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法 輪 功

第五章 質疑応答



 一、法輪と法輪功


弟子:法輪ファールンはどんなものから構成されているのですか?
師:法輪は高エネルギー物質から構成されている霊体であり、自動的に功を転化することができますが、われわれのこの空間には存在していません。
 
弟子:法輪とはどんなものですか?
師:法輪の色は黄金色としか言いようがありません。われわれのこの空間にはまだこのような色はありません。輪の地色は非常に鮮やかな赤で、外輪の地色は橙色になっています。赤と黒の二つの太極は道家のもの、赤と藍の二つの太極は先天大道のものであり、これらは二種類の異なるものです。「卍」は黄金色です。天目の次元の低い人から見れば、扇風機のように回転しているように見えますが、はっきり見えるならそれは非常に美しいもので、煉功者をして修煉において一層勇猛邁進させることができます。
 
弟子:法輪ははじめはどこにありますか? その後はどこにありますか?
師:わたしが本当に皆さんに与える法輪は一つしかなく、それは下腹部、つまりよく言う「煉丹」「守丹しゅたん」の部位にあり、その位置は変わりません。おびただしい法輪が回転しているのが見える人がいますが、それはわたしの法身が皆さんの身体を調整するために体外で働いているのです。
 
弟子:煉功して、法輪を作り出すことができますか? どれくらい作り出せますか? それは師が授けてくださるのとどう違いますか?
師:煉功して法輪を作り出すことができます。あなたの功力が絶えず高まっていけば、法輪もますます多くなりますが、法輪はいずれも同じものであり、ただ下腹部にある法輪はあちこち動かないもので、根本です。
 
弟子:どうすれば法輪の存在と回転を体感することができますか?
師:体感する必要はありません。非常に敏感な人がいて、法輪が回転しているのを感じることができますが、法輪を植え付けられたばかりの時は、体内に違和感を覚えたり、腹痛や、何かが動いているのを感じたり、熱い感じがあったりします。慣れてきたら、感じなくなります。しかし功能のある人には見えます。胃袋と同じです。誰も胃袋が動いていると感じません。
 
弟子:法輪図における法輪の回転方向と学員証(北京第一、二期を指す)のそれとは違いますが、聴講用の学員証における法輪が逆時計回りをしているのはなぜでしょうか?
師:それは皆さんに良いものを与えてあげようとするためです。法輪が外に向かってエネルギーを放出するのは、皆さんの身体を調整するためなのですから、時計回りに回転していません。皆さんにはそれが回っているのが見えます。
 
弟子:師が学習者に法輪を植え付ける時機は?
師:ここで皆さんに断っておきますが、われわれの一部の学習者はいろいろな功法を学んできているので、彼らの身体にあるごちゃごちゃしたものを片づけて、良いものを残し悪いものを取り除いてあげることは本当に難しいことで、そのために手続きがひとつよけいに増えました。これを終えてはじめて、法輪を植え付けることができます。その人の煉功の次元の高さによって、法輪の大きさも違います。煉功した経験のない人がいますが、根基は悪くないので、調整をしてあげると、この講習会で病気が取り除かれ、気を煉る次元を通過して、乳白体状態に入ります。そうなると法輪を植え付けてあげることができます。身体が相当悪く、ずっと調整中の人も多くいますが、調整も済んでいないのにどうして法輪を植え付けてあげられますか? しかし植え付けてあげられない人は少数の人に過ぎませんので、問題がありません。わたしはすでに法輪を形成する気機を植え付けておきました。
 
弟子:法輪はどういうふうに身につけるのですか?
師:それは身につけるのではありません。わたしは法輪を打ち放って皆さんの下腹部に植え付けますが、しかしそれはわれわれのこの物質空間にあるのではなく、他の空間にあります。この空間では、皆さんの下腹部に腸がありますから、それが回転しだしたら大変ではないでしょうか? それは他の物質空間にあるもので、こちらと衝突しません。
 
弟子:次の講習会でも続けて法輪を植え付けてもらえますか?
師:法輪は一つしか得られません。たくさんの法輪が回っているのを感じる人がいますが、それは体外で用いられ、あなたの身体を調整するために用いられるものです。われわれのこの功の最も大きな特徴は、エネルギーを放出するときに、次から次へと法輪を打ち放つことにあります。ですからあなたが煉功していなくてもおびただしい法輪があなたの身体を回っており、あなたの身体を調整してあげています。本当にあなたに与えた法輪は、下腹部にあるそれです。
 
弟子:煉功しなければ法輪は消えて無くなりますか? 法輪はどれくらい長く持ちますか?
師:あなたが自分を煉功者として自覚し、わたしの言う心性の要求に従って行動すれば、あなたが煉功していなくても、それが消えて無くなることはないばかりか、逆に強化され、あなたの功力も伸びます。しかし反対に、あなたが誰よりもまめに煉功していても、わたしの要求した心性に従って行動していなければ、おそらく煉功は無駄になるかもしれません。煉功していても役に立ちません。どんな功法をやるにせよ、要求通りにやらなければ、邪法をやっていることになるかもしれません。もしあなたが頭の中で、「誰それはなぜあんなにいまいましいのか? 功能を持つようになったら懲らしめてやる」などと、良くないことを考えていれば、たとえ法輪功を学んでいても、煉功にこんなものを加え、わたしの言う心性の要求に従っていないのですから、それは邪法をやっているということになるのではありませんか?
 
弟子:師は「法輪はたとえ一億元出しても得られません」とよくおっしゃいますが、それはどういう意味でしょうか?
師:つまり、それはあまりにも貴重だということです。わたしが皆さんに与えたものは法輪だけではなく、皆さんの煉功を保証する一連のものも貴重なものであり、みな千金を積んでも取り替えられないものばかりです。
 
弟子:遅れてきた者も法輪を得られますか?
師:最後の三日間の前に来た人であれば、みな調整をしてあげ、しかも法輪をはじめ他のものを植え付けてあげます。最後の三日間に来た人の場合は何とも言えませんが、調整は受けられます。何かを植え付けてあげるのは難しいのですが、もしあなたの条件が悪くなければ植え付けてあげることもあります。
 
弟子:法輪で人体の正しくない状態を直すというのは、一種の方法ですか?
師:全部が全部法輪で直しているわけではなく、先生はさまざまな方法で直すことになります。
 
弟子:法輪功が創出される有史以前の背景はどんなものでしょうか?
師:この問題は大きすぎて、高すぎて、われわれのこの次元で知るべきことの範囲を超えていると思いますので、ここで話すわけにはいきません。ただし一つだけ、皆さんが知っておかなければならないのは、これは佛家気功であって、佛教気功ではなく、佛教ではない、ということです。しかし、われわれは佛教と共通した目標があります。修煉の法門が違い、歩む道が違いますが、目標は一致しています。
 
弟子:法輪功の歴史はどれくらいありますか?
師:わたしが煉っていた功法といま伝えているこのものとは完全に同じではありません。わたしが煉っていた法輪はいま伝えているものより威力がさらに大きく、功の伸びもいまのこれより速いのです。とはいえ、わたしがいま伝えているこの功法でも功の伸びはすでにかなり速く、そのため煉功者への心性の要求も一層高く一層厳しいのです。わたしがいま伝えているものは整理を経た上で公開したのであって、要求はそれほど高くありませんが、一般の功法よりは高いのです。それは元のものとは違っていますので、わたしが創始者だと言っています。法輪功の歴史の長さに関しては、公にして伝えたことがないので数えようがありませんが、わたしは去年(一九九二年)五月に中国の東北で初めて功を伝えましたから、去年五月から始まったと言ってもよいのです。
 
弟子:先生は受講しているわたしたちに何を与えてくださいましたか?
師:皆さんに法輪を与えました。修煉用の法輪もあれば、身体を調整する法輪もあり、同時にわたしの法身が皆さんを見守っており、法輪功を煉っている者なら、誰にも付いています。あなたが煉功しなければ法身は当然構ってくれず、行かせようとしても行ってくれません。あなたが何を考えているのか、わたしの法身は手に取るようにはっきり分かっています。
 
弟子:法輪功は修煉するわたし本人に、正果を得させてくれますか?
師:大法には果てがありません。如来の次元まで修煉して到達したとしても、頂点ではありません。われわれは正法ですので、ひたすら修煉してください。得るものはみな正果です。

 二、功理と功法


弟子:「大周天」を終えて帰ったら、空を舞う夢を見る人がおり、非常にはっきり見えたと言いますが、これはどういうことでしょうか?
師:皆さんに教えますが、坐禅あるいは夢の中でこのような状況が現れたとき、それは夢ではなく、元神が身体を離脱したことであって、夢とは全然違います。元神が身体を離脱したとき、あなたが何を見たのか、どういうふうに舞い上がったのかまで、あなたは非常に確実に見え、鮮明に記憶することになります。
 
弟子:法輪が変形したらどんな良くない結果になりますか?
師:その人が間違った方向へずれてしまったことを意味します。そうなれば法輪は効力を失い、しかもあなたの修煉にたくさんの面倒なことがもたらされることになります。あたかもこの大通りがあるのに歩まないで、脇道にそれて道に迷い、迷子になってしまったかのように、面倒なことに遭遇します。これらのことは常人の生活状態に反映されてきます。
 
弟子:一人で煉功する場合、家庭の環境はどう処理すればよいのでしょうか? 家に法輪をいただけるのですか?
師:ここにいる人の多くは、すでに家に法輪があるのを見ていますし、家の人も恩恵を受けはじめています。すでにお話したように、同じ時間、同じ場所に多くの空間が存在しているのであって、あなたの家庭も例外ではなく、処理をしなければなりません。処理の方法としては普通、良くないものを片づけたうえ、覆いをかけるのですが、そうすればどんな良くないものも入れなくなります。
 
弟子:煉功中に気が病のある部位を襲い、はれて痛むような感じがしますが、どういうことでしょうか?
師:病は一種の黒いエネルギーの塊です。講習会の初めにそれを打ち砕いてあげたら、病のある部位がはれるような感じがしますが、その黒い物質はすでに根っこを失っており、外へ向かって散っているので、すぐに排出されます。そうすれば病も存在しなくなります。
 
弟子:もともとあった病気は講習会を数日受講すると消えましたが、しかししばらく経ったらまた突然現れてきました。これはどういうことでしょうか?
師:この功では次元の飛躍が非常に速く、一つの次元はあっという間に通過しますので、あなたがまだ気づいていないのに、実際には病気がすでに治っています。その後の症状は、わたしのお話しした「劫難」がやってきたのです。気をつけて観察すれば分かりますが、もとの病状とは違います。他の気功師に調整を頼んでも、彼らもそれを動かせません。それは功が伸びるときの業力の反映なのです。
 
弟子:煉功してもまだ薬を服用する必要がありますか?
師:これはあなた自身で悟ってください。煉功しながら薬を服用するということは、煉功で病気が治るのを信じていないということです。信じているのならどうしてまだ薬を服用するのですか? ところが、あなたは心性の基準に従って自分を律していないのに、問題が起きれば李洪志が薬を服用させてくれないと言うかもしれません。しかし、李洪志が心性を厳しく律するようにと言っているのに、あなたはそうしましたか? 本当に大法を修煉する人の場合、身体に持つのはみな常人のものではないので、常人の病気はあなたの身体に上ることが許されません。あなたの心がしっかりしていて、煉功で病気が治ると信じて、薬をやめて、気にせず、治療にも行かなければ、治してくれる人が現れます。皆さんがここで日一日と元気になって、日一日と気分が良くなっているのは、なぜでしょうか? 多くの人の身体にわたしの法身がせわしく出入りしているのは、ほかでもなくあなたのためにそういうことをやっているのです。もし自分の心がしっかりしておらず、煉功していながら、信じないあるいは試してみようなどという態度をとっているなら、あなたは何も得られません。あなたが佛を信じるかどうかは、あなたの悟性や根基が決めるものです。もし佛が顕現してきて、ここからでも肉眼ではっきり見えるなら、人々はみな佛道に入りますので、考え方を変えるというような問題は存在しなくなります。まず信じることが先で、そうしてこそはじめて見えるのです。
 
弟子:師あるいは師の弟子に病気治療をお願いしたい人がいますが、お願いできるでしょうか?
師:わたしが世間に現れた目的は、病気治療のためではありません。病気になるべくしてなっている人がいます。わたしの言っていることは一部の人にはどうしても分かりませんが、わたしはそれ以上解釈をしません。佛家功法は、普く衆生を済度するためですから、他人の病気を治してもいいのです。われわれが病気治療を行うときは、組織的に行うのであって、宣伝を兼ねています。わたしは現れたばかりで、知名度が低く、人に知られていないため、功を伝えるときに聞きに来る人がいないかもしれません。治療相談サービスを通して、みんなに見てもらい、実際に良い効果を上げていますので、それが宣伝になっていますが、専門的に病気治療をやっているわけではありません。高い功能で専門的に病気治療を行うことは許されません。超世間法をもって世間法に代えるのはいけないことで、そういう状態ではないので、治療効果も時々良くありません。煉功者に責任を持つためには、あなたの身体を無病状態にまで調整してあげなければなりません。そうしてはじめて高い次元に向かって修煉することができます。もしあなたが自分の病気のことばかり気になって、全然煉功するつもりがなければ、たとえ口に出して言わなくても、あなたの考えていることをわたしの法身は何もかも知っているので、最終的にあなたは何も得ることができません。われわれは講習会ですでに皆さんのために身体を調整してあげました。もちろんそれはあなたがまず煉功者でなければならないのですが。別途で皆さんのために治療を行い、しかもお金をとるようなことは、われわれはしません。もしあなたの病気が治らなければ、それは悟性の問題です。もちろん個別には病気が非常に重い人もいます。身体にはっきりとは現れていなくても、実際にはとてつもなく重いのです。一回で調整しきれないかもしれませんが、われわれは力を尽くしました。あなたに対して責任を負わないのではなく、あまりにも病気が重すぎるのです。あなたが帰ってからも煉功すれば、病気が治るまでずっと治してあげます。このような状況は少数の部類に入ります。
 
弟子:煉功の時、どうすれば入静できますか? 煉功の時仕事上の難問題を考えるのは、執着と言えるのでしょうか?
師:利益に関することに無頓着でいれば、平素から静かで清らかな心を保てます。心の準備があれば、劫難がいつ来ても、どんなものであっても、劫難とはなりません。往々にして突然やってくるのですが、覚悟を決めていれば間違いなく乗り越えられます。そうしてはじめてあなたの心性の高さが量られます。執着心が取り除かれ、心性が高まり、人との争いや怨恨えんこんなどがみな放下できて、心が穏やかになって、はじめて定力じょうりきのことが語れます。もしそれでも入静できなければ、自分を他者とし、いま考えているのは自分ではないと思うのです。海がひっくり返っているほど雑念が湧いてきても、あなたはそこから脱けだして、好きなようにさせておけばいいのです。佛の名前を唱えるとか、数を数えるとか言う人がいますが、これらはみな煉功の数々の手段です。われわれが煉功するとき「意守」を求めませんが、しかしあなたは自分が煉功しているのだということを分かっていなければなりません。仕事上の難問題などは、個人の利益に入らないので、執着心ではなく、良いことです。わたしはある僧侶を知っていますが、彼は修煉のこういうことをよく分かっています。彼は寺で住職をやっていて、けっこう忙しいのですが、坐禅を始めたら仕事を切り離して、絶対考えません。これも功です。いざ本当に煉功するときには、何も考えず、何の雑念もありません。仕事のことは個人のものを混ぜ入れなければ、きっとうまくできると思います。
 
弟子:煉功の時、頭に良くない考えが浮かんだらどうしますか?
師:煉功の時に、時々あれこれ良くないものが現れてくることがあります。皆さんが煉功を始めたばかりで、一足飛びで非常に高い境地まで達するのは不可能ですので、今の段階であなたに高すぎる要求もしません。頭の中に悪い考えが全く浮かばないよう求めても、非現実的です。初めは徐々に進んでもかまいませんが、自分を放任してはなりません。時間が経ち、思想が昇華すれば、自分に対してもっと高いことを要求しなければなりません。なぜならあなたはもう大法を修煉しており、この講習会から帰ると、あなたはもう常人ではないからです。身体に非常に特殊なものを持っているのですから、自分の心性を厳しく律しなければなりません。
 
弟子:煉功の時、頭と下腹部が回っているように感じられ、胸が苦しいのですが。
師:これは初期段階で法輪が回っているためであって、今後このような症状が出てくるとは思いません。
 
弟子:煉功の時、小さい動物を引き寄せますが、どうすればよいでしょうか?
師:どんな功を煉っても小さい動物を引き寄せることがありますが、気に掛けなければすむことです。良いエネルギーの場では、特に佛家功においては、功の中に普く衆生を済度する要素があります。われわれ法輪功が時計回りをするときに自分を済度しますが、逆時計回りをするときは普く衆生を済度することになります。こうして循環を繰り返しますので、われわれのまわりの万物がみな恩恵を受けます。
 
弟子:貫通両極法では、手の上げ下げを一回と数えますか? 佛展千手法の時、手を伸ばす前に自分が非常に高大だとイメージした方がよいのでしょうか?
師:両手を一回ずつで一回とします。佛展千手法を行う時、自分のことを考えなくても、高大だと感じます。「天上てんじょう天下てんげ唯我独尊ゆいがどくそん」という意念を持って、そこに立っていればけっこうです。常に意念で追求しないように。それは執着にほかなりません。
 
弟子:煉功して坐禅をする時、足が組めなければどうしますか?
師:組めなければ、椅子の端に坐って煉ればよく、同じ効果を得ることができます。しかしあなたが煉功者であるかぎり、両脚を煉らなければならず、組めるようにしなければなりません。椅子の端に坐り、徐々に脚を煉って、最終的には組めるようにならなければなりません。
 
弟子:もし家族の人が良くないことをして、「真・善・忍」に背けばどうすればよいのでしょうか?
師:家族の方が法輪功を修煉しているわけではないので、このことは問題になりません。要は自分を修煉することです。自分で修煉すればけっこうです。あまり複雑に考えずに、しかも少し融通が利くようにした方がよく、自分自身の修煉に勤めてください。
 
弟子:日常生活で時々間違ったことをした後、非常に後悔しますが、しかし同じ間違いをまた犯してしまいます。これは心性が低すぎるためでしょうか?
師:これを書けたこと自体、あなたの心性がすでに高まって、それに気づいたことを物語ります。常人は間違いを犯しても気づかないのですから、あなたがすでに常人を上回っていることを物語っています。一回目間違いを犯して、心性を守られなくても、物事には過程がありますので、次回また問題に出会ったときに、さらに向上するようにすればよいのです。
 
弟子:四、五十歳の人でも、「三花聚頂」に達することができますか?
師:われわれは性命双修の功法なので、年齢のことは問いません。一心に修煉して、わたしの言う心性で自分を律しさえできれば、煉功すればするほど寿命が延びる現象が現れます。そうすればあなたは煉功時間が足りるようになるのではありませんか? しかし一つだけ、とりわけ性命双修の功法では、あなたの生命が延長されたとき、もし心性に問題が起きれば、すぐに生命の危険が現れてきます。煉功のために延長された生命ですから、心性が間違った方向へ行くと、すぐに生命の危険が起きます。
 
弟子:「柔の中に剛あり」の力具合を如何に心得たらいいのでしょうか?
師:これは自分で探るしかありません。たとえば、われわれが「大手印」を結ぶとき、見た目では手が非常に柔らかいように見えますが、実際にやるときはかなり力が入っています。この前腕と手首、指と指との間の力はかなりのものです。しかし見た目には非常に柔らかいのです。実際のところすごい力が入っています。「柔の中に剛あり」とはこのことです。こういうものは皆さんのために手印を結ぶとき、すでに皆さんに与えました。皆さんは煉功の中でゆっくり体感してください。
 
弟子:男女の間のことはあってもなくてもよいことでしょうか? 若い人は離婚しなければならないのでしょうか?
師:色欲のことについてはすでに述べましたように、皆さんのいまの次元では、僧侶や尼僧になれとは言っていません。皆さん自身がなろうとしているだけです。肝心なのはその心を放下することです! 放下できない心を全部放下してください。常人にとってはこういうのは一種の欲望ですが、われわれの場合は放下できて、淡々としていられなければなりません。こればかり追求している人がいて、溺れてしまって、常人としても度を超しています。煉功者としては言うまでもなくそうしてはいけません。あなたが煉功しても、配偶者が煉功していないので、正常な生活を過ごすのは現段階では許されることです。高い次元に達すれば、どうすべきか自分で分かるようになります。
 
弟子:坐禅するときに眠ってはいけませんか? どうすればよいでしょうか? 三分間も気を失ってしまう時がありますが、どういうことなのか分かりません。
師:眠ってはいけません。煉功しているのにどうして眠っていいのですか? 坐禅中に眠るのも魔の一つです。あなたの言う気を失うというのはあり得ないことです。質問をはっきり書けなかったのではありませんか? 三分間意識を失うのは大したことではなく、定力の高い人にはよく無意識状態がありますが、ずっとこのままではいけません。
 
弟子:修煉して正果を得ようとする決意のある人はみな正果を得られるのですか?根基がちょっと劣った場合はどうしますか?
師:あなたにその決意があるかどうかにかかっており、その決意がどれほど大きいかが肝心です。根基が少し劣っている人でも、あなたの決意と悟性次第です。
 
弟子:風邪を引いて熱を出しているときでも煉功できますか?
師:皆さんが講習会から帰ったら病気は全てなくなっていると言いましたが、あなたは信じていないのかもしれません。わたしの弟子も時に風邪を引いて熱を出しているかのようになることがありますが、それは関門や難に遭遇したのであり、次元を高めるべきことの現れです。彼ら自身みんなよく分かっていますので、気にしなければすぐ通過するのです。
 
弟子:妊娠中の女性は法輪功を煉ることができますか?
師:構いません。法輪は別の空間に植え付けており、われわれの功法には激しい運動がないので、妊婦に悪い影響はなく、かえって身体に良いのです。
 
弟子:先生がわれわれから離れたら、空間的な距離がありますか?
師:多くの人が、「先生が北京にいらっしゃらなくなったら、われわれはどうしたらいいだろうか?」と、思っています。あなたが他の功法を煉っても同じですが、先生といえども毎日そばにいてあげるわけにはいきません。法を、わたしは皆さんに教えました。理を、皆さんに教えました。この功法も、皆さんに教えました。完全に整ったものを全部皆さんに与えました。後はあなたがどう修めるかにかかっています。わたしのそばにいれば安心で、いなければ不安だということはありません。佛教徒の例を挙げましょう。釈迦牟尼がこの世にいなくなって二千年以上になりますが、彼らはそれを継承して、一心不乱に煉っているではありませんか? ですから煉るかどうかは自分の問題なのです。
 
弟子:法輪功を煉れば、辟穀へきこくすることがありますか?
師:ありません。というのは、辟穀は佛道がいまだ存在しなかったときに存在していた大道修煉であり、宗教になる前からあったもので、普通このような方法は単独修煉の部類に入るからです。当時寺院制度がなかったので、山の中腹でやるしかありませんでしたが、食べ物を提供してくれる人がいませんでした。修煉の時は閉じこもる必要があって、半年一年じっとしていなければなりませんので、このような方法を採りました。われわれの今日の修煉では、そのようにする必要はありません。あれは特定の環境のもとで採られた方法であって、功能などではありません。これを教える人がいますが、わたしに言わせれば、世界中の人が食事をとらなくなったら、これは常人社会を破壊したことになるのではありませんか? そうなってはならず、そういうことではないのです。
 
弟子:この五式の功法でもってどの次元まで修煉することができますか?
師:この五式の功法はあなたがとてつもなく高い次元まで修煉するのに十分間に合います。もちろんどの次元まで修煉したいのか、その時になれば自分で分かるようになります。功には終わりがないので、あなたが本当にそのレベルに達したら、それ相応の縁があって、さらに高い次元の大法を得ることができます。
 
弟子:法が人を煉るといいますが、法輪が常に回っているなら煉功しなくても良いということになりませんか?
師:煉功と寺院での修煉方法は違います。実際のところ、寺院では心の中で修行するといっても、やはり坐禅は必要で、あの功夫は煉らなければならないものです。功を伸ばすだけでいいからといって何も煉る必要がないというわけではありません。頭上に功があるだけでは、まだ煉功者とは言えないでしょう? どの功法にも伝承されてきたものがあるので、それを煉らなければならないのです。
 
弟子:他の功法をやっている人が言うには、意念のない功は功法ではないと言いますが、正しいでしょうか?
師:さまざまな説があまりにも多いのですが、わたしのようなやり方で大法を皆さんに伝えた人はいません。佛家では、有為の法はあまり高くならないと言いますが、有為の法とは別に動作を指しているわけではありません。坐禅、結印も動作ですので、問題は動作の大きさにあるのではありません。有為か無為かはあなたの意念にあり、追求にあります。意念があり、追求があれば、執着にほかならず、有為にほかなりません。そういう意味です。
 
弟子:心性すなわち徳ではありません。徳の多さは次元を決めるとおっしゃりながら、心性の高さが功の高さともおっしゃいますが、両者は矛盾しませんか?
師:あなたははっきり聞き取れていないのかもしれません。心性の内容は非常に幅が広く、徳はその中の一部です。ほかには「忍」も、苦に耐える力も、悟性も、トラブルにどう対処するかも含まれており、これらすべてが心性の問題に入ります。中には功の演化、徳の演化も含まれており、非常に広義なものです。徳の多さは、功の高さを示しているわけではなく、将来功をどれだけ伸ばせるかを意味しています。徳は錬磨を通して心性を高めてから、はじめて功に転化されます。
 
弟子:家族同士で違う功を練っている場合、互いに邪魔することになりませんか?
師:なりません。しかし、他の功法同士で邪魔し合うことになるかどうかについてはわたしは知りません。われわれの法輪功は誰にも妨げられることがありません。それどころかあなたが彼らに良い影響を与えます。なぜならわれわれは正法修煉ですので、間違った方向へずれてしまうことがないからです。
 
弟子:現在、社会ではいろいろな言い方が飛び交っています。たとえば金の鎖とか何とかありますが、どう対処すればよいのでしょうか?
師:皆さんに言いますが、それは純粋に人を騙すものであり、そういうものに返事をしないでください。全くばかげていることで、無視すればよいのです。そういうものは正しいかどうか一目で分かります。われわれのこの法では心性の修煉を厳しく求めていますが、一部の気功師のことをわたしは気功商人と呼んでいます。気功を商品として、金に換える資本としていますので、このような人が功を教えても大したものは教えられません。何かを持っていても高いはずがありません。中には邪なものもあります。
 
弟子:法輪功の学習者が寺院で帰依きえしている場合はどうしますか? やめるべきですか?
師:それはわれわれとあまり関係がありません。帰依したと言ってもそれは形式上のものです。
 
弟子:われわれ数人は、習って以来、頭が張り、目眩めまいがするのですが。
師:これは新しく入ってきた学習者で、身体の調整がまだ済んでいないためかもしれません。わたしが打ち放ったエネルギーは非常に強いので、病の気が外へ出るとき、頭が張るように感じることがあります。頭が張るというのはあなたの頭にある病を取り除いてあげているからで、良いことです。しかしあまりにも激しく取り除いていると、反応も激しいのです。われわれが七日間で講習会を行うと、耐えられない人が出てきますが、それ以上に時間を縮めると、恐らく問題が起きます。打ち放ったエネルギーが強いので、反応も非常に激しく、我慢できないほど頭が張ってきます。ですから講習会は十日間にした方が無難かもしれません。あとから入ってきた人の場合は反応が激しいことがあります。
 
弟子:煉功者はタバコを吸い、酒を飲むことができますか? 仕事の関係で酒を飲まなければならない場合はどうしますか?
師:この問題についてわたしはこう思います。われわれ佛家功では、酒はやめなければなりません。しばらく飲まないとあなたは飲みたくなるかもしれません。少しずつやめていっても良いのです。しかしあまり時間がかかりすぎないように。あまり時間がかかりすぎると懲罰を受けることがあります! タバコを吸うことについては、わたしは意志の問題だと思います。やめようと思えばやめられます。常人はよく「今日からタバコをやめる」と心に思いながら、数日も経たないうちに続けられなくなります。しばらくしてからまた思い出し、またやめようとします。このようにいつまで経ってもやめられません。常人は世間に身を置いているので、世間の人と人との間ではこのようなつきあいは避けられません。しかし、あなたは自分がもはや常人ではなく、修煉を始めているのだと自覚しなければなりません。意志があれば、目的は達成できるものです。もちろん、わたしの弟子のなかにはタバコを吸う人もおり、自分ではやめられますが、人から勧められると、面子にこだわって、また吸いたくなります。二日間吸わないと我慢できなくなりますが、吸い出すとそれもまた辛いのです。必ず自分で制御しなければなりません! つきあいで、しょっちゅうお客さんと酒を飲まなければならない人もいますが、これは難しい問題です。できるだけあまり飲まないようにしてみてください。あるいは自分で何とかして解決してください!
 
弟子:まだ法輪が回転しているのが見えない間は、もし時計回りの意念を与えると、ちょうど逆時計回りをしている法輪に影響を与えることになるのでしょうか?
師:法輪は自動的に回転しているので、あなたが意念で導く必要はありません。もう一度強調しておきますが、意念を用いないようにしてください。意念を用いてもそれを制御することはできません。意念で制御するとそれを逆方向へ回転させることができると思わないでください。下腹部にある法輪は、意念の制御を受けないものです。体外で身体を調整してくれる法輪は、あなたが回転させようと思えば、あなたの思惟活動を受け止めて、そういう感覚をあなたに与えるかもしれません。皆さんに言っておきますが、そうしないでください。人為的に煉ってはいけません。人為的に煉ると、人が功を煉ることになってしまうのではありませんか。法輪が煉っているのであって、法が人を煉っているのです。なぜいつまで経っても意念というものを放棄できないのでしょうか?如何なる功法も高い次元に達すると、たとえ道家の功法といえども、意念で導くことはありません。
 
弟子:法輪功を煉るにはどんな時間、場所、方位がいちばん効果があるのでしょうか? 何回煉ればよいのでしょうか? 食前と食後に煉ってもよいのでしょうか?
師:法輪は丸い形をしており、われわれのこの宇宙の縮図なので、われわれが煉っているのは宇宙の理です。そのうえ宇宙は運動しているため、逆に言えば、法が人を煉ると言えます。あなたが煉功していなくても、それがあなたを煉っているのです。いままで伝えられてきたすべての功法の理論と異なり、これは唯一、法が人を煉るものです。その他の功法は例外なく丹道を歩み、人為的に煉功したり、丹を蓄えたりしますが、われわれはそこまでする必要がありません。われわれのこの功はいつ煉ってもよく、あなたが煉功していなくても功があなたを煉るので、時間を選ぶ必要がありません。時間があればたくさん煉るし、あまり時間がなければ少なめにすれば良いのです。われわれのこの功法は要求がそれほど厳しくありません。ただわれわれの心性に対する要求は非常に厳しいものです。われわれの功法は方位も問わないので、どの方位に立っていても構いません。宇宙は回転しており、変動しているので、あなたが西側に立っていても、必ずしも西とは言えず、東側に立っていても必ずしも東とは言えません。わたしが弟子たちに煉功の時に西に向かって立たせるのは、ただ敬意を表すだけで、実際には別にこれといった作用はありません。煉功はどこでやってもけっこうで、家の中でも外でも構いません。とはいえやはり、場所、環境、空気とも比較的良い、特に汚れ物たとえばゴミ箱とかトイレとかから離れているところを選んだほうがよいと思います。あとは特に気にしません。大法を修煉するのに時間や場所、方向を問いません。食前でも食後でも構いません。しかしあまりお腹いっぱい食べたら、すぐに煉るのも辛いので、しばらく間をおいた方がいいでしょう。またお腹がすいた時も入静しにくいので、皆さんは自分の状況に合わせてやってください。
 
弟子:煉功し終えてから何か注意事項がありますか? 手で顔を擦る必要がありますか?
師:煉功をし終えてから、別に冷たい水とかに触れてはいけないということはなく、手で顔をぬぐったり、手を洗う必要もありません。それらはいずれも初期の頃に、人体の穴脈けつみゃくを開かせるために採られた方法に過ぎません。われわれは大法を修煉しているので、そういうものは一切ありません。今はもはや人体を変えるという状態ではありません。常人から煉功者になるのはとてつもなく難しいことのように見え、そのうえ一部の功法には直接人体を変える方法もないので、そういう功法にはかなり複雑な要求もありますが、われわれには一切なく、そういう説もありません。わたしが言っていないことは皆さんも気にせずに、ひたすら煉ってください。われわれは大法を修煉しているのですから、あなたの身体が初期の状態にあって、あれこれと恐れ、あるいはあれこれと要求するその過程は数日中に通過してしまいます。これは他の功法の数年間分の煉功に値するとまでは言いませんが、だいたいそれくらいでしょう。低い次元のもの、方位だとか、脈だとかについては、わたしは一切言いません。われわれは高い次元のものを説きます。大法修煉において、本当の煉功は「煉」という字であって、「練」ではありません。
 
弟子:煉功の後、すぐに大小便してもよいのですか? 小便のなかに泡が目立ちますが、気を漏らしたことになりませんか?
師:大丈夫です。われわれ煉功者は高い次元に立っており、大小便のとき確かにエネルギーがいっしょに出ていきますが、しかしそれぐらいのエネルギーは何でもありませんし、何の影響もありません。大法を修煉して、普く衆生も済度しなければならないのですから、これくらいのことは気にしないでください。われわれはもっともっと多くのものを得ています。この講習会で、わたしが打ち放ったエネルギーは非常に強く、壁にも多くのものが残っています。
 
弟子:法輪功を宣伝してもよろしいでしょうか? 講習を受けたことのない人に法輪功を教えてもよいのでしょうか? 講習を聞いたことのない人でも煉功場で煉功できますか? 録音テープと本を遠くにいる親戚や友人に郵送してもよろしいでしょうか?
師:われわれの功法を普及させ、より多くの人に恩恵を受けさせても、問題が起こる恐れはありません。皆さんに多くの法を明らかにしたのは、皆さんに法を知ってもらい、高い次元のものを理解してもらい、高い次元のものを見てもらうためです。前もって明らかにしたのは、皆さんが見たあるいは遭遇したときに理解できないようなことがないようにしたいからです。皆さんは他人に煉功を教えることはできますが、しかし法輪を植え付けることはできません。どうすればいいでしょうか? わたしが言ったように、あなたがためらったり疑ったりしてあまり煉功もしなければ、わたしの法身があなたから離れていきます。もしあなたが本当に煉功すれば、法身があなたを見守ります。ですからあなたが人に功を教えるとき、わたしが教えた信息を携えており、法輪を形成させる気機を携えているわけです。あなたが教えた人が本気で煉功すれば、法輪を手に入れることができます。縁があり、根基が良い人は、その場で法輪を得ることができます。われわれの本に詳細にわたって書いてあるので、教える人がいなくても上手に煉ることができます。
 
弟子:法輪功の煉功では、呼吸は問われますか? 如何に息を調整すればよいのでしょうか?
師:法輪功の煉功では、息を調整する必要もなければ、呼吸も問いません。それは初級レベルの功法で習うものであって、われわれの煉功では必要がありません。なぜなら息を調整するのは、丹を煉り、風を添え、火を加えるためだからです。逆式呼吸、順式呼吸、つばむなどはいずれも丹を煉るためのものであり、われわれはそれをやりません。あなたに必要なことはすべて法輪がやってくれます。さらに高い、さらに難しいものは、師の法身がやってくれます。どんな流派でも、たとえ道家がとりわけ細かいことを説いていても、人為的に煉功することによって成し遂げられるものではありません。実際はその流派の上師が煉ってくれて、演化してくれているのであって、本人にはそのわけが分からないだけです。自分で人為的にやってもできません。悟りを開き、功を開いた人でしかやり遂げられないのです。
 
弟子:煉功には意守がありますか? 功法の意念はどこにありますか?
師:われわれには意守がありません。一貫して皆さんに意守を教えておらず、皆さんに執着を放棄するよう、意念を求めないようにと言っています。第三式功法で、両手の掌が気を率いて両極を貫通させるとき、ちょっと考えるだけで結構です。その他は考えないようにしてください。
 
弟子:エネルギーを採りこむのは気を採りこむのと同じですか?
師:気を採りこんでどうするのですか? われわれが修煉しているのは大法であり、そのうち気を発することができなくなります。われわれの煉っているのは低い次元の気ではなく、放出しているのは光です。エネルギーの採集は、法輪に任せているので、自分でやる必要がありません。ところで、貫通両極法では、気を採りこんでいるのではなく、実は身体を貫通させているのですが、エネルギーを採りこむ役割も果たしています。しかしそれが主な目的ではありません。気の採集はどうすればいいのかということですが、大法を修煉しているので、ちょっと手を振れば、頭上に圧力を感じ、あっという間に気が溢れるほど寄ってきます。しかし、気を集めてどうするのですか?エネルギーもわざわざ採りこむものではありません。
 
弟子:法輪功には、「百日築基」や「胎息」がありますか?
師:それらはみな低い次元のものであり、われわれは煉りません。われわれはとっくに初級の不安定な時期を通過しています。
 
弟子:法輪功には陰陽の均衡がありますか?
師:これらはみな気を練る類いのもので、低い次元のものであって、気という次元を抜け出せば、あなたの身体には、陰陽という問題が存在しなくなります。どんな流派の功を煉るにせよ、本当に師の直伝を得ていれば、あなたが低い次元を通過するとき、間違いなく以前煉ったものをすべて捨てて、一つも残さないに違いありません! 新しい次元において、新しいものを煉り、さらにその次元を通過すれば、さらに新しいものを煉ることになるのです。そういうことです。
 
弟子:雷が鳴るときに煉功していいのでしょうか? 法輪功を煉功するのに音を気にしますか?
師:皆さんに一つ例を挙げましょう。以前わたしが北京のあるところで学習者に教えていたときのことですが、雨が降りそうで、雷がごろごろと鳴っていました。そのとき彼らが煉っていたのはわたしが弟子に伝えた功であって、煉るときは、法輪の上で煉功しなければなりません。雨が降りそうになったのに、彼らはまだ煉功が終わっていませんでした。しかし、雨は全然降ってきません。雲が非常に低く、ビルの上を雲の塊が翻り、雷がごろごろと大きな音を立て、空が真っ暗になりました。雷が法輪の輪に落ちましたが、われわれは傷ひとつありませんでした。雷が地面に落ちたときの様子が非常にはっきり見えましたが、われわれは傷つけられることがありませんでした。これはわれわれのこの功が守られていることを物語っています。普通わたしは、煉功するとき天気のことを気にしません。煉功しようと思うときに煉功し、時間があれば煉功し、音なども気にしません。他の功はみな音を気にします。静まり返ったときに突然大きな音が聞こえてくると、まるで体中の気が爆発して光を発しながら体外へほとばしるかのような感覚を覚えることがあるからです。しかし大丈夫です。われわれの功にはそういった間違いが起きません。もっともできるだけ静かなところで煉功するに越したことはありません。
 
弟子:先生のお姿を観想したほうがいいのでしょうか?
師:観想する必要はありません。あなたの天目が開いたら、わたしの法身がすぐ側にいるのが見えます。
 
弟子:五式の功法を煉功するとき何か注意することはありますか? 連続して煉らなければなりませんか? 九回繰り返す動作は、心の中で数を数えてもいいのですか? 九回を超えたり、あるいは動作を間違えたりしたら逆の作用が起きますか?
師:五式の功法はどれを煉っても構いませんが、できれば煉功を始める前に、第一式の功法を煉ったほうがいいと思います。それによって身体全体が伸びやかになるからです。まずそれを一回やって、身体が十分に伸びやかになってから、他の功法を煉った方が効果が良くなります。時間があればたくさん煉り、なければ少なめにしてもよく、あるいはその中の一式を選んで煉ってもけっこうです。第三、四式功法では、それぞれ九回やることになっており、本には心の中で数を数えるようにと書いてありますが、帰ってから試してみてください。お子さんに側に立って数えてもらい、やってみてください。九回し終えたら、気機を探そうと思っても見つかりません。これはこのようになっているのです。初めは頭で考えなければなりませんが、慣れたら自ずとそこで止まることになります。覚え間違ったり、あるいは回数をオーバーしたり足りなかったりしたら、直せばいいのです。
 
弟子:どうして終わるときに、功を収めることをしないのですか?
師:法輪は自動的に回転しており、あなたが煉功を終えたのが瞬間的に分かります。それのエネルギーは非常に大きいので、一瞬のうちに放出したものを回収してしまいます。あなたがいくら人為的にやってもそれには及びません。ただこれも功を収めるのではなく、エネルギーを呼び戻しているだけです。他の功法では、一瞬のうちに止まってしまいます。この功法では、ずっと煉っており、止まってからも煉っていますので、功を収めることによって止めるということはできないのです。法輪を止めようと思っても、あなたにはできません。あまり深遠なことを言っても理解してもらえませんが、あなたがもしそれを止めることができれば、わたしのところのも止まらなければならないことになってしまいます。あなたにはわたしのところのを止めることができますか?
 
弟子:結印、合掌は站樁として煉ってもよいのでしょうか?
師:第一式功法――佛展千手法は站樁として煉ってはいけません。力一杯伸ばしすぎると、問題が起きかねません。
 
弟子:煉功のとき、脇の下を「虚」にしたほうがいいのですか? 第一式功法を煉るとき、脇の下がきつく感じるのはなぜでしょうか?
師:あなたに病気があるのではありませんか? 初期状態において、あなたの身体を変えるときに、あれこれの現象が現れ、少し症状があるかもしれませんが、それは功がもたらすものではありません。
 
弟子:李先生の講義を聞いたことのない人でも、公園で他の学習者と一緒に煉功できますか?
師:できます。学習者は誰でも他人に煉功を教えることができます。学習者が他の人に煉功を教えるのは、わたしが教えるのとは違います。わたしは皆さんのために直接身体を変えてあげるのです。しかし煉功するとすぐ法輪を持つようになる人もいます。学習者の背後にみなわたしの法身がいて、それが直接処理してくれているからです。これは縁によります。縁の強い人は、その場で法輪を得ることができますが、縁の強くない人は、長期の煉功を通して、自分で徐々にこのような玄機げんきを形成していきます。そのうえでさらに煉功して玄機を法輪にしていきます。
 
弟子:静功「神通加持法」の手印動作の意味は何でしょうか?
師:これはわれわれの言語では解釈できません。ひとつひとつの動作に含まれている意味はたくさんありますが、要するに、わたしは煉功しようとしており、佛法を煉ろうとしており、身体を調整して、煉功状態に入ろうとしている、ということです。
 
弟子:煉功して乳白体に達すれば、毛孔までも開き、身体呼吸になるのですか?
師:皆さん体感してみてください。皆さんはすでにこの次元を通過しています。わたしが皆さんの身体を乳白体に調整してあげるのに、十時間以上法を説かなければなりません。これ以上短縮するのは無理です。皆さんは他の功法では十数年あるいはもっと長い時間煉らなければならないのですが、われわれはここで一気に皆さんをそのレベルまで持っていきます。そのレベルでは心性の要求がなく、師の能力によって行われるので、あなたがまだ気づかないうちに、この次元はすでに通過してしまいました。場合によっては数時間しかかかりません。ある日、あなたは非常に敏感になったと感じるでしょうが、しばらくすると、また敏感ではなくなります。実は、それは大きな次元を通過したことにほかなりません。ところが他の功法ではあなたは一年あるいは数年間もこのような状態を保たなければなりません。しかし、実のところこれらはみな低い次元のものです。
 
弟子:バスの中であるいは列に並んでいるとき、法輪功の各動作を想像してもいいですか?
師:われわれの功は意念を用いるものではなく、毎日必ずどれくらいの時間煉功しなければならないというものでもありません。もちろん煉功の時間が長ければ長いほどいいのです。あなたが煉功していないときは、逆にそれがあなたを煉ってくれます。しかし煉功の初期段階では、それを強化させるために、やはりたくさん煉ったほうがよいのです。一、二カ月出張していて、その間仕事に追われて、煉功できませんでしたが、帰ってきてみると全然影響を受けておらず、法輪が相変わらず回っている、という人もいます。それは絶えず回転しているからです。頭の中で自分が煉功者だということを忘れずに、心性をしっかり守っていれば、それが作用します。ただ一つ、あなたが煉功もしないうえ、自分を常人と混同するようなことがあれば、それが消えてしまいます。
 
弟子:法輪功は密教と一緒に煉ってもいいのでしょうか?
師:密教も法輪ですが、われわれの功と一緒に煉ってはいけません。もしあなたが密教を煉って法輪をすでに形成していれば、密教を煉ればよいのです。密教も正法ですから。しかし同時に煉ってはいけません。密教の法輪は中脈を修めるもので、水平に回転します。その法輪はわれわれのと違い、呪文があります。われわれの法輪は下腹部に立っており、平面が外に向かっています。下腹部は決まった大きさしかなく、わたしの法輪ひとつで一杯になりますので、もう一つ入れるとごちゃ混ぜになります。
 
弟子:法輪功を煉ると同時に他の佛家功法を煉ってもいいですか? 観音の録音テープは聞いてもいいですか? 在家の居士こじが功を学んでから、お経を読んでもいいですか? 同時に他の功法を煉ってもいいですか?
師:わたしはしてはいけないと思います。どの法門もひとつの修煉方法であって、病気治療や健康増進のためではなく、本当に修煉しようとすれば、一つに専念しなければなりません。これは厳粛な問題です。高い次元を目指して修煉するには、一つに専念して修煉しなければなりません。これは絶対の真理です。佛家の中の異なる法門も混ぜてはいけないものです。われわれが説いているこの功法は高い次元のもので、悠久な年代を経て伝わってきたものですので、自分の感覚に頼ってはいけないです。他の空間からその演化の過程を見れば、きわめて玄妙で、きわめて複雑なものなのです。あたかも精密機器が、一つの部品でも他のものに取り替えられたらすぐ壊れてしまうように。功法も同じで、如何なるものを混ぜてもいけません。混ぜれば間違いなく問題が起きます。各門派の功法はいずれも同じですが、煉ろうとすれば一つに専念しなければなりません。一つに専念しなければ、どうにも修煉はできません。それぞれの流派の長所を取り入れるというのは、病気治療と健康増進の次元の言い方であって、あなたを高い次元へ導くことはできません。
 
弟子:他の功法を煉っている人と一緒に煉功すれば、互いに影響し合うことがありますか?
師:相手がどんな功を煉っているにせよ、道家功でも、神功でも、佛家功でも構いませんが、正法であるかぎり、われわれには何ら妨げにならず、あなたも相手にとって妨げになりません。一方、相手はあなたの近くで煉功すればメリットがあります。丹を煉るのと違い、法輪は霊体であって、自動的に助けてくれるからです。
 
弟子:他の気功師に身体の調整を頼んでもいいですか? 他の気功師の講義を聞いたら影響がありますか?
師:この講習会から帰ると、皆さんは自分の身体がどう変わったのか分かると思います。しばらくすれば皆さんの身体に病気が現れることが許されなくなります。再び病気が現れても、たとえば風邪とか腹痛とかのように見えても、実はそういうのとはもはや違って、それは劫難であり、関門であることになります。あなたが他の気功師に調整を頼むのは、あなたが悟っておらず、わたしの言うことを信じていないからです。求めようとする考えを持っていれば、あなたの修煉を妨害する良くない信息を招いてしまうことになります。その気功師の功が憑き物の功であれば、あなたはそれを招いてしまいかねません。講義を聞くのも同じで、聞きたいと思うのは求めることではありませんか? この問題はあなた自身で悟ってください。これは心性の問題ですので、わたしは口出ししません。もしその人が非常に高い法を講義し、心性のことを説いていればそれでも構いません。わたしの講習会に参加してから、あなたの身体はやっとのことで調整してあげることができました。もともとあなたの身体には練功の信息がかなり乱雑に入り乱れていましたが、調整を経て、悪いものが取り除かれ、良いものだけが残りました。もちろんわたしは他の功法を学ぶことに反対しませんが、乱雑に学んではいけないと思います。あなたはすでに大法を修煉し始めており、法身があなたのすぐ側におり、高いものを得たにもかかわらず、引き返して探そうとしています!
 
弟子:法輪功を煉る一方、他の功法を学んでもよいのでしょうか? たとえば按摩あんま護身ごしんこう一指いっしぜん、太極拳など、その功は練らないのですが、その方面の本を読んでもよいのでしょうか?
師:按摩、護身は学んでもよいのですが、闘う心を起こしたとき、ときどき違和感を覚えることがあります。一指禅、太極拳は気功の類いで、煉れば中に加えてしまう可能性がありますので、わたしのものがあなたの身体において純粋でなくなります。本を読むことですが、心性を説くものならまだ構いません。しかし一部の本の著者は自分でもよく分からないのに、結論を下しているので、あなたの頭はそれによってかき乱されかねません。
 
弟子:「頭前抱輪」では、手が触れ合う時がありますが、大丈夫でしょうか?
師:触れ合わないようにしてください。われわれは離れるように要求していますが、触れ合うと、手のエネルギーは戻ってしまうことがあります。
 
弟子:第二式功法を煉るとき、腕が持ちこたえられなくなったら、しばらく下ろしてまた煉ってもいいのですか?
師:煉功は辛いものです。疲れたらすぐ下ろしたりすると、何の意味もありません。時間は長ければ長いほどいいのですが、自分の力に合わせて行ってください。
 
弟子:結跏趺坐のとき、どうして女性の場合、左足が下にあり、右足が上にあるのですか?
師:われわれの煉功には、女性の身体と男性の身体は違う、という一つの基点があります。ですから女性の本体で自分自身を煉るには、女性の生理に合わせてはじめて効果があります。女性は通常左足が右足を支えているので、自分自身の状態に合います。男性はその反対であり、基点が違います。
 
弟子:録音テープあるいは音楽を聞きながら、あるいは口訣くけつを念じながら煉功していいのですか?
師:もし良い佛家音楽があれば聞いてもいいのですが、本当に煉功するには何の音楽も要りません。定力が求められるからです。録音を聞くのは、その一念で万念を追い払うためです。
 
弟子:「貫通両極法」では、力を抜いたほうがいいのですか、それとも力を入れたほうがいいのですか?
師:「貫通両極法」では、自然に立ち、力を抜くよう求められています。第一式功法の要求とは違い、その他の功法はいずれも力を抜くよう求められています。
 

 三、心性を修煉する


弟子:わたしは「真・善・忍」に従おうとしたのですが、昨夜夢の中で人と喧嘩しました。すごい喧嘩でした。「忍」をしようとしましたが、「忍」ができませんでした。これはわたしの心性の向上を促しているのですか?
師:もちろんそうです。夢はどういうことなのかについて、わたしはすでにお話ししましたので、皆さんは自分で悟ってください。心性を高める出来事は突然やって来るのであって、あなたがそれを迎えるための心の用意をしてからやってくるものではありません。ある人が良いか悪いかを見るのは、心の用意ができていないときにこそ分かるのです。
 
弟子:法輪功の「真・善・忍」の中の「忍」についてですが、如何なる出来事に対しても、正しいかどうかを問わず、「忍」をしなければならないのですか?
師:わたしが言っている「忍」は、あなたの個人の利益にかかわる問題において、あなたが執着して放下できないものにおいて、あなたの心性を高めることを指しています。実際に「忍」は決して悪いことではなく、たとえ常人にとっても悪くありません。昔の話を一つしましょう。大将軍韓信は小さいときから武術をたしなんでいましたが、当時武術をやる人間は好んで剣をさげていました。韓信が街を歩いていると、ならず者がやってきて、「お前はなぜそれをさげているのか? 人を殺すだけの勇気があるのか? 殺せるものならまずこの俺を殺せ。殺す勇気がなければ、俺の股下をくぐって行け!」と、そう言いながら、首を突き出してきました。すると韓信は本当にくぐっていきました。彼の「忍」は並大抵のものではありません。「忍」を軟弱でいじめられやすいものと見る人もいますが、本当のところ「忍」ができる人の意志はとてつもなく堅いのです。ある出来事が正しいかどうかは、それが本当に宇宙の理に合致しているかどうかによります。ある出来事はあなたのせいではなく、他人があなたを怒らせたものだと、あなたは思うのですが、実際、あなたにはなぜそうなのかが分からないのかもしれません。あなたは「知っているとも、つまらないことがきっかけだった」と言うかもしれませんが、わたしが言っているのは別の理であって、われわれのこの物質空間で見えるものではありません。冗談ですが、もしかするとあなたが前世人に借りがあったせいかもしれません。あなたにどうしてそれが正しいか間違っているのか判断できるのですか? われわれはだからこそ「忍」をしなければなりません。まず人を怒らせておいてそれから「忍」をする理屈がどこにあるのですか?本当にあなたを怒らせた人に対しては、あなたは「忍」ができなければならないばかりか、その人に感謝しなければなりません。その人があなたを罵り、先生の前であなたの告げ口をしたとしても、あなたは後で心の中で、ありがとう、と言わなければなりません。「それでは『阿Q』になってしまうではないか」と言うかもしれませんが、それはあなたの考え方です。その出来事において、もしあなたが相手と異なる見方ができれば、あなたの心性はそれこそ高まったことになります。この物質空間においては相手が得をしたのですが、あちらでは相手があなたに何かを与えてくれたのではありませんか? あなたの心性が高まれば、黒い物質が転化されることになり、一石三鳥なのに、どうして相手に感謝しない理由がありましょうか? 常人の角度からは理解し難いのです。わたしは一般の人に向かって言っているわけではなく、煉功者に聞かせているのです。
 
弟子:憑き物に憑かれていない人は、心性を高めれば憑き物を防ぐことができますが、憑き物に憑かれている人の場合はどうすればよいのでしょうか? どうすれば憑き物から逃れることができますか?
師:一正が百邪を圧します。あなたは今日この法を得たので、これからたとえ憑き物があなたにおいしいことをもたらしてくれても、あなたはそれを欲しがらなくなります。それがあなたに金銭や名、利をもたらしてくれたとき、あなたはうきうきして、「ほら見てごらん、わたし、すごいでしょう」と、人の前で見せびらかしたりします。一方、辛い目に遭わされたときにはやめようと思って、先生に頼んで治してもらおうとします。ならばそれがあなたにおいしいことをもたらしてくれたときにどうして受け入れたのでしょうか? そんな人の面倒を見てあげるわけにはいきません。あなたはメリットを受け入れたのですから。メリットばかり得ようと考えるなんて、いけません。あなた自身、心から求めず、メリットを与えられても欲しがらず、先生の言う方法に従ってひたすら修煉すべきです。正々堂々として、心がしっかりすれば、憑き物が恐れることになります。メリットを与えられても受け取ろうとしなければ、それは去っていかざるを得ません。それでも去らなければ悪事を働くことになりますので、その時になれば、わたしがそれを退治することができるようになります。手を一振りすれば跡形もなく消えてしまいます。ただしあなたがメリットを受け取ろうとすればそうはいきません。
 
弟子:公園で煉功したら、憑き物に憑かれることがありますか?
師:皆さんに何度も言いましたが、われわれは正法修煉なので、心が正しければ百邪を圧します! 正法修煉で、心が非常に純正なので、何ものも上ってくることはありません。法輪はすごいものですから、良くないものが上って来られないばかりか、目の前に来ただけで恐れるのです。信じなければよそへ煉功に行ってみてください。みんなあなたを恐れるのです。数を言えば皆さん怖くなるでしょうが、多くの人が憑き物に憑かれているのです。あなたが病気治療と健康増進の目的を達してからもさらに練り続けているのは、何を得ようとしているのですか? 心が正しくなければこういう問題を起こしてしまいます。とはいえ、そういう人を責めているわけではなく、彼らにはこれらの理が分からないからです。わたしが現れた目的のなかにこれも含まれており、皆さんのためにこういった間違ったことを正してあげたいのです。
 
弟子:将来はどんな功能が現れてくるのでしょうか?
師:わたしは言いたくありません。人それぞれ状況が違うから、言いにくいのです。この次元に何が現れるか、あの次元に何が現れるかについて、肝心なのは、一つ一つの次元におけるあなたの心性です。執着心がこの方面で取り除かれたら、この方面で功能が現れてきます。しかしあなたに現れてくる功能は間違いなく初期のものであって、高くないはずです。心性が非常に高いところに達していなければ、あなたに功能を与えるはずがありません。ところでわれわれの講習会においては、一部の人は根基がかなり良く、すでに「神足通」が現れており、雨の中でも雨に降られることがありません。運搬功能が現れている者もいます。
 
弟子:心性を修煉して、一切の執着心を取り除くというのは、佛家の「空」、道家の「無」に達することですか?
師:われわれの言う心性あるいは「徳」は、佛家の「空」、道家の「無」でもって包容できるものではありません。反対に、彼らのものはすべてわれわれの心性の中に含まれています。
 
弟子:佛は永遠に佛でいられますか?
師:修煉して得道した者が悟りを開けば、大覚者に属し、高次生命にほかなりません。しかしあなたが永遠に悪いことをしない保証はありません。もちろんあの次元では普通あなたは悪いことをしません。真相が見えているからです。しかしもし悪いことをしたら、同じように堕ちていきます。永遠に良いことをすれば、永遠にそこに居続けます。
 
弟子:大根器の人とはどんな人ですか?
師:これはいくつかの要素によって決まります。(一)その人の根基が非常によい。(二)悟性が非常に高い。(三)忍耐力が非常に強い。(四)執着心が小さく、世間のものに対して無頓着である。これが大根器です。大根器の人は非常に得難いのです。
 
弟子:大根基のない人が法輪功を煉っても功が出ますか?
師:大根基のない人にも功が現れてきます。なぜなら誰でも徳の成分を持っているからです。徳の成分を少しも持っていないことはあり得ないことで、そういう人はいません。たとえあなたの身体に白い物質が無くても、黒い物質があり、黒い物質が煉功によって白い物質に転化されますので、手続きが一つよけいにかかるだけに過ぎません。煉功の中であなたは苦しみに耐えて、心性を高め、代価を払ったので、功も得られるわけです。煉るのが先決条件で、それから師の法身がそれを功に転化してくれます。
 
弟子:人は生まれたときから、その一生が定められています。では、努力によってそれを変えることができますか?
師:当然変えられます。努力するということも段取りされているのですから、努力しなければなりません。あなたは常人ですから。しかし大きなものは変えられません。
 
弟子:天目が開いていない状況で、どうして受け取った信息の善し悪しを判別できるのですか?
師:あなた自身では判別し難いです。煉功中、あなたの心性を試そうとすることがいっぱいあります。法身はあなたの生命に危険が生じないように守ってくれますが、一部のことについてはたとえ現れても必ずしも面倒を見てくれるとは限りません。自分でそれを乗り越え、自分でそれを解消させ、自分で悟らなければなりません。良くない信息が現れて、今日の金券くじの当選番号を教えてくれたりすることがありますが、それは正しいかもしれませんし、正しくないかもしれません。あるいはあなたにその他のことを教えてくれますが、どうするかはあなた次第です。心が正しければ、邪は侵入できません。あなたが心性をしっかり守っていれば何も問題が起きません。
 
弟子:気分、情緒が不安定の時に煉功してもよいのでしょうか?
師:気分があまり良くないときは、坐禅をしても入静できず、悪いことばかり考えます。煉功には信息がありますので、頭で良くないものばかり考えると、煉功にそれを持ち込んでしまうことになり、人為的に邪法を練ることになってしまいます。あなたが煉っている功は有名な師が教えてくれたものかもしれず、どこかの上師が教えてくれたものかもしれず、あるいは密教の活き佛が伝えたものかもしれませんが、しかしあなたは彼らの要求した心性に従って厳しく行わなければ、いくら彼らが教えたといっても、彼らの功ではなくなります。皆さん考えてみてください。もしあなたがそこで站樁をくたくたになるほど煉っていながら、頭の中では、「勤め先の誰それはなんであんなにいまいましいのか? なんでわたしの告げ口をするのか? どうすれば給料を上げてもらえるのか? 今は物価が上がる一方なので、買いだめしておこう」などと、あれこれ考えるとします。それではあなたが人為的に、あるいは無意識的に、知らないうちに邪法を練っていることになるのではありませんか? ですから気分が良くないときはなるべく煉らないほうがよいのです。
 
弟子:「きわめて高い心性」の基準は何ですか?
師:心性は修煉するものですので、基準などなく、あなた自身がどう悟るかにかかっています。もしどうしても基準を示せと言うなら、何かが起きたときに、覚者ならどうするのか、を考えてみることに尽きます。模範人物はもちろん非常に素晴らしい人たちですが、それでもやはり常人の模範に過ぎません。
 
弟子:どの気功師の講演や言葉にも懐疑的な態度を抱いてはいけませんが、人を騙し、金を騙すものに出会ったらどうしたらいいのですか?
師:それは一概には言えません。まずその人が何を言うかによります。人を騙すものに出会えば、自分で判断しなければなりません。気功師の善し悪しを判別するには、その人の心性を見ればよいのです。心性の高さは、功の高さだからです。
 
弟子:どうすれば業力、つまり佛教で言う業障を消すことができますか?
師:煉功そのものが業を消すことです。いちばん良いのは、自分の心性を高めることです。それは黒い物質を白いもの、すなわち「徳」という物質に転化させ、徳を功に転化してくれます。
 
弟子:法輪功を煉るのにどんな戒律がありますか?
師:佛教の中で戒の対象となるものは、われわれはほとんど戒めなければなりません。しかし見方は違います。われわれは出家者ではなく、常人の中で生活しなければなりません。ですから異なります。一部のものはそれに対して淡々としていられれば結構です。もちろん、功力が絶えず向上するに従って、きわめて高い次元に達したときに、あなたへの心性の要求もきわめて高いものになります。
 

 四、天目


弟子:先生が説法されるときに、先生の頭上三尺のところに金色の光の環があり、背後に人の頭ぐらいの大きさの、多くの金色の光の環が見えますが。
師:そう見えた人の天目の次元は相当高いと言えます。
 
弟子:先生の弟子が人のために病気治療を行い、酒で噴霧をしたときに金色の光がその中に混ざっているのが見えましたが。
師:そう見えた人はかなりのところまで修煉していると言えます。打ち放たれた功能まで見えたからです。
 
弟子:子供が天目を開いたら、本人に影響がありますか? 天目が開いたらエネルギーを放出することになりませんか?
師:六歳以下の子供は天目が非常に開きやすいです。子供は煉功しないので、天目が開いたらエネルギーを放出することになりますので、家族の中で誰かが煉功していなければなりません。いちばん良いのは、毎日一回見させることです。閉じないようにするとともに、過度に外へ放出しないようにするのです。子供はできれば自分で煉功したほうがいいです。多く使えばエネルギーも多く放出することになりますが、影響を受けるのは肉体ではなく、もっとも根本的なものです。しかし、もししっかり保つことができれば、問題ありません。わたしが言っているのは子供のことで、大人ではありません。一部の人は天目が開けばエネルギーを放出するのではなく、開けっ放しにしているのであって、そもそもエネルギー放出は問題になりません。しかしとても高い次元のものは見えません。高い次元が見える人もいますが、見るとき、法身あるいはその他の師がエネルギーを提供してくれますので、問題ありません。
 
弟子:先生の身体から金色の光が放たれているのが見え、先生の影も見えましたが、瞬く間に消えてしまったのはなぜでしょうか?
師:それはわたしの法身にほかなりません。わたしが説法するとき、頭上に功柱がありますが、わたしのこの次元ではそういうふうになっているのです。瞬く間に消えてしまったのは、あなたがまだ天目を使いこなせず、目で見てしまったからです。
 
弟子:特異功能はどういうふうに運用すればよいのでしょうか?
師:特異功能を軍事科学あるいはその他の高度な科学技術に用い、または情報収集に用いることについて、わたしはその中に一つの問題があると思います。われわれのこの宇宙には特性があります。この特性に合えば、効き目がありますが、合わなければ思い通りにいきません。いくらその人に良いことをさせようとしても、高い次元のものはその人には分からないので、せいぜい感応するだけに過ぎません。小技を施しても社会の正常な発展に影響はありません。その人がもし何かを変えようとすれば、それは非常に大きなことになってきますので、彼にさせるかどうか、彼の一存では決められません。なぜなら社会の発展は人間の意志に左右されるものではないからです。その人がどこそこまで達しようと思っても、それは誰にも決められないことなのです。
 
弟子:人間の意識はどうやって出入りしているのですか?
師:われわれが言う意識は普通、頭のてっぺんから出ていきますが、もちろんそうとは限りません。それは如何なるところからも出ていくことができます。一部の功法が強調しているように頭のてっぺんからしか出られないということではありません。どんなところからでも離脱することができます。入るときも同じです。
 
弟子:天目の区域に赤い光がちらつき、真ん中が暗いトンネルで、次から次へと飛ぶように花を咲かせていますが、これは天目を開かせているのですか? 時々星の光や稲妻も見えますが。
師:星の光が見えるようになれば、そろそろ開かれようとしているのです。稲妻が見えたら、実際あと一歩のところまで開かれています。
 
弟子:先生の頭上に赤や緑の光の環が見えましたが、目を閉じると何も見えなくなりました。視角の端で見たものですか?
師:視角の端で見たものではありません。あなたは目を閉じて見ることができないため、開けて見ているだけです。往々にして天目が開いた人は使い方を心得ておらず、時々目を開いて無意識のうちに見えることもありますが、しかし仔細しさいに見ようと思えば、目を使ってしまいますので、また見えなくなります。気がつかないときまた見えたりします。
 
弟子:娘は空に輪が見えました。どんなものかはっきり言えませんでしたが、法輪のバッチを見たとき、それだと言いました。娘には本当に天目が開いたのでしょうか?
師:われわれの法輪バッチは、六歳以下の子供なら一目見れば天目が開きます。しかしあなたはわざとそうしないようにしてください。いずれにしても子供には見えるのです。
 
弟子:天目が開きましたが、使い方が分かりません。先生にご教示願います。
師:天目が完全に開いたときは、使い方が分からない者でも使えます。非常に明るくて使いやすいときは、使い方が分からない者でも使えるようになります。天目で物を見るというのは、無意識の状態において見えるのであって、仔細に見ようと思えば、無意識のうちに目を働かせ、視神経を通ってしまうので、見えなくなります。
 
弟子:天目が開いてから見えるのは、宇宙空間全体の様子でしょうか?
師:天目が開くには次元の違いがあります。つまり、どれだけ真相が見えるかということは、次元の違いによって決まるのです。天目が開いたからといって、宇宙のありとあらゆるものが見えるというわけではなく、むしろこれからの煉功において徐々に自分の次元を高め、最終的に悟りを開くようになって、はじめてより多くの次元が見えるようになるのです。それでもあなたに見えるのが宇宙全体の真理かどうかは保証できません。なぜなら釈迦牟尼でさえ、在世中説法をしていた当時、絶えず自分を高めていたからです。次元を一つ高めるごとに、彼は以前説いたものに不安を覚え、さらに上へ行ってから下を見ればまた違うと思うようになりました。だからこそ彼は最後に、「法には定法じょうほう無し」と言ったのです。一つの次元に一つの理があり、彼でさえ宇宙全体の真理を完全に見極めることができませんでした。われわれ一般の人から見れば、世間修煉によって如来の次元に達することだけでも不可思議なことです。なぜなら一般の人は如来という次元しか知らないからです。さらに高いものは一般の人には知られていないので、受け入れられません。如来は佛法の中のごくごく小さい次元の一つであって、「大法無辺」とはこのことを指しているのです。
 
弟子:われわれに見えた先生の身体にあるものは、本当の存在でしょうか?
師:もちろん本当の存在です。すべての空間は物質によって構成されており、構造がわれわれのと違うだけに過ぎません。
 
弟子:わたしの予感は起きたこととしばしば一致しますが。
師:それはつまりわれわれの言う予測功能です。実際それは宿命通の低い次元のものです。われわれが煉っている功はみな他の空間にあり、その空間には時空の概念が無く、どんなに離れていても同じなのです。
 
弟子:煉功中に、色彩豊かな人や、色彩豊かな空、画像が見えましたが。
師:あなたの天目が開いたので、あなたに他の空間のものが見えたわけです。他の空間には次元の違いがあるので、あなたに見えたのはその中の一つの次元であるかもしれません。それは見えたとおりに美しいものです。
 
弟子:煉功中に突然バーンという音がして、身体が突き破られたかのように感じ、多くのことがぱっと分かったような気がしましたが。
師:煉功中にこのような状況が現れやすい人がいます。身体の一部を炸裂させて、一部の方面で悟りを開きますが、これは漸悟にみられる状況です。あなたの修煉が一つの次元を終えると、一部を炸裂させるのですが、これらはいずれも正常なのです。
 
弟子:動きがとれないように感じるときがありますが、どんな原因でしょうか?
師:煉功の初期において、あなたは突然手あるいはある部分が動かなくなったような感覚を持つことがありますが、なぜでしょうか? あなたに「定功じょうこう」という功能が現れたからです。それはあなた自身に存在する功能です。この功能はすごいもので、ある人が悪いことをして逃げているときに、あなたが「定」と言えば、その場でその人が動けなくなるのです。
 
弟子:どんな時に人のために病気治療をしてよいのでしょうか? わたしは以前人のために病気治療を行って、一定の効果がありました。法輪功を学んでから、病気を治してほしいと頼んでくる人もいますが、治してあげてもよいのでしょうか?
師:この講習会にいる人には、以前どの流派の功法を学んだにせよ、どれくらい長く練功していたにせよ、病気治療ができるかどうかにかかわらず、低い次元では、わたしは皆さんに病気治療をさせたくありません。皆さんが自分自身がどの状況にあるのかが分からないからです。あなたは確かに人の病気を治したことがありますが、当時あなたの心が正しかったから、効き目があったのかもしれません。あるいはどなたか通りがかりの師がちょっと手伝ってくれたのかもしれません。あなたが良いことをしていたからです。しかしあなたが煉功して得たあれくらいのエネルギーが役に立つにしても、あなた自身を守ることはできません。あなたは人の病気を治しているとき、患者と同じ場にいるので、時間が経てば、あなたの身体にある黒い気は患者よりもひどくなります。患者に、「治りましたか?」と聞いて、その患者は「ちょっと楽になりました」と答えますが、それは病気治療と言えるでしょうか? 「明日もあさっても来てください。一つの治療周期が終わるまで面倒を見てあげましょう」と言う気功師がいます。彼らも「治療周期」を必要とするなんて、これは人騙しではありませんか? 高い次元に達してから人の病気を治すならなんと良いことでしょう。治そうと思えば、すぐ治るのですから、なんと気分爽快なことではありませんか! もしあなたにすでに功能が現れており、しかもそれが低くなければ、どうしても病気治療を行う必要のあるときに、わたしはあなたの手を開かせて、あなたの病気治療功能を取り出してあげることになります。しかし、あなたが高い次元を目指して修煉しているならば、わたしはやはりできればそういうことをしない方がよいと思います。大法を宣伝するため、また社会活動に参加するため、わたしの弟子のなかに病気治療を行っている者もいます。彼らはわたしの近くにおり、わたしが彼らを指導しており、彼らは守られているから、大丈夫なのです。
 
弟子:功能が現れたら、人に言っても構いませんか?
師:功能が現れたら法輪功を煉功している人に謙虚に言うのは構いません。皆さんを集めて一緒に煉功しているのは、ほかでもなく皆さんが切磋琢磨できるようにしたいからです。もちろん、よそで功能のある人に出会ってその人に言っても構いません。ただしひけらかそうとしないように。わたしはすごいだろう、とひけらかそうとすればだめになります。ひけらかしてばかりいると、その功能が消えてしまいます。もし気功現象について語るなら、探求の態度で、個人の雑念を少しも混ぜ入れなければ、問題がないと思います。
 
弟子:佛家は「空」を唱え、道家は「無」を唱えますが、われわれは何を唱えますか?
師:佛家の「空」、道家の「無」はその功に特有なものです。もちろんわれわれもこのような境地に達する必要があります。われわれは「有心うしんで功を煉り、無心で功を得る」ことを説きます。心性を修め、執着心を取り除くので、結局やはり「空・無」になります。しかしわれわれはそれをことさら強調しません。皆さんは物質世界に生活しており、勤めなければならず、仕事をしなければならず、必然的に何かをしなければならないからです。何かをしなければならない以上、必然的に良い事、悪い事の問題が生じてきます。どうすればよいのでしょうか? われわれが修めているのは心性であって、これはわれわれのこの功の最も突出しているものです。あなたの心が正しく、行いがわれわれの要求に合致していれば、心性は大丈夫です。
 
弟子:われわれは普段どうすれば功能の伸びを感じ取ることができるのでしょうか?
師:煉功の初期において、もし功能が現れたらそれを感じ取ることができます。功能が現れていない場合でも身体が敏感であれば、感じ取れます。もしどちらも持っていなければ、感じ取りようがなく、目をつむって煉るしかありません。われわれの学習者は六、七割天目が開いており、見えています。わたしはそれを知っているのです。皆さんは口に出さずひたすら目を大きくして見ていますが、なぜ皆さんにグループで煉功するようにと言っているのでしょうか? グループ内で互いに切磋琢磨して交流してほしいからです。ただし功法に責任を持つために、よそでやたらとおしゃべりをしないように。内部で交流して、互いに向上を目指すのは結構です。
 
弟子:法身はどんな格好をしていますか? わたし自身に法身はありますか?
師:法身は本人と同じ格好をしています。あなたには現在法身はありません。煉功がある程度に達し、世間法を通過して、修煉がきわめて高い段階に入って、はじめて法身が現れてきます。
 
弟子:講習会終了後、先生の法身はどれくらいの間ついていてくださいますか?
師:一人の学習者がいきなり高い次元のものを煉るというのは、その人にとって相当大きな転換です。思想の転換ではなく、人間全体の転換を指しています。一人の常人が突然常人として得るべきではないものを得たというのは、危険なことであり、生命が脅かされることがありますので、わたしの法身は彼を守ってあげなければなりません。もしわたしがそこまでできないのに、ここで説法をしているとすれば、それは人を害することです。多くの気功師がそれをやる勇気がなく、伝える勇気がないというのは、彼らはこの責任を負えないからにほかなりません。わたしの法身は皆さんが修煉して成就するまで、ずっと皆さんを守りつづけます。途中であなたが修煉をやめれば、法身も去っていきます。
 
弟子:先生は、「普通の人の修行は、煉功ではなく、心性にかかっている」と、おっしゃっています。それでは心性さえ高ければ、煉功しなくても正果を得られると言ってもかまいませんか?
師:理屈からはそうなのです。心性を修めてさえいれば、徳は功に転化されます。しかし、あなたは自分を煉功者として自覚しなければなりません。煉功者として自覚しなければ、徳を積むことしかできません。あなたは徳をたくさん積むことができるかもしれませんが、良い人になり徳ばかり積んでも、そしてたとえ自分を煉功者として自覚していてもだめです。あなたは高い次元の法を得ていないからです。皆さんがご存じのように、わたしは多くのことを明らかにしましたが、師が守ってくれなければ、あなたはなかなか修煉して上へ上がっていくことができません。たとえ一日たりとも高い次元で煉功できないのです。つまり正果を得ようとするのはそんなに生やさしいことではありません。しかし、心性が高まれば、宇宙の特性と同化することになります。
 
弟子:遠隔治療の原理は何でしょうか?
師:理屈は非常に簡単です。宇宙は大きくも小さくもなれます。功能が打ち放たれてからも大きくも小さくもなれるのです。わたしが一歩も動かなくても、打ち放たれた功能はアメリカのような遠いところにいる患者にも届くのです。功を向こうに打ち放ってもよいし、その人の元神を直接手元に引き寄せることもできます。これが遠隔治療の理屈です。
 
弟子:どれくらい功能が現れてくるのかを知ることができますか?
師:功能は一万種にとどまりません。具体的にどれくらいあるかを知るのは大事ではありません。この理、この法を知っていれば結構です。あとは自分で修煉することです。そんなに多くのことを知る必要もなく、あなたのためにもなりません。師が弟子を捜し、弟子をとりますが、弟子は何も知らないのです。教えてもくれないし、すべて自分で悟らなければなりません。
 
弟子:講習会の時に目を閉じると、先生が演壇で講義をされ、上半身が黒く、テーブルも黒く、バックの生地はピンク色なのが見えてきます。時々先生の周り一面に緑の光が見えますが、それはどういうことでしょうか?
師:それはあなたの次元の問題です。天目が開いたばかりの時、白を黒と、黒を白と見ることがあります。次元がちょっと向上すれば、何を見ても白になります。さらに向上すれば、色が分かれていきます。
 

 五、魔難


弟子:魔難は師が弟子のために段取りされた試練ですか?
師:そうとも言えます。それは皆さんの心性を高めるために段取りされたものです。たとえて言えば、あなたの心性がそこまで高くなっていないのに、あなたを修煉して上へ上がらせることができるでしょうか? つまり一人の小学生を大学へ送り込むことができるでしょうか? そんなことはできないでしょう! あなたの心性が本当に高まっておらず、何に対しても淡々としていられず、何も放下できない時に、あなたを成就させたら、あなたがつまらないことで覚者とトラブルを起こしてしまいかねないので、それはだめです! なぜ心性をこんなに重要だと見ているのか、これがその理由です。
 
弟子:煉功者と常人の魔難に何か区別がありますか?
師:われわれ煉功者と常人とでは特に区別がありません。あなたの魔難は煉功者の歩む道に従って段取りしてあげているのであり、常人は常人としての業を返しているのであって、どちらにも魔難がありますので、煉功したからあり、常人ならないというわけではなく、どっちにしてもあるのです。ただあなたのこの魔難はあなたの心性を高めるために設けられたのに対して、常人の魔難は彼の業を返させるために設けられたのです。実は、魔難は自分の業力にほかならず、わたしはそれを弟子の心性を高めるのに利用しただけです。
 
弟子:魔難は天竺にお経を取りに行くときのあの八十一難のようなものですか?
師:似ているところがあります。煉功者の一生はすでに段取りされているので、多くなることも少なくなることもありません。ただし必ずしも八十一難とは限りません。それはあなたの根基でもってどこまで高く修煉できるかによります。あなたが到達できるレベルに従って段取りされるのです。常人が持っているが、修煉者として取り除かなければならないものは、みな一通り乗り越えなければならないので、たしかにとても辛いのです。あなたの放下できないものは、さまざまな方法を工夫してあなたに放下させなければならず、魔難を通してあなたの心性を高めます。
 
弟子:煉功の時、撹乱する人が現れたらどうしますか?
師:法輪功を煉るのに際して他人の撹乱を恐れません。初期においては、わたしの法身があなたを守ります。かといってあなたが何事にも遭遇しないわけではありません。一日中ソファーに坐ってお茶を飲んでいれば功が伸びるなどといったことはありません! あなたが魔難に出くわして、わたしの名前を呼び、わたしがあなたの目の前にいるのが見えたのに、助けてくれないときもありますが、それはあなたが乗り越えなければならない関門だからです。とはいえ、あなたが本当に危険に遭遇したときは助けてあげるのです。そうはいうものの、普通このような本当の危険はありえません。あなたの歩む道はすでに変えられており、予定外のものが入り込むのを許さないからです。
 
弟子:どのように魔難に対処すればよいのでしょうか?
師:繰り返し言っているように、あなたの心性をしっかり守ってください! 自分の成したことを自分で間違っていないと思えば結構です。とりわけあることが原因で他人があなたの利益を犯したとき、もしあなたも常人と同じように相手とやり合うようになれば、あなたも常人になってしまいます。あなたは煉功者だから、そのように対処してはいけません。あなたが出会う、あなたの心性を妨げることはすべて、あなたの心性を高めるためのものであって、あなたがいかに対処するか、しっかり心性を守れるかどうか、そのことにおいて自分の心性を高めることができるかどうかが量られます。
 

 六、空間と人類


弟子:宇宙にどれくらいの次元の空間がありますか?
師:わたしの知っているところでは、宇宙には無数の次元の空間があります。さらに多くの次元の空間の存在について、及びその空間に何があるのか、誰がそこにいるのかについて、現代の科学方法で知ろうとするのは至難のことです。現代科学はまだそれを実証することができません。しかしわれわれ一部の気功師と特異功能者は他の空間を見ることができます。他の空間を見るには天目しか使えず、肉眼で見ることができないからです。
 
弟子:各空間とも「真・善・忍」の特性を持っていますか?
師:その通り、どの空間も「真・善・忍」という特性を持っています。この特性に順応する人は良い人で、背いて反対に行く人は、悪い人になります。それに同化する人は得道者にほかなりません。
 
弟子:最初の人類はどこから来たのですか?
師:最初の宇宙はこんなにたくさんの縦方向の次元もなければ、こんなにたくさんの横方向の次元もなく、とても単一なものでした。その発展、運行の過程において生命が誕生しましたが、それがわれわれの言う最も原始的な生命であり、宇宙と同化しているのであって、良くないものの存在がありませんでした。宇宙に同化するというのは宇宙と同じであるということであり、宇宙にあるすべての功能は彼にもあるわけです。宇宙の発展、演化に従って、天国が現れました。その後、ますます多くの生命が現れてきましたが、われわれの低い次元で言えば、社会的な群ができ、互いに関係ができあがりました。この演化変遷の過程において、一部の人に変化が起き、宇宙の特性からますます遠ざかり、あまり良くなくなりましたので、神通力も小さくなりました。だからこそ煉功者は「帰真」、つまり原始状態へ回帰するということを言うのです。次元が高ければ高いほど、宇宙に同化する度合いも高く、神通力も大きいわけです。宇宙の演化する中で、一部の生命が良くなくなりましたが、それらを滅ぼすわけにもいかないので、それらを比較的低い次元に行かせて苦しみを嘗めさせることによって、それらを高め宇宙に同化させる工夫がなされました。その後絶えずこの次元にやってくる人がいました。そのうち、この次元でも分化が起き、心性がさらに悪くなった人がこの次元にもとどまれなくなったので、下にまた一つ次元が造られました。こうしてますます下へ堕ち、徐々に分化を経て、今日に至り、われわれ人類がいるこの次元が生まれました。これが人類の起源です。