長春法輪大法輔導員のための説法

李 洪 志

一九九四年九月十八日



 在席の皆さんはすべて輔導員と中堅の人であり、法輪大法の創設において、特に長春法輪大法の創設において極めて重要な作用を果たしています。多くの煉功場の学習者がたくさんの問題を提出しました。我々の輔導員や中堅の人が一部分の問題に対し解答しにくく、或いは解答できません。これには二つの原因があります。一つは法に対する理解が不足しているからです。実は我々は講習会においてすべて説きましたが、法を十分に理解できさえすれば、何でも解答できるはずです。これがその原因の一つであり、しかも最も主要な原因です。もう一つは学習者から提出された一部の具体的な問題に解答しにくいことです。輔導員は直接学習者と接触しているので、多くの具体的な問題には、あまりよく解答できません。

 私はずっとこのような態度を抱いています。つまり、法は私がすでに普遍的に概括的に説きました。あなた自身の修煉の問題に関してはこの法に従って行なえばよいのです。もし何もかも解き明かしたら、あなた自身が修めるものはなくなりますので、私はこれ以上多く説かないことにしました。さらに説いたら、私があなたを持ち上げたのと同じことになります。残っているのは幾らかの具体的な問題です。しかし一部の学習者はやはり聞こうと思っており、どうしても安心できないのです。私に聞くことができないから、我々の輔導員や煉功の時間が比較的長い古い弟子に聞きます。しかし輔導員や古い弟子が自らぶつかったことのない問題であればやはり解答しにくいのです。

 私はなぜ皆さんに一緒に集まって煉功するように要求したのでしょうか? 問題にぶつかったら互いに切磋琢磨し、一緒に検討すれば、これらの問題も解決できるからです。自分一人で煉功する場合、問題にぶつかったら解決できず、非常に困惑します。煉功場において、皆さんが一緒に検討してみれば、多くの問題が解決できます。実は一つの問題をしっかり把握して、つまり心性から探せば、どんな問題でも解決できます。しかし、やはり一部の具体的な問題は輔導員にとって確かに解決しにくいのです。これらの問題を解決するために、私は今回の会議を開くことにしました。これも長春の輔導員にとって特別なことであり、ほかの各地ではまだこのような機会はありません。今回帰ってきて処理すべき問題がたくさんあり、学習者は皆これを知っているから、できるだけ私を邪魔しないようにしています。電話が鳴るだけでも、酷く私を邪魔するかもしれないので、多くの学習者は電話をかけることも控えています。このことを私は知っています。皆さんに集まってもらったのは皆さんのために幾らかの問題を解答するためです。総輔導站から届けられた一部の学習者の体験談と纏めてくれた幾つかの問題を、私は読む時間がありません。なぜなら、私は第三冊目の本――『轉法輪』を修正しており、やるべきことがまだたくさんあるからです。

 今日、皆さんのために問題について解答するのは、主に皆さんが今後仕事をする上での便宜をはかるためです。ここまで話が及びましたので、私はもう一つの問題を話します。つまり、在席の輔導員は責任を持たなければならず、動作の指導に責任を持つだけではまだ不十分で、法理をしっかり理解し、本当に身に付けなければなりません。多く本を読み、多く録音を聞くべきであり、少なくとも一般の学習者より理解できて、はじめて本当に良い輔導員になることができます。法に対する理解は必ずしっかりしなければなりません。学習者に何かの問題があれば、少なくとも一般的な解答ができるように、指導作用を果たせるとまで言えなくても、だいたい分かるように説明できなければなりません。真に高い次元への功を伝えることは、つまり人を済度することであり、即ち本当に修煉することなのです。もし、このように考えてみれば、これは寺院の中、或いは山の奥で専修することと何の違いもありません。

 我々のこの法は主に常人社会の中で伝え、大部分は常人の中で修煉しています。そこで我々は修煉者に対して、常人の中で修煉する表れは常人とほぼ一致するようにと要求しています。はっきり言えば、我々の煉功場の責任者は寺院の中で修煉する住職、方丈と同じです。これはただたとえ話で、我々に官職を与えたり、資格を与えたりする人はいません。我々はつまりこのような修煉形式を採っています。考えてみてください、それは同じことではありませんか? 多くの修煉者を良く率いることができれば、それは功徳無量の事です。良く率いることができなければ、私に言わせれば、それは責任を果たしていないのです。このような目的で皆さんに集まってもらったのです。総輔導站の責任者はこの問題を私に話したことがあり、「もう一回講習会を行なったら如何ですか?」と話しましたが、私が思うには、この法をあまりにもはっきり説きすぎると、反って皆さんの修煉によくありません。それは常人の中の道理になってしまい、我々は常人の中で如何に修煉するかという問題を説く必要がありません。後に私がこれらの紙に書かれている問題を皆さんに解答した後、残りの時間に皆さんは何かの問題があれば提出してください。何かの知識を探求しようという問題を提出しないでください。国家の政策に及ぶ問題も提出しないでください。我々が修煉の過程でぶつかった典型的な問題、主にそのような問題に解答するので、皆さんは提出してください。

 我々は輔導員と世話人だけが会議に参加するように通知しましたが、今後通知を受けていない人を絶対に連れて来ないようにしてください。来る人が多すぎると、事が運び難くなります。すべて輔導員なので、少し高く、少し具体的なことを話して、輔導員が今後の仕事をやりやすくなるようにと思っていました。しかし、在席の中に新しい学習者がおり、一回の講習会にしか参加しておらず、ひいては一度も講習会に参加したことのない人もいます。突然こんなに高くて奥深いことを聞くと、非常に受け入れ難く、彼には良い作用を果たすことができず、かえって彼の思想の中に抵抗する気持ちを生じさせやすく、これによってこの人を駄目にしてしまうことになります。

 輔導員は責任を持たなければならず、新しい学習者の動作が正しくなければ、彼らに正しい動作を教えるべきです。一部の古い学習者は動作がすでによくできるようになり、少し正確でないところがあれば、煉功が終わった後、彼に教えたらよいでしょう。入静の邪魔をしないように、煉功の途中で彼を邪魔しないようにしてください。新しい学習者に対して、必ず輔導しなければなりません。質問をする人がいれば、辛抱強く説明してあげなければなりません。我々の煉功場のすべての学習者はこの責任があり、普く衆生を済度すべきです。普く衆生を済度するとは何でしょうか? 衆生に法を得させることこそ本当に普く衆生を済度することなのです。人が聞きに来たら、あなたは説明しなくてそれでいいのでしょうか?

 輔導員は煉功を必ず専一にしなければなりません。専一に煉功できない学習者に対して、注意してあげたり、助けてあげたりしなければなりません。どうしても専一にできず、彼が自分のものを放下できなければ、彼に離れて別の功を練りに行くように勧め、我々の学習者を妨害させないようにすべきです。彼がどうしても離れなければ、それも仕方ありません。彼は練っても得られず、これは悟性が良くないのです。我々佛家は慈悲から出発するので、彼を懲らしめようと思ってはいけません。厳重に法を正すことを破壊していなければ、手を下してはいけません。

 人に病気を治療してあげたり、或いは病気を治療するために人をわれわれの煉功場に連れてきたりする人がいますが、これは大法を破壊することです。これは一つの非常に厳粛な問題であり、誰もこのようにしてはいけません。もしこのように行なったら、もう私の弟子ではなくなります。もし輔導員がこのように行なったら、すぐ更迭しなければなりません。断固としてこの二つのことを根絶しなければなりません。

 輔導員は仕事に責任を持つべきであり、煩わしい仕事でも積極的に取り組むべきです。一部の年を取った輔導員は、法に対する理解が足りず、自分は良いと思っても、はっきり説明できません。その場合、助手をつけて輔導員の仕事に協力させた方がよいでしょう。法に責任を負うべきで、あなた個人の損得ではなく、あなた個人の損得も法と緊密に関わっているのです。輔導の仕事をする時、個人のさまざまな考えを混ぜ入れてはいけません。さもなければ個人と団体の修煉を妨害することになります。輔導員の煉功動作はできるだけ正確にし、できるだけビデオテープの動作と同じようにするべきで、大体同じでなければなりません。僅かな違いは免れがたいもので、絶対に一致して同じ形にすることは不可能です。大体一致していれば構いませんが、違いが大きすぎてはいけません。特に輔導員の場合、あなたがそのまま人に教えると、ずれが生じます。

これから問題に解答します。

弟子:形神倶滅はどのような状態ですか?

師:形神倶滅は一つの古い名詞で、我々はそれを形神全滅と言います。倶という字の発音は良くなく、滅とはつまり散らしてしまうという意味で、倶と聚は同音で、聚は、即ち集まることになりますので、我々は今後、それを形神全滅と呼びます。もちろん本の中に書いてあるのはやはり形神倶滅ですが、この本は過渡期の読み物に属します。我々の第一冊の本である『法輪功』は書き上げた時、低次元の気功と類似する部分がありました。第二冊の本、つまり『法輪功』(改訂版)は、気功よりかなり高くなりました。私は今、私の説いた全部の法を整理しており、将来書き上げたら真に修煉を指導する大法とします。新しい本の中では多くの名詞が正されることになります。

 形とは、即ち有形の身体を指すのであり、我々の肉眼で見えるこの物質空間の身体だけを指しているのではありません。各空間にもあなたの身体が存在しており、皆有形なもので、皆物質的存在であり、極めてミクロ的な次元まで皆身体が存在しています。言い換えれば、どれほどの空間があろうとも、どこにも人の身体があります。形神全滅とは即ちこれらの身体が全て存在しなくなるという意味です。

 神とは、即ち人の元神を指しています。主元神にしても、副元神にしても、各種の生命体にしても、形神全滅になった時、それは非常に恐ろしいことです! 全宇宙の中でこれより恐ろしいことはなく、全て滅びることになり、何もかも無くなってしまいます。もちろん、まだ無限のミクロの物質の存在があり、私は真空でも物質が存在すると話したことがあります。我々の現在の物理学の研究はただ中性微子というレベルにしか達しておらず、最小の物質は中性微子だと認識しています。これは物質の本源物質まで、生命の最も微小の本源物質まではほど遠く、遥かに遠いのです。超ミクロの物質、最も原始的な状態にまで壊滅された時、我々はそれを形神全滅と言います。また最も原始的な状態に戻ったので、それはもう存在しなくなり、かなり高い次元にいる大覚者もそれが見えなくなったのです。同時に思惟も無く、完全に散乱した最もミクロ的な形式になってしまい、かつて高次元で大法に罪を犯したらこのように処理されるのです。人類の壊滅もこのようなことであり、人類がすでに最低の次元まで落ちてきたので、さらに悪事を行なったらこのような問題に直面することになります。つまり宇宙の中から徹底的に消滅され、思惟も無くなり、物質も殆ど無くなり、最も原始的な、最も原始的な状態にまで消滅されるのです。

弟子:男佛や女佛の性別は修煉者の肉身の性別でしょうか、それとも主元神の性別なのでしょうか?

師:人が出世間法まで修煉できた時、すでに羅漢果位の修煉に入っており、つまり初果羅漢になったのです。その時すでに佛だと言ってもよいのです。実際、あなたはすでに佛体での修煉なのです。羅漢は初果羅漢、正果羅漢と大羅漢に分けられています。各次元の距離はかなり開いていますが、しかし大菩薩は佛陀だと言えます。羅漢果位の修煉に達したときに悟りを開いたら、男女に関わらず皆男身の形象を現します。あなたは常人の中で修煉しており、あなたの肉身の性別は変わりません。あなたの肉身は時に男性になり、時に女性になるのならば、それはおかしなことになります! 昔、羅漢果位まで修煉して圓満になった人がいますが、圓満は境地に達したことと同じではありません。もし人が修煉して羅漢果位にまでしか圓満できず、更に高い次元へ修煉できなくなったら、そのまま定められることになります。彼は一旦功を開いたら、男性でも女性でもすべて男身の形象を現します。彼の身体は彼が修煉して出来た佛体であり、羅漢果位においては皆男体を現すのです。
 
 本来の元神は、男性あるいは女性であるかも知れません。彼のその身体は、高エネルギー物質により転化されたものであっても、或いは彼が修煉して成就したその金剛不壊の体であっても、或いは涅槃の時、佛が彼に与えたその佛体であっても、羅漢果位においては皆男身の形象を現します。菩薩の境地に達したら皆女身の形象を現しますが、元神の性別は変わりません。佛の境地に達した時、やはり身体を持っていますが、その身体は高エネルギー物質で構成したものになります。更に高くなってもやはり身体を持っており、つまり異なる空間の身体(佛体)です。佛の境地に達したら、性別が主元神の性別に戻り、男佛は男佛で、女佛は女佛になります。

弟子:本体と佛体を修める意義は?

師:我々がここで言っている本体は低次元での修煉における一つの概括的な名詞であり、あなたの各空間の身体を指しており、あなたの肉身もその中に含まれています。

弟子:正法を得て、正果を成すことは、圓満とみなされます。ならば、我々はどの程度まで修めたら圓満になれるのでしょうか?

師:圓満は我々が言う果位の高低とは違い、あなたが羅漢果位にまで修めれば、あなたはすでに佛体の修煉なのです。過去は如来しか佛と呼ばれなかったのですが、現在、佛は比較的多くなりました。区分すればつまり如来も一部の佛を管掌し、それらの佛は如来の次元に達しておらず、菩薩を超えれば、佛と呼ばれ、大菩薩も佛と呼び、ひいては羅漢、菩薩をも佛と称します。皆佛家だからです。ですから、皆さんに教えますが、あなたが羅漢果位まで修めたら、すでに佛体修煉の段階に入っており、つまりこういう意味なのです。しかし、あなたはすでに佛体をもって修煉する段階になりましたが、必ずしも圓満になったとはかぎりません。人の根基は違い、忍耐力も違います。菩薩果位にまで修煉できる人がいれば、佛果位にまで修煉できる人もおり、更に高い、如来を超える果位にまで修煉できる人もいれば、羅漢果位にまでしか達することができない人もいます。しかし、どの次元に達したとしても、すべて三界から跳び出したので、全部果位を得たと言えます。つまり、あなたがすでに正果を得たのです。それでも、必ずしも圓満になったわけではありません。例えばあなたに菩薩果位で悟りを開き、圓満成就するように按排してあげましたが、あなたが羅漢果位に達しても、まだあなたの最終の修煉の目的に達していないなら、圓満にはなっていません。つまり、このような関係なのです。あなたが払った分だけ、修煉した分だけ、それ相応に得られます。あなたは圓満にまで修煉できていませんが、あなたはすでに果位を得ています。しかし、あなたはやはり圓満にまで修煉できていないので、まだ次元の問題が存在しており、まだあなたの修煉の最終の目的に達していません。

弟子:返本帰真と正果を得ることとの関係は? 本と真との意味は?

師:返本帰真は常人の中で言われる返朴帰真とは異なります。我々の言った返本帰真とはあなたの先天の本性に返り、あなたの本性、あなたの本質、あなたの本来の姿に返ることです。あなたが常人社会の中に落ちてきて、すでに本来の姿が覆い隠されています。常人社会の中で白黒をさかさまにし、是非をさかさまにしており、あなたは返る必要があります。帰真は道家の名詞で、我々が修煉しているこのものは非常に大きいので、すでに佛家自身の範囲を超えており、一部は道家の言い方です。道家は修煉して成就したら、真人になり、つまり佛に成就します。彼らは真人と呼び、真正の人なのです。

弟子:私が永遠に修めていく願を立てたことと、先生がわれわれに按排してくれた道とはどういう関係なのでしょうか?

師:あなたは永遠に修めていく願を立てましたが、この永遠というのは絶対的ではないでしょう。正果を得ず圓満にならずにいつまでも修めるのですか? 修めるには目標がなくてはならず、高次元を目指して修めていくことは、あなた自身の立てた願に基づき、さらにあなたがどれくらいの高さまで修煉できるかを結び合わせて、師父があなたのために按排するのです。皆非常に科学的なのです。あなたは本来鋼なのに、鉄として按排されたら、それはいけません。あなたが菩薩果位にまで修めることができるのに、羅漢果位に按排されたら、これもいけません。非常に正確に見ており、それは見当違いは少しもありません。

弟子:宇宙の中に全く同じものはありますか?

師:修煉方法は一人の大佛が一つの法門を主宰しており、どこでも同じです。しかし修煉の方法は同じではなく、われわれの今日のこの法輪と同じようなものはありません。しかし、旋回しているものは他にもあります。地球も回転しており、密教は意念で一種の輪を推して回します。このようなものは他にもあり、長春のある気功師も太極を旋回して練っていますが、我々のものと違い、彼は内へ収めるだけで外へ放たず、われわれのと同じではありません。惑星は恒星のまわりを回っており、電子は原子核のまわりを回っており、皆旋機が存在していますが、内涵には千里の差があります。二種の同じものは存在するかもしれませんが、極めて極めて少なく、私はまだ見たことがありません。

私が皆さんに話したように、大覚者たちは今日のこの事を按排したので、それならば宇宙の演化過程の中で一切の事はすべてこの事のために道を開かなければなりません。宇宙の形成の初期にはすでに最後の大事のために按排をしていました。そうであれば、多くの事はすべて今日の末劫の時、最後の一回の正法を伝えるために按排したのかもしれません。なぜ今世紀のこの年代に歴史上において未曾有の気功ブームが現れたのか、私に言わせればそれは偶然のことではありません。なぜ様々な功法が現われたのか、これも偶然ではありません。これらの事は常人の考えているような簡単な問題ではありません。

弟子:法輪と法輪世界とはどんな関係ですか?

師:法輪世界は法輪世界の如来が主宰している非常に厖大で美妙な世界です。法輪はただ法の功の一面の体現であり、まだほかに法の一面の体現があります。法の一面の体現では、私の説いた法以外に、更に高い法と形態を我々は公開しておらず、公開することも許されません。功の一面では、私はすでにその図形を描き出しましたが、まだほかにその法の一面があり、功の一面はすなわちこの形式なのです。我々の学習者は将来正果を得て、果位を成就した後、自分で法輪を修煉し作り出すことができるようになり、一つだけ修煉し作り出すことができます。あなたはかなり高い次元に至ってもただ一つの法輪しか持つことができず、それはあなた自身の体現であり、それは私があなたに植えつけたその法輪に替わり、下腹部に位置し、それはあなたの真正の果実です。しかしながら法輪はまた法の体現であり、彼は分身できます。あなたが神通を使えば、彼は分身できます。あなたも幾つかの法輪を放つこともできますが、私が今日修めたそのような形式のそれほど多くの独立体になることはありえません。

 皆さんが知っているように、このものはそれほど大きく、それほど貴重で、幾代もの人が作り出したものです。あなたは一つの修煉の過程で私が修めたこれほど大きなものを修めて出そうと思っても、それは不可能であり、絶対不可能なことです。皆さんは一つの法輪を修めて出すことができます。それは問題がありません。この法輪は威力がとても大きいので、もしこの空間に持って来ることができれば、法輪が動くと、それは大変なことになります。それはすごい威力があります。あなたが将来、修めて出したその法輪でも、この空間で回ると、一陣の巨大な竜巻が吹くようになるでしょう。その威力が非常に大きいのです。なぜ法輪を常人社会で顕現させないのですか? なぜこの空間に透過して作用をするようにさせないのですか? その威力は本当に大きすぎるからです。法輪は別の空間で作用をしても十分にあなたを保護することができ、非常に大きな作用をしています。

弟子:法輪は宇宙の縮図であり、法輪世界は宇宙と同じ大きさですか?

師:そうではありません。法輪世界は我々のこの宇宙の非常に高い次元にある一つの単元世界です。宇宙は相当厖大なのです。新しい学習者が在席しているから、一部のことは話しにくいのです。彼らは受け入れられません。我々のこの厖大な宇宙の中には、無数の小宇宙があります。人類は一つの小宇宙の中に存在しています。しかしこれらの小宇宙の中には無数の銀河系があります。如来の次元の佛は一つの小宇宙を見てもその果てが見えません。大宇宙はどれほど大きいのか、過去には人類に知られてはいけないことであり、それは途轍もなく厖大なのです。人が修煉する過程で、身体は外へ拡大することができ、つまり身体の容量が増大し、身体の容量は次第に大きくなり、心も広くなり、思想は昇華し、次元は向上していきます。常人のこちらにある身体はこのような変化が見られず、常人と同じです。圓満の時になったら、体が一体になります。合体したその一瞬、あなたが常人の中でその法力を体験する暇がないうちに、すぐ連れて行かれます。それは常人に対する妨害があまりにも大きいからです。皆このようにします。私がよく話したように、修道者は深山の中で長期に修煉して、人々は彼らの能力が非常に大きいと思っていますが、実は彼らの能力は非常に小さいので、はじめて彼らに世間で神通を開放することを許したのです。しかし、現在人に示す者も非常に少なくなりました。彼らも常人社会を破壊してはならず、さもなければ自分自身もだめになることを知っています。

弟子:講習会に参加したことがなくても法輪を修めて出せますか?

師:この問題について私は何回も話したことがあります。本を読んでも同じです。本当に大法に従って修めさえすれば、あなたは一人で最も僻地に住んでいても、それも問題はありません。私の本の中には私の法身があり、一字一字は浅い次元から見ればすべて法輪ほど大きなもので、あなたが何かを考えれば、彼はすべて察知できます。同様に、本当に修煉さえすれば必ず得られます。自分で本を読んで煉っても、煉功場に行って古い学習者と一緒に煉っても、どちらでも結構です。本当に修めさえすれば必ず得られます。皆さんが知っているように、釈迦牟尼は世を去ってからすでに二千年あまり経ちましたが、末法の時期になる前に修煉して成就した僧侶はたくさんいましたし、かなり高い次元まで修めた人もいます。先生の傍で、親授を受けなければ修煉できないというわけではありません。

弟子:この空間にある私が修めて法輪世界に行ったら、別の空間にある多くの私も、同様に修めて法輪世界に行けますか?

師:そうとはかぎりません。もし彼らがよく修めたら、あなたと一体になり、あなたの護法として存在できますが、あなたが主導し、彼は護法として副元神と似ています。もし彼がよく修めなければ、彼も独立した生命体なので、彼はだめになります。あなたが修めたらあなたしか得られず、修める人しか得られないのです。

弟子:法輪大法は漸悟なのですが、我々はいつ漸悟の状態に入りますか?

師:我々の多くの学習者はすでに漸悟状態に入っています。多くの学習者はよく修めていますが、声を上げず話さず、それは彼らが言わないだけです。私はハルビンで講習会を開いたときにこう話しました。四千あまりの人がここに座っていますが、どれだけの人が修めて成就できるのか、将来どれだけの人が道を得られるのか、私はまだ楽観しておらず、皆さんが如何に修めるかにかかっているのです。四千あまりの人が一度に佛になり、四千あまりの人が全員漸悟状態に入るというのは、それは不可能なことです。煉功場に来て法輪大法を煉る人の中に、どれぐらいの人が漸悟状態に入ったのか? 本当に堅実に修めているのか? 異なる漸悟状態に入りますが、あなたが漸悟状態に入ったら、すぐ神通が大いに現れるということではありません。

 ここでついでに一つの問題を話します。我々の多くの人はすでに漸悟状態に入っていますが、彼はいつも恐れています。何を恐れているのですか? 現在人類社会の執着心はあまりにも大きいので、この方面については私が強く強調しており、功能が出たとしてもそれにかまわずに、天目が開いたとしても追求してはいけないと言いました。しかし皆さんに教えますが、あなたの天目が本当に開いたら、あなたに追求する心がなければ、見てもかまいません。あなたの神通が出たら、人のいないところで運用してみても問題はありません。この一点について皆さんにはっきり言いますが、それを執着心と見なさないでください。あなた自身の法であり、あなたは自分自身の法を運用してみても、これは執着心と違うのです。現在すでに漸悟状態に入った人がいますが、彼は自ら恐れており、いつも緊張していますが、使わなくてもいけません。多くの人は天目が開きましたが、彼はいつも幻覚だと思っており、これではいけません。開いたら、見られるなら見ても結構で、かまいません。執着と体験とは違うことです。

弟子:現在三花聚頂に達した人はいますか? 正果を得た人はいますか?

師:現在多くの人はすでに三花聚頂を超えていますが、圓満に達した人は今はまだいません。皆果位の中で修めており、異なる次元の果位の中で修めているのです。

弟子:我々が今から一生懸命に煉功して心性を修めるなら、一年半の時間の中で出世間法修煉に達することができますか?

師:時間の制限はなく、修めるか修めないかはあなた個人の問題です。どれくらいの高さまで修められるか、忍耐力がどれくらいあるか、耐える力はどれくらいあるか、すべてあなた個人の問題です。先生の指定した時間内に修めて抜け出ると言っていますが、あなたの心性はそこまで達することができますか? 心性は昇華して上がれますか? 法に対する認識はそれほどの高さまで達することができますか? あなたは常人の中での執着心を放下できますか? 個人の利益の前で、人と争い闘うことにおいてあなたは放下できますか? これらはすべて個人が修める問題であり、あなたに決めてあげる人はいないし、時間の制限もありません。羅漢果位まで速やかに修めて上がる人がいれば、一生かかって修める人もいます。すべてあなた自身の忍耐力、自分に対する要求の厳しさによります。これはすべて個人の問題です。

弟子:我々は自分自身を守れるところまで修めた後、まだ上を目指して修めたければ、どうすればよいでしょうか?

師:先ほど私はすでに話しました。釈迦牟尼はすでに世にいなくなりましたが、彼の弟子はまだ上へ修めることができます。仮に先生が本当に世にいなくなっても、私の法身がまだいるでしょう。私は本当に消えたわけでもないし、形神全滅になったわけでもありません。

弟子:難を逃れるために煉功する人がいますが、彼らの結末はどうなりますか?

師:いかなる求める心を抱いて煉功に来ても、すべて正果を得ることはできません。しかし、人の法に対する認識においては、認識の過程を与えるべきです。多くの煉功者は病気を治療するために入って来たのですが、ある認識の過程を通してはじめて高次元のものがあることを知りました。我々は今日高次元において法を伝えており、講習会に参加したばかりの人はまだどういうことかが分からず、突然高次元へ修煉する功を伝えているのを聞き、我々の説法を聞いているうちに、彼は徐々に認識できたのです。このような過程の存在を許すべきで、これは確かに必要なのです。彼は病気を治療するための心、難を逃れるための心、どんな心を抱いて入ってきたにしても、その心を放下してから、はじめて修煉の目的に達することができます。病気治療や健康維持の目的に達するためであっても、彼が難を逃れる考えを抱いて来たのならば、それもいけません。

難は自分自身が作ったもので、生々世々で自分がやった良くない事によって作った借りであり、返さなければいけないのです。あなたが修煉の過程の中で嘗めた苦は自分で作った業力によって現れた関ですが、それは良いことでもあります。我々はそれを利用して、あなたの心性を向上させます。それは良いことではありませんか? 修めて佛になることもできれば魔になることもできます。それはこの道理なのです。業力の存在があって、迷いの中ではじめてあなたに修煉させることができます。

弟子:他の空間の多くの私は肉身という次元の空間に存在しているのですか?

師:そうではありません。我々に見えない他の次元の空間に存在しています。同等の次元の空間においては、我々人類はこの身体を持っているほかに、もう一つの空間にも人の身体があります。その空間にある人は我々こちらの人よりずっと強いのです。彼らには名と利がありませんが、情があります。ですから、彼も色身を帯びています。形象は我々とほぼ同じですが、我々よりも少し美しいのです。彼らの身体は漂うことができます。彼らは歩かないので、足はほとんど見えません。あちこち漂うのです。このような空間があります。これは同等次元の空間です。

 私は皆さんにもう少し空間の問題を説明します。我々の現在の科学者は研究して、電子が原子核を巡って回転しているのを発見しました。その運行はわれわれの地球が太陽を巡って回転するのと似ているのではありませんか? それは同じことではありませんか? 我々は今その電子の上に何があるか見えるような顕微鏡を持っておらず、もしあなたが見えるなら、あなたはその上に生命体があるのを発見できるかもしれません。私が話したように、これらのことはすべて我々の今日の物理学の認識に符合していますが、しかし我々の現在の科学手段はやはり極めて限られているのです。

弟子:多くの学習者は周囲の環境、病気、黒い気に極めて敏感であり、これはどういうわけですか?

師:この部分の学習者は皆功が出る状態に近づいており、まだ気を煉る低いレベルから抜け出していません。気を煉る最高形式において、すでに乳白体状態に入った時にこのような体現があるはずです。しかしそれは非常に短い過程であり、気にする必要がなく、恐れる必要もありません。自然に任せればよいのです。あなたが過剰に恐れるなら、それも一種の執着心です。気にしないで、すべてを必然と見做して、自然に任せてよいのです。この次元を通り過ぎたら、あなたはもう感じられなくなります。功が出たらあなたの身体は功に覆われるようになります。これらの黒い気、病気はあなたの身体に侵入することができなくなるので、感じなくなります。

弟子:一部の学習者は心性が絶えず向上していますが、座禅する時に結跏趺坐ができず、無理やりに重い物で押さえたり、縄でくくりつけたりしていいですか?

師:私の知っているところでは、昔一部の和尚は座禅の時、石ローラーや石臼で押さえることがありました。石ローラーを使うにしても、石臼を使うにしても、すべて自分の意志であり、彼は人に頼んでしてもらうのです。しかし道士は違います。道家は弟子を一人か二人しか取らず、しかもその中の一人しか真伝が得られません。弟子に対する要求はとても厳しく、度々弟子を叩くこともあります。耐えられるかどうかにも関わらず、何としてもあなたに乗り越えさせます。そのため、彼は一般的に強引な方法で、弟子の足を縛りつけ、両手を背後に縛って、自身で縄を解すことができず、身体を横にしても解すことができず、痛くて気絶する者もいます。昔このようにする人がおり、その時の修煉は非常に苦しかったのです。

 我々は今日このように要求しません。なぜなら我々のこの一門は人心を真っ直ぐ指して修めるからです。ですから、我々は人の心性の向上を最も重要なことと見做しているのです。形体上の修煉は第二のものだと見做しています。あなたはできるだけ耐えて足を組む時間を延ばすべきです。しかし厳しく規定してはいけません。なぜでしょうか? 皆さんも知っているように、釈迦牟尼の時代には戒律がありましたが、釈迦牟尼在世中には経書は無く、如何なる文字も残っていません。釈迦牟尼が世を去ってから、後人が釈迦牟尼の言った言葉を思い出してそれを整理して経書としたのです。釈迦牟尼は在世中にたくさんの修煉の規定を制定して、これを戒律として文字で残しています。しかし我々には今日法があり、戒律はありません。修めるかどうか、修めることができるかどうか、基準に達しているかどうかは、皆法によって量られるのです。ですから我々は修煉するには厳しい規定を定めてはなりません。皆さん考えてみてください、末劫時期になって、根本からだめになり、済度の範囲に含まれず、消滅されるべき人がいます。講習会を開いた時、このような人が講習会に入った可能性があり、無理矢理連れて来られたかもしれません。あなたが彼にそのようにさせれば、骨折するかもしれません。ですから我々は厳しく規定しません。自発的な方法を採り、あなたが耐えられるなら、できるだけ耐えてください。しかし、皆さんに教えますが、本当に修めたければ、真に法の威力を感じた人は皆修めることができ、あなたは頑張って試してみてもかまいません。問題はないはずです。

弟子:宇宙には果てがありますか?

師:宇宙には果てがあるのです。しかしこれらのことを探求しないでください。この果てはあまりにも大きく、如来の次元において指している宇宙の果ては皆小宇宙の果てです。この小宇宙でも、人類は言うまでもなく、如来佛でさえ見ても際限がなく、計り知れないのです。それはとてもとても厖大なのです。

弟子:『文芸の窓』の中には一匹のうわばみが李洪志先生のために道案内をしていたと書かれていますが、それは本当のことですか?

師:これは『文芸の窓』が文芸作品の角度に立って創作したものです。その学習者は二回授業を聴きましたが、深く理解できませんでした。一回目の授業を聞いた後、彼はすでに書き始めました。彼は非常に感動して、この法は非常にすばらしいと思って、書き始めたのです。二回目の授業を聞く時、彼は何かを書こうと思いながら聞いたのです。皆さんが知っているように、静かな心で聞いてはじめて会得することができます。彼はやはりよく会得できなかったので、我々が見たこの文芸作品の形式に書き上げてしまいました。文中の一部の事は芸術的に加工されたものであり、そのうわばみの事は存在していません。観音菩薩は私の師父だと書いていますが、それも存在しない芸術加工です。しかし、彼の目的は良いので、この法を広めたいだけで、動機は良いので、この点は肯定しなければなりません。彼の理解は限りがあるため、このような作品を書いてしまいました。文芸作品なので、彼は元々文芸の角度に立って書いたのです。小説なので誇張してもよいし、伸縮性もかなり大きくあります。それを我々の学習の指導の材料としなければ結構です。その中で書いた五戒、十悪十善の内容はすべて原始佛教のものです。我々は戒を講ぜず、修めるか修めないかの基準は我々がすでに法の中で説明しました。

弟子:「玄法至極」と「旋法至虚」との区別は何ですか?

師:玄法至極とは、我々が言ったのは一つの概括的な名詞です。これは法を伝える初期の理解の問題です。この「玄」ではなく、旋転の旋であるべきです。我々の法は元々圓融の法であり、ですからそれは旋転しているのです。法輪はすなわち輪のような表現形式です。旋法至虚は、間違いがなく、かなり高い境地に達することができ、極点に達するという意味です。旋法至虚は、我々修煉過程の中の一つの名詞であり、我々のこの功の中の呪訣でもあります。

 皆さんが知っているように、その呪訣は覚者、あるいはこの一法門の中で修煉する覚者、あるいはこの一法門の中で成就した覚者を招いてあなたのために護法となり、あなたを加持するという作用を果たすことができます。宗教の中でも呪文はやはりこのような作用を果たしています。呪訣を唱えれば功が伸びるという言い方がありますが、それは全く不可能なことです。それはただ以上のような作用を果たすことしかできません。至虚とは、とても高い次元に至ることを指すのです。人々の見えない境地は虚界と呼ばれますが、それはこの意味でしょう。道教の中にはこの名詞がよく見られますが、太極がまだ形成される前に太虚と呼ばれていました。つまりそれはとても高くとても原始的なのです。

弟子:座禅の時、時間を延ばすために、繰り返し口訣を唱え、千回以上唱えると、法輪を変形してしまうことがありますか?

師:口訣を唱えると良い作用があります。千回以上唱えても法輪を変形させることはありません。もちろんあなたが功を開き悟りを開いた後に分かるようになりますが、かなり高い次元に達したら、口訣を唱えてはいけません。あなたが唱えればその震動はあまりにも大きいので、あなたがずっと唱えると、ゴーンゴーンという震動で人につらい感じを与えてしまいます。

弟子:ある学習者は煉功してから、頭が割れそうになったのですが、なぜでしょうか?

師:「割れた」なら正しいです。我々は頂を開くことを講じるので、「割れた」ことは正しいのです。割れる時「パッ」として、あまり大きな感覚のない人もいれば、割れる時ゆっくりで、とても辛い人もいます。しかし物事は二つの方面から見なければなりません。執着心を放下せず、良くないものを招いてきて捨てたくない人がおり、煉功の時に法はそれを除去するので、それはあなたに頭痛を起こさせ、あなたに正法を修めさせないために、このような情況が現れる場合もあります。肝心なのはあなたが修められるかどうか、法によって量り、それらのものを放棄できるかどうかのことです。

弟子:ある人は煉功すると頭に冷汗が出て、ショック状態のようになりますが、どうすべきでしょうか?

師:この現象はありうることです。我々の講習会でこのような人もおり、どこの講習会でもいます。なぜでしょうか? 身体を浄化して病を除く時、皆強い反応があります。しかし煉功場ではこんなに猛烈な反応はないはずです。その場合ゆっくり取り除かれるからです。もしこの人がかなり良いのなら、これは正常なことだと思います。もしこの人が自分を厳しく要求せず、でたらめにやり、この功を練ったり、あの功を練ったりして、安定せず、心性が高くないという場合には、問題になるかもしれません。彼を暫く休ませ、他の功を練ったことがあるか、あるいは何か誤った事をしたかどうかを確かめてみましょう。その反応の勢いが過ぎてから再び煉ってみましょう。現在煉功に来た人が皆真に修煉する人だと保証できないからです。

弟子:ツボ按摩をするのはいいですか?

師:我々はツボ按摩などをやりません。世間法修煉段階で人のために病気を治療してはならず、このようなやり方はありません。真に修める人には病がなく、私の法身がすべて取り除いて、やるべきことは全部してあげました。ツボ按摩などは必要ありません。修煉者の業力は按摩で消去できるものですか? あなたが他人に按摩をするなら功を帯びるはずであり、我々はこのようなことを薦めません。もし医者であれば問題はありません。それは常人の中の職業だからです。

弟子:人の副意識は人の一生に伴いますが、彼はどのような作用をしていますか?

師:人の副意識は主に人が無意識の状態下で悪い事をしないようにするのです。人の主意識がとても強い時、彼は左右することができません。

弟子:私は坐禅する時、かなり長い時間座れる時もあれば、十分間しか座れない時もあります。どうしてでしょうか?

師:それは正常な現象です。足を組むことも業を滅することであり、その心志を苦しめ、その筋骨を労せしめることです。如何に筋骨を労せしめるのか? それは即ち煉功時間を増やして、足を組むときの苦痛に耐えることで、主にこの二つの方面に現れます。その筋骨を労せしめること自体は業を滅して向上する過程です。足を組むことは業を滅することではありませんか? しかしこの業を一気に足に押し付けることではありません。それは一塊一塊のようなもので、一塊がやって来たら、痛みが強くなり、消去されたら、楽になります。足を組むときに往々にして暫らく辛くても楽になり、また辛くなります。皆このようなのです。あなたがこの塊の業を消去したら、その時は長い時間組むことができます。しかし業がやってきた時、あなたは足を組むとすぐ辛くなるかもしれません。しかしあなたが耐えられれば、足を組む時間は以前と同じぐらいの時間組むことができます。ただ痛くて辛いだけです。

弟子:飲酒は煉功者が煉り出した生命体を体から離れさせることができますか?

師:そうです。喫煙も同じことを起こします。そのようなものにくすぶられると、それはあなたの身体から離れます。その時何もかもなくなり、他人から見ればあなたの身体に功はなくなっています。以前にも話しましたが、真に修煉したいと思うのなら、これぐらいの執着心すらも放下できないのですか? 修煉を児戯としてはいけません。これは極めて厳粛な問題です。我々は人類が何か大きな厄介なことに遭い、命を守るために修めることを言いませんが、我々はこの事を言わず、これを以て一種の動力としてあなたを押し進めて修煉させることもしません。我々が言っているのは、本当に修煉すればあなた個人の永遠の問題を解決できるのではありませんか?

 佛教の中では六道輪廻を説いていますが、その説によれば、人は常人社会の中で時間はかなり長く感じますが、しかし時間が更に長い空間から見れば、人類の時間はかなり速く進むのです。二人の人がそこで会話をしている時、振り返って見るとあなたが生まれ、また二言三言話しているうちに振り返って見たら、あなたはすでに寿命を終えて亡くなっています。人はなぜ人体を持っているこの段階で修煉に励み、人体が保たれるように努力しないのですか? 佛教の言うところによると、六道輪廻に入れば、あなたがどんなものに転生するかも分かりません。動物に生まれ変わったら、何百年か何千年経ってからはじめて再び人身を得られます。もし石に生まれ変わったら、その石が風化しなければ、あなたは出られず、万年たっても出られません。動物には修煉をさせません。しかしそのもの自身は先天の条件を備えて修めることができます。これは自然環境によりもたらされたのです。しかしそれには高い功が出ることは許されません。高い功が出れば、それは即ち魔になるのです。それは人の本性を備えていないからです。そういうわけでそれを殺さなければなりません。動物が高く修めたら殺さなければならず、雷もそれを撃ちます。それはなぜ憑依しようとするのですか? それは人体を得ようとしており、人体を得てから正々堂々と修めることができるようになります。以前はこのようでしたが、それは人体を得てから修煉を許されますが、現在では人体を得たとしても許されません。あなたが修めよう、法を得ようとすれば、頭を白紙の状態にして常人の中に来て得なければできません。現在これはすでに変えてはならない規定になっています。覚めたままで常人の中に来てはいけません。頭を白紙状態にして悟りながら修めることしかできません。何でも分かれば、誰でも修めに行くのではありませんか? 佛も次元を高めるために、常人の中に来て苦を嘗めたいのですが、それでも頭を白紙状態にしなければなりません。覚めたままで何でも見え、何でも分かるならば修めない人がいるのでしょうか? それでは向上の問題が存在しなくなるのです。この意味は修煉はとても厳粛なことで、如何なる執着も修煉に影響すると皆さんに教えているのです。
 
弟子:更年期が過ぎた高齢の女性は、生理がなくても、修められますか?

師:更年期を過ぎた高齢の女性は、生理がなければ、修煉の進み具合が遅いかもしれません。一部の高齢の女性は確かに緊張感を持つべきです。彼女たちの一部の人は急がなければなりません。急ぐようにと言われたら、一生懸命に動作を煉るようになりますが、心性を修めることが最も重要だと知るべきです。希にこの方面で少し遅れる人がいますが、正常な進み具合なら皆生理が来るはずです。

弟子:学習者はどこかに痛みがあり、頭痛、腹痛……なぜでしょうか?

師:煉功中のさまざまな反応も正常なことです。業を消去するには辛くないはずがありません。病を取り除くのも辛いのです。一部の学習者には功が出る頃、この功はあなたの身体に付いており、功能は万種以上にもとどまりません。一つ一つの功はすべてエネルギーがかなり大きく、密度がとても高く、威力がとても強い高エネルギー物質です。それはあなたの身体の中でちょっと動いてもあなたは辛く感じるはずです。しかも異なる形態の功、異なる形態の功能、異なる形態の術類のものが、あなたの身体の中に現れて、それが動くとあなたは辛く感じるはずです。あなたがそれを病気と思えば、またどうやって修煉するのでしょうか? あなたが本当に法に基づいて修めれば、それはすべて正常なことだとあなたには分かるはずです。

 以前ある人は身体に憑き物が憑いていました。ある気功師は彼に、あなたの身体にはうわばみがついていると教えました。彼はそれでいつもうわばみがついていると感じます。私は彼に今もういなくなったと教えましたが、彼はそれを信じず、まだ身体の中で動き回っていると思っています。そうすると、憑き物があるとあなたが思うと、そのうわばみが憑いていたときの状態が彼の身体に現れてきました。彼のその心が取り除かれるまで、この状態は変わりません。それはあなたのその心を取り除くためなのです。もしそれが一種の執着を形成してしまえば、取り除き難くなります。その人はかなり長い時間がかかってやっと取り除きました。

弟子:如何に功能に対応しますか? 例えば天目で何らかの物や光が見えたら、それを見るほうがよいのか、それとも見ないほうがよいのでしょうか?

師:見えるなら見てもいいのです。煉功の時に静かに観察すれば、これは執着ではありません。

弟子:一部の学習者は天目が開いていくつかの景色を見ましたが、輔導員は功能がなく見えません。

師:見えるか見えないかは異なる人が異なる次元で修煉して達した漸悟状態によるものです。漸悟に達したとしても、あなたの功が高いから高く開き、彼の功が低いから低く開くとは限りません。それは違います。天目の次元の高さは人の功の次元の高さを決めることはできません。自身の要素、条件、多方面の原因によりあなたがはっきりと見えるかどうか、あるいは見ることができるかどうかが決められており、これは多方面の原因により決められたことです。それは人の修煉が良いか悪いかを意味しているわけではありません。必ずこの点に注意してください。私は天目が開いたので、私は他の人より功が高いというのは、誤った認識です。

 我々の長春ではこのような人が現れたのではありませんか? 彼は天目が開いたので、自分が誰よりも高いと思いました。この人の身体には憑き物があり、あの人には何かがあると言いふらして、すべて彼自身が想像したものです。我々の煉功場ででたらめに行ない、最後に彼は誰に対しても不満を覚え、私よりも高いと言うようになりました。ですから、我々は天目が開いたかどうかで誰がどれくらい高い次元にまで修めたかを量ってはいけません。正常な情況下では相応した状態が現れてくるのです。我々の中に特別良い人はいますが、まだ彼に見せておらず、相当高くまで修煉してからはじめて彼に見せるのです。ですからこれをもって良し悪しを量らないでください。

 今後、皆さんは私を見かけても、見かけなくてもよく、先ほどの質問で、先生がいなくなったら我々はどうすればよいのですか、と聞きました。釈迦牟尼が当時在世中に、師尊、あなたがいなくなったら、誰を師としますか、と聞いた人もいました。釈迦牟尼は戒を師とすると言いました。我々は法を師とします。心性の高さを以て修煉の良し悪しを量る基準にすべきであり、功能の多さを基準にしてはいけません。さもなければ皆功能を追求するようになるのではありませんか? 功能はあなたの修煉の過程の中に付随して現れたものです。世間法で修煉して現れた功能は皆人の本能です。それは人の思想が複雑になるにつれて、次第に退化しました。

 あなたの修煉につれて、それが自然に現れてきます。あなたが返本帰真して、元へ戻る時、はじめて人の本性が戻ってきます。彼にいくらはっきり見えたにしても、私の見た次元を見ることはできません。彼にいくらはっきり見えたとしても、宇宙の最高の真理まではまだまだ遥かに遠いのです。彼に見えたのはただその次元の体現であり、それを真理としてはいけません。人が修煉の過程の中で、ある次元のことを評価の基準にするのは正しくないのです。「法には定法なし」とは、即ちこの道理です。ある次元の体現を真理としてはいけません。法には定法はなく、ある次元の法はその次元でしか作用しません。ですから、彼はある次元のもの、その次元の状態を見て、かなりはっきり見えたら歓喜心が生じてしまいますが、しかしそれはとても浅い次元のものであり、くれぐれもこのことを覚えておいてください。

弟子:子供が修煉する際、五式の功法は必ずやらなければならないのですか?

師:子供の場合は多く煉功できれば多くてもよく、少ししか出来なくてもそれでよいのです。修煉の主要な目的は人の心性を高めることです。ですから、子供に対して心性に関することを多く教えてあげれば、子供に対して良いでしょう。私は年齢がとても小さい時、全然外形のものを煉ることができず、主として心性を修めたのです。今日の一部の子供を、普通の子供として扱わないでください。一部の子供はたいへん素晴らしいのです。当初我々がこの事をやると決めた時、すでにかなり高い次元の人がついて来ました。私が来た時、各次元の中からもついて来た人がおり、彼らは私が間もなくやろうとすることを予測できました。特に最近この時期になって、我々のこの小宇宙と銀河系の中からやって来た人がかなり多くいます。少し前は、彼らは予測できなかったのですが、私が出山の直前になって、彼らは知り、どんなことが起きるのかが見えたので、たくさん付いてきました。何のために来るのでしょうか? 法を得るために来たのです。彼は以前の法がすでに崩壊したことが分かり、あらためて修煉するためにやって来ました。彼らを一般の人と見なさないでください。彼らはかなり素晴らしいのです。しかし誰の子供もこういうことではなく、一部分の子供はかなり素晴らしいのです。

弟子:自分がどの次元まで煉ったかを、どうすれば知ることができますか?

師:我々の一部の学習者はすでに漸悟の状態に達しており、また一部の学習者は次第に漸悟の状態に達するようになります。達しても、達していなくても、あるいははっきり見えても、はっきり見えなくても、煉功場で煉功した後、互いに切磋する時、みんなに話してもかまいません。あなたが顕示心を持たずに話せば、我々全体の修煉に有益なのです。天目でものが見えても話してはならず、話したら天目は閉じられてしまうと言う人がいます。これは昔の煉功ではすでに普遍的に認識されたことですが、彼が話したから天目がなくなるというわけではありません。皆さん考えてみてください。気功を普及するあの時期に煉功者の中に徳を特に重んじる人がいたのでしょうか? 本当に修煉する人は極めて少なく、彼は徳を重んじることを知らないので、何かが見えたらすぐ話してしまい、自分の執着から、顕示心が現れるので、当然ながら天目が閉じられてしまったのです。

 また一部の人は言うべきことや言うべきではないことをすべて話してしまい、そのため彼の天目は閉じられてしまいました。これがその原因です。もし法に対する認識を高めるために、互いに交流するならば、私に言わせれば、それは何の問題もありません。この点についてはっきり区別しなければなりません。もし彼の天目が閉じられ、傷つけられたら、それは彼が常人に言うべきでないことを言ってしまい、あるいは顕示心を帯びていたからです。煉功者の顕示心は執着心の体現ではありませんか? ですから閉じなければいけません。当初一部の人の天目が閉じられた時、彼に機会を与えているのです。彼がはっきり見えたり、はっきり見えなかったりする時、見えたり、ときに見えなかったりする時は、つまり彼に注意しているのです。しかしそれらの人はどうしても悟れず、最後に完全に閉じられてしまいました。傷つけられた人もおり、ひどく傷つけられてしまったのです。
  
弟子:正果を得ることと圓満は、どの次元ですか?

師:この問題に関して私はすでに話しました。正果を得るということは、羅漢果位に到達したらもう正果を得たのです。圓満とは修煉が終ることです。通常では正果を得るとともに功を開いたことを指し、すなわちこの二つのことを同時に修煉し終えると圓満なのです。

弟子:その後如何に修煉しますか? 常人とどう違いますか?

師:まだ常人の中で常人と同じように苦に耐えなければなりません。あなたが羅漢果位を得たとしても、常人の中の何でもない子供があなたを罵っても、あなたが常人の中で修煉しているので、引き続きあなたの心を取り除かなければなりません。一部の人、根基がよい人は、彼の心はすでにかなり取り除かれましたが、再びあなたにもう一度繰り返させるのです。一般の修煉、正常な修煉では、一通りで圓満になりますが、一部の人には二度繰り返させます。あなたが高いところへ修めようとするならば、三度繰り返させて、すべて修めて乗り越えましたが、もう一度あなたに繰り返し修めさせます。もっと高いところへ修めようとするなら、この問題が現れるはずで、あなたはやはり常人の中で修めなければなりません。もしあなたが羅漢果位を成就したら、あなたに迷惑をかける人はおらず、常人の中で誰もがあなたに迷惑をかけず、あなたがこの環境を離れるならどのように修めるのでしょうか! もしあなたに迷惑をかける人が常人ではなく、常人の中で佛や、菩薩、羅漢らが現れて、あなたにトラブルを作ってあなたの執着心を取り除くということは、それはありえないのです。師父があなたにこれらの事を作り、これらの事を按排し、すべての難を按排するにしても、やはり常人を利用して行なったり、常人を使ってあなたを妨害したりして、常人の環境の中で向上させます。

弟子:一部の学習者は講習会に参加してから、また他の功法に参加しましたが、まだ引き続いて法輪大法を修煉しようと思ったらどうすればいいでしょうか?

師:このような人は往々にして悟性があまり良くありません。我々は修煉は縁に従うと言いました。人は得ようと思うから、彼は法輪大法を学びました。彼に学びに来させる人はいません。彼は法輪大法が良くないと思うようになり、学ばなくなりました。彼は後でまた法輪大法がいいと思って、また学びに来たくなり、それならあなたが学べるなら学びに来てもよいのです。うまく修められるかどうかは彼個人の問題です。我々の法輪大法に入って真に修める弟子になれるかどうかに関しては、われわれは彼に厳粛に言わなければなりません。つまりあなたがわれわれのところで修めるなら、それ一つだけを修煉し、法輪大法に専念して修めなければなりません。さもなければあなたは何も得られません。ここで専一でなく、むやみに練るなら何もなりません。我々は善意で彼に言えばよいのです。しかし、あなたが我々のところで煉功してはいけないと言ってはいけません。我々には何の権力もなく、人に命令する資格はありません。人に勧めることしかできず、善を勧め、善を勧めるのです。

弟子:各地で講習会を行なう状況や全国での法輪大法の情勢はいかがでしょうか?

師:現在法輪大法の講習会を行なうことは、とりあえず全部断っています。断った理由は私が今処理する必要なことが沢山あり、各方面の事も処理しなければならないからです。これからどうするかに関しては、現在はまだ考えていません。処理し終わってから、処理した情況により決定します。法輪大法の発展状況を言うと、私は皆さんに教えますが、現在我々の法輪大法は人から人へと伝わり、法輪大法を学ぶ学習者の人数はすでに相当多くなり、私に言わせれば数十万人もいるでしょう。私が各都市に行って講習会を開く時、当地の各市、県から来た人もおり、人の来ていない県は殆どありません。彼らは帰った後、あちこちに行って伝え、このように伝わっているので、発展はすでに非常に速くなっており、人数は非常に多くなりました。湖北省のある県の町では、最初学ぶ人は二人しかいなかったのですが、現在千人以上に発展しました。このような事例はたくさんあります。煉功場に行って煉功する人がいれば、煉功場に行かないで煉功している人もおり、具体的な数字はとてもつかみにくいのです。

弟子:かつて精神病や癲癇を患った人は煉功できますか?

師:私は皆さんに注意しておきますが、このような人をわれわれの煉功場あるいは我々の講習会に連れて来ないでください。もしかすると、我々の法を破壊することになりかねません。もし講習会であるいは我々の煉功場で彼に発作が起きたら、人々から法輪大法を煉ったから病気になったと言われてしまいます。そうなれば、あなたは我々の法を破壊したのではありませんか? なぜなら、我々には一つの前提があり、人のために病気を治療してはいけないからです。ただし我々には一つの条件があり、本当の修煉者に対しては、小さな病気なら、即時に解決することができます。大きい病気にかかった人、身体にあまりにも多くの良くないものを帯びている人は、自分の考え方を変えてからはじめて、取り除くことができ、修煉したいと決心してからはじめて彼のために業を取り除くことができるのです。もちろん、一部の人はまだ修煉する意思がないうちに、すでに処理してあげました。本を読み始めたとき、すでに処理しました。なぜでしょうか? 彼の根基がとてもよく、彼は元々得るべきだからです。このことは皆一律に見てはいけません。家族の中にこのような病人がいて、大法が良いと思うなら、彼に学ばせてもよいのですが、彼に家で学ばせたらよいのです。我々は先に明言しておきますが、私が勝手にこれらの常人の問題を解決してはいけないのです。彼が修められるどうか、彼自身によるほかありません。修められないなら、あなたも彼に修めさせないでください。一旦問題が現れたら大法を破壊してしまうことになり、私がこれらの常人の問題を解決してあげてもいいのですか? 私は治療してあげないから、彼はあちらこちらで扇動して、法輪大法を煉って精神病にかかって、先生は治療してくれないと言いふらして、私に泥を塗ります。いずれにせよ、我々はすでにはっきり言いましたが、彼を講習会に入れず、煉功場にも来させません。癲癇の人なら一般的に問題はありません。講習会で我々は癲癇の人は講習会に参加してはいけないと明確に言ったことはありません。一般的に我々の係員は彼に入ってほしくありません。彼が考え方を変えていないうちは、発症しやすいからです。発症すれば我々に影響をもたらします。癲癇の人は精神病の人と違い、彼は単一の問題であり、ただ頭の中に一つのものがあるだけです。その良くないものが取り出されたら良くなります。一般ではこのような情況です。

弟子:全体の向上についてどのように理解しますか?

師:全体の向上とは、つまり完全無欠の向上ということです。我々の修煉過程の中で、あなたの身体のあらゆる生命体とあなたが修煉してできた生命体は皆あなたと一緒に向上します。われわれは全体の調整を講じますが、全体的に皆さんのために、学習者のために身体を調整します。全体の向上は主にあなたの心性が上がってきたら、あなたの功も同時に上がってくることを指しています。先ほど話したことと同じです。ある人は、なぜ生理が来ないのかと聞きましたが、あなたの心性が上がってきたら、功も上がってくるのです。業力のあまりにも大きい人は身体を調整しても、一部分がついて上がることができず、遅れる可能性もあります。つまり全体的に向上しなければならず、その先決条件としてはまず心性が向上しなければなりません。ただ身体を変えたいとか、劫難から逃れたいと思うなら、それはいけません。修煉で自分自身を変えようとすれば、心性を修めることから始めなければなりません。次元の高さを決める功がなければ、つまりあなたの心性の高さが変らなければ、何を話しても無意味なことです。

弟子:一部の学習者から提出した問題ですが、魔の大法に対する妨害について如何に対処すべきでしょうか?

師:皆さんに教えますが、我々の正法を伝えることにもし反対する人がなければ、それこそおかしいことです! 皆さん考えてみてください、私が今日もしこの事をやらなければ、私は一番楽です。私が皆さんのためにこの事をしているから、私が遭った妨害とあなたたちが遭った妨害が、皆この法を阻害し、人に法を得させないのです。人があと一歩というところに至ると、法を得ようとすれば、魔は許さず、あなたを阻害しようとします。その魔は、あなたは私に借りがあり、私がまだあなたに返してもらうのを待っているのに、あなたが法を得たら、私に返すべき借りはどうするのかと考えています。その魔はあなたを恨むのです! 各方面の要素はみな阻害の作用をしています。はっきり言えば、すべては自分でもたらしたことであり、人はみな業力があります。昔、イエスは、人間よ! 汝には罪があると言いました。彼が人間には罪があると言ったのは、業を罪と称したからです。実際はこうなのです。自分が良くない事をしたので業力をもたらしました。それは罪ではありませんか? それは各方面に阻害の作用をします。あなたが正法を得たので、もちろんあなたを妨害します。つまりこの原因です。ですから、われわれが遭ったこれらの事はすべてわれわれの心性に対する試練です。法輪大法を学んだら如何に良くないとか、あるいはあれやこれやのことを言う人もいますが、それもあなたが固い意志を持っているかどうか、本質からこの法を認識できるかどうかを試しているのです。あなたがまだ本質からこの法を認識していないならば、あなたはどう修めるのですか? あなたが悟りを開く前に、法に対して固く信じることができるかどうかという観念がずっと存在しており、どの門派においても同じです。本質的なものにおいてあなたがまだ固い信念を持っていなければ、それではあなたは何を修めるのでしょうか? ですからこの方面の試練と妨害があります。

 私が講習会を開く時、必ずたくさんの別の気功講習会も同時に始まります。私がもしそこで講習会を開かなければ、そんなに多くもありませんが、私が講習会を開くと、一気に多くの邪な気功も集まって来て講習会を開きます。なぜでしょうか? つまりあなたがこの事をやろうとすれば、それと相応して魔の妨害もやってきます。即ちこのように按排されているのです。どの門に入るのか、正法を得るのかそれとも邪法を得るのかはあなた次第です。あなたがどの門に入りたいのか、あなたが決めることです。言われたように、人が修めることは非常に難しいことであり、しかもこうであるべきなのです。非常に難しいのも当たり前のことです。なぜなら、我々の一切はすべて自分がもたらしたからです。しかしこの難の中から人の心性、悟りが現れます。向上できるかどうかは、さまざまな方面の原因により、相補って成し遂げられます。弁証法的にこれらの事を見るべきであり、ですから彼にはこれらの妨害があるはずです。

 我々の長春にこのような人がいました。彼は、私は佛だ、あなたは他の人に従って学ばなくてもよい、私はどうのこうのと言いました。各方面の妨害、甚だしきに至っては私の個人の名誉に対する破壊もありうるのです。あなたがそれを受け入れるかどうか、信じるかどうか、どのように対処するかを見るのです。それはさまざまな手段を使って破壊しに来るはずであり、あなたの心を動揺させるためです。あなたが揺るぎなく信じるかどうかを見るのです。

 ある人は私が一心に正法を修め、あれこれのことに動揺しないと言いました。実際は、我々の多くの学習者はすでに法の威力を体験し、自らの変化もかなり大きく、私の説いたこの道理も分かっています。それでも、彼がまだ動揺するなら、それは悟性の問題ではありませんか、悟性は確かに非常に低いのです。つまりこういう道理です。ですからこれらの妨害は、私に言わせればそれも正常なのです。修煉はまさに荒波は砂を洗うように、砂をすべてふるい落としたあと、残ったものこそ真の黄金です。どれぐらい黄金が残るか、それは皆さんが如何に修めるかによるのです。

弟子:法輪大法の宣伝資料を多く作って、煉功場で宣伝するために使っては如何でしょうか?

師:我々の法輪大法の宣伝、功を伝える方法は、すべて現在の気功の宣伝方法と違うのです。皆さんが知っているように、我々は何らかの事を誇張したこともなく、何かの事を持ち出して見せびらかしたこともありません。如何なるこのようなこともありません。他の気功師はもし一人の病人を治したら、彼はあちこちにこれを宣伝し、ずっと聞く人がなくなるまで宣伝をやめないのです。我々にはこのような事はありません。我々の学習者は何千、何万人もおり、彼らは皆病気がなくなりましたが、我々はこれを宣伝したこともなく、これらの事をわざわざ持ち出すこともありません。もちろん、初期のころ、皆さんは新聞で何らかの情報を見たことがあります。なぜでしょうか? 初期のころ、我々が通常の気功の形式で伝え出したので、最初からこんなに高いことを説いたら、人々は受け入れられないのです。ですから我々もこのような初歩的なものから次第に人々に認識させる過程を歩みました。皆さんも知っているように、我々が初期に長春で講習会を開催した時、私が説いたものもかなり高かったのですが、しかし、いつも気功を口にしていました。我々は今日、高次元へと功を伝えるので、これらのことはもう言わなくなりました。これも人々に次第に認識させる一つの過程なのです。

弟子:自動車工場は十万以上の従業者がいる企業なので、うまく展開できなければどうしましょうか?

師:我々のこの法輪大法は、自動車工場において本来比較的うまく展開していました。皆さんはそれらの魔を知っているでしょう。それらの妨害はかなりすごいのです。それはつまり魔なのです。しかし我々はすでに話しましたが、これらの事は皆相補って成り立つものです。どれくらいの人が修められるのか、どれくらいの人が修められないのか、それは個人によることです。妨害がないと言うならそれはどうして可能なのでしょうか。妨害をする人がないと言うなら、それではあなたの修煉はあまりにも易しすぎるのではありませんか?! 大道がこんなに平坦で、上へと修めるのに、いかなる難もないのなら、これは修煉ではありません。そうではありませんか? 魔難があってはじめて人は修めることができるかどうかを見分けられます。はじめて人の各種の執着心を取り除くことができます。しかしこの魔は確かに非常に大きいのです。それは相当大きな破壊作用を果たし、たくさんの人を台無しにしました。果たした作用はすでに一般の魔の作用を超えました。これらの事はかなり高い次元においても知られており、高級生命も皆知っています。どう処理しますか? これらのことに関しては私の同意が必要になります。私は人に一度機会を残したいのですが、今見たところではこの機会はもう残してはいけないのです。将来自動車工場では大法を学ぶ人がきっと多くなってくるはずです。

弟子:一部の学習者は講習会に参加しようとしていますが、ずっと参加できていません。朝晩の煉功場の学習者はどうしたらいいでしょうか?

師:一部の学習者は講習会に参加しようとしていますが、私のこの講習会はずっと行なっていても、また十年続けていてもまだ参加しようとする人がいるはずです。我々には多くの古い学習者がおり、さらに私の本や録音テープと録画テープがあり、すべて法を伝播し、人を済度し教化する作用を果たすことができます。実は、皆さんはすでに主力の作用を果たしています。特にこの期間において、あなたはきっと一人の主力です。私が直接伝えなくても得ることができます。そうではありませんか? こうである以上、皆さんがこの方面の仕事をできるだけ多く担当すべきだと思います。他の人を助けて、特に学ぶために煉功場に来た人に対して、輔導員は更に責任を負うべきだと私は思います。あなたの責任は小さくなく、簡単に人に呼びかけるようなことだと見なしてはいけません。できるだけ多く法を会得し、多く法を学び、より多くのものを習得すべきです。

 私は一つの問題点を特別に強調したいと思います。つまり我々の煉功場で、望ましくない反応が出たり、変な状態が現れたり、気違いのようになったりする人は、必ず他の功を練ったり、他に追求しているものを放棄していないのです。これは間違いのないことです。絶対に間違いのないことです。このような人は百パーセント他のものを練っており、あるいは家で他のものを祀っており、放棄していないのです。これは一つの情況です。もう一つは法輪が変形した問題です。これも他の功法を混ぜて練って、あるいは意識の中で混ぜたことによって起こった問題です。この二つの情況は、私は皆さんに教えますが、間違いなくこのような原因によって起こった問題です。この二つの情況だけは普通私の法身がかまうことはありません。彼は他の功を練り、混ぜて練るので、我々法輪大法の人ではありません。私の法身は彼にかまわず、法も彼に与えません。それらのでたらめな魔は彼が法輪大法を煉り始めたことを見れば、もちろん彼を妨害し、危害を加えるのです。彼は気違いになって、法輪大法を破壊しかねません。このような問題が現れることがあります。このような人もいます。彼は一心に法輪大法を修煉していますが、意念の中であるいは動作の中ではいつも何かを感じてみたい、何か他のものを加えてみたいと思っています。以前他の功を練っていた時に少し感覚がありましたが、今回法輪大法を煉ったら、そのような感覚はなくなりました。彼はまだそのような感覚を求めています。これは執着するものを追求しているのではありませんか。彼が以前のものを加えると、法輪は変形してしまい、法に問題が現れます。絶対にこういう情況です。

弟子:人生の本当の意義はより楽に生きるためですか?

師:次のような考え方を持っている人もいます。つまり私は何のために修めて佛に成就するのかと言っています。これは佛に対する認識が非常に乏しいことを物語っています。何のために佛を修めるのかと言っています。笑い話ではありません。彼は確かに知らないのです。何のために佛を修めるのですか? 一つには永遠に人身を保つことができるようになります。二つには永遠に苦しまず、永遠に美しく生きていくことができます。人の一生は非常に短いのですが、人身が保たれることはその一面ですが、その他には彼は苦しまないのです。あなたの生命が生じた所はかなり高い宇宙空間にあります。宇宙空間から来たのですから、本性は善良なのです。自分が悪いほうに変ってしまったから、一歩一歩ここに落ちてきて、壊滅されるのを待つばかりです。それはこのような過程です。何のために元に戻るのでしょうか? 本当にあなたが生じたところは高層空間の中にあるので、それこそ最も美しいところで、あなたのいるべきところです。

 大覚者の言葉で言えば、人はまるで泥沼に落ちているようで、皆ここで泥水をかきまぜているのです。しかし人が来たとき皆このようであり、まだ悪くないと思っています。人は皆とても良いと思っており、泥水の中でかきまぜているのに、まだ気持ちが良く、悪くないと思っています。我々は一つ例を挙げますが、人を罵ることではありません。例えばあの豚は、豚小屋の中で寝ていて、糞尿の泥の中におり、その境地での感覚では、それは悪くないと思っているでしょう。人が常人の境地の中にあり、彼が一旦昇華して上がってきて、振り返って見れば、とても耐えられることではありません。つまりこういう道理です。人は常人の中で泥をかきまぜており、いたる所でとても汚いと言われていますが、つまりこういう意味です。この汚い環境の中で彼は自分が他人より少しきれいだと思って自慢していますが、実際は泥だらけの身体を泥水で洗っただけに過ぎず、私に言わせればさほどの違いはないのです。

弟子:人生の本当の意味はよく修煉して、佛になることですか?

師:佛になることではなく、返本帰真なのです。よく修煉して元に戻ることが、本当の意味です。高級生命の立場から見ればこうなのです。しかしあなたが常人の中に行って常人の中の学校の先生に聞けば、彼はこのようにあなたに教えるはずはありません。なぜなら常人は常人の中の事情をあまりにも重く見ており、彼にはそれらの宇宙の真相が見えないからです。人類は現在西方から伝来したこれらの知識を詰め込まれてあまりにも絶対化しており、かえって人はますます物質化してしまいました。現有の理論を用いて一切を量り、人類はこの常人の中にますますひどく陥っています。

弟子:夢の中であちこちトイレを捜して、やっと一カ所を見つけましたが、目覚めたらすでに漏れていましたが?

師:皆さんに一つの例を挙げましょう。武当山は真武つまり玄武、道家でいう玄武大帝の修煉の場です。武当山での玄武の修煉物語を読んだことがあります。それは彼の修煉の過程を語っています。その中の一節に彼のことをこう書いています。彼が長年修煉して、四十年あまりの歳月で、すでにかなり高い次元にまで修煉できました。ある日夢の中で、夢幻の中で魔が彼を妨害しに来て、美女に化けて、全裸になりました。彼がふらふらしている時自制できず、情を起こしました。その後、彼は非常に悔しくて、とても後悔しました。彼は自分の修煉はまだ見込みがあるのか? こんなに長年修めてきたのに何にもならず、自分の心を律することもできず、もう駄目だと思い、自棄になって山から下りてきました。下りていく途中に、おばあさんが針を磨いているのを見かけ、鉄棒を針にしようと磨いていたのです。当時、古代の人は皆この方法で針を磨いていたかもしれません。

 彼は、おや、あなたはなぜこんなに太い鉄棒を磨いて針にするのですか、とおばあさんに聞きました。おばあさんは時間を長くかけて磨けば必ず針になると彼に教えました。真武は心から感動しました。このおばあさんは針を磨く時に碗の中に水を入れていました。水は一杯になって溢れているのに、まだその中に入れています。彼はおばあさんに、水が溢れているよと言いました。彼女は満ちたら自然に溢れると言いました。実は彼女は彼に暗示しているのです。一人の人が修煉の過程の中で、それをあまり重く見ないようにという意味を彼に教えたのです。一回うまくできなくても、次回はきっとうまくできます。人体には皆このような本能があるので、満ちたらそれが漏れるのです。彼女は彼にこの意味を示したのです。この話の中に一つの物語を語りましたが、あまりまとまっておらず、あまり適切ではないようです。しかし皆さんに教えますが、この事はその通りかもしれません。先ほど質問を提出した人のことは、このようなことかもしれません。

弟子:站椿あるいは座禅をするたびに、煉功状態に入ると、すぐ煉りたくなくなりますが、やめたらまた後悔するのですが?

師:それは自分の心から生じた魔の妨害です。常人の心には魔(思想業力の妨害)が生じることがあるのです。なぜでしょうか? あなたの心の中、思想の中に生じたそれらの良くない思想物質は皆抵抗の作用をするのです。あなたがよく修煉できたら、このような悪い物質は消滅されてしまいます。ですから、それは承知せず、あなたに煉らせないのです。なぜあなたは煉功する時いつも動揺するのですか? 思想の中で、煉るのをやめよう、こんなに苦しいと思うからでしょう。あなたに教えますが、その思想には原因があるのです。外からの魔の妨害がないとしても自身からの魔の妨害があるはずです。それらの良くない物質による作用です。如何なる物質も他の空間においては皆霊体です。

 私はこのような話をしたことがあるのではありませんか。あなたがよく修煉できたらそれが消滅されてしまいます。それを消滅してはじめてあなたはよく修めることができ、はじめてその悪い考えを取り除くことができます。座禅の時入静できない人がいます。雑念がずっと湧いてきます。それはあなたにそれらの物質が存在しているからです。それも生きているものです。それはあなたの思想の中で以前生じたものであり、妨害の作用をしています。あなたがよく修煉できたら、それは消滅され、消滅されればされるほど少なくなり、最後には全部消滅されます。それではそれが承知しますか? あなたが修煉すれば、それは妨害します。

 思想の中で師父を罵り、我々の大法を罵る人もいます。しかし必ずはっきり分からなければなりません。それはあなた自身の主意識が罵るのではなく、思想業という悪い物質があなたの思想に反映して生じたのです。一旦この問題が現れたら、すぐそれを抑えなければなりません! 主意識は必ず強くならなければいけません。修煉を邪魔する意識が現れたら、すぐ排除します。こうすれば、私の法身はあなたの思想がしっかりして動揺しないのを見れば、あなたを助けてそれらの大部分を消去します。ですからあなたはこのような体験があるはずです。

弟子:修煉の次元はすでに決まっていますが、大法無辺なので、もっと高い大佛に修めて成就できるということは本人が達した次元を指しているのですか? 例えば羅漢に達してから再び願を立ててあらためて修めることもあるのでしょうか?

師:一人の人は羅漢果位まで修めて、羅漢果位で圓満することを定められていましたが、それはだめで、私はまだ高いところまで修めたいと思うなら、あなたに本当にその能力があれば、あなたは再び願を立てて、もっと高いところへ修めることができるのです。昔このような人がいましたが、非常に希です。なぜあまり見られないのでしょうか? 人に修煉の道を按排する時、按排したその次元はすでに彼自身の情況に基づいて按排したので、各種物質の多少は自分の耐える能力によって決められているからです。ですから一般的に大きな違いはないはずです。しかし特別にいい人も希にいます。彼の持っている一部のものは隠れており、一定の次元では見えないのです。修煉が一定の次元に達すると、その師父はもう自分の力で導くことができなくなったと見て、自ら去っていきます。それからまた別の人が来て導きます。このような情況もあるのです。更に高い次元へ導くことは、自分が言う必要はなく、彼が自らあなたを更に高い次元へ導くことになります。

弟子:ある日の夢の中で李先生の夢を見ました。先生は、あなたの情況はちょっと特殊だと言われました。その意味は、私はどこかの方面において駄目であるかも知れないということのようです。その後、李先生は私のために身体を調整されて、私は下腹部、足の裏にサーっとした流れを感じました……。

師:これはとても簡単なことです。これはあなたが修められないということではなく、あなたが修める過程でまだ他の要因があることを意味しています。これは一般的に法身が解決できます。この状態は夢ではなく、確実に接触したのです。あなたは昼間に定力が足りなくて、定の中で見えないので、夢の中で見ました。それはかまわないのです。夢の中で私と接触することは正常なことです。

弟子:よりよく修煉するために、日常の生活の中で真、善、忍を心の中で念じるのはよろしいですか?

師:日常生活の中で真、善、忍を心の中で念じるのは、問題ありません。これは構いません。煉功の時には念を動じさせないようにしてください。

弟子:「長春夕刊」の報道によると、今年の夏チベットである人が経を講じ、大小の二百あまりの活佛が参加しました。どのようにこの事を見ますか?

師:和尚も、ラマ僧も人間です。彼らが何かをやりたいならやればいいのです。彼らがやった事は佛がやったのではなく、佛がやらせたのでもありません。常人はこれらのことを重く見ています。修煉者ははっきりと分かるべきです。経を講じることも同じで、修行者の一種の宗教活動にすぎません。そのうえ、末法時期には講じられることはもう何もないのです。その他にもう一つの問題に触れますが、皆さんが知っているように、和尚にしても、ラマ僧にしても、国家の政治、法令に干渉してはならず、常人の中の事に干渉してもいけません。そのようなデモを行なったり、独立運動を行なったり、皆さん考えてみてください、修煉者としてこれをすべきでしょうか? これは常人の執着心ではありませんか? 常人のことをあまりにも重く見すぎたのではありませんか? これらのことは、修煉者の取り除くべき執着心ではありませんか? 私は我々法輪大法のところは浄土だと言いました。これは間違いのないことです。われわれは学習者に対する心性の要求が非常に高いのです。我々は学習者に心性の修煉を重んじることを要求しています。英雄や模範人物は、常人の中の英雄や模範人物にすぎず、我々の要求では、あなたが常人を超えて、完全に個人の利益を放棄し、すべて他人のためにするのです。その大覚者は何のためにするのですか? 彼はすべて他人のためです。ですから、私の学習者に対する要求はかなり高く、学習者の向上も非常に速いのです。

 一つの例を挙げて説明しましょう。私が先ほど言ったこの話は決して行き過ぎではありません。全国各地の各業種でどんな大型の会議を開く時にも、落し物を捜すのは非常に難しいのです。もちろん希に良い人もいますが、それは非常に少ないのです。われわれ法輪大法の講習会では落し物は全部見つかります。どこの講習会でも同じです。何千人もいる講習会で、毎回の講習会で拾った腕時計や、金のネックレス、指輪、お金、多いものから少ないものまで、さまざまな金額、千元以上のもあり、拾ったらすぐ届けてくれます。私が会場で放送したら、落とした人が取りに来ます。このようなことは、雷鋒を見習うあの年代に見たことがありますが、学習者も最近は長年見たことはなかったと話しています。講習会が終わってから学習者は皆自ら心性を要求し、他人と社会に責任を持ち、厳しく自分を律することができます。私が言ったわれわれのところは浄土であるということは正しいのではないでしょうか?

弟子:ある学習者は何かの自然の功の本をめくってみました。本の中で自分の功を賞賛し他人を批判して、法輪大法を貶す内容があります。この学習者は二頁めくった後、本の中にこの功の動物の影が動いているのが見えたので、入静に影響したでしょうか? 

師:我々はすでに言いました。これらのものを読んではいけません。あなたは何のためにそれを読むのですか! 真剣に修煉する弟子はこれらの偽もの、邪なものを全部焼却したのに、あなたはまだそれをめくり、この差はあまりにも大きいのではないでしょうか? あなたは求める心を抱いてそれを見ていたのではありませんか? でたらめなものを見ないでください。本当の功法は、公に伝えておらず、これらのことに関わらないのです。気功を普及する気功師は、やるべき事をすでにやり終えたのです。現在、今日この功が現れ、明日にはあの功が現れても、それらの気功は、ほとんど偽物です。外で、正法を伝えることを妨害したり破壊したりしているのです。

 ことの分かる気功師は、皆伝えなくなりました。今でも伝えているのなら、法を妨害するのではありませんか? やるべき事をやり終えて、大きな功績を立てました。今も更に伝えるならば、妨害になります。ですから金銭のため、売名のため、利益のための偽気功師はすべて魔です。彼自身が自分は魔であることを知らないのです。われわれは講習会で絶対に言わなかったのですが、主に一部の人が受け入れられないことを配慮していました。実は、ほとんど魔が妨害しているのです。

弟子:学習者が入静して煉功する時、いつも邪な考えが現れますが?

師:そうです。これも私が先ほど言ったことで、以前自分が良くないことをした時に生じた各種の考えが物質として存在しており、これらの物質が作用しているからです。あなたがそこに座って煉功する時それらの良くない考えは、人を罵りたくなったり、悪い事をやりたがったりして、あなたを操って考えさせます。つまり以前思想の中に生じた悪い物質がまだ作用しているのです。先生を罵る場合もあります。あなたは心配しないでください。あなたはできるだけそれを抑制し、排斥すれば、それは消滅されるはずです。必ずこのような良くない考え方を排斥してください。一旦現われたら心配しないで、それはあなたが先生を罵りたいのではなく、思想業力があなたの大脳に反映しているのです。

弟子:学習者が入静して煉功する時、いつもある功にはイタチの憑依があると他人に言う学習者がいます。夜この学習者が夢を見たら、彼に香を焚くように教えた人がいましたが?

師:今後これらの話は直接別のでたらめな功を練る人に言うべきではありません。われわれの一部の学習者はとても仲のよい友達がいて、彼が練っているのがその憑依した功であれば、あなたは彼に説明しても構いませんが、できるだけ側面から話しましょう。あなたが多くの見知らぬ、しかも憑依した功を修練する人のところに行きその功が良くないと言ったら、もちろん彼らはあなたを攻撃し、一緒に非難し、場合によっては聞きづらい言葉を言うかもしれません。われわれはこれらの厄介な事を避けるべきです。われわれは善を勧めるように話します。彼が認識できればいいのですが、われわれはできるだけこれらの事を避けるべきです。本当にその功の門に入ってしまって、その中から出ようと思わない人は、すでに邪道に入ったので、彼の本性はすでに迷ってしまい、少なくとも悟性が駄目になったのです。改めることができればもちろんいいのですが、改めようとしなければ、無理に勧めてもだめです。要するにやり方に少し注意すべきであり、これらの事に注意すればいいのです。邪なものはあなたを傷つけることはできません。

弟子:カレンダーを複製する人が原価で学習者に譲っており、一銭も儲けないのなら宜しいですか?

師:これらの事を私はこう考えているのです。たとえこの学習者が非常に良く、皆のためにこの事を行い、原則的には背くこともありませんが、しかしその中には金銭のやり取りの問題があります。たとえ原価でも金銭に関わっています。私の考えではできるだけこれらの事を避けて、金銭に触れないでください。なぜなら、あなたが金銭に触れているうちに、時間が長くなると心の中でバランスが取れなくなる可能性があるからです。いつもこれらの事をやっていれば、次のような考えが生じるかもしれません。つまり私はこのままでは採算がとれないとか、私の交通費はこの中から捻出すべきではないかとか、他に少し損失があったので算入すべきではないかと考えてしまいます。これによって人の各種の心を助長することになります。段々とこの事に対して把握できなくなるので、くれぐれもこれらの事に注意しなければなりません。

 なぜ皆さんにお金に触れさせないのか、皆さん知っていますか? 釈迦牟尼は二千五百年前、人にお金と物に触れさせないようするために、皆を連れて深山に入って修煉していました。ただ一つの托鉢用の碗しか持っていませんでしたが、この托鉢用の碗に関しても一度法を説き、托鉢用の碗に対しても執着してはいけないと注意しました。これらのことは適切に処理できなければ強く人を妨害し、人の修煉に影響するので、くれぐれもこのような事に注意しなければなりません。イエスもその年代に人々を連れてどこかに着いたら、そこで食べ物をもらって、お金に触れさせなかったのではありませんか? 私はこの事に言及しましたので、この例を挙げました。あなたたちはまだ深く理解できないかもしれません。私は必ず正しく歩まなければなりません。私もあなたにこのようにさせてはいけません。長い歳月が経ってから、人々が李洪志の時期にこうした人がいたと言うなら、それではこの法はまだ伝えることができるのでしょうか? とっくに駄目になってしまい、時間が長く経たないうちに駄目になってしまいます。写真がほしい人がいますが、ほしいなら、あなたは自分で複写して自分で現像すればいいのです。しかしできるだけ学習者の範囲に限定した方がよいのです。将来これらのものは、われわれは社会で公開して発行するかもしれません。私のカレンダーまでも出版物の統一番号がつけられたのです。将来われわれは統一的にこれらのことを管理して、くれぐれも自分で勝手にやらないでください。適切に処理できなければ大法を傷つけることになりかねません。

 どのように販売するのでしょうか、それは原価で販売してもいけません。くれぐれもこのような心が動いてはいけません。何の役にも立ちません。自分が修煉して向上し、他人を助けるなら、必ずしもこのような形式を採る必要はありません。皆に法を知らせ、皆に少しでも法を伝えれば何よりもいいのです。人の心性の向上は外形のものよりずっと重要です。これらのことは統一して法輪功研究会が管理します。総站、分站、輔導站は皆お金に触れてはいけません。われわれの法輪功研究会はどんなことをするにも皆私の同意を経てから彼らは始めてやるのです。いろんな名目でも無断で行なってはいけません。それは権利を侵すことであり、社会の法律も許さないことです。

弟子:ある人はしっかり心性を修めようと思っていますが、日常生活の中で彼の心に触れることがなく、試練のような夢を見たこともありません。先生は彼を見守っていないのかと本人が心配していますが?

師:そうではありません。一人一人が各自に持っているものとその本人の状態は皆同じではありません。彼の持っているものは複雑なものであるかもしれません。皆さんに一つの例を挙げましょう。これはある特定の人を指しているのではありません。僅かな人はわりと高い次元からやって来たので、彼は苦を嘗める必要はなく、彼はこの法に同化しに来たのです。同化し終わったら彼の修煉はそれで終わったのです。僅かな人、極めて少ない一部分の人はこのような人です。ただし、あなたの言ったこの情況ではないかもしれません。私はただこのような情況があるということだけを言っています。たくさんの人にはさまざまな要素が存在しているかもしれません。あなたが苦を嘗めるか嘗めないかにかかわらず、この法に同化し、この法を学ぶことこそ極めて重要なのです。

弟子:少なくない学習者が夢の中で見た師父が教えた功は五式の功法の中のものではありませんが、どうすればいいでしょうか?

師:五式の功法の中の動作でなければ、それは魔があなたに教えたので、皆偽りのもので、絶対私があなたに教えたのではありません。今日皆さんに伝えたのはただこの五式の功法だけで、これらの功法で十分にあなたの身体を変え、あらゆる術類と有形のものを煉り出すことができます。真にあなたの次元の高低を決定するその功は、練り出すものではありません。それはすでに足りています。夢の中での練功は、頭の中で気付いたらやめてください。練るならこれは心性がまだあまり堅実ではありません、もし堅実であるなら念が動くとすぐ気が付くべきです。

弟子:圓満にならないうちにこの世から去って行った人はどうなりますか?

師:圓満にまで修めることができず、圓満に達していなくても、彼はその果位にいて、果位を得たら、すでに成就したのです。しかし世間法から出ていないのなら、それは確かに問題があります。世間法から出ていない場合、三界内において異なる次元の空間に彼の行くところがあります。彼はある次元まで修めたらその次元に行けるので、それも得るべきものを得たのです。もし、彼がそれではいけません、私はよく修めなかったが、願を立てて来世も続けて修めたいと思うなら、それでは彼は来世にまた修煉の状態の中に入って、また続けて修めるように按排することができます。しかし一つの注意すべきことは、把握できなければ非常に危険です。またよく修める事ができなければ、やはり下へ落ち、元より悪くなる可能性があります。もしよく修めたら、元より良くなります。つまりこのような関係が存在しているのです。

弟子:心性を修煉する過程で、いつも自分がやり間違えることを恐れて、いつも法により量っていますが、やはり何かにぶつかります。これでよろしいですか?

師:やることをすべて心配していますが、そんなに執着しなくてもよいと思います。この関係は非常に対応しにくいのです。考えすぎれば執着になりますが、考えが足りなかったら、間違った事をやってしまう心配もあります。そんなに頭を緊張させる必要はないと私は思います。われわれは何かをする時に、一般の事ならやれば良いか悪いかがすぐ分かるはずです。しかも、あなたにはこの事が終わったらまたあの事が出てくるような、そんなに多くのことがあるはずはありません。常人の中の事は考えなくてもそれは良いことか悪いことか分かるはずだと私は思います。突然に現れた事なら、それは良いことか悪いことかを考える必要があります。いつもそんなふうに考え、どんなことをしてもそんなふうに考え、些細なことでも考えてしまうことは、私に言わせればそれは心が執着しすぎたのです。正々堂々と修煉して、大事に着目すべきです。もちろん修煉の過程の中で、自分が認識できなかった事をやり間違えてよく把握できないなら、それはあなたがまだそこまで修煉していないからだと私は思います。一部の事はあなたがまだ認識できない場合、それほど執着してはならず、この心を取り除くべき時が来たら、自然に認識できるようになるはずです。

弟子:性命双修の功法であれば元嬰と重なり合うのです。これは正しいですか?

師:つまり性命双修をすれば、改変した本体と修煉してできた元嬰は、その時になると全部あなたの元神と合体して一体になるのです。

弟子:肉を食べることは業力が生じますか?

師:肉を食べることそのものは業力がなく、殺生の概念も存在しません。肉を食べるそのものは執着心ではなく、肉を食べることは肉の美味しさに対する人の執着心を助長するのです。

弟子:一人一人の身体に持っている徳は限りがあり、修められる功の高さが定められていますが、功を開き悟りを開いた後、まだ徳を積んで向上することができますか?

師:徳は限りがあるので、功を開き悟りを開いた後は絶対に向上できないのです。功を開いた後、この人は何でも見えて、何でも接触でき、何でも分かるようになるので、もう悟性は存在しません。何でも分かったうえで苦に耐えて高く修めることができるなら、それでは修めない人はいないでしょう。佛さえも更に上へ目指して修めるはずです。なぜ彼の修煉は非常に遅くなるのでしょうか、つまり彼はもう殆ど苦を嘗めることはないからです。彼は特殊な貢献ができた時だけ、ほんの少しだけ向上できます。この中にはこのような関係があります。徳が足りないと言うのなら、徳が足りなければまだ業力があります。苦を嘗めれば、業力を転化できるので、徳に転化できます。もし本当に続けて修める事ができれば、自分はまだ修められる、まだ修めたいと思えば、親戚や友人の業力を取って来て、あなたが消去してあげれば、それも徳に変わります。しかしこれは非常に難しいことです。これは人の心性、心の容量に相応して成り立つことです。その一歩になると、すでに満杯になり、もう入れられなくなります。このような状態が現れます。更に苦を嘗めると、容量が足りないことによってその人は悪く変わり、落ちてしまい、修煉が無駄になってしまうかもしれません。

弟子:釈迦牟尼はすでに功を開きましたが、なぜ四十九年間法を伝えてからはじめて如来に達したのですか?

師:非常に高い次元から来た人は、如来を何倍も超えていて、彼が修めるなら、功を開いてから、四十九年も必要とせず、その半分の過程あるいはもっと短い過程を歩めばかなり高い境地に達することができます。これは彼の根基と関係があり、彼のいる次元とも直接関係があり、彼が前世にいた次元とかなり大きく関係しています。一人一人状況が異なります。

弟子:釈迦牟尼は四十九年間で如来の次元に達したのですが、誰が彼に功を演化してあげたのですか? 彼は頓悟に属しますか、それとも漸悟に属しますか?

師:彼は頓悟に属するのです。彼は人を済度しに来たので、修煉に来たのではありません。誰が彼に功を演化してあげたのでしょうか、誰も彼に功を演化してあげませんでした。下りて来てこのような事をする人はすべて、下りる前に、多くの大覚者と共にこの事を討論して、自分が参与して自分の今後やる事を決めます。決めておいてから、計画通りに歩み、何時になったら功を開き、何時になったら圓満になり、何時になったら終了するなどは、すべて決められていたのです。彼はわれわれの言っている功を開き、悟りを開くようなことではありません。あなたはあまり理解できないかもしれませんが、つまり彼は一度に自分の記憶を開いて、以前の自分が修煉したものを思い出しました。彼はそれを持ち出して人に伝えたのです。釈迦牟尼が当時伝えた法、宗教の法、佛教の法は高くないと私は言いましたが、これは釈迦牟尼が高くないということではありません。釈迦牟尼は自分のものを全部伝えてはいません。彼は二千五百年前に原始社会から抜け出たばかりの人に対して伝えたので、それは彼の法のすべてではありません。

弟子:座禅する時だけ功を演化するのですか? それとも心性が向上すると同時に演化しますか?

師:座禅中、煉功中、苦しみの中、難を受ける中で、すべて功が演化し、心性が向上する過程で次元の高さの功が伸びているのです。

弟子:観世音は佛になったと言う人がいますが?

師:人の言ったでたらめなことを信じてはいけません。皆さんに言いますが、末法の時期に至った人類社会は、覚者たちは皆手を引いて関わらなくなり、彼らが関わることも許されなくなりました。手を引いて人類社会に関わらなくなっただけではなく、末劫の中で彼らの境遇もかなり困難になり、自分のことさえ手に余っているのです。これらのことによって、彼らのいる次元でも問題が現れました。私は皆さんに以前このことを話したことがありますが、現在他人のことを構う人はもういないと言いました。これは大げさに言っているのではありません。皆さんに教えますが、これらのことは紛れもないことです。あなたが佛を拝むにしても、各種の宗教の像を拝むにしても、その上には何もありません。ごく希に一つの影がそこに存在しているかもしれませんが、しかし彼は話ができるほか、もう何もできなくなりました。今は末劫になり、この時期になったらこのようになるのです。

 現在人々が認識した観音菩薩は即ち数年前人々が拝んでいた観音菩薩です。彼女の功は実際如来佛より、阿弥陀佛よりも少し高いので、大菩薩自身は佛でもあります。しかし、彼女はまだ如来の境地に達していません。ところが彼女が持っている功の中には如来を超えるものもあります。彼女が修めたのは菩薩であり、彼女は彼女のことを行なっており、この中にはたくさんの高くて深い道理があり、これ以上もう話してはいけないのです。これらは人類に知らせるべきではないからです。これはわれわれが想像したようなことではなく、常人のような上下階級の関係でもなく、まったく違うことです。

弟子:法輪世界の羅漢や菩薩は他の世界の佛よりも高いと言う人がいますが、本当にそうですか?

師:これはそう言えます。一部の世界の佛が他の世界の佛より高いという言い方は、正しいのです。次元は佛の世界での位置を決めているからです。如来の次元にいる佛は、もしたくさんの佛の果位に達した人を導いているなら、これらの人にもやはり高さの違いが存在しているのです。法輪世界のすべてにこのような現象が存在しています。法輪世界の羅漢、菩薩は他の世界の佛より高いと言いますが、確かに法輪世界の次元は非常に高いのです。われわれが今日伝えた法はとても大きく、法輪世界の中に限って伝えたのではありません。私が人に知らせるべきものは法輪世界ですが、法輪世界を超えたものは人に知らせてはならず、人に知らせることは許されないからです。多くの人はすでに感じましたが、この法はこれほど大きいものです。それほど多くの大覚者もこの法に同化するためにやってきており、これは一般の法ではなく、とても高くまで修煉者を導くことができます。これは間違いのないことです。すべての修煉者はみな法輪世界に限られるということではなく、これも間違いのないことです。釈迦牟尼、阿弥陀佛も彼の一門の中で修煉する人はみな彼のところに行き、あるいは別のどこかに行くと言ったことはありません。彼の範囲を超えたら、別のところに行くかもしれません。

弟子:羅漢に達した時の功の高さには基準があるのですか? 初果羅漢は心性と功の高さにより決められたのですか?

師:羅漢の次元は異なる佛の世界で確定された不変の基準です。学習者の心性の高さは彼の功の演化形式と同じなのです。すべてこの一歩に達しなければならず、全部高エネルギー物質によって取り替えられ、それに相応して成り立つのです。これらのことについて私はかなり重く強調しました。これらの問題について輔導員は皆説明できるはずです。世間法を出てからの修煉は佛体修煉ではありませんか? 出世間法修煉なら、あなたはすでに佛体であり、佛体は高エネルギー物質に完全に取り替えられた身体です。世間法を出て浄白体になったら、それはすでに全身が高エネルギー物質に取り替えられた透明体ではありませんか? 更に前へ修めれば、それはもう佛体になったのではありませんか、つまり初果羅漢に入ったのです。こういうことです。

弟子:身体の中にできた生命体、例えば龍などは六道輪廻の中にありますか?

師:六道輪廻の中にも幾らかの生物があり、六道輪廻以外にも動物の存在があり、より高い次元の中にもあります。それは一般的に修めて上がったのではなく、その自然環境の中で生じたのです。高次元において修煉する人の身体に生じた龍などの生命体は当然あなたのもので、あなたの圓満に従って高い次元に行くことになるのです。

弟子:身体の中に出来た生命体は修煉する法門によって決められているのですか? 修道者はもし専一にすることができれば、佛を修めることができますか?

師:これは決まった規定がなく、あなたは佛を修めていましたが、その後また道を修めることになっても、それでも構いません。ただその一門の師父は最初、あなたを手放さないのです。どうしても戻らないなら、彼もあなたに構わなくなります。あなたが確固たる意志でそれを修めることに決めたら、彼もあなたに関わらなくなります。もし二股をかけて修めるなら、それはいけません。どの法門の師父もあなたに構わず、これは心性の問題であり、二つの法門を破壊する問題です。

弟子:邪道を修めるように決められているものがいますか?

師:います。専ら末法の時期に出て法を破壊するものがあり、さまざまな形式を用いるものがあります。公に法輪大法を攻撃し、私を攻撃するものがあり、われわれの学習者は皆これを識別できます。このような魔は恐ろしくなく、偽気功も恐ろしくなく、われわれの学習者は識別できます。現在皆さんは少なくとも冷静にそれは本物かそれとも偽物かを考えることができ、分かっていれば、以前のように盲目的に学びに行かなくなるのです。
 
 最も識別しにくいのは、次のような魔であり、その破壊力はかなり大きいのです。それも法輪大法を学びに来て、法輪大法はすばらしいと言い、他人よりも感動的に語り、感じ方も他人より強く、また何らかの形象が見えました。それから彼は突然死んでしまい、あるいは突然反対の道に走り、こうして法輪大法を破壊するのです。このような人は最も識別されにくく、識別されにくいから破壊力は最も大きいのです。その破壊形式はこのように按排されたので、彼がこのようにすることは決められているのです。彼は影響が大きい方法を選んで破壊を行ないます。私が先ほど言った破壊力が大きな魔はこの類に属するのです。

弟子:地藏菩薩は佛に成就できますか?

師:大菩薩はすでに佛と称することができます。大菩薩、あなたが言ったのは地藏王ですか? 地藏菩薩は佛とも呼ばれており、つまりこの意味です。しかし彼は彼のすべきことをするのです。

弟子:人の元神はどのように来たのですか?

師:このことについて私はすでに話しましたが、原始生命は宇宙の中の各種の厖大な物質運動の作用の下で生じたのです。

弟子:噂を伝える人がいますが?

師:これらの噂に耳を貸さないでください。特に私の法に影響があること、我々の法の形象を破壊することは、誰も伝えないでください。あなたのところに来たら止めて、人々が皆このようにすれば、それは伝えられることがなくなるのです。

弟子:他人の功績と過失を論じることは業を作るのですか?

師:常人の中の良し悪し、功績と過失は、煉功者として淡泊であるべきだと私は思います。常人の中の事をあなたはそんなに興味津々と論じないでください。あなたはそれに興味を持って執着しているのですか、それともあなたは修煉したいのですか? 常人の中にはこれらの事しかありません。私は言ったではありませんか、常人の中の事はこれらのことに過ぎず、あれこれを話しても、それは皆常人が常人のことを言っているのではありませんか?

弟子:人が悟りを開いた後もう上へと修めることができなくなりますが、なぜ釈迦牟尼は菩提樹の下で悟りを開いてからもまだ上へと修めることができたのですか?

師:人が圓満になったらもう上へと修めることはできなくなりますが、悟りを開いたら即ち圓満になったのです。釈迦牟尼は当時半ば悟りを開いた状態にあって、彼の記憶は部分的に開かれましたが、まだ開かれていないものが沢山あり、彼はまだ知らないことが沢山あるから、はじめて上へと修めることができます。何でも知っていれば、彼はもう上へと修め難くなります。彼は四十九年間法を伝えているうちに修煉して如来の次元に達しましたが、それは彼が半ば悟りを開いた状態がすでに高く達していたからもたらされたのです。われわれが半ば悟りを開くのは、それほど高く達していないのです。なぜなら釈迦牟尼は人を済度しに来たからです。しかし私は僅かな人、やはり僅かな人に高く開かれる可能性があると強調したいのです。各人の情況は皆同じではないからです。

弟子:人が死んでから親族の関係がすでになくなり、元神はそれぞれのところに行きますが、なぜ先祖の徳と業力は下へと子孫に積み重なるのですか?

師:そうです。即ちこの宇宙にはこのような理があり、それも人を制約する一つの理です。あなたが業を造り、あなたが死んだら、あなたの子孫はこの業を償わなければなりません。ですから子孫のために福を作ろうと思って、彼は沢山の金を稼ぎ、自分はそれほど使えないが、子孫に残して楽な暮しをさせたいと思うのです。彼は世間の事をかなり重く見ており、子孫の事をかなり重く見ています。更に彼は死後の名をもかなり重く見ており、いなくなった後の名をもかなり重く見ています。これらの要素が存在しているから、彼は業を積み、子孫に業を積み重ねるのです。

弟子:一人が佛になったら、その人の祖先たちも天に昇ることができると言われていますが?

師:人は、大きな善を行い、あるいはよく修煉できたなら、その父母はそのお陰で上へ済度されるかもしれません。しかしどの次元に済度されるか、それはその父母自身の情況及びわれわれの修煉の情況により影響されます。先祖が徳を積めば必ず福の報いが得られます。一人の人が修煉すれば、その先祖も徳を積むことができると言われていますが、つまりあなたが佛に成就できれば、あなたの父母も大きな徳を積むことになります。しかし三界を出た者はあまりいません。彼はただ徳を積んだことになり、いい事をしただけです。あなたのような息子がおり、あなたのような娘がいるから、彼も徳を積んだのです。このような要素が存在しています。しかし父母もこれによって佛になれるということは、それはいけません。それは修めなければなりません。彼はただ異なる次元の天人として福を受けるだけです。祖先たちが皆天に昇ることができるというのは、でたらめな言い方です。

弟子:ある日の夜、寝ていたとき夢を見ました。父母は修煉者で、家に祀っているそれらの紙を破って火を付けました。私はやめるように説得しましたが、なかなか聞きいれないので、師父にお願いして助けてもらおうと思ったところ、師父が現れて情況を話しました。父母が一枚の紙を燃やすと、その紙は燃えました。その後その人は師父ではなくなり、屠殺業者の衣服を着て、手に拡声器を持って市場に立ち肉を売っている姿に変りました。それを見て私は泣き出しましたが?

師:これは間違いなく魔の仕業です。これは人を罵ることを暗示しています。この魔の位牌が燃やされて、殺され、その意味は屠殺業者が人を殺したことで、つまりこの意味です。それは少し能力があるから、これらのものを演化して、人を惑わせることができます。なぜ今日これらの魔をきれいに片付けたのでしょうか? 皆さん考えてみてください。まさに私が挙げたリンゴの例のように、人類社会はここまでに至り、人類だけではなく、物質とそれらの動物も、皆業を持って輪廻しており、しかもかなり大きな業を持っています。それらは修煉などを知っていますが、人類の事を絶対にこれらの動物に妨害させ、主宰させてはいけません。それらはこのような作用をしています。これはすでに天理に背いたことです。大逆の魔は殺されるべきであり、これも末法末劫時期の必然です。それは少し高い功を修めると殺すべきなのです。現在はかなり乱れています。

 私は話したことがありますが、人々が理に適っていると思うことは、高次元から見ればすべて間違っているのです。高次元にいる大覚者から見ると、人類社会は妖怪や鬼、魔に乱されて、それらは勝手に人の身体に持っているものを取ったり、人を制御したりしています。それらは良い事をしており、人のために病気を治療したと思っています。何の病気を治療したのでしょうか? それらが病気を治療する時に、それらのものを人の身体に送り込んだのではありませんか? これはすでに悪いことをしたのです。

弟子:以前われわれの発見したそれらの遠い昔の時期の動物に関しては?

師:今日の動物は進化してきたものだと言われていますが、私に言わせれば全く違います。大陸プレートの変化、異なる時期の周期的な演化により、生物の種を変えたのです。もし今の大陸プレートが沈んで、太平洋、インド洋、大西洋の中から新たな大陸プレートが上がれば、その上にまた新しい生物の種が存在し、新しい生物の種が生じるはずです。それがまた沈んだら、また新しい生物の種が生じるはずです。もしこの大陸プレートが別の大陸プレートに替わり、ある年代が経ってから、またこの大陸プレートが替わりに上がってきても、その上の生物の種は元の生物種ではなく、新しい生物種になるはずです。このように変化しているので、人々は進化してきたものだと言っていますが、全く違います。進化過程のその中間段階のものがなぜ発見できないのでしょうか? 発見したのはすべて二つの生物種の異なる存在形式だけで、中間の過渡期の形式は存在していません。

弟子:修煉者が佛に成就できたら、どの身体が佛になりますか? 真体ですか? それとも師父がくれたのですか?

師:過去、浄土宗で修煉する人は、身体の修煉を重んじないで、ただ心性の修行を重んじただけです。座禅して修行を行わない法門は特にそうです。その場合は彼の佛体は迎えに来た佛が演化してあげるのです。彼を迎えに来たときに彼に直接佛体をあげるのです。それらの真剣に座禅して修行する法門では、彼は自分で元嬰を修め出すことができます。しかも道家と佛家の一部の特殊な修煉方法の中では、自らの身体を変えて性命双修の目的に達し、また他のものを修め出すことができ、自分の主元神はそのすべてを主宰します。

弟子:元神は高エネルギー物質ですか?

師:このように理解してはいけません。あなたの元神は最もミクロ的な、最も微小な物質、最も本源の物質から構成されています。あなたの性格、あなたの特性は物質の本源よりすでに決められています。ですから、どれくらいの年月が経っても、生々世々に変らないのです。しかし本性は善良なのです。

弟子:キリストは彼の天国から来た人を済度しに来たのですか?

師:この言い方は間違っていません。欧州の人種、その最も原始の人種は皆彼らのその特定の空間から来たのです。彼のところには彼のところの特殊な状況があります。

弟子:私が法輪大法を学ぶ前に、夢の中で先生に会いましたが、どうしてですか?

師:大法を学ぶ前に、私に会った人は多くいます。何年、何十年前にすでに私を知っていた人もおり、夢の中で私に会った者もおり、このような例は多くあります。またかなり昔に占い師に教えられた人もいます。さまざまです。これは異なる時空の反映です。

弟子:私の子供は先生に会ったことがあり、先生を知っていると言っていますが?

師:この子供の根基はかなり良いのです。子供の言ったことは間違っていません。一部の子供は目的を持って来ており、法を得るために来たのです。

弟子:徳と功、真、善、忍は同類の物質ですか?

師:真、善、忍は一般物質として認識してはならず、同じ概念ではありません。如何なるものも皆物質により構成されたのですが、それはこのような概念ではありません。それはわれわれ人間の元神のようなもので、それとわれわれ人間の身体はどんな物質から構成されたのかと言うなら、私が先ほど言ったその問題と同じで、それは適切ではありません。しかし如何なる物質も物体であり、真実の存在はその特性であり、法の体現でもあります。徳と功はつまり物質の形式で現したものですが、皆同類の物質ではありません。しかしすべては宇宙の特性である真、善、忍に同化しているのです。

弟子:葱、生姜、大蒜は食べていいですか?

師:われわれは今日常人の中で修煉しているのでこの問題を具体的に提出していません。しかしわれわれの専業修煉者の中で、将来の和尚はこれらものを戒めなければなりません。実際皆と一緒に集団で座禅して修めている人も、食べてはいけません。過去にはそれが人の修煉を妨害するので、この問題を提出しました。葱、生姜、大蒜は人の神経を刺激するので、常に食べたり多く食べたりすれば癖になり、食べなければほしくなって、執着心を起こすことがあります。これらのものを淡泊にすべきです。加熱してから食べれば問題はなく、匂いがないからです。葱を炒めて調味の香りとして使っても構いません。われわれは実際の意味から見れば、当時釈迦牟尼が食べさせないのは、人の修煉を妨害し、放出した匂いが非常に刺激的で、入静を妨害するからです。その時十人、八人の和尚が車座になって入静し座禅をしていたので、その匂いが放出されると、皆入静できなくなります。座禅して修行することはとても重要視されていたので、これらの類いの物を戒めることをとても厳粛に見ていたのです。

弟子:徳、功は真、善、忍と同類物質ですか?

師:徳は一種の白色物質で、一種の特殊な物質です。業力も一種の特殊な物質です。功は一種の昇華した徳の物質であり、宇宙のほかの物質を混ぜて形成したものです。真、善、忍は法であり、一種の特性で、一般の物質概念で認識してはならず、超物質なのです。
 
弟子:不壊の体はどのように理解しますか?

師:世間法を抜け出したら即ち不壊の体になったのです。佛体は壊れるものですか? 彼は宇宙の中の最も豊富で最も良い物質で構成したので、宇宙が壊れなければ彼は壊れません。

弟子:法輪大法を修煉する人は、最終的に皆法輪世界に行くのですか?

師:私の法輪世界には入りきれません! 真に正果を得て圓満した者しか行くことができません。法輪大法を修煉すれば法輪世界に行くと言うなら、今はすでに何億もの人がいます! 将来大法を学ぶ者はもっと多くなります。この生々世々の人もまた代々修めていくので、皆法輪世界に行くなら入りきれないのです。圓満まで修めることができない人は高次元の美しい空間に行くことができます。われわれの学習者の中の大部分は異なる高次元から来たので、法を得てから自分の元の世界に戻ることになります。

弟子:私の孫娘は五歳で二期の講習会に参加したことがあり、夢の中でよく起きて煉功します。大人が彼女に話しかけても彼女は相手にしてくれません。これは正常ですか? 彼女はまたよく先生から文字を教えてもらったり、絵画を教えてもらったりするのを見ます。また先生が虚空や彩雲の上におられるのを見ますが?

師:煉っているものが法輪大法であれば正常です。根基が良い子供ですね。くれぐれも子供にでたらめな功を学ばせないでください。子供を台無しにしてはいけません。このような子供は皆法を得るために来たのです。くれぐれも子供に悪いことをやらせないでください。全国ではこのような子供は数多くいます。

弟子:新しい学習者を受け入れる基準は何ですか?

師:ありません。煉ることができれば煉っていいのです。もちろんはっきり言うべきですが、二種類の病気の人は修めてはいけません。これは私が提出したのです。つまり危篤患者は業力があまりにも大きいので、修煉ができません。精神病患者は思想業力があまりにも大きく、主元神がはっきりしていないので修煉できません。

弟子:常人の中で修煉する段階では体内の分子構造が変わらないのですが、それではわれわれが出世間法に入ったら体内の分子構造が変わるのですか?

師:修煉の過程で変えなければ、出世間法に入ってから、あなたはどうやって変えますか? 世間法の段階ですでに一歩一歩と変えて向上し、世間法から抜け出したとき、ほぼ全部変わり終えたのです。

弟子:テレビで「達磨の物語」をやっていますが、学習者に見させないことは正しいでしょうか?

師:これは構いません。学習者はそれを物語として見るだけで、まねて学ぶはずはありません。現在人には法を教えてあげなければ学ぶ気はまったくないのです。たとえ佛教のどの和尚でも今日ここに座って、いくら彼に言っても学ぶ気にはならないでしょう。われわれは講習会の時にすでに強調しましたが、禅宗法門はすでに存在しなくなりました。現在存在しなくなっただけでなく、六祖の慧能に至ってすでになくなりました。何百年の間にそれはとっくに無くなったので、残ったのは歴史だけです。その禅宗の和尚は今何を読んでいるのでしょうか? 阿弥陀佛経までも捜し出して読んでおり、禅宗のものは無くなったのです。禅宗の法は世間にはもう無くなり、実は末法時期にはどんな法も無くなり、禅宗の法だけではありません。

弟子:一部の人は講習会に参加したことがありませんが、煉功に参加し、本と法輪バッジを買いましたが、その後また煉らなくなりました。本、法輪バッジは取り戻すべきでしょうか?

師:彼はすでに買ったので、変えることはできません。彼はお金を払ったからです。われわれには何かの行政的な管理方法もありません。当初私はこれらのものを持ち出すべきではないと考えていましたが、学習者、弟子の要求で今持ち出しました。情況を見守るしかありません。

弟子:「頭頂抱輪」の時、頭はとても重くて上げられません。どうしてでしょうか?

師:これは気にする必要はありません。頭が重いことは必ずしも悪いことではありません。修めてできた功柱は重量もあり、感じることができます。もし上に大きな光の玉が出たらそれもあなたに圧し掛かります。上にもし一人の佛が座っていたら、更にあなたに圧し掛かります。上に何かものがあっても気にしないでください。煉功にはあり得ることで、すべて良いことです。人の頭上には様々なものが現れることがあります。気を煉るにしても一つの大きな気柱が現れるはずです。

弟子:夢の中でよく試練を受けます。その時の対処は目覚めた時よりも良いのです。これは副元神によることですか?

師:それはもちろん良いことで、副元神ではありません。副元神が事をやるならあなたに見させないので、あなたはそれを知らないのです。それはあなた自身です。

弟子:浄白体以上の次元まで修煉できた時、身体には冷たい、熱い、痺れ、腫れ等の感覚は無くなるのですか?

師:まだあるはずです。それは異なる次元の異なるものによるあなたの身体での現れだからです。病気があるような辛い状態はますます少なくなりますが、何も感じなくなるということではありません。皆さんに教えますが、太上老君が話した言葉で、道家の本の中にもこの言葉が載っています。つまり「どれほど高く修めたにしても、なぜこんなに辛いのでしょうか? それは常人の中にいるからです」とのことです。

弟子:法輪大法は宗教と矛盾していますか?

師:歴史上われわれは宗教に入っていません。現在われわれの大部分は常人の中で修煉しているので、宗教ではありません。宗教の目的は、一つには修煉であり、一つには人を教化して、良いことをするように導き、世の中で道徳を長く保つようにします。これは宗教がやった二つの事です。われわれが常人の中で修煉することはこのような作用を果すことができますが、われわれにはこのような宗教形式はありません。将来には専業の法輪大法を修煉する弟子がいますが、現在われわれはまだこの一歩にまで進んでいません。如何にこの問題に対処するのでしょうか? 現在和尚にはすでに大法を修煉する者がおり、いずれにせよ、われわれのこの法は社会に有益で、人に有益です。われわれは政治に干渉せず、政府の政策に違反せず、われわれはこれらの事に関わりません。国家に対し常人社会に対し如何なる事に対しても不利益な事はなく、有益な事しかないのです。

弟子:私は座禅する時、よくエレベーターに乗ったように下へ滑り、自分がかなり小さくなったように感じますが、なぜか分かりません?

師:これも正常なことです。なぜなら、元神はとても小さいもので、かなり大きくなることもできるからです。ですから人が煉功する時には身体は外へと拡大することができます。大地にすっくと立っているように感じるような人もいれば、とても小さく変ったように感じる人もいます。これはすべて正常なのです。しかしもう一面があり、修煉者は一旦あまり良くない事をしたら下へ落ちるような感覚もあります。それは次元が落ちたので、身体の容量も縮んでしまいます。

弟子:最近の数カ月、私は夢の中でいつも何人かの周囲の親族と一緒に滑りやすいぬかるみでばたばたと忙しくしています。

師:これはつまり人が常人の中にいるということです。高次元の人から見れば、人類はとりも直さず泥をこね回しているのです。

弟子:法輪大法の中で正果を得るまで修煉できたら、必ず本体を持たなければいけないのですか?

師:われわれのこの法門が要求した圓満は本体を持つことです。本体を持たず、この身体がこの形式に達していなければそれは許されません。なぜでしょうか? われわれは皆達することができるからです。本当に修煉するならほとんど皆達することができます。あなたが果位に入って世間法の修煉から出れば、あなたの身体はすでにできており、多くの人はすでにこの段階に達していても自分では分かりません。なぜなら、身体の一部分は鍵をかけて縛られているので、感知できないのです。あなたの修煉につれて益々あきらかになってきます。ただし一つの問題を説明しなければなりません。一部の人はさまざまな原因によって限定され圓満に達することができないかもしれず、異なる次元の中で天人(神仙)になることしかできないので、身体の変化は非常に少ないのです。実はこれは一般の人にとってはすでに高くて及ばないことであり、美しくて求めることのできない大きな福です。一般の気功の中や憑依した功、邪法の中では決して達することはできません。

 提出した質問は終わったようです。私が今日解答したこれらの問題は主にわれわれの輔導員と中堅が提出したことに対して説いたことです。もちろん、一部の学習者は講習会に参加したことがなく、あるいは一回だけ講習会に参加したことがありますが、来るべきではないのに来てしまいました。あなたがこの法を聞くべきではないと言っているのではなく、あなたが修められないとも言っているのではなく、あなたがまだこれらのものを受け入れることができず、これがかなり大きな問題に関わっているのです。あなたを入らせなければ、あなたは不満があるかもしれず、心性はまだ高くないので、変な文句を言うかもしれません。入らせればあなたは受け入れられず、疑いを生じてあなたの前途が壊れることを心配しています。いずれにせよ、聞いたあと信じられなければそれを物語として聞けばよく、どのような反発心も起こさないでください。

 説いたこれらの法は主にわれわれのこれらの輔導員、中堅に対して説いたのであり、将来あなたたちが仕事を展開する中で役立ちます。一部の問題は共通性があり、学習者から提出されて答えられなかったことが、この機に少なくとも一部のことが分かったはずです。実は私の言ったように、この輔導員の会を開かなくても問題を解決できるはずです。例えば、私が済南の講習会で講義を終わってそこから離れる前に、多くの覚者は私にこう言いました。「この講習会ですべてのことを全部説きました」。その意味は常人に知らせるべきことは全部説いたということです。私に言わせればこの法に従って学び、完全に理解さえできれば、解決できない問題はありません。私が説いたこの法は、ただ私のこの一法門の中の事だけではなく、これは一つのとても大きいものです。もちろんわれわれが今日やった事は過去に伝えた功、やった事とは同じではありません。他の人は衆生済度を講じ、釈迦牟尼は動物さえも済度の対象にしているのです。釈迦牟尼は衆生済度を唱えるので彼は衆生を済度し、すべての生命に対して慈悲を与えるのです。なぜわれわれは今日このようにしないのでしょうか? なぜわれわれは人を済度するにもまだ選択するのですか? なぜわれわれの講習会に入るにもまだ条件を選択するのですか? それはこのすべての事は当初と同じではなくなったからです。一部の人はすでに極悪で救いようがなくなったので、淘汰されるべきなのです。一部の人は残されるべきであり、一部の人は修煉して上がれるかもしれないので、このような問題が現れたのです。

 それでは、われわれはどのようにこの会議のことを生かすのでしょうか? 言うべきことと言うべきではないことに関してはどのように対処すべきでしょうか? 皆さんはどのようにすべきかすでに分かっているはずで、私もこの問題を強調しません。一言で言えば、われわれのこの法に責任を負い、あなた個人に責任を負うことに基づけば、あなたは如何にやるべきかが分かるはずです。話はこれくらいにしましょう。

 ……われわれは討論をしてから、より一層大法に対する認識を深めることができ、我々の認識も統一できました。将来学習者に何らかのことを解答するとき、きっと役に立つと思います。これはその一つです。もう一つは、私はまだわれわれの責任者にこの事を言っていませんが、つまり我々は集まって一緒に煉功するだけではなく、私の故郷で率先して皆さんを組織して、ある特定の時間に皆さんが集まって一緒に法を学んでみたら如何ですか。一講一節を順番に皆で読み、討論してみます。学習の時間は一緒に煉功することと同じように固定すれば良いでしょう。こうすればきっと良い効果があり、問題意識を持ち、こうして我々は将来、実際の問題にぶつかる時に法に基づいて対処することができるようになります。われわれが先例を作れば、全国各地の輔導站に対して良い先導の役割を果たすことができます。その後、全国各地が同じようにすれば、我々の認識を高めることに対してとても良いことです。ここでこのような提案をします。

法輪大法長春総輔導站が録音



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