美術創作研究会での説法

李 洪 志

二〇〇三年七月二十一日 米国ワシントンD.C.において


 在席の学習者の皆さんは美術創作に従事している人で、皆専門的な技能を持っています。私は思いついたことを皆さんにお話しますが、ただ法理から皆さんにご説明します。美術は人類にとって非常に重要であり、人類の他の文化と同じように、人類社会において人間の観念に対して導きの作用を果たすことができ、人類の美的意識に影響を与えています。美とは何か、人類に備わるべき美に対する正しい感じ方とは何か、これは人類の道徳基準と緊密な関係にあります。人類がもし美しくないものを美しいものと思ってしまえば、人類の道徳はもう終わりになってしまいます。
 
 人類の道徳は異なる時期に幾らかの変化が生じています。人類の道徳そのものは人類の芸術に影響しますが、芸術もまた人類に影響を及ぼしています。皆さんは既に目にしましたが、今日の芸術の多くは現代の意識に影響され作られたのです。しかし、現代の人類は既に人類に備わるべき道徳の範囲と基準を大幅に超えてしまったため、作られたいわゆる芸術は既に人間の文化ではなくなりました。なぜならば、このように作られた芸術は理性を持って、認識がはっきりしている状態下でできたものではなく、人間の正しい念、善なる念から生じた芸術の美に対する正しい認識にしたがって作った本当の意味の人類の美しいものではないからです。このように、即ち芸術は堕落していっています。現在の芸術について言えば、厳密に言えば既に人間が作ったものではなくなりました。私は時々いわゆる現代芸術作品を目にしますが、ひいては非常に名高い作品でも、実は皆魔性の産物です。魔性だけに止まらず、多くの人が絵を描く時の感覚を求める際、実は鬼の行為を求めています。このように長く続くと、心が暗く奇怪になります。芸術に従事している人なら皆知っていますが、これらのものを求める時の心理状態は人間性の悪の一面を放縦しており、ひいては意識的に邪悪な心理による反応を求めているのです。ですから、いわゆる現代の芸術作品は一般的にあまり良くありません。なぜならば、これは絵を書く人にとって害があるだけではなく、それを鑑賞している人に対しても心理的な傷害を与えており、人類の道徳観念に対してもひどい破壊作用を果たしているからです。
 
 しかし、大法弟子は修煉と生活の中において常人のこの社会環境から離れておらず、現代人の観念という流れの中でこの環境からも影響されています。多くの大法弟子は大法を学ぶ前に現代の芸術を勉強し、それに携わっていました。もちろん、私が思うには、あなたが現代の芸術に従事しているにしろ、人類が持つべき正統な芸術に従事しているにしろ、以前学んだ基本的な技能においてやはり変わりはないはずです。ですから、人間が持つべき芸術とは何かを大法弟子は必ずはっきりと認識すべきです。はっきりと認識することができれば、人間の純正な芸術の基準にしたがって行なうことができ、良いものを創作することができるようになります。

 今日なぜこの会を開いたのでしょうか? 皆さんに教えますが、大法弟子が歴史の中で今日行なった如何なる事も極めて大事なことです。昨日も話しましたが、大法弟子が何かを行なったら、近い将来の人類社会はそれを見習うのです。現在、法を正す期間の中、世の中の全ては皆大法をめぐって動いています。これは間違いのないことです。なぜならば、三界は法を正すために作られたものだからです。今日なぜ皆さんにこれらのことをお話しするのでしょうか? このような芸術技能を持つ大法弟子には能力があり、エネルギーがあるため、皆さんが行なったことが正しくなければ、または十分正しくなければ、皆さんがその正しくない要素を強めてしまう恐れがあり、それによって人類社会に更に影響してしまいます。修煉なので、皆さんは本来自らを正し、良くない全てを取り除くべきです。皆さんはどこにおいても良い人になるべきなので、芸術という領域においても良い人になり、作品の中で美しいもの、正しいもの、純粋なもの、善なるものと光り輝くものを表現すべきです。
 
 人類社会の道徳がここまで滑落した時、人類の観念においてもこのような変化が生じました。ここまで変化し滑落したら、人間自身の力で戻ってくることはもう不可能なことです。誰であっても、どんな理論であっても、どんな方法であっても、人間を元に戻すことができませんが、大法だけがこれをやり遂げることできます。皆さんは私についてきて衆生を救い済度しに来たのですが、同時に私たちが衆生を救い済度する中には、人類の道徳を救うことと、救われた人が未来にどのように存在し生活をするのか、どのような状態下で生活するのかなどのことも含まれています。つまり、大法弟子は衆生を救い済度しているだけではなく、未来の衆生に人間が生きていく本当の道をも切り開いています。これは皆大法弟子が法を実証する中で今行っていることです。
 
 三界は永遠に存在すると私は言いました。どのように存在するのでしょうか? これはつまり私が法がこの世を正す時に行なおうとすることです。しかし、大法弟子が今日行なっている如何なる事も極めて重要であり、未来の人間、未来の文化に基礎を切り開いているのです。近代の人類の全ては乱れてしまい、正統な人間として備わるべきものはほぼなくなり、純正なものは少しもありません。幸いなことに、古人は幾らかの文化遺産を残しており、まだ完全に破壊されていません。特に美術のほうに幾らかの基本的な技能に関する教えを残したから、人類は人間としての道に戻る時に、美術を専門とする人は最も基本的な技能を身につけることができます。それでは、どのようにこれらの最も基本的な技能を利用して本当の人間としての道を歩むようになるのでしょうか? どのように良いものを創作することができるのでしょうか? 私が思うには、基本的な技能を基礎にし、更に大法弟子が修煉の中で認識した本当の善かつ正しく純正な美しさを加えると、良いものを表現することができます。
 
 ここまでお話しましたので、私が見た人類の発展の情況と人類の芸術の発展過程についてお話します。
 
 実は人類の東洋の芸術と西洋の芸術にはみな成、住、壊の過程があります。東洋の芸術と西洋の芸術は実は違う道をたどってきたのです。これは人間の言葉で言っているのですが、実はこれは異なる宇宙の二つの大きな体系のそれぞれ最も低い次元にいる生命、つまり人間の芸術の面における現れです。即ち、その宇宙体系のものが人間という最も低い次元に表われたものです。実は、宇宙の中に多くの異なる大穹があり、相当多くありますが、皆独立した巨大な天体です。各大穹にそれぞれの独特な構造によって現れた各自の各方面での特徴があります。人間の言葉で言うと、即ち異なる芸術の特徴というものです。各巨大な天体には真善忍という根本的な法理から認識した異なる、正しく悟った理があります。そのため、異なる天体体系はそれぞれの体系の独特な特徴を持つようになり、具体的に天地の構造、環境の形態、生命の形式、生命の装飾、建築の特徴、動植物の表現形式等などに現れています。それらは自らの美と友誼及び恩情を独特に正しく表わす方法があります。それほど多くの宇宙体系の自然の産物は人間の所まで伝わってきて、大体二つの体系の低次元生命の現れ方があり、中に東洋と西洋の芸術も含まれています。しかし、巨大な穹体の中にはこれだけではなく、私が言っているのは、人間の所まで伝わってきたのがこの二種類だけということです。
 
 人類のこの二種類の芸術の体系について言えば、東洋と西洋の各自の民族文化に数千年の継承の過程がありましたが、この二種類の芸術の特徴は大きく異なっています。技法、表現方式、感受の仕方と視覚においても異なっています。中国の芸術の継承の過程は最初から半神の文化を築きました。つまり、中国の芸術の重点の半分は人間の表面に置かれたのではなく、神韻と内涵に置かれたのです。ですから、全ての文化を含めて、その表現にある特徴があります。特に美術の場合、表面の細かい表現を重視せず、意の表れを重要視し、その内涵を表わしています。それに対し、西洋の芸術も神が人間に伝えたものですが、その重点は人間の表面の文化に置き、技法の巧みさ、正確さ、細かさとその真に迫った入神の技を際立たせ、人間の表面空間での技能の表現に重点を置いたのです。ですから、西洋の美術作品は物体の表面を非常に細かく正確に表わしています。ですから、西洋の芸術と中国の芸術の風格は違う道をたどってきたのです。発展の過程の中で、西洋の芸術は前回の文明から受け継いできました。実は西洋の芸術は以前の数回の文明の時、ずっと学術的な方式で継がれてきたのです。学校や理論や正規の訓練があったため、以前からこのような道を歩んだのです。一方、東洋の芸術の継承の中では、民間の中で伝わっており、文人と職人と求道者の間に伝わっており、系統的な理論や学校や正規の訓練もなく、完全に個人個人の経験で作品を表現していました。彫刻作品は特にそうです。中国人の文化の特徴によって、描いた絵と作った彫刻にはほぼ中国人の文化の性格が作用を働きかけており、無意識のうちに意を表現していました。このように、表現の手法において大きな差異がありました。人間の最も表面から見れば、西洋の芸術手法は非常に細かく、明暗、構造と透視の関係に対してある程度の正確さを要求しています。特に人体の構造を非常に正確に表わしています。それに対し、中国の古代の美術の場合、系統的な理論と専門的な研究がなかったため、表現した最も表面の物体の構造はそれほど正確ではありませんでした。
 
 芸術の道はいつも初期から最盛期に至り、それからまた下落するという過程を経ています。人類の全ての文化もこのような方向で動いています。以前の宇宙の特性にある成、住、壊、滅ですが、人類の全てもその中にあります。ですから、人類の道徳がだめになった時、全てがだめになり、もう一回やり直さなければなりません。人類にとってこれが即ち劫難であり、全てが終わってしまい、また最初から始まり、再び最盛期に至ってはまた下落し、このように循環しています。
 
 中国古代の美術は系統的な研究と専門的な勉強を経ていなかったため、基本的に人体と物体の透視関係を正確に把握することができませんでした。清の末期以降、中国の多くの美術家も西洋の美術の基礎的な技能を身につけたので、その作品の表面の形が正確になりました。幾らかのこのような作品も現れました。しかし、近代になってから、特に最近の二十数年、中国も現代意識の影響を受け、作品はますます下落してしまいました。観念は人間の意識の変化にしたがって変化しているので、人間の正念が主導的に作用せず、完全に人間の表面の意識の感受に頼り、真の念による認識ではなく、真に自分が意識をはっきりさせて考えていなければ、魂がなくなるのと同じようになります。人間の意識は後天的に人間の表面の皮で形成され、その表れは物事に対する潜在意識による反応だけです。意識は不安定で、随時に変わるものであり、外的条件の変化と社会形勢の変化にしたがって変化しています。完全にこれらのものに頼っていれば、主たる念はなく、しかも系統もなく、規範と正念と真の自分自身がなくなるのです。このような意識の状態下で作られたものがいわゆる現代の芸術、現代美術の作品です。それら現代の芸術と美術が流行りだした当初、つまり最も初期に現れた西洋の印象派と抽象派の作品でした。冷静にこれらのものを見れば、人間の真の念がなくなり、人間の表面の観念によって作り上げられたものときっと同じです。それらの作品には系統性、規範、規則と連続性がなく、何を表現しているのかが分からず、人間に美的な感受を与えることができず、人間の表面的な意識にしたがって描かれたものです。当時、彼らが作った作品は鼻の歪んだものや、顔半分しかないものや、足が後ろ向きになっているものなどです。最初からこれらの作品は主たる念と正念が放棄されて作られたものであり、後天的な人間の観念が人間の四肢を指図した産物です。人間の主意識を放棄し、思うがままに表面の人間の観念を作用させてから、はじめてこのようなものを作ることができました。これらのものの出現は全人類の最盛期の最も完璧な西洋の芸術をほぼ完全に壊滅させ、近代になってこの影響が中国にも及びました。
 
 これはまだ現代芸術の初期のことですが、人間の観念は社会の全体の道徳がますます腐敗堕落していくにつれ、観念がそこに止まることなく、引き続き滑落していました。当初の印象派と抽象派のものは透視関係の正確さ、明暗の移り変わりと構造の正確さに全く構わずに、ますますいわゆる個人の感受を追求し、このような理性のない放縦を間違って自我の人間性の解放と思い込んでしまいました。これは本当に本性を抑制し、自我と真の自分のない後天意識を放縦させています。色使いに強烈な色を重ねて塗りつけ、完全にはっきりとした理念のない観念上の感受を放縦しています。しかし、観念は人間が後天的に形成したもので、人間の本当の考えではなく、規則と規範と系統性のないものなので、このような人が塗りつけて描いたものも規則と規範と系統性のないもので、見た目は全く協調を取れていません。後期になって、人間の道徳観念がますます滑落した時、更に低い意識になり、この種の低い意識は人間の観念だけによるものではありませんでした。人間の主たる念、真の自分が人間の表面を支配することを放棄した時、外来の生物はその隙に乗じて入ってきます。ここまで来たら、既に外来の意識が人体の脳を操っているので、更に沈んで暗い色を使用し、光も薄暗い作品が現れ、これは全く人間性が退廃した時の心の様態の現れです。人間の観念が更に滑落し、その上社会での名利に駆られ、完全に自我を放棄することを追求し、この時後天的な観念まで捨ててしまいました。このように、自我の全くない体が完全に外来意識に制御されてしまいました。これらの外来意識の多くはあの世の生物であり、その多くは幽霊です。これも人類の道徳がだめになった時の天象の変化です。絵を描く人が陰性の生物に制御された時、描いたものは見た目では、あの世とあの世の物体を表現しているように見えます。多くの絵が鬼の世界を表現しているのが見ればすぐ分かります。色が沈んでおり薄暗くてぼんやりとしており、描いた人物は皆幽霊のようです。あの世の地、あの世の天のような雰囲気で、なぜこのような雰囲気のものが良いと思う人がいるのでしょうか? これは人間の正念がなくなったということではありませんか? これは陰気で暗いことを追求しているのではありませんか? これは人類の道徳がひどく腐敗堕落したということではありませんか? これは人間が人間より低いその空間に入ってしまっただけなのです。人類の道徳はまだ滑落しつつあり、今日に至って、芸術は人類の魔性をそのまま表わしており、芸術は神聖な芸術への冒涜となり、魔性の発散の道具となってしまい、妖怪、魔、鬼、化け物などを表現しています。「これは皆ゴミだ」と芸術家ら自身も認めていますが、いわゆる芸術の潮流の中でこれは最も価値のあるものと見なされています。ゴミがなぜ最も良いものになったのでしょうか? 人間の観念が逆になったから、ゴミが最も良いものだと思われています。
 
 これは人間の美術史です。私は先ほどその大まかな過程をお話しました。ここでまた西洋の芸術についてお話します。ご存知でしょうか? 第二次世界大戦のときなぜフランス人が投降したのでしょうか? フランス人は戦う力がなかったのでしょうか? この民族にナポレオンやルイ十四世のような英雄が現れたことがあるのではありませんか? この民族は以前輝かしい歴史があったのではありませんか? 実は人類の戦争は神によって制御されており、目的があって起きたのです。人間が何かのことを起こそうと思っても、そうはなりません。フランスは直接第二次世界大戦に参加しませんでしたが、神の目的はフランスにある今回の人類文明のわずかしか残っていない芸術品を保存しようと考えています。それら芸術品は人類が今回の文明の中で作った最も輝かしく、最も誇りを持つべき人類の本当の最も正統かつ完璧な芸術です。戦争が起きたら、ルーブルとベルサイユ宮殿に保存されている芸術品は完全に壊滅されてしまい、パリの街頭にある芸術もなくなります。神は人間にこれらのものを残そうとしており、その目的は人類が将来人間自身の芸術を再び手に入れることができる参照を残し、大法弟子もこれらの正統な芸術の基本的な技能によって再び戻ってこられるようにするためです。
 
 西洋の芸術は以前の数回の文明の中で学術的な方式で人間によって再び成長し、前回の文明の道に戻ったのです。しかし、前回の文明が壊滅されてから、基本的な技能が安定しない時期がありました。皆さんは西洋の美術作品の中からこれを見ることができます。例えば、ルネッサンス以前の作品、ルネッサンスの時の作品、ルネッサンス以降の作品及び近代の作品という過程がありますが、ルネッサンス以前の作品は全体から見れば、作品の構図、構造、比例と色などの芸術水準はまだ成熟しておらず、皆さんもそれを見てまだ成熟していないと感じています。絵画も彫刻もまだ成熟していませんでした。しかし、人々は西洋の出土文物の中で前回の文明の時のものを発掘し、その中に幾らかの神像と前回の古代ギリシャの文明の中の他の彫刻作品がありました。皆非常に成熟して完璧な作品でした。これらの古代文明の基礎があったから、西洋の芸術は直ちに再び成熟に向っていきました。以前のものから学び、それと比較することができるから、非常に早く成熟するようになりました。ルネッサンスになって、ダヴィンチと他の芸術家の出現も神が意識的に彼らが人間を導いて芸術を成長させ、どのように作品を完成させるのかを人間に教えるためにあったのです。ですから、当時彼らの作品は人類にとって大きな影響を与えました。しかし、近代の現代芸術も他の種類の神によって按排されたのです。つまり今日法を正すことを左右している旧勢力たちです。なぜゴッホが現れたのでしょうか? なぜピカソが現れたのでしょうか? 彼らも旧勢力に按排され現れてきたのですが、マイナスな作用を果たす者で、その目的は人類の道徳が滑落した時に人類の文化の中の全ても同時に腐敗堕落してしまうようにするところにあります。ですから、この二人は人類の芸術を乱すために現れ、他でもなく人類の芸術を腐敗堕落させることを目的にしており、完全に人類の文化を壊滅させるために現れたのです。彼らが当初築いたいわゆる現代派の基礎のせいで、人類の芸術は今日のこのような魔性の状態にまで来てしまったのです。
 
 当初の西洋の正統芸術がいわゆる印象派に攻撃された時期はちょうど写真術が現れた時期でした。「いくら正確に描いても、写真より正確になることがあるのか」、これは論戦の中でそれらのいわゆる印象派たちがいつも口にしていた典型的な言い方でした。そのため、物体を実物そっくりのように描いたり、如実で正統かつ正しく描いたりすることを否定してしまいました。実は正統な芸術は人間にとって、高品質の完璧さに対する追求であり、際限のないことです。正統の芸術の空間は非常に広義なもので、なぜならば、ある完璧な作品は如実に物体を表現しているだけではなく、実は作者本人の人生の経験と性格まで含まれています。作者が人生の中で接触したことのあること、身についた各方面の各学科の知識と技能までその作品に表れてきます。ですから、同様なものでも、色、表情から身についた技法のレベルまでそれぞれが作品に表現するものは違います。なぜならば、一人一人の人生の経験が違い、作者の性格の特徴が違うため、作品に差異をもたらしてしまいました。しかも、表現しようとしているのが大千世界と更に高い境地の生命、ひいては神と神の世界の美しい現われなので、これは限りない光に満ちた道のりなのです。往々にして、絵画と彫刻が得意な芸術家は考えの多くを自分の芸術に注いでいるので、口数の少ない人が多いのです。それらの絵画や彫刻のできない人は口が達者で、言っているのは理に適っていないいい加減なことでした。ですから、このような人は写真術の言い方で正統な芸術を覆し、徐々に今日のようになってしまいました。もちろん、当初正統な美術を覆そうと思っても、美術の全く分からない、できない人にはできなかったことです。ですから、当初按排されたそれらの現代派の代表者が幼少時代に基本的な技能を身につけるようにし、これによって世の人々を更に惑わすことができたのです。
 
 当初学術界と印象派、抽象派との正と邪の論戦の中で、人類の道徳と観念が滑落し、人類の本当の神聖な芸術が否定されたため、正統な芸術家たちが生き残るために手に入れた空間はわずかしかありませんでした。現在、正統な芸術を「写実派」と呼んでいます。以前はこの言い方はありませんでした。神が人間に芸術を伝えた目的は人類が敬う善と美を人間が表現できるようにするためであり、これは人類の道徳に対して正しい作用を果たすものです。人類道徳の腐敗堕落によって、正統な人類の芸術は魔性から発展してきた動向により正式な学校という殿堂から追い出され、正統芸術は生き残るために写実派になり、写実という言い方はこのように由来したのです。
 
 現在人類の全ては逆の方向に向って進んでいます。皆さんはこれに気づいているでしょうか? 発声が悪く、音楽理論も知らない人、踊りの基本的な技能のない人が人気の歌手やダンサーになりましたが、本当の芸術家はかえって窮地に陥ってしまいました。髪切りの上手な人まで追い出され、道端で露店を出していますが、下手な人は逆にきれいな美容院にいます。人類の全てのことは逆の方向に向って滑落しつつ、このように腐敗堕落に向っています。それらのいわゆる現代派が以前追及していたのは他でもなく、自分自身の感受であり、その後自我を制御できなくなるまでになってしまい、現在は自分の体を鬼に預けて操ってもらっています。これでどのようなものを作ることができるのでしょうか? いわゆる現代派の作品を出して、「ほら、なんと美しい絵なのでしょう」と皆さんに見せています。彼が言わない限り、彼の言っている美しさがどこにあるか誰も分かりません。しかし、彼が言っている美しさは魔性であり、しかも芸術に対する幼稚でばかげた認識が含まれています。あなたの考えが彼について彼の魔性に入っていかないと、彼が言っているいわゆる美しさとは何かが分かることができません。実はそれらのことは皆人類にとって有害なゴミです。
 
 もちろん、多くの人は潮流にのって騒いでいるのであって、多くの民衆は現代派の者を理解することができません。これがゴミだといったら、現代派の人はゴミに似ていれば似ているほど良いと言うのです。皆さんも聞いたことがありますが、中国のあるいわゆる芸術家は死んだ子供の肉を食べました。この間この報道があったのではありませんか? 魔性を追求しているからここまで来たのです。この全てがこのまま進んでいくと、恐ろしいのではありませんか? 人類の芸術がこのまま進んでいけばどういうものに向っていくのか、もう言う必要はありません。
 
 次に人類の芸術は何を表現すべきかについてお話します。人類の芸術は人間そのものを表現するためのものなのでしょうか? それとも山水などの風景を表現するためのものなのでしょうか? または神、鬼を表現するためのものなのでしょうか? 知っておかなければならないのは、人類の本当の芸術は最初神の殿堂に現れたのです。神が人間にこの種の文化を伝えたもう一つの目的は人間に神の偉大さを見せ、善悪応報を信じさせ、つまり悪事をした人に悪報、良い人に福報があり、修煉の人が天国に昇っていくということを信じさせるためです。西洋の芸術は最初皆教会堂に現れたのです。東洋の早期の彫像はほぼ神の彫像でした。中国で伝えられてきた最も古く最も早期の絵画も神を描いたのです。人間は神を描く時に際限があるのでしょうか? ありません。広々とした宇宙、厖大な天体と宇宙の全て、人間が本当に神を信じ、心から神を表現しようとした時、神は人間にそれを人間の目の前に現すのです。それは最も完璧かつ神聖で、しかも人間が最も憧れている最も素晴らしい帰り着く所です。そのため、作品の表現にも際限はありません。
 
 ご存知のように、人間は神を描く時に人間を模倣しなければなりません。これは問題ありません。なぜならば、人間は神が自分の姿かたちになぞって作られたので、人間を基本的な技能を練習する時の対象にするのは問題ありません。人間を描くのはいけないことではなく、描いても構いません。なぜならば、人間はなんと言ってもこの世の主体だからです。山水を描くのはなおさら言うことはありません。しかし、人類の美術作品の創造は神を中心とすべきです。なぜこのように言うのでしょうか? 皆さん考えてみてください、人間には業力があり、皆さんが大法弟子なのでこれを知っていると思いますが、人々が描いた全ての中に作者本人の要素が入っています。芸術家の作品の中で、本人の全ての個人的情況と絵に描かれた人の全ての情況は皆絵の中に入っています。普通の常人の一筆で、この人がどのような人なのか、どういう病気を持っているのか、どれほどの業力があるのか、彼の考えと家庭の情況まで私に分かってしまいます。描かれた人も絵の中で自らの全ての考えと、業力の大きさをも含む体にある全ての要素を十分に現しています。人物画を家で飾ったら、絵の中にある人物の業力も絵から伝わってきます。このようなものを家で飾ったら、人間は受益しているのでしょうか、それとも害を受けているのでしょうか? 業力は伝わってくるものであり、絵の中の人とその本人が繋がっており、絶えずこの絵を飾った人の家に伝わってきます。人間は物体間のつながりを目にすることができませんが、実は気分が優れないと皆感じています。
 
 しかし、人間が神を描こうとしたら、皆さん考えてみてください、神は光り輝くもので、偉大で慈悲のエネルギーを放っているので、人間には有益なのです。しかも、絵と彫刻の作者も作品を完成させる過程で受益し、同時に作者は神に関する芸術作品を創作する過程で善の念が生じるので、それによって、神は作者の正念が強まるように手助けし、作者の体にある業力と思想業力を取り除くのです。このような作品を人々が見たら受益し、心が広くなり、考えの中に善の念が現れ、人格が更に高尚になります。神は人間に正念があるのを見て、人間の危難を払ってくれます。人類にとってどちらのほうにメリットがあるのでしょうか? 私は神を描いた天井、壁画、神を彫刻した彫像などの正統な作品を見るのが好きです。それを見て、人類にまだ元に戻ってくる望みがあるといつも思っています。なぜならば、それらの作品は神の偉大さを表現しており、神像の向こうの空間にいる神も本当に人間に善を施します。このように比べて見たら、人類の芸術は神を表現することを中心にすべきと皆さんは思うようになったのではありませんか?

 もちろん、現代社会の芸術は絵と彫刻作品だけに止まらず、工芸美術、広告、服装、舞台芸術、テレビ、映画、製品のデザインなど芸術と関わっている各分野の業界があります。つまり、皆美術と関係があります。しかし、如何なる業種であっても、作者本人が正しい基礎を築いたら、どの作品を作っても、中から正の要素が伝わっており、それがみな素晴らしいもので善のものです。人間にメリットを与えることができます。必ずそうなります。私が見た人類の芸術は大体このような情況です。
 
 先ほど東洋と西洋の芸術の中に彫刻も含まれているとお話しました。彫刻に言及しましたが、東洋の彫刻の由来と歴史の過程についても触れたいと思います。今回の文明の時の情況だけについてお話します。佛教は中国に伝わってくる前、多くの彫刻作品の特徴は前回(つまり大洪水以前)の文化と関係していました。ですから、佛教が中国に伝わってきた後の作品と完全に異なる芸術の特徴を持っています。厳密に言えば、今回の人類の文明を代表する東洋の彫刻作品は佛教の佛、菩薩と神を表現しています。このような初期の作品の彫像手法はインドから伝わってきたもので、インドの彫像手法は現在のインド佛教以前の佛を信じていた時期から伝わってきたものです。前回のインド人が信じていた佛はヨーロッパの古代ギリシャ人の中の佛を信じていた人がインドに伝えたのです。比較的初期のヨーロッパ人の中の多くは佛を信じていたのです。もちろん、全部佛を信じていたのではなく、他の神を信じていた人もいました。佛教がインドに伝わってから、佛の形象と彫像の手法もインドに伝わったため、中国の佛像創作の手法は初期において基本的に古代ギリシャ流でした。皆さんが見た多くの初期の佛の彫像は目のくぼみが深く、眉骨と顔の輪郭は西洋人の輪郭と同じであり、鼻が真っ直ぐで、しかも四角い形をしています。これは古代ギリシャ人が比較的初期の佛の文化をインドに伝え、またインドから中国に伝えたからです。しかし、彫像の作品に作者本人の要素が入っているので、佛教が中国に伝わってからの彫像の中に、佛の姿かたちが中国人に少し似ているところがあります。徐々に佛教が中国に伝わってから時間が経つにつれ、次第に古代ギリシャ文化が中国に伝わってきたばかりの時の要素を失い、ますます中国流になりました。これは人間の表面的な文化から言っていますが、他の原因もあります。佛教が中国に伝わってから、確かに多くの人の副元神が佛と菩薩まで修煉して成就しました。しかし、当時中国に系統的な学術の体系がなく、更に彫刻が石工と修道者の作品なので、西洋の彫刻と比べて、専門性はなく、基本的に体の構造の比例を正しく把握していませんでした。ですから、中国の多くの彫刻はある流派の作品の特徴を備えているから、そうなったのではなく、技術が成熟していないからそうなったのです。

 先ほど私は非常に簡単に人類の芸術の発展過程とその由来についてお話しました。以前の芸術は通常神を表現していました。神が人間にこれらのことを伝えたのはつまり、「神は人間を守っており、良い行いをすれば善果を得ることができる」ということを人類に教えています。

 一般的な場合、芸術家の作品の中には表現したい主体と目的があります。つまり、構想を練っている時に、どのような画面をデザインし、何を表現したいのかということです。中に作者本人が表現したい意味があり、つまりある物語があるということです。しかし、現代人は西洋の正統芸術を見る時にある問題があります。特に、ルネッサンスの時の美術品を見る時、その描き方と手法のみを見ています。これは基本的な技能が分かっている人にしか分からないものです。しかし、絵が何を表現しようとしているのかが分かっている人は少ないのです。ですから、私が絵と彫刻作品を見ている時、「これは何を描いているのでしょうか」とそばにいた学習者は聞くのです。そして私はその絵が描いているものについて彼らにお話したりしました。もちろん、皆さんは芸術に携わっている人なので、多くのことが分かっていますが、良ければ一緒に討議してみましょう。幾つかの絵を出して、それは何を表現しているのか、なぜこのように表現するのかについて、私も話してみたいと思います。

 お掛けください。先ほどこれらの絵が何を表現しているのかについてお話した時、皆さんも私が言ったことを理解したと思います。どのように行なうべきかが大法弟子に分かっていただきたいと思います。それでは、皆さんも自分の考えを話してみてください。

弟子:迫害を表現しようと思いますが、大法弟子が拷問されている時の場面を表現してもよろしいでしょうか?

師:大丈夫です。大法弟子が迫害を受けている時の場面を表現して良いのです。大法弟子が法を勉強する時の場面や煉功の場面、大法が広く伝わってからの神と天上の光景を皆表現して良いのです。

弟子:大法弟子が真象をはっきりと伝え洪法する時の過程や、パレードの時の光景を題材にして創作してもよろしいでしょうか?

師:これらのことは皆表現して良いのですが、大事なのは皆さんが構想と創作の時にある程度のレベルに達しなければならないということです。

弟子:師父にお伺いしたいのです。中国の写意という手法ですが、中国の有名な画家の多くも写意の手法を採っており、山水を描いたりしましたが、私たちもこのように描いてもよろしいでしょうか?

師:写意の手法を採るのは問題はありません。中国画、山水画も大丈夫です。大法弟子が描いたものなので、展示してよいと思います。しかし、皆さんが大法弟子であり、今皆法を実証し、衆生に未来を切り開いているので、できるだけ真象を伝え、邪悪を暴露することを第一にしてください。特にこの時期において、これは大法弟子の責任です。邪悪を暴露し、大法や神を表わす作品が多くあったほうが良いのです。これらの題材を主にします。大法弟子の他の作品も展示して良いのです。

弟子:写意の手法は変異したものと言えるのでしょうか?

師:私が言っている写意はつまり絵を描く時に内涵を表わすということです。もし人間が正統で正念のある道徳基礎の上に立って、情感を表わすことができれば、これは問題はありません。肝心なのは、正念を用いて創作するのか、それともそれらのいわゆる現代意識を追求するのか、正統の表現手法で表現するのか、或いは現代派の観念で表現するのかの問題で、意そのものには問題はありません。

弟子:師父にお伺いしたいのですが、先ほど師父がご説明なさった作品は皆西洋の神の姿かたちを表現しています。大法弟子として、中国と西洋の描き方を融合させ、どのように彼らの絵を参考にしながらも、東洋の特徴も備わるような絵を描くのでしょうか?

師:東洋人と西洋人の姿かたちをする神を同じ作品の中で描くのは問題ありません。法を正す中で、多くの異なる神は正しい作用を果たしています。多くの中国画は非常に上手に描かれています。これは認めて良いことです。手法とテクニックを更に高めてください。これは問題のないことです。中国画と西洋の油絵の手法が同じ絵に用いられるのはとても難しいようですね。東洋と西洋の手法を融合させ、このようにする人はまだいません。東洋でも西洋でもないような作品にならないように気をつけてください。

弟子:私が言いたいのは、非常に高い次元から言えば、東洋と西洋の多くの神が皆佛以下の次元におり、比較的巨大な作品を作成する場合、この作品に東洋の神も西洋の神もいるのが大丈夫なのかということです。

師:大きな作品を創作し、中に同時に東洋人の姿かたちをしている神も西洋人の姿かたちをしている神もいるのは問題ありません。道を描いて、必要があれば西洋人の姿かたちをする神も描いて、同じ作品に同時に存在するのは問題ありません。もし同じ作品の中に油絵の手法と中国画の手法を同時に用いるのは、私が思うには無理だと思います。

弟子:もう一つの質問です。私たちは作品の中で主に光り輝くものを表現しますが、内涵の多い作品の場合、悪役の人も登場して、このように対比することによってあるシーンを作り上げることができます。ちょっと確認したいのですが、悪役の人をもちろん暗い隅っこに置きますが、このように表現してよろしいでしょうか?

師:大丈夫ですよ。実はこの絵をご覧ください。凶悪な警官が大法弟子を殴っています。色調の表現には凶悪な警官と大法弟子が区別されていながら、全体のバランスが取れています。これは問題ありません。それはどのようにうまく扱うかという皆さんの手法の問題です。

弟子:師父にお伺いしたいのですが、中国の書道は芸術の一種なのでしょうか? 草書は正しいものなのでしょうか?

師:現在は書道と呼んでいますが、昔は字を書くという言い方でした。近代になってから、人々は筆で字を書かなくなり、それを芸術の一種と見なしてしまいました。実は中に確かに芸術の内涵があります。既に芸術の一種とされたので、美術展の中で書道を美術作品の一種としましょう。
 
草書に触れましたが、厳密に言えば、それは人間の負の一面を放縦している心理の表れです。以前人間が神の助けによって字を作った時に、草書などはありませんでした。実は私は筆で字を書くことを習ったことはないので、あまり上手ではありません。しかし、いつも何かを書いてほしい人がいるので、私は隷書を使って書いています。私は特別に隷書が好きということではなく、隷書体を草書体にすることができず、崩し書きしてしまったら、隷書ではなくなるからです。ですから、人間は放任された観念または思想業力の中でも隷書体を崩し書きすることができません。これが原因で私はいつも隷書体を使っています。

弟子:書道の字についてですが、師父が隷書体で字を書いていらっしゃるのを見て、一部の大法弟子は字体を選ぶ時に隷書体を選んでいます。ちょっとお伺いしたいのですが、各種の字体を使ってもよろしいでしょうか?

師:どんな字体を使っても良いのです。しかし、この草書体が人間の負の一面をあまりにも放任しており、人間の表面の要素が多すぎると思います。人間が本当に正念を持って善に行なっている時には草書体を書くことができません。主に人間の観念を放任した時に書いたのです。ひどい場合、その時の心の様態は少し気が狂っており、正の一面が足りません。

弟子:もう一つの質問ですが、つまり三原色に関することです。先生は三原色に言及したことがあり、他の空間では対応しているとおっしゃいました。私たちはこの世においても補色のことについて議論しています。それではどのように三原色を理解するのでしょうか? この世では、光のために色が生じたと言われており、なぜならば、光がなければ色を見分けることができないからです。他の空間では全てが光ですが、その色をどのように対比させているのでしょうか?

師:人間は絵画の顔料の中で三原色を合わせて他の色にすることができ、人類のスペクトルの中の三原色も異なる色のスペクトルに屈折することができます。しかし、これは人類の物質空間の中の物質成分によって引き起こされた現象であり、他の空間とは違い、物質も違います。絵画の中の明暗の表面と色の現れを含めて、物体の形態が光によってもたらされたのだという人がいます。そうではありません。光があってもなくても、物体はやはりその形をしています。光はただ人間に視覚上の明暗を感じさせ、受けた光の強さによって色に対して錯覚が起きますが、実質的には色と物体の形状を変えることはありません。修煉の言葉で言うと、光は人間の目をくらまし、人間に虚像を与えてしまいます。多くの他の空間には太陽はありませんが、多くの空間には全ての物体は皆自らの柔らかい光に包まれています。もし太陽を必要としない物体であれば、または空間に太陽がなければ、物体の形態は比較的に安定しているのです。また、ある空間では全ての物体が微かに眩しくない光を放っており、同じ次元にいる生命にもそれが見えます。このような空間には太陽のような直射の光源がないため、見えた物体の形状はそのままなのです。
 
 他の空間を人間の目で見れば光っており、その色と物体の形状は変化していません。(もちろん、神と神の全ては変化します。物体の存在方式も人間が思っているいわゆる安定状態ではありません。) カラーのネオンのように、ライトの形状と色は光に影響されません。もしその次元の生命であれば、人間がその空間を見た時の感じ方とは違います。私が皆さんに説いたように、分子にもエネルギーがありますが、人間がそれを感じていないのは、目を含む人間の全てが分子粒子で構成されたからです。もし分子より次元の低い更に大きな粒子で構成された生命であれば、同様に人体と人間の空間の全ての物体が光を放っており、エネルギーがあることが見えます。これは私が先ほど皆さんに説いた、太陽がなくても、全ての物体が光を放っている空間とは同じ概念ではありません。それは物体自身から光を放っている空間です。
 
 人間のこの空間は法を正すために特別に作られたところです。三界のこの範囲を離れると、全ては違ってきます。三界と同じ次元に存在しているその他のもっと多くの、もっと広い空間では、全ての物体の構造が変わり、この世のものとは違います。物体の形式を見る時、この世の人々に見えたこのような明暗の関係まで違ってしまいます。ですから、人間のこのところで現れてきた明暗関係は人間のために特別に作った環境の現れです。天上の神と多くの天体には太陽による直射の光はありません。しかし、一つ以上の太陽による直射の光がある天体も多くあります。太陽のあるところもあれば、ないところもあります。生命が異なる次元で感じる光の強さも違い、それぞれの次元の光の存在形式にも合致しています。ある学習者が三原色は真善忍と関係があると文章の中で書きましたが、それは修煉中彼が感じたことであり、真善忍の根本的な本質ではありません。
 
 人間は一旦天上の光景を目にしたら、驚かずにはいられません。それで、どのような色でそれを描くことができるのか、と人間は考えてしまいます。分子で構成された表面物質は人間がそれに触れることも使用することもできますが、分子より更にミクロ的な粒子で構成された物体は、人間は通常それのエネルギーを感じ取るしかできません。分子より更にミクロ的な粒子で構成された空間の物質の色はこの世では見つからないのです。実は、分子にもエネルギーがあり、エネルギーがあるだけではなく、エネルギーの作用を働くこともできます。この世の人々がエネルギーを感じていないのは、人々の体の構造、目、皮膚、血液と肉などの全てが分子粒子という次元での産物だからです。ですから、同じ次元にいる人間は同じ次元でのエネルギーを感じることができません。ミクロ次元でのエネルギーを感じることができるのは、人間のこの次元の物体で構成された粒子の顆粒がミクロ粒子より大きいからです。つまり、色を構成した要素も同じ次元での粒子ではないので、見た目では、高次元空間がそれより次元の低い粒子で構成された空間より明るく光って見えます。しかし、それが境地を超えた明るさなので、この世ではこの色を見つけることができず、蛍光色を用いてもそれを表わすことができません。しかし、そのような色でその境地の神聖さを表わすことができなくても、人類が今持っている色で画面の構造とその厳かな表情を表わすことができます。その形状と構造を人類の顔料で表わすことができます。もし完全に神の全てをもって神をこの世で表わしたら、それは神がこの世にやってきたということになります。

弟子:佛、道、神が着ている服またはいつもの身なりについてお話をいただけないでしょうか?

師:私たちがいつも見ている佛の身なりは即ち黄色の袈裟です。菩薩は中国古代の女性の身なりのように描いて、宋の時代の女性の身なりを参照にして描けば良いのです。それは最もよくある服装です。白人の形象をしている神はどの世界の神であっても、いつも大きな白い袈裟を身にまとっています。佛は大きな黄色い袈裟を着ており、黒人の形象をしている神は大きな赤の袈裟を身につけています。もちろん、更に多様で更に高い次元での現れがあり、何も着ていない神や、相当原始的な服を着ている各種の神がおり、様々な神がいます。作品の中で、通常この世の人々が知っているのを表現すれば良いのです。道はもちろん、中国古代の服飾を着ています。これは普通の道ですが、実は非常に次元の高い大道が着ている服も様々です。
 
 なぜならば、以前修煉者の中にある現象がありました。いつ、どの時代で圓満成就したに関わらず、圓満成就した時着ていた服装はこれから着る服になり、普通はそうなります。もちろん、佛は違います。全ての佛まで修煉して圓満成就した人は必ず佛の姿かたちをし、佛の服を着るのです。他の神を修める人の場合、普通圓満成就した時の服が将来の服になります。武当山に行ったことのある人がいますか? あの玄武の絵を見たことがありますか? 玄武は絵の中でなぜ髪の毛を振り乱しているのでしょうか? 彼が圓満成就した時、髪の毛が乱れていたので、絵の中の彼も髪の毛を振り乱している姿なのです。彼は長期的に山の中で座禅をしていたので、髪の毛を手入れするのが面倒だと思って、束ねていませんでした。圓満成就の時までそのままでした。

弟子:師父にお伺いしたいのですが、古代の絵の中の佛は服を着る者もいれば、肩を出している者もいました。

師:人間は時々、自分の観念で佛を描いています。例えば、南アジアは非常に暑いので、涼しくするため、和尚はいつも肩を出しており、右側の肩を出しています。北のほうに行くと、和尚は布で右肩を覆うようにしています。なぜならば、右肩を覆っていると寒くないからです。佛の世界にこれらの概念はありません。通常、彼らは右肩を出している服装を着ています。中国人が佛を描くとき、中国人の観念で肩を全部覆ってしまいますが、実は神の服装はこのようなものです。西洋人の形象をしている神も片方の肩を出しています。この種の服装には袖はないのです。両方の肩を覆ってしまえば、動きにくいからです。

弟子:私たち絵描きを専門とする人は基本的な技能を勉強するのがなぜそれほど難しいのでしょうか? 教えているところがなかなか見つからないのです。中国で絵画を勉強する場合、どのように技法のレベルを高めることができるのでしょうか?

師:西洋の国の教育はいわゆる現代派の意識にあまりにも影響されているので、学生の基本的な技能の訓練を全く重視していません。しかも、多くの先生と教授も現代派に属しているので、彼ら自身さえ絵描きの最も基本的な知識がなく、技能もありません。基本的な技能を身につけるためには、厳しい訓練を受けなければなりません。最初は静物を描いて、構造と透視の関係を把握し、静物を上手に描くことができたら、スケッチを練習しなければなりません。そして色の正しい使い方を練習します。一歩一歩、絵画きの基本的な技能を身につけなければなりません。画家と彫刻家は必ず基本的な技能を身につけなければならないものです。

弟子:中国でなぜ長い間、風景画を描いていたのでしょうか? もちろん、中国に佛の姿かたちを表現する画もありますが、中国の歴史の中で山水画を描いたものが多いのです。

師:中国画は意を重んじ、その画境、内涵を描いているので、山水を描く画が多かったのです。なんと言っても中国人の文化は半神文化なので、人間をあまり描きたくない意識があります。これは私が先ほどお話した原因によるもので、そのため、山水を描く絵が多かったのです。しかし、人物を描く絵もありましたが、一般的にモデルを使わず、全部想像して描いたのです。これでかえって絵が清らかになりました。もちろん、実在の人物を全く描かないのではなく、歴史上の英雄や人々が偲んでいる人物も描く画家も描かれていました。近代になって比較的豊かになりました。実は発見した最も初期の中国画は神を描くもので、お寺の中にも古くから現在まで佛、道、神を表現する絵があります。

弟子:中国画は線を重視しており、色が非常に淡いのですが、西洋の絵は色彩を重視しています。中国画の色使いは西洋の絵のようになるべきなのでしょうか?

師:違います。東洋の絵なら東洋の絵の特徴がなければなりません。東洋の絵の描き方にしたがって描かなければなりません。それを変えてしまうと、東洋の絵ではなくなります。東洋の絵は線を重視しており、西洋の絵は線を描いてはならず、線を描いてしまえば間違ってしまいます。西洋の絵は明暗で画面を構成しています。

弟子:師父にお伺いしたいのですが、私たちは写意または写実をする時、絵を描いている時、師父の法身がやってくるのではありませんか?

師:私の法身はそういうことをしません。(皆笑って)法身が念を巡らすだけで、どのように描くべきかがあなたは分かるようになります。しかし、「じゃ、分かりました。師父に描いてもらいましょう」と思ったら、(皆笑って)それはいけません。

弟子:そのとき画家は一種の超常的な状態に入るかもしれませんので、彼の描いた絵が超常的になるかもしれません。

師:超常的になるとは限りません。どんな状態であっても、理性的で非常に正常でなければなりません。皆さんが大法を修めることと同じように、全ては皆非常に正常なのです。大法弟子が描くべき絵なら、それをきちんと仕上げなければなりません。状態に入るなどの言い方はなく、このような考えも持つべきではありません。

弟子:師父にお伺いします。私は異なる人種の姿を描きたいと思いますが、師父は先ほど黒人の神が赤の袈裟を着ているとおっしゃいました。しかし、彼の髪の毛がどうなっているのかは知りません。

師:一般的に、皆さんが西洋のような神を描こうとすれば、ルネッサンスの時の美術作品を参照にすれば良いのです。西洋のルネッサンスの時の美術品に描かれた神の姿かたちが正しいのです。成人の男神はひげが濃いのですが、もちろんひげのない神もいます。佛は普通ひげを生やさないのですが、ひげのある佛も少しいます。黒人の姿かたちをしている神の髪の毛は黒人の髪の毛と同じであり、短くて巻いている髪です。人間は神が自分の姿かたちをなぞって造ったからです。

弟子:(訳文)私は学校のために絵を描きました。それは自画像でした。私は絵を描いた時に心を込めて描いており、できるだけ観念が作用しないようにしました。それを見た人々の反響は悪くはありません。構図も不思議に良くなっています。ですから、私たちが心を込めて絵を描けば上手に描くことができるようになるのでしょうか? 師父からそれについてご指導をいただけないでしょうか?

師:厳密に言えば、絵を描く時に心を込めていなければなりません。心を込めていれば、それを見た人は上手に描いたと言うのです。しかし、基本的な技能を重視していた時代とはやはり差があります。ですから、もし基本的な技能をよりしっかり練習することができれば、大法弟子はますます上手に絵を描くことができ、そしてこれからの人々に正しい道を残すことができます。もちろん、心を込めて絵を描くのは正しいことです。

弟子:先生の肖像を描いてもよろしいでしょうか?

師:たくさんの人が私の肖像を描いたり作ったりしましたが、結局皆似ていなかったのです。描いても良いのです。これは問題ありません。写真を参考にして描いてください。

弟子:多くの学習者が本当に師父を描きたいと思っています。特に他の空間での姿です。本当に似ている肖像もあり、法身の威力を確かに感じています。しかし、どのようにこの描いた肖像を扱うのでしょうか? なんと言っても師父の肖像です。また絵の下書きはどうしたら良いのでしょうか?

師:下書きは焼却すべきものは焼却すれば良いのです。これは問題ありません。法を正す時期に大法弟子は法を実証することを大事にすべきです。

弟子:上手に描いた絵はどうしたら良いのでしょうか? お香をあげてもよろしいでしょうか?

師:それを絵として保存すればよいのです。

弟子:師父、今日お話をお伺いして、考えが開かれました。しかし、お話を文字にしていただければありがたく思います。たくさんの芸術に造詣の深い人が来ていないからです。

師:今回説いた法理を整理してから考えましょう。

弟子:創作の道をどのように歩むべきなのか、今まで頭に何の考えもなかったのですが、今分かりました。とても嬉しいのです。

師:これは私が今日皆さんに説きたい法なのです。

弟子:もう一つの質問があります。私は完全に西洋画を勉強していますが、中国画がとても好きです。絵を描く時に表現しようとすることを大事にし、伝統的な手法にこだわらなくてもよろしいでしょうか?
師:技法に関して、両者の長所を吸収するということですが、以前それを試みた人もいました。やってみても良いのですが、協調していなければなりません。見た目は自然と感じなければなりません。しかし、試みてみたら、本当に東洋と西洋の絵の文化を統合することができないと感じるかもしれません。

弟子:師父こんにちは。私たちの絵にある天使は羽がついていますが、これは東洋と西洋のものを混ぜてしまったのでしょうか?

師:法を正す中で、完全に正しい作用を働く神の中に東洋人と西洋人の姿かたちをする神と様々な姿かたちをする神がいます。それはあなたの絵がどういう意味を表現するかによります。つまり、構図の必要性によります。例えば、西洋人の姿かたちをしている神は羽を持っているのもいれば、持っていないのもいます。それはあなたがどういうことを表現するかの構図によります。皆さんに教えますが、低次元の空間にいる神は私が法を伝えにくると知っているので、私がどのように法を伝えるのか、社会がどういう状態なのかが彼らに左右されるように旧勢力は按排しました。もちろん、私は彼らの按排にしたがって行なっていません。法を伝える時に私がどういう姿かたちをして法を正すのか、これは神々にとって由々しき一大事です。佛と道は私がどういう姿かたちを選ぶかの問題で低次元の中で言い争いをしました。道教はこのために生じたのです。道は私が道の姿かたちを選び、道を用いて法を説くようにしたいのですが、道は一人にしか伝えないものであると道自身も分かっており、一人にしか伝えなければどのように衆生を救い済度し、大法を広めるのでしょうか? これではいけません。ですから、道はある方法を考え、この世で宗教を起こしました。そのため、道教が現れました。後になって、道教の中の多くの道も佛や菩薩になって分かれました。天上に本当に道の世界ができました。なぜならば、彼らは私に道の姿かたちを選んでほしいからです。佛のほうも私が佛の姿かたちを選ぶように条件を整えていました。佛の姿かたちにするべきであり、慈悲深くなるべきで、なぜならば衆生を救い済度しなければならないからと言っていました。しかし、私は中国に転生しましたが、もし西洋に転生したら、白人の姿かたちをしている神もそのための条件を整えなければなりません。歴史上の道と佛の争いはこのために起きたのです。私がほしい全てを決めてから、この姿かたちに関する争いは終わりました。私は旧勢力の按排にもしたがっていません。
 
 ですから、天上の神はどの種類の神であっても、天上に何かがあったら、一緒に相談するのです。イエスがこの世に来て人を済度しに来た時も、神々の協力があったのです。この世で何かの大きな出来事があったら、天上まで及んでしまうからです。佛が法を伝えようとしますが、他の神はそれを認めざるを得ませんでした。先ほどお話した佛と道の争いということは既に過ぎてしまいました。法を伝えることが決まってから、争うこともなくなりましたので、それで良くなりました。

弟子:水彩画は中国画と少し似ていますが、油絵とも似ています。水彩画と中国画の手法で描かれた作品があります。

師:水彩画を習う人の基本的な技能が西洋の技能なので、水彩画は西洋の手法です。顔料そのものについて、それは水彩画か中国画かにこだわることはありません。水彩で中国画を描いても良いし、水彩を使って油絵の描き方で描いても大丈夫です。水彩自体に東洋の描き方と西洋の描き方という問題はありません。つまり、どんな顔料でどういう絵を描くかのことは描き方自体とは別のことです。東洋の絵と西洋の絵はただ色の濃淡だけの問題ではなく、その内涵の中に二種類の文化を基礎としています。
 
 ですから、天上の神はどの種多くの人が東洋の絵と西洋の絵の融合を試みたことがありますが、実は皆失敗しました。中国の絵と西洋の絵は表現において描き方と色使いのテクニックの問題があるだけではなく、絵の背後に厖大な民族文化が潜んでいます。各種類の文化の各種の技能はその民族全体の文化の結晶です。東洋の文化と西洋の文化を完全に混ぜて根のない変異したものにしてしまわない限り、実は東洋の絵と西洋の絵を一緒にするのは不可能なことです。

弟子:私たちは天地開闢を描こうとしていますが、つまり宇宙の中の旧勢力が壊滅されてしまい、良いもの、つまり天体が良くなって、悪いものが打ち落とされてしまうという場面を描きたいと思っています。この場合、神の姿を加えたほうが良いのでしょうか? それとも単に色に変化をつければよいのでしょうか? 師父が先ほどおっしゃったことを加えたほうが最も良いのです。

師:抽象的に描いてはいけません。必ず表現しようとする主体がなければなりません。つまり正しい道に戻ってくるということです。

弟子:天上の神獣たち、先ほど師父がおっしゃった獅子や、龍、鳳凰などのことですが、龍の場合、普通の龍、また師父が経文の中でおっしゃった「赤い龍を切る」の中で言われた赤い悪い龍がいるようです。この龍に区別があるのでしょうか?

師:龍の外形は皆同じです。龍にも良い龍と悪い龍がおり、悪い龍、良い龍と神龍がいます。一般的に見た天国世界と佛世界の龍は皆金の龍であり、金の光を放っています。一つ説明しておきたいことがありますが、東洋文化の中に言われている龍と西洋文化の中に言われている龍は同じ生物ではなく、同じ種でもありません。東洋文化の中の龍の色もそれぞれ違い、魚のような白黒の色、赤、黄色、白、黒などの色をしている龍がいます。それぞれ違います。龍の中にも次元の区別があり、天龍、地龍と水の中の龍などの区別があります。西洋文化の中に言われている龍は、地獄の悪獣です。多くの場合、中国人が龍のことを言うと、多くの西洋人は龍が悪いものだと思っています。このような感覚です。実はこれは東洋文化と西洋文化による違いです。西洋人が言っている龍は龍の頭をして、首が細く恐竜のような太い胴体を持っており、毛のない羽がついています。しかも、この種の生物は西洋人の姿かたちをしている神の体系の中の低次元での生物です。西洋人の姿かたちをしている神の体系の中の地獄にいる龍は陰火を口から吹いています。実は以前の人が翻訳の時に間違ってその獣を龍と呼んだのだと思います。それは東洋の龍と同じではありません。(西洋人の学習者に向って)西洋人の龍に対する概念は私が先ほど言ったようなものではありませんか? (答え:そうです)
 
 実は同じ生物ではありません。西洋の天国の世界の中に一般的に東洋のそのような龍はおらず、それはその体系に属する生物ではありません。白人の姿かたちをしている神の体系はこの世の白人社会と対応しており、更に低い空間まで対応しており、この体系の中に龍という言い方はありません。このような動物も現れたことはありません。しかし、彼らの体系にある多くの生物は東洋人の姿かたちをしている神の体系の中にもありません。例えば、西洋では以前この世に馬の下半身と人間の上半身をしている獣がありました。これは東洋世界の体系の中にはありませんでした。ですから、これはただ文化上の差異ではなく、その世界の体系にはそういうものはないからです。

弟子:師父、あることについてお聞きしたいのですが、私は油絵を専門とする人で、良い絵を描くには非常に時間がかかります。他にやりたいことがまだたくさんあります。

師:精進している弟子は皆忙しいのです。法を正す時期に真象を伝え、衆生を救い済度しなければなりませんが、今日皆さんにお話したように、特技を持っている学習者は美術作品も創作しなければなりません。作品を創作するには確かにたくさんの時間がかかります。これは私に良く分かっています。しかし、大丈夫です。できるだけ利用できる時間を利用して描けば良いのです。ただし、あまり長引かないようにしてください。できるだけ描いて、大体出来上がったら展示会を開きます。

弟子:師父、私が聞きたいのは、この二つのことにおいて、どのようにバランスを取れば良いのかということです。時間が限られているので、これをやろうとしたら、あれを行なうことができなくなります。

師:そうですね。つまり適切に時間を配分すれば良いということです。行うようにと皆さんに言ったことは全部他の人と未来の人に残すためではなく、皆さん自身の修煉にも役立ちます。なぜならば、皆さんはこの社会の環境の中で生活しており、この時代を通過しなければなりません。つまり、現在の人間の観念はこのようになってしまい、皆染物がめにいます。特技を持っている学習者はこの面において他の人より大きな影響を受けました。それでは、創作の中で正しい道に戻ってくるという過程の中で自らをきれいにしているのではありませんか? 芸術の面で自らを元に向って昇らせているのではありませんか? そういうことです。本質から観念から自分を変えていますが、これは自分を修めているのではありませんか?

弟子:師父が昨日会場で法輪を回しているのを見て、震撼させられました。この光景を私が覚えている範囲で描いてもよろしいでしょうか? その時、師父は背広を着ていたのですが、ちょっと直接で細かすぎるのではないのでしょうか?

師:描くのは問題ありません。背広の姿を描いて良いのです。

弟子:師父に二つのことをお伺いしたいのです。一つは、法輪大法の中に多くの神が含まれています。それほど多くの神がおり、もちろん学習者が圓満成就したら、それぞれ違う佛、道、神になりますが、修煉が良くできている修煉者を表現しようとしています。一部の学習者は修煉が非常に良くできているかもしれません。私たちは彼らを表現することができます。それでは、師父が言及なさった多くの他の正教が信仰している神、佛教の中にも多くの正神がいますが、これらの神を表現しても良いのでしょうか?

師:多くの神の場合は大丈夫です。このようにお話しましょう。佛教の中で言われている神、つまり現在の人が知っている佛教の中で言われている佛と菩薩なら、大丈夫です。老子、道、エホバ、イエスと聖母マリアは皆問題ありません。しかし、大法弟子が法を正す中で大法と関係のない神を表現するのは何の意味もありません。何を表現するのか、どのように表現するのか、これは私が多く言う必要はありません。

弟子:もう一つの質問ですが、以前のルネッサンスが幾らかの代表的な作品を残しました。例えば、「最後の晩餐」などなどです。これらの作品の規模がとても大きいのです。私たちも良い作品を残すことができるように望んでいますが、彼らと同じ形式ではありません。私たちは法輪大法を反映しています。しかし、主旨は同じです。まず構想が良くないといけません。後技術、時間など多くの条件が整わないといけません。ですから、このような作品をきちんと仕上げるには、全体において多大な努力をしなければなりません。

師:考えていることがとても大きいですね。焦らないでください。落ち着いて行なってください。皆現在の能力に応じて創作すれば良いのです。皆さんは端緒を開いたのであって、能力があればやれば良いのですが、無理ならこれからの人は必ず行ないます。人類は必ず大法に光り輝きをもたらします。なぜならば、大法が人間に授けたものがあまりに多いからです!(拍手)

弟子:師父、中国画の中の佛の装飾が非常に多く、とてもきれいに描かれています。しかし、現在描いたものは非常に簡単で、あまりきれいではないと思います。

師:着眼点が違います。人間のところでの現れはこのようなものです。佛が異なる時期に異なる時期の人間に表わしたのは異なる時期の服飾です。私が法を伝える当初、多くの菩薩が私を尋ねて来ましたが、彼女たちが何を着ているのか、皆さんは想像することができません。ご存知のように、中国の女の子たちは文化大革命の時、黄緑色の軍人服が一番好きで、(皆笑って)彼女たちはその黄緑色の軍人服の姿になって来たのです。私が言いたいのは、佛は異なる時期の人間の観念によって服装を現すのです。実は佛の本来の姿は黄色い袈裟を着て、髪の毛は青色で巻いています。もちろん、古代の時の彫像と絵は現在のものとはある程度の違いがあります。当時描かれた佛像は華やかでたくさんの装飾を身につけていましたが、それも当時の人間の観念にしたがって顕したのです。もちろん佛の本来の姿を見ることができれば、光輝かしい佛の世界と佛体も見えます。それは極めて殊勝な現れです。神は意識的に変化して人間に顕したのです。

弟子:私たちが現在描いた絵は非常に簡単です。

師:唐の時代に描かれた佛、菩薩の服装と服飾は多かったのです。唐の時代の時の佛に基づいて描いても良いのです。

弟子:私はルーブル美術館に半年いました。ガイドがモナリザという絵を解説した時、以前の神について言及しました。モナリザが以前の神の姿の一種であり、神は何の服飾もつけていないと言いました。師父が先ほどおっしゃったことを聞いて、分からなくなりました。

師:この絵が描いているのは人間であり、神ではありません。しかも、人間が言っているほど良くはありません。中の影は非常に善ではありません。

弟子:昔の貴族を表現しており、貴族は昔何もつけていなかったとガイドは言いました。
師:これは皆人間が言ったことです。ガイドの解説は正確ではありません。天上の神の多くはピアスをつけています。天上の女神はピアスなどのアクセサリーをつけているのです。それも法器です。西洋人の姿かたちをしている神の場合、女神が身につけているアクセサリーは非常に少ないのです。菩薩のほうが比較的多いのです。神は普通、ネックレスをつけており、菩薩は大きな数珠つなぎの玉をつけています。非常に長いのです。

弟子:師父、天女が花を降らせるというのはどういう意味ですか? 今でもそれが分からないのです。

師:この世で人を済度する人が道を説いた時または何か大きな良いことをした時、天女が花を降らせるのです。多くの学習者にも見えましたが、師父が毎回説法をする時、天女は花を降らせています。(拍手) 天女は衆生を励ましており、皆さんのために花を降らせています。

弟子:(訳文)私は他の空間があまり見えないのですが、見えてもそれほどはっきりしていません。正しく描いているかどうかをどのように判断するのでしょうか? これは大きな問題です。神を描く時、何を描くのでしょうか?

師:普通は大体何の服を着ているのか、どういう形象をしているのかを知っていれば、これが基本です。皆さんの周りの多くの大法弟子は各種の光景を見たことがあります。彼らから話を聞いたら良いのです。絵を描くわけだから、自ずと画面の構造と何を表現するのかが分かるようになります。

弟子:ちょっとお聞きしたいのですが、児童の絵の場合、子どもは最も純真で無邪気で、テクニックなどは分かりません。彼らが描いた場合、その表現手法は私たちが求めているテクニックのこととの間に、大きな差異があるのでしょうか?

師:そうです。画家は画家で、子どもはなんといっても子どもです。子どもはイコール画家ではありません。子どもがお絵描きを好きなのは画家に向かう第一歩であり、画家になったわけではありません。上手に描くことができなければ、いつになっても描けるようになったとは言えません。描けることと描けないことの間にいつまで経っても差があります。ですから、子どもは勉強しなければならず、学ぶべきことをしっかり学ばなければなりません。現在大人が子どものために描いた絵も現代派が現れてから、できたものです。昔のコミック本は子どもに読ませるためのもので、伝統的な手法で描かれたものです。

弟子:子どもたちが大法を表現したい場合、彼らが直接描いたら、何かの問題があるのでしょうか? それとも学術的な技能を学び、ある程度のテクニックが身についてから、はじめて展示することができるのでしょうか?

師:子どもが絵を練習するのは構いません。練習の時描いた絵は完成した作品としてはいけません。しかし、子どもが学校の美術の時間に描いた絵を学校で評価することができます。明慧学校の学生はもちろん法を勉強しなければなりません。絵描きの時間に必ず大法と学習者を描く絵がありますが、それも勉強と宿題だけです。しかし、全ての学校が美術の時間に正式な方法で学生の基本的な技能を養うことを私は希望しています。その心は良いのですが、実は技能がなく神を描いたら、神を醜くするのではありませんか? 他の角度から言えば、神を軽々しく描いてはいけません。そうではありませんか? 絵を上手に描けないのなら、どのように神の厳かさ、美しさと正しさを表すことができるのでしょうか? もちろん、学習者を描く時はこの限りではありません。
 
 明慧学校で学生が自分で絵を練習するのは問題ありません。上手に描いたのは学校で評価して良いのです。しかし、私が思うには、本当に高い水準の作品はやはり技能が必要なのです。特に、展示会を行う時、正式で専門性の高い作品を出すべきです。

弟子:絵の中で大法弟子と師父が法を正す場面を表現していますが、旧宇宙の全ての神が皆法を正すことに参加していないので、描いた他の空間の佛、道、神は大法弟子が異なる空間で法を正すことに参与している時の異なる空間での体の現われであると理解してもよろしいでしょうか?

師:全ての神が皆参加していないのではありません。宇宙の中の多くの神は参加しませんでした。しかし、旧勢力以外の一部の神は全く師父の要求通りに、正しい作用を果たすことができました。更に神兵神将も法を守っています。全ての神が参加していないのではなく、参加している正神がいます。それを描いて良いのです。大法弟子は正念の中で神通の功を動かすことができますが、修煉して良くできている一面を簡単に動かすことができません。

弟子:大法弟子は他の空間で法を正すことに参加している時、それも佛、道、神の姿かたちなのでしょうか? 他の佛、道、神と同じ姿かたちなのでしょうか?

師:姿かたちは同じです。大法弟子はただ常人の中で法を実証しているだけで、他の空間ではほぼ動いていないのです。しかし、正念を発している時、向こうの空間の能力を動かすことができます。法を実証する時、基本的にこの空間にある主体が行っているのです。正念が強い時、エネルギーと法器、神通力を動かすことができます。普通はそういう状況です。

弟子:そこに座っているだけですか?

師:主体のいない時に勝手に動いてはいけません。主体が成就したら、主体について動きますが、主体のいない状況下で動いてしまったら、部分的に自主的になっているのではありませんか? それで他の生命になったのではありませんか? あなたに取って代わり、かえってあなたを制御していれば、それでいいのでしょうか? 修煉している全てはあなたではなくなり、それではいけません。ですから、主体が全てを完成させてから一体となります。このように説明しましょう。もしあなたの腕が勝手に動いてしまい、制御できなくなったら、この腕はまだあなたのものなのでしょうか?(皆笑って)

弟子:向こうの空間の体が動かなければ、どのようにことを行なうのでしょうか?

師:本当に事を行なっているのは、この世で法を実証している皆さんです。他でもなくあなたがここで正念を発しており、真象を伝え世の人々を救い済度しているのです。正念が強ければ、あなたのエネルギーを動かすことができ、異なる次元に異なる次元のエネルギー、法器、功があり、正念が強ければ、動かす能力が強くなります。一部の学習者は元神が外に出て、体から離れることができますが、その部分は法を正す中で作用も果たしています。元神が外に出ることのできる学習者は修煉して良くできたその部分の神体を制御することができます。

弟子:佛教は多くの佛道神を描きましたが、それを参考にしてよろしいでしょうか?

師:良いです。

弟子:草書体は変異しているものです。絵を描いて題字する時必ず楷書と隷書を使わなければならないのでしょうか?

師:草書体は人間の負の一面を放任し、人間の観念が主導になった時書いたものです。字をきちんと丁寧に書いたほうが良いのです。字も神が人間に伝えたものだから、丁寧に書いたほうが神に対しても尊敬することになります。私は法理を説くしかありません。どうしても草書体が好きで、練習しているのが草書体であると言うならば、現在の世の人々に私は関わりませんが、大法弟子は必ず正でなければなりません。

弟子:敦煌の壁画についてお話をいただけないでしょうか?

師:古代の時、あそこは大きなお寺でした。建築物は戦争と、長年手入れしなかったことで壊れてしまいました。敦煌の壁画は唐の時代の前後、少しずつ描かれたのです。絵の中に天上の光景があります。なぜならば、それは佛教の最盛期の時描かれたもので、佛や宗教を信じている人が多くいましたので、多くの人に佛の光景、神の光景が見えました。人間はそれを描きましたが、東洋の絵画の成熟していなかったテクニックの影響によって、西洋の芸術のように、透視関係と体の構造はそれほど成熟で正確ではありませんでした。しかし、一、二千年前にこのような技能があったため、中国の佛教と芸術は悠久の文化の異彩を放っていました。

弟子:師父にお伺いしたいのですが、エジプト、南アメリカのマヤ文化など古代文明は、私たちが認識している佛、道、神との差異が大きいようですが、本当に存在したことがあるのでしょうか?

師:これらの文明は確かに存在したことがあります。彼らが信じていたのは異なる神であり、多くの場合は正神でした。

弟子:師父、天上の神獣についてですが、東方や東方の神の法器は大体どのようなものがあるでしょうか?

師:宇宙の中にどのくらい粒子があるのかを聞いているのと同じです。それはあまりにも多くあります。あまりにも多くあります。どの神も法器を持っており、しかも一つだけではありません。高い次元まで修煉した人は法器も彼の修煉によって出来上がります。例えば、和尚がいつも使っているお茶碗、数珠つなぎの玉、木魚、道のちり払い、剣など皆人間の修煉によって法器になります。僧侶が手にしている玉ですが、毎日それに触りながら佛を念じており、彼の次元の向上に従い、手のエネルギーも強くなるので、毎日毎日触っていると、中に相当なエネルギーが満たされます。玉の本質まで変化が生じ、修煉して成就したら、一粒一粒の玉は皆法器になり、全体の玉はまた一つの法器になります。次元の高い一つ一つの玉の中には一つの世界のように、何でもあります。各種のものが法器になり得るのです。弟子が法を実証する中で、大法を実証する文章を書いている場合、毎日手に取っているあのペンに功徳があるので、将来あなたのペンまで法器になるかもしれません。修煉者が利用したものに一旦功徳が備わるようになったら、法器になるかもしれません。皆さんが法を実証する中で使ったことのある絵筆も同じです。

弟子:師父に彫像のことについてお伺いしたいのですが、ギリシャ、ローマの彫像は見た目は非常に精確のように見えますが、中国の唐の時代の佛像は、かえって人に感動を与えています。ですから、彫像の比例の精確さは人間の神に対する敬慕に影響していないと思います。

師:そうです。佛、神の像の上に佛と神の法身があるから、普通の彫像とは違い、人々を感動させることができます。先ほど私はこのことについてお話したと思います。中国人が写意を、西洋人は表面の表現の正確さを重視しています。これは二つの異なる手法であり、皆人々に感銘を与えることができます。東洋の絵の中の神は人々に感銘を与えることができますが、それは表現しているのが神だからです。もし常人を表現していれば、そうはならないはずです。西洋の絵の中の神は同様に人々に敬慕させることができますが、もし西洋の絵の中に描いたのが常人であれば、人間はそれを見たら感動しません。もし中国画と彫像の技法が西洋の技法と同じく成熟し、正確であれば、更に人々に感動を与え、リアリティがあるのではありませんか? 神の作用があるからといって、成熟ではない、完璧ではない作品を認めてしまうようなことをしてはいけません。完璧の作品に神を加えると、それこそ神聖ということです。

弟子:だからそのテクニックを取るということですか?

師:私が言っているのはただテクニックだけではなく、正統な描き方で描き、できるだけ芸術を完璧にさせるということです。これは自分にとって向上であり、神に対しても敬っているということです。

弟子:(訳文)私はコンピュータでデザインの仕事をしているので、いつもクローズアップの場面を取らなければなりません。例えば、大法弟子または常人をクローブアップします。お伺いしたいのは、創作のときに人間の顔のクローズアップを取ってもよろしいのかということです。このようにしても良いのでしょうか。その基準が何なのかが分かりません。

師:大丈夫ですよ。クローズアップだけでなく、その人間の全部がモデルになれます。ただし、正しい美の基準がなければならず、人間が観念から好きと思っているようなものではありません。

弟子:師父にお伺いしたいのですが、中国の学習者はこの面において私たちより能力があります。つまり、私たちと比べて、彼らは良い訓練を受けました。中国の学習者に何かやっていただけないでしょうか? 中国の学習者は私たちより優れた作品をたくさん創作すべきです。

師:中国大陸の学習者を今はあてにすることができません。今は他でもなく、中国大陸以外の各国の芸術を専門としている大法弟子が行なわなければなりません。もちろん、中国大陸から絵のとても上手な弟子を千人探しだすのも難しくはありません。しかし、あそこに今邪悪な迫害が起きています。

弟子:お伺いしたいのですが、現在の映画、テレビと絵画は伝統の絵画とどういう関係があるのでしょうか?

師:どんなものでも時代の潮流からの影響から離れることができません。ですから、多くのアニメの中で描かれた姿かたちがとても醜いと私は思っています。善を表現している者も善ではありません。その姿かたちから言えば、実は悪なのです。今日皆さんにお話したのはつまり、正念と善と正統の手法を用いて、再び人間の道に戻り、大法弟子は未来の世の人々に道を切り開く時、まず芸術の中の正念を再び手にしなければならないということです。

弟子:絵画の創作と音楽の創作との関係は何でしょうか?

師:皆正念をもって創作すべきです。先ほど音楽を創作する学習者にもお話しました。話したばかりなので、ここでは繰り返しません。彼らにも数時間お話しました。

弟子:師父がおっしゃった善ですが、私は大きいシーンを表現したくはありません。

師:それなら小さいテーマを表現しても良いのです。何でも良いのです。つまり、小さい出来事を表現し、大きな画面ではなく、小さい画面で描きたければ、それでもよろしいです。どのようにしても大丈夫です。

弟子:師父、天龍八部が法を守るというのはどういう光景なのでしょうか?

師:天龍八部が法を守るという言い方は釈迦牟尼が言い出したのです。彼は実は八部の衆生、つまり八つの部分の生命、命のことを言いました。私が皆さんに按排したのは、神兵神将が法を守り、龍もあり、この二部なのです。もちろん、少数の大法弟子に法を守る個別的な情況があります。他の部が法を守る光景を正確に言ってはいけません。なぜならば、他の部の衆生はまだ法が正されている最中におり、残ることができるかどうか、乗り越えられるかどうかは、法が正されてから見るのです。

師:あなたは何回も手を上げました。

弟子:大法の題材は本当にたくさんあって、この数年来、大法は天地を驚愕させたということを言いたいのです。

師:そうです。

弟子:ですから、いつも感動しており、大法の題材が本当に豊富で、人々を感動させています。大法弟子の芸術家として、この責任があり、私たちは行なうべきことをやり遂げるべきです。もちろん、本当に描こうと思うときに、難しいところも少なくはありません。今日師父のご説明をお聞きして、多くのことの方向性が既に出てきたと感じました。ここである具体的なことについてお伺いしたいのですが、絵画展示会の責任者は重大な題材を全体から協調することを希望します。私たちの構想の中で描きたい題材が多くあって、皆とても重要なのです。

師:あなたが言った協調はとても重要です。考えがたくさん湧いてきた人が簡単に絵の下書きを描いて、能力のある人に描いてもらえば良いのです。その人はもう構想する必要はありません。このように行なってもとても良いのです。

弟子:とても良い構想と考えのある大法弟子がいますが、良い技能を持っていません。大法弟子が作ったラジオ、テレビ局のように、情報、資料、構想と技能を一緒に共有したほうが良いのです。とても重要な題材の質を守らなければなりません。大法弟子の初めての展示会は本当に私たち大法弟子のレベルを表わさなければなりません。ですから、大きい作品も小さい作品も皆良いと思いますが、あまりに大きい作品はちょっと難しいと感じました。例えば、私は良い構想があって、技能においてある程度のレベルに達することができますが、見えないものがたくさんあって、またはどのように描けば良いのか分からないものがたくさんあるので、お互いに合わせたほうが良いのです。

師:そうです。構想を二人の学習者に担当してもらって、構想した図を描ける人に描いてもらえば、構想にかかる時間を節約することができます。基本的に非常に簡単な構想で良いのです。皆さんは皆技能と能力を持っているので、それをやり遂げることができます。この考え方はとても積極的だと思います。

 このくらいにしましょう。残ったこと、つまり更に具体的なことは、皆さんでそれを按排しましょう。どのように大法弟子としての道を切り開くのか、皆さんが今日行なった如何なることも極めて重要なことです。皆さんが良くやり遂げたならば、人類がそれを見習いますが、また良くやり遂げなくても、人類もそれを見習うのです。ですから、大法弟子は必ずしっかり行なわなければなりません。皆さんの失敗した作品、正しくない作品を公開してはいけません。なぜならば、人類に対して影響があるからです。正統の手法で描くだけではなく、良いもの、善のもの、大法と神を謳うものを表現し、同時にテクニックにおいてもある程度のレベルに達し、正統な芸術のレベルを出してください。(拍手)





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