ヨーロッパ法会での説法

李 洪 志

一九九八年五月三十日、三十一日 フランクフルトにおいて


 来場の皆さんの一部は古くからの学習者ですが、多くは新しい学習者です。

 法を伝えて、あっという間にすでに数年が過ぎましたが、以前私がフランスに行って法を伝えた時、ドイツに来たことがありますが、ここの環境を見に来たのです。フランクフルトに来たのは今回で二回目です。しかしヨーロッパのいくつかの地区の新しい学習者と顔を合わせるのはやはり初めてです。皆さんと一緒にここに座って共にこの大法を修煉できるのは、私はそれも縁だと思います。われわれ佛家は縁を重んじます。ですから、私たちはこの法を大切にすべきです。来場の皆さんの多くはまだ法を深くまで勉強していないので、往々にして大法を普通の気功と見なしてしまいます。この法は中国で広く伝えられ、それを学び、修煉する人は既に一億人に達しました。中国以外の地区での人数も相当多くなりました。何故これほど普及し、その上、この法を学ぶ人の知識水準は比較的高いのでしょうか? 多くの人は知識界の知名人で、さらに、中国の多くの地区でも社会階層の比較的高い人がいます。もちろん私たちはこういうことを言いますが、普通の気功は中国で現れる時、修煉者の多くは老人と病人なので、人々はそれを一種のスポーツと健康保持のためのものと見なしています。もちろん常人の社会では簡単に見られない気功のいくつかの超常的な現象にも言及しました。それによって、気功に神秘的な色彩を持たせるようになりましたが、その程度のことです。

 多くの人は気功とはどんな事なのかを完全に理解することができません。大法を伝えた後に私は既に気功に関わるいくつかの説明できない現象、気功界で解釈していなかったことについて言及しました。しかし、だから大法を学ぶ人がこんなに多くなってきたわけではなく、われわれの大法は本当に人を圓満成就させ、人を済度し、修煉する過程において、本当にあなたを昇華させることができます。あなたの思想境地においても、あなたの身体の素質においても、本当にあなたを異なる次元の基準に到達させることができます。必ずこのような作用を果たすことができるのです。

 私は先ほど多くの人が法を学んでいると言いました。知的レベルの高い人は頭がはっきりしていて、普通は何かを盲目的に学ぶことはありません。これらの人は、一旦この法を学んだら、比較的堅実になります。この法がいかに貴重なものかということを知っているからです。本の中に多くの天機を漏らしただけではなく、内涵もとても大きいのです。修煉の中であなたがどれほど高い境地、どれほど高い次元まで達しようと思っても、この法はあなたを指導することができます。この法は今までの人類の中で伝えられたことはありません。もし大法を学ばなかったら、人類社会において、あなたがどれだけ本を読み、どれほどの造詣があっても、この部分の知識を得ることはできません。これは書物から習得できず、人類の知識から探し出すことのできないものです。古今東西のすべての本をめくっても、絶対見つけることができないのです。

 また、修煉は本をよく読まないといけません。多くの人が修煉していますが法を学ぶことを重視していないのは間違っています。私はこの問題を何故厳しく要求しているのでしょうか? 私はいつもあなたが修煉しようと思うなら、必ずよく法を読み、繰り返し読まないといけないと言いました。本の中にかなり巨大な内涵があって、不思議なのです。多くの新しい学習者はそれに対しての理解、重視が足りません。一冊の本は白い紙の上に黒い字があって、開けて一回読んだら分かるようになります。もちろん人類社会の本は皆このようなものです。それは内涵がなく、表面の知識のみに限られていますから、あなたは一回読んだらすぐ分かるはずです。しかしこの本は違います。それは人の修煉を指導するもので、あなたはこの法の中で向上しようと思うならば、必ず絶えず本を読まなければならないのです。それこそあなたの修煉を指導することができるのです。

 例えば、以前の修煉は先生が弟子を仕込み、ある水準にまで向上すべき時に、どのように修煉するのか、どのように向上していくのかを教えます。各次元、各境地において、どんな状態であるかを教えます。しかしこれは限られた範囲の人のことで、人数の少ない場合ならば結構です。私たちの今日このような多い人数、一億人を超える人が学んでいるため、私がすべての人の手を取って教えることはあり得ません。しかし私たちはこれらの問題を解決するために、私はあなた達に与えることができ、あなた達を向上させることができ、変化を達成させられるものを、すべてこの本の中に書いており、この法の中に含めました。理論上からあなたを指導するだけではなく、法の後ろには強大な内涵があります。この理論は超常的なもので、絶対に常人の中の理論ではありません。私たちは常人を超えるその境地のものに関わります。これらの事を言ったら、常人を越える生命の形式とその他の空間の状態に関わります。つまりこの本が表面上白い紙の上に黒字があるだけのように見えますが、すべての字の背後には尽きることのない各空間があり、更に各空間の佛、道、神の現れまでがあります。

 皆さん考えてみて下さい。私は以前何度もあなた達がこの本を大切にすべきことを強調しました。あなたがそれがいかに貴重であるかを知らない時、あなたがこの本を大切にしないのは、もちろんあなたの間違いとは見なしません。しかしあなたがすでにこの本にはどれほど大きな内涵があることを知った時、まだこの本を敬うことなく、気の向くままにこの本を大事にしないならば、それはまた別の事で、そんなことをしてはいけません。もちろん、逆に言うと、この本にどれほど大きな内涵があるかを知った時、あなたは自ずとこの本を大切にするようになります。

 私たちの一部の学習者はこう言いました。本当に不思議だ、本を読んだ時、一回読み終わったら、認識が変わりましたが、もう一回読み終わったら、認識がまた変わりました。あなたが一回読み終わった後に多くの疑問が出てきて、どうしてこのようになるのか? どうしてそのようですか? しかし二回目に読む時、すべての問題が解決され、あなたに解答を与えることができることに気づきます。修煉は昇華するものですので、あなたは新しい疑問を出すかもしれません。更に出てきた疑問は一回目に本を読む時、思いついた問題と得た解答より高くなります。三回目に読む時、二回目の中で出てきた疑問、理解しなかった問題は、三回目の中で解決できることに気づきます。読み続けて行ったら、絶えずこのようなことがあります。今本を既に百回以上読んだ人はかなり多くなっています。その人は法を手離すことができなくなり、読めば読むほど気づいた内容がもっと多く、内涵はもっと大きいのです。どうしてこのようになるのでしょうか? 背後のその空間の佛、道、神はあなたが向上すべきであることを見る時、自然にあなたにその境地の中に存在する理を分からせます。あなたは突然この言葉のもう一つの内涵を分かったと感じます。

 私が以前悟りについて語った時、誰も言わない天機を言ったことがあります。それは「修は己にありて、功は師にある」ということです。千年も百年も自ら修煉していて、自ら高めていると思っていても、実のところいくら修煉しても、何もできないのです。師が見守ってくれなければ、何も解決できません。つまり本当の問題は師によって解決され、法の背後の要素によって解決されるのです。自分の悟りというのは、修煉の中で困難にぶつかって、克服してから引き続き修煉していくことです。これはあなたの悟りと言います。本当に理から何かを悟ります。もしこの法があなたに分からせないならば、あなたがいかに悟りたくても悟ることはありません。ですから必ず一つの条件を備えなければなりません。すなわちあなたは必ず真に修煉していかなければならないのです。

 以前西方の宗教は信じることを重んじ、東方は悟ることを重んじました。はっきり言うとあなたは堅定でなければなりません。もしあなたにこの気持ちがなければ、あなたは何もできません。逆に言うと、あなたがその本を理解していない時、その気持ちも固められないはずです。ある人は多くの学習者が法を学ばないのを見て、その人のために焦ります。すでに法を得たのに、法を学ばないことは本当に惜しいのです! 確かにそうです。多くの人は法を学ぶことを重視せず、それを普通の気功として見なし、少し練習し、体を鍛えれば良いと思います。もちろん我々の法はとてつもなく大きいので、体を鍛え、病気治療と健康保持の面では大きな作用を働き、強く感じるのです。しかしただ病気治療と健康保持のためなら、あなたを向上させる作用を果たすことができません。その上、私が今日このことをする目的は明確で、誰かの病気を治療し、健康を保つためにこの法を伝えるわけではなく、私の目的は高い次元へ人を導き、本当にあなたを向上させることです。あなたがこの法のやり方と一致することができなければ、少しばかりの身体の健康しか得られないのです。しかし、もしあなたが本当にこの法を学びに来るのではないなら、恐らく身体の健康も手に入らないかもしれません。しかし逆に言うと、あなたが本当にこの法を学びに来るのであれば、何もかも得ることができます。あなたに明確な目標がなく、病気治療と健康保持、その他のいかなる考えも抱いていないならば、かえって効果も良くなるでしょう。人が向上する過程において、あなたにだんだんと認識する過程があることは許されます。ですから私たちはあなたに法を読ませ、その本は何であるかを理解してもらってから更に学び続け、修煉し続けていくことができるかどうかを決定していきます。

 私は新しい学習者が入門する時、その人に本を読んでもらうことを主張しています。本を読んでもらってから、その人ができるかどうかを判断します。できるのであれば、その人は修煉を始め、駄目だったら、無理してはいけません。我々が人を済度するのに強制してはいけません。あなたが必ず心から向上し、修煉し、もっと高い境地まで到達したいからこそ、修煉することができるのです。人の心が動じなければ、どうしようもありません。強制されて修煉を始めたのは修煉ではなく、強制的に人に修煉させることもできません。その人の心が動ぜず、自分を変えようと思わなければ、何もなりません。皆さんご存知のように、それは超常的な理です。高い次元へ修煉し、自分の境地を高めたいと言っても、あなたはどうして高めることができるというのですか?!

 多くの人は以前気功を練習して、一つの誤った状態に入りました。時間をかけて煉功さえすれば、毎日時間を長くして煉功していけば向上できると思っています。実のところちっとも向上することができません。その人は永遠に病気治療と健康保持、つまり気を煉るという次元を突破することができないのです。ところが気功はその程度のものではありません。それはただ修煉の中の最も低いレベルの病気治療と健康保持という次元のものを出して、人にとって良いことをするに過ぎません。気功の目的はそのようなことではありません。ですから、私がいつも言っているように中国の歴史において今までになかった、全世界でも現れたことのない気功が、どうして今日、近代的な科学に動かされているこのような社会状態の中で現れてきたのでしょうか? 人間はあくまでも人間で、人間の思想は抑制されたもので、智慧は限られているので、これらのことに思いつかず、すべてのことが自然なこと、偶然のことだと思います。自然なことは存在せず、偶然なことはなく、すべてのことに原因があるのです。私が以上のことを言ったのは、皆さんに法を学ぶことを重視してほしいからです。法を学びさえすれば、修煉の中で向上でき、さまざまな状態が現れてくるはずです。あなたが法を学ばなければ、何も得られません。

 気功鍛錬はどんな方法をとっても、その気功師が言うことはどんなによくても、ただの病気治療と健康保持に過ぎません。それは絶対にあなたを高い境地まで到達させることはできません。以前は修煉界においても、宗教界においても、絶対にこのような奥義深い法を知ることができませんでした。普通の気功は修煉を指導する法がありませんので、ただ人にどのように病気を治療し、いかに健康を保つかだけを教えます。先ほど私は言いましたが、あなたがその境地まで到達し、それほど高い功力を持ちたいのならば、あなたの思想境地が向上していかなければなりません。

 周知の通り、以前佛陀あるいは道家の学説の中で、修煉は徳を重んじなければならないと説いていました。イエスは人に良い人になることを求めます。何をもっていい人と言いますか? 何をもって徳を重んじると言いますか? つまりあなたの行動がどんどん良くなっていくことです。どの程度まで良くなるというのですか? すべての常人より良くなれば、あなたは超常な人になるわけです。あなたが修煉する人なので、体に功が出て、功が伸びますが、その高さはあなたの思想境地と同じです。あなたの思想境地が高ければ高いほど、功の次元も高くなります。科学は永遠に佛のような境地まで発展できないと言っています。科学がどのように発展しても、全ての人間は常人だからです。皆さん、考えてみて下さい。常人には七情六欲があり、様々な執着心があります。様々な世の中の欲望があり、あなたはこのようなものを持ちながら天国へ行くとしたら、それでは大変なことになるのではないでしょうか! そうしたら天国は常人の社会になってしまうのではないでしょうか? 互いに奪い合ったり、騙し合ったりする常人の社会になってしまうのではないですか? ですからあなたは必ずそれにふさわしい高い境地まで達してから始めていくことができるのです。

 多くの人は宗教、今のこの宗教を信じていますが、まず神が見守ってくれないので、なかなか向上できません。また多くの人が当時のイエス、エホバ、あるいは聖母マリアの言った話の本当の意味を理解できません。信じさえすれば、必ず天国に行くことができると思っている人がいます。信じることは一つの基礎であるに過ぎません。多くの人の理解は字面にとどまっています。信じさえすれば、死後必ず天国に行くことができると言う人がいます。私はあなたに教えましょう。行けません。どうして行けないのでしょうか? 考えてみてください。本当に信じることとは何でしょうか? あなたは口先だけで信じると言って、実は心の中では信じていません。それはどうしてですか? 本当に信じていれば、あなたの言行は必ず一致しなければなりません。教会で懺悔する時、あなたは、「主よ、私をお助けください。私は今日過ちを犯しました。私の罪をお許しください」と言います。あなたはその時は良くできました。しかし教会を出た途端、常人と同じようにやりたい放題になってしまい、また同様な過ちを犯し、常人の中で常人にも劣っています。それでは考えてみてください。あなたの懺悔に何の効果があったというのですか? 多くの人はただ表面にとどまっているだけです。懺悔した後で二度と過ちを繰り返さないようしてください。それから過ちがまだあることに気づいたら、また懺悔し、同様な過ちを再び犯さないようにします。このようにして絶えず常人の中で犯した過ちを取り除けば、あなたはもっと良い人になれるのではないでしょうか? さらに高い境地に到達したのではないでしょうか。常人をはるかに越えた良い人になったのではないでしょうか?! これこそ修煉ではないでしょうか、心性を高めているのではないでしょうか? 西洋の文化の中に修煉の概念はないのですから、イエス、エホバが自分の法を伝えた当時、修煉という言葉も使いませんでしたし、この概念さえもありませんでした。彼らは「修は己にありて、功は師にあり」ということを知っていたからです。修煉しさえすれば、修煉者が行く天国の神は全てにおいて助けてくれます。身体においても変化を起こし、身体を演化し、身体に神が備えているような大きな神通力を与えます。一切は神によってなされるのです。

 人が死んだ後に天国に行くことができると思っている人がいます。修煉していない人は死んだ後、西洋流の表現では魂と呼び、つまり幽霊と言うものになります。皆さん、それが何であるかを考えてみてください。東方の人には非常に明確な人体修煉という概念があって、佛体つまり神の体を修煉によって作り出そうとします。もしもあなたにこの佛体がなければ、つまりあなたに天国世界の神の体がなければ、人の魂が出てきたら光にあたってはいけません。日の光にあたると、散り失せてしまい、生まれ変わることさえあり得ません。ですから人は死んだら布をかぶせます。日の光りに当てないように、土の中へ埋め、魂が散り失せることを避けます。佛と神の光焔は光輝いており、太陽の光より更に強いのです。魂は神に会ったら溶けてなくなるのではないでしょうか。それでどうして天国世界に行けるというのですか? ですから神の身体がなければいけません。同時に修煉によって、体の構成成分を変え、本体を高エネルギーで構造されたものにし、佛の身体、あるいは神の身体を得てはじめて、行くことができるようになります。魂はこの世に来ることができるでしょうか? 来られません。ですから生を受けるためには体がなければなりません。両親の体から生を受けて、この世界にいられるようになります。信じさえすれば、天国に行くことができると思っている人がいますが、そんなことはあり得ません。我々修煉界から見れば、ばかばかしい話です。真に修煉して始めて、天国に行くことができます。

 西方宗教の神を信仰するこのような過程は、つまり心性は高まり、思想境地も向上し、ますます良い人になっていきます。するとその人はまさに修煉しているのではないでしょうか? 修煉は形式を問わず、様々な修煉方法があります。これは西方宗教と東方宗教の修煉形式上の相違です。どうして西方は修煉を説かず、東方は修煉を説くのでしょうか? 実のところどちらも修煉なのですが、東方の文化はこの面を明確にしているに対し、西洋文化の中ではそのことを講じていませんでした。神がこの世に来て法を伝え、人を済度する時、人の理解できる文化、形式を採用して、はじめて理解させることができるのです。当時の人間の言葉で説いて、はじめて分からせることができるのです。普通の気功を練習しても、人を高い境地に到達させることはできず、絶対不可能であり、真の修煉によってのみ出来るということを皆さんに言っておきたいのです。気功は修煉の中で最低次元のものにしか過ぎないので、病気治療と健康保持のみに限られています。病気治療と健康保持のことでさえも人に求めるものがあるのです。それも一種の修煉の形式なので、常人の中のいかなる医療方法とも異なっています。気功を学び、体の病気を取除こうと思うのならば、気功の法理に合せなければなりません。

 気功の法理に符合すると言うのは何でしょうか? それは超常的なものであり、超常的な方法で病気を治療しようとするものであれば、薬を飲まず、注射もせず、手術もせずに治ります。これが超常と言えないというのですか? 人はその理に合ってはじめて、本当に病気を追い払うことができるのです。多くの人は気功を練習しても、病気を取除くことができない根本的な原因はこれです。超常的な方法で、病気を取り除こうと思えば、超常の理に合わせなければなりません。ですから必ず気功の要求に従って良い人になり、悪い事やよくない事をする習慣を直してはじめて病気を本当に取り除くことができるのです。これが病気の治る本当の原因です。常人の医療方法で直そうとするのなら、こうする必要はありません。手術、注射、投薬などをしてはじめて、病気が治るのです。しかし宇宙の中に一つの理があります。失わなければ得られず、得ようと思えば、失わなければならない。失って始めて、得ることができます。これは絶対的な真理です。病気は病院でどうして治ったのでしょうか。現代科学技術の手段で病気を治したと言う人がいます。それは現代人が近代的な社会を表現する一つの手法であり、一種の形式の現れに過ぎないと私は思います。あなたの病気が治る本当の原因はこれだけではありません。この空間の宇宙の理にも合わなければならないからです。皆さんは知っていますが、病気にかかった時、多くのお金を使って診察してもらわなければなりません。もちろん社会福祉制度が整い、社会医療保険が完備している国であれば、この問題は解決することができます。しかしあなたは痛みに苦しみます。病気になれば苦痛ではないでしょうか。あなたの苦痛そのものは、あなたが苦をなめているのです。この苦痛が業力の償いそのものなのです。それから、あなたはお金を使って、注射し、薬を飲み、さらに手術をするなどなど、これはあなたが苦を嘗めているのではないですか。それでやっと病気が好転するというわけです。皆さんに教えますが、このような好転はまだ根本から治ったと言うことではありません。その人の病気を先送りしただけです。

 病気は常人の体の表面にかかったのではなく最大の分子粒子から構成される身体よりもっとミクロな粒子の次元でかかったのです。分子には異なるミクロの次元の粒子があり、人間の体を構成しています。一つの次元の粒子は一つの次元の空間です。もちろんその空間は重なって置かれているのではなく、小さい粒子から大きい粒子を構成しているのです。しかし一つの次元の小さな粒子の存在する領域は、一つの次元の空間にほかなりません。このような空間がたくさんあります。多くの病気の原因はそこにあります。表面でかかったのではありませんが、肉体組織の表面に現れたのは一種の病気の表面上の現象に過ぎません。

 手術をして、その腫瘍を取ってしまったとします。実のところ取ってしまったのは最大の次元にある分子から構成された肉体の細胞で、それを取ったのです。この細胞のこの空間での現れを取ったのです。この細胞を構成する更にミクロの粒子を取ることはできません。しかしこの表面にある体の細胞を取ってしまえば、見えなくなるので、病気が治ったように感じます。恐らく後で病気が転化し、病気によって再発する恐れがあります。本当にその病気が取り除かれていないために、恐らく他の場所に転移しまた病巣になり、再び腫瘍ができてきたり、あるいは他の病気や他の災難に転化したりします。これは私たちが見た本当の原因です。これに対して、功能で病気を治す場合手術をする必要はありません。どうして人の腫瘍を取ってしまうことができるのでしょうか? つまり別の空間、人の目の見えない空間から取ってしまったのです。最も簡単な例を挙げて説明します。皆さんはこの布がふくらんでいるのが見えますか、どうしてでしょうか? その裏に原因があります。私の手が裏にあるからです。布を持っていっても、この手を取り除いていないので、またこちらへ来てしまいました。つまりその裏の原因を解決しなければ、根本的に解決することができません。つまり人間の医療の方法では、根本的な問題を解決できません。人間の医療の方法は表面のことしか解決できず、業を滅することはできません。

 人間は世の中での損得、幸福や不幸、楽しく生きていけるかどうか、幸せがあるかどうか、あるいはどれだけ災難があるのかは、すべて人の体にある二種類の物質によって決定されます。一つは徳と呼ばれ、一つは業と呼ばれています。つまりこの二種類の物質の働きによるのです。私たちは良い事をして徳を積むことができます。昔の人はよく徳を積むと言っていました。人々はそれを意識形態、思想領域の範疇のことと見なしています。実のところそれは物質的なもので、本当に形のある物質なのです。人々は業力を語りますが、東方の宗教はそれについて明確に説いています。業力とはなんでしょうか。つまり一種の黒い物質で、人が悪いことをする時、作り出されます。これらのものが多くなると、人に有難くない事が現れます。例えば、病気になることもあれば、災難や難儀に遭うこともあります。人間の全てのことはみな自分のやったことの結果だと私には分かっています。この世で幸福かどうか、良いか悪いか、すべて自分自身のやったことの結果です。現世で現れるものもあれば、隔てた世で現れるものもあります。隔てた世で現れる場合が多いのです。隔てた世で現れるとは何でしょうか? つまり今世に現れずに、来世に現れてきます。現世に現れることは、東方の修煉界では現世応報と言い、悪いことをしたら、報いが来ます。ある人が悪いことをして、外出するとすぐ不祥にひっくり返りました。本人はこれが悪い事をしたことの報いだと思わず、偶然のこと、自然のことだと思います。私は自然という現象はないと言い、すべてのことに順序があって、偶然ということは存在しないと言いました。この空間に人々に見えないものはとても多く、もちろん近代科学は空気や酸素、水素、その他の分子で構成した微量元素があるのを認識していますが、わずかこれくらいです。しかしこれらのものもこの目には見えないのです。

 実は皆さんに教えますが、厖大で広がっている物質も含め、この空間にある極めてミクロの物質はすべて神です。人が何をしてもその一挙一動は彼らには明らかです。人は悪いことをする時、いつも自分がやった悪い事は他人には見えないと思って、やっているのは悪い事だと知っているのに、自分を騙す理由を探し、自分の心を慰めています。その人は神を信じていません。一つの冗談を言いましょう。これは宗教や人種とは関係ありませんが、私はただ人間が引き起こした間違いについて話しているだけです。皆さんもご存知の通り、最近インドは連続して五つの原子爆弾を爆発させる核実験を行い、各国はこの事に驚愕しました! 世界の人々が平和を望んでいるのに、なぜ原子爆弾を爆発させるのでしょうか? 私はいかなる観念も抱いていません。ただ人間が起こした間違いを話しています。その民族が間違ったかどうかを言っているのではありません。皆さん考えてみてください。その核爆発は地下で爆発させたとしても、それは異なる粒子や分子で構成されたこの物質の世界、地球、人類のこの環境に対する破壊であり、神は許しません! 天が人に報いを与える時、人は自然な現象だと思います。インドの気温はすぐ全世界で最高になって、現在摂氏五十度あまりの温度が続いています。その熱さで多くの人が死にました。また暴風が吹いて、多くの人も死にました。人はこれらの現象を神からの警告とは見なしていません。それではいけません。人はそれを自然現象と見なしています。世界で起こる全ての事は偶然ではありません。あなたにも分かると思いますが、もしある民族、ある地域、あるいは誰かが悪い事をしたら、引き続き特殊な現象が現れます。人の災難、人に関する全ての事はすべて自分のやったことの結果です。さっき私は簡単に初歩のことを話しました。来場している古い学習者が皆これらのことについて深く理解しています。来場の方には新しい学習者がたくさんいますので、私はとても簡単にこれらのことについてお話しました。

 完全にこれらの事を知りたいならば、本を読んでください。『轉法輪』という本はすでに全世界の科学技術に大きな衝撃を与えました! 『轉法輪』の中の内涵はかなり大きく、豊富なのです。修煉には次元があり、異なる境地があるからです。一回読めば、あ!これは人に良い人になることを教える本だと気付きます。しかし皆さんに教えます。如何に良い人になるかを教えるだけではありません。もしそれだけのことなら、あなたは昇華できません。もし昇華していきたいならば、本の中に良い人になることを越えたもっと高い境地の法理があり、あなたをその理で指導しなくてはなりません。ですからこの本は、その次元の内涵を持たなければなりません。あなたが更に高い次元へ修煉しても、この本は高い次元へ、更に更に高い次元へもあなたを指導することができます。異なる高い次元の修煉に対しても、この法はそういった力を持ち、異なる次元の内涵があなたの修煉を指導しなければなりません。圓満成就という修煉の目標に到達するまで指導します。ですから次元が高くなればなるほど、修煉する時、本の中から分かるものがもっと多くなります。私はここで主に新しい学習者に対して言っているのです。しかし簡単に言ったのですが、実のところ既に高いレベルのものです。皆さんはこれに対して、異なる理解があるはずです。この辺にしておきましょう。今回の法会の目的は主に体験談による交流です。

 学習者が法を学んでからの各自の修煉体験を聞いてみたいと思います。この会の最後の半日に、皆さんの質問に解答します。それは講法にもなります。皆さんから様々な質問が出されますが、修煉に対してもとても役に立つのでしょう。同時に普遍性があるので、皆さんが共に向上することにも役に立ちます。皆さんは質問を書いて提出してください。私はそれに解答します。最近、古い学習者の上達が速く、新しい学習者との開きはとても大きいのです。法は完全に皆さんに説きましたが、ただどのように修煉して向上するかのことです。

 さっき私は主に新しい学習者に対していくつか最も初歩的な道理を説きました。完全にはっきり説明しようとするなら、ここに座って何日間かかけないと、明白に説明できません。私はただほんのさわりを説いただけです。

 なかなか顔を合わせる機会がないので、皆さんはいつも修煉を長くしているのに、私に会う機会は少ないと思っています。実のところ、あなたは毎日私の身辺にいて、あなた自身は知らないだけです。しかしあなたに知らせることもできません。あなたの表面はやはり常人だからです。ある状態まで修煉できれば、はじめて知ることができます。私の先ほどの話の意味は修煉したいならば、私は見守ってあげることができるということです。どれ程の人がいても、私はすべて見守ってあげることができます。私には無数の法身があります。この法身という概念は西洋の宗教にはなく、東方の宗教にあります。特に佛教では、阿弥陀佛の法身がとても多いと言っています。私は皆さんに教えましょう。私の法身は数え切れない程多いのです。どれ程の人が修煉しても、私が見守ってあげることができます。しかしこの法身は私にほかならず、智慧の具体的な形象の現れでもあり、人間の観念では理解することができません。今の科学が現有の空間に限っており、つまり最大の粒子という次元で認識しているからです。

 今の科学は最大の分子粒子という次元の構造を見ることができます。鋼が鉄より強靭であるという特性を持つのは、粒子の成分と構造が異なっているからです。銅や、銀や、金がどんな状態であるかを知ることができます。それからどのように現在認識しているこれらの物質を利用するかなど、この面だけが発展しています。しかし、皆さんに教えます。これが現代科学が別空間を認識できない最大の制約であり、つまり物質のミクロ世界に向かって或いはマクロ世界に向かって認識するような道を歩んでこなかったのです。実はその物質は異なる小さな分子粒子からできており、その分子粒子は原子粒子からできており、原子粒子はまた原子核粒子からできており、原子核はさらにミクロの粒子、更にミクロの粒子は更に更にミクロな粒子から構成され、更に更にミクロな粒子は更に更に更にミクロな粒子から構成されているので、人にとって尽きることはありません。このようにして絶えずミクロな世界へ向かって発展し続けます。どんなミクロのレベルまで達成するのでしょうか。皆さんに伝えますが、その粒子が到達するミクロの状態はとても恐ろしいのです!

 釈迦牟尼は一粒の砂の中に三千大千世界があるのを見ました。彼の言った三千大千世界は、人類社会をさして言っているのではありません。彼が言ったのは、三千大千世界の学説で、私の現代の言葉で言えば、つまり我々のこの銀河系には人類のような物質の空間、即ちこのような星が三千個存在します。彼の言った意味は一粒の砂の中に三千個のこのような世界があるということです。私は『轉法輪』の本の中ですべて説きました。ですから、その三千大千世界は一粒の砂の中にこれほど多くの人類の世界があり、そこにミクロの生命も存在し、そこでその砂の世界の中には恐らく河、江、湖、海があり、それも砂があります。そこでその砂の中は更にミクロの三千大千世界があるので、更にミクロ的に、人類と同じような社会が存在します。釈迦牟尼が見たのはすでに相当ミクロ的でした。佛陀、彼にはこの能力があります。しかし私は皆さんに教えます。それでもまだ極めて浅く、続けて追及していけば、ミクロの下の粒子は尽きることがありません。私は最も簡単な例を挙げます。私は人に教えましたが、人の見ることができる最大の一層の粒子は分子ではなく、人の見ることができる最大の一層の粒子は星です。しかし星は宇宙の中で最大の一層の粒子ではありません。それはマクロからミクロまでの中間の粒子にしか過ぎません。どれほどの数の巨大な球体の粒子が存在するかを考えてみてください。

 宇宙は一つの単元であり、一つの完全の粒子です。私たちのこのような宇宙が三千個あって、更に第二層の宇宙を構成し、つまり更に大きな一層の粒子を構成します。これはただ一本の線のように展開してきたのです。しかしその粒子の広がりははてしなく、遍く分布しています。電子が原子核をめぐって運行するのは、私たちの地球が太陽をめぐって運行していることに似ていませんか。まったく同じです。仕組みにおいても形式においても、全て同じです。小さい粒子であればあるほど、密度は大きくなります。もしそれを私たちの地球ほどに大きく拡大したならば、電子の上に何があるかを見てください。人間がいるということもありえるのではありませんか。もちろんその上に何があるかのことと粒子の存在形式とは別の概念ですが、私はつまりこの意味を話しています。それは星に似ているのではないでしょうか。

 人類は今自分だけが全体の宇宙の中で唯一の高級生命であると認識しています。実のところ皆さんに教えましょう。人類は全宇宙の中で最も低級な唯一の生命です。すべての星に生命があり、ただ月にはありません。月は昔の人類が造ったものだからです(人類の歴史は一回一回です)。人類は業力が多くなったら、消滅されます。新しい人類はもう一度発展してきて、それから悪くなって再び消滅されます。月に言及しましたので、少し話します。月はかなり古い先史人類が造ったのです。当時はその体積がいまほど大きくもなかったし、光度も今より明るかったのです。しかし今の人類から見れば、すでにかなり巨大なものでした。中は空です。その後、長い期間を経て、宇宙のほこりが爆発物質とともに落下し、星が更新される時に、発生した爆発の物質のほこりに絶えず覆われており、月の表面の厚さは著しく増えました。表面の厚さは数十キロメートルまで増加し、これはそのほこりの厚さです。もし数十キロメートルを引けば、もとの大きさになります。

 さっき私の言ったことは、すべての星において生命が存在しており、その上たくさんの人類のような生命が存在していますが、ただその人はこの空間にいません。異なる粒子は異なった空間を構成しているからです。もしあなたがその空間に入ったとすると、今の人類の科学観念で認識していけません。この科学はあまりにも浅薄です。あなたはその世界に入ればその世界の状態、形態と思惟に符合しなければなりません。それで始めて認識できるようになります。中へ入った後に、粒子は人類の次元の粒子より小さいのですが、その空間は極めて広大です。私たち人類は分子と星という二種類の粒子の間にいます。

 空気は分子から構成されたものですが、あなたには見えないだけです。草花、木、鉄鋼とあなたの身に付けている布とあなたの肉体、髪の毛、使った全てのもの、周囲の全ては全部分子から構成されています。土も分子から構成されているので、私たち人間はそれを土と呼びます。

 実のところ神は人類の空間にある全てのものを土で構成されたものと見なしています。神たちは分子そのものも土と見なしています。ある人は私に聞きましたが、西方の人種の主であるエホバが泥で人を造ったと言いました。実のところただ我々人間が理解することができないだけで、空気を含めて、この空間の全ては彼らの目で見たら全部土です。あなたは土で埋められていて、周囲はすべて土です。人間は土の中であちこちに潜りこんでいます。全て土で構成されているので、人間はこの土の中にいます。私は西方の人種の神が土で人間を造ったと言うことを、こういうふうに話したら容易に理解できると思います。

 もし別の空間の生命の存在状態を知りたければ、一層更に小さい粒子の生存空間の状態の形式に符合しなければならないのです。今の科学理論ではあなたには認識することはできません。あなたは近代的な科学観念を捨てなければならないのです。それで初めて認識することができるのです。それを認識できれば、人類が言っているこの時間と空間の概念と違うことに気づくでしょう。私が今話していますが、言い終わったばかりのことは別の空間の人も聞いています。私はすべての時空を越えてこの事をしています。時間がとても早く経つ空間では私の先ほどの話は既に数百万年経ちました。つまりこの意味です。しかし別の時空にいる生命は時間の速さも遅さも感じられないのです。異なった空間の中では、物体の構造の全てはみんなこの時間と同じように、それぞれ年の数え方があります。私が一言を話した間に、そこでは既に数千万年が経過してしまいました。そこでの一年間は恐らく地球の一年間より更に長く感じるかもしれません。つまり人類の思惟でこれらの事を理解してはいけません。ですから、あなたは別の空間を認識しようと思えば、別の空間の思惟方法と状態に符合して始めて、認識することができます。この法の背後には異なる内涵がありますが、即ちどうして異なった空間には異なった内涵が存在しているのかを皆さんに教えています。どうして法の背後にはこんな大きな力があるのでしょうか? あなたの体を変えさせ、あなたを向上させることができるでしょうか? 皆さんに教えますが、その存在形式は常人の考えの及ばないことです。文字の背後に重なり合った無数な高級生命がいるからです。

 私はただ現代人の考えと現代人の学問に合せて言ったのです。はっきり言いますと、現代人が頼っている科学での言い方に合せて言ったのです。私はこれらの道理を近代的な科学に合せて皆さんに教えましたが、私はこの科学に賛成していません。まず、この科学は巨大な宇宙の全体の中で矮小な幼稚園レベルのことでしかありません。しかし人間にとって近代的な機械があって、古代よりよくなったように見えますが、実のところ、前期の人類文明に比べて相当劣っています。どんなに精密な機器であっても前期の文明のものよりかなり雑です。その上この科学はある限られた範囲の中で発展してきて、自ら科学に枠をはめてしまったのです。それでは、どんな状態をもたらしたのでしょうか。実証科学以外のものは敢えて認めようとしません。これは最も恐ろしいことで、人類にとっても最も恐ろしいことです。なぜでしょうか。皆さん考えてください。科学は浅薄で、科学者達が言うにはまだ発達していないということです。今人々はそれを信じ込んで、それが絶対的な真理だと思っています。このような認識は現在社会の多くの理論と西方の宗教を含め、カトリック教にしても、キリスト教にしても、皆さんが本当に信じているのは主ではなく、科学です。皆さんは心の底から科学を本当に信じているのです。皆さんの宗教はただの形式になってしまい、人間の社会的な行動になってしまいました。しかし私は皆さんに言っておきますが、科学も一つの宗教になっています。しかもとても完備された宗教です。

 その次に、普通の宗教が人にどのように振る舞うべきかを教えていると皆さんは知っています。しかし科学も小学校から中学校、大学に至るまであります。宗教の中に牧師がいて、司教がいて、その他の聖職者もいます。この科学はもっと整っており、そこには教師、学士、修士、博士、ポストドクター、さらに指導者もいます。学位は高ければ高い程、科学の教理をより身に付けていますし、教職者の名称も少なくありません。この面では科学はとても整っています。普通の宗教は人々に精神上の信仰から始めて、物質の変化に至るまで教えるのです。それに対して、科学は人々に物質から認識して始めて、精神からの信頼と擁護に達成するまで教えます。しかしそれは神が人々に伝えたものではありません。それは三界にある他の星の宇宙人が人為的に人類を操縦するために人に伝えたのです。人間はそれを何よりも深く信仰しています。しかし皆さんに教えます。この科学は浅薄であるために、人類社会に道徳の破壊をもたらしました。これが最も恐ろしいことです。科学がミクロ物質の具体的な存在形式を認識できないために、人間は悪い事をしたら、業力を造ってしまうことが分からないのです。黒い物質は人に災難をもたらします。人間がよい事をすれば、白い物質を生じ、人に幸福をもたらす事ができます。つまり人間が輪廻する時に、各空間においてもたらされた状態が報いです。そして天国の世界を実証する事ができないため、これらのものに言及すると、科学を信奉している人はあなたが迷信を言っており、みんな存在していない事だ、私が信じるのは科学だと言います。それでは皆さん考えてください。これは科学と言う大きな棍棒で人類を維持するのに最も肝心なもの…道徳に非情な打撃を与えているのではありませんか。これはとても恐ろしい事です!

 人間に道徳の規範があるというのは、人が良くないことをしたら、天国にいけないだけではなく、地獄へ落ち、悪事の報いを受ける事を分かっているからです。人は悪い事をしないように自ら自粛しており、人類の道徳を守っています。人がひとたびこのような事を信じなければ、神を信じず(しかし神は確かに存在しているのです)、人が神を信じなければ、考えてみてください、それは非常に恐ろしい事です! 人間はどんな悪い事でも敢えて行い、誰も見ていなければ、悪事を働きます。近代的な科学の影響を受け、成長してきた新しい世代の人は気兼ねなく人を殺し、放火し、悪事を働きます。社会では暴力団・マフィア組織や、麻薬中毒、麻薬密売、売春をするものが現れてきます。何でもやります。めちゃくちゃなもの、やりたい事は思いついたらすぐやります。考えてみてください、この社会は恐ろしくないですか?! これはつまり科学が私たちにもたらした最大の災難です。科学が神の存在、徳の存在を実証することができず、因果応報を知らないからです。これらの問題に言及すると、人々は科学という棒を振り回してあなたを打ち、それを迷信だと言います。人類の道徳が喪失するにつれて、社会は収拾のつかない境地に陥ってしまいます。人間も最も危険な時期に来ています。神がこのような人間と獣の間の変異した人類の存在を許すことはできないからです。
 
 私はここでただ皆さんにこの道理を説いているだけです。私は人類の科学の学問に反対しません。しかし、私は科学を盲信してはいけないことを皆さんに教えます。科学は現有の物質空間においてある程度の範囲内に人類社会を少しばかり改善させることができますが、それに相応して、もたらされた災難は相当大きなものです。さっき私が指摘したのは人には見えない災難です。人々の見ることができる災難、例えば、環境汚染や、自然界の破壊も、かなり恐ろしいものです。この科学は多くの社会問題をもたらします。人の観念をすぐに転換させることはできませんが、ここには新しい学習者もいますから、私はもう多く言いません。社会の多くの問題は全て科学がもたらしたもので、とても恐ろしいものです。神を信じなくても、神は確かに存在しています。厖大な宇宙の至るところに神がいて、神のいないところはありません。

 人間が悪いことをしたために異なる次元から落ちてきて、最低の次元、つまりこの迷いの社会に落ちてきて、あなたの目も最大の一層の粒子――分子で構成されます。ですからあなたの目は別の空間が見えません。私たちの修煉の中で、どうして常人の見えないものを見ることが出来る人がいるのでしょうか? つまりあなたの慧眼が開いたからです。私たちは天目を開くと言います。分子で構成した目を使わないのですが、目で見たのだと感じた人もいます。実のところ二種類の目が同時に作用するので、目で見たのだと感じるだけです。この問題に言及したのは、皆さんの向上に役立てるためです。

 次に私は宗教の問題について話します。西洋人は宗教を信じる人が多いので、彼らは大法を得る時、一つの障害があります。皆さんに言っておきますが、実のところ、現在の人類社会の宗教、全世界すべての正教は既に見守ってくれる神がいなくなりました。宗教の中で現れてきた幾つかの状態、奇跡あるいは表現する形式は、全て人類社会の低能な魂の体が作用したもので、人を害するものです。宗教の中に見守ってくれる神はいないのです。

 そこで、この中に一つの問題があります。もし見守ってくれる神がいなければ、あなたがそこで修しても、向上できません。教会堂で懺悔しても、聞いてくれる神がいなければ、どうして向上できるというのでしょうか。私が言っていることは別に宗教を責めているわけではなく、確かな現象を言っており、本当にそのようになっています。どうして神は見守ってくれなくなったのでしょうか。私がさきほど言ったように、あなた達が本当に信奉したのは神ではなく、科学なのです。もちろん、初めから完全にそうではなく、神の一面を信じる人がいました。その後、次第にこの方面のものはどんどん薄くなり、薄くなってきて、最後に見えなくなりました。それで神も見放したのです。これは一つの原因です。近代的な科学がもたらした社会の局面は、人類の道徳を破壊し、人は悪事の限りを尽くし、人は既に人の行為、人の規範を失い、神は人を人と見なさなくなりました。ですから神は人を済度しなくなりました。これは神が手離した最も根本的な原因です。

 私はここで人類の真実の現象を言っています。皆さんもご存知の通り、西洋人は中国人の男女関係が今でもそんなに謹直であることが理解できません。私は皆さんに教えます。それこそ人間なのです。性の開放は、人種を混乱させ、人倫を乱しました。神は絶対にそれを許しません。ですから一人の修煉者として、あなた達は絶対にそのようなことをしてはいけません。あなたはあなたの妻を持つことができ、あなたの夫を持つことができ、これは正常な人間の生活です。もし相手があなたの夫ではなく、あなたの妻ではないならば、彼(彼女)と性行為をしてしまえば、それは罪を犯すことになります。東方と西方のいかなる正しい宗教にも、神はこの点について非常に厳しく言っています。人の行為を規範する時にこのことを非常に厳しく強調しました。このようなことだけではなく、現在暴力団・マフィアの世界やら、同性愛やら、暴力への祟拝やらもあります。一つの現象を言っているだけですが、それは一種の社会状態を表しています。人々はそういった暴力に対して気ままにさせ、暴力団・マフィアの世界のボスを崇拝し、さらに昔は人を殺して放火した海賊のボスに対しても非常に祟拝するようになりました。つまり人々は良いことと悪いことをはっきり区別できず、善悪を区別しなくなってきました。祟拝しているものは正しく良いものではなく、悪いものです。麻薬中毒者、精神の退廃者、節度のない、自己を制約していない人が社会で何かをやろうと思えば、やりたいようにやります。人の観念はすべて逆になりました。

 今商店で売っている人形は(子供の好きな人形)、以前綺麗なものであればあるほど人気があったのですが、今では綺麗になればなるほど人気がありません。妖怪のものを作って、醜くければ醜いほど、よく売れます。どうしてですか? 無理に買わせたわけではないのに、どうしてそれほどよく売れるのでしょうか? みんなそれが好ましいと思い欲しがります。つまり人の観念は反対になってしまい、魔性が大きくなったからです。皆さん考えて見てください。人間がこのように発展を続けていくことは、恐ろしいことではないでしょうか? 正統的で、礼儀正しく、上品で、真面目な人なら、間違いなく攻撃されます。このような人は融通がきかないと思われ、古臭く、潮流に合わないと思われます! この潮流が発展し続けていけば、きりがありません。恐ろしいことです。人類のすべては潮流の中で滑り落ちてきました。文芸作品も同様で、以前画を書く時には、とても綺麗なもの、とても美しいものなら、皆感心しましたが、それは優しい心があるために、よいと感じたのです。今一枚のよい絵を描いても、人の心は引かれません。人に優しい心がないからです。あなたがむやみやたらに絵を描いて、抽象派やら、印象派やら、現代派のものやらなどと言えば、人は良いと思います。どこがいいと言うのですか? 本当に人間の理で説明しようとしたら、なかなか言えません。どんな状態の下で言い出せるのでしょうか? 恍惚として、魂が動転した状態の下でなら、それが良いと言うことができるでしょう。しかしこのような状態はちょうど人の魔性が出てくる時の現れです。今人の観念は逆になっただけではなく、魔性もこれほどまで強くなりました。

 昔、彫塑の作品はとても綺麗な彫刻・塑像で、技巧の手法、基礎は非常に良いものでした。今一山のゴミを並べてそこに置けば、それは作品になります。その上それが大家の傑作です。人の観念はこのような程度まで逆になってきました。皆さん考えてみましょう。私たちの未来の世界はどんな様子になるでしょう。私は某国で一種のおもちゃを見かけたことがあります。そのおもちゃは人の大便の形で、そのような形のおもちゃを作っても、買う人がいます。人間は何を祟拝しているのでしょうか? 何を好むというのですか? これはただの社会の潮流ではありません。いわゆる形態、つまり観念の変化です。このような観念の人はどうすればよいでしょうか? まだ人間と言えるでしょうか? 魔のやり方ではないでしょうか? 魔は凶悪です。人間は善であるべきです。善悪は明らかです。あなたは正のものを好まず、悪魔のものを好み、このような人は外形だけ大きな変化がまだ発生していませんが、すべて悪魔なのです。しかし人の魔性の増大につれて、あなたの顔、あなたの外観、あなたの体が全部変わっていきます。どんどん醜くなり、どんどん凶悪になります。目つきにまでも凶悪な光が現れます。人類はこのように続けていたら本当に恐ろしい! もし人類がまだブレーキをかけないならば……

 皆さん考えてみましょう。私はさっき一つの道理を言いました。つまり人類社会の発展は異なった文明の時期を経過したのです。現在石器時代というものがあったことが知られています。実のところ、そういった石器時代はこの地球上にすでに数十回発生したことがあるのです。石器時代とは何でしょうか。つまりある時期の文明は粉砕されて、ただ少数の比較的良い人、ノアの方舟の話にあるように、ただ極めて少数の良い人が生き残りましたが、労働に必要な道具も失われました。どうすれば良いでしょうか? 石を削って労働に必要な道具を作ります。それからもう一度人類を発展させ、新しい文明に入ります。この過程を人は石器時代と言います。類人猿から人類まで進化するような石器時代はまったく存在しません。まったく存在しません。人間はまた、人はサルから進化してきたと言います。これはみな近代的な科学がもたらしてきたものですが、これはおかしくないですか? ダーウィンの進化論は穴だらけでした。信じられなければ、もう一度検討して見てください。猿から人に進化し、原始の生物から近代的な生物まで進化するその中間過程はすべてないのに、人が受け入れることこそ盲信ではないでしょうか! その上それは今回人類の最大の恥辱と醜聞になります。これこそ奇怪至極と言うべきです!

 私がさっき言ったことは人類社会全体の状態です。考えてみましょう。もし神が人を人間として見なさないならば、人間は危険ではないでしょうか? さきほど私が言ったように、異なる文明の時期の人類はどうして消滅されたのでしょうか? マヤ文化はどうして存在しなくなったのですか? 出土文物から当時の人の堕落の具合が分かります。西洋の白人の前期の人、つまり白人の祖先は古代ギリシャ人で、今のギリシャの人ではなく、古代ギリシャ人であって、このような人種は非常に少ないのです。私は白色インド人がこの人種であるのに気づきました。とても稀です。この文化はどうして壊滅されたのですか? 古代ギリシャの残した文明と出土文物の中から同性愛のものが発現されています。当時の生活はとても腐敗し、堕落し、たいへん贅沢でした。こうではないでしょうか? 前期の白人の文明は最初こうではありません。それは最後の時期まで発展してきたからでした。そして人類文化の前段階はこのように堕落していませんでした。後期まで発展してきて大いに堕落した時、神はこの人がもう駄目なのを見て、消滅させました。良い人を残し、新たに発展させ、つまり今の白人です。考えてみましょう。もしこのように人が節度なく発展を続けていくならば、もし神が人間を人間として見なさないならば、それはあまりにも危険です!

 イエスは人への慈悲を説きます。人に災難がある時、彼が彼を信じる人を救いに来ます。人が本当に彼を信じない時、彼は誰を救いますか? 異なる時期の人類の壊滅は皆人類の道徳の腐敗によってもたらされたのです。とても恐ろしいことです。人間がこうしようと思い、人間はそのように発展したいと思い、人間社会をどんな状態に到達させたいと思って、人間は自ら言った通りにしようと思っていますが、今日まで人間は自分の言った通りにしたことはありません。ただ社会をますます悪くさせる一方で、人の道徳をますます腐敗させるだけでした。特にここ数年、人類の滑落するスピートは非常に速く、とても恐ろしいことです。私はこれまで大きな災いや、大きな難の問題を言ったことがありません。そういったことを、責任をもたずに出鱈目に言うと、社会に対して一種の混乱をもたらします。私はそういったことは話しません。あってもなくても、私のかかわることではなく、その話もしません。しかし一つだけ言っておきます。私が今日伝えたものは正法で、皆さんに良い人になるように教えます。もしあなたが良い人であれば、どんな災難もあなたに影響を及ぼす事はありません。そういうことなのです。もし人類社会の広い範囲の人が皆良い人になれば、災難などなくなります。人類の歴史におけるいかなる事も偶然ではありません。すべての事は初めに原因があって後の結果があるのです。

 このことを言っておけば、あなた達の修煉に対して有益です。人間が現在形成した各種の観念はあなたが大法を得ることを妨げています。今の人類社会はどんな様子であるのかを教えることは、あなたが大法を得るのに有効です。私の言ったことは一つの法で、道理なのです。それが正しいかどうか、皆さんは思考力があるので、自分で分析してください。

 さっき話した内容も奥深く、尖鋭で、幅広く関わりました。しかし、私は人に対してではなく、個人に対してではなく、ただ社会の現象に対して言っているのです。どのような人であっても、どれほどの悪事を働いたことがあっても、心から本当に修煉しようと思うならば、私はあなたを見守ります。あなたが修煉しなければ、どうしようもありません。

 これは法会なので、皆さんは体験を語ります。最後の半日に、皆さんの質問に解答してあげます。多くの法を説くこともできるでしょう。

 
 今日の午後の時間をすべて質疑応答に使います。

弟子:私たちはどうしたら良くない考えを取り除くことができるでしょうか?
師:この問題は普遍性があります。実のところ、それは修煉の中での一つの状態の反映です。例えば、以前の古い修煉の方法、その他の宗教を含む話ですが、修煉する人の良くない考えを反映させないために、人為的に自らを世の中と断絶する状態に置きました。ある人は修道院や、寺院に行き、ある人は山の中に入り、洞穴の中へ行って、世と断絶します。同時に彼は長期にわたって深く入定しなければなりません。そのように禅定に入ることは私が皆さんに教えたことと完全に違います。彼は思惟を静にすることができるように、自分が何も分からなくなり、眠っていると言えるまで入定します。この状態では完全に主意識が存在しないのと同様です。私たちが今日まだこの種の古い修煉方法を使えば、一つの深刻な問題をもたらします。私たちは将来もっとたくさんの人、何億人かが大法を学びに来ます。すべての人がこの状態になったら、人類社会はどうなりますか? 同時に、このような方法は副元神だけに限定した修煉しかできず、主元神は修煉することができません。つまり、あなた自身は自分の状態を理解しながら修めることができず、恍惚の状態の下で副元神を修めることしかできません。これでは私たちが今日この大法を伝える要求に合いません。今日仕事を持っている私たちが常人社会の中で修煉するには合わないのです。

 人の修煉に最も肝心な要素は心性を向上させることであると見ており、その人の考えが本当に昇華すれば、すべてもそれに従って昇華していきます。人のすべての行為と考える問題、しようとすることは皆人の心と考えに支配されているのです。自分の心、考えを真に昇華させることができれば、はじめて本当に向上することになります。そこで私たちは今日、人の心を真っ直ぐに指し、つまり人間そのものを真っ直ぐに指して、本当に向上させようとしています。別の道を歩むことはありません。長期にわたって深く入定し、副元神にすべてを任せきっていますが、私たちはこのような方法を取らないのです。みんなが一生懸命修煉して、結局何も得られず、来世に福報を得るだけなら、私は皆さんに申し訳ないと思います。皆さんは自分にも申し訳ないことになります。私たちはこのような方法を取りません。

 そこで皆さんが本当に修煉もでき、常人社会の中でも生活できるようにするために、一つとても特殊な方法を採用しました。あなたの生命の最もミクロなところからあなたを変えるのです。昔の修煉方法は最大の一層の分子からミクロへ進みながら、人を変えているのです。ですから私たちは全く違う修煉の道を歩んでいます。もし表面から変えていったとすれば、今日ここに座っている90パーセント以上の人は多くの神通力を持ってしまいます。地球もあなた達を収容できなくなります。人間の表面に変化が起こる途端、部屋のいかなる場所からも通り抜けることができるようになります。最大の一層の分子から構成された煉瓦、セメントなどは皆さんを制約できなくなります。あなたの最大の一層の分子は既に完全に高エネルギー物質に転化したため、分子以下の更に小さな分子は既に妨げにならないのです。それは布に向かって息を吹けば、息が通り抜けるのと同じことです。つまりあなたは布を通り抜けることができます。この世の一切は既にあなたを制約できなくなります。それではいけません。人類の社会全体が神の社会のようになってしまいます。

 そうなると、神の社会ではこのように修煉することができません。つまり、このような迷いのない社会では、みんなは本当の神の現れを見てしまうと、このように修することができなくなります。絶対的に修することはできないわけでもないですが、少なくとも修しにくくなります。つまりそれだと迷いがなくなってしまうのです。迷いの中で修煉するのは最もやりやすいのです。その上、この空間は迷いの空間ですので、私たちは正反対の方法をとっています。ミクロから、あなたの生命の最もミクロの粒子によって構成された体から次第にあなたを変えます。それから一層ずつ最大の分子に向かって突破し、つまり人体の表面に向かって突破します。ずっと最後にこの目で見られるこの肉の細胞まで、この分子で構成した肉の細胞まで突破したら、あなたは圓満成就になります。私たちはこのような道を歩んでいます。

 この弟子は「私たちはどうすれば良くない考えを取り除くことができますか?」と聞いていますが、多くの人は既に長い間修煉しており、頭の中に前から良くない考えが表れていますが、どうしてずっと取り除くことができなかったのでしょうか? 時には取り除かれたと感じますが、しばらく経つとその良くない考えはまた出てきます。これはどういうことでしょうか? 実のところ、私のさっき言ったことは、つまりミクロからあなたを変えていますが、まだ表面まで進んできていないと言うことです。まだ表面まで変えていないのです。あなたの良くない考えが一重ずつ取り除かれ、弱まっていますが、まだ最終的に取り除かれていません。最終的に取り除かれていないのですが、あなたの修煉は既に相当できたのです。私たちがこのような道を歩んできたからです。取り除かれていない人の考えもいくつか残っていますが、それはまたちょうどあなたが圓満成就するまでに引き続いて常人社会の中で修煉できるようにさせています。もしあなたに常人の考えが全くなくなったら、あなたは常人の中にいられなくなります。

 もし一人の修煉者は、常人としての考えがなければ、他人が頭の中で何を考えているのかすべて分かってしまいます。人が言った一言、一挙一動、ややもすれば、一つの目配せだけを見れば、あなたは彼が何をしようとしているかが分かります。人間、特に社会の中の常人、心の中に表れたのは皆良くない考えですから、あなたはとても我慢できないのです。その上、あなたは空気の中にある極めて多くの毒の物質が見えるのです! 社会全体のすべての良くないものが表出してきたのです。これらがすべて見えますので、どうやってここにいられるのでしょうか。絶対ここで修煉することができません。どうして山の奥に入って世間から離れて修煉する人がいるのでしょうか。彼は既に常人の中にいられなくなったからです。つまりあなたの考えが最終段階に至っていなければ、つまり分子に最終的な変化が起こらなければ、まだ常人の考えは表れてくることがあります。常人の良くない考えが皆表れてきます。それでは私たちがどのように修しても、表面の身体に変化が発生しない限り、悪い考えは相変わらず強烈なものなのでしょうか? そうではありません。

 既にどのぐらい多く向上したのか自分にも分からないのです。良くない考えは既にかなり取り除かれ、残っているのはかなり少なくなり、かなり少ないのです。その上、あなたは自ら既に良くない考えがあることに気づいたのです。これは以前気付かないことです。これらは皆進歩であり、向上したということです。また、表れてきたのは良くないものですが、時にはとても良くないのですが、それもとても弱いものです。自ら心を固め、主意識が指揮をとることができれば、それを抑えることができます。以前あなたはそれを抑えることができなかったため、このような考えに動かされ、良くないことを言い、良くないことをしてしまいました。今、あなたはただ良くない考えがあるのを感じるだけで、それに動かされることはめったにないのです。ここまで言ったのは私たちが歩んだ道はこのような道なので、心配しないで下さいということです。良くない考えがあることを感じるだけで、既に向上しつつありますので、良くない考えは既に多く取り除かれてしまいました。

 ここに座っているのはみな修煉の人です。皆さんの間の差はそんなに顕著なものではありません。しかし、皆さんはもし常人の社会に入って、修煉しない人と一緒にいたら、自ら我慢できないと感じ取ります。彼らの話を聞きたくなくなり、時には彼らのやったことがおかしいと思います。どうしてこのようになるのでしょうか? 皆さんは既に彼らとの間にかなり大きな差ができたからです。もしこの差はほんの少しだけで、あるいは大したものでなければ、このような感じはないはずです。大きな差があったからこそ始めてこの感じがあるのです。しかしまた彼より少しばかり良いと感じるだけです。これも修煉の過程であなたにもたらした一つの状態です。このようにしてはじめて皆さんが常人と一緒にいながら、修煉することができ、一緒に働くことができます。もし私のさっき言ったことを理解できたら、つまりこのようなことです。しかし逆にまた皆さんに言っておきますが、あなたが次のように考えてはいけません。あ、分かった、実はこのようなことですから、これから思うままにしても構いません、どんな悪い考えがあっても、好きなようにさせていい、構うことはありません。それではそれを放任することになり、修煉ではなくなります。私はさっきも言いましたが、悪い考えがあるとしても、それはこのような一つの修煉形式なので、次第にそれを取り除いています。自ら進んでそれを抑え、取り除かなければ、このような意志がなければ、堅実でなければ、それではあなたはまた修煉していないことになります。つまりこのような関係です。

弟子:もし悪い考えがあれば、修煉することができなくなるのでしょうか?
師:さっき私は既にこの問題について説明しました。一つ例を挙げましょう。あなたのその良くない考えは、はっきり言うと一本の糸と同じです。私たちは絶えずそれを切り、それを取り除いて、それを取り除いて、それを取り除いて、それを取り除いています。完全に取り除かれるまでまだ残っていますが、どうして修することができなくなると言えますか? それを切って、取り除いているのは修煉ではないですか? 実際はあなたが既にだいぶ進歩してきました。つまりこの意味です。

弟子:年を取っている親戚は病気がありますが、彼も済度されることができますか。
師:この質問はつまり年寄りは病気があったら、また修煉することができるのでしょうかということを聞いています。大法は伝え出されましたが、表面の形式にこだわっていません。皆さんもご存知のように、今日の講演会は無料で、門戸は広く開けており、誰が入ってきてもいいのです。縁のない人は自らも入りたいと思わないでしょう。つまり選別していません。もし本当に学びたい人が入ってきて、修煉したくなれば、私は面倒を見なければなりません。いくら年配の人でも、いくら年少の人でも、あるいは病気があっても、私は見守らなければなりません。しかし、肝心なのは、ここに来て自らを一人の修煉者として見なすことができるかどうかの問題です。自分を一人の年寄り、一人の病気のある人として見なしていない、ということができるかどうかの問題です。これは極めて重要なことです。いつも年を取ったから、修することができるかどうか、修煉するのにまだ間に合うかどうか、このようなことばかり気にし、こんなに執着していたら、これは一つの障害になります。あなたがこの心を取り除かない程度に応じて、あなたの生命の時間はもっと短くなります。

 それではある人は病気がありますが、来ました。最初は彼がこう考えています。聞くところによると法輪大法を修煉している人は、しばらく修煉したら、体はとてもよくなり、病気がなくなったそうです。しかしこの法を勉強していく中で彼は次第に分かるようになり、同時に病気に執着する考えも取り除かれました。このような場合は問題ありません。もし病気を治す考えを取り除かなければ、彼の修煉に深刻な障害をもたらすことになります。心の中でいつも病気がなぜよくならないのか、他の人はどうしてよくなったのかとばかり気にしているからです。実はこの考えは即ち彼が病気を治すために修煉していることを意味しています。私がこの大法を伝えるのは人を済度するため、人間の根本的な問題を解決するためであり、人の病気を治すためではありません。あなたが本当に修煉したければ、病気のある身体では修煉することはできません。真に修煉すれば、修煉の中で自然に病気を取り除くことができます。しかしそうしてあげる目的は病気を追い払うためではなく、身体を浄化することによって修煉の道を開いてあげることです。仮に病気治療がしたくて来たのであれば、何も得られません。私は既にこの問題をはっきり説明したと思います。

弟子:家のペットに対してどのように対応すればいいのでしょうか。
師:「かわいがる」とは愛することで、好きということです。あなたはそれを愛して、それをかわいがって、それに執着しています。この意味ではありませんか? ですからこの質問を出す時に、すでにあなたの執着心も書き出されました。生物を愛護し、大自然の中に人間のために存在しているすべてを愛護するのは間違いではありません。しかしどんな事であっても度を過ぎてはいけません。本当に過ぎてはいけません。人間こそこの地球で最も高級で完璧な生命であるからです。神もこのように見ているのです。すべての動物(大小を構わず)、植物とすべての生物は、みな人間のために造成されたのです。もし人間がいなければこれらのものも造成されなかったのです。ですから今一部の地区、一部の国では、動物に対して寵愛はすでに極端になってしまいました。動物に対する愛護は人間以上になってしまったのです。

 私は先ほど神が人を作り、地球を作ったのが人の生存のためであると言いました。これらの生物も人に楽しませ、遊ばせ、人の生存のために、人に食料を供給し、同時に地球を繁栄させる、すべて人のために作ったのです。逆に人間が動物ほどにも大切に扱われていなければ、天理に背くことになります。もちろん私たちは修煉の人としてこのようなことをしてはいけません。私たちは慈悲を説いています。すべてのものに対して慈悲です。しかし決して慈悲を越えて、もう一種の執着を生み出してはいけません。過度にあるものをかわいがってはいけません。過度に何かをすれば、それは間違いです。近代、特にヨーロッパ、アメリカでそうですが、人々は犬に対して過度に可愛がっています。皆さんに教えますが、神が人間に犬を作り与えたのは犬に留守番させるためで、決して犬をあなたの息子にするためではありません。あるいは人に人間と同様の友達にするためでもありません。人は決して犬と同等になることはできません。ですから、いかなる事に対しても行き過ぎてはいけません。一つだけしっかり覚えておいてください。人は佛を修することができますが、いかなる動物もできません。人は神を修めることができますが、いかなる動物もできません。人は天国の世界に行くことができますが、いかなる動物もできません。動物は行きたければ、来世人間に生まれ変わり、修煉してからはじめて行くことができます。私はさきほどこの問題についてはっきり説明したと思います。

弟子:別の生物に対する愛着は彼らへの尊敬と保存のためとすることができますか。
師:この問題は『轉法輪』の中に既に言いました。やはり執着を放棄しようとしないのです。私はもうこれ以上話しません。稀少動物への保護は反対しません。過度に自然を破壊することはよくないことで、しかも非常によくないことです。しかし、ある物に対してやりすぎたら、それも間違いです。人の心・道徳などの問題を解決することが根本なのです。修煉者としてこれらのものに執着すれば、あなたの修煉の障害になります。常人は過度にこのような事をし、動物を人と同等にしていますが、それはあなたが自分を侮辱し、人間自身をののしっているのに等しいです。人類の尊敬を踏みつけています。

弟子:亡くなった両親と友達を私の修煉を通して助けることができますか。
師:全ての人は生まれる時からその一生がすでに按排されています。いつ彼に良い事が起こるのか、いつ良くない事があるのか、大きくなってからどの学校へ行くのか、どの大学へ行くのか、卒業してから何の仕事に就くのか、実のところそれは皆決まっています。努力もその人にとって必然なことになります。人は自ら自分の一生を左右することができるのでしょうか。あなたは何かをやりたいと思えば、自分でできますか。あなたは大統領になりたければなれますか。できません。

 実践の中でみんな自分ではできないと分かっています。しかし社会の誘導及び科学はまたあなたを奮闘させます。ですから人は何かを得た時に努力によって得られたように感じるのです。実のところあなたはあまり執着しなくても、普通に仕事や生活をしていれば、得るべきものを得ることができます。ですからあなたの努力もあるものを得るための必然なのです。人間が自らそれをこのようにしてしまったからです。社会の全体において皆いわゆる努力をし、苦労しているので、社会全体はこのような状態に追い詰められたのです。あなたも同様でそうしてからはじめて、得るべきものを得ることができるのです。これは一人の変化ではなく、社会全体の変化です。しかし人は自ら自分の人生を変えることはできません。それでは、あなたは自分の人生さえも変えられないのに、どのようにして他人の人生を変えることができるのでしょうか。変えることはできません。そこで自分の親友、子女に対して権力あるいはお金を使って、彼らを幸福にし、良い生活をさせようとあなたは思うかもしれません。実のところ皆さんに教えますが、子供は金持ちのあなたの家に生まれ変わってきたことは恐らく彼の前生の福です。もし彼にこの福がなければ、財産を受け継ぐことはできません。あなたの努力を実現させることも出来ません。必ずこのようになります。彼はもしかすると、あなたの過度な努力によって、生命が短くなり、あなたの要求に達することができないかもしれません。あるいはあなたの努力によって、彼にいくらかの財産を残したとすれば、彼は賭け事をし、株を買い、いっぺんにお金を失ってしまうかもしれません。あるいは他の何かで、お金を失うかもしれません。つまりもし彼にこの福がなければ、彼は受け継ぐことができません。子供にいくらかのお金をあげ、良い暮らしをさせたいとか、幸せにさせたいとか、このような親がいますが、実のところ皆さんに教えますが、それはこんなに簡単なことではありません。彼らにはこのような福がなければなりません。もし彼らにこのような福がなければ、絶対に駄目です。たとえいくらお金をあげても、彼もひどい病気にかかり、お金を全部医療費にします。人間の世界はこのような事で、人は見通すことができませんが、私にははっきりと分かっています。

 それでは修煉者として、自分が修煉すれば、彼らに幸せをもたらすことができるのかと思う人がいますが、修煉者にとって幸せの意味は違います。常人の中の幸せは実は本当の幸せではありません。それは一種の金銭で得られた一時的な安逸なので、永久なことではありません。彼を本当に永遠に幸せにさせ、永遠に人身を持たせることができれば、永遠に苦を舐めることがなければ、それこそ修煉する人が考えることです。天国の世界には苦痛がありません。しかし、修煉者として、自分もまだ修成できていないのに、また他の人にあれこれをしてあげようと思えば、それは一種の執着にしかならないです。執着があれば、またあなたの修煉に影響します。つまり、私たちは心を放棄して修煉していますが、何もかも関わらなくなるわけではありません。平常通りに常人の中で過ごし、家族と一緒に生活することもできるのです。私があなたに残した充分な常人の心はこのように対処することができるのです。家庭を守るのに問題はありません。しかし、修煉の人として、修煉を通じて他人に幸せをもたらそうと思えば、方法は一つしかありません。つまり彼に法を得させることです。それなら将来彼も済度されることができます。もしかしたら、あなたよりも修煉がよくできるかもしれません。あなたの心配も要らなくなります。私の修煉を通じて、私の超能力、神通力を用いて彼を幸福にさせることができるのではないかと思う人もいますが、それはできません。もし彼の業力が多ければ、彼の代わりに業を滅しなければならないのです。それではあなたも圓満成就できなくなります。

 私は佛教の中の一つの物語を覚えています。釈迦牟尼の郷里の町は間もなく洪水に見舞われ、町中の人が皆死んでしまうのです。それで、釈迦牟尼の十大弟子の中の一人は彼の神通力を発揮し、町の人が夜寝ている時、全員を手の中に掴みましたが、みんな催眠をかけられたように何も気づいていなかったです。彼はそれらの人が皆手の中におり、死なないと思いました。その洪水は予定通りに起こり、町は水没しました。翌日の朝、彼はこれで問題はない、城は水没したが、人は無事だと言いました。そして彼が手を開けて見ると、町の人はすべて灰燼となっていました。彼が修煉して到達した次元には限界があるので、彼より更にミクロ的、更に巨大な神は彼の知らないうちに、私の言った分子の巨大分子と小さい分子との間の関係と同じように、彼は彼の境地でしか神通力を発揮することができません。彼の境地を越える神が何をするのか、彼はまだ知り得ません。つまり、人はそれぞれの運命があります。修煉の人はその心を修煉の中に置いて精進することしかできません。

 そこで、もし自分が修煉して圓満成就できれば、必ず戻ってきて自分の身内を済度しようと思う人もいます。あなたに今このような考えがあっても、それが執着だと言いません。もしいつもこのように考えているのであれば、強大な執着になります。いよいよ圓満成就する時このような執着があっては、圓満成就することはできません。もしあなたが本当に圓満成就し、一人の大きな神になったり、大きな佛になったりすると、あなたにこのような能力がありますか。あって当然です。自分の身内の済度は言うに及ばず、掌の灰を吹き飛ばすほどの力で地球を手に握ることができます。しかし、皆さんに教えておきますが、先ほど私の言った道理のように、このような事を勝手にしてはいけません。あなたは自分の身内を済度したい、誰かを済度したいと思うなら、その人を向上させなければなりません。もしあなたが彼を向上させることができずに、彼を天国の世界に連れていくことは絶対駄目です。天国の世界のすべては更にミクロの物質の粒子から構成されているので、表面はとても滑らかできめ細かく、光芒を発しています。物質がミクロであればあるほど、エネルギーはさらに大きいのです。もし地上のものを持って行ったら、ゴミを最も神聖かつ純潔な殿堂に並べることに等しいのです。それでは駄目です。あなたはそのゴミを必ず最もよいもの、新鮮なものに変化させなければなりません。つまり、あなたが人の面倒を見たいのならば、その人を良い人に変えて始めて面倒を見ることができます。

 誰でも知っていることですが、イエスが常人の中に来て人を済度する時に、彼は人のために苦しみに耐え、最後に十字架に釘付けにされました。あなた達はこの意味を知らずに、ただユダヤ教がこの良くない事をやったと思っています。実のところそんなに簡単な事ではありません。それは別の要素があるのです。もしあなた達の先ほど言ったような考えに基づけば、イエスにはそんなに大きな能力があって、白人の神は彼の父親なのですから、彼は何かをしたいと思えばしたらいいではありませんか。どうしてまた地上で苦労して人々が良い事をするように説得し、真理を人々に伝え、さらに人のために多くの苦痛に耐える必要があるのでしょうか。当時まだその他の宗教からの抑圧と破壊も受けていました。彼はどうしてこのようにする必要があるのでしょうか。つまり、彼にそれほど大きな能力があるのに、彼も人の心を良くしてはじめてその人を済度することができるのです。もし来場の皆さんも自分の心性を修煉の中で圓満させることができなければ、私もどうしようもありません。私は皆さんに法理を伝え、功を演化することができ、さらにあなたのために一部分の業を滅し、あなたを守ることができます。私はまた皆さんのために皆さんが知らない圓満中と圓満後に必要なすべてをやってあげることができます。しかしもしあなたの心が動かず、心が向上しなければ、一切は無駄です。これはつまり私の言った人の心が動かなければ、佛もどうしようもないということです。

 あなたを向上させられなくても、別にこの人が悪くなったから手の施しようがないというわけではありません。手の施しようがないということであれば彼を下のほうへ行かせ、消滅し、思うままにします。神には慈悲があり、イエスの言ったその「愛」は決して人と人の間の愛情ではなく、そう理解することはイエスの言った話を罵しり、イエスを罵しり、神を罵しることに等しいのです。人の愛情をイエスの言った愛情、愛心と同じにしてしまいます。イエスの言った愛心はつまり「慈悲」です。ただ彼は西洋人の言語で語りました。当時の西洋文化には「慈悲」という概念がなく、「慈悲」という言葉もありません。これは異なる時期に、異なる地区の文化の相違によってもたらされた違いなのです。この問題については私がすでに全面的に語りました。すなわちこの事です。常人はどのように対応するか、修煉の中ではどのように対応するか、最後にあなたが修成してからどのように対応するかということです。

弟子:法を広げるためにはどんな条件が整えばいいのでしょうか。
師:昨日各地区の大法の仕事にかかわっている学習者が交流しているのを見て,私は本当にうれしく思いました。一つは皆さんの法に対する堅実な気持ちを感じたからです。自分に責任を持って,さらにほかの人にも法を得てもらいたいという気持ちです。本当に皆さんの為に喜んでいます。交流を通じ、お互いに各地区の違う情況を見ることによって、だんだん自分の経験を豊かにすることができるのです。整うべき条件といったことは特にありません。また何かの物質的な条件或いは権力上の条件などを整えることなどあり得ません。ただ一つ、修煉の人であって,する熱意さえあれば、できるのです。誰にでもできるのです。しかし、一つ気をつけなければならないのは、相手にあまり次元の高い話をしないでください。あなたの今の法に対する認識、私が今日話したことなどを言ってしまったら、相手は戸惑ってしまいます。皆さんは感じていませんが、皆さんは修煉していく中、徐々にここまで向上して、この次元の理を認識できたのです。他の人たちはまだ常人であり、まだ常人のことばかりを考えているのです。どのように金儲けをし、事業を発展させ、上司に気に入ってもらうかなどが彼らにとってまだ何より大事なことです。あまり次元の高いことを話してしまうと、受け入れられないでしょう。相手に最も簡単な言葉で表面の理を話せばいいのです。縁のある人がそれを聞くとすぐ始めたくなりますが、縁のない人にいくら勧めてもだめです。しかし、ただ一つ、絶対強引に人を引っ張らないでください。習いたくない人に、強要しないでください。あなたは私の友人や親戚だから、学ぶべきです。どうしても学んでくださいと言ったように。そうなると、彼は信じないばかりでなく、煉功場に来て変なことを言い出し、悪影響を与えかねません。ですから、皆さんくれぐれもこの点に気をつけてください。

弟子:どういう場合、法輪功が人類と地球の発展に果たす役割がキリスト教と同じのになるのでしょうか。
師:勿論新しい学習者ですので、法を深く勉強していないことは咎めません。私が説いたのは宇宙の理です。しかも宇宙の上から下まで最大なものであり、宇宙の衆生、異なる次元の神と人間に生存の環境を切り開くことのできる大法を説いているのです。どういう情況でキリスト教と一致するのかということはつまり華麗で立派な宮殿がどうやって非常に狭く安普請の家と同じになることができるのかと同じ理屈なのです。比べものにならないのです。この宇宙大法は異なる次元において異なる次元の生命に生存の環境と条件を切り開いたのです。つまりその次元にある生命はその次元の理、その次元の宇宙の法に符合したからこそ、そこで生息することができるのです。もっと間単に言えば、皆さんも将来そのような環境に生存することになりますが、それは皆さんがどこまで修煉できるかにかかっています。当時、イエスが説いたのは社会の常人がどのように彼の世界に行くことができるのかという理を説いたのですが、彼の世界はどこにあるのでしょうか。正確に言えば、我々のこの銀河系にある小さい範囲です。我々のこの銀河系が対応している天体にあるのです。イエスの次元は東方で一般的に言われている佛と同じ次元です。しかし、西方の白人が言っている主はこの次元を何倍も超えていますが、それでも小宇宙から離れることはありません。我々の大法は無辺の数え切れないこのような宇宙を造成したのです。全世界の砂の数よりも多いのです。ですから、どうして比べることができるのでしょうか。イエスが説いた理はただ無辺な大法の小宇宙の如来の次元での法に過ぎないのです。このようなことです。

 イエスは非常に素晴らしい神です。これは私が言っているだけではなく、天にある神も皆そう思っています。皆さんは考えたことがありますか。彼は人々を済度するために人に十字架に釘付けにされたのです。これはどういうことなのでしょうか。しかし、キリスト教は十字架を神のシンボル、天国世界のシンボル、キリストのシンボルとしています。これは神に対する最大の不敬です。これは人間がやったことで、絶対に神の意志ではありません。十字架はお墓に立てられ、間違いなく死を意味しており、神を象徴していないからです。宇宙のすべての神は人類が行ったことを譴責しています。更に、キリスト教は十字架に釘づけにされているイエスの苦痛の表情をシンボルとしています。これも神にとって容認できないことです。絶対容認することはできません! しかし、人間はまだやり続けています。何百年間も人類はこのように生きてきて、このような神に対する不敬をし続けてきたのです。

 イエスには多くの偉大な形象があり、常人社会で神として多くの功績をやり遂げたのに、彼の輝かしい偉大な形象をシンボルにせず、彼の十字架に釘付けにされている姿をシンボルにしています。これは神を敬っているのでしょうか、それとも神を恨んでいるのでしょうか。人々は自分が何をやっているかを知らないのです。私はアメリカでこのようなニュースを見ました。台湾に二人のガラス工芸品を作る人がいて、とても有名な夫婦だそうです。彼らは佛像を工芸品とし、多くのガラス工芸品を作りました。佛を工芸品にすること自体、既に佛を侮辱していますが、作った佛像は全て胴体のない、一つの頭で半分の顔しかないものです。佛を現代派や印象派の作品にしたのです。皆さん考えてください。彼らは偉大な神です。昔の人は神、如来佛に言及する時、敬慕の気持ちを持っていました。どうしてこんなことができるのでしょうか。神を表現し、佛教を宣伝しており、いいことをしていると思っていますが、これはただの不謹慎ではなく、最大の不敬です。実はあなたは佛をけなし、誹謗し、佛の偉大な形象を歪曲しているのです。最も悪いことをしているのです。先日私は人間の観念が全て逆さまになったと言いましたが、人々はそれを理解できないのです。善と悪、正と邪、良い事と悪い事の分別も付かなくなり、全ての観念が逆になってしまったのです。

弟子:私はどうして法輪功を修めながら、キリスト教の仕事をすることができないのでしょうか。
師:皆さんに教えますが,あなたのキリスト教の仕事もただ一つの仕事に過ぎません。そこで仕事をしても全く問題ないのです。私は現在の宗教を修煉とは見なしておらず、ただの宗教という仕事として見ています。既に人を済度することができないからです。それは間違いなく一つの仕事です。修煉ではありません。しかし、あなたを本当に向上させ、本来の家につれて帰るために、専一に修煉するよう教えました。これこそあなたにとって絶対にいいことです。不二法門のことは私が既に『轉法輪』の中で非常に明白に説きました。この法はとてつもなく大きいのです。こんな大きな法に別のものを入れようとして、次元の低いものを入れてはいけません。あなたが修煉している体と修することによって形成される全てを乱してしまい、家に帰ることができなくなります。あなたは自分の進む道を破壊することになります。私は機関車で、皆さんは車両に座っています。あなたはレールを破壊しているのです。レールは汽車に合わせて設計されたものであり、もしレールを狭くしたら、まだ家に帰ることができるのでしょうか。どんなものも混ぜてはいけません。純正で単一に修煉することによってのみ圓満成就することができるのです。このことは『轉法輪』の「不二法門」という部分をじっくり、落ち着いて読んでください。ここではもうこの問題に時間をとりません。

 私は本当に皆さんのために言っているのです。ほかの宗教を誹謗しようとしているわけではありません。ここに座っているのもあなたの縁です。あなたに責任を持つことができなければ、それはわたしの問題ですが、自分に責任を持つことができなければ、それはあなた自身の問題です。ですから、はっきりと教えなければなりません。

弟子:イエスは現在では何を意味しているのでしょうか。
師:イエスはその境地の中にあっては偉大な神です。しかし彼はキリスト教や、人間のことに既に一切関わっていません。宗教は人間が作り出した名前です。イエスが在世中自らのことを宗教だと言ったことはありません。釈迦牟尼が在世中、自分が佛教だと絶対言ったことはありません。人間がそれを常人社会の一部分にし、常人社会で「宗教」と名づけ、政治に参与しているのです。それを何々教と呼んでいるのです。それは既に人々が修煉によって元の水準まで向上し、圓満成就し天国に行く条件を失ったのです。多くの宗教の人は政治家となり、金儲けをする人もいます。これでどうして修煉者の基準に達することができるのでしょうか。どうしていい人に変り、天国に戻ることができるのでしょうか。そんな汚い心に対してイエスはどうして光り輝く神の身体を与えてくださるというのでしょうか。この上なく純潔な神の身体をどうしてあなたの汚い考えと業力に満ちた体で汚されることが許されるのでしょうか!

 私が話したことは法理であり、質問をした学習者に対して言っているのではありません。

弟子:私は足と膝に問題がありますが、双盤できるようになるのでしょうか。
師:もし病気があるというならば、私は従来から病気という概念を認めていません。それは業力によるものです。しかも、一部の病気は外来の霊体によるものです。もし怪我をしたことがあっても、自分を本当の修煉者と見なすことさえできれば、思いも及ばぬ奇跡が現れてきます。体内に釘や鉄の板がある人でさえも双盤できたのです。釘と鉄板は最大の粒子で構成されている身体に付けられているのです。もちろん、これは皆修煉の問題ではありません。煉功を重ねれば、八十、九十の人でも双盤できるのです。しかし、また強いてそれをすることにも賛成しません。今はまだ条件が整っておらず、片足でもまだできないのに、無理に双盤し、骨折してしまってはだめです。執着心が強くなると、問題が起こります。早く出来るようになりたいと焦る心はよくありません。修煉に勇猛に邁進することは正しいのですが、これは法に対して言っているのです。

弟子:「三点一線」を意念すれば、早く雑念を排除することができるのでしょうか。
師:本を読んでいないようですね。『轉法輪』はすべての問題、特に初歩の問題に解答を与えています。「三点一線」というのは道家の煉功方法です。今は法輪大法を修煉しているのですから、この動作と方法を取り入れてはいけません。しかも、この方法では完全に雑念を排除することができないのです。人為的に何らかの方法をもって入静しようとすれば、それは絶対ありません。世の中にこのような万能薬はないのです。

 本当に入静しようと思うのであれば、方法は一つしかありません。即ち大法の中で絶えず向上し、様々な執着心を取り除くことです。執着心が少なければ少ないほど、座禅する時心が静まると感じます。最後にやがて圓満成就に達するときは、何の執着心もなく、座禅するとすぐ入静できます。このように向上して行くのです。昔は他の宗教あるいは古代の山奥での修煉は、副元神を修め、主元神を麻痺させているので、常人社会の人を修煉させてはいけないのです。なおさら主元神を修煉しません。中国で一部の道家の修煉者はたくさんお酒を飲みます。これは聞いたことがあるでしょう。どうしてそうしなければならないのでしょうか。主元神を麻痺させ、副元神を修する方法を取っているからです。横になって寝ており、酔っ払っているように見えますが、その人の副元神は身体から出て行きます。このような神仙は歴史上多くの非凡な事跡をやり遂げ、人々も彼が偉大で、素晴らしいと思っています。私から見れば、その人はやはりかわいそうだと思います。彼は相変わらず来世に輪廻しています。また生れ変ったのが私に見えます。ただそれだけです。

 皆さんはくれぐれも覚えておいて下さい。修煉は専一でなければなりません。ほかの功法の意念があってはいけません。それを取り入れると、あなたを妨害し、あなたの功が不純となり、元のところに戻れなくなります。上を目指しての修煉ができず、圓満成就できません。さらに、人為的に何らの方法をとって、近道を見つけて入静し、或いは向上しようとしてもいけません。それは修煉に妨げます。着実に心を高めなければなりません。すべての神は皆さんを見つめています。絶対ほかの方法を取らないで下さい。ほかの方法はあなたの心性を高めることができないです。人の心が向上しなければ、何も始まりません。動作は圓満成就する補助的な手段で、決して向上する根本的な原因ではありません。つまり、心性が向上していきます。もし心性にそのくらいの水準しかなければ、速く演化し功を高めたくてもできないのです。あなたの心性の高さまでしか到達することができません。したがって、心性の向上こそ第一義です。つまり、人の高さの基準が功の高さになります。これは絶対的な真理です。どんな修煉方法でもこの理から離れることはありません。これは宇宙の絶対的な真理です。どんな宗教あるいは修煉であってもこの理に従わなければなりません。

弟子:第五式の功法に意念を加えることができますか。
師:絶対加えてはいけません。もし入静できなければ、一つ方法があります。時にもう本当にどうしようもなく、入静できず、頭の中は雑念が極めて盛んになってしまうこともあります。どうして入静できないのでしょうか。これはあなたが後天的に常人社会で形成した観念と業力がもたらした思想状態です。あなたの本当の考えではありません。修煉することは、それらをすべて滅することですから、それは反抗し、盛んになり、入静させないのです。あらゆる事をあなたに考えさせてしまうのです。
 修煉では必ず自分を見つけ、自分を修しなければなりません。もし自分をわきまえることができれば、これが私ではない、勝手にしなさい、私は入静するから、いつまで考えつづけるか見てみようと思ったとします。つまりそれをほかの人の考えだとしてします。もし本当に自分を見つけ、それをわきまえることができれば、この方法でもいいのです。つまり自分を第三者と見なし、さんざん考えているのを眺めて、いつまで考えつづけるかを見てみます。多分これで大分よくなります。しかしこれも自我をわきまえ、主意識を強める方法に過ぎず、絶対的な入静にはならないのです。どうしてこの方法でこのようなことができるのでしょうか。先ほど言った方法ではだめなのでしょうか。先ほど言った方法はみんな正当な方法ではなく、本来の家に帰らせることができないのです。心性がまだ向上していないのに、人為的に向上しようとしているから、だめなのです。できないのです。

 どうして皆さんにこのような方法を考えるのでしょうか。このやり方では絶対的な入静はできませんが、一つの長所があります。即ちあなたは自分ではない考えと自分の考えを分別することができるのです。よくない考えはもちろん認めません。そうすると速く取り除くことができます。これも修は己にありて、功は師にあるのではありませんか。どうして、それを認めないでくださいと教えるのでしょうか。自分の手はあなたが動かせば、そのとおりに動きます。あなたの頭はあなたが動かせば、そのとおりに動きます。それはあなたであるからです。考えを静めようとしても、どうして静かになってくれないでしょうか。それはあなたではないからです。本当のあなたは清浄で、それらはすべて後天的に汚染されたものなので、それを取り除き、捨てようとしているのです。つまりそれを排斥しているのです。

弟子:同性愛者がこのような行為を放棄しない情況で…。
師:あなたが言ったのはこの行為の相手と別れない情況の下で修煉するということですね。

 皆さんに教えますが、昨日私は「神は既に人間を人間として見なしていない」という話をしました。あなたはまだ宗教を守っていますが、イエスはもう何も関与せず、そもそも宗教を認めていないです。イエスは回復し向上できる人の心しか認めないのです。どうして人間のことに関与しないのでしょうか。現在の人は既に人間とは呼べないからです。本当にそうです。歴史上現在の社会のように乱れたことはありません。昨日マフィア、麻薬中毒、変態者、性の解放、性の乱れ、近親相姦、人間の観念の転換、同性愛も含め、様々のことに言及しました。皆さん考えてください。人は神に作られたものです。一人の男性に一人の妻を与えます。これは神が決めたことです。今の人は同性の人を相手としています。神は人間が今既に人間としての観念をなくしたからそうなったのだと思っています。勝手にあなたの考えを欲しいままにしているようですが、あなたの考えは先ほど私が言ったあの考えのように、実はあなたのものではないのです。同性愛の観念は後天で形成された悪いものに動かされ、もたらされたのです。あなた自身はそれに麻痺され、それに同調し、従ってしまったのです。自分を見つけ、これ以上このような汚いことをしないでください。神はそれが汚いと思っています。政府が同性愛を認めるかどうか関係ありません。政府の法令は宇宙の真理ではなく、それは人間が制定したものです。人間は人を治めようという気持ちから法律を制定しているのです。或いは権力と票を得たいから、不本意ながら法律を制定したのであって、善なる念はないのです。

 この質問を提出したということは本人が既にこれが良くないことだと気づいたからです。現在の人は既に何が正しいか、何が正しくないか、何をすべきか、何をすべきではないかが分別できなくなりました。皆社会の流れに従って滑落しているのです。人類の道徳は凄まじい速度で滑落し、堕落しているのです。皆この流れの中にいるから、善悪の区別が分からなくなりました。修煉する前のことは、既にこうなってしまったのですからどうしようもないのですが、過ぎたことは過ぎたことにしましょう。一人の修煉者として、先ず正々堂々と一人の人間として振る舞い、そして修煉者の中に入って修煉の人として振る舞い、最後に昇華し、更に純潔で高尚な人、神の境地にいる神のような人になるのです。神は決して修煉の人にこのような行為をさせるわけはありません。常人に対してもそうさせるわけはありません。

弟子:何か地球以外の霊体と接触する方法はあるでしょうか。
師:執着心がかなり強いようですね。今日はこの種の質問が多いのですが全て始めて来た人が提出したものです。人間はたくさんの映画や幻想の物語を見て、多くの社会の事情に汚染され、妄想をたくましくする変異の考えを形成したのです。どのようにして霊体と接触するのかという質問ですが、言っておきますが、一人の常人はこのようなことをしてはいけないし、この能力もありません。もし本当に霊体と接触ができたとしても、あなたがまた修煉していない人で、修煉者としてのエネルギーがなければ、本当に危険です。いつ命を奪われるか知れません。しかも、あなたに見えるのは怖い霊魂であり、高級生命を見ることは全くできません。あなたは次元が低いので、人間だけです。ですからこれは恐ろしい話です。もし地球以外の生命と接触すれば、もっと恐ろしいのです。地球以外の生命といっても、われわれ人間の目で見られるこのような物質空間の他の星における生命に過ぎません。これらの生命は人間を人間として見なしていません。人間を獣と思い、動物の一種としています。恣意に人間を殺し、実験に使うのです。人間を捕まえ、彼らの星まで持っていて、籠に閉じ込め、動物として星にいる人に見せるのです。我々の地球から失踪した多くの人は彼らに捕まえられたのです。

 さらに皆さんに教えましょう。今日の人類の科学は彼らが作ったのです。どうしてこれらの宇宙人は人類に今のこの科学を作らせたのでしょうか? それはその星にこのようなものがあるからです。彼らはそれをこの星に持ってきて、最終的に人間に取って代わろうとしているのです。彼は人体がとても完璧で素晴らしい事に気づいたのです。ですから宇宙人は人体を持つことを望んでおり、最後に人に取って代わろうとしています。人の分子細胞の中の一つの層の中に彼らのものを加えたのです。今すでにこのようにやっており、すでに広範囲に広がっています。ですから私は今皆さんの済度に当って、皆さんが自ら取り除く全ての執着心を排除するという問題だけではなく、業力という問題、これらのものをきちんと片付けてあげなければなりません。人類の発展はとても恐ろしく、将来コンピューターが人を指揮するようになるでしょう。すでにこの傾向に向かっています。人はコンピューターや機械の奴隷になり、最後に宇宙人に取って代わられます。コンピューターの発展はどうしてこんなに速いのでしょうか。人の頭脳は突然そんなに活性化できるものでしょうか? 全ては宇宙人が人の思想をコントロールして作ったのです。コンピューターを操作できる人は、一人一人に宇宙人によって番号が振られています。本当にそうです。私たちの学習者は、私が既にきれいにしてあげましたから、コンピューターを使っても乱されることはありません。

 どうして宇宙人が存在するのでしょうか。宇宙人はその星で生まれたのですが、一部の宇宙人がどうしてよく地球にやってくるのでしょうか? それは彼らがかつて地球人だったからです。もちろん今日のこの地球ではなく、場所は同じですが、以前の地球です。この地球はすでに何度も変っています。換わる度に一部分の生命、神が造った異なる形を持った生命は、今の人類に似たものもあり、また違う生命体も作られました。当時比較的よい一部分がいたため、それを保存し、滅亡させなかったのです。しかしそれを次の地球の人類の歴史に混入させるわけにはいかないので、他の星に送ったのです。毎回このようにし、同時にこの宇宙の歴史上の記録として残っています。それは異なる時期の地球人なのです。こういうわけです。しかし彼らをきちんと管理しなかったために、独自に発展してきました。そしてその中で種々の科学方法を造り出しました。私たちの地球と同じようなものもあれば、その他の種類のものもあり、発展の仕方は様々です。もちろん科学とは呼ばず、彼らの言語で名前を作り、彼らの概念になっています。これらのものはどんどん悪くなってきて、宇宙大法から離れるにつれて、彼らもどんどん悪くなりました。ですから全部の宇宙人を徹底的に一掃しつつあり、宇宙全体で彼らを拭い去ろうとしています。上のほうは現在すでに片付けが終わりました。地球に逃げてきたものだけが残っており、人類の中に隠れ、人体に取り付いています。またその他の形もあります。私は彼らを監視しています。今は悪事を働いても関与しませんが、近いうちに彼らを根絶します。(熱烈な拍手)人類の腐敗も彼らと直接関係しています。これは罪悪ですから、一掃しないわけにはいきません。

弟子:先生は第一功法を三回、第二功法を半時間するとお勧めになったという人がいますが…
師:人はそれぞれ情況が異なっていて、あなたの煉功はどんなに長くても構いません。通常、座禅が短ければあまり役に立ちません。時間があれば、時間を長くしたほうがいいのです。しかし何もせず、一日中煉功ばかりしていても駄目です。あなたの思想境地がそれほどの高さに達していない時、煉功をしても功は伸びていきません。ですから心を修することを第一位に置かなければなりません。私はどうして皆さんに本を繰り返し読むようにと言っているのでしょうか。何度も本を読むと、無数の理が分ってくるからです。何度も本を読むとあなたは心性を高める事ができるからです。これには時間の制限がありません。私は第二功法が半時間以下だとあまり効果がないと思います。しかしだめかと言われれば、そうでもありません。あなたの時間によります。私はこう思います。第五功法はあなたの能力に合わせてやってください。十五分間だけしか足を組むことができないのに、一時間やれということは現実的ではないではありませんか。能力に従って煉功してください。しかし三十分は一つの大きなハードルで、あなたはどんなに長く足を組むことができても、三十分になると、必ずひとつの大きな難関に遭うのです。それを乗り越えることはとりわけ難しいのです。しかし三十分を乗り越えたら、それほど難しくなくなります。

弟子:すべての国家にはそれぞれの特徴がありますが、どのようにすれば法輪大法をより早く広めることができますか。たとえばスイスの場合はどうでしょうか。
師:これは自分の情況に合わせてもっと多くの人に大法を伝えることだと思います。他の人にお金をあげることは善事だと言う人もいます。しかしそれは彼に一時的な幸福や安逸を与えたに過ぎないと思います。もし彼に大法を伝えられれば、彼は利益を世々生々にわたって受け、尽きることがありません。あなたが彼に与えたものはどれほど貴重なものでしょうか! 中国に一つの諺があります。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」です。もちろんそれは今朝法を耳にしたら、晩に死んでしまうと言うのではありません。この意味ではありません。それは私が朝に、道を聞き、法を聞いたら、晩に死んだとしても、恐れることはないと言うことです。なぜでしょうか? 人が死ぬ時に最も恐れるのは地獄に落ちると言うことだからです。皆さん、考えてみてください。もし頭の中に法があれば、地獄は敢えてあなたを受け入れるでしょうか。敢えて大法を受け入れるでしょうか。あり得ないのです。また別の角度から言えば、あなたの頭の中で法が入った部分はよい部分になったのではありませんか? つまりこういう意味です。どうすれば大法をそれぞれの国の特徴に合わせることができるでしょうか? それは皆さんに任せます。それしかありません。これと言ったやり方はありません。たとえばある民族の人は音楽を聞くことが好きだったり、ある民族の人は考えることが好きだったり、ある国の人は自由で束縛されないことが好きだったりします。それなりの特徴があるわけです。皆さんは異なった特徴、習慣に合ったやり方でやっていいのです。私はうまくできると思います。

弟子:善い人と悪い人をどう区別したらよいですか。
師:善い人とは何ですか? 悪い人とは何ですか? あなた達は悪いことをやった人を悪人だと思っていますが、そうではありません。悪いことをしなくても、非常に悪い人がいます。ただ彼は表に出していないだけです。あるいは出ていても非常に曖昧ではっきりしていないだけです。なぜでしょうか。人は母胎から産まれたとき、如何なる常人の思想もなく、乳を飲むことと泣くことができるだけで、常人の一切は後天的に得られたのです。昔、人々は家庭教育をとても重視しました。昔、白人の家庭の子供に対するしつけは非常に良かったと思います。しかし今は、特にアメリカで、子供を放任し、子供にまったく教養がなく、教育全体としては失敗しました。人類のために責任を持って子供を教育しなければいけません。何が良いかを教え、また何がよくないかを教えれば、全部彼らの頭の中に入ります。カバンに例えれば、中に金を詰めれば、人はそれを金であると言います。カバンに土を詰めれば、人はそれを土であると言います。人間にも当てはまります。頭の中によいものが詰まっていれば、善い人で、どんなことをやっても、考えたのは良いことに違いありません。よくない思想が詰まっていれば、何をしても悪い事に決まっています。考えることも悪いことであり、悪い思想です。これがつまり善い人と悪い人の根本的な違いです。

 善い人とは何ですか? 悪い人とはなんですか? 社会のメディア、各種の新聞、刊行物が掲載するあれこれの暴力や色情があなたの頭の中へ注ぎ込まれ、人々はそれを見たがっています。注ぎ込まれたものが多ければ多いほど、あなたはそれと同じようになってしまうのです。これらのものを見ないで下さい。よいものを見ましょう。よいものが注ぎ込まれ、だんだん多くなっていくにつれ、あなたは善い人になります。あなたの行為はあなたの思想の支配を受けます。人が教育を重視せず、後の世代に対する教育を重視しないということは人が全社会に対して罪を犯しているということです。今の若い人はまったく想像を超えています。見たくもありません。私が時に彼らを目にしても、まったく見たくありません。内面からうわべまで、思想から心まで、行為から服装に至るまで、正しいものは一つもありません。

 もちろん絶対ではないのですが、しつけが比較的いい家庭もあります。子供に対する教育も比較的よいのです。分ってほしいのはあなた達が次世代の人と未来の社会を育成しているということです。ですから次世代の人がどんな人になるかについて自分に責任がないと言えますか?

弟子:私はスウェーデンの学習者ですが、中国語の『轉法輪』を読むと更に深く理解できると分っていますが、しかし多くの修煉の時間に中国語を学ぶことにさく価値があるでしょうか。
師:さて、この質問についてお話ししましょう。『轉法輪』で中国語を学べば、中国語と同時に法も学べるのではありませんか? 中国語は確かに私の話をもとのままに伝えることができます。このことは確かです。私は中国語で法を説いているからです。どうして私は中国で生まれることを選び、中国というところで法を伝えることを選んだのでしょうか。歴史上既にこの事は定められていたからです。この地区の言語は内涵が非常に大きいのです。その歴史のすべての流れは将来法を伝えるためです。たくさんのことが定められていました。ですからこれは大昔から決まっていたことです。現在の白人の文明時期以前に手配したことです。ですからその民族は比較的古く、言語は世界で最も豊かで、内涵は最も大きく、宇宙という巨大な概念を比較的うまく表現することができるのです。表現力に富んだ言語でなければ、表すことができません。表現し難いわけです。それにしても、今日まで、人類の言語によっては既にはっきり表すことができず、そういった言葉もありません。しかし人という低い次元の中では、そのすべては十分に表せます。

 それでは中国語を読めなければ修煉することができないというのでしょうか。達成するべき境地を達成することはできないとか、あるいは向上の速さに影響を与えるというのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。なぜでしょうか。私がこの複雑な言語を使って法を説いたのは、異なる次元の神が法を聞いているからです。法を聞いているのは、ここに坐っているあなた達だけではなく、多くの神も聞いているのです。あなた達は英語でも、フランス語でも、ドイツ語あるいはその他の言語の中で修煉しても、影響を受けることはありません。その上翻訳者もほとんど私たちの学習者ですので、問題がありません。違いがあるとしてもただ文字の表面上の違いで、修煉に従って、絶えず修正していけば、ますます完璧になるのです。

 中国語を読みたい、私のもとの話、原義を知りたい人がたくさんいると分っています。もちろんそれにこしたことはありません。もしこれができなくても、安心してください。『轉法輪』が皆さんの民族の言語に翻訳されると、その背後に無数の佛、道、神がおり、同様にあなたにその境地の理を理解させてくれます。ですから法であるだけに本当にいくつかの奇跡が現れました。それについて私はもう例をあげません。なぜならば、他の人が誤ってまねをするとまた執着になりかねないからです。

弟子:どうすれば、真に修煉する弟子の心が動じないことを識別できるのでしょうか。どうすれば真に修煉する弟子と偽者を識別できるのでしょうか?
師:修煉の中で識別することはできません。しかし皆さんに教えますが、私たちの大法はすべての人に門戸を開いています。誰が偽者、誰が本物でしょうか。偽者も明日になるとまた真に学ぶようになるかもしれませんし、本物も明日起きる何かの事で真に学ぶことが出来なくなるかもしれません。ですから私の法はこんなに大きな門戸を開いたというわけです。しかし法を破壊する人は確かにいます。法に触れるその魔に動かされ、悪い事をしているのです。骨の髄から彼の言行まで全部反対ずくめですから、このような人は見分けやすいのです。こういうことです。一部の学習者の間にはあなたが本物の修煉者であるとか、私は本物の修煉者であるとか、またあなたは本物の修煉者ではないとか、私は本物の修煉者であるとかこの問題をめぐって互いに争っていました。これはとてもいけないことだと思います。出発点は法を守ろうとすることなのですから、実際みなさんは全て本当の修煉者なのです。

 私は皆さんの法に対する気持ちをよく知っています。誰かが法を破壊したと思うとまったく我慢することができないのです。なぜなら皆さんは修煉しており、大法の守護者になりました。あなたは大法の中で修煉していますので、大法の一部分ですが、不一致は必ずあります。修煉する過程の中で弟子と弟子の間は決していつも和やかでいられるはずはありません。なぜでしょうか? 皆さんのまだ取り除かれていない心、強い常人の心が現れてくるからです。ところが、より良く修した部分の心は、もう見えなくなりました。もう既になくなっていますから、現れることはありません。まさによく修していない心が現れるのです。それでこの人は良くないと言えるのですか? 絶対にそうではありません。逆に、この人はかなり良いと言わなければならず、ただ彼の良く修していなかった心が現れただけです。どうして現れたのでしょうか? それはみんなに彼を注意させるためであるか、或いは私たちの誰かに同じような心があるからです。そして二人の間にいざこざが起ります。目的は彼らの各自の執着心を取り除くためです。

 ですから、いざこざが起ったときに、各自は内に向いて自分の原因を探さなければなりません。この事はあなたに責任があるかどうかに関わりません。私の言った話をしっかり覚えてください。あなたに責任があるかどうかに関わらずあなたは自分を探してください。必ず問題が見つかります。もしこの事があなたと絶対に関係なく、あなたに取り除くべき心を持っていなければ、この事があなたの周囲に発生することはめったにありません。もしあなたがこの心を持っていなければ、トラブルを引き起こすことはありません。あなたの修煉に責任を負わなければなりません。周辺に起きるすべてのトラブルや、あなた達の間に現れたいざこざ、現れたすべてのことは恐らくあなたと関係があり、あなたに取り除くべきことがあるのです。この事があなたのせいであるか、また彼のせいであるかを問いません。あなたにこの心がありさえすれば、あらゆる方法を尽くして、いざこざに遭わせ、このまだ取り除かれていない心を認識させます。しかしあなた達はまだ言い合っており、これが私のせいではないとか、あるいは皆自分が法を守っているとでも思っていますが、彼も自分は法を守っていると思うのです。実のところ恐らく両方とも正しくないところがあったからこそ、いざこざが起きたのです。

 外で私の肖像を掛け、香を焚いたり、拝んだりしている学習者がいますが、皆さんはくれぐれもこのようなことをしないでください。常人の中で修煉している弟子に対して、私はずっと宗教儀式のような形を取ることに反対しています。宗教はすでに常人社会の一つの機構となり、修煉ではありません。私を尊敬するその心さえあれば私は嬉しいのです。(もともと宗教の中にあって、大法を修している弟子を除く)

 もう一つ皆さんに言わなければならない問題があります。多くの白人は修煉して間もないうちに天目が開きます。将来これは大きな問題となります。中国で法を伝え始めた時、中国人には様々な観念が多すぎるために、天目を開いてあげるには強い力が必要です。始めからこのようなものを作り上げました。白人の学習者に対しては、まだ長く学んでいないうちに、天目が開くという問題が起りました。ですから、多くの人に常人には見えない生命体が見えたにしても、その他の光景が見えたにしても、くれぐれも私の今日言った話をしっかり覚えておいて下さい。それを重く見てはいけません。見えても、心が動じてはいけません。絶対そのために喜んではいけません。これはただとても低い次元での真実の現象を見ただけに過ぎません。絶対あなたの次元の現れではありません。ですからあなた達は見えても見えなくても、必ず法を学ぶことに専念してください。本を読み、法を学び、本を読み、法を学び、私はいつも法を説くとき、口をすっぱくして本を読みなさい、本を読みなさい、本を読みなさいと皆さんに教えています。本を読みさえすれば、想像を越えるもっと良いものを得られます。

 自分の目を通して、いくらたくさんのものが見えたとしても、それはただ自分の次元から見えたものに過ぎないため、執着心を引き起こしてはいけません。見えることは良いことですから、あなたの天目を閉鎖することはしませんが、何が見えたかに関わらず、引き続き法を学ぶべきということを皆さんに分ってもらいたいのです。いかなる高級生命であっても、あなた達の師ではないということをくれぐれもしっかり覚えておいてください。彼らからいかなるものも受け取らないでください。受け取ったら、不二法門という深刻な問題を引き起こします。必ず法の勉強に専念して修煉しなければなりません。法はあなたに圓満成就させ、天目を開いてあげるのですから、法を踏まえて修煉していなければ圓満成就することはできません。大法以外のいかなるものにも執着したら、中途半端になり、何も成し遂げられません。

弟子:私は中国人の彼女がいますが、本を読んで、違う人種同士の結婚が正しくないと分かりましたので、彼女と別れることにしました。
師:違う人種の人との結婚は駄目だと言っているのではありません。これは歴史がもたらした問題ですから、皆さんとは関係ありません。未来の地球に残る人は純血種の人でなければなりませんが、皆さんは圓満成就すべき人であり、修煉している人なので、その限りではありません。後の世代に関しては、もし修煉することのできる人であれば、その人を選び出します。彼は元神のあるべきところに行くべきですから、そこに行かせます。このようにします。

 大法には限りない威力があり、私たちはいくらでも方法があります。学習者に対して私たちはどんな方法もありますが、常人に対して勝手に何かをするわけにはいきません。このような関係です。あなたのことを私は駄目だと言ってもいなければ大丈夫だとも言っていません。社会が既にこういうふうになったから、この事は現在とりあえず置いておきます。皆さんに宇宙人の文化があるのと同様に、それを片づける時期になると、また皆さんとは関係ありません。みんな修煉して圓満成就に至るため、未来の地球にいるのはあなた達ではありません。皆さんは天国の世界に行ったのです。こういう情況なのです。

弟子:元神には形象がありますか?
師:元神には形象があります。つまりあなた自身の形象です。しかし、あなたの今のこの肉体の形象よりきれいです。その身体を構成した顆粒はこの表面上の物質的な身体の顆粒より更にきめ細かく、更にミクロ的で、エネルギーはもっと強いので、光を放っています。

弟子:生れ変る時に形象が変りますか?
師:変ります。しかし元の強い特性を持っています。私はいくら生れ変っても変らないと言われていますが、白人に生れ変った時、鼻が高く、ほりが深く、目は青色です。

弟子:先生はそれぞれの空間にある身体は独立した生命体だとおっしゃいましたが、私にはよく理解できません。各空間の身体は元神とどのような関係がありますか?
師:これは宇宙の構造と関係があります。人自身とは直接関係していません。人間は多くの空間において自分自身と同じ生命体がいます。名前も同じです。みんな独立しており、あなたのそれぞれの空間にある身体とは別の事です。それぞれの空間にある身体はつまりあなたが各空間における違う分子、粒子によって構成されたものです。みんなあなたです。

弟子:今日の人類は魔性が勝っているとおっしゃいましたが、私の魔性はどれだけ人であるということに起因しているのか、どれだけその他の空間に起因しているのでしょうか?
師:誰にも正と負の物質特性それぞれ半々があります。その他、また後天の観念と思想の業力もあります。私はいつもこのようなことを言っていますが、人間は一枚の服のようなもので、身体と思想はひとつの帽子のようなものです。違う生命がそれを身に付けて、その人になったのです。人は主元神の意識が強くなければ、いつでも別の生命にのっとられてしまうのです。今の社会の人の様々な良くない行為は、ここまで乱れてしまったために現れた深刻な問題です。昔は三界以外の各次元の生命は互いに邪魔することも許されませんでした。憑き物の出現も許されませんでした。今は皆現れてきたのです。特に人類のいるこの場所は最も乱れているのです。多くの人の思想が正しくなくなったとき、つまり人の思想が魔性に合っている時に、魔性の思想は強くなります。人間は常人社会で良くないことばかり見たり聞いたりしているため、頭に良くないものが入ると、人間の魔性は強くなります。魔性は強いと、悪魔と一致してしまうのです。そうすると、悪魔があなたを好きになります。悪魔と同じだから、悪魔はあなたの身体に入るのです。これは外因によるものです。あなたの思想が彼の思想と容易に統一するので、彼は簡単にあなたを操る事ができます。これがひとつの情況です。人間と同じレベルの空間に、腐敗した生命がたくさんいます。彼らは何も憚ることなく人間を制御しているのです。なぜ人間を制御するのでしょうか? 人間としての後継ぎを求め、人間の身体を占有し、人間の物質を得るためです。人間の物質は演化されると、彼らによってまだ役に立つところがあるのです。ですから彼らは彼らに適する人を選びます。現在の人間はこのような問題に直面しています。自分ではまだ悪くないと思っています。

 これらの問題の解決はすでに大詰めを迎えているので、現在の人間はだんだん自分の生きがいを分かってくるようになり、本当の自分を見つけることができるようになります。今まで人々がうやむやに生きていたのは、すべて彼らに動かされ、複雑かつ強大な要素に動かされたていたからです。徹底的に人を解放し、外来の制御を排除し、人々に自ら自分を制御させなければなりません。さもなければ、私が今日説いた法はそれらのもののために説いてしまうことになります。皆さんが自分を失い、すべてが彼らに取られてしまえば、絶対だめです。ですから私は私の弟子にまずこの事をしてあげます。(拍手) 常人にもしてあげています。もし今社会の常人がコントロールされ、法を得ることができないならば、それは大変深刻な問題になります。ですから自分が法をよく広げられなかったと私に向かって反省している学習者がいますが、私はよくやったと言いました。あなたの力で及びかねることがたくさんあるからです。思う通りにならなくても、それはあなたの責任ではありません。もし何もしていなかったら、それはあなたの責任です。

 時に私が階上から見下ろすと、あわただしい人々を目にします。今の人間はいったいどう生きているのかと考えてしまいます。かわいそうだと言いたいのですが、人が自らこの全てを乱してしまい、悪いものに符合してしまったのです。腐敗したのは社会自身にも原因がありますが、皆さんはそれをあおり立てて、助長したのです。人間はこの流れの中で、しっかりできず、自我を放任したのです。人々がサッカー場で魔性を大いに発したのは、最も典型的な自己放任です。むやみに騒いだり叫んだりしている時は、魔性が大いに爆発し、強められていることだと人々は気づいていないのです。ディスコダンスをする時、ヒステリックな状態でむやみに叫んだり騒いだりするのは、それこそ魔性の最大の発散です。理性的で、何をしているのかを自覚しながら行ったことは往々にして善念によるものであり、それこそ本当の自分なのです。

弟子:今までずっと自分は強靭な意志をもつ人間だと思っていました。毎回先生にお会いしたり、先生のことに言及したりする時に、なぜどうしても涙を我慢できないのでしょうか?
師:みんなに教えます。来場の皆さんの多くは、歴史の各時期に、異なった国で私とかなり大きな縁を持っている人です。これが一つの原因です。もう一つは、「こんなにも乱れた世でまだこんなに良いものを伝えているのですか」。これは私がしているこのことを理解できない神が言った言葉です。ですから、皆さんを済度することは更に難しくなります。この空間にいる皆さんは知りませんが、他の空間にいる皆さんのもう一面は全部見えているので、私は皆さんに何をあげたのか皆知っているのです。言語や行動、その上いかなる概念を使っても私への感謝の気持ちを表すことができないため、この空間にいるあなた達は訳の分からない涙を流すことになります。皆さんは知りませんが、今日の人類社会はここまで乱れてしまい、極めて汚くなり、人間の身体に極めて多くの業力があり、思想の中に悪いものが多く、多すぎます。しかし私はそれらを綺麗に片づけてあげた上で、あなたが修煉できるように、金色に輝く法輪並びにこの法を取り巻く多くのものを皆さんの身体に与え、汚れの極まった体を浄化してあげました。これは天地開闢以来、誰も敢えてしたことのないことです。(拍手)逆に言うと、皆さんは天地開闢以来なかったよい事に出会ったから、そのようになったわけです。皆さんがだんだんしっかりしてきたので、私の言ったことも次第に明白となりつつあります。

弟子:先生は科学が宗教だとおっしゃいましたが、この説は大きな衝撃を与えてくれました。もっと深く話していただけませんか。
師:それは宗教であり、完備された宗教です。他の宗教は精神からあなたに認識させてから、修煉の中で次第に宇宙の本当の素晴らしいもの、物質の実在を分からせるのです。このような過程です。しかし科学という宗教は物質的なことを少し理解させることによって、ますます信じ込ませるように導いて、最後にあなたをそれに依存させ、真理のように思わせるのです。この科学という宗教はあなたを物質から精神まで信じるように導くのに対し、一般の宗教は精神から物質への真の認識まであなたを導きます。それは逆の道をたどっているので、人に分かってもらえなかったのです。いかなるものもこの世に立脚し、存在でき、成り立つには必ず肝心な要素があるわけです。つまりこの空間において一つの場を形成しなければならないことです。この場は物質的な存在です。例えば宗教を創立することができたのは多くの人がそれを信じている過程の中、堅信する中で宗教に言及したり崇拝したりする形によってできあがった環境です。逆に同時にこの環境がこの宗教を守っているのです。

 科学も同じです。科学の環境は既にとてつもなく大きく、人のいる空間のあらゆるところに存在し、すべての領域も含まれており、漏らすことがないと言えるでしょう。どの宗教もそれと比べることはできません。しかし、この物質的な環境ができあがった後に、人類の空間には相生相克の理が存在しており、つまり正があれば、負もある、良いことがあれば、悪いことがあるのです。この空間にできあがった環境もこのような二種類の要素があります。一つは善であり、一つは悪です。宗教も同じことです。それの形成にもこの二つの要素を持っています。あなたがそれに反対すれば、その悪という要素はあなたを殺したいほど恨み、これはつまり環境にある負、即ち悪の要素です。あなたがそれを信じれば、もう一つの要素はあなたをとても好ましく思い、善と思います。これはその善という一面です。科学の中にもこのような要素があります。あなたが科学に反対すれば、あなたは殺されないまでも、群れを成して責め、皆あなたが迷信だと言って非難します。だれでもあなたが迷信家だとか、おかしいと言い、社会であなたを何の価値もないものにしてしまうのです。小学生の時、科学を信じず、学ぼうとしなければ、あなたは追い出されます。大学で、学ぼうとしなければ、学位が得られず、卒業することができないのです。さらに学ぼうとしなければ、よい仕事につけません。この社会の領域の至る所にまで科学にかかわる仕事が満ち溢れています。

 逆に言いますと、すべての仕事に科学が満ち溢れているのです。それを身に付けることができなければ、良い仕事が見つかりません。しかしこの科学はまだ発達しておらず、発展は現有の空間内に限られています。神の存在を実証することができず、人が悪いことをすると報いがやってくることも分かりません。神がいると言うだけで、それが迷信だと言うのです。人が悪いことをすると悪い報いがあり、良いことをすると良い報いがあるとか、良い人になるには徳を重んじなければならないと言うと、異端邪説のレッテルが貼られます。実はこの科学が人間の本当に善良な本質という最もよい一面に打撃を与えているのです。徳を重んじ、善に従うことを説かず、すべての欲の発散をあおり、人類の生存している環境を破壊し、人類の本性と人間としての基準を乱しているのです。この点から見ると、この科学はまだ邪教だと言えます。しかし、人間のこの空間に人に安逸と一時的な心地よさなど偽りの様相を与えています。人間に自分自身を破壊した後に虚偽の自由、虚偽の進歩をもたらした条件を提供したため、人間は一層それを信じてしまうのです。しかし神から見れば、人の過度な安逸と心地よさはよいことではありません。業力を増やし、業力が積み重なってしまうことになるからです。業力を消すことができず、最後に地獄に落ち、甚だしい場合、生命は消滅される羽目になってしまいます。昔あなた方、西洋人もこの道理を知っており、年配の方もまたこの道理を理解しており、少しばかり苦しみを嘗めても悪いことではなく、苦しい環境で鍛えることはよいことだと皆分かっていました。苦を嘗めれば、業を滅し、業が滅されて、始めて来世には業力のない本当の幸福が得られるのです。修煉したければ、業力を滅し、また功に転化され、天国の世界に帰ることができます。この科学という宗教はあなたに科学だけを信じさせ、本当の神を信じさせないため、また人間を反対側に推し進め、つまり絶えず業を造ることになります。それは邪ではありませんか? しかし私がここで言ったのは全体の科学の形式のことです。近代科学が作り上げた学問の領域に反対するとは言っていません。皆さんは既にこの環境の中で生活し、このように働いているからです。社会は既にこのようになった以上、このように維持するしかほかありません。私も反対しません。私はただその真相を伝えているだけです。

 同時に私も皆さんに教えますが、科学は絶対的な真理ではありません。アインシュタインはどうして晩年に宗教に入ったのですか。科学においてそれほど造詣の深い彼は宗教が正しいことを見出したのです。人は彼を理解できませんでしたが、アインシュタインほど賢くないからです。頑固な人は彼を理解できるはずはありません。知的レベルがアインシュタインに劣る人には理解できません。結局、アインシュタインは宗教の語っていることが真実で、しかもそれが本当の科学であることを見出したのです。ですから彼は正教を信奉するようになりました。先ほど話したことをもう一度言いますが、自分のするべき仕事をしてください。今上から下まで社会全体はこのようになったからです。皆さんもこのようにしていますから、私もどうこうしようとは思いません。私が済度するのはあなた達で、当面そのことに関与しません。私はただ真実を人に伝え、修煉の人に伝えました。常人や社会の人に対して言っていません。彼らもそれを知る必要はありません。実はそれをはっきりさせたのは私だけではなく、多くの賢明な人は既に気づきました。科学が宗教であるということに気づいた常人もいます。

弟子:修煉して圓満成就した大法弟子は、どんな形でこの世から去っていくのでしょうか?
師:この問題については既に何回も話したのです。法輪世界に行く人は法輪世界に行き、高エネルギー物質に転化された肉体を持って圓満成就します。しかし絶対多数の人は異なるもっと高い次元の世界から来たのです。その世界には身体を必要とせず、人の身体をよくないものと言っています。身体を持たせれば、つまり先天の世界のすべてを変えたことになります。ですから、そういう人は身体が要りません。与えられても要りません。しかしこのことを知っておいてください。私もほしいという考えは皆さんの思想に現れてくることがあります。それはまだ修煉できていない、よくない考えです。つまり一番表面的な常人の思想から現れてくるものです。真実の光景が見えた時、皆さんには違う考え方が浮かぶかもしれません。神としての思想が現れてくるのです。「ああ、全てこういうことでしょう」。

 しかし、皆さんが圓満成就する時、人類に一つの壮挙をもたらしたいと考えています。私はこう考えています。すべての大法弟子は身体が要るかどうかに構わらず、身体を持って昇天します。身体の要らない者は空中で「虹化」してから、飛び去ります。これで史上かつてない煌めきをもたらすことになるのです。人間に深い教訓を残します。人間は神を信じていません。神を如実に人の前に体現させ、見せます。私はこう考えていますが、できるかどうか最後を見なければなりません。圓満成就に関して、それは問題ありません。ただどんな形式をとるかということだけの問題です。

弟子:多くの学習者は自分がすでにどこまで修めているのかを知らないので、圓満成就できるかどうかに不安を抱いています。
師:これも執着です。信じていないそのもの自体も修煉の最大の障害です。先ほど言いましたが、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」です。つまりあなたの思想に入ったものが全部法であれば、良くないものはすでにほとんど無くなり、やがて全部除かれます。自己をどう位置付けるべきかを自分で考えてみてください。いつも言うように、すでに法を得たからにはもうこのような問題を考えないでください。これでも心配するなら、執着になります。それは執着ではありませんか? あなたの進歩を妨げるのです。将来法を聞く人はもっと多くなりますが、誰でも圓満成就できるというわけではありません。すべての人は法を聞きに来るわけがありません。どんなに修しても、病気治療したいという考えを取り除かない人がいます。どんなに修しても、はっきり目覚めなければ、それでは駄目です。来場の皆さんは皆問題がないと思います。(拍手) 多くの人は法を聞く資格がありません。ですから世界に皆さんのようにここに坐ることのできない人がたくさんいます。大法には大法の威厳があって、何のわけもなく、ここを通り過ぎ、入ってきて、法を耳にしたように見えますが、ここにどんな縁があるかあなたも知りません。こんなにも偶然に見えます。

弟子:どうすれば自分が修煉を始めることができるかどうかと分かりますか?
師:私の門は開いています。私は大きな門戸を開いたと言いましたが、実は私は皆さんに教えますが、私は門さえなくなるまで門を開いたのです。全部開いたのです。(拍手) どんな人であろうと、あなたが修煉できるならば、私はあなたに対して責任を負います。この話は皆さんも分かったでしょう!

弟子:同性愛の人でも大法を修煉することができますか。
師:できます。しかしこのよくない行為を改めなければなりません。正々堂々たる一人の人間となって、自分を見つけ、暗い心理状態から出てきてください。(拍手)

 さっきこの学習者の質問に答えた時、私は修煉する人に対していくつか修煉の中の話をし、その話題は比較的レベルの高いものでした。恐らく偶然ここに入って来た人、あるいは修煉したばかりの人には理解しにくいかもしれません。私たちを何らかの宗教として思ってしまったかもしれません。教えましょう。私たちはどんな宗教でもありません。私はただこの法を人に伝えているだけです。修煉したければ、私は助けてあげます。学びたくなければ、それで結構です。私たちにはいかなる形式もなく、何も管理せず、いかなる宗教的な規範もなく、人から一銭ももらいません。気軽にここで話を聞いてから、学びたければ学んでもいいし、学びたくなければ帰っても構いません。

弟子:私の職業は医者です。もし私は病人を修煉の道に導き、彼らが病気を治療する必要もなくなれば、私はどうやって生計を立てますか?
師:これは一つの余計な心配です。(みんな笑っています) 実はあなたの病人は皆修煉するはずがありません。伝えても、修煉できない人がいます。また、もし本当に縁のある人なら、恐らく多くの病人にはそのような縁があるかもしれませんが、それで彼は入ってきたわけです。修煉し始めるのです。恐らくこのような縁です。いずれにせよ、どんなケースもあるわけです。医者が治療することで生計を立てることについては、あなたはやはり常人の観念で物事を考えたのです。本当はあなたの想像したようにはなりません。治療してもらう人はまだまだいます。古い患者が去れば、また新しい患者がやってきます。大法もこれらのことを配慮します。これは常人という角度からお話しましたが、高い角度から言うと、もしその患者が法を得るべき人なのに、(あなたは金儲けのために法を得させなかったら、もちろんあなたはなんと金儲けのためというつもりはないのでしょうが)、生計を立てるために法を得させないのであれば、私はそれが間違っていると思います。この問題はあなたが思っているようなことではありません。

弟子:私は主人と一緒に1997年9月から法輪功を修煉し始めましたが、1998年3月、主人は突然心臓病でなくなりました。私は主人の死をどう捉えるべきでしょうか?
師:もし彼が正々堂々と本当に修煉することができ、本当に自分を一人の修煉者と見なしたならば、決してこのような問題が起きなかったと思います。もちろん、彼が修煉していない、まったく修煉していないと言ったら、あなたは恐らくそうではないと思うでしょう。しかしあなたに教えますが、修煉は厳粛なことです。ありきたりの常人が修煉を通じて一人の超常的な高い次元の生命、佛になり、神になり、西洋人の言う天国に行くということができるのですから、人類のいかなることよりも厳粛なことではありませんか? これほど厳粛なことはありません。ではこのような問題に直面したら、修煉者はどう対応すべきですか? 本当に真剣に厳粛に対処すべきではありませんか? 本当に自分を一人の修煉者と見なすべきではありませんか? 修煉して心の中でまだ自分の病気を考えたり、憧れの素晴らしい生活を考えたりし、名残惜しげに常人社会のものに執着したりしたため、精進できなくなります。実は以前致命的な病気にかかり、命を失うはずの多くの人すらまた元気になり、本当の大法弟子になりました。本当に修煉できずに死んでしまった人でも、往々にして寿命は延ばされたのです。

 煉功は人に寿命を延長させることができ、絶えず煉功すれば、絶えず寿命が延長されているので、年寄りの人でも修煉に間に合うのです。これがこの性命双修の大法の特徴です。それでは常人の中の病人はどうして同様に生命が延長されることはできないのでしょうか? 考えてみてください。延長された生命は彼に常人の生活を暮らさせるものなのでしょうか、それとも厳粛に彼に修煉させるものなのでしょうか? この関係をきちんと理解できず、のそのそと修煉していいというのでしょうか? 人に生命を延長させるというのは絶対に修煉のためにしたものです。彼がもとのままであれば、生命を失わないことを保証しかねます。

 無数の癌患者は治りました。しかし死んでしまった癌患者もいます。どうしてでしょうか? 一つの例を挙げましょう。例えば、ある人はもうこの法を得たから、何も執着せず、病床に横たわって「私はもうすでに死んだ人なのに、まだこんなものを見ることができました。どうしてもっと早く出会わなかったのでしょうか? 本当に悔しいです!」 彼はこれで自分の病気を治療しようとは考えていません。時間を無駄にせず本を読んでいました。「もうこの世に何日かも生きることができないから、速く読んで、速く読んで、生きている間にできるだけ多く読んで、何回も読みたい」と思っていたのです。しかし、知らないうちに彼は病床から離れることができ、腫瘍が消え、歩くことができて、立ち上がることができたのです。突然全身は軽く感じます。病院に行って再検査したところ、彼の癌は全くなくなりました。しかし医者は大抵大法が彼の病気を治したと認めず、認めれば、現代科学を自分から否定することになってしまうので、ですから医者は「あ、前は誤診だった」と言うのです。これは本当によくあることです。

 もちろん、このような人もいます。彼は大法が病気治療できると聞き、そして来ました。しかし彼はまたこのようなことを聞きました。「もしあなたは病気治療の目的で来たのでしたら、病気は治りません。修煉しても無駄です。私たちの目的は修煉にあって、病気治療のためではありません。大法を得ると、病気が治りますが、しかし病気治療のためではありません」。私たちの大法の要求に従って修煉せず、修煉者になりたいと思わず、彼はただ病気治療のことだけ考えています。しかしこんなに厳粛な大法を彼に伝えたのは病気治療のためなのですか? いいえ。それで彼も分かりました。「よし、私は病気治療さえ言わなければ、先生に病気治療さえお願いしなければ、その時になると、先生はきっと私の病気を治してくれます」。彼は口で病気のこと、また誰にも病気のことを言わなくなりましたが、時間が長く経っても、まだ心の中で煉功さえすればその時になると先生はきっと治してくれると考えていたのです! 彼はやはり気にしていたのです。あなたが見ての通りです。ほんの少しの差だけで、それは根本的な違いとなります。そのほんの少しの差こそ彼の本質です。彼はまだ病気治療のことを考えていたのです。

 癌患者の場合、往々にして時間を延ばしてあげています。何回も何回も彼に機会を与えていたのです。医者に後2ヵ月、3ヵ月の命と言われた人でも、時間を与えます。1年、1年半、2年まで延ばしてあげました。彼はなかなか自分の観念を改めず、まだ自分の病気を心配したりしています。「また発病するのでしょうか、李先生は本当に私を見守ってくださっているのでしょうか。本当に根治して下さったのでしょうか?」 彼はまだ気にしています。彼は口では誰にも言いませんが、心の中では李先生がきっと病気を治してくださると思っています。彼が表面上煉功していても、根っこでは病気治療のためです。彼は私をだまし、人をだまし、大法を騙しているのではありませんか? 彼は誰を騙してもうわべのもので、本当は自分を騙していたのです。真に心が変わることこそ本当の修煉です。往々にして多くの学習者は彼の寿命がきた時、それが天寿であり、彼の一生はその年数までしか生きられないのです。その時点でも、彼がまだ自分を煉功者と見なすことができなければ、死んでしまうことになります。大抵彼のもとの期限よりはるかに超えているのです。彼に機会を与え、時間も与え、変わるのを待っているのです。どうしても変らなかったら、本人の好きなようにさせるしかありません。表面上彼はまだ私たちの本を読み、まだ煉功していますが、しかし彼は死ぬことがありえます。つまり私が言いましたように、それほど多くの人が大法を修煉していますが、皆圓満成就することはありえません。私が言ったのはこういう意味です。つまり本当に自分を修煉の人として見なすことができなければ、これができないなら、年を取った人は亡くならなければならなくなります。

 一生で過ごすべき生活を全部経験したので、今の生命は修煉に励まなければなりません。完全に修煉に打ち込み、一人の修煉者となれば、あなたの生命を延ばすことができます。当然その延ばされたものを、人はそれが延ばされたものとして知ることができません。もとからあった生命だと思ってしまいます。絶えず煉功すれば、絶えず生命が延ばされ、あなたの煉功の時間を増やすことになり、圓満成就まで十分な修煉の時間を持つようにさせます。自らを修煉の人と見なすことができなければ、生命が延ばされたすべての人はいつでも生命を失いかねません。それはあなたが修煉することができなかったからです。大法は安易に一人の常人に生命を延ばしてあげてはいけません。人の生命には定めがあり、その時になれば死ぬべきで、転生すべきです。その人の生れ変りを待っている人が既に妊娠しているので、生まれて来なければなりません。生まれた後、常人社会で何年か生きていき、またするべき仕事もしなければなりません。その仕事はまだ彼を待っていますので、彼を行かせなくてもいいというのでしょうか。でないと、社会の全体の秩序を乱すことになるのです。大法の修煉者だけにこのようなことをしてあげてもいいのです。この世において、修煉することと、昇華して戻るということより偉大なことはないので、あなたにこの一切をうまく段取りしてあげられるのです。あなたが修煉者になることができるようにあなたの代わりに他の人を入れ替えます。よって、修煉者は常人ではないというのです。

 常人としてこのようなことをしてあげられるのでしょうか。私たちはこの問題を厳粛に見なければならないのではないでしょうか? こういうことです。ですから私は大法の素晴らしさを話しましたが、どのように圓満成就するのかを聞いたらみんな拍手しましたが、反対に真に修煉することができなければ、何も得られません。自分を修煉の人として見なすことができなければ、同じく何も得られません。心性の向上こそ本当の向上です。毎日体操のように煉功したら、死ぬことを免れるというのでしょうか? それは冗談ではありませんか。毎日煉功しても、心性を高められなければ、その人の煉功は私に言わせると体操をするのと同じです。ただそのほんの少しの違いでも、彼はなかなかそれを変えられないのです。変って、常人の観念を捨てるなど全部できたら、あなたは神になります。それができなければ、あなたは人間なのです。しかしそのすべてができるということは容易なことではありません。積み重ねた修煉によって築きあげた思想の基盤がなければ、切り捨てなさいと教えても彼はそれを切り捨てることができません!

 もし今死に直面して、いかなる死亡の形であっても、死に直面していささかも恐れることなく、まったく気にせず、「死んだら天国に行くことになるかもしれない」と思うなら、死という事は本当になくなるのです。肝心なのは人の心です。大法の修煉は人心を真っ直ぐに指し、修煉は即ち人の心を修することです。あなたの心が動じなければ、その他の現れは皆虚像です。形は仮の形です。

 私は質問したこの学習者のことを言っているのではなく、一つの道理を説いているのです。この質問を借りて皆さんに一つの道理を説いています。

弟子:もし一つの問題を解決した時、あるいは一つの間違った思想を捨てたい時、煉功の時に一念をもって自分を励ましたら、何らかの効き目がありますか?
師:煉功の入門段階の時に、意志を強めるために一念があっても、反対はしませんし、あなたが間違っているとも言えません。しかし修煉は偉大な事であり、厳粛なことなので、「一念」で自分を制約する必要があるのでしょうか?! 「私はどうしても圓満成就に達成して、どうしても高い境界に達成しなければなりません」。このように修煉すれば、一番いいと思います。修煉界に「求めずとも自ずから得る」という諺があります。それは最もよい状態なのです。さっき私が言った癌患者らはどうして回復したのですか? 彼は病気を治すとか、本を読んだら病気が治るとかを考えもしなかったのですが、かえって治りました。これで「求めずとも自ずから得る」ということに符合したので、何かに執着することなく、いかなる障害もなく、迅速に回復したわけです。これが原因です。

弟子:今ヨーロッパまで佛教を伝えに来た人が多いようですが、私たちの法輪大法はその他の佛教とはどういう違いがありますか?
師:違いはとてつもなく大きいのです。佛教は釈迦牟尼佛をあがめています。彼らは釈迦牟尼佛が佛教を創立したと思っています。もちろん大乗佛教は他の佛陀を崇拝しています。密教のラマ教、つまり中国のチベットのラマ教は釈迦牟尼の創立した佛教とはまったく違いますから、ラマ教と呼ばれています。ラマ教があがめ尊んだ最高の佛は大日如来です。白教はミラレパをあがめているのです。それぞれ異なっています。ですからそれは既に釈迦牟尼の佛教と完全に別のことになっています。これが佛教です。佛教は広がっている過程で宗教を形成しました。お寺や各種の宗教の教義規則などなどがあります。ですからそれが宗教なのです。

 私たちのところには何もありません。こうしなさい、ああしなさい、或いはこうしなければいけない、ああしなければいけないとかは言っていません。何もありません。自分で本を読み、法を学ぶのです。どのようにして良い人になれるのか、それは自分ですればいいのです。ですからこれは宗教とはまったく違うのです。常人の形式という面から見ても、緩やかで、いかなる制限もないこうした一つの修煉の形です。どうして私たちはこのようにするのでしょうか? 私たちには大法がありますので、学べばどうすべきかすぐ分かります。もし私たちが一つに集まってしまえば、学ぶ人が多いため、将来は災難となり、人類に災難をもたらすことになります。誰もが働かなくなり、数億人がみな出家してはいけません。それでは社会や人類社会に面倒をもたらしますので、それは許されません。自分の仕事をし、ただするだけではなく、その上しっかりと仕事をしなければなりません。自分の仕事をきちんと扱うことができなければ、修煉者としての基準に合っていないことになります。一人の修煉者はまず常人から、良い人になることから始めなければなりません。良い人とはなんですか? どこにおいても良い人であるということです。ボスから給料を貰いながら、仕事をきちんと仕上げなかったら、周りの人はあなたがいい人とは言わないでしょう。あなたは何もせずに人からお金をもらっているからです。私たちもしっかりしなければなりません。どこにおいても人にあなたが良い人だと言われなければいけません。

 私は今の宗教は人を済度することができないと言いましたが、それが邪教だと言っていません。しかし、宗教に携わっている多くの人はお金のためにやっているのです。お金をたくさんもらうため、寺院あるいは教会にいる人がいます。ある国では長者番付の一番はお坊さんだそうです。一番の富豪です。お金が多くなったら家へ仕送りします。これはお勤めと同じではありませんか? 中国で和尚は課長クラスや部長クラスなどにクラス分けされ、金を稼いでいます。局長クラスもあると聞いています。これは既に修煉ではなくなりました。私もそれが修煉だと認めません。

 専ら世界の終末を言う宗教もいくつかあります。専らこの類のことを言い散らしています。これらは完全な邪教です。社会の動乱を巻き起こし、社会に責任を負っていないので、これらは邪教だと容易に識別できます。更に皆さんに教えますが、原始の正教以外はすべて邪教です。原始の正教とは、カトリック教、キリスト教、佛教、道教、ユダヤ教を指します。これらは皆原始正教なのです。歴史の後期、特にキリスト教の後期段階に現れた宗教の九九・九パーセントは邪教です。なぜでしょうか? たとえそれほどの悪事を働かなくても、人間を済度する時期に人を済度することに影響し、人が正法を修煉することに影響し、人が正教を信じることに影響し、人を誤らせ、正法を乱しているのではないでしょうか。それは邪ではありませんか? それ自身の罪は既に大きいです。後期になると、今は宗教が既に人を済度することができなくなりました。多くの人は皆政治屋になりました。

弟子:執着心がもたらした苦痛は業力を転化させることができるのでしょうか?
師:修煉の際、執着心を取り除こうとしても、なかなか取り除けない場合、関門を乗り越えるその辛さの中で、業を滅することができます。滅することができないとはどういう場合でしょうか。それが執着心だとはっきりと分かっていても、やはり執着しようとするのであれば、どうしてもしてしまう場合、その痛みの中で業を滅することはできません。悪いと承知した上でしたからです! 自分で自分に面倒を引き起こしたのです。常人にとっても、同じ道理です。同じ事です。しかし常人の事に私たちは関与しません。常人社会がどう発展するか、それは常人のことです。ここではただ修煉者に法を説いているだけです。

弟子:同性愛者の業力は大きいですか? もしかすると彼らはだんだん執着心を捨て、大法を修煉するようになるかもしれませんが…。
師:同性愛者がその執着を捨て、正々堂々と一人の人間として振舞うことさえできれば、修煉を始めても問題はありません。業力の問題を考えないでください。もう考えないでください。私は言いましたでしょう。あなたが修煉することさえできれば、私にはどんな方法でもあります。(拍手) 単にこの業力が大きいかどうかについては、人のこの排泄器官から排泄する時、いつも業力を一緒に排泄します。このような器官ですので、正しくない方法で接触すると、このような業力が生じてしまうのです。

弟子:先生は三千個の小宇宙で第二層の宇宙を構成し、また三千個の第二層の宇宙で第三層の宇宙を構成したとおっしゃいましたが、どうして皆「三千」という数字なのでしょうか?
師:皆さんは覚えていると思いますが、私は「偶然という現象はありません。自然という現象は存在しません」と言ったことがあります。科学はその現象を知ることができず、理解することができない時、これが自然現象だと定義してしまいます。この一言で人の思想を行き詰まらせてしまいました。人は深く考え直そうともせず、科学がやはり科学的だと認めます。私はそれこそおかしいと思います。科学は物事を解釈することができませんが、人を騙すことができます。実はいかなる自然という現象もありません。厖大な宇宙に有形と無形の生命は同時に存在しています。厖大な無形の生命の働きかけで、宇宙のすべてを支配し、宇宙のすべてを造成しています。皆さん考えてみてください。どうして鉄の分子の配列はそんなに整然としているのでしょうか? 金の分子の配列はどうしてそうなっているのでしょうか? 銅はどうしてそうなっているのでしょうか? またどうしてアルミニウムはそのようなものでしょうか? その上、どうしてムラなく、整然と配列されているのでしょうか。もしムラがあり、整然と配列されていなければ、一つの変化が生じます。どういう変化でしょうか? もし金が金属元素の分子配列に従わなければ、別のものになってしまいます。違いは表面上にあります。このすべてには全部法則があり、しかもこの法則は決して自然に形成されたものではありません。現代科学はそれを把握しておらず、探求することができないだけです。更にミクロの生命、厖大な高い次元の生命は異なることをしており、異なることを支配し、すべての均衡を保っています。

 更に教えますが、今まで話したくなかったのですが、高い次元の生命や神から見れば人の観念は皆幼稚で、ばかげているからです。この科学が人に作り出したすべての理論は高レベルに至れば、皆おかしなものです。今の人間が地球に生活しており、地球に足をつけることができ、落ちていかないのは地球に引力があるからだと科学は主張しています。実のところ、そういうわけではありません。私は一般社会の人に法を説いて聞かせるのではなく、修煉している私の弟子達に法を説き、宇宙の真理や、生命と物質の存在の真実を伝えています。この宇宙には地球を取り巻く一つの巨大で、しかも非常にミクロ的な物質環境があります。それは幾重にも重なり合う物質生命によって構成されたもので、人間がここで生きることができるように、このような植物、動物と物質が存在し、人間が生き、生活することを可能にする様々な要素があります。
 人が地面に直立して斜めにならないようなある種の物質があります。またある種の物質は圧力のようなもので、人間と物体が浮かび上がらないように、しっかりと押さえているのです。ある種の物質は人間の脳と器官を安定させることができます。もし脳と各種の器官が安定しなければ、普通に立っていても横たわっているように感じます。あるいはいくら真っ直ぐに立っていてもどうしても真っ直ぐに立てないように感じます。それは絶対地球の回転による引力ではありません。一皿の砂が振り回されると、すぐ飛び去ってしまいます。全くそういうことではありません。しかし、仮に地球というこの生存環境を超え、この環境の外に出てしまうと、その高次元の生命体が人間を維持してあげたこの環境を出てしまうことになり、そうすると、人はこのような状態から抜け出てしまうのです。現代科学では「無重力」あるいは「無重力現象」と呼んでいます。皆さんが知っているように月はあれほど離れているのにまだ地球に動かされているのではありませんか。人間はまだ月にも着いていないのに、どうして無重力状態になるのでしょうか?

 人間にはそれなりの生存環境があり、それぞれの星がそれぞれのところに置かれているのは、即ち厖大な宇宙の生命が配置したのです。今の鋼や鉄や金などの分子や原子の配列の順序が不変であることと同じなのです。私は自然という現象がないと言っていますが、科学は解明できないことをすべてまとめて「自然の現象」だと言い、これは人を騙すことだけができます。この一言はすべての人を騙すことができました。どうして皆三千なのでしょうか? この三千という数字は私がさっき言ったように、皆さんに教えたように、それにも法則があるのです。手配があるのです。しかし必ずしもすべてが三千というわけではありません。私が言ったのはすべておおよその数字です。あなたを最大限理解させるために、人間の言語で表現したのです。

弟子:弘法は順調ではありませんが、熱心さと方法に問題があるのでしょうか、それとも法を深く学んでいなかったためなのでしょうか? 「本性が悟っていればどのようにするべきかが自然に分かります」と言われましたが、これは正しいでしょうか?
師:言ったことは正しいです。しかし今のこの情況下ではまだそれができません。ですから今の情況下では今の情況に合わせてしなければいけません。人に法を得させたければ、この法の最も次元の低い、最も表面的な法理を伝え、学ぶ意志があるかどうかを見てみます。最もよいものを他人に伝えたいからでしょう。本人が学びたければ学ぶようになります。学びたくなければ、学ぶように説得しないでください。人の心が変らないかぎり、説得され、面子のため、学びに来たのは皆うわべだけです。友達の面子を考慮して学びに来たのはうわべのことです。彼も何も得られません。人に法を得てもらうにはいかなる具体的、かつ形のある規定はありません。私たちは大道無形という道を歩んでいるからです。法を広げることも自主的にやらなければなりません。人が学びたければ学び、学びたくなければそれでいいのです。自分に対する要求はすべてあなた自身次第です。もちろん、一人の修煉者として、心性さえ向上すれば、その他のことはもちろん皆先生がやってあげるのです。心性が向上すると、先生も有利な要素を作り出してあげます。

 深く法を学んでいないという問題でもないのです。私が最も心配したのは皆さんが修煉してしばらく経つと、境地においても物事への認識においても、常人との間にかなりの開きが生じてくるので、こんな高い境地の話を彼らに聞かせたら効果が良くならないということです。というのはその人はまだ常人だからです。常人は毎日株に没頭したり、人と腹を探り合って暗闘したりしています。また個人の利益のために互いに奪い合い、わずかばかり得ると嬉しくて堪らず、少し失うと辛くて堪られないのです。自分勝手に行動し、七情六欲がすべてあり、これこそまさしく常人なのです。常人にいきなり高い次元の修煉の話をすれば、彼の観念では当然受け入れることができません。この大法の文字面だけの意味を伝えればいいです。深い意味は本人に読み取らせます。これで受け入れやすくなると思います。

弟子:近視は正しくない状態ですので、眼鏡をかける人が眼鏡を外せば、業を滅することになると言う人がいます。
師:私はこのように言ってはいません。皆さんもそろってそんなことをしないでください。私は必ず何らかのことについてこうしなさいと決めたことはありませんので、私のしなかったことは皆さんもしないでください。すべての人は皆情況が異なっているからです。修煉する時にある面の業力を容易に滅し、その人に変化をもたらしますが、情況が複雑な人もいます。ただ一般の業力であれば、早く滅することができ、眼鏡を掛けられなくなります。眼鏡をかけるとぼやけてしまい、はずすとよくなります。正常な目と同じです。このような人の場合はもう眼鏡をかけられないことを知らせています。目にはもう問題がありません。以前、ニューヨークで講法が終わると、一人の学習者は法を聞いた後に、隣の人が無意識に手を振ると彼のコンタクトレンズを打ち落とし、壊したのです。目を傷つけることもありませんでした。実はそれは目がすでによくなったということを彼に伝えたのです。しかし彼はまだ悟っておらず、無理に片方のコンタクトをつけていました。しかし眼鏡をかけていない目の視力は眼鏡をかけていた時と同じようで、ものをはっきりと見えます。はっきりと見えており、視力がすでに非常によくなりましたが、彼はまだ片方のコンタクトをつけているため、両目に違和感があり、気分が悪くなりました。これは眼鏡がもう矯正の作用がなく、取るべきであると言っています。彼は外さずに無理につけていたのです。しかし彼は半分を悟りました。この目にはもうつけてはいけないと分かりました。しかし、それでももう片方に無理につけていたのです。実際にはすべてよくなったのです。

 しかし、状況がそうでない人もいます。彼の近視はその他の複雑な要素と絡んでいます。修煉していくうちに、だんだん片付けてあげなければいけません。この場合は簡単にメガネを外すことができません。もし他の眼鏡をかけた人は煉功したら外せたので私も外せるはずだ」とか、あるいは「私が外せなくても外さなければ気が済まない」とか思うと、彼の生活と仕事に不便をもたらしてしまうかもしれません。彼が無理やりにしたからです。彼はこういう気持ちがあり、このようにしたければしても構わないのですが、ただ不便なだけです。しかし強引にしようとすると、恐らく面倒をもたらしてしまうことになりますので、よしたほうがいいのです。この点においては異なった情況に合わせて、異なった対応を取ったほうが良いと思います。また他の病気のようにあなたの修煉に影響することもありません。眼鏡をかけて本を読むこともできるし、煉功もできます。本当にあなたの修煉を妨げることであれば、この問題を解決しなければなりません。ですから融通のきかない規定や統一した規定を定めないでください。皆さんはこのようにしないでください。

弟子:法を学んでいるときに突然一つの理が明らかになりました。これは心性がある次元に達したので、その次元の佛、道、神がその次元の智慧を授けてくださったのでしょうか。
師:そういうふうに理解してもかまいません。「修は己にありて、功は師にあり」と言うからです。実際すべてはあなたのしたことでも、できることでもないのです。考えてみてください。私たちの中に大法を修煉して、本を百回読んだ人がいます。読めば読むほど中に多くのものが含まれていることに気づきます。しかし文字面のものではありません。どうしてそんなに奥深い理が含まれているのでしょうか。その人ははっきりと言えません。実のところ文字の後ろに尽きることのない法があるからです。ある次元に至り、ある次元まで修煉できたら、あなたにその次元の理を知らせるべき時に、あなたはある一行の文字を見たら突然分かるようになってきます。つまり、その後ろにある佛、道、神があなたにその次元の理を知らせていいと思うときに、あなたに悟らせるのです。ですから、あなたはその瞬間に、「あ!分かった」。しかし皆さんはもう一つの状態に気がついていないのです。その次元の理、その文句に含まれた理が分かった時、皆さんの身体には様々な反応があります。身体が一瞬震動したと感じる人もいれば、頭のてっぺんが熱くなって急に足の裏まで貫いたと感じる人もいます。突然身体が膨らんで熱い流れのようなものを感じ、一種の感動のような感覚です。皆それぞれ感じ方は違います。その時、全体の変化が非常に大きいのですが、最大の一層の分子で構成された人間の身体の表面まで伝わってくるものはとても弱いもので、ただ一つの感覚にすぎません。

 ところが、身体にある更なるミクロ的な粒子によって構成された一部分に生じた変化はかなり大きく、それは本当に換骨奪胎のような変化です。ある次元に入るには、その次元にある生命体の身体の基準及び思想の境地に到達しなければなりません。というわけで、大きな変化が起ったのです。しかしこの変化は身体の表面まで伝導してきたらとても弱くなります。私たちは本質から、生命の最もミクロ的な修煉において、あなたの身体を変えていくからです。その上、修してよくできた部分をまだよくできていない部分から切り離し、繋がって一体のように見えますが、実は間では切り離されており、繋がっていません。しかし、絶対に繋がりがないとは限りません。肝心な部分は皆繋がっておらず、少なくとも表面にある体の修してよくできたその部分はそのままにしています。どういう利点があるのでしょうか。皆さんは常人の中で修煉しているため、まだ常人の行動、常人のさまざまな欲望のある行為を行ったりして、甚だしき場合は常人として話をします。神はそう話したり行ったりすることができません。もしよく修した部分も同じような話をし、人間としての身体に従って行動をしたなら、神としての一部分の資格を失います。人になってしまいます。この道理なのです。

 下へ落ちていかないように、あなたが修してまだできていない部分だけを常人の中で保ち、よくできた部分が動かないように維持することによって、あなたがどんな行為をしてもその部分の考えと身体に影響することはありません。切り離してあるのです。私たちはこの方法を採りました。そうすると、皆さんは常人の中で仕事、勉強、生活をすることもでき、修煉することもできます。圓満成就した部分は絶えず切り離されています。思想の中にまだ良くない考えやさらに不純な考えまで浮かび上がってくるという人がいますが、それを恐れる必要はありません。それはまだ表面まで修してきていないからです。しかしそれを抑制、排除することが修煉です。しかしながら、身体の大部分が既によく修していればなおさら、もしほんの少しであっても、たとえただ一つの人体細胞が三界以外の境地に達成できても(三界以外は羅漢の境地)、羅漢の境地に至ったその細胞はあなたの身体の全体を支配することができます。体のその他の部分がみんな三界以内にあるので、まだ弱いものです。その細胞は高級生命であり、とても強いものなので、あなたの思想をすべて支配することができます。あなたのすべての言行はもう人による行為ではなく、すべて神による行為になりました。

 どうして皆さんはこんなに長く修煉していてもまだそこまで達成することができないのでしょうか? 実は私がそれを切り離しましたので、皆さんは達成できなくなったのです。仮に本当に達成し、今日皆さんの全部が開かれていれば、今の段階のこの程度だけで、地球は皆さんを収容することができなくなり、一人一人がすべて大きな神通力を持った人になります。釈迦牟尼が悟りを開いたその瞬間に震動がありました。地震、山崩れと津波があったと思われています。非常に広い地域にわたり、震動が起こりました。考えてみてください。こんな大勢の人なら地球は耐えられますか。ほかの空間の身体は無限に広く伸びることができるからです。それはあなたが到達した次元においての無限の大きさです。これはどういうことを意味しているのでしょうか。例えばあなたはここまで修したら、第一層の宇宙まで至ることが実現できたら、あなたの身体は第一層の宇宙まで大きく拡大するのです。また非常に小さくまで縮まることもできます。私たちの今現在の肉体は分子という最大の粒子から構成されています。これは霊的なものではないので、変動がないように見えるのです。実のところそれも変動がないわけではありません。身体の分子が動いており、顕微鏡の下であれば、あなたの身体は砂と同じ、中の分子は皆蠕動し、動いているのです。あなたの目も分子という粒子から構成されたため、見えないわけです。どうして釈迦牟尼はそれほどミクロ的なものまで見えるのでしょうか。彼の目は佛の目だからです。相当次元の高い物質で構成されているので、彼には多くの物質を見通すことができます。

弟子:無数の次元及びもっと高い境地の佛、道、神はその次元における先生の智慧の形象の具体的な現れですか?
師:そういう言い方はだめです。修煉し終わってもあなたはやはりあなたです。しかし厖大な法及び法が作り上げた宇宙にとって、あなたはまた宇宙の一部分です。人の身体は完備した思想と見えても、この口で話をしているように見えても、しかしこの身体は無数の細胞で構成され、細胞更に無数の細胞が構成しています。分子は細胞を構成して、また更にミクロ的な無数の粒子によって分子を構成しています。これらのすべてはあなたではないと言えますか? ですからそれらの粒子は皆あなたの一部分です。私が話したあなたの各空間に存在している体のこととは別のことです。細胞はあなたの手足のように大きく動くことができませんが、その境地では、同じく動いているのです。ただその境地で、非常にミクロ的であるため、あなたにはそれが見えず、動いていないように感じてしまうのです。ですからあなたの身体はすべてを自ら支配しているようであり、あなたの主意識の支配下にあるのです。しかしあなた達はまたこの宇宙全体の一部分であり、この宇宙はこの法によって構成されたのです。このような関係なのです。

弟子:時間が限られているので、本を読みたいし、また本を暗記したいのですが、しかし本を暗記すると通読に影響する気がします。このバランスをどう取ればいいのでしょうか?
師:通読はあなたの向上に大きな利点をもたらしています。もし本を暗記するなら、ある特定の時間で集中して頑張ってそれを暗記したらいいのです。後は本を読むという面倒なことをしなくてもよくなります。ただし、必ず時間を集中して暗記しなければなりません。さもなければ、あなたは通読もしたいし、暗記もしたい、また通読もしたい、いつもこう考えていてもいつもこの状態のままです。本を暗記することは通読に影響しません。通読できないからと言って、向上することもできないということはありません。本を暗記する時に、すべての文字の後ろには尽きることのない佛、道、神がおり、すべての文字はあなたに異なる次元の理を分からせることができます。

弟子:私はナチスのマークを見たことのある世代の人間ですが、なぜたまたまこのマークが彼に盗用されたのでしょうか。このマークの本当の意味をどう捉えればいいのでしょうか?
師:ご存知のように、佛教で佛家のこの「卍」符が認識されたのは釈迦牟尼の時代です。現代まですでに2500年余り経過しました。つまりナチスの時代よりはるかに昔のことなのです。ギリシャ文化の中で見出されたこともあるそうです。それなら、また佛教を千年余りも超えることになります。つまりかなり長い歴史を持っています。ただし、これも人が知ることができた範囲です。実のところ、それは佛のものです。佛はどれぐらいの年齢があるのでしょうか? それは時間(地上世界の時間)で計算することのできることではありません。ですからこのマークは天体においても宇宙においても大変長い歴史を持っています。宇宙の中でも相当な歴史を持っていますから、人類の時間ではなおさらです!

 では、なぜナチスにこのマークが使われたのでしょうか。私はいかなる偶然という現象もないと話したことがあります。自然という現象も存在していません。これは白人社会にとってとても敏感な問題です。私はただ大法弟子に法を説いているだけです。社会の常人に対して言っているのではありません。常人に言っているのではありません。私は皆さんの修煉に責任を負うためにこそ、これを伝えているのです。

 この地上で発生した一切の出来事、つまりこの人類社会に起きたすべての出来事は偶然ではありません。皆さんが知っているように、短い周期で堕落し消滅されてしまわないように昔の神は人間の生命を維持し、できるだけ輪廻の中でもう一度元に戻り、地獄に落ち最終的に消滅されてしまわないように、神は絶えず人の業を消してあげるのです。これは人間の知らないことです。神が人の業を消してあげると同時にこの社会、物質とすべての生命の業を消しています。一部の物質も業力があります。例えば人が悪いことをして死んでしまうとしたら、その業力も彼について行きます。彼の生命についているのです。次に彼は人間に生れ変ることができず一本の樹に生れ変ります。それでこの樹は業力を持つわけです。もし彼が動物に生れ変ったらその動物も業力を持つのです。即ち彼は物質に生れ変わったら物質も業力があるのです。もしあなたが目を開いてこの世界を見ることができるなら、あなたはここで生きることができなくなります。至るところに業力があふれています。それではもし人の業力が大きくなったらどうしますか? 神は世の中に来て直接人の業を消してあげることはありません。無条件に業を滅するわけにもいきません。この宇宙の中に一つの理があります。ですから神は宇宙の理を守って行動しているのです。

 宇宙にあるその理とは何でしょうか。「失わないものは得られず、得るためには失わねばならぬ」という理です。人に業を滅してあげたければ、その人はこの業力に耐えなければなりません。もし人の業を滅してあげなければ業が少しずつ溜まっていって多くなるのです。多くなったらそれは極悪非道になります。極悪非道になったら消滅されてしまう羽目になります。この生命は消滅されます。彼を再び活かすことはできません。完全に消滅するのです。人類を保護するために人の業を消してあげるには人は業力を返すという苦痛に耐えなければなりません。どんな苦痛でしょうか? 天災、人禍と疾病に耐えることです。実のところ私は一つの真理を皆さんにお教えします。人は病気にかからなければ、ある人がもし一生病気にかからなければ死後百パーセント地獄に落ちるのです。人が生きている限り業を造るのです。イエスが言ったように「人には罪がある」のです。人が業ばかり造り、それを返すことがなく、そうなれば危険です。ですから人は病気になったり災難に遭ったりします。広範囲の人に業力があるとしたらどうなりますか? 地震や火災また水害、さらに疫病や戦争が発生します。

 戦争の話になるとまたこの質問に戻りました。そして深く話をすると問題が非常に微妙になります。実のところ私は宇宙の本当の理を言っています。というわけで、これ以上私はもう話したくありません。世の中には偶然のことはありません。私は政治に参与したくなければ常人社会に影響を及ぼしたくもありません。私はあなた達修煉の人だけに責任を負うのですから、話はここで止めておきましょう。皆さんに自分で分析してほしいのです。

弟子:私たちの煉功場に他の気功流派の人がいつも私たちを邪魔しに来るのですが…。
師:正法を修煉するにはあなたを邪魔する人がいなければ、あなたは修煉して圓満成就することができません。妨げを作る人がいなければ、心性を高める環境もありません。試練に遭わなければ圓満成就することはできません。こういう理なのです。しかしこれらの妨害に遭う時、いつも大法を用いてそれをしっかりと遮る学習者もいます。自らのことを認識せず、大法で遮ったのです。あたかも「私たちの法を破壊しに来た」と言わんばかりです! どうしてこういうことになったのか、ということの原因を自らの中に探そうとしません。私たちはどこがいけないことをしたのでしょうか、私自身もどこかいけないことをしたのでしょうか。私たちを戒めているのではないでしょうか、あるいは私たちを試しているのではないでしょうか。実は他人は永遠に法に影響することはできません。このようなことは私たちの学習者を向上させるために現れた可能性が高いのです。ある地区で二組の学習者がけんかをしました。最初、それを向上するための環境であり、自分の間違いを見出すよい機会であると見なすことができなかったので、揉め事が激しくなりました。最後にはまるで常人のような有様で振り舞い、少なくともその問題においては常人の境地に落ちてしまいました。将来また同じような問題が起こるに違いありません。必ず皆さんにこの関門を乗り越えさせなければなりませんし、避けるわけにもいきません。乗り越えなければだめです。ですから、修煉というのはまさにこういうことです。どの心も捨てなければいけません。もし私たちは本当に動揺することがなければ、彼は自ら去っていくに違いありません。

 しかしもう一つの情況があります。人間自身にも業力があって、あなたが修煉したいと思うと、三界内に正果を得ていない生命はたくさんいます。もし彼はあなたに恨みがあれば、あなたはいずれかの世で彼の恨みを買ったため、彼は本当に復讐にやってきます。本当にあなたに修煉させないために、各種の方法を使ってあなたを邪魔するのです。さらに不思議なことを起こしてあなたを脅かします。しかしあなたは自分を落ち着かせなければなりません。あなたはすでに修煉しているのですから何を恐れるというのですか。正々堂々と修煉してください。ましてあなたが修煉したのは正法なのです。これらの邪道のものは幾たびもかき乱しにやってきたとしても、面白くなくなってしまいますから去っていきます。それは何の影響もありません。多くの人がこういった事にぶつかることがあるので、私は『轉法輪』の中にこの問題を取り上げました。

弟子:人の形体と魂がすべてなくなるとはどういうことなのでしょうか?
師:これはとても恐ろしいことです。非常に恐ろしいです! 具体的に言ったら皆さんはその恐ろしさに耐えられません。あまりに恐ろしいことです! 人は一生だけがすべてであると思うのですが、実のところ人の一生は正に眠ることと同じようなものです。本当の自分は大して役に立ちません。肉体から出た時に自分がふんわりと浮き漂っているように感じます。脳に制御されない時は、自分の思想が全部開放されていることに気づきます。その空間に入った後に常人の空間の時間も変化が生じたのです。目が覚めているように、突然一生の間に自分が行ったことがありありと目に浮かびます。どんな小さなことでも、ついさっきしたようにはっきりと覚えています。ぱっと大脳は開放されました。自分が行ったすべてのよい事と悪い事を全部知っているのです。常人の中でした事はあなたがしたのではないと言えるのでしょうか? もう一度生まれ変わってもう一度悪いことをしてはいけません。神は生命を見るときにその全体を見るのです。一生だけを見るのではありません。ですからその生命がしでかした全てを償わなければなりません。この理です。ですから人が悪いことをしたら償わなければなりません。

 消滅されることになるとそれは恐ろしすぎるのです! 形神が全滅になるということは、どう消滅されると言うのでしょうか? この人の一生にある有形の生命を殺し、消滅するのです。体を殺す瞬間、同じ境地に生存できる元神と全ての霊体を皆殺しにするのです。殺された後、彼は本当に死んだのではなく、ただこの一層を離れただけです。さらにミクロの生命はまだ存在しています。そしてそのミクロの生命も同時にもう一度殺してしまいます。一層また一層と殺されていく過程の中で彼が業を償うのです。どう償うのでしょうか? 消滅される苦痛の中で、受ける全ての苦しみや、その地獄の中で苦しみを嘗め尽くさせるために、鉄板を赤く焼いてその上に載せて焼くとかなど、どのみち全てを苦痛の中で償うわけです。それから全ての次元で殺されます。殺された後にもあなたの生命はまだ終わっている訳ではなく、あなたにはさらにミクロな粒子で構成された生命がまだあるからです。その次元の生命は引き続き苦しみに耐えるのです。再び殺され、それからさらによりミクロな体は引き続き耐えなければなりません。最後まで殺され尽くすのです。その苦痛はこの上なく恐ろしいことなのです!!! 悪いことをやったら死んでしまえばいいと言う人がいますが、そんなに簡単なことでしょうか?! あなたは自分がやった全ての悪いことを償ってからでないと終わりにならないのです。それにその終わりも本当の終わりではありません。あなたを比類のない宇宙で最も汚いところに放り出すのです。人類の痰は神も最も汚いものだと言っています。あなたを一つの痰壺に投げ捨てます。病人の痰はあなたも最も汚いと感じます。しかしあなたに教えておきますが、それでも最も汚い最も不潔なところと比べると何倍ましか分かりません。その最も汚い最も不潔なところに放り出すのです。この時はまだわずかな感覚があって、汚さは分かります。それはどんな気持ちなのでしょうか? そこに永遠にいて永遠に抜け出すことが出来ないのです。これこそ恐ろしいことです! 釈迦牟尼はここまで明かしておらず、地獄については十八層の地獄の様子だけを話しました。一層の地獄は前の一層の地獄より苦しいのです。私は大法を破壊する罪について話したことがあります。十八層の地獄をも超えるものです。皆さんに恐ろしいことを言ってしまいました!

弟子:私は幸運にも先生の著作を翻訳する仕事に参加することが出来ましたが、先生が『轉法輪』の中で言及された「瘋僧掃秦」というのは人名でしょうか、それとも典故でしょうか?
師:「瘋僧掃秦」という典故があります。この物語は中国杭洲の霊隠寺で起きたことです。南宋の時代、秦檜という奸臣がお寺に香を焚きに来ました。ある僧侶が竹箒で奸臣秦檜をひとしきり掃きたてたのです。彼が床を掃いている時に秦檜が寺に入って来ましたが、竹箒をもって床を掃き、土をも掃きかけたのです。秦檜は掃きかけられて苛立ちました。彼は宰相だったのです。そこでこの僧侶を捕らえさせようとしましたが、この僧侶は気が狂っていることに気づいたのです。しかしその僧侶は外見こそ狂っているようですが実は狂っていなかったのです。事実はとても理性的な人物だったのです。昔の修煉方法は一風変わっています。皆さんにはこのような方法を取らせません。皆本当に気が狂うようになったらこの社会は大変なことになります。ですからそれも修煉の状態によるものです。秦とは秦檜のことです。つまり岳飛を殺した秦檜です。それは中国古代の修煉に関する一つの逸話です。

弟子:どれくらい経ったら、生まれ変わることが出来るのでしょうか?
師:死んだ後どれほどの間向こうの世界にいれば生まれ変われるのかと聞きたいのですね。気を回しすぎてはいませんか。輪廻や、世間のことは全て神が手配しているのです。全て神がやっているのです。人の状況と業力によって違います。しかし、かなりの時間が経過してから生まれ変わる人もいますが、待つ時間の短い人もいます。なぜでしょうか? 例えて言えば、人類はよく集団としてこの世に生まれ変わってくるのです。この集団の間には前世において互いに社会的関係を持っていました。来世にもまた社会的関係を持たせます。その集団と余り関係のない人は局外者同然です。この世に生きている人は皆こういう感じを持っています。社会にはあなたとまったく関係ない人もいますが、反対に常にあなたと何らかの関係のある人もいるようです。それは恐らくあなたと関わりのある人です。ですからこの集団が生まれ変わるときは往々にして一緒に生まれ変わるのです。しかし同じところに住むとは限りません。また一斉に揃って来るわけでもありません。誰かが先に来たり、誰かがその次に来たりして、年寄りの人もいれば若い人もいます。いずれにしても、このように来る訳です。来た後に、お互いの間での前世の借りを今生で返すのです。このような関係です。前世で誰かに利益をもたらしたら、今生であなたはその人からの助けを受けます。彼からの福報を得られます。こういう訳です。これは業力の大きくない人が、生まれ変わるときのいくつかの事情です。業力の大きい人は再び人に生まれ変わることが出来るとは限りません。植物や動物それから物質に生まれ変わり、最後に消滅されることになるのです。

弟子:他人の業力を引き受けることはできず、例え自分の実の子供でも駄目だと、先生はおっしゃいましたが、わたしの二十一歳の子供が不良の道に走っています。わたしはどうすれば彼に責任感を持たせることができるのでしょうか?
師:わたしは先にあなたの前の質問に答えます。つまり、人は絶対に他人の運命を変えることなどできません。自分の一生さえ左右することが出来ないのに、他人の一生を左右することなどなおさらです。人はどんなに努力してもその生きている人生の路を歩んでいくだけなのです。努力して何か得たように見えますが、実のところそれは必然なのです。努力しないと得る事も出来ません。その努力というのも必然の一部分なのです。そのときになれば必ずそうするのです。しかしもし子供を教育せず、一人の人間として如何に行動すべきということを教えなければ、それは犯罪です。子供がよく教育されなかったために悪事を働けば、それによって生じる業力は親にも及びます。しかし小さいときから教育できない場合は別のことです。すべては手配されています。なぜさらに教育しなければならないのでしょうか? もし教育によって良い人になれば、大きな業力を作らず、生活の質も違ってきます。あるいは修煉の人になるかもしれません。

 他人の業の肩代わりをするということは恐ろしいことです! 自分自身の業力にほかの人の業力をさらに加えると、何日も経たないうちに死んでしまうかもしれません。業力があまりにも大きいからです。人が想像するようなものではありません。わたしは高い次元のものを教えましたが、皆さんはよく人の考えを用いてそれを理解しようとします。それではいけません。子供が不良になっていることについて、親として彼を教育する責任があります、しかしその子供がすでに成年になっているのであれば何も聞き入れないでしょう。子供の頃、厳しくしつけをせず放任したため、大きくなったら彼は必然的に堕落してしまうのです。そうなると教育しにくくなると思います。もし彼があなたの話に耳を貸すようであれば善意を持って忠告すればよいのです。彼が苛立って落ち着かない時には言わないほうがいいのです。言ったとしても、言わないのと同じことです。それにあなたも腹が立ちます。どうしても手におえなかったらあなたのせいにするわけにもいきません。しかし昔よく教育していなかったことにはやはり責任があります。それは確かです。もし次の世代の人にそのままの状態が続くのであれば親にも罪があるのです。

 もし子供が目覚めてまだ自分を見つけることが出来るのであれば、彼が冷静になった時に、彼に本を読ませてみてください。もし読むことが出来ればまだどうにかなるかもしれません。以前罪を犯したことのある人が私たちの大法の中で修煉してよくなった例があります。また麻薬中毒の人が私たちのところで煉功したら麻薬を止めたのです。しかし言っておきますが麻薬を止めさせるために麻薬中毒の人をここに連れてくることは絶対にしないでください。それは大法を破壊することになります。私たちは人にそのようなことをしてあげるためにやっているのではありません。人が自らよくないことをしてしまった以上、彼はその報いを受けなければなりません。ここで皆さんに伝えたいことは大法の威力は無窮であるということです。しかしそれは人の修煉のためにほかなりません。本当に修煉するにはこのような汚れた体と考えがあっては駄目なので、浄化してあげるわけです。つまりあなたは体が良くなったり病気がなくなったりしたように感じます。あるいは悪い習慣が取り除かれたりするといった効果があります。すべて修煉のためにしてあげたことです。人の病気や麻薬中毒の治療のためにするわけではありません。

弟子:先生は世界の万物に生命があるとおっしゃいました。自分の前世の行いを思い出せる人もいますが、なぜ自分が植物や動物になったことを思い起こす人は少ないのでしょうか?
師:それはあなたが聞いたことがないだけで、ないとは言えません。実はたくさんあります。前世の事を憶えている人は完全に洗脳されていなかったからです。生まれ変わるときにその記憶を完全に洗い落としていなかったか、あるいはしっかり閉じ込めておかなかったのです。少しでも残っていたら前世のことを憶えているのです。植物に関しては、わたしが以前中国で講習会を開いた時、十日間の勉強と修煉を通して学習者達は感想文を書いて私に見せました。多くの人がこのような事を話しました。自分がどんな植物から生まれ変わったのかを知っていました。しかし皆さんに教えておきますがそれも彼の本当の生命の形象ではありません。それはある一世での形象にしか過ぎません。彼はいったいなんでしょうか? 輪廻して生まれ変わったときにいろいろなものに生まれ変わったのです。実はあなたの元神が何であるかを見ればそれがあなたの真実の形象です。

弟子:神父と修道女達に向かって、広く『轉法輪』を紹介してもよろしいでしょうか?
師:実は私は彼らをすべて常人と見なしています。彼らは真に修煉し圓満成就してはじめて神になるのです。彼らは今まだ人間なのです。普通の人なのです。ただ仕事が違うだけです。わたしはそのように見ています。しかし彼らの仕事の中に多少修煉と関わりがあったため宗教というものが障害になります。彼らはもとの宗教に執着し放せません。それが彼らにとって大法を得る上での最大の障害です。しかも法を彼らに伝える方法もありません。こんなに大きな宇宙の法に対して彼らの心が動かなければもう相手にしなくてもよいのです。彼らにはもう一つの最大の障害があります。それは彼らが本さえも読まないことです。これこそ厄介なことです。これが彼らの最大の障害です。この障害を取り除く方法があるでしょうか? 彼らに言ってみるしかありません。耳を傾けてくれればいいのですが、聞いてくれなかったら仕方ありません。

弟子:動物は天国に行けないと言うことで天国には動物はいないはずですが、これは正しいですか?
師:私が人為的に何かをしようとするのではありません。わたしは宇宙の理とその真実の情況を話しています。ですからあなたは意識をはっきりさせなければなりません。動物は絶対に天国へは行けません。天国へ行くためには人に生まれ変わらなければなりません。それから修煉してはじめて天国に行くことが出来るのです。人も天国に行けません。人も修煉しなければなりません。それでは天界に動物はいるのでしょうか? います。皆おとなしく優しいのです。象、ライオン、龍、鳳もいます。人類社会の動物とは比べられません。東方で信奉している龍のように彼らは神です。その他の生物や動物もいますが、そのほとんどはその次元の空間で生まれたのです。法がその次元の生命のために創造したのです。その次元の高級生命の環境を繁栄させるために創造したのです。地上から上がっていったものもありますが、修煉して行ったわけではありません。動物のいる佛陀の世界もあります。どうやって上っていったのでしょうか? 別の方法で行ったのです。たとえば佛が済度してきたものです。かつて地上において動物だったとは限りません。人間だったかもしれません。これについての話はここまでにしますが、これからこのように神の事を想像しないでください。実際あなたの修煉とは何の関係もありません。修煉してあなたのよくない思想を取り除くことに励んで超常の人になり、自分をさらに良い人に変え、最後に神の基準に達しなければなりません。

弟子:主元神はどの空間にいますか? それは同時にそれぞれの空間の体を支配しているのでしょうか?
師:しかし完全にそうだとは言えません。彼は迷いの中で常人社会に惑わされた部分が役割を果たすことが出来ないからです。

 今回の法会は非常に成功したと思います。皆さんが体験談を発表していた時、わたしは殆ど上で聞いていました。わたしは今回ヨーロッパの白人の学習者が非常に早く進歩していると感じました。法に対する理解も深いのです。これは今までになかったことです。素晴らしいことです。つまり今回の法会は非常に圓満で達成するべき目的を達成しました。今度の法会を通して少なくとも学習者の間に法を学ぼうとする強い動きを作り出すに違いありません。皆さんはもっとこの法を大切にすると同時に、さらに多くの人に法を教え、法を広げるのです。皆さんはますますこの法の大切さが分かってきています。絶えず修煉して向上していく中で各次元の法理が分かったからです。この法がどういうものか分からせたのです。この法は学べば学ぶほどその貴重さが分かってくるのです。ですから本を読むことこそ皆さんを向上させるのです。本を多く読むことこそ皆さんが最も早く向上する道です。

 ですから初めから終わりまですべての学習者はここで本当に真剣に聞き自分の情況と照らし合わせて考えているのです。これはとてもいいことです。今回の法会を通して近いうちに皆さんが早く向上していくことを期待しています。この大法の力と法会の力を借りて早く向上します。次に皆さんにお会いする時に必ずもっと大きな進歩、変化を遂げているに違いありません。これは自明のことです。間違いなくこのようになります。どんどん進歩していき、さらに圓満成就に近づくに違いありません。

 わたしはもうたくさん話しました。そろそろ終わりにしましょう。特に古くからの学習者は既にどうすればよいのかが分かっています。皆さんが法の学習と仕事との関係、さらには常人の中での他のこととの関係を正しく扱い、正々堂々と修煉して一日も早く圓満成就することを願っています。

 



      
  
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