法 輪 功


第一章 概 論


 気功は我が国において、太古の昔からの悠久の歴史があり、そのため、我が国の人々は気功を修煉するのに、とりわけ恵まれた環境にあります。正法修煉として、佛・道二大系統の気功は、すでに多くの秘伝大法を世に公開しました。道家の修煉方法は非常に独特ですが、佛家にも独自の修煉方法があります。法輪功はほかでもなく佛家気功の高い次元における修煉大法です。講習会では、わたしはまず皆さんの身体を、高い次元を目指して修煉できるような状態に調整してあげます。それから皆さんの身体に法輪と気機を植え付け、そのうえで皆さんに功法をお教えします。この他に、わたしには皆さんを守る法身もあります。しかし、功を伸ばす目的を達成するには、それでもまだ足りません。皆さんには高い次元における修煉の道理をも理解してもらわなければなりません。それが本書が語ろうとする内容なのです。
 わたしは高い次元で功を講義しますので、どの脈、どのツボ、どの経絡を修煉するのかは語りません。わたしが述べようとするのは修煉大法のことで、本当に高い次元を目指して修煉する大法のことです。初めは摩訶不思議のように聞こえるかもしれませんが、気功修煉に志のある人は、注意深く悟ろうとさえすれば、あらゆる奥義がおのずと見えてくるのです。

 一、気功の源流


 われわれが現在気功と言っているものは、そもそも気功とは呼びませんでした。それは中国古代人の単独修煉、または宗教の修煉に由来しています。『丹経』や『道蔵』、『大蔵経』を全てつぶさに調べてみても、「気功」という二文字は見あたりません。現在の人類文明は現段階の発展してきた過程において、原始宗教の時期を経ました。宗教が生まれる前に、気功はすでに存在していましたが、宗教が現れてから、それはある程度の宗教色を帯びるようになりました。それの本来の名前は修佛大法や修道大法でした。その他にも、九転金丹術、羅漢法、金剛禅などの類いの名前も持っていました。われわれが現在それを「気功」と呼んでいるのは、現代人の意識によりよく合わせるためであり、社会で普及しやすいようにするためであって、実際はそれは、我が中国における正真正銘の人体修煉のものなのです。
 気功は今期人類文明が発明したものではなく、かなり悠久の歴史を持っています。では気功はいつ頃生まれたのでしょうか? 気功はすでに三千年の歴史を有し、唐の時代には最盛期に達していたと言う人もいれば、五千年の歴史を持ち、中華民族の文化と同じように悠久だと言う人もいます。あるいは、出土した文物から見て、七千年の歴史を持っていると言う人もいますが、実は気功は現代人類が発明したものではなく、先史文化なのです。功能を持つ人が調べたところによれば、われわれが暮らしているこの宇宙は九回の爆発を経た後にできあがったものだといいます。われわれがいるこの天体はすでに度重なる壊滅に見舞われてきました。天体が新たに組み合わされてから、人類も新たに発生するようになります。今、われわれはすでに、現代文明を超える多くのものを発見しています。ダーウィンの進化論に従えば、人類は猿から進化してきたので、文明はたかだか一万年を超えていないはずです。ところが、出土した文物から、ヨーロッパのアルプス山脈の洞窟で、二十五万年前の壁画が見つかりました。その芸術的鑑賞価値の高さは、現代人も及ばないものです。また、ペルー国立大学の博物館にひとつの大きな石があり、その石には、望遠鏡を手にして天体を観察する人が刻まれています。この彫刻は三万年も前のものです。皆さんもご存じのように、ガリレオが一六〇九年に三十倍の天体望遠鏡を発明してから今日まで、せいぜい三百年余りの歴史しかないのに、三万年も前にどうして望遠鏡などありえたのでしょうか? インドには、鉄の純度が九十九パーセント以上に達している鉄の棒があります。現在の冶金技術をもってしてもこれほど純度の高い鉄を精錬することはできません。そのレベルはすでに現在の技術水準を上回っていました。誰がこのような文明を創り出したのでしょうか? 人類はその頃はもしかするとまだ微生物に過ぎなかったのに、どうしてこのようなものを作り出すことができたのでしょうか? これらのものの発見は、世界各国の科学者の注目を集めました。ただ、解釈のしようがないので、「先史文化」と呼ばれることになりました。
 それぞれの時期の科学水準はいずれも異なっていました。われわれ現代人類の水準を上回る、相当高い時期もありましたが、その文明は壊滅しました。わたしが、気功はわれわれ現代人の発明でも、現代人が作り出したものでもなく、現代人がそれを発見し改善したに過ぎず、本来は先史文化だ、と言っているのはそのためです。
 気功は我が国独特のものではなく、外国にもあります。しかし彼らはそれを気功とは言わず、アメリカやイギリスなどの西洋諸国では魔術と呼んでいます。アメリカに、実際は超能力のマスターである魔術師がいて、万里の長城の壁を通り抜けるパフォーマンスを披露しました。通り抜ける時、彼は白い布をかぶり、自分を壁にくっつけるようにしてから通り抜けたのです。どうして彼はこんなことをしなければならなかったのでしょうか? こうすれば、魔術に見えるからです。彼はそうせざるを得ませんでした。彼はわれわれ中国にレベルの高い人がたくさんいるのを知っており、妨げられるのを恐れたので、自分を隠してから入らなければなりませんでした。出てくるときは、片手を伸ばして、布を突き上げてから出てきたのです。「玄人は肝所を見、素人はうわべを見る」、こうすれば観衆は彼が魔術をやっていると思うのです。彼らがこれらの功能を魔術と呼ぶのは、それを用いて身体を修煉するのではなく、舞台でパフォーマンスをやって人を驚かせ喜ばせるからです。したがって、低い次元から言えば、気功は人間の身体の状態を変え、病気治療と健康増進の目的を達しますが、高い次元から言えば、気功は本体を修煉することを意味するのです。

 二、気と功


 われわれが現在「気」と呼んでいるものを、古代人は「チー」と称していました。本質は同じで、いずれも宇宙の気を指し、宇宙の中の姿かたちのない物質を指しています。それは空気の気を意味しているのではありません。人体は修煉を通して、この物質のエネルギーを活かせば、人体の状況を変え、病気治療と健康増進に至らすことができます。しかし、気は気にほかならず、あなたに気があれば、ほかの人にも気があり、気と気の間に制約作用はありません。気で病気治療ができる、あるいは誰それに向かって気を発して、その人の病気を治すと言う人がいますが、これらの言い方はきわめて非科学的です。なぜなら気はまったく病気の治療に役に立たないからです。煉功者の身体にまだ気がある間は、その人の身体はまだ乳白体になっておらず、まだ病気があるということを意味します。
 煉功の高い次元に達する人から発せられるのは、気ではなく、高エネルギーの固まりであり、光のかたちで現れる高エネルギー物質であり、粒子は非常に細かく、密度が非常に高いものです。これが功で、この時になってはじめて常人に制約作用を持つことができ、人の病気を治療することができるようになります。「佛光が普く照らし、礼儀が圓明となる」という言葉がありますが、正法修煉者の場合は、身体に持つエネルギーがきわめて大きいので、彼の通過するところ、彼のエネルギーの届く範囲内で、一切の不正常な状態を正常な状態に正すことができる、ということを意味しています。たとえば人の身体に病気があるというのは、身体に不正常な状態があるということであり、その状態を正せば、病気も消えることになります。分かりやすく言えば、功とはエネルギーのことです。功は物質性を持っており、煉功者は修煉を通して、その客観的な存在を実際に体感することができます。
 

 三、功力と功能


(一) 功力は心性の修煉によって得るものである
 本当に人間の功力の次元を決める功は「煉」によって得るものではなく、「徳」という物質から転化され、心性を修めることによって得られるものです。この転化の過程は常人が想像するような「鼎を立て竈を設け、薬を採集し、丹を煉る」ことによって得られるものでもありません。われわれの言う功は、体外で生まれ、人体の下半身から始まって、心性の向上に従って螺旋状に伸びていくもので、完全に体外で形成され、それから頭のてっぺんで功柱をなすものです。功柱の高さがその人の功の高さを決めます。功柱は非常に見えにくい空間にあるものなので、一般の人には簡単には見えません。
 功能は功力によって加持されるものであり、功力が高く、次元が高い人なら功能も大きく、使い勝手も自由自在、功力の低い人なら功能も小さく、使い勝手も思う通りにいかず、あるいはまったく使えないことすらあります。功能自体はその人の功力の大きさや次元の高さを表すものではありません。人の次元の高さを決めるのは功力であって功能ではないのです。「鍵を掛けられて」修煉している人もおり、功力が非常に高くても、功能は必ずしもそれほど持っているとは限りません。功力は決定的な役割を果たすものであって、心性の修煉によって得られるものですが、これこそがもっとも肝要なものなのです。
 
(二) 功能は煉功者の求めるものではない
 すべての煉功者は功能に関心を寄せており、神通力は社会で非常に誘惑力がありますので、多くの人は何らかの功能を身につけたがります。しかし、心性が良くなければ、こうした功能は身に付くわけがありません。
 一部の功能、たとえば天目が開く、天耳が通じる、テレパシーが使える、予測する、などの功能は、常人でも持ちうるものです。しかしこれらの功能は人によって異なり、漸悟状態にいる間はすべて所持することはありえません。一部の功能は常人が持ちえないものであり、たとえば現実空間の物体を別の種類の物体に転換させるなどは、常人にできないことです。大功能は、修煉によって後天的に得られるものです。法輪功は宇宙の原理に従って演化してきたものなので、宇宙に存在する功能は法輪功にすべて備わっており、煉功者がいかに修煉するかにかかっています。何らかの功能を身につけたいと思うことは、間違っているとは言えません。しかし、過度に追求しすぎると、普通の考え方ではなくなり、良くない結果を招きかねません。低い次元で功能を得てもあまり用いるところがありません。しょせんそれを披露し、常人の前で腕をひけらかして、常人の中の強者になりたがるだけです。もしそうならば、まさに心性が高くないということですので、当然功能を与えてあげるわけにはいきません。一部の功能は、もし心性の良くない人に与えれば、悪事を働くのに用いられてしまいます。心性がしっかりしていなければ、悪事を働かないという保証がないからです。
 一方、およそパフォーマンス用に表に出せる功能は、どれも人類社会を変えるのに用いることができず、正常な社会生活を変えることができません。本当の高い功能は、影響と危険が大きいので、パフォーマンスに用いてはいけません。建物をパフォーマンスで倒してはならないのと同じです。特別大きな功能に関しては、特殊な使命を負っている人なら使わせてもらえますが、さもなければ使用することが許されず、表に出せるわけもありません。師によって制御されているからです。
 しかし常人のなかに、是が非でも気功師に腕を披露させ、強引に実演させる人がどうしてもいます。功能のある人は皆、功能をみせびらかそうとはしません。それは公に持ち出してはならないものであり、公に持ち出すと社会全体の状態に影響を及ぼしかねないものだからです。本当の大徳の人の場合、彼の功能は公に持ち出すことが許されません。嫌々ながら実演させられて、家に戻ると泣かんばかりに悔しがる気功師がいます。彼らに実演を強要しないでいただきたいのです! 彼らにとってそういうものを持ち出すのは非常に辛いことなのです。ある時、ある学習者が雑誌を持ってきたのですが、それを読んでわたしは非常に反感を覚えました。それにはおおよそこんなことが書いてありました。国際気功会議を開催するので、功能のある者は試合に参加してほしい。功能の強い者を募る、と言うのです。それを見てから、わたしは何日も気分がよくありませんでした。そういうものは試合に用いてはいけないもので、用いると必ず後悔することになります。常人というものは、世間の現実のものを重んじますが、気功師は自重しなければなりません。
 功能を求める目的は何でしょうか? 煉功者の思想境地と煉功者が何を追求しているかがそこに表れています。心のなかで求めるものが不純であったり、危ういものであったりすると、高い功能を得ることはありえません。それにはわけがあります。つまりまだ悟りを開かないうちは、あなたに見えた物事の善し悪しは、世間法の善悪の基準に基づいているものであって、物事の真相も因縁関係もあなたには見えません。人と人との間の喧嘩やいじめには、必ず因縁関係があるのですが、それが見えなければ、あなたはかえって相手にとってありがた迷惑なことをしてしまうことになります。常人の間のいざこざや善し悪しは、世間の法に任せればよいのであって、煉功者が口を出すものではありません。悟りを開く前に、あなたに見えた物事の真相は必ずしも見えたとおりのものとは限りません。誰かが誰かを一発殴った場合は、もしかすると彼らの間で「業」を清算しているのかもしれません。ですからあなたが口を出すと、彼らの間の「業」の清算を邪魔してしまうことになるかもしれません。「業」は、身体のまわりにある黒いもので、別の空間の物質的存在です。それは病気や災いに転化されることがあります。
 功能は誰にでもあります。問題は絶え間ない修煉によってそれを開発し、強化することです。煉功者として、もし功能ばかり求めるならば、それは近視眼的で、思想が不純ということになります。功能を求めれば、それがどんな目的であれ、そのなかに必ず私心が含まれており、間違いなく煉功を妨げます。そうなれば結局、功能が得られないことになります。
 
(三) 功力の制御
   煉功者のなかに、それほど煉功もしていないのに、本当に効くかどうか確かめたいがために、人の病気を治そうとする人がいます。功力の高くない人の場合は、手を出してちょっとやってみただけで、患者の体内のおびただしい黒い気や病の気、濁った気を自らの身体に取り込んでしまいます。あなたには病の気を防御する能力はなく、身体に防御の覆いができているわけでもないので、患者と一つの場を形成してしまいます。功力が高くなければ防御することができず、自分が非常に辛い思いをします。もし見守ってくれる人がいなければ、時間が経つと、体中病気だらけになってしまいます。つまり、功力の高くない人は、他人のために病気治療を行ってはいけません。すでに功能を備え、一定の功力を持っていてはじめて、気功で病気治療をすることができるのです。一部の人は功能を備え、病気治療をすることができますが、非常に低い次元にいる間は、実際は蓄えていた功力で、自分自身のエネルギーで病気治療を行っているのです。なぜなら功はエネルギーであり、霊体にほかならず、ちょっとやそっとで蓄えられるものではないからです。この功を体外に出すということは、自分を消耗していることにほかなりません。体外に功を発するにつれて、あなたの頭上の功柱の高さが縮み、消耗されていきますので、これは非常に割の合わないことです。ですからわたしは、功力が高くないときに人のために病気治療をすることをお勧めしません。あなたがたとえどんなに腕が良いとしても、自分自身のエネルギーを消耗しているに過ぎません。
 功力が一定のレベルに達すると、さまざまな功能が現れてきますが、これらの功能を如何に用いればよいかについては、非常に慎重を要することです。たとえば天目が開いた場合は、見ないわけにもいきませんし、ずっと用いなければ、閉じてしまいかねません。ただ、見るにしてもしょっちゅう見てはいけません。過度に見るとエネルギーもそれだけ多く漏れてしまいます。それでは、皆さんに永遠に用いないようにと言っているのかというと、もちろんそうではありません。もし永遠に用いないのであれば何のために修煉するのでしょうか? 問題はどんなときに用いるかにあります。修煉が一定のレベルに達し、自分で補う能力が備わったときには、用いても大丈夫です。法輪功では修煉が一定のレベルに達すれば、放出された功の分だけ、法輪が自動的に演化してそれを補い、自動的に煉功者の功力の水準を保ってくれるので、一時たりとも減ることはありません。これが法輪功の特徴です。このときになってはじめて、功能を用いることができます。
 

 四、天目


(一)天目を開く
 天目の主要通路は、額の真ん中と山根との間にあります。常人が肉眼で物を見るのは、カメラの原理と同じで、距離の遠近と光線の強弱によって、ガラス体あるいは瞳孔の大きさを調節し、神経細胞を通して画像を大脳後半部の松果体に送り、そこで顕現させます。特異功能による透視というのは、松果体が天目を通じて直接外を見るようにすることです。一般の人は天目が開いておらず、主要通路上の隙間は非常に狭くて黒く、中に霊気もなく、光もありません。人によっては塞がっているため見えない場合もあります。
 われわれの言う「天目を開く」とは、一つには、外力あるいは自分の修煉によって通路を開かせることです。通路の形は一人一人異なり、楕円形であったり、円形、菱形、三角形であったりしますが、修煉が進むにつれて丸くなります。二つには、師が目を与えてくれることです。自分で修煉する場合は自分でその目を修煉しなければなりません。三つには、天目の部位に精華の気がなければならないことです。
 通常われわれは両目で物を見ていますが、まさにこの両目がわれわれの他の空間への通路を遮断しています。それは障壁となって、われわれがこの物質空間の物しか見えないようにしています。天目を開くというのは、この両目を避けて見ることにほかなりません。非常に高い次元に到達すれば、修煉によって真眼を得ることができますが、そうなれば天目の真眼あるいは山根のあたりの真眼で見ることができるようになります。佛家の言い方に従えば、どの毛穴も目であり、全身が目ですし、道家の言い方に従えば、どのツボも目だということになります。しかし主要通路は天目にあり、まずそれを開かなければなりません。講習会で、わたしは全員に天目を開くためのものを授けました。一人一人の身体の素質が異なるため、現れる効果も違います。深い井戸のような真っ暗なトンネルを見た人がいますが、それは天目の通路が黒いということです。白い通路を見た人がいますが、もしその先に物が見えた場合は、いよいよ開かれようとしているということです。何かが回転しているのを見た人がいますが、それはほかでもなく師が授けてくれた天目を開くためのものであり、天目が開削され貫通すれば、それで見ることができるようになるのです。また、天目を通して大きな目が見え、それを佛眼だと思った人がいますが、実際は自分自身の目なのです。これは普通、先天の根基が比較的良い人の場合です。
 われわれの統計によれば、どの講習会でも天目が開いた人は半数以上に上ります。天目が開いたあと、心性の高くない人がそれを使って悪いことをしかねない、という問題が起きてきます。ですからこれを防ぐために、わたしは皆さんの天目を直接慧眼通の次元まで開かせています。つまり高い次元まで開かせて、直接他の空間の様相や、煉功中に現れてくるものが見えるようにしてあげるのです。そうすれば皆さんはそれを信じて、煉功への自信を強めるようになります。煉功を始めたばかりの人は、心性がまだ常人を超える高さまで至っていないため、いったん常人を超えるものを手にすると、良くないことをしかねません。たとえば冗談ですが、もしあなたが町を歩いていて宝くじを見かけたとしたら、一等賞はあなたにとられてしまうかもしれません。たとえばこういうことが起こりうるのですが、こんなことは許されません。もう一つの理由として、われわれはここで広範囲にわたって天目を開かせているのですが、もし低い次元に開かせてしまえば、考えてごらんなさい、誰でも人体を透視でき、壁を隔てて物を見ることができるようになります。そのようなものを人類社会といえるでしょうか? そんなことをすれば、常人社会の状態を甚だしく混乱させることになりますので、許されません。しかもそれでは煉功者にとってためになるところがなく、煉功者の執着心を助長するだけです。ですから低い次元に開かせずに、直接高い次元まで開かせてあげるのです。
 
(二)天目の次元
 天目にはさまざまな次元があります。次元が違えば、見える空間も異なります。仏教の言い方に従えば、「五通」、つまり「肉眼通」、「天眼通」、「慧眼通」、「法眼通」、「佛眼通」があり、どの次元にもさらに、上、中、下の区別があります。天眼通以下の次元では、われわれのこの物質世界しか見えません。慧眼通以上の次元に達してはじめて、他の空間が見えます。透視功能を持ち、CTスキャンよりもきれいに、しかも非常に正確に見ることのできる人がいますが、その人に見えたのは、相変わらずわれわれのこの物質世界なのです。つまり、われわれが存在するこの空間を超えてはおらず、天目の高い次元だとは言えません。
 人の天目の次元の高さは、その人の持っている精華の気の量と主要通路の広さ、明るさおよび通路の塞がりぐあいによって決まります。天目がきれいに開くかどうかは、内部の精華の気が肝心な要素となります。六歳以下の子供にとって、天目を開くのはいたって簡単なことで、わたしが何もせずとも、一言言えば開きます。子供は先天的に物質世界の良くない影響をほとんど受けておらず、自分でも何も悪いことをしていないため、その先天の精華の気が非常によく保存されているからです。六歳以上の子供になりますと、天目がだんだん開きにくくなります。年齢の伸びとともに、外界の影響も多く受けるようになったからです。とりわけ良くない後天の教育や放縦などはいずれもその人の精華の気を散逸させることになり、ある程度に達すると、散逸し尽くすかもしれません。精華の気が散逸し尽くした人は、後天の煉功によって徐々にそれらを補うことができますが、非常に長い時間がかかり、たいへん苦労することになります。このように、精華の気はきわめて貴重なものなのです。
 わたしは人の天目を天眼通の次元に開かせるのに反対です。なぜなら、煉功者の功力が大きくないときは、透視をするのに必要なエネルギーが煉功の間に蓄えたエネルギーより多いからです。霊気が散逸しすぎると、天目が再び閉じてしまいかねません。いったん閉じると再び開くのが難しくなります。ですからわたしは普通、人の天目を慧眼通の次元まで開かせるのです。きれいに見えるかどうかは別として、ともかく修煉者は他の空間のものが見えるようになります。先天的な条件によって、とてもきれいに見える人もいれば、ちらちらとしか見えない人もおり、はっきり見えない人もいますが、少なくとも光が見えるようにはしてあげられます。こうすれば、煉功者は高い次元へ向けて進みやすくなります。もし、きれいに見えなければ煉功を通して後天的に補っていけばよいのです。
 精華の気が足りない人の場合、天目で見た光景は白黒であるのに対して、精華の気の比較的多い人の場合は、天目で見た光景はカラーであり、見えた光景もいっそう鮮明になります。精華の気が多ければ多いほど、鮮明度が高まります。しかし、人によってそれぞれ違います。天目が生まれつき開いている人もいれば、固く塞がっている人もいます。天目が開くときの光景は、あたかも花が咲くように、一重ずつ開くのです。坐禅をしているとき、まず天目に光の束があるのに気がつきます。初めはあまり明るくありませんが、その後次第に赤くなります。天目が固く閉ざされている人の場合は、開く際に激しい反応が起きることがあります。主要通路と山根のあたりの筋肉がぎゅっと収縮し、まるでそこの肉が一つに固まって中へ押し入ろうとしているかのようです。それからこめかみと額が張り、痛み出すのですが、これらはいずれも天目を開くときの反応です。天目が容易に開く人は、偶然に何かが見えることがあります。講習会で無意識のうちにわたしの法身を見た人がいますが、意識的に見ようとすると消えてしまいます。実はそれは目で見たからです。目を閉じているときに何かが見えた場合は、そのままの状態を保っていてください。次第にきれいに見えるようになります。ところが、はっきり見ようと意識してしまえば、目を働かし、視神経を通したことになりますので、見えなくなってしまいます。
 天目の次元が違えば見える空間も異なるのですが、この道理を理解していない科学研究機関があるため、一部の気功テストが予期された効果を得られず、さらには逆の結果を招いてしまうこともあります。たとえばある機関が特異功能を測定する方法を考案して、密封した箱の中に何が入っているのか気功師に当ててもらったのですが、気功師の天目の次元が異なっていたため、結果もまちまちでした。そこで、テストをした人は、天目なんて嘘で、人を騙すものだと思い込みました。このようなテストでは、往々にして天目の次元の低い人が透視で良い結果を出せます。なぜならその人の天目は天眼通の次元にとどまっており、物質空間の物事を見ることにしか向いていないからです。それで天目の分からない人は、その人の功能が最高だと思ってしまいます。どんな物体でも、それが有機物であれ無機物であれ、異なる空間では異なる様相を呈するのです。たとえば一つのコップでも、それが作り出されたときに、すでに一体の霊体が他の空間に同時に存在しています。しかもこの霊体はそこに現れる以前は別のものだった可能性もあります。天目のもっとも低い次元で見えるのはコップですが、一つ上の次元で見えるのは他の空間のその霊体であり、さらに高い次元から見えるのはその霊体より以前の物質形式です。
 
(三) 遠隔透視
 天目が開いたあと、遠隔透視ができるようになる人がおり、千里隔たった遙か遠い空間の物が見えるのです。人はそれぞれ自分の占める空間があり、その空間においてその人は宇宙のような大きさをしています。そしてその特定の空間では、その人の額にわれわれのこの空間では見えない一枚の鏡があります。この鏡は誰でも持っているのですが、ただ煉功しない人の場合、裏返しになっています。ところが、煉功する人の場合はこの鏡が次第に表向きになり、彼が見ようとする物を照らし出すことができます。その人の特定の空間では、その人はかなり大きいのです。体が大きければ、この鏡も非常に大きく、見たい物を何でも照らし出せます。しかし照らし出せてもまだ見えません。画像は鏡にしばしとどまります。鏡は回転するので、照らし出した物体をちらっと見せては裏返し、そしてまたすばやく裏返すというように、繰り返し反転します。映画のフィルムは一秒二十四コマで連続した動作を映し出せますが、鏡の反転の速度はそれよりも速いので、見た目ではつながっており、非常にきれいに見えます。これが遠隔透視です。遠隔透視の道理はこんなにも簡単なものなのです。これらはみな秘密の中の秘密ですが、わたしは二言三言でそれを明らかにしました。
 
(四)空間
 空間は、われわれには非常に複雑なものに映ります。われわれ人類は人類が現在存在する空間しか知らず、その他の空間についてはまだ探り出す手だてがありませんが、われわれ気功師はすでに数十次元もの空間を見ました。理論の上でもそれを説明できます。しかし科学ではまだそれを証明することができません。一部のものはあなたがその存在を認めなくても、すでにまぎれもなくわれわれの空間に反映されてきました。たとえば、世界にバミューダ群島というところがあり、魔の三角地帯と呼ばれています。船がそこへ行くと行方不明になり、飛行機がそこへ行くと消えてしまいますが、数年後再び現れてきます。誰もその原因を説明できませんし、現人類の思考論理を超えることもできません。実はそれはほかでもなく他の空間への通路なのです。そこにはわれわれの門のようなきちんとした門があるわけではなく、陰陽がくいちがえばそういう状態になるのです。ですから、ちょうど陰陽のくいちがいにより門が間違って開いているときに船が出くわしてしまえば、簡単に入ってしまいます。人間はこの空間の差を感じられないので、一瞬のうちに入ってしまうのです。それとわれわれの時空との差は、距離で表すことができません。十万八千里のような距離は、そこではほんのわずかなもので、同じ時間、同じ空間に存在しています。船が入ってしばらくゆらゆらすると、陰陽のくいちがいによりまた出てきます。しかしこの世ではすでに数十年が過ぎ去っています。二つの空間の時間が異なるからです。どの空間にもさらに単元世界があります。あたかもわれわれの描く原子の構造図のように、一つの球に一本の連結線があり、どこまでも球がつながり、どこにも連結線がありますので、きわめて複雑です。
 第二次世界大戦の四年前に、イギリス空軍のあるパイロットが任務遂行中に、暴風雨に出会いましたが、日頃の経験に頼って廃棄された空港を見つけました。空港が目の前に現れたとき、突然、空一面雲ひとつないというまったく違う光景が現れ、まるで別の世界から抜け出してきたかのようでした。空港にある飛行機はすでに黄色に塗り上げられ、地面では人々が忙しく動き回っていました。彼は非常に不思議に思いました。着陸してからも誰もかまってくれる人がいないし、管制塔も彼と交信しようとしません。空も晴れてきたのでさあ帰ろうかと、彼はまた飛び立ちました。空港を飛び去って、先ほど空港が見えたあたりに来ると、またもや暴風雨の中に飛び込みましたが、結局なんとか帰ることができました。彼は一部始終を報告し、飛行記録も書きましたが、上司は信じてくれません。四年後、第二次世界大戦が勃発し、彼はその廃棄された空港へ配置転換されたのですが、たちまち四年前の光景が思い出され、目の前のとそっくりだったということに気がつきました。われわれ気功師にはこれがどういうことなのかよく分かります。彼は四年後のことを先んじて一通りしてきたにほかなりません。時間に先んじてそこへ行って一幕を演じてきたわけで、第一幕がまだ始まらないうちに先に一幕を演じてきて、それから戻って順番通りに演じるわけです。
 

 五、気功治療と病院治療


 理論から言って、気功治療と病院治療とはまったく違います。西洋医が病気を治療する際に用いるのは、化学検査であれレントゲン検査であれ、常人社会の手法ですので、この空間における病の様相しか観察することができず、他の空間の信息を見ることも、発病の原因の所在を見ることもできません。もしその病気が比較的軽ければ、薬物で病原(西洋医で言う病毒、気功で言う業)を殺したり追い払ったりできます。しかし、病気が重い場合、薬物が役に立たなくなり、薬物の量を増やせば患者が耐えられなくなります。なぜなら病気というのは、全部が全部世間法の枠にとどまっているものではなく、一部の病気はかなり重く、世間法の範囲を超えており、病院では治療できないからです。
 漢方は、我が国伝統の医学であり、人体の修煉や特異功能と一体となっています。古代では人体の修煉を非常に重視し、儒家をはじめ道家、佛家、さらには儒学生までも坐禅を重んじていました。坐禅は一種の功夫であり、煉功をしていなくても、時間が経つうちに、功と功能をもつようになります。漢方の鍼灸はなぜ人体の経絡についてあれほどはっきり分かっているのでしょうか? ツボとツボがなぜ横につながらないのか? なぜ交錯してつながらないのか? なぜ縦につながっているのか? どうしてあんなに正確に描かれているのでしょうか? 現代の特異功能をもつ者が目で見たものと漢方が描いたものとは一致していますが、それは古代の名医がたいてい特異功能をもっていたからです。我が国の歴史上における李時珍をはじめ、孫思バク、扁鵲、華佗などは、実はみんな特異功能をもつ気功大師でした。漢方は今日まで伝えられてくる間に、功能の部分を失い、手法のみが残りました。昔、漢方は目(特異功能を含む)で診察を行なっていましたが、その後、脈を見る方法が考案されました。もし漢方の治療方法に特異功能の方法が加われば、あと何年経とうと西洋の医学は中国の漢方に追いつけません。
 気功による治療とは、根本から発病の原因を取り除くことです。わたしに言わせれば、病気とは一種の「業」であり、それを治療するのは、業を消す手助けをすることにほかなりません。病気の治療に際して黒い気を追い出すことを重んじる気功師がおり、気の排出と補給により、ごく浅い次元では黒い気を追い出すことができたとしても、彼には黒い気を生み出す根本的な原因が分かりません。ですから黒い気が再び戻り、病気が再発します。実は、黒い気が発病の原因ではなく、黒い気がその人に苦痛を与えているだけです。その人に発病させている根本的な原因は、他の空間に霊体があるからです。多くの気功師はこのことが分かりません。その霊体が非常に手強いものなので、普通それにはさわれませんし、さわる勇気もありません。法輪功は病気を治療するとき、その霊体に照準を定めて、発病の根本原因となるものを取り除き、しかも病気のあった部位に覆いをかけ、病が再び侵入しないようにするのです。
 気功は病気を治療することができます。しかし、常人社会の状態を撹乱するわけにはいきません。もし広範囲にわたってそれを用いれば、常人社会の状態を撹乱することになります。そんなことは許されませんし、良い効果も得られません。皆さんが知っているように、およそ気功診療所や、気功病院、気功リハビリセンターを開設する場合、開設されるまでは治療効果がけっこう悪くないかもしれませんが、いったん開業して病気治療を始めると、効果ががたっと落ちてしまいます。つまり、超常の法で常人社会の職能を代行することは許されないということです。そういうことをすれば、間違いなく常人社会の法と同じ低さになりさがります。
 特異功能で人体を透視する場合、スライスするように、一つ一つの断面を見ることができ、軟体組織や身体のいかなる部位をも見ることができます。現在のCTスキャンは、はっきり見ることができますが、しかしそれはなんといっても機械を使っており、非常に時間がかかります。多くのフィルムを使いますし、時間もお金もかかります。人間の特異功能はそれに比べて便利であり、正確です。気功師は目を閉じてちらっと見ただけで、患者のいかなる部位をも直接見ることができます。これは、現代の科学技術よりも進んだ高度な科学技術だといえませんか? しかし、実は中国の古代ですでにこのような水準に達しておりました。つまり、これは古代からあった高度な科学技術なのです。華佗は曹操の頭のなかに腫瘍があるのが見えて、手術をしてあげようとしました。曹操はそれを受け入れることができず、自分を殺害しようとしているのだと思いこみ、華佗を捕まえましたが、結局曹操は脳の腫瘍で亡くなりました。歴史上の多くの偉大な漢方医にはみな特異功能がありましたが、現代社会では人々が過度に現実のものを求めているために、古い伝統が忘却されているだけです。
 われわれの高い次元における気功修煉は、伝統的なものを改めて認識し、再び人類社会に幸福をもたらすように、実践においてそれを継承し、広めていこうとすることです。
 

 六、佛家気功と佛教


 われわれが佛家気功と言うと、多くの人がすぐに、佛家が佛道を修めるものだというように連想し、佛教の中のことを思い浮かべます。しかし、ここではっきり断っておきますが、法輪功は佛家気功であり、正伝大法であって、佛教とはかかわりがありません。佛家気功は佛家気功であり、佛教は佛教です。修煉の目的は同じですが、歩む道は違いますし、同じ法門ではなく、要求も異なります。ここで「佛」という字に触れておきましょう。高い次元で功を説くときに再びこれに触れることになるのですが、それ自身には何も迷信的な色彩はありません。「佛」と聞けば大騒ぎし、あなたが迷信を宣伝していると責める人がいますが、そんなことはありません。「佛(フォー)」はもともと梵語で、インドから伝わってきたものであり、「佛陀(フォートゥー)」(Buddha)という音訳の二文字でしたが、「陀」が省略されて、「佛」になりました。中国語に翻訳すれば、「覚者」、すなわち悟りを開いた人ということになります(『辞海』)。
 
(一)佛家気功
 現在伝えられている佛家気功は、二種類あります。一つは佛教から分離したもので、数千年の発展の過程で、多くの高僧を輩出しました。彼らは、修煉によって非常に高い次元まで達したときに、師からなんらかのものを授かって、さらに高い次元の直伝を得ます。これらのものは昔、佛教の中では一人にしか伝えませんでした。高僧がいよいよこの世を去ろうとするときになって、はじめて一人の弟子に伝えるものであり、それは佛教の理論に従って修煉し、全体の向上を目指すものです。たしかにこのような気功は、佛教と密接なつながりがあるように見えます。その後、たとえば「文化大革命」のときに、僧侶たちが寺から追い出されたので、これらの功法は民間に落ち、民間で大いに発展しました。
 もう一つも佛家気功ですが、この佛家気功は歴代において、佛教とかかわりをもったことがなく、ずっと民間あるいは山奥で静かに修煉していました。このような功法には独特なところがあって、いずれも良い弟子、本当に高い次元へ修煉できる大徳をもった人を選ぶのが条件となっています。このような人は、長い間に一人しか現れません。この功法は公にされてはならないものであって、心性に対する要求が高く、功の伸びもきわめて速いのです。このような功法は数多くあります。これは道家も同じであり、同じく道家功でありながら、昆侖派、峨嵋派、武当派などなどの区別があります。どの派にもさらに違う法門があり、どの門の功法も大きく異なっており、混同して修煉してはいけません。
 
(二)佛教
 佛教は二千年あまり前に、釈迦牟尼がインドに本来あった修煉の基礎をふまえて自ら証悟した、修煉方法です。それを概括すれば、「戒・定・慧」の三文字にまとめることができます。「戒」は「定」のためにあります。佛教は煉功を唱えませんが、実際は煉功しており、「定」になってそこに坐ればすなわち煉功です。なぜなら人間が静の状態に入り、入定すれば、宇宙のエネルギーが彼の身体に集まり、煉功の役割を果たすことになるからです。佛教の「戒」は、常人のもつ欲望を断ち、常人が執着するあらゆるものを捨て去ることであり、それによって清静無為の状態に達すれば、「定」に入ることができます。そして、「定」のなかで絶えず次元を高めていくと、悟りを開き、慧を開き、宇宙を認識して、宇宙の真相を見ることになります。
 釈迦牟尼は伝法を始めた頃、一日に三つのことしかしませんでした。説法し(主に羅漢法を伝えた)、弟子に法を聞かせること。鉢(お椀)を持ってお布施を乞う(乞食をする)こと。そして坐禅して実際に修行することの三つです。釈迦牟尼がこの世を去ったあと、バラモン教と佛教の闘いが起こり、結局二つの宗教が一つにまとまって、ヒンズー教となりました。ですから、現在のインドには佛教がありません。その後の発展変遷の中で、大乗佛教が現れました。中国内地に伝わった現在の佛教がそれです。大乗佛教は釈迦牟尼のみを始祖として信仰するのではなく、多佛信仰であり、多くの如来や阿弥陀佛、薬師佛などを信仰します。戒律も増え、修煉の目標も高くなりました。当時、釈迦牟尼が個別の弟子の間に菩薩法を伝えたことがありますが、後にそれらのものが整理され、今日のような菩薩界を修める大乗佛教に発展しました。現在の東南アジアあたりでは、依然小乗佛教の伝統が守られており、神通力によって法事を行っています。佛教の変遷の過程で、一つの流派が我が国のチベットに伝わり、藏密と称されるようになりました。また、新疆を経て漢民族の地域に伝わった流派があり、唐密(会昌年間「滅佛」の後に消失した)と称されています。いま一つの流派は、インドで形成された瑜珈功です。
 佛教では、煉功を唱えず、気功もやりませんが、これは佛教の伝統的な修煉方法を守るためであり、佛教が広まって二千年以上経っても衰えない重要な要因でもあります。外来のものを受け入れなかったからこそ、それ自身の伝統を守りやすかったのです。佛教の修煉方法も完全に同じではありません。小乗佛教が自分自身の済度、自分自身の修煉に重きを置いているのに対して、大乗佛教は自分を済度し、他人も済度し、衆生を普く済度するよう発展してきました。
 

 七、正法と邪法


(一) 旁門左道
 旁門左道は奇門修煉とも言います。宗教が現れる以前に、各気功はすでに存在していました。宗教以外の功法も民間で多く伝わっていますが、それらのほとんどは整った修煉体系を成しておらず、整った理論ももっていません。それに対して奇門修煉法には、系統的で完璧な特殊強化修煉方法があり、同じく民間で伝承されています。この類いの功法は通常、旁門左道と呼ばれます。どうして旁門左道と呼ばれるのでしょうか? 字面から見て、旁門とは別に開かれた門、左道とは不器用という意味です。佛、道両家の修煉法が正法で、その他の功法はみな旁門左道、あるいは邪法と思われていますが、実はそうではありません。旁門左道は歴代、ずっと密かに修煉され、個別に伝承されており、人に見せてはいけないものなのです。ですから、たとえ公にされても、人々はそれをあまり理解できません。彼ら自身もその功法を「佛に非ず道に非ず」と称しています。その修煉方法には心性に対する厳しい要求があり、修煉は宇宙の特性に従って行われており、善を行うことや心性を守ることを重んじます。その中の優れた人は、みな奥の手をもっており、独特の技能にはすごいものがあります。わたしは奇門の優れた人三人に出会い、いくつかのものを伝授してもらいましたが、佛、道両家のどちらにも見られないものでした。これらのものは修煉の過程においていずれもかなり難しく、修煉して得た功も非常に独特なものです。それに対して、現在伝わっている一部のいわゆる佛、道両家の功法の中には、心性への厳しい要求をもたないものがあり、そのために高くへは修煉できません。ですから各家の功法に対しては、弁証的に見なければなりません。
 
(二) 武術気功
 武術気功は長い歴史のなかで形成されたもので、整った理論体系や修煉方法があり、独自の体系を成しています。しかし厳密に言えば、それは内修功法の最も低い次元に顕現した功能の現れです。武術修煉に現れた功能は、内修功法の中でみな現れるのです。武術気功の修煉は、気を練るところから始まります。たとえば石を割るとき、初めは腕を振り回して気を巡らせますが、時間が経てば、気が質的変化を起こして、ある種の光のようなエネルギーの塊を形成します。この程度に達すれば、功は役に立つようになります。なぜなら功は高次物質であり、霊性を帯びているからです。それは大脳思惟の制御を受けますが、他の空間に存在しています。攻撃のとき、気を巡らせるまでもなく、思っただけで功がやってきます。修煉するにつれて、功はますます強化され、粒子が細かくなり、エネルギーが増大して、「鉄砂掌」、「朱砂掌」のような功夫が現れるようになります。映画やテレビ、雑誌では、近年「金鐘罩」、「鉄布衫」の技能が現れましたが、それは武術と内修功法を同時に修めた結果であり、内外兼修によって得られたものです。内修をするには、徳を重んじなければならず、心性を修めなければなりません。理論から言えば、その功夫が一定のレベルに達すると、功が体内から発せられ、体外に打ち放たれますが、密度が高いので、防護の覆いができあがります。理論的に言って、武術気功とわれわれの内修功法との最大の違いは、武術は激しい運動の中で修煉しており、入静が取り入れられていないということです。入静しなければ、気が皮膚の下を走り、筋肉を貫きますが、丹田に入らないので、命を修めませんし、修めることもできません。
 
(三) 返修と借功
 気功をやったことがないのに、一夜のうちに功を得る人がいます。その人はエネルギーがけっこう大きく、他人の病気も治すことができますので、人々から気功師とも呼ばれ、人に教えたりもしています。中には功法を習ったことさえない人もいますし、いくつかの動作を習っただけなのに、それをちょっとアレンジしてすぐ他の人に教える人もいます。このような人は、気功師と称する資格がなく、他人に伝承するものを何ももっていません。彼らの教えているものは、実際に高い次元を目指して修煉することができないもので、せいぜい健康増進と病気治療ぐらいのものに過ぎません。このような功はどのようにして湧いてきたのでしょうか? まず「返修」についてお話しします。返修は、心性がきわめて高く、非常に良い人に見られます。普通は年をとっており、五十歳以上で、一から修煉させるにはもう間に合わず、性命双修の立派な師に出会うこともなかなか容易ではありません。そこで、その人が煉功しようと思いたったとき、上師が彼の心性の基礎に、かなり大きなエネルギーを加え、上から下へと逆方向に修煉させます。これでずいぶん速くなります。上師は空中で演化して、体外から絶えずその人にエネルギーを注ぎます。特にその人が病気治療を行ったり、大勢集めて何かしたりする場合、上師からエネルギーがパイプを流れるように送られてくるのですが、時々自分でもそれがどこから来たのか分かりません。これが返修です。
 もう一つ「借功」というのがあります。借功は年齢に制限がありません。人間は主意識のほかに、副意識もあり、普通は、副意識のほうが主意識より次元が高いのです。副意識の次元がかなり高く、覚者と交流できる人もいますが、このような人が煉功しようとすると、副意識も次元を高めようと思うので、すぐさま大覚者と連絡をとって功を借りてきます。功を貸してもらったら、やはり一夜のうちに功が湧いてきます。功を得てからは同じく人の病気を治すことができますし、患者の苦痛を解いてあげることもできます。このような人は通常、大勢の人を集めて治療活動を行いますが、個別にエネルギーを授けたり、手法を教えたりすることもできます。
 普通、こういう人は、初めはけっこう立派です。ただ、功を身につけると、名声が広がり、名利とも手に入るようになります。そして名利が頭の中で大きな比重を占め、煉功を超えるようになりますと、それ以降功が堕ちはじめ、功がますます減り、しまいには何も残らなくなります。
 
(四) 宇宙語
 突然ある種の言語をしゃべり出す人がいます。けっこう流暢に操るのですが、それは人類社会の言語ではありません。どんな言語でしょうか? それは宇宙語と言います。宇宙語とはいっても、あまり高くはない生命体の言語のひとつに過ぎません。目下国内で気功をやる人のなかに、このような状況が少なからず現れており、いくつもの違う言語を操ることができる人もいます。もちろん、われわれ人類社会の言語もかなり複雑で、一千種類以上あります。宇宙語は功能と言えるのでしょうか? わたしはそうではないと思います。それは自分自身の功能でもなければ、外から与えられた功能でもなく、外来の生命によって制御されているものです。その生命体は比較的次元の高いところ、少なくともわれわれ人類より少し高いところから来ており、ほかでもなくその生命体がしゃべっているのです。宇宙語を口にする人間は単に媒介の役割を果たしているに過ぎません。ほとんどの人は、何をしゃべっているのか自分でも分からず、「他心通」をそなえた人だけが、おおよその意味を感じ取ることができます。功能ではないのに、多くの人が言うものだから、いい気になって大したものだとうぬぼれ、功能だと思い込んでしまいます。実際は、天目の次元の高い人には見えるのですが、その人の斜め上の方におしゃべりをしている生命体がいて、人の口を借りて話しているのです。
 その生命体が人に宇宙語を教え、同時に功も一部伝えますが、しかしその人はそれ以降それに牛耳られてしまうことになるので、これは正法ではありません。その生命体はいくらか高い次元の空間にいるとはいえ、正法修煉ではないので、いかに修煉者に健康増進と病気治療のことを教えていいかが分かりません。ですからこのような方法を用いて、おしゃべりをすることによってエネルギーを放出するのです。このエネルギーは散らかって放射されるので、力が弱く、一部の軽い病気にはある程度効きますが、重い病気には役に立ちません。佛教では天上の人間は苦労がなく、トラブルもないと言われます。そのために修煉ができず、試練を与えてもらえず、次元を向上させることができないので、そこでなんとかして人間の健康増進と病気治療に手を貸すことによって、自分をいくらか高めようとするのです。これが宇宙語です。宇宙語は功能ではなく、気功でもありません。
 
(五) 信息憑き物
 信息憑き物のなかで、危害が大きいのは低い霊体の憑き物であり、これらはいずれも邪法を修練したことによって招いたものです。人間に害を与えること甚だしく、取り憑かれた人の結末は非常に恐ろしいものです。煉功もそれほどしていないのに、人の病気を治し、金儲けをしようとばかり考え、そういうことが頭から離れない人がいます。もともとその人はけっこう立派な人であり、ひょっとしたらすでに師が面倒を見てくれているのかもしれません。しかし人の病気を治そうとか、金儲けをしようとかを考え出すととんでもないことになり、自分でそういうものを招いてしまうのです。そういうものはわれわれの物質空間にいませんが、まぎれもなく存在しています。
 この煉功者は突然、天目が開いた、功が身についたと思い込みますが、実は憑き物が彼の大脳をコントロールしているのであり、憑き物が見た映像が彼の大脳に反映されているのです。自分の天目が開いたと思い込みますが、実は全然開いていないのです。憑き物がどうして彼に功を与えようとしたのでしょうか? どうして彼を助けようとしたのでしょうか? われわれのこの宇宙では、動物が修煉して得道することは許されないからです。動物は心性を重んぜず、向上できないので、正法を得ることが許されないのです。そこで動物が人間の身体に取り憑いて、人体の精華を得ようとするわけです。宇宙にはもう一つ、「失わないものは得られず」という理があります。憑き物があなたの名利心を満たしてくれ、あなたに金儲けさせ、あなたを有名にしてくれます。しかしただでは助けてくれるわけがなく、憑き物も何かを得ようとしており、あなたの精華を得ようとしているのです。憑き物があなたから離れたとき、あなたにはもう何も残っておらず、衰弱しきって、あるいは植物人間になってしまうかもしれません! これは心性が正しくないために招いたものです。一正が百邪を圧する、と言われますように、あなたの心性に少しの歪みもなければ、邪を招くことはありえません。つまり、でたらめなものは一切もらわず、正々堂々とした煉功者になるように、ひたすら正法に従って修煉しなければならないということです。
 
(六) 正しい功法でも邪法を練ることがある
 習っているのは正法であるとはいえ、自分を厳しく律することができず、心性を重んじようとしないで、煉功するときに良くないことを考える人がいますが、これでは無意識に邪法をやっていることになります。たとえば站樁功をやっているにせよ、坐禅をしているにせよ、たしかに煉功はしてはいますが、実際は、頭のなかではお金のことや、名利のことや、誰それがわたしをいじめたので、功を身につけたら懲らしめてやろうとか考えています。あるいはあれやこれやの功能を欲しがったりして、良くないものを功に加えてしまいますので、実際には邪法をやっていることになります。これは非常に危険なことです。良くないもの、たとえば低い次元の霊体のようなものを招いてしまう可能性があるのですが、招いてしまっても気がつかないかもしれません。執着心を強くもったまま、求める心を抱いて道を学んだりしてはいけません。心が歪んでいれば、師もあなたを守るすべがないのです。つまり、煉功者としては必ず厳しく心性を守り、心を正しく持ち、何も求めないようにしなければなりません。さもなければ問題が起きるかもしれません。



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