法 輪 功


第三章 心性を修煉する


 法輪功修煉者は、心性の修煉を第一として、心性が功を伸ばす鍵だということをはっきり認識しなければなりません。これは煉功が高い次元に達したときの理なのです。厳密に言えば、次元を決定する功力は、「煉」によって得られるのではなく、心性を修めることによって得られるのです。心性を向上させるのは、言うのは簡単ですが、実行するのはとてもとても難しいことです。修煉者はきわめて大きな犠牲を払い、悟性を高め、苦の中の苦を嘗め、忍び難いことを忍ぶ、などなどができなければなりません。なぜ一部の煉功者は長年煉功しても功が伸びないのでしょうか? その根本的な原因は、一つは心性を重んじないこと、もう一つは高い次元の正法を得ていないことにあります。このことははっきり指摘しておかなければなりません。多くの師は功を教えるときに心性も説きますが、それこそが本当に功を教えるということです。動作や手法だけ教えて心性を説かないのは、実質的に邪法を教えているのに等しいのです。したがって、煉功者は心性を向上させることにおいてしっかり努力しなければなりません。そうしてはじめてさらに高い次元の修煉に入ることができるのです。

 一、心性の内涵


 法輪功でいう心性は、「徳」でもって包含しきれないものであり、それは「徳」のカバーする範囲よりずっと広く、「徳」を含むさまざまな内容を内にもっています。「徳」に現れる一人の人間の心性はその現れの一つに過ぎず、単純に「徳」でもって心性の中味を理解しようとするのは不十分です。心性は「得」と「棄」という二つのことにいかに対処するかという問題を含んでいます。「得」とは、宇宙の特性との同化を得ることです。宇宙特有の性質を構成しているのは、「真・善・忍」であり、一人の煉功者と宇宙との同化はまさに個人の「徳」に現れます。「棄」とは、貪婪・利・色・欲・殺し・殴り・盗み・強奪・詐欺・嫉妬などなどのような良くない考えや行為を放棄することです。高い次元へ修煉しようとするには、さらに欲望に対する人間本来の追求を放棄しなければなりません。つまりあらゆる執着心を放棄し、個人にまつわるあらゆる名、利に対して無頓着にならなければなりません。
 人間の肉体と天性が人間を人間たらしめています。宇宙も同じく物質としての性質以外に、「真・善・忍」という特性を同時にもっています。どの空気の微粒子の中にもこのような特性が存在しています。常人社会では、良いことをすれば誉められ、悪いことをすれば懲罰されるという形で現れますが、高い次元では功能態として現れます。このような特性に適うのは良い人、背くのは悪い人であり、それに合致し、同化した人は得道した者になります。ですから煉功者はきわめて高い心性でもってこの特性に同化して、はじめて高い次元を目指して修煉することができます。
 良い人になるのは比較的容易ですが、心性を修煉しようとするのはそれほど容易ではありません。その心を正そうとするには、まずその意を誠にすることを、修煉者は覚悟しなければなりません。人間はこの世界に生きており、社会は複雑なので、あなたが善を行おうとすれば、あなたに善を行わせない人がいます。あなたが他人を侵害しなくても、他人がさまざまな原因であなたを傷つけます。ここには非自然的な原因によるものもありますが、なぜなのかについてあなたは悟れるのでしょうか? あなたはどう対処するのでしょうか? 世間のあらゆるいさかいやトラブルが、いつでもあなたの心性を測っています。いわれもない屈辱を前にして、あなたの切実な利益が損害を被ったとき、金銭の前で、女色の前で、権力闘争の最中に、足を引っ張り合う嫉妬の中で、さまざまな社会的ないざこざや家庭内のトラブル及び有形無形の苦痛の中で、あなたはいつでも厳しい心性の要求に従って自己を制御することができるのでしょうか? もちろん、あなたが何でもうまく乗り越えられれば、あなたはすでに覚者です。煉功者はなんといってもたいてい常人から始まったものであり、心性も徐々に修煉して向上していくものです。修煉に志のある者は大きな苦に耐え、大きな困難を乗り越える決意をもっていれば、最終的に正果を得るに違いありません。修煉者の皆さんが厳しく心性を守り、一日も早く功力を高めるよう切に望みます。
 

 二、失と得


 気功界でも宗教界でも失と得のことを問題にします。一部の人は、失とは喜捨のことで、良いことをし、困っている人を助けることだと思い、得とは功を得ることだと思っています。お寺の僧侶もそういうことを言い、喜捨を求めます。これでは失をあまりにも狭くとらえすぎています。われわれの言う失は広義のことで、非常に大きなものです。われわれが失おうとするのは常人の心であり、執着して放さない心ですが、本当にあなたが重要だと思うもの、放棄できないと思うものを棄てることができれば、それは本当の失になります。人助けをして、慈悲心をちょっと示すのは、失のわずかな一部に過ぎません。
 常人としては、有名になり、利益を得て、暮らしを良くし、快適にし、金儲けをしようとしますが、それは常人の目標です。これに対してわれわれ煉功者は違います。われわれが得るのは功であって、そういうものではありません。われわれは個人の利益を少しばかり放棄して、それに対して淡泊でいられるようにと言っているのであって、本当にあなたに何かを失わせようとするわけではありません。われわれは常人社会の中で修煉しているので、常人と同じようにしなければならず、肝心なのはその心を放下することであり、本当にあなたに何かを失わせようとするものではありません。あなたに属するものなら失うことはありませんが、あなたに属しないものは手に入れようとしても得られませんし、もし手に入れても人に返さなければなりません。得があれば必ず失もあります。もちろん、一気に非常に高いところまで到達することは不可能であり、一夜のうちに覚者になろうとしてもできるわけがありません。少しずつ修煉し、一歩ずつ向上していくなら可能であり、失えばその分だけあなたは得るのです。利害関係においてつねに無頓着でいられて、得が少なくても心は安らかです。物質において、損をするかもしれませんが、徳において、功において多く得ることができます。これはそういう道理であり、あなたにわざと名誉や利益で交換させようとしているわけではありません。このことはさらに悟性によって体得しなければなりません。
 ある大道を修める人はかつてこう言いました。「他人が欲しがるものはわたしは要らない。他人が持っているものはわたしは持っていない。しかしわたしが持っているものは、他人にはない。他人が要らないものをわたしは要る」、と。常人は、地面に転がっている石ころ以外、何でも欲しがり、満足する時がなかなかありません。そこでこの修道者は、わたしはその石ころを拾うことにしよう、と言っています。俗に、物は稀なものを貴しとし、少ないものを奇とする、と言いますが、石ころはこの空間では価値がありませんが、ほかの空間に行けば最も価値のあるものになります。この言葉には常人では語り得ない哲理が道破されています。修煉して成就した多くの高人はいずれも無一物ですが、彼らにとって、放棄できない個人のものは何一つありません。
 煉功という道は最も正しいものであり、煉功者こそが最も賢い者です。常人が争おうとする物、得ようとする利益は一時的なもので、たとえ争いによって得たとしても、拾ってきたとしても、あるいは何かの利益を得たとしても、それでどうなるというのですか? 常人の言葉に、生まれてくるときに持って来られず、死ぬときにも持っていけない、というのがあります。来るときは裸、去るときも裸、骨まで灰に焼かれてしまいます。どんなにたいへんな金持ちになったとしても、赫々とした高官になったとしても、あなたは何も持っていくことができません。しかし、功は持っていけます。なぜならそれはあなたの主意識に付いているからです。言っておきますが、功は容易く手に入るものではありません。それはあまりにも貴重で得難いので、千金でもっても替え難いものです。あなたの功が非常に高く伸びたとき、もしある日あなたが煉功をやめようとしたら、悪いことさえしなければ、あなたの功があなたの欲しいありとあらゆる物質的なものに転化されるので、何でも手に入れることができます。ただし、世間で得たもの以外に、修煉者が得るものをあなたは二度と得られなくなります。
 一部の人はなんらかの個人の利益のために、本来自分に属さないものを、不正な手段を使って手に入れて、本人が得したと思い込んでいますが、実際のところ彼が手に入れた利益は徳でもって人と交換してきたものであり、ただ本人がそれを知らないだけです。煉功者なら功を減らされますが、煉功していない者なら寿命を減らされるか、他のものを減らされます。要するに、この債務は清算されなければなりません。これは天の理です。いつも人をいじめたり、口汚く人をののしり傷つけたりする人がいますが、こういうことをする度に、彼はそれ相応の徳を相手に投げ渡し、徳でもって人を侮辱する代償を払っています。
 善人は損をする、と考える人がいます。常人から見ればその人は損をしているように見えても、常人では得られないものをその人は手に入れています。それはほかでもなく「徳」――白い物質であり、きわめて貴重なものです。徳がなければ功はない、これは絶対の真理です。なぜ多くの人は煉功しても功が伸びないのでしょうか? それは徳を修煉していないからです。多くの人はみな徳を説いており、みな徳を求めるようにと言っていますが、彼らは徳が実際に功に転化される道理を明らかにしていないため、個々の人が自分で悟るしかありません。万巻の大藏経、釈迦牟尼の在世中における四十年以上の説法は、いずれも徳のみを語っています。中国古代の修道の書はみな徳のみを語っており、老子が書いた五千言の『道徳経』も徳のことしか語っていません。にもかかわらずどうしても悟らない人がいます。
 失についてですが、得があれば失があります。本当に修煉しようと決めたとたん、何らかの魔難にさいなまれることがあります。日常生活においては、まず身体が辛い目に遭い、ここかしこに調子が悪いと感じることがありますが、病気ではありません。それから社会や家庭、勤め先などでも見られますが、突如として、利益のためにトラブルが起こったり、感情の摩擦が生じたりすることがあります。それはあなたの心性を高めるためです。これらの出来事は往々にして突然やってくるもので、見た目にはとても激しいように見えます。もしあなたが非常に面倒なことに遭遇して、それによってあなたがさんざんな目に遭ったり、恥をさらしたり、面子を失ったりした場合、あなたはどう対処しますか? あなたが平然としていられたとします。そのようにできれば、あなたの心性はこの一難で高められ、あなたの功もその分だけ伸びたことになります。少しでも乗り越えられれば、その分だけ得ることになります。代価を払えば、その代価分だけ得ることになります。人は難の最中にいるとき、往々にして悟ることができないかもしれませんが、しかし悟らなければなりません。常人と混同してはならず、トラブルが起きたとき、淡々としていられなければなりません。われわれは常人の中で修煉しているので、心性も常人の中で錬磨しなければなりません。何回かつまずき転んでいるうちに、その中から教訓を学びます。何の面倒なことにも遭遇せず、心地よく功を伸ばそうとしても、それは不可能です。
 

 三、「真・善・忍」を同時に修める


 われわれのこの法門では、「真・善・忍」を同時に修めます。「真」とはすなわち真実なことを話し、真実なことをし、返本帰真して、最終的に真人になるということです。「善」とはすなわち慈悲心を生み出し、善を行い人を済度することです。とりわけ「忍」ができなければならないことが強調されます。「忍」ができてはじめて、修煉して大徳の士になれます。「忍」は非常に強いものであり、「真」と「善」を超えています。修煉の全過程を通してあなたは忍耐しなければならず、心性を守って、妄りに行動してはなりません。
 何かがあったときに「忍」は容易なことではありません。「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さず、親戚友人の前で面子を失いかねない状況でもひたすら我慢するなど、まるで『阿Q』になってしまうのではないか!?」と言う人がいます。わたしに言わせれば、あなたはあらゆる面で何ら異常もなく、知能でも他人に比べてちっとも劣っておらず、ただ個人の利益に無頓着でいるだけですから、誰もあなたのことを薄のろなどと言いません。「忍」ができるというのは、軟弱無能でもなければ、「阿Q」でもなく、意志が強いことの現れであり、教養が高いことの現れです。中国歴史上の人物で韓信という人が、かつて股くぐりで屈辱を受けましたが、それがまさに大きな「忍」です。古代に、「匹夫が辱められると、剣を抜いて立ち上がる」という言葉があります。一人の常人としては、侮辱を受けたとき、剣を抜いて立ち上がり、口を開いて人を罵り、拳骨を振り挙げて人を殴ることになりかねません。人間としてこの世にやってくるのは容易なことではないのに、意地のために生きている人がおり、それはあまりにもそうするに値しないばかりでなく、あまりにも疲れます。中国語に、「一歩引き下がれば、世界が広々と開ける」という言葉があります。面倒なことに遭遇して一歩引き下がったときに、あなたはまったく違う世界を目にするでしょう。
 煉功者として、あなたといざこざがあった人、目の前であなたを辱めた人に対して、あなたは「忍」をしなければならず、淡々としていなければならないばかりでなく、その人に感謝しなければなりません。もしその人があなたにいざこざを起こさなければ、あなたはどうして心性を高めることができるのでしょうか。辛い目に遭ったときに黒い物質を白い物質に転化させることができるのでしょうか。どうやって功を伸ばすのでしょうか? 人は劫難の中にあるときは非常に辛いものです。しかしこの時こそ自制しなければなりません。なぜなら功力が伸びるに従って、劫難というのも絶えず増大するものであり、あなたの心性が向上するかどうか量られるからです。初めはあなたの気にさわるようなことをし、あなたをかんかんに怒らせるので、それによってあなたはいたたまれないほどいらいらし、肝臓が痛み出し、胃が痛み出すかもしれませんが、それでもあなたは爆発せずに、耐えることができたとします。それは大変けっこうなことで、あなたが「忍」を始めたのです。意識的に「忍」を実行したのです。少しずつ絶えず心性を向上させていくに従って、あなたは本当にそういうことに対して平然としていられるようになりますが、そうなればさらに大きな向上になります。常人はわずかな摩擦やささいなことを一大事と見て、意地のために生きているので、「忍」ができず、追いつめられれば何でもやってしまいかねません。しかし修煉者としては、他の人にとってはとてつもなく大きいと思われることを、あなたはごくごく小さいことだと見なします。あなたの目標はとても永久なるものであり、遠大であり、あなたが宇宙と齢を等しくしようとしているからです。振り返って見れば、そういうものはあってもなくてもよいものであり、大きく考えれば、そういうものはみな放下できるものなのです。
 

 四、嫉妬心を取り去る


 嫉妬心は修煉にとってきわめて大きな障害であり、煉功者への影響が非常に大きく、煉功者の功力に直接影響を与え、修煉仲間を傷つけ、上を目指して修煉するのを甚だしく妨げるものです。修煉者としては百パーセントそれを取り去られなければなりません。煉功して一定の次元に達した人がいますが、嫉妬心をなかなか取り去ることができず、しかも取り去られなければますます強くなる一方です。このような反作用は、その人のすでに高められた他の心性をも脆弱にしてしまいます。どうして嫉妬心をわざわざ取り上げて問題にしなければならないのでしょうか? それは嫉妬心が中国人の間で最も激しく、突出しており、人々の心の中で最も大きな比重を占めていながら、多くの人に意識されていないからです。嫉妬心は東洋特有のものであり、東洋嫉妬またはアジア嫉妬と呼ばれています。中国人は非常に内向的で、控え目であり、軽々しく表に露わさないので、嫉妬心が生じやすいのです。物事にはみな二つの側面があり、内向的な性格には良い面もあれば、悪い面もあります。一方、西洋人は比較的外向的です。たとえば、子供が学校で百点とったら、喜び勇んで家へ走って帰りながら、「ぼく、百点とったぞ……」と叫びます。隣近所の人もドアを開け、窓をあけて、「トム、おめでとう」とお祝いをし、喜びを分かち合いますが、中国であれば、皆さん考えてみてごらんなさい。それを聞くとすぐに反感を覚え、「百点をとったぐらいで何を偉そうに、何を見せびらかしているんだ!」というように全然違う反応が返ってきます。そこには嫉妬心が働いています。
 嫉妬心のある人は人を軽蔑し、他人が自分を上回るのが我慢なりません。他人が自分よりできるのを見ると、心のバランスを失い、耐えられなくなり、認めようとしません。昇給は等しく、ボーナスは同額でなければならず、天が崩れるほど悪い出来事があれば、みんなで責任分担します。他人の稼ぎが多ければ妬んでしまうし、いずれにせよ人が自分を上回るのを許せません。科学研究で成果を上げても、嫉妬を恐れて、奨励金をもらいに行く勇気のない人がいますし、嫉妬とからかいを恐れて、何か受賞しても黙って人に言えない人がいるほどです。他の気功師が講習会を行っているのを見て認めようとせず、道場破りに行く人がいますが、それはまさに心性の問題です。一緒に煉功している仲間のなかに、煉功の日が浅いのに功能が出た人がいたとしましょう。すると、「なんだそれは、俺は何年も煉功しており、修了証書も山ほど持っている。俺に功能が出ていないのに彼に出るはずなんてありえない」と言って、嫉妬心をむき出しにする人がいます。煉功とは内に向かって、自分自身の修煉に勤め、自分自身から原因を探すことです。自分に足りないところがあれば、自分で向上させ、内に向かって努力すべきなのです。外にばかり目を向けていると、人が修煉をやり遂げ、向上していったのに、あなただけが向上できずじまいになってしまいます。それでは何にもならないのではありませんか? 修煉とは自分を修煉することなのです!
 嫉妬心のために、たとえば耳障りなことを言って、他人の心を乱し入静を妨げるなど、修煉仲間に害を与えることがあります。一定の功能をもつようになってからは、嫉妬心のために、功能を用いて修煉仲間に害を与えることがあります。たとえば、修煉にかなり素養のある人が坐禅を組んで煉功していたとしましょう。その人は身体に功がついているから、山のようにどっしり坐っていました。そこへ二つの物体が漂ってきました。そのうちの一人はかつて僧侶だったもので、嫉妬心のために修煉が成就できませんでした。一定の功力はあるものの、修煉は成就できなかったのです。二人がその坐禅を組んでいる人のところへやってきたとき、一人が、「だれだれがここで修煉しているので、道を変えよう」と言いました。するともう一人が、「昔わしは掌を一振りして泰山の一角を切り落としたことがあるんだ」と言いながら、煉功者に向かって、掌を振り下ろそうとしました。しかし、振り上げた手は下ろせませんでした。なぜなら正法を修煉している煉功者は、防護の覆いに守られており、切りつけようと思っても切りつけられないからです。ところでその人は正法修煉者を傷つけようとする深刻な問題を起こしたので、懲罰を受けました。嫉妬心のある人は、自分を害するばかりでなく人をも害してしまいます。
 

 五、執着心を取り去る


 執着心とは、煉功者がある物事、ある目標にこだわって、それを過度に追求し、超脱できず、甚だしきに至ってはそれに頑なに固執し、人の忠告を聞き入れようとしないことを指します。世間で功能を得ようと求める人がいますが、これは必然的に高い次元を目指す修煉に影響を与えることになります。このような気持ちは強ければ強いほど、容易に棄てられなくなり、心がますます均衡を失い不安定に陥り、しまいには、自分が何も得ていないと思い込み、あるいは習ったものに対してすら疑いを持つようになります。執着心は人の欲望からきており、目標または目的がいかにもせせこましく、細かくて具体的であるのが特徴ですが、本人は往々にして気づきません。常人の執着心はさまざまですが、あるものを追求して目的を達するために、常人は手段を選ばずそれを手に入れようとしかねません。これに対して、煉功者としての執着心は違った表れ方をします。たとえばある種の功能を追求し、ある種の光景に夢中になり、ある種の顕現に熱中する、などなど。煉功者としては、どんなものであれ、求めてはならず、こういうものは取り去らなければなりません。道家では「無」を唱え、佛家では「空」や「空門に入る」ことを唱えますが、われわれは最終的に「空無」の境地に達し、一切の執着心を取り去り、あなたの放下できないあらゆるものを放下しなければなりません。たとえば、功能への追求ですが、求めるのはそれを使おうとしているからにほかなりません。それは実際にわれわれの宇宙の特性に背きますので、結局やはり心性の問題です。得ようとする以上、人の前でひけらかし、見せびらかそうとするに決まっています。そういうものは人に見せびらかすようなものではありません。たとえ非常に純粋な目的で、つまり良いことをしようとしてそれを用いるにしても、その良いはずのこともあなたがやり出すと必ずしも良いことにはなりません。常人のことを超常的な方法で干渉しようとすれば、必ずしも良いことにはなりません。わたしが講習会で七十パーセントの人の天目が開いたと言ったのを聞いて、「なぜ自分は何も感じていないのか?」と、思索を巡らす人がいます。帰ってから煉功するとき、天目のことにばかり神経を注ぎ、頭痛がするほど考え込みますが、結局相変わらず何も見えません。これがまさに執着心です。人はそれぞれ体質が異なり、根基も違いますので、天目が同時に見えることはありえませんし、同じ次元に到達することもありえません。見える人がおり、見えない人もおり、どちらも正常なのです。
 執着心は、煉功者をして功力が停滞し、徘徊する状態に陥らせ、さらに深刻な場合は煉功者を邪道に導いてしまいかねません。とりわけ一部の功能は、心性が良くなければそれを用いて悪事を働くことがあり得るのです。心性がしっかりしていないために功能を用いて悪事を働く例もあります。某地のある男子学生に思惟制御功能が現れました。この功能を使えば、自分の思惟でもって他人の思惟活動を支配することができるので、彼はそれを用いて悪いことをしました。一部の人は、煉功の時に現れた何らかの光景をどうしてもはっきり見ようとし、それを突き止めようとしますが、これも執着心です。また一部の人は、ある嗜好に溺れ病みつきになって、なかなかそれをやめることができないのですが、それも執着心です。根基が違い、目的が違うので、最も高い境地に達するために煉功している人もいれば、何かを得ようとして煉功している人もいます。後者の考え方の場合は、必然的に煉功の目的を狭めてしまいます。このような執着心が取り去られなければ、たとえ煉功していても功が伸びることはありません。したがって、煉功者は一切の物質的利益に完全に無頓着になっていなければならず、いかなる追求も持たずに、すべて自然の成り行きに任せるようにしなければなりません。こうすれば執着心が再び現れるのを免れることができます。すべては煉功者の心性にかかっています。心性が根本から高められず、何らかの執着心を持っていたのでは修煉は成就できません。
 

 六、業力


(一)業力の由来
 業力は徳と相反する黒い物質です。佛教ではそれを悪業と言いますが、われわれはここで業力と言います。ですから悪事を働くことは、業力を造ることだと言われます。業あるいは業力は、本人がこの世あるいは前世で犯した間違いに由来しているのですが、たとえば殺生をしたとか、誰かをいじめたとか、誰かの利益を奪ったとか、陰で誰かを非難したとか、誰かに冷たくしたとかなどなど、いずれも業力を作り出すことになります。一部の業力は先祖や親戚友人から移ってきたものもあります。人は拳骨を振り挙げて他人を殴るとき、それと同時に、白い物質を相手に投げ渡し、自分の身体のその部分は黒い物質に取って代われてしまいます。殺生は最大の悪行で、悪事を働くことであり、非常に重い業力を造り出してしまいます。業力は人を病気に至らしめる重要な原因です。もちろん業力は必ずしも病気として現れてくるとは限らず、厄介なことに遭遇するなどということもあり得ますが、いずれも業力が作用しています。ですから修煉者は決して良くないことをしてはなりません。あらゆる良くない行為がみな良くない信息を作り出し、あなたの煉功に深刻な影響を与えてしまうからです。
 植物の気を採るよう主張する人がおり、功を教えるときも植物の気の採り方を教えています。どんな樹が良いとか、どんな樹の気が何色をしているとか、興味津々に話しています。中国の東北のある公園で、何の功をやっているのか分かりませんが、何人かの人が地面を転げ回り、起きあがっては松の木の周りをぐるぐる回って、松の木の気を採るものですから、わずか半年であたり一面の松の木を枯れさせてしまいました。これは業を造る行為であり、殺生でもあります! 国土の緑化や生態均衡の維持から言っても、高い次元から言っても、植物の気を採るのは良くないことです。浩瀚たる宇宙は果てしなく広がっており、どこにでも好きなだけ採れる気があるのですから、そこから思う存分採ればよいのに、どうしてよりによって植物をいじめるのでしょうか? 煉功者として、あなたの慈悲心はどこにいったのでしょうか?
 万物にはみな霊があります。現代科学は植物に生命があるばかりでなく、霊性もあり、思惟や感情もあり、さらには超感覚功能もあることを認識しています。あなたの天目が法眼通に達すると、世界がまるっきり違う様相を呈しているのに気づくでしょう。外に出かけると、石ころも、壁も、樹も、みなあなたに話しかけてきます。いかなる物体にも生命体が存在しており、その物体が形成されるとき、すでに一個の生命体が入っているのです。有機物質と無機物質はわれわれ地球人が区分けしているものです。寺の人は茶碗が割れても非常に気の毒に思います。なぜならいったん壊されると、その生命体が解放され出てくることになりますが、生命の過程を歩み終えていないため、行くところがなくなるからです。ですから自分を殺した人を憎み、憎めば憎むほどその人の業力も大きくなります。「気功師」と称する人のなかに狩りをする人がいますが、慈悲心はどこへいったのでしょうか? 佛道両家はいずれも天の理に背いて物事を行ったりしません。そんなことをするのは殺生にほかなりません。
 鶏を殺したり、魚を殺したり、釣りをしたりなど、過去にたくさんの業を造ったので、煉功できないのではないかと言う人がいますが、そうではありません。それは無知の時にやったことなので、さらに大きな業力を造ることはありません。これから二度とこういうことをしなければいいのです。ただ、今後こういうことをすると、分かっていながらわざと罪を犯すことになるので、いけません。一部の学習者はまさにこういう業力を持っています。あなたが講習会に参加したのはまさに、縁があったからであり、上を目指して修煉できるのです。蠅や蚊が部屋に入ってきたら殺すかどうか? 皆さんは現在この次元で殺しても間違いではありません。追い払えなければ殺してしまえばいいのです。ものは死ぬべき時には、自ずと死ぬのです。釈迦牟尼は在世中、湯浴みをしようと思って、弟子に浴槽の掃除をさせようとしたことがあります。ところが弟子は浴槽に虫がいるのを見て、どうしたらいいかと聞きに戻ってきました。釈迦牟尼は今一度、「お前に掃除させるのは浴槽なのだ」と、言いました。弟子は悟り、浴槽をきれいに掃除しました。一部のことはあまり重く見過ぎてはいけません。われわれはあなたに何事にもびくびくするような人になってほしいとは望んでいません。複雑な環境の中に身を置きながら、ミスを犯してはいけないと、四六時中神経を高度に緊張させるのも、わたしに言わせれば、いけません。これも一種の執着心になります。恐れること自体が執着です。
 われわれが慈悲心を持ち、如何なることに対しても慈悲の心を抱いていれば、それほど簡単に問題が起きることはありません。個人の利益に対して淡々としていて、心根が善良であれば、そこから制約を受けるので、何事をするにしても、悪いことをしでかすことはありません。信じられないのならやってみてください。いつも怒りっぽい態度で、いつも争い闘おうとしていれば、良いことでもあなたの前では悪くなってしまいます。理を握ってしまうと譲ることを知らない人をよく見かけますが、そういう人は理を握ると、人を懲らしめるものをつかんだかのようになります。それからあることが気にくわないからといって、もめごとを引き起こしてはいけません。あなたが気にくわないことが必ずしも間違っているとは限りません。煉功者として絶えず次元を高めているとき、あなたの一言一言にはエネルギーがあって常人を制約することができるので、無分別に言ってはいけません。特にあなたに真相が見えないとき、因縁関係が見えないときは、悪いことをしてしまいやすいし、業を造りやすいのです。
 
(二)業を消す
 世間の理と天上の理は同じであり、他人に借りがあれば、返さなければなりません。たとえ常人でも人への借りは返さなければならないのです。一生の間にあなたが遭遇する難や劫はいずれも業力から生まれたものなので、あなたはそれを返さなければなりません。本当に修煉する人にとって、あなたの人生の道はこれから変わります。あなたの修煉に適する道を改めて段取りしてあげなければなりません。師があなたの業力の一部を減らしてくれますが、残りはみなあなたの心性を高めるためのものですので、あなたが自分で煉功と心性の修煉を通してそれを返却し償えばよいのです。今後あなた方が遭遇するあらゆる問題は決して偶然なものではないので、心の準備をしておいていただきたいのです。難に遭遇させたり、常人が放下できないありとあらゆるものを放下させたりなど、あなたはあれこれと面倒なことに出会い、家庭をはじめ社会のあらゆる面から問題が現れてきます。突然何か災難に見舞われたり、本来相手に非があるのに、理不尽なことにあなたが責められ、濡れ衣を着せられたりするようなことまで起きてくる、などなどです。煉功者は病気になるはずがないのですが、突然重い病気に見舞われることがあります。病気の勢いがすさまじく、ひどくさいなまれるものですから、病院で検査を受けるのですが、何の異常もみつかりません。ところがそのうちどういう訳か、治療も受けていないのに病気が治ってしまいます。実は、あなたのある種の借りがこういう形で返されたわけです。もしかすると、いつかあなたの配偶者が何のいわれもなくあなたに八つ当たりし、かんしゃくを起こし、どうでもよいことで大喧嘩してくるかもしれませんが、あとから考えてもどういう訳なのか自分でもよく分からないことがあります。煉功者としてあなたは、どうしてそのようなことが起こったのかについて、はっきり分からなければなりません。ほかでもなくあのものがやってきて、あなたに業の償いをさせようとしているのです。その時、あなたはしっかり自分を制御し、心性を守って、事をうまく解消させなければなりませんし、それがあなたの業の消去に手を貸してくれたことをありがたく思い、それに対して感謝しなければなりません。
 坐禅の時間が長ければ足が痛くなりますが、気絶するほど痛くなる人もいます。天目の次元の高い人には見えるのですが、非常に痛いとき、煉功者の身体の内外で、黒々とした大きな塊が消えていきます。坐禅の痛さは一頻り一頻りの痛さで、しかも胸が刺される思いがします。悟性のある人は、何が何でも足を崩さずに耐えますが、そうすれば黒いものが消されて白いものへと転化され、功に転化されるのです。煉功者の業力は坐禅と煉功で完全に消されるわけではなく、そのほかにも心性や悟性を高め、魔難に耐えなければなりません。肝心なのは、われわれは善良な人でいることです。われわれの法輪功では善の心がとても早く表れてくるので、多くの煉功者は煉功の時坐禅をはじめると、いわれもなく涙が湧き、何を考えても悲しく思われ、誰を見ても気の毒に思いますが、それはほかでもなく慈悲心が生まれてきたのであり、あなたの天性や本当の自我が宇宙の特性である「真・善・忍」と通じ始めているのです。あなたに善の心が表れば、あなたのなす事も善になります。あなたの内心から外在的顕現まで、きわめて善良なのが一目で分かります。その時になれば、誰もあなたをいじめたりしなくなります。本当にあなたをいじめる人がいても、あなたの大慈悲心が作用して、相手に仕返しをしません。それも一種の力であり、あなたが常人に陥らないように助けてくれているのです。
 あなたが劫難に遭遇したとき、その慈悲心がこの難関を乗り越えるのに力を貸してくれますし、同時にわたしの法身もあなたを見守り、あなたの生命を守ってあげますが、難は必ず通らなければなりません。たとえばわたしが太原で講習会を開いたときのことですが、ある老夫婦がわたしの講習会に参加しに来る途中急いで道路を渡ろうとして、道路の真ん中へ来たとき、一台の車が飛ぶように走ってきて、いきなりお婆さんを引っかけ、十数メートル引きずってから、道路に振り落としました。車は二十数メートル先でようやく止まり、運転手が車から飛び降りてきて失礼なことを言いました。車に乗っていた人も聞き苦しいことを口にしました。しかしお婆さんは何も言わずに、わたしの言ったことを思い出して、立ち上がると、「大丈夫、何でもありませんよ、どこも怪我していませんよ」と言いながら、お爺さんを引っ張って会場へと入って行きました。その時、彼女がもし「ここも駄目、そこも駄目だわ、病院へつれて行ってほしい」とでも言ったら、それこそ本当に駄目になってしまいますが、彼女はそうしませんでした。お婆さんはわたしに、「先生、どういうことなのか分かっています。これは業を消してくださっているのですね!」と、言いました。大きな難がひとつ解消され、大きな業力が一塊取り除かれたのです。このことから彼女の心性、悟性がとても良いということが分かります。あのお年で、あのスピードの車にあれだけ引きずられて地面にあんなにたたき付けられたにもかかわらず、立ち上がりました。心がきわめて正しいのです。
 劫難が来たとき、見た目にはとてつもなく大きく、あたかもどう考えても脱け出する道がないように思われる時があります。ところが何日かどたばたしているうちに、突然、道が見えてきて、一瞬のうちに事情ががらりと変わったりすることがあるかもしれません。実はわれわれの心性が向上し、あのものが自然に消えたためです。
 思想の境地を高めようとすれば、世間のさまざまな魔難による試練を乗り越えなければなりません。この過程において、あなたの心性が本当に向上し、安定してきて、業も消されれば、魔難を乗り越えたということですので、功も伸びます。もし心性の試練において、心性を守ることができず、間違ったことをしたとしても、落ち込んだりせずに、積極的に教訓を汲み取り、足りないところを見つけ、「真・善・忍」に照らして努力してください。心性を測る次の難題がもしかすると踵を接してやってくるかもしれません。功力の向上につれて、心性を試す魔難はますます激しく、ますます突然にやってくるかもしれません。関門をひとつ乗り越えるたびに功力が少しだけ伸びますが、乗り越えられなければ功もとどまります。小さい試練では、少しだけ伸び、大きい試練なら大きく伸びます。煉功者は一人一人大きな苦しみに耐える用意、大きな困難を迎える決意と気力を持ってください。代価を支払わなければ、本当の功を得ることはできません。代価も支払わず、苦しみを嘗めることもせず心地よく功を得ようとしても、それはあり得ない話です。心性が根本から良くならず、如何なるものであれ個人の執着心を持ったままでは修煉して大覚者になれるはずがありません。
 

 七、魔を招く


 魔を招くとは、煉功者の煉功の過程において現れる煉功を妨げる現象や光景を指しており、それらは煉功者が高い次元を目指して修煉するのを阻もうとするものであり、魔が債務の取り立てに来たものとも言えます。
 功法の修煉が高い次元に達すると、必然的に魔を招く問題に遭遇します。人間の一生やその先祖は多かれ少なかれ何らかの悪いことをしており、これらの悪いことを業力と言います。人の根基が良いかどうかは、彼の持っている業力の量によって決定されますが、たとえ非常に良い人であっても、業力がないはずはありません。修煉していないので、分からないだけです。もしあなたが単に病気治療と健康増進のためにやっているのなら、あなたを相手にする魔はいません。いったんあなたが高い次元を目指して修煉しようとすれば、魔はあなたに干渉してきます。魔はありとあらゆる方法であなたを妨害することができますが、目的は、高い次元への修煉を妨げ、修煉を成就させないことです。魔の現れ方はさまざまですが、日常生活上の現象として現れてくるのもあれば、他の空間から来た信息の形で妨害するのもあり、坐禅をすれば何かが邪魔しに来て、入静させてくれず、高い次元への修煉をさせてくれません。時にあなたは、坐禅をすればうとうと居眠りしたり、あるいは次々と雑念が浮かぶなど、煉功状態になかなか入れません。時にはあなたが、煉功し始めたかと思うと、もともとまわりが非常に静かだったのに、突然足音をはじめ、門をバタンと閉める音、車のクラクション、電話のベルなど、さまざまな騒音が起こり、入静させてくれません。
 もう一つは色魔です。煉功者が坐禅中あるいは夢の中で、目の前に美男子あるいは美女が現れ、あなたを誘惑し、刺激的なしぐさで美しい異性に弱いあなたの心をくすぐります。一度でも乗り越えることができなければ、どんどんエスカレートして、高い次元を目指して修煉する心を棄てるまで、あなたを誘惑しに来ます。この関門はなかなか乗り越えるのが難しく、これで挫折した煉功者は少なからずいました。皆さんには心の準備をしておいてほしいのです。もし心性をしっかり守れず、一回乗り越えられなかったら、そこから真剣に教訓を汲み取らなければなりません。あなたが心性を本当に守れて、その執着心を完全に取り除くまで、それは繰り返し誘惑に来るものです。これは大きな関門なので、乗り越えなければなりません。さもなければ得道することはできず、修煉して成就することもできません。
 魔のもう一つの形は、煉功中あるいは睡眠中、突然おぞましい顔が見えることがあります。いかにも憎々しげに、まぎれもなく目の前にいて、刀を持って人殺しをしようとしているように見えますが、しかしそれは脅しに過ぎません。たとえ本当に切りつけようとしても切りつけることはできません。師が煉功者の体外に防御の覆いをかけてくれているので、刃物も届かないのです。人を脅すのは煉功をやめさせようとするためです。これらのことは、あるひとつの次元、ひとつの段階の現れに過ぎないので、数日、一週間あるいは数週間ですぐに通過することができます。心性がどれほど高いか、こういうことをどう受け止めるかが問われるのです。
 

 八、根基と悟性


 根基とはその人の先天から携えてきた白い物質、すなわち徳という有形の物質のことを指しており、多く携えていれば根基が自ずと良いのです。根基の良い人は返本帰真しやすく、道を悟りやすいのです。彼の頭の中には妨げるものがなく、気功を学ぶと聞けば、修煉のことを聞けば、興味を持ち、学ぼうとしますので、宇宙と通じあうことができます。老子が言ったように、「上士、道を聞けば、勤めて之を行う。中士、道を聞けば、存るが若く、亡きが若し。下士、道を聞けば、大いに之を笑う。笑わざれば、以って道と為すに足らず」。返本帰真しやすく、すぐ道を悟る人は、「上士」に属するものです。反対に、黒い物質の多い人、根基が劣っている人は、良いものに接することができないように、身体のまわりに障壁のようなものができてしまいます。良いものに接したとしても、それを信じないようにその人を阻みますが、実はこれはほかでもない業が作用しているのです。
 根基の問題を取り上げれば、必然的に悟性の問題に触れなければなりません。悟とは賢いことだと思い込んでいる人がいます。常人が言う賢い、ずる賢いというのは、われわれの言う修煉からあまりにもかけ離れています。このような賢い人は往々にして悟りを開きにくいものであり、彼らは現実の物質世界のみを重視し、如何なる損もしようとせず、如何なるメリットも手放そうとしません。とりわけ一部の人は、自分に学問があり、知識があり、賢いとうぬぼれて、修煉のことを荒唐無稽な話だと見ています。煉功して心性を修煉することは、彼らにとって摩訶不思議なことであり、彼らは煉功者がみな薄のろだ、迷信をやっているのだと思っています。われわれの言う「悟」は、賢いことを意味しているのではなく、人間性が返本帰真して、良い人になり、宇宙の特性に合致することを指しています。根基はその人の悟性を決定づけるので、根基が良ければ、悟性も良いはずです。ただ根基が悟性を決めるのですが、悟性が完全に根基の制約を受けるわけでもありません。根基がいくら良くても、理解力が劣り、悟れなければいけません。根基があまり良くなくても、悟性が良い人もいますが、上を目指して修煉するのに何ら問題はありません。われわれは衆生を普く済度するから、悟性を問いますが、根基は問題にしません。良くないものを少なからず持っていても、上を目指して修煉する決意さえあればよく、この一念が出ればそれはまさに正念です。この一念さえを持っていれば、他人に比べせいぜい多めに代価を払うだけで、最終的に修煉して成就することができるのです。
 煉功者の身体はすでに浄化されており、功が出てからは身体に病気があるはずがありません。なぜなら体内の高エネルギー物質はすでに黒い物質の存在を許さないからです。しかしそれを信じない人がおり、自分に病気があるとばかり思い込み、「どうしてわたしはこんなに辛いのか!」と言います。あなたは功を得ており、あんなに素晴らしいものを得たのに、辛くないはずがありますか? 修煉ですから、それ相応の代価を払わなければなりません。本当のところそれは表面上のものに過ぎず、あなたの身体には何の影響もありません。病気のように見えていても、全然病気ではありません。あとはあなたがいかに悟るかにかかります。煉功者は苦の中の苦に耐えることができなければならないばかりでなく、悟性も良くなければなりません。面倒なことに遭遇しても、悟ろうとしない人がいます。わたしがここで高い次元のことや、いかに高い基準で自己を律するべきかについて話しているのに、そういう人は相変わらず自分を常人と混同しており、甚だしきに至っては、自分を本当の煉功者の状態に置いて煉功することができず、自分が高い次元に身を置けることすら信じようとしません。
 高い次元で言う悟とは、悟りを開くことを指します。悟には、頓悟と漸悟とがあります。頓悟とは、修煉の全過程を通して何もかも鍵を掛けられて修煉していることを指します。修煉の全過程を歩み終え、心性が向上し、最後の一瞬になって、功能が炸裂して出てきます。天目が一瞬のうちに高い次元まで開き、思惟が他の空間の高次生命に接触して、一度に宇宙の各空間、各単元世界の真相が見えます。その上彼らと意志疎通ができ、大きな神通力を発揮することができるようになります。頓悟の道はもっとも難しく、歴代において根基の相当高い人を弟子に選り抜き、代々一人にしか伝えませんでした。普通の人ではとうてい耐えられるものではありません! わたしはこの頓悟の道を歩んできたのです。
 わたしがいま皆さんに伝えるのは、漸悟に属するものです。それは修煉の過程において、現れるべき功能があればその功能が現れるようになっているものです。とはいえ功能が現れたからといって、絶対に使わせてくれるとは限りません。あなたの心性がまだ一定の次元まで高まっておらず、自分を制御することができず、悪いことをする恐れがあるときは、功能はしばらくの間使わせてくれません。しかし最終的にはあなたに与えるものです。修煉を通して、次元が徐々に高まり、徐々に宇宙の真理を認識していって、頓悟と同じように、最終的に圓満成就に達することができます。漸悟という道は比較的歩みやすく、危険性はありません。難しいのは、修煉の過程がすべてあなたに見えていることであり、あなたはより一層厳しく自分を律しなければなりません。
 

 九、清浄心


 煉功の時に入静できないため、入静の方法を探し回っている人がいます。「先生、わたしは煉功の時どうして入静できないのですか。何か方法を教えてください。どんな手法を用いれば、坐禅の時入静できるようになるのでしょうか」と、わたしに尋ねてくる人がいます。わたしに言わせればあなたは入静できるはずがありません! たとえ神仙があなたに方法を教えてもあなたは入静できません。なぜでしょうか? あなた自身の心が静かで清らかではないからです。人間はこの社会に生きており、七情六欲をはじめ、さまざまな個人の利益や、自分自身のこと親戚友人のことまであなたの心に引っ掛かっています。頭の中でそれらの占める比重があまりにも大きく、相当重要な位置に置かれているのですから、坐禅の時にどうして入静できるでしょうか? 人為的にそれらを抑えつけようとしても、それらが勝手に飛び出してきます。
 佛教の修行方法では、「戒・定・慧」が重んじられます。「戒」とは、執着するものを放棄することです。佛の名号を念じる人がいますが、それは自分の思惟が、一念で万念に追い払うような状態になるまで、一心不乱に念じなければなりません。しかしそれも一種の功夫であって、方法ではありません。信じられなければ念じてみてください。口で佛の名号を念じていながら、頭の中ではまったく違うものがかき乱れるに違いありません。昔チベットの僧侶は佛の名前を一日数十万回、一週間念じなければなりませんでした。頭がぼうっとして麻痺し、しまいには頭の中に何もなくなります。つまり一念で万念を追い払ったのです。それは一種の功夫であって、あなたには無理かもしれません。「丹田を意守する」とか、数を数えるとか、目で何かをじっと見つめるとかいった方法を教える功法もありますが、実のところ、これらはどれもあなたを完全に入静させることができません。煉功者は静かで清らかな心を持たなければならず、個人の利益を棄てて、貪欲の心を放下しなければなりません。
 実は、入静できるかどうか、入定できるかどうかは、その人の功夫の高さ、次元の高さを示しています。坐禅するやいなや入静できるのは、次元の現れです。しばらく入静できなくても、構いません。修煉の過程で徐々にできるようにしていけばよいのです。心性は徐々に高まり、功は徐々に伸びるものです。個人の切実な利益と欲望に淡々としていられなければ、功は伸びるはずがありません。
 煉功者はいつ如何なる時でも高い基準で自己を律しなければなりません。社会のあらゆる複雑な現象やさまざまな低俗で不健全なもの、七情六欲にまつわるものが、いつでも煉功者を妨害しています。テレビや映画、小説の中で宣伝しているのは、常人の中の強い人になり、一層現実的な常人になることです。これらから超脱することができなければ、あなたは煉功者の心性、心境との差もますます広がり、あなたの得る功もますます少なくなります。煉功者は低俗で不健全なものになるべく少なくあるいはまったく接触しないようにすべきで、視て見ぬ、聴いて聞かぬように、他人に動かされず、心を動かされないようにしなければなりません。わたしがよく言うことですが、常人の心はわたしを動かすことができません。わたしを誉めてくれる人がいても、わたしはそのために喜ぶこともなく、わたしを罵る人がいても、わたしはそのために怒ることもありません。人間同士、常人同士のどんなにひどい心性の妨害もわたしには作用しません。煉功者はあらゆる利益に無頓着で、何もかも気に掛けないようにしなければなりません。そうなれば、あなたの悟道の心が成熟したことになります。名利を強いて求める心がなければ、名利や地位をどうでもよいものと見ることができれば、あなたは煩悩にさいなまれることも、立腹することもなく、永遠に心が穏やかな状態でいることができます。何でも放下できれば、自ずと清静になります。
 わたしは大法を皆さんに伝えました。五式の功法も皆さんに教え、皆さんの身体を浄化し、皆さんの身体に「法輪」や「気機」を植え付け、その上わたしの法身も皆さんを守ってあげることになっています。皆さんに与えるべきものは全て与えました。講習会の間は、わたしが主役ですが、これからは皆さん次第です。師は門まで導きますが、修行は各自にかかっています。皆さんは大法を隅々まで理解し、丹誠を込めて悟り、いつ如何なる時でも心性を守り、着実に修煉に勤め、苦の中の苦に耐え、忍び難いことを忍ぶことができれば、きっと修煉して成就することができるものと思います。
 
 
功を修するに路有り、心が徑(みち)となり
大法に辺(はてし)無く、苦が舟と作(な)る



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