シンガポール法会での説法

李 洪 志

一九九八年八月二十二、二十三日


 学習者の皆さん、こんにちは!(拍手、先生、こんにちは)

 ここに座っているのは、シンガポールの学習者もいれば、遠路はるばるやって来た中国および他のいろいろな国や地方の学習者も大勢いることをわたしは知っています。今回の法会の目的は、交流を通じて互いの違いを見つけ、皆一緒に速く次元を高められるように、総じて言えばこういう目的です。ところが、われわれ大勢の学習者が長い間の修煉によって法に対する理解をますます深め、各自の体得したこともたくさんあり、各方面においての自分の体験もますます多くなり、そこで大勢の学習者がわたしに会いたいと思いはじめました。あなた方のうち多くの学習者は当初わたしが中国で行なった講習会に参加したこともなく、独学でやっている人達です。それで、わたしに会いたいという、はやる気持ちが起こります。わたしも皆さんの気持ちは分かります。そこで皆さんが来ました。まだ大勢の人もこのような考えを持ち、同じように来たいのです。あなた方の気持ちをわたしはよく理解できますが、わたしが考えたことは、わたしが自ら法を伝えた当時、法を伝えることが何よりも重要だったのです。

 現在では、法はすでに伝え出されており、本も社会に広く伝わっており、われわれ学習者はみな本を持っています。つまりあなた方は法を学ぶことができ、修煉することができます。当時わたしが法を伝え、自ら講習会を開いていたことと同じ効果があり、何一つ欠けていません。それでは今現在、あなた方の修煉が如何に安定した環境を持ち、あなた方が如何に速く向上するかということが、最も重要なことになってきました。皆さんは法の学習と、修煉を通じて、このことも分かるようになりました。師があなた方を見守っていて、あなた方に責任を負うことを皆さんも知っています。ですから、あなた方の向上も全て系統的に手配されており、一人一人にみな一つの系統的な修煉の道があります。皆さんがわたしに会いたいという心に揺れ動き、心が安んじて修煉することができず、あるいはあっちこっちにわたしを探しに行くようでは、あなた方の修煉の順序に影響します。法は既に伝え出されましたが、皆さん、考えたことがありますか? あなた方の向上、あなた方の修煉、これこそ最も重要なことです。もしあなた方が向上できず、修煉できなければ、わたしが伝えているこの法もゼロに等しいのです。

 あなた方の修煉ということが一番大切なことである以上、如何なることもそれを邪魔してはいけません。わたしがただ皆さんに言いたいのは、修煉においては、心を落ち着かせて修煉し、如何なる種類の常人の心も自分に影響させてはいけないということです。もしあなた方が本当に修煉のため、自分の境地を高め、他人との違いを見つけるため、あるいはシンガポールの学習者の修煉状況を観察し、彼らの体験談を聞き、如何に自分を向上させるのか、という具合に、あなた方が皆考えているのならば、わたしはそれをとても嬉しく思います。もちろん、皆さんが先生に会いたいということが間違っている訳ではありませんが、ただあなた方のその人間としての情をあまり重くしてはいけません。いずれにせよこの常人としての心を捨てなければなりません。さもなければ、あなた達は常人の情、常人の心を以ってわたしに対し、常人の考えを以って大法を扱うことになってしまっては、あなた方の向上に厳重な障害をもたらしますから、皆さんこの問題にはくれぐれも注意してください。

 ここにいる多くの人にとってここに来ることも容易なことではありません。仕事がとても忙しいのに、時間をさいてわざわざシンガポールにやって来た人もいれば、いろいろなケースがあります。もうここに来た以上、皆さんも心を落ち着かせ、シンガポールの学習者がどのように修煉しているのか、どうやって向上しているのかを聞いてください。他のところからの学習者にとって今回の会議をよい経験を学ぶ機会としてください。

 本来わたしも皆さんの体験談を聞くために今回の法会に参加しました。しかし、なんと言ってもわれわれの多くの学習者が多くの問題に対して依然まだ分かっていないことがあります。なぜかというと、大法が世間に伝えられているので、必ず絶えず新しい学習者、新しい弟子が入門して来ますから、彼らは必ずこれやあれやといった問題を持っています。実はどんな問題でもみな本の中に答えを見つけることができるのです。しかし、われわれの一部の学習者はやはり安心できず、どうしても聞きたいと思っていますから、わたしは皆さんにこの様な機会を作りました。会議は二日間あります。わたしは今日余り多くの話しはせず、主に皆さんの体験談を聞きます。明日の午後ずっとわたしは皆さんからの質問に解答します。皆さんはできるだけ修煉に関する質問を多く提出してください。わたしは皆さんのために解答します。会議は全部合せて二日間ですが、半日の時間があれば十分足りると思います。われわれの学習者はまた体験談や他の事を予定していますから、われわれはできるだけ今回の法会を圓満に終わらせるようにしたいと思います。この様な大型の会議はシンガポールでは初めてのことです。しかも外地からこんなに多くの学習者がやって来て、いろいろな方面の配置も容易なことではないのです。わたしが皆さんに多くのことを話さなくても、皆さんはどうすればよいか分かっており、しかもうまくできることを確信しています。

 これからわたしは皆さんにわれわれの大法の全体の情勢について話します。以前わたしが中国で法を伝えた時、中国はまさに改革開放の時期でした。わたしの感じでは、人々の心は経済発展という状態に向かっており、ちょうどこういう時、わたしはこの大法を伝え始めました。多くの人が長期にわたって形成された観念の影響で、大法に対する理解にあたって一つの過程を通過しなければなりませんでした。しばらく大法を学んだ後、彼らはやっとわたしが話したものが理解できるようになりました。後になって、特に最近わたしは新しい学習者には後の者が先になる感があることに気付きました。彼らは認識の感性に何の障害もなく、すぐ受け入れ、直ちに修煉に加わり、まったく認識するという過程がありません。わたしが学べるかどうか、 勉強しようかどうか、あるいはあなたが述べている道理が正しいかどうかと言うものがありません。つまり、われわれのこれらの学習者は後から法を得たにもかかわらず、取り残されず、自分の努力で速やかに追いついて来られました。

 わたしの感じでは、全般的に大法の情勢を見れば、大法に対する認識が、ますます深まり、法に対する理解もますます深くなり、大法がいったいどういうものかを本当に理解することができました。当初の人としての感情、人間の考えを以って大法に対処したのとは大きく変わり、確かに大きく変わって、当初とは全く違いました。というのはつまり、あなた方はみな本当に大法の中で修煉しており、常人の情で、常人としての恩に感じ徳をたたえることで、常人としてのいろいろな観念でこの大法を考え、法を量ることはなく、そういったことはますます少なくなりました。つまり、われわれの法は常人の社会の中でこの部分がますます純正になっています。

 法に圓融するというのはどういうことなのでしょうか? われわれの多くの修煉者はまだ分からないかも知れません。こんな偉大な大法は、われわれを済度できる、われわれを異なる次元まで、異なる境地にまで修煉させていける、われわれを圓満成就までさせることができるのに、なぜ人を法に圓融させる必要があるのでしょうか? 実は、皆さんも考え付いたかも知れませんが、常人社会もこの果てしのない宇宙大法の常人という最低次元における具体的な現われです。常人社会の全ての表現形式も、この法によって与えられ、創造されたものです。一人の修煉している人としてわれわれはこのような環境を利用して修煉します。そうなると、違う次元から見れば皆この常人社会は良くないと思っていますが、それにしてもそれはそれでやはり法が創造した一つの次元、一つの境地です。それではわれわれは修煉の中で如何にこの次元から飛び出すか、如何に常人社会の中の行為と観念から抜け出すかをはっきりさせると、これらの障害を突破することができて、上に昇華することができます。これはあなた方が修煉にあたって必ず成し遂げなければならないことです。

 もしあなたが常人のものを捨てなければ、あなたの修煉を厳重に妨げるかも知れません。しかし、現在、道徳的堕落、人類の道徳観念の滑落はすでに法がこの一層の衆生に創り与えたこと一切に変化を起こしました。そうなると、人間は常人の社会にまだ何かの真理基準が存在していることを知るべくもありません。この基準がなければ、人間が敢えてなんでもやる、何でもやってしまい、何も恐れません。これによってまたさらに社会の道徳、観念をますます堕落させます。常人の社会に現われてくるのはいろいろな良くない現象とさまざまな犯罪です。

 あなた方が法に圓融することはまず良い人になることです。皆さんが良い人間になろうとする時、すでに法に圓融しています。しかし、あなた方はなんと言っても常人の中で修煉していますから、これの一切を超えなければなりません。あなた方自身が如何に確実に法を理解して、法の中で修煉し、正々堂々と正真正銘の修煉者になることこそ皆さんが法に圓融していることで、言い換えれば、あなたも大法を守っています。なぜかと言うと、一人一人の学習者の常人社会においての表れは、みな法輪大法のイメージを代表しています。こういうことではないでしょうか。もしもわれわれが皆最善を尽くさなければ、きっと大法に泥を塗ることになります。同時にわれわれが法に圓融しているとは言えません。「われわれは大法を擁護する、法を守らなければならない。他人がわれわれに悪口を言ったから、われわれはどういうふうに対応しなければならない」と言う人がいます。特にわれわれの大法を誹謗する、あるいはわれわれに対して不公平であった時、われわれの多くの人は往々にして憤りのために心が穏やかでなく、相手に対して何かの手段を取りたいと思っています。彼はわれわれに良くないことをするから、われわれも同じように彼を扱います。これではわれわれも彼と同じような常人になってしまいます。

 皆さんに教えます。実際、大法を守るのは暴力ではありません。善と悪の両面がともに人間そのものに同時に存在しています。われわれは悪の一面を排除して、ただ善の一面を以って法を守ります。他の人がわれわれを良くないと言ったら、私たちは私たちがどのように良いかを理解してもらうことはやってもよいのです。心から善意をもってその人に道理を説きます。常人がいつも何かの問題に遭遇した時、すぐ何かの負の一面の方法を取る傾向があって、何かの過激な行動を取るとか、あるいは何かの暴力を振るいます。われわれにとってこれらはみなだめです。わたしはいつも言いますが、もし一人の人がまったく自分の如何なる観念を持たず、自分の利益の立場に立たず、それを出発点とせず、本心から他人のため、相手に彼の足りないところを話し、あるいは相手に正しいことを教えるならば、相手はきっと感動し涙を流します。

 この善の力はとても大きいものです。ただ常人社会の人は常々他人に良いことを教える時も自分の観念を持ち、ひいては自分の損失を恐れ、自分を守ろうとする心理を持っています。いろいろなものが入り混じっているので、その話すことは、聞き手にとって面白くなく、話の純正さもなくなり、その上往々にして言っている本人の感情も混じっています。あなたが本当に善心から、まったく自分という観念がその中に入り混じっていなければ、その話しは人を感動させることができます。

 わたしがここで話すのは、われわれが如何に常人の社会で法に圓融するか、如何にこの法が傷つかず済むかと言うことです。われわれの多くの人が一部の社会の中でさまざまな政府部門にわれわれの道理を説明しました。これは良いことです。彼らがもし聞き入れれば、彼らも良い人間になれます。心配するのは彼らが聞かないことです。彼らは本当にわれわれの大法を調べたいならば、本を読み、法を学び、本当に調べさえすれば、いったいわれわれがどういう事をしているのか分かるはずです。われわれに良くない話をする人は往々にしてまだわれわれのことが分かっておらず、われわれのことを知らない人です。われわれは全てを公開しており、如何なる隠し立てもせず、われわれの歩む道はたいへん正しいものです。わたしがいつも言うように、まさにわれわれの歩む道はたいへん正しいのですから、常人社会の中で全ての不正なもの、あまり良くないもの、ひいてはあまり完全と言えないものは、皆われわれのことが彼の障害であると思っています。われわれはあまりにも良いので、それに比べることによって一部のものはその欠けているところが現われて来て、われわれに良くない働きかけをするかも知れません。これも当然なことです。もし正しいものが伝え出されて、誰にも反対されなければ、それは邪なものであるかも知れません。(拍手)

 他方から言えば、われわれの大法が常人社会の中で伝えられており、われわれのことを分からない人や政府機関からの勝手な攻撃を受けています。われわれのことに勝手に定義をつけたり、われわれに対して何かのひどい手段をとったりしています。わたしは、これらの問題にあたってわれわれも自分の方に原因を探すべきだと考えます。どうしてこのようなことが起るのだろうか、われわれ自身あるいはわれわれの指導所、煉功場、またはわれわれの一部学習者がやっていることに至らないところがあるのではないか?如何なる事にあたる時も自分自身の問題として考えることができるならば、その人はとても素晴らしい人で、圓満成就まで辿る道にあなたを妨げる障害はありません。誰でも何かのことに出会った時いつでも外へ向かって探します。「あなたはなぜわたしにこのようなことをしたのか?」 心の中に不平を抱き、自分の問題を考えません。これは全ての生命にとって、一つの最大かつ致命的な障害です。いままで修煉しても向上できない、どうやって修煉して向上できるのかと悩んでいる人がいました。誰にしてもトラブルに遭遇する時自分のことについて反省しないことが最大の妨げなのです。自分が苦痛を受け、たいへん不幸な目にあったのに、さらに自ら反省して、自分のどこが間違っていたのかを探す、そこまでできるのは本当に難しいことです。誰かがそこまでできたら、この道、この修煉の道において、そしてあなたの永遠の生命において、あなたを妨げるものはありません。これは本当のことです。みんなそれぞれの考えを持っており、道理を前にして、自分がまだ関門を通れないと分かる時がありますが、何と言っても自分の心の中で分かっており、どっちが正しくてどっちが間違いなのかを知っています。一回目でうまくできず、二回目もうまくできなくても、それ以後うまくできます。肝心なのは如何に自分のことを理解するか、如何に正確に自分に向かって、自分の原因を探すかということです。

 以前、われわれの多くの学習者が外部の人との間にトラブルが起った時、あるいは社会の中の人や、社会の中の何かの政府部門がわれわれに対して不公平な扱いをとる時、自分の原因を探さず、みな他の面を強調しました。一部のものは本当に悪くて、わざと破壊してきますが、皆さん考えたことがありますか。それは良くないことで、魔の表現ですが、それの現われは偶然でしょうか。それの悪い面を利用してわれわれ自分の良くない面を発現させることではありませんか。わたしがいつも話しているように、二人の間にもめごとが起った時にはお互いに自分の問題を探さなければなりません。しかもトラブルが起った当事者双方が自分の問題を探すべきだというだけではなく、この問題に出会った傍観者さえ自分のことを自省すべきです。そこまでできればその人の向上がすさまじい勢いで前進することは間違いありません。

 皆さんのご存知のように、われわれの生命は異なった次元のミクロ物質によって構成されています。かなり深いミクロ世界の物質もあります。われわれの修煉は極めてミクロな状態の下で、言い換えればあなたの生命の本源においてあなたを変えます。絶えず変えていて、そして表面に向かって突破して行き、絶えず表面へと突破して行き、絶えず表面へあなたを変えていきます。一旦表面に到達したらもう全て変ってしまい、あなたは圓満成就に至ります。われわれはこの様な道を歩んでいます。そのため表面がまだ法に同化されることになる前、あなたには異なる常人の行為、常人の考え、常人としてのやり方が依然残っています。これは間違いのないことです。

 「先生、私もこれほど長く修煉しており、自分も法に対する認識が時には一般の新しい学習者のような状態ではないと感じたのに、どうして頭の中に依然よくない考えが浮かぶのですか?」とわたしに話した学習者がいます。このことはここに座っている全員が思い付いた問題です。皆さんに言っておきましょう。あなた方の修煉過程において生命の最も本源のところからあなた方を変えています。その変化が最も外側の表面に到達する前は、必ず常人としての考えがずっと存在しています。それには何かの良いことと悪いことがあるでしょうか? 良いことと言えば、あなたが常人の中でこの修煉環境を保つことができ、それこそあなたが絶えず自分を高め、より速く向上することができます。一方その良くないことと言うと、どうしても自分がいったいどの境地にいるか感じ取ることができません。ある時、あなたの修煉が非常に良く、法に対する理解もとても良く、本の内容も暗記できた時、つまりこういう境地において基準に符合した途端、直ちにあなたを隔離し、あなたの修煉してまだ出来上がっていない部分と隔離してあげます。この時、あなたは突然自分がなぜ法に対する理解がまた駄目になったのか、自分の考えはなぜ再び汚くなったのかと感じます。この様なことが感じられるでしょう。

 人は常人の中に身を置きながら修煉していますから、修煉して出来上がった部分は、もう既に正々堂々たる神なのです。そうであれば、神は常人と同じように常人社会の中で行為する訳にはいかず、それは絶対に許されないことで、ひとたびやってしまえば落ちて来ます。あなたが常人社会の中で修煉することができると同時に、落ちてこないことを保証するために、あなたが基準に合うことになったら直ちに隔離します。修煉して出来上がった部分は永遠にそこにじっと座ったまま身動きもせず、如何なる思惟もなく、如何なる人間としての行為にも関与しません。これによってあなたが下へ落ちないことを保証します。あなたが絶えず修煉を積み重ねれば、絶えず向上します。わたしはここでもう一つの道理について話しました。それはつまり修煉の過程においてあなたが絶えずミクロの方から自分を変えており、ずっと表面まで突破していきます。表面まで完全に同化されれば、あなたは圓満成就に至ります。

 ですから、修煉の過程において圓満成就になる前に皆さんは必ず常人としての考え、常人としての表現を持っています。しかも一つのことに気付くでしょう。それはつまり自分の考えはますます汚くなるということです。いったいどういう原因でしょうか? たくさんの良くないものには根元があります。ただ最大の一層での粒子の中に存在するだけではなく、全ての異なる粒子の中にも存在しています。それでは皆さん考えてください。われわれは修煉にあたって絶えず表面へ向かって突破して行くにつれて、あなたのミクロの粒子の中に存在している良くないものが、絶えず取り除かれ、さらに取り除かれ、取除かれて、残っているのは最も表面のものです。最も表面のものはつまり最も良くないものです。しかし、最も良くないものですけれども、一番弱いものです。つまりあなたが修煉の時自分を制御することができれば、簡単にそれらの良くないものを抑えることができます。そして修煉によって思惟の中のあらゆる観念を含めて悪いものを消滅します。

 わたしが述べているこの道理を皆さんも理解したかも知れません。ああ、なるほど、人の修煉にあたっては始めから終わりまでずっと良くない考えが存在しているから、これからそれをそのままにしておいても、別に心配することもなく、何かを考えたければそのまま考えても良いと思う人がいるかも知れません。それはいけません! 何故かと言うと、あなたはなんと言っても修煉している人であり、表面において自ら自分を制御しなければ、修煉していないことと変わらないことになるという関係があるからです。わたしはわれわれの学習者全体の修煉状態について話し、同時に一部の問題にも触れました。

 まだもう一つのことがあります。われわれの大法は常人社会の中で伝えられていますが、なぜこの様な形式を取っているのでしょうか。皆さんもご存知のように、われわれの管理は緩やかであり、「張某」や「李某」などと書いた会員名簿もまったくありません。あなたは誰だとか、年齢はいくつだとか、どこに住むとか、こういったものが何もありません。あなたが修煉しさえすれば、わたしは見守ってあげます。修煉のものはこの常人社会の空間には反映されないから、表面的な形式はあくまで一つの形式に過ぎず何の役にも立ちません。あなたが修煉しなければ、名前の登録は員数をそろえることに過ぎず、修煉ではありません。ですからわれわれは完全に常人のあらゆる表現形式を捨てます。

 われわれは人の心だけを重視し、修煉するのであれば、わたしはあなたを見守ります。修煉しさえすれば、あなたはわれわれの学習者になります。煉功にあたって、指導を担当する人が皆さんを集めて法を勉強します。まさにこれぐらいのことだけです。われわれには常人社会のような如何なる行政的組織機構もなく、お金を貯めることもなければ、ものを貯めることもありません。皆さんもみな自費でここに来ましたし、わたし李洪志もあなたから一銭のお金も求めません。われわれがやっていることもボランティアで、みんな無償で他人のために良いことをしており、われわれは全てについて管理は緩やかです。

 わたしはなぜこのようにするのでしょうか? 皆さんに教えます。実は今日わたしが伝えている法はとてつもなく大きなもので、それはあなたを修煉によって異なる境地、異なる次元まで到達させることができますから、これは単なる小さいことではありません。こんなに大きな法が伝え出されて、それが人を変えることができず、人の心を向上させることができなければ、伝わっても伝わらなくても何の意味もありません。これは宇宙の真理、宇宙の法であることをわたしが分かっています。それは必ず修煉者の中で相当強烈な役割を果たせます。そのため、われわれの一人一人がみんなどういうふうにするべきかを知っていますから、あなた方にどうすべきかを教える必要もありません。

 釈迦牟尼如来が法を伝えた当時、百あまりの戒律を設けました。一説によれば、現在の大乗佛教には二百あまりの戒律があります。いずれの目的も必ずこの基準に符合しなければならないと人を制限し、そのようにやり遂げることができて、はじめて成功します。今日のわれわれには何の戒律もなく、完全に開放的で、あらゆる形式を重んぜず、人の心だけを見ます。それはわれわれの大法がそういう威力を持っているからです。更に別の角度から言えば、常人社会のあらゆる表現形式がこの大法に相応しくないから、われわれは本当に大法の伝播に相応しい形式を取りました。どういう形式なのでしょうか? それはほかでもなく「大道無形」です。(拍手) われわれは本当に一つの「大道無形」の道を歩んでおり、これこそ本当にこの大法に相応しいのです。ですから、わたしが自ら法を伝えた当時から今日までずっとこのようにして来ました。

 外見的に唯一見えるのは皆さんが本を読んでいることとみんな一緒に煉功していることだけです。それにしても全て完全に自由意志で、緩やかで、参加したければ参加し、参加したくなければそれでも良いのです。これがとても良いと思います。全ての有形のものは人の心を変えることができません。ある人が学びたくないのに、無理やり連れて来ても、彼が学べるはずもなく、理解できないだけではなく、逆に勝手気ままに論じたりして、内部で破壊の働きをするかも知れません。われわれが今日歩んでいる道がまさに正しいから、一切の不正のものは、われわれのことを実に目障りだとするかも知れません。それは彼らの欠点、弱点が全部残らず明かされたからです。

 以前、常人社会の中、特に中国では、気功が多種多様で相当多くあります。われわれの大法が伝え出されてから、特に最近の何年間か、多くの偽気功が鳴りをひそめ姿を消しました。何故でしょうか? われわれの正しい法が伝え出されると、これらの邪なもの、悪いもの、偽物などが完全に暴露され、白日の下に晒されます。( 拍手 ) もちろん自然に鳴りをひそめ姿を消します。他の功法を習った人の多くは次から次へと大法を学びに来ます。われわれは他人を引っ張って来ません。みなこれらの人達が法を認識でき、良いものだと分かり、それが正しい道だと分かるので、学びに来るのです。

 別の一面に関して皆さん考えたことがありますか。一つの正法が伝え出されると、人を異なる次元まで修煉させることができます。そこで一つの問題があります。それはあなたがどのような法によって修煉して向上してきたのかということです。これは極めて重要な問題です。もしこの法が正しくなければ、あなたが修煉しても自然に向上することはできません。もしこの法にそれほど大きな威徳がなければ、つまりそれはそれほど大きな法でなければ、あなたもそんな高い次元まで修煉して上がることができません。もしこの法がそんなに大きくなければ、そんなに良くなければ、本当にあなたをあの次元まで昇らせたとしたら、それは宇宙全体を乱すことに等しいのです。あなたが上に上がっても、自分がそこにとどまるのは相応しくないと自分でも感じるはずです。あんな偉大な覚者、その形容のしようのない威徳を見て、あなたも自分はどうやって上がってきたのかと疑います。ここにとどまる資格がないと思い、自ら下へ降りていきます。では常人の社会で、われわれの大法に魔難がもたらされましたが、われわれは逆にそれを利用してわれわれの法に圓融し、法の威徳を打ち立てます。常人社会の中で大法に反対する如何なる表現形式に対しても、われわれはみな相手と同じやり方ではやり返しません。われわれはあくまで善の一面を以って、円満に全てのことを解決します。われわれは法に対するいろいろの試練に耐えたからこそ、われわれの法が自分の威徳を建てたのではありませんか? 歩む道が正しければ正しいほど、この法はますます偉大になり、あなた方がこの法の中で修煉しているから、ますます素晴らしくなるのです。このようなことではありませんか? その通りです。ですから、あらゆる問題に出会う時、正と反の両方を見るべきで、自分自身から、われわれの内部から原因を探し、如何なる事情に遇おうとも、われわれ自身の内部に原因を探し、足りないところを捜し出すべきです。

 わたしはよく次の道理を話しています。厄介なことに遭遇した人が、その煩わしいことの中で、なぜ他人が私に対してこんなひどいことをしたのか、なぜうまく行かないのかと呟いています。皆さんにその本当のことを教えます。他人があなたに無理なことをするのではなく、宇宙の法は非常に筋道が通っているのです。自分がこじれると、まわりの全てが自分に合わなくなると気付きます。あなたは自分の原因を探し出し、順応してきたら、その全てが再び正常になると気付くでしょう。往々にしてこういうことです。

 さらにもう一つの面では、われわれはさまざまな多くの困難と不足を克服したので、われわれの法がたどる道のりはますます正しくなり、そのため情勢がますます良くなる一方です。いま大法を学ぶ人はすでに相当多くなり、中国の国内と国外の学習者を合せて一億人を超える程たくさんいます。しかもわれわれの大法弟子には一つの鮮明な特徴があります。それは一旦修煉すると、この真理を理解し、最後まで修煉します。これは修煉において非常に貴ぶべきことです。これは歴史上のあらゆる学説、如何なる修煉とも違います。こんなに大勢の人が学んでおり、修煉しており、もう既に社会の一つの現実になっているので、それを認めなくてはいけません。こんなに多くの人が良い人になりたいと思い、その上われわれには如何なる悪いものもありませんから、情勢がますます良くなるだけだと思っています。

 中国では、法輪功は以前「中国気功科学研究会」に属する一つの分会でした。しかし、気功科学研究会は科学の研究もしなければ、気功功法の研究もしませんし、さらに気功そのものに対する認識もなく、ただ金儲けをするばかりです。いろいろな気功流派を利用して、金を儲けていますから、われわれは1996年3月に脱退しました。( 拍手 ) 脱退した後、彼らもわれわれを攻撃しましたが、われわれは一切かまわないし、相手にもしませんでした。このことについてここでは話しません。要するに、われわれは自分の道を歩み、本当の修煉する人が歩むべき道を歩みます。社会に責任を負わなければならず、同時に修煉弟子に対しても責任を負わなければなりません。

 わたしの考えでは、こんなに多くの大衆、多くの人、しかもみんな社会にとって良いことをもたらす良い人間であり、わたし李洪志を含め、みんな自分が何か得ようという考えはありません。政府に迷惑をかけないように、わたしは外国へ移住しました。 ( 拍手 )こんなに多くの人が修煉しており、良い人になることを成し遂げており、この一億人あまりの人を政府に対立させることは誰にもできないことです。このことについて皆さんにはっきりと言えます。ところで、われわれはどんなことをしても、自分の道を正しく歩むべきです。そもそもあまり多くのことを話すつもりはありません。ただ皆さんに大法の情勢、そして如何に修煉するか、修煉の過程で法に対する認識などのことを話したいだけです。それと同時に修煉のことについても触れました。

 ここでついでにもう一つのことに関して話したいと思います。それは多くの人が場所をかまわずに写真を撮りました。わたしはこの「写真を撮る」ことについて話したいと思います。以前皆さんがなかなかわたしに会えなくて、どうしてもわたしの写真を撮りたいとか、先生と一緒に写真を撮りたいと思っています。もしあなたが本当に修煉の心によるものであれば、わたしは反対しません。逆にあなたが常人としての心を抱いているのならば、わたしは大変悲しく思います。もう一つ、皆さんが写真を撮る時、場所を問わず、イメージが良くない写真をたくさん撮りました。このようなことはわれわれにとって良いことは一つもありません。あなたはなんと言ってもわたしの弟子ですから、先生をあんなふうに撮ったのはいけないことではありませんか? 皆さん、今回の会議が終わって、自分の国に帰って各国の学習者に話し、あなた方が撮った良くない写真を一つ残らず全部燃やしてください。 ( 拍手 ) 写真のネガも一緒に燃やしてください。あなた方が本当に写真を撮りたければ、わたしがその機会を与えます。( 拍手 ) わたしの話はこれくらいにします。明日の午後、皆さんからの質問に解答します。

 質問に解答する時、皆さんが提出する紙にはあまり多くの字を書かないで下さい。字が多ければ、読む時に非常に面倒で、時間を無駄にするからです。質問の前に「先生、私が如何にあなたに会いたいとか、先生、あなたが話したことはたいへん素晴らしい、私はまだどんな質問があります」というような飾り言葉を書かないで下さい。飾ることなく、「先生、わたしにはこれこれの問題があります。何々です」のように問題を直接持ち出してください。わたしは直接それに解答します。簡潔で、わたしが読みやすく、時間を無駄にしませんし、解答するのも速いのです。それでは、これからわたしも皆さんと一緒に学習者の体験談を聞きます。( 拍手 )

 今日の午後、わたしは皆さんに法についての質問に答えます。質問があれば、紙に書いて提出してください。それでは、これから質問に解答します。


弟子:法会で録画、録音した講法のテープを中国国内に送ってもよいですか?
師:原則として問題ありません。しかし、あなた方はどうしても何かを伝えようとしています。その心を放下し、正々堂々と修煉すべきです。なぜこんなにたくさんの歓喜心、執着心があるのですか? こんなものが残っていたら、あなたは圓満成就することができるのですか? 自分で見るならかまいませんが、複製することはいけません。

弟子:先生は「根を掘る」という経文の中で、「わたしがあなた方に人と決別しようと言っても、あなた方はわたしについて来ません。このような機会は二度とありません」とおっしゃいました。もしこんな機会を失ったら、到達すべき次元に影響しますか?
師:重大な試練に直面する時が、われわれの学習者にとって根本における一つの最大の試練です。もちろんこの中には、いろいろな面が含まれており、このようなただ一つ形式だけではありません。人間の中から抜け出すことができるかどうかということは圓満成就できるかどうかの最も重要な一歩であり、必ず歩かなければならない一歩です。われわれの学習者はきっとあれやこれやさまざまな試練を受けます。チャンスを逃したら圓満成就できないでしょうか? チャンスはまだあるかも知れませんが、もう一回チャンスにめぐりあえることはとても難しいと思います。何故かというと、いろんな機縁がめぐり合って、はじめてようやくこのような機会が生じます。実は、あなたは如何に修しても、正念場で、依然だめなのです。言い換えればこういう意味です。わたしはあなたがだめだというからだめなのではなく、あなた自身がだめだということです。「先生、わたしはどんな難関でも切り抜けますから、どんどん試練を与えてください。わたしは速く上へ修煉して行きます」と思っている人がいます。しかし肝心な時になると、あなたはやはりだめです。口で言うほど簡単なことではなく、実際の修煉の中であなたがどのように対応するのかを見ます。

弟子:先生、「真、善、忍」が異なった次元において生み出した他の法理についてさらに話して頂くことはできますか?
師:それはだめです。どうしていけないことなのでしょうか? それは天理は絶対に人に話してはいけないことですから。あなた方はなんと言っても人として修煉しており、あなた方の修煉して出来上がった部分にとっては教えなくても分かりますが、あなたの人としてのこの部分はどうしても好奇心を抱いて物事を考えています。もっと高次元の理を悟り得たとしても、人に話せるものではありません。あなたが悟り得た高い次元の理は、再び自分の口で他人に話す時、その意味は変わり、まだとても普通で平板で味わいのない理になってしまうことにあなたも気付くでしょう。要するに、高次元の理は修煉にあたって心で悟ることはできますが、言葉で伝えることはできません。

弟子:どのように先生の設けた難関と悪魔の妨害を区別したらよいのですか?
師:あらゆる事物は孤立して存在しているものではありません。一人の修煉する人にとって、修煉を始める時から、あなたの辿る道はすでに変わり、如何なる偶然なことも入ることはできません。しかし、全ての魔難が現われる時、みな一つの偶然という状態で表われてきます。それでこそ、あなたを試すこと、あなたの向上を促進することができるし、自分の不足が見えて、違いを見つけることができます。ところで、本当の魔は存在しているでしょうか? 確かに存在しています。しかし、それも孤立して存在しているものではなく、良くないものですから、必ず飛び出してきます。それらは飛び出せばそれで良く、われわれはそれらの良くない一面を利用して学習者に試練を与えます。皆さんもご存知のとおり、亡くなった学習者がいます。亡くなった人の中で圓満成就に至った人もいれば、わざと法を壊しに来た人もいます。ですからわたしはこのことについて何の態度も示さないし、何の話もしませんでした。しかしそのことの発生は、われわれの学習者にとっては一つの生死の試練だとわたしは思います。あなた自身に起ることではないが、やはり自分自身に起るようです。あなたは絶対にそういうふうに感じます。それはまさに生と死という瀬戸際の試練です。一人の人が生死を放下できなければ、絶対に圓満成就に至ることはできません。
 しかし、われわれは全員必ず生死の瀬戸際の試練を経験しなければならないということではありません。それはあなたが長い時期の修煉の中ですでに基礎を作っており、だんだんそこまで達していました。執着心が少なければ少ないほど放下できるものが多くなり、あなたは全てのものはみなどうでもいいと気付くでしょう。実はあなたはすでにそのような条件を備えました。それで正念場になる時、試練が出てくることがあります。例えばこの前北京で起ったことのように、あなたはこういう一歩を踏み出すことができますか。あるいは学習者が突然死んでしまっても、あなたは依然修煉し続けることができますか。あらゆる面での試練は、みなあなたを試して、あなたが歩き出せるかどうかを見ます。死亡した人は必ず魔とは限らず、それでも必ず佛になるとも限りません。一部の人が圓満成就になるべき時期に至るかも知れません。そこで彼のことを利用して皆さんを試します。逆に彼は魔であるかも知れません。するとわれわれもこのことを利用して、あなたがまだ依然修煉し続けるかどうかを見ます。あなたが放下できるかどうか、本当に歩き出せるかどうかということは、何よりも重要です。ですから如何なる偶然なことも存在せず、発生した如何なることもすべて直接あなたを試すものです。

弟子:どうすれば人の法を悟り得た一面を以って魔の一面に打ち勝つことができますか?
師:一正は百邪を圧します。魔からの妨害が存在するのはわれわれにまだ至らないところがあるからです。自分がしっかりしていればそれに打ち勝つことができ、師も面倒を見ることにします。いまの段階であなたが直接魔と闘うのはまだ力が足りません。わたしは前に皆さんのために書いた『精進要旨』の中の一つは、あなた方の今までのままの一面のために書いたものではなく、あなた方の修煉して出来上がった一面のために書いたものです。肝心の時その面も少しは責任を取らなければなりません。もちろんその面はあなたと完全に一致している訳ではないので、全てのことをあなたと同じようにしては絶対だめで、神が人と同様に物事に対することは絶対許されません。あのような魔が破壊する状況の下では、その面でもこのようにすることは許されます。

弟子:先生は「わたしは「真善忍」の中にいません」とおっしゃいました。どう解釈すればよいのでしょうか?
師:わたしはあまりにも高い次元のことを話したくないし、自分のことも話したくありません。わたしはそのことを言い出したのは一部の学習者がどうしても信念を持てないので、わたしは内面の一部を見せることにしました。どう理解すればよいのか? 実際には簡単ですが、はっきり説明してはいけません。宇宙が衆生のために創造されたものである以上、宇宙には一つの特性が存在しており、それは他でもなく、「真善忍」です。しかし、異なった次元において「真善忍」からそれぞれの法を生み出して、異なる次元の生命の環境と、さまざまな条件を創り出すことができます。つまり上から下へ行く度に法は複雑になって行きます。このような関係があります。

弟子:科学の基点がすでに間違っているとすれば、われわれ科学を教える教師は、どうすれば適正な態度を取れますか?
師:現在の科学は異星人が無理やり人類に与えたものです。あらゆる歴史時期の人類、あらゆる文明時期の人類にこんな科学はありませんでした。社会全体はみな引き動かされ、あらゆる人はみなその中に潜り込もうとします。親はみな自分の子供を大学へ行かせようとしますが、こんなことは歴史上で見られませんでした。神様は人類の社会を手配しています。例えば古代の中国では、ひとりの神が命じられて地球に来て紙の作り方を発明し、またもうひとりの神が地球に行かされ羅針盤を創り出しました。彼らがこういうことをしたので、皆がそれを使えます。社会全体で動き出す必要もなければ、こういう科学も必要がありません。みんながその中に入り込もうとしたので、こんな変異な生命を造り出してしまいました。それは歴史上で存在しなかったことです。しかし、現在それはすでに現在社会の一つの現実になってしまい、あなたが生存するには、この現実に符合しなければなりません。生存のために、今現在このようにするしかありません。学習者としてどんな職業に携わっていても、いままで通り自分の仕事を続けてください。あなたが科学を教える教師であれば、科学を教えてください。問題はあなた達がどうすべきだということではなく、わたしが話すのは一つの道理であり、真実を教えているだけです。
 一つの例を挙げます。この異星人を処分した時、わたしは「君たちは人類を変異させました。君たちがやっていることはひどく人類社会を破壊し、人類の思惟も変異させました」と異星人に言いました。彼らに理はありませんが、「あなたも私たちのことを利用しているではありませんか」と言い返してきました。もちろんわたしも車に乗り、現代の道具を使っています。「現在馬に乗るという環境はもう存在せず、みな君たちに壊されました。そうではないでしょうか」とわたしは言いました。こういうことでわれわれはそれに我慢するしかありません。そうでしょう? 皆さんも今はこういうふうにすれば良いです。未来の科学はこのようなものではないでしょう。今までの科学によって下された定義はたくさんのことに対してまったく解釈できず、現在だんだんと覆されています。絶えず新しい天体が発現され、生命存在の秘密も絶えず明かにされています。わたしに言わせれば、いままでの科学は動揺しています。

弟子:人間は複雑で雑然としているので、あらゆる派生してきた物質を修煉によって落として、はじめて自分の本源境地に復帰することができるということでしょうか?
師:人は生まれた時には、非常に純潔で、如何なる後天に形成された観念も持っていません。それは子供がまだ社会と接触していないからです。そのためわたしは子供を見るのがとても好きです。彼はわんぱくですが、とても純粋で、何もなく、如何なる考えもありません。人が生まれてから生存のために、そして自分の利益を守るために、だんだんといろいろな観念を生じてきます。自分のために、わざとたくさんの悪いことを働きます。そうすると、後天的に形成された観念はみな先天の本性と対立しています。つまり、人が複雑になり、その清らかな心、思想はだんだんとさまざまな後天的な不純物に汚染されています。本源の境地のところに戻るにはすべての後天的に形成されたよくないものを取除かなければなりません。人間のところのものだけではなく、どの境地においてもあなたがその境地に戻るにはその境地に相応しくないものを全部取除かなければなりません。そこまで出来てあなたははじめてそれほどの純粋さを取り戻すことが出来ます。頭の中の考え、心性、そして体を構成している物質、さらに生命まで、すべてその高い純粋さまで達しなければなりません。

弟子:如来佛釈迦牟尼如来には娑婆世界があると言いながら、まだ釈迦牟尼如来が大梵世界にいるということは、どう理解すればよいでしょうか?
師:そのとおりです。佛教では釈迦牟尼が娑婆世界にいると言います。それも本当のことです。釈迦牟尼は人を済度するため第六層の宇宙から世間に降りてきましたが、その最後の自分の世界は大梵世界です。彼は大梵世界から降りて人を済度した後、二度と帰らず、ずっと三界の中で自分の弟子を見守っていて、二千年あまりずっと自分の弟子を見守っています。彼の弟子たちは輪廻を繰り返し絶えず自分の次元と境地を高め、自分の威徳を積み重ねながら法が正される時を待っていて、最終的に法に同化して圓満成就します。娑婆世界はつまり三界のことです。お釈迦様の弟子たちはお釈迦様がずっと娑婆世界にいると気付いて、そのため釈迦牟尼如来は娑婆世界にいると言うわけです。大梵世界というと、それは彼が世間に降りてくる前にいた最後の佛の世界です。実際のことを言うと、彼にはこの一つの世界だけではなく、異なったさらに高い次元にも彼の世界があります。あなた方は人の考えを以って天上のこと、佛のことを想像してはいけません。それはいつまでも想像できないことです。わたしは皆さんに知識を探究しないでくださいと要求するのは、あなた方が今持っているのは人間の思惟だけだからです。それではいくら探究しても分からないのです。というのは人としてのこの部分は非常に低能であるからです。

弟子:六道輪廻では、なぜ六道というのですか?
師:佛教では昔から修羅道とか、畜生道とか、人道や天道などを言っていました。皆さんに教えます。それはどんな道であろうと、すべて三界の中のものです。つまり人、動物、物質、植物および三界にある他の空間の生命体との間、相互に輪廻をします。世間にいた時に人の善し悪しによって生じた因果関係に基づいて、報いが決まります。果報であるかも知れないし、悪の報いであるかも知れません。つまりあなたはたくさんの悪いことをやってしまったせいで、畜生道に生まれ変わるか地獄に落とされるかも知れません。多くのよい行いをしたらあなたは天道に生まれ変わります。ここで言う天とは三界の内にある異なる次元の天のことであり、同じく三界の範囲内のもので、やはり輪廻の中にあることに変わりありません。あるいは人類社会の中で高官になり、大金持ちになるなど幸せを享受します。それはすべてよい行いをしたため得られたものです。これは果報と言い、善報とも言います。

弟子:一部の站長は長いことその任にありますが、常人の観念を捨てず、すでに故意にあるいは無意識のうちに煉功場に新しく来た学習者に影響してしまいました。
師:残念ながらそれは事実です。一部の煉功場で指導にあたる人のやることがうまくいっていません。これらの問題は戒めとすべきものです。わたしが書いた『精進要旨』の中の多くの文章は彼らのために書いたものですが、彼らは読みません。もちろん指導員の仕事はとても骨が折れることで、皆のために仕事をしなければなりません。しかし足りない部分はどこにありますか? それは彼が自分の仕事を自分の修煉と結び付けず、何らかのトラブルに出会う時、あるいは何らかの障害に遭遇する時、法を以って判断することができません。他の学習者が協力できない原因、あるいは直面するさまざまの障害の現われは自分が何か間違いを犯したことにあるのではないかと自分の間違っているところを探すことができません。このことについて多数の指導員はこのように自分の問題を探すことができません。その故われわれの法がそのことで大きな損害を受けましたし、多くの新しく来た学習者が法を得る上での障害となっているのですから、目を覚ますべきです。
 われわれの一部の指導にあたる人は学習者に対して非常に横柄な態度をとっていました。それはわれわれの大法において絶対許されないことです。皆さん、考えてください。この法を学んでさえすれば、わたしの弟子です。あなたもわたしの弟子であり、彼もわたしの弟子であるのに、あなたはなぜ彼にそんな横柄な態度を取るのですか? われわれは善の心を重んじ、他人に対して善の心を持っていなければなりません。わたしがいつも話をしているように、もし一人の人が如何なる自分の観念も持たずに他人と話し、相手の欠点を指摘したり、相手に何かを教えたりすることができれば、相手はきっと涙が出るほど感動します。あなたが如何なる自分の要素も入れず、何かを得ようともせず、さらに自分を守るつもりもなく、本当に自分の善意だけから相手のためを考えているのであれば、どんな人であっても、相手は本当にあなたの心が見えます。ところが、多くの場合われわれの多くの人が仕事をする時、そのようではなく、命令で強制します。これではいけません。それは、われわれの法の中のものではありません。

弟子:大法を修煉する人でありながら法に同化せず、嘘を言うことが理解できません。
師:嘘を言うのは間違いです。修煉している人も常人としての心を持っており、その人も圓満成就するまでは、必ず常人としての心を持っています。しかし、わたしが皆さんに言っておきたいことは、一人の学習者であれ、仕事のスタッフであれ、彼らに最も現われやすいのは、まだ取除かれていない執着心、常人の中で放棄されていない心です。それらの心が最も現われやすいものです。何故でしょうか? それは彼らの修煉して良くなった心、取除いた心はもう存在しないので、再び現われることはありません。それで依然残っている心が特に目立って表われ、みんなに見えます。しかし、その人が良くないとは言えないどころか、実は彼はすでにとても素晴らしくなっています。ただ彼の取除かれていない心がまだ作用をして仕事や学習者に良くない影響を与え、その現われてきた状態は多くの人にも見えます。ですから問題を考えたり、人を判断したりする時、常人のような見方を取ってはいけません。逆に自分は修煉して良くできたと思って、まだ取除かれていない心が依然存在するのに自分に甘くなってはいけません。一旦トラブルが起きたら、直ちに自分の内に原因を探さなければなりません。
 わたしのすべての弟子、あなた達は今後トラブルに出会う時や、人と人との関係の中で、あるいは法を学ぶ時、弟子達の間でどんなもめごとがあっても、自分の内に問題を探すべきです。自分がどこか間違ったのではないかとみんながこのように探して、自分の心を修めるべきです。あなたは自分の心を鍛えないで、外を鍛えて、他人の欠点を探しているのでは、どうやって自分を高めるというのですか? 他の人は良くなり、あなたは他人の欠点ばかりを指摘して、他人は修煉して向上しましたが、あなたは相変わらずここにいます。ですからわたしは皆さんに教えます。あらゆるトラブルが起きる時、心がたいへん不愉快と感じる時、ほかでもなく、あなたは自分の内に原因を探すしかありません。原因は間違いなくあなたの内にあります。昔、佛教では佛が心の中にいると説いていました。人々は理解できないから、それを形式としてとらえてしまい、自分の心の中に本当にひとりの佛がいると思ってしまいました。実は本当の意味を言うと、それはあなたの心の中で修め、あなたの心を鍛え、自分の弱点、欠点を見つけて、全部根こそぎにしなければいけないということです。あなたの心性が基準に到達できなければ絶対に圓満成就には至りません。それならば何故自分の心を鍛えようとしないのですか? 何故自分のところを鍛えようとしないのですか? わたしが皆さんに与えた最も速く高める方法は、あなた方が互いの間のトラブルの中で自分の弱点を現わすことです。ところがあなた方はトラブルにあった時、それを押し戻し、他人の欠点ばかりを指摘して、自分のことを反省しません。それではなにが修煉だというのですか? それこそわたしが皆さんに与えた最も良い向上の方法ですから、皆さんは必ず自分の観念を改めてください。学習者が嘘を言うことにいたっては、確かに一部の人が表した心性が良くないものです。このような人に対して、もし助けることができるならその人のために指し示してください。しかし、本当の向上はやはり本人次第です。彼自身が法を勉強しなければ、何の問題も解決できません。逆に言えば、彼の向上は彼自身のことです。彼が脱落して、向上したいと思わなければ、修煉しても向上しないのはやはり彼自身です。

弟子:神としての一面、人としての一面と主元神、副元神との間にはどんな関係がありますか?
師:常人には神としての一面がありません。われわれ本当の修煉者だけにありますが、それもわれわれ大法の修煉という形式の中で言うことです。何故かというと、われわれは生命の最も本源のところからあなたを変えており、われわれの修煉は逆方向から修煉するものです。この方式がわりと速いのです。常人社会の中で最大限に常人の状態に符合しながら修煉することができるし、同時に直接この複雑な環境の中で人の心性を高めることができますので、一番速い修煉方法なのです。われわれは大法の中でミクロ世界の部分がすでに法を得ました。それでは基準に達した部分の粒子、ミクロ世界の粒子から構成される身体は、すでに神としての一面、佛としての一面、あるいは道としての一面に属することになります。人としての一面というと、それは今自分で見ている自分のことです。もしあなたの表面の身体というこの一面さえも、最終的に修煉して変わって、圓満成就したら、あなたには人としての一面も存在しなくなります。人としての一面が存在しなくなり、全てが神としての一面に同化すれば、あなたも圓満成就に達したことになります。するとあなたの身体の変化形式に完全な悟りという状態が現われて、あなたには根本的な変化が起こります。それはあなたが想像しようとしても、あなたの考えではまったく想像できないものです。それはなんと偉大で、殊勝で、壮麗な光景でしょう。元神と副元神との間の関係については、わたしは人体の仕組みを説明した時すでに話しました。ここで時間を費やしたくないので、自分で本をよく読んでください。

弟子:悪念が浮ぶとすでに悪業を造ったことになり、善の念が出ると善業を積んだことになってしまうのでしょうか?
師:そうではありません。先程わたしはこの問題についても話しました。業というものはただ常人の社会、つまり世間でしか現われません。あらゆる物質には正反の二つの面があります。佛がいれば魔もいる、人がいれば鬼もいる、良い人がいれば悪い人もいる、信じる人がいれば信じない人もいる、支持する人がいれば反対する人もいるのです。人間にしても男性がいれば女性もいます。全ては対立して存在しており、みな陰と陽との関係が存在していて、それはつまり相生相克という関係なのです。人が悪いことを働く時、彼は間違いなく悪業を造ってしまいます。彼に生じた考えも悪い念です。佛教では、善業と悪業とに分けています。わたしが気付いたことは、人が善業というものにも正と反の両面が存在しているのです。ですから厳密に言えば、それはまだ適当ではないと思います。
 現在の佛教のことについて、それは末法時期の佛教ですのでわれわれは触れたくありません。歴史上でわりと良い時期の佛教について話しましょう。その時それはまさに一つの修煉団体でした。みんなが善心をもってその修煉団体を守ります。誰かがそれを破壊しようとする時、攻撃しようとする時、彼らも相応の方法で自分たちを守ります。そこで彼らにも負の一面、すなわち悪の一面が存在していました。相手が寺を壊そうとするなら、相手と命懸けで闘うかも知れません。僧侶や弟子たちを傷つけようとしたら、相手に暴力を振るうでしょう。つまり良いことにも始終負の一面、すなわちその悪の一面が存在しています。ですから彼の言う善業と悪業は、漠然と言うだけなら構いませんが、厳格に言えばまだ不完全です。
 われわれは正と反の二つの物質の適切な現われと真実の反映をはっきり説明できるように、最もよい部分、つまり人にとって意義をもつ部分、修煉者にとって直接功に転化できる最も良い部分を「徳」と呼んでいます。実はそれもまさにその徳、つまりわれわれがいつも言っている徳のことです。業に関しては、悪業に加えて、そのいわゆる善業の中の悪い部分、すなわち悪い一面のもの、負の一面のものをわれわれは全部「業」と呼びます。このような言い方はかなり適切です。人の思惟が何かの念を浮かべることについては、もし一人の常人が悪い考えを浮べ、悪いことをしようと思っていても、まだ行動を行なっていないか、悪い結果がまだ発生していなければ、業を造っていません。成し遂げなければ業は生じませんが、成し遂げると業が生じます。このような業力が人の身体や身体の周りに存在する場の中に反映されます。ところが、人は悪い考えを浮かべると自分の思惟の中で思想業というものが生じることになります。これがわれわれ修煉者の思惟の中で人を罵ったり、修煉に反対したり、信じなかったり、あるいは修煉の心が動揺したりするような考えが生じるなどなどの原因です。それがあなたを邪魔しています。
 座禅の時、めちゃくちゃに妄想をたくましくして、あなたの思惟を邪魔することは、まさにこれらのものが働いています。これがわたしが皆さんに非常に適切に説いた道理です。昔の僧侶、つまりその古代の僧侶はほとんど寺の中にいて、複雑な社会と接触しないので、彼の思惟は比較的に単一なのです。その上、彼はいつも座禅したままなので、彼の思惟はとても単一で、自己の利益を守る如何なる考えも生じさせないから、思想業力の生成および思想業力からの邪魔は減ることになります。ですから昔の僧侶たちがいつも閉じこもって座禅していたのは、その本当の目的は静修することです。「修は己にありて、功は師にあり」というわけですから、その法門あるいはその天国世界の師が見守っていて、彼が静修をする時その師は彼の思想業を取り除くことをします。同じようにあなた方の思想業もわたしが取り除いてあげます。あなた達が自分で取り除くことはまず不可能なことです。

弟子:思想業を排斥しましたが、時には続く時間が長いものがあります。どうすればもっと上手にそれを取り除くことができますか?
師:どうすればもっと上手にそれを取り除くことができますか。この言い方では近道を探し、簡単な方法を求めているということです。あらゆる状態は孤立して存在しているわけではなく、業は自分で造ったものですから、修煉でそれを滅する時、苦しみに耐えなければなりません。苦しみに耐えながら自分を高め、その上あなたの意志がしっかりしているかどうか試します。もしいっぺんに取り除いてあげたら、あなたは修煉するものがなくなってしまいます。あなたは着実に本当に自分を変えなければ絶対にだめです。あなた方はその基準に達することなく天国の世界に入ってしまうと、あんな威厳があって偉大な覚者がそこに座っているのを見ると、おじけづいてしまいます。「あら、わたしは修煉が足りません。ここにいる資格などありません」とあなた自身自分がそこにいる資格はないと分かります。ですからわれわれは修煉の過程で一歩一歩着実に進まなければならず、基準に達しなければ、絶対だめで、関門を乗り越えることができません。
それでは思想業を排除できない時には、どうすれば良いでしょうか? 皆さんに教えます。人の思想観念は一世だけで生じるものではなく、何回も生まれ変わって積み重ねてきたものです。それはあなたの身体の表面だけではなく、とても深い部分にまで存在しています。どうすれば良いでしょうか? 実はあなたが絶えず修煉をすることこそ、それを弱め、取り除き、すでにこのようにしているのです。あなたが圓満成就に至る前、あなたの思惟にまだ業力が生じ、そのものが依然残っています。したがってあなた自身が何とかしてそれを抑制し、克服することこそ、まさに修煉そのものです! あなたがなおざりにしては修煉とは言えません。しかし、この思想業力は人への邪魔は特に大きいのです。思想業力が大きい場合、甚だしいときには人を邪魔して煉功できなくなります。よく本を読んでください。本の中に法があって、そして法の中にはわたしが皆さんを助けてあげる一切のものが入っていますから、業力を取り除くことができます。

弟子:試練が来た時心性が守れませんでしたが、次の試練は、前のものより難しいのでしょうか?
師:この問題について『轉法輪』の中ですでに述べています。つまり自分は修煉にあたって修煉者としての自覚をもっておらず、師が設けてくれて自分を高めるための関門を突破できず、長期間そこで誤ったままです。しかし修煉は人を待つことはなく、この一難を乗り越えなければ、続いてもう一難がやってきます。前の難関をまだ乗り越えていないのに、さらにもう一難がやってきて、二つの難を合わさったら、あなたはどうやって乗り越えることができますか? そのために彼はなおさら悟れず、なおさら乗り越えることができません。その上さらにもう一難がまたやってきて、越すことのできない死関となってしまいます。根本的に変わらなければ、通過することは極めて難しいのです。その難は積み重なることがあります。そんなものがたくさん積み重なったら、あなたはどうやって乗り越えますか? ですから皆さんは必ず自分を煉功者としての自覚を持たなければなりません。
 一部の人は最初病気を治療するためにわれわれの大法の中に入ってきました。われわれは反対しません。というのは大法を認識するには一つの過程があるからです。後になって、彼も理解し、おお、大法は病気治療はしませんが、修煉者として病気のある身体では修煉できず、功が出ることはできません。どうすれば良いでしょうか? 彼は「そうか、分かりました。もう考えません。先生に病気を治すようにと頼むこともなく、病気治療のことも思いません。しかし私が修煉すれば、先生は必ず私の病気を治してくれます。」とやはり心の底にかすかに考えています。それは根本的に変わったとは言えますか。違います。華麗な表面はあくまでも偽りのものです。人は本質から徹底的に自分を変えなければ、基準に達することができません。覚者や高次元の生命は非常にはっきりとそれを見ていて、少しも隠すことができません。基準に達せず、徹底的に変わらず、最後までその心を依然抱いており、ただいっそう奥に包み込んでいるだけです。ところが彼の修煉に責任を負っている覚者にははっきりと見えているので、彼は誰を騙しているのですか? 結局自分を騙すことになります。ですから必ずその心を放下して、本当に修煉者としての基準に達しなければなりません。放下できなければ、この問題は長引いて、ずっとこの難の中にとどまっています。この問題はかなり深刻で、いつもこのような学習者がいます。

弟子:修煉者は財富に執着せず、徳を積もうとせずただ守るだけです、先生の経文『富有って徳あり』は精進していない弟子に対する最低の要求基準でしょうか。
師:修煉者としてそれには執着しません。しないからと言って、あなたは何にもないというわけではありません。財を求め、財を儲け、お金に執着する心を無くしたからと言ってあなたは財を持たないわけではありません。徳を積もうとせず徳を守るようにするのは、修煉者として我々の今世今生残る時間がもうあまりないからであり、至るところで良い行いをしようとしても、それらの有為なことはあなたの心性を本当に高めることができるでしょうか。できません。だからこそあなたは速く修煉し、自分自身を根本的に変えて始めて圓満成就できるのです。また、常人社会の多くのことは因縁関係があり、その恩その怨すべてが歴史上積み重なってきたものなので、あなたが関わろうとしても、その因縁関係が見えず、表面的なことしか見ていない可能性が大いにあり、間違ったことをしかねません。常人は常人社会という次元の理にさえ合えばいいから間違ってもいいのですが、あなたは修煉者なので、より高い基準が求められます。あなたが間違ったら些細なことではすみません。あなたは責任を負わなければならず、功を失い、次元も下ってしまうことになります。このようなことを繰り返していたら、どうして圓満成就できるでしょうか。だから徳を積もう、積もうとばかり考えてはいけないとわれわれは言っているのです。あなたは修煉しさえすれば、苦しみを嘗めて修煉していく過程であなたの修煉に必要な一切の物質が転化して得られます。あなたはそういうことをする必要がなく、足りない物質はすべて補うことができます、要は人の心です。
 本当の修煉は人の心を見ます、あなたの心が佛のほうにあって、その心が修煉の基準に達していれば、すべては解決できます。業力に満ちた人は、私から見れば骨まで黒くなっているのに、常人のあなたはどうして自分自身に本質的な変化を起こさせ、佛の境地に達することができるでしょうか、どれだけ徳を積んでも、どんな良い行いをしても、あなたの生生世世やってきたそれらのことを変えられるでしょうか。根本的に変えることは不可能です。徳を積むことは修煉ではありません、徳を積むこともできません、ですからあなたにできることは時間を無駄にせず修煉することだけです。あなたの心だけを見ます、あなたが修煉しさえすれば、我々は一切の問題を良いことに転化させ、悪いことが良いことになります。あなたが作った如何なる業力も、あなたは責任を負うべきですが、我々がそれらのことを全部解決してあげます。例えば、あなたは生生世世にたくさん殺生をし、多くの生命を傷つけ、害を与えたとしますと、あなたは命で一生また一生という具合に償わなければなりません。あなたは絶えず転生して命で償っても間に合いません、ましてや修煉どころではないでしょう。もしあなたの害した生命があなたが圓満成就のあと、あなたの世界を完成させるときにはその世界に衆生として済度することができるならば、それはいいことではありませんか。それで業も返せますが、だれがそういうことをしてくれるでしょうか。あなたを済度する人しかそういうことができません。またあなたを済度する人がそういう能力を持っていないとできません、借りになっている業をあなたが返さなければなりませんが、その形でも業を返したことになります。しかし、あなたが佛にまで修することができなければ、これらはすべてあなたの業力であり、永遠に償うことができません。まさにこういう関係にあるわけです。即ちそんなことにとらわれずにひたすら修煉していけば、師はすべてをやってあげます。

弟子:一部の学習者達は法を破壊するいくつかのことを聞き入れて信じていましたが、今は後悔しています、これらの人達はまだ圓満成就できますか。
師:修煉の道においては、人は必ずしも全ての関を順調に越えられるわけではなく、過ちを犯すこともあります。全ての関を順調に越えられたら、あなたはもうそれ以上修煉する必要もなく、もう圓満成就できると言えます。ある関は順調に越えることができても、別の関はうまく越えられません、しかしあなたは後悔することを知り、次はよくなるように頑張ることができます。このようによく越えられたり、越えられなかったりします、七転び八起きです。これこそ修煉です。(拍手) でも、これで喜んだりしないように言っておきます。あなたは「それならば、どうせうまく越えられたり、越えられなかったりするのなら私が今やっているようにゆっくりやっても修煉だ」と思うかもしれません。だめです。あなたは精進しなければなりません。あなたが怠ったり精進しなかったら、その心も私に見えます、そんなことをすれば、あなたが自分に無責任なことをしたと同じです。だから、あなたは自分自身を本当の修煉者として厳粛にこの問題に対処して始めて、速やかに次元が速く高まることができます。

弟子:出家人として朝晩の勤行などに参加することは修煉に影響を及ぼしますか。
師:私はできるだけあなたに影響を及ぼさないようにします。我々の中では多くの寺院の僧侶や道士或いは他の宗教の人々がこの大法を勉強しています。私は一つの道理を言っておきます、我々はいかなる宗教、いかなる常人社会の形式をも問題にするわけではありません、我々はただそれを常人の仕事としか見ていません。佛も何も面倒を見ず、ましてや済度しないわけですから、それは常人社会の一つの形式に過ぎないのではありませんか。私もそれを一つの仕事と見ています。そういうわけで、われわれはそれを気にしません、我々が必ず寺院へ行って和尚さんの考えを改めさせなければいけないとは言っていません。我々は人心を見るだけです、あなたがどんな境地、どの次元、どの社会階層にいようとも、人心を見るだけです。えらい人が法を学んでから多くの人にこれを学ばせることができると思う人もあるかもしれませんが、私の言いたいのはそういうことではありません。誰かに命令されて来るのは本心で法を得に来るものではありません。私はそういう人はいりません。ですから、あなたがどの階層にいようと、私は人心を見るだけです。あなたが宗教界の人であっても、私は人心そのものを見ます。皆が衆生なので、修することができる人であれば、誰であろうとも、その人に対して責任を持ちます。修煉したくなければ、仕方がありません。
 以前は宗教においてもそうでした、佛は宗教を認めません、宗教は常人が作った名前です。釈迦牟尼は早期その僧団の修煉形式を作った時もそれを宗教とは言いませんでした。佛も人心を見るだけで、人が守ろうとするその形式などというものとは無縁でした。守ろうとすること自体も執着で、全て常人が捨てきれないものであり、真に佛を修めるためのものではありません。修佛において、だれだろうと、修さえすれば、私は彼に責任を持ちます。私はそれを衆生の最も純粋な心、真に善に向かう修煉の心として見ます、それが見えて始めて私はその人に対して責任を持つことができるのです。朝の勤行とか、夜の勤行とか、昔の経文を読むとか、経文を朗読するとか、聖書を読むとか、そういうことに関しては、居士或いは一般の人ならそんなことはせずに大法の修煉に専念しなさい、これは厳粛なことです。しかし、出家した人や神職の人は取りあえずやってもいいです。私はあなたの仕事としてしか見ていません、もともと責任を持っている神佛がいないのですから、ある次元に到達すればあなた達は自分がどうすればいいか分かるようになるはずです。私は最も便利な門を開いており、ただ人心を見るだけです。(拍手)

弟子:弟子達は圓満成就して上がった後でも、師尊の講法を聞けますか。
師:あなたはまたも人の思想で神のことを考えています。言っておきますが、その時あなたの弟子はあなたの講法を聞くことになるのです。あなたの修煉の歴史はあなたの未来の威徳を樹立する一つの偉大で荘厳な法になります。あなたは表面上他の人と変わるところなく常人社会で修していますが、あなたの知らないそれらのことは全て記録に残ります。あなたが感じたか否かに関わらず、全て記録に残ります。それらはあなた自身が創った威徳になるのです。実は、佛は佛の世界においても講法します。その境地における衆生が守るべき道理以外に、主に異なる天国の世界にいる佛の修煉の物語を話します。人心を揺るがす感激です。天国の世界の衆生が聞いても涙を流すでしょう。だからこそ、我々一人一人の修煉は必ず基準に達さなければならないのです。

弟子:修煉していない家族が大法を攻撃する本を買ってしまいました、それを廃棄したいのですが、その中に師の写真がたくさん入っています。
師:廃棄するのならすればいいです。我々のこの本も紙の上に文字がある一冊の本です、私の法身がその上に居なければ、インクで印刷されたにすぎず、その中には何の内函もありません。燃やすのなら燃やせばよいのです、そういうことです。勿論あちら(訳者注:佛の世界)にあるものは燃やせません。常人の火がどうしてあちら(訳者注:佛の世界)まで届くでしょうか、ですから問題はありません。

弟子:先生はこんなにも多くの法理を話されました、どこから修煉を始めたらいいか分かりません。
師:たぶん新しい学習者でしょう。少し戸惑っているようですね。実は非常に簡単で、何の規則も戒律もありません、あなたはただ本を読んでいけば、何をすればいいか分かりますし、段々とはっきりしてきます。大法に対して感性の認識から理性の認識へと昇華するにつれて、あなたはさらに何をすればいいか分かってきます。何か具体的なものから始めなければならないということではありません:忍を先に修しますか、それとも善から始めますか?そういうことではありません。しかし、あなたは必ずしも全てのことをよくやれるとは限りません。修煉は一口食べればすぐ太ることがないようにすぐにできるものではなく、一日で佛になることは不可能です。本さえ読んでいけば何をすればいいか分かります。

弟子:私はずっと話し方、善なる心、それに道理によって人が涙ぐむほど感動するまで修煉が到達していないことを悩み悲しんでいますが、どうすればいいでしょうか。
師:為にしてはいけません。あなたは何が何でも何か一つの状態に到達しょうとしてはいけません、実は全てが自然な成り行きです。他人の欠点を指摘する時はなるべくそのようにしたほうがいいと言いましたが、それは一つの道理を言っただけです、あなたはそうしたほうが効果的です。あなたが本当に全てを放棄して無心になり、真にそれほど純粋な善にまで達するのはやはり並大抵のことではありません。というのは、あなたの思想が絶えず浄化されていく過程にあり、まだ浄化されていない思想があなたの話に出ているはずですし、いろいろな信息も出ています、まったくそのとおりです。そういうわけで、あなたの話に対して人によって考えが違います、必ずそうです。しかし、我々が絶えず修煉していくにつれ、事柄はますます良い方向へいくのではないかと私は思います。あなたの善なる心が多ければ、相対的に言えばあなたは常人を越えることになります。常人を越えていれば、あなたの話はそんなに純粋でなくても、効き目がありますし、人を感化することもできます。

弟子:一人の敬虔なクリスチャンが、キリストの天国には白人しかいないと聞きました。彼女があの世に行った時その元神が安息するのはどの次元或いはどの天国でしょうか。
師:彼女はその宗教での修煉は無駄に等しいです、彼女は常人と同じです。彼女の善なる心は福報しか得られません、やはり常人の次元で輪廻します、そうなるしかありません。

弟子:「玄法虚に至る」の虚界は真善忍の中にありますか。
師:全ては宇宙の法理の中にあります。過去道家は「虚」を比較的に多く言っていました、第一にそれがある境地、ある状態の体現だからです。天地開闢の時、「太虚」とよびます。この天地を開闢すると言うことは、異なる神の目には同じ次元のものとしては映りません、天体における異なる世界、異なる宇宙の更新の過程は全て天地開闢と言います。道家は最高の境地と見なします。第二に修煉状態において、この虚は即ちあなたの人間の一面を放棄することです。人は人を最も実在するものとみていますが、主元神が一切を放棄すれば、即ちあなたは人を虚にします。副元神を修することは「識神死して、元神生ず」と言われました。過去には副元神を元神と呼んでいました。

弟子:私たちのよく修している部分は分離されますが、どういう状況においてその部分を失うでしょうか。
師:あなた達のよく修している部分は、一旦基準を満たすとすぐ向こうに行ってしまいます。その速度は非常に速く、あなた達の生命のミクロな部分はロケットより速く、凄い勢いで猛進します。しかし、往々にして一旦人のところ即ち三界内の物質で構成された体の部分に来ると、すぐブレーキがかかって遅くなります、一歩進むだけでも、困難を極めます、それは人が執着を放棄するのはあまりにも困難だからです。それで我々は分離する時しばしばある感覚を覚えます。どういう感覚でしょうか。例えば、ある人が法をよく暗記していましたが、突然忘れてしまいました。或いはある人がよく修していて状態もよいと感じ、ものも良く見えていましたが、突然まただめになりました。ある人は私が落ちたのではないでしょうかと言いました。違います。これはその瞬間基準を満たす部分が隔てられたからです。残った部分はまだよく修していないので、それでだめと感じたわけです。大法はこのように修するのです。

弟子:どうして先生の国外の講法の録音テープや録画テープを入手するのはそんなに難しいのでしょうか。
師:どうしてそんなに執着するのでしょうか。非常に執着しています。『轉法輪』の本には何でもあります、実は私が言ったこれらのことはすべて『轉法輪』の中にあり、私は異なる地区の学習者の状態に対して具体的に話したにすぎません。こういうことに執着してはいけません、その心を捨てて着実に修煉しなさい。主に『轉法輪』を、補助的に他のものをも読みます。『精進要旨』に関しては、我々の補導員、站長は時時刻刻覚えておくべきもので、常に読まなければなりません。

弟子:私たちの功は体のあらゆる細胞に貯蔵され、極ミクロ状態の物質本源の微粒子にまで入っています、ではこの功の物質は物質本源の粒子よりも小さいでしょうか。
師:あなた達の功がどこまで微小になれるのかはあなた達の修煉の次元と相補い相応するものです。あなたがある境地に到達すれば、それは即ちあなたの果位になります。あなたの果位から何かを得られれば、即ちそれになります。しかしあなたより高く修している人は、その人の功、その人の果位が当然高く、その人の功はあなたの功よりミクロで強大です、それは間違いのないことです。全てはあなたの果位に由来し、全てはあなたの威徳であり、全てはあなたの一生の修煉の証となるのです。

弟子:宇宙が先ですか、それとも佛法が先ですか。
師:佛法は佛が宇宙大法の中から悟ったもので、宇宙がなければどこから佛と佛法が生じるでしょうか。最終的な宇宙の構成はあなた達には永遠に知るよしもありません。あなたはどんなに高い所まで修煉したとしても、知ることができません、だからあなた達のその知識を求める心は捨てなさい。

弟子:人が圓満成就する直前、その功と心性基準の八割までもぎ取られてその人自身の小宇宙を充実させますが、その時その人の心性はどう測りましょうか、元々の二割しか残っていないでしょうか。
師:圓満成就の全ては心性の証となります、圓満成就する前の功柱は本当の果位ではなく、主に心性の高さを表します。圓満成就を果たした後その人の持っている心性の高さは即ちその人の果位となります、菩薩のレベルなら菩薩となり、羅漢のレベルなら羅漢となり、佛のレベルなら佛となり、こういう基準です。自分の圓満成就の全てはその人の威徳を反映し、果位はその全てを検証します。ほとんどすべての修煉方法はこのように修します。この宇宙の生命ならば、このことを心配する必要がありません、誰でもこのように修しなければなりません。天に上がって何もないのでは、どうなるというのですか。

弟子:ある人が先生は『轉法輪』を読み終えるのに一日半では遅すぎるとおっしゃいましたが。
師:私はそんなことを言っていません。速すぎると思います。(拍手) 私は皆が時間を無駄にせず本を読むように話しましたが、その人はすぐその極端にまで走りました。読んで読んで読んで読んで、一生懸命に読んでそれぞれの字さえ分からないようでは、あなたは何を読んでいるのでしょうか。あなたは法を学んでいるのではありませんか。法を学ぶ、法を学ぶ、その学(び)はどこに置いたのでしょうか。あなたは自分が何を見ているのか分からないようでは、どうやって修しますか。あなたは今何を見ているのかわからなければなりません。あなたはどういう字を読んでいるのか、表面的にどういう意味かわからなければなりません。あのようなやり方ではどうして法を学ぶと言えますか。そんな読み方でいいのですか。本をパラパラめくってしまえばすぐ終わるではありませんか。こういう道理ではありませんか。

弟子:前四式の功法を煉るにあたって、それぞれが終了するとき、結印を保ち、結印を解き、それから再結印するのでしょうか。
師:功法と功法の間の繋ぎは結印を一回します、解かずに次ぎの功法に移ればいいでしょう。

弟子:「道法」という経文を理解するのは難しいのですが。
師:そのとおりです。というのも私はあなた達に少しずつそれを認識してもらうためであり、それに直接あなたのまだよく修していない部分のために書いたものではないからです。しかし、どの高さまで認識しても間違っていません、ただ認識したレベルが違うだけです。認識できるところまででいいのです。私は徹底的にあなたに教えられれば、このようには書きません、だからゆっくり学んでゆっくり認識してさえいけばいいのです。あなた達があまり理解できないと感じているだけでなく、だれにとっても、世界のどこの人にとってもあまり理解できないと感じられるものです。

弟子:悟りを開く前と開いた後では分かった法理はどういう区別がありますか。
師:真善忍においては区別がありません。しかし、悟りを開く前は概括的なものですが、悟りを開いた後多くの法理の細部、及びあなたの次元とそれ以下の次元の理が突然分かってきます。あなた達に見せたこの法は概括的に書いたもので、その本当の理はあなた達が圓満成就しないと、見ることができません。

弟子:保護されて生き延びた神は皆宇宙に法が有ることを知っていますか。過去においてどうして彼らは知らなかったのでしょうか。
師:宇宙大法の真実の体現は宇宙の衆生に知らせることができません。過去の宇宙においては法がありましたが、過去の宇宙の如何なる次元の衆生も知りませんでした。私があなた達に伝えたこの法は人間の言葉で言ったもので、法の真実な体現の一面の具体的な現れとはやはり違います。将来あなた達が圓満成就しても法の存在形式を見ることができません。この宇宙における多くの奥深い秘密は宇宙の生命に知らせることができませんが、この厖大な宇宙における全ての景象はあなたに興味深く生きてもらうために十分なものです。あなたが目をあけて常人社会の形象を見たときでさえ驚き感嘆するでしょう、ましてあんな高い次元で衆生、万物、宇宙の構造その壮観な景象を見たとき、如何なる形容もできません。しかし、いくつかのもの、宇宙の根本的なものは衆生に知らせることができません、そんなに高い威徳を持っていません、それはあなた達の修煉の次元によって限定されます。

弟子:意識的に失をしてはいけませんし、また意識的に得をしてもいけません、すべては自然にまかせることがより高い法理の基準だと、この理解は正しいでしょうか。
師:原則上正しいですが、あなた達がそこまでできたのは心性がその状態に達していたからです、しかし修煉者に必要なのは常人より高い自己を律するやり方です。修煉においては必ず何かの方法でやろうとする人がいます。私はこのように修しなさいと言っているにも関わらず、彼は勝手な考えでやります、飲まず食わずになって、僻穀をやります。或いは一日中だらしなく、男は男らしくなく、女は女らしくなく、外見は全然気にせず、あまりにも無頓着です。修煉のことになると、すぐ過去の修煉形式を思い出します;修煉のことになると、すぐ張三豊(訳者注:太極拳の創始者)のことを思い出して、外見にあまりにも無頓着になります。そうではありません。私はあなた達に最大限に常人社会の形式に適合するように言っているのです。あなた達は常人社会においてだれでも外貌に無頓着だったら、常人社会という次元の理を破壊することにもなります。私はあなた達の前でそうしたことが有りません。あなた達が知っているように、毎回講法の時私はいつもきちんとした服を着ています。わたしはあなた達に示しているのです、皆もこの方面について注意してください。

弟子:宇宙の成、住、壊の法則は先生の無量な知慧でもって宇宙でより完璧に成り得ますか。
師:この問題提起も非常に高いものです。我々の法輪の特性は自動的に基準を満たしていない全てのものを修復することができます。言い換えれば、それは絶えず一切のものを円融していきます、法を正すというこの目的はまさにそれをより完璧で美しいものにするためです。

弟子:静座後すぐ寝てもいいでしょうか。
師:影響ありません、寝たければ寝ればいいです。夜中に起きて座禅し、煉功が終了した後すぐ横になって寝れば、非常によく眠れます。

弟子:表面的に法輪大法を真に修煉しているように見える人が突然車の事故で死んだとします。その場合その人を魔と見なしてもいいでしょうか。
師:私はその件については話しません、直接あなたのこの問題に答えません。生老病死は人類社会において確かにこのように存在しています。修煉の人かどうか、圓満成就に到達できるかどうか、このことは現在のこの時期において表面だけを見てもわかりません。先ほど私が一言言いました、重大な問題においては絶えず人心を見ます、ある人が煉功中死亡したとします、あなたはどうするかを見ます。その人は圓満成就したかもしれませんし、魔かもしれません、それは孤立したものではありません。学習者の心を見るために利用します、肝心な時にまだあなたが大丈夫かどうかを見ます。ある人がこのことのために犠牲になりました、圓満成就の境地に達したので学習者のためにこうした条件を作り出したのです。このような場合がありますが、原則的に私は同意しません。このようにして破壊しに来る場合もあります、まさにこのように邪魔します、肝心なときに起こってきます。しかし、我々はそれを人心を見ることに利用できますし、肝心な時にそれを利用して人心を見ます。あなた達は果たして修煉できるかどうかを見ます、修煉は非常に厳粛なことです。

弟子:佛、道、神の中の神という慨念は何でしょうか。
師:皆さんが知っているように、佛の天竜八部の護法においては多くの神がいます、これは神であり、佛教において認識し得るものです。では、この宇宙ではこればかりではありません、異なる境界において異なる天の神が存在します。彼らは直接宇宙の衆生を管理します、異なる次元全てにいます。佛は特殊な神です、修しているのは慈悲で、善を修することによって神になったものです、これは佛です。道は修しているのは真です、真善忍の真を基点にします。だから修し終えても衆生を済度することを言いません。しかし彼は全てが真のみと言っており、これは即ち道で真理大道です。実際彼らも神です。従って、その神の中には先程言った宇宙衆生の一切の事務を管理する類の神もいますし、佛や道のような神もいます。また他の多くの異なる各種各様の高級生命もいます。私はおおざっぱに佛、道、神のことを話しました。

弟子:もし修煉の時間が終了しても一部の人がまだ功を開き、悟りを開いていなかったら、彼らが修煉によって形成した部分も八割もぎ取られるでしょうか。
師:圓満成就していなければこういう問題がありません。圓満成就まで修煉していないのに彼自身の世界を圓満させるなどということは語るに落ちるというものです。圓満成就していなければ次のような幾つかの方法があります:一つは本当に主な心は全て捨て去られていれば、あなたの先天(訳者注:生まれる前の世界あるいは修煉で到達できるはずのところ)以下の次元に行けます;もう一つはまだ修煉を続けたければ彼の先天の一切を封じ込めて転生し来世続けて修煉します;三つ目はこれ以上修煉したくない場合です、その時彼の修煉して得たものを全部福徳に転化します、次世の福報としての銭財、名利や官職など、多分そういうものになるでしょう。

弟子:分子は原子から構成されたものであり、原子は分子の中にあります、それでは原子全体の構造が分子の全体構造より大きいということをどう理解すればよいでしょうか。
師:分子は一個の独立した粒子ではなく、群体的であり、現在の科学の言葉でいえば群体で存在します。即ち、それはその境界において虚空一切に分布しています。ここでの一切も実は境界線があります、有る範囲を持っています、即ち原子の存在範囲の体積は分子の存在範囲よりずっと大きいのです、原子は分子の中にあるというのは現在の科学技術手段が認識しているだけのものであり、実際はこのような慨念ではありません。

弟子:真善忍の佛法はこの大宇宙の法ですが、他の大宇宙の法もそうでしょうか。
師:そうです、実はこの宇宙はどれだけ大きいか、あなたの慨念はどれだけ大きいか、あなたの言っている宇宙はどれだけ大きい範囲なのかは、あなたがいくら考えても永遠に知ることができません。あなたはそれほどの大きい容量を持っていないので、ただ口にしただけでしょう。全ては真善忍から成り立っています。

弟子:真善忍は如何に他の宇宙の理を生み出すのでしょうか。
師:他の宇宙もこの理です。同じ境界においては如何なる遠い宇宙でも全ての宇宙と同じくこの次元の天体の真善忍という法理に符合します、同一次元の基準に符合します。あなたが想像した宇宙はどれだけ大きかろうとも、その境界における一粒の粒子にすぎません、だからこの粒子はこの境界の中での基準を満たさなければなりません。この基準もまた法のこの次元での具体的な法の現れとなります。

弟子:無辺の威徳は苦しみを嘗めることによって得られたものなのか、それとも先天から持っているものでしょうか。
師:先天においてこの境界で生まれたものは即ちその程度の高さの境界にいます、彼はこの高さを持つ次元の生命です、それは人間の場合と同じです。あなたは人間の中で生まれたのですから、あなたの子供も大きくなれば人間になります、絶対に他の動物にはなりません。宇宙の中では、多くの修煉した非常に素晴らしい大覚者がいます。自らの修煉によってそこまで上がってきたものもいます。

弟子:かつて無償で多くの人に本とテープをあげましたが、修煉をやめました人もいました、それらの本とテープを返却してもらったほうがいいでしょうか。
師:彼は本当に修煉をやめたのなら、返してもらってもそれはそれで結構です。返してもらいにくい場合であっても将来だれか縁ある人が彼の家に行って見かけたら持っていくかもしれません。返してもらえる場合は返してもらいなさい。あなたが自分で適当に判断しなさい。

弟子:『時間との対話』の中で言っている「人類を破壊するよりミクロな物質」はどう理解すればいいでしょうか。
師:あなたはどう理解してもいいです、どう理解しても外れることはありません。私はこのように皆に言いました、この厖大な天体はあるところまでいくと有形の生命が存在しなくなります、すべては無形の生命として存在します。彼は天体全体に充満しています、私は彼を物質と呼びますが、彼は神であり、どんな形のものにも凝集できます。しかし、彼は形になるのは好きではありません、ただこのように存在します。如何なる物質も正と反の両方面を持ちますので、もし宇宙がだめになったら、すべてだめになりますし、正なるものであってもだめになるし、負なるものはさらにだめになるわけです。

弟子:「心を修し、欲を断ち、明慧にして惑わざるは自負」、ここでの自負は自分に責任を持つという意味でしょうか。
師:そうですよ、修煉は自分に頼るものではありませんか、そういう意味です。あなた自身が修しなければなりません。「心を修し、欲を断つ」あなたの心を修し、あなたの世間での求める心、これを求めたり、あれを求めたり、すべてを得ようとする欲望を断ちます。これはあなたが修しなければだれがあなたのために修してあげるというのですか。私が修しても、あなたは修したことにはなりません、そうではありませんか。「明慧にして惑わず」、このようなものを修煉によって取り除けば、あなたは法において更なる高い理を見ることができ、更なる高い次元へ上がることができ、最後は圓満成就の状態に達します。低い次元のものに動かされることがなくなります、常人の心に動かされることもなくなります、これらはすべてあなたがすることではありませんか。まさにこの意味です。

弟子:三界内の神は原子物質から成っているのでしょうか。
師:ある境地にあればその境地の基準を満たすべきです。しかし、三界内の神の中には彼らの所在する境地の次元を越えているものがいます。私は彼の体が原子からできていることを言いますが、その原子は絶対に我々が現在見ている原子核の原子ではないのです。この宇宙は非常に奥妙です。

弟子:取り調べによって証拠を取ろうとするとき相手が本当のことを言わないとします、態度を厳しくしたら、我々の修煉している真善忍と矛盾しませんか。
師:相手が本当のことを言わなければ、いわせなければなりません、それがあなたの仕事です。話す時厳しくする必要がありますが、怒ってはいけません、罵ってもいけません、まして殴ってはさらにいけません。事件に対する処理は我々と外国の間に差があります。国外では証拠を重んじます、われわれは時々証拠がなくても、自白させなければなりません。とにかくよくわきまえてください、つまり煉功者の基準をよくわきまえなさい。

弟子:どうして簡単に法を得た人は人生にあまり成功していない人ばかりなのでしょうか。
師:あなたにどうして分かるのですか。我々の法を得た弟子の中には、大実業家も多くいますし、社会階層が非常に高い人もたくさんいます。我々大法の弟子の中では若くして、教養のある人がやはり絶対多数を占めています。社会地位の高い高級幹部や官僚も非常に多いです。今ここに座っている人の中にも実業家も多くいますし、しかも修煉も非常によくできています。医者も多く、弁護士もいます。こちらでは金融界の人、政府の高官、経済界の人の中にも、法を得た人も少なくありません。しかし、一つ皆に言っておきます、修煉にあたっては全ての人に対して一視同仁です。有名人だからといって大法が彼を優遇するということは絶対あり得ません。

弟子:先生の着ている袈裟はどんな意味、働きと由来がありますか。
師:皆さんに話しておきますが、釈迦牟尼在世の時彼の弟子達は皆このような服を着ていました。中国の和尚は気候の影響で中国の民族衣装、庶民の服を着ていました。実は現在の和尚は唐と宋の時代の庶民の服を着ています、違うのは色だけです。昔の人は派手な色を好んで着ていましたが、後でそれは一種の執着ではないかということで、和尚は灰色でも、土色でもないああいう色の服を着ることになりました。しかし、真正の天上の佛門弟子や佛も私の着ているような服を着ています、ただその素材がこれとは違います、しかも裸足で、片方の肩を出しています。我々は佛を修していますから、当然佛家の衣服を好んで着ます、そういうわけです。道を修している人にこのような服を着させようとしても彼は絶対にいやがるでしょう。そうではありませんか。

弟子:母親は84歳で、一人暮らしをしています。殆ど外出しません。毎日食事以外、時間さえあれば煉功したり大法を勉強したりしていますので、心性を高める機会はなかなかないようですが・・・。
師:お年よりの方にはお年よりなりの修煉の状態があります。彼女には難がないのですが、ただ座っているだけでも、一昔前にむっとした過去の出来事を思い出します。必ず思い出させて、心が動じるかどうか、怒りを感じるかどうか試しています。思い出すだけでかんかんになる人もいます。つまり何一つも残さずに試練させないといけません。必ず何らかの形をもって修煉させます。若い学習者、年配の学習者を含め、最近このようなこととぶつかる学習者もいます。人を怒らせることを思い出させて、怒るかどうかを試してみます。十年前や八年前も昔の出来事を全部思い出させて、どのように対処するか試しています。

弟子:六日前に先生が私たちと一緒に大法を勉強し、質問にお答えになっている夢を見ましたが、先生はその時昨日の朝と同じ服装をしていました。
師:つまりあなたは早くその情景を目にしました。実はこのようなことは私がずっと隠しています。このようなことに余計な精力を使わせずに、関心を持たせないようにしています。あんまり感受させず、修煉に打込んでもらいたいわけです。でないと、このような質問を毎日出されてしまい、きりがありません。あれこれどうこうといった質問ばかりします。宇宙の奥義は数え切れないほど多い、とても多いのです。

弟子:人間の堅強な意志と忍耐力は生得のものですか。
師:これは生得のものではありません。人間からいっても、人間の表面である人間の体からいっても、もし常人の社会で挫折など多く経験したら、次第に気にしなくなるかもしれません。あるいは経歴の積み重ねによって、強くなり、物事にこだわらなくなります。修煉も人を強くすることができます。次元の高まりにつれ、辛抱強くなります。

弟子:修煉する過程の中で、あらゆる良くないものを取り除くことができますか。
師:そうしなければなりません。こういうふうに考える学習者もいます:先生、私たちは常人の社会でこんなたくさんの欠点を持っているのに、佛の境地に達したら常人の時のすべてを本当に忘れられますか。これはあなたが常人の状態から佛の状態を想像しているからです。人間の思想は、あなたの思想の構造、方式を含め、すべて変えなければいけません。常人レベルの情の制約、ほかの各種の常人レベルの物質からの人間に対する制約がなくなると、あなたは既にこの環境から抜け出し、この状態もなくなりました。圓満成就したら、人間の表面に残ったわずかのものはただ一種の記憶に過ぎず、この時の思想は既に佛の思想、神の思想、道の思想に昇華しました。これはあなたの中で一番良い部分です。人間の最も表面にあるものさらにはこの記憶にも触れたくなくなり、思い出したくもありません。

弟子:新しい宇宙が構成された後、各次元にある魔はまだ存在しますか。
師:これだけは言っておきます。正のみ存在し、負がなければ、あらゆる生命力のあるものはそれをつまらなく感じます。何をしてもたやすく出来て、ほしいものも容易に手に入り、何をしても妨げもなければ、すべての物事を大事にしなくなります。いろいろな難関を乗り越えてやっと成就したときの幸福感もなければ、勝利の後の喜びも失います。そうすると、何に対しても気にしなくなり、大事にしなくなり、人間としての生きがいも喪失します。人間は常人の社会で闘ったりして、それを生きがいと思っています。あの世に行ってからでもその記憶が蘇るとまだ興味津々に思っています。これが常人です。しかし、異なる次元でも負の要素が存在します。これは確実なことです。けれども、これは修煉してできたものではなく、これは法が按排したものです。

弟子:入静したとき、見たくないものが出てきたときにどうすればいいでしょうか。
師:見えたらそれはそれでいいのです。見たくなくても見えてしまったわけですから、ほっといてください。これらのものはあなたに傷害を加えることもできなければ、あなたを動じさせることも出来ません。自然に任せて、ほっておけばいいです。特に常人のレベルからスタートする時、天目がもし何か見えるとしたら、それは間違いなく低次元、また非常に良くないもので、怖く感じます。しかし、本を多く読んだり法をよく学んだりして、速やかに修煉すると、この次元をすぐ突破します。今度はこのようなものではなく、良いものが見えてきます。

弟子:家族の人がほかの気功をすると、私は煉功場でとても気分が悪くなります。時たま見えた光景は予測作用があるのでしょうか。
師:見えたら見えたで、気にしないでください。これから起きることが見えても、気にとめないほうがいいと思います。心性を守って修煉してください。ほかの人があなたの修煉の邪魔になる、あるいは家族の人がほかの気功を練習したりするなどのことは、一般的に私たちの妨げにならないと思います。もし邪魔されたと思ったら、これはあなたの気持ちがどう動くかあなたを試していることになるかもしれません。私たちは正法を修煉しているわけですから、どんなものでもあなたを妨げることはできません。自分の心が安定していないなら、これは心性の問題です。そうすると異常な現象として現れてきます。

弟子:私は法輪功を修煉してから既に何ヶ月か立ちましたが、とても良いと思います。しかし私はある宗教に入っているので、今進退両難の立場に置かれていますが、ご指示を仰ぎたいと思います。
師:修煉は自分のことですので、自分の進みたい道に進めば良いのです。どうしても宗教の中で修煉したければ、そうすれば良いのです。大法の中で修煉したいと思えば、大法に従って修煉すれば良いのです。この一歩は自分で歩き出さなければなりません。私もあなたのこの二進も三進もいかない状態が良くわかっていますが、どのようにこの一歩を踏み出すかを見てみたいのです。何を学びたいか自分で決めることです。しかし、私は理について多くのことを既に明言しました。今三界の中には見守ってくれる本当の神様はいません。人を済度する本当の神様もいません。これだけは言っておきます。

弟子:時間がないと思って、睡眠時間も惜しんで時間を作ったりしますが、これは執着と言うべきでしょうか。
師:執着とは言えません。時間が非常に厳しい、昼間が忙しいから、夜時間を作って煉功するのはとても良いことだと思います。煉功に時間を使ったからといって、体に負担をかけるとか、寝不足になるとかなどのことは絶対ありません。絶対ありえません。かえって、煉功後、寝ると深く眠ることできるから、元気になります。絶対そうだと思います。

弟子:キリスト教、カトリック教を信奉する人はただ一人の神様、つまりイエスキリストしかいないと思っていますが、どうすれば神は一人だけではないことが分かってもらえるのでしょうか。
師:それは本人次第です。道理は既に教えました。実は旧約聖書と新約聖書の中に既に述べられていますが、神様はイエスキリストだけではなく、少なくともイエスキリストの前にエホバがいます。新約聖書と旧約聖書の中でほかの神様についても言及しています。古代ギリシャ時代にも多くの神様が人間社会で法を伝えていました。これは彼ら自身がどのようにこの問題を認識するかです。実は佛教でも佛様が釈迦牟尼一人ではないと教えています。もちろんお釈迦様は阿弥陀佛、原始七佛、恒河の砂のように数え切れない如来、無数の菩薩がいると言ったこともあります。しかし一部の僧侶は佛は釈迦牟尼しかいないと言いきっています。彼らの思想は今なんと偏狭なものでしょう。釈迦牟仁が唯一の佛様と思っています。大法は彼らに見せて、大法の存在を知らせていいのです。学びたいかどうかは彼ら次第です。どうしても自分の認識を固持しようとすれば、本人に任せればいいのです。私たちはただ善を勧めています。絶対人に強制してはいけません。これだけは皆さんよく覚えておいてください。

弟子:人の功には本人の姿かたちがありますが、どうして人が拝むことによって作ってしまった偽の佛は人の功を取ることができるのでしょうか。
師:取ることのできるのは常人の気であり、人の功を取ることはできません。この意味です。たいしたエネルギーではありません。それなのにどうして人の功を取るのでしょうか。常人が拝んでできたものだから、常人と同じ次元にいるからです。人はどうして物を盗むのかということと同じ、この考えがあるからです。

弟子:修煉して圓満成就に達してほかの世界に行く弟子はおなかにある法輪とともに行かれますか。
師:修煉に専念しなさい。あなたにはそのことについての真相は分からないのだから、ひたすら精進して修煉していけばいいのです。いかに圓満成就できるか、これこそあなたが考えるべきことです。できるだけ速くもとに戻る、これがあなたにとって何より大事なことです。ほかのことについて何も考えないでください。師としての私は絶対最高のものを授けます。(拍手) 新しい宇宙も、将来のすべても誰のために切り開くのでしょうか。すべての衆生のためではないでしょうか。そうでしょう。親がいつも最もいいものを子供に上げたい、特に将来が更に素晴らしいものであるようにと、それと同じ気持ちです。(拍手)

弟子:圓満成就は一瞬の間に完成しますが、どうすれば先生から指令があるということが分かるのでしょう。
師:圓満成就に近づくと、あなたと接触し始めます。多くのことは直接にあなたに教えます。一部の人が圓満成就したと自称していますが、それとは全然違います。このように自称する人には本当に圓満成就した人は一人もいません。

弟子:西洋の人に法を広めるときに、宗教のことについて聞かれたらどうすればいいのでしょうか。
師:本を読ませます。ただ本を読ませるだけです。宗教のことに関して私は本の中に明確に書いてあります。聞かれたら本に従って説明すればいいのです。これで大丈夫です。

弟子:座禅するときに非常に痛いのですが、これはいいことでしょうか、それとも私の業力が多すぎて、これは相応の報いなのでしょうか。
師:違います。座禅して痛くない人はいません。昔体操やダンスをやった人、あるいは生まれつきで座禅できる人は、すぐ足を組めます。しかし、それはそのとき修煉していないからです。修煉し始めて間もなく、痛み始めます。双盤できるからといって、煉功しても業を滅させないことは絶対ありえません。ですから、修煉はあなたの次元を高めるものでなければいけません。

弟子:ベッドで横になったとき、手を下腹部のところに置くと、自分が波のように外へと広がっていくと感じていますが、これは邪法を修してしまうのではないかと心配していますが…。
師:これは体のミクロから表面への変化をあなたが感じています。さっきも言いましたように、ミクロからあなたを変え始め、最終的に表面までです。従って、非常に敏感の人はそれを感じられます。あなたが感じたのはわずかに過ぎません。とても多くのことをあなたはまだ感じられません。また非常に苦痛に感じる感覚もあります。

弟子:青少年時代に、いろいろな難や挫折を経験しましたが、法を得てからこれらの難は修煉の助けになるのでしょうか。
師:助けになる場合もあります。誰しも法を得るには苦労していました。もしこの人が法を得ると決まったら、彼の一生ないし何世かにこのために苦を嘗めていました。ですから、今日簡単に法を得たと思わないでください。世世生生で法を得るために苦労してきた人もいます。法を得るべき時期に法とすれ違ったら、これは本当に惜しいことです。法を得るためにこの世に来たわけだから…本当に惜しいです。

弟子:法を得たばかりの時期に、夢の中で危険に晒されると、いつも先生の名を呼ぶことを覚えています。しかし最近良くそれを忘れて、彼らと闘ったりしていますが、これはどういうことでしょうか。
師:これはとても珍しいことです。めったにないのですが、ごくたまにはあります。しばらく経つと良くなります。気にしなければどうということはありません。どうせ時間が経つにつれてよくなりますから。何かに遭ったらすぐ先生の名前を呼ぶのもまた別の執着ではないでしょうか。また夢の中の出来事について、自分の原因を探ってみないといけません。これはある状態の反映です。昔の道家の修煉方法によくあることです。特に内外兼修、つまり内面を修煉すると同時に、武術もやる功法によくこのようなことがあります。

弟子:鬱病とか精神障害を持つ人でももし真に修煉すれば、圓満成就できますでしょうか。
師:もし真に修煉すれば、できます。しかし、このような場合、表で煉功させないでください。本人のためですが、大法のためでもあります。もしうまく行かなかったら、大法に損失をもたらすばかりでなく、あなたも過ちを犯すことになります。ですから、自宅で煉功したほうがいいです。修煉さえすれば、どこでやるにしても見守ってあげます。ただし、これは修煉のできる人に限ります。つまりはっきりした意識があり、関門を乗り越えられる人です。

弟子:今までの人生を振り返ってみると、悔恨と自責を感じますが、法輪大法の弟子としてこの問題にどう対処すればいいのでしょうか。
師:何も考えないでください。過ぎたことは過ぎたことです。私はただあなたの心を見ています。ほかのことは師がやってあげます。もう終わったことなのに、いつまで経っても気になるのもまた一つの妨げと執着になります。もう過去は気にしないでください。面目を一新して、換骨脱胎して、あなたも新しい人になります。このようにしてください。(拍手)

弟子:私は『轉法輪』を読むときに、顔がただの殻になり、顔の裏が本を読んでいると感じるときがあります。これはどういうことでしょうか。
師:これはあなたの元神と体のミクロの部分が強かったからです。これもいいことです。

弟子:心性と境地について、どう理解すればいいでしょうか。二者はどういう関係でしょうか。
師:修煉して達した次元はあなたの心性の基準となりますが、あなたの境地でもあります。この境地に発したあらゆる思想、考えはこの次元の心性の基準と合致しています。しかし、常人社会で修煉する場合また違います。私たちはミクロから表面へと変化しています。表面上人間としてのこの部分は、まだ人間の姿かたちである限り、常人の心をまだ持っています。最後圓満成就に達したときに、これらのすべては変化してしまいます。しかし修煉するとき、必ず自分を厳しく律していけば、常人を越えた高い心性を持つことになります。

弟子:もし毎朝2時間半抱輪をし、夜座禅を2時間半もすれば、煉功時間は多すぎるといえますでしょうか。
師:時間があるとき煉功を多くすること、これは私は反対しません。煉功するのはいいことだからです。しかし、本を読む時間が煉功に取られたら、これは間違いだと思います。本を読み、大法を学ぶ、これは一番重要なことです。これは本質からあなたを変える保証であり、昇華の鍵となる原因です。煉功は圓満成就の補助的な手段です。煉功を第一位におき、法を学ぶことを二次的なものにしてはいけません。絶対だめです。まだその境地まで上っていないからです。どう煉功すればいいのですか。自動的に功があなたを練っているとはいえ、自動的にはそんなに伸びません。心性の基準がそこに達し、法を学び本を読んで法理を理解できれば、功は瞬間に上がっていきます。従って、特に煉功の時間を増やしてくださいとは要求していません。こういう意味です。しかし、煉功は不可欠なことです。

弟子:一部の功法では、副元神が煉功しに行って、殺された後にまた転生したと先生はおっしゃいましたが、その体は主元神が修煉しているのか、それとも副元神が修煉しているのでしょうか。
師:私がいつも言っていることを皆さんに教えましょう。人類のいる次元はあなたが一目で見通せますが、どのぐらいの空間があるかはなかなか調べられません。これはほかのもう一つの時空の場で起きて完成したものです。ほかの時空の場にはまたほかの時空の場があります。その中でこのすべてを成し遂げたのです。もちろん全ては副元神がやったことです。

弟子:翻訳チームが先生の経文を英語に訳しました、西洋の学習者に見せたいのですが…。
師:あらゆる翻訳したものを公開し、あるいは本にして学習者に読ませる場合、研究会が目を通してから決めます。大法全体に影響を及ぼす可能性のあることが多くありますから、とても肝心な問題ですので、必ず研究会に読んでもらってからにしましょう。特に説法の録音に関して、多くの問題は私が説明した後、誰に対しても同じ意味があるわけではありません。発表するなら、必ず私は改めて内容を整理し、本のようなものにして、みんなそれで修煉し、上達できるようなものにしなければなりません。ですから、誰であっても勝手にやってはいけません。これはもう非常に明確に規定してあります。何かのことをする際、大法のためにいいことをしていても、大法全体に及ぼす影響も配慮しなければなりません。したがって、この問題は重く見るべきです。

弟子:「もう大量の時間を討論に費やさないでください」と先生は『法に溶け込む』という経文の中におっしゃいましたが、勉強会に参加しなくてもいいと理解している人もいますが…。
師:グループで本を読んで法を学ぶことと個人ですることとは両方とも必要なことです。極端から反対側の極端に走らないようにしてください。

弟子:違う経文を暗記するとき、その難しさに差があると感じていますが、これは錯覚ですか。
師:私が書いたものの中に確かに分かりにくいものもあります。これは確かなことです。どうしてこのように書くかもそれぞれの目的があります。理解できる範囲まで理解すればいいのですが、理解の程度がどこにあっても間違いではありません。それはただ認識の程度の差です。

弟子:経文を暗記する時、私はそれを書く習慣がありますが、この手書きの経文をどう扱えばいいでしょうか。
師:このようなことをするとき、修煉者の心構え、すなわち先生と大法を敬う気持ちを持たなければなりません。こういう場合は、経文を燃やしましょう。常人の火は神さまのいるところまで届かないから、使い終わったら燃やせばいいです。歴史の今の時代は特別な時期なので、そうしてください。しかし、大法の本を絶対燃やしてはいけません。

弟子:古い弟子がとても先生に会いたいと思っていたのですが、これは執着ですか。いったん先生に会えたら、思わず涙が出て、何も話せなくなりました。これもまた執着になるのでしょうか。
師:私に会いたい気持ちの中に、執着心を生み出してはいけません。多分皆さんが大法を修煉しており、先生が伝えてくれたこの大法はあなたを済度するので、この考えから私に会いたくなったと思います。私に会って、何も話せなくなったのはおそらくあなたの変化、あなたに起きた変化によるものだと思います。表面に何も見えないのですが、修煉して既に基準に達した部分、あるいはあなたの元神、迷いの中にない部分はいろいろ見えているからです。私に会うと、彼らもすぐしっかりしてきます。彼らが少しだけしっかりしてきたら、あなたの人間の部分は直ちに弱まっていきます。表面上、あなたがなぜ泣いているか知りませんが、実は別の部分はあなたのために私の与えてあげた全てを見ています。それは如何なる言葉でも、如何なる方法でも恩返しできないものです。(拍手) 一種の言い表せない感激の状態です。

弟子:双盤は非常に苦痛ですけれども、まだ我慢できますが、しかし体のあらゆるところが絶えず激しく痙攣しており、入静できません。
師:双盤するとき、痛みを感じる段階は必ずあります。特に今まで双盤をしたことのない人は、体の表面にある物質構造が不慣れのほか、業が滅されている時、非常に痛みを感じるはずです。もし足を三十分組めれば、三十分すぎると、非常に痛くなります。これは間違いのないことです。ただ痛むだけではなく、心も乱れます。ですから、昔修煉をする僧侶は座禅だけしていると思われますが、心性も高めています。ただ私たちのように直接に心性を高めているのではありません。彼らの修煉の上達はずっと遅いものです。心が乱れている時は業力があなたに足を崩させていますが、意志の強い人はどうしても足を崩しませんので、心性が高まっています。これも難の中に向上するケースの一つです。時には激痛を感じ、吐き気、戻しなどをし、とても激しいのです。

弟子:今既に最終段階に入り、時間を大事にして法の勉強に力を入れるべきだと思う学習者がいますが…。
師:最終段階なんて言ったことはありません。法の勉強のため、仕事をやめる、それは大法を破壊することになります。こういうことを言い散らしている人、こうした人は大法に対しても自分に対しても無責任です。仕事をやめる、仕事を投げ出すなど、誰からそう教えられたのですか。これは大法を破壊することではありませんか。私は既に言いましたが、人も大法に円融しています。もちろん人がどうやって大法に円融するかと思う人もいます。よく考えてください。大法はあなたを済度することができます。これは間違いありません。そうしたら人はどうやって大法に円融しますか。人は常人社会という次元におり、みんな過ちを起こしたりして、常人社会では常人のようにふるまっているなら、法輪功を練習する人でもそんなことをすると回りの人から言われます。もし私たちがみんな自分の行動を正して、修煉している人の基準を自分に要求し、正々堂々と修煉する弟子であれば、それも良く考えてください。周りの人がそれを見て、「あ、これらの人は法輪功を修煉している人です。とてもいいですね」と思うようになります。どこにいっても人から信頼され、どこにあってもいい人であれば、法輪功がいい、大法がいいと周りの人が言います。そうしたらあなたは常人という次元で大法に円融しているのではありませんか。こういうわけではありませんか。ですから、私たち自身の振る舞いが大法に合致していないと、大法に円融するどころか、大法の顔に泥を塗ってしまいます。大法があなたを済度しているにもかかわらず、あなたは大法を破壊するなら、この関係をどう扱えばいいのでしょうか。どのようにあなたを判断すればいいのでしょうか。修煉は厳粛なことです。業力だらけの人が圓満成就に達したければ、このことを重く見ないといけません。この世にほかにこれよりもっと偉大、もっと厳粛なことが存在するのでしょうか。

弟子:知識人が『轉法輪』を通読するときになかなか馴染めないのです。大学の教科書などの風格とどうも違っているように感じ取りますが、これは個人の縁と業力とは関係がありますか。
師:これは一部の知識人の大法を得る妨げとなっていますので、破らなければいけません。彼の既成観念は彼を阻んでいます。彼の現代文学に対して形成された観念が新八股(訳者注:八股とは明時代に流行した文書を書くときの古典的なフォーマット)であると私は言うならば、認めたくない人がでると思います。しかし、あくまでも定義のある語彙を羅列しているだけで、更なる深い意味合いはありません。これは今日の言葉、人間の浅はかな言語です。また、定義づけられた言葉は最も浅い意味しか表せません。このような言葉では大法を表現するには不足です。先生の本が近代の文法にあっていないという人もいますが、これについて私は全面的に認めます。確かに近代の文法にあっていません。しかし、あることについて考えたことがありますか。大法は異なる次元にいる生命に生息の条件と環境を切り開いてくれました。その中に言語と文字も含まれています。つまり人類の今日の文化も大法が開拓してくれたのです。そうしたら、この宇宙大法は人間の文法規則に制約されることができますか。私たちはただ人間の言語や文字、文法を利用して大法を表現していることに過ぎません。どう利用するかのことになると、それは私たちの自由です。いかにもっと深い意味合いが明確に伝えられるかによって、言葉を駆使しています。したがって、私は近代の文法を完全に破り、その規範にまったく従わずにやっています。私が説法しているときも規則に合う言葉を使っていません。こうしてはじめて大法を明確に伝えることができます。こういうことです。大法、この宇宙大法は人間の言葉に縛られてはいけません。私はただ人間の言葉を利用しているだけです。どのように利用するかにあたって、どう並べてもいいのです。大法を伝えられることさえできれば、私はうまく表現できる順序で言葉を並べています。大法はこれからの人類にも新たな言語と文化を創造しますから、全てを最高の状態に還元させなければいけません。ですから、今慣れないのはあたりまえのことです。

弟子:足を怪我したことがありますが、双盤できるようになったものの、最近なぜかどうしても双盤できなくなりました。
師:それは自分に原因を聞いたほうがいいです。一つは大法の勉強に精進していないのではないでしょうか。あるいは過ちを犯しても改めたくない、またはそれを悟らなかったのではないでしょうか。もし今日は大法に符号し、物事を正しく対処できたら、もともと十分しか双盤できないにもかかわらず今日はきっと二十分双盤できます。多くの学習者にはそういう体験があります。けれども、物事は絶対的ではありません。もし近頃わりと大きい業を滅するといった場合にも、このような現象が現れてきます。

弟子:幾つかの信息を受け取りましたが、どうすればそれが自分の思惟ではなく、覚者から伝えてきたものだと区別できるのでしょうか。
師:どんな信息を受け取っても、気にしないでください。気にし始めると、それに執着することとなります。そうしたら、いろいろな形であなたを邪魔したり、信息を与えたりして、あなたを妨げます。このような能力が閉鎖されていないのもいいことですが、本人次第です。どんな信息が、聞こえたとしても、見えたとしても、それに気を取られないでください。ただひたすら大法にしたがって修煉してください。道理は既に文字にしましたから、信息などとんでもありません。偽りの信息があなたをちょっとだましたら、あなたはすぐに落ちていきます。とても容易いことです。ですから、この問題についてくれぐれも気をつけてください。

弟子:高い次元の空間で誕生した生命が落ちてきて、修煉を通じてまた元に戻れば、元とはどういう区別があるでしょうか。
師:高い次元にいる生命体はあなたが想像したように、簡単にすぐ落ちてくることはありません。ただこのような現象は存在しています。修煉してまた元に戻るということになると、それはもっと難しいことです。あなたはこのわずかな言葉で書きましたが、そう簡単なことではありません。皆さんがどのように法を得たのかご存知ですか。あなた方が地球上に転生し、また、あなたを済度する人もその時に生まれ合わせ、さらに、あなたも人を済度できるほどの大覚者に出会い、そしてこの法を聞くことができるということは、本当に簡単なことではありません。法を得たらずっと続けていかなければなりません。昔釈迦牟尼の弟子の中に彼の説法に不信を抱いている人もいました。お昼に法を聞いて出家したが、つまらなくなって、夜袈裟を脱いで逃げてしまうこともしばしばありました。佛がこの世を去って長い歳月が経ってから、これが真理だとだんだん皆気がついて、やっと大事にするようになってきました。本当に修煉して元に戻れば、元と何も変わりはありません。

弟子:「上士、悟りで圓満成就に達す」、「真相が明らかになるとき」などの具体的な意味を説明していただきたいのですが…。
師:上士、悟りで圓満成就に達す、みんなに教えましょう。今在席の皆さんは殆ど悟りで圓満成就します。真相をお見せしません。いずれかの執着心が起きるのを心配していますから、そうしました。続けて修煉し、絶えず精進していく人は私に言わせると本当にえらいです。将来上まで修していったら、誰でも感心します。これは悟りで圓満成就に達すという意味です。神通が顕現し、何でも見られたら、上達が遅くなるだけでなく、もし本当に全てが明らかになったら、それは貴方が修したとは言えなくなります。もし私が迷いを少し破ったら、高い次元から来た人にとっては、迷いを少し破ってももとのところに戻れなくなります。ですから、どんな次元から来た人に対しても、そうしなければなりません。真相が一旦顕れたら、修しにくくなります。人への要求も高くなりますし、修煉方法も厳しいから、上達も今のように早いものでなくなります。

弟子:卵を割ってしまったことは殺生といいますか。
師:正々堂々と修煉します。実は私は先ほどこの道理について詳しく説明したと思います。人間の生活を送っているわけだから、貴方が肉を食べなくても、家族の人は肉を食べます。貴方は修煉していますが、家族の人は修煉しないかもしれません。最大限に常人の生活に合わせながら、修煉します。大事なところに着眼して正々堂々と修煉していけば、このようなことにも上手に対処できます。精進料理を食べたら佛になれるなんて、冗談です。それはただ一つの執着心を取り除けます。つまり肉への執着はなくなります。なまぐさに執着しなくなります。この心だけです。しかし、一人の人間として取り除くべき心はたくさんあるわけだから、ただ一つの心を取り除くだけで佛になるわけがありますか。絶対不可能です。常人の中で正常に修煉していけるため、このことについて最も入りやすい門を開きました。卵を食べたければ、自分が食べられるときに食べればいいです。ただし、出家した人は別です。

弟子:どのようにしたら奥に隠れている執着心をもっと早く取り除けますでしょうか。
師:私がそれを分からせますが、いざそのときになると、貴方はそれを取り除かない恐れがあります。必ず分からせます。全ての心を晒け出します。私ではなくても、ほかの人から分からせます。トラブルが起こるときに貴方のこの部分をたたくかもしれませんが、そのときになるとまた外に向かって探し、それらの心に触れない恐れがあります。必ず分からせます。ご安心ください。

弟子:弟子はいつでも先生について行きたいのですが、圓満成就の壮挙のときを知ることができますか。
師:圓満成就すべき人が取り残されることはありません。修煉に専念し、わき見をしないでください。私はある羅漢の物語を話したことがありますが、怯えることや喜ぶことなどの心があっても圓満成就に至ることができません。もし更なる高い次元での圓満成就に達したい場合、貴方に対する要求も高くなります。全ての心を切り捨ててください。その一瞬にいろいろな雑念が出て来たら、貴方は本当に圓満成就できなくなります。貴方の足を引っ張ることになります。

弟子:先生の説法はますます明示のものとなり、悟る必要がなくなりますが、これでも修煉と言えますでしょうか。
師:みんなここに座っているとはいえ、私の話に対して、各自それぞれの次元でそれを理解していますが、決して一様なものではありません。(拍手)皆様にお話をするのはやはりその話ですが、つまり、そんな高い理を説いていても、ただ概括的にその表面を話しているのに過ぎません。実質的なことは分からせることはありません。もし分かってしまったら、修煉は難しくなります。私が説いているのはただ一つの理です。真相を示しているわけではありません。したがって、まだ迷いのままです。信じることと信じないことはまだ共存しています。

弟子:週に三回グループで『轉法輪』を読み通していますが、交流の時間があまりありませんが、これはいかがでしょうか。
師:大丈夫です。たくさんの時間を費やして何を交流するのでしょうか。通読、時間は全部法の勉強に使ってください。(拍手) もちろん、時間を作って自分の体験を話し合うことも必要なことです。毎日煉功が終わって互いに切磋琢磨してもかまいません。

弟子:教養レベルの差と理解力との間にどのような違いがありますでしょうか。
師:違いがあります。読み書きのできない人なら本を読めません。語彙の少ない人は本を読むのに困難があります。現代人は全部近代のこの科学によって育てられているので、私も現在の科学や現代の科学や現代の文化を借りしながら話しているだけです。もしある名詞の意味合いを理解できなければ、これこそハンデキャップです。ですから、勉強する際、苦労します。しかし、努力すれば、取り残されることはないと思います。

弟子:私はずっと愛情に悩まされています。彼とけんかすると、すぐ分かれたくなりますが、しかし、これは逃避しているのではないかと思ってしまいます。もし彼と仲直りしたら、これはまた愛情への執着になるのでしょうか。
師:これは別の話だと思います。お教えしましょう。常人の社会から離脱し、圓満成就に至るまで、貴方の情はずっと存在しています。これは貴方が常人社会で修煉できることを保障する方法の一つです。そうしたら、情があれば、貴方の心もこの情に振り回されます。貴方のできることはただできる限りそれを抑えることです。できるだけ修煉者としての状態を保ち、常人のように思う存分に行動しないことです。少なくともよい人になりたいと努力します。これは常人と異なるところです。もちろん、あなたは恋愛したり、結婚したりすることも何の影響もされません。ただこのような関係です。私たちは既にお話しましたが、最大限に常人社会の状態に合わせながら、修煉します。もしどうしても恋愛したくない、一生結婚したくないと思うなら、それは個人の問題になります。結婚したくなければ、しなくてもいいです。無理に要求することはありません。全てのことはみんなそうです。しかし、弟子として、身を清らかに保たなければいけません。

弟子:友人からプライベートのことを聞かれたとき、私はうそをついてもいいのでしょか。
師:話したくないことなら、話さなくていいです。できるだけ話をしません。常人の言っていることはどうせたいしたことではないから、最大限に常人の中で修煉できる傍ら、修煉者としての基準にも合致できれば、そうすればいいのです。

弟子:余計な面倒を避けるために、人を傷つけない限り、うそをついていいのでしょうか。
師:この世のことは複雑で、いろんな複雑な環境で作り出したその問題もきわめて複雑なものです。しかし、皆さんにお教えできることは修煉者はうそをつかないことです。もし、本当に殺人や放火事件を阻止するためにうそをつくのであれば、それは貴方の間違いとはいえません。この関係をどのように調和させるかです。修煉者にとって難しい問題ではないと思います。実は言いたくないことがあれば、言わなくていいのです。

弟子:修煉して一年経ちましたが、まだ双盤ができません。できなければできないほど、焦りがつのります。
師:大丈夫です。どうしても双盤できなければ、それができないからといって圓満成就させないことはありません。しかし、一人の修煉者として貴方は双盤できるようにしなければなりません。お教えしますが、冗談ではないですけれども、修煉ぶりのよい人が足を組めなければ、上にいる菩薩も口を隠しながら貴方を笑っています。本当にそうです。でも焦らずに、だんだんできるようになります。私はもう時間に間に合わないようなことを言ったことはありません。

弟子:どうして煉功の時、あるいは法を勉強する時、腰のあたりが暖かくなるのでしょうか。
師:人の修煉の各種の状態は本当に何千万種を超えます。いろいろな状態が現れます。もしあらゆる状態について私にいちいち聞いたら、貴方はどう修煉しますか。貴方はまだ修煉者ですか。ですから、このようなことを気にしないでください。自然に任せます。修煉する人は寒さにも熱さにも強いし、風にあたっても病気になりません。

弟子:夫婦仲の睦まじさも定められたものですか。
師:これは特に定められたことではありません。しかし、業力の報いがあります。業力でできたものです。夫婦の間はその大多数が前世に来世の夫婦の縁が作られたのです。大体そうですが、絶対ではありません。

弟子:大法を修煉しても、観音様を祭ることはできるのでしょうか。
師:本を読んでください。この質問にはお答えしません。多くの学習者は私に聞きましたが、先生、どうしてわが国にいらっしゃいませんか、先生、どうして私のいる地区にいらっしゃいませんか。行かないのではなく、皆さんが法に対して一定の認識を持って、成長してくるのを待って、それから行きます。こうしたほうが皆さんのためになります。(拍手) もし私が行って、法輪功はどういうものですかというような質問をされるのであれば、行っても無駄になってしまいます。そうではありませんか。先の質問のように、私たちは時間があまりないのですが、本を読まずに、ここで観音様を祭ってもいいですかと質問するようであれば、私が説いていた法は無駄になります。それが道理というものではありませんか。

弟子:先生はこのようなことをおっしゃったことがあります。「私はこの法の中にいません」、どう理解したらいいのでしょうか。
師:これが理解できないことはないでしょう。私はこの宇宙の外にいられないというのですか。(熱烈拍手)

弟子:ある日の早朝3時ぐらいに空を眺めましたが、遠い上空から私から何十メートルのところまで星が流れてくるのを見ました。緊張したら、なくなりました。
師:ほかの空間でこの宇宙を見たら、全ての物体は不変なものではありません。存在の方式もこの空間と違います。あそこの時間場の構成と私たちのこの空間の時間も絶対同じものではありません。ですから、この空間の全ての概念を用いても解釈できないのです。貴方が見たということはいいことです。

弟子:学習者は自主的に『轉法輪 巻二』をコピーしたり、印刷したりして、煉功場でまわしています。
師:『巻二』はその後、ずっと再版していません。中に佛教の痛いところを突くところがありましたので、もうできるだけ触れないようにしています。再版はしていません。何らかのルートで入手して自分で読む分にはかまいませんが、複製して人に配布したりすることはだめです。
 
弟子:以前、琴を弾く時に、お香を焚いていましたが、今でもまだできますでしょうか。
師:やってもかまいません。これは修煉ではありませんから。お香を焚いたり、琴を弾いたり、琴や碁や画や書道などは中国古代の人の趣味ですから、それに反対はしません。ただし、貴方の次元の向上につれ、このような常人の心は少なくなります。向上すればするほど、少なくなります。でも現段階ではどんなことでも無理にしないでください。

弟子:討論を少なくし、法の勉強を多くする、つまり『轉法輪』を読み続けることを多くしたほうがいいと思う人がいますが、私はこれが偏った理解だと思います。
師:実は多く本を読み、多く法を勉強すべきです。もし読みに疲れたら、ちょっと休憩して自分の得たものについて話し合っても、大丈夫です。しかし、法がいいか悪いかについて議論してはいけません。自分について話すのにあまり時間をかけないでください。たくさん法を勉強し、よく本を読みます。そうでしょう。一人の人間は一つの容器のように、何かを入れられたら、そのものになります。法をたくさん吸収したら、法に同化することになります。もし貴方は土を入れられたら、土になります。
弟子:第五の功法にかかる時間は長いのですが、時間の把握はどうすればいいのでしょうか。
師:絶対的な制限はありません。自分の能力によってしてください。具体的な制限はありません。この五つの功法をバランスよく仕上げるにはちょっと時間がかかります。しかし、まだできなければ、途中で休憩をしてからやってもいいのです。ただし、自分を高く要求しなければいけません。できるだけします。

弟子:修煉の時間は厳しいものですが、煉功と法の勉強との時間の割合をどう扱えばいいのでしょうか。
師:何の割合もありません。法を学ぶ時間を厳しくというのはただ精進してくださいという意味で言っています。その先のことは、私は言及したこともありません。ただ法を勉強し、修煉してください。煉功と法の勉強との時間の割合はつまり、たくさん法を勉強し、煉功は朝晩ですればいいのです。夜中に起きて座禅してもいいです。

弟子:家で煉功すると、グループで煉功する効果は同じであれば、車で往復1時間半をかけて毎週のグループ煉功に参加する必要はありますか。
師:家で煉功するのと外で煉功するのは同じです。ただし、家でするより、外で煉功するほうが貴方を煉功させる外的な条件があります。たとえば、みんなで双盤していれば、痛くてたまらなくても、みんなが崩していないのを見て、貴方も崩せなくなります。これは時間延長を促進することになりました。みんな一人一人の言行は大法の中の弟子らしくなります。私たちのこの環境はきわめて貴重なものです。どこの社会においてもこのような純粋で清らかな環境はありません。これは家では得られないものです。家にいると怠けて、煉功が多くなったり少なくなったり、精進したり精進しなくなったりして、弛んでしまいます。もし、本当に自分をコントロールして修煉できれば、それは同じです。貴方はまだ常人の心を持っていますので、自分を上手にコントロールできないからこそ、外で煉功するようにと求めています。
 また、いつも法を広めると言っていますが、多くの人に法を得てほしいのです。考えたことはありますか。たくさんの人がいる煉功場面は最もいい法を広める方法です。どうして力添えをしないのですか。どうして円融しませんか。もちろんもし家が遠く、来るのは不便であれば、家で煉功してください。もし将来的に人が増えてきたら、自宅あたりに煉功場を設立すれば、それはもっと便利になります。

全部の質問に答え終わりました。大手印をしてほしいという人がいます。(拍手) この熱心な拍手もしてほしいということだと思いますが、そうですか。そうしたら、大手印をやります。


                      




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