ヨーロッパ法会での説法

李 洪 志

一九九八年五月三十日、三十一日 フランクフルトにおいて

 来場の皆さんの一部は古くからの学習者ですが、多くは新しい学習者です。

 法を伝えて、あっという間に既に数年が過ぎましたが、以前私がフランスに行って法を伝えた時、ドイツに来たことがありますが、ここの環境を見に来たのです。フランクフルトに来たのは今回で二回目です。しかし、ヨーロッパのいくつかの地区の新しい学習者と顔を合わせるのは、やはり初めてです。皆さんと一緒にここに座ってともにこの大法を修煉できるのは、それも縁だと思います。私たち佛家は縁を重んじます。ですから、私たちはこの法を大切にすべきです。来場の皆さんの多くはまだ法を深く勉強していないので、往々にして大法を普通の気功と見做してしまいます。この法は中国で広く伝えられ、それを学び、修煉する人は既に一億人に達しました。中国以外の地区での人数も相当多くなりました。なぜこれほど普及し、その上、この法を学ぶ人の知識水準が比較的高いのでしょうか? 多くの人は知識界の著名人で、更に、中国の多くの地区でも社会階層の比較的高い人がいます。もちろん、私たちはこういうことを言いますが、普通の気功は中国で現れる時、修煉者の多くは老人と病人なので、人々はそれを一種のスポーツと健康保持のためのものと見做しています。もちろん、常人の社会では簡単に見られない気功のいくつかの超常的な現象にも言及しました。それによって、気功に神秘的な色彩を持たせるようになりましたが、その程度のことです。

 多くの人は気功とは何か完全に理解することができません。大法を伝え出した後に、私は既に気功に関わるいくつかの説明できない現象、気功界で解釈していなかったことについて言及しました。そのために、大法を学ぶ人がこんなに多くなってきたわけではなく、私たちの大法は本当に人を圓満成就させ、人を済度し、修煉する過程において、本当にあなたを昇華させることができます。あなたの思想境地においても、あなたの身体の素質においても、本当にあなたを異なる次元の基準に到達させることができます。必ずこのような作用を果たすことができるのです。

 私は先ほど多くの人が法を学んでいると言いました。知的レベルの高い人は頭脳明晰であり、普段は何かを盲目的に学ぶことはありません。これらの人は、一旦この法を学んだら、比較的堅実に続けます。この法が如何に貴重なものかということを知っているからです。本の中に多くの天機を漏らしただけではなく、内涵もとても深いのです。修煉の中であなたがどれほど高い境地、どれほど高い次元に達しようと思っても、この法はあなたを指導することができます。この法は今まで人類の中で伝えられたことはありません。もし大法を学ばなかったら、人類社会において、あなたがどれだけ本を読み、どれほど造詣が深くても、この部分の知識を得ることはできません。これは書物から習得できず、人類の知識から探し出すことのできないものです。古今東西の全ての本をめくっても、決して見つけることができないのです。

 もう一つの問題ですが、修煉するなら本をよく読むべきです。多くの人は修煉する中で、法を学ぶことを重視していませんが、それは間違っています。私はこの問題をなぜ厳しく要求しているのでしょうか? 私はいつもあなたが修煉しようと思うなら、必ず本をよく読み、繰り返し読まなければならないと言っています。本の中にかなり深い内涵があり、不思議なのです。多くの新しい学習者はそれに対する理解が不十分であまり重視していません。一冊の本は白い紙の上に黒い字があり、開いて一回読んだら分かるようになります。もちろん、人類社会の本は皆このようなものです。それは内涵がなく、表面の知識のみに限られているので、あなたは一回読めばすぐ分かるはずです。しかし、この本は違います。それは人の修煉を指導するもので、あなたがこの法の中で向上しようと思うならば、必ず絶えず本を読まなければならないのです。それでこそ、あなたの修煉を指導することができるのです。

 例えば、以前の修煉は師父が弟子を導き、ある水準まで向上すべき時に、どのように修煉するのか、どのように向上していくのかを教えます。各次元、各境地において、どんな状態であるかを教えます。しかし、これは限られた範囲の人のことで、人数の少ない場合ならば結構です。私たちは今日このように多くの人、一億人を超える人が学んでいるため、私が全ての人の手を取って教えることはあり得ません。しかし私たちはこれらの問題を解決するために、私はあなた達に与えることができ、あなた達を向上させ、変化を遂げることができる全てをこの本の中に書いており、この法の中に含めました。理論上からあなたを指導するだけでなく、法の背後には深い内涵があります。この理論は超常的なもので、決して常人の中の理論ではありません。私たちは常人を超えるその境地のものに関わります。説いたこれらのことは、常人を超える生命の形式とその他の空間の状態に関わっています。つまり、この本は表面上白い紙の上に黒い字があるだけのように見えますが、全ての字の背後には尽きることのない各空間があり、更に各層の空間の佛、道、神の現れがあります。

 皆さん考えてみてください。私は以前、何度もあなた達にこの本を大切にすべきだと強調してきました。それが如何に貴重であるかを知らないとき、あなたがこの本を大切にしなくても、もちろん、あなたの間違いとは見做しません。しかし、あなたが既にこの本にどれほど深い内涵があるかを知ったとき、まだこの本を敬うことなく、ぞんざいに扱うならば、それはまた別のことで、そんなことをしてはいけません。もちろん、逆に言うと、この本にどれほど深い内涵があるかを知ったとき、あなたは自ずとこの本を大切にするようになります。

 私たちの一部の学習者はこう言いました。本当に不思議ですね。本を読む時、一回読み終わったら、認識が変わり、もう一回読み終えたら、また認識が変わりました。あなたが一回読み終えた後、多くの疑問が出てくるのはなぜでしょうか? なぜそのようになるのですか? しかし二回目に読む時、全ての問題が解決され、あなたに解答を与えることができることに気付きます。修煉は昇華していくので、あなたには新しい疑問が出るかもしれません。更に出てきた疑問は一回目に本を読んだ時に気付いた問題と得た解答より高くなります。三回目に読む時、二回目の中で出てきた疑問、理解できなかった問題は、三回目には解決できることに気付きます。読み続けていけば、絶えずこのようなことがあります。今、本を既に百回以上読んだ人はかなり多くいます。その人は法を手離すことができなくなり、読めば読むほど気付いた内容がもっと多く、内涵はもっと深いのです。なぜこのようになるのでしょうか? 背後のその空間の佛、道、神はあなたが向上すべきであると判断した時、自然にあなたにその境地の理を分からせます。あなたは突然この言葉のもう一つの内涵が分かったと感じます。

 私が以前悟りについて語った時、誰にも言わない天機を言ったことがあります。それは「修は己にありて、功は師にあり」ということです。千年も百年も自ら修煉していて、自ら高めていると思っていても、実はいくら修煉しても、何もできないのです。面倒をみてくれる師がいなければ、何も解決されません。つまり、本当の問題は師によって解決され、法の背後の要素によって解決されるのです。自分の悟りというのは、修煉の中で困難にぶつかって、克服してから引き続き修煉していくことです。これがあなたの悟りと言います。本当に理から何かを悟ります。もし、この法があなたに分からせないならば、あなたが如何に悟りたくても悟ることはありません。ですから、必ず一つの条件を備えなければなりません。即ちあなたは必ず真に修煉していかなければならないのです。

 以前、西方の宗教は信じることを重んじ、東方は悟ることを重んじました。はっきり言うと、あなたは確固たる信念を持たなければなりません。もし、あなたにこの気持ちがなければ、あなたは何もできません。逆に言うと、あなたはその道理が分からない時、その心も固められないはずです。ある人は多くの学習者が法を学ばないのをみて、その人のために焦ってしまい、既に法を得たのに、法を学ばないことは本当に惜しいと思います! 確かにそうです。多くの人は法を学ぶことを重視せず、それを普通の気功と見做し、少し練習し、身体を鍛えようと思っています。もちろん、我々の法はとてつもなく大きいので、身体を鍛え、病気治療と健康保持の面における働きが大きく、感覚も強烈になります。しかし、ただ病気治療と健康保持のためなら、あなたは向上することができません。その上、私が今日このことをする目的は明確で、誰かの病気を治療し、健康保持のためにこの法を伝えたわけではなく、私の目的は高い次元へ人を導き、本当にあなたを向上させることです。あなたがこのやり方と一致することができなければ、少しばかりの身体の健康しか得られないのです。しかし、もしあなたが本当にこの法を学びに来るのでなければ、恐らく身体の健康も手に入らないかもしれません。しかし逆に言うと、あなたが本当にこの法を学びに来るのであれば、何もかも得ることができます。例えあなたに明確な目標がなくても、病気治療や健康保持及びその他の考えを抱いていないならば、かえって良い効果が得られるかもしれません。人が向上する過程において、徐々に認識するという過程が許されているため、私たちは本を多く読むようにと言っています。それが何であるかを理解し、それから学び続け、修煉し続けていくことができるかどうか決めてください。

 私は新しい学習者が入門する時、まず本を読み、読んでからできるかどうかを本人に判断してもらったほうがよいと思います。本人ができると思えば、修煉し始めればよく、できないと思うなら、無理にさせてはいけません。我々が人を済度するのに強制してはいけません。あなたが必ず心から向上し、修煉し、もっと高い境地まで到達したいと思って、はじめて修煉できるのです。人の心が動かなければ、どうしようもありません。強制的にやらせることは修煉ではなく、修煉の効果も得られません。その人の心が動かず、自分を変えようと思わなければ、何の意味もありません。皆さんご存知のように、それは超常的な理です。高い次元へ修煉し、自分の境地を高めたいと言っても、あなたはどのようにして高めることができるというのですか?!

 多くの人は以前気功を練習した時、一つの誤った状態に入りました。時間をかけて練習さえすれば、毎日の練習時間を長くすれば向上できると思っています。実は少しも向上できません。その人は永遠に病気治療と健康保持、つまり、気を練るという次元を突破することができないのです。ところが、気功はその程度のものではありません。それはただ修煉の中の最も低いレベルの病気治療と健康保持という次元のものを用いて、人に良いことをするだけで、気功の目的はそれだけではありません。ですから、私はいつも言いますが、中国の歴史において、かつて全世界においても現れなかった気功がなぜ今日、このような近代的な科学に動かされる社会に現れたのでしょうか? 人間はあくまでも人間で、人間の思想は抑制され、智慧は限られているので、これらのことに思い付かず、全てのことが自然なこと、偶然のことだと思います。私に言わせれば自然なことは存在せず、偶然なことはなく、全てのことに原因があるのです。私が以上のことを言ったのは、皆さんに法を学ぶことを重視してほしいからです。法を学びさえすれば、修煉の中で向上でき、さまざまな状態が現れてくるはずです。あなたが法を学ばなければ、何も得られません。

 気功の鍛練はどんな方法をとっても、その気功師の言うことがどんなに良くても、ただの病気治療と健康保持にすぎません。それは決してあなたを高い境地まで到達させることはできません。以前は修煉界においても、宗教界においても、決してこのような奥深い法を知ることができませんでした。一般の気功には修煉を指導する法がなく、ただ人にどのように病気を治療し、如何に健康を保つかだけを教えます。先ほど私は言いましたが、あなたがそれほど高い功力を持つ境地に到達したければ、あなたの思想境地も向上していかなければなりません。

 周知の通り、以前佛陀或いは道家の学説の中で、修煉は徳を重んじなければならないと説いていました。イエスは人に良い人になるようにと教えています。良い人になるとはどういうことですか? 徳を重んじるとはどういうことでしょうか? つまり、あなたの行動がますます良くなっていくことです。どの程度まで良くなるというのですか? 全ての常人より良くなれば、あなたは超常的な人になるわけです。あなたは修煉者なので、身体に功が出て、功が伸びますが、その高さはあなたの思想境地と同じです。あなたの思想境地が高ければ高いほど、功の次元も高くなります。科学は永遠に佛のような境地まで発展できないと私は言っています。科学がどのように発展しても、人間は永遠に常人のままだからです。皆さん考えてみてください。常人には七情六欲があり、様々な執着心があります。様々な世の中の欲望があり、あなたはこのようなものを持ちながら天国へ行くとしたら、それでは大変なことになるのではありませんか! それでは天国は常人の社会になってしまうのではないでしょうか? 互いに奪い合ったり、騙し合ったりする常人の社会になってしまうのではないでしょうか? ですから、あなたは必ずそれにふさわしい高い境地に達して、はじめて行くことができるのです。

 多くの人は宗教を信じ、今のこの宗教を信じていますが、しかし、神が見守ってくれないので、なかなか向上できません。また多くの人が当時のイエス、エホバ、或いは聖母マリアの言った話の本当の意味を理解できません。信じさえすれば、必ず天国に行くことができると思っている人がいます。信じることは一つの基礎であるにすぎません。多くの人の理解は字面だけにとどまっています。信じさえすれば、死後必ず天国に行くことができると言う人がいます。あなたに教えましょう。行くことはできません。なぜ行けないのでしょうか? 考えてみてください。本当に信じるとは何でしょうか? あなたは口先だけで信じると言って、実は心の中では信じていません。それはなぜですか? 本当に信じていれば、あなたの言行は必ず一致しなければなりません。教会で懺悔する時、あなたは、「主よ、私をお助けください。私は今日過ちを犯しました。私の罪をお許しください」と言います。あなたはその時は良くできました。しかし教会を出た途端、常人と同じようにしたい放題になり、また同様な過ちを犯すのであれば、常人の中の常人にも劣ってしまいます。それでは考えてみてください。あなたの懺悔に何の効果があるというのですか? 多くの人はただ表面にとどまっているだけです。懺悔した後で、同じ過ちを繰り返してはいけません。その後、別の過ちがまだあることに気付いたら、また懺悔し、同様な過ちを再び犯さないようにします。このようにして絶えず常人の中で犯した過ちを取り除けば、あなたはもっと良い人になれるのではないでしょうか? あなたは更に高い境地に達し、常人をはるかに越えた良い人になれるのではないでしょうか?! これこそが修煉で、あなたは心性を高めているのではないでしょうか? 西洋の文化には修煉の概念はないので、イエス、エホバが自分の法を伝えた当時、修煉という言葉に言及したことがなく、その概念さえありませんでした。彼らは「修は己にありて、功は師にあり」ということを知っていたからです。修煉さえすれば、修煉者が行く天国の神は全てにおいて助けてくれます。身体においても変化を起こし、身体を演化し、身体に神が備えているような大きな神通力を与えます。一切は神によってなされるのです。

 人は死後、天国に行くことができると言っている人がいます。修煉していない人は死後、西洋の言葉で言えばつまり霊のことですが、この霊は即ち鬼です。皆さん考えてみてください。それは何でしょうか? 東方の人には非常に明確な人体修煉の概念があり、佛体を修め、つまり神の身体を修煉によって得るのです。もし、あなたにこの佛体がなければ、つまり、あなたに天国世界の神の身体がなければ、人の霊が出てからは光に当たってはいけません。日の光に当たると、散り失せてしまい、生まれ変わることさえあり得ません。ですから、人が亡くなれば布で覆い、日の光に当たらないように地下に埋めて、霊が散り失せないようにします。佛と神の光焔は光り輝いており、太陽の光より更に強いのです。その霊は神に会ったら溶けてしまいます。なぜ天国世界に行けるのでしょうか? ですから、神の身体がなければいけません。同時に修煉によって、霊体の構成成分を変え、それ自身を高エネルギーで構成されたものにし、更に佛の身体、或いは神の身体を得て、はじめて行くことができるようになります。霊はこの世に来ることができるでしょうか? 来られません。ですから生を受けるためには、身体がなければなりません。両親から生を受けて、はじめてこの世界にいられるようになります。信じさえすれば、天国に行くことができると思っている人がいますが、そんなことがどうしてあり得るでしょうか? 我々修煉界からみれば、おかしな話です。真に修煉して、はじめて天国に行くことができます。

 西方の宗教でこのように神を信仰する過程は、つまり心性が高まり、思想境地も向上し、ますます良い人になる過程です。それはまさに修煉ではないでしょうか。修煉は形式を問わず、様々な修煉方法があります。これは西方の宗教と東方の宗教との修煉形式上の相違です。なぜ西方は修煉を説かず、東方は修煉を説くのでしょうか? 実はどちらも修煉なのですが、東方の文化はこの面を明確にしているのに対し、西洋文化の中ではそのことを講じていませんでした。神がこの世に来て法を伝え、人を済度する時、人の理解できる文化、形式を採用して、はじめて理解させることができるのです。当時の人間の言葉で説いて、はじめて分からせることができるのです。一般の気功を練習しても、人を高い境地に到達させることはできず、絶対不可能であり、真の修煉によってのみできるということを皆さんに言っておきたいのです。気功は修煉の中で最低次元のものにすぎないので、病気治療と健康保持のみに限られています。病気治療と健康保持のことでさえも人は求めるものがあるのです。それも一種の修煉の形式なので、常人の中の如何なる医療方法とも異なっています。気功を学び、身体の病気を取り除こうと思うのであれば、気功の法理の要求に符合しなければなりません。

 気功の法理の要求に符合するとはどういうことでしょうか? それは超常的なので、超常的な方法で病気を治療し、薬を飲まず、注射もせず、手術もしないで病気が治るのです。これは超常的ではありませんか? 人はその理に符合して、はじめて本当に病気を治すことができるのです。多くの人が気功を練習しても、病気を取り除くことができない根本的な原因はこれです。超常的な方法で、病気を取り除こうと思えば、超常の理に符合しなければなりません。ですから、必ず気功の要求に従って良い人になり、悪いことや良くないことをする習慣を直して、はじめて病気を本当に取り除くことができるのです。これが、病気が治る本当の原因です。常人の医療方法で治そうとするならば、こうする必要はなく、手術、注射、投薬などをして、はじめて病気が治るのです。しかし、宇宙の中に一つの理があります。失わなければ得られず、得ようとすれば、失わなければならず、失ってはじめて得ることができます。これは絶対的な真理です。あなたの病気がなぜ病院で治るかお分かりですか? 現代科学技術の手段で病気を治したと言う人がいます。私に言わせると、それは現代人が現代社会を表現する一つの手法で、一種の形式の現れにすぎません。あなたの病気が治る本当の原因はこれだけではありません。この空間の宇宙の理にも符合しければならないのです。皆さんは知っていますが、病気に罹った時、多くのお金を使って診てもらわなければなりません。もちろん福祉制度が整い、医療保険が完備している国であれば、この問題は解決することができます。しかし、あなたは痛みに苦しみます。病気になれば苦痛ではないでしょうか? あなたの苦痛そのものは、あなたが苦を嘗めているのです。この苦痛が業力の償いそのものなのです。あなたはお金を使って注射し、薬を飲み、更に手術まで受けます。このようにしてあなたは苦を嘗め、やっと病気が好転するというわけです。皆さんに教えますが、このような好転はまだ根本から治ったということではありません。その人の病気を先送りしただけです。

 病気は常人の身体の最も表面で罹ったのではなく、最大の分子粒子から構成される身体よりもっとミクロな粒子の層で罹ったのです。分子には異なるミクロの層の粒子があり、それで人間の身体を構成しています。各層の粒子は一層の空間を形成します。もちろん、その空間は重ねて置かれているのではなく、小さい粒子から大きい粒子を構成しているのです。そして、各層の小さい粒子が存在している境地自体が一層の空間です。このような空間がたくさんあります。多くの病気の原因はそこにあります。表面で罹ったのではありませんが、肉体組織の表面に現れるのは一種の病気の表面上の現象にすぎません。

 手術をして、その腫瘍を取り除いたとします。実は取り除いたのは最大の一層の分子から構成された肉体の細胞です。その細胞のこの空間での現れを取り除いたのです。この細胞を構成する更にミクロの粒子を取ることはできません。しかし、この表面にある身体の細胞を取ってしまえば、見えなくなるので、病気が治ったように感じます。しかしその後、病気が転化し、病気によっては再発する可能性があります。その病気が本当に取り除かれていないので、また他の場所に転移して再び腫瘍ができたり、或いは他の病気や災難に転化したりします。これは私たちが見た本当の原因です。これに対して、功能で病気を治す場合、手術をする必要はありません。なぜ腫瘍を取ってしまうことができるのでしょうか? つまり別の空間、人の目に見えない空間から取り除いてしまうのです。最も簡単な例を挙げて説明します。皆さんにはこの布がふくらんでいるのが見えますね。なぜでしょうか? その裏に原因があります。私の手が裏にあるからです。布を取っても、この手を取り除いていないので、まだ裏の空間に存在しているのです。つまりその裏の原因を解決しなければ、根本的に解決することはできません。つまり人間の医療は表面のことだけで根本的な問題を解決できず、業を滅することはできません。

 人間は世の中での損得、幸福や不幸、楽しく生きていけるかどうか、幸せがあるかどうか、或いはどれだけ災難があるかは、全て人の身体にある二つの物質によって決定されます。その一つは徳で、もう一つは業です。つまり、この二つの物質の働きによるのです。私たちは良いことをして徳を積むことができます。昔、徳を積むとよく言われ、人々はそれがイデオロギーや思想境地に関するものだと思っていました。実はそれは物質的なもので、本当に形のある物質なのです。人々は業力について話しますが、東方の宗教はそれについて明確に説いています。業力とはなんでしょうか? つまり一種の黒い物質で、人が悪いことをする時、作り出されます。これらのものが多くなると、人に良くないことが現れます。例えば、病気になることもあれば、災難や難儀に遭うこともあります。人間の全てのことはみな自分がしたことの結果だと私には分かっています。この世で幸福かどうか、楽か苦しいか、全て自分自身がしたことの結果です。現世で現れるものもあれば、来世で現れるものもあります。来世で現れる場合が多いのです。来世で現れるとは何でしょうか? つまり現世に現れずに、来世に現れるのです。現世に現れることは、東方の修煉界では現世応報と言い、悪いことをしたら、すぐに報いがきます。ある人が悪いことをした後、家から出た瞬間、すぐに躓いて大きく転んでしまいます。本人はこれが悪いことをしたことの報いだと思わず、偶然なこと、自然なことだと思います。私は自然な現象はなく、全てのことに順序があり、偶然なことはないと言いました。この空間には人々に見えないものがとても多く、もちろん、近代科学は空気や酸素、水素、その他の分子で構成した微量元素があることを認識していますが、わずかこれくらいです。しかし、これらのものも目には見えないのです。

 実は皆さんに教えますが、この空間にある極めてミクロな物質、あたり一面に立ち込める厖大な物質も含めて、全ては神です。人が何をしても、その一挙一動は彼らには明らかです。人は悪いことをする時、自分がした悪いことは他人には見えないと思いがちです。しかも、それが悪いことだと知りつつ、自分を騙す理由を探して心の安らぎを得ようとし、全く神を信じていません。例を挙げて笑い話をしてみましょう。宗教や人種問題とは関係がありません。私はただ人間が犯した間違いについて話します。皆さんもご存知の通り、数日前、ある国が核実験を行ない、連続して五つの原子爆弾を爆発させました。各国はこの事に驚愕しました! 世界の人々が平和を望んでいるのに、なぜ原子爆弾を爆発させるのでしょうか? 私は如何なる観念も抱いていません。ただ人間が犯した間違いを話しています。その民族が間違ったかどうかを言っているのではありません。皆さん考えてみてください。その核爆発は地下で爆発させたとしても、それは異なる粒子や分子で構成されたこの物質の世界、地球、人類のこの環境に対する破壊であり、神は許しません! 天が人に報いを与える時、人は自然現象だと思います。その国の気温は直ちに全世界で最高になり、現在摂氏五十度以上が続き、その暑さで多くの人が死にました。次に暴風が吹いて、多くの人がまた死にました。人はこれらの現象を「こうしてはいけない」という神からの警告と見做しません。人はそれを自然現象としかみないのです。世界で起こる全てのことは偶然ではありません。よくみてください。もしある民族、ある地域、或いは誰かが悪いことをしたら、直ちに特殊な現象が現れます。人の災難、人の一切は、全て自分がしでかしたことの結果です。先ほど私は簡単に初歩的なことを話しました。在席している古い学習者は皆これらのことについて深く理解しています。この会場には新しい学習者がたくさんいますので、私は簡単にこれらのことについてお話しました。

 完全にこれらのことを知りたければ、本を読んでください。『轉法輪』という本は既に全世界の科学技術の領域に大きな衝撃を与えました!『轉法輪』の中の内涵はかなり深く、豊富です。修煉には次元があり、異なる境地があるからです。一回読めば、あ!これは人に良い人になることを教える本だと気付きます。しかし皆さんに教えます。如何に良い人になるかを教えるだけではありません。もしそれだけのことなら、あなたは昇華できません。もし昇華したければ、本の中に良い人になることを越えたもっと高い境地の法理があり、あなたをその理で指導しなければなりません。ですから、この本はその次元の内涵を持たなければなりません。あなたが更に高い次元へ修煉しても、この本は高い次元へ、更に更に高い次元へあなたを指導することができます。異なる高い次元の修煉に対しても、この法はそういった力を持ち、異なる次元の内涵があなたの修煉を指導しなければなりません。圓満成就という修煉の目標に到達するまで指導します。ですから、次元が高くなればなるほど、修煉するに従って、本の中からもっと多くのものが見えるようになります。私はここで主に新しい学習者に対して言っているので、簡単に話しましたが、実はこれでもかなり高いレベルのものです。皆さんはこれに対して、異なる理解があるはずです。この辺にしておきましょう。今回の法会の目的は主に修煉体験の交流です。

 学習者が法を学んでからの各自の修煉体験を聞いてみたいと思います。この法会の最後の半日に、皆さんの質問に解答します。それは説法にもなります。皆さんから様々な質問が出されますが、いずれも修煉中にぶつかった切実な問題であり、同時に普遍性もあるので、皆さんが共に向上することに役立ちます。皆さんは質問を書いて提出してください。私はそれに解答します。最近、古い学習者の向上が速く、新しい学習者との開きはとても大きいのです。法は完全に皆さんに説きましたが、後は如何に修煉して向上していくかの問題だけです。

 先ほど私は主に新しい学習者に対して、いくつかの最も分かりやすい道理を説きました。完全にはっきり説明しようとするなら、ここに座って何日もかけなければ、明白に説明できません。私はただ概括的にわずかなことを説いただけです。

 なかなか顔を合わせる機会がなく、皆さんは長く修煉しているのに、私に会う機会が少ないと思っています。実は、あなたは毎日私の身辺にいて、あなた自身は知らないだけです。あなたに知らせることはできません。あなたの表面はやはり常人だからです。ある状態まで修煉できれば、はじめて知ることができます。私の先ほどの話の意味は、修煉したいならば、私は見守ってあげることができるということです。どれほどの人がいても、私は全て見守ってあげることができます。私には無数の法身があります。この法身という概念は西洋の宗教にはなく、東方の宗教にあります。特に佛教では、阿弥陀佛の法身がとても多いと言われています。皆さんに教えましょう。私の法身は数え切れないほど多いのです。どれほどの人が修煉しても、私は見守ってあげることができます。この法身は私にほかならず、智慧の具体的な形象の現れでもあり、人間の観念では理解することができません。今の科学は現有の空間に限られており、最大の層の粒子の構造上で認識しているからです。

 今の科学では、最大の一層の分子粒子の構造を見ることができます。鋼が鉄より強靭であるという特性を持つのは、粒子の成分と構造が異なっているからです。銅や銀、金がどんな状態であるかを知ることができます。現在認識しているこれらの物質をどのように利用するかなど、この面だけが発展しているのです。しかし、皆さんに教えます。これは現代科学が別空間を認識できない最大の制約であり、つまり物質のミクロ世界に向かって或いはマクロ世界に向かって認識するような道を歩んでこなかったのです。実はその物質は異なる小さな分子粒子からできており、その分子粒子は原子粒子からできており、原子粒子はまた原子核粒子からできており、原子核は更にミクロの粒子、更にミクロの粒子は更に更にミクロな粒子から構成され、更に更にミクロな粒子は更に更に更にミクロな粒子から構成されているので、人にとって尽きることはありません。このようにして絶えずミクロな世界へ向かって発展し続けます。どれほどのミクロのレベルまで達するのでしょうか? 皆さんに教えますが、その粒子がそれほどのミクロの状態に達したら、とても恐ろしいのです!

 釈迦牟尼は一粒の砂の中に三千大千世界があるのを見ました。彼の言った三千大千世界は、人類社会を指して言っているのではありません。彼が言った三千大千世界の学説は、分かりやすい言葉で言えば、つまり我々のこの銀河系には人類のような物質の空間、即ちこのような星が三千個存在しているのです。彼の言った意味は一粒の砂の中に三千個のこのような世界があるということです。私は『轉法輪』の中で全て説きました。ですから、その三千大千世界は一粒の砂の中にこれほど多くの人類の世界があり、そこにミクロの生命も存在し、その砂の世界の中にはまた江、河、湖、海があり、そこにも砂があります。その砂の中には更にミクロの三千大千世界、更にミクロな人類のような社会が存在しているのではありませんか。釈迦牟尼が見たのは既に相当ミクロ的でした。佛にはこの能力があります。しかし、私は皆さんに教えますが、それでもまだ極めて浅いものであり、続けて追究していけば、更にミクロな粒子は尽きることがありません。私は最も簡単な例を挙げます。私は人に教えましたが、人が見える最大の一層の粒子は分子ではなく、人が見える最大の一層の粒子は星です。しかし、星は宇宙の中で最大の一層の粒子ではありません。それはマクロからミクロまでの中間の粒子にしかすぎません。どれほどの数の巨大な球体の粒子が存在しているのか考えてみてください。

 宇宙は一つの単元であり、一つの完全な粒子です。私たちのこのような宇宙が三千個あって、更に第二層の宇宙を構成し、つまり更に大きな一層の粒子を構成します。これはただ一本の線のように展開してきたのです。しかし、その粒子の広がりは果てしなく普く分布しています。電子が原子核をめぐって運行するのは、私たちの地球が太陽をめぐって運行していることに似ていませんか? 全く同じです。仕組みにおいても形式においても、全て同じです。小さい粒子であればあるほど、密度は大きくなります。もし、それを私たちの地球ほど大きく拡大したならば、電子の上に何が見えるでしょうか? 人間がいることもあり得るのではありませんか? もちろん、その上に何があるかということと、粒子の存在形式とは別の概念ですが、私はつまりこの意味を話しています。それは星に似ているのではないでしょうか?

 人類は今自分だけが全体の宇宙の中で唯一の高級生命であると認識しています。実は皆さんに教えますが、人類は全宇宙の中で最も低級な唯一の生命です。全ての星に生命があり、ただ月にはありません。月は昔の人類が造ったものだからです(人類の歴史は一期一期と変わるものです)。人類は業力が多くなったら、消滅されます。新しい人類はもう一度発展してきて、それから悪くなって再び消滅されます。月に言及しましたので、少し話します。月はかなり古い先史人類が造ったのです。当時はその体積が今ほど大きくなく、光度も今より明るかったのです。しかし、今の人類からみれば、既にかなり巨大なものでした。月の内部は空洞です。その後、長い期間を経て、宇宙の塵埃が爆発物質とともに落下し、星が更新される時に、発生した爆発物質の塵埃に絶えず覆われており、月の表面の厚さは著しく増えました。表面の厚さは数十キロメートルまで増加し、これはその塵埃の厚さです。もし数十キロメートル取り除けば、元の大きさになります。

 先ほど私の言ったことは、全ての星に生命が存在しており、その上にたくさんの人類のような生命が存在していますが、ただその人たちはこの空間にいません。異なる粒子は異なる空間を構成しているからです。もし、あなたがその空間に入ろうとすれば、今の人類の科学観念で認識してはいけません。この科学はあまりにも浅はかです。あなたがその世界に入れば、その世界の状態、形態と思惟に符合しなければなりません。それではじめて認識できるようになります。中に入った後、そこの粒子が人類のこの層の粒子より小さいので、あなたはその空間が極めて広大であることに気付くでしょう。私たち人類は分子と星の二種類の粒子の間に生存しています。

 空気は分子から構成されたものですが、あなたには見えないだけです。草花、樹木、鉄鋼、あなたの身に付けている布、あなたの肉体、髪の毛、使っている全てのもの、周囲の全ては分子から構成されています。土も分子から構成されているので、私たち人間はそれを土と呼びます。実は、神は人類の空間にある全てのものを土で構成されたものと見做しています。神たちは分子そのものも土と見做しています。ある人は私に聞きましたが、西方の人種の主であるエホバは泥で人を造ったと言いました。実は、ただ我々人間が理解することができないだけで、空気を含めて、この空間の全ては彼らの目で見れば全て土です。あなたは土で埋められていて、周囲は全て土です。人間は土の中であちこちに潜り込んでいます。全て土で構成されているので、人間はこの土の中にいます。西方の人種の神が言った土で人間を造ったことを、私がこう説明すれば皆さんは容易に理解できるでしょう。

 もし別の空間の生命の存在状態を知りたければ、更に一層小さい粒子の生存空間の状態の形式に符合しなければならないのです。今の科学理論では、あなたには認識することはできません。あなたが現代の科学の観念を捨てて、はじめて認識することができるのです。一旦、それを認識できれば、人類が言っているこの時間と空間の概念と違うことに気付くでしょう。私が今話していることは、別の空間の人も聞いています。私は全ての時空を越えてこのことをしています。時間がとても速い空間では、私の先ほどの話は既に数百万年経ちました。つまりこの意味です。しかし、異なる時空にいる生命は、全く時間の速さや遅さを感じないのです。異なる空間の中で、物体の構造の全ては皆その時間と同じく、それぞれ年の数え方があります。私が一言話した間に、そこでは既に数千万年が経過してしまいました。彼らは自分の一年が地球の一年より長いと感じるかもしれません。つまり、人類の思惟でこれらのことを理解してはいけません。ですから、あなたは別の空間を認識しようと思えば、別の空間の思惟方法と状態に符合して、はじめて認識することができます。この法の背後には異なる内涵があります。異なる空間にはなぜ異なる内涵が存在しているのでしょうか? 即ち、これを皆さんに教えているのです。なぜ法の背後にはこのように大きな力があるのでしょうか? なぜあなたの身体を変えさせ、あなたを向上させることができるのでしょうか? 皆さんに教えますが、その存在形式を考える時、常人の方法を用いてはなりません。文字の背後には重なり合う無数の高級生命がいます。

 私はただ現代人の思想と現代人の学問に結び付けて言ったのです。はっきり言いますと、現代人が頼っている科学に結び付けて言っているのです。私はこれらの道理を現代科学に結び付けて皆さんに教えましたが、私はこの科学に賛成していません。第一は、この科学は厖大な宇宙全体の中では極めて幼稚なものです。しかし、人間にとっては現代化された機器があり、古代よりかなり良くなったようにみえますが、実は、前期の人類文明に比べて相当劣っています。どんなに精密な機器であっても、前期の文明のものよりかなり雑です。その上、この科学はある限られた範囲の中で発展してきて、自ら自分の科学に一つの枠を嵌めてしまったのです。それによって、どんな状態をもたらしたのでしょうか? 実証科学以外のものは敢えて認めようとしません。これは最も恐ろしいことで、人類にとって最も恐ろしいことです。なぜでしょうか? 皆さん考えてみてください。科学は浅はかで、科学者たちの言葉で言えばまだ発達していないということです。今の人々はそれを信じ込んで、それが絶対的な真理だと思っています。今の社会にある多くの理論と、西方の宗教もこのように認識しています。カトリック教であれ、キリスト教であれ、あなた達が本当に信じているのは自分の主ではなく、科学なのです。あなた達が心の底で本当に信じているのは科学です。あなた達の宗教はただ一種の表面的な形式であり、人間の文明的な振る舞いになってしまいました。しかし皆さんに教えますが、この科学も一つの宗教です。しかもとても完備された宗教です。

 第二は、皆さんが知っているように、一般の宗教は人にどのように振る舞うべきかを教えています。しかし科学にも小学校から中学校、大学に至るまであります。宗教の中に牧師がいて、司教がいて、その他の聖職者もいます。この科学はもっと整っており、そこには教師、学士、修士、博士、博士後研究員、更に学位指導教授もいます。学位が高ければ高いほど、科学の教理をより身に付けており、教職者の名称も少なくありません。この面では科学はとても整っています。一般の宗教は人々に精神面から信仰するように教え、それから物質面の変化を体験させます。それに対して、科学は人々に物質面の認識から精神面の信頼と擁護へ導くのです。しかし、それは神が人々に伝えたものではなく、三界にある他の星の宇宙人が人類を操るために伝えたのです。人間はそれを何よりも深く信仰しています。しかし皆さんに教えますが、この科学は浅はかであるために、人類社会に道徳の破壊をもたらしました。これは最も恐ろしいことです。科学がミクロの物質の具体的な存在形式を認識できないため、人間は悪いことをすれば業力が生じ、その黒い物質が人に災難をもたらすことを知らず、また、良いことをすれば白い物質が生じ、それが人に幸福をもたらすことも知らず、つまり、人間が輪廻転生する時、各空間において相応の状態、報いがもたらされることを知らないのです。更に、科学は天国世界を実証することができません。そのため、これらのものに言及すると、科学を信奉している人はあなたが迷信を言っており、全てが存在していないことで、私が信じるのは科学だと言います。それでは皆さん考えてみてください。これは科学という大きな棍棒で、道徳という人類を維持させていく最も肝心なものを、情け容赦なく叩きつけているのではありませんか? これはとても恐ろしいことです!

 人間に道徳の規範があるというのは、人が良くないことをしたら、天国に行くことができないだけでなく、地獄へ堕ち、応報を受けることが分かっているからです。人は悪いことをしないように自粛しており、人類の道徳を守っています。人がひとたびこのようなことを信じなければ、神を信じず(しかし、神は確かに存在しているのです)、人が神を信じなければ、考えてみてください。それは非常に恐ろしいことです! 人間はどんな悪いことでも敢えて行ない、誰にも見られていないと思って、悪事を働きます。現代科学の影響を受けて、成長してきた新しい世代の人は気兼ねなく人を殺し、放火し、悪事を働きます。社会には反社会的組織が現れ、麻薬を吸ったり売ったり、売春までして、何でもやります。めちゃくちゃなもの、やりたいことは思いついたらすぐやります。考えてみてください。この社会は恐ろしくないですか?! これは科学が私たちにもたらした最大の災難です。科学は神の存在、徳の存在を実証することができず、因果応報を知らないからです。これらの問題に言及すると、人々は科学という棍棒を振り回してあなたを打ち、それを迷信だと言います。人類の道徳が喪失するにつれて、社会は収拾のつかない境地に陥ってしまい、人間は最も危険な時期にきています。なぜなら、神はこのような人間と獣の間の変異した人類の存在を許さないからです。

 私はここでただ皆さんにこの道理を説いているだけです。私は人類の学問に反対しません。しかし、私は科学を盲信してはいけないことを皆さんに教えます。科学は現有の物質空間において、ある程度の範囲内で人類社会を少しばかり改善させることができますが、それに相応して、もたらされた災難は相当大きなものです。先ほど私が指摘したのは人には見えない災難です。人々の見える災難、例えば、環境汚染や、自然界の破壊も、かなり恐ろしいものです。この科学は多くの社会問題をもたらします。人の観念をすぐに転換させることはできませんが、この会場には新しい学習者もいますので、私はもう多く言いません。社会の多くの問題は全て科学がもたらしたもので、とても恐ろしいものです。神を信じなくても、神は確かに存在しています。厖大な宇宙の至るところに神がいて、神のいないところはありません。

 人間が悪いことをしたために異なる次元から墜ちて、最低の次元、つまりこの迷いの社会に墜ちて、あなたの目も最大の一層の粒子――分子で構成されます。ですから、あなたの目は別の空間が見えません。修煉の中で、なぜ常人の見えないものを見ることができる人がいるのでしょうか? つまり、あなたの慧眼が開いたからです。私たちは天目を開くと言います。分子で構成した目を使わないのですが、目で見たと感じる人もいます。実は二種類の目が同時に作用するので、目で見たと感じるだけです。この問題を明らかにしたのは、皆さんの修煉の向上に役立てるためです。

 次に私は宗教の問題について話します。西洋人は宗教を信じる人が多いので、彼らは大法を得る時、一つの障碍があります。皆さんに言っておきますが、実は、現在の人類社会の宗教、全世界全ての正教は既に見守ってくれる神がいなくなりました。宗教の中で現れてきた幾つかの状態、奇跡或いは表現形式は、全て人類社会の低級な霊体が作用したもので、人を害するものです。宗教の中に見守ってくれる神はいないのです。

 そこには、一つの問題があります。もし見守ってくれる神がいなければ、あなたがそこで修めても、向上できません。教会堂で懺悔しても、聞いてくれる神がいなければ、なぜ向上できますか? 私が言っていることは別に宗教を攻撃しているわけではなく、確かな現象を言っており、本当にそのようになっています。なぜ神は見守ってくれなくなったのでしょうか? 私が先ほど言ったように、あなた達が本当に信仰しているのは神ではなく、科学なのです。もちろん、はじめから完全にそうではなく、神を信じる一面がある人もいました。その後、次第にこの方面のものはますます薄くなり、薄くなって、最後に見えなくなりました。そのため神も見放したのです。これが一つの原因です。現代科学がもたらした社会の局面は、人類の道徳を破壊し、人は悪事の限りを尽くし、既に人の行為、人の規範を失い、神は人間を人間と見做さなくなりました。ですから神は人間を済度しなくなりました。これは神が見放した最も根本的な原因です。

 私はここで人類の真実の現象を言っています。皆さんもご存知の通り、西洋人は、中国人の男女の間が今でもそんなに慎み深いことを、なかなか理解できません。皆さんに教えますが、それこそが人間なのです。性の解放は、人種を混乱させ、人倫を乱しました。神は絶対にそれを許しません。ですから修煉者として、あなた達は絶対にそのようなことをしてはいけません。あなたは妻を持つことができ、夫を持つことができますが、これは正常な人間の生活です。もし相手があなたの夫ではなく、あなたの妻でないならば、彼(彼女)と性行為をしてしまえば、それは罪を犯すことになります。東方と西方の如何なる正しい宗教も、神はこの点について非常に厳しく言っています。人に規範を説く際は非常に厳しく強調されてきました。このようなことだけではなく、現在、暴力団、同性愛、暴力への祟拝もあります。一つの現象を言っているだけですが、それは一種の社会状態を表しています。人々はそういった暴力に対して気ままにさせ、暴力団のボスを崇拝し、更に昔は人を殺して放火した海賊のボスに対しても、非常に祟拝するようになりました。つまり人々は良いことと悪いことをはっきり区別できず、善悪を区別しなくなりました。祟拝しているのは、正しいもの、良いものではなく、悪いものです。麻薬中毒者、精神的に退廃している者、節度のない、自己を制約しない人が社会で何かをやろうと思えば、やりたいようにやります。人の観念は全て逆になりました。

 今商店で売られている人形(子供の好きな人形)は、以前は綺麗なものであればあるほど人気があったのですが、今では綺麗でなるほど人気がありません。妖怪のようなものを作り、醜くければ醜いほど、よく売れます。なぜでしょうか? 無理に買わせられるわけではないのに、なぜそれほどよく売れるのでしょうか? みんなそれが好ましいと思い、欲しがります。つまり人の観念は反対になってしまい、魔性が大きくなったからです。皆さん考えてみてください。人間がこのように発展を続けていくことは、恐ろしいことではないでしょうか? 正統的で、礼儀正しく、上品で、真面目な人なら、間違いなく攻撃されます。このような人は融通がきかないと思われ、古臭く時流に合わないと思われます! この時流が発展し続けていけば、きりがありません。恐ろしいことです。人類の全ては時流の中で滑り堕ちてきました。文芸作品も同様で、以前は絵を描くとき、とても綺麗なもの、美しいものなら、皆感心しましたが、それは優しい心があり、良いと感じたのです。今良い絵を描いても、人の心は惹かれません。人に優しい心がないからです。あなたがむやみやたらに絵を描いて、抽象派や、印象派、現代派のものだなどと言えば、人は良いと思います。どこが良いと言うのですか? 本当に人間の理で説明しようとしたら、なかなか言えません。どんな状態の下で言い出せるのでしょうか? 恍惚として、ぼんやりした精神状態の下でなら、それが良いと言うことができるでしょう。しかし、このような状態はちょうど人の魔性が出てくるときの現れです。今、人の観念は逆になっただけでなく、魔性もこれほど強くなりました。

 昔の彫塑作品はとても綺麗に彫塑されていて、その技巧の手法、基礎は非常に良いものでした。今、一山のゴミを並べてそこに置けば、それは作品になります。その上それが大家の傑作です。人の観念はこのような程度まで逆になってきました。皆さん考えてみましょう。私たちの未来の世界はどんな様子になるのでしょう? 私は某国で一種のおもちゃを見かけたことがあります。そのおもちゃは人の便の形で、そのような形のおもちゃを作っても、買う人がいます。人間は何を祟拝しているのでしょうか? 何を好むというのですか? これはただの社会の潮流ではありません。いわゆる形態は、観念の変化なのです。このような観念の人はどうすればよいでしょうか? まだ人間と言えるのでしょうか? 魔こそがこのような様子です。魔は悪いものです。人間は善であるべきです。善悪は明らかです。正のものを好まず、魔性のものを好むような人は、人間としての外形がまだ大きく変わっていないだけで、全てが魔性なのです。しかし、人の魔性が増えるにつれて、あなたの顔、あなたの外観、あなたの身体が全て変わっていきます。ますます醜くなり、凶悪になります。目つきにも凶悪な光が現れます。人類がこのように続けていけば、本当に恐ろしいのです! もし人類がまだブレーキをかけなければ……。

 皆さん考えてみてください。私は先ほど一つの道理を言いました。つまり、人類社会の発展は異なる文明の時期を経過したのです。現在、石器時代があったことが知られています。実は、そういった石器時代はこの地球上に既に数十回発生したことがあるのです。石器時代とは何でしょうか? つまり、ある時期の文明が壊滅された後、ただ少数の比較的良い人、ノアの方舟の話にあるように、ただ極めて少数の良い人が生き残りましたが、労働に必要な道具も失われました。どうすればいいでしょうか? 石を削って労働に必要な道具を作ります。それから、もう一度人類を発展させ、新しい文明に入ります。この過程を人は石器時代と言います。類人猿から人類まで進化するような石器時代は全く存在せず、全く存在しません。人間はまた、人は猿から進化してきたと言います。これはみな現代科学がもたらしたものですが、これは可笑しくないでしょうか? ダーウィンの進化論は穴だらけでした。信じられなければ、もう一度検討してみてください。猿から人に進化し、原始の生物から現代の生物まで進化する中間過程は全くありません。人が受け入れることこそ盲信ではないでしょうか! その上、それは現代人の最大の恥辱と醜聞になり、これこそ本当に奇怪なことです!

 私が先ほど言ったことは人類社会全体の状態です。考えてみてください。もし神が人を人間として見做さないならば、人間は危険ではないでしょうか? 先ほど私が言ったように、異なる文明の時期の人類はなぜ消滅されたのでしょうか? マヤ文化はなぜ存在しなくなったのですか? 出土文物から当時の人の堕落の具合が分かります。西洋の白人の前期の人、つまり、白人の祖先は古代ギリシャの人種であり、今のギリシャ人ではなく、古代ギリシャの人種であって、このような人種は非常に少ないのです。インドの白人がそれだと私は気付きました。とても稀です。その文化はなぜ壊滅されたのでしょうか? 古代ギリシャの残した文明と出土文物の中から同性愛のものが発見されています。当時の生活はとても腐敗し、堕落し、たいへん贅沢でした。こうではなかったのでしょうか? 前期の白人の文明は最初こうではありませんでした。それは最後の時期まで発展してきたからでした。そして人類文化の前段階はこのように堕落していませんでした。後期まで発展してきて大いに堕落した時、神はこの人はもうだめだとみて、消滅させました。良い人を残し、新たに発展させ、つまり今の白人です。考えてみてください。もし、このように人が節度なく発展し続けていくならば、もし、神が人間を人間として見做さないならば、それはあまりにも危険です!

 イエスは人への慈悲を説きます。人に災難がある時、彼は信じる人を救いに来ます。人が本当に彼を信じない時、彼は誰を救いますか? 異なる時期の人類の壊滅は皆人類の道徳の腐敗によってもたらされたのです。とても恐ろしいことです。人間がこうしようと思い、人間はそのように発展したいと思い、人間社会をどんな状態に到達させたいと思っていても、今日まで人間は自分の言った通りにしたことはありません。ただ社会をますます悪くさせる一方で、人の道徳をますます腐敗させるだけでした。特にここ数年、人類の滑落するスピードは非常に速く、とても恐ろしいことです。私はこれまで大きな災いや、大きな難の問題を言ったことはありません。そういったことを、責任をもたずに出鱈目に言うと、社会に対して一種の混乱をもたらします。私はそういったことは話しません。あってもなくても、私の関わることではなく、その話もしません。しかし、一つだけ言っておきます。私が今日伝えたものは正法で、皆さんに良い人になるように教えています。もし、あなたが良い人であれば、どんな災難もあなたに影響を及ぼすことはありません。もし、あなたが良い人として努めているなら、何かの災難があっても、あなたに降りかかることがあり得るでしょうか? そういうことなのです。もし、人類社会の広い範囲の人が皆良い人になれば、災難などはなくなります。人類の歴史における如何なることも偶然ではありません。全てのことは、はじめに原因があって後の結果があるのです。

 このことを言っておけば、あなた達の修煉に対して有益です。人間が現在形成した各種の観念は、あなたが大法を得ることを妨げています。今の人類社会がどんな様子であるかを教えることは、あなたが大法を得るのに有益です。私の言ったことは一つの法で、道理なのです。それが正しいかどうか、皆さんは思考力があるので、自分で分析してください。

 先ほど話した内容も奥深く、尖鋭で、幅広いことに関わっています。しかし、私は人に対してではなく、個人に対してではなく、ただ社会の現象に対して言っているのです。どのような人であっても、どれほどの悪事を働いたことがあっても、心から本当に修煉しようと思うならば、私はあなたを見守ります。あなたが修煉しなければ、どうしようもありません。

 これは法会なので、皆さんは体験を語ります。最後の半日に、皆さんの質問に解答します。多くの法を説くこともできるでしょう。

 今日の午後の時間を全て質疑応答に使います。

弟子:私たちはどうすれば良くない考えを取り除くことができるでしょうか?

師:この問題は普遍性があります。実は、それは修煉の中での一つの状態の反映です。例えば、以前の古い修煉の方法、その他の宗教を含む話ですが、修煉する人の良くない考えが出てこないように、人為的に自らを世の中と断絶する状態に置きました。ある人は修道院や寺院に行き、ある人は山の中の洞窟に入り世と断絶します。同時に彼は長期にわたって深く入定しなければなりません。彼の入定と私が皆さんに教えた入静とは全く異なります。彼は自分が何も分からなくなるまで入定し、眠っていると言ってもいいくらいです。こうして自分の思想を静かにさせようとしていますが、私に言わせれば、その状態は完全に主意識が存在しないのと同じです。私たちが今日まだこの種の古い修煉方法を使えば、深刻な問題をもたらします。将来もっとたくさんの人、何億人かが大法を学びに来ます。全ての人がこの状態になってしまえば、人類社会はどうなりますか? 同時に、このような方法は副元神だけに限定した修煉しかできず、主元神は修煉することができません。つまり、あなた自身は自分の状態を理解しながら修めることができず、恍惚とした状態で副元神を修めることしかできません。これでは今日、私たちがこの大法を伝える要求に合わず、仕事を持って常人社会で修煉するには適さないのです。

 人の修煉に最も肝心な要素は、心性を向上させることであるとみており、その人の考えが本当に昇華すれば、全てそれに従って昇華していきます。人の全ての行為と考える問題、しようとすることは皆人の心と考えに支配されているのです。自分の心、考えを真に昇華させることができれば、はじめて本当に向上することになります。そこで私たちは今日、人の心を真っ直ぐに指し、つまり、人間そのものを真っ直ぐに指して、本当に向上させようとしています。別の道を歩むことはありません。長期にわたって深く入定し、何もかも分からなくなり、全てを副元神に任せてしまうような修煉の道を歩みません。皆さんが一生懸命修煉して、結局何も得られず、来世に福報を得るだけなら、私は皆さんに申し訳ないと思います。皆さんは自分にも申し訳ないことになります。私たちはこのような道を歩みません。

 そこで皆さんが本当に修煉でき、常人社会でも生活できるようにするために、一つとても特殊な方法を採用しました。あなたの生命の最もミクロなところからあなたを変えるのです。昔の修煉方法は最大の一層の分子からミクロへ進みながら、人を変えていったのです。ですから、私たちは全く違う修煉の道を歩んでいます。もし表面から変えるようにすれば、今日ここに座っている九十パーセント以上の人は大きな神通力を発揮できます。地球もあなた達を収容できなくなります。人間の表面に変化が起きると、直ちに部屋の如何なる場所も通り抜けることができるようになります。最大の一層の分子から構成された煉瓦、セメントなどは皆さんを制約できなくなります。あなたの最大の一層の分子は既に完全に高エネルギー物質に転化したため、分子以下の更に小さな分子は既に妨げられなくなるのです。それは布に向かって息を吹けば、息が通り抜けるのと同じことです。つまり、あなたは布を通り抜けることができます。この世の一切は既にあなたを制約できなくなります。それではいけません。人類社会全体が神の社会のようになってしまいます。

 そうなると、神の社会ではこのように修煉することができません。つまり、このような迷いのない社会では、皆が本当の神の現れを見てしまうと、このように修めることができなくなります。絶対的に修めることができないわけでもありませんが、少なくとも修めにくくなります。つまり、それでは迷いがなくなってしまうからです。迷いの中で修煉することが最もやりやすいのです。その上、この空間は迷いの空間なので、私たちは正反対の方法をとっています。ミクロから、あなたの生命の最もミクロの粒子によって構成された身体から次第にあなたを変えます。それから一層ずつ最大の分子に向かって突破し、つまり、人体の表面に向かって突破します。最後にこの目で見えるこの肉体の細胞まで、この分子で構成された肉体の細胞まで突破したら、あなたは圓満成就になります。私たちはこのような道を歩んでいます。

 この弟子は「私たちはどうすれば良くない考えを取り除くことができますか?」と聞いていますが、多くの人は既に長い間修煉しており、以前、頭の中で良くない考えが現れたことがありますが、なぜずっと取り除くことができなかったのでしょうか? 時には取り除かれたと感じますが、しばらく経つとその良くない考えはまた出てきます。これはどういうことでしょうか? 実は、私が先ほど言ったことは、つまりミクロからあなたを変えていますが、まだ表面まで進んできていないということです。まだ表面まで変えていないのです。あなたの良くない考えが一層一層と取り除かれ、弱まっていますが、まだ最終的に取り除かれていません。最終的に取り除かれていないのですが、あなたは既に相当よく修めています。私たちはこのような道を歩んで来ているのです。取り除かれていない人の考えもいくらか残っていますが、それはまた、ちょうどあなたが圓満成就するまで、引き続き常人社会の中で修煉できるようにさせています。もし、あなたに常人の考えが全くなくなったら、あなたは常人の中にいられなくなります。

 もし、修煉者に常人としての考えがなければ、他人が頭の中で何を考えているのか全て分かってしまいます。人の一言、一挙一動、一つの目配せを見ただけで、あなたは彼が何をしようとしているか分かります。人間ですから、特に常人の心から現れるものは皆良くない考えなので、あなたはとてもそれに耐えられません。その上、この空気中に極めて多くの有毒物質が存在していることがあなたには見えるのです! 社会全体の良くないものが全て現れてきて、その全てがあなたには見えるので、どうしてここにいられるでしょうか。絶対にここで修煉することはできなくなります。なぜ山奥に入って世間から離れて修煉する人がいるのでしょうか? 彼は既に常人の中にいられなくなったからです。つまり、あなたの考え、あなたの分子に最後の一歩までの変化が起こらなければ、まだ常人の考えが現れることはあります。常人のような良くない考えも現れてくるのです。それでは私たちがどのように修めても、表面の身体に変化が発生しない限り、悪い考えはずっと強烈に現れるのでしょうか? そうではありません。

 あなたには分からないのですが、あなたは既に相当向上しているのです。良くない考えは既に取り除かれ、残っているのはかなり少なくなり、ごく僅かなのです。その上、既に自分に良くない考えがあることに気付き始めたのです。これは以前気付かなかったことです。これらは皆進歩であり、向上したということです。良くないものがまた現れますが、時にはとても良くないものもありますが、それはとても弱いものです。自ら心を固め、主意識が自分を主宰することができれば、それを抑えることができます。以前あなたはそれを抑えることができなかったはずです。そのため、人々はこのような考えに動かされ、良くないことを言い、良くないことをしてしまうのです。今、あなたはただ良くない考えがあるのを感じるだけで、それに動かされることはめったにないのです。ここまで言ったのは私たちが歩んでいる道はこのような道なので、心配しないでくださいということです。良くない考えがあることを感じるだけで、既に向上しつつあり、それらの考えは既に多く取り除かれました。

 ここに座っているのはみな修煉者です。皆さんの間の差はそんなに顕著なものではありません。しかし、皆さんがもし常人社会で、修煉しない人と一緒にいたら、耐えることができないと感じるでしょう。彼らの話を聞きたくなくなり、時には彼らのしたことがおかしいと思います。なぜこのように感じるのでしょうか? 皆さんは既に彼らとの間にかなり大きな差ができたからです。もし、この差がほんの少しだけで、或いは大したものでなければ、このような感じはないはずです。大きな差があったからこそ、はじめてこの感じがあるのです。しかし、あなたの感覚では、自分がその人より僅かしか良くなっていないと感じるだけです。これも私たちの修煉形式によってもたらされる一つの状態です。このようにして、はじめて皆さんが常人と一緒にいながら、修煉することができ、一緒に働くことができます。もし、私が先ほど言ったことを理解できたら、つまり、このようなことです。しかし、また皆さんに言っておきますが、あなたは次のように考えてはいけません。「なるほど、実はこのようなことだ。これから思うままにしても構わない。どんな悪い考えがあるにしても好きなようにすればいい、構うことはない」と思えば、それを放任することになり、修煉ではなくなります。先ほども言いましたが、悪い考えがあるにしても、それはこのような一つの修煉形式なので、次第にそれを取り除いています。自ら進んでそれを抑えて取り除かなければ、このような堅実な意志がなければ、それではあなたはまだ修煉していないことになります。つまり、このような関係です。

弟子:もし悪い考えがあれば、修煉することができなくなるのでしょうか?

師:先ほど私は既にこの問題について説明しました。一つ例を挙げましょう。あなたのその良くない考えは、はっきり言うと一本の糸と同じです。私たちは絶えずそれを切り、それを取り除き、取り除き、取り除き、取り除いているのです。完全に取り除かれるまでまだ残っていますので、なぜ修めることができなくなると言えますか? それを切って取り除いていくことが修煉ではないでしょうか? 実際、あなたは既にかなり向上しています。つまりこの意味です。

弟子:親戚に病気の高齢者がいますが、彼も済度される対象になるのでしょうか?

師:この質問はつまり高齢者は病気があったら、まだ修煉できるかということを聞いています。大法は伝え出されましたが、形式としては人を選別しません。皆さんもご存知のように、今日の講演会は無料で、門戸は広く開いており、誰が入って来てもいいのです。縁のない人は自ら入りたいと思わないでしょう。つまり選別していません。もし本当に学びたい人が入って来て、修煉したくなれば、私は面倒を見なければなりません。いくら年配の人でも、いくら年少の人でも、或いは病気があっても、私は見守らなければなりません。しかし、肝心なのは、ここに来て自分を一人の年寄り、一人の病気のある人と見做さず、自らを修煉者と見做すことができるかどうかが問題です。これは極めて重要なことです。いつも、年をとったから修めることができるのか、修煉するのにまだ間に合うのか、このようなことばかり気にし、こんなに執着していたら、これは一つの障碍になります。この心を捨てなければ、あなたの生命はそれによってますます短くなります。

 ある人は病気がありますがやって来ました。最初、彼はこう考えています。聞くところによると法輪大法を修煉している人は、しばらく修煉したら、身体はとても良くなり、病気がなくなったそうです。しかし、この法を勉強していく中で彼は次第に分かるようになり、同時に病気に執着する考えも取り除かれました。このような場合は問題ありません。もし病気を治す考えを取り除かなければ、彼の修煉に深刻な障碍をもたらすことになります。心の中でいつも病気がなぜ良くならないのか、他の人はなぜ良くなったのかとばかり気にしているからです。実はこの考えは即ち彼が病気を治すために修煉していることを意味しています。私がこの大法を伝えるのは人を済度するため、人間の根本的な問題を解決するためであり、人の病気を治すためではありません。あなたが本当に修煉したければ、病気のある身体では修煉することはできません。真に修煉すれば、修煉の中で自然に病気を取り除くことができます。しかし、そうしてあげる目的は病気を追い払うためではなく、身体を浄化することによって修煉の道を開いてあげることです。仮に病気治療がしたくて来たのであれば、何も得られません。私は既にこの問題をはっきり説明したと思います。

弟子:家のペットに対してどのように対応すればいいのでしょうか?

師:「かわいがる」とは愛することで、好きということです。あなたはそれを愛して、それをかわいがって、それに執着しています。この意味ではありませんか? ですからこの質問を出す時に、既にあなたの執着心も書き出されました。生物を愛護し、大自然の中に人間のために存在している全てを愛護するのは間違いではありません。しかし、どんなことであっても度が過ぎてはいけません。本当に過ぎてはいけません。人間こそこの地球で最も高級で完璧な生命だからです。神もこのように見ているのです。全ての動物(大小を問わず)、植物や全ての生物は、みな人間のために造られています。もし人間がいなければ、これらのものも造られなかったのです。ですから今一部の地区や国では、動物を可愛がる度合いが既に極端になってしまいました。動物に対する愛護は人間以上になってしまったのです。

 私は先ほど神が人を作り、地球を造ったのは人の生存のためであると言いました。これらの生物も人を楽しませ、遊ばせ、人の生存のために、人に食料を供給し、同時に地球を繁栄させるなど、全て人のために造られたのです。逆に人間が動物ほど大切に扱われていなければ、天理に背くことになります。もちろん、私たちは修煉者としてこのようなことをしてはいけません。私たちは慈悲を説いています。全てのものに対する慈悲です。しかし、決して慈悲を越えて、もう一種の執着を生み出してはいけません。過度にあるものを可愛がってはいけません。過度に何かをすれば、それは間違いです。近代、特にヨーロッパ、アメリカではそうですが、人々は犬を過度に可愛がっています。皆さんに教えますが、神が人間に犬を造り与えたのは犬に留守番をさせるためで、決して犬をあなたの息子にするためではありません。或いは人間と同様に友達にするためでもありません。人は決して犬と同等になることはできません。ですから、如何なることに対しても行き過ぎてはいけません。一つだけしっかり覚えておいてください。人は佛を修めることができますが、如何なる動物もできません。人は神を修めることができますが、如何なる動物もできません。人は天国の世界に行くことができますが、如何なる動物もできません。動物は行きたければ、来世人間に生まれ変わり、修煉してから、はじめて行くことができます。私は先ほどこの問題についてはっきり説明したと思います。

弟子:他の生物に対する愛着をそれらへの尊敬の気持ちとして持ち続けてもいいですか?

師:この問題は『轉法輪』の中で既に言いました。やはり執着を放棄しようとしないのです。私はもうこれ以上話しません。稀少動物への保護は反対しません。過度に自然を破壊することは良くないことで、しかも非常に良くないことです。しかし、あるものに対してやりすぎたら、それも間違いです。人の心、道徳などの問題を解決することが根本なのです。修煉者としてこれらのものに執着すれば、あなたの修煉の障碍になります。常人は過度にこのようなことをし、動物を人と同等に扱っていますが、それは自分自身を侮辱し、人間自身を罵っているのに等しいのです。人類の尊厳を踏みにじっています。

弟子:亡くなった両親と友達を、私の修煉を通して助けることができますか?

師:全ての人は生まれる時からその一生が既に按排されています。いつ彼に良いことが起こるのか、いつ良くないことがあるのか、大きくなってからどの学校へ行くのか、どの大学へ行くのか、卒業してから何の仕事に就くのか、実はそれは皆決まっています。努力もその人にとって必然なことになります。人は自分の一生を左右することができるでしょうか? 何かをやりたければ、必ずやり遂げることができるでしょうか? 大統領になりたければなれるでしょうか? できません。

 実践の中でみんな自分ではできないと分かっています。しかし、社会の潮流及び科学はまたあなたを奮闘させます。ですから人は何かを得たときに、努力によって得られたように感じるのです。実はあなたはあまり執着しなくても、普通に仕事や生活をしていれば、得るべきものを得ることができます。ですから、あなたの努力もあるものを得るための必然なのです。人間が自らそれをこのようにしてしまったからです。社会全体において皆いわゆる努力をし、苦労しているので、社会全体はこのような状態に追い詰められたのです。あなたも同様で、そうしてから、はじめて得るべきものを得ることができるのです。これは一人の変化ではなく、社会全体の変化です。しかし人は自分の人生を変えることはできません。それでは、あなたは自分の人生さえも変えられないのに、どのようにして他人の人生を変えることができるでしょうか? 変えることはできません。そこで自分の親友、子女に対して権力或いはお金を使って、彼らを幸福にし、良い生活をさせようとあなたは思うかもしれません。実は皆さんに教えますが、子供が金持ちのあなたの家に生まれたことは恐らく彼の前世の福です。もし、彼にこの福がなければ、財産を受け継ぐことはできません。あなたの努力を実現させることもできません。必ずこのようになります。彼はもしかすると、あなたの過度な努力によって、生命が短くなり、あなたの要求に達することができないかもしれません。或いはあなたの努力によって、彼にいくらかの財産を残しても、彼は賭け事をし、株を買い、いっぺんにお金を失ってしまうかもしれません。或いは他の何かで、お金を失うかもしれません。つまり、もし彼にこの福がなければ、彼は受け継ぐことができません。子供にいくらかのお金をあげ、良い暮らしをさせたいとか、幸せにさせたいとか、このような親がいますが、実は皆さんに教えますが、それほど簡単なことではありません。彼らにはこのような福がなければなりません。もし、彼らにこのような福がなければ、絶対にだめです。例えいくらお金をあげても、彼はひどい病気にかかり、お金を全て医療費に使います。人間の世界はこのようなことで、人は見通すことができませんが、私にははっきりと分かっています。

 それでは修煉者として、自分が修煉すれば、彼らに幸せをもたらすことができるのかと思う人がいますが、修煉者にとって幸せの意味は違います。常人の中の幸せは実は本当の幸せではありません。それは一種の金銭で得られた一時的な安逸なので、永久には続きません。彼を本当に永遠に幸せにさせ、永遠に人身を持たせることができ、永遠に苦を舐めることがないように、それこそ修煉する人が考えることです。天国世界には苦痛がありません。しかし、修煉者として、自分もまだ修めて成就していないのに、他人にこれほど多くあげようと思えば、一種の執着にすぎないのです。執着があれば、またあなたの修煉に影響します。つまり、私たちは心を放下して修煉していますが、何もかも関わらなくなるわけではありません。平常通りに常人の中で過ごし、家族と一緒に生活することもできるのです。私があなたに残した充分な常人の心は、このように対処することができるのです。家庭を守るのは問題ありません。しかし、修煉者として、修煉を通じて他人に幸せをもたらそうと思えば、方法は一つしかありません。つまり彼に法を得させることです。それなら将来彼も済度されます。もしかしたら、あなたよりも修煉が良くできるかもしれません。あなたの心配も要らなくなります。私の修煉を通じて、私の超能力、神通力を用いて彼を幸福にさせることができるのではないかと思う人もいますが、それはできません。もし、彼の業力が多ければ彼の代わりに業を滅しなければならないのです。それではあなたも圓満成就できなくなります。

 私は佛教の中の一つの物語を覚えています。釈迦牟尼の故郷は間もなく洪水に見舞われ、村中の人が皆死んでしまうことになっています。そこで、釈迦牟尼の十大弟子の一人が神通力を発揮し、村の人が夜寝ている時、その全員を手に掴みましたが、皆は催眠をかけられたように何も気付いていなかったのです。彼はそれらの人を全員手に掴んでいるので、死なないと思いました。その洪水は予定通りに起こり、村は水没しました。翌朝、彼はもう大丈夫だ、村は水没しても、人は無事だと思い手を開けて見ると、村の人は全て灰燼になっていたのです。彼が修煉して到達した次元には限りがあり、私が言った分子と大きい分子或いは小さい分子との間の関係と同じように、彼は自分がいる境地でしか神通力を発揮できず、よりミクロ的で更に巨大な神、自分の境地を越える神が、自分の知らないうちに何をするか知る術はありません。つまり、人にはそれぞれの運命があり、しかも、修煉している人なら、その心を修煉に置いて精進していくべきです。

 また、もし自分が修煉して圓満成就できれば、必ず戻って来て自分の身内を済度しようと思う人もいます。あなたに今このような考えがあっても、それは執着だと言いません。もし、いつもこのように考えているのであれば、強大な執着になります。いよいよ圓満成就する時、このような執着があっては、圓満成就することはできません。もし、あなたが本当に圓満成就し、大きな神、或いは大きな佛まで修めたとしましょう。あなたにこのような能力がありますか? あって当然です。自分の身内の済度は言うまでもなく、地球を手に握ることもいとも簡単にできます。しかし、皆さんに教えますが、先ほど私の言った道理のように、このようなことを勝手にしてはいけません。あなたは自分の身内を済度したい、誰かを済度したいと思えば、その人を向上させなければなりません。彼を向上させずに天国世界に連れて行くことは絶対だめです。天国世界の全ては更にミクロの物質粒子から構成されているので、表面はとても滑らかで、きめ細かく光芒を放っています。物質がミクロであればあるほど、エネルギーは更に大きいのです。地上のものを持って行くと、ゴミを最も神聖で純潔な殿堂に置くことに等しいのです。それではだめです。あなたはそのゴミを必ず最も良いもの、新鮮なものに変えなければなりません。つまり、あなたが人の面倒をみたいのであれば、その人を良い人に変えて、はじめて面倒をみることができます。

 誰でも知っていることですが、イエスが常人の中に来て人を済度する時に、彼は人のために苦しみに耐え、最後に十字架に磔にされました。あなた達はこの意味を知らずに、ただユダヤ教がこの良くないことをやったと思っています。実はそんなに簡単なことではありません。それは別の要素があるのです。もし、あなた達が先ほど言ったような考えに基づけば、皆さん考えてみてください。イエスにはそれほど大きな能力があり、白人の天上の主は彼の父なので、彼が何かをしたいと思えば、すれば良いのではありませんか? なぜ、また地上で苦労して人々が良いことをするように説得し、真理を人々に伝え、更に人のために多くの苦痛に耐える必要があるのでしょうか? 当時またその他の宗教からの抑圧と破壊も受けていました。彼はなぜこのようにする必要があるのでしょうか? つまり、彼にそれほど大きな能力があるにも関わらず、彼も人の心を良くして、はじめてその人を済度することができるのです。もし来場の皆さんも自分の心性を修煉の中で圓満させることができなければ、私もどうしようもありません。私は皆さんに法理を伝え、功を演化することができ、更にあなたのために一部の業を滅し、あなたを守ることができます。私はまた皆さんのために、皆さんが知らない圓満に向かう途中と圓満後に必要な全てをやってあげることができます。しかし、もしあなたの心が動かず、その心が向上しなければ、一切は無駄です。これはつまり私の言った人の心が動かなければ、佛もどうしようもないということです。

 人を向上させられなくても、別にこの人が悪くなったら手の施しようがないというわけではありません。そんなことはあり得るでしょうか? 彼を下へ打ち落とすことも、消滅することも、思うままにできます。しかし、神には慈悲があり、イエスの言ったその「愛の心」は決して人と人との間の愛情ではなく、そう理解することはイエスの言った話を罵り、イエスを罵り、神を罵ることに等しいのです。人の愛情をイエスの言った愛、愛の心と同じにしてしまいます。イエスの言った愛の心はつまり「慈悲」です。ただ彼は西洋人の言葉で語りました。当時の西洋文化には「慈悲」という概念がなく、「慈悲」という言葉もありませんでした。これは異なる時期に、異なる地区の文化の相違によってもたらされた違いなのです。この問題について私は既に全面的に話しました。つまり、こういうことに対して、常人はどのように対応するか、修煉の中でどのように対応するか、最後にあなたが修めて成就したらどのように対応するかということです。

弟子:法を広めるためには、どんな条件が整えばいいのでしょうか?

師:昨日各地区の大法の仕事に関わっている学習者が交流しているのを見て、私は本当にうれしく思いました。一つは皆さんの法に対する堅実な気持ちを感じたからです。自分に責任を持ち,更に他の人にも法を得てもらいたいという気持ちです。本当に皆さんのために喜んでいます。交流を通じ、お互いに各地区の違う情況をみることによって、だんだん自分の経験を豊かにすることができるのです。整えるべき条件といったことは特にありません。また何かの物質的な条件、或いは権力上の条件などを整えることなどあり得ません。ただ一つ、修煉者で熱意さえあればできるのです。誰にでもできるのです。しかし、一つ気をつけなければならないのは、相手にあまり次元の高い話をしないでください。あなたの今の法に対する認識、私が今日話したことなどを言ってしまえば、相手は戸惑ってしまいます。皆さんは感じていませんが、皆さんは修煉していく中で、徐々にここまで向上して、これほど高い次元の理を認識できたのです。他の人たちはまだ常人であり、まだ常人のことばかり考えているのです。どのように金儲けをし、事業を発展させ、上司に気に入ってもらうかなどが彼らにとってまだ何より大事なことです。あまり次元の高いことを話してしまうと、受け入れられないでしょう。相手に最も簡単な言葉で表面の理を話せばいいのです。縁のある人がそれを聞くと、すぐ学びたくなりますが、縁のない人にいくら勧めてもだめです。しかし、ただ一つ、決して強引に人を引っ張らないでください。学びたくない人に、あなたは私の友人で、私の親戚だから、学ばなければならない、必ず学んでくださいというように強要しないでください。そうなると、彼は信じないばかりでなく、煉功場で変なことを言い出し、悪影響を与えかねません。ですから、皆さんはくれぐれもこの点に注意してください。

弟子:どういう情況下で、法輪功が人類と地球の発展に果たす役割がキリスト教と同じになるのでしょうか?

師:もちろん、新しい学習者ですので、法を深く勉強していないことは咎めません。私が説いたのは宇宙の理です。しかも、宇宙の上から下までの最大のものであり、宇宙の衆生、異なる次元の神と人間に、生存の環境を切り開くことのできる大法を説いているのです。どういう情況でキリスト教と一致するのかということは、つまり華麗で立派な宮殿が、どうやって非常に狭い安普請の家と同じになるのかと同じ理屈なのです。比べものにならないのです。この宇宙大法は異なる次元において異なる次元の生命に生存の環境と条件を切り開きました。つまり、その次元にある生命はその次元の理、その次元の宇宙の法に符合したからこそ、そこで生存することができるのです。もっと間単に言えば、皆さんも将来そのような環境に生存することになりますが、それは皆さんがどこまで修煉できるかにかかっています。当時、イエスが説いたのは、社会にいる常人がどのようにして彼の世界に行くことができるのかという理でした。彼の世界はどこにあるのでしょうか? 正確に言えば、我々のこの銀河系にある小さい範囲です。我々のこの銀河系が対応している天体にあるのです。イエスの次元は東方で一般的に言われている佛と同じ次元です。しかし、西方の白人が言っている主はこの次元を何倍も超えていますが、それでも小宇宙から離れることはありません。私たちの大法は、数え切れないほど無辺のこのような宇宙を造成したのです。全世界の砂の数よりも多いのです。ですから、なぜ比べることができるのでしょうか? イエスが説いた理は、ただ無辺な大法の中の小宇宙の如来の次元での法にすぎないのです。このような関係です。

 イエスは非常に素晴らしい神です。これは私が言っているのではなく、天上の神も皆そう思っています。では皆さん、考えたのでしょうか。彼は人々を済度するために人によって十字架に磔にされたのです。これはどういうことなのでしょうか? しかし、キリスト教は十字架を神のシンボル、天国世界のシンボル、キリストのシンボルとしています。これは神に対する最大の不敬です。これは人間がしたことで、絶対に神の意志ではありません。この十字架はお墓に立てられるものであり、間違いなく死を意味しており、神を象徴していないからです。宇宙の全ての神は人類が行なったことを譴責しています。更に、キリスト教は十字架に磔にされているイエスの苦痛の形象をシンボルとしています。これも神にとって容認できないことです。絶対容認することはできません! しかし、人間はまだやり続けています。何百年来、人類は代々このような神に対する不敬なことを続けているのです。

 イエスには多くの偉大な形象があり、常人社会で神として多くの奇跡を表したのに、彼の輝かしい偉大な形象をシンボルにせず、彼が十字架に磔にされている姿をシンボルにしています。これは神を敬っているのか、それとも神を恨んでいるのでしょうか? 彼を永遠に十字架に磔にしようとしているのですか? 人々は自分が何をやっているか知らないのです。私はアメリカでこのようなニュースをテレビで見ました。台湾にとても有名なガラス工芸品を作る夫婦がいます。彼らは佛像を工芸品にし、多くの佛像を作りました。佛を工芸品にすること自体、既に佛を侮辱していますが、作った像は全て胴体がなく、頭だけで、しかも顔が半分しかないのです。佛を現代派や印象派の作品にしたのです。皆さん考えてみてください。彼らは偉大な神です。昔の人は神、如来佛に言及するとき、敬慕の気持ちを持っていました。なぜこんなことができるのでしょうか? 神を表現し、佛教を宣伝しており、良いことをしていると思っていますが、これは単なる不謹慎ではなく、最大の不敬です。実はあなたは佛を貶し、誹謗し、佛の偉大な形象を歪曲しているのです。最も悪いことをしているのです。先日私は人間の観念が全て逆になったと言いましたが、人々はそれを理解できないのです。善と悪、正と邪、良いことと悪いことの分別もつかなくなり、全ての観念が逆になってしまったのです。

弟子:私はなぜ法輪功を修めながら、キリスト教の仕事をすることができないのでしょうか?

師:皆さんに教えますが、あなたのキリスト教の仕事は、ただ仕事の一つにすぎません。そこで仕事をしても全く問題ないのです。私は現在の宗教を修煉とは見做しておらず、ただの宗教という仕事とみています。既に人を済度することができないからです。それは間違いなく仕事の一つです。修煉ではありません。しかし、あなたを本当に向上させ、本来の家につれて帰るために、専一に修煉するよう教えました。これこそ、あなたにとって絶対に良いことです。不二法門について私は既に『轉法輪』の中で非常に明白に説きました。この法はとてつもなく大きいのです。こんなに大きな法に別のものを入れようとして、次元の低いものを入れてはいけません。あなたが修煉している身体と修めることによって形成される全てを乱してしまい、家に帰ることができなくなります。あなたは自分の進む道を破壊することになります。私は機関車で、皆さんは車両の乗客です。あなたはレールを破壊しているのです。レールは汽車に合わせて設計されたものであり、もし、レールの幅を狭いものに変えたら、まだ家に帰ることができるのでしょうか。どんなものも混ぜてはいけません。純正で単一に修煉することによってのみ圓満成就することができるのです。このことは『轉法輪』の「不二法門」という部分をじっくり、落ち着いて読んでください。ここではもうこの問題に時間をとりません。

 私は本当に皆さんのために言っているのです。他の宗教を誹謗しようとしているわけではありません。ここに座っているのもあなたの縁です。あなたに責任を持つことができなければ、それは私の問題ですが、自分に責任を持つことができなければ、それはあなた自身の問題です。ですから、はっきりと教えなければなりません。

弟子:イエスは現在では何を意味しているのでしょうか?

師:イエスは彼の境地における偉大な神です。しかし、彼はキリスト教や人間のことに既に一切関わっていません。宗教は人間が作り出した名前です。イエスが在世中、自らのものをキリスト教だと言ったことはありません。釈迦牟尼が在世中、自分のものを佛教だと言ったことは絶対ありませんでした。人間がそれを常人社会の一部にし、常人社会で「宗教」と名づけ、政治に参与しているのです。それを何々教と呼んでいるのです。それは既に人々が修煉によって元の水準まで向上し、圓満成就して天国に行く条件を失ったのです。ひいては、多くの宗教の人は政治家になり、金儲けをする人もいます。これでどのようにして修煉者の基準に達することができるのでしょうか? どのようにして良い人に変わり、天国に戻ることができるのでしょうか? そんな汚れた心に対して、イエスは光り輝く神の身体をあなたに与えてくれるでしょうか? この上なく純潔な神の身体を、あなたの汚れた考えや業力に満ちた身体で汚染させることを許すのでしょうか?!

 私が話したことは法理であり、質問をした学習者に対して言っているのではありません。

弟子:私は足と膝に問題がありますが、結跏趺坐ができるようになるでしょうか?

師:もし病気があるというならば、私は従来から病気という概念を認めていません。それは業力によるものです。しかも、一部の病気は外来の霊体によるものです。もし怪我をしたことがあっても、自分を本当の修煉者と見做すことさえできれば、思いもよらない奇跡が現れてきます。体内に金属製のネジやプレートがある人でさえも結跏趺坐ができたのです。ネジやプレートは最大の粒子で構成されている身体につけられているのです。もちろん、これらのことは修煉において問題にはなりません。煉功を重ねれば、八十、九十歳の人でも結跏趺坐ができるのです。しかし、また強いてそれをすることにも賛成しません。今はまだ条件が整っておらず、半跏趺坐もまだできないのに、無理に結跏趺坐をし、骨折してしまってはだめです。執着心が強くなると、問題が起こります。早く成し遂げたいという焦る心も良くありません。修煉は勇猛邁進すべきで、この点は正しいのです。しかし、それは法において言っているのです。

弟子:「三点一線」を意念すれば、早く雑念を排除することができるのでしょうか?

師:本を読んでいないようですね。『轉法輪』は全ての問題、特に初歩の問題に解答を与えています。「三点一線」というのは道家の煉功方法です。今は法輪大法を修煉しているのですから、この動作と方法を取り入れてはいけません。しかも、この方法では完全に雑念を排除することができないのです。人為的に何らかの方法をもって入静しようとすれば、それは絶対不可能です。世の中にこのような妙薬はないのです。

 本当に入静しようと思うのであれば、方法は一つしかありません。即ち大法の中で絶えず向上し、様々な執着心を取り除くことです。執着心が少なければ少ないほど、座禅する時、心が静まると感じます。最後にやがて圓満成就に達する時は、何の執着心もなく、座禅するとすぐ入定できます。このように向上していくのです。昔は他の宗教或いは古代の山奥での修煉は、副元神を修め、主元神を麻痺させているので、常人社会の人を修煉させることができないだけでなく、なおさら主元神を修煉しませんでした。中国で一部の道家の修煉者はたくさんお酒を飲みます。これは聞いたことがあるでしょう。お酒を入れたヒョウタンを手に提げ、酔っ払うまで飲み続け、しまいにはそこに横たわって寝てしまい、三日、五日、一週間も起きません。なぜこうしなければならないのでしょうか? 主元神を麻痺させ、副元神を修める方法をとっているからです。横になって寝ており、酔っ払っているように見えますが、その人の副元神は身体から出て行きます。これらの神仙は歴史上多くの奇跡を残し、人々はそれが偉大で、素晴らしいと思っていますが、私からみれば、その人はやはり気の毒だと思います。彼は相変わらず来世に輪廻します。彼がまた生まれてきたのを私は見ました。こういうことです。

 皆さんはくれぐれも覚えておいてください。修煉は専一でなければなりません。他の功法の意念があってはいけません。それを取り入れると、あなたを妨害し、あなたの功が不純になり、元のところに戻れなくなります。上を目指す修煉ができず、圓満成就できません。更に人為的に何らかの方法をとって、近道を見つけて入静し、或いは向上しようとしてもいけません。それは修煉を妨げます。着実に心を高めなければなりません。全ての神は皆さんを見つめています。絶対に他の方法をとらないでください。他の方法はあなたの心性を高めることができないのです。人の心が向上しなければ、何も始まりません。動作は圓満の補助的な手段で、決して向上する根本的な原因ではありません。あなたの心性が高まれば、功もついて上がってくるのです。つまり、動作と手法を通じて功の演化を加速させ、向上させるのです。もし、あなたの心性がそれくらいの水準しかないのに、演化を加速させ、功だけを高めたくてもできません。あなたの心性の高さまでしか到達することができません。従って、心性の向上こそ第一義です。つまり、人の心性の高さは功の高さを決めるのです。これは絶対的な真理です。どんな修煉方法でもこの理から離れることはありません。これは宇宙の絶対的な真理です。どんな宗教、或いは修煉法であってもこの理に従わなければなりません。

弟子:第五式の功法に意念を加えることができますか?

師:絶対に加えてはいけません。もし入静できなければ、方法が一つあります。時にもう本当にどうしようもなく、入静できず、頭の中は雑念が極めて盛んになってしまうこともあります。なぜ入静できないのでしょうか? これはあなたが後天的に常人社会で形成した観念と業力がもたらした思想状態です。あなたの本当の考えではありません。あなたが修煉すれば、それを滅することになるので、それは反抗して盛んになり、あなたを入静させず、あらゆることを考えさせてしまうのです。

 修煉では必ず自分を見つけ、自分を修めなければなりません。もし自分をわきまえることができれば、あなたは「これは私ではない。あなたは勝手に考えなさい。本当の私は入静する。あなたがむやみにいつまで考え続けるのか見てみよう」と考えればいいのです。つまり、それを他人の考えだとするのです。もし本当に自分を見つけ、それをわきまえることができれば、この方法でもいいのです。つまり、自分を第三者と見做し、さんざん考えているのを眺めて、いつまで考え続けるか見てみます。多分これで大分良くなります。しかしこれも自我をわきまえ、主意識を強める方法にすぎず、絶対に入静できるとは限らないのです。なぜこの方法でこのようなことができるのでしょうか? 先ほど言った方法をとれば、なぜだめなのでしょうか? 先ほど言った方法は全て小道の方法で、あなたを元の家に帰らせることができないのです。心性がまだ向上していないのに、人為的に向上しようとしてもだめです。成すことはできません。

 なぜ皆さんにこのような方法を教えるのでしょうか? このやり方で必ず入静できるとは限りませんが、一つの長所があります。即ちあなたは自分ではない考えと自分の考えを分別することができるのです。それらの良くない考えを認めなければ、それらを速く取り除くことができます。これも修は己にありて、功は師にあるのではありませんか? なぜ、それを認めないでくださいと教えるのでしょうか? 皆さん考えてみてください。あなたの身体のどの部位もあなたではありませんか? 手は自分の思い通りに動き、腕も自分の思い通りに動き、頭もあなたの意のままに動きます。それはあなただからです。考えを静めようとしても、なぜ静かになってくれないのでしょうか? それはあなたではないからです。本当のあなたは清浄で、それらは全て後天的に汚染されたものなので、それを取り除き、捨てようとしているのです。つまりそれを排斥しているのです。

弟子:同性愛者がこのような行為を放棄しない情況で…。

師:あなたが言ったのは、この行為の相手と別れない情況の下で修煉するということですね。

 皆さんに教えますが、昨日私は「神は既に人間を人間として見做していない」という話をしました。あなたはまだ宗教を守っていますが、イエスはもう何も関与せず、そもそも宗教を認めていないのです。イエスは向上できる人の心しか認めないのです。なぜ人間のことに関与しないのでしょうか? 現在の人は既に人間とは呼べないからです。本当にそうです。歴史上、現在の社会のように乱れたことはありません。昨日、マフィア、麻薬中毒、変態者、性の解放、性の乱れ、近親相姦、人間の観念の転換、同性愛も含め、様々なことに言及しました。皆さん考えてみてください。人は神に造られたのです。一人の男性に一人の妻を与えます。これは神が決めたことです。今の人は同性の人を探して伴侶にしようとしていますが、神は今の人が既に人間としての考えを持たなくなったので、こういうことをするようになったと考えます。あなたは勝手気ままに自分の思想を放任させているようですが、実はそれが先ほど私が言ったそれらの思想と同じように、本当のあなたではありません。同性愛の観念は後天で形成された悪いものに動かされ、もたらされたのです。あなた自身はそれに麻痺され、それに同調し、従ってしまったのです。自分を見つけ、これ以上このような汚いことをしないでください。神はそれが汚いと思っています。政府が同性愛を認めるかどうか関係ありません。政府の法令は宇宙の真理ではなく、人間が制定したものです。人間は人を治めようという気持ちから法律を制定したり、或いは権力と票の維持や獲得のために不本意ながら制定するのであって、そこには善なる念はありません。

 この質問を提出したということは、本人が既にこれが良くないことだと気付いたからです。現在の人は既に何が正しいか、何が正しくないか、何をすべきか、何をすべきではないか分別できなくなりました。皆社会の流れに従って滑落しているのです。人類の道徳は凄まじい速度で滑落し、堕落しているのです。皆この流れの中にいるので、善悪の区別ができなくなりました。修煉する前のことは、既にこうなってしまったので、どうしようもないのですが、過ぎたことは過ぎたことにしましょう。修煉者として、先ず正々堂々とした人間として振る舞い、そして修煉者として振る舞い、最後に昇華し、更に純潔で高尚な人、神の境地にいる神のような人になるのです。神は決して修煉者にこのような行為をさせるわけがありません。常人に対してもそうさせるわけがありません。

弟子:何か地球以外の霊体と接触する方法はあるでしょうか?

師:執着心がかなり強いようですね。今日の質問の多くは、初めて来た人が提出したものです。人間は映画や幻想の物語を見て、社会の多くのことに汚染され、妄想をたくましくする変異した考えを形成したのです。どのようにして霊体と接触するかという質問ですが、言っておきますが、常人はこのようなことをしてはならず、この能力もありません。もし本当に霊体と接触できたとしても、あなたはまだ修煉していない人で、修煉者としてのエネルギーがなければ、本当に危険です。いつ命を奪われるか分かりません。しかも、あなたに見えるのは怖い霊魂であり、高級生命を見ることは全くできません。あなたは次元が低く、人間にとどまっているからです。ですからこれは恐ろしい話です。もし地球以外の生命と接触すれば、もっと恐ろしいのです。地球以外の生命といっても、私たち人間の目で見られるこのような物質空間の他の星における生命にすぎません。これらの生命は人間を人間と見做していません。人間を獣と思い、動物の一種と見ています。恣意に人間を殺し、実験に使うのです。人間を捕まえてそれらの星に連れて行き、籠に閉じ込め、動物としてその星の人に見せるのです。我々の地球から失踪した多くの人は彼らに捕まえられたのです。

 更に皆さんに教えましょう。今日の人類の科学はそれらが作ったのです。なぜ、これらの宇宙人は人類に今のこの科学を作らせたのでしょうか? それはその星にこのようなものがあるからです。それらはそれをこの星に持ってきて、最終的に人間に取って代わろうとしているのです。それらは人体がとても完璧で素晴らしいことに気付いたのです。ですから、宇宙人は人体を持つことを望んでおり、最後に人に取って代わろうとしています。人の分子細胞の中の一つの層の中にそれらのものを加えたのです。今既にこのようにやっており、既に広範囲に広がっています。ですから私は今皆さんを済度するにあたって、皆さんが自ら取り除くべき全ての執着心を排除するという問題だけでなく、業力という問題、これらのものをきちんと片付けてあげなければなりません。人類の発展はとても恐ろしく、将来コンピューターが人間を指揮することになるのです。既にこの傾向に向かっています。人間はコンピューターや機械の奴隷になり、最後に宇宙人にとって代わられます。コンピューターの発展は、なぜこんなに速いのでしょうか? 人間の頭脳は突然そんなに活発になるのでしょうか? 全ては宇宙人が人間の思想をコントロールして作ったのです。コンピューターを操作できる人は、一人一人が宇宙人によって番号を振られています。本当にそうです。私たちの学習者は、私が既にきれいにしてあげましたので、コンピューターを使っても妨害されることはありません。

 なぜ宇宙人が存在するのでしょうか? 一部の宇宙人はその星で生まれたのですが、もう一部の宇宙人がなぜよく地球にやって来るのでしょうか? それはそれらがかつて地球人だったからです。もちろん、今日のこの地球ではなく、場所は同じですが、以前の地球です。この地球は既に何度も代わっています。代わる度に一部の生命、神が造った異なる形を持った生命は、今の人類に似たものもあり、また違う生命体も造られました。当時、その一部は比較的良かったため、それを保存し、滅亡させなかったのです。しかし、それを次の地球の人類の歴史に混入させるわけにはいかないので、他の星に送ったのです。毎回このようにしてきた目的は、「これは異なる時期の地球人である」というように、この宇宙に一つの歴史的な記録を残すためです。それは異なる時期の地球人なのです。こういうわけです。しかし、それらをきちんと管理しなかったために、独自に発展してきました。そしてその中で種々の科学方法を造り出しました。私たちの地球と同じようなものもあれば、その他の種類のものもあり、発展の仕方は様々です。もちろん、科学とは呼ばずそれらの言葉で名前を作り、それらの概念になっています。宇宙大法からのずれに伴い、それらはますます悪くなりました。ですから、全ての宇宙人を徹底的に一掃しつつあり、宇宙全体でそれらを片付けようとしています。上のほうは現在既に片付けが終わりました。地球に逃げて来たものだけが残っており、人類の中に隠れているものもあれば、人体に憑依しているものもあり、またその他の形もあります。私はそれらを監視しています。今は悪事を働いても関与しませんが、近いうちにそれらを根絶します。(熱烈な拍手) 人類の堕落もそれらと直接関係しています。これは罪悪ですから、一掃しないわけにはいきません。

弟子:先生は第一式の功法を三回、第二式の功法を三十分するようにお勧めになったという人がいますが…。

師:人はそれぞれ情況が異なっていて、あなたの煉功はどんなに長くても構いません。通常、座禅が短ければあまり役に立ちません。時間があれば、長くしたほうがいいのです。しかし何もせず、一日中煉功ばかりしていてもだめです。あなたの思想境地がそれほどの高さに達していない時、煉功しても功は伸びていきません。ですから、心を修めることを第一位に置かなければなりません。私はなぜ皆さんに本を繰り返し読むようにと言っているのでしょうか? 何度も本を読むと、無数の理が分かってくるからです。何度も本を読むと、あなたは心性を高めることができるからです。これには時間の制限がありません。私は第二式の功法が三十分以下だとあまり効果が良くないと思います。しかしだめかと言われれば、そうでもありません。あなたの時間によります。私はこう思います。第五式の功法はあなたの能力に合わせてやってください。十五分だけしか足を組むことができないのに、一時間やれということは現実的ではありません。能力に従って煉功してください。しかし三十分は一つの大きなハードルで、あなたはどんなに長く足を組むことができても、三十分になると、必ず一つの大きな難関に遭うのです。それを乗り越えることはとりわけ難しいのです。しかし三十分を乗り越えたら、それほど難しくなくなります。

弟子:全ての国家にはそれぞれの特徴がありますが、どのようにすれば法輪大法をより早く広めることができますか。例えばスイスではどうでしょうか?

師:これは如何に自分の情況に合わせて、もっと多くの人に大法を伝えるかだと思います。他の人にお金をあげることは良いことだと言う人もいます。しかし、それは彼に一時的な幸福や安逸を与えるにすぎないと思います。もし彼に大法を伝えられれば、彼は生々世々にわたって恩恵を受け、尽きることがありません。あなたが彼に与えたのはどんなに貴重なものでしょうか?! 中国に一つの諺があります。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」です。もちろん、それは今朝法を耳にしたら、晩に死んでしまうというのではありません。この意味ではありません。それは「私が朝に道を聞き、法を聞いたら、晩に死んだとしても、恐れることはない」ということです。なぜでしょうか? 人が死ぬ時に最も恐れるのは、地獄に堕ちるということだからです。皆さん考えてみてください。もし頭の中に法があれば、地獄は敢えてあなたを受け入れるでしょうか? 敢えて大法を受け入れるでしょうか? あり得ないのです。また別の角度から言えば、あなたの頭の中で法が入った部分は、良い部分になったのではありませんか? つまりこういう意味です。どうすれば大法をそれぞれの国の特徴に合わせることができるでしょうか? それは皆さんに任せます。それしかありません。これと言ったやり方はありません。例えば、ある民族の人は音楽を聞くことが好きだったり、ある民族の人は考えることが好きだったり、ある国の人は自由で束縛されないことが好きだったりします。それなりの特徴があるわけです。皆さんは異なった特徴、習慣に合ったやり方でやっていいのです。きっとうまくできると思います。

弟子:良い人と悪い人をどう区別したらいいですか?

師:良い人とは何ですか? 悪い人とは何ですか? あなた達は悪いことをやった人を悪人だと思っていますが、そうではありません。悪いことをしなくても、非常に悪い人がいます。ただ彼は表に出していないだけです。或いは、出ていても非常に曖昧ではっきりしていないだけです。なぜでしょうか? 人は母胎から産まれた時、如何なる常人の思想もなく、乳を飲むことと泣くことができるだけで、常人の一切は後天的に得られたのです。昔、人々は家庭教育をとても重視しました。昔、白人の家庭の子供に対するしつけは非常に良かったと思います。しかし今は、特にアメリカでは、子供を放任し、子供に全く教養がなく、教育全体としては失敗しました。人類のために責任を持って子供を教育しなければなりません。何が良いかを教え、また何が良くないかを教えれば、全て彼らの頭の中に入ります。カバンに例えれば、中に黄金を詰めれば、人はそれを黄金であると言います。カバンに土を詰めれば、人はそれを土であると言います。人間にも当てはまります。頭の中に良いものが詰まっていれば、良い人で、どんなことをやっても、考えるのは良いことに違いありません。良くない思想が詰まっていれば、何をしても悪いことに決まっています。考えることも悪いことであり、悪い思想です。これがつまり良い人と悪い人の根本的な違いです。

 良い人とは何ですか? 悪い人とは何ですか? 社会のメディア、各種の新聞、刊行物が掲載するあれこれの暴力や色情が、あなたの頭の中へ注ぎ込まれ、人々はそれを見たがっています。注ぎ込まれたものが多ければ多いほど、あなたはそれと同じようになってしまうのです。これらのものを見ないでください。良いものを見ましょう。良いものが注ぎ込まれ、次第に多くなっていくにつれ、あなたは良い人になります。あなたの行為はあなたの思想の支配を受けます。人が教育を重視せず、後の世代に対する教育を重視しないということは、人が全社会に対して罪を犯しているということです。今の若い人は全く想像を超えています。見たくもありません。私が時に彼らを目にしても、全く見たくありません。内面からうわべまで、思想から心まで、行為から服装に至るまで、正しいものは一つもありません。

 もちろん絶対ではないのですが、しつけが比較的良い家庭もあります。子供に対する教育も比較的良いのです。分かってほしいのは、あなた達が次世代の人と未来の社会を育成しているということです。ですから、次世代の人がどんな人になるかについて自分に責任がないと言えますか?!

弟子:私はスウェーデンの学習者です。中国語の『轉法輪』を読むと、更に深く理解できると分かっていますが、多くの修煉の時間を、中国語を学ぶことに使う価値があるでしょうか?

師:さて、この質問についてお話しましょう。『轉法輪』で中国語を学べば、中国語と同時に法も学べるのではありませんか? 中国語は確かに私の話をもとのままに伝えることができます。このことは確かです。私は中国語で法を説いているからです。なぜ私は中国で生まれることを選び、中国というところで法を伝えることを選んだのでしょうか? 歴史上既にこのことは定められていたからです。この地区の言語は内涵が非常に深いのです。その歴史の全ての流れは将来法を伝えるためです。多くのことが定められていました。ですから、これは大昔から決まっていたことです。現在の白人の文明時期以前に手配したことです。ですからその民族は比較的古く、言語は世界で最も豊かで、内涵は最も深く、宇宙という巨大な概念を比較的うまく表現することができるのです。表現力に富んだ言語でなければ、表すことができません。表現し難いわけです。それにしても、今日まで、人類の言語によっては既にはっきり表すことができず、そういった言葉もありません。しかし、人という低い次元の中では、その全てを十分に表すことができます。

 それでは中国語が読めなければ修煉できず、達成しようとする境地まで達することができず、或いは向上していくスピードに影響されるのでしょうか? 皆さんに教えますが、少しも影響はありません。なぜでしょうか? 私がこの複雑な言語を使って法を説いたのは、異なる次元の神が法を聞いているからです。法を聞いているのは、ここに坐っているあなた達だけではなく、多くの神も聞いているのです。あなた達は英語、フランス語、ドイツ語、或いは他の言語で法を学びながら常人の中で修煉するに際して、影響を受けることはありません。その上、翻訳者もほとんど私たちの学習者なので問題はありません。違いがあるにしても、ただ表面上の文字の違いで、修煉するに従って、絶えず修正していけば、ますます完璧になるのです。

 中国語を読みたい、私のもとの話、原義を知りたい人がたくさんいると分かっています。もちろん、それに越したことはありません。もしこれができなくても、安心してください。『轉法輪』が皆さんの民族の言語に翻訳されると、その背後に無数の佛、道、神がおり、同様にあなたにその境地の理を理解させてくれます。この点は表面の文字には現れてきません。書こうとしても書き出すことができず、中国語でも書き出すことができません。ですから、修煉は何の影響も受けません。しかし、中国語を学ぶ過程で確かに多くの奇跡が現れました。法であるだけに本当にいくつかの奇跡が現れました。それについて私はもう例をあげません。なぜならば、他の人が誤ってまねをすると、また執着になりかねないからです。

弟子:どうすれば、真に修煉する弟子の心が動じないことを識別できるのでしょうか? どうすれば真に修煉する弟子と偽者を識別できるのでしょうか?

師:修煉の中で識別することはできません。しかし皆さんに教えますが、私たちの大法は、全ての人に門戸を開いています。誰が偽者、誰が本物でしょうか? 偽者も明日になるとまた真に学ぶようになるかもしれませんし、本物も明日起きる何かのことで真に学ぶことができなくなるかもしれません。ですから、私の法はこんなに大きな門戸を開いたのです。しかし、法を破壊する人は確かにいて、法に抵抗する魔に動かされて悪いことをしているのです。骨の髄から彼の言行まで全て反対ずくめですから、このような人は見分けやすいのです。こういうことです。一部の学習者の間では、「あなたは真の修煉者だ、私は真の修煉者だ、あなたは真の修煉者ではなく、私が真の修煉者だ」などと言い合い、この問題をめぐって互いに争っていました。これはとても良くないことだと思います。出発点は法を守ろうとすることなので、実際皆さんは全て本当の修煉者なのです。

 私は皆さんの法に対する気持ちをよく知っています。誰かが法を破壊したと思うと全く我慢することができないのです。なぜなら皆さんは修煉しており、大法の守護者になりました。あなたは大法の中で修煉していますので、大法の一部ですが、一致しないところは必ずあります。修煉する過程で弟子と弟子の間は、決していつも和やかでいられるはずはありません。なぜでしょうか? 皆さんのまだ取り除かれていない心、強い常人の心が現れてくるからです。ところが、より良く修めた部分の心は、もう見えなくなりました。もう既になくなっているので、現れることはありません。まさに良く修めていない心が現れるのです。それでこの人は良くないと言えるのですか? 絶対にそうではありません。逆に、この人はかなり良いと言わなければならず、ただ彼の良く修めていなかった心が現れただけです。現れてくる目的は何でしょうか? それはみんなに彼を注意させるためであるか、或いは、私たちの誰かに同じような心があるからです。そして二人の間にいざこざが起こります。目的は彼らの執着心を取り除くためです。

 ですから、いざこざが起こった時に、各自は内に向けて自分の原因を探さなければなりません。このことはあなたに責任があるかどうかに関わりません。私の言った話をしっかり覚えてください。あなたに責任があるかどうかに関わらず、あなたは自分を探してください。必ず問題が見つかります。もし、このことがあなたと絶対に関係なく、あなたが取り除くべき心を持っていなければ、このことがあなたの周囲に発生することはめったにありません。もし、あなたがこの心を持っていなければ、トラブルを引き起こすことはありません。あなたの修煉に責任を負わなければなりません。トラブルがあなたの身に、あなたの周辺、あなた達の間に現れれば、恐らくあなたと関係があり、あなたに取り除くべきものがあるはずです。あなたのせいであるかどうかは関係なく、私の法身はあなたの心を取り除く際、このことがあなたのせいであるか、または彼のせいであるか問わないのです。あなたにこの心がありさえすれば、あらゆる方法を尽くして、いざこざに遭わせ、まだ取り除かれていない心を認識させます。しかし、あなた達はそこでまだ「これは私のせいではない」と言い合い、或いは「私は法を守っている」と思い、彼も「私も法を守っている」と思っているのです。実は恐らく両方とも正しくないところがあったからこそ、いざこざが起きたのです。

 外で私の写真を掛け、香を焚いたり、拝んだりしている学習者がいますが、皆さんはくれぐれもこのようなことをしないでください。常人の中で修煉している弟子に対して、私はずっと宗教儀式のような形をとることに反対しています。宗教は既に常人社会の一つの機構となり、修煉ではありません。私を尊敬するその心さえあれば私は嬉しいのです。(もとの宗教の中で、大法を修めている弟子は除きます)

 もう一つ皆さんに言わなければならない問題があります。多くの白人は修煉して間もなく天目が開きます。将来これは大きな問題になります。中国で法を伝え始めた時、中国人には様々な観念が多すぎるために、天目を開いてあげるには強い力が必要なので、法を伝える初期にこのようなものを作り上げました。しかし、それによって白人の学習者は、まだあまり学んでいないうちに、天目が開いてしまうという問題が起こりました。多くの人に常人には見えない生命体が見えたり、その他の光景が見えたりしますが、皆さんはくれぐれも私が今日話したことをしっかり覚えておいてください。それを重く見てはいけません。見えても、心が動じてはいけません。決してそのために喜んではいけません。これはただとても低い次元での真実の現象を見たにすぎません。決してあなたの次元の現れではありません。ですから、あなた達は見えても見えなくても、必ず法を学ぶことに専念してください。本を読み、法を学び、本を読み、法を学び、私はいつも法を説く時、口をすっぱくして本を読みなさい、本を読みなさい、本を読みなさいと皆さんに教えています。本を読みさえすれば、想像を越えるもっと良いものが得られます。

 自分の目を通して、いくらたくさんのものが見えたとしても、それはただ自分の次元から見えたものにすぎないため、執着心を引き起こしてはいけません。見えることは良いことですから、あなたの天目を閉鎖することはしませんが、何が見えたかに関わらず、引き続き法を学ぶべきだということを皆さんに分かってもらいたいのです。如何なる高級生命であっても、あなた達の師ではないということを、くれぐれもしっかり覚えておいてください。彼らから如何なるものも受け取らないでください。受け取ったら、不二法門という深刻な問題を引き起こします。必ず、一心に法に従って修煉しなければなりません。法があなたを圓満成就させ、法があなたの天目を開かせているので、法に則って修煉して、はじめて圓満成就できることを覚えてください。大法以外の如何なるものにも執着したら、中途半端になり、何も成し遂げられません。

弟子:私は中国人の彼女がいますが、本を読んで、違う人種同士の結婚が正しくないと分かりましたので、彼女と別れることにしました。

師:違う人種の人との結婚がだめだと言っているのではありません。これは歴史がもたらした問題ですから、皆さんとは関係ありません。未来の地球に残る人は純血種の人でなければなりませんが、皆さんは圓満成就すべき人であり、修煉している人なので、その限りではありません。後の世代に関しては、もし修煉することのできる人であれば、その人を選び出します。彼の元神がどこに属し、どこに行くべきかをみて、そこに行かせます。このようにします。

 大法には無辺の法力があり、いくらでも方法があります。学習者に対して私たちにはどんな方法もありますが、常人に対して勝手に何かをするわけにはいきません。このような関係です。あなた達のことを私はだめだと言ってもいなければ、大丈夫だとも言っていません。社会が既にこういうふうになったので、このことは現在とりあえず置いておきます。皆さんには既に宇宙人の文化が身についているのと同じ情況です。しかし、これらの問題を処理する時期になると、もう皆さんとは関係ありません。なぜなら、皆さんは修煉して圓満成就になるので、未来の地球にいるのはあなた達ではありません。あなた達は既に天国世界に行っているのです。こういう情況なのです。

弟子:元神には形象がありますか?

師:元神には形象があります。つまりあなた自身の形象です。しかし、あなたの今のこの肉体の形象よりきれいです。その身体を構成した顆粒はこの表面上の物質的な身体の顆粒より更にきめ細かく、更にミクロ的で、エネルギーはもっと強いので光を放っているのです。

弟子:生まれ変わる時に形象が変わりますか?

師:変わります。しかし元の強い特性を持っています。私はいくら生まれ変わっても変わらないと言われていますが、しかし、白人に生まれ変わった時、鼻が高く、ほりが深く、目は青色です。

弟子:師父はそれぞれの空間にある身体は、独立した生命体だとおっしゃいましたが、私にはよく理解できません。各空間の身体は元神とどのような関係がありますか?

師:これは宇宙の構造と関係があります。人間とは直接関係していません。人間は多くの空間に自分自身と同じ生命体がいます。名前も同じです。みんな独立しており、あなたのそれぞれの空間にある身体とは別のことです。それぞれの空間にある身体はつまり、各空間における違う分子粒子によって構成されたものです。すべてあなたです。

弟子:今日の人類は魔性が勝っているとおっしゃいましたが、私の魔性はどの程度この人間の身に起因し、どの程度他の空間に起因するのでしょうか?

師:誰にも正と負の物質の特性がそれぞれ半々あります。その他、また後天の観念と思想業力もあります。私はいつもこのようなことを言っていますが、人間は一枚の服のようで、身体と思想は一つの帽子のようなものです。違う生命がそれを身に着けると、その人になるのです。人は主元神の意識が強くなければ、いつでも別の生命にのっとられてしまうのです。今の社会の人の様々な良くない行為は、ここまで乱れてしまったために現れた深刻な問題です。昔、三界以外の生命は三界に入ることが許されず、三界内の生命が三界を出ることも許されず、三界内の各次元の生命がお互いに妨害することも許されませんでした。憑き物の出現も許されませんでした。今は皆現れてきたのです。特に人類のいるこの場所は最も乱れているのです。多くの人の思想が正しくなくなった時、つまり、人の思想が魔性に符合している時、魔性の思想は強くなります。人間は常人社会で良くないことばかり見たり聞いたりしているため、頭に良くないものが入ると、人間自身の魔性は強くなります。魔性が強いと、ちょうど魔に符合し、魔があなたを好きになります。あなたがそれと同じだから、それはあなたの身体に入るのです。これは外因によるものです。あなたの思想がそれの思想と同じようになりやすいので、それは簡単にあなたを操ることができます。これが一つの情況です。人間と同じレベルの空間に、堕落した生命がたくさんいます。それらは何も憚ることなく人間を制御しているのです。なぜ人間を制御するのでしょうか? 人間としての跡継ぎを欲しがり、人間の身体を占有し、人間の物質を得るためです。人間の物質は演化されると、それらにとってまだ役に立つところがあるのです。ですから、それらはそれらに適する人を選びます。現在の人間はこのような問題に直面していますが、自分ではまだ悪くないと思っています。

 これらの問題の解決は既に大詰めを迎えているので、現在の人間は徐々に自分の生きがいが分かるようになり、本当の自分を見つけることができるようになりました。今まで人々が漠然と生きていたのは、全てそれらに動かされ、複雑で強大な要素に動かされていたからです。徹底的に人を解放し、外来の制御を排除し、人々に自ら自分を制御させなければなりません。さもなければ、私が今日説いた法はそれらのもののために説いてしまうことになります。皆さんはしっかりと自分を見つけることができず、全てをそれらに取られてはだめです。ですから、私は学習者にまずこのことをしてあげます。(拍手) 常人にもしてあげています。もし、今社会の常人がコントロールされ、法を得ることができないならば、それは大変深刻な問題になります。ですから、自分が法をよく広められなかったと私に向かって反省している学習者がいますが、私は良くやったと言いました。あなたの力が及ばないことがたくさんあるからです。思い通りにならなくても、それはあなたの問題ではありません。もし何もしていなかったら、それはあなたの問題です。

 時に、私は高い建物の上から慌ただしく奔走する人々を見下ろしながら「今の人間は一体どう生きているのか?」と考えます。かわいそうだと言いたいのですが、人が自らこの全てを乱してしまい、悪いものに符合してしまったのです。堕落したのは社会自身にも原因がありますが、皆さんはそれをあおり立てて、助長したのです。人間はこの流れの中で、しっかりできず、自我を放任したのです。人々がサッカー場で魔性を大いに発するのは、最も典型的な自己放任です。むやみに騒いだり叫んだりしているときは、魔性が大いに爆発し、強められていると人々は気付いていないのです。ディスコダンスをする時、ヒステリックな状態で、むやみに叫んだり騒いだりするのは、それこそ魔性の最大の発散です。理性的で、何をしているかを自覚しながら行なったことは往々にして善の念によるものであり、それこそ本当の自分なのです。

弟子:今までずっと自分は強靭で自己制御ができる人間だと思っていました。なぜ毎回先生にお会いしたり、先生のことに言及したりする時、涙をこらえることができないのでしょうか?

師:皆さんに教えますが、来場者の多くは歴史の各時期に、異なる国で私とかなり大きな縁を結んだことがあります。これが一つの原因です。もう一つは、私がしていることを理解できない神が、「こんなにも乱れた世で、まだこんなに良いものを伝えるのか」と言ったのです。ですから、皆さんを済度することは更に難しくなります。この空間にいる皆さんは知りませんが、他の空間にいる皆さんのもう一面は全て見えているので、私が皆さんに何をあげたのか皆知っているのです。言語や行動、ひいては、如何なる概念を用いても、私への感謝の気持ちを表すことができないため、この空間にいるあなた達は、訳がわからず涙を流すことになります。皆さんは知りませんが、今日の人類社会はここまで乱れてしまい、極めて汚くなり、人間の身体に極めて多くの業力があり、思想の中に悪いものが多く、多すぎます。しかし、私はそれらをきれいに片付けてあげた上で、あなたが修煉できるように、金色に輝く法輪、並びにこの法の多くのものを皆さんの身体に植えつけて、汚れの極まった身体を浄化してあげました。これは天地開闢以来、誰も敢えてしたことがありません。(拍手) 逆に言うと、皆さんは天地開闢以来なかった良いことに出会ったため、そのようになったわけです。皆さんがますます理性的になってきたので、私の言ったことも次第に明白になりつつあります。

弟子:先生は科学が宗教だとおっしゃいましたが、この説は大きな衝撃を与えてくれました。もっと深い話を聞かせていただきたいのです。

師:それは宗教であり、完備された宗教です。他の宗教は精神面からあなたに認識させ、修煉の中で次第に宇宙の本当の素晴らしいもの、物質の実在を分からせるのです。このような過程です。しかし、科学という宗教は物質面からあなたに僅かなものを発見させ、それをますます信じ込むようにあなたを誘導し、最後にはあなたをそれに依存させ、ますますあなたは依存し、それを真理のように思わせるのです。この科学という宗教は、あなたを物質面から精神面にまで信じるように導くのに対し、一般の宗教は精神から物質への真の認識にまであなたを導きます。それは逆の道をたどっているので、人々は容易に識別できなかったのです。如何なるものもこの世に立脚して存在し、成り立つには必ず肝心な要素があるわけです。つまり、この空間において一つの場を形成しなければならないのです。この場は物質的な存在です。例えば、宗教を創立することができたのは、多くの人がそれを信じ、堅信する中で宗教に言及し、崇拝するなどの形式によって、一つの環境が形成されました。この環境がまたこの宗教を守っているのです。

 科学も同じです。科学の環境は既にとてつもなく大きく、人のいる空間のあらゆるところに存在し、全ての領域が含まれており、漏れるものはないと言えるでしょう。どの宗教もそれに比べることはできません。しかし、この物質的な環境ができ上がった後に、人類の空間には相生相克の理が存在しており、つまり正があれば、負もあり、良いことがあれば、悪いこともあるのです。この空間にでき上がった環境もこのような二種類の要素があります。一つは善であり、一つは悪です。宗教も同じことです。その形成もこの二つの要素を持っています。あなたがそれに反対すれば、その悪という要素はあなたを殺したいほど恨み、これはつまり環境にある負、即ち悪の要素です。あなたがそれを信じれば、もう一つの要素はあなたをとても好ましく思い、善だと思います。これはその善という一面です。科学の中にもこのような要素があります。あなたが科学に反対すれば、あなたは殺されないまでも、みな群れを成して責め、あなたが迷信を言っていると非難します。誰もがあなたを迷信家だ、おかしいと言い、社会であなたを何の価値もないものにしてしまうのです。小学生の時、科学を信じず、学ぼうとしなければ、あなたは追い出されます。大学で学ぼうとしなければ、学位が得られず、卒業することができないのです。更に学ぼうとしなければ、良い仕事につけません。この社会の領域の至るところに、科学に関わる仕事が満ち溢れています。

 逆に言うと、全ての仕事に科学が満ち溢れているのです。それを身に付けることができなければ、良い仕事が見つかりません。しかし、この科学はまだ発達しておらず、発展は現有の空間内に限られています。神の存在を実証することができず、人が悪いことをすると、報いがやってくることも分かりません。神がいると言うだけで、それは迷信だと言われるのです。人が悪いことをすると悪い報いがあり、良いことをすると良い報いがあるとか、良い人になるには徳を重んじなければならないと言うと、異端邪説のレッテルが貼られます。実はこの科学は、本当に善良な人間の本質という最も良い一面に打撃を与えているのです。徳を重んじ、善に従うことを説かず、全ての欲の発散をあおり、人類の生存している環境を破壊し、人類の本性と人間としての基準を乱しているのです。この点からみると、この科学はまた邪教でもあります。しかし、科学は人間のこの空間で安逸と一時的な心地良さの仮相を人間に与え、自己破壊による偽りの自由、偽りの進歩がもたらされる条件を人間に提供したため、人間は一層それを信じてしまうのです。しかし、神からみれば、人の過度な安逸と心地良さは良いことではありません。業力を増やし、業力が積み重なってしまうことになるからです。業力を消すことができず、最後に地獄に堕ち、甚だしい場合、生命は消滅される羽目になってしまいます。昔あなた達、西洋人もこの道理を知っており、年配の人もまたこの道理を理解しており、少しばかり苦しみを嘗めても悪いことではなく、苦しい環境で鍛えることは良いことだと皆分かっていました。このように考えていました。

 苦を嘗めれば業を滅することができます。業が滅されて、はじめて来世で業力のない本当の幸せが得られるのです。あなたが修煉すれば業力を滅し、また功に転化され、天国世界に帰ることができます。この科学という宗教はあなたに科学だけを信じさせ、本当の神を信じさせないため、また人間を反対側に押しやり、つまり絶えず業を作ることになります。それは邪ではありませんか? しかし、私がここで言ったことは全体の科学の形式のことです。近代科学が作り上げた学問の領域に反対するとは言っていません。皆さんは既にこの環境の中で生活し、このように働いているからです。社会が既にこのようになった以上、このように維持するしかありません。私も反対しません。私はただその真実をあなた達に教えているだけです。

 また、皆さんに教えますが、科学は絶対的な真理ではありません。アインシュタインはなぜ晩年に宗教に入ったのでしょうか? 科学においてそれほど造詣の深い彼は、宗教が正しいことに気付いたのです。人は彼を理解できませんでしたが、アインシュタインほど賢くないからです。頑固な人は彼を理解できるはずがありません。知的レベルがアインシュタインに劣る人には理解できません。結局、アインシュタインは宗教の語っていることが真実で、しかも、それが本当の科学であることに気付き、正教を信奉するようになったのです。先ほど話したことをもう一度言いますが、自分のするべき仕事をしてください。なぜなら、上から下まで今の社会全体がこのようになったからです。皆さんもこのようにしていますので、私もどうこうしようとは思いません。私が済度するのはあなた達で、当面そのことに関与しません。私はただ真実の状況を人に教え、修煉者に教えました。常人や社会の人に対して言っていません。彼らもそれを知る必要はありません。実は、それをはっきりさせたのは私だけでなく、多くの賢明な人は既に気付きました。科学が宗教であるということに気付いた常人もいます。

弟子:修煉して圓満成就した大法弟子は、どんな形でこの世から去って行くのでしょうか?

師:この問題については既に何回も話したのです。法輪世界に行く人は法輪世界に行き、高エネルギー物質に転化された肉体を持って圓満成就します。しかし、絶対多数の人は異なるもっと高い次元の世界から来たのです。その世界は身体を必要とせず、人の身体は良くないものだと思われています。身体を持たせれば、つまり先天の世界の全てを変えることになります。ですから、そういう人は身体が要りません。与えられても要りません。しかし、このことを知っておいてください。皆さんには「私もほしい」という考えが現れてくるでしょう。それは皆さんのまだよく修めていない部分、つまり、最も表面的な常人の考えから現れてくるのです。真実の光景が見えた時、皆さんには違う考えが浮かび、「ああ、全てはこういうことだ」という神の思想が現れてくるでしょう。

 しかし、皆さんが圓満成就する時、人類に一つの壮挙をもたらしたいと考えています。私はこう考えています。全ての大法弟子は身体が要るかどうかに関わらず、身体を持って昇天します。身体の要らない者は空中で「虹化」して飛び去ります。こうすれば、歴史上かつてない煌めきをもたらし、人類に深い教訓を残します。人間は神を信じていません。神を如実に人の前に体現させ、見せます。私はこう考えていますが、できるかどうか最後を見なければなりません。圓満成就に関して、それは問題ありません。ただ、どんな形式をとるかというだけの問題です。

弟子:多くの学習者は、自分がどこまで修めているのか分からず、圓満成就できるかどうか不安を抱いていますが?

師:これも執着です。しかも、信じていないこと自体、修煉の最大の障碍です。先ほど言いましたが、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」です。つまり、あなたの思想に入ったものが全て法であれば、良くないものは既にほとんどなくなり、やがて全て取り除かれます。自己をどう位置付けるべきか自分で考えてみてください。いつも言うように、既に法を得たからには、もうこのような問題を考えないでください。それでも心配するなら、執着になります。それは執着ではありませんか? あなたの進歩を妨げるのです。将来法を聞く人はもっと多くなりますが、誰でも圓満成就できるというわけではありません。全ての人が法を聞きに来るわけがありません。どんなに修めても、病気治療をしたいという考えを取り除かない人がいます。どんなに修めても、はっきり目覚めなければ、それではだめです。来場の皆さんは皆問題がないと思います。(拍手) 多くの人は法を聞く資格がありません。ですから、世界には皆さんのようにここに坐ることのできない人がたくさんいます。大法には大法の威厳があります。あなたはこの門の前を通り過ぎる際、いとも簡単に入って来て、法を耳にしたようにみえますが、そこにどんな縁があるかはあなた自身にも分かりません。こんなにも偶然にみえるのです。

弟子:どうすれば、自分が修煉者になれるかどうか分かりますか?

師:私の門は開いています。私は大きな門戸を開いたと言いましたが、実は皆さんに教えますが、私は門さえなくなるまで門を開いたのです。全て開いたのです。(拍手) どんな人であろうと、あなたが修煉できるならば、私はあなたに対して責任を負います。この話は皆さんも分かったでしょう!

弟子:同性愛の人でも大法を修煉することができますか?

師:できます。しかし、この良くない行為を改めなければなりません。正々堂々とした人間になり、自分を見つけ、暗い心理状態から出て来てください。(拍手)

 先ほど、この学習者の質問に答えた時、私は修煉者に対していくつか修煉中の話をし、その話題は比較的レベルの高いものでした。恐らく偶然ここに入って来た人、或いは修煉したばかりの人には理解しにくいかもしれません。私たちを何らかの宗教だと思ってしまったかもしれません。教えましょう。私たちは如何なる宗教でもありません。私はただこの法を人に伝えているだけです。修煉したければ、私は助けてあげます。学びたくなければ、それで結構です。私たちには如何なる形式もなく、何も管理せず、如何なる宗教的な規範もなく、人から一銭も受け取りません。気軽にここで話を聞き、学びたければ学んでもいいし、学びたくなければ帰っても構いません。

弟子:私は医者です。もし私が患者を修煉の道に導き、彼らが病気を治療する必要もなくなれば、私はどうやって生計を立てればいいでしょうか?

師:これは余計な心配です。(皆が笑い) 実は皆さんに教えますが、あなたの患者が皆修煉するはずはありません。伝えても修煉しない人がいます。また、本当に縁のある人、多くの患者はそのような縁があり、入って来て修煉を始めるのです。そのような縁かもしれません。いずれにせよ、どんなケースもあります。医者が治療することで生計を立てることについては、あなたはやはり常人の観念で物事を考えたのです。本当はあなたの想像したようにはなりません。治療を受けたい人はまだまだいます。古い患者が去れば、新しい患者がやって来ます。大法もこれらのことを配慮します。これは常人という角度からお話しましたが、高い角度から言うと、もしその患者が法を得るべき人なのに(あなたは金儲けのために彼に法を得させなかったら、もちろん、あなたは金儲けのためというつもりはないでしょうが)、生計を立てるために彼に法を得させないのであれば、それは間違っていると思います。この問題はあなたが思っているようなことではありません。

弟子:私は夫と一緒に1997年9月から法輪功を修煉し始めましたが、1998年3月、夫は突然心臓病で亡くなりました。私は夫の死をどう捉えるべきでしょうか?

師:もし彼が正々堂々と本当に修煉することができ、本当に自分を一人の修煉者と見做したならば、決してこのような問題は起きなかったと思います。もちろん、彼が修煉していない、全く修煉していないと言ったら、あなたは恐らくそうではないと思うでしょう。しかし、あなたに教えますが、修煉は厳粛なことです。ありきたりの常人が修煉を通じて一人の超常的な高い次元の生命、佛になり、神になり、西洋人の言う天国に行くことができるのですから、人類の如何なることよりも厳粛ではありませんか? これほど厳粛なことはありません。では、このような問題に直面したら、修煉者はどう対応すべきですか? 本当に真剣に厳粛に対処すべきではありませんか? 本当に自分を一人の修煉者と見做すべきではありませんか? 修煉しながら、心の中ではまだ自分の病気を考えたり、憧れの素晴らしい生活を考えたり、名残り惜しそうに常人社会のものに執着すれば、精進できなくなります。実は以前、致命的な病気にかかり命を失うはずの多くの人すらまた元気になり、本当の大法弟子になりました。本当に修煉できずに死んでしまった人でも、往々にして寿命は延ばされたのです。

 煉功は人の寿命を延長させることができ、絶えず煉功すれば、絶えず寿命が延長されるので、年配の人でも修煉に間に合うのです。これが性命双修の大法の特徴です。それでは、常人の中の病人はなぜ同様に生命が延長されないのでしょうか? 考えてみてください。延長された生命は、彼に常人の生活を送らせるためなのか、それとも厳粛に修煉させるためなのでしょうか? この関係をきちんと理解できず、のんびりと修煉していいというのでしょうか? 人の生命を延長させるのは絶対に修煉のためなのです。彼が元のままであれば、生命を失わない保証はありません。

 無数の癌患者は治りました。しかし、死んでしまった癌患者もいます。なぜでしょうか? 一つ例を挙げましょう。ある人は、もうこれほどの法を得たので、何も執着せず、病床に横たわってこう考えます。「私はもうじき死ぬのに、まだこんなものを見ることができた。なぜもっと早く出会わなかったのか? 本当に悔しい!」。彼はこれで自分の病気を治療しようとは考えず、時間を無駄にせず本を読んでいました。彼は「もうこの世に何日も生きることができないから、速く読んで、速く読んで、生きている間にできるだけ多く読んで、何回も読みたい」と思っていたのです。しかし、知らないうちに彼は病床を離れることができ、腫瘍が消え、歩くことができ、立ち上がることができたのです。突然全身は軽く感じました。病院に行って再検査したところ、彼の癌は全くなくなりました。しかし、ほとんどの医者は大法が彼の病気を治したと認めず、認めれば、現代科学が自らを否定することになってしまうので、医者は「あ、前は誤診だった」と言うのです。これは本当によくあることです。

 もちろん、このような人もいます。彼は大法が病気を治療できると聞いて来ました。しかし、彼はまたこのようなことを聞きました。「もし、あなたが病気治療の目的で来たのなら、病気は治りません。修煉しても無駄です」。私たちの目的は修煉にあって、病気治療のためではありません。大法を得ると、病気が治りますが、しかし、病気治療のためではありません。彼は私たちの大法の要求に従って修煉せず、修煉者になりたいと思わず、ただ病気治療のことだけ考えています。しかし、これほど厳粛な大法を彼に伝えたのは病気治療のためなのでしょうか? 違います。それで彼も分かりました。「よし、私は病気治療のことさえ言わなければ、先生に病気治療さえお願いしなければ、その時になると、先生はきっと私の病気を治してくれる」。彼は病気のことを口にせず、また誰にも病気のことを言わなくなりましたが、時間が長く経っても、まだ心の中で「煉功さえすれば、その時になると先生はきっと治してくれる!」と考えて、やはり気にしていたのです。あなたが見ての通りです。ほんの少しの差だけで、それは根本的な違いになります。そのほんの少しの差こそが彼の本質です。彼はまだ病気治療のことを考えていたのです。

 癌患者の場合、往々にして時間を延ばしてあげています。一回一回と彼に機会を与えます。医者に後二カ月、三カ月の命と言われた人でも、時間を与えます。一年、一年半、二年まで延ばしてあげました。彼はなかなか自分の観念を改めず、まだ自分の病気を心配したりしています。「私の病気は再発しないだろうか? 李先生は本当に私を見守って下さり、根治して下さったのだろうか?」。まだ気にしています。彼は口では誰にも言いませんが、心の中では「李先生はきっと病気を治して下さる」と思っています。表面上煉功していても、根っこは病気治療のためです。彼は私を騙し、人を騙し、大法を騙しているのではありませんか? 彼は誰を騙しても、うわべのもので、本当は自分を騙していたのです。真に心が変わることこそ本当の修煉です。往々にして多くの学習者は彼の寿命がきた時、それが天寿であり、彼の一生はその年数までしか生きられないのです。その時点でも、彼がまだ自分を煉功者と見做すことができなければ、死んでしまうことになります。しかし往々にして、彼の元の寿命をかなり超えているのです。彼に機会を与え、時間も与え、変わるのを待っているのです。どうしても変らなかったら、本人の好きなようにさせるしかありません。表面上、彼はまだ私たちの本を読み、まだ煉功していますが、しかし彼は死ぬことがあり得ます。つまり私が言ったように、それほど多くの人が大法を修煉していますが、皆圓満成就することはあり得ません。私が言ったのはこういう意味です。つまり、真に自分を修煉者と見做すことができず、こうすることができなければ、年を取った人は世を去るしかありません。

 一生で過ごすべき生活を全て経験したので、今の生命はあなたの一生において、人間として送るべき生活が全て過ぎたので、残っている生命は修煉に励まなければなりません。完全に修煉に打ち込み、一人の修煉者となれば、あなたの生命は延ばされます。当然、あなたはこの延ばされた分が延ばされたものとは知らず、元からあった生命だと思ってしまいます。絶えず煉功すれば、絶えず生命が延ばされ、あなたは煉功の時間を増やすことになり、圓満成就まで十分な修煉の時間を持つようになります。自らを修煉者と見做すことができなければ、生命が延ばされた全ての人はいつでも生命を失いかねません。それはあなたが修煉することができなかったからです。大法は安易に常人に生命を延ばしてあげてはいけません。人の生命には定めがあり、死ぬべき時には死に、転生しなければなりません。一方で、その人の生まれ変りを待っている人が既に妊娠し、生まれようとしているので、生まれて来なければ大変ではありませんか? 生まれた後、彼は常人社会で何年か生きて、するべき仕事もしなければなりません。その仕事も彼を待っているので、彼を逝かせなくてはならないのではありませんか? そうでなければ、社会全体の秩序を乱すことになるのです。大法の修煉者だけにこのようなことをしてあげてもいいのです。この世において、修煉することと、昇華して戻ることより偉大なことはないので、あなたにこの一切をうまく段取りしてあげられるのです。あなたが修煉者になることができるように、あなたの代わりに他の人を入れ替えます。ですから、修煉者は常人ではないというのです。

 常人にこのようなことをしてあげても良いのでしょうか? 私たちはこの問題を厳粛にみなければならないのではないでしょうか? まさに、こういうことです。ですから、私は大法の素晴らしさを話しましたが、どのように圓満成就するかを聞いて、皆さん拍手しましたが、反対に、真に修煉することができなければ、何も得られません。自分を修煉者と見做すことができなければ、同じく何も得られません。心性の向上こそ本当の向上です。毎日体操のように煉功したら、死ぬことを免れるというのでしょうか? 私に言わせると、それは笑い話にすぎません。毎日煉功しても、心性を高められなければ、その人の煉功は私に言わせると体操をするのと同じです。ただそのほんの少しの違いでも、彼はなかなかそれを変えられないのです。あなたが変わり、常人の観念を放下し、全てを成し遂げることができれば、あなたは神になります。それができなければ、あなたは人間なのです。しかし、全てを成し遂げることは容易いことでしょうか? 修煉過程で徐々に積み重ねた思想の基盤がなければ、切り捨てなさいと教えても彼はそれを切り捨てることができません!

 もし今死に直面して、如何なる死の形であっても、死に直面していささかも恐れることなく、全く気にせず、「死ねば天国に行くことになるかもしれない」と思えば、死ということは本当になくなるのです。肝心なのは人の心です。大法の修煉は人心を真っ直ぐに指し、修煉は即ち人の心を修めることです。あなたの心が変わらなければ、他の現れはみな偽りであり、形式は偽りのものです。

 私は質問したこの学習者のことを言っているのではなく、一つの道理を説いているのです。この質問を借りて皆さんに道理を説いています。

弟子:もし、ある問題を解決したい、或いは間違った思想を放棄したい時、煉功の際に一念をもって自分を励ますことは役に立ちますか?

師:煉功の初期、意志を強めるために一念があっても、反対はしませんし、あなたが間違っているとも言えません。しかし、修煉は偉大で厳粛なことなので、「一念」で自分を制約する必要があるのでしょうか?! 「私は必ず圓満成就に達し、必ず高い境界に達します」。このように修煉すれば、一番いいと思います。修煉界には「求めずとも自ずから得る」という諺があります。それは最も良い状態なのです。先ほど私が言った癌患者らはなぜ回復したのですか? 彼は病気を治すとか、本を読んだら病気が治るとかを考えもしなかったのですが、かえって治りました。これで「求めずとも自ずから得る」ということに符合したので、何かに執着することなく、如何なる障碍もなく、迅速に回復したのです。これが原因です。

弟子:今ヨーロッパに来て佛教を伝える人が多いようですが、私たちの法輪大法はその他の佛教とはどういう違いがありますか?

師:違いはとてつもなく大きいのです。佛教は釈迦牟尼佛を崇拝しています。彼らは釈迦牟尼佛が佛教を創立したと思っています。もちろん、大乗佛教は他の佛陀を崇拝しています。密教のラマ教、つまり、中国のチベットのラマ教は釈迦牟尼の創立した佛教とは全く違いますから、ラマ教と呼ばれています。ラマ教が最も崇拝している佛は大日如来です。白教はミラレパを崇拝しているのです。それぞれ異なっています。ですから、それは既に釈迦牟尼の佛教とは完全に別のものになっています。これが佛教です。佛教は広まる過程で宗教を形成し、廟や各種の宗教儀式、教義などをもつようになり、それが宗教なのです。

 私たちのところには何もありません。こうしなさい、ああしなさい、或いはこうしなければならない、ああしなければならないと言いません。何もありません。自分で本を読み、法を学ぶのです。どのようにすれば良い人になれるのか、それは自分ですればいいのです。ですから、これは宗教とは全く違うのです。常人の形式という面からみても束縛はなく、如何なる制限もないこのような修煉形式です。なぜ私たちはこのようにするのでしょうか? 私たちには大法があるので、学べばどうすべきかすぐ分かります。もし私たちが集まって修煉すれば、学ぶ人が多いため、将来は災難を形成し、人類に災難をもたらすことになります。誰もが働かなくなり、数億人が皆出家してしまってはいけません。そうすれば社会や人類社会に厄介なことをもたらすので、それは許されません。自分の仕事をし、ただするだけでなく、その上しっかりしなければなりません。自分の仕事をきちんと行なうことができなければ、修煉者としての基準に符合していないことになります。修煉者はまず常人から、良い人になることから始めなければなりません。良い人とはなんでしょうか? どこにいても良い人であるということです。社長から給料を貰いながら、仕事をきちんとしなければ、周りの人はあなたを良い人とは言わないでしょう。あなたは何もしないで人からお金をもらっているからです。私たちはしっかりしなければならず、どこにおいても良い人だと言われなければなりません。

 私は今の宗教が人を済度できなくなったと言いましたが、それが邪教だとは言っていません。しかし、宗教に携わっている多くの人はお金のためにやっているのです。専らお金をたくさんもらうために、寺院或いは教会にいる人がいます。ある国では長者番付の一番はお坊さんだそうです。一番の富豪です。お金が多くなったら家へ仕送りします。これは仕事をしているのと同じではありませんか? 中国の和尚は課長クラスや部長クラスなどにランク分けされ、金を稼いでいます。局長クラスもあると聞いています。これは既に修煉ではなくなりました。私もそれを修煉と認めません。

 専ら世界の終末を言う宗教があって、いつもこの類いのことを言っています。これらは全て邪教です。社会に不安を煽り、社会に責任を負っていないので、これらは邪教だと容易に識別できます。更に皆さんに教えますが、原始の正教以外は全て邪教です。原始の正教とは、カトリック教、キリスト教、佛教、道教、ユダヤ教を指します。これらは皆原始の正教なのです。歴史の後期、特にキリスト教の後期に現れた宗教の99.9パーセントは邪教です。なぜでしょうか? それはたとえ大きな悪事を働かなくても、人を済度できる時期に、正教による人への済度を妨害し、人が正法を修煉することや、正教を信じることを妨害するので、人を誤らせ、正法を乱しているのではないでしょうか? それは邪なものではありませんか? それ自身の罪は既に大きいのです。後期になると、今は宗教が既に人を済度することができなくなりました。多くの人は皆政治屋になりました。

弟子:執着心がもたらした苦痛は業力を転化させることができるのでしょうか?

師:修煉の際、執着心を取り除こうとしても、なかなか取り除けない場合、関門を乗り越えるその辛さの中で、業を滅することができます。滅することができないとはどういう場合でしょうか? それが執着心だとはっきり分かっていても、やはり執着しようとするのであれば、どうしてもしてしまう場合、その痛みの中で業を滅することはできません。悪いと承知してしたからです! 自分で自分に面倒を引き起こしたのです。常人にとっても、同じ道理です。同じことです。しかし、常人のことに私たちは関与しません。常人社会がどう発展するか、それは常人のことです。ここではただ修煉者に法を説いているだけです。

弟子:同性愛者の業力は大きいですか? もしかして彼らが徐々に執着心を捨て、大法を修煉するようになってもいいでしょうか?

師:同性愛者がその執着を捨て、正々堂々と一人の人間として振る舞うことさえできれば、修煉を始めても問題はありません。業力の問題を考えないでください。もう考えないでください。私は言ったではありませんか? あなたが修煉することさえできれば、私にはどんな方法でもあります。(拍手) 単にこの業力が大きいかどうかについては、人が排泄器官から排泄する時は、往々にして業力を一緒に排出します。このような器官なので、正しくない方法で接触すると、このような業力が作用するのです。

弟子:師父は三千個の小宇宙で第二層の宇宙を構成し、また三千個の第二層の宇宙で第三層の宇宙を構成したとおっしゃいましたが、なぜ皆「三千」なのでしょうか?

師:皆さんは覚えていると思いますが、私は「偶然という現象はなく、自然は存在しません」と言ったことがあります。科学はこれを知る余地がなく、理解することもできないのに、「これは自然現象だ」と定義してしまいます。この一言で人の思想を行き詰まらせてしまいました。人は深く考え直そうともせず、科学はやはり科学的だと認めます。私はそれこそおかしいと思います。科学は物事を解釈することができませんが、人を騙すことができます。実は如何なる自然現象もありません。厖大な宇宙に有形と無形の生命が同時に存在しています。厖大な無形の生命の働きによって、宇宙の全ての均衡が保たれ、宇宙の全てが造成されています。皆さん考えてみてください。なぜ鉄の分子の配列はそんなに整然としているのでしょうか? 金の分子の配列はなぜそうなっているのでしょうか? 銅はなぜそうなっているのでしょうか? またなぜアルミニウムはそのようなものでしょうか? その上、なぜムラなく、整然と配列されているのでしょうか? もしムラがあり、整然と配列されていなければ、一つの変化が生じます。どういう変化でしょうか? もし金が金属元素の分子配列に従わなければ、別のものになってしまいます。違いは表面上にあります。この全てに法則があり、しかも、この法則は決して自然に形成されたものではありません。現代科学はそれを把握しておらず、探索することができないだけです。更にミクロの生命、厖大な高級生命は異なることをしており、異なることを主宰し、全ての均衡を保っています。

 更に皆さんに教えますが、今まで話したくなかったのは高級生命や神からみれば人の観念は皆幼稚で、ばかげていることです。科学が作り出した全ての理論は高い次元に至れば、皆おかしなものです。今の人間は地球で生活しており、地球に立つことができ、地球から離れず、空中に浮き上がらないのは地球に引力があるからだと科学は主張しています。しかし、「万有引力」の説は間違っていると我々には分かっています。私は一般社会の人に法を説いて聞かせるのではなく、修煉している私の弟子たちに法を説き、宇宙の真理や、生命と物質の存在の真実を伝えています。この宇宙の中で、地球の周囲には厖大で、幾重にも重なる物質生命によって構成された非常にミクロ的な物質環境があり、人間がここで生存できる環境を構成しました。しかも、あなたの目には見えない異なる次元のミクロ的な水があり、植物や動物、物質の存在を可能にし、人間が生き生きとここで生活できる様々な要素をもたらしています。

 ある種の物質は人が地面に直立し、傾かないように作用しており、またある種の物質は圧力のようなもので、人間と物体が浮き上がらないように、しっかりと押さえているのです。ある種の物質は人間の脳と器官を安定させることができます。もし脳と各種の器官が安定しなければ、普通に立っていても横たわっているように感じます。或いはいくら真っ直ぐに立っていても、どうしても真っ直ぐに立てないように感じます。それは決して地球の回転による引力ではありません。皿の砂は振り回されると、すぐ飛び散ってしまいます。全くそういうことではありません。もし人間が地球にあるこの生存環境を超え、この環境の外に出てしまうと、その高次元の生命体が人間のために維持しているこの環境を出てしまうことになり、そうすると、人はこのような状態から抜け出てしまうのです。現代科学は「無重力」或いは「無重力現象」と名付けています。無重力と言いますが、皆さんご存知のように、月ほど大きい物体が、あれほど離れていてもまだ地球に引っ張られて動いており、人間は月にも達していないのに、どうしてそこが無重力になるのでしょうか?

 人間にはそれなりの生存環境があり、それぞれの星がそれぞれのところに置かれているのは、即ち厖大な宇宙の生命が配置したのです。今の鋼や鉄、金などの分子や原子の配列順序が不変であることと同じなのです。私は自然現象はないと言っています。科学は解明できないことを全て「自然」だと言いますが、これは人を騙すことができ、この一言により全ての人が騙されてしまいました。なぜ皆三千なのでしょうか? この三千という数字ですが、先ほど言ったことを通じて皆さんに教えたいのは、それには法則があり、按排があるのです。しかし、必ずしも全てが三千というわけではありません。私が言ったのは全ておおよその数字です。あなたを最大限に理解させるために、人間の言葉で表現したのです。

弟子:法を広めることは順調ではありませんが、熱心さと方法に問題があるのか、それとも法を深く学んでいないからでしょうか? 「本性が悟っていれば、自然にどうすべきか分かります」と言う人がいますが、これは正しいでしょうか?

師:言ったことは正しいのです。しかし、今のこの情況下ではまだそれができません。ですから、今の情況下では今の情況に合わせてしなければいけません。人に法を得させたければ、この法の最も次元の低い、最も表面的な法理を伝え、学ぶ意志があるかどうかをみてみます。あなたは最も良いものを人に伝えたいと思っていますが、その人が学びたければ学び、学びたくなければ、無理に勧める必要はありません。人の心が変らないかぎり、勧められて面子のために学びに来たのであれば、皆うわべだけです。友達の面子を考慮して学びに来たのはうわべのことです。彼は何も得られません。人に法を得てもらうには、如何なる具体的な形のある規定はありません。私たちは大道無形という道を歩んでいるからです。法を広めることも自主的にやらなければなりません。人は学びたければ学び、学びたくなければそれでいいのです。自分に対する要求は全て自分次第です。もちろん、修煉者として、心性さえ向上すれば、その他のことは皆師父がやってあげるのです。心性が向上すると、師父も有利な条件を整えてあげます。

 深く法を学んでいないという問題でもないのです。私が最も心配しているのは皆さんが修煉してしばらく経つと、境地においても物事への認識においても、常人との間にかなりの開きが生じてくるので、こんな高い境地の話を彼らに聞かせたら効果は良くないのです。というのは、その人はまだ常人だからです。常人は毎日株の売買に没頭したり、人と腹を探り合って暗闘したりしています。また個人の利益のために互いに奪い合い、わずかばかり得ると嬉しくてたまらず、少し失うと辛くてたまりません。常人の中で自分勝手に行動し、七情六欲が全てあり、これこそまさしく常人なのです。常人にいきなり高い次元の修煉の話をすれば、彼の観念では当然受け入れることができません。大法の文字の表面の意味だけを伝えれば良いのです。内涵は本人に読み取らせます。これで受け入れやすくなると思います。

弟子:近視は正しくない状態なので、眼鏡をかけている人が眼鏡を外せば、業を滅することになると言う人がいます。

師:私はこのように言っていません。皆さんもそろってそんなことをしないでください。私は必ず何らかのことについて、こうしなさいと決めたことはありませんので、私のしなかったことは皆さんもしないでください。全ての人は皆情況が異なっているからです。修煉する時にある面の業力を容易に滅し、その人に変化をもたらすことができますが、情況が複雑な人もいます。ただ一般の業力であれば、早く滅することができ、眼鏡をかけられなくなります。正常な目と同じく、眼鏡をかけるとぼやけてしまい、外すと良くなります。このような人の場合、もう目には問題がないので、眼鏡をかけなくてもよいと知らせています。以前、ニューヨークで私が法を説き終えた後、一人の学習者は、隣の人が不用意に手を振り、彼のコンタクトレンズ(つまり、眼球につける眼鏡)を打ち落とし、壊したのです。目を傷つけることもありませんでした。実は、それは目が既に良くなったということを彼に伝えたのです。しかし、彼はまだ悟らず片方のコンタクトレンズを付けたままにしていました。しかし、眼鏡をかけていない目の視力はかけていた時と同じように、ものがはっきり見えます。はっきりと見えており、視力が既に非常に良くなりましたが、彼はまだ片方のコンタクトレンズを付けているため、両目に違和感があり、気分が悪くなりました。これは眼鏡にはもう矯正の作用がなく、外すべきであることを意味しています。彼は外さずに無理に付けていたのです。彼は半分悟って、この目にはもう付けてはいけないと分かったのですが、もう片方はぎこちなく付けたままにしていたのです。実際は全て良くなったのです。

 しかし、一部の人は状況が異なり、その近視は他の複雑な要素と絡んでいます。修煉していくうちに、だんだん片付けてあげなければなりません。この場合は簡単にメガネを外すことはできません。「他の眼鏡をかけた人が煉功したら外せたので私も外せるはずだ」、或いは「私は外さなければいけない。無理にでも外そう」と思えば、彼の生活や仕事に不便をもたらしてしまうかもしれません。彼が無理やりにしたからです。彼にこういう気持ちがあり、このようにしたければしても構わないのですが、ただ不便なだけです。しかし強引にしようとすると、恐らく面倒をもたらしてしまうので、よしたほうがいいのです。この点においては異なった情況に合わせて、異なった対応をしたほうがよいと思います。他の病気はあなたの修煉に影響しますが、この問題は修煉に影響ありません。眼鏡をかけて本を読むこともできるし、煉功もできます。本当にあなたの修煉を妨げることであれば、この問題を特別に解決しなければなりません。ですから、融通のきかない規定、或いは統一の規定を定めたりしないでください。皆さんはこのようにしないでください。

弟子:法を学んでいる時に、突然一つの理が分かるようになりました。これは心性がある次元に達したので、その次元の佛、道、神がその次元の智慧を開かせてくださったのでしょうか?

師:そういうふうに理解してもかまいません。「修は己にありて、功は師にあり」なので、実質上、その全てはあなたがしたことではなく、できることでもありません。考えてみてください。私たちの中に大法を修煉して、本を百回以上読んだ人がいます。読めば読むほど、中に多くのものが含まれていますが、字面には何もないことに気付きます。なぜ、それほどの奥深い理が含まれているのでしょうか? その人ははっきり言えません。実は文字の後ろに尽きることのない法があるからです。ある次元に至り、その次元まで修煉できて、その次元の理を知るべき時に、あなたはある一行の文字を見たら突然分かるようになります。つまり、その後ろにある佛、道、神があなたにその次元の理を知らせていいと思う時に、あなたに悟らせるのです。ですから、あなたはその瞬間に、「なるほど!」と分かるようになるのです。しかし、皆さんはもう一つの状態に気が付いていないのです。その次元の理、読んでいる説法のその一文に含まれている理が分かった時、皆さんの身体には様々な反応があります。身体が一瞬震動したと感じる人もいれば、頭のてっぺんが熱くなって急に足の裏まで貫いたと感じる人もいて、突然身体が膨らんで、熱い流れのようなある種の感動を覚える人もいます。皆それぞれ感じ方は違います。その時、全体の変化は非常に大きいのですが、最大の一層の分子で構成された人間の身体の表面まで伝わってくるのはとても弱いので、ただ一つのこのような感覚になってしまいます。

 ところが、身体にある更なるミクロ的な粒子によって構成された一部分に生じた変化はかなり大きく、それは本当に生まれ変わったような変化です。その次元に入るには、その次元の生命の身体の基準と思想の境地に到達しなければならないので、これほど大きな変化が起きるのですが、あなたの身体の表面まで伝わってくると、とても弱くなります。私たちは本質から、生命の最もミクロ的な部分から修煉して、あなたの身体を変えていくからです。その上、修めて良くできた部分を、まだ良くできていない部分から切り離します。繋がって一体のようにみえますが、実は間では切り離されており、繋がっていません。全く繋がりがないわけでもなく、肝心な部分は皆繋がっておらず、少なくとも、表面の身体の良く修めてできた部分は動かないようにします。そこにはどういう利点があるのでしょうか? つまり、皆さんは常人の中で修煉し、まだ常人の行為、常人の各種の欲望による行為があり、甚だしきに至っては様々な常人と同じレベルの話をするかもしれません。神がそのように話したり行動したりしてはいけません。もし、良く修めた部分も同じような話をし、人間の身体に従って人間のことを行なえば、この部分は神として相応しくなく、人間に戻っているのです。このような道理でしょう。

 下へ堕ちていかないように、あなたが修めてまだできていない部分だけを常人の中で保ち、良くできた部分が動かないように維持することによって、あなたがどんな行為をしてもその部分の考えと身体に影響することはありません。切り離してあるのです。私たちはこの方法を採りました。そうすると、皆さんは常人の中で仕事、勉強、生活をすることもでき、修煉することもできます。圓満に達したその部分は絶えず切り離されています。思想の中にまだ良くない考えや更に不純な考えまで浮かび上がってくるという人がいますが、それを恐れる必要はありません。まだ表面まで修めてきていないからです。しかし、それを抑制、排除することが修煉です。実は、あなたの身体のかなりの部分は既に修煉してでき上がりましたが、たとえそうでなくても、僅かな部分、ただ一つの人体細胞が三界以外の境地に達したら(三界を超えれば羅漢です。羅漢の境地に至ったその細胞)、それが身体全体を支配することができます。身体のその他の部分が全て三界内にあるので、まだ弱いのです。その細胞は高級生命であり、とても強いので、あなたの思想を全て支配することができます。あなたの全ての言行はもう人の行為ではなく、全て神の行為になります。

 なぜ皆さんはこんなに長く修煉していても、まだそこまで達成することができないのでしょうか? 実は私がそれを切り離したので、皆さんは達成できなくなったのです。仮に本当に達成し、今日皆さんの全てが開かれていれば、今の段階のこの程度だけで、地球は皆さんを収容することができなくなり、一人一人が全て大きな神通力を持った人になります。釈迦牟尼が悟りを開いたその瞬間に震動がありました。当時、それが地震や山崩れ、津波だと思われたのです。非常に広い地域にわたり、震動が起こりました。考えてみてください。こんなに大勢の人であれば地球は耐えられません。他の空間の身体は無限に拡大できるからです。それはあなたが到達した次元における無限の大きさです。これはどういうことを意味しているのでしょうか? 例えばあなたはここまで修め、第一層の宇宙まで至ることが実現できたら、あなたの身体は第一層の宇宙まで大きく拡大することができます。また非常に小さく縮まることもできます。私たちの今現在の肉体は分子という最大の粒子から構成されており、霊性はないので、固定しているように見えますが、実はそれも固定してはいません。身体の分子が動いており、大型の顕微鏡の下であれば、あなたの身体は砂のようで、中の分子は皆蠕動し、動いているのです。あなたの目も分子という粒子から構成されたため、見えないわけです。なぜ釈迦牟尼はそれほどミクロ的なものまで見えたのでしょうか? 彼の目は佛の目で、相当高く、相当次元の高い物質で構成されているので、彼には多くの物質を見通すことができるのです。

弟子:無数の次元及びもっと高い境地の佛、道、神は、その次元における師父の智慧の形象の具体的な現れでしょうか?

師:そうではありません。あなたが修煉して成就しても、あなたはやはりあなたです。しかし厖大な法及び法が造り上げた宇宙にとって、あなたはまた宇宙の一部分です。人の身体は完備した思想を備え、この口で話をしているようにみえても、しかし、この身体は無数の細胞、更に無数の細胞で構成されています。分子は細胞を構成して、また更にミクロ的な無数の粒子が分子を構成しています。これらの全てがあなたではないと言えますか? ですから、それらの粒子は皆あなたの一部分です。私が話したあなたの各空間に存在している身体のこととは別のことです。細胞はあなたの手足のように大きく動くことはありませんが、その境地では、同じく動いているのです。ただその境地で、非常にミクロ的であるため、あなたにはそれが見えず、動いていないように感じてしまうのです。ですから、あなたは自ら身体の全てを支配しているようで、全てはあなたの主意識の支配下にあるようです。しかし、あなた達はまたこの宇宙全体の一部分であり、この宇宙はこの法によって構成されたのです。このような関係なのです。

弟子:時間が限られているので、本を通読したいし、また暗記もしたいのですが、しかし、本を暗記すると通読に影響する気がします。この関係をどう捉えればよいでしょうか?

師:通読はあなたの向上に大きな利点をもたらしています。もし本を暗記するなら、ある特定の時間に頑張ってそれを暗記すればいいのです。後は本を読むという面倒なことをしなくてもよくなります。ただし、必ず時間を集中して暗記しなければなりません。さもなければ、あなたは通読もしたいし、暗記もしたい、また通読もしたい、いつもこう考えていればいつもこの状態のままです。本を暗記することは通読に影響しませんし、たとえ通読できなくても、向上することができないということはありません。本を暗記するときに、全ての文字の後ろには尽きることのない佛、道、神がおり、全ての文字はあなたに異なる次元の理を分からせることができます。

弟子:私はナチスのマークを見たことのある世代の人間ですが、なぜ、たまたまこのマークが彼に盗用されたのでしょうか? このマークの本当の意味をどう捉えればいいのでしょうか?

師:ご存知のように、佛教で佛家のこの「卍」符が認識されたのは釈迦牟尼の時代です。現代まで既に2500年余り経過しました。つまり、ナチスの時代よりはるかに昔のことです。ギリシャ文化の中で見出されたこともあるそうです。それなら、また佛教を千年余りも超えることになります。つまり、その歴史はかなり長いのです。ただし、これも人の知ることができる範囲です。実は、それは佛のものなのです。佛はどれくらいの年齢があるのでしょうか? それは時間(地上世界の時間)で計算することのできないものです。ですから、このマークは天体においても宇宙においても、相当古い歴史を持っています。宇宙の中でも相当古い歴史を持っているので、人類の時間ではなおさらです!

 では、なぜナチスがこのマークを使ったのでしょうか? 私は如何なる偶然もなく、自然も存在しないと話したことがあります。これは白人社会にとって、とても敏感な問題です。私はただ大法弟子に法を説いているだけで、社会の常人に対して言っているのではなく、常人に話しているのではありません。私は皆さんの修煉に責任を負うために、これを伝えているのです。

 この地上で発生した一切の出来事、つまり、人類社会に起きた全ての出来事は偶然ではありません。皆さんに教えますが、昔、神は人間が短い周期で堕落し消滅されてしまわないように、人間の生命を維持させ、できるだけ輪廻の中でもう一度元に戻り、地獄に堕ちて最終的に消滅されてしまわないように、絶えず人間の業を消していました。これは人間の知らないことです。神は人の業を消すと同時に、この社会や物質、全ての生命の業を消しています。一部の物質にも業力があります。例えば人が悪いことをして死んでしまったら、その業力も彼について行きます。彼の生命についているのです。次に彼は人間に生まれ変わることができず、一本の樹に生まれ変わります。そこで、この樹は業力を持つのです。もし、彼が動物に生まれ変わったら、その動物も業力を持ちます。即ち彼が物質に生まれ変われば、物質も業力があるのです。もし、あなたが目を開いてこの世界を見ることができるなら、あなたはここで生きることができなくなります。至るところに業力があふれています。それでは、もし人の業力が大きくなったらどうしますか? 神が世に来て直接人の業を消すことはありません。無条件に業を滅するわけにはいきません。この宇宙の中に一つの理があります。ですから、神は宇宙の理を守って行動しているのです。

 宇宙にあるその理とは何でしょうか? 「失わないものは得られず、得るためには失わねばならぬ」という理です。人に業を滅してあげたければ、その人はこの業力に耐えなければなりません。もし、人の業を滅してあげなければ、業が少しずつ溜まって多くなるのです。多くなったらそれは極悪非道になります。極悪非道になったら消滅されてしまう羽目になります。この生命は消滅されます。彼を再び生かすことはできません。完全に消滅するのです。人類を保護するために人の業を消してあげるには、人は業力を返すという苦痛に耐えなければなりません。どんな苦痛でしょうか? 天災人禍や疾病に耐えることです。実は、真理を一つお教えしましょう。人は病気に罹らなければ、もし、ある人が一生病気に罹らなければ死後百パーセント地獄に堕ちるのです。人は生きている限り業を造るからです。イエスが言ったように「人には罪がある」のです。人が業ばかり造り、それを返すことがなければ危険です。ですから、人は病気になったり災難に遭ったりします。広範囲の人に業力があるとしたらどうなりますか? 地震や火災また水害、更に疫病や戦争が発生します。

 戦争の話になるとまたこの質問に戻りました。そして、深く話をすると問題が非常に微妙になります。実は私は宇宙の本当の理を言っています。というわけで、これ以上私はもう話したくありません。世の中には偶然なことはありません。私は政治に参与したくもなければ、常人社会に影響を及ぼしたくもありません。私はあなた達修煉者だけに責任を負うのですから、話はここで止めておきましょう。皆さんは自分で分析してほしいのです。

弟子:私たちの煉功場に他の気功流派の人がいつも私たちを邪魔しに来るのですが…。

師:正法を修煉するにはあなたを邪魔する人がいなければ、あなたは修煉して圓満成就することができません。邪魔をする人がいなければ、心性を高める環境もありません。試練に遭わなければ、圓満成就することはできません。こういう理なのです。しかし、これらの妨害に遭うとき、いつも大法を用いてそれを押し返す学習者もいます。自らの問題を認識せず、大法で押し返したのです。あたかも「彼らは私たちの法を破壊しに来た!」と言わんばかりです。「なぜこうなったのか、私たちのどこが良くなかったのか、私自身のどこが良くなかったのか、私たちに何かを悟らせているのか、或いは私たちを試しているのか」と考えず、自分の原因を探そうとしません。実は、外部の人は永遠に法に影響することはできません。このようなことは私たちの学習者を向上させるために現れた可能性が高いのです。ある地区で意見が対立する二組の学習者が争いました。最初、それは向上するための環境であり、自分の間違いを見出す良い機会であると見做すことができなかったので、揉め事が激しくなりました。最後にはまるで常人のような有様になり、少なくともその問題においては常人の境地に堕ちてしまいました。将来また同じような問題が起こるに違いありません。必ず皆さんにこの関門を乗り越えさせなければならず、避けるわけにもいきません。乗り越えなければだめです。修煉というのはまさにこういうことです。どの心も捨てなければいけません。もし私たちが本当に動揺することがなければ、彼は自ら去って行くに違いありません。

 しかし、もう一つの情況があります。私たち人間には業力があります。あなたは修煉したくなったのですが、三界内の多くの生命はまだ正果を得ていません。もし彼があなたに恨みを抱いており、あなたがいずれかの世で彼の恨みを買ったならば、彼は本当に復讐にやって来ます。本当にあなたに修煉させないために、各種の方法を使ってあなたを邪魔するのです。更に奇怪なことを起こしてあなたを脅かします。しかし、あなたは自分を落ち着かせなければなりません。あなたは既に修煉しているのですから何を恐れるというのですか? 正々堂々と修煉してください。ましてあなたが修煉しているのは正法なのです。これらの邪道のものは何度か、かき乱しに来ますが、面白くなくなったら去って行きます。それは何の影響もありません。多くの人がこういったことにぶつかるので、私は『轉法輪』の中でこの問題を取り上げました。

弟子:人の形体と魂が全てなくなるとはどういうことなのでしょうか?

師:これはとても恐ろしいことです。非常に恐ろしいのです! 具体的に言えば、皆さんはその恐ろしさに耐えられません。あまりに恐ろしいのです! 人は一生だけが全てであると思うのですが、実は、人の一生はまるで眠っているかのようで、あなたの本当の自分は大して役に立っていません。肉体から出た時、自分がふんわりと浮き上がり、漂っているように感じます。脳に制御されない時は、自分の思想が全て開放されていることに気付きます。その空間に入ると、時間も常人の空間の時間と異なっているので、あなたは目が覚めたように、突然一生の間に行なったことがありありと目に浮かんでくることに気付き、どんな小さなことでも、つい先ほどしたようにはっきりと見え、大脳がぱっと開放されます。自分が行なった良いことや悪いことの全てを知るようになります。常人の中でしたことは、あなたがしたのではないと言えるでしょうか? もう一度生まれ変わって、また悪いことをしてしまっては、やはりだめです。神は生命を見るとき、その全体を見るのです。一生だけを見るのではありません。ですから、その生命がした全てを償わなければなりません。この理です。ですから、人が悪いことをしたら償わなければなりません。

 消滅されるとなると、それは恐ろしすぎるのです! 形神全滅ということは、どう消滅されると言うのでしょうか? この人の一生にある有形の生命を殺し、消滅するのです。身体を殺すその瞬間、この同じ境地で生存できる元神とあなたの全ての霊体を皆殺しにするのです。殺された後、彼は本当に死んだのではなく、ただこの一層を離れただけです。更にミクロの生命はまだ存在しています。そしてそのミクロの生命も同時にもう一度殺します。一層また一層と殺されていく過程の中で彼は業を償うのです。どう償うのでしょうか? 消滅される苦痛の中で、受ける全ての苦しみや、地獄の中で苦しみを嘗め尽くすのと同じように、赤く焼いた鉄板の上で焼かれるなど、とにかく、全てを苦痛の中で償うのです。それから一層一層で殺されます。殺された後もあなたの生命はまだ終わっているわけではなく、あなたには更にミクロの粒子で構成されている生命がまだあるので、その次元の生命は引き続き苦しみに耐え、再び殺されるのです。そして更にミクロな粒子で構成された身体は引き続き苦痛に耐え、殺され、滅されてしまうのです。その苦痛はこの上なく恐ろしいことなのです!!! 悪いことをしたら死んでしまえばいいと言う人がいますが、そんなに簡単なことでしょうか?! あなたは、自分がした全ての悪いことを償ってからでないと、終わりになりません。それに、その終わりも本当の終わりではなく、あなたは宇宙で比類ない最も汚いところに打ち落とされるのです。人類の痰は神も最も汚いものだと言っています。あなたを一つの痰壺に投げ捨てます。病人の痰はあなたも最も汚いと感じます。しかし、あなたに教えますが、それでも最も汚い最も不潔なところと比べると何倍ましか分かりません。その最も汚い最も不潔なところに放り出すのです。この時はまだわずかな知覚があり、汚さは分かります。それはどんな気持ちなのでしょうか? そこに永遠にいて、永遠に抜け出すことができないのです。これこそ恐ろしいことです! 釈迦牟尼はここまで明かしておらず、地獄については十八層の地獄の様子だけを話しました。一層の地獄は前の一層の地獄より苦しいのです。私は大法を破壊する罪について話したことがあります。十八層の地獄をも超えるものです。皆さんに恐ろしいことを言ってしまいました!

弟子:私は幸運にも先生の著作を翻訳する仕事に参加することができましたが、先生が『轉法輪』の中で言及された「瘋僧掃秦」というのは人名か、それとも典故でしょうか?

師:「瘋僧掃秦」という典故があります。この物語は中国杭州の霊隠寺で起きたことです。南宋の時代、秦檜という奸臣がお寺に香を焚きに行った時、ある僧侶が竹箒で秦檜をひとしきり掃ったのです。つまり、彼が地面を掃いている時に秦檜が寺に入って来て、彼は秦檜をめがけて竹箒で掃い、土をも掃きかけたのです。秦檜は掃きかけられて苛立ちました。彼は宰相なので、この僧侶を捕らえさせようとしましたが、この僧侶は気が狂っていることに気付いたのです。しかし、その僧侶は外見こそ狂っているようですが、実は狂っていなかったのです。実際、彼はとても理性的でした。昔の修煉方法は一風変わっていました。皆さんにはこのような方法をとらせません。皆本当に気が狂ってしまえば、この社会は大変なことになります。ですから、彼も修煉状態によってそうしたのです。秦とは秦檜のことです。つまり岳飛を殺した秦檜です。これは中国古代の修煉に関する一つの逸話です。

弟子:どれくらい経ったら、生まれ変わることができるのでしょうか?

師:死後、どれほどの間向こうの世界にいれば、生まれ変われるのかと聞きたいのですね。少し気を回しすぎですね。それらのことは、輪廻や世間のことを管轄するそれらの神が按排し、人の状況と業力の情況に基づいて行なっているのです。しかし、このような情況があります。かなりの時間が経過してから生まれ変わる人もいれば、待つ時間の短い人もいます。なぜでしょうか? 例えて言えば、我々人類は社会で転生する際、よく集団としてこの世に生まれ変わり、あなたが任意にどこかに転生するのではなく、往々にして一つの集団に属します。この集団は前世において互いに社会的関係を持っていました。来世にもまた社会的関係を持たせます。その集団と余り関係のない人は部外者同然です。この世に生きている人は皆こういう感じを持っています。社会にはあなたと全く関係のない人もいますが、反対に常にあなたと何らかの関係のある人もいるようです。それは恐らくあなたと関わりのある人です。ですから、この集団が生まれ変わる時は往々にして一緒に生まれ変わるのです。しかし、同じところに住むとは限らず、一斉に揃って来るわけでもありません。誰かが先に来たり、誰かがその次に来たりして、年寄りの人もいれば若い人もいます。いずれにしても、このように来るのです。来た後に、お互いの間での前世の借りを今生で返すのです。このような関係です。前世で誰かに利益をもたらしたら、今生であなたはその人から助けられたり、福報を得たりします。こういうことです。これは業力の大きくない人が、生まれ変わる時のいくつかの事情です。業力の大きい人は再び人に生まれ変わることができるとは限りません。植物や動物、最後には物質に生まれ変わり、最後に消滅されることになります。

弟子:他人の業力を引き受けることはできず、例え自分の実の子供でもだめだとおっしゃいましたが、私の二十一歳の子供が不良の道に走っています。私はどうすれば彼に責任感を持たせることができるでしょうか?

師:私は先にあなたの前の質問に答えます。つまり、人は絶対に他人の生活を変えることはできません。自分の一生さえ左右することができないのに、他人の一生を左右することなどなおさらです。人はどんなに努力しても、その生きている人生の路を歩んでいくだけなのです。努力して何か得たようにみえますが、実はそれは必然なのです。努力しなければ得ることもできません。なぜなら、あなたの努力も必然の一部分で、その時になれば必ずそうするのです。しかし、もし子供を教育せず、一人の人間として如何に行動すべきかを教えなければ、それも罪を犯すことになります。子供が良く教育されなかったために悪事を働けば、それによって生じる業力は親にも及びます。しかし、小さい時から教育できない場合は別のことです。全ては既に按排されているのです。それでは、なぜ教育しなければならないのでしょうか? もし教育によって良い人になれば、更に大きな業力を作ることがなくなり、生活の質も違ってきて、もしかすると修煉者になるかもしれません。

 他人の業を肩代わりするということは恐ろしいことです! 自分自身の業力に他人の業力を更に加えると、何日も経たないうちに死んでしまうかもしれません。業力があまりにも大きいからです。人が想像するようなものではありません。私は高い次元のものを教えましたが、皆さんはよく人間の考えを用いてそれを理解しようとします。それではいけません。子供が不良になることについて、親として彼を教育する責任があります。しかし、その子供が既に成年になっているのであれば何も聞き入れないでしょう。子供の頃、厳しくしつけをせず放任したため、大きくなったら彼は必然的に堕落してしまうのです。そうなると教育しにくくなると思います。もし、彼があなたの話に耳を貸すようであれば、善意をもって忠告すればよいのです。彼が苛立って落ち着かない時には言わないほうがいいのです。言ったとしても、言わないのと同じです。それにあなたも腹が立ちます。どうしても手に負えなければ、あなたのせいにするわけにもいきません。しかし昔、良く教育していなかったことにはやはり責任があります。それは確かです。もし、人類の次の世代が今のように発展していけば、親の世代は罪を負うのです。

 もし、人がまだ頭がはっきりして、自分を見つけることができるのであれば、彼が冷静になったときに、本を読ませてみてください。もし読むことができれば、まだどうにかなるかもしれません。以前罪を犯して、私たちの大法の中で修煉して良くなった人がいます。また麻薬を吸っていた人が、私たちのところで煉功したら麻薬を吸いたいという気持ちがなくなりました。しかし言っておきますが、麻薬を止めさせるために麻薬中毒の人をここに連れて来ることは絶対にしないでください。それは大法を破壊することになります。私たちは人にそのようなことをしてあげるためにやっているのではありません。人が自ら良くないことをしてしまった以上、彼はその報いを受けなければなりません。ここで皆さんに伝えたいことは、大法の威力は無限ですが、しかし、それは人を修煉させるためにほかなりません。本当に修煉するには、このような汚れた身体と考えがあってはだめなので、浄化してあげるわけです。つまり、あなたは身体が良くなったり病気がなくなったりしたように感じます。或いは、悪い習慣が取り除かれるといった効果があります。全て修煉のためにしてあげたことです。人の病気や麻薬中毒の治療のためにするわけではありません。

弟子:世界の万物に生命があるとおっしゃいました。自分の前世の行ないを思い出せる人がいますが、なぜ自分が植物や動物になったことを思い起こす人は少ないのでしょうか?

師:それはあなたが聞いたことがないだけで、ないとは言えません。実はたくさんあります。前世の事を憶えている人は脳がきれいに洗われていなかったからです。転生の時、脳がきちんと洗われていなかったか、或いは記憶の部分に鍵がしっかりかけられていなかったのです。少しでも残っていたら前世のことを憶えているのです。植物に関しては、私が以前中国で講習会を開いた時、十日間の勉強と修煉を通して学習者たちは感想文を書いて私に見せてくれました。多くの人がこのような事を話しました。自分がどんな植物から生まれ変わったのかを知っていました。しかし、皆さんに教えますが、それも彼の本当の生命の形象ではなく、ある一世の形象にすぎません。彼はいったいなんでしょうか? 輪廻して生まれ変わる時、いろいろなものに生まれ変わるのです。あなたの元神が何であるか、それこそがあなたの真実の形象です。

弟子:神父と修道女たちに広く『轉法輪』を紹介してもよろしいでしょうか?

師:実は、私は彼らを全て常人と見做しています。彼らは真に修煉し圓満成就して、はじめて神になるのです。彼らはまだ人間で、普通の人なのです。ただ仕事が違うだけです。私はそのようにみています。しかし、何といっても、彼らの仕事は修煉と関わりがあるので、彼らには宗教という障碍があります。彼らはもとの宗教を固守し、自分の宗教を手放せません。それが彼らにとって大法を得る上での最大の障碍です。しかも、法を彼らに伝える方法もありません。こんなに大きな宇宙の法に対して、彼らの心が動かなければ、もう相手にしなくていいのです。彼らにはもう一つの最大の障碍があります。それは彼らが本さえも読まないことです。これこそ厄介なことです。これが彼らの最大の障碍です。この障碍を取り除く方法があるでしょうか? 彼らに言ってみるしかありません。耳を傾けてくれればいいのですが、聞いてくれなかったら仕方ありません。

弟子:動物は天国に行くことができないので、天国には動物がいないはずですが、この結論は正しいでしょうか?

師:私は人為的に何かをしようとしているのではなく、宇宙の理とその真実の情況を話しているのです。ですから、あなたは意識をはっきりさせなければなりません。動物は絶対に天国へ行くことはできません。天国へ行くためには、人に生まれ変わらなければなりません。それから修煉してはじめて天国に行くことができるのです。人も修煉しなければ、天国に行くことはできません。それでは天国世界に動物はいるのでしょうか? います。皆おとなしく優しいのです。象、ライオン、龍、鳳もいます。人類社会の動物とは比べられません。東方で信奉されている龍のように、彼らは神です。その他の生物や動物もいますが、そのほとんどはその次元の空間で生まれたのです。法がその次元の高級生命の環境を繁栄させるため、その次元の生命のために創造したのです。地上から上がって行ったものもありますが、修煉して行ったわけではありません。動物のいる佛陀の世界もあります。どのようにして上がって行ったのでしょうか? 別の方法で行ったのです。佛に済度されて行ったものもありますが、地上にいた時、動物だったとは限らず、人間だったかもしれません。これについての話はここまでにしましょう。これからは神のことなどを考えないでください。実際あなたの修煉とは何の関係もありません。修煉してあなたの良くない思想を取り除くことに励んで超常の人になり、自分を更に良い人に変え、最後に神の基準に達しなければなりません。

弟子:主元神はどの空間にいますか? 彼は同時に各空間の身体を支配しているのでしょうか?

師:そうです。しかし、完全にそうだとも言えません。彼は迷いの中で、常人社会に惑わされた部分が役割を果たすことができないからです。

 今回の法会は非常に成功したと思います。皆さんが体験談を発表していた時、私はほとんど上で聞いていました。私は今回、ヨーロッパの白人の学習者が非常に速く進歩していると感じました。法に対する理解も非常に深いのです。これは今までになかったことで、非常に素晴らしいのです。つまり今回の法会は、非常に圓満で達成すべき目的を達成しました。この度の法会を通して、少なくとも学習者の間に法を学ぼうとする強い動きを作り出すに違いありません。皆さんはもっとこの法を大切にすると同時に、更に多くの人に法を教え、法を広めてください。皆さんはますますこの法の大切さが分かってきています。絶えず修煉して向上していく中で、各次元の法理が分かり、この法がどういったものか分かったからです。この法は学べば学ぶほどその貴重さが分かってくるのです。ですから、皆さんを最も速く向上させることができるのは、本を多く読むことです。本を多く読めば、最も速く向上できます。

 初めから終わりまで、全ての学習者はここで本当に真剣に聞き、自分の情況と照らし合わせて考えています。これはとてもいいことです。今回の法会を通して、近いうちに皆さんがより速く向上し、この大法の力、法会の力によってもっと速く向上していくことを期待しています。次に皆さんにお会いする時、必ずもっと大きな進歩、変化を遂げているに違いありません。これは言わなくても分かることで、間違いなくこのようになります。どんどん進歩していき、更に圓満成就に近づくに違いありません。

 私はもうたくさん話しました。そろそろ終わりにしましょう。特に古くからの学習者は、既にどうすれば良いのか分かっています。皆さんが法の学習と仕事との関係、更には常人の中での他のこととの関係を正しく扱い、正々堂々と修煉して一日も早く圓満成就することを願っています。

 



      
  
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