轉 法 輪


第九講

 

 気功とスポーツ


 一般の次元において、気功とスポーツの鍛練との間には直接関係があると思われがちです。もちろん低い次元において、健康な身体を獲得しようとする点に関して、気功とスポーツの鍛練は一致しています。しかしその具体的な鍛練方法や手段は、スポーツの鍛練とは大きく異なります。スポーツの鍛練は、健康増進の目的を達成するために、人の運動量を増やし、身体訓練を強化しなければなりません。これに対して気功の修煉はそれとは反対に、人を動かさないのです。動いても緩やかに、ゆっくりと、まろやかに動き、あるいはほとんど動かずに静止しているのです。これはスポーツ鍛練の形と大いに異なります。さらに高い次元からいえば、気功は病気治療と健康保持ばかりでなく、もっと高い次元のもの、もっと深い内容をもっているのです。気功は常人の次元にみられるその程度のものだけでなく、超常的なものであり、しかも異なる次元に異なった形で現われているので、常人のものを遥かに超えています。
 鍛練の本質から見ても、両者の間の違いは実に大きいのです。スポーツ選手は運動量を増強するよう求められています。特に現在の選手は自分の身体を現代の競技水準に合わせ、その水準に到達するために、コンディションを常に最高の状態に維持し続けなければなりません。この目標に達するためには、運動量を増大して身体に血液を十分に循環させ、そうすることによって新陳代謝の能力を増強し、身体を常に上向きの状態に維持していなければなりません。なぜ新陳代謝の能力を増強しなければならないのでしょうか? 選手の身体は常に上向きのベスト・コンディションを保っていなければならないからです。人間の身体は無数の細胞組織からなっており、これらの細胞はみな次のような過程をたどっています。つまり新たに分裂した細胞の生命力は非常に強く、上向きの状態にあります。極限に達すると、それ以上伸びられないので、下降せざるを得ません。極限まで下降すると、それに代わる新たな細胞が現われてきます。例えば一日が十二時間だとして、朝六時に細胞が分裂して出てきて、ずっと上向きに伸び続けていきます。八時、九時頃、あるいは十時頃までは全盛期です。十二時になると、もうそれ以上、上昇するのは無理で、下りはじめます。この間でも細胞はまだ半分の生命力を残していますが、しかしこの残り半分の生命力が選手として求められるコンディションには合わなくなっています。
 ではどうすればよいでしょうか? 訓練を強化し、血液の循環を強めることによって、新たな細胞を作り出して古い細胞と取り替える、という方法をとるのです。つまり細胞の全過程がまだ歩み終わっておらず、生命の過程の半ばまでしか進んでいないのに、それを排出してしまいます。それによって身体は常にたくましく、上向きの状態が保たれるわけです。しかし人類の細胞は限りなく分裂していくわけにはいかないもので、細胞の分裂回数には限度があります。仮に人間一生の間に細胞が百回分裂できるとすれば、実際は百万回にもとどまらないのですが、また正常な人間がこの百回の細胞分裂で百才まで生きられるとして、いま各細胞がそれぞれの生命の半分しか生きていないということになると、その人は五十年しか生きられないことになります。しかしわれわれはどのスポーツ選手についてもこんな極端なケースを見たことがありません。それは現在のスポーツ選手は、三十才になるかならないうちに引退させられるからです。特に昨今は競技レベルも高く、選手の入れ替えも激しいので、選手は再び普通の生活に戻り、一見したところではそれほど大きな影響がないように見えます。理論から言うとその実質は、身体そのものは健康な有機体を保っていますが、命は縮められたということです。外観から見て、十代のスポーツ選手が二十代、二十代の人が三十代に見えることがよくあります。スポーツ選手はとかく早熟あるいは老けているという印象を人に与えがちですが、弁証法的にみれば、プラスもありマイナスもあるということです。スポーツの鍛練は実際こういう道をたどっているのです。
 気功の修煉はスポーツの鍛練とちょうど反対で、動作においては猛烈な運動を求めず、動きがあっても緩やかで、ゆっくりとした、まろやかなものです。非常に緩慢で、ほとんど動かずに静止することさえあります。皆さんは禅定という修煉方法をご存じでしょう。じっと静止したままで、心拍の速度も緩やかになり、血液循環などすべてが緩やかになるのです。インドの多くのヨーガ師は、水の中に何日も坐り、土の中に何日も埋もれて、心拍も制御できるほど、完全に自分を静止させることができます。仮に人間の細胞が一日に一回分裂するとすれば、修煉者は人体の細胞を二日に一回、一週間に一回、半月に一回、あるいはもっと長い時間に一回分裂させることができれば、すでに生命を延長していることになります。これはまだ心性のみを修め、めいを修めない功法に過ぎないのですが、それでもここまで到達することができ、自分の生命を延長させることができるのです。「人間の生命、人間の一生は定められているのではないか? めいを修めないのにどうして長生きできるだろうか?」と思う人がいるかも知れません。その通りです。修煉者は次元が三界さんがいを突破できれば生命を延長できるわけで、ただし外観は非常に老けてみえます。
 真にめいを修める功法では、採集してきた高エネルギー物質を人体の細胞に蓄え続け、その密度を高め続けていきますと、それが次第に常人の細胞を抑制できるようになり、次第に常人の細胞に取って代わることになります。その時がくれば、質の変化が起こり、この人はいつまでも若々しくみえるようになるのです。むろん修煉の過程は非常にゆっくりとしたもので、かなり大きな犠牲を払わなければなりません。「其の筋骨を労せしめ、其の心志を苦しめる」と言いますが、修煉は並大抵のことではありません。人と人との間の心性の摩擦において、心が動ぜずにいられるでしょうか? 個人の切実な利益において心が動ぜずにいられましょうか? これらを実際に実践するのは非常に難しく、ただ単にこの目的を達しようと思えば達することができるような性質のものではありません。人の心性、人の徳がすべて修煉によって向上してきて、はじめてこのような目的を達することができるのです。
 これまで多くの人が気功と一般のスポーツ鍛練を混同してきましたが、実際にはその差異はあまりにも大きく、そもそもまったく別物なのです。ただ単に最低次元で気を練ることに際して、すなわち病気治療と健康保持を求め、健康な身体を得ようとするという点で、最低次元の目的がスポーツ鍛練と共通性を持っているに過ぎません。しかし高次元では、全然異なってきます。気功における身体浄化には目的があります。しかも超常の理で煉功者を律しなければならないもので、常人の理で律するわけにはいかないのです。これに対してスポーツ鍛練は、常人の中のことに過ぎません。
 

 意 念


 意念、つまりわれわれ人間の思惟活動についてお話しします。修煉界は、大脳における人間の意念の思惟活動をどう見ているのでしょうか? 人間の思惟(意念)の異なる形式をどう見ているのでしょうか? それはどのように現われているのでしょうか? 現代医学では人間の大脳を研究する際に解けない問題が多くあります。それはわれわれの身体の表面のものほど簡単ではないからです。深層においては、異なる空間に異なる形式があります。といっても一部の気功師が言っているようなことでもありません。一部の気功師は、自分自身でもどういうことなのか分からないので、はっきり説明することができません。彼らは自分の大脳が働き、意念が生じると、何かをなし遂げることができると思い込んでいます。そこで彼の思惟がそのことをしたとか、彼の意念がそれをなし遂げたとか言います。しかし実際は、彼の意念がやったわけでは全然ありません。
 まず人間の思惟の由来についてお話ししましょう。中国古代には「こころが想う」という言い方があります。なぜ「心が想う」と言うのでしょうか? 中国古代の科学は人体、生命、宇宙というようなものに直接焦点を合わせて研究していたので、非常に発達していました。確かに紛れもなく心が想っていると感じている人がいますが、一方大脳が想っていると感じている人もいます。なぜこういうことが起きるのでしょうか? 「心が想う」という言い方にもわけがあります。なぜなら、常人の元神は非常に小さく、人間の大脳から発せられた真の信息は、人間の大脳そのものが働いて大脳自身から発せられたのではなく、人間の元神から発せられたのだ、とわれわれは見ています。人間の元神は、泥丸宮にだけとどまっているわけではありません。道家の言う泥丸宮はわれわれ現代医学が認識している松果体にほかなりません。もし元神が泥丸宮にいれば、われわれは確実に「大脳が思考しており、信息を発信している」と感じますが、もし心にいれば、紛れもなく「心が思考している」と感じることになります。
 人体は一つの小宇宙ですので、煉功者のたくさんの生命体はみな位置替えをすることが起こりえます。もし元神が位置替えをする時に、お腹に行けば、確かにお腹が想っていると感じるようになります。もし元神がふくらはぎやかかとに行けば、ふくらはぎや踵が思考していると感じます。不思議に聞こえますが、間違いなくこの通りです。修煉の次元があまり高くない時でも、このような現象の存在が感じられるはずです。もし人間の身体に元神がなければ、もしその人に気性や天性、特性などがなければ、単なる一塊の肉に過ぎず、完全な、独立した自我と個性をもった人間ではありえません。それでは人間の大脳はどんな役割を果たすのでしょうか? わたしに言わせれば、人間の大脳はわれわれのこの物質空間形式において、単なる加工工場に過ぎません。本当の信息は元神から発せられるものです。といっても発せられたのは言語ではなく、ある種の意味をあらわす宇宙の信息です。われわれの大脳はこの指令を受け取ると、それをわれわれの現在の言語をはじめ、さまざまな表現形式に加工します。その上、われわれは手振りや目つき、身振りなどでそれを表現しますが、大脳はこういうことをやらせる役割を果たしています。本当の指令、本当の思惟は人間の元神から発せられるものです。それは大脳の直接で独自の働きだと思われがちですが、実は元神が心にいる時もあり、確かに「心が想っている」と感じている人もいるのです。
 現在、人体研究をやっている人は、人間の大脳から発せられるのは電波のような形のものだと考えています。実際発せられたのが何であるかはともかくとして、彼らがそれを物質的存在のひとつと認めていることからすると、迷信ではないことになります。では発せられたものはどんな役割を果たすのでしょうか? 気功師の中には、わたしは意念でものを運ぶとか、意念で天目を開かせてあげるとか、意念で病気を治してあげるとか言っている者がいます。実は一部の気功師は、どんな功能を持っているのか自分でも全然知らないし、はっきり分かっていません。彼らは自分が何事かをしようとする時、ちょっと想うだけでうまくいくらしいといった程度のことしか知らないのです。実際には彼らの意念が活動しており、功能が大脳の意念に制御されて、意念の指揮の下で具体的なことをしているからであって、意念そのものは別に何もできません。煉功者が具体的に何かをする時は、彼らの功能が働いているのです。
 功能は、人体の潜在能力です。われわれ人類社会の発展に従って、人間の大脳思惟がますます複雑になり、ますます現実を重んじ、いわゆる現代化の道具にますます依存するようになってきているので、人間の本能はそのためますます退化しています。道家は「返本帰真」と言いますが、修煉の過程において、あなたは「真」を求め、最終的に返本帰真して、あなたの原始の本性に戻って、はじめてこれらの本能を現わすことができるのです。われわれはいま超能力と言いますが、実はみな人間の本能にほかなりません。人類社会は進歩しているように見えますが、実際は後退しており、われわれの宇宙の特性からますます遠ざかっています。先日わたしは張果老が後ろ向きにロバに乗ることをお話ししましたが、どんな意味なのか分かってもらえなかったかも知れません。彼は前へ進むことは実は後退であり、人間が宇宙の特性からますます遠く離れることに気づいたのです。宇宙の演化の過程において、特にいま商品経済の大波に巻き込まれてから、多くの人の道徳がかなり退廃してきて、真・善・忍という宇宙の特性からますます遠ざかっています。常人の中で時流に従ってきた人々には、人類の道徳がどれほど退廃したのか、その程度を感じとることができないので、良いことだと思っている人すらいます。心性が修煉によって高まってきた人だけが、後ろ向きに振り返ってみた時、人類の道徳が恐ろしいほどにまで退廃していることを認識できるのです。
 気功師のなかには、功能を開発してやると言う者がいます。どんな功能を開発するというのでしょうか? 功能は、エネルギーがなければなんの役にも立ちませんが、それが出ていないのにどうして開発できるというのでしょうか? その人の功能がいまだその人自身のエネルギーによって加持されて形をなしていない時に、それをどうして開発できるというのでしょうか? まったくありえない話です。こういう気功師の言う功能を開発するというのは、あなた自身のうちにすでに形作られている功能をあなたの大脳と結びつけ、あなたの大脳の意念の支配下で働くようにするということに過ぎません。彼はこれで功能を開発したというのですが、実は彼はあなたの功能をなにも開発してくれているわけではなく、せいぜい今言ったぐらいのことしかしてくれていないのです。
 煉功者の場合は、意念が功能を支配して働かせます。一方、常人の場合は、意念が四肢や感覚器官を支配して働かせるのです。あたかも工場の作業本部や工場長室から指令が出されて、それぞれの職場が各々の責務を果たし、また軍隊の指揮部門でも、司令部が命令を出し、部隊全体が各々の任務を遂行するようなものです。わたしはよそで講習会を開く時、現地の気功研究会の責任者たちによくこのことを話しますが、彼らは、「われわれがずっと研究してきたのは、人間の思惟にどれだけ大きな潜在エネルギー、潜在意識があるのかということであった」といまさらのように驚くのです。実状はそうではなく、彼らは最初から間違った方向へ行ったのです。わたしに言わせれば、人体科学をやろうとするには、人間の思惟を変革しなければなりません。常人のような推理方法や物事の認識方法で、超常的なことを理解しようとしてはいけません。
 意念について言えば、ほかにも幾つかの意念の形式があります。例えば潜在意識、無意識、霊感、夢を見ることなどを挙げる人がいます。夢を見るということについては、どの気功師も説明しようとしません。あなたが生まれた時、宇宙の多くの空間にも同時に、あなたと相互補完的に一体をなし、互いに関係し、思惟において連帯関係にある、同じあなたが生まれます。しかもあなたには主元神、副元神がいて、体内にその他いろいろな生命体の姿かたちもあり、一つ一つの細胞や五臓六腑ごぞうろっぷがみなあなたの姿かたちをした信息の他の空間における存在形式であるので、きわめて複雑です。夢を見るとあれこれ出てきたりしますが、いったいどこから来たのでしょうか? 医学ではわれわれの大脳皮質に変化が起きていると説明しています。それはこの物質形式に現われた反応ですが、本当は他の空間の信息の作用を受けたのです。ですから夢を見る時あなたがぼんやりと感じたものは、みなあなたと関係のないもので、気にすることはありません。あなたと直接関係する夢が一つありますが、このような夢はいわゆる夢とは言えません。それは、あなたの主意識つまりあなたの主元神が、夢の中で自分の家族が現われたのを見たとか、あるいは確かに何かを感じ、何かを見、何かをしたといった場合です。その場合は、あなたの主元神が本当に他の空間で何かをした、何かを見てしかも実行したということであり、意識が紛れもなくはっきりしているように、そういうことも確かに実在しているのであって、ただ他の物質空間、他の時空でしてきただけなのです。それを夢と言えますか? 違います。あなたのこちらの物質身体が確かに寝ているために、それを夢というしかありませんが、このような夢だけがあなたと直接関係があるのです。
 人間の霊感や無意識、潜在意識といった類いの言葉は、わたしに言わせれば、科学者が作ったのではなく、文人が常人の中のある種の慣習的な状態に基づいて作ったものであり、科学的ではありません。人々の言う潜在意識とはいったい何でしょうか? 人間のさまざまな信息はあまりにも複雑で、あるかないかの微かな記憶のようなものですから、非常に説明し難く、漠然としています。無意識については、われわれは解釈しやすいのです。無意識の状態に与えられた定義に従うと、それは通常、人がわけが分からない状態で何かをしたことを指します。そういう場合人々は、無意識的にしたので、意識的にしたわけではないとよく言います。こういう無意識は、ちょうどわれわれの言う副意識と同じです。人の主意識が緩んで、大脳への制御を停止すると、眠ってしまったかのようにぼうっとします。あるいは夢の中や意識のない状態においても副意識、つまり副元神に主宰されやすいのです。その時は、副意識が何かをすることができます。つまりあなたがぼうっとした状態において何かをするのです。しかし、こうしたことの結果は普通あまり悪いようにはならないもので、それは副意識が他の空間で物事の本質が見えるので、常人社会に惑わされることがないからです。ですから副意識のやったことを人があとで意識が戻ってから見ると、「どうしてこんな始末になったのか、意識がはっきりしていたらこんなふうにするはずがなかったのに」と、思ったりしますが、しかし、いまそれが良くないように見えても、十日後、半月後に振り返ってみると、「おや、なんとうまくやったことか! いったい当時どういうふうにやったのか」などと、思うようになります。こんなことがよくあります。副意識はそれがその当座どういう結果をもたらすにしろ、将来必ずいい結果をもたらすのを知っているのです。将来に影響を及ぼさないでその場限りで終わることもありますが、そういう場合副意識がそれを実行すると、すぐその場で良い結果が出るようにうまく処理するのです。
 もう一つの形式があります。つまり根基の良い人によくあることですが、高い次元の生命体の影響を容易に受けて何かをすることがあるのです。もちろんそれはまた別の事柄になりますので、ここでは言わないでおきましょう。ここでは主としてわれわれ人間自身に由来する意識についてお話しします。
 霊感について言えば、これもまた文人が作った言葉です。一般の人は、霊感は人の一生の間に蓄積された知識が、その一瞬に火花のようにほとばしったものだと思います。わたしに言わせれば、唯物主義の観点に従えば、人類の一生の間に蓄積された知識が多ければ多いほど、人の大脳はよく働きます。いざ使おうとする時になると、それらが次から次へと現われてくるはずで、霊感も何もありえないのです。およそ本当に霊感と称することができるもの、あるいはそういう霊感がじっさい湧いてきた時は、言われているような状態ではありません。われわれが頭脳を使う時、ずっと使い続けていると、しまいには知識が枯渇こかつしたかのように感じ、どうしても絞り出せないと感じることがあります。文章を書いていて、ある箇所でどうしても書き進めなくなるとか、作曲する時曲想が浮かばなくなるとか、科学研究のプロジェクトが途中で行きづまるとか、こういう時によく疲れ果てて青筋を立て、タバコの吸殻を地面にいっぱい散らかし、頭が痛いほどいらだっても、何も思い浮かびません。最後にどんな状態で霊感が来るのでしょうか? へとへとになって、あきらめよう、休むことにしよう、と思った時です。なぜなら主意識が厳しく大脳を制御すればするほど、ほかの生命が入り込めないのです。休んで、思考が緩み、考えるのを中止すると、無意識のうちに思い浮かんできて、脳から出てくるのです。霊感とはたいていこういうふうに湧いてくるものです。
 ではどうしてこういう時に霊感が湧いてくるのでしょうか? 人の大脳は主意識の支配を受けるもので、脳を使えば使うほど、主意識の支配がきつくなり、副意識の入り込む余地がなくなります。考えすぎて頭が痛い時、思い浮かばなくていらいらする時、あの副意識も一緒にいらいらして、一緒にさんざん頭痛に悩まされます。それは副意識もまた身体の一部であり、母胎から同時に生まれてきたもので、身体の一部を主宰しているためです。しかし主意識が緩むと、副意識は、自分の知っていることを大脳に反映させることになります。他の空間で物事の本質が見えているからです。こうして意図したことがやり遂げられて、文章も書き上げられ、創作もできあがってきます。
 「それならもっと副意識を活用してみよう」と言う人がいます。先ほどまわってきた質問の紙にも、どうすれば副意識と連絡がとれるのかと書いた人がいました。あなたには連絡がとれません。なぜならあなたは煉功を始めたばかりの人で、何の力も持っていないからです。そのような目的は執着に違いないので、連絡をとろうとしないほうがよいのです。「副意識を活用してより多くの価値を創り出し、人類社会の発展に寄与するというのもいけないのか?」と考える人がいるかも知れませんが、それはいけません! なぜならあなたの副意識の知っていることも限られているからです。空間の複雑さといい、次元の多さといい、この宇宙の構造はきわめて複雑なので、あなたの副意識は自分のいる空間のことしか知り得ず、その空間を超えるものとなれば、分からなくなります。それに次元の異なる空間が縦にたくさんあり、人類の発展は高い次元の生命体が非常に高い次元にあってはじめて支配できるもので、発展の規律に従って進んでいるのです。
 われわれ常人社会は歴史の規律に従って発展しています。あなたは、どのように発展しようとか、どんな目標に達しようとか思います。しかしあの高い次元の生命体はそうは考えません。古代の人は今日の飛行機、汽車、あるいは自転車に考え及んではいなかったのでしょうか? わたしに言わせれば、考え及んでいなかったとも言えません。歴史がその過程に進んでいなかったので、作ろうと思っても作り出せないのです。一見したところでは、つまり常人の慣れ親しんでいる理論や、現在所有している人類の知識の視点から見れば、人類の科学がまだそれ相当のレベルに達していなかったため作り出せなかったように見えます。実は人類の科学がどんなに発展していても、歴史の段取りに従って発展しているのであって、人為的にある目標に達しようと思っても達せないのです。もちろん副意識がよく働く人もいます。作家の中には、「一日に何万字書いても全然疲れない。書こうと思えばあっという間に書けてしまい、読む人もけっこういいといってくれる」と言う人もいます。どうしてこういうことがあるのでしょうか? これは彼の主意識、副意識が半々に働いた結果で、彼の副意識も半分の役割を果たしているのです。しかしみんながみんなこういうわけではなく、ほとんどの副意識は初めからかかわろうとしないし、働かそうとすると、かえって逆効果です。
 

 清浄心しょうじょうしん


 練功の時に入静できない人がけっこういます。あちこちの気功師を訪ねては、「先生、わたしはどうして練功の時に入静できないのでしょうか。入静しようとするとあらゆることが浮かんできて、妄想が始まるのですが」などと聞くのです。まるで海がひっくりかえったかのようになんでも湧いてくるので、まったく入静できません。なぜ入静できないのでしょうか? そのあたりが理解できない人は、何かコツがあるのではないかと思い込み、入静できるいい手だてを教えてほしい、と有名な師を訪ねまわります。わたしから見れば、これもまた外に向かって求めていることになります。自分を高めようとすれば、内に向かって探し、自分の心を修煉しなければなりません。そうしてはじめて本当に向上でき、坐禅の時に入静できるようになります。入静できるのは功にほかならず、定力の深さは次元の現われです。
 常人は簡単に入静できますか? できるはずがありません。根基がよっぽどいい人を除いてはできないのです。つまり、入静できない根本的な原因は、方法にあるわけではありません。何か奥の手があるわけではなく、その人の考えや心が清浄しょうじょうでないからにほかなりません。常人社会の中で、人と人とのトラブル、個人の利益や七情六欲、さまざまな欲望への執着のために、人と争ったり闘ったりする、こういうことを捨てられなければ、こういうことに対して淡泊になれなければ、入静しようと思うなど、とんでもないことです。「そんなことは信じない。わたしはあれこれ考えたりせずに、入静しなければならない」と、練功する時に自分に言い聞かす人がいますが、そう言い終わらないうちに、またもやあれこれ湧いてくるのです。心が清浄でないので、入静できないのです。
 わたしの言ったことに賛成しない人もいるかも知れません。一部の気功師が、守一しゅいつとか、観想とか、丹田を意守するとか、丹田を内視するとか、佛号を唱えるとかいう方法を教えているではありませんか、と言うのです。これは確かに方法の一つではあります。しかし単なる方法というより、それは功夫の現われです。ということは、その功夫はわれわれが心性を修煉し、自分の次元を高めることと直接かかわるわけですが、それでもこの方法によるだけで入静できるものではありません。もしまだ信じられなければ、さまざまな欲望や執着心が強くて、何も捨てられないままでも、入静できるかどうか、試してみてください。佛号を唱えればうまくいくという人がいますが、佛の名前を念ずれば入静できるとでも思っているのでしょうか? 阿弥陀佛の法門は修煉しやすく、佛の名前を念ずればいいのだと言う人がいますが、試しに念じてみたらどうですか? わたしに言わせれば、あれは功夫なのです。あなたは容易だと言うかも知れませんが、わたしは容易ではないと言います。どの法門も容易なものはありません。
 皆さんがご存じのように釈迦牟尼は「じょう」を説きますが、「定」の前に彼は何を説いたのでしょうか? 彼は「戒」を説いたのです。ありとあらゆる欲望や嗜好しこうをすべて戒めて、何もかも無くなれば、はじめて定に至ることができます。そうではありませんか? それに「定」も功夫なので、一挙に完全に「戒」のレベルに到達できるはずもなく、徐々にあらゆる良くないものを戒めていくうちに、定力もだんだん深まってくるのです。人が佛の名前を念ずる時、心には何も雑念がなく、大脳のその他の部分が全部麻痺して、何もかも分からなくなるまで、一心不乱に念じなければならず、そうすれば一念が万念に代わるので、「阿弥陀佛」の一文字一文字が目の前に現われてきます。これこそ功夫ではありませんか? 初めから一挙にここまで到達できますか? 到達できません。到達できなければ、入静できないはずです。信じられなければ試してみてください。口では一回一回念じていますが、心の中では雑念ばっかり、職場の上司はどうして気に入ってくれないのか、今月の賞与がこんなに少ないのはなぜか等々、考えれば考えるほど腹が立ち、むしゃくしゃしてきますが、それでも口ではまだ佛の名前を念じています。これで煉功ができますか? これには功夫がかかわっているのではありませんか? 心が清浄でないからではありませんか? 天目が開いた人は、丹田を内視することができます。人間の下腹部に集まっている丹、あのエネルギー物質は純粋であればあるほど明るく、不純であればあるほど暗くて黒いのです。丹田を内視する場合、あの丹を見つめていれば果して入静できるのでしょうか? 入静できないのは方法そのものにあるのではなく、人間の考え、意念が清浄ではないからです。そこが肝心なのです。丹田を内視すると、丹がぴかぴかと光っていてたいへん結構です。だがしばらくすると丹が変わって、住宅に化けたりします。「この部屋は息子の結婚生活用に、この部屋は娘に、われわれ夫婦はこの部屋を使い、真ん中は客間に当てる、といったぐあいにいけば申し分がない! そういう住宅はわたしのものにならないか? なんとかしてそれを手に入れなければならない。どうすればよいか?」と思ったりします。こういうものに執着していて、入静できると思われますか? 常人社会に来ている間は、ちょうどホテルに泊まるようなもので、しばらく滞在したら、たちまち去っていくと言われます。ところがこんな場所に未練がありすぎて、自分の家を忘れてしまっている人がどうしてもいるものです。
 本当に修煉するには、心に向かって、内に向かって修め、内に向かって探さなければならず、外に向かって探してはいけません。佛が心の中にいる、と唱える法門もありますが、それも言い得ています。しかしこの言葉を間違って理解している人がいるようです。佛が心の中にいると聞くと、まるで自分自身が佛であるか、あるいは心の中に佛がいると思い込んでしまうのです。そういうふうに理解するのは間違っているとは思いませんか? どうしてそういうふうに理解できるのでしょうか? 心に向かって修煉してはじめて成就できる、これこそその言葉のそもそもの意味で、そういう道理です。あなたの身体のどこに佛がいるのでしょうか? 修煉してはじめて成就できるのです。
 入静できない原因は、思考がくうになっておらず、次元がまだ低いからです。それは浅いところから徐々に深まっていくもので、次元の向上と表裏一体となっているものです。執着心を捨てれば、次元も上がって、定力も深まってきます。何かの手段や方法によって入静しようとすれば、わたしに言わせれば、それは外に向かって求めることになります。そうすれば煉功はかえって間違った方向へ行き、邪道に入ってしまい、外に向かって求めるということになるのです。特に佛教では、外に向かって求めれば、魔道に入ると言われます。本当の修煉は心を修煉しなければならないもので、心性が高まった時、心がはじめて清浄、無為に達することができます。心性が高まった時、はじめてわれわれ宇宙の特性に同化し、人間のあらゆる欲望や執着心、悪しきものを捨てることができ、はじめて自分自身の良くないものを放り出して浮かび上がってくることができます。宇宙の特性の制約を受けなくなれば、はじめて徳という物質が功に転化することができます。それは相補って起こる一体関係にあるのではないでしょうか? これが道理なのです! 
 以上は、自分を煉功者として律することができないために入静できない、主観的な原因です。しかし現在では、客観的にも高い次元への修煉を深刻に妨げ、煉功者に深刻な影響を与える原因があります。皆さんもご存じのように、改革開放、経済の活性化により、政策も緩みました。多くの新しい科学技術が取り入れられ、人々の暮らしぶりも良くなりました。常人はみなそれを良いことだと思っています。しかし弁証法的に見れば、物事には両面があり、改革開放とともに色とりどりの良くないものも入ってきてしまいました。小説の中にエロチックなものを少しでも書き込まないと、まるでその本が売れないみたいにいわれ、発行部数が何よりも問題とされています。映画やテレビにベッド・シーンがなければ見る人がいないかのようであり、何よりも観客動員数や視聴率がまず問われているのです。美術作品は、本当に芸術なのかどうか疑わしい、わけの分からないことばかりやっています。我が中国の悠久の民族芸術にはそういうものはなかったのです。われわれ中華民族の伝統は誰かが発明したり、誰かが創造したものではありません。先史文化についてお話しした時に触れたように、すべてのものにその根源があります。人類の道徳基準まで歪められてしまい、大きく変化し、善悪を量る基準まで変わってしまいましたが、それはあくまで常人の中のことです。これに対してこの宇宙の特性、真・善・忍の基準は、良い人悪い人を量る唯一の基準で、変わるようなものではありません。煉功者としてそこから抜け出そうとするには、この基準で量らなければなりません。常人の基準で量ってはいけません。こんなわけで、客観的にも以上のような妨げが存在しています。いやそれどころか、同性愛、性の解放、麻薬などとんでもないものが乱れに乱れて、何でも現われてきました。
 人類社会は今日のようなところまで来てしまいましたが、皆さん考えてみてください。このまま進んでいくとどうなるのでしょうか? いつまでもこういう状態の存続が許されると思われますか? 人間が治めなければ天が治めます。人類はこのような状態に陥ると決まって劫難ごうなんに見舞われてきました。ここまでの何回かの講義の中で、わたしは人類の大劫難については触れていません。宗教がそれについて話しており、多くの人がこのホットな話題を口にしています。皆さんにはこう申し上げておきましょう。よく考えてみてください。われわれの常人社会において、人間の道徳水準がここまで変わってしまいました! 人と人との間の緊張の度合いがここまできてしまったのです! これはきわめて危険な境地としか言いようがないのではないでしょうか? だからこそ、この客観的に存在している環境も、煉功者の高い次元への修煉を深刻に妨げています。裸体画が大通りの真ん中、すぐそこに掲げられており、目を上げればすぐ見えるのです。
 老子はこう言いました。「上士じょうしどうを聞けば、勤めてこれを行なう」。上士はどうを聞くと、やっとのことで正法しょうぼうを得たので、今日からさっそく修煉しないでさらにいつを待とうとするのか、と思うのです。複雑な環境は、わたしは逆に良いことだと思います。複雑であればあるほど、その中から高人が現われてくるのです。こういうところから抜け出せるようでしたら、その人の修煉は最もしっかりしたものといえます。
 本当に修煉を決意できた人なら、わたしはかえってそれが良いことであると言います。トラブルがなければ、心性を高める機会を与えられなければ、あなたは向上していけないものです。和気藹々としていてどうして修煉できるでしょうか? ところで一般の修煉者の場合、つまり「中士ちゅうしどうを聞く」に属するもので、別に修煉してもしなくてもいいという人の場合は、難しいことになります。人によっては、この場では師の言うことを聞いてなるほどと思いますが、常人社会に戻ってしまうと、やはり現実的な利益こそ確実なものだと思うようになります。確かにそれは確実なものかも知れません。しかしあなたはもちろんのこと、西側先進国の多くの大金持ち、財産家でも、死後は何も残らないことを嘆くしかありません。物質的な財産は、生まれて来る時に持って来られるものでも、死ぬ時に持って行けるものでもなく、とてもむなしいものです。それに対してなぜ功は実に貴重なのでしょうか? それは直接あなたの元神の身についているので、生まれる時に持って来られるし、死ぬ時に持って行けるからです。われわれは元神が不滅だと言っていますが、これは別に迷信でもなんでもありません。われわれのこの物質身体の細胞が抜け落ちてからも、他の物質空間におけるさらに小さい分子成分が死滅したわけではなく、殻を抜け出したに過ぎません。
 わたしが先ほどからお話ししてきたことは、みな人の心性の問題に属します。東方中国という土地は、大徳だいとくの現われるところである、と釈迦牟尼は話したことがあり、達磨も話したことがあります。我が中国歴代の大勢の僧や多くの中国人はこれを誇りに思っています。高い功を修煉することができると思い込み、多くの人は喜んで、やはりわれわれ中国人だ、中国という土地は大根器だいこんきの人、大徳の士が現われるところだ、といい気になっています。実は多くの人がそのわけ、つまり中国という土地からどうして大徳の士が現われるのか、どうして高い功を修煉できるのかを知りません。多くの人は高い次元にいる人の言った言葉の本当の意味を知らず、高い次元、高い境地にいる人がどんな境地にいるのか、彼の思想状態がどんなところにあるのか、などについて何も知らないのです。どういう意味なのかはともかくとして、皆さん考えてみてください。われわれが言っているように、最も複雑な人間の群れ、最も複雑な環境においてこそはじめて高い功を修煉して得ることができるのです。こういうことなのです。
 

 根 基


 根基は、他の空間における人の身体についている徳という物質の量によって決められるものです。徳が少なければ黒い物質が多く、業力場が大きくなりますが、その場合は根基が良くないことになります。徳が多ければ白い物質が多く、業力場が小さくなりますが、その場合は根基が良いということになります。人の白い物質と黒い物質という二つの物質は、相互に転化することができます。どう転化するのでしょうか? 良いことをすれば白い物質が生まれるのですから、人が苦しみに耐え、ひどい目に遭わされ、良い行ないをすることによって、白い物質が得られるのです。それに対して黒い物質は、悪事を働き、良くない行ないをすることによって生まれるのであり、それは業力です。両者ともそれぞれにこのような転化の過程がありますが、同時に、両者とも積み重ねという一面をもっています。それらは直接元神についてまわるので、一生涯だけのものではなく、悠久の昔から積み重なってきたものです。ですから業を積む、徳を積むと言いますが、先祖から子孫へ積み重ねることもできます。わたしは、中国の昔の人あるいは年配の方が言う「祖先が徳を積む」あるいは「徳を積む」とか、「徳を欠く」とかいう言葉を時々思い出しますが、なんとよく言い得たことでしょう、まったくその通りです。
 根基が良いかどうかは、その人の悟性の良し悪しを決めます。根基の良くない人は、悟性まで悪くなってしまうのです。なぜでしょうか? 根基の良い人には白い物質が多く、この白い物質はわれわれの宇宙と溶け合い、真・善・忍の特性とへだたりなく溶け合えます。そこで宇宙の特性が直接あなたの身体に反映し、直接あなたの身体と通い合うようになります。これに対してこの黒い物質はちょうどその反対で、良くない行ないをしたために得たものであり、われわれの宇宙特性と相反し、われわれの宇宙特性とは隔たりをもっています。この黒い物質が多くなれば、人体の周囲に一つの場が形成され、人を囲んでしまいます。しかもこの場は大きければ大きいほど密度も高く厚くなり、その人の悟性をますます悪化させることになります。なぜならその人が宇宙の真・善・忍という特性に触れることができなくなったのです。そもそもそれは良くない行ないをしたため、自ら黒い物質を作ってしまったからなのです。こういう人に限ってふつう修煉を信じないもので、悟性が良くないだけに、ますます業力の妨げを受けることになります。そこで苦しみを嘗めれば嘗めるほど、信じなくなり、修煉も難しくなるわけです。
 白い物質の多い人は修煉はしやすいのです。なぜなら修煉の過程において、宇宙の特性に同化し、心性が向上しさえすれば、徳がそのまま直接功に転化されるからです。これに対して、黒い物質の多い人は、ちょうど工場で製品を製造する時に、よけいな手順が一つ増えるようなものです。他の人を既成の材料とすれば、彼は生の原料で、あらためて一通り加工しなければならず、そういう過程を経なければならないのです。したがって彼はまず苦しみに耐え、業力を消して、それを白い物質に転化させなければなりません。まず徳という物質を形成してから、はじめて高く功を伸ばすことができるのです。しかし普通こういう人は、もともと悟性が良くないので、さらに多くの苦痛に遭遇すると、ますます信じなくなり、耐えられなくなります。ですから黒い物質の多い人は修煉しにくいわけです。昔、道家やあるいは一人の弟子しかとらない法門では、弟子が師を探すのではなく、師が弟子を探しました。その場合決め手となるのは、その人の身体に持っているこれらのものの量です。
 根基は人の悟性を決めますが、絶対的なものではありません。根基が良くない人でも、家庭環境が良く、まわりの多くの人が煉功しており、その中には宗教の居士こじである人もおり、みな修煉のことを疑いなく信じています。こういう環境の中では、彼も影響を受けて信じるようになり、悟性も良くなります。ですから根基も絶対的なものではありません。逆に一部の人は根基が良いにもかかわらず、現実社会のあの程度の知識を詰め込まれて、特に数年前まで行なわれていた何でも絶対化する思想教育方法によって視野が非常に狭くなり、自分の知識の守備範囲を超えたものは一切信じないようになってしまっているので、悟性を甚だしく損なわれていることもあります。
 一つ例を挙げましょう。わたしはある講習会の開講二日目に、天目を開くことについて講義しました。参加者の一人に根基の良い人がいました。そこでわたしは一挙に彼の天目を非常に高い次元にまで開いてやりました。すると彼に他人には見えない多くの光景が見えました。彼は人にこう言います。「わたしは伝法場全体に雪が降るように法輪ファルンが人々の身体に落ちてきたのを見ました。わたしは見ました。李先生の真の身体を、李先生の光輪を、法輪ファルンの形を、おびただしい法身を、李先生が異なる次元で説法して、法輪ファルンがいかに学習者たちの身体を調整していたかを、李先生が講義をする時に、さまざまな異なった次元においても李先生の功身こうしんが説法しており、しかも天女が花を散らしていたのを」などなど。こんなに美しいものが全部見えたからには、この人の根基はかなり良いと言えます。しかし彼はあれこれ言ったあと、最後にこう言ったのです。「自分はこんなものを信じない」。彼が信じないというものの一部は、現代科学によっても実証されており、またかなり多くのものが現代科学で解釈できます。そして一部のことについては、われわれはすでに明らかにしました。気功が認識しているものは確かに現代科学の認識を超えているのであり、この点は間違いありません。こうしてみれば、根基は必ずしも悟性を左右するものではありません。
 

 


 「」とは何でしょうか? 「悟」はもともと宗教から来た名詞です。佛教では修煉する人の佛法に対する理解、認識上の悟と、最終的な悟とを意味しており、慧悟けいごを意味しています。しかし今や常人の間で用いられるようになり、上司が何を思っているのかをすぐ捉え理解できて、上司の前では非常に要領がよい、といった頭が賢い人を言うのに使うようになりました。人々はこれを悟性が良いと言い、このように理解している場合が往々にしてあります。しかし常人の次元を超え、少し高い次元に立って見ると、常人が認識しているこのような理がほとんど間違っていることに気づきます。われわれの言う悟は、こういう悟と全然違います。利口な人の場合、悟性がかえって良くありません。賢すぎる人は、人目につくような仕事にたけているので、上司、上役から褒められます。しかし実際の仕事は他人がやらなければならないのではないでしょうか? そこで彼は人に借りを作ってしまいます。利口で、要領がいいので、たくさん利益を手に入れますが、他の人はそれだけ多くの不利益を蒙らなければなりません。利口なので、損をするようなことはしませんし、不利益を蒙ることもめったにありません。そこで他の人が不利益を蒙る羽目になります。現実の利益を重く見れば見るほど、彼の心はますます狭くなり、常人の物質的利益を何よりも大事だと思えば思うほど、彼は自分こそ現実を重視する人間だと思い、ますます損をしない人間になります。
 こういう人を羨ましがる人もいます! 羨ましがらないほうがよいと忠告しておきましょう。あなた方には分かりませんが、彼にとっては生きていることがどんなに疲れることでしょうか。食事もおいしくなければ、ぐっすり眠ることもできず、夢の中でさえ自分の利益が損を蒙ることを恐れていなくてはなりません。個人の利益に関しては、彼はどんな些細なことも気になるので、生きているのが実にたいへんです。彼は一生ただそのために生きています。われわれは、トラブルに直面した時、一歩引き下がれば世界が広々と開けると言っています。間違いなく違った世界が現われるのです。しかし決して引き下がったりゆずったりしない彼のような人は、いちばん辛い生き方をしているのです。ですから、あなたは絶対彼に学ばないようにしてください。修煉界では、こういう人が最も頑迷で、物質的利益のために常人の中にすっかり溺れてしまっている、という言い方をします。彼に徳を守らせようと思っても、無理な話です! 煉功を勧めても、信じてもらえません。「煉功だって? 君たち煉功する人は、他人から殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さず、人にいじめられても、心の中でその人に同じ仕打ちを返そうと思ってはならず、逆にその人に感謝しなければならない、なんてことを言っているが、君たちはみんな阿Qだ! みんな頭がおかしいのだ!」と言うのです。こういう人には、修煉を理解することは不可能です。彼は逆に君こそ不可思議だ、馬鹿だと言います。こういう人は実に済度しにくいものです。
 われわれの言う悟は、このような悟ではありません。まさにわれわれが個人の利益に関しては薄のろだと言われているように、われわれが意味しているのは、ほかならぬそういう悟なのです。もちろん本当の薄のろではなく、われわれはただ現実的利益に無頓着でいるだけで、その他の面ではいたって頭がいいのです。科学研究のプロジェクトをやっていても、上司から任務を与えられて、何かの仕事に取り組んでいても、われわれはいつでも頭脳明晰で、立派に仕事をなし遂げます。ただわれわれの個人の利益に関しては、人と人とのトラブルや衝突においては、われわれは無頓着でいるだけです。誰があなたのことを薄のろだと言えるのですか? 誰もあなたを薄のろとは言えません。絶対にそうです。
 本当の薄のろのことですが、それについての条理は高い次元においてはまったく逆転しています。薄のろは常人の中で大きな悪事を働くことがなく、個人の利益のために争ったり闘ったりせず、名も求めず、徳を失うこともありません。逆に他人のほうがみな彼に徳を与えます。彼を殴ったり、罵ったりする時、みんな彼に徳を与えます。この物質こそきわめて貴重なものです。われわれのこの宇宙には、「失わないものは得られず、得ようとすれば失わなければならぬ」という理があります。人は薄のろを見かけると、「こののろま野郎」と罵ったりします。口を開いて罵ったら、たちまち一塊の徳が相手に投げ渡されることになります。あなたが得をして、得た側になったのですから、そこで、あなたが失わなければなりません。人が寄ってきて、「こののろま野郎」と一足ひとあし蹴ったとします。一塊の徳がまたもや重々しく投げかけられてきます。いじめられても蹴られても薄のろはただ笑い、どうせ徳をいただくのですから、押し返したりはしません。むしろ、どんどん来いと笑っているのです! 高い次元の理に照らしてみた時、皆さん考えてみてください。どちらが賢いのですか? 彼こそ賢いのではありませんか? 彼こそ最も賢いもので、徳をちっとも失ったりしません。徳を投げかけられても全然押し返したりしないで、全部いただいてしまい、にっこり笑いながら取り入れるのです。この世では薄のろでも来世では薄のろではなくなります。元神が薄のろではないのです。宗教では、人の徳が多ければ、来世では高官になり、大金持ちになるといいますが、そういったことはすべてその人の徳と引き替えに得るものです。
 徳は直接功に演化することができる、とわれわれは説きます。どんなに高くまで修煉したにしても、みんなこの徳が演化したものではないでしょうか? 徳は直接功に演化することができるのです。人の次元の高低や功力の大小を決める功は、ほかでもなくこの物質が演化してできあがったのではないでしょうか? それはたいへん貴重なものだと思いませんか? それは生まれる時について来ますし、死ぬ時に持って行けます。佛教では、修煉の高さは、果位に現われるのだと言います。代償を払えばその分だけ得る、こういう道理です。宗教では、徳があれば来世高官になり、大金持ちになると言っています。徳が少なければ、物乞いをしてもご飯にありつけません。なぜなら交換しようにも徳がないのです。失わなければ得られないのは当然です! 徳を全然もっていなければ、形神全滅するしかなく、本当に死んでしまうのです。
 昔一人の気功師がいて、世に出たばかりの頃は次元がかなり高かったのですが、後に名利に溺れてしまいました。彼の師はそこで彼の副元神をつれて行きました。彼の場合は副元神が修煉していたからです。その人は、副元神がいた時には、副元神の支配を受けていたのでした。ひとつ例を挙げましょう。ある日勤め先が住宅を配分することになり、上司が、住宅事情の困っている人はみんな申し出て、事情を説明し、どうして住宅が必要なのか申し立てるようにと言いました。それぞれが自分のことを申し立てたのですが、その人は黙って何も言いません。しまいに上司は、その人が他の人より困っていることを見抜いて、住宅を彼にあてがうべきだと言いました。他の人は、「それはいけません。彼に割り当てるべきではなく、わたしがもらうべきです。わたしのほうがこれこれの事情で困っているのだから」と、言います。すると彼が「ではもっていきなさい」と、言ったというのです。常人から見れば、この人は馬鹿に違いありません。彼が煉功者だと知っている人がいて、「君たち煉功者は何も要らないというのですが、では要るものは何ですか?」と彼に聞きます。彼は「他人の要らないものが要る」と、答えました。実のところ彼は全然馬鹿などではなく、かなり賢いのです。ただ個人の現実的利益については、こういうふうに対処するのであり、自然に任せることを重んじるのです。他人はまた聞きます。「現在の人間に要らないものがあると思いますか?」。彼が答えて言うには、「地面に転がっている石ころは誰も要らないので、わたしはその石ころを拾うことにします」。常人はこれを不可思議だと思うでしょうが、常人は煉功者を理解することができないもので、理解のしようがありません。思想の境地があまりにも違いすぎ、次元があまりにもかけ離れているのです。もちろんその人は、その石ころを拾いには行きませんが、彼は常人が悟れない理を言い表したのでした。つまり自分は常人の中のものを求めない、ということです。その石ころについて言いますと、皆さんご存じのように、佛教の経典に、極楽世界の木も、大地も、鳥も、花も、家も、みんな金でできていて、佛の身体でさえぴかぴかと金色こんじきに光っているのだと書いてあります。そこへ行くと、石ころが一つも見つかりません。お金が石ころだと言われています。彼は別に石ころを運んで行くはずはありませんが、しかしこういう常人には理解できない理を明らかにしました。「常人には常人の求めるものがあり、われわれはそれを求めない。常人にあるものはわれわれはありがたがらない。われわれのもっているものは、常人がほしくても手には入らないものだ」と、煉功者は確かにこう言うのです。
 実は、われわれが先ほどお話しした悟は、まだ修煉過程における悟に過ぎず、それは常人の中の悟とちょうど反対になっています。われわれの本当に意味する悟は、煉功過程における師の説いた法、道家の師が説いたどう、修煉過程において自分が出会った苦難などを理解できるかどうか、受け入れられるかどうか、自分が修煉者だと悟れるかどうか、修煉過程においてこの法に従って実行できるかどうか、ということです。どんなに話してあげても信じない人がいて、やはり常人の中にいる方が何かにつけて実質的だと言います。固有の観念をいだいて放そうとしないので、信じることができないのです。ある人の場合は、病気治療のことばかりやりたがっているので、わたしが気功は病気治療のためのものでは全然ないと言ったら、彼は反感を覚えて、それから何を言っても信じようとしなくなったのです。
 悟性がどうしても上がって来ない人がおり、わたしのこの本に勝手に線を引いたり印をつけたりします。われわれの中の天目が開いた人なら見えますが、この本は色鮮やかで、金色こんじきの光を放ち、どの字もわたしの法身の姿かたちです。わたしがもし嘘を言っているなら皆さんを騙していることになりますが、あなたが一筆いっぴつでも書いたら真っ黒になってしまいます。それでも勝手に書く勇気が本当にあるとでも言うのですか? われわれはここで何をしているのですか? あなたに修煉を教え、上へ導こうとしているのではないでしょうか? こういうことも考えなければなりません。この本はあなたの修煉を指導することができるものです。これほど貴重なものがほかにありますか? 佛を拝むことは本当の修煉の役に立ちますか? あなたは非常に敬虔けいけんで、佛像に触らないように気をつけたり、毎日線香を立てたりしているようですが、本当にあなたの修煉を指導できるこの大法ダーファをそんなに汚していいのですか。
 人間の悟性とは、修煉過程において出現するあらゆる次元または師の言った特定のもの、特定の法に対するあなたの理解の程度を指しています。しかしこれはまだわれわれの言う根本的な悟ではなく、われわれの言う根本的な悟とは、命のあるかぎり、修煉の最初から絶えず上へ昇華し、絶えず人間の執着心、さまざまな欲望をなくし、絶えず功を伸ばし、修煉の最後の一歩まで真っ直ぐに進むことを言います。徳という物質が全部功に演化されて、師が段取りをしてくれた修煉の道の終点までやってくると、その瞬間、鎖がぱっと全部炸裂さくれつしてしまいます。天目がその人のいる次元の最高点に達しましたので、自分のいる次元の各空間の真相や、各時空のさまざまな生命体の存在形式、各時空における物質の存在形式、宇宙の真理が見えてきます。神通力が大いに顕われて、さまざまな生命体と通い合うことができます。ここまで来ると、それはもう大覚者ではないでしょうか? 修煉して悟った人ではないでしょうか? 古代インド語に翻訳すると、佛にほかなりません。
 われわれの言うこの悟、この根本的な悟は、やはり頓悟とんごの形式に属します。頓悟とは、この世に生命のあるうちは鍵をかけられて修煉することです。自分がどれだけ高い功を持っているかを知らず、自分が修煉してできあがる功がどんな形態のものなのかも知らないので、全然何の反応もありません。自分の身体の細胞すらも鍵をかけられて、修煉してできあがった功は全部閉ざされて、修煉の最後になってはじめて開かれます。これは大根器の人にしかできないことで、修煉の間はかなり辛いものです。まず良い人になろうとするところから始め、ひたすら自分の心性を向上させ、ひたすら苦しみに耐え、ひたすら上へ向かって修煉し、ひたすら心性の向上を求めますが、自分の功は見えません。こういう人は最も修煉するのが難しいのです。大根器の人でなければなりません。何年修煉しても全然何も分からないのです。
 もう一つの悟は漸悟ぜんごと言います。初めから多くの人は法輪ファルンが回っているのを感じており、同時にわたしは皆さんの天目を開かせています。今はさまざまな原因により見えない人も将来は見えるようになり、はっきり見えなかったのがはっきり見えるようになり、使い方が分からなかったのが分かるようになり、次元は絶えず高まっています。心性の向上と、さまざまな執着心の放棄に従って、さまざまな功能も現われるようになります。修煉過程全体の推移、身体の転化過程がすべて、あなた自身に見えて感じとれる状況の下で、変化します。こうして最後のところまでやってきて、宇宙の真理を完全に認識し、次元もあなたが修煉して到達すべき最高点に達します。本体の変化、功能の加持がみな一定のレベルに達して、徐々にこの目的にたどりつくのです。こういう悟は漸悟に属します。この漸悟という修煉方法もけっして容易ではありません。功能を持ってしまいますと、執着心をどうしても捨てられない人の場合、ともすると顕示したがり、良くないことをするのに走りやすいのです。こうなると功が堕ちてしまい、無駄に修煉したことになり、最後は駄目になってしまいます。見える人の場合、異なる次元のさまざまな生命体の顕現が見えてしまうと、彼らに引っ張りまわされ、あれこれさせられるかも知れませんし、彼らがあなたを弟子にして、彼らのものを修煉させようとするかも知れません。しかし彼らはあなたに正果を得させることはできません。なぜなら彼ら自身が正果しょうかを得ていないのですから。
 このほかに、高次元空間にいる人はみんな神で、とてつもなく大きく変身したり、大いに神通力を見せたりします。そこであなたは、心がちょっと歪んだりした時には、ふらふらと彼らについて行くことになりませんか? ついて行ってしまいますと、いっぺんに修煉が台なしになってしまいます。彼らがたとえ本当のほとけ、本当のどうであるにしても、あなたは一から修煉し直さなければなりません。さまざまな次元の天にいる人は、みな神仙ではないでしょうか? 人は修煉してきわめて高い次元に達し、目的に到達した時になって、はじめて完全に抜け出すことができます。普通の人の目には、あの神仙は確かに高くて大きい、力もすごいものをもっていると映るかも知れません。しかし彼らが必ずしも正果を得ているとは限りません。さまざまな信息に妨げられ、さまざまな光景に誘惑されている時、あなたの心は動じないでいられますか? そうなると天目が開いたまま修煉するのも難しく、心性がいっそう制御しにくいわけです。しかし幸いにもわれわれは、一部の人には途中で功能を開かせて、漸悟状態に入るようにしているのです。天目は一人一人に開かせますが、多くの人については、功能を出現させないで、心性が徐々に徐々にある次元にまで高まってきて、心の状態が安定し、自分を制御できるようになった時に、いっぺんに炸裂するようにしてあげます。ある次元に達してから、あなたを漸悟の状態に進ませて、その時になれば比較的制御しやすく、さまざまな功も現われたので、自分で上をめざして修煉すればよいのです。こうして最後になって完全に開かれます。われわれの多くがこの部類に属しますが、修煉の途中でそれらが現われるようにしてあげますので、あわてて見ようとしないようにしてください。
 皆さんは禅宗にもとんぜんの分け方があるのをお聞きになったことがあるかも知れません。禅宗の六祖慧能は頓悟を唱え、北派ほくは神秀しんしゅうは漸悟を唱えていました。彼ら両者は佛教教義のうえで非常に長い間互いに論争していました。これは歴史上の事実ですが、わたしに言わせれば、意義がありません。なぜかと言いますと、彼らが、修煉過程における一つの理に対する認識のことを言っているに過ぎないからです。この理は、たちどころに認識する人もいれば、徐々に悟り、認識する人もいます。どう悟ってもいいのではないでしょうか? いっぺんに認識できれば、それに越したことはありませんが、徐々に悟ってもかまいません。どちらも悟ったことになるのではないでしょうか? どちらも悟りですから、どちらも悪くありません。
 

 大根器の人


 大根器の人とは何でしょうか? 大根器の人と、根基の良し悪しということとはまた違うのです。こういう大根器の人は実に見出し難いもので、かなり長い歴史を経てようやく一人生まれるか生まれないかです。当然のことながら、大根器の人はまず非常に大きな徳を備えていなければならず、この白い物質の場が相当大きくなければなりません。これは間違いのないところです。同時に彼は、苦の中の苦に耐えられなければならず、大きな忍の心をもっていなければなりません。捨てることもでき、徳を守ることもでき、また悟性が良くなければならない、などなども必要です。
 苦の中の苦とは何でしょうか? 佛教では人間でいること自体が苦と考えており、人間になった以上苦に耐えなければなりません。しかし他のどの空間の生命体もわれわれ常人のような身体がないので、病気になることはなく、生、老、病、死の問題が存在しておらず、したがってこういう苦痛も存在していないと考えられています。他の空間の人間はただよい浮かび上がることができ、重さがないので、非常に美しくてたえなるものです。常人はほかならぬこの身体を持っているからこそ、さまざまな問題を抱え込むようになったのです。寒くても暑くてもいけない、喉が渇いてもお腹が空いてもいけない、疲れてもいけません。そして生、老、病、死のこともあり、いずれにしても安らかになれません。
 ある新聞の記事にこんなことが書いてありました。唐山とうざん地震の時に多くの人が地震で亡くなりましたが、救急治療で蘇った人もいます。こういう人を対象に特殊な社会調査を行ない、「死にかかっていた状態でどんなことを感じたのか」と、尋ねたところ、意外にもこれらの人はみなある特殊なことに触れ、しかもそれが一致していました。つまり人は死ぬ瞬間には怖い感覚がなくて、むしろ逆に解脱感を覚え、潜在的な興奮を感じたというのです。自分は突然身体の束縛から解き放され、軽やかに、非常に美妙な感じで漂い出したという人もおり、自分の身体が見えた人もいます。他の空間の生命体を見た人もいますし、どこそこに行って来たという人もいます。すべての人があの瞬間に解脱感を覚え潜在的な興奮を感じ、苦痛の感覚がなかったと語っています。言い換えれば、われわれ人間が肉身を持っているかぎり、苦であるにもかかわらず、みんな一様に母胎から出てきたものなので、それが苦だと分からないだけです。
 人間は苦の中の苦に耐えなければならない、とわたしは言いました。先日わたしは、人類のこの時空と、他のさらに大きな時空・空間との概念が違うとお話ししましたが、われわれのこちらの一刻は二時間ですが、他の空間では一年になります。人がこんなに辛い環境の下でもなお煉功しているのは、他の空間からはえらいと思われます。人に求道の心が芽生え、修煉しようと思い立つと、本当に大したものだと感心されます。こんなに辛くても、その人の本性は失われておらず、なおも修煉して元に返ろうとしているのですから。なぜ修煉する人を無条件に助けることができるのでしょうか? まさにこういうわけだからです。この人が常人の空間で一晩坐禅を組んだというと、あちらの人から見れば、「この人は大したものだ。彼はそこで六年も坐っているのだ」ということになります。なぜならわれわれの一刻はあちらの一年なのですから。われわれ人類はきわめて特殊な空間にいるのです。
 苦の中の苦に耐えるとはどういうことでしょうか? 一例を挙げましょう。ある日、ある人が勤め先に出勤しました。勤め先は景気があまり良くありません。仕事が少ないのに人ばかり溢れるのはまずいので、改革を行ない、請負制を取り入れました。余剰人員はやめなければならないことになります。彼もその中の一人で、突然仕事を失いました。こういう時、人はどんな気持ちになるでしょうか? お金の出どころがなくなり、どうやって暮らしていけるでしょうか? といっても他にこれといった技能ももっていません。彼はしょんぼりと家に戻ってきました。家についたら、高齢の親が倒れています。病状がひどいので慌てふためき、いらいらしながら急いで病院につれていこうとします。やっとのことで金を借りて病院に行きました。その後、親の身の回りのものを用意しようと家に戻ってくると、学校の先生が来ています。「お宅の息子が人を殴り、けがをさせたので、早く様子を見に行ってほしい」とのこと。それも片付けてやっと家に戻り、坐りかけたかと思うと、電話のベルが鳴りました。奥さんが浮気をしていると聞かされます。もちろん皆さんは、こんなことに出会うことはありません。普通の人は、こんな辛さには耐えられないものです。「もう生きていくのが嫌だ。縄を掛けて首を吊り、死んでしまおう! 死ねば楽になるだろう!」と、思うようになります。わたしが「人間は苦の中の苦に耐えられなければならない」と言ったのは、もちろん必ずしもこういう形とは限りません。人と人とのいがみ合いや、心性の摩擦や、個人の利益の争いなども、こういうことに比べればましだとは言えません。多くの人は意地のために生きており、悔しくて耐えられなくなると首を吊ってしまうことさえあります。だからこそわれわれは、こういう複雑な環境の中で修煉しようとしており、苦の中の苦に耐え、かつ大きな忍の心をもつように修煉しなければならないのです。
 大きな忍の心とは何でしょうか? 一人の煉功者としては、まず殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで、ひたすら耐えられるようでなければなりません。でなければどうして煉功者と言えましょうか? 「そんな忍は実行するのが難しい。わたしはかんしゃく持ちだから」と言う人がいます。自分でかんしゃく持ちだと分かれば、改めればいいではありませんか。煉功者は絶対に耐えられなければなりません。子供をしつける時にも、ひどく怒り、かんかんになる人がいますが、しつけはそこまでしなくてもいいはずで、本気で怒ったりせず、理性的に教育して、はじめて本当に良い子供を育てることができます。小さなことも乗り越えられず、かんしゃくを起こしたりしていて、功を伸ばせるとでも思っているのですか。「街を歩いていて不意に誰かに蹴られた時、まわりに知っている人がいなければ我慢できる」と言う人がいます。それではまだ不十分だ、とわたしは言いたいのです。あなたが最も面子メンツを失いたくない人の前で、誰かがあなたに平手打ちを食らわして、恥をかかすようなことが将来起きるかも知れません。果してあなたはそれにどう対処しますか。果して耐えられるかどうか。一応は耐えられたとしても、内心では落ちつかないようでしたら、それでも駄目です。皆さんもご存じのように、羅漢の次元に達すると、どんなことに遭遇しても心にかけず、常人の中のどんなことも全然気にとめず、常ににこにこしています。どんなに大きな損をしてもにこにこして平然と笑っています。本当にそれができれば、あなたはもう羅漢の初級果位に達していることになります。
 「忍の心でそこまでしなければいけないようでしたら、常人からあまりにもひ弱で女々めめしく、あまりにもいじめられやすい奴と見られるだろう」と、言う人がいます。わたしに言わせればそれはひ弱でも女々しくもありません。皆さん考えてみてください。常人でも年配の人、教養レベルの高い人は、品格を重んじ、他人と同じように争わないよう心がけています。ましてわれわれは煉功者ですから、そういう振舞いはどうして、女々しいと言えますか? わたしに言わせれば、それは大きな忍の心の現われ、強靭きょうじんな意志の現われで、煉功者だけしかそういう大きな忍の心がもてません。「匹夫ひっぷはずかしめられると、剣を抜いて相闘う」という言葉があります。常人にとっては当然のことで、罵られればやり返し、殴られたら殴り返します。そういう人は常人としか言いようがなく、どうして煉功者と言えるでしょうか? 一人の修煉者として、あなたがもし強靭な意志をもたなければ、自分を制御できなくなり、ここまで達するのはなかなか難しいのです。
 皆さんもご存じのように、古代に韓信かんしんという人がいました。非常に才能のある人といわれて、劉邦りゅうほうの大将軍をつとめ、国の棟梁とうりょうでした。なぜ彼はあんな大きなことができたのでしょうか? 実はこの韓信は小さい時から並みの人ではありませんでした。韓信が股くぐりで辱められたという典故てんこがあります。韓信は少年時代から武術をたしなみ、武術者としていつも剣をさげていました。ある日街を歩いていると、ならず者が仁王立におうだちして道をふさぎ、こう言います。「お前は剣をさげているが何をするのか。人を殺すだけの勇気があるのか。殺せるものなら、俺の首を切り落としてみろ」。そう言いながら首を突き出してきます。韓信は、お前などの首を切り落として何になるものかと思いました。当時でも人を殺せば通報されて、命で償わなければならず、勝手に人を殺すなどできません。ならず者は韓信に殺す勇気がないと見て、「俺を殺す勇気がなければ、俺の股下をくぐって行け」と、言いました。韓信は本当にその股下をくぐりました。これは韓信が絶大な忍の心をもっていることを物語っており、普通の常人とは違っていたからこそ、こんな大きなことができたわけです。意地を張る、というのは常人のいう言葉で、この意地で生きていくというのは、皆さん考えてごらんなさい、実に大変ではありませんか? 辛いことではありませんか? そうする価値がありますか? 韓信はなんといっても常人であるのに対して、われわれは修煉者で、われわれは彼よりもずっと上です。われわれの目標は、常人を超える次元に達し、さらに高い次元に向かって邁進まいしんすることです。そのようなことにわれわれが遭遇することはありませんが、しかし修煉者も常人の中で屈辱を受け、辱められたりすることはあり、その方が楽だとも言えません。人と人との心性の摩擦も、わたしに言わせれば、決してましだとは言えません。まさるとも劣らず、やはりなかなか難しいことなのです。
 ところで、修煉者は、捨てることもできなければなりません。常人の中のさまざまな執着、さまざまな欲望を捨てなければならないのです。いっぺんにできなくても、徐々にできるようになるのです。今日いっぺんにできるようなら、あなたは今日にでも佛になります。もっとも修煉は徐々にするものだとはいえ、だからといって自分自身を緩めてはいけません。先生が修煉は徐々にするものだと教えているから、ゆっくりやろう、などと言ってはいけません! 自分を厳しく律するべきです。佛法修煉においては勇猛邁進しなければなりません。
 また徳を守ることができるというのも大事であり、心性を守って、みだりに行動しないようにしなければなりません。何でも気分次第で動いてはいけません。自分の心性を守らなければなりません。常人の間ではよく「良い行ないをして徳を積む」という言葉が聞かれます。煉功者は徳を積むことをめざすのではなく、徳を守ることを重んじます。なぜ徳を守ることを重んじるのでしょうか? われわれはこういう状況を見ています。つまり、徳を積むというのは常人の言うことで、徳を積み、善行ぜんこうを重ねれば、来世は良い応報を得ると考えられているのです。しかし、われわれにとってはこういう問題は存在していません。修煉して成就すれば、来世ということがなくなるのです。われわれがここで徳を守ると言っているのは、もう一つの意味があります。つまりわれわれの身体についている二つの物質は、一世一代で積み重ねられたものではなく、悠久の昔から伝えられてきたのです。たとえ自転車に乗って町中を走り回ってみても、良い行ないをする機会に出会えるとは限らないのです。毎日そんなことをしても出会える保証はありません。
 それにもう一つの意味があります。徳を積もうとすると、あなたから見て良いと思ったことでも、やってみると、悪いことだったと分かるかも知れません。逆に悪いことと思っていたのに、かかわってみると、良いことだったと分かるかも知れません。なぜでしょうか? あなたにはその中の因縁関係が見えないからです。法律は常人の中のことを相手にしており、それはそれなりに問題ありません。しかし煉功者は超常的なので、一人の超常的な人間として、超常的な理で自分を律しなければならず、常人の理で量ってはいけないのです。その因縁関係が分からなければ、ものごとを取り違えてしまいやすいのです。ですからわれわれはむしろ無為を重んじます。したいことを何でもするわけにはいかないのです。「わたしはどうしても悪人の取り締まりをやりたい」と言う人がいます。そういう人はいっそのこと警察官になればいいかも知れません。といっても、殺人や放火事件に出遭っても見て見ぬふりをするようになどと言っているわけではありません。よくお話ししているように、人と人との間にトラブルが起きて、ある人が他の人を蹴ったり殴ったりしている場合でも、もしかすると殴られた人が殴った人に借りがあったからかも知れません。二人の間はそれで帳消しになるでしょう。あなたが入ると、それが帳消しにならず、次回にまわされてまた一からやり直さなければなりません。つまり、あなたに因縁関係が見えなければ、間違ったことをしやすいし、それによって徳を失いやすいのだということです。
 常人が常人のことに口を出すのはかまいません。彼は常人の理で量っているのです。あなたは超常的な理で量らなければなりません。殺人や放火事件を見て見ぬふりするのは、心性の問題です。そういうことをしながらどうして自分が良い人だと主張することができるでしょうか? 殺人や放火事件にさえ手をこまねいているとすれば、どんなことならあなたが手をこまねかないのでしょうか? ただしかし、これらのことはわれわれ修煉者とあまりかかわりがありません。そういうことを段取りしてあなたに出会わせることはまずありません。われわれが徳を守ると言っているのはほかでもなく、あなたが悪いことをしないようにするためです。あなたはある種のことをちょっとでもすると悪いことをしたことになるかも知れません。そうなれば、徳を失わなければなりません。徳を失うと、次元はどうやって向上していけますか? どうやって最終目標に達しますか? こういう問題があるのです。このこと以外に、悟性が良いことも大切です。根基が良ければ悟性も良い可能性がありますが、環境によって影響されることがあります。
 わたしはこうもお話ししました。われわれ一人一人がみんな内に向かって修め、一人一人がみんな自分の心性から探すようにし、うまくいかなかった場合は、自分に原因を探し、次回はうまくいくように努力し、何をしても人のことをまず考えるようにします。こうすれば、人類社会が良くなり、道徳も回復し、精神文明も良くなり、治安状況も良くなるはずで、もしかすると警察も要らなくなるかも知れません。人に管理されるまでもなく、みんなが自分自身を管理して、自分の心に向かって探すようになれば、どんなに良いでしょうか。皆さんもご承知の通り、現在では法律が徐々に健全化され、徐々に完備されてきています。それなのになぜまだ悪いことをする人がいるのですか? なぜ法があるのに従わないのですか? それはほかでもなく、人の心は管理できにくいもので、人に見られていないとつい悪いことをしてしまうからです。もしみんなが心の内に向かって修めれば、まったく違う状況が生じてきて、あなたがいちいち義憤を感じたりしなくてもよいようになるのです。
 法はここまでしかお話しできません。さらに高いものはあなたが自分で修煉して会得しなければなりません。質問の時間に、ますます具体的なことを尋ね、生活上の問題さえわたしに解決を求める人がいますが、それではあなた自身は何を修煉するのですか! 自分で修煉し、自分で悟らなければなりません。わたしが全部言ってしまえば、あなたの修煉するものがなくなります。幸いに大法ダーファはすでに世に公にしましたので、大法ダーファに基づいて実行すればよいのです。
 わたしが法を伝える時間はそろそろ終わりに近いと思いますので、皆さんがこれからさらに修煉されるにあたって、手引きとなる法を持つことができるように、本当のものを皆さんのために残したいと思います。法を伝える全過程で、わたしは皆さんに対して、そして同時に社会に対して責任をもつことを常に念頭においてきました。実際われわれはこの原則に基づいて行なっているのです。よくやったかどうかは世論よろんが決めてくれますので、わたしは言わないことにします。わたしの願望は、もっと多くの人が受益できるように、真に修煉したい人が法に従って向上をめざして修煉できるように、大法ダーファを世に公にすることです。それに法を伝えると同時に、われわれは人間としての心構えについてもお話ししましたが、皆さんがこの講習会を終えてから、たとえ大法ダーファに従って修煉できなくても、せめて良い人間になられるよう希望しています。そうすればわれわれの社会に対して有益になりましょう。実際あなたはもう良い人間とは何かを知っており、帰ってからも、きっと良い人間になることができます。
 法を伝えている中で、うまくいかなかった点もありますが、さまざまな方面からの妨害もかなり大きかったのです。主催者と各界の指導者の力強い後援とスタッフの皆さんの努力のおかげで、われわれの講習会は圓満に開催できました。
 講習会においてわたしが話したこれらのことはすべて、皆さんが高い次元をめざして修煉することを指導するためのもので、過去の説法ではこういうことを話した人はいませんでした。われわれの言っていることは非常に明快であり、現代科学や現代の人体科学とも結びつけてお話ししてきましたし、しかも非常に高い次元のものです。それは主に皆さんのためで、あなたが将来本当に法を得、修煉して向上できるようにしてあげたい、というのがわたしの出発点でした。われわれが法を伝え、功を教えてきましたが、多くの人は、法は素晴らしいが実行するのは難しいと思っているようです。わたしは、難しいかどうかは実は人によると思います。ごく普通の常人で、修煉したくない人にとっては、修煉はとてつもなく難しく、不思議なもので、成就などできないと思うでしょう。常人で、修煉したくない人なら、非常に難しいと思うのです。老子はこう言っています。「上士じょうしどうを聞けば、勤めてこれを行なう。中士ちゅうしどうを聞けば、るがごとく、亡きが若し。下士かしどうを聞けば、大いに之を笑う。笑わざれば、ってどうすに足らず」。法はわたしに言わせれば、本当に修煉しようとする人にとって、非常に易しいもので、高くて届かないようなものではありません。実際ここにいる多くの古い学習者や今回は来られなかった古い学習者は、すでにかなり高い次元まで修煉しています。わたしがあなたにこれをお話ししなかったのは、あなたに執着心が生まれたり、いい気になったりして、それによって、あなたの功力の向上が影響を受けるのを心配したからです。本当に修煉を決意した人にとっては、もし耐えることができ、さまざまな利益を前にして執着心を捨て去ることができ、そういうものに淡泊になれたら、こういうことを真に実行できれば、難しいことは何もありません。難しいと言う人は、こういうものを捨てられないからにほかなりません。功法を修煉すること自体はそれほど難しくなく、次元を向上させること自体には、それほど難しいところはありません。人間の心を捨てられないから、難しいと言うのです。なぜなら現実の利益の真っただ中で、心を捨てることは至難だからです。利益がすぐここにある時、心をどうして捨てられるでしょうか? 難しいのは、実際その点にほかなりません。人と人との間にトラブルが起きた時、そこに居合わせたわれわれがどうしても我慢できず、自分を煉功者として律することすらできないようでは、話になりません。わたしがむかし修煉していた時、多くの高人がこんなことを言ってくれました。「忍びがたきは忍びうる。行ない難きも行ないうる」。実際その通りです。皆さんは帰ってからぜひ試しにやってみてください。本当の劫難に直面した時、あるいは関門を乗り越える時に、試してみてください。耐え難いものを耐えてみてください。乗り越えられそうもないと見えても、行ない難いと言われても、本当にできるかどうか試しにやってみてください。もし本当にやり遂げられれば、きっと「柳暗リュウアン 花明ファミン ユウ 一村イーチュウン」というように、眼前に新たな世界が開けることに気づくに違いありません! 
 あまりにも多くのことをお話ししてきました。あまり多く話しましたので、皆さんは覚えるのが難しいかも知れません。そこで皆さんに特に一つだけ要望があります。皆さんがこれから先の修煉において、自分を煉功者としてあつかい、本当に修煉し続けてほしいということです。新しい学習者も古い学習者も、大法ダーファの中で修煉し、みんな功成って圓満成就できるように希望します! 皆さんは帰ってからも時間を無駄にせず、着実に修煉するよう切に希望します。
 
 『轉法輪ジュワンファルン』は、文章の表面上においてきらびやかではありません。甚だしきに至っては、現代の文法に符合しないこともあります。しかし、私がもし現代的な文法でこの大法ダーファの本を整理したなら、一つの重大な問題が現われます。文章の言語構造は規範的で美しくても、さらに深く、さらに高い内涵がありえないのです。それと言うのも、現代の規範的な語彙ごいでは、大法ダーファのさらに高い異なる次元での指導と法の各次元での現われを示し、学習者の本体と功の演化ならびに向上のこの種の実質的な変化をもたらすすべが、まるでないからです。

李 洪 志
一九九六年一月五日



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