轉 法 輪

(巻二)

李 洪 志





 宇宙の浩大さ、天体の洪大さは、人が探知できるものではありません。物質のミクロ的なところは人が探り見て推し量れるものではありません。人体の奥深さは人が知っている表面的な知識ほど浅くはないのです。生命の厖大さと複雑さは、いつまでも人類の永久の謎です。

李 洪 志
一九九五年九月二十四日



 悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います。
 善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。
 覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています。

李 洪 志
一九九五年九月二十五日



常人の苦楽を記さざれば乃ち修煉者
世間の得失に執せざれば羅漢なり

李 洪 志
一九九五年五月





目 次

大嶼山での説法
佛教の中の教訓
人類の堕落と覚者の出現
学者と修煉は別のことである
佛 性
道を修めずとも既に道にいる
泥で人を造った物語
現代科学の限界と佛法の博大な奥深さ
万法は宗に帰す
禅宗は極端である
修煉過程の中の次元
佛と道
人を済度し法を説き、パフォーマンスをしない
佛は人を済度するが、加護するのではない
人類の堕落と危険な観念
末劫時期の人類
真 修
明 智

何のために見えないのか
法を学ぶ
いかに輔導するか
空とは何か
堅 定
佛教の論述は佛法の最も弱小な一部分である
智とは何か
退職した後に修煉する


大嶼山での説法


 今生で修煉を成就することができず、来世に続けて修煉するという願もかけなければ、来世常人に転生し再び修煉する機会はないかもしれません。すると前世に修めたものは福に変わり、多くの高官は和尚が転生したものです。修煉の時に多くの苦を嘗めたため、ある程度の福を積むことができ、圓満成就することができなければ高官や皇帝になるのです。
 今生で成就できなければ来世に必ず続けて修煉すると願をかければ、来世への因縁を造ります。来世にあってその法門で続けて修煉し、その修煉の因縁を造るのです。この願をかければ、その人が転生の後、この世の次元の低い神には属しません。その師父がその人の面倒を見、その転生を見守り、修煉させることのできる家に生まれるようにします。こうしてその人は再び修煉する機会を得るのです。
 寺の和尚の多くは修煉しても成就できないのです。圓満成就できないのは多くの執着心を取り除くことが出来ず、如何に修めるかを知らず、的を得ていないからです。経を唱えれば成佛できると言う人もいます。常人の心を放棄できなければ、圓満成就することはできません。とは言え、彼も一途に佛に向かっているので、何度でも死後転生して寺に入り、また修めることになります。このようなことです。その人は幽霊にして幽霊ではなく、和尚にして人間ではありません。人類は今大きく乱れています。佛像に佛は宿らず、偽の佛は人の礼拝によって出てきたのです。現在、木に紅い布をかけて拝み、山を拝み、石さえ拝み、佛像を作り開眼されていなくても拝み、それによって偽の佛を招いてしまいました。佛の形をしていますが、偽物です。佛の形をしながら悪事を働きます。この類いのものが多いのです。
 天上では正果を得ることに対して非常に厳しい要求があります。人が想像しているようなことではありません。その実、佛教は近代以降駄目になってしまい、多くの人はどう修行するかも分からず、修煉はとても難しくなりました。佛教の中には経典に対してとても多くの解釈があり、この和尚はこう解釈し、あの和尚はああ解釈するといった具合です。こういった解釈が人を誤った道へ誘い込み、全て佛法を破壊するものです。人が佛経の原典、原意から悟って初めて、少し悟り得るのです。少しでも理を悟れば、それが向上です。さらに読み返したときにまた一つの理が分かり、さらに向上します。異なる次元に異なった認識を持つのです。佛経に定義を下した和尚もいますし、本を書いて佛法を解釈し、定義する人もいます。この文で佛の言わんとすることはこう、あの文はこういう意味・・・こういう意味・・・ああいう意味といった具合です。佛の本来説かれたことは異なる次元に異なる意味があり、こうして如来という境地まで到るのです。しかし、和尚の次元も低く、菩薩、佛の理を悟り得ていないのですから、その人が佛経に下した定義は本当のところ自らの境地での認識であるに過ぎず、深い内涵はありません。人を低い認識へ連れ込み、そこに陥らせてしまいました。本当のところそれは人を邪道に誘い込んだのです。佛の話にこの意味しかないと言うときに、皆その解釈に局限されてしまいました。こういった認識によれば誰であれ修煉しても向上することはできません。
 歴代このような解釈はとても多かったのです。人はよく大蔵経、三蔵を言いますが、経、律、論のうち、経以外の律、論は経と並べて論じることなどできないものです。特に論は、佛法をみだりに論じ、佛法の原義まで失わせました。現代の和尚は口語で佛経を解釈していますが、全く解釈などできません。釈迦牟尼佛の説いた原義は元のままであるべきで、解釈すると必ず違いが出てきます。これが現在の和尚の圓満成就できない原因の一つです。和尚はこの情況に思い至らず、経文の原文を読んでも古代の語法なので意味が分からず、参考書を引っ張りだします。これらの参考書は皆己のわずかばかりの理解に基づいて書かれています。歴代にこの問題は存在していました。古代においても同じです。古代に書かれているからといってそれを盲信してはいけません。いずれも同じようなもので、実際のところ皆佛法を破壊するものです。
 釈迦牟尼佛もその法はある年代以後は駄目になり、末法の時期に至ると法を乱す魔がいると説いていました。これもその原因の一つです。
 インドには佛教はありませんが、それは和尚らがでたらめに、ある者はこう理解し、別の者はこう理解し、勝手に理解したからです。ああだ、こうだと認識していましたが、全て釈迦牟尼佛本来の認識ではなく、原義は失われてしまいました。そのため佛教がインドに存在しなくなりました。
 集まって体験を語ることは何の問題もありません。それはあなたが佛経から会得し、認識したことを語っているのであって、問題はなく何の影響もありません。一番恐ろしいことは自分の言葉で佛経の中の話を定義付けてしまうことです。どの話もある次元でのそれに対する認識だけではありません、ある理をもっともだ、素晴らしいと思っていても、次元が向上すると同じ話の中からさらに高い理を見出すことができます。
 釈迦牟尼佛は四十九年間法を伝えていましたが、最初は如来の境地に達しておらず、説いたことも何年か前に説かれたものでした。しかし、絶えず説法を続けて行く中で、晩年涅槃する前に説いたことは以前説いたことと大いに違っていました。なぜかといえば絶えず認識し、絶えず向上し、釈迦牟尼も絶えず修煉していたからです。実は彼は人に宇宙の理と法を残しませんでした。現代の人はそれを法と読み、経典として読んだのです。釈迦牟尼佛在世の時に経書もなく、後世の人は釈迦牟尼の説いたことを思い出してそれを根拠にしましたが、整理する時に誤りがありました。釈迦牟尼佛の説かれた話の本来の意味は変わった部分もありましたが、その時代の人類に知ることの許されたのはその程度だからです。これは決して偶然ではなく、全て必然なのです。何故ならばそれまで敢えて修煉のことを明らかに書き残した人はいませんでした。全て人に悟らせたのです。人は迷いの中にあって何も知らないので、悟ることはとても難しいのです。
 釈迦牟尼佛在世の時、人に残したのは主に戒律です。最後に釈迦牟尼佛が涅槃の時、弟子は師尊がいなくなったら、私たちは誰を師とするのでしょうか、と釈迦牟尼佛に聞きました。釈迦牟尼佛は戒をもって師とすべきである、と答えました。実際、釈迦は修煉者が圓満成就できる戒を残しました。それは釈迦在世のときに規定したものですが、後の人が釈迦の説いた話をもとに書き出したものを経としました。私は初めて修煉のことを本当に人々に残しました。これは今までになかったことです。わたしは前人がかつておこなったことのないことをし、人に天へ登る「梯子」を残したのです。
 本当のところ宗教には二つの目的があります。一つは素質があって修煉でき向上できる人に得道させること、もう一つは人類社会の道徳をある高い水準に保たせることです。
 これが宗教のするべき二つのことです。本当のところ私の伝えているものは宗教ではありませんが、本当に法を伝え、人を済度することも同じくこの働きがあるのです。つまり本当に人に得道させ、修煉させる一筋の道を与えるのです。さらに法を聞いた人、本を読んだ人がたとえ修煉しなくても一つの理が分かり、意識的に何か良くない事や悪事を働かなくなり、同じく人類の道徳を高い水準に保つという働きがあります。本当に功を伝え、人を教えることは人を済度することではありませんか?
 先史のある時期、人類の文明はある時はかなり長く続き、ある時は短く、ある時期の人類の文明はかなり長く続きました。いずれの時期も人類の科学の発展の道は異なっていました。今人間は現代科学の発展の枠の中にあって、それ以外の科学の発展の道を認識できません。実は中国古代の科学と現在欧米から伝来した科学も別物です。中国古代のものは人体や生命、宇宙を直接に研究するものでした。触ることもできず、見ることもできないものに古人は敢えてそれに触れ、その存在を証明しました。人が煉功して座禅しているときの感覚は一層強烈な感覚へと昇華し、最後には強烈な感覚だけではなく触ったり、見たりすることができるところまで到るのです。すなわち無形のものを有形にまで昇華させました。古代の人は異なった道を歩み、生命の謎、人体と宇宙の関係を探索し、現代の実証科学とは全く異なる道を歩みました。
 実は月は先史時代の人が造ったものであり、中は空なのです。先史人類はとても発達していました。今人々はピラミッドはエジプト人の造ったものであると言い、どこから石を運んできたのかを研究していますが、決してそのようなことではありません。実はそれは先史文化の一種であり、海底に沈んでいきました。後に地球が変化し、大陸プレートが何度も入れ換わり、再度浮上しました。その後その地域に新たな住民が現れ、ピラミッドが物を長期に保存できる効果に気づいたのです。そこで人の死体をそこへ運び入れました。ピラミッドはエジプト人が造ったものではなく、彼らはそれを発見し利用したのです。後になってエジプト人も真似して小型のピラミッドを造ったので科学者を迷わせたのです。
 現代の人類は現代の認識の上で物事を考えることしかできません。特に多くの科学者が下した定義は人を完全に縛ったのです。ダーウィンは人が猿から進化したと唱えましたが、人は皆人間が猿から進化したと信じています。結局その理論に基づいてあれこれ推理しました。現代科学が発見したものはわれわれ現代人類の文明の歴史をはるかに超えていますが、それを認めようとせず、不可思議であると思って、でたらめに推理し、でたらめを言っています。将来は人体の科学が出現するのです。将来の物理や科学、その他の学科は別の角度から発展し、完全に現在の欧米流の角度からとは限りません。現代の実証科学が下した定義の枠は狭く、見たり触れたりできるものは認めますが、見ることも触れることもできないものは全て認めません。その科学の定義は全く非科学的であり完全に人を制限してしまいました。科学的方法で発見された、見ることも触れることもできないものは科学ではないのですか? それも科学ではないでしょうか?
 物質に対する認識も現在の科学者が認識したようなものではありません。彼らは中性子、原子を研究し、そういったものは危険物で、鉛の箱に入れておかないと放射すると認識しました。これは現在自ら測定できる範囲の理論で認識したのですが、そこまでしか理解することができません。実は全ての物体には生命があります。釈迦牟尼佛もこの話をしたことがあります。どの空間の物体も物質的な存在であり、物体には全て生命が存在しています。中性子、原子、ガンマ線、さらにはよりミクロ的な物質は人為的に制御することも可能ですが、その次元に到達しなければなりません。私たちが修める功はとても強い放射性を伴っており、修煉者はそれを制御することができます。現代科学は宇宙の形成についてああだこうだと言っており、この物質、あの物質を論じていますが、より高い認識から言えば宇宙は時間と空間から構成されており、根本的にはエネルギーで構成されています。ミクロ的な物質であればあるほど放射性が強くなります。これが根本中の根本なのです。現代の科学者はこの認識に至っていないので、これを敢えて認めようとしません。
 物質は極めてミクロなところまで存在しており、本当のところ、極めてミクロの状態では物質は生命力のない本源物質です。この本源物質は常人の考えで想像できるようなものではありません。この本源物質は非常に怖いもので、如何なる物体であっても中に入れば砕け散って解体してしまいます。この本源物質は、より正確に言えばまだ物質とは言えません。宇宙には真・善・忍という特性があります。なぜ物体の微粒子に全て真・善・忍があるというのでしょうか? 実は真・善・忍が最も本源的な物質―最も本源的なものはまだ物質とは言えませんが、最も本源的なものを原始的な最も微小な原始物質に形成させることができます。形成された後、それが結合していろいろな極めてミクロな粒子物質となり、その種の微粒子物質を分化させ結合させ、各次元の土や石、金属元素、光及び時間―つまり宇宙のさまざまな基礎的な物質になります。その後、更に生成し分化し、より大きな物質を生み出し、そして万物が生じました。万事万物は宇宙特性から生じたので、当然宇宙の法の制約が伴っています。そこで、いかなる物質も佛性―真・善・忍を持ち、それが宇宙を構成するものなのです。それが佛法であり、「道」とも言います。
 いかなる物体も生命であり、全て佛性を持っています。ただいずれの物体にも疲労が生じます。真・善・忍という特性以外、派生した物質が疲労したとき、物体の風化、腐乱、つまり物体の解体という非常に危険な問題に直面するのです。物体の解体を広義に言えば、低い次元の宇宙の腐敗堕落であり、法が利かなくなったということです。心に法が利かなくなったら、人間は悪くなり、道徳の縛りも失われてしまいます。人類の道徳をある正常な状態に維持できれば、法の持続と安定を保つことができます。人の心が悪くならない限り、このようなことができるのです。その一方、人には六道輪廻があるので、植物、動物、物質、セメント、砂・・・・・・どんなものに転生しても、業力を持ちながら転生するのです。このようであれば、もしも人類が駄目になれば人類社会が腐敗堕落するだけでなく、物質も駄目になってしまうのです。末劫時期のこの地球、宇宙のある空間、花樹草木は全て業力を持っています。六道輪廻というのは人が今生は人間に転生し、次は動物になるということです。六道輪廻は本当のところ六道で輪廻するだけではありません。それは釈迦牟尼佛の説いたことです。転生して人になるかもしれないし、天人になるかもしれず、修羅道の鬼や、動物、畜生、物質などといったものにもなりえるのです。
 人類の科学を高いレベルに到達させようとするなら、まず人の道徳基準を向上させなければなりません。さもなければ、宇宙大戦が始まってしまいます。人類が技術で人間を佛の次元に到達させることは絶対にありえません。何故でしょうか? 佛と天人が把握しているのは人類の技術より遥かにレベルの高いものだからです。つまり人がその水準に到達しようと思うなら、人類の科学技術では駄目です。科学技術がそこまで到達したら、まさに天災を招いてしまいます。なぜかと言えば人間は技術でそれほど高い境地まで到達し、それほど大きな神通力を持つようになれば、人は闘争心、貪欲、色欲、各種の欲望、嫉妬心、各種の執着心、名、利などあらゆるものを天上に持っていき、天上が大乱になってしまいます。ですからこれは絶対に許されないことです。
 人が高い境地に行こうとするなら、その方法は修煉にほかなりません。苦しく修煉している中で各種の執着心や欲望を取り除き、宇宙の特性である真・善・忍と同化して初めて、高い次元に到達することができます。科学とは何でしょうか? 佛や神が持っているのは最高の科学です。佛や神は最も正しく物質を認識し、ミクロの下で物質のミクロの状態まで見え、宇宙の更なる大きな物質を見ることもできます。現在人々は物質、分子より小さいものが原子であり、それより大きい物質は星を最大なものとして認識しています。しかし星は決して最大の物質ではなく、さらに大きなものがあります。佛は既にかなり大きなものまで見えており、かなりミクロなところまで見ています。しかしこの程度まで到っても、佛、如来は本源まで見ることはできず、如来は宇宙の果てまで見ることもできません。
 天上の人は修煉することが難しく、ほぼできないと言っていますが、なぜでしょうか? 佛には苦を嘗めるということがありません。天上の佛には苦がなく全て楽しいこと、幸せなことばかりで、欲しいものは何でもあり、自由自在です。その神通力も見事であり、苦しみもなく、どうやって修煉するのでしょうか? 向上は非常に難しいのです。人間の修煉は相対的に言えばやさしいのです。ただしその境地まで達することができなければそこへ行くことはできません。ごみの詰まった瓶が水に浮かんでこないという道理のように、浄化しない限り上ってこられません。
 佛の大智慧はその境地の中での大智慧です。如来を二倍超えている佛の理に対する認識は如来の宇宙の理に対する認識より遥かに高いのです。彼の説く三千大千世界は全ての砂にあるということではありません。大覚者はある種の砂にあり、ある種の石にあると気付きました。ある種の石、例えば花崗岩にはありません。ある種の石に一つ極めて広大な世界が見え、皆人間の姿かたちをしています。動かしても振動を感じることもありません。そのように存在しているからです。その空間に水を入れても中に入りません。
 それは一つの広大な世界であり、人類の認識した物体の大きさという概念は間違っています。常人の言う大きさという概念は存在していません。物体はこのように見えていますが、それは常人の中での現れであるに過ぎません。一枚の紙、一枚の画、薄い紙の上に法身があります。常人はこれを不可思議に思いますが、それはただの常人です。
 本当のところ、地球上の我々のこの物質空間において人間も唯一の人類ではありません。海中にも人がいます。昔それを話した人がいましたが、常人社会はそれを受け入れることができず、迷信を散布していると言っていました。実はそれは真実なのです。大陸プレートが変動する時、多くの海底が上がってくるのです。海底に人がいます。何種類もいます。我々と同じような形をしているものもあり、我々とちょっと違うものもあります。腮のあるものもおり、上半身が人で下半身が魚、下半身が人で上半身が魚のものもあります。


佛教の中の教訓


 現在本をたくさん書いた和尚がいます。何を書いたのでしょうか? 字も行間も真っ黒で全て黒い気です。本人には見えませんが、中のものは既にめちゃくちゃになっています。これらの現象は末法時期に既に非常に深刻化しました。
 釈迦牟尼佛の法はインドで誕生しましたが、どうしてインドから消えたのでしょうか? 釈迦牟尼佛が在世中に伝えたことは、皆釈迦牟尼佛の要求どおりに行われていました。釈迦牟尼佛の説法に分からないところがあれば、直接釈迦牟尼佛に聞けばいいからです。過ちを起こしたら、釈迦牟尼佛はそれを正してくれます。釈迦牟尼佛がいなくなってから、多くの僧侶は自らの釈迦牟尼佛の説いたことに対する認識に基づいて勝手に解釈しました。もし釈迦牟尼佛が屋根の高さまで修煉したとすれば、普通の僧侶は一尺しか修煉できませんでした。彼には法の異なる次元ないし如来の果位における法の本当の内涵が分かるのでしょうか? 釈迦牟尼佛の説いたことはすべての次元でその次元の修煉方法を含んでいます。ですから、修煉の人は異なる次元に対する理解に基づいて向上できるのです。異なる次元まで修煉していれば、指導してくれる法があります。ですから、佛法の同じ言葉に対して新しい次元に到達すれば新しい認識があります。佛経の原文を繰り返して読む度に新しい認識があります。更に向上して、再び佛経を読んだら、また新しいことを会得するのです。このように絶えず認識しながら、絶えず認識を変え、高めていくことによって、修煉の次元が高まっていくのです。
 では、一部の僧侶は一旦常人の言葉、自らの見解で佛経を解釈したり、本を書いたりすると、ただちに人々を彼の枠に連れ込んでしまうことになります。彼は佛経の意味合いを定義したのです。釈迦牟尼佛の説いたそれほど高い次元の話、それほど深い奥義は、彼は悟らなかったのです。次元が低いからです。しかし、佛を修めている人が彼の言った話を信じてしまえば、彼は人々を彼の思想の枠に連れ込み、制限してしまうことになります。このように、彼は人々に佛を学ばせているようで、良いことのように見えますが、彼は佛法を破壊しているのではないでしょうか? 佛法を破壊するには異なる形がありえます。破壊している人は佛法を称えているようですが、実は法を妨害しています。このようなやり方は最も紛らわしく、見抜きにくく、最もひどいやり方です。これが釈迦牟尼佛の法がインドで失われた原因です。
 多くの人は釈迦牟尼佛の話を解釈し、釈迦牟尼佛がこの意味、あの意味を説いているのだと言っています。それはその人が自分の次元で悟ったことがそのようなことだからです。天目の開いた人は異なる次元で幾らかの真相が見えましたが、釈迦牟尼佛が如来の次元で見たほど奥深くなく、次元の突破もさほど高くありません。また、低い次元で天目の開いた人は見えた空間が少なく、見えた宇宙空間も低かったのです。異なる次元に異なる理が存在していますから、彼がそうだと言っても、実はそうではありません。佛法をみだりに解釈する人は人々を自分の認識の枠に連れ込んでしまいました。この有様では、彼は佛法を妨害しているのでしょうか、それとも守っているのでしょうか? ですから、誰であれ経典の一文字であっても変えてはいけません。経典の原義に基づいて悟り、修めなさい! 誰でも佛経のあらゆる文字を勝手に解釈してはいけません。異なる次元にあって自ら個人の認識を語るのは構いません。互いに体験を語っても結構です。「私は悟った。今私はこの意味を悟った。私がやったこのことは良くないと悟らせてくれたから、改善すべきだ。或いはこの話は私に言い当たった。私のよくないところに触れているから、本当に良かった」という具合です。向上して振り返ったら、同じ話に対して新たな認識ができたと気付くのです。これが向上です。このように悟り、このように理解すべきです。
 現在、一部の和尚や居士は多くのものを書き、自分の書いたものを経にしています。佛が説いた法だけが本当の経です。それらのもの、彼らが書いたものはどうして経と呼べるのですか! 彼らはそれも経と見なしています。甚だしい場合、多くの居士や和尚は名利を求め、見栄えを好んでいるため、誉められたら自惚れてしまいます。修煉者としては着実に修煉しなければなりません。真の修煉は即ち人の執着心を取り除くことです。常人の中で求めている名誉、利益、闘争心、顕示心、嫉妬心等など、各種の常人の欲望、各種の執着心は全て取り除かなければなりません。人の前で抜きん出て、世俗の中で自分の栄光ぶりを顕示する人がいますが、このような人にどれぐらいの執着心が現れてくるのでしょう。真に修めている人はこのような人を見るだけで、我慢できなくなります。更に金銭に対する強い欲望を持って佛を修めている人もいます。口には出さなくても、その念が生じれば、高い次元まで修煉した人、或いは佛には分かるのです。
 ここで言っているのは主に専業修煉者のことですが、実は佛学を重んじる人も含まれています。この人達は本当に佛に従っているのでしょうか? 修煉者は何を修煉するのですか? つまり人の執着心を取り除くことです。常人の欲望を非常に軽く見るのです。どうして多くの得道した人は深山に入り、末法時期の寺院にいたくないのでしょうか? 深山や森に入ったのは寺院にいる多くの人が真に着実に修めていないことに気付いたからです。多くの和尚には取り除きたくない執着心があり、腹を探り合ったりしており、真に修煉する浄土ではないので、敬遠したのです。
 もちろん、一部の邪教や魔教は公に破壊行為をしています。このようなものは人々が区別でき、見ればすぐ邪なものだと分かります。しかし、佛教の看板を掲げながら破壊するのは最もひどいやり方です。どうして釈迦牟尼は彼の法が末法時期に人を済度できないと言ったのでしょうか? 現在が末法時期ですので、和尚は自分自身さえ済度し難くなり、人を済度するなどなおさらです。私が末法時期の現象を話して、それを聞いて一部の人はすぐ分かりました。現在の社会の発展はとても恐ろしいものです。あらゆる偽物、邪なもの、悪いもの、めちゃくちゃなものが現れてきました。
 ここで説いた道理は誰それに対して言っているのではありません。多くの和尚は本を書き、表面上は佛法を宣伝しているように見えますが、根っこは名利のためです。「あの人はどうですか」と尋ねてくる人もいますが、その人は名高いだけで、勝手に佛経を解釈し、自己を宣伝し、実はとっくに地獄に落ちました。
 経、律、論がありますが、「経」以外は全て佛法の原義を破壊するものです。現在「三蔵」を言う人がいますが、本当は三蔵ではなく、佛経だけです。経こそが経です。他のいかなるものも経とは比べ物になりません。


人類の堕落と覚者の出現


 人類の堕落はイエスが語ったアダムとイブの時期に始まったわけではありません。この地球での文明と原始時期は一回だけではなく、先史文明は壊滅したのです。ある時には地球が徹底的に破壊され、取り替えられて全く新しい地球となりました。人類は災難について語っているのではありませんか? 実は、それは宗教が言っていることです。いつもある時期に大規模な災難が起こり、ある時期には小規模な災難が起こります。小規模な災難では一部の人類が滅亡し、一部の地区が腐敗堕落して壊滅されます。地震、大陸プレートの沈下、砂嵐に埋められ、あるいは伝染病、戦争など小さな劫難は局部的です。大きな災難はほぼ全人類に及ぶ災難です。そのような大きな災難はその都度久しい年代を経て現れます。
 この地球の動きと物質の動きは同じであり、いずれも法則があります。その動きの過程に現れた大規模な災難が即ち人類が完全に壊滅する状態にあります。
 しかし少数の人々が生き延びて先史文化の一部を継承します。それは石器時代のような生活を過ごすのです。なぜかと言うと道具は全て破壊され、次の世代では更に悪くなり、多くのことは忘れ去られてしまうからです。そして原始状態から発展し、文明と高度な科学技術が出現します。
 人類の堕落に従って、また災難が現れます。このようにして一つの成、住、壊の異なった時期が周期的に経過していきます。
 即ち、人類はいずれにせよ堕落するものですが、いずれかの文明が出現した時、いつも天神が大覚者を常人社会に遣わして人を済度させます。その目的は地球上の人間の思想の堕落と物質の腐敗のバランスが崩れないようにするためです。この宇宙の中で構成される地球の一切の物質には一種の特性が存在します。この特性があって始めて原始的な無形のものが組織され、有形の物質、生命のある物質になることができます。しかし物質が腐敗堕落する前に人類の思想が腐敗堕落すればそれは許されないことです。そこで人類に文明が出現する度に、人類に文化が出現する時期になると大覚者が現れます。異なる先史時期に大覚者が現れました。今回の文明にあってはイエス、釈迦牟尼、老子が人々に語りかけています。それぞれ異なった時期に出現した文明地域で異なった覚者が人々に如何にして返本帰真するかを教え、得道できる人を圓満成就させ、常人に徳を重んじさせ、人類の道徳がある程度安定した状態にあるようにし、人の考えが簡単には腐敗堕落しないようにします。最後に宇宙の物質が全て腐敗堕落してしまえば、覚者は見放します。ただしこれはかなり長い過程です。
 その時期、それらの覚者のすることは人類を腐敗堕落させないようにすることです。そして修煉によって向上できる人を確実に修煉によって得道させます。人間はダーウィンが説くように猿から進化して来たのではありません。それは人類が自らを卑下するものです。人は全て宇宙のそれぞれの空間から落ちてきたのです。その人がその宇宙の次元の法の要求に適わなくなった時、落ちるしかありません。私たちが説いているように常人の心が多くなればなるほど下へ下へと落ちていきます。そしてついに常人というこの状態まで来てしまったのです。高級生命から見れば、人の生命が地球上にあるのは人間としておくためではなく、地球上にあってこの迷いに満ちた環境から早く悟りによって元へ戻るためなのです。これが高級生命の考え方であり、あなた方に一つの門を開いてあげたのです。元へ戻れなければ、業が大きくなって消滅させられるまで輪廻を続けることになります。そこで地球には何回も災難があるのです。
 反対の角度から言えば地球は宇宙の一つのごみ収集所なのです。数限りない膨大な宇宙に無数の銀河系があり、無数の星があり、各星に全て生命があります。人はその他の空間の存在を認めていないためにそこの生命の存在が見えません。それは同一の星の別の空間にあって、我々のいるこの空間ではないので常人には見えないのです。それはちょうど人類がこの空間での火星を熱いと言っていますが、その空間を超えるとそこはかえって涼しいのです。いろいろな超能力を使って太陽を見ると、見れば見るほど熱くなくなり、さらに見ると黒く、さらに見て行くと清涼な世界です。この物質空間における現れ方はこのようですが、別の物質空間の現れ方は別の有様です。それ故、いたるところに生命が存在し、人が存在します。その次元の基準に合わなければ、一つ下へ落ちます。ちょうど学校で落第するようなもので、落ちた果てとして常人の中にまで落ちてきたのです。宇宙の中での良くない人は下へ落ち、宇宙の中心、地球へ落ちて来たのです。
 人は常人社会にあって輪廻し、輪廻によって必ずしも人間になるとは限りません。さまざまな物質、さまざまな植物、さまざまな動物、果ては微生物として転生することもあります。そこでその輪廻の中にあって自ら成したよからぬこと、つまり業力を持っています。生命が持っていけるものは徳と業力であり、永遠に身辺にあります。業力が多ければ木に生まれ変わり、その木にも業力があります。動物に転生すればその動物にも業力があります。地球上のレンガ、土、石、動植物全てに業力があります。現在の服用薬や注射薬が末劫の時期の人に以前のように効き目がないのはなぜでしょうか? 業を造ることの多い現代人は強大な業力があり、いままでの薬では効かず全くその病を治すことができません。更に強い薬を使うと、人は中毒になってしまいます。現在多くの病は全く治せません。地球全体がその有様であり、本当のところ全てがひどく腐敗堕落したのです。
 イエスは人に代わって罪を負い、釈迦牟尼佛は四十九年にわたって人を済度し大いに辛苦を重ねました。彼らは衆生を普く済度するということを説いていたのではないでしょうか? とすればなぜ全ての人を天国に連れて行かなかったのでしょうか? 人間がその次元の基準に合わなかったので、上へ連れて行くことができなかったからです。その次元にはその次元の基準があります。もしあなたが大学生のレベルになっていなければ大学に入れるのでしょうか? 捨てられないものがたくさんあって、体が重いため上へ行けないのです。あなたの道徳の基準がどこかにあれば、その位置にいることになります。唯一の方法は進学の時と同様、上がれる人は上がりますが、その他の人は腐敗堕落が進めば進むほど、滅亡されなければいけなくなります。ごみが腐臭を発しているのですから、宇宙を汚染させるわけにはいかないので、消滅させるしかありません。
 衆生を普く済度することは佛の説いたことであり、それは如来という次元の中では衆生を普く済度することを説くのであって、如来の次元をはるかに超えた大いなる佛は常人のことには関わらないのです。もし一言でも発すると常人の中に変化が起こってしまうので関ることができず、それほど力量は大きいのです。大きいと言えば地球に佛の足の指先も置けず、更に大きいといえば地球は佛のうぶ毛さえ置けません。佛の説く話は法なのです。何かを言えば直ちに変化します。ですから地球のことに全く関わりません。ただ如来、菩薩が衆生を普く済度することを説いています。
 如来佛は人を常人と見なしていますが、更に非常に高い次元に到達した神が振り返って見れば如来も常人に過ぎません。そういった高みにある神にとって人間は微生物にも及びません。一目見て、こんなにも腐敗堕落したところは叩き壊してしまえ! 壊滅してしまえ! 地球はこのようなところです。人を憐れむようにと説いているのは人間という次元に最も近い佛です。イエスも老子も如来の次元にあります。それよりさらに高いところにあれば、人間のことなど構いません。人が呼んでもそこには聞こえません。人がその名を呼べば彼を罵ることになってしまい、糞だめの中から声をかけているようなものです。


学者と修煉は別のことである


 イエスも如来の次元です。昔如来は佛の中で最も次元が低かったのです。昔如来以下は佛とは言わず、菩薩、羅漢と呼んでいました。全ての如来は自分の天国を持っています。我々の銀河系に百あまりの如来がいます。つまり百あまりの佛の天国世界があるということです。全ての世界にそれを管理する如来がいます。それぞれの天国世界の如来は自らの修煉方法、自らの人を済度する方法を持っています。自分の世界の形成はその修煉と直接的な関係があります。自分の世界の中身も修煉によって得たものです。しかし、この世界は近代の人が修煉して形成できるものではありません。計り知れない億年前に既に形成されたのです。
 ここに一つの問題があります。常人は修煉の方法を多く身に付け、ほかの宗教のことを多く知ることによって、知識を豊かにすることができると思っています。人々はそれを常人の中の智慧と知識と見なしています。実は、それは常人の中の知識ではなく、常人の観念で理解してはいけません。どうして修煉は必ず心性の修煉を重んじ、道家は徳を重んじなければならないのでしょうか? つまり、この宇宙に一つの法、一つの特性が存在しているからです。この宇宙の特性は異なる次元の異なる生命に対して異なる要求があります。人は常人という次元にいれば、常人の道徳規準に符合しなければなりません。どうして徳を重んじないと向上できないのでしょうか? つまり常人を超えた次元に天人の基準があるからです。もしその次元の基準に符合できなければ、その次元に行くことができません。どうして天にいる神は落ちてくることがあり得るのでしょうか? どうして羅漢でさえもよく修めていなければ落ちてくるのでしょうか? その次元の基準に合わなくなったからです。
 この銀河系に百あまりの天国があり、全ての天国にそれを管理している如来がいます。その天国の特性は即ちその修煉方法によって構成されたのです。我々は宗教にしてもほかの修煉方法にしても、表面上の動作は非常に簡単で、座禅して結印して終わるぐらいであることに気付きました。道家が多くてもただ幾つかの簡単な動作だけです。どうして高次元の佛、菩薩、羅漢の境地に到達することができるのでしょうか? つまり、本当の功の演化は極めて複雑だからです。人の細胞まで演化し、多くの神通、更に人の知らない多くのもの、異なる次元に見合うものなど全てを演化しなければなりません。例をあげて説明すれば、それは常人社会の最も精密な機器より複雑で、人の力ではとても及ぶことのできるものではありません。ですから、修煉界では「修は己にありて、功は師にあり」という言葉があります。言い換えれば、真の修煉方法は、道家では修煉方法について言及しましたが、それはただの表面の道理と願望で、概念上のものに過ぎません。本当の高エネルギー物質の功を修煉することによって得るためには、己の願望がなければならず、このようになりたいと思わなければなりません。しかし、本当は他の空間での演化は極めて複雑で、人間にはできないことで、全て師父がやってくれるのです。
 ここでもう一つの問題があります。もし他の法門のものが入り混じったら、問題が起こります。昔和尚は他の法門に触れることを許されなかったのです。寺院では代々、和尚が他の法門の本を読むことを禁止していました。現在の和尚はめちゃくちゃになりました。昔俗世間のものは絶対あってはならず、他の法門の本を読んではいけなかったのですが、つまり単一の修煉方法を確保し、この法門で修煉させるためでした。考え、意念も全部この法門のものであって初めて、着実に向上し修煉し、一本の道に沿って進むことができるからです。そうでなければ、他の法門のものが入り混じってしまえば、テレビにカメラの部品を加えるとすぐ壊れてしまうような意味です。混ぜて修めると功が乱れ、向上できなくなります。真偽の区別もつけにくいため、もし邪なもの、偽物を入れてしまえば、全ての修煉は台無しになってしまうかもしれません。師父にも為す術がありません。それはあなたの心性に問題があるからです。
 功の演化は非常に複雑ですが、人々はそれを常人の理論として見ています。キリスト教も少し学び、佛教も少し身に付け、道教も儒教も少し勉強し、多くの教えを取り入れるなどと言っていますが、実はでたらめなものです。これが末法時期に現れてきた最大の問題です。人には佛性があり、皆修煉しようとし、善に向かいたいのですが、人々はそれを常人の理論としています。常人の技能なら多く学べば学ぶほどいいかもしれません。しかし、それは既に乱れに乱れ、全く修煉できなくなり、功も全く無くなりました。


佛 性


 ある種の観念が形成されると、人の一生を支配し、その人の考え、ないしその人の喜怒哀楽を左右します。これは後天的に形成されたものです。時間が経つにつれ、この観念は人の思想に溶け込み、本当の自分の脳に溶け込み、人間の性格を形成してしまいます。
 形成された観念は人間の一生を阻害し制御します。人間の観念は往々にして利己的であるか、または更に良くないものなので、また思想業力も形成され、人間はこうして業力に制御されてしまいます。人間は主元神に支配されているため、主元神が麻痺して観念に取って代わられたら、その人は無条件に降参してしまったことになり、生命はこれらのものに左右されてしまいます。
 あなたの本当の自分は先天の自分であり、それは変らないものです。しかし人間が物事を認識する時、よくある種の観念を形成してしまいます。ところが、このような観念は本当の自分ではないのです。何の観念も形成しなければ、物事を判断する時に己の善良な本性、本当の自分からの見解を持つようになり、慈悲を持って物事を見るのです。本当の自分が現れれば現れるほど、あなたの思想はますますレベルが高まり、真に近づいており、あなたの先天的な善良な本性の境地を反映するのです。人体を構成した物質は極めてミクロ的な状態で、極めてミクロ的な状態にある微粒子の中ですでに人間の本性を構成しています。このものは不変です。思想の枠を取り外せば、人間の善良な性格、人柄、特性、特徴などが現れやすくなり、それこそ本当の自分です。
 主元神はその人に形成された観念によって変ることはありません。主元神がその人に形成された観念によって主元神の本質を変化させることはありません。主元神は人の各種の観念、業力によって人の本性を覆い隠し、完全に取り囲み、少しも現れないようにすることができますが、それ自体は変ることがありません。なぜなら、業力はそれほどミクロ的な物質を持っていないからです。業力は常人の中で造られ、常人の中のもので、それほどミクロにならないのです。しかし人間の生命を造るとき、それはとてもミクロ的な物質でした。ですから、入り込むことはできず、ただ人間の本性が埋没されるのです。本性は物事に対して自分なりの見方を持っています。もし本当に後天的に形成された観念を破り、人間の本性からの見方が戻ってくれば、それがあなたが来たところです。初期に形成された観念は初期にあなたを造成したところの観念です。しかし後天の意識や観念を破ることは非常に難しいのです。なぜなら、これが修煉だからです。
 法は異なる次元において異なる現れがあります。この次元においてこの次元の現れがあります。この次元で形成した生命であれば、この次元における法の観念と同じです。あなたの本当の本性が戻ったら、あなたの認識の基準はそこにあり、その基準が本当の自分です。
 業力は真善忍の基準を持っていません。業力が形成されたときの基準で物事を量る時、常人が言うずる賢い人になり、或いは世知に長けている人になりかねません。これは即ち人が修煉している時に様々な思想業力が生じ、作用して修煉を阻害していることです。人にもし業力の阻害がなければ、修煉はあまりに容易いものになります。その業力は何年前のどのような状態の下、どのような道徳の規準に基づいて形成されたのかによって、その基準で物事を量るのです。もしこのようなものが多く形成されたら、人の一生はこれらのものに左右されるのです。形成された観念が判断した良し悪しの通りに認識してしまいます。こうすべきだと思ってしまいますが、本当の自分はなくなりました。本当の自分は形成された善良ではない後天的な観念に取り囲まれ、覆われています。自分の本当の良し悪しを量る基準がなくなるのです。
 観念は大脳にある思想に形成されたのですが、観念によって生じた思想業力は人の頭の上に業力の塊を形成するのです。善念とはなんでしょうか。釈教は念が生じれば、それが業になると説きました。本当のところ、更に高い判断基準、真善忍という更に高い要求から見れば、いわゆる善念に対する解釈も変わります。
 この世に生きている常人は皆本当の自分を失ってしまったのです。この観念は人の一生を左右するだけではなく、その後も続きます。変化が現れる時、やっと取り除くことができます。さもなければ、引き続き人を左右していきます。この観念が強ければ強いほど、本当の自分がなくなるのです。現在業力に業力が積み重なっていると言っていますが、既にこの程度まで重なってしまいました。常人たちは毎日自分が何をやっているかさえも分からず、どうして生きているのかも分かっていません。
 異なる人に異なる根基、異なる悟性があるというのはこのことを言っています。これを悟れる人はその人の佛性が戻って現れることができ、まだ望みがありますが、悟らない人はつまり後天の意識や観念に深く埋まり、何の望みもないのです。


道を修めずとも既に道にいる


 修煉が修煉だと言えるのは修煉方法があり、歩む道があるからです。昔「道を修めずとも既に道にいる」という言葉がありました。小道は無と空を唱え、人間がこの世に生きていても、全て縁に従うべきだと主張しています。世間とは争わず、得るべきものなら頂戴しますが、得るべきではないものは求めません。小道は一般形式の修煉を採らず、修煉さえも分かりませんが、見守ってくれる師父がいます。他人との間にトラブルが起こることもめったにありません。これがつまり昔の人が言っている「道を修めずとも既に道にいる」ということです。普通の人の中に何も求めないことができる人もいますが、このような人は結局果位を得ることができません。彼は功を得ることができず、無限に徳を積むだけで、たくさんの徳を積みました。しかし、多くの人は彼を傷つけることがあります。好い人として振舞うことは非常に難しいことです。好い人であればあるほど、徳を多く積みます。もし煉功したければ、もちろん多くの功に転化しますが、煉功したくなければ、来世に福報を受け、高官になり、大金持ちになります。もちろん、このような「道を修めずとも既に道にいる」人の大多数は普通の人ではなく、彼を見守っている人がいます。道を修めてはいませんが、彼の考え、境地は道に合っています。そうしたら、将来元の所に戻るのです。道を修めていなくても既に修めているということになります。つまり本人には分かりませんが、彼に功を演化してあげる人がいます。一生多くの災難に会い、苦を嘗め、業を返していますが、心性は一生の中に、知らないうちに向上し、いつもこのような状態にいます。このような人は全て普通の人ではありません。常人ならやはり難しいのです。
 孔子は人に人を為すための方法を残しました。つまり中庸思想です。老子が説いたのは修煉の方法です。実際のところ中国人は儒家の思想と道家の思想を一緒にしてしまいました。佛家の思想は宋の時代以降も入れられ続けました。ですからその後佛家の思想は影も形もなくなってしまったのです。宋の時代以降になると、佛教の中に儒教のものも入れられました。親孝行など、このようなものが多かったのです。佛家にはこのようなものはありません。佛家は世間のものを軽く見ており、人がこの世に生きている以上、世々生々に数え切れないほどの親がいると思っています。これらの執着心を全て取り除き、清らかに修煉することによって初めて修煉を成就させることができます。それらは全て執着心であり、儒家思想を取り入れた後、家族の情に対する執着という問題が出てきました。


泥で人を造った物語


 人間は最低の次元にあります。その上に一層一層の天があります。如来は如来の次元にあって、イエスも如来という次元にあり、老子もまた如来の次元にあります。彼らがその次元にあって見たものは彼らの次元より下のものであり、自分の次元より上のものはわずかしか見ることができず、更に上のものは見ることができません。何故ならばその人の次元が本人の持てる智慧を決めるからです。
 そこで泥で人を造ったという彼が知っている話は彼が認識している天主が説いてくれた話で、つまり神が泥で人間を造ったということです。彼の言う泥と言うのは我々常人の言う泥でしょうか? いいえ、違います。我々常人の泥ではありません。土を含む高い次元の空間の物質は更にミクロの高エネルギー物質です。彼の言うその人間というのはいつ造られた人間を指しているのでしょうか? それはその時期の地球が文明に入る前にできたのか、それとも他のいつなのでしょうか? 本当のところ、それははるか昔から伝説の中で伝えられていることで、彼はそれを明かしたのです――神は泥で人間を造ったのです。
 本当はそれは我々のこの空間の泥ではありません。別の空間の泥は霊的なもので、しかも別の空間のものを構成しているものをこの空間に持ってくれば、功のようなものになります。彼は人間が向こうの空間で造られたと言っています。天人は我々のこの空間にいる人より皮膚がきめ細やかです。なぜかというと天人はこの次元での物質細胞を持っておらず、更にきめ細かい物質から構成されているからです。この常人の空間に推し込まれると、見かけは人間と同じようです。ただしとても美しく、しかも非常にきめ細やかです。そこで人間に更に大きな身体の細胞物質を加えなければいけないので、人間はつまり現在のこういった様子になったのです。
 天上の人には身体があり、彼が飛んできたときは我々と同じようです。中国の大きな山の底には天人の死体が埋められています。死んで山の下に埋められました。見かけは我々人間とあまり違いはありません。それは経書の中で書かれているようなものではありません。なぜかというとイエス在世の時に経書を残さなかったのですが、後世の信徒達は当時の情況に基づいて書いたのです。釈迦牟尼佛も経書を残していません。信徒によって書かれたのです。ですから、信徒はこれらの話を聞いて、その原義やどのような人を指しているのか、どの歴史時代のことなのかなどについて全く理解できなかったのです。
 泥で人を造ったと聞いて、常人は我々のこの身体は泥ではないと思ってしまいます。非常に高い次元の泥は我々のこの肉身に比べてはるかにましなものであり、次元が高くなればなるほど良くなるのです。
 あるはるか遠い時代、まだ低い次元の人間がいなかったころ、上のほうで造られた人間は別の空間にいました。私がその空間に向かって何かの形を成すように一言言えばただちに形成されるのです。更にどんなものでも思うままに作ることができ、空中に描けば直ちに形成されるのですが、ただしそれは別の空間にあります。つまり、以前説かれた世界を造るとか、一層の天を、佛経の中で説く宇宙を造るなど、それが佛力の現れです。つまり好い業、善業、悪業をみな業と呼んでいます。それは佛の造ったものです。
 非常に能力の高い佛は一瞬にして本当に一層の天を造ってしまい、しかもその次元が高ければ高いほど美しさも増します。手を動かすこともなく、口を開いて一言言えばただちに完成します。更に次元が高くなれば一つの念を動かし、思いをめぐらせればもうできてしまいます。ですから如来以上の高みにある佛は常人の中のことに関わってはいけないのです。なぜならば念を動かしただけでただちに地上に変化が起こってしまうからです。如来佛も直接手を下すことはなく指導するだけで、菩薩にさせているのです。


現代科学の限界と佛法の博大な奥深さ


 佛法、釈迦牟尼佛が伝えた法から、人類は既に佛法が相当大きなものだと感じました。しかし、法はとてもとても大きいものです。釈迦牟尼佛が彼の次元で説いたものは如来の法ですが、常人から見ると既にとても次元が高かったのです。昔如来だけが佛と呼ばれていました。菩薩、羅漢は皆佛ではなく、佛の境地に達していません。ですから、その時、佛と言えば如来のことを指していました。しかし如来は宇宙の最も次元の高い佛ではなく、最も次元の低い佛です。最も次元の低い佛だけが常人のことを構うことができ、次元の高すぎる佛にはできないことです。彼が一言言うだけで、地上に大きな変化が起こります。それなら大変なことではないでしょうか? 彼は全く関与しないのです。ですから、如来は常人を見守っています。如来も自ら手を下しているのではなく、菩薩が人を済度することをしています。したがって、如来の次元まで到達したら大したものです。
 ミクロでは、彼には一粒の砂に三千大千世界があると見えました。釈迦牟尼佛は三千大千世界について語ったことがあります。銀河系に三千の我々人類のようなこの星と我々のような人間がいると言いました。実は、三千にとどまっていません。彼はまた一粒の砂に三千大千世界があると言いました。一粒の砂に三千の人類のこのような世界が存在しています。とても摩訶不思議に聞こえるでしょう。天目が開いたら、ものを拡大して見ることができるので、彼は既にミクロのレベルでそれほどミクロなものを見ることができました。しかし、考えてみてください。一粒の砂に三千大千世界があれば、その砂にある三千大千世界に海や川があるのではないでしょうか? そうしたら、川の砂に三千大千世界があるのではないでしょうか? ですから、釈迦牟尼佛にも物質の本源が見えませんでした。そこで、彼は「その小に内なし」と言いました。つまり物質の本源に至る小さなところまでは見えなかったのです。
 現在の物理学の学説は分子は原子から構成され、原子は原子核、電子から構成されたという認識しか得られていません。更にミクロなレベルにはクオーク、中性微子などがあります。これは既に果てまで突き詰め、これ以上もう何もありません。更にミクロの物質の本源は何でしょうか? クオーク、中性微子まで行くと顕微鏡でも見えなくなりました。他の機器を助けにしてその存在が分かったのです。更に下へ追求していけば、人類の技術ではとても及びません。人類は星が最大の物体と見ていますが、釈迦牟尼佛はそう思っていません。釈迦牟尼佛は非常に大きい範囲を見ており、星が最大の物体だとは思っていません。更に上へ追求していっても果てが見えません。最後に彼は「其の大は外なし」と言いました。「其の大は外なく、其の小は内なし」というのは、大は果てしなく大きく、小は果てしなく小さいということです。
 生命は複雑ですが、宇宙の構造も極めて複雑です。人類が把握した知識は今日になって既に頂点に達しました。頂点まで達したので既に人類の科学の発展を制限するものとなりました。例を挙げて説明すれば、多くの有名な学者たちは物理や科学のいろいろなことに対して定義づけを行いました。この定義の範囲を超えていない時、彼らが言っていることは正しいので、それに基づいて発展すれば間違いがありません。しかし、理は次元につれ高まっていくものなので、その定義を超えたら、科学者たちが下した定義が人を制限していることになります。
 現在の科学も同じです。科学に定義づけする人がいますが、その定義に基づいて発展したものだけを科学だと認めます。その範囲を超えていない時、科学だと見なされますが、その定義を超えたら、その定義が人類の発展を牽制することになります。触ることも見ることもできないものは一切認めていないため、かなり限られてしまいました。我々の言っている佛・道・神は皆人間の触ることも見ることもできない別の空間に存在しています。もし現在の科学方法で探し当てることができたなら、それも科学ではないでしょうか? それも科学になります。しかし西洋の科学者は科学に既に定義づけをし、現代科学が解釈できないものを全て神学、宗教として片付けており、それを認める勇気がありません。
 西洋の科学は既に行き詰まっています。佛家は物事に成、住、壊があると唱えています。成はつまり形成するという意味です。住はつまりある状態に留まることです。ヨーロッパの科学は自ら定めた定義の枠に従っては既に発展できなくなっています。既知のものについて更に研究していけば、もう科学の枠内のものではなくなりました。ですから、一律に宗教と神学の範疇のものにしました。実は現代人の科学技術で現在の科学領域にないもの、或いは触ることも見ることもできない物事を発見し、現在の科学方法で研究すればそれも科学ではないでしょうか? しかし、科学の定義を昔から固く規定し、その範囲を超えるものを認めないため、既に発展の余地がなくなったのです。
 ところが、一部の科学者、いわゆるある分野において造詣のある人も様々のことに対して定義づけをしました。ニュートンにしろ、アインシュタインにしろ、常人の中でかなりの業績をあげ、普通の人より遥かに深く物事を見ていました。彼らが定めた定義、人々に残した知識はとても貴重な財産です。しかし、彼の範囲内でいくら研究し、認識しても、法則があるのです。後の人々は完全にその枠に従って進めば、永遠にその科学者を越えることができず、新たな発見をすることはできません。
 一旦ある人の発見或いは発明が彼らの定義の枠を超えれば、それらの定義が人々を制限するものになります。我々が物質を認識する時と同じで、更に高い次元に更に高い認識と理があるからです。昔人々は物質を構成する最小の粒子は原子核であると認識していましたが、今はそうではなく、クオーク、中性微子まで認識しました。つまり人間は絶えずこれらのものを認識しています。また定義をつけると、新たな発見ができれば、それはまた一つの枠になってしまいます。このような情況です。実は往々にして定義は人を縛るものです。
 アインシュタインは普通の人ではなく、彼は宗教、神学に説かれていることが正しいと気付きました。今の科学に対してつけた定義のように、人類の物質世界に対する認識は人類の知識範囲に限っているからです。人間は更に研究し、発展していけば、宗教が説いたことが正しいと気付くでしょう。ですから、更に一層次元の高い生命は更に高い次元の科学技術を代表しており、彼らが持っている科学技術の世界に対する認識は常人を超えています。ですから、アインシュタインは既に人類の科学技術の頂点に立ちました。更に研究していけば、宗教の説いたことが本当に正しいと気付きました。近代の多くの科学者、哲学者は最終的に宗教に入りましたが、彼らはすべて高い造詣のある人たちで、現在の科学のレベルと科学への迷信で頭がコチコチになった人に封建的で迷信だと言われています。


万法は宗に帰す


 万法は宗に帰すということはそれぞれ自分の法門のことを言っています。道家は三千六百の法門があっていずれも成道できると言っています。佛家は八万四千の法門があっていずれも成佛できると言っています。いくつかの教派を一つの法門にまとめて修煉するなどということはなく、全くそのようなことではありません。人がどうして天上のことを知ることができるというのでしょうか? それは全くのでたらめです。
 昔中国に「一貫道」というものがあり、清代の終わり頃に現れた時、五教を共に修めることを説いていました。元々邪教ですので、清の時代に出現した時にすぐに滅ぼされました。清の皇帝がこれを滅ぼしたのです。中華民国の初期、国民党もこれを滅ぼし、大量にこれを殺害したのです。共産党が中国を解放した時にも「一貫道」を弾圧しました。なぜこういった情況が現れたのでしょうか? 実は、常人社会に出現する一切の出来事は偶然ではありません。歴史の発展は天象の変化に従っているに過ぎません。ですから、常人社会に現れるいかなることも誰かが思い立ってやろうと思えばできるものではありません。つまり常人がそれを殺しているのではなく、それは天意であり、上がそれを殺そうとし、その存在を許さないからです。五教を共に修めるなどは法を厳重に乱しています。それは魔がやったことの常人社会での現れなのです。
 原始天尊、釈迦牟尼佛、彼らも敢えて佛道合一、佛道を共に修めるなどを説くことはありませんでした。佛教の中でも不二法門を説いています。浄土宗を修める人は禅宗を併せて修めることはできません。混ぜて修めてはいけません。禅宗を修める人は同時に天台宗、華厳宗を修めてはいけません。他のものを入れてはいけません。なぜでしょうか? なぜなら功の演化は極めて複雑だからです。あなたの身体は一つしかなく、それはあたかも原料が機械にかけられているように、あなたの功はその機械によって演化されるのです。あなたを済度する方法、一歩一歩どう進むか、それぞれの功の演化の形式は皆非常に緻密に按排されています。途中からあなたが別の機械を使えば、何になるのでしょうか? まだ修めることができるでしょうか? なんと言ってもそれはでたらめで、くずの塊になるだけなのです。
 多くの人が修煉しても向上できないのはこういったでたらめな修煉の結果です。釈迦牟尼佛の説く不二法門の本当の意味は、混ぜ合わせて修煉してはいけないということです。後になって不二法門に対する理解にずれが生じ、別の意味になってしまいましたが、混ぜて修煉することは絶対にしてはいけないことです。しかも「一貫道」は五教合一を説いていたのですから天理も容れざるところです。現在また台湾に現れています。末法時期に誰も構う人はいません。というのは末法の時期は元々構われないからです。人が腐敗堕落すればするほど、誰もが手を引き、構わなくなり、人間を済度しなくなるのです。佛を信じ、佛を拝む人は苦しみを嘗め修煉するためではなく、金儲けや厄払いをするためにやっています。そんなところまで来てしまったのです。
 人は皆、その説かれたことに道理があると思っていますが、本当のところ修煉する人は宗教を信仰する人を含め、意念がかなり大事なのです。一部の修煉方法は全て信に委ねており、何の方法もないため、意念の中に他のものを混ぜ合わせてしまえば自分の修煉のものを乱してしまうのです。本来何の動作もないのです。しかも人類社会の到るところに魔がいて、人類を腐敗させています。人々の心の中には善の心があるのではありませんか? 魔がそれを破壊しようとし、あなたを圓満成就させないのです。


禅宗は極端である


 人は極端と中庸に分類されます。禅宗は最初から極端であり、一つの修煉体系を成していません。従来、禅宗の修煉方法に対して議論が行なわれていましたが、実は禅宗の修煉方法にそって修煉している人たちは、皆佛を修め善に向かいたい気持ちがあるため、釈迦牟尼によってずっと見守られており、それ自体は体系となっていません。達磨は自らの天国を持っていないため、人を済度することができません。というのは達磨の時代はまだ釈迦牟尼佛を師としていたからです。それを禅宗と呼んでいても、やはり釈迦牟尼佛の弟子でした。彼は釈迦牟尼佛の二十八代目の弟子であり、依然として釈迦牟尼佛を崇拝していました。彼は釈迦牟尼佛の理論をめぐって主に「無」を悟り、釈教の理論から離れていません。禅宗は後になればなるほど駄目になりました。後世の人は達磨を一つ独自の法門、しかも最高のものと見なしています。彼は最高ではありません。実は禅宗は代々駄目になっていったのです。達磨自身も六代までしか続かないと言っていました。
 達磨は釈迦牟尼佛の説いた「無」を重く捉えただけで、相変わらず釈迦牟尼佛を崇拝していたので、二十八代目の弟子と呼ばれています。しかし、後の人は完全に無の極端に入り込みました。極端に入り込んだら、既に壊滅の段階に入ったのです。達磨を釈迦牟尼佛とほぼ同等に扱い、達磨を崇拝し、達磨の理論を唯一の佛教理論としました。これは完全に誤った岐路に入ってしまったのです。
 達磨は次元が非常に低く、当時羅漢の果位までしか修煉できませんでした。彼はただの羅漢に過ぎず、どれぐらいのことを認識できたのでしょうか? 最後になっても如来の次元には到達できなかったのです。彼と釈迦牟尼佛の次元にはどれほどの隔たりがあるのでしょう。ですから、彼のものは常人の哲学に最も近いのです。常人にとって彼の理が一番受け入れやすいのです。特に宗教を一種の哲学、一種の政治、一種の学問として佛教の理論を研究する人は、彼の理論が最も容認しやすいのです。常人の哲学と非常に似ています。
 如何なる高い次元にも佛がいます。修煉していくうちに何もなくなるというのです。修煉について言えば、人間をも敢えて認めようとしません。生きている人間を見ても認めません。それなら、見えたら信じ、見えなかったら信じないと言っている悟性の低い常人にも及びません。見えたものさえも認めようとしません。そうすれば、生きていて何をするのですか? 目を開けて何をするのですか? 目を閉じて、横にもならず、立つ必要もなく、・・・何もしません。これは即ち極端に走ったということです。達磨は彼の法が六代までしか伝わらないと説いたのです。現在の人はまだ彼の理にしっかりしがみついています。本来存在しない理なので、とても可笑しいのです。袋小路の道に入ってしまいました。己の存在、佛や地球も認めないのですが、己を認めなければ、どうして名前を付け、ご飯を食べるのですか? 毎日何も食べず、時間を無視し、音も聞かなければいいではありませんか・・・。
 修煉していくうちに、何もなくなりました。これは釈迦牟尼佛を破壊しているのではありませんか? 釈迦牟尼佛が何も語らなかったというのなら、その四十九年間に彼は何をしたのでしょうか? 釈迦牟尼佛の説いた空の本当の意味を知っているでしょうか? 釈迦牟尼佛が法を残さなかったのは彼が修煉の方法と宇宙の法を説かなかったと言っているからです。彼の説いたのは自らの修煉の次元のことであり、常人に如来の法、特に修煉の経験と教訓を残しました。釈迦牟尼佛が在世中に残した法は戒律であり、また異なる次元の認識についても言及しました。それもある次元においての法です。しかし、釈迦牟尼佛は人々を彼の次元に留まらせないため、生涯何の法も説かなかったと言いました。自分の説いた法が最高次元の法ではないことを知っていたからです。如来は佛ですが、最高次元の佛ではありません。佛法には果てがありません。彼の説いた法で修煉者を制限したくないのです。根基の優れた人は更に高い次元まで修煉でき、その時、更に奥深い認識と法の現れがあります。


修煉過程の中の次元


 修煉の次元について、一部の修煉者はその修煉過程の中で知り得ますが、修煉している人が必ず知らなければならないというわけではありません。多くの人は悟りを開いた後、あるいは世間法以上の高い次元に到達してから初めて知り得るのです。知り得る人は人体の発する功の色からその人の次元が分かります。功柱や人体を見れば分かるのです。世間法修煉の時に最初に出る功は赤で、さらに向上すると橙になり、その後、黄色、緑色・・・・・・となって、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、有色、無色、合わせて九種類の色です。あなたがどの次元にいるか一目見ればすぐに分かります。透明体になってさらに上へ向かって修煉すれば即ち、世間法修煉を出ることになります。既に果位を得、初果羅漢法修煉に入ります。出世間法修煉は三界を離れ常人の輪廻からも完全に離れてしまいます。そこで修煉が終われば即ち羅漢となります。さらに上に向かって修煉すれば正果羅漢となります。正果羅漢も色分けされています。しかしその時の赤、橙、黄、緑、青、藍、紫は世間法のものとは違います。世間法修煉の時は濃い色で常人世界の色のようです。そこの次元まで到ると透明な赤、橙、黄、緑、青、藍、紫有色、無色です。さらに上に修煉するとやはり九種の色ですがより透明で更にきめ細やかで、さらに美しくなります。このように絶えることなく重なっていきます。ですから人がどこまで修煉したかを見ることができます。
 そこで、人に分からせず、常人にそれほどはっきり見せないというのは悟りの問題があるからです。人身の修煉したものが全てその表面に現れたら、まだ何を悟るというのですか? 誰でも修煉し、誰でもやり始めます。全てが本当のことだと分かってしまえば、学ばない人がいるでしょうか? 極悪非道の人、どんなに良くない人でも皆学び始めます。それでは悟性という問題が存在しなくなります。それでは修煉もできなくなります。自分の眼ではっきり見えたら学ぶと言っている人がいますが、これでは駄目です。仮にその人が何でも見ることができ、はっきり見えているのなら、それ以上修煉できなくなるに決まっています。それ以上修煉することは許されないのです。なぜならば人が迷いの中から悟ることが修煉だからです。悟りが百パーセント開き、何でも見えてしまったら、この人は修煉できなくなります。なぜでしょうか? それ以上の修煉は修煉にならないのです。その人は全てが本当だと分かってしまったからです。人と人の間にトラブルが起こったときの因縁、いじめた人がいじめられた人に徳を与えたことが見えてしまうのです。全ての真相が見えてしまうから、当然修煉します。これで修煉と言えるでしょうか? 徳をもらいにいくことになります。常人の心を取り除くこともできません。
 人々がトラブルの中で常人の心を取り除く時に、自分で悟らなければなりません。仮にその人が全てはっきり見えているとすれば、それは修煉とは言えません。ですから佛は、何故さらに次元を高めるのが難しいのでしょうか? なぜならば、そこにはトラブルもなく、全てがはっきり見えるので、どのように修めるというのでしょうか? もっと難しくなるので、皆常人の中に来て修煉したいのです。つまり迷いの中にあって修煉すれば速やかに向上することができます。修煉の中で少し何か見えるのはあり得ることです。当然詳しいところまで人には見させません。
 人の修煉は始めから終わりまで悟りが欠かせず、迷いの中で修めるのです。西洋では信を重んじ、始めから終わりまで信を重んじ、信じなければ何もないと言っています。信じてはじめて、あなたに何かを感応させるのです。イエスキリストの像の前で懴悔した時、頭の中であたかもイエスが聞いていて、まるでそこに人がいてその問いに答えているように感じた人がいます。西洋の修煉方法はこれです。宗教信仰も一種の修煉です。イエスは天国に信徒を連れ戻りますが、人の身体に功がなく、エネルギーがなければ天上に上れません。更に常人の中で形成された良くない考えと身についた業力があるため、高い次元の宇宙の制約を受け、とても悪い人は形神全滅し何もなくなります。これではいけません。功がなければ駄目です。その功は信という過程の中で、懺悔という過程の中で絶えず己を向上させて良い人になっていくときに、別の空間で功が演化されています。功が伸びてもその人には知らせません。なぜかと言えば、ただ、良い人になることだけを説いて功を得ることを講じないからです。和尚も同じです。彼も煉功しませんが、なぜ功が伸びるのでしょうか? 功があることを彼には告げなくても、その功が伸びていきます。


佛と道


 道家は独修を重んじますので、道教は元々存在するはずがないのです。道教は実は近代の改良によってできたものです。歴史においても各先史時代に道教はありませんでした。道家は衆生を普く済度することを唱えず、独修をし、清と静を重んじています。ですから、道家は真について悟り、真善忍の真を専ら悟って修煉しています。真を修め、性を養い、返本帰真を目指しています。道は清らかに修煉することを重んじていますから、衆生を済度する願望がありません。修煉して圓満成就したら決まった世界を持たない仙人になります。天上にも山水があり、天上のその山の上にいるのです。実は道教の出現は常人の執着心によるものです。人は勢力や団体を作りたがっており、常人にはこのような功利心があるため、勢力や団体を作るのです。
 実は道教は存在していないものです。独修で弟子を仕込むのです。道教を作ってから弟子が多くなってきましたが、誰も真の教えをもらえません。お気に入りの弟子がいれば、本当のものを伝えますが、いなければ自由自在に自分の思うままにします。得道したら、大自在になるからです。
 佛即ち佛、道即ち道です。両家の理を相容れようとするのは不可能です。しかし我々が修煉しているものはとてつもなく大きく、宇宙に従って修煉していますので、すべてを含んでいます。我々は佛家に立脚し、主な理論、特徴はすべて佛家のものです。しかし、この法は佛を超え、道を超えています。異なる次元に異なる理解があり、異なる次元に異なる現れがあります。法輪世界に法輪世界の認識があり、法輪世界を超えれば、更に高い次元の認識があります。更に次元が高くなれば、もっと高い認識があります。
 また、原始の神がいますが、現在の修煉者にそれを教えても意味がありません。現在の修煉者にはとても不思議に聞こえるし、そのレベルに達することができません。ですから佛道両家のことだけを説いています。レベルの高すぎる話をしても駄目で、人はそれを受け入れられません。それは人に知らせることが許されていないからです。


人を済度し法を説き、パフォーマンスをしない


 常人の中で修行している和尚、特に悟りの開いていない和尚に真の法を説いても役に立たず、彼らは何も知らないのです。一方、そういった悟りを開いた和尚は世間に居ず、そういった人は全て山奥に入っています。その人たちは皆私のことを知っていますが常人だけが知りません。多くの次元の高い人は皆私を知っています。彼らは時々密かにやって来て覗いてからすぐ帰っていきます。人によっては何か話をしてくることもあります。彼らは山奥で非常に長く修煉したにもかかわらず、さほどの高みに到っていないのです。彼らの歩む道はとても厳しいのですが、それは大道による修煉ではなく小道による修煉だからです。ですから長きにわたって修煉しても正果を得ていません。しかし彼らは世間に入らないので超能力に鍵が掛っておらず大いに神通力を顕すことが出来ます。世間での修煉においては多くの超能力に鍵が掛っています。鍵が掛っていなければ念を動かしただけで大きなビルを移動させてしまうため、そういうわけにはいきません。常人の状態を破壊することは絶対に許されません。それで人はその人が高い次元まで修煉したと思っています。常人は何か技を持つ人が高みにあると見てしまいます。気功師が見せたものは皆小手先の技で取るに足らないものでしかありません。常人にはそれがもう十分レベルが高いと思っています。
 私の伝法にあたって如何なるパフォーマンスもしないというのは私のやって来た目的ははっきりと皆さんに伝えたからです。何かをやって見せて伝法するとなればそれは邪法を伝えることにほかなりません。そうすれば人が学びに来るものは法ではなく技術を学びに来るのです。釈迦牟尼佛も当時そのようなことをやらなかったのです。病気治療は大丈夫ですが、どうせ見えないし当人は治ったと感じます。どんなやり方で治したのか、それを信じるか信じないかはあなた次第だからです。病人が良くなった、それを信じるか信じないか、痛いか痛くないかと言うことは第三者には分かりません。ここに悟性ということが存在しているので病気治療はやりうることです。当時のイエス、釈迦牟尼佛もそうしていました。老子だけはしませんでした。老子は人間社会がとても険悪であることを承知していたのです。そうそうに五千言を書き残し関所を出て西に去ってしまいました。
 人類社会は非常に複雑で、地上にある人はどこかの空間から来た者かも知れません。その空間の神はその人の面倒を見続けようとしています。つまりその人が悟れるか否かを見ており、悟れば元のところに戻れます。しかしその人がもう駄目だと分かってその面倒を見ることができない場合でもまだその人を見捨てようとは思いません。イエスがこの世で人を済度していた時、イエスは彼らのことをかき乱していると思われたのです。この人は私の世界のもので、彼は私の所に済度されるべきであり、どうして我々のところに手を出したのか、と嫌がられるのです。この心ですが、実際のところこれは間違っています。イエスはそれが誰それのものであるかに関わらず、人を済度することがやって来た目的だったのですから衆生が苦しんでいるのを見て、人を済度し天国へ行かせようとしたのです。そこでイエスは多くの異なる空間の神を邪魔したのです。最後に矛盾がますます激しくなり、常人社会で現れました。常人社会の中でのトラブルのようになり、イエスのところに集中してしまいました。イエスは己を解脱させることが出来ず、死をもって、十字架に釘で磔にされて彼らの怨みを解いたのです。常人の肉体を捨てればもう恨みあうことはできず、無数のトラブルも解けてしまいました。つまりイエスが衆生のために受難したというのはまさにこの意味なのです。
 釈迦牟尼も伝法の時にとても苦労しました。インドにあった7つほどの宗教と抗争していていました。その当時、原始バラモン教が最も強力でした。最終的には釈迦牟尼もその本来の達成すべき目的を果たすことなく去っていったのです。
 老子は「五千言」を書き残して去り、後世の人に行わせました。それもそうなるべくしてなったのであって、それも天意です。道家は宗教を成立することを許さず、道家が宗教となってしまったことが誤りなのです。道士は独自で修め、真を修め、静かに修めることを重んじているので、その弟子は皆一人しか選ばないのです。そこで良い人を弟子として選ぶのです。衆生を普く済度することが出来ませんし、そういった願望もなく、真を修めるものなのです。道観の中に大勢の人がいますが、その中の一人だけが選ばれてその人に伝えられますが、それ以外の人は全て飾りです。ですから道家は宗教になってはならず、以前はひたすら山にこもって独自に修めていたのです。
 孔子は人を為す道理を説いたのであって、修煉を説いたのではありません。しかし彼の説いたことからも中国人はメリットを受けました。中庸思想は人を不敗の地に置くことができます。物事が極まれば必ず反転し、頂点に立った時点で既に落ち始めるのです。ですから「中」を求め、永遠に中にいる状態にいます。上を目指さないのですが、自分より下の人に比べるとまだ余裕があり、永遠に不敗の地に立っています。如何なることも絶対化しすぎると、逆の方向へ転化します。これは常人のことを言っています。
 山奥に多くの修煉者がいます。彼らには皆歴史上出現した、或いは出現する出来事が見えましたが、誰も手を下そうとしません。何もしない理由はこれが天象の変化によることであり、こうなるはずだと分かっているからです。
 天意に逆らって行動する人は皆罰が当たるので、誰も敢えてやらないのです。皆岳飛は素晴らしいと言っていますし、岳飛の家族の人もそれほど強かったのに、どうして岳飛は南宋を守ることができなかったのでしょうか? それは天意だからです。岳飛は一生懸命宋を守ろうとしたのですが、どうしてもできなかったのです。実は彼は天意に逆らうことをしていたからです。宋は潰れるべきなのに、彼はどうしても潰れないようにしていたので、天意に逆らって行動したのです。こういう意味です。人の計算はどうしても天の計算に及ばないのです。岳飛が良くないと言っているのではなく、この道理を言っています。
 常人が常人の立場から正しいと思っていることは必ずしも正しいとは限りません。秦の始皇帝、漢の武帝、いずれにせよどの皇帝が何を行なったのかにかかわらず後世の人はこれらの皇帝に対して何らかの評価を下しています。常人は己の角度から己の固有の観念から認識しており、認識される良し悪しは必ずしも本当の良し悪しではないのです。また人間が良し悪しを量る基準は自己を中心にし、自分にとって良ければそれを良いと言うのですから必ずしも本当に良いこととは限りません。良し悪しを量るには宇宙の特性に照らし、法に照らして量るしかありません。それは永遠に変らないものであり、宇宙の理であり、良し悪しを量る唯一の基準です。秦の始皇帝は多くの人を殺して中国を統一し、多くの列国の皇帝まで殺したのです。皆彼を罵っています。各国の皇帝、各国の国民は皆彼に統治されているので、皆彼を恨んで罵ったのです。それは全て自分の立場から良し悪しを量っているのです。始皇帝が中国を統一したのは必然的なことであり、天意によることです。天意に従わずに事を行えば始皇帝も成功するはずはなく、統一することも出来ません。ですから常人の中のことはその程度のことに過ぎません。私たち修煉者は従来語ることはありませんでした。修煉の人は政治に興味を持つことはありえません。そうでなければ政治家となってしまって修煉ではなくなります。
 人類が一定の時期になると、業力がとても大きくなり許されざる悪逆非道になってしまいます。業力が非常に大きくなると自ら完全に償うことができず、世々生々に積んだ多くの業を還すことが不可能になってしまったため、これらの人は消滅されるのです。どうやって消滅するのでしょうか? 人類に小さい災難が出現して人を消滅させます。戦争が最も便利です。歴史は取りも直さずそういうことです。
 全ての国を開いた皇帝にこの世に出て彼らの戦いを守る武将の霊がいます。この武将の霊自身はそれが役割なので労あって功はないのですが、業力を持つこともなく、ただそれをやるだけです。悠々たる万世、迷わざるは幾人か。


佛は人を済度するが、加護するのではない


 佛家は人が金持ちになることを全く説いていません。病気は業力によるものですから、いかに病気を治療し、健康保持するかも人々に教えませんでした。釈迦牟尼は衆生を済度すると言いましたが、それは人々を常人の苦しい環境から涅槃の彼岸に済度するということです。これが釈迦牟尼佛の言ったことです。つまり人間を天国に行かせることです。イエスが説いたのもこの意味ですので、どちらの方がレベルが高いか低いかのことではありません。ただ現代化した人は悟らず、佛が人を加護することができ、人の病気を除去し、人に金儲けさせることができ、大覚者に無限の威力があり、人を済度することができると言っています。常人は佛が人を済度することを人への加護だと思い込んでいるため、佛に加護とお金を求め、病気の除去などなどを求めています。実は佛はこれらのことに一切構っていません。これは現代の腐敗した人類の観念によって生じた腐敗した認識であり、変異です。経典の内涵に本来このようなものはありませんでした。ですから、私はいつもあなたが線香を焚いて佛にお金を求めても、佛はあなたが金持ちになるかならないかのことに全く関心がないと言っています。
 佛を拝むなら、佛はあなたがどうしたら金持ちになることができるか全く関心がないどころか、このような貪欲を取り除くようにあなたに求めています。もし本当に生活が苦しければ、それもあなたの安全のために物質的に便宜を図っているのです。あなたに元々お金がなければお金を持たすこともあり得ません。病について、佛はそれが前世の業だと思っています。佛像を拝んでお金を求めて本当に金持ちになった人がいますが、それは実は何のお金でしょうか? 拝んでいる佛像には佛がおらず、拝むことによってできた偽の佛です。狐、蛇、イタチなどめちゃくちゃな物が乗っかっている場合もあります。それらのものはあなたにお金を持たします。あなたが彼らを拝み求めているからです。あなたにお金を持たすには条件があり、この宇宙には失わないものは得られずという理があり、それらはこの理のすきを突いたのです。彼らは人体が欲しいので、誰かが叩頭してお金を求めていれば、金持ちになるようにします。もしその人の身体に持っているものが良くなければ、何もやってくれません。金持ちにもなれず、拝んでも無駄になってしまいます。あなたの身体によいものがあるから、お金を持たしてから、あなたのいいものを取ってしまいます。お金が欲しければ、もちろんお金を与えます。しかし人間自身には分からないため、失ったものは多分永遠に取り戻せない損失であるかもしれません。人は一生だけではないので、来世はもっと惨めになるかもしれません。


人類の堕落と危険な観念


 古代の中国では、道を修めていると言ったら、人々から善根があると言われました。佛道神などのことを口にしたら、素晴らしいと言われます。今日佛道を修めると言い出したら、皆から笑われます。人の道徳観念に大きな変化が起こりました。人間の道徳観念は一瀉千里の勢いで堕落しており、とても速いのです。ですから自分の観念が堕落しているのに、かえって古代の人が愚かで迷信だと言うのです。人間の観念が激しく変りましたが、それはとても恐ろしいことです。特に釈迦牟尼佛は末法時期にこの社会に起きる変化がとてもひどいものだと言いました。例えば、現在の社会では人々に心の法の縛りがなく、中国では特にそうです。国外でも同じですが、ただ国外の場合、現れ方が違います。中国大陸では「文化大革命」は人間のいわゆる古い思想観念を破壊し、孔子など諭したことを信じさせないようにしました。人々は道徳によって縛られることがなく、道徳の規範もなく、宗教も信じてはいけなかったのです。悪いことをしたら悪報がやってくると誰も信じていません。
 人間の心にこれらの心の法の縛りがなければ、人間は敢えてどんな悪事も働いてしまいます。これは現在の人類が直面している最も深刻な問題です。外国人は中国に行って商売することを恐れています。若者がすぐ殺人や強盗をやりますが、とてもひどいものです。いま中国は外国より怖くなりました。特に海外の暴力団による殺し合いの映画やテレビドラマが中国に伝わってきた時、香港や外国が皆描かれたように乱れていると大陸の人は思っていました。実はそうではなく、それは観衆が刺激を求める心理にあわせて客を集めるために大げさに描写したのです。実は海外の人は国内の人よりずっと素養が高いのです。しかし、国内の若者は映画の真似をします。閉鎖状態にいた中国は急にこのようなものに接触したら、海外が描かれたような状況だと思い込んでしまいました。
 テレビドラマで描かれた昔の上海の暴力団がらみの実業家はいま国内で流行っています。しかし、それが三十年代の上海を描いており、しかもドラマなので大げさでした。現実はそうではありません。香港の暴力団の殺し合いの映画やテレビドラマは中国大陸の人々の観念に非常によくない影響を与えました。人類の道徳観念に変化が起こり、中国にも同性愛、麻薬中毒、麻薬密売、暴力団、性の開放、売春婦などが現れてきました。とてもひどいのです。成り上がりの見苦しさは更にひどいものです。何の束縛もなければ、何でも敢えてやってしまいます。つまり、人類はここまで来てしまったことは、とても恐ろしいことではありませんか? 更に堕落してしまうと、人間はどうなるのでしょうか? 良いことと悪いことに対する観念は正反対になってしまいました。いまでは最も強いもの、腕のある人、人殺しなどをする勇気のある人が崇拝されています。
 人類の道徳の退廃は全世界で見られる現象です。人間の観念は大きく変り、美しいものより醜いもの、善いものより悪いもの、きれいなものより汚いものが好まれます。例えば、昔は音楽家、歌手になるためには訓練を受け、歌を歌う時のテクニック、音楽理論などが要求されます。しかし、現在とても格好の悪い人が髪の毛をぐちゃぐちゃにして、髪を長く伸ばして舞台に立ってぎゃーぎゃーと叫んで、テレビがその人をもてはやせばスターになりますが、その声は耳障りなだけです。道徳が腐敗していくにつれ、人間の観念は変り、醜悪なものが美しいとされ、人々に熱狂的に追求されています。芸術作品も同様で、猫の尻尾にインクをつけて、走らせたらそれも作品になります。抽象派、印象派などは一体どういうものでしょうか? 昔上手に画けば画くほど人から称えられましたが、今のものはなんというものでしょうか! これがいわゆる芸術家が人間性の解放を求めてもたらした結果です。人間性に道徳行為の規範がなければ魔性の爆発となりますが、このような状態下で美しいものがあるのでしょうか? 人間の観念まで変わりつつあります。
 これらの芸術家は何を求めているのでしょうか? 彼らは人間性の解放、何の配慮も束縛もなくわがままにすることを求めています。佛教は道徳の規範、心の中で道徳の縛りがなければ、人々に反映した状態は魔性だと唱えています。現在のこれらの芸術作品を見てご覧なさい。常人はそのわけを知らないのですが、実は全て魔性の現れです。
 昔お店の玩具を買うなら、きれいなものを買いたがりましたが、いま醜くければ醜いほどよく売れています。どくろや魔物、大便の形をしている玩具さえも売っています。人を怖がらせるものであればあるほど売れています。人間の観念に変化が起こり、逆方向に変っていっているのではありませんか。
 人類社会に何が起こったかをいえば、皆すぐ分かりますが、これは人間の本性が何も変っていないということを物語っています。しかし、人類は既にこれほど危ない境地まで堕落してしまったのです。欧米の国で講演した時、同性愛について話しました。欧米人の性の乱れが乱倫になったといっても過言ではないと言いました。「同性愛は国に認められている」という人もいました。個人或いはある集団が認めた基準で良し悪しを判断するのではありません。人類の良し悪しを図る基準は全て己の観念に基づいたものです。あの人がいいと思っており、或いはあの人が私に良くしてくれたから、良い人だというのです。或いは既に形成された一つの固有の観念があり、その観念が良いと認めれば良いというのです。集団の場合も同じです。集団の利益と一致する事であれば、あるいは何らかの目的の達成に有利なことであれば、それがいいことだと判断し、その存在を認めるのです。しかしそれが本当にいいとは限りません。宇宙の理や佛法は人類及び全ての物事を判断する唯一の不変の基準であり、良し悪しを判断する唯一の基準です。ですから、「はっきりと言いますが、あなたの政府は同性愛を認めていても、あなたの主はそれを認めていません」と彼らに答えました。実はいつもこの時期になると、人類は非常に危ない境地まで来たのです。既に歯止めが利かなくなり、ここまで堕落してしまいましたが、更に悪くなると、どういう状態になるのでしょう。釈迦牟尼佛は末法時期に多くの魔が人間に生まれ変わって出家して法を乱すと言いました。特に台湾の多くの有名な和尚と居士は実は魔なのです。教祖と自称していますが、自分が魔であることを自分も知らないのです。生まれ変わる前に既に一生は按排されています。法を破壊するという按排に従って人生を送っています。インドに有名な大師がいますが、その多くはウワバミに憑かれています。中国の気功師には狐、イタチの憑き物が多く、蛇もあります。末法時期は全てが乱れる時期です。日本のオウム真理教の教祖は地獄の鬼が生まれ変わって、この世を撹乱しに来たのです。人々はこの環境の中にいて、俗世間に囲まれており、これらのことを考える余裕もありません。今の社会は変だと思っていますが、ここまで堕落しているとは思いませんでした。一旦言い出すと、皆びっくりします。
 ですから、私も一時の思いつきでこの法を伝えに来たのではありません。異なった形の邪魔もあります。私たちが正しいものを伝えると、他で邪なものを伝える人がいます。或いは正しそうに装って、人に善を教えますが、その本当の目的は善に向かわせるのではなく、その目的は人に明かすことができないものです。気功は始めの頃良かったのですが、現在邪の方向に行ってしまいました。浄土を保つことはなかなか難しいことです。


末劫時期の人類


 全世界で多くの正教は既に人を済度できなくなりました。原始正教の一部の経典は後世の人に改ざんされ、教義も後世の人に間違って解釈され、学問の一種と見なされたからです。例えば佛教は哲学範疇のものとして学ばれ、現代科学で解釈できないことを全て古代の人の想像、神話の伝説として片付けられています。和尚と修煉の人は経を読むばかりで、着実に修煉しておらず、寺院は社会の縮図になり、互いに腹を探り合っています。佛難を利用して財を集めている和尚もおり、執着心が常人よりも多いようです。自分すら済度し難いのに、ましてや他人を済度するなどとんでもないことです。一部の名高い和尚、道士、修行する人は恣意に自分の観念と佛経に対するわずかばかりの理解に基づいて本を書いて佛経、聖経を解釈し、人々を岐路に連れ込んでしまいました。大覚者の言った話にはとても深い内涵があり、修煉者の次元が高まっていくにつれて各次元の境地で佛法の指導作用が現れてきます。如何なる大覚者の元々の言葉を変えることも法を乱す行為です。
 いわゆる人々に佛経や聖経を理解させるための解釈は佛の言っている話の本当の内涵とはほど遠く、全く別のことになってしまう場合もあります。少し理解したとはいえ、それも常人とたいして変らない自分の次元からの理解であり、更に高い次元にどのような内涵があるのか全く分かっていません。これはその人がそこまで修めていないからです。如来の次元に達していなければ、どうして如来の言っている話の本当の深い内涵を知ることができるのでしょうか? それらの本は法を乱すことしかできず、人を済度することができません。名利心に操られて書かれた本は佛を修煉する人を作者の考えの枠に誘い込んでしまいます。更にひどいことに、宗教が現在の社会の要求に応えるべきであると唱え、宗教の内涵を変えようとする人までいました。佛法は金剛不壊の天理であり、人類に佛法に従って元に戻り昇華させようとするのではなく、佛法を道徳の腐敗した人類に合わせようとしますが、それはどれほどの罪業なのか自明です。特に本を書いて勝手に佛経を解釈する人は法を正すことを妨害し、実はとっくに地獄に入っているのです。
 人々は世々生々に多くの悪事を働き、比類ない業力を積んだのです。これが正しい信念が生ずることのできない要素でもあります。前世で修行し、しっかり修めておらず、多くの執着心を放棄できず、最後まで辿りつけなかった人は少しの福を積んだため、来世に生まれ変われば超能力を持つ場合が多く、天目が非常に低い次元で少し別の空間のことを見ることができます。そして常人の各種の名利心に操られ、様々な名目の宗教をやりだし、表面上人々を善に向かわせていますが、心の底に名利を求め、明かすことのできない目的を抱いています。大覚者は自分の世界(天国)を持ち、人をそこに済度することができますが、このような人は人をどこに済度するのでしょうか? 偽の気功師も同じで、佛になりたがっている人もいるし、自分の前世が佛だったとうぬぼれている人もおり、憑き物のある人はその人を一代の大家であると煽て、本人もすっかりその気になり、自分を欺き他人をも欺いています。全てこの世を乱す鬼の生まれ変わりです。
 この世は邪悪によってめちゃくちゃにされ、長年偽の宗教、邪教、改良された宗教がずっと伝わっており、真偽は判別しにくくなりました。邪教の教義は皆邪悪なのに、それを信じ、その頭を崇拝する人がいます。これこそ人間の道徳がなくなったのではないでしょうか? 何のために魔道に入るのでしょうか? 多くの人は人を害する術を求め、人を害しようとする気持ちがありますが、自分の未来がどうなるか全く考えていません。原始正教は末法時期に入り、人を済度することはできなくなりました。様々な魔が世に出て、法を乱し、世を乱し、人類は心法の縛りがなくなり、道徳の規範を失ったのです。魔に操られ、悪事の限りを尽くし、道徳と基準は最も速いスピードで落ちています。人の考え方、観念にも変化が起こりました。美しいものより醜いもの、正のものより邪のもの、善なるものより悪のもの、清潔なものより汚いもの、新しいものより古いもの、芳ばしいものより臭いもののほうが好まれます。男性は髪の毛を伸ばし、女性はショートカットにし、陰盛陽衰、陰陽反転になってしまいました。美術作品に道徳の規範がなくなり、人間性の解放を追求していますが、それは魔性の大いなる現れです。印象派や、抽象派やら、でたらめに画けば、かえって現在の人の逆転した観念に受け入れられるのです。ただのゴミを置けば、現代派の彫刻大家の作品になります。ディスコ、ロックなどうるさい音楽作品は音楽の殿堂に入り、嗄れ声の目の不自由な人、足の不自由な人、外見の見苦しい人がラジオやテレビでスターとして崇められ、店に売っている子供のおもちゃは見苦しければ、醜悪であればあるほど売れています。
 人類は正念のない心理の下、追求するものも多く変わりました。名利のため、人を殺し、放火し、盗品を押し付け他人に罪を着せ、お金ばかりに目が眩み、人と人の間は金銭関係になってしまいました。お金のため天理を害することが続出しています。性を乱す商品、宣伝品、音声画像テープがいたるところで見かけます。お金のため人を害することも惜しまず、麻薬を密造、密売するのです。退廃した麻薬中毒者は高額な麻薬を買うため、手段を選ばずお金を盗んだり、奪ったり、騙したりします。テレビ、新聞、文学作品の中に性の自由を大々的に宣伝し、人は年に関係なく倫理を乱しています。醜悪な同性愛は理知を失った今の汚い心理的な変態を反映しています。マフィアは社会の隅々にまで浸透し、暴力と魔性を追求する若者の溜まり場になっています。マフィアのボスは人々に崇拝されるアイドルとなり、若者は続々と加入しています。
 歴史上、多くの大覚者、予言者は人類にこの時期に大きな難があると予言しました。今日の人類は彼らの予言した様子よりも悪いのです。良い人はどんどん少なくなっています。人間が世々生々に多くの悪事を働き、比類のない多くの業力を積んだため、外に出るとすぐ不都合なことに出会ってしまいます。それが前世で働いた悪事を償い、業を滅していると人間には分かっていません。他人が自分に良くない行いをしたら、寛容と忍耐の気持ちで対応するのではなく、私に良くない行いをしたら、それよりもっと良くない行いで仕返しするのです。人に犯されなければ、人を犯しませんが、人に犯されれば、必ず仕返しします。それどころか、程度は更に増すのです。昔の業力もまだ返していないのに、また新しい業力を作り、身体に恐ろしいほどの業力があります。人類の道徳は急速に下落し、既に危険な境界線に達しています。実は人類の道徳が大きく腐敗したのは、世々生々に人々がそれを助長したのです。いつも世界に災難が現れる時は、つまり人類の道徳が喪失した時です。これが末劫時期の現れです。


真 修


 真に修める弟子よ、わたしがあなたに教えたものは佛を修め、道を修めるための法なのです。皆さんは常人の中の利益が損なわれたことによって、わたしに苦を訴えており、自らの常人の中での執着心を放下できないことに苦悩しているのではありません。これが修煉なのでしょうか? 常人の心を放下できるかどうか、これは真に常人を超えることに向かっていくための至難の関なのです。真に修める弟子であれば誰でも超えなければならないもので、これは修煉者と常人の境界線です。
 実は、皆さんは常人の中にある名、利、情が傷ついて苦悩を感じているとき、すでに常人の執着心を放下できずにいるのです。皆さん、必ず覚えておいてください! 修煉そのものが苦しいわけではありません。肝心なのは常人の執着を放下できないからです。あなたたちの名、利、情を放下しようとするときこそ、苦しいと感じるのです。
 皆さんが神聖で清らかで、しかも、この上なく美しく素晴らしい世界から落ちてきたのは、皆さんがその次元の中で執着の心を持つようになったからです。それに比べて最も汚れた世界の中に落ちた後、皆さんは速く元へ戻るよう修めることなく、かえってまた汚れた世界の中の汚い物をつかんで放さず、甚だしきに至っては、少しでも失えば苦しみに耐えられません。皆さん、ご存知ですか? 佛は皆さんを済度するため、かつて常人の中で物乞いをしていたのです。わたしは今日、門を大きく開いて大法を伝え、皆さんを済度しています。わたしは無数の苦難を嘗めても苦しく感じたことなどないのに、皆さんはまだ何が放下できないのでしょうか? あなたは心の中で放下できないものを天国へ持っていけるのでしょうか?


明 智


 わたしが一部の学習者に、思想が過激になることは一種の思想業が作用しているのだと教えたとき、今では多くの学習者が自分の日頃の一切の良くない念をすべて思想業だと言っています。これは間違っています。あなた自身に何の良くない念もなければ、あなたはまだ何を修めるのですか?! それほど純潔であれば、あなたはすでに佛ではありませんか? これは一種の誤った認識です。自らの思想に汚い念が激しく反映されたり、先生を罵るとか、大法を罵るとか、人を罵る等々、排除も抑えることもできなければ、これこそが思想業力なのです。ただ、弱いものもいくらかはありますが、普通の正常な思想の念とは違うのです。必ず、明確にすべきです。



 人の世は渾沌として、玉石混淆しています。如来が世に下る時、必ず密やかにやって来るのです。法を伝える時には、必ず邪な法門の邪魔があります。道と魔は同時に伝わり、同じ世にあって、真であるか偽であるか、悟りが大事なのです。何をもって見分けるのでしょうか、必ず上士がいます。縁あって悟ることのできる人がいれば、相継いでやって来て、道に入り法を得ます。正邪を識別して、真の経を得て、その身を軽くし、その智慧を豊かにし、その心を充たして、法船に乗って悠々としています。善きかな! 力を奮って精進し、圓満成就に至るのです。
 混みいった世にあって悟り難い人は、金銭のために生き、権力のために死に、わずかな利益のために喜んだり、憂えたりして、苦しみ相争い、一生、業を造っています。その人がもし、その法を聴けば必ずこれを笑って、迷信の二文字を口にして、心の中では必ず理解し難くて信じ難いのですが、これらの人は下士であり、済度し難いのです。業が大きくなり、すでにその身を封じ、その智を閉じ、本性はありません。


何のために見えないのか


 見ることができれば信じ、見ることができなければ信じない、これはすなわち下士の見識です。人は迷いの中にあって、多くの業を造っており、本性が惑わされてしまい、どうして見ることができるでしょうか。悟りが先にあって見えるのは後のことで、心を修めて業を取り去り、本性が現れて初めて見ることができるのです。しかしながら、上士は見てもよく、見なくてもよく、悟りによって圓満成就します。人々に見える人もいれば見えない人もいるのは、次元が定めていることで、根基がもたらしたことです。修める人の多くが見えないのは見ることを求めているからで、これは執着ですから、これを取り去らなければ見えません。多くは業力が阻んでいること、あるいは環境が適していないこと、あるいは修煉する方法によって決まってくることで、様々な原因がありますが、人によって違います。見える人も、見えてもはっきりと見ることができず、はっきりとしないからこそ、道を悟りうるのです。自らその場に立ち臨み、はっきりとしないところがないようであれば、この人は功が開いているのであって、さらに修めることはできず、その悟りはありません。


法を学ぶ


 知識人が大法を学ぶにあたっては、ある最も突出した問題に注意すべきです。つまり、普通の常人が理論的な著作を学習する方法で学んで、即応する名人語録を選んで、自らの行動に照らし合わせるように学んでいて、これは修煉者の向上を阻害しているのです。また一部の者は、大法に非常に深い内涵があり、異なる次元の修煉を指導できるレベルの高いものが含まれていると聞いて、一字一字を詮索していましたが、結局、何も見つかりませんでした。これらの長期にわたる政治的理論の学習で身についた習慣も、修煉に影響する要素であり、法を曲解しています。
 皆さんは、法を学ぶ時にどうしても問題を解決しなければならないという考えを抱いて即応性のある部分を探して学んではなりません。実は、これも一種の形を変えた執着なのです(トラブルがあって解決を急ぐことは含まない)。大法をよく学ぶには、いかなる目的も抱かずに学ぶことこそ正しいのです。『轉法輪』を一遍読み終えるたびに少しでも分かるようになったら、すでに高まっています。一遍読み終えるたびに、ただ一つの問題が分かっただけでも、それも真に向上しています。
 実は、修煉の中で、取りもなおさず少しずつ知らぬ間に修めて向上してきているのです。覚えておくべきことは、求めずともおのずから得る、ということです。


いかに輔導するか


 各地の多くの輔導員は大法に対してかなり高い認識があって、身をもって模範を示し、煉功点をよく取りまとめています。しかし、行ないに足りないところのある輔導員もいて、主に仕事のやり方に問題が現れています。たとえば、学習者を輔導員に服従させるため、目的は仕事を行ないやすくするところにありますが、煉功点で命令式の方法で仕事を行なっています。これではいけません。法を学ぶことは自由意志でなければいけないのです。もし、学ぶ人が心からしたくないのであれば、いかなる問題も解決することはできませんし、しかもトラブルが生じます。もし、改めなければ、トラブルを激化させ、その結果、法を学ぶことを大きく破壊してしまうのです。
 さらに甚だしい者は、皆を信服させ、服従させるために、いつも何かの噂話を広めたり、人騒がせなもので自らの声望を高めようとしていたり、または一人よがりに行ないます。いずれもこのようにしてはいけません。わたしたちの輔導員は自発的に無償で皆さんのために奉仕するもので、師父ではありません。この種の執着心ですら、あってはならないのです。
 それでは、わたしたちはどうすれば輔導の仕事を正しく行なえるのでしょうか? まず自らを学習者の中に置いて、学習者の上にいるという心を持ってはなりません。仕事をして分からないことがあれば謙虚に皆さんと共に検討をします。誤ったことをしてしまえば、誠心誠意、「わたしも皆さんと同じ修煉者です。仕事の中で誤ちを犯すのはまぬがれ難いことで、わたしはこのことで過ちを犯しました。それでは、正しいやり方に従って行ないましょう」と学習者に言えばいいのです。皆と一緒に仕事をうまくやりたいという誠意があれば、結果はどうなるのでしょうか? 誰もあなたを何者でもないとは言いませんし、かえってあなたのことを、法をしっかり学んでいて大らかな人だと思うでしょう。実際、大法があって、人々も学んでいます。輔導員の一挙一動が良いかどうかを学習者はみな大法に基づいて量り、はっきりと見分けることができるのです。いったん自らを持ちあげる念が生じれば、学習者はあなたの心性に問題があると思ってしまうので、謙虚でいてはじめて、よく行なうことができるのです。声望は法をしっかり学んだことによって築かれるものです。一修煉者に過ちがないということが、どうしてありえるでしょうか?


空とは何か


 空とは何でしょうか。執着がまったくないことが真の空であって、物質の空ではありません。しかし、禅宗はすでに末法の時期にあって伝えるものがなくなっています。法が乱れた末世にあって、学ぶ人は、その空の理を固くつかみ、気が触れて、哲理の根本を悟っているかのようです。祖である達磨自身が、ただ六代の法があるだけで、その後には伝えるものがないと言っています。なぜ、このことを悟らないのでしょうか。もし、すべてが空で、法はなく、佛はなく、像はなく、我はなく、存在はないと言うならば、達磨はどういったものなのでしょうか? 法がないのであれば、禅宗の空の理とは、どういったものなのでしょうか? もし佛がなく、像がないのであれば、釈迦牟尼はどういった人だと言うのでしょうか? あなたに名前がなく、像がなく、我がなく、存在がなく、すべてが空であるならば、ご飯を食べ、水を飲むのはなぜでしょうか? 服を着るのはなぜでしょうか? その目を掘り取ってはどうでしょうか? あなたのその常人の七情六欲はまたどのようにして執着するのでしょうか。如来の講じる空は、実に常人の心がまったくない、という意味であって、一つも漏れがないことが空の絶対的な真理なのです。宇宙はもとより物質によって存在し、形成され、維持されていますが、どうして空になりうるのですか。如来の伝える法でなければ必ず短命となり、理は途絶えて存在することはありません。羅漢の法は佛法ではないのです! 悟りなさい! 悟りなさい!


堅 定


 師がいれば信念が満ち、師がいなければ修める興味がありませんが、師のために修めて、興味のために来ているようで、これは中士にとっての大きな弊害です。釈迦、イエス、老子、孔子が去って二千年余、その弟子は師がいなくて修められないとはまったく感じてはいません。修めることは自身のことで、代われる人はなく、師となる人は表面ではただ、その法理を教えるだけです。心を修め、欲を断ち、智慧を明らかにして惑わされないようにするのは、自らに対して責任を負うことです。興味のために来る者は、心が必ずしっかりしていないのであって、世俗に入れば、間違いなくその根本を忘れてしまいます。その念を固く守らなければ、一生、何も得られないのです。いつまた機縁が結ばれるか分からず、難しいことです!


佛教の論述は佛法の最も弱小な一部分である


 衆生よ! 佛教を用いて真・善・忍の大法を量ってはならず、それは量りえないことです。このように言うのも、人々がみな、いつも佛教の経書を法と呼んでいるからです。実は、天体は甚だ大きく、佛陀の宇宙に対する認識を超えているのです。道家の太極も低い次元で宇宙を理解しているだけで、常人のこの次元に至れば、もはや実質的な法はなく、ただ、宇宙のへりで人に修煉させることのできるわずかな現象があるだけです。常人は最も低い次元の人であり、人間には真の佛法を知らせることはできません。しかし、聖人が説いた「佛を敬えば修煉する機縁の因果の種を植えつけることができ、修煉する人はまじないを唱えれば、高級生命の保護を得ることができ、戒律を守れば修煉者の基準に達することができる」ということを人々は耳にしています。歴史上ずっと、覚者の説いた話はすなわち佛法ではないか、と研究する人がいます。如来佛が説いた話は佛性の体現であり、法の現れとも言えますが、宇宙の実質的な法ではありません。なぜなら、今まで人間が佛法の真実の体現を知ることは絶対に許されなかったからです。佛法とは何かは、高い次元まで修煉して初めて悟れるものなので、人間には真の修煉の実質をなおさら知らせはしないのです。法輪大法は宇宙の特性(佛法)を万古より初めて人間に残し、人間に天に登る梯子を与えたに等しいのであって、どうして過去の佛教のものを用いて宇宙の大法を量ることができるのでしょうか?


智とは何か


 人類社会の中の有名人、学者、各種の専門家について、人々は非常に偉大だと思っていますが、実のところ彼らは常人ですから、いずれも、ちっぽけなものに過ぎません。彼らの知識もただ常人社会の現代科学が認識したわずかなものに過ぎないのです。厖大な宇宙の最もマクロから最もミクロに至るまで、人類社会はちょうど最も真ん中、最も外側の層、最も表面にあります。生命も最も低い存在形式なので、物質と精神に対する認識もとても少なく、浅はかで哀れなものです。全人類の知識を身に付けたにしても、やはり常人に過ぎません。


退職した後に修煉する


 講義も受けたことがあって、根基も悪くはない一部の学習者が、仕事が忙しいので修煉をやめましたが、とても残念です! もし、一般の常人ならば、わたしはこれ以上何も言いませんし、その人の好きなようにさせますが、この人たちには望みがあるのです。人類の道徳は一瀉千里ですべり落ちつつありますが、常人はみな波に従い、流れに身をまかせており、道から遠く離れれば離れるほど、元へ戻るための修煉が難しくなります。実際、修煉とは人の心を修めることであり、特に複雑な職場の環境にあっては、まさに心性を高める良い機会なのです。いったん退職すれば、修煉の最も良い環境を失うことになるのではありませんか? 何のトラブルもなくなれば、まだ何を修煉するのでしょうか? どのようにして向上するのでしょうか? 人間の生命には限りがあり、往々にして、よく計画を立てていますが、自らの将来に残された時間がまだ間に合うかどうか、あなたに分かるのでしょうか? 修煉は子供のたわむれ事ではなく、常人のいかなることよりも厳粛で、思うようにはならないものです。いったん機会を失ってしまえば、六道で輪廻して、いつ再び人身を得るのですか! 機縁は一度しかなく、放下できない夢幻が過ぎ去ってから、初めて何を失ったかを知るのです。




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