スイス法会での説法

李 洪 志

一九九八年九月四、五日 ジュネーブにおいて


 皆さん、こんにちは!

 ここにシンガポール法会に参加したばかりの方や、ほかの国或いは地区から駆けつけてきた方もいれば、新しい学習者もいます。法会を開く目的は法会を通じて皆さんが修煉の中でお互い参考にしあって、自分の足りないところを見出し、共に向上するところにあります。同時に、法会を開くこと自体も法を弘めているのです。私たちがやろうとする全てのことは皆、皆さんの修煉のため、向上のためであり、決して形式的なものになってはいけません。ですから、将来如何なる時も法会を開く際、この原則に基づき、本当に学習者を向上させ、着実にこの目的に達成することができてから始めてこのような会を開くことができるのです。法会の開催が多すぎたら、お互いに見比べるような現象が表れがちです。あなたがこのように開催したら、私はあのようにやるといった具合です。皆人間の心を抱いていれば、それではいけません。私たちは法を出発点にして、完全に学習者の修煉のために法会を開くべきです。

 ここに古い学習者が多くいますが、皆さんにお会いしてとても嬉しく思います。私たちは確かに修煉という道に勇猛邁進して己を高めています。皆さんの変化は皆さん自身には今のところまだ分からないのですが、変化は非常に大きいのです。これは近い将来に証明され、感じられます。ですから、私は非常に嬉しく思っています。

 皆さんは最近の修煉において、私の法会での説法を聞き、また絶えず『転法輪』を深く勉強しているので、多くの真相の現れが見え、法に対して異なる更なる深い理解を得ることができるはずです。同時に、私は更に皆さんの修煉の過程及びもう一種の宇宙の構造に対する認識についてお話したいと思います。まず宇宙のもう一種の構造についてお話します。ここで一つだけ言っておきたいのですが、宇宙は実際のところ法によって構成されたのです。私が宇宙についてお話するのは、決して現在の科学を高い境地まで発展させるためではなく、知識として皆さんに教えるのでもなく、皆さんが修煉できるようにするためです。それが法と相補っているので、皆さんを異なる境地まで修煉させるためなのです。つまり、皆さんは異なる境地にあるあなたの生まれたところ、宇宙の異なる次元、異なる境地に戻るのです。この宇宙の大きさはすなわち法の大きさです。皆さんの考えにとってこれはまだ未知の概念です。今日、私は別の角度からお話しますが、皆さんの考えがついて来られるかどうかも見てみたいと思います。

 まずこの宇宙についてお話しますが、宇宙に言及するとすなわち物質、物質に対する認識に言及することになります。現代科学の物質に対する認識はいくらレベルが高くても、まだ極めて浅はかなものであり、しかも宇宙全体と比べたら、口にするほどのものではなく、全く比べものにはなりません。ご存知のように、私はこの宇宙が基本粒子によって構成されたのだと話しました。基本粒子はどういうものによって構成されたのでしょうか? これは具体的に話さなければなりません。異なる天体の次元という概念で認識すれば(異なる宇宙の次元と言っているのではない)、天体はどれぐらい大きいのでしょうか? その中の一層の天体の範囲は既に非常に大きいのですが、規律があって平均何層かの宇宙が一層の天体を構成しているのではありません。およそ一万層以上の宇宙が一層の天体を構成している場合がありますが、一億層以上の宇宙が一層の天体を構成している場合もあります。この概念はとてつもなく大きいのです。ですから一層の天体は想像できないほど厖大な宇宙の範囲を有しています。

 人々は宇宙という概念について話した時に、殆ど人々の認識できた星系の存在範囲について話しており、現在科学が観察できた範囲は、つまり人々が言っている小宇宙のことです。私は地球という基点からお話します。この小宇宙は三千の我々のこのような大きさの小宇宙によって第二層の宇宙を構成したのです。また三千の第二層の宇宙のような大きさの宇宙によって第三層の宇宙を構成しました。その倍数が相当大きいのですが、それは一つの基点から展開して話しているだけです。しかし、地球のような大きさの粒子は宇宙において、一つだけではなく、地球と同じような大きさをしている粒子は宇宙で満遍なく分布しており、計り知れないほどあります。先ほど宇宙の拡大した倍数は一つの粒子という基点から言っていると話しましたが、実はそれが天体全体に分布しているので、一切の一切にこのような大きさをしている粒子があります。皆このような展開できる体系を持っており、大から小、小から大に展開しています。この小宇宙という層は人類にとって既にとても、とても大きいもので、中にどれぐらいの大きさの異なる星の粒子があるか数えることができません。なぜでしょうか? 非常に高い次元にいる佛、道、神は全てを洞察することができますが、誰もほこりがどのぐらいあるか調べようとしません。実は星は厖大な天体の中で一粒のほこりのように宇宙天体に漂い広がっています。

 三千のこのような大きさをしている宇宙は絶えずその範囲、その体系を拡大し、広がっていますが、一千層前後になると、第一層の天体の体系範囲を突破します。しかし、この範囲も一つだけではなく、厖大な宇宙の中でそれも一つの粒子に過ぎず、この層の粒子も茫々たる宇宙に遍く分布しています。この範囲を出ると、全体が空の状態になります。どこまでの空なのでしょうか? この体系のあらゆる物質はそこに入ったら自ら解体してしまうことになります。なぜならば、この体系範囲内にあるあらゆる物質は生命があり、特性があり、思想があるからです。これほどミクロ的な空の状態に入ることは、つまりこの粒子は既に思想と生命に耐えられなくなるようで、瞬時に解体してしまい、つまり如何なるものであっても中に落ちてしまうと解体してしまうのです。このように話せば、この概念について皆さんは理解しやすいのです。しかし、この空の境地を越えると、実はまだ他の天体、更に大きい範囲の天体があります。この境地の生命はその天体に一歩も立ち入ることができませんが、なぜならば、更にミクロ的な状態、更にミクロ的な状態に、さらにミクロ的な要素が存在しているからです。しかし更に大きい天体範囲になると、その天体にある物質と生命の概念が完全に変り、物質の概念は既に存在しなくなります。この天体の範囲において、宇宙の層の数が違いますが、一層一層の天体を構成する最もミクロ的な最も基本の粒子があるのです。ところが、基本粒子は全て真・善・忍という宇宙の特性の組み合わせによって作られたのです。

 ここで話している概念は非常に複雑ですが、人類の言葉が実に限られていますので、集中して聞いてください。例えば、ある層の最大の顆粒物質もそれ自身の体系が限りなくミクロ的な粒子から発展してきたのであって、それは横方向の粒子の組み合わせ体系と言います。つまり物質の粒子は縦方向にミクロ的な体系から組み合せてきただけではなく、それ自身も、自ら構成した体系でミクロから更に大きい、更に更に大きい物質によって構成されています。つまりこの体系にある全ての大きさの異なる粒子自身も、ミクロ的な物質から構成された体系です。しかしこの体系にある全ての大きさの異なる粒子も遍く分布していますから、大きさの異なる粒子の間にまた横方向に組み合せている体系を成しています。そのため、その最も基本的な粒子はその最大の層の粒子まで遥かに離れています。

 では、最も本源的な物質は一体何でしょうか? 水です。しかし私が言っているこの水は常人社会の水ではなく、異なる次元にある江、川、湖、海の水でもありません。この水はその次元の天体にある全ての物質と生命を造成しており、本源と言ってもいいのですが、本源と呼ぶしかありません。しかし、この水はまた私たちが認識した常人の空間にある水のような概念ではありません。正確に言えば、死水と呼ぶべきです。なぜならば、それが動かず、完全に静止しており動かないので、ものを投げ込んでも細波も起きることなく、水切りもありません。

 水についてお話していますが、まず人間社会の水についてお話します。人類の科学で例をあげて説明してもいいのです。この常人社会では、皆さんもご存知のように、現在科学者が有機物と無機物を言っていますが、それはこの空間に限っての認識です。物質の構成はただ表面のこの空間の物質からだけではなく、通常科学者は木、花、草、植物、動物、人間も含めて、この空間で人間が命のあると思ったものを有機物だと認識しています。実はこれらのものは全てこの空間の水で構成されたのです。ご存知のように、私たちの体の90%以上が水です。つまり私たち人間もこの空間の水によって構成されています。昔、私は水が万事万物を構成できると言いましたが、現在の科学者はまだそこまで探測できません。しかしこの物質空間の水から野菜を生育することができます。手で野菜を絞りに絞れば、最後に何も残らず、ただ葉緑素だけが残っています。特殊処理をすると葉緑素は何も残らず、全て水になってしまいます。この空間のすべて、人々に有機だと思われた物質は実はこの空間の水から来たのであって、つまり水が全てを形成し、全てを造成したのです。

 無機だと思われた物質ですが、実は皆さんに教えますが、それは更に高い次元の水でできたのです。しかし現在の科学者はそれを認識できず、生命がないと思っていますが、実は生命があるのです。その生命の存在形式は現在科学者が認識できるものとはほど遠いのです。科学者が現在の観念に基づいて進めても永遠に認識することができません。昔、中国の古代の修煉界でこのような話がありました。ある神仙は非常に優れた能力を持っており、石を鍋に入れたら水を搾り出すことができます。笑い話のように聞こえますが、実はそうではありません。この宇宙が構成した天体の範囲内に存在しているあらゆる物体はその最も本源的なものが皆、水なのです。更にミクロ的な水はどのようなものなのでしょうか? そして更に更にミクロ的な水はどのようなものなのでしょうか? それは不可思議なもので、想像できないものです。ですから皆さんにとってそれが一つの概念に過ぎないと言いました。

 先ほど異なる次元の粒子に皆最も本源的なもの、最も本源的なものがあると話しました。しかし、この粒子全体に縦の順序もあれば横の順序もあります。まさに私たちが地球にいて、幾つかの銀河系が一つの宇宙を構成し、また幾つかの宇宙が更に広範囲の宇宙を構成することと同じです。ここで地球を一つの基点としていますが、私たち人間がここにおり、私がここで法を説いているから地球を基点としました。しかし地球が宇宙の全ての物質の基点ではありません。私たちは自分が見た周りの全ての物質を最も物質的なものだと思っています。今まで説法の時、皆さんの思想を混乱させないようにそれを最低の物質だと話しました。実はそれが唯一の物質ではなく、基本物質と呼んでもいいのですが、別の言い方で呼んでもいいのです。超物質、更なる超物質、更に更なる超物質もあります。

 地球は三界の中心に位置していますが、縦にしても横にしても顆粒の大きさにしても地球は中心にあります。地球の質量より更に大きい物質はまだありますが、ここでいう質量は私が今まで話した質量ではありません。原子や原子核で構成したものの質量は非常に大きいなど、全くこのような概念ではなく、それは人類が認識した物質です。私が話したのは超物質であり、人類の空間の物質ではありません。しかし、顆粒にしても表面の構成状態にしても、皆、この空間の物質を超えています。ですから最も大きい超物質の基点は三界の果てにあります。また最も小さい物質の基点も同様に三界の果てにあります。人類の空間は大きい物質と小さい物質の真中にあり、これは即ち人類が認識した物質の基点です。もし人類のこの空間の全てを物質と呼べば、三界内にある人類世界の物質より小さいものを非物質、更に小さいものを非非物質と呼ぶしかなく、このように三界内の最も小さい粒子に到るのです。以前宇宙の中の大きさの概念が常人の認識した大きさの概念のようではないと私は話しましたが、つまりこの意味です。

 天体宇宙全体も同じです。粒子は生き物であり、生命のあるものです。それでは皆さん考えてみてください。宇宙がいくら広くてもそれも生き物です。しかし、天体の範囲内に無数の大きさの異なる粒子があり、それも一つ一つの生命体として存在しています。この宇宙に何層の天があるのでしょうか? 何層の宇宙があるのでしょうか? 何層の天体があるのでしょうか? 中に存在しているあらゆる生命はこの宇宙の厖大さと複雑さを推し量ることができません。私が話した天体という概念は千万層以上の宇宙によって構成されていますが、それもこの無限な厖大な宇宙の一粒のチリに過ぎず、非常に小さい粒子です。もしあなたが遥かに遠いところにたどり着くことができれば、振り返ってみたら、それは人間が砂を見る時よりも小さく感じるのです。更に遠いところから見ればチリよりも小さいのです。更に遠くなればまったく見えなくなります。はっきり言えば、先ほど皆さんにいろいろお話をしましたが、宇宙全体が粒子から粒子を構成し、更に粒子から粒子を構成していると思われているかもしれません。実は更に広いところまで見れば粒子から構成されたということではなくなり、それを表現する言葉もなく、人間に明かすこともできません。

 しかし、人間の思想には限界があるので、私が粒子から粒子を構成したと話すことによって、皆さんをまたある単純な法則に導いてしまいましたが、実はそうでもありません。宇宙の構造は非常に複雑で、人間の言葉では明らかに表現することができず、しかも我々の空間から離れると、思想、時間、空間、生命の形態など全て変わり、特に時空が変ります。粒子と粒子の間に大きな差異があり、例えば星と星の間に距離があり、その距離は非常に遠いものだと私は知っています。しかし私たちの体、木のかけら、空気、水などの全ては皆分子で構成されています。分子も一層の粒子ですが、この層の粒子は星とわずか一層の違いだけです。つまり星より小さい粒子の中で分子が最も大きいのです。分子より小さい粒子の中で最も大きい粒子は原子です。それでは分子と原子の間の距離は我々人間の概念で認識すれば、距離がないほど近いものだと思われています。しかし、もしその状態に入ることができれば、中に同様にその空間の時間、状態があるということに気づき、それも一つの極めて果てしなく広い空間であり、全ての層がこのようです。分子と星の間に立って見れば、天体を非常に広いものだと感じますが、もし原子と分子の間に立って見れば天体はそれよりも広いと感じます。つまりその時間と空間の状態に適応してから、はじめてそれを認識することができます。

 先ほどの話は、星と星が相当離れているのに対して、我々人間の概念で認識すれば分子と分子の間が非常に近いと感じられていますが、実はそれもかなり離れているということを皆さんに教えたいのです。粒子は、我々人間、各種の動物、各種の植物、木やセメントや鉄鋼、及び私たちが生存するのに必要な空気等無数の生命を構成することができます。以前私は人間が、本当のところ泥の中で生存していると話しました。虫が泥の中をうごめいていると私たちに分かりますが、ご存知ですか? 実は神も私たちをこう思っており、人間も泥の中をうごめいています。なぜでしょうか? 私たち人間は土を見て、それを土だと思いますが、神は全ての分子、つまり三界内の分子を泥だと思っており、しかも最も荒い物質、最も汚い物質であり、神はそれを泥だと見ています。確かにそれが泥です。ですから、皆さん考えてみてください。神はどのようにこの宇宙、この世界を見ているのでしょうか? 空気も分子で構成されているし、あなたの周りにある全ての環境は、皆、分子で構成されており、またこの空間の水も分子で構成され、空気までもそうです。神が分子を泥だと思っているので、あなたは完全に泥に埋められています。人間は泥の中を這いまわっており、このような環境の中に生息しています。このように話したら、皆さんは多分、なぜ西洋の宗教のエホバ或いはイエスも主が泥で人間を作ったと話したのかがお分かりになったと思います?! 実は東洋の人も女媧が泥で人間を作ったという物語を伝えています。このように話したら、多分理解できると思います。実は神はこの空間にある全ての物質で構成された粒子を泥だと見ていますが実はそうです。

 先ほど粒子が空間の全てを構成でき、異なる天体が皆広々としており、非常に繁栄していると話しました。粒子がミクロであればあるほど、構成した世界はきれいで、美しいのです。実は更に大きな粒子はまた更に広い天体範囲、或いは更に大きな生命を構成することができます。この星は、私たち人間から見れば非常に遠く感じるのに対して、更に大きな生命にとっては非常に近く感じられ、まさに人間は分子と分子の距離を見るのと同じです。それなら、人間に見える星と星の間もある生命の体の一部分の存在であるかもしれないのではありませんか? 言い換えれば、それが更に大きな生命を構成することができるのではありませんか? 実は同じです。昔巨人と小人がいたと伝わっていました。常人がそれを認めるかどうかは別として、私は道理から言っており、ただ時代が変っただけです。歴史はここまで発展してきたので、この時期の歴史と文化の要求に適応しなければなりません。ですから現在の社会は今のようになってしまったのです。人間は見ることのできない、触ることのできないことを信じようとしません。信じなければなるほど、人間に真相を知らせなくなります。それは人間が愚かになったからです。人間が信じなくなると言うことも按排されたのです。人間が自分で決着をつけようとしていますが、今までそのようなことは一度もなかった、と私はいつも言っています。

 人間が自分で決着をつけるということですが、人々は民主を提唱していますが、実は人間は一度も本当に自分で決着をつけたことなどありませんでした。なぜならば、神がこの世界を制御しているからです。福の多い人、能力の有る人は必ず高官の職につくようにと按排されています。福の少ない人、能力のない人は決して高官にはなれないのです。パリ・コンミューンは君主制を覆しましたが、皆さんに教えますが、フランスの歴代の選挙に勝った大統領は皆昔の皇帝であり、ただ別の按排になっただけです。ここでこの話をしたのは、つまり全てが神に按排されているということです。また、今日常人社会に現れてきた各党派の間の闘争も今日の人類の生存状態です。古代の時、このようなことがないと皆さんも信じていると思いますが、今日に至って、実は人類は変異した人類であり、変異した社会です。このことについてはまずこのぐらいにしましょう。

 先ほど宇宙の異なる粒子は大きさの異なる生命を構成することができると話しました。全ての星に生命が存在していますが、ただ人間の空間に現れてこないから、私たち人類もそれを認識することができません。今日の科学はまだ進んでいないため、この空間で手探りしているだけで、それを認識することができません。実は別の空間を開くのも簡単なことです。ミクロな状態を観察できる巨大なシステムがあれば、分子以下の粒子で構成された物体の存在形式を見ることができるのです。人間には各種の阻害があり、考えに阻害があって信じないので、それを行う勇気がなく、全く意味のないことだと思っています。ですから、それらの真実な存在も目にすることができないのです。しかし、あなたが見ようとしても見ようとしなくても、たまに現れてくることがあります。物質が運動している状態下で何かの光景が現れ、それを忽然として見た人はいます。これが時々起きる現象です。人々が皆蜃気楼を大気の屈折だと言っていますが、それは現在の科学で解釈できないため、科学の説のつじつま合わせであり、何の道理もありません。実はそれは別の空間の如実な体現です。先ほど話したこの宇宙の概念は皆さん理解できましたね。そうでしょう。(拍手)

 この宇宙の全ての物質は皆、真・善・忍によって構成されています。真・善・忍は異なる次元に異なる現れがあり、異なる次元においての表現形式があり、異なる次元の生命に異なる生存環境を切り開いたのです。人間というところまで来たら、この法の現れは非常に大きくなり、非常に厖大で繁雑になり、修煉形式も多くあり、悟った理も非常に多くなりました。一人の良い人間になるのに、この空間に存在している要求はつまり仁、義、禮、智、信などなどです。これらも真・善・忍から派生してきたもので、これだけに留まらず、まだ多くあります。女性を構成した要素は愛嬌と優しさ、男性を構成した要素は剛直であり、などなどは全て法から現れてきたのです。物質の存在状態と方式も含めて全てが法から現れてきたものであり、法が全てを造成したのです。

 次に修煉のことについて触れたいと思います。なぜその境地の基準に達するまで修煉してからやっとその境地に行くことができるのでしょうか? その次元にその次元の法があり、その境地に生命への要求と生命の環境に対して基準があるからです。体に業力があってその空間の環境に符合していなければ、それではいけません。汚い体は決してそれほど次元の高い空間に行くことができないのです。ですから、必ずそれほど高い次元の境地における体の状態に合わなければならず、つまり業力がないということです。業力がないだけではなく、この体の物質はそれほどミクロになり、それほどきめ細かくならなければいけません。これは着実に修煉しない人は、求めて得ようとしても得られないもので、修煉するしかありません。苦を嘗めて厳しい修煉を経てやっと得るのです。

 更にあなたの生命の一面もその境地の基準に合わなければなりません。つまりあなたの心、思想、あなたの生命に存在している全ての霊性もその境地の基準に合わなければいけません。

 もちろん、その空間における生命の存在形態にまだ一つの基準があります。この人間のような様子では、そこに行くことはできません。あなたが圓満成就する時、必ずその空間の生命の形象にならなければなりません。次元が高ければ高いほど、生命の形象は若く美しいのです。下の空間であればあるほど、きれいでなくなります。次元が高ければ高いほど、形象が美しくなるだけではなく、考えも純粋且つ清らかで美しく、その存在の方式、物言いと振舞いまで変化が起こります。その境地にいる生命が話したことは詩のようですが、これでもまだ一定の次元での状態に過ぎません。さらに次元の高い境地は更に素晴らしいのです。その境地の要求に合っていなければ絶対いけません。私はいつも「修は己にありて、功は師にあり」と言っています。つまりあなたが到達しようとしているそのような境地のことをあなたも全く知らないのに、どうやってその境地に到達するのでしょうか? どのように成し遂げるのでしょうか? 自分ではできないのです。私はただあなたの修煉の心を見ているだけで、ひたすら修煉すると決意すれば、ほかの一面は師父によって成されます。決意を堅めることができるかどうか、最後まで修煉を続けるかどうかが最も肝心なことです。

 功の具体的な演化方式について、私は皆さんに説いたことがありませんし、皆さんにこのことに精力を費やしてほしくもありません。こうすれば、執着が起こりにくいから、妄りに考えを馳せらせることから避けることができます。皆さんもご存知のように、次元が高ければ高いほど、思いが静まっています。しかし心性を高めずに、一途に静を求めるのは間違いです。煉功の時、一途に静を求める人がいますが、どうしても静になりたいと思って、一種の執着を形成してしまいました。しかし皆さんに教えますが、小道からいえば、それが一つの方法ですが、高い次元からいえば、これが有為なのです。何故でしょうか? 入静は修煉によって執着心を取り除いてから始めて得ることができるものだからです。人為的に完全に入静し、たちまち全てを放棄するということは(もちろん特殊な情況もあります。それについて触れません)、普通はできないことです。それほど入静できた時は、あなたの考えが既にそれほど純粋で清らかになったということです。いわゆる特殊な情況は副元神を修煉する方法を指しています。最初から人為的に入静することができますが、それは我々大法の修煉方法ではありません。これは決して小さな問題ではありません。

 自分の目的を抱いて相手を変えようとして、或いは相手を説得しようとして人に話を掛ける時、あなたの話がいくら理にかなっていても、相手はそれを完全に受け入れがたく、しかも相手の心を打つこともできないと以前私は説いたことがあります。何故でしょうか? 実は皆さんに教えますが、その話の中にあなたの全ての思惟があるからです。皆さんは常人の中にいて各種の七情六欲があり、ひいては多くの執着があり、話したことの中に複雑な考えがあるから、話にそれほどの力量がなくなり、力が分散してしまったのです。更に、他人に何かを言おうとするとき、往々にして自分の観点に立脚しており、宇宙の法に合っているとは限りません。ですから、この点からいえばまた真理の力も欠けています。また他人に何かを話す時に、自分が傷つけられないように、自己を防護することも加えたため、つまりあなたが話をする時の目的も不純になったため、こうして話されたことには非常に重みがなくなりました。しかし、もし考えが本当に清らかで静かになることができれば、或いは執着心がますます少なくなり、雑念が少なくなった時、自分の話に力がついたと気付くのです。無為を説いた時に、構うべきではないことに勝手に手を出さないようにと言いましたが、それは何故でしょうか? あなたの話に力がつき始めた、力のある話は他人を変えることができます。正しいかどうかを問わず、あなたが他人を変えてしまえば、間違いを起す可能性があります。あなたの目に見えたのは表面的なことで、過去の因縁関係はあなたには見えず、真相が分からないのです。更に高い次元まで到達すれば、あなたの思想がますます清らかになり、あなたの考えから現れてきたもの、口にした話が非常にきれいになります。きれいであればあるほど、単一であればあるほど、宇宙の理に適うようになります。話したことも直ちに人の心まで届き、人の思想の深いところ、その生命の更なるミクロなところまで届くのです。なんと強い力なのでしょう?! ですから、入静できるのはある境地の現れです。

 修煉してその次元の基準に合ってから、はじめてその境地に行くことができます。さもなければ、その境地に行くことができません。これは、なぜ私がいつも修煉は人の執着心を取り除かなければならず、業を滅し、法の要求に符合しなければならず、いつも多く本を読み、法をはっきりと知らなければならないと言っているのか、ということの理由です。

 先ほど、以上のことを簡単にお話しましたが、今日は法会であり、皆さんが私に会う機会も少ないので、機会があれば是非聞いてみたい質問も多くあるかと思いますが、これから皆さんの質問にお答えします。しかし気をつけていただきたいのは、一部の人(つまり皆新しい学習者のことですが)は質問をする時に非常に生意気で、師父に対して尊敬の気持ちも欠けています。もちろん私は師道の尊厳を言っているのではありませんが、なんといっても私は皆さんの師父であり、皆さんをそのような境地まで済度していくのです。私が皆さんに与えたものは、皆さんの生命が永遠に報うことのできないものです。ですから、弟子に相応しい口のきき方をしてください。それでは、皆さんは質問を出してください。

弟子:釈迦、老子、イエスの後に如来まで修煉できた人は、どのぐらいいたのでしょうか?
師:総じて言えば非常に多かったのです。釈迦牟尼の後に多くの人が得道したのですが、皆佛教の中で修煉して圓満成就したのです。イエスの後の弟子に修道士として圓満成就した人もいました。もちろん中国に道を修める方式が多くありますが、修煉の方法は地域に制限されていないため、古代の時西洋にも道を修める人がおり、圓満成就した人も多くあり、全て宗教の中で修煉して圓満成就した訳ではありません。しかし、近代に圓満成就した人は少なくなり、現代になったらほぼゼロに近いのです。

弟子:『転法輪』の中で、月は先史人類が作ったのだと書かれていますが、その理由と目的を少し説明していただけますでしょうか。
師:皆笑っています。質問は私が説法する目的から遠くずれてしまったからです。あなたは知識を求めており、いろいろ妄りに考えています。妄りに考えれば考えるほど、あなたの思想は清浄ではなくなります。あなたは常人の中で執着しているものを取り除いているどころか、私にそれを質問し、法に入れ混じり、法と混ざっています。私は、皆さんのこの面の問題のために焦っています。修煉に心を置いてください。もちろん質問を出した以上、少し説明してあげてもいいのです。

 歴史上、今日のような科学の状態がありませんでしたが、異なる時期の人類にその時期の発展方式がありました。その時期の人類は、夜が人々に不便をもたらすと認識したので、月を作って天に置いたのです。月が夜の地球に光を与えることができます。これは修煉と何の関係もありません。あなたに説いてあげたくないというわけではありませんが、私の説いた話は何らかのことを是認してしまい、私が説いた話は法になるので、個人的に興味のあることを私に言わせないでください。

弟子:意念の速度は光速より速いのでしょうか?
師:これは間違いなくそうです。人間の意念の速度は非常に速いのです。次元が高ければ高いほど、あなたの次元の下にある全ての空間を貫いてしまいます。この話を皆さんはしっかり聞いてください、あなたの次元が高ければ高いほど、あなたの功はあなたの下にあるあらゆる空間を通り抜ける時、その空間の時間の制約を受けませんが、功はあなたの意念によって制御されています。この環境に生存しているので、あなたの徒歩の速度、車の速度、全ての全てはこの空間の時間の範囲内に制限されています。人間が発した意念は人間の空間において非常に速いものです。修煉者がこの空間の制約を超越していれば、その意念は非常に速いのです。同時に、人の功と人体に備わっている全ての能力が皆あなたの思想に制御されていると説きましたので、つまりあなたの意念がそこに届けば、あなたの功もすぐにそこに届くということです。これほど大きな力があるのです。ですから、高い境地まで修煉した人に鍵を掛けないと、本当に一瞬にして天地を覆してしまいます。ですから、完全に悟りを開いておらず、この世で修煉している間、決してあなたに鍵を掛けずに修煉させてはいけません。能力の小さい場合は大丈夫です。なぜならば、この空間もこの空間の神によって管理されており、神がこの空間のすべてを制御できるから、あなたに天地を覆すことができません。しかし能力が大きくなると、それはいけません。師父もそれを止めるのです。

弟子:この宇宙でどの物質の速度が一番速いのでしょうか?
師:あなたは科学を聞いていますね。皆さんに教えますが、あなたのこの求める心を満たしてしまうと、あなたの執着を強めてしまうということになります。教えたくないのですが、この質問は既に出されました。

 この空間、即ち今人間が認識している速度には、更に強いエネルギーがあるのですが、人間はそれを発見もできず、利用することもできません。いわゆる最大だとか、最小だとかなどは全て人間の認識に基づいたものであり、人間の空間場と時間場の範囲内の認識です。この宇宙の中には人間が認識したような大と小の概念がありません。ですから宇宙のどの物質の速度が一番速いかということも、次元によって定められています。例えば、次元の非常に高い神の話の速度ですが、時に非常にゆっくりゆっくりと話していても、あなたの思惟速度よりも速いのです。私がここで話したこと、先ほどあなたの質問が執着だという話は過ぎたばかりですが、ある空間では既に数百年が過ぎました。これほど大きな差があります。宇宙はあまりに厖大なので、時間場の違いによって宇宙の複雑な空間を構成しました。

 実は、「時間の制約を受けないものは一番速い」という話の内涵は、人間にとって永遠に本当に理解することができません。あなたの「宇宙のどの物質の速度が一番速いのか」という概念も人間の考えであり、人間の認識です。私達の今の空間も含めていますが、この時間も絶対的なものではありません。皆さんご存知のように、私は『転法輪』の中で、今見えた星は私達と15万光年離れていると説きましたが、実は私は、現在の科学と人間に認識できることを用いて説いただけで、実はそのようなことではありません。何故でしょうか? 皆さん考えてみてください。異なる空間に異なる時間が存在しているので、我々の地球範囲内にはある時間場が存在しており、全てがこの時間の範囲内に制限されています。人工衛星は一旦我々のこの大気層を抜け出すと、別の時間になり、決して地球の時間と同じ時間場ではありません。またほかの星を通過する時、その星の時間場になるのです。天体範囲が大きくなればなるほど、時間と速度の差異も大きくなります。

 銀河系に起きた出来事を15万光年経ってからやっと見ることができると言いましたが、実は皆さんに教えますが、二、三年ぐらい経てば見ることができるようになるかもしれません。なぜでしょうか? 光の速度も時間場に制約されているからです。異なる時間場を通過する時、光の速度は「シャー、シャー、シャー」と速くなったり遅くなったりします。我々の地球までやってきたら、地球の時間場に適応し、非常に遅くなります。地球にいる人類が認識した時間場をもって宇宙の時間を量ろうとしても、全く不可能です。人類の真理に対する認識、物質に対する認識、生命に対する認識、宇宙に対する概念、私達人類の発展も含めての多くの物事に対する認識は皆間違っています。

弟子:佛家の大覚者は私達のこの宇宙の光について、どう解釈しているのでしょうか?
師:光だけが見えても、全然たいしたことではありません。光には多くの種類があり、異なる次元の光も違い、光を放つ情況や目的も異なります。ですから、常人の考えで人類より次元の高い物事を考えないでください。修煉したければ、本を多く読み、法を多く勉強してください。悟り得ないこと、知り得ないことは将来皆法の中から見えてくるのです。皆さん考えてみてください。如何なる物体にもエネルギーがあると私は言いましたが、分子さえエネルギーがあるのです。人々が分子にエネルギーがあると感じられないのは、人間自身も分子によって構成されたから、感じられないのです。エネルギーのある物体であれば、光があり、エネルギーを持っています。ですから、事を針小棒大にし、何に対しても大げさに騒がないでください。一度、大法弟子の威徳が現れたら、それこそ偉大で光輝かしいものです。

弟子:法を弘めるために師父の経文を新聞に掲載してもよろしいでしょうか? 経文の内涵が曲解されてしまうのではないかという心配もあります。
師:曲解されてしまうことがあります。ですからできるだけそうしないでください。なぜでしょうか? 皆さんに教えますが、我々の法を弘める最も良い方法は、皆で集団煉功することです。私達は縁のある人を取り残さないようにと説いているだけです。私は全人類に法を得させるために法を弘めているのではないと言いました。決してこのような概念ではありません。縁のある人に法を得てもらうと私は言っています。今日ここで、皆さんにはっきり話してもいいと思いますが、私達のいつもの法を弘める方法は、皆さんが外で煉功することと、大法の本が社会で本屋に販売されていることです。私の法身は縁のある人に本を買い求めさせ、縁のある人なら、本を読んですぐ習いにやってきます。また私達が外で煉功すれば、法身はその人が煉功点に尋ねて法を得るように按排するのです。偶然の間違いのようにその人を煉功点に行かせ、煉功させます。或いは他の学習者と連絡を取れるようにします。私はこのようにこのことを按排しています。

 皆さんはもっと多くの人に大法を知ってもらうために、多くの方法を講じました。これが皆さんの気持ちであり、私には分かっています。皆さんもよく行ないましたが、皆自発的な個人としての行動なので、それが正しいかどうかについて、わたしは言わなかったのです。しかし、私が法の中で大法のために残した法の弘め方は、これだけです。外でグループ煉功をし法会を開催することと、本屋で本を販売するということです。縁のある人は本を買いに行って、それを読んで習いたくなれば自分で尋ねてくるのです。そういうことです。もちろん時には学習者は個人的な行動で、他の人に知ってもらうため新聞に載せたりしましたが、それも多くの人に法を得させることができます。私はこのようなやり方も否定せず、なぜならば縁のある人に知ってもらえるからです。ただ皆さんに残した最も良い法の弘め方がグループ煉功と法会であるとわたしは話しただけです。

弟子:私は法を弘めることを修煉と切り離すことのできないことだと考えていますが、先生は法を弘めることが圓満成就と関係ないとおっしゃいました。
師:法を弘めることと圓満成就は、もちろん別々の概念です。しかし、法を弘めることをしている学習者はそれを仕事として考え、いつも頑張っていて精力を費やしており、普段あまり本を読まず、煉功をする時間もなければ、このような状態下で行なった仕事は必然的に法とかけ離れてしまいます。つまり、あなたは自分の修煉を仕事と結び付けなかったのです。このような状態であれば、仕事をする時に強い執着を抱いており、ぶつかった厄介なことが自分の心性と関係しているのではないか、などと考えもしません。自分のやり方が大法及び修煉者としての基準に合っているかどうか、このように内に向けて自分を探さず、このように問題に対処していなければ、それはただ常人の仕事で、常人が大法の仕事をやっているに過ぎず、少なくとも修煉者としての基準に基づいて行動していません。修煉と仕事を結び付けなければなりません。仕事の中にどんな難題にぶつかっても自分の心性を探し、自分を反省することができれば、例えば、トラブルに遭ったらどうしてこうなったのか、自分が間違っているのではないか、或いは自分の出発点に問題があるのではないか、或いはほかの原因なのかなどなど、つまりあなたはいつも修煉者としての基準をもって自分に要求し、自分を量っているということです。一つの念も緩めず自分を修煉者と見なすことができれば、あなたは既に修煉の中にいるのです。それであなたの仕事は既に法と結びついたのではないでしょうか? 圓満成就にいたっては、あなたの修煉の情況、圓満成就まで修煉したかどうかを見るのです。どんな人であれ、毎日修煉していますが圓満成就できるかどうかは、修煉して圓満成就の基準まで到らなければならないのです。

弟子:私は毎日『転法輪』を読んでいますが、しかし祝由科、へき谷、気を盗む、気を採る、などの内容は知る程度でいいと思いますが。
師:皆さんに教えますが、私はそのようなことを例として説いているのですが、私が説いたのはそれだけではなく、私が説いたのは法理なのです! その背後にある内涵は数え切れず、尽きることなく、止まることもないことなのであり、この宇宙の大きさは法の大きさなのです。私はただ人間の最も一般的な行為、最も浅はかな言葉、最も次元の低い人間の形式をもって法を説いているに過ぎませんが、このようにする目的は皆さんが理解できるようにするためです。その背後に尽きることのない内涵があるということを悟ってほしいから、決して飛ばし読みしてはいけません。法を読むときに全ての内容を漏れるところなく最後まで読んでください。くれぐれもこの問題に気をつけてください。法の一貫性は皆さんの修煉に非常に有益なのです。法は最初から最後まで繋がっていますので、飛ばし読みしてはいけません。

弟子:煉功者の周りの環境にある全てのことは皆師父が演化してくださったのですか?
師:周りの環境は演化されて出てきたのではなく、修煉の過程で周囲に起きた全ての出来事は皆、自分の先天の因縁によって引き起こされたことです。つまり、それはあなたが造った業力の報いであり、昔した良いことの報いでもあり、全てがあなたの善果と悪果です。私はあなたが修煉できるようにそれを利用したのです。私が演化したのではありません。またあなたが関に遭う時に確かに業を返していますが、これは確かなことです。多くの学習者は夢の中、或いは座禅をしている時に見えたものも全部演化されたものではなく、その多くが真実の体験ですが、ただあなたはそれほどはっきりと感じられていないだけです。

弟子:師父が修煉していた時のことを圓満成就できる弟子に教えていただけますでしょうか。
師:圓満成就したら分かるようになります。元々わたしが修煉していた時の情況を皆さんに教えるつもりでいました。現在の状況から見れば、それはますます不可能になりました。何故でしょうか? 将来の人間に私の存在を知らせないため、人間に私の情況を残したくないからです。皆さんの場合、圓満成就さえすれば、分かるようになります。その時、あなたは言葉を尽くしても、あなたの師父がどれほど偉大なのか言い表せません。(拍手)

 私は皆さんだけではなく、全ての生命のために心を砕いており、私は全ての生命のため、ほぼ私の全部を費やし尽くしました。もちろん、ここで言っている費やし尽くすというのは皆さんが理解したような無くなるということではありません。皆さんが修煉して向上できるもの、修煉の中で得ることのできるものを全て法に詰め込んだと私はいつもこのように言っています。皆さんは異なった境地にいますが、誰もこの話の重みを本当に理解することができません。修煉さえすれば、何でも得られます。皆さんが得たものに私のものがどのくらい入っているのかご存知でしょうか?(拍手)もちろん私は自分のこれらのことを話したくありませんが、ただ師父である私がこのことをしているから、皆さんもそれを大事にすべきだということを皆さんに教えたいのです。必ず着実に修煉し、この機縁を逃さないようにしてください。

弟子:いつになったら、私達は西洋の人が翻訳した大法を入手することができるのでしょうか?
師:『転法輪』はもうすぐできますよ。フランス語の『転法輪』はもうじき出版社に交付して印刷します。英文は既にできました。ドイツ語は既に本屋にあり、たくさんの本屋にあるそうです。ほかの言語、例えばイタリア語、スペイン語は今翻訳中だそうです。ロシア語は既にできました。これは西洋の各国語の情況です。ほかの言語の『転法輪』も訳されている最中です。このことは私としては確かにあせっています。しかし往々にして各方面の機縁がまだ熟しておらず、その上皆さんが各方面からの妨害を認識できなかったため、ずっと長引いています。

弟子:心性の修煉が最も大事なのであれば、どうして師父は本の中で修煉の次元や神通について言及したのでしょうか?
師:多くの質問は新しい学習者が出したものですが、少なくとも本を読んでから質問してください。修煉は佛の能力と切っても切れない関係にあります。ですから私はこのようなことを説いた時、ただ道理から、法理から概括的に説いているだけであり、あなたに分からせ、例をあげて説明することによって修煉者がそれ以上のことを理解できるようにするためです。これらのことを求めてはいけないと言いながらも、修煉の次元や神通を説いたのだということではありません。これらのことは佛法修煉と切っても切れない関係にあります。皆さんの求めていることと、知っておくべき法理とは完全に違います。それは佛法のほかの面での現れです。佛法神通の殊勝さが見えなかったのは、あなたが常人の観念を抱きながら本を読んでいるからです。自分の考えに合ったものなら読みますが、あなたの常人としての考えで理解できないものなら読まず、ひいては受け入れません。しかし、これはまさにあなたが向上できない原因の所在です。

弟子:どうして同性愛が道徳観念にかなっていないのだというのでしょうか?
師:皆さん考えてみてください。同性愛は人間としての行為なのでしょうか? 神が男性と女性を作りましたが、その目的は何でしょうか? 子孫を残すためです。男性と男性、女性と女性なら、考えれば間違っているとすぐ分かるはずです。小さい事を間違えたら、それは間違いだと言えますが、大事なことを間違えたら、それは人間の道徳観念を失ったということになり、人間になる資格はありません。

 今日の社会が何故このようになったのか皆さんに教えますが、それは人間を規制する正法がないから引き起こされたのです。大法はほかでもなく、このような最も乱れた環境の中で、全ての宗教が人を済度できない時、全ての神も見放した状態の中で伝えるのです。なぜなら、法の力量が大きいからです。最も良い時期なら、これほど大きな法を伝える必要もなく、最もよくない時期こそ、法の威力を表すことができます。しかしまた別の原因もあります。

弟子:どうして同性愛者は悪者だと思われているのでしょうか?
師:皆さんに教えますが、私が今日この法を伝えなければ、神にまず消滅されるのは同性愛者です。私が同性愛者を消滅するのではなく、神がするのです。同性愛者はある根拠を引っ張り出して古代ギリシャの文化に同性愛が既に存在したと言っています。確かにその時に同性愛があったのですが、古代ギリシャの文化にそのような現象がありました。では古代ギリシャの文化が何故消えたのか、古代ギリシャ人がなぜ絶滅したのか、皆さんはご存知でしょうか? その時の人間がその程度まで腐敗堕落したから消滅されました。

 神は人間を造った時、人間に人間としての行動規範、生活様式を定めたので、人間の行動がこの許容範囲から逸脱したら、人間として見なされなくなります。しかし、同性愛者が人間としての姿かたちをしているから、神はその存在を認めず、彼らを消滅させるのです。なぜ世界に戦争、疫病、天災人災が起こるのでしょうか? それは人間に業力があり、人間の業力を滅するためにあるものです。将来いくら素晴らしい歴史時期であっても、地球には戦争、疫病、天災と人災が存在しますが、これは人間の業力を滅するための方法です。罪を犯した人なら、肉体の死亡や苦痛によって業力が滅され、輪廻転生してから業力はなくなりますが、その生命は本当に亡くなるということがなく、再び輪廻転生します。しかし、造った業があまりに大きい人の場合、生命の本質まで問われ、全てが消滅されるのです。同性愛者は神が人類に与えた規範に自ら反しているだけではなく、人類社会の道徳規範も破壊していますが、特に子どもに与えた印象が将来の人類社会を魔物の世界にしてしまいます。つまりこのことです。しかし、消滅させられたら、すぐなくなるのではなく、全ての次元において、私達にとって非常に速いスピードで消滅されていますが、その時間場にいる人間にとっては極めて長いのです。繰り返し繰り返し、極めて苦痛な状態の下で消滅されています。それは非常に恐ろしいことです。人間は明るく、堂々として人間らしく生きていくべきです。自分の魔性を放任し、やりたい放題ではいけません。

弟子:私は正果を得たいのですが、羅漢果位を目標としていますので、法を弘めることも含めて積極的に私と縁のない人を助けたりはしません。これは間違っているのでしょうか?
師:間違っています。これはあなたの表面にある人間としての考えです。ご存知でしょうか? 一人一人がどこまで修煉できるのか、どのぐらいの忍耐力があるのか、どのぐらいの徳があるのか、どのぐらいの物質的な基礎が備わっているのか、私は全て皆さんのために非常によく按排しました。自分で自分の修煉の道を按排しようとすれば、それは成り立たないことで、しかも誰にも認められないことです。なぜ羅漢果位を目標として設定したのでしょうか? あなたの法に対する理解は今この程度のものであり、あなたに多くの取り除きたくない執着があります。それもあなたの法に対する理解がこの程度のものだと言うしかありませんが、あなたはこのように認識しています。将来法理に対する理解が高まり、大法の本を読む回数が多くなったら、きっと考えが変ると思います。その時、今日の質問を出すべきではなかったと思い、赤面してしまうに違いありません。今の段階ではそれがあなたの現在の基礎を表しているとしか教えられないので、わたしもあなたを咎めません。しかし、あなたのやり方は間違っています。自分を緩めてしまうと、放棄したくない執着心はあなたが精進できないように阻害します。

弟子:私は修煉を始めて間もなかった頃、非常に熱心で精進していましたが、ついこの間から、大法を疑い始めて、更にしばしば間違いを起こし、関を乗り越えなくなりました。これは思想業力或いは魔の干渉なのでしょうか?
師:私はなぜ返本帰真するようにと皆さんに説いたのでしょうか? 帰真するということの目的は何でしょうか? つまり本当のあなたに帰るということです。人間には多くの執着心、各種の観念、七情六欲があり、全ての考えがあなたの頭に存在していますが、この全てはあなたではないのです。私は大法の門が全部開いたと言いましたが、ただ皆さんの心、人々の心、修煉できるかどうか、返本帰真したいという考えをまだ持っているかどうかという心を見ています。ですから、皆さんに教えますが、皆さんの思想を妨害している全てのものはあなたではないかもしれません。しかし、常人の利益を前にしてそれを放棄できず、或いはその考えが自分の考えであるかどうかを判断できず、良くない考えも自分の考えとした人に対して、私達は絶対面倒を見ません。何故でしょうか? その人が良くない考えも自分のものとして認めてしまいましたが、大法の全てをそのよくない考えに与えるわけにはいかないからです。

弟子:『転法輪』の中で、大覚者が自分の特性に基づいて宇宙を構成したのだと書いてありますが。
師:皆さんに教えますが、多くの人がこの内容に気づいたのです。それは全ての宇宙を包括する厖大な天体にある異なる境地の宇宙に起きたことを指しています。この天体はあまりに大きいのですが、私が皆さんに説こうとする天体全体のことではありません。大覚者は異なる次元の天体で宇宙大法の異なる法理を悟りましたが、同じ次元の大覚者がそれぞれ悟った理も同じではありません。厖大な天体に、大きさの違う宇宙に腐敗堕落が出現した時、高い次元の理を悟った大覚者、正しく悟った大覚者はその宇宙を建て直すのです。ここでは、無数の異なる次元の宇宙を包括する比類のない厖大な天体のことを指しているのではありません。

弟子:『時間との対話』という経文の中で、神に言及しましたが、神の概念をどう理解すればいいのでしょうか? 佛道と何の区別があるのでしょうか? また原始の神と何の関係があるのでしょうか?
師:宇宙にいる常人を超えた能力を持つ者は皆神であり、空気に満ち溢れているミクロ的な厖大な生命は数え切れないのですが、皆無形の神です。このような概念です。神には異なる境地があり、また異なる種類もあります。佛は神ですか? 道は神ですか? 総称して皆、神と呼んでいます。ただそれぞれ自分の修煉の特徴と外形があり、自分独特なものが形成されたので、それを道、佛、神と呼んだりしました。宇宙にある一切の一切は皆思想と生命力を持っていますが、それが神ではないと言えますか? いかなる空間の時間も、皆その空間にある全ての物質の変化を制約していますが、それが神ではないと言えますか? 自分の縄張り範囲にいる生命の考えを知ることができ、何かを話そうと思えば、話すこともでき、人間の形になろうと思えばなることもできます。それが神ではないと言えますか? 人々は時間をただ一つの概念として考えていますが、日が出ては沈んでいきますから、人々は時計に数箇所を決め、数字を書いて、それが時間になりました。日が出ることと沈むことも含めて、これは時間の常人社会での表現形式です。皆さんに教えますが、日が出ることと沈むこと、地球が太陽を回っていることは皆この空間の時間が制約し、按排したので、少しのずれもありません。

弟子:私は圓満成就を志していますが、いざ先生が法を伝えることを止めたら、先生の法身はまた守ってくださるのでしょうか?
師:実は私は既に法を伝えておらず、私が系統的に法を伝える時期は既に過ぎました。今私はただ法会に参加し、ついでに皆さんの質問に答えているだけです。補導点の責任者がいつもわたしに次元の高いこと、多くのことを話してもらいたいと思っています。以前は私が法を伝えることが最も重要だったのですが、今は皆さんの修煉と向上が最も大事ですので、法身が守ってくれないということはあり得ますか? 私の法身が手放しをする時は皆さんが既に圓満成就する時です。

弟子:法を得たばかりの新しい学習者は1998年以前先生が北米で説法なさった時のビデオと録音テープを見たり聞いたりしたいと思っていますが、よろしいでしょうか?
師:私が初めてアメリカで説法した時の内容は既に本にまとめてありますので、本を読んでください。それはあなたの法に対する認識に非常に役立ちます。ビデオのほうはかえって、あなたにとって的を得ていないかもしれません。なぜなら、その時私は法を聞いている学習者の具体的な情況に合わせて説法をしたからです。本は普遍性があり、整理されたものです。しかも、私が説法した時の最大の特徴は皆さんがビデオを見て既に気付いたと思います。法を説いているうちに、話題が急に変り、別のことを説き始めますが、皆さんにはこのような感じがあるかもしれません。なぜでしょうか? 説いているうちに、学習者が皆分かったと気付き、私の話がまだ終わっていないうちに既に分かったからです。そして私はそのことについてそれ以上説かず、ほかのことを説き始めます。ビデオではこのようなことがよくありますので、あなたにとってビデオを見ることは必ずしも本を読むことより良いとは限りません。かえって本を読むことはあなたにとってよいのです。この意味なのです。本とビデオが同時に存在すれば妨害が生じるから、各地での説法をまとめた本が出版されると、全てのビデオテープを必ず処分しなければならず、これは大法を守るためです。放下できないのは人間の情なのです。

弟子:私と妻は皆大法を修煉しています。数ヵ月前に、二人は相継いで非常に綺麗な大きな鳥を夢で見ました。その鳥は私の体に入って消えましたが、妻はその鳥の鳴き声が聞こえました。これは何を意味しているのでしょうか?
師:ただの鳥です。皆さんが生々世々の輪廻転生の中で、非常に高い次元から来た神であっても、今生は人間、来世は動物に生まれ変わることがあり、人類社会ではこのようです。修煉してからはじめて見たものは恐らく皆さんの原形、或いは最初にいたところでの形象であるかもしれません。それは人間の形だったり、動物だったり、或いはあれこれだったりします。天上の鳥も神です。

弟子:修煉者は栄養食品を食べてもいいですか?
師:あなたは本を読んでいません。きっと読んでいません。皆さん考えてみてください。修煉者は身体に病気があれば功が出ることはなく、つまりきれいではない身体では修煉できないのです。ですから、修煉の時あなたの身体を絶対に純潔できれいになるまで浄化してあげてから、やっと功が出ます。ですから私たちは病気治療をしないと私は言っています。しかし、私は真に修煉する人のために身体を浄化してあげるから、そのような身体には病がありません。皆佛の境地の身体になりたがっていますが、栄養食品を食べてそのような身体になることができますか? 絶対無理です。それなら、食べる必要もないのではないでしょうか。それは美味しいもので味見するほどのものでもありません。修煉の過程で、わたし達はあなたの身体を浄化し、ますます正常で最もよい状態を目指しており、これは薬を飲んでもできないことです。それでまだ薬を飲めば、修煉に対して不安があり、自分を修煉者として見なしていませんが、このような道理ではありませんか? 自分を修煉者として見なさなければ、私たちはどうやってあなたを修煉者として扱うのでしょうか? この道理ではありませんか? 漢方薬にしても西洋薬にしても、皆薬であり、これは間違いのないことです。あなたはただ健康な身体がほしいのですが、私たちの修煉はこのことを遥かに超えています。このような関係ですが、あなたはどのようにしますか?

弟子:私たちは中国からの弟子ですが、まだ5人がほかの原因で来られませんでした。彼らが来られなかったのは魔の邪魔が大きいからですか、それとも先生の按排によるものでしょうか?
師:あなた達5人も私は来てほしくありません。何故でしょうか? 先ほど私が話したように、以前は私が法を伝えることが最も重要だったのですが、現在皆さんの修煉と向上が最も大事なことです。修煉に専念して、着実に修煉する、これこそ最も重要なのです。人の心が動揺し、私を探したり、法を聞きたがったり、あちこち私を追っかけたりして、これはあなたの修煉に対して何のメリットもありません。シンガポールで法会を開く時、多くの国内の人は行こうとしました。それで学習者に何のメリットもないから、あちこちに行かないように各地の補導点に知らせてくださいと私は研究会に言いました。本来なら法身がこの期間に順序よく修煉するように段取りしたのに、皆さんはそれを乱してしまいました。この期間の修煉によって一部の執着心を取り除くことができるかもしれませんが、向上すべきところが撹乱されました。つまりこの原因です。どうしてもやり遂げたいがうまく行かなかったことに対する執着を全て魔の妨害としないでください。

弟子:主人は煉功していませんが、『転法輪』を一回読み、先生の説法ビデオを見たことがあります。しかし彼は天目が開き、更に遠隔透視功能があります。
師:これは彼の縁、また根基がよいことから引き起こされた現象ですが、見たらすぐ天目が開いたのです。彼が大法を学ぶかどうか、修煉するかどうかに至っては、全ての人は皆この複雑な社会に非常に複雑になりました。ここにいる皆さんは歴史上、まだ人間社会に来ていなかった時、心の奥に今日法を得る種が植え付けられました。人類社会から私は幾度となく皆さんを探し出し、印を授けましたが、これらのものは今強く働いています。しかし、これらのものも皆さんの常人の執着を弱め、「私がずっと待っていた、これを得るために来たのだ」という当初法に出会った時のような気持ちを引き出すことができません。多くの人が既にこのような感覚を失ったので、今修煉していますが精進していないという現象が現れています。既に縁があって法を得たのに、まだいろいろな執着を放棄できません。各種の情況がありますが、縁が尽きると全ては終わります。

弟子:師父は卍符について説いた時、「如来より倍高い者に二つあります」とおっしゃいましたが、如来より倍高いというのは功柱のことを指しているのでしょうか?
師:それは心性と威徳を指していますが、功はただ一種の現れに過ぎません。功柱を指してもいいのですが、必ず圓満成就した後の功柱でなければなりません。つまり圓満成就した後、あなたの功柱は如来のものより倍高いということです。修煉過程中の功柱ではなく、それは未定のものであり、まだあなたのほかの部分を圓満成就させておらず、ただエネルギーの存在形式の一種に過ぎません。しかし、ある意味ではそれはあなたの修煉過程中の次元と心性をも表しています。

弟子:シンガポール法会の時、弟子の拍手に対して師父は両手で合掌なさいましたが、以前説法なさった時、いつも片手で挨拶していましたが、中に何か深い意味があるのでしょうか?
師:私は弟子に対して片手を使います。ただ、皆さんの純粋で浄らかな心と絶えず精進している状態を見て、本当に嬉しく思っています。それで私は両手を使いました。通常、師父は弟子に対して片手を使います。

弟子:聞いた話によると、『転法輪』を暗記できれば、主元神が永遠に大法を覚えているから、圓満成就するか否かはどちらでも良いと聞いたのですが。
師:法を覚えるだけで圓満成就したくない人がいるでしょうか? 何のために本を暗記するのでしょうか? 圓満成就のためではありませんか? 『転法輪』を暗記できれば、向上には役立ちます。なぜならば、あなたの身体のミクロの部分とあなたの人間としての最も表面的な部分は皆、暗記しているからです。しかし、どんなに暗記しても、どんなに流暢に暗記した人であっても、ある時期になるとまた暗記できなくなることが現れてきます。なぜでしょうか? あなたの主たる部分、大法を暗記した部分が基準に達してから、あなたから隔離されたからです。急にまたなぜ暗記できなくなったのかと感じます。既に基準に達した部分は隔離されたからです。人間の表面の部分はまた漏れなく暗記できなくなり、忘れてしまいますが、忘れ方のひどい人とそうではない人がいます。このような情況が現れてきます。

 次のような状態のある人も少なくありません。すなわち、一時期耳がよく聞こえたり、天目がよく見えたりするということです。いつはっきり見えるのでしょうか? いつよく見えるのでしょうか? つまりこの段階で修煉が最も良くできた時です。まだ隔離されておらず、もうすぐ基準に達しようとする時、はっきり見えます。耳もよく聞こえ、身体も敏感になります。一旦隔離されたら、またはっきりしない状態になります。私が落ちたのでしょうか? どうして全てよくなくなったのでしょうか? 落ちたのではなく、修煉して出来上がったその部分は既に隔離され、残ったのはまだできていない部分なので、引き続き修煉しなければなりません。ですから、これは段階的に現れる敏感な感覚であり、このような状態です。またこのような状態は大法を修煉している場合だけに見られる現象なのです。

弟子:次元が高ければ高いほど、睡眠時間が少なくなるのでしょうか?
師:それは違います。このような情況はあなたの思想の粒子の変化と向上と関係していますが、しかし段階性のあるものです。先ほど説いた問題もこの中に含まれています。修煉してよくできた部分は隔離されると、あなたの表面は正常になり、圓満成就までずっとこのような状態が伴っています。これであなたが常人と同じように生活することができます。しかし、人間としての一面はますます弱まり、その上自分に対して厳しく要求すれば、常人の中での現れがますますよくなるかもしれません。こういうことです。

弟子:時間が迫ってきているのに、双盤がまだできませんが、どうすればいいのでしょうか。
師:焦らないでください。時間が足りないとは言っていませんし、私も時間がないと説いたこともありません。早く修煉してほしいのですが、あなたはひたすら修煉すればいいのです。しかし、自分に厳しく要求すべきだということを知らなければならず、このようにすればいいのです。絶対双盤できないということはめったに見られないことです。場合によって、その人の元神は天上では人間の形象ではなく、ほかの神の形象をしていますが、その神が双盤しないから、このような要素をも考えられます。しかし、あなたに人身、肉体があるから、極めて特殊な情況以外、皆双盤できるようになると思います。ここで一つの冗談を言いますが、在席の皆さんの中に確かに修煉してよくできている人がいますが、あなたたちが双盤できなければ、天上の菩薩はこれを見て皆口を押えて笑っています、みてご覧、あの修煉者はまだ双盤できないよ。

弟子:先生、執着の概念についてお話していただけないのでしょうか?
師:皆さんに宇宙の真相が見えないことの原因は何でしょうか? なぜこの空間は迷いなのでしょうか? 皆さんに教えますが、常人として常人社会で見えるもの、触れるものと、常人社会から学んだ知識が皆、あなたを局限し、封じたからです。この空間の知識、この空間にある全てに対する認識が明確であればあるほど、明白であればあるほど、あなたはますます自分を封じ込めているようです。皆さんも常人の空間で真理だと思ったものは、実は恐らく間違っており、逆になっています。ですから、常人社会で認識したものを放棄しない限り、宇宙の真相が見えないのです。特に、人々は生存のため、自己保護のため、自分の利益をより多く得るため、放棄できないものは私がそれを皆、執着と呼んでいます。これらの執着はあたかも大きな鍵のようにあなたを閉じ込めています。あなたは前進の道のりにおいて、全ての鍵を開けなければならず、開けなければ、それはあなたを閉じ込め、迷わせ、それであなたは真相を見ることができません。しかも、返本帰真に向かう道のりに、これらの鍵を開けないと、あなたは行き詰まってしまいます。これはすなわち関なのです。執着している全ては即ちあなたの障碍であり、修煉の時に遭った全ての関は実はあなた自身の難でもあります。私が難を利用した目的はあなたの執着している鍵を開け、真相を見させ、あなたの思想が昇華できるようにするというところにあります。

弟子:執着を全部放棄したということはどのように理解すればいいのでしょうか?
師:つまり常人の空間にあって放下できない各種の心を放棄することであり、なぜならば、今日の修煉方式が今までと違うからです。大勢の人が学びに来ると私に分かっていますが、そこで、ある種の社会形式が形成され、将来学びに来る人は更に多くなります。もし修煉者の集団という社会形式が形成されたら、社会に大きな影響を与えます。修煉者が皆功能が開かれている状態で修煉し、神通力を駆使していれば、社会形式全体に大きな変化が生じ、社会は人類の社会ではなくなり、神の社会のようなものになってしまい、これではいけません。なぜならば、人類社会はこのようなものであり、私たちはこの修煉環境を利用してその中で修煉しているからです。私たちはこの環境を破壊しないだけではなく、修煉の時この環境に適応しなければなりません。なぜならば、この環境に適応しなければ、あなたは修煉できないからです。ですから、今日私たちが採った修煉形式に関しても同様です。今一億以上の人が大法を修煉しているから、皆出家し、修道士や和尚になるようではいけません。将来更に多くの人が学びに来ますが、その社会はどうなるのでしょうか? 皆修煉していれば、誰があなたを養いますか? これではいけません。ですから、できるだけ常人社会に適応すべきです。私たちは常人社会の形式を利用して修煉しているから、この環境に適応しなければなりません。

 皆仕事、一つの環境ひいては家庭、それから多くの常人社会の親戚も持たなければなりませんが、この全ては私たちが常人社会の形式に適応できることの現れです。同時にこの全てはまた私たちに修煉の良い機会を作り出し、修煉の環境を提供してくれました。なぜならば、皆さんは他でもなく、常人の中で修煉しているからです。常人の中で修煉している以上、物質との接触は、物質の保有といっても良いのですが、この点においてもできるだけ常人社会の状態に適応すべきです。しかし、ほかの人と異なっているのは、皆さんが修煉者だから、心が物質に執着せず、大金持ちになっても、家庭があっても、財産があっても、ほかにいろいろあってもいいのです。ただし、その心を放棄しなければならず、これが即ち皆さんの修煉形式です。

 ここで言った全てを放棄すべきだということは、物質上のものを放棄しない限り放棄とはいえないと言っているのではありません。かえって、もし物質上のものを全て放棄しても心の中で放棄できずまだ未練があって、割り切れず、時々思い出したりして、場合によって修煉を妨害してしまうなら、それは放棄とはいえず、無理強いして捨てたということです。ですから、物質の表面上のものを淡泊に見るのは形式に過ぎません。本当に向上できることの原因は人の心に変化が生じ、心が基準に達し、思想境地が基準に達してからはじめて修煉によって向上したと言えます。物質を軽く見て、あってもなくても構いませんが、大事なのはあなたの心がそれを放棄し、向上することができるかどうかのことであり、これが極めて重要なのです。更に、私たちの修煉形式全体は、常人の中にあって修煉できるように按排したので、いかに精進させながら、功が落ちてこないようにするかなど、各方面での按排は皆今日のこのような修煉形式に合致しています。ですから、私が法を伝え始めた当時、神たちは皆これを「高徳大法」と呼び、これを非常に良いものだと思っていました。

弟子:法を弘めるやり方はヨーロッパ人に合わせる必要があるのでしょうか?
師:修煉者としてこの法を得てから、いかに法を弘め、もっと多くの人に学ばせるかと思うのは、非常に良い願望です。ヨーロッパにおいても、東洋社会においても、どんなに弘めても縁のない人はなかなか学びに来ません。それでは、縁のある人とはどういう人なのでしょうか? 縁のことについて私は既に説いたことがあります。どのように縁のある人を探し出すのでしょうか? 新聞に知らせを出して縁のある人を探しても無理です。しかし、皆さんに分かっていただきたいのは、多分皆さんが既に分かっていることかもしれませんが、あなたが「法輪功」の三文字或いは「転法輪」の三文字を言い出しただけで、一瞬何かが身体を貫いたと感じ、或いは興奮して、すぐ学びたい人がいます。このような人は多分縁のある人です。いくら勧めても学ぼうとしない人もいますが、これは多分縁のない人です。

 どのように法を弘めるかとそのやり方にいたっては、最も良いやり方は学習者が公共の場所で煉功し、縁のある人が尋ねてくることができるようにすれば良いのです。また大法の本を異なる民族や国の本屋に並べ、人の目に触れさせれば良いのです。私には無数の法身があるので、だれが縁のある人なのか、だれが法を得るべき人なのか法身は一目で分かります。もし、本屋に大法の本があり、公園で煉功している学習者がいれば、法身は縁のある人を見つけ、法と出会えるようにその人を導きます。もしこのような環境がなければ、難しくなります。様々な方法を使い、その人は本を見つけ、本を読んでから、良いと思いますが、縁がある人だから、きっと良いと思います。それであちこちを探して、公園に煉功する人がいるから、これで見つけるのです。私が法を伝えてから、今まで多くの人はこのように法を得ました。しかし、私たちの学習者の説明を聞いて、とても良いと思って家族を誘った人も多くいました。本人はそれが良いと思わなければ、決して家族が騙されるようなことをしません。自分はそれが良いと思っているからこそ、家族を学ばせたのです。その家族も良いと思って、更にほかの親友を誘って学ばせました。自分自身の体験を通じて、学習者は自分の感じたことを語れば、相手を感動させることができます。自分の親族、友人に嘘をつくはずはないから、友達も彼の話を信じ、信じて学んでみて、また同じ体験を味わうことができます。これが大法を弘める方式なのです。

 しかし、一部の学習者は新聞或いは雑誌に載せた文章を読んで法を得ました。昨日既にお話したように、このような法を得る方式に私は反対しません。ただし、これによって、ある問題が起こります。つまり上士も来るし、下士も来るはずです。来た人にそれぞれ異なる目的、各種の心構えがありますが、したがって、しばらく煉功すると止めてしまう人がいますが、このような人は恐らく下士です。またはこの人は法を得たくないかもしれないし、或いは法を得るべきではありません。往々にしてこのようです。学習者が自分で新聞に文章を出したり、知らせを掲載したりすることは良いことですが、私も反対しません。なんといってもこれで縁のある人に来てもらえるからです。上士も新聞を見てきますが、つまりこの原因で、何らかの役割を果すことができます。しかし、主なやり方は二通りあります。一つは、本屋に本があり、煉功点もあって、法身が彼を連れて行くことです。もう一つは、法会を通じて或いは学習者が自分の体験を家族に語ることです。主にこの二つの方式で法を得に来た人が比較的多く、質も高いのです。ほかの方法を採るにあたって、東洋人にしても西洋人にしても、主なやり方はこの二つだと思います。初期の時、多くの地域の人はまだ法輪功に対する認識がないから、他の人に紹介する時、新聞や雑誌などに文章を書いたりしましたが、もちろんこれも法を弘めています。これは確かなことです。

弟子:私は白人の学習者ですが、あなたが試練に会う時、こういった試練を受けるのでしょうか、それとも試練を受けないようにするのでしょうか?
師:「あなたが・・・」と言っていますが、つまり私のことを指していますね。皆さんに教えますが、これはとてもいい質問です。このことについて皆さんにはっきり説明する時期も来たと思います。

 皆さんに教えますが、今日いくら多くの人が大法を修煉していても、私にいくら多くの学習者、弟子がいても、皆修煉者であり、そうではない人は一人もいません。ですから、皆さんは修煉しています。修煉が良くできているかどうか、精進しているかどうか、次元が高いかどうかなどに関して、皆自分に厳しく要求して修煉し、自分を修煉者として見なさなければなりません。しかし、私は修煉しにきたのではありません。このことを皆さんははっきり認識していなければなりません。私には私自身の難はなく、皆さんのような修煉しなければならない要素もありません。皆さんに教えますが、私が皆さんを弟子として仕込んでいるため、即ち私は皆さんを済度しているので、このことから見れば、私は皆さんと違います。皆さんはぶつかった一切の厄介なことを修煉として扱わなければならず、なぜならば、それは必ず修煉だからです。もし、私のところに厄介なことが現れたら、それは法に対する妨害と破壊です。なぜでしょうか? この宇宙が先天的に存在するもので、私がこのことを行なう目的は法を正すためです。宇宙の衆生が既に法から離れたので、法を正さなければなりません。これが万年もめぐり合えない、天地開闢以来かつてなかったことで、この世で宇宙全体の大法、昔神も知らなかった法を伝えていると、私はいつも皆さんに言っています。

 長い歴史の中で、生命はますます不純になり、全てが変異しているので、このまま放置すると真善忍の基点まで変異してしまいますが、これは非常に恐ろしいことです。しかし私は宇宙の生命を大切にしており、出来るだけ原始生命を保護し、壊滅されないようにしたいと思っています。私にこの念が生じたから、この世に来ました。(拍手) この世に来た以上、私は最も太初で最も素晴らしく、当初より更に完璧な全てを持ってきたという形式で現れたのです。ご存知のように、法輪は回転していますが、皆さんが見た法輪もただ法輪の表面形式に過ぎません。法輪にある法の側面は皆さんには見えません。法輪は絶えず回転し、自動的に機制を修復し、全てを最も太初で最高の状態まで戻しています。全ての物質、全ての生命は皆このようにミクロ的なところから表面まで回転しており運動しています。私はこの全てを作り出し、回復させ、しかも絶えず圓融させています。私には修煉の問題がありません。私がこのことを行なう目的は、宇宙の生命が不純になった後、形成された邪悪な勢力がもたらした障害を解決するところにあります。同時に常人社会にいる衆生自身の造った業力が私にもたらした障害も解決しなければなりません。私はいつも次のようなことを言っています、イエスがなぜ人に十字架に磔にされたのか、なぜ釈迦牟尼が涅槃しなければならなかったのか、老子がなぜ五千言を書いてすぐ去ってしまったのか私には分かります。一人の人間がこの世に来たとしますが、生々世々輪廻転生して、既に幾生、幾世になったかも分からなくなりました。しかし、全ての世にほかの人に多くの借りを作り、多くの良くないことをしました。一部の人は異なる次元に由来し、地球に転生して行きましたが、一歩一歩下がっている時に皆誤ったことをやりました。つまり、彼らは異なる次元の高い空間に留まったことがあります。どうしてその空間にいられなくなったのでしょうか? その空間でまた良くないことをしたため、再び下がってきたのです。また良くないことをしては下がってきます。それで、天上で良くないことをしたその借りの主は神なのです。

 人間が天上に帰ろうとしても、天上の神はそれを許しません。教えてくれる師父がいなければ、見守ってくれる師父がいなければ、いくら能力があっても永遠に元に戻ることができません。地球に落ちてきたら、本当に人を済度する師父が見守ってくれない限り、永遠に戻ることができません。なぜならば、あなたはこの世で造った業を償うことができても、天上で造った業を償うことができないからです。イエスは人を済度しようとし、このことに構わず大いなる慈悲を発したので、人身に縛られている解けない業力の結びを解かなければなりません。しかし、この宇宙には失わなければ得られず、得ようと思えば失わなければならない、という理があります。借りがあれば返さなければならず、これは絶対的な永遠に変らない理なのです。その人を解脱させたら、その人の借りは誰が返すのでしょうか? 自然に全ての借りはイエスのところに降りかかりました。彼らの借りを代わりに解決してあげたから、彼らの業を肩代わりしなければなりません。解決できない全てや、借りた全て、済度された人には全く解脱できないものは皆、イエスの身にまつわったのです。なぜならば、彼はこの世にいるからです。異なる次元の業があるから、つまりこの世のものだけではありません。結局どうなったのでしょうか? イエスが済度した人が多ければ多いほど、身にまつわったものがますます多くなり、全く解脱できなくなりました。彼にもこれらのことを片付ける精力がありませんでした。最終的にイエスは人を済度しましたが、自分の人身もそこから解脱できなくなりました。そこで、イエスはこの身体を捨てることによって、代わりに借りと業を返してあげるしかありませんでした。多くの生命の業力、大きな恨みは皆イエスのところに降りかかってきました。よし、私は信者の代わりに借りを返しましょう。それでイエスは十字架に磔にされ、苦痛の中で死にました。全ての借りは皆肉体にまつわっていたから、肉体が死亡すると、全て支払われたのです。この身体がなくなると、イエスも解脱しました。これはイエスがなぜ、どうしても十字架に磔にされなければならないかの理由で、イエスが人間の代わりに受難しているということの理由でもあります。

 多くの人がこの法を学びにきており、将来更に多くなると皆さんも分かっています。修煉しようとすると、これらのことは皆師父がやってあげなければなりません。しかし、私は彼らと違います。なぜならば、イエスにしても、釈迦牟尼にしても、彼らはなんといっても小さい天体範囲にある覚者です。私は宇宙の中にいないので、異なる次元、異なる天体と宇宙にある異なる生命のことを解決できます。人を済度することは私の本当の目的ではないと言いましたが、人間がその中に含まれている一つの次元の生命であり、私が救い済度しようと思う生命です。実際のところ、私には難がなく、修煉ということもありません。私がぶつかった全てのトラブルはめったに常人のところに現れませんが、この世に現れたものもあります。その多くは皆さんに分かりません。私がこのことから解脱することができるのは、私はその中にいないからです。私に彼らのように、解脱できなくなるようなことはありません。私は解脱できますが、それは至難のことで、いかなる生命にも想像のつかないことです。私は最大限に私の全てを放棄できるので、この全てを解決できます。(拍手)

 先ほどこのことに触れましたが、ここでついでにもう少し厳しく言っておきます。私の周りにはいつも一部の学習者がいますが、各地にも責任者や補導点の世話人或いはほかの責任者がいます。これらの責任者に分かってもらいたいのは、皆さんが遭った全ての出来事が関を乗り越えることですが、師父を代表することはできないのです。いなかることに関しても、私がこのことに参与したから、皆さんは私の角度から問題を考えなければなりません。これは今まで皆さんに軽視されていたことです。私に厄介なことをもたらしたら、それはこの法に対する破壊です。ですから、皆さんの関を乗り越えることと全く違います。これは決して師父が修煉しており、或いは師父が関を乗り越えているということではなく、それは法と宇宙に対する破壊ですから、同等に扱ってはいけません。このことについてはっきりと認識しておかなければなりません。私は問題を処理する時、それを本当の魔として片付けることができますが、皆さんは決してしてはいけません。皆さんがぶつかったいかなる出来事も皆さんの修煉と直接的に関係しています。ですから、それを修煉として見なし、自分の原因を探らなければなりません。これは明らかに違います。

弟子:ヨーロッパ人は非常に入静しにくいようですが、これはなぜでしょうか?
師:実は東洋人とヨーロッパ人は同じです。常人社会で修煉する場合、本当に入静できるようになれば、その人は既に高いレベルまで達しました。なぜならば、常人社会にやらなければならない仕事、常人としてのこと、いろいろなことがあるからです。座禅してあなたが何も考えたくなくても、事は自らあなたの思想の中で働きかけており、思わず考えてしまうから、入静できないのです。私たちは修煉の中で絶えず向上し、執着心を取り除いています。執着心が減れば減るほど、自然にますます心が静かに、静かになります。これは次元の現れです。始めから入静しようとしていますが、それは現実的ではありません。いかなる方法を採ってもできないのです。特殊な情況、人間としての一面が極めて弱く、しかも他の一面が非常に強く、半分がはっきりして半分がはっきりしていませんが、このような極めて特殊な人であれば、ある程度入静できます。このような人に主として働いているのは人間の面ではなく、神の面です。このような人以外のいかなる人も始めから入静できるまでに到りません。ですから、人種を問わず、ヨーロッパ人と東洋人は皆同じです。

 入静できなくても焦らないでください。煉功の時、心地よくなり身体がリラックスし、できるだけあれこれ考えないように抑制すればいいのです。どうしても仕方がなく、まだあれこれ思い浮かんでいるなら、そのままにさせればいいのです。このあれこれ思い浮かぶ考えを他人として見なせば良いのです。あなたは「考えなさい、わたしはあなたが考えているのを見ている」と思えばいいのです。これは一つの方法かもしれません。幸いなことに、あなたはそれが自分ではないとはっきり認識でき、これはごく貴重なことです。或いは考えないように抑制すれば、修煉者としてできることをしたことになります。身体がリラックスしてから、演化に最も良い状態に入りました。しかし、考えが静かにならず、演化に最も良い状態になれなかったら、どうしたら良いのでしょうか? ご存知のように、私たちはミクロから修煉しているので、ミクロのところが入静しているのです。ミクロのところから、だんだん静かになり、修煉がますます向上してきた時、表面上のものは制約され次第に弱くなります。表面では悪ければ悪いほど、表面がますます弱くなっています。つまりこのような関係です。多くの人は長く修煉していて、思想にまだ良くないものがあることに気付きましたが、あなたがそれを抑制しようと思えば、抑制できます。良くない思想が悪くなりつつ、ますます表面化されていますが、だんだん弱まっています。なぜなら、良くない思想の根がなくなったからです。

弟子:西洋人の煉功者として、どのように弁証法的になり、生活するのでしょうか? 自然に任せるべきでしょうか?
師:そうだと思います。自然に任せるということは私が異なった環境下で説いたもので、何でも自然に任せると皆さんには教えていません。会社で働いているなら、給料をもらっているわけですから、仕事の時うやむやに済まして、自然に任せて努力もしなければ、給料をもらう資格もありません。私たちはどこにあっても良い人でなければなりません。ですから、皆さんに教えますが、自然に任せるということは場合によると思います。修煉の時自然に任すべきですが、人為的に自分のよくない面を抑え、努力して修煉しなければならないので、また自然に任すということではなくなりました。実は皆このように修煉しています。積極的に自分を修め、生活の中でできるだけ常人社会の形式に適応すべきだということは、修煉を通じて皆さんが既に非常に明確に分かっています。ですから、常人の仕事と修煉を分けなければなりません。必ず分けなければなりません。仕事は仕事、修煉は修煉です。ただし、あなたは修煉者ですから、自分に高い基準を要求していることは仕事に反映され、社会、家庭、異なる社会環境に現れてきます。つまり、どこにおいてもあなたは良い人で、皆に良い人だと思われます。つまりこのような関係です。私たちが言った自然に任せるという概念は、昔説かれていたようなものではありません。何も構わなくなり、ただぼうとして座っているだけで、出家したようになるのは自然に任せたということではありません。決してこの概念ではありません。

 もし何かの厄介なことに遭ったら、修煉者としてまず自分を反省すべきだと思います。自分がどこかできちんと行っていなかったから引き起こしたではないかと考えるべきです。修煉者はもしこのようにすることができなければ、前進できません。ですから全ての人はもしトラブルに遭ったらまず自分を探すべきです。自分が良く行わなかったのではないかと探すべきです。宇宙の中にある全ては皆、平和であるとわたしは良く言っています。自分が間違ったから、事がねじれ、他人ともねじれてしまい、全てがおかしくなり、人間関係にも問題が起こります。この時、自分の原因を探り、自分のよくないところを正せば、全てがまた平和になり、順調になります。他人と言い争ったりすることはお勧めしません。もし本当にトラブルに遭い、不公平にされたように見えても、修煉者としてそれが前世その人に借りがあったかもしれないので、少し忍んで気にとめないほうがいいのです。常人でも分かるように、二人が言い争いになったら、結局けんか別れになり、いざこざができて二人はなかなかそれを解決できません。時間が長くなると、ますます解決しにくくなり、とどのつまり敵となってしまいます。私たちはそれを堪え忍び、気にせず譲歩することができます。中国には「一歩下がれば、世界が開ける」という言葉があります。それでも争ったり、たてついたりすれば、本当に解決の道がありません。一歩下がって、その心を放棄し気にしなくなれば、広い世界が目の前に開け、全く別の光景になります。こういうことです。修煉者としてそうしなければなりません。もし常人と同じように言い合ったり、争ったり、トラブルを助長したりすれば、私たちは常人と同じようになってしまいます。こういうことではありませんか? 実はそういうことです。

弟子:どのようにして自分の次元を知ることができるのでしょうか?
師:私の主観から言えば、当初、皆さんに自分の次元を非常に知ってほしくなかったのです。一人の人間がこれほど大きな法の中で溶けていますが、喩えを使って説明すれば、もし一つの木の屑が溶けた鉄の入ったるつぼに落ちたら、瞬時に見えなくなるようなことです。これほど大きな法で人間を溶かせば、その人の身体の業力、思想業力、各種のものが瞬時になくなります。もし完全にこのようにすれば、あなたが修煉していないことになり、私が生命を造り直していることになり、あなたの修煉と見なされません。ですから、私たちはこのようにしてはいけません。皆さんに自分で修煉させ、自分で自分を変えさせなければなりません。この法はとてつもなく大きいのです。修煉の過程で、自分を修煉者として見なし着実に修煉し、絶えず本を読んでいけば、既に絶えず昇華し向上しているのです。その上、煉功という補助的な手段を加えれば、あなたの向上は非常に速いものとなります。これが最も速い修煉形式です。

 初期段階に皆さんに自分のいる境地を知らせたら、あなたは心をうまく制御できなくなります。あら、私はこんなに神通力があるのだ、私が既にここまで修煉したのだ、という有様です。もしあなたの身体の周りに起きた本当の変化を皆さんに見させれば、あなたには常人の七情六欲など各種の執着心があるので、心が動揺せずにいられますか? あなたの常人としての考えはまだ強いので、早い段階であなたのいる境地を知らせません。これはほかでもなく、ただ修煉の過程で皆さんが絶えず向上し、向上し、最も早い速度で向上するよう保証するためです。上士が道を聞けば、悟りによって圓満成就します。これが最も素晴らしいのです。これも最も速い方式であり、本当に最も速いのです。

 弟子によってそれぞれの状況も違いますので、開かれている状態、或いは半ば閉鎖されている状態で修煉している人もいます。このような人はいろいろ見えます。また非常にはっきりと見える人もおり、その人には全てが分かります。これは個別な情況ですが、多くの人は鍵を掛けられて修煉しています。ひたすら本を読み修煉していけば、あなたは既に自分を絶えず高め、天機を悟っており、この法理そのものもあなたに充分な望みを与えることができます。もちろん、今日の社会の人は、常人社会の各種のいわゆる偽の現実にひどく惑わされ、執着しており、なかなか抜け出せません。大法と個人の利益に対する執着がいつも対決しており、甚だしい場合法を放棄しても執着を放棄しません。これらのこともなんとも言い難いのですが、今日の社会は既に人間が本性と人間としての基準も知らない段階まで来ているからです。

 しかし社会が良くなければないほど、私たちの修煉に絶好の環境を与えました。環境が複雑であればあるほど、修煉によってレベルの高い人が現れてくるのではありませんか? つまりこの道理です。数年前、中国に多くの気功師が出現しましたが、常人の環境では皆彼らに感服しており、すごいですね、気功の大家で、本当に腕力がありますねという具合です。人の病気を治したら、何らかの利益を与えられますが、甚だしい場合お金をもらっています。物質的利益に対する追求もますます強くなり、多くの人はこれで落ちてしまい、功もなくなり、完全にだめになり、その師父も手放してしまいました。なぜでしょうか。今まで彼らは常人の知らない環境で修煉していたからです。山奥や或いは人に知られていない場所、または寺院、ほかの宗教的な環境で修煉していました。彼らは常人社会の現実と複雑な利益と全く接触せず、この悪に染まる環境を経験していなかったのです。一旦社会と接触するようになると、複雑な社会に汚染され、結局常人と同じように名利を追求したりすることによって常人になってしまいました。彼らの修煉方法は常人の中で使えなくなったからです。しかし私たちはまさしくこの悪に染まる環境の中で修煉しています。接触しているのが皆そのようなものだから、そこから脱皮できれば、あなたは素晴らしいではありませんか? なぜ高いレベルまで修煉できるかということについてご存知ですか? あなたが修煉して高いレベルまで達することを促した最も基本的な保証は、このひどくただれた環境です。そこから抜け出すことができれば、または修煉したいという念が生じるだけで、その人は素晴らしい人です。なぜならば、このような環境にいて、苦しみに漬かっていてもまだこのような心があるからです。

 表面上、形式上の苦しみは何でもありません。その心を切り捨て、執着を放棄する時、それは本当に骨身に沁みる苦であり、最も苦しいものです。この複雑な環境はあなたが高い次元を目指して修煉するのに最も良い条件となりました。また逆の角度から言えば、このような最もよくない環境であってはじめて、大法の威力を顕すことができます。良い社会環境では、この大法も必要でなくなります。また良い環境では、法を正す必要もなく、世間にイエスと釈迦牟尼の如来の次元の法があれば十分です。しかし、なぜ現在宗教が末法時期に入り、全ての宗教は人を済度できなくなったのでしょうか? 人々は佛さえ罵り、イエスの肖像まで足で踏み、肖像に向かって小便をしており、このような時期にあって、人に法を学ばせ、人を済度するのは既に不可能だからです。

弟子:私は一途に修煉したいのですが、どのように大法を疑わないようにすることができるのでしょうか?
師:常人社会にいて、全ての人の考えの中に後天的に多くの観念が形成され、常人社会の偽りの現実の知識を受け入れることによって、あなたを迷いの中に深く迷わせたのです。思想の中に各種の観念と固定した考えが形成され、全てあなたが法を得られないように阻んでいます。頭に浮かんだ疑問は、常人の現実の中に認識したものをもって、大法を量っていることによって引き起こされたのではないでしょうか? それで疑問が生じたのではないでしょうか? きっとそうです。つまり、あなたは常人の知識、常人の考えから形成された観念をもって大法を量っています。常人は最低の次元にいるのではありませんか?常人は迷いの中にいるのではありませんか? 常人に宇宙の真理と肩を並べるものが一つでもあるのでしょうか? 何もありません。私たちの大法はまた常人という最低の形式に立脚し、人間の言葉という最低の表現方式で大法を説いています。ですから見た目では、とても表面的なもののようですが、絶えず勉強していけば、ますますレベルが高くなり、奥深くなり、とても届くことのできないところにあると気付くのです。一方、常人の知識にはこれらの内涵がありません。もし大法を信じず、疑う気持ちを皆自分の考えと見なしてしまえば、それは大間違いです。それは常人の中で後天的に形成された観念であり、あなた自身がそれを自分の物と見なしていますが、実はそれはあなたではありません。

弟子:私は煉功する前から、天目が開いており、占いで生計を立てています。この仕事をやめる必要があるのでしょうか?
師:もしあなたが煉功しておらず、常人であれば、私は反対しません。私は修煉の人が修煉できるように説法をしています。誰でも大法を修煉するようにと言っておらず、自分が修煉できると思えば、修煉すればいいのです。修煉できないと思えばしなくてもいいのです。将来の人類社会に、占いのような小道や風水や或いは何かの方法で病気治療するようなものが存在するかもしれません。古から全世界にこのようなものが存在しています。一人の修煉者として、将来ますます高い次元のものが見え、発言にあるエネルギーもますます強くなるので、占いをする時に問題を起しかねません。この世の事は時に安定しておらず、こうなるかもしれないし、こうならないかもしれません。もしその人があなたの話を信じ、信じ込んでいれば、彼自身もそれを強化することができます。あなたにエネルギーがあるから、あなたの発言はその不安定な要素を決めてしまい、本来そうなるべきでない事をそのようにしてしまいます。あなたに見えたのは物事の本質ではなく、ほかにまだ因縁関係がありますが、あなたが話してしまえば、それを決めてしまい、それではあなたは悪いことをしたかもしれません。しかし、このような業力はあなたが修煉の過程で余計に加えたもので、あなたの関門、難は既にあそこにありました。全ての関、難はあなたが乗り越えられるようにしなければなりませんが、余計に加えた難はあなたには乗り越えられません。人に大きな影響を及ぼしたこと、或いは結果が極めてよくないことをやってしまえば、あなたはこの関を乗り越えられず、修煉できなくなります。ですから、修煉者は口を修めなければなりませんが、あなたにとってこれは無理です。もし見えたものを直接口にしたら、それは天機を漏らすことになります。しかも無責任に常人に話してしまいましたが、これでは尚更いけません。

 更に皆さんに教えますが、占いをする人は自分自身の要素以外、絶対多数の場合外来の要素が働いているため、それは非常に恐ろしいことです。一つの生命にとって非常に恐ろしいことです。それで修煉できなくなります。私はただこのことの道理を話していますが、常人が占いをすることに私は反対しているのではありません。あなたが修煉しているのであれば、あなたにこの道理を教え、責任を持たなければなりません。このような事をしたら、あなたによくない結果をもたらすほかありません。しかし、私の生活はどうすればいいかときっとそう思いますが、私はただ修煉者に道や法を説いており、修煉できれば修煉すればいいし、このように教えるしかありません。しかし私はあなたに責任を持たなければならないので、逆の角度から言えば、大法弟子としてあなたが生活できるようにしなければなりません。そういうことになります。

弟子:どのように恐怖心を放棄することができるのでしょうか?
師:恐怖心も執着です。それは自分の意志が強いかどうかの問題で、克服すべきことです。煉功するとすぐ寝てしまう学習者がいますが、それも自分の意志で克服しなければならないことです。それらのものは魔ではありませんが、修煉者に魔の作用を果しています。それを突破しなければ、それらのものはあなたに働きかけます。

弟子:私はどうしても下腹部に法輪が回っているのが感じられません。
師:誰でも感じられるようなものではありません。敏感な人はエネルギーが回るとすぐ、あら、なんと強烈なものでしょうと感じます。下腹部で既に激しく運動していても、感じない人もいます。それぞれの身体の情況は違いますので、感覚で次元の高さを判断しないでください。くれぐれも感覚で判断しないでください。

弟子:私の天目はいつまでも開かないのでしょうか?
師:あなたは求めているのですか? 圓満成就してもまだ開かなければ、それは問題があります。あなたは修煉の過程でずっと開かないのかと言っているのでしょうか? もしそれを求め、このような考えがあれば、たとえ少しあるとしても、見させません。見えるようになったとしても見させません。なぜならば、あなたの心、その執着が取り除かれていないからです。ですから、その執着を放棄し、気にかけなくなれば、その時どうなるかまた見てみましょう。

 白人の学習者はまた東洋の学習者と違い、東洋、特に中国の文化の淵源は比較的に深いものです。五千年、六千年の歴史があるだけではなく、前回の先史文化も受け継いでいます。ですから、その骨、細胞まで皆とても深い文化の内涵が沁み込んでいます。それに対して、白人社会の文化は二千年の歴史しかないから、その迷いを破るのは非常に簡単です。迷いが破られたら、ほぼすぐに見えるようになります。しかし中国人はどこが違うのでしょうか。あることの原因を教えたら、これが正しいと思いながら、その原因の原因をまだ考えています。原因の原因を教えたら、また原因の原因の原因を考えています。ですから、最後まで迷いを破ってから、はじめて全てを開くことができます。これは多くの白人の学習者がなぜ、大法を学んだらすぐ恍惚としている間に何かが見えたかの理由です。つまりこのことです。白人に常人社会の表面的なものに封鎖された部分が非常に少ないからです。ただこの道理です。常人の道理が彼を束縛しているので、その道理を破ってしまえば、常人の中で彼を束縛できるものはもうなくなりました。つまりこういう意味です。もちろん全てこの情況ではありません。感性的な認識と理性的な認識はやはり違います。もし本当に心の底まで法を勉強し、修煉の時真に法を認識できれば、初期段階の感性的な認識とはやはり違い、だんだん理性的に法を認識するまで昇華します。

弟子:出家者に対して、どのように法を弘めればいいのでしょうか?
師:私は出家者のことがいつも気に掛かっています。特に数年前ずっと彼らのことで焦っていました。釈迦牟尼にせよ、イエスにせよ、これらの大覚者は修煉を創立しました。それで修煉している弟子はそれを継承しています。なんといっても彼らも佛家の弟子ですので、私はずっと彼らのことを気に掛けています。しかし、末法時期は既にここまで来て、宗教にあって本当に修煉したいと思っている人は確かに多くありません。私はあることに気付いたのです。つまり多くの出家者は、彼が維持し守っているのは神佛ではなく、宗教なのです。彼の心は修煉になく、完全に宗教の形式を維持し守っています。このような執着はある深刻な障害をもたらしました。また宗教の形式以外に佛法がないと思っている人もいますが、それは邪で歪んだ説です。これが出家者が法を得ることを阻害した最大の要素です。しかし、本当に自分の考えを持って、真に道理から全てを量ることのできる人もいますが、このような人は立派な人です。このような人は私の本を読んで、読み終えたらこれが何であるかが分かるのです。なぜならば、全ての人に皆佛性があるからです。あたかも電気のように、両極が接しただけで、すぐ繋がってしまいます。佛性がなければ、繋がることができません。反応を起すことができず、電気も通りません。ですから、一部の出家した弟子が違いますが、本当に立派だと思います。なぜならば、出家の目的は修煉のためだとはっきり分かっているからです。一方、この正念を持っていない人もいます。宗教のことについて、ここでこれ以上話しませんが、ただついでに触れただけです。もしあなたがある出家者の居士、友達或いは親戚であれば、大法のことを話してもいいのですが、本人が修煉したければ修煉すればよいのですが、したくなければそれでいいのです。決して人を無理に引っ張ってはいけません。修煉しに来て下さい、修煉しなければもったいない、是非私と一緒に修煉してくださいなどなど。心は人の情で変えるものではありません。人の心は自ら動いてはじめて修煉することができるようになります。

弟子:寺院で定職に就いている僧侶はどのように着実に修煉するのでしょうか? 還俗する必要があるのでしょうか?
師:還俗する必要は全くありません。なぜでしょうか? わたしが不二法門という問題を説いたのは、わたし達が今修煉している法に対してです。昔、佛経にある全ての文字の後ろは皆、佛の形象でした。現在経典を開いても全然見えなくなりました。釈迦牟尼とイエスの名前の後ろさえ彼らの形象がなくなりました。つまり佛経は人を済度する力がなくなり、ただの紙と活字になりました。また法事も、一種の宗教儀式に過ぎず、わたしはそれを常人の仕事として見ているだけです。実は多くの和尚はこのような儀式を仕事としてみており、自分がお金を稼いで働いていると思っています。中国大陸の和尚は課長クラス、部長クラスにランク付けられて給料をもらっています。更に局長クラスの和尚もいるそうです。彼らは釈迦牟尼の元々のものを変え、それが釈迦牟尼の伝えた法を破壊していると人々は分かっていません。ここまで来たら、釈迦牟尼は当然見放してしまいます。佛教がこのようになったから、わたしは和尚のやっていることを仕事として見ています。和尚はお経を唱えても、法事を行っても、何の働きもありません。大法さえ修煉すれば、わたしは何の形式にもこだわりません。 大道無形だからです。これほど大きな法は常人の中の如何なる形式も適しません。わたし達は緩やかな管理を行い、人の心だけを見ています。修煉すれば、わたしが見守ってあげますが、このような見守りは常人には見えないものです。ですから、常人社会の如何なる形式にもこだわりません。形式がない以上、常人の中の全てをわたしは仕事として見ています。わたしにはこのように見るしかありません。和尚でありながら修煉する人は法事を行ないたければ行なっても構いません。自分が大法を修煉している者だと分かっていればいいのです。如何に精進するかのことに力を入れるべきで、このように対処すればいいのですが、他の宗教についても同じことが言えます。

弟子:清浄心は全ての執着心が取り除かれてから、やっと得られるものですが、興味のあるものまで放棄しなければならないのでしょうか?
師:本当に清浄心という状態に達すれば、そうなります。しかし、あなたは常人の中で修煉しているから、すぐここまでできたら、その場で佛になります。ですからこれはあり得ない話です。佛の境地に到達するには、修煉の過程が必要で、しっかりした思想の基礎を築き上げなければなりません。つまり絶えず修煉し、絶えず深まり、自分を高め、ますます高まっていきますが、これは徐々に達成することです。すぐそこまで達しなさいと要求したら、あなたは恐れて修煉をやめてしまうかも知れません。なぜならば、あなたの思想はまだその境地まで達していないからです。常人から始めたので、これはあまり気を使わなくても、ゆっくりと自然に到達することができるものです。修煉し、本さえ読んでいれば、達成できるのです。法理はあなたの全ての問題を解決することができます。無理強いでするのではなく、無理強いで何かをすることも有為です。ただ自分を修煉者として見なしていればいいのですが、これは明確なことです。皆自分の心を修め、できるだけ良くないことを行わないようにしていますが、これはできる限りあなたの先天的本質に近づこうとすることであり、有為ではありません。

弟子:先生は科学が宗教だとおっしゃいましたが、わたしは自分の科学研究をしっかりやらなければなりませんが、この状態にいつも悩んでいます。
師:科学が宗教だとわたしは言いましたが、既に非常に詳しく話しました。なぜ科学が宗教であり、しかも非常に完備されている宗教なのでしょうか? 科学は徳を重んぜず、神の存在も認めないからです。科学は神の存在を確認できず、悪いことをしたら悪報に遭い、良いことをしたら、良い報いがやってくると信じていません。良いことをしたら、いい報いがやって来ますが、悪いことをしたら悪報に遭うとか、神が存在するとかを言う人がいれば、科学は科学の理論をもってその人を否定し、打ちのめします。ひいては正教まで打ちのめしますが、人類の道徳を破壊しています。人間に心の縛りがなければ、敢えてどんな悪事までも働きますが、この点から言えば、科学は正しいものなのでしょうか、それとも邪なものなのでしょうか? 科学は邪な作用をしているのではありませんか? 現在の人間はなぜこれほどひどく道徳を喪失しているのでしょうか? つまり人間に正しい信念がなくなったからです。西洋の人は特にそうですが、実は西洋の人が本当に信じているのは宗教ではなく、科学です。自分の心の奥から考えてみてください。皆さんが最も信じているのは科学です。皆さんにとってほかのどんなものも二の次のことで、科学だけが最も重要です。これが修煉にとって一つの障害ですから、科学が宗教だということを明かしたのです。

 聞くところによると、ローマの教皇庁は昔、人間が猿から進化したという説を認めていなかったそうです。ローマ教皇庁は、人間は天主に泥で作られたのだと信じていたのです。しかし、ローマの教皇庁も今、公に人間が猿から進化してきたのだと認めたそうです。これでは、自分の主を否定してしまったことになったのではありませんか? 科学に非常に大きな力量があり、現在の人間は皆それを信じています。どんな些細なことでも、どんな大きいことでも、わたしは人類のあらゆることをはっきり説明することができます。また古から今日まで人類が発展してきた過程で起きた全てのことも、わたしはそれを明白に説くことができます。ただし、皆常人のことだから、あえて言う必要もありません。わたしが何かを話すのも、それは皆さんの修煉と関係があるからです。ほぼ科学の全ての認識の基点、物質、宇宙、生命に対する認識の基点など、全部間違っています。オーストラリア上空のホール、つまり南極上空に現れたオゾン層のホールについて、現在の科学は、それが工業の排気ガスとクーラーに使われているフロンガス及びそのほかの排気ガスによるもので、これらの排気ガスがオゾン層を破壊したと言っています。実は皆さんに教えますが、この宇宙にある全てのものは皆生命であり、生きものです。厖大な気体はわたし達に見えませんが、幾層にも重なって、数え切れないほどあり、皆生命であり、神です。近代科学が作り出した工業は人類の生存環境をひどく破壊しており、これは確かなことです。排気ガスの破壊で南極上空にホールが現れたのではなく、人間が神を破壊することはできません。なぜ工業が発達しているヨーロッパの上空にホールが現れてこなかったのでしょうか? なぜ人間が生息していない南極の上空に現れたのでしょうか? 神は、地球上に排気ガスや毒の気体が多くなり過ぎたのを見て、窓を開けるように排気ガスをまず外に出して、そしてまた閉めるからです。全く現在の科学が認識しているようなことではありません。

 現在人類は既に科学があらゆる領域を操ったところまで発展してきました。ですから、人類はいま科学を振り捨てることができず、科学は既に人類社会の現実となりました。科学に従って行動しなければならないところまで来ました。わたし達は最大限常人の状態に符合しながら行動しているので、自分の科学研究の仕事をきちんとやればいいのです。これはあなたの間違いではなく、誰か個人或いはある民族、またはある国が回避できることではありません。あなたの仕事である以上、きちんとやり遂げ、自分の職責を果たして行えばいいのです。自分が科学のために何かをしているなどと思わないでください。実は科学は既にあらゆる隙に乗じて人類の全ての領域を占領したのです。人類の一切は殆ど科学のために存在していますが、だからといって何もやらなくてもいいというわけではありません。修煉者として、この道理だけは分かってほしいのですが、現在の人類社会が既に回避できない現実を放棄し、仕事を放棄するようにと言っているのではありません。

 わたしが話した科学は宗教であり、しかも完備された宗教です。科学はまず人々を物質から認識させて精神の信仰にまで到らせるのです。それに対して、本当の宗教はまず道理から、分かってもらって、真にあなたの思想から分かってもらってから、無形から有形まで到達させるのです。最後本当に物質からもそれを認識することができ、圓満成就してから天国に戻ることができます。宗教はこのような過程です。しかし科学は逆になっており、まず物質から人の精神を動かしています。宗教は精神の認識から物質の変化をもたらしています。わたしがこの道理を説いたのはこのことを分かってほしいからです。科学は既に社会の現実となりましたが、わたしは人類が依存している科学に反対しているのではなく、ただ現在の科学の真実を言っているだけです。

弟子:因果関係と慈悲心について説明していただけませんか?
師:あなたが慈悲ということに言及しましたが、あなたの考えを正し、慈悲とは何かを教えます。常人社会で楽に暮らし、何の災難もなく、毎日のんびりしていて、お金も十分あって、欲しいものも全部揃っていれば、人々は神様が人に慈悲であり、やさしくしていると思っています。皆さんに教えますが、神はこのようなことをしません。もし本当にこのようなことをしたら、それはあなたに非常に良くないのです。この世での理は全部反対になっているからです。ご存知のように、人々はこの世に生活しており、社会と付き合いがあるから、業を造ることがあります。イエスは人間に皆罪があると説きました。なぜならば、罪があるからこそ、常人のこの空間まで落ちてきたからです。この空間で、生々世々に業を造っており、罪を犯しているのに、楽に暮らそうとするのは業を返さないということではありませんか? 業を返さず、更に今生に造った業を加えると、来世は人体さえ得られず、もっと良くないものに転生してしまうかもしれません。これ以上業を造ったら、地獄に落ちるしかありません。更に落ちたら、消滅されてしまう羽目になります。この道理からみれば、神がどのようにあなたに対処したら、本当にあなたのためになるのでしょうか? これが因果です。

 しかし、本当の慈悲に対してわたしはどのように見ているのでしょうか? ある人がもし本当に良い人であれば、一生に多くの魔難に遭います。これらの魔難は以前彼が造った業を返させ、今生の時間を大切にして、できるだけ早く全部返させるためです。人体を持っている今生に、借りを全部返して、天国に行き、永遠の幸せを味わうことができるので、常人の中で苦を嘗めることがあります。それでは皆さん考えてみてください。どちらのほうが本当の慈悲なのでしょうか? 佛の物事に対する見方は人間とは絶対違います。佛がこの世で幸せにしてくれれば、それが佛や神の慈悲だと常人は思っています。逆に苦を嘗めることがあったら、神はどうして見守ってくれないのでしょうか? わたしは見捨てられた人だ、と彼は神を恨んでしまいます。これはまさに神があなたを見守っていることです。あなたが業を返し元に戻れるようにしており、永遠に生まれることも、消滅することもないところ、二度と落ちないところに帰るのは、なんと素晴らしいことでしょう。これこそ本当の慈悲です。皆さんが修煉していますが、わたしはどうして皆さんの全ての苦を取り除かないのでしょうか? 関を乗り越えることも遭わさず、皆さんを高い次元まで持っていけばいいのではありませんか? これは慈悲ではありませんか? しかし、これは慈悲ではなく、自分が造った業は自分で返さなければなりません。できるだけ早く返して、できるだけ早く返してから、わたしはやっと皆さんを済度することができます。この道理ではありませんか? わたしは別の角度から慈悲、慈悲とは何かを説いてあります。法は常人に説いているのではなく、皆さんに説いているのです。このことを永遠に覚えておいてください。常人は永遠に迷いの中にいるので、これらの道理を知ることが許されず、人間は取りも直さず人間でなければなりません。しかし、学習者は取りも直さず学習者であり、修煉者は常人と永遠に違います。

 このことを皆さんに教えることができます。世の中に偶然なことはなく、神は常に見ています。この空間についていえば、輪廻転生、社会の安定を管理する神もいれば、社会の体系、地球の安定、また空気や各種の空気の成分を管理する神もいます。更に、それぞれの神が地球で何をやっているのかを見守っている神もいます。様々な神がいるので、これらのことを見て手をこまねいていられるのでしょうか? 常人社会で勝手に何かを起したければそれができるのでしょうか? このようなことは決してあり得ません。

弟子:相生相克の理というのは、次元の高い空間ではこの二種類の物質の中の一つは真善忍により近いということなのでしょうか?
師:このように理解するのではありません。宇宙全体は真・善・忍によって構成されています。このように話しましょう。この二種類の物質も、真・善・忍によって宇宙で造られたのです。もし宇宙に正の面しか存在していなければ、生命にとってあまりにも気の毒で、生命に幸福もなければ、苦痛もなく、生きていても楽しみもなく、生きがいもありません。魔難があるからこそ、苦痛を味わい、幸せを手にしたらそれが大事にすべきもので、貴重なものだと感じ、生きがいがあると思うようになります。宇宙に正の一面が存在しているから、生命のために負の一面を按排し、同時に、生命に業を滅してあげることもできます。

弟子:根本に関わる問題が解決された後、大法を守るといえば、わたしはすぐ情熱的になりますが、この状態は正しいのでしょうか?
師:正しくない、正しくない。皆さんくれぐれも気をつけてください。この問題にまさに正の一面と負の一面があるのです。負の一面は下へ追及していけば、悪の一面となり、正の一面は下へ追及していけば、善の一面となります。ですから、皆さんに教えますが、常人社会で、わたし達は常人社会にいる人々がやっているようなことを決してしてはならず、必ず善の一面を持って作用を果たさせます。釈迦牟尼佛が衆生に皆佛性があると説きましたが、実は皆さんに教えますが、同時に衆生には皆魔性もあります。つまり魔性と佛性は同時に一つの生命に存在しています。人が怒っているとき、かんしゃくを起こしているとき、理性を失ったときに、それは魔性です。理性的で、和やかで優しく、しかも慈悲の状態にいるとき、それは佛性です。異なっているこの二種類の性質は異なる状態に現れてくるので、わたし達は永遠に善の一面で物事に対処しなければなりません。この間テレビ局はわたし達に対して不実な報道をしましたが、テレビ局に訪ねに行ったときは、皆とても理性的で、善意を持って話していました。その時多くの人が行きましたが、人が多くなると良くないとは限りません。態度とやり方には善と悪の違いがありますが、完全に和やかで善の態度で道理を話し、国の政治に干渉せず、公共物を壊すこともなく、皆修煉者らしくテレビ局の人にわたし達の道理を訴えていました。このような人達を見たこともないとテレビ局の人も感動しました。逆に、人類社会になぜ暴力があるのでしょうか?常人が何かを訴え、道理を話そうとする時、デモなどのやり方を採り、暴力を振るい、「ぎゃー」と叫んだり、ひいては武力まで行使してしまいます。これは常人に魔性の一面が存在しているためであり、それは常人なのです。わたし達は修煉者だから、善の一面だけを使い、悪の一面を用いてはいけません。常人には善と悪の両方を使っており、常人は道理も説きますし、暴力も使います。道理で押し通すことができなければ、手を出し、罵り始めますが、常人には善悪という両面があります。

弟子:宇宙を片付けたとき、地球に逃げてきた宇宙人がいるとおっしゃいましたが、彼らは憑き物として存在しているのでしょうか、それともほかの何かの形を取っているのでしょうか?
師:まず宇宙人のことについてお話します。ご存知のように、この地球がこの宇宙で唯一の生命のある星ではなく、地球も今回だけではありません。今の地球の位置に昔、地球がありました。以前の地球は壊滅してしまいましたが、爆発してしまった場合もありますが、このようなことは何回も起こりました。その数字はかなり大きいものです。いつも生命が最も腐敗堕落して、物質が最も不純になった時、地球は最終段階に陥った時、それ以上存在することができなくなりました。その時地球全体が業力のかたまりとなり、淘汰されてしまいます。生命は転生するものなので、土、石、植物、物質に転生しますが、どんなものに転生しても、業力を伴っているから、至るところに業力があり、次第に地球が業力のかたまりになってしまい、その時になると、地球は淘汰されてしまいます。地球にまだ良い人もいますが、それは極めて少なく、数えるぐらいですが、このような人達を取り出して三界にある別の星に置いておきます。しかしこの地球は年月が経つにつれ、何回淘汰されたのかも分かりませんが、淘汰されるたびに、残った人がいます。それで、そのように生き残った生命もだんだん多くなりました。その時によって神が造った人間の外形も違いますので、残った生命どうしも大きく異なっています。またほかの星で造られた生命もいますが、これらの人は即ち宇宙人です。

 宇宙人は歴史の記録となり、歴史の一ページとして残されると言った程度の役割しかありません。当時の地球の末期段階に宇宙人が残され、当時の技術を持って別の星に行ったため、技術の出発点が高いのです。長い年月の間、宇宙人が把握した宇宙の状況は既に現在の地球人を遥かに超えています。彼らの身体は別の空間に入り、その空間場の状態に適応することもでき、ここまでできたのです。人々に空飛ぶ円盤と呼ばれている宇宙人が乗用している飛行機も、別の空間に入り、その空間を飛ぶことができます。もし速度の速い時空を飛んでいれば、その空間に入ってすぐ遠いところまで行ってしまうから、その速度は人間にとって摩訶不思議なものです。彼らの使っている燃料は全く現在の科学が認識し得た物質と技術の理論概念ではありません。

 長い歳月の間、宇宙人は絶えず発展し、変異していきました。このような生命が生存しているような正常ではない社会関係は宇宙に現れました。貪欲と欲望に操られ、宇宙人のところに本当に宇宙大戦のようなことが起きました。宇宙人はまだ人類を脅かしていませんが、それは人類にまだ彼らを脅かす能力がないからです。ですから、宇宙人は人類を攻撃していません。もし人類が宇宙人を脅かしていれば、宇宙人は人類を攻撃します。しかし、宇宙人は人類を攻撃していないにも関わらず、人類の身体が最も完璧なものだと分かっています。ですから、宇宙人は人類に目をつけ、人体を盗み取ろうとしています。彼らは科学を人類のあらゆる領域に浸透させ、人間に科学を信じ込ませ、頼らせています。人類の思惟と生存方式が宇宙人に全部同化するようになったら、人間の元神を取り替え、最終的に人類に取って代わります。

 遡れば、西洋社会に工業革命が始まった時、宇宙人は既に全面的に襲ってきました。それ以前にも既に来ましたが、手を出さなかったのです。全面的に襲ってきたのは白人社会が工業社会に入ったときです。宇宙人はこの地球を占領するために綿密に準備し、系統的に段取りしました。彼らが人類のために科学を作り出したのであり、科学は実は宇宙人が作り出したものです。その目的は、人間を統一し、人間の思想を簡単にし、機械のように均一に規範してしまうところにあります。将来人間を制御しやすく、人類に取って代わるために、知識も統一しました。更に、宇宙人はまた、彼らが将来に全面的に人類を操るときの先導として幾つかの民族を選びました。日本は技術の先導として選ばれました。アメリカは地球の全ての伝統的な文化を破壊するための先導です。そのため、最も古く閉鎖的な国の文化まで免れることができず、全世界はアメリカの現代文化の衝撃を受けています。またイギリスは初期段階における機械製造の先導であり、スペインは人種を混雑させる先導です。宇宙人の人類を神の守りから離れさせるための方法は人種を混雑させることによって、現在の交雑植物のように人類の源を失わせることです。南米、中米、メキシコ人及び東南アジアの一部の人は皆、混雑された人種となりました。この全ては神の目に見逃されませんでした。宇宙人は既に充分綿密に準備して、人類に取って変わろうとしています。

 コンピュータを操作できる人は皆、宇宙人に印を付けられました。もちろんわたし達の学習者にはこのような問題がありません。皆さんが法を得たら、わたしは宇宙人に占用されたその一層の身体を片付けてあげます。宇宙人は既に人体に彼らの身体を形成しましたが、これは非常に恐ろしいことです! なぜならば、人類が小学校から大学まで学んだのは、全部宇宙人にもたらされた科学であり、更に人類が今使用している全ては、あらゆる領域に浸透した科学によって与えられたものだからです。人間のコンピュータと技術に関するひらめきはなぜ凄まじい勢いで進んでいるのでしょうか? これは宇宙人が人間の身体に形成されたあの一層の体を操って行ったことです。宇宙人の技術と科学が人間の身体に形成したものが人間の考えを操ってやったのです。現在コンピュータの発展は凄まじいものですが、それは人類の技術ではありません。人類はこのままでは、宇宙人に取って代わられてしまいます。しかし、皆さん考えてみてください。宇宙人はなんといっても、常人のこの三界内の生命であるに過ぎませんが、敢えてこのようにやっているのはやはりほかの原因があります。つまり宇宙にある法がずれてしまったから現れたことであり、神もこれを見捨てましたが、このことは高級生命とも関係しています。ですから、このことを改めるために、上の空間から行わなければなりません。なぜならば、高級生命は一つの観念を持っており、つまり人間がだめになり、道徳も腐敗堕落し、全般的にだめになったため、どうせ淘汰されるから、取って代わられても構わないと思っているからです。佛が人に対して慈悲を持っているのは如来と菩薩が人類に最も近く、最も次元の低い佛だからです。この次元を遥かに超えている次元の佛は、振り返ってみれば、如来佛も常人として見ています。それなら人間はどうでしょうか?人間は何者でもありません。悪くなったら、消滅してまた一から始めればというような概念です。慈悲という概念は彼らにとって人間に対しているのではなく、佛に対して言っているのです。更に高い次元の神は振り返ってみれば、人間は何者でもなく、微生物にも及ばないと思っています。というような道理ではありませんか?! 先生が私たちを済度していますが、このように済度すべきだ、あのように済度すべきだと言っている人がいます。私に言わせれば、佛がどうしてあなたを済度しなければならないのでしょうか? このようなことではありません。佛は人間に慈悲心を持っており、皆さんに慈悲心を持っているため、このようにしました。人間はどのように済度されるか、どのように修煉するかを自分で選ぼうとしていますが、自分が何を言っているかも分かりません。

 宇宙人のことはこのような情況です。上の空間で宇宙人を片付けているので、それに気付いて皆、この空間に逃げ込んできましたが、この数年に特に多いのです。しかし、私が行っていることも系統的に按排されているのだと彼らは知らないので、どこまで逃げても逃げ切れないのです。彼らが仕出かした全ての悪事を全部償わなければならず、これは明確なことです。この宇宙の理はいかなる生命に対しても、絶対理にかなっているので、彼らはした全てに対して償わなければなりません。宇宙人の生命を最終的にどのように処理するかということにいたって、今後宇宙人は絶対存在しません。もし宇宙人に本当に良い者がいれば、その生命は別の生命に転生することができます。それに対して、よくない生命は淘汰されてしまいます。ですから人間も含めての全ての生命は、行った全てのことで自分の将来の位置を決めています。人間も自分の行ったことで自分の位置を決めています。

 現在大多数の宇宙人は一命を取り留めるために逃げ込んできましたが、最終的に逃げ切れないと既に分かっているので、地球人と結婚する宇宙人もいます。しかしそれは正当な結婚ではなく、だれも彼らと結婚しようとしません。それで、宇宙人は農村の女性を捕まえて彼らの後継ぎを残そうとしています。また常人の中に隠れている宇宙人もいます。しかし、彼らはいくら隠れようとしても無理です。厖大な功はミクロからやってきて、鋼であろうが、鉄であろうが、木のかけら、人体、水、石、空気、植物、動物、物質など全てにおいて、ミクロから表面に押し上げています。それでは、彼らはどこへ逃げるのでしょうか? 厖大な功は全てのものに及んでおり、みな表面に向かっています。彼らはこれを見て、身を隠すところもなくなりました。彼らはどういう形で存在しているのでしょうか? 憑き物ではありませんが、人間の形象に化けて町を歩いている宇宙人がいますが、人々はそれを見分けることができません。またどこかに隠れて出てこない宇宙人もいますが、数は既に非常に少なくなりました。今まで彼らは自分を隠すことができ、彼らの空飛ぶ円盤が別の空間に飛んでいくことができましたが、別の空間が既に全部片付けられ、厖大な功はこの空間に向かって移動しているため、既に隠れ切れなくなりました。彼らはこの空間のどこかの洞窟、海底に隠れるしかありませんが、それでも隠れ切れません。いずれにせよ、宇宙人が今直面している問題はこのような状況で、全ての生命はこの出来事の中に自分の位置を決めています。

弟子:常人社会の科学は間違っていますが、私たちは常人の知識を勉強せず、直接修煉に入ることができるでしょうか?
師:別の角度から言えば、知識を高めることもできます。人に分かってもらうために、私も現代人の観念を用いて説法しており、知識の面において人々の発想を広げ、法を得ることにも有益なのです。教養の低い人なら、私が話している現代の用語をなかなか理解できません。しかし、それがなければいけないというわけではありません。もし現代のこのような科学によってもたらされた文化がなければ、私は古代の言葉で説法し、今日のこのような方式を使いません。しかし、現在の社会が既にこのようになったので、皆さんは常人社会の状態に符合して行動すれば大丈夫ですが、というより今そうするしかありません。修煉者として、大人であろうとも、子供であろうとも、どんな環境においてもやるべきことを全てきちんと行うべきだと思います。学生であればよく勉強しなければなりませんが、勤めている人であれば、仕事をきちんとこなさなければなりません。もし何かの特別な形式を作り出したら、皆さんの修煉形式もそれによって変化するので、生活と修煉に妨害をもたらします。宇宙人が自分の目的を達成させるために、人類に彼らの科学を与えましたが、神が全てを把握しているので、逆に彼らをも利用している、ということは皆さんが知っておかなければなりません。

弟子:修煉に大量の時間を割いて、常人の仕事に時間をかけないようにすべきでしょうか?
師:このような概念ではありません。できるだけ常人の勤務時間に従って自分の仕事を終わらせますが、いくら忙しくても煉功と本を読む時間がなければいけない、ということです。精進している弟子として、暇な時間を修煉に多く使わなければならないと思うべきです。

弟子:わざわざ複雑な環境を見つけて修煉する必要があるのでしょうか。
師:そうする必要はありません。人為的に何かをやろうとして、自分で修煉の道を按排しようとしてはいけません。人為的にこうしたい、ああしたいと思わないでください。皆さんの道は私が按排していますが、修煉したければこのようにして下さい。やるべきことをやればよいのです。中国で煉功してから、急に身だしなみを気にしなくなった人がいます。本来きちんと手入れして、人間らしくしなければなりませんが、今だらしがなく、甚だしい場合羞恥心さえなくなり、これではいけません。今は張三豊が当時道を修めていた時のようではありません。皆さんは今日、常人社会にあって修煉しているので、少なくとも人間らしくしなければなりません。神は人間を超えているので、更に良く行うべきで、いかなる点においてももっと良く行うべきです。決して煉功したからといって何も構わなくなり、毎日だらしなく、汚くしていてはいけません。ある意味では、あなたは大法のイメージを壊しています。そうではありませんか? ですから今回法会を開いたとき、皆身なりに気を掛け、さまにならないようなことがないようにと責任者に連絡しました。そうでしょう。中国の経済状況がこの頃もかなり良くなりましたので、いい服を着ることもそれほど大変なことではありません。私に言わせれば、必ずしもいい服を着るとはかぎりませんが、少なくとも身なりに気をつけ、清潔に着れば良いのです。私たちが常人社会で修煉しているということを心に留めておいてください。このことは問題にならないと思います。修煉に関して、自分で自分の修煉環境を按排しないでください。

弟子:四歳の子供は天目が開いたので、法輪が見え、また先生の名前が光っているのも見えていますが、時には非常にわがままで、自分の言う通りにならないと、すぐ大泣きして騒いでしまいますが、その時私はいつもいらいらして気分が悪いのです。
師:「いらいらして気分が悪い」、自分は既に書いているのではありませんか? いらいらしていれば、つまりあなたの心が動じたので、子供はあなたを向上させているのではありませんか?

弟子:二歳の子供は法輪を見たとき、非常に興奮して「法輪だ」と言い、また先生の法像を見たとき「師父だ」と言っています。いつも床に座って合掌して「煉功する」と言います。先生の説法テープをかけたら、「師父の話を聞いて」と言います。
師:この子は普通の子供ではありませんね。なぜならば、まだ二歳だからです。このような子供は多分法を得に来ているかもしれません。四歳、五歳の幼い修煉者に修煉が良くできている子供が非常に多く、非常に不思議に思われています。また多くの子供は優れた神通を持っています。どの家が未来に法を得るのか、上にいる神ははっきり見えているので、なるほどこの家の人が法を得るのだと見て、按排して転生して来るかもしれません。転生すれば法を得られるからです。

弟子:病院というところは、ほかの場所より業力が大きいのでしょうか?
師:常人社会の病院、病気を治療する機関として言えば、病の気は少し多いようです。しかし修煉者として、何を恐れているのでしょうか。私たち煉功者に全く関係なく、私たちに害を与えることはできません。

弟子:病院で病理解剖をする時、煉功者にとってよくないのでしょうか?
師:もしそれがあなたの仕事であれば、やってください。大丈夫です。もう死んだ人だからです。最大限常人社会の状態に符合して修煉してくださいと言いましたが、修煉したからといって、常人社会の全ての形式を変えてしまってはいけません。

弟子:口では人を罵っていないのですが、心の中で罵っています。これも徳を失うのでしょうか?
師:私の修煉が良くでき、行いも良いと言う人がいます。しかしその人の心にある執着が少しも放棄されていませんが、それは修煉と言えますか? それは嘘偽りの修煉ではないでしょうか? 本質的な変化こそ本当の変化です。表面上のものは全て形式なのです。口に出すかどうか、それは形式であり、心が変っていないというのは本当のことです。心で罵っていれば心は当然変っていません。徳を失うかどうかということはたいしたことではありません。大法は常人の徳を保つために伝えだされたのではありません。

弟子:毒のある動物や生物を恐れている学習者がいますが、この心を取り除かなければ圓満成就できないのでしょうか?
師:これは別のことです。その恐怖心を取り除ければよいのです。しかし多くの人はその動物を恐れているのではなく、汚いから嫌がっているようです。この汚さは糞便を見るときに感じた不潔感ではなく、よくないものだと思って感じた汚さなのです。未来の世界、未来の宇宙にこのような生物は存在しません。皆さんに教えますが、宇宙の初期にはこのような毒や悪のあるものがいませんでした。後になってどうして現れてきたのでしょうか。生命の業力がますます大きくなり、生命がますます悪くなったため、宇宙もますます雑になってしまい、現れてきた良くないものもだんだん多くなり、次第にますます毒になりました。このような発展の過程です。

弟子:「悟り」という経文に「両両相継いで来る」という文がありますが、「両両」はどういう意味でしょうか。
師:これは中国古代の文法です。中国古代の文法は物事を説明することができ、表現が簡潔で、意義も深く、含まれている内涵も広いので、最も良い言語です。昔の人々はそれが天上の話、天上の文字だと言っていました。現在の人類は道徳が堕落腐敗したから、現代文を使うようになりました。「両両相継いで来る」を解釈すれば、つまり三人が一緒にまたは二人が一緒に来るという意味合いです。ある人は他の人と相談して、この法がとてもいいから一緒に修煉しに行きましょうと声をかけたら、その人もこれがよいものだと思ってやってきます。彼はまた家族に教えて家族を連れてきます。このようにみな三人か二人で一緒に来ます。現代文で解釈すれば、このぐらいの言葉を費やしました。「両両相継」でやってきたという言葉を使えば、文字四つで全部概括できました。つまりこの意味です。「相継」というのは、つまり異なる時間に相継いで、続々と続けてやってきたという意味です。「相継」を解釈するにもこれほどたくさんの言葉を使いました。

弟子:刊行物の商売をやっている大法弟子は卸値で大法の本を入荷して、小売価格で販売してもよろしいでしょうか?
師:最近、私はあることについて考えました。中国には最近一時帰休(実は失業)の労働者がわりと多くいますが、中の極く少ない一部の人は大法の学習者です。ですから、彼らに法輪大法の書籍販売をやらせたらと考えました。彼らの生活問題を解決できるだけでなく、学習者が本を購入する問題も解決できます。既にこのようにした学習者がいます。後になってよくよく考えたら、どこかおかしいと思いました。どうしておかしいのでしょうか? 皆さん考えてください。大法は私たちを済度することができますが、これほど神聖な大法なのに、私たちはそれを利用して金儲けをしようとしており、これでは、自分をどこに位置付けたのでしょうか? 大法をどこに位置付けたのでしょうか? これではいけないので、やめさせました。それではどうして社会ではこのようなことをしてもいいのでしょうか? 私が常人社会を利用して法を伝えているからです。常人社会も法が最低次元における表現形式であるため、社会の各業界はこのように存在していますが、これは間違いではありません。私たちの本に背後の内涵がなければ、紙に活字があるだけで、普通の本に過ぎません。背後に内涵があるから、法としての役割があるのです。常人社会の本屋、業者が販売していれば、それは問題がありませんが、つまり常人社会における法に符合しています。弟子として、確かにこのような問題があります。わたし達は法を利用してお金を儲け、しかも本を買う人の多くが弟子なのですから、このお金をどう使えばいいのでしょうか?
 もしそもそも本屋を経営しており、この有利な条件を利用して大法の本の販売をし、昔から本屋を経営し大法のためにわざわざ造ったのでなければ、私も反対しません。なんといっても昔から本屋を経営しているからです。しかし、あなたの法に対する認識が深まるにつれ、また新しいやり方を取ると思います。

弟子:先生に会いに行くために、何もかも構わずに家族の人と大喧嘩しましたが、これは正しいのでしょうか、それとも間違っているのでしょうか?
師:もし中国大陸から来た学習者であれば、多分来させないようにしているかもしれませんが、私の法身はあなたが落ち着いて修煉できるように、来させないかもしれません。もし中国大陸からの学習者でなければ、あなた自身にほかの原因があるかもしれません。あなたが法に対して確固とした信念を持っているかどうかを見ているかもしれませんが、どんな可能性でもあり得ます。これは自分で悟らなければなりません。

弟子:修煉の時間を大切にしなければならないと分かっていますが、子供もほしいのですが、これは執着でしょうか。
師:最大限に常人に符合しながら修煉すると言いました。現在全ての若い修煉者は幾千万もいると思いますが、皆結婚せず子供も作らなければ、それは常人社会に対する一種の破壊ではありませんか? 少なくとも、あなたが常人社会の形式に符合しながら修煉していないということが言えます。しかし、どうしても結婚したくない人がおり、既に決心を下したのであれば、私も反対せず、このように修煉すればよいのです。あなたの生活或いは他の面に余計な負担とトラブルをもたらさない限り、私も何も構いません。この世のことは自分で定め、行わなければなりません。子供がいたら修煉の邪魔になるというようなことはないと私は思います。このようなことはありません。

弟子:圓満成就に幾種の形式があるのでしょうか。それぞれの形式もみな本体を持っていくのでしょうか?
師:このことについて、私は既に説いたことがありますが、法輪世界に行く人だけは体を持っていきます。他のところに行く人の場合、皆さんの多くが異なる次元の異なる境地から法を得に来たのですが、上の世界では体を持って戻ったら、神佛は怪しいものを持ってきたと思ってしまうので、その世界に体はなく要りません。もしこの体を持って戻ったら、そこの修煉体系を壊してしまいます。気をつけてください。どこから来たとしても、私はただ皆さんが元々持っていたものを新しく、しかも最も正しい法をもって同化させたのです。皆さんの修煉の表面にあるものにいたっては、私は何も手をつけないから、これで皆さんが元のところに戻ることができるのです。つまり、あなたは佛であれば佛になり、道であれば道になり、神であれば神になります。あなたの形象、過去の全てはみな変らないのです。昔果位のなかった人は、今回果位を得させてから、行くべき所に行かせることができます。

弟子:煉功の時にいつも同じ音楽が聞こえますが、それは大法の音楽ではありませんが、ほかの空間の信息に邪魔されているのを心配しています。
師:ほかの空間の音楽は私たち修煉用の音楽と違います。しかしほかの空間に確かに美しい音楽があり、聞こえたら聞こえたで気にしないでください。それはほかの空間の音です。心配もしないでください。音楽そのものは修煉を意味していません。皆さんが大法を修煉する時、この音楽を聞くようにと要求しました。その目的はまだ入静に至らないとき、一念をもって万念を代えるところにあります。つまり、音楽を聴いているとき、妄りに考えずに、音楽を聴いているだけで、これは皆さんの煉功に良いのです。しかしそれは私たちの煉功音楽でなければなりません。

弟子:体が一種の妨害を受け、言葉や図のようなものですが、既に半年も経ちましたが、まだそれを突破することができません。
師:もしあなたが本当の修煉者であれば、当初どんな考えや目的で大法を始めたとしても、その考えを放棄しなければならず、何も気にしないようにすべきです。そのことを解決するために大法を始めたのではないということをあなたははっきりと認識しなければなりません。私がこの法を伝えだした目的は、人を済度し、修煉させ、人々が元に戻れるようにするところにあり、常人の体の問題を解決するためではありません。これは非常に厳粛なことです。自分が本当に修煉すると決めてから、はじめてどんな問題でも解決してあげることができます。ただ常人の何らかの問題を解決するためであれば、何も解決してあげることができません。つまり一言だけです、法は修煉のためのものです。例えば、法輪功が病気治療しないと知っている人がいますが、分かった、病気治療をしないし、口にもそれを出さず、誰かに直してもらうというようなこともしません。しかし、煉功さえすれば師父が必ず私の病気を滅してくれる、と心の中でまだそう思っています。心の中でまだそう思っています。彼の心に深く隠れているものがまだ存在しており、私に彼の病気を構ってほしいとやはり思っています。つまり、彼はまだ自分の病気に執着しています。本当にそれを放棄し、考えもせずに、気にもしなければ、どうなるかまた見てみましょう。これは求めずして自ずと得るということです。いかなる修煉形式、修煉方法もこのようです。常人社会のいかなるものも、努力してそれに執着することによって手に入れることができ、ひいてはそれによって更に執着して求めてしまうかもしれませんが、ほかの空間では理がちょうど逆になっており、正反対です。努力して得ようとして、執着してやろうと思えば、何も得られません。逆に放棄すればするほど、何も気にならなければならないほど、得ることができます。ですからこれは求めずして自ずと得ると言います。

弟子:師父がシンガポール法会で大手印を打っていらっしゃったとき、気持ちがよいと思う人、美しく思う人、悲しく感じ、心が痛んで涙を流した人がいますが、これは修煉の次元と関係しているのでしょうか。
師:たいして違いません。ほとんど違いがありません。人によって受けた感じや悟りは違います。

弟子:修煉して圓満成就すればみな、無我無私の境地に至るわけですが、どうしてまだ次元が違うということがあるのでしょうか?
師:このように説明しましょう。修煉して初果羅漢に到達することも圓満成就であり、自分自身の解脱さえできれば良いのですが、衆生を普く済度し、他人の面倒を見るというようなことを考えず、修煉者自身が努力して圓満成就すればいいと思っています。これが初果羅漢です。もし菩薩の果位に到達しようとすれば、それが初果菩薩であっても、必ず大慈悲の心が表れるように、大慈悲を修めなければなりません。自分が解脱するだけでなく、ほかの人も解脱できるように手伝います。それができるかどうかは別として、衆生を見て彼らが苦しんでいると感じ、涙を流してしまう心があります。これは見せかけのものではなく、本当にそう思っています。あなたはこの時何の心も念も動かしていません。もちろん、修煉の時、常にこのような状態が現れてくるわけではありませんが、現れてくることがあります。もしあなたが圓満成就して佛になれば、あなたの慈悲心も変わり、菩薩が衆生を見て涙を流し、慈悲心が現れてくるようなことはありません。更に、あなたは衆生の因縁関係が分かり、更に大いなる智慧をもって全てを見ています。如来佛より次元の高い佛まで圓満成就した時、振り返ってみると、このような慈悲心は一体どういうものなのかと思うようになります。佛の常人に対する慈悲も執着だと思っています。彼は彼より下の神たち、佛たち、佛の世界にいる衆生たちのみに、慈悲の心を持っていますが、人間に対する慈悲はありません。これは彼に慈悲がないと言っているのではなく、彼の境地があまりに高く、下の生命が微生物にも及ばないほど小さいので、低能の人間を何かに役立つ生命とは全く認めていません。更に高い境地に到達した佛は振り返ってみて、おや、如来佛も常人だ、彼らは下で何をやっているのだろうかと思います。彼は人間をどう見ているのでしょうか。人間が何ものでもないと思っています。人間は極めてミクロ的な生物のように土の中をうごめいています。更に更に高い境地にいる佛の状態に到達しようと思えば、修煉してその境地に到らなければなりません。私はただ、佛の最も簡単な表現状態を話しただけで、佛はこのような状態だけではありません。

 皆さんにまだ人間の心があるから、真の法を人間に知らせることができません。異なる境地にいる生命は異なる状態があり、しかも生命の物質的な体の一面も絶えず変化しています。もし佛の身体が原子から構成されたとすれば、佛より次元の高い者、更に次元の高い佛、神の身体は中性子に当たるもので構成されているかもしれません。更に次元が高まっていくと、中性微粒子、クオークで構成されているかもしれません。これは人間が認識できるミクロ的な状態です。更にミクロ、更に更にミクロ的な物質によって構成されたものはどうなるのでしょうか? エネルギーは更に強くなり、物質の粒子が小さければ小さいほど、その密度も高くなるので、見た目はきめ細かく、光沢があるように見えます。私たちが人間の身体を見ると、まだ毛穴が見えますが、神の身体を見れば毛穴がありません。人間より次元が一つ上の三界内の生命、つまり三界の異なる次元にいる天人の場合、彼らの身体は人間から見ると、本当に滑らかできめ細かく非常に美しいのです。これは彼が世の人々に比べて粒子が小さく、密度が高いからです。言い換えれば、彼の絶えざる昇華につれて、全ての表面にある形式も昇華しており、境地の昇華が先決条件です。圓満成就には異なる境地がありますが、どの次元まで修煉したとしても、あなたの次元より下の次元はあなたにとって既に迷いではなくなり、全てを見ることができ、全ての真相が見えます。しかしあなたの次元より高い全てのものはあなたにとって永遠の迷いで、永遠にそれを知ることができません。これは即ちあなたが証明し悟った果位であり、払った代価の多さ、修煉の程度に応じて得るものが決められます。

弟子:修煉は厳粛なものだと分かっていますが、苦を楽とみなし、いつも微笑みながら修煉していますが、これは間違いなのでしょうか?
師:間違っていません。もし修煉の過程で常にこの状態を保つことができ、どんな困難に遭ってもこのようにすることができれば、本当に立派だと思います。皆さんもきっとあなたが素晴らしいと思い、感心します。これはなかなかできないことで、どんな困難を前にしても心が動ぜず、楽観的に対処することは非常に難しいことです。しかし厄介なことや関に遭っていないときでも、いつも楽観的な態度、慈悲の心を保つべきであり、これは修煉者としての平常状態で、最も良い状態です。

弟子:煉功者は結婚後、夫婦生活があってもいいのでしょうか?
師:あなたが常人の中で修煉しており、専業の出家修煉者でなければ、常人の状態に符合して生活すべきです。私たちは常人の中の物質的な形式を重く見ていません。なぜでしょうか。私たちが変えているのは人の心だからです。人の心が変らない限り、全てが偽りのものになります。表面上全てなくなっても、心の中でどうしても放棄できず、これらのことに対して心が動いているようでは、何の意味もありません。心に何もなく、これらのことを人間を維持し、人間の状態を維持するためのものだと思っているのであれば、私に言わせれば非常に良く行なっていると思います。もちろん、高い次元まで修煉したら、これらのことはみな放棄しなければなりません。それまでの間にどのように行なっても、間違いとは言えません『転法輪』の中で私は既にその状態を明白に説きました。

 なぜ修煉の過程でこのようにすることができるのでしょうか? 私たちの法門、私が今日伝えているこの大法はわざわざ複雑な常人社会で修煉するようにしたので、更に高い次元の人が元に戻ることができます。もしこの常人社会の複雑さが足りなければ、つまり大きな難や妨害がなければ、更に高い次元から来た皆さんは永遠に元に戻ることができません。法が大きいだけではなく、また常人社会で伝えられているので、この法はあなたが常人社会で生活できるための便利な条件を提供しました。つまりあなたはミクロから、あなたの生命の本源から、即ちあなたの生命を構成した本源の粒子から身体を変えており、木の年輪のように中心から外へと広がっていきます。修煉さえすれば、基準に達しさえすれば、木の年輪のように外へと広がっていき、表面まで広がったとき、つまり木の皮まで到るとき、全てが変り、あなたはその時圓満成就するのです。まだ木の皮まで広がっていない間、つまりあなたの身体の最も表面にあるこの物質的な身体まで到る前、表面上あなたの物質的な身体にまだ常人の考えが存在しているので、きっと常人の各種の欲望、常人の色欲、情、各種の執着があるのです。これらのものは常人ほど強くありませんが、存在はしていますが、これはあなたが修煉のとき、常人の環境に符合できるようにわざわざ残してあげたのです。しかし修煉して出来上がった一面は常人の表面の身体に動かされ、常人のことをするようなことはないので、修煉して出来上がった一面は基準に達した途端に、すぐ隔離してしまいました。

 隔離をすることの利点は何でしょうか? 人間の表面にある一面が常人の中でいくら活動しても、どんなことをしても、修煉して出来上がった一面はただそこにじっと座っており、念や考えを動かすことがなく、身体も動かず、いかなることにも参与しないのです。これで人間が常人のことをするとき、神の一面が何もせずに、人間のまだ修煉してできていない一面が活動することになり、そのため、絶えず向上して、落ちてこないように保障することができます。逆に、もし常人社会で表面から奥まで、あなたを変える方法を採れば、あなたは全く常人社会で修煉できなくなります。変化した身体が即ち神の身体となっているので、あなたの常人社会における一切の行為はみな神が行なっていることになり、神が常人のことを行なうことになります。それではあなたは全く修煉できなくなります。神が常人のことをすれば、大変なことになり、神が常人の情を持つことは決して許されないことです。ですから私たちはこの事を逆にして、生命の本源からあなたを変え始め、このようにして絶えず表面へと広げ、広げ、広がっていきます。あなたが圓満成就するまでに、表面上あなたは常人の中での生活状態を維持しつづけることができますが、次第にますます淡泊になり、より一層淡泊になり、最後どんなことでも淡泊に見て、放棄できるようになり、これで圓満成就に近づいています。全体が表面まで広がってきたら、あなたは完全に圓満成就しますが、その瞬間何の震動もなく、非常に自然です。昔、修煉して圓満成就する時に震動があったのです。ある人が圓満成就するとき、山崩れ、津波、また広範にわたって地震が起きるのです。わたし達のような修煉方法で圓満成就する場合震動がないので、常人社会を妨害せず、より多くの人が常人社会で修煉するのに適しています。これほど多くの人が圓満成就したら、地球が耐えられなくなるので、各方面において常人社会で修煉できるように按排しました。

 修煉してまだ出来上がっていない部分が表面まで進んできていない間、自分に常人の心がないと言っても、私はそれを信じません。それは無理強いでやったことです。高い基準をもって自分を厳しく要求し、煉功者らしい振る舞いをすればいいのです。同時にできるだけ常人社会の形式に符合して行なってください。しかし、私が説いたこれらのことも、ただこの質問に対して言っているだけではなく、夫婦生活に関しては短絡的にこのようにしなければならないということでもありません。このことに関して、皆さんが自分にとって最も便利な方法を講じればよいのですが、いいと思うようにすればいいのです。自分に常人の心がまだあり、しかもかなり強烈で、まだ結婚や相手探しをしたいと思い、ある女の子が好きになったり、或いはある青年が好きになったりして、この心をまだ持っており、このようにしたら、つまりあなたがまだそこまで修煉できていないということを物語っているので、このようにしても良いのです。今日で全てを放棄したと言わないでください。全て放棄したら、その場で成佛し、もう修煉する必要もなく、あなたは既に佛になったのです。ですから修煉はゆっくりすることで、漸進の過程があります。私はこのように話しましたが、圓満成就するまでに、表面にみな常人の七情六欲があると先生がおっしゃったので、このようにしても大丈夫です。それではいけません。あなたに七情六欲があり、私もできるだけ常人に符合して行なってくださいと教えましたが、修煉者としての基準をもって自分に厳しく要求しなければ、修煉していないことになります。このように弁証法的な関係です。

弟子:白人の学習者が全ての時間を利用して法を勉強したいのですが、同時通訳つきの説法テープがないので、自分で『転法輪』を朗読して、それを録音してもよろしいでしょうか?
師:このようにしたら効果が良くないかもしれません。なぜ良くないかもしれないのでしょうか? 私が説いた法に力量があるからです。あなたが修煉の人で、圓満成就する以前は、語った話の中に各種の常人の信息が入っているため、あなたがその常人の信息を発したり、受けたりして、繰り返し交差して汚染されることは良くありません。本を読むのは別のことです。いま私たちが同時通訳の作業を急いでいますので、もうすぐできますが、この問題はもうすぐ解決されます。いずれにせよ、私はこの道理を教えていますが、つまりあなたの語る話には自分の常人の各種の心、各種の考えがあります。法が何らかの働きをしなければならないので、表面の道理だけを聞いてもたいしたことが分からないのです。あなたの口から語るものはあなたの境地におけるあなたの認識であるため、またそれを聞くと、あなたは永遠にその境地での認識に留まってしまいます。同時通訳なら違います。なぜならば、私の声も入っていますので、私の声が小さく、同時通訳の声が大きいのですが、実はそれは通訳しているだけで、本当のところ私が説いています。学習者が聞いて分かるだけではなく、私の説法に付随した全てをも受信できます。この意味です。

弟子:ある三才から五才の女の子に三回ほど会ったことがあります。いつも私が半醒半睡の状態で、彼女は枕の上で笑いながら跳ねています。これは法輪から出てきた嬰孩なのでしょうか?
師:この情況はみな良いことですが、絶対良いことだとも言えません。嬰孩は非常に小さいのです。私たちの昔の背景はみな極めて複雑なので、このようなことを気にしないでください。あなたが以前連れてきたものであるかもしれませんが、ほかの原因もあるかもしれません。どうせ女の子であるに過ぎませんが、良いことかもしれません。彼女のことを気にせず、ただ修煉に専念してください。

 私はまだはっきり説明していないようですが、まだ分かっていない人がいます。例をあげて説明しますが、この情況に一致していないかもしれません。私たちが上の世界から転生してきたとき、以前の子供もついてくる場合もありますが、子供は転生せずにほかの空間でついているだけです。また前世で子供を持っていて、その人は転生しましたが、子供は転生しなかったのですが、霊的なのでいつもついています。このような情況もあり、どんな情況も可能です。あなたが正法を得たから、もしあなたと因縁関係のあるものであれば、この全てを按排してあげます。全てを周到に按排してあげますから、これ以上これらのことに構わないでください。

弟子:いくら考えても質問を出すことができませんが、修煉がよくできていないのでは・・・。
師:修煉が良くできている一部の古い学習者は私に会うと、何も話せなくなりますが、私も彼が胸いっぱいで苦しんでいても、何も話せないと分かっています。私に会う前にたくさん聞きたいことがあるのに、いったん私に会ってしまうと、言葉が出てきません。その理由を皆さんに教えます。修煉者でさえあれば、私に会うとそういう情況があります。私に会うと何も話せなくなったのは、皆さんが絶えず修煉している中、修煉によってはっきり分かった一面、修煉して出来上がった部分は皆さんと隔離され、まだできていない部分と隔離されました。ですから修煉してまだできていない部分は永遠に分からないことがあり、質問があり、更にはそれを聞きたいのです。しかし私に会うとき、師父に会ったから、修煉してできた部分が元気になり、それであなたの常人の一面も完全に支配されました。ここに座っていてどうして皆さんは良くない考えがなく、和やかなのでしょうか? つまり修煉してできた部分が元気になって、身体全体はその部分によって制御されているからです。修煉してできた部分は基準に達していなければ、それはできたと言えますか? つまり修煉してできた部分は何でも知っていますが、できていない部分だけは分かっていません。要するに先生に会うとき、何も聞きたいこともなく、聞こうとすることもありませんが、何でも知っており、はっきり分かっているのです。いったん私から離れると、修煉してできた部分はまた制御しなくなり、静止しており、動かないため、まだできていない部分はまた分からなくなりました。さっきどうして先生に聞かなかったのだろうかと思うかもしれません。このような状態ではありませんか? 実はこのようです。

 皆さんに教えますが、本を多く読み、多く読み、多く読み、必ず本を多く読んでください。これは宇宙の法であり、古から今日まで常人社会で伝わっているいかなる法門も、如来の境地及び如来以下の法です。これほど大きな法は、宇宙の異なる生命に異なる生存環境を切り開いており、宇宙全体を造成したこの大法ですが、ただあなたはその境地に到達することができなかったため、それほど深い内涵を読み取ることができません。しかし果位を得ることができれば、圓満成就するときに全て知るべき内容がその中にあるので、必ず本を多く読み、多く読んでください。もちろん、古い学習者は問題があれば本を読めばきっと解決されると既に分かっています。新しい境地にまた新たに更に次元の高い質問が現れてきますが、本を読めばまた解決してくれます。更にこの境地に質問が現れたら、本を読めばまた解決してくれます。このように絶えず修煉し、絶えず昇華していきます。問題があれば、この法は回答を与えてくれるので、日常生活の中で自らに厳しく要求し、絶えず向上していけば、あなたは既に勇猛邁進しています。

弟子:名、利、情の根源は利己心なのでしょうか?
師:名と利はみな利己心です。情について、私は今までの説法で既に説明しましたが、情は我々のこの層の人類空間と三界内に充満しています。三界内のあらゆる生命も情から逃れることができず、みな情の制約下にあります。人間はまさしく情の中におり、情に執着すればするほど、情の力がますます強くなり、働きを持つようになり、特に親友に死なれたとき、或いは若者が失恋したとき、思想の中に情のことを思えば思うほど、情の力が強くなります。情は三界内のもので、修煉者は必ず情から抜け出さなければならず、情を放棄し、超越すべきです。利と名にいたっては、それは人間が重要視しているものであって、実は情に由来しています。名があれば、名によってもたらされた幸せを味わっているのではありませんか? そのため喜んだりしますが、名、利を求めているのは自ら満たされるためではありませんか? 満たされたら喜んでいるのではありませんか? この喜びもまた情ではありませんか? ですから、名はあなたに喜び、名誉を与えることができるから、情ではありませんか? 利益に満たされたら、また喜んでいるのではありませんか? これもまた情ですので、人間はこの情のために生きています。常人の中で喜んだり、気分を損ねたり、何かに反対したり、賛同したり、何かをほしがったり、ほしがらなかったり、ある状態に達しようと思ったり、あるものが良いと思ったり、思わなかったり、そうしようと思ったり、思わなかったりすること、この全てはみな情です。人間は情のために生きていると言われています。人類社会に情がなくても良いのですか? 人類社会にもし情がなければ、人間は生きていても面白くなく、本当につまらないのです。人間はこのように生きていくものなのです。

 私心の問題についてですが、先ほど私が説いた道理を聞いてみな拍手して、喜んでいました。未来の宇宙が不滅だとお話しましたが、皆さんはこれを聞いて喜んでいました。それがなぜか皆さんはご存知でしょうか? 自分の為に図らぬ者は、天地の罰を受けると言う人はいます。この言葉を座右の銘としている人もいます。実は皆さんはご存知ではありませんが、「私」という心が非常に高い次元まで貫いています。「私は何かをしている」、「私は何かをしたい」、「私は何かがほしい」、「私は修煉している」、「私は成佛したい」、「私は何かの目標に達したい」など、昔の修煉者は言っていましたが、実はみな「私」の心から抜け出すことができませんでした。しかし、私が皆さんに到達してほしいのは、真の純正、真の無私であり、本当の正法正覚の圓満成就であり、それになってはじめて永遠の不滅に到達することができます。ですから、皆さんに教えますが、どんなことをしても、まず他人に配慮しなければなりません。他人からお金をもらえば喜ぶ人がいますが、相手がお金をくれたとき、不幸なことに遭うのではないか、生活に差支えが出てくるのではないか、或いはほかの何かに遭うのではないか、ということを考えていません。他人から貰い物があれば、喜びますが、その人のことを考えようとしません。優しくしてくれれば喜びますが、相手のことを考えません。甚だしい場合、相手が極度に苦痛であっても、まだ無理にあなたに優しい言葉を掛けていますが、あなたは全く彼の気持ちを配慮しません。どんなことでもあります。つまり、今日修煉し始めたからには、どんなことをしても相手を配慮しなければなりません。

弟子:『転法輪』巻二の中で、海にも人間がおり、しかも数種類もあると書いてあります。
師:そうです。我々のこの空間に生活している者もいれば、この空間に生活していない者もいます。海に人間がいるだけではなく、私たちの空間と同次元の別の空間にも人間がおり、中に皆さんと同じような者もいれば、そうではない者もいます。それを人間と呼んでもいいし、人間と呼ばなくてもいいのです。彼らにも情がありますが、常人の欲がないから、下半身は物質的な形をしており、上半身だけは人間の形をしています。ですから、彼らは空を飛ぶことができます。海にいる人の多くは昔の地球の各時期にいたが淘汰された人達です。元々海底の人間だった者もおり、人間とさほど違わないのですが、上半身は人間で、下半身が魚の者もいますが、上半身は魚で下半身が人間の者もいます。また大陸のプレートの下にも昔の人間がおり、彼らは昔淘汰されて上がってくることができなくなったのです。彼らがこの世、つまり地球に淘汰され、その一部は業がまだそれほど深くないから、地中に潜り込みました。このようになったから、彼も地中から出ずに、そこで生息していますが、数は非常に少ないのです。往々にして彼らは人間より能力があり、人間ほど迷っていないのです。この話はこのへんにしましょう。面白がらないでください。あなたの修煉とはあまり関係がありませんから、これらのことに構わないでください。

弟子:旧版の訳に間違いがありますが、将来において新版の日本語の大法書籍が正式に発行された後、旧版をどう扱えばよいのでしょうか?
師:旧版に間違いがあるとも言えないでしょう。ただ訳が不適当なだけで、或いは言葉が不適切で、このように言うしかありません。どのように扱えばいいかということについては、処理しなくてもいいのです。どんな版も少しもずれることなく、中国語を訳すことはできません。幾種類の版があったほうが私はいいと思います。読んだ人は「この意味もある、あの意味もある、こういう意味だ」と思うようになります。それならまだ利点があります。このようにしてください。

弟子:臆病というのは、執着心ですか、それとも生理的な要素なのでしょうか?
師:臆病というのも、この宇宙にこのような要素があるから、あなたを恐れさせていますが、それは恐れと呼ばれています。あなたが恐れれば恐れるほど、この要素は働きかけてきます。意志でそれを克服しなければなりません。これはあなたの意志の問題で、修煉の中でできなければならないことでもあります。

弟子:煉功のとき、いつも修煉や、法を弘げること及び先生の話などを考えていますが、これは正しいのでしょうか?
師:これはある時期に現れてくる状態なので、将来良くなります。

弟子:他の人に代わりに殺生してもらう場合、造った業力は依然として私の身体に付いてくるのでしょうか?
師:もしあなたがこのような仕事をしているのであれば、私はこの場でこのことを話したくありません。二篇の経文が、この問題について言及し、明白に説明してありますが、悟らない人がいます。このようにお話しましょう。皆さんが生々世々にどのぐらいの生命に傷害を与えたのか、ご存知でしょうか? 皆非常に多いのです。法が小さければ、今生で修煉して成就できず、それぞれの世で殺した生命に償わなければなりません。佛教の中で、一世では成就できないと言っていますが、つまり佛教も殺生したら償わないといけないと分かっています。しかし、私たちはあなたを今生で圓満成就させようとしていますので、時間がありませんが、それなら、皆さんが殺した生命はどうしますか? 彼らに与えた苦痛は、皆さんが業を滅し、苦痛に耐えている中で償われるほか、絶対多数の部分は私が消してあげますが、残りの部分は皆さんで償い、この関を乗り越えられるようにします。同時に、皆さんが未来に圓満成就するとき、皆さんが殺した生命は、あなたの世界の衆生になります。これでこのことは良いことになりました。もし殺される生命が将来佛の世界に行くことができると知っていれば、喜んであなたに殺してもらいたいぐらいです。もちろん、その生命は果位がなく、その世界の衆生になり、あなたの佛の世界の庶民或いは動物、花、鳥になりますが、異なる生命に異なる按排があります。

 しかし、このように話したから、逆に理解してしまう人もいるかもしれません。そうか、それなら、私は殺生しても問題ないのだ、という具合です。もし圓満成就できなければ、あなたが殺した生命に、あなたは将来永遠に償いきれませんが、これほど大きな業を造ったら償わなければなりません。つまり、極めて苦痛の中で、尽きることなく償うのです。ですからこれは非常に恐ろしいことです。先生が地獄について話していないと、ある学習者は昨日言いました。それは話してはいけないと答えました。これほど神聖な場で、そのようなものを話すのは非常に恐ろしいことです。もちろん私にとって、話しても何も恐れることはありません。しかし、一部の人にとって、それは非常に恐ろしいことです。ですから、先ほど直接あなたに答えませんでしたが、私は既にはっきり説明したと思います。

 中国で医学の博士課程に在学している学習者がいますが、解剖実験をやっています。実験が終わったら、博士号を取れますが、つまり試験に全部合格し、幾つかの実験を行い、千匹かまたは五百匹のマウスを解剖すれば、博士号を取れるようになります。彼は、いま法輪大法を修煉しており、殺生が業を造っているのだと分かったので、実験ができなくなったと指導教官に申し入れました。彼は自分が殺生できないため、学位は要らないと指導教官に言いました。皆さん考えてみてください。生死の関を乗り越えられなければ圓満成就できません。しかし決して死ぬときの痛みを経験してから、はじめて生死を放下したと言えるというようなことではなく、それはただの形式に過ぎません。私は形式を重く見ておらず、あなたの心を見ており、心から本当にできるかどうかを見ています。皆さん考えてみてください。人間はほかでもなく名と利のために、この世で生きています。彼は博士号を取れれば、良い仕事と明るい将来があり、給料ももちろん高いし、常人や普通の人より高いのです。人間はこのために生きているのではありませんか? 彼はこれさえほしがらず、これさえ放棄できます。若者として、これも放棄できるのでしたら、全てを放棄できるのではありませんか? 生死まで放棄できるのではありませんか? 人間はこれらのために生きているのではありませんか? ここまでできましたが、実は彼は修煉して既にその境地まで到達したのです。このような人、彼のこのような情況に対して、私はこう話しました。情まで放棄できて、名、利まで放棄できれば、どうして殺生を恐れること自体も放棄しないのでしょうか?! これで最後の執着を放棄したということになるのではありませんか? 私はこの意味を話しています。もしこの境地に到達することができず、生死の関を乗り越えられず、この全てを放棄できないにもかかわらず、このようにしたら、それは別のことになります。殺生で造った全ての業を尽きることなく償わなければなりませんので、それは非常に恐ろしいことです。法理、道理は私が既に皆さんにはっきり説きましたが、どのように行なうべきか、自分で判断しなければなりません。大法の原則として、殺生してはならず、修煉しようと思うならば、殺生してはいけません。しかし、大法が更に高い境地でも圓融しているものなので、法はまた佛の境地での道理を表しました。皆さんが殺生した一部の生命は皆さんの未来の世界の衆生になると話しましたが、もし皆さんが圓満成就できなければ、全ては台無しになります! 全ては自分で償わなければなりません。このような関係です。ですから、私は高い次元の法を説きたくありませんが、いま説いたら、多くの人が私の説いた道理を真に理解できないからです。

 もちろん、法は常人の中の道理を超えており、古今東西の本を読み尽くしてもそれを見つけることができず、ほかの経書の中でもそれを見つけることはできません。ですから、皆さんは聞きたがっていますが、くれぐれもそれを知識としないでください。私はあなたの知識を求める心を満たしているのではなく、あなたを済度しており、法を説いています。

弟子:先生はいつも「私たち」という言葉を使っていらっしゃいますが、どう理解すればよいのでしょうか?
師:私は現代の中国大陸の言葉を使っています。皆さんがみな大法の中の一員であり、つまり大法の一分子だと思っているので、皆さんのことを「私たち」と呼んでいます。それを聞いて皆さんは本当の修煉に身を投じるのだと思います。このような考えです。

弟子:人間がどのようになったら、精神病になったと言えますか?
師:精神病はつまり、自分で自分の身体を主宰することができず、非常に脆弱になり、厄介なことに遭うとき、全て放り出してしまうということです。主意識は寝てしまったかのように、何もかも放り出してしまい、瞬時にこの身体を手放してしまいましたが、この時人間に常人が言う精神病の状態が現れてきます。なぜでしょうか? 主意識が身体を手放したときは、即ちその人が理性を失ったのです。それでは、各種の業力で構成された思想と、後天的に形成された各種の観念は身体、口、目、あなたの全てを支配し始め、でたらめなことを言わせ始め、気が狂ったかのようになり、正常の人の規範に合う行動は全くないので、人々に精神病者と言われます。精神病は病気ではなく、何の病理的な状態もありませんが、ただその人の主思想は弱すぎるのです。先天性の場合もありますが、生まれたときから主思想が弱く、身体が常に人に支配されており、いつも支配権を人に預けています。その上、各空間からの強烈な信息の妨害もありますので、この人は何でもやりかねません。脳は既成の機械のように、誰によって操縦されてもいいもので、本人が操縦しなくなったら、ほかの人が操縦しにやってくるので、人間としての規範がなくなります。ですから、人間の意志は必ず強くなければならず、確固としていなければなりません。

弟子:圓満成就の時本体も演化されず、元嬰もない人はいるのでしょうか?
師:大法弟子の中の多くが異なる次元から来た者だ、と私は言いましたので、異なる状態もありえるのです。しかし、あなたがどういう状態であるかにかかわらず、修煉さえすれば、あなたが最も満足できる状態まで達成させます。皆同じです。私は皆さんに最も良いものを与えたら、この宇宙に最も良いものを作り出したことになるのではありませんか?(拍手)

弟子:『転法輪』を読むときに、佛、道、神から悟らされることはめったに感じられませんが、修煉の過程で法理を悟ることが あります。
師:あなたが悟ることができるから、悟らせなくてもいいということでしょう。自ら進んでそこまでできれば、それが自分で悟ったので、非常に良いことです。どうしても悟らなければ、まだ素質がある場合、どうしたらよいでしょうか? 一言で悟らせるのです。

弟子:最近いつも良くない心理状態が現れ、善の念もなく、考えも散乱していますが、私は本当にここまで次元が下がったのでしょうか?
師:自分を甘やかしたら、業力は気が狂ったかのようになります。あなたのこの一面が強くなれば、それを抑制することができます。それを抑制すると同時に、あなたが本当にやることができ、修煉者だと私が判断したら、あなたの面倒をみなければならず、あなたのためにこれらのものを消してあげます。このような関係です。自分がそこまでできなければそれもいけません。それを抑制したら先生が消してくれるから、抑制しようと思ってはいけません。先ほど話した病気に対する考えのように、私に業を消してもらうために、修煉したのであれば、それもいけません。いずれにせよ、いかなることに対しても執着してはならず、正念を持つべきです。

弟子:公園で集団煉功するとき、先生が動作を教えているビデオを流してもよろしいのでしょうか?
師:もしこのような環境があって、政府も干渉しなければ、大丈夫です。ビデオを流すときに、場合と場所によって決めるべきです。

弟子:一年ぐらい修煉しましたが、修煉すればするほど脆弱になり、ちょっとした執着でも、心が激しく動じてしまいます。
師:多分あなたはますます敏感になり、修煉が良くできていないのではないかと心配しているかもしれませんが、この心も放棄し、正々堂々と修煉してください。しかし自分に対して厳しく要求しなければなりません。だれでも修煉の過程で間違いを起こし、乗り越えられない関があるのです。もしどんな関でも順調に乗り越えることができれば、師父である私の按排が失敗したということになります。ですから、それぞれの関はみな非常に乗り越えがたく、乗り越えられるかもしれませんし、乗り越えられないかもしれません。またはうまく乗り越えられるかもしれませんし、うまく乗り越えられないかもしれません。しかしうまく乗り越えられなかったら、あなたは辛く感じ、修煉ができていないと悔やんで、次回はぜひ乗り越えられるようにと思うようになります。それでは次回また関を乗り越えることになりますが、このような状態で、乗り越えられるか、乗り越えられないか、自己反省をし、絶えずこのようにしていれば、あなたはつまり修煉していることになります。もし全ての関をも順調に乗り越えられれば、修煉しなくてもよくなり、どんな関もあなたを遮ることができなければ、あなたは圓満成就してしまいます。しかし、関をうまく乗り越えても乗り越えなくても、修煉さえすればよい、と先生はおっしゃいましたから、自分を甘やかして、うまく乗り越えなくても気にしなくなったようでは、またあなたは修煉していないことになります。このような関係です。自分に厳しく要求しなければなりません。

弟子:圓満成就とは何でしょうか? 常人のように死んでしまうのでしょうか、それとも先生によって按排されるのでしょうか?
師:圓満成就に多くの形式があります。ご存知のように、釈迦牟尼は涅槃という形式を取りましたが、彼は最大限人の執着心を放棄しました。彼の法門では、人体さえ要らないのであって、つまり人体も執着せず修煉します。チベットのラマ教では、虹に化すという形式を取っていますが、つまり圓満成就する時に座っており、もし身体全部修煉によって完成していたら、圓満成就の瞬間に一筋の赤い光が身体を溶かし、元神が修煉してできた佛体を持って去って行きます。しかし、修煉してできた佛体は常人の物質を持っていないため、人間には見えずに、ただ光が見え、光の影が昇っていきます。修煉の足りない人は体を全部溶かすことができません。ですからそういう人は虹に化すとき、一瞬にしてその身体が一尺ぐらいの高さをしている人間になり、本人とそっくりですが、身長が一尺ぐらいになり、身体のバランスが非常に取れています。これはつまり修煉が足りないから、まだ完全に虹に化していないということです。

 また別の状態もあります。中国道家は圓満成就の時「屍解」の形式を取っています。屍解とは何でしょうか? 中国古代では大道を修める人が多くありました。大道の修煉方法は圓満成就のとき体を持っていくもので、身体まで捨てないのです。しかし、肉体は既に常人の体ではなく、完全に高エネルギー物質に取って代わられ、道の身体になりました。屍解の方法はつまり自分が既に圓満成就したと分かっており、身体全部が修煉によってできたのです。それでは、彼はどうやってこの世から去って行くのでしょうか? 道を修める人の多くは、常人の中でまだやり残していることを圓満成就してから解決することにしています。佛門はそうではなく、圓満成就の過程でそれを解決します。

 屍解はつまり彼が去ってから、人々が彼を探さないように、仮死状態になっていますが、実はその時彼は天に上り地に入るなど何でもできるようになりました。この世から離れるとき、彼は私がもうすぐ円寂し、修煉が既にできてそろそろ行きますから、棺を用意するようにと家族の人に言います。その時刻になると、ベッドで横になって、しばらくして息を引取りました。家族の人は彼が死んだのを見て、彼を棺に入れて埋めます。実質上、彼は神通を使って「人の目をくらます方法」を取りました。あの日家族の人が見た彼は、既に本当の彼の身体ではないのです。それでは何でしょうか? 彼は物を化けさせたのです。靴、箒或いは棒、剣などを自分の格好に化けさせ、物を使って自分の格好に化けさせたのです。彼の格好をしているものは何でも話せます。「私はここで横になって、もうすぐ死にますから、棺に入れてくれればいいのです」と家族の人に教えます。実はそれは棒、或いは箒、または靴が話しています。本当の彼は既に行ってしまいました。遠いところまで行ってしまいました。それで、家族の人は彼を埋めます。実は埋められてから、二時間ぐらいで元の姿に戻ります。また靴、竹の棒、或いは木の棒に戻ってしまいます。これは屍解と言います。「あら、商売しに行ったとき、ある遠いところで、お宅の誰それに会いました。話もしました」と他のところから帰ってきた人は言います。「違いますよ。あの人は既に死にました」と家族の人は言います。「確かに見ましたよ。死んでいません。確かに会いました。話もしてご飯も一緒に食べました。」確かに死んだのを見たのにと家族の人は怪しく思い、彼が道を修めているのを知っているので、掘り出して見てみました。棺を開けたら、一足の靴が中にありました。

 道家にまた白日飛昇という形式があります。白日飛昇というのはつまり、その人の身体が修煉して完全にできており、この世で圓満成就する前に願も解き、やることがなくなったから、世を離れる時が来たということです。この時を天門開きと言い、つまり三界の門が開くということです。天神或いは龍、鶴が彼を迎えに来て、彼はそれに乗って飛んで行きます。場合によって天車が迎えに来る場合もあります。このようなことは古代には非常に多く、この形で白日飛昇する場合もあります。私たちの法門では、法輪世界に行く人に対して、私は白日飛昇という方法を取ります。また身体の要らない法門もあります。身体を与えると、その世界のものが全部乱れてしまいます。釈迦牟尼が涅槃したように、彼に身体を与えると、涅槃ではなくなります。それではその法門全体をかき乱してしまったのではありませんか? 彼の世界は戒、定、慧という要素で構成されているので、身体が要らないのです。多くの人は常人の考えをもって物事を考えています、白日飛昇はなんと素晴らしいのでしょう。私が飛び上がっているのを人々も見せてあげよう。あなたは常人の心で神のことを考えていますが、これでは絶対いけません。つまり圓満成就のとき、自然に圓満成就の方法があります。しかし私たち今回の圓満成就が、皆さんに教えますが、これほど多くの人ですから、私は必ず信じない人に深い教訓を残しておきます。ですから、未来私の弟子が圓満成就する時、人類社会が永遠にも忘れがたい壮大な光景であるかもしれません。(拍手)

 このように話しましたが、どんな心でも放棄しなければなりません。これらのことに構わないでください。ひたすら修煉してください。圓満成就できなければ、全てゼロになります。

弟子:『転法輪』の中の異なる字の後ろに、異なる佛、道、神がいるのでしょうか?
師:そうです。これは間違いのないことです。ですから本を読むようにと皆さんに教えました。あるところを読んで、分かったと思うとき、身体に震動が走り、熱くなるのを感じました。ただ非常に弱い感覚です。実はその時身体の変化は非常に強烈なもので、他の空間はあらゆるところが沸き上がっています。なぜならば、あなたはまた次元を高めたため、身体が異なる次元に異なる形式の変化があるからです。ご存知のように、中国の廟の中にある仏像は頭にさらに四つの頭が出てきて、或いはこの四つの頭からまた更に三つの頭が出てきています。三つの頭から更に一つの頭がでてきています。実はこれは佛の異なる次元に現れている法像の表現形式です。つまり異なる次元での身体に起きた変化は非常に激しいものです。偉大で、荘厳かつ威厳であり、また奥深いのです。ですから皆さんに見せないのは理由があるのです。皆さんに常人の心があるから、いつも常人の心で理解し、甚だしい場合これのために気が狂ったかのようになりますが、それでは全くいけません。

弟子:握手及び身体の接触によって、業力が伝わってくることはあり得るのでしょうか?
師:真に修煉している人なら、いくら敏感であっても、相手はあなたにいかなる傷害も与えることができません。修煉している体は全部功なので、功より低いものを恐れることはありません。あなたより境地と次元が随分かけ離れているので、心配する必要はありません。

 人と人との握手、常人の間の接触、握手は確かに業力を伝送することができますが、少なくとも業力に感染することはあり得ます。これは確かなことです。現在皆さんは握手しています。握手は西洋の白人社会から伝わってきたもので、東洋人は昔握手せず、会ったら、片手でこぶしを握り、もう一方の手でそれを被せるようにして、胸の前で合わせて、とても良かったのです。女性はこのようなやり方ではなく、格好悪いから、右側の下腹部で手を合わせていました。会ったらこぶしを作って、身体の右側に持っていて、足をやや曲げます。西洋社会ではルネサンスが現れてから握手が現れてきたようです。昔西洋でも握手をせず、それなりの礼法があって、それぞれ違いました。このようにする人もいれば、あのようにする人もおり、種類は非常に多く、いろいろな礼法がありました。握手は後になって形成されたものです。私たちは合掌を使っているのではありませんか? それは佛門の礼法です。

弟子:修煉してこの一年来、めったにトラブルに会っていませんが、このようでは、多くの執着心はどうするのでしょうか?
師:そのようなことはありません。人それぞれ違う状態があり、このような状態、或いはあのような状態、或いは・・・。いろいろな方面の要素があると思いますが、くれぐれもこれらのことに執着しないでください。本当に難がやってきたら、なかなか乗り越えられませんが、難がなければまたそれをほしがっています。みな理由があるのですが、実は確かにそれほど多くの難のない学習者もいます。これも確かなことです。

弟子:私たちの煉功点に数十人ぐらいいますが、大半は顔色が悪いのです。私たちは着実に修煉するということを実践していないのでしょうか?
師:煉功点によってはとてもよくない場合があり、学習者の間で噂話やでたらめな悟りを広げるところもあります。本来わたしの説いた法とは全く関係のないことでも、でたらめに悟り、学習者を率いてあれこれと妄りに思索を巡らしています。更にこの法や法のこの部分がどうであるかということを話したりして、法についての議論をするという具合です。人に法を議論する資格があるのでしょうか? 少なくとも、あなたにまだ人間としての考えがあるので、このようなことをするのは間違っています。わたし達は他でもなく、大法にのっとって修め、本を読み、集団煉功をするのです。多くの時間は法を読み、法を見ることに用いて、自分の体験をあまり語らないようにします。或いは煉功が終わったら互いに語り合っても結構です。修煉や法を読む時間を使って体験を語り合うのは、わたしが思うには、良くないことです。人によってはその語るものの中に各種の私念や各種の気持ちを帯びており、甚だしい場合、法から全く離れてしまった場合もあります。それで学習者を違う方向へ連れ込み、更に妄りな考えに走らせたのです。人間には皆、常人としての考えがあります。学習者の間では古くからの学習者、新しい学習者を問わず、字面以上の道理を語らせ、知らせることができません。あなたの語ることはなんといっても、字面上の道理、表面的な道理にしか過ぎず、なぜならば、天の法は常人の中では説かれてはいけないからです。ですから、何故か分かりませんが、そのような人はどうやってそれらのでたらめなことを悟ったのでしょうか。注意しましょう。

弟子:「印」の訳語は何でしょうか? 何故「結印」が必要なのでしょう?
師:佛は印とは言いませんが、それは佛法の一種の荘厳な体現であり、古代のインドから翻訳されたとき、そのままにした言葉で、「印」と呼ばれています。結印、大手印、小手印などは、法像及び法語のもう一種の荘厳な表現です。

弟子:わたしの修煉は早くも一年になりましたのに、まだ法輪を見たことがないのですが?
師:このように話しましょう。もしあなた自身に何の変化もなく、法があなたにもたらした変化を体験しておらず、或いはあなたの知っている、悟った常人の状態を超えるものが全く無いと言うのであれば、あなたが修煉者である限り、わたしはそれを信じません。あなたがどうしても見ようと思い、現れてほしいと思えば、或いは常人を見るようにはっきりと見え、これほど鮮明に現れてほしいと思えば、まだ無理だと思います。あなた自身の条件、常人の思惟状態の相違、及び将来の圓満成就の違いに基づいて、一人一人にそれぞれ異なる方法で対処していますが、絶対に千篇一律にはなりません。法輪を見たいという心があれば、その心を取り除かない限り見ることはできません。

弟子:より高い次元の佛が人類など取るに足らないものだと見ているのに、何故師父は我々を済度しに来られたのでしょうか?
師:宇宙の法は宇宙の全ての異なる次元の生命に異なる次元での生存環境を切り開きましたので、この生存環境の中には必ず衆生がいなければなりません。常人もこの法が全宇宙のために切り開いた異なる次元の中での最も低い次元です。そこで、わたしの立場からは全ての法と全ての宇宙に配慮する必要があります。わたしははっきり説明したのでしょうか?(拍手) ですから、わたしの立場から、生命や、正の生命と負の生命に対する認識は皆さんのものとは違います。これは皆さんには理解できないことです。

弟子:絶え間なく法を学ぶにつれ、頭の中の考えがどんどん少なくなり、ときには何も考えていないのですが、これは自分の主意識が弱いからなのでしょうか、それとも修煉に偏りが生じたからなのでしょうか?
師:いいえ、そうではありません。更にこれはとても良い現象だとあなたに教えたいと思います。何故とても良い現象なのでしょうか? 常人の中で脳の反応はとても機敏で、自分の利益を守り、損失を蒙らないようにするため、その方面の考えはとても敏速で、しかも記憶力もよいのです。言い換えれば、あなたが動かしている脳のこの部分は良くないもので、業を造っており、とても発達しており、あなたの修煉をかき乱しています。ではどうすればよいのでしょうか? わたし達はここで、先ずあなたの脳のこの部分を抑えてしまうという方法を採っています。言い換えれば、その部分にまず鍵を掛けてしまってから、それを調整します。まず修煉者らしい考え方をもって置き換えして、修煉者らしい部分の考え方を発達させるのです。そして例の狡猾な部分を調整していき、徐々に開いて行きますが、その時には既に自分を把握できるようになっています。自分自身も自分のよくない考えを意識することができず、その部分はあまりに発達しているから、何かを考えるときにすぐそのよくない考えの方に行ってしまいます。脳のその部分は皆さんの修煉に大いに影響したので、多くの人にそういった状態が現れますが、それは一時的なものです。あなたがいつも好んで使う部分、つまり自分の利益を守るとか、他人を傷つける考え、あまりに発達した脳細胞を全て封じ込めて調整しているので、このような状態が現れます。しかし、これは一時的なものです。封じ込めてから、それほど発達せず、正常に使用できる程度までまた処理も行ないます。あなたの正念を持った思想細胞を発達させていきますが、このようなことです。そうでなければ、わたしはある方言でピッタリ表現できると思いますが、正々堂々とした佛を修める人として、あなたの考えがやけにずる賢くてはいけません。

弟子:他人の体験を聞いている時に、自分もヒントを得たように感じるのですが、自分で悟り得たものほどしっかりしていないような気がします。
師:そうです。もちろんそのとおりです。あなたが自ら悟り得たことは自らの修煉で出来たものでそれが最もしっかりしています。ただし他の人の話もあなたにとって、確かに参考になり、あなたを促すものですから、それにも良いところがあります。法会はいつも開くものではないので、わたし達の法会には法会としての良さがあります。体験を語ることを頻繁に行わないでください。精力を法を学ぶことと、本を読むことに集中してください。

幾つかの質問は比較的レベルの低いものや重複しているもの、また本を読んで解決できるものもありますので、そういったものには解答しないことにしました。時間の関係で質疑応答はこれぐらいにしましょう。
(熱烈な拍手)





法輪大法の書籍