように助けて、同じ高い次元、同じ程度の威徳、そして同じ大きさの苦しみに耐えるようにして、同じ大きさの威力を持つようにします。そして、その人が円満になる時、その人を迎えにきて自分と交替させます。それぞれの佛、道、神はみな、このようにしています。これまで、これは最も機密の天機の一つでしたが、今日皆さんに教えました。

 なぜ、皆さんにこのことを教えたのでしょうか? それは、私は一つの問題を明らかにしたいからです。釈迦牟尼佛が弥勒佛の名号を話した時から、二千年以上の間に、この弥勒佛はすでに相当の回数交替したことがありました! 布袋和尚はその中の一人でした。これがなぜ弥勒佛と布袋和尚を一緒にしたのかの原因です。しかし、弥勒佛の形象は、布袋和尚のように腹がせり出て、大きな口を開けて笑うような様子ではありません。それは、彼が世間に居た時の人間の形象にすぎません。佛は、相当に神聖で、荘厳な形象をしており、多くはかなり若くて、美しい形象をしています。次元が高ければ高いほど、より美しくなります。本当の阿弥陀佛は二十歳前後の様子に見えます。観音菩薩は十七か十八歳の様子で、大勢至菩薩は十五か十六歳の様子です。人間の観念で考えれば、四十歳以上の人なら、不惑の年になったので、落ち着きを感じますから、彼らの像はそのような形象に造られました。しかし、天上の神の思想は、智慧および次元の境地によって決められたので、神の慈悲と智慧は年齢によって決定されたのではありません。常人はいつも常人の認識で考えています。

 それで、この一世の弥勒佛になって、つまり私が法を伝え始めてからこの最後の弥勒佛は、実は女性から成就したものです。しかし、弥勒佛の形象は男性です。実際は、「弥勒」という二文字の古代インド語の発音は、当時でもあまり正しくありませんでした。中国語に翻訳したら、さらにおかしくなりました。「弥来」と発音する場合もあれば、「弥勒」と発音する場合もあります。その他の発音もあります。将来、皆さんに正確な発音を教えます。今期の弥勒佛が自分の使命を終わらせようとする時、ちょうど私は出山する時期でした。しかし、私は彼らの次元の生命ではありません。天体の中の神々はみな、私が佛法と佛の形象で各次元の衆生を救い済度するためにやってきたことを知っています。彼らも弥勒佛がやってきたと確信しています。弥勒佛も彼の伝承したものをすべて私に託しました。しかし、神々はみな、私がいったいどこからやってきたのかを知りません。ただ、世に下って人を済度するためにやってきたことだけを知っています。また、彼らは私に寺院に入るように勧めましたが、私は寺院に入りませんでした。なぜ寺院に入らなかったのでしょうか? それは、私が更なる大きな事をしようとしており、更なる大きな使命をもっているからです。しかも、現在の人々はすでに佛を信じなくなっており、寺院の僧侶や居士は、人数が非常に少ないのです。寺院に通う信者の数は、人類の総数と比べるとあまりにも少な過ぎます。末法の時期に、佛を信じない人は非常に多いのです。寺院の中に入ったら、より広く世人を済度することができなくなり、より多くの人に法を得させることもできません。一旦寺院に入れば、他の宗教を信じる人は法を得ることがより難しくなります。私はこのような情況が見えたので、出家せずに、常人社会の中で大法を伝えることにしました。

 もちろん、この中には一つの問題があります。これも多くの和尚が理解しがたい問題です。人々は知っていますが、私が説いたのは佛理佛法ですが、これは釈迦牟尼佛の説いた法ではありません。実際には、たとえ私ではなく、人を済度しに来る他の覚者であっても、彼も釈迦牟尼佛の説いた法を復唱することはありえません。他の人に換えても、その人は釈迦牟尼佛が説いたことを説くはずもありえません。同じ佛法を説いても、すべては各自の佛自身が実証し悟った法理なのです。そうではありませんか? 現在、和尚たちが最も放下しがたく困惑しているのは、彼らが、釈迦牟尼佛が佛法を説いた唯一の人であり、それは宇宙の唯一の佛法であると考えていることです。彼らは、それが佛法の中の僅かな一部分であることを知らず、釈迦牟尼佛が説いた彼の実証し悟ったその部分の法に過ぎないことを知りません。しかも、釈迦牟尼佛は自分の知っているすべての法を全部説いたのではなく、ただ人間が知るべきその部分を人間に残しただけです。実際に、釈迦牟尼佛の説いた法は、以前の六佛の説いた法と同じものでもありません。まして、私が今回説いたのは、宇宙全体の特性であり、佛法、神法、道法のすべての法の根本なのです。

 もし、三界および人類は、法を正すために果すべき作用を果したら、将来の人類には無量の福があるはずです。私が下ってきた時、すでに極めて高い境地の中に私の必要なすべてを造成しておきました。私は人間に転生してこの世に来ましたが、私の威徳は、すべての境地を超えた外で主宰しています。私がこの世に来たといっても、私と三界の衆生との間は無数層の粒子により隔てられています。私は、宇宙に存在する最も根源的な要素を持っていますが、私はその中にいません。私はすべての宇宙の智慧を構成する源泉ですが、私は何も要りません。しかし、衆生は異なる次元の宇宙の物質から構成された生命です。私はこの世に来ていないと言えば、私は人間の境地にいませんが、人間のこの世に現れています。これは、簡単で概括的な話です。将来、私はこの事を情況に応じて人間に教えることになりますが、たくさん教えてはいけません。なぜなら、人間に教えたものはすでにたくさんありました。しかし、将来、幾年代かが過ぎてから、人類がこれらのすべてを神話の物語とすることになります。

 皆さんが知っているように、中国政府が最も恐れていることは、民衆が「義和団」のような組織を起して造反し、その権力を奪取することです。私は再三に強調していますが、私たちは絶対に政治に踏み込まず、決して政治に干渉してはなりませんし、参与してもいけません。もし、李洪志が政治に参与したら、今日に伝えた法は、邪法になってしまいます。皆さんはこれをよく覚えておいてください。歴史上に、私李洪志はどのようにこの法を伝えたのか、皆さんにどのようにこのことを行なわせたのか、今後、千秋万代にもこのように行なわなければなりません。絶対に外れた道に入ってはなりません。私が皆さんに残したこの形式、将来の人々はこれと同じように行なうことになります。皆さんが知っているように、私たちは緩やかな管理をしており、金銭に関わらず、職位も官職もありません。修煉者は、金銭に関わると、複雑な情況が生じます。名利は修煉者にとって最大の障害です。

 もちろん、あなたは常人社会の中におり、生活を維持しなくてはなりません。あなたはお金を稼ぎ、常人の官位に就き、常人の商売をしても、これらのことはあなたの修煉には影響しません。これは、私が皆さんに伝えた修煉の形式です。しかし、修煉形式の中で、官位を設けてはいけません。佛法を用いて金儲けをしてはいけません。すべての輔導站において金銭を貯えてはいけません。これは修煉の形式によって決められたことです。これほど大きな法を人間に伝えたのは、決して三、五年の賑わいで終わることではありません。私は知っていますが、将来更に多くの人が法を得ることになります。しかも、相当相当多くの人が法を得ることになります。この数字は相当大きなものです。その上、この法は、人類だけに属するものではなく、中国だけに属するものでもなく、全世界ないし更に多くの生命が皆法を得ることになります。これは宇宙の法であるので、皆さんはくれぐれもこの法を大切にしなければなりません。

 これまで皆さんはこのことを知らなかったのです。私はこの法を伝え始めた初期に、気功の形式で伝えたのです。人々に法を認識させるには一つの過程が必要です。突然これほど高い法を説いたら、認識することができません。ここで皆さんに教えますが、なぜ、今日の歴史上に気功が現れたのでしょうか? それは、私が今日この大法を伝えるために道を敷いたのです。気功師自身は、このことを知りません。偽気功師は、なおさら分かりません。それらの偽気功師はまだ社会の中で乱れたことを行なっています。本当に道を敷く作用を果したそれらの気功師は、ほとんど活動を終了しました。一部の気功師はここまでするようにさせられたことを知っています。もし彼らが表に出て気功を伝えることをしなかったら、気功は社会の中で広く伝えられることができなかったでしょう。そうしたら、私が今日、いきなりこれほど高い法を説いたら、人々に理解させるのは非常に難しいことです。これがなぜ気功が現れたのかのゆえんです。したがって、現在大法を妨害しているそれらのものはみな、良い結末が得られません。それらのものは、実質上、既に地獄にいます。ただ、それらの世間での寿命がまだ終わっていないだけです。

 大法が伝播される過程は、風雨に耐え、とても容易なことではありませんでした。これは正法であり、必ず邪魔に遭遇します。なぜなら、正しいものが一旦現れると、一切の不正なものやあまり正しくないものは、すべて衝撃を受けます。もし順風満帆に伝えてきたら、それはきっと邪悪なものに符合しており、それなら邪魔されることはありません。もし魔難の中での正念と正しい行いがなければ、世人に残していく参照や威徳もありません。将来、われわれはどのような困難にぶつかっても、皆さんはそれを正しく認識すべきです。

 この宇宙の中に、魔の存在が許されています。どうして、魔の存在が許されているのでしょうか? その道理を話しましょう。相生相克の理は、宇宙の低次元、特に三界内の理です。どうして相生相克の理が存在するのでしょうか? 一定の宇宙概念の中間次元には、二種類の物質が存在しており、この二種類の物質は、下の次元に行けば、分化して異なる物質に変わります。なぜなら、下に行けば行くほど美しくなくなり、上に行けば行くほどより美しくなります。下に行けば行くほど分化が進み、その差異もより大きくなります。このように、この異なる二種類の物質はさらに宇宙の下へ行けば、益々両方の物質に違いと差異が現れます。下に行くほど、差異が大きくなります。さらに下に行けば、両方の物質に対立性が現れてきます。さらに下に行けば、その対立性がより際立ってくるのです。こうして、相生相克の理が生じたのです。さらに下へ行くと、太極の陰陽学説が生まれました。さらに下に行けば、特に人類の次元になると、相生相克の理がより際立ってきたのです。佛の境地に行けばどうなるのでしょうか? 佛とは一体何なのでしょうか? 佛陀は、すなわち宇宙の護衛者です。如来佛は、自分の世界の法王です。彼の管理は、何らかの手段を使うことではなく、彼の慈悲と威徳を用いているのです。彼の衆生も、彼の世界の基準に符合して、非常に美しいのです。この境地において、相生相克の理の中に、佛(法王)と対立して存在するのは魔王です。

 魔王と言いますと、皆さんは密教を知っていますか? 私は再三、密教は常人社会の中で伝えてはいけない、秘密に修煉するしか許されないと話しました。なぜでしょうか? 密教は正覚を修めるのみならず、魔王をも修めます。つまり、佛(法王)を修めるし、魔王をも修めます。もし、社会の中で、これを伝えたら、皆さん考えてみてください、社会の中にどのような結果をもたらすのでしょうか? これほど重要な問題です。ですから、私はずっと、密教は社会の中で伝えてはならず、寺院の中で修煉するしかできないと言ってきたのです。社会の中で密教を伝えているものは、すべて偽物であり、人を騙すものです。相生相克の理は、常人の次元になると、人がいれば鬼もいるという表現になり、このように存在しており、このような相対的な理が同時に存在しています。このような対立性があり、このような相生相克の理が存在しているからこそ、常人社会に一種の状態をもたらしたのです。私が今日伝えたこの法を含めて、信じる人がいれば、信じない人もいます。世の中に良い人がいれば、悪い人もおり、公益のための人がいれば、私利私心のための人もおり、心が広い人がいれば、心が狭い人もいます。このような正と負の対立関係になっています。このすべての表現は、すなわち人類社会の状態です。

 常人社会の中で、あらゆる事情の表現は、すべて同じです。一つの良いことを成し遂げるために、相当大きな困難、あるいは何らかの妨害を突破してから、はじめてこのことを成し遂げることができます。これは、すなわち相生相克の理によってもたらされた制約です。この理が存在し、魔性の邪魔があるから、何かを得ようとする場合に、その難しさを感じ、仕事をやり遂げようとする場合に、努力が必要になるのです。努力して、奮闘して、多くの困難を克服して、やっと得たいものを得たから、はじめてものの大切さを知り、はじめて嬉しく感じることになります。容易に得たものではないから、はじめてものの貴重さが分かり、はじめて勝利した後の喜びを感じることになります。もし、この相生相克の理がなく、魔の邪魔もなければ、やりたいことはすべて簡単にできてしまい、魔性の存在がなければ、得たものの大切さも分からず、その貴重さも感じられず、勝利した後の喜びもありません。皆さん考えてみてください。そうであれば、生きていくことも退屈になり、無意味に感じてしまいます。何でも簡単にできるなら、何をやっても無意味になってしまいます。人は、生きることに意味を感じず、退屈になってしまいます。ですから、困難の中で苦しく感じるかもしれませんが、それはこのような作用を果しています。

 一部の学習者は私にこう聞いたことがあります。「師父、どうしてそれらの魔を全部取り除いてくださらないのですか?」 私がすべての魔を全部取り除いたら、あなたは今日もう修煉できなくなります。あなたは最終的にこの法に対して堅い決意があるかどうか、その試練を受けなければならず、魔の妨害がなければ、あなたの一部の心を取り除くことができず、魔の妨害がなければ、業を消去することもできません。こういう道理です。人や物、生命自体にも、この二種類の特性が存在しています。人は佛性と魔性により同時に構成されたものです。あなたは、佛理の中で修煉すれば、あなたの魔性が取り除かれます。人は自らの道徳的制約を緩めたときに、魔性が爆発します。感情が高ぶるとき、頓狂に叫び、怒りを爆発することは、魔性の現れです。現在は、万魔が世に出て、社会の各領域にも人の魔性を煽り立てています。美術作品にしろ、文芸作品にしろ、文学作品にしろ、気ままで、正念がなく、まるで気が狂ったかのように作ったものは、妖魔のものと同じではありませんか? 男の人は長髪にして奇怪な格好をし、男と言っても男らしくなく、女と言っても女らしくなく、これは芸術家や音楽家の形象だと言われていますが、実際はすべてが魔性に煽られている心理的な変態です。

 道徳的な制約がある人の行為こそが佛性の現れです。佛を修めるとはどういうことでしょうか? つまり、あなたの魔性をなくし、全てを佛性に同化することです。私が先ほど説いたことは、非常に高いもので、しかも、とても具体的なものです。私の話はこのぐらいにしましょう。

(長時間の熱烈な拍手)





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