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米国での第一回説法

李 洪 志

一九九六年十月五日 サンフランシスコ・ベイエリアにて



 ここに座れば、皆さんは私のことがよく見えます。(拍手)
 
 多くの人は朝早く遠いところから運転して来ました。現在、既にここでは多くの人が法輪功を修煉しており、私も前からアメリカを見てみたいと思っていました。様々な理由で来る機会がありませんでした。今回皆さんとお会いすることができ、みな縁なのです。法輪功を修煉することができるのも縁によるものです。(拍手) ヒューストンで講演会を開き、もっと多くのアメリカの人に会うことを予定していますが、ここを経由しているので、まず皆さんに会うことにしました。

 いずれにせよ、皆さんのこの功と法に対する認識の深さはそれぞれ異なり、理解の深さも人によって異なります。私が伝えているものは佛家の修煉法なので、佛家の話で言うと、得ることができれば、これが即ち縁なのです。今皆さんはまだこの法が貴重であると分かっていませんが、それが分かるときになると、自分がとても幸運であると感じるはずです。私が説いたこれらの理と皆さんの修煉を指導しているものは、千年来、百年来、公に説いた人はいませんでした。実は時間はもっと長いのですが、歴史上、かつて誰も説いたことはありませんでした。修煉のことに触れましたが、中国というこの特殊な環境の中で、歴史上、多くの修煉者がいたと皆さんは思っているかもしれませんが、実は彼らは現在もいます。また、多くの修煉者が世界各地にいます。人があまりいないところにもずっと修煉している人がおり、しかもかなり高齢になっています。彼らは世間に入らず、常人と接触していないので、常人も彼らのことを知らないのです。

 現在の科学技術の発展につれ、人々がますますいわゆる現実を認識するようになった時、それはつまり人類の本当の歴史、本当の現実をますます多く捨てている時なのです。現在、人々がこれらのことを言っているとき、いつも神話を話しているかのようです。実はそうではありません。これらの正しい宗教と多くの古来の伝説は、なぜ数千年を経てもまだ伝わっているのか、きっとそれなりの理由があります。常人社会の中にも様々な自ら解釈することができない現象があり、私たちはそれに遭ったり、聞いたり、または自ら経験したりしました。現在の考え方と現在の科学の理論からそれを解釈することができず、これは科学が進んでおらず、しかもそこまで進むことができないために引き起こされた現象です。実は私に言わせれば、皆存在しているものです。現代人は科学を必要以上に信じていますが、この科学がそこまで進んでいないため、科学をもってこの次元を突破し、真相を認識する術はないのです。

 現在の科学技術が非常に進んでいると人々は思っています。実は宇宙の真実と比べれば、非常にレベルの低いものです。コンピュータが非常に進んでいると人々は思っていますが、実はコンピュータがいくら発展しても、人間の脳とは比べることができません。人間の脳は人類にとって永遠の謎です。将来、多くの人が法を学び修煉することによって功が開き、悟りが開き、圓満成就まで修煉するので、その時、相当ミクロ的な次元とマクロ的な次元から、生命、宇宙と物質を認識するようになります。

 ご存知のように、物質はミクロ的な粒子から、より一層大きい粒子を構成し、大きい粒子はまた更に大きい粒子を構成し、このように表面物質まで構成されています。つまり、中性微子がクォークを構成し、そしてクォークが原子核を構成し、次に原子に進んでいくという情況です。人間の最も表面で構成されたこの物質、この表面の分子粒子は皆異なる更にミクロ的な物質によって構成されています。現在の科学者はミクロ粒子の組み合わせ、顕微鏡から知ったわずかばかりの現象、分子と原子、更に中性微子の存在だけを知っています。更に小さくなると機器でさえ観察できなくなるかもしれません。もし倍率が大きく、直径の大きい顕微鏡があり、一つまたは幾つかの分子粒子だけが見えるのではなく、微視的な粒子が構成したその面まで見ることができれば、人間に他の空間が見えるようになります。長年来、人間は今の考え方の枠を突破することができず、ミクロ粒子の点としての存在、幾つかの個体の観察だけを重視しており、この観念を破り、一つ一つのミクロ粒子をつないで、ミクロ粒子が存在している面の全体を見ていません。実はそれは即ち他の空間です。これほど簡単なのです。現在これらのことを突破することができず、今の技術ではできないのです。

 先ほど言ったこれらのことは現代人の考え方と言葉で話しました。これは人間が知りたいことですが、人間に教えてはいけないことです。宇宙の本当の理を人間に明かした人はおらず、今まで人間に教えてはいけなかったのです。なぜなら、天の理から言えば、人間は非常に次元の高い天上から一歩一歩、常人社会、つまり地球に堕ちてきたからです。修煉界ではダーウィンの進化論は認められていません。人間は猿から進化してきたのではありません。実は高次元の生命から見れば、確かに全く異なるものです。現在の実証科学からの認識は人為的に多くの虚像を作ったのですが、人類にそれを破る勇気はありません。人間はこの非常に低い認識からいくらかの現実的な利益と科学の知識を得たかのようにみえますが、実は人類、生命と宇宙にとって全て破壊的なものです。しかも、生命を向上させることもできません。これであっても、一部の人は権威のため、自分のいわゆる学問と知識が他人に否定されないように、学問と知識を守っており、人類が更なる高い認識を得られないようにしています。ですから、間違っていると分かっていても、感情的にこのような理性的でない行為を守っています。しかし、宇宙の真相は人為的に人間自らにより封じ込められてしまいました。修煉は人を本当に高めることができ、修煉者は生命と宇宙の真相を見ることができ、接触することができます。

 現在の人間が現代科学にあまりにも封じ込められているため、これらの真相は全て迷信だと思われています。実は迷信であっても、科学者として、しっかりした考えを持っている人間としては、なぜ迷信なのか、人間はなぜ迷信を信じているのかを研究すべきです。現在の人々はほとんどそれに触れる勇気がありません。私が思うには、アメリカの環境では割合良いかもしれず、多くの人がこのような枠に囚われていません。現在の実証科学によってもたらされた制限により、人間は人為的に自分の考えを封じ込めてしまい、なかなか生命と宇宙及び物質の真相を認識することができないのです。

 修煉することによって、宇宙の真相、特に佛法を認識することができます。しかし、現在の人々は現代科学しか信じておらず、それらのものは皆、神学、宗教の類いのもので、科学ではないと思っています。実はこれこそ、人類が宇宙を認識する唯一の手段です。ご存知のように、アインシュタインは晩年、宗教を信じるようになりました。科学において造詣が深いと人々に思われている人の多くは、最後に宗教に入りました。彼らは宗教の中で説かれた理が、更にレベルの高い真理であると気づいたのです。人類の認識に限界があり、この限界を超えると、科学には成す術はありません。しかし、佛法は宇宙の中の全ての現象を説明することができます。彼らは神が説いたことこそ、更にレベルの高い科学であると気づいたので、宗教に入ったのです。

 もちろん、私は気功という形でこの法を皆さんに伝えていますが、実は中に非常に大きな内涵があり、歴史上誰も説いたことのないことであり、私は全てそれを明らかにしました。『轉法輪』という本を真剣に読めば、本当に貴重なものであると分かるようになります。中に多くの天機がありますが、表面を読んだだけでも、人々に大きなメリットをもたらすことができます。普通の人なら、どのように人間として行動すべきかが分かるようになります。修煉したくない人には、内涵や『轉法輪』の高次元の理を読み取ることができません。しかし、その中には大きな内涵が含まれており、人々はこれに基づいて圓満成就まで修煉することができます。圓満成就にとどまらず、生命を更に高い境地まで昇華させることができます。

 ご存知のように、修煉は身体の鍛錬とは違います。身体を鍛えるため、人々に功を伝えるのであれば、私はこれほど大きな法を説く必要はありません。私はほかでもなく、皆さんにこの法を得てもらいたいので、皆さんに宇宙の真相を教えたのです。つまり、あなたが修煉でき、更に高い次元を目指して自らを高め、あなたという人が昇華できるようにしたいからです。修煉の中で、あなたがこのようにすることができれば、この本はあなたを指導し、この目的に達することができます。しかし、修煉したくない人は、本の中の内涵を読み取ることができません。なぜでしょうか? 通常、この本をはじめて読むとき、この本は人々に良い人間になるための道理を説いていると感じるのです。二回目に読むとき、感じたことが異なり、これは修煉の本だと気付くのです。三回目に読むとき、もし本当に続けて三回読むことができれば、この本をもう手放したくなくなり、時間があれば読みたくなり、これが天上の本であると分かるようになります。

 皆さんも気付いたと思いますが、文学の角度からみれば、この本の文法と言語の構造はそれほど規則通りになっていないかもしれません。なぜなら、現在の文法通りの言葉は深い内涵を包容することができないため、私は規則を破り、規則通りの現代の文法を使いませんでした。しかも、中国語の方言も多く使いました。規則通りの言葉で説明することができないからです。更に、宗教の用語に属する言葉や、古来中国の民間に伝わっている修煉についての認識を表す言葉もあります。そのため、私は最も普通で分かり易い言葉、最もよく使う言葉と簡単な言葉を用いてこの大法を説きました。知識のある人もない人も、皆理解し、修煉することができます。しかし、中に含まれている道理は非常に奥深いものです。

 ご存知のように、私が人々に身体を鍛えるための気功を教えるのであれば、気功がどのように息を調整しているのか、どのように心を静めるかだけを言えば良いのです。これらの方法だけで病気治療と健康保持の目的に達することができます。もし高次元を目指して修煉しようとすれば、これらのものはちっぽけなものになります。なぜなら、これらのものは人々に高い次元を目指して修煉することを指導することができないからです。皆さんの学校と同じように、大学に入ろうとすれば、小学校、中学校、高校の基礎がなければなりません。中学校の教科書を使って中学で勉強し、高校に行ったら高校の教科書を使い、最後に大学に入ったら、大学の内容を勉強しなければなりません。小学校の教科書を大学で勉強しても、あなたはやはり小学生です。なぜなら、あなたは大学の内容を学んでいないからです。更に高い次元の法を学んでいなければ、上まで修煉することはできません。つまり、高い次元への修煉を指導するためには、更に高い次元の理がなければなりません。

 『轉法輪』の中にこれほど次元の高い内涵がありますが、この本の表面からはそれが分からないのです。同じ言葉でも、向上してからもう一回読めば、元の意味ではなくなり、他の意味になったと気付くはずです。きっとそうなります。如何なる本もこのような状態に達することができません。なぜなら、それは修煉の本ではなく、常人の理論に限られているからです。それに対し、この法は完全に常人の理論を越えており、奥深い内涵を有しています。それが修煉だからです。佛家の言い方で言えば、常人から修煉し始めますが、私はこれを世間法修煉と言い、人体修煉とも言っています。この段階において、多くの向上すべき方面を完成しなければなりません。人体修煉は以前の修煉の本の中で多く言及され、とても曖昧な書き方でしたが、皆この方面について書かれたのです。

 この本が世間法での修煉しか指導することができなければ、あなたは三界を出ることができません。この本の中に人体修煉と三界の各次元での修煉に関する理、ないし三界外の理が含まれていなければなりません。修煉者はその次元の理の指導の下で、はじめて、その次元に達することができます。ですから、更に高い次元の理に導かれて、はじめて、更に高い次元に達することができるのです。つまり、三界を越える理がなければ、あなたは三界を出ることができません。私がかつてお話した学校と教科書の例と同じように、本の中にそれほど厖大な内涵がなければ、あなたは全く修煉することができません。つまり、こういう意味です。今日私が伝えているこの法は、他の如何なる気功師が言っていることとも異なっています。それらの気功師は人々に病気治療のことしか教えていません。私はここで、他の気功師はレベルが低く、良くないと言っているのではなく、そういう意味ではありません。誰もこのことを行なっていないと言いたいのです。しかし、現在私が知る限り、私だけがこのことを行なっています。皆さんは本を読み、私が何をしているのか多くの人は既に分かっています。中国においても全世界においても、誰もこのように行なっていません。なぜなら、これは小さな問題ではなく、高い次元へ人を導いているのです。いったんこのように行なったら、非常に大きな問題と関わるのです。

 正法を伝えることは非常に難しいことです。ご存知のように、イエスは当時、正法を伝えたため十字架に磔にされたのです。釈迦牟尼も仕方なく涅槃の道を選びました。常人社会に多くの固定観念があり、各種の人間の勢力、宗教の勢力があり、多くの要素も各自の環境を形成してしまいました。これらの要素に正の一面がある一方、負の一面もあります。負の一面は即ち悪の勢力です。人類社会の全ての正しい物事の中に負のものが含まれています。この負のものは人々に害を与え、人々を抑圧し、攻撃するのです。更に、政権と各種の手段を利用して人々を抑圧するのです。ですから、正法を伝えるのは最も難しいことです。悪い人が邪法を伝えることはかえって、誰も干渉しません。

 佛は衆生が苦しいと思っています。イエスも自分の友だけではなく、自分の敵をも愛さなければならないと言いました。なぜなら、彼らは衆生に慈悲深いので、世の人々を救い済度するのです。修煉者として個人の修煉において、常人の中であなたに反対する人を愛することができなければ、佛になることはできません。確かにこの道理です。なぜなら、修煉者は慈悲でなければならないからです。慈悲はつまり、常人の中の全ての恩讐を放下し、常人の全てに執着せず、常人の名利を求めないということです。人心を放下すべきです。修煉の中で常人の全てを淡泊に見るようになるので、常人から抜け出すことができます。
 
 もちろん、ここでお話した要求は少し厳しいかもしれません。なぜなら、私が伝えているのは常人の中の普通の気功ではなく、本当の修煉だからです。しかし、気功と切り離すこともできません。なぜでしょうか? 気功が高い次元になると、修煉になるからです。これは間違いのないことです。しかし、社会で伝わっている気功はみな修煉の中の最も低い次元のものです。身体の健康や、病気治療と健康保持のためのものであり、それ以上のものはありません。なぜなら、これは非常に、非常に難しいことであり、誰かが思い立ったらできるようなことではないからです。

 非常に難しいと言ったのは、私がこれを伝えるのが非常に難しいことであって、あなたがこれを得るのも非常に難しいという意味です。在席の多くの人は縁のある人で、非常に大きな縁を持つ人もいるかもしれません。この全てになんら特別なこともなく、普通にこの法と出会い、普通にこの法を知るようになり、または偶然にこの功を修煉している人がいると知り、或いは友人の紹介で自然に学ぶようになったと思っている人がいるかもしれません。常人という社会形式は他でもなく迷いの中にあるので、突然、仙人が飛んで来てこの法を学ぶように教えることはありえません。こういうことはありません。なぜなら、このようになったら常人社会の迷いを破ってしまうことになります。この迷いを破ってしまえば、悟りもなくなり、修煉も難しくなります。ですから、人間が接触した多くのことは偶然のようにみえますが、それは偶然ではないかもしれません。

 中国で、学習者にこんなことをお話したことがあります。多くの人はまだ知らないだけで、普通にこの講習会に入って講義を受けたと思っていますが、実は幾世、ひいては十数世、数十世の中でこの法を得るために苦を舐めたかもしれず、(拍手)あなたはそれを知らないだけです。この法のために命を落としてしまった人もいます。修煉の中で私は口をすっぱくして皆さんに善を勧め、皆さんを導いていますが、歴史上、皆さんが誰であったのか私は分かっており、この法を得るために皆さんが多くの代価を支払ったことも私に分かっているからです。私はこのように皆さんに教えなければ、皆さんに申し訳ないのです。

 もちろん、私が話したことは、少し分かりにくいかもしれませんが、かなりレベルの高い話をしています。実は人間はこの世で生きている間、人間の表面にあるこのわずかな現有の空間で起きた、この数十年のことしか知ることができません。しかし、人間の生命は人間の死によって滅びることはありません。地獄に落ちても、十八層の地獄に落ちてもまだ尽きることはありません。罪の大きな生命は更に低い次元へ落ちていき、消滅され壊滅されてしまいます。人間が死ぬ時、分子で構成されたこの次元の物質身体から抜け出ただけで、本当の生命は人間のこの皮が息を引き取る瞬間に、体から離れてしまいます。人間は死ぬ前とても恐れていますが、皆さんに教えますが、全く恐れる必要はありません。人間の思惟がまだあるとき、怖く感じています。人間の思惟はつまりこの肉体の細胞で構成された思惟であり、いったん、それが静止の状態になると、人間は突然生まれ変わったかのように、解脱したかのようなある種の興奮した感覚を覚え、しかも体が軽く、肉体の束縛もなく、考えは全て開かれます。生涯で行なった事は一分前にしたかのように、ありありと目の前に浮かび、どんなに小さな出来事も忘れていません。なぜなら、生命の考えまで解脱したからです。その時、本当の自分が誰なのか分かるようになり、生涯で行なった事の良し悪しも分かるようになります。あたかも眠りから目覚めたかのようです。

 もちろん、私が言ったこれらのことは、今まであなたは聞いたことがないかもしれませんが、これは事実です。私はこの方面についてよく知っており、多く観察してきました。特に、病院で医者が患者を救急蘇生している時、患者は既に死んだのに、まだ救急蘇生をしているのを時々見ます。その人の元神が既に身体から出ていってしまったのです。二つの時空の概念が違うため、他の空間は時間の速さ、空間の構成における差異において、人間のこの空間とは違います。人体から解脱した時、一生の間に行なったことは、先ほどしたばかりのように、一眠りしただけのようです。佛もこのように人間を見ています。人間は迷いの中にいるため、どうしても頭脳を冷静に保つことができません。それに、人間の生命は短いものです。

 この法は皆さんに伝えましたが、なんと言っても、皆さんは縁があってこれを得たのです。既に法を得た以上、仕事の後の時間を利用して、この本をめくってみてください。繰り返し読んでみて、私が言ったようなことであるかどうかを試してみてください。そうでなければ、学ばなくてもいいのです。もし本当に真剣に読んでいけば、私が何も言わなくても、あなたはもうこの本を手放さないでしょう。なぜなら、あなたには更に高い次元の理がみえたので、読み続けるに違いありません。この本は常人の知識を超えています。誰にも佛性があるので、読み続けていけば、この本を大切にして手放したくなくなります。

 私がこの法を説いているとき、中国大陸の人の考え方で話しているかもしれず、それを本にする時も同じです。アメリカ人及び世界の他の国の人との考え方や物事に対する見方には違いがあり、書かれたものの表面に現れた思考様式と、それに対する理解の程度において差がありますが、修煉に関する法理の内涵は皆同じです。如何なる地域、如何なる国、如何なる民族も学ぶことができます。ですから、この本さえ読めば、皆同じです。皆さんは法を勉強する時、これらのことを重くみないでください。誰もが理解できると思います。なぜなら、このことをするために、わずか一日、二日の準備をしていたわけではなく、歴史上はるか昔の年代から準備を始めていました。

 ご存知のように、常人社会に何らかの出来事が起きる時、偶然に現れてきたのではなく、それは天象の変化によるものです。人類の発展の歴史において、この按排がなければ、このことは歴史に決して現れることはありません。ご存知のように、無数の高級生命がおり、佛家は佛のいないところはなく、数え切れないほど多くいると言っています。しかも、形体を持つ神もいれば、持たない神もいて、宇宙の中にあまねく存在しています。常人社会の多くのミクロ的な物質を、人々は微量元素と呼んだり、空気中の各種の元素と呼んだりしていますが、これは人間に認識できたことです。しかし、まだ人間に認識できていない更に更にミクロ的な物質があります。厖大な宇宙の中にあまねく存在している物質は皆佛性を持つ高級生命で、皆が人間を注視しており、見たり観察したりしています。

 この大法が伝えだされた時、それは驚天動地の出来事で、今の常人社会ではそのような表れは見られませんが、他の空間では驚天動地なのです。歴史上、宇宙の本当の理を人間に説いた人はおらず、かつてなかったことです。ご存知のように、老子にしても、釈迦牟尼、イエスにしても、彼らはこの宇宙の法理の中の、自ら認識し悟ったその部分しか説いておらず、自らの認識しか話しませんでした。しかし、宇宙の法は無辺なのです。如来を超えた佛は計りしれないほどいます。これらの佛が認識している法も非常に大きなものです。更に佛陀の次元をはるかに超えている無形の厖大な生命もおり、皆佛性を持っています。宇宙は人類が宗教の中で認識しているほど小さなものではありません。人類の認識は人類のこの社会に限られています。宗教が認識した宇宙は既に非常に大きいものだと人類は思っていますが、更に高い神から見れば、それはとてもちっぽけなものです。

 私が説いた理は更に大きいものであり、しかもそれを人間に伝えました。これは確かに歴史上はじめてのことです。私は人間の形式、人間の言葉で、最も次元の低い修煉形式をもって、最大の事を行なっています。今、言葉と環境の違いにより、アメリカと他の地域では学習者の人数は中国大陸ほど多くはありません。中国大陸で学んでいる人の大多数は真に修煉しており、毎日修煉している人は一千万あまりいて、修煉しているか修煉していないかのような人を含めれば、数千万人います。この法を知っている人は中国大陸で数億人います。法輪功といえば、誰もが知っているようです。しかし、この法は政治に参与してほしくなく、政治に参与するようなことをさせてはいけません。修煉がいったん政治に絡んでしまうと、邪法になります。私たちは他でもなく、民間で伝わっているだけで、正式に新聞や公に大々的に宣伝さえもしていません。修煉している人は法輪功が素晴らしいと感じ、自ら他の人に勧めたというのが殆どです。素晴らしいと感じた人が家族に勧めるという情況です。ご存知のように、法輪功が素晴らしいと感じていない人が、家族に勧めるわけはありません。家族の中に良いと感じた人がいて、親戚、友人は皆勧められて学びにきました。このように、法輪功が民間で広まりました。また私は最も次元の低いことから説き始め、徐々に次元の高いことに触れ、このように二年間説き続けました。そして最後に本当にこの大法を説いたのも二年間で、合わせて四年です。中国では、知らない人がいないほどです。海外でも大きな反響を呼びました。海外で多くの人々はまだ修煉を始めていませんが、既に法輪功のことを聞いています。東南アジアでの反響はアメリカでの反響より大きく、多くの国で輔導站や法輪大法佛学会、法輪大法学会が設立され、速やかに上昇している傾向がみられます。

 ここで皆さんに教えますが、釈迦牟尼の話から言えば、今は末法時期で既にだめになった時期であり、つまり法がなくなったのです。釈迦牟尼は自分の法が末法時期になると、人を済度することができなくなると言いました。もちろん、多くの和尚も成就することができません。なぜならば、和尚はどのように修煉するか分からず、経書を理解することができず、経書の中の本当の意味を認識することができないので、修煉が非常に難しくなりました。現在大法を学びに来ている人はとても多いのです。皆さんに教えますが、人類社会でどんな情況が現れても、偶然ではありません。これほど多くの人が学びに来ましたが、こういう天象がなければ、このことも現れないのではありませんか? 皆さんに教えますが、きっとそこに原因があります。
 
 人類に相生相克の理があり、正しいものが現れると、きっと邪なものも現れてきます。一方、今の社会に各種の邪教、多くの偽気功が現れてきました。表面では、これらのことをする人がお金のため、名を売るためにやっているようにみえますが、実はその多くは邪な魔が転生して世を乱しに来たのかもしれません。釈迦牟尼は、法を伝えていた時、人類社会が「五つの罪悪を併せ持っている」のがみえたと説きました。実は現在の社会はその時の社会よりも複雑で、十の罪悪がそろっており、邪な宗教もたくさんあります。
 
 ここで皆さんに教えますが、私たちは決して宗教をやりません。学びたければ来てよいのですが、学びたくなければ帰ってもよいのです。全てが自己の意志によります。もし、むりやりあなたに学ばせ、学ばなければならないと言い、いったん学んだら他所に行ってはならず、必ずここに留まるようにというのであれば、皆さんも分かるように、このこと自体が既に邪なことをやっているのです。正法であれば、その人が心から学びたいと思わなければなりません。どうしても強制的に修煉させるのであれば、その人は修煉することができますか? このような人は決して真に修煉しないのです。心から学びたいと思ってはじめて、修煉できるのです。ですから、強制的にここにいさせることは全く意味のないことです。私たちはこういうことをしません。学びたければ学んでよいのです。学びたければ、私はあなたに対して責任を持ちます。どれほど大きな縁があろうとも、学びたければ私はあなたに対して責任を持ちますが、学びたくなければ好きなことをすればよいのです。

 私がこの法を伝える目的は、つまり素晴らしいことと福音を皆さんに伝えるためです。皆さんの中の多くの人は確かに縁があって、この法を得るべき人であり、法を得ることをずっと待っていました。人類は非常に乱れた時期に入り、社会全体の道徳は堕落しています。多くの人が大きな劫難がやってくると言っていますが、皆さんに教えますが、今は彼らが言っている大きな劫難はありません。しかし、人類にとってこのまま堕落していくことは非常に危険なことです。なぜ危険なのでしょうか? 皆さん考えてみてください。現在、社会の人々は既にどのようになっているのでしょうか? 各種の堕落現象があまりに多くあり、数え切れないほどです。人間はなぜ人間と呼ばれているのでしょうか? 人間がこの世で生きていれば、人間の道徳基準と規範がなければなりません。これがあってはじめて、人間であり得るのです。でなければ、人間とは言えません。頭と四肢さえあれば、人間になるということではありません。猿にも四肢があります。他の空間で人間に似ている生物は他にも多くいますが、それらは人間とは言えません。なぜならば、人間には人間としての行動基準と道徳基準、道徳規範があってはじめて、人間になるのです。もし人間が人間としての道徳規範を放棄し、人間の道徳基準がなくなり、動物のようになったら、天上の神は人間を人間として認めず、獣だと思ってしまいます。その時になると、人間にとって本当に恐ろしいことです。

 なぜ恐ろしいのでしょうか? 皆さん考えてみてください。ここは人類の空間であり、地球は神が人間のために造ったのであり、獣のために造ったのではありません。もしそうであれば、多くの良くない人は今どんな悪事でもやっていますが、こういう人は絶滅の危険に晒されています。多くの善良な人、少しましな人も悪い人と一緒に堕落しています。今、ある人が修煉することができなくても、私がこの理を人々に教えれば、人々は目覚めるようになり、人類が今どうなったのかを認識し、これ以上堕落して恐ろしい結果にならないのです。

 私が話しだすと、なかなか終わりません。私はいつもこれらの理を全て皆さんに教えたいと思っています。この後、ヒューストンの会議に出るので、ここで皆さんにお会いして、簡単に話をして、ついでに皆さんに会ってみただけです。(拍手) またこの法が本当に非常に貴重なものであると皆さんに教えたいのです。私は無償で皆さんに教えています。これは千年百年来、人々が知りたくても伝え出されなかった、この上なく貴重な真の法なのです。人間は、貴重なものを求める時、少しでも手に入ったら、ひいてはそれが一言であっても、それを何よりも大事にし、一生忘れません。しかし、もっと貴重なものがやってきて、私がそれを全てあなたに与えた時、あまりにも簡単に手に入ったので、かえってそれを大事にしない人がいます。人間は往々にして簡単に手に入ったものを大事にしないという悪い癖があります。しかし、皆さんに教えますが、他の方法はありません。皆さんにあちこち私を探すようなことをさせてはいけないので、私はこの全てを皆さんに教え、皆さんに知ってもらい、もっと多くの人々に知ってもらい、もう一度縁を繋ぐしかありません。大事にするかどうかは皆さん個人のことであり、皆さんは以前に縁があったのです。人間に分析する能力があり、この理が良いかどうかを自分で考えてみてください。私が思うには、皆佛性があり、自分で悟ればよいのです。(拍手)

 遠いところから来た学習者がいるようで、皆帰りたくないのですね。

弟子:先生、写真を撮ってもよろしいでしょうか?

師:大丈夫です。

弟子:質問をしてもよろしいでしょうか?

師:このようにしましょう。時間を長くしてはいけませんので、後、三十分にしましょう。皆さんの質問に答えます。皆さんに対して一つ要求があります。つまり、普遍性があり、本当に悩んでいる問題があれば、出してもよいのです。本を読めば解決できることであれば、出さないでください。多くの人がいるので、皆質問を出したら、二時間でも終わらないのです。どうですか?

弟子:質問を出してもよろしいでしょうか?

師:どうぞ、どうぞ。

弟子:先生の本を全部読んだし、法も学んでいます。多くの友達や親戚にも教えました。彼らの多くは以前佛教を信じており、キリスト教を信じていた人も多くいます。彼らは以前から呪文を唱えたり、教会によく行ったりしていますが、今法輪功を学んだら、これらのことをまたやっても良いのでしょうか?

師:では、説明します。あなたが聞きたいのは、他の宗教を信じながら、この法輪功を学んで良いかどうか、互いに影響があるかどうかですね。実は、これらの事は既に本の中で解答しました。では、もう一度説明しましょう。

 佛を修めることは、常人が思っている何かの学問ではありません。佛を修めることは非常に厳粛なことです。世の中にこれより厳粛かつ殊勝なことはありません。修煉に法門があります。佛教も不二法門を重んじています。佛教が末法時期になり、修煉が難しくなったと、先ほど私は言いました。なぜ修煉が難しくなったのでしょうか? 現在、人間は既に経書の中の意味を理解することができなくなりました。特に現代の佛学辞典の解釈は、釈迦牟尼が当時説いた話とは意味が違います。例えば、釈迦牟尼佛が説いた不二法門とは、修煉の際に混ぜて修めてはならず、同時に二種類、または二種類以上のものを修煉してはならないという意味です。つまり、禅宗を学ぶ人は浄土宗を学んではならず、浄土を学ぶ人は天台宗、華厳宗を学んではならず、華厳宗を学ぶ人は天台宗、禅宗、密宗を学んではいけません。

 なぜでしょうか? 現在の人はそれが分からなくなり、佛であれば拝み、どの法門の佛かを問わず、全て拝みます。これは今日の和尚が修煉しても成就できない最も重要な原因です。実は、佛は一人一人、皆自分の天国を主宰しており、各天国に一人の如来がいます。例えば、薬師佛は琉璃世界を主宰しており、華厳世界には華厳如来、蓮花世界には蓮花如来、極楽世界には阿弥陀佛如来がいるなどなどです。各如来佛は自分の修煉方法を持っていて、佛理の基点は皆宇宙の法理から悟ったものですが、各如来の認識と修煉方法はそれぞれ違います。なぜでしょうか? ご存知のように、佛の能力はそれぞれ異なっていて、一人一人皆違います。この佛にこの能力、あの佛はあの能力を持っています。皆同じ境地にいますが、能力はそれぞれ違います。まさに皆さんが大学に入ったことと同じであり、あなたは大学生ですが、あの人も大学生です。あなたは理系を専攻していますが、あの人は文系を習っており、他の人は農業や天文を勉強しています。それぞれ違いますが、皆大学生です。身につけたものと学んだ知識も違います。私は簡単にこの例を挙げて説明しています。
 
 人間がある世界に行きたければ、昔、佛教の中では願を立てる必要がありました。浄土の世界に行きたい、阿弥陀佛のところに行って、佛陀の衆生になりたい、或いは菩薩、羅漢まで成就したいと思い、あなたが願を立てたら、その一門で修煉し、阿弥陀佛の経を読み、阿弥陀佛だけを唱え、他の経を見てはいけません。これが不二法門の修煉と言います。もし華厳世界に行きたければ、『華厳経』だけを読み、他のものは何も読みません。それらが全て佛理なので、人間にとって皆有益であると思いますが、これは人間が考えていることで、気をつけなければ乱れてしまいます。一冊の経書の中に最低の次元から高い次元までの修煉の全ての理が含まれていますが、人間の心が各法門を混ぜて修煉したほうがいいと思っているだけなのです。
 
 現在のこの人類社会は閉じ込められており、人間を済度する全ての正神は人間を手放してしまいました。今の人間はあまりにも悪くなりすぎたと認識した神は、人間を見捨て済度しなくなりました。先ほど、この法を伝えることはとても難しいとお話しました。多くの神佛が法を伝えることを阻んでいます。彼らは今の人間をこれ以上済度すべきではなく、残してもいけないと考えています。これらのことは人間が分かっておらず、まだ人生が楽しいと思っています。人間は道徳において、現代人が以前の人間からどれほどかけ離れているのか分からず、天地の差がどれほど大きいのか、神佛がどのように人間を見ているのか、天上がどれほど純粋で清らかなのか、佛がどれほど殊勝で偉大なのかが分かりません!

 人間は天人とあまりにもかけ離れています。人間世界の空が澄み切っていると思われていますが、それは人間がこの空間の物質で構成された肉眼で見ているからです。もし人間が高次元の空間から人類を見ることができれば、人類社会には黒い波がうねっていて、業力が非常に大きく、極めて汚いと分かるようになります。ですから、人間に対する神佛の考えは人間が想像しているようなものではありません。神佛は人間に慈悲深いから人間を救っているのであって、あなたから賛辞を受けたからあなたを済度するのではなく、あなたが欲しがるものを何でも与えるわけでもありません。実は神にしても佛にしても、彼らは修煉の形式を重んじていません。宗教がいくら広く伝えられても、それは修煉ではありません。私は人間のために功を伝えているのであって、宗教を伝えているのではありません。神佛は宗教形式そのものを認めておらず、人間だけを認めています。

 人間はいつも自分が信じている宗教が本当に素晴らしいと言っており、まるで佛、イエス、天主を護っているかのようです。そうではありません。彼は宗教そのものに熱心であればあるほど、執着になっています。この心が強ければ強いほど、神から離れていきます。宗教は人間が作った修煉形式であり、宗教がいくら整っても、人間の修煉が完全なものになったとは言えません。人間は往々にして宗教に執着していますが、佛と神はそれを見てとても心が苦しいのです。佛はこの世での形式を見ていません。帰依したり、洗礼を受けたりしましたが、まだ常人の心のままであれば、何の役に立つのでしょうか? 彼らはこれらのことを見ておらず、あなたが本当に修煉しているかどうかだけを見ています。帰依しなくても、洗礼を受けなくても、ひいては線香も立てず、佛も念じなくても、神佛の要求に従って行ない、精進して着実に修煉していれば、神佛はこれを見て本当に嬉しいのです。あなたが求めなくても、神佛は時々刻々あなたを守り、あなたを見守り、あなたの修煉を助けています。こういう道理ではありませんか?(拍手)

 どうしても佛教の本や『聖書』、まじないを念じることを手放すことができないと言っている人がいます。放下できないのは宗教であり、佛ではありません。皆さんよく考えてみてください。今、宗教を信じているのは、そういう状況ではありませんか? 人間はなぜこれらのものを放下できないのでしょうか? 自分の心の底にある根っこをよく掘り出して、その心がどのようにこの問題を認識しているのかをみてください。物事の表面をみてはならず、真に自らを修めることこそ本当に神佛を信じることです。佛もこのようにみています。彼らは宗教がどれほど大きく発展したかをみているのではありません。ご存知のように、歴史上多くの人々が修煉して成就しました。しかし、彼らは宗教の中で修煉していた人ではないかもしれません。多くの大徳の士は宗教の中で修煉しているのではないけれども、いつも自分に厳しく要求し、いつもどのように良い人になるのかを考えています。長期にわたってこのように揺るぎなく行ない続けることができて、しかもますます良く行なうことができれば、佛は必ず彼を見守り、彼は圓満成就することができます。

 私が説いた理は、いろいろ説きましたが、他でもなく良い人になり、更に良い人、常人を超える良い人になることを皆さんに教えています。それをやり遂げることができれば、あなたは超常的な人になり、更にそれを超えることができれば、あなたは更なる高い境地の生命になります。ですから、このような人は天上に行かずに、この世にとどまることがあり得るでしょうか? 人間は私心のためのものであり、負けず嫌いで名と利を争っています。この世の人は既にあなたと同じではなくなりました。こういう道理です。どの宗教であれ、神がいったん手放したら、宗教は一種の常人の社会形式、社会での仕事となり、本当の修煉に実は影響はありません。彼らにこのように話すべきです。しかし、ここに修煉に対して厳粛かどうかの問題があります。専一に修煉してはじめて、本当の修煉なのです。学びたければ学んでよいのです。修煉に影響はありませんが、ここに修煉に対して厳粛かどうかの問題があると彼らに教えてください。何の影響もないことを教え、本を読めば分かってくれると思います。(拍手)

弟子:師父が教えてくださった五式の功法以外、手印もあるようです。つまり、師父がなさっている手印です。

師:まず手印とは何かをお話します。手印は一種の佛の言葉のようで、一種の表現方式です。佛が何かを表現する際、言葉を使いたくないとき、手印を打ちます。佛と佛の間は思惟で伝達することもあります。私の法身を見たり、または佛と菩薩を夢で見たり、ときにあなたに何か話しかけているとき、口を使っていませんが、声が聞こえてきます。これはつまり思惟で伝達しているのです。現代の言葉で言うと、立体音声のある思惟の伝達です。多くの菩薩と羅漢に説法するとき、手印の方式を採る場合も多くあります。これは人間の手話ではなく、手話より神聖かつ純潔で、しかも威力が強大なのです。佛の言葉だからこそ、打たれた手印にエネルギーがあり、威力を持っています。佛より下の衆生にとって、佛から伝えられたものはつまり法です。しかも、手印は話すことと同じで、言葉がこのように組み合わされても良いし、あのように組み合わされても良いのです。また、一つの問題に対して異なる角度から話すことができ、固定しているものではなく、規範もないのです。しかし、具体的な煉功のときに使う定印もあります。つまり手が印を結んで動かないという姿勢です。それを定印と言います。例えば、蓮花手印や煉功の時に結んだ定印は、全部定印です。動いている手印は固定している手印とは違います。私が煉功テープの中で打った手印は皆さんが煉功を始める前に、私が皆さんの分かっている一面、他の空間の衆生に説いたものです。ですから、皆さんはそれを習う必要はありません。皆さんは将来、佛にまで圓満成就したら、全てできるようになります。

弟子:李先生、今日すべての人に法輪を授けてくださるのですか?(拍手)

師:皆さんに教えますが、心から真に修煉さえすれば、ここに来ても自分で本を読んでも、全て法輪を得ることができます。更に皆さんに教えますが、この本をくれぐれも大事にしてください。あなたは今まだ認識することができないかもしれませんが、この本の中で説いたのは佛理なのです。修煉の中の全ての次元に関するものが、この本に全て含まれています。実はあなたの修煉を指導しているのは佛法です。修煉の中で佛と神はあなたを助けます。皆さん考えてみてください。天上の各次元に誰が住んでいるのでしょうか? 神々と佛ではありませんか? 更に次元の高い佛、更に更に次元の高い佛、またそれよりも更に高い佛とその上の佛ではありませんか? ですから、皆さんに教えますが、この本の一文字一文字の背後に無数の佛が一層一層に重なっており、最後の一層は私の法身です。また、異なる次元で法輪が現れてくることもあります。なぜこの本を手にして読んでみたら、気分が良いと感じたり、業が滅せられたり、病気が治ったりする人がいるのでしょうか? もちろん、修煉の中ですぐに業を全て取り除くのではありません。一回目でそれほど多くの業を消去してあげないかもしれません。心性が昇華したら、更に一部の業を消すことができます。このようにしたのは修煉の中であなたを高めるために行なったのです。ですから、この法の威力は本当にとても大きいのです。皆さん考えてみてください。それなら、私が自ら法輪を皆さんに植え付ける必要がまだあるのでしょうか? どのような人であっても、心から真に学び、修煉していれば、得ることができます。大法は全世界で広まっていますが、私は全世界の全ての人に会うことができないので、中国で講習を受けた人だけが私に会ったことがあり、他の多くの学習者は私に会ったことがありません。修煉の中で法輪を含め、私が授けたものがなければ修煉できますか? できません。ですから、私は私の能力をこの本の中に加えました。修煉する人がいれば、本を読めば修煉の中で必要なものを全て得ることができます。

 現在、多くの学習者はあちこちに行って私を探していますが、私は彼らに会いたくはありません。ここにある理由があります。つまり、彼らに着実に自分のところで修煉してほしいからです。私に会うと平静さを失ってしまう学習者がいて、そうなると彼の修煉を妨害してしまいます。私は彼らに心を静めて修煉してほしいのです。私が法を伝えるだけではまだ不十分であり、あなたは法を得なければなりません。あなたに本を読み着実に修煉する時間を与えなければならないので、私はできるだけ学習者に会わないようにしています。私に会わなければ、私が伝えた法が皆さんに対して責任を持つことができないということであれば、私が行なったことは無駄になります。ですから、本さえ読み、真に修煉すれば、得るべきものはこの法門の中で全て得ることができます。必ずそうなります。(拍手)

 千百年来、釈迦牟尼佛の弟子も師に会うことができず、経書だけに従って修煉していたのではありませんか? 真に修煉する人なら、この法はあなたに必要な全てを与えることができます。私があなたに法輪を与えても、通常、法輪を見ることができないようにしています。何かをもらってから、はじめて修煉を始めるという執着を取り除いてください。
 
弟子:李先生、気功に偽物もあれば、本物もあるとおっしゃいましたが、それらをどのように見分けるのでしょうか?

師:気功に本物もあれば、偽物もあり、常人にはとても見分けにくいものです。なぜなら、現在、人間の良し悪しを量る基準が変わったからです。本当に修煉したら、徐々に見分けることができるようになります。何を説いているのか、説かれたものが正しい理なのかどうか、または表面では善行を勧めていますが、本当のところ、お金のために人を騙しているのではないかをみれば良いのです。佛法の修煉はとても厳粛であり、決してお金に関わってはいけません。(拍手) この世の如何なるものも人間が利用して金儲けをして良いのですが、佛法だけに限ってはこのようにしてはいけません。その上、名のためにやっている人もおり、名と利は常人がいつまでたっても執着するものです。このような偽気功師は人々を邪道に連れ込み、人を済度することができないばかりでなく、かえって人々を駄目にしてしまいます。

 実は彼らの罪は軽くありません。もし根基の良い人が法を得るためにやって来たのですが、偽気功師に駄目にされてしまったら、考えてみてください。これはどれほど大きな罪なのでしょう。金銭のためにこれほど大きな悪事を行ないました。この罪は「金儲けのため」という理由で逃れることができるものではありません。中国で気功が盛んになっていた時、その時の気功師のほとんどは無償で気功を普及していました。今出てきたこれらの偽気功師は大きく乱れています。しかし、出てきた当時とても良かった気功師もたくさんいました。彼らは皆副元神が修煉しており、人間の一面は何も知らないのです。時間が長く経つにつれ、名利心が生じました。世に出ていないときは師父が彼を見ており、彼の副元神も彼を抑えていましたが、世に出て何かをするとき、人間の一面は最も世間の名利に誘惑されやすいのです。いったんこれらのことを求めると、落ちてしまうので、功がなくなり、気功師自身も病気にかかることがあります。

弟子:師父にお伺いしますが、学習者が圓満成就したらどこにいくのでしょうか?

師:私には法輪世界があります。天国世界は非常に多くあります。これについて皆さんに説いてもかまいません。在席の中に常人の知識レベルが高い人が多くいるようなので、宇宙の概念を皆さんに簡単にお話したいと思います。

 人間はこの空間しか知らないのですが、この空間も佛教徒が認識しているほど簡単ではありません。釈迦牟尼佛は在世中、宇宙の根本的な理から多くの真理を悟りましたが、当時の人はそれを記録せず、経文の中にも収録されなかったため、世の人々に残されませんでした。釈迦がこの世を去って五百年後に、後人が経文を整理したのです。ご存知のように、五百年後、釈迦牟尼が当時何を話したのか人間は正確に知ることが出来ません。これは今日残された経文であり、実は釈迦牟尼佛のもともとの話とはかなり違っています。しかし、その中にまだいくらかの佛理があるため、人々に修煉させることができます。人間には、これしか知られてはいけないことでもありました。この空間の衆生はこれしか知ってはいけないのです。

 宇宙は佛教の経文に書かれたほど小さくはなく、昔の修煉の道士が言っているほど簡単なものでもありません。釈迦牟尼は当時、羅漢法を説いたのですが、この羅漢法は果位の中の最も低い果位です。釈迦牟尼はもちろん、更に高い次元の法を説いたことがありますが、伝わってきたのは非常に少ないのです。釈迦牟尼は当時、如来佛がガンジス川の砂ほど多くいて、如来佛はそれぞれの天国を持っていると話しました。彼が言ったこの範囲は、人間にとって既に非常に大きなものになりました。実は、皆さんは分子がミクロ的な粒子によって構成されており、人間は分子と星の間に暮らしていると分かっています。実は、銀河系も宇宙の中の一つの粒子であり、多くの銀河系によって構成された範囲にも果てがあり、外殻があるのです。これは即ち、人類が言っている宇宙のことです。実はこれは小宇宙にすぎません。この小宇宙の外は何でしょうか? 現代の科学は想像することすらできず、人間にはこの概念さえないのです。宇宙は全く大爆発によって形成されたものではありません。

 小宇宙からはるか、はるかに離れたところに小宇宙と同じ天体があります。神佛に次元があり、低次元の佛には高い次元の佛が見えないのです。更に高い神佛から見れば、これも非常に、非常に小さい範囲です。人間が探索しようと思っても不可能です。人間は光速を知っていますが、光の速度は最も速いものではありません。光は時間と空間の制約を受けています。時間と空間も宇宙の中の物質によって構成されており、光を含む空間の中の全ても物質であり、各種の物質に皆、エネルギーがあります。皆さんは分子という空間で生活しており、空気や木材、水、金属、土、石は全て、分子という次元の粒子によって構成されています。この次元にいる人間は分子が持つ放射エネルギーを感じることができません。なぜならば、人体自身も分子によって構成されているからです。実は分子にもエネルギーがあります。人類の空間にある光の表面もこの次元の粒子によって構成されています。私が言いたいのは、異なる空間に異なる空間の光があり、それぞれの空間の光を構成する物質も異なり、時間と空間が異なっているため、光の速度も同じではないということです。更に細かくみていけば、原子にエネルギーがあり、原子核は更に強いエネルギーを持ち、中性子には原子核よりも強いエネルギーがあり、電子、クォーク、中性微子は順に放射性が強くなり、エネルギーが大きくなっていくのです。粒子が小さくなればなるほど、エネルギーが大きくなり、放射性が強くなるのです。本源物質まで至ると、そのエネルギーの強さは人間にとって言い表せないほどのものです。もちろん、人間は永遠に本源物質を知ることもありません。

 先ほどお話したことは、つまりこの宇宙は人間が認識したものほど簡単ではないということを皆さんに教えたかったのです。宇宙に大きさの異なる宇宙がどれほどあるのでしょうか? これは無量の数です。しかし、これは一つの小宇宙の体系に限って言えば、おおよそ三千の小宇宙はより大きな第二層の宇宙を構成し、三千の第二層の宇宙はまた第三層の宇宙を構成したと言ってもよいのです。このように推測していくと、人類にとって尽きることはないため、天がどれほど大きいのか、皆さんに教えますが、人類は永遠に天体の大きさを探測することができませんし、如来佛であってもできません。それはあまりに大きなもので、人類の現在の知識で認識したようなものではありません。

 先ほどお話したことを皆さん考えてみてください。人類が現在所有しているこれらの科学知識はどれほどのものなのでしょうか? 「幼稚園レベル」のものではありませんか。その上、現在の実証科学は人々を完全に間違った道に連れ込んだのです。実証科学は多くの虚像を作ったのです。このことは皆さんがまだ認識できないかもしれませんが、一例を挙げましょう。先ほど宇宙のように、現在の実証科学は大爆発によって宇宙が形成されたと考えていますが、これは人々に虚像を作ったのではありませんか? 人間は皆、このように認識してしまいました。実証科学は人間が進化の産物であると考えており、進化論は人間が猿から進化してきたのだと唱えています。全くそうではありません。それならば、人々を間違った道に連れ込んだのではありませんか? 人間の物質に対する認識も実は今のようなものではなく、基本的な認識から間違っています。しかも、人類は虚像の中で、この認識によって封じ込められ、ますます封じ込められ、少しの空間もなくなるほど自分自身を封じ込めたのです。それによってこの宇宙の真相は完全に隠されました。このような環境の中で、皆さん考えてみてください。宇宙の真相に言及すると、科学はそれを受け入れられるのでしょうか? 科学は既にこういう環境を形成してしまったので、必然的に抵抗し、更に次元の高いことに言及すると、迷信だと言います。つまりこういう道理なのです。

 多くの人はそのため、ある固定観念を形成しました。前人が作り上げた法則や学説、例えばアインシュタインの相対性理論ですが、人々はそれを科学の頂点だと思い込んでいます。後人はいずれもその中で物事を認識しています。更に高いレベルのものを考えたり、研究の中でそれを超えようとすると、すぐに「あなたはアインシュタインよりも有能なのか」と言われてしまいます。なぜでしょう? 形成された現代の実証科学の物質環境は人々を制限しているからです。本当に創造性のある科学者は、前人の認識を越えたとき、彼らの研究範囲での認識は理に適い、正しいのですが、それを越えた時、その認識は真理ではなく、かえって人の認識を制限していることに気づくのです。本当に創造性があり、優れた発想力がある人なら、それを突破する勇気があり、前人の枠を突破してはじめて本当に創造することができるのです。(拍手)

弟子:師父の経文を時間順に編集してもよいのでしょうか?

師:大丈夫です。経文という言葉に特別な意味合いはありません。経書、経文の元々の意味はつまり、人々が常に勉強する文章で、いつも読む文章のことであり、経常的な参照であるため、経と呼ばれています。

弟子:坐禅のとき、突然豹が現れました。それはどういうことでしょうか?

師:あなたが煉功しているため、妨害しに来たのです。恐れないでください。誰もあなたを傷つけることができません。(拍手) 私はこのことを行なった以上、修煉者のために責任を持つことができます。このことに関して、皆さんは安心してください。多くの人が学んでいますが、問題が起きる人はいません。しかし、一つだけ気をつけてください。つまり、必ず自分自身を煉功者として律してください。あなたに恐れの心があってはならず、恐れる心も取り除かなければならない人心だからです。

弟子:李先生、『法輪功』では第一式の功法を三回行なうようにと書いてあるため、皆三回やっています。それなら、「衝灌」と「法輪周天法」はなぜ三回行なわないのでしょうか?

師:皆さんに教えますが、この功法に多くの決まりはありません。時間があれば多く行なえば良いし、なければ少なくしても良いのです。今日時間がなく、第一式しかできなければ、それでも良いのです。時間がない場合、時に一つの動作しかできない場合、一つの動作だけやれば良いのです。時間があるとき、回数を多くすれば良いのです。ただし、九回目の度にいったん止め、連続してやらないほうが良いと思います。私のこの法の修煉は他の修煉とは違います。他の修煉は煉功のとき、功が人を煉っていますが、煉功していないとき、功が止まって動かなくなるのです。私たちの場合、二十四時間人を煉っており、法が人を煉っているのです。あなたは何のために煉功しているのでしょうか? 私が植えつけてあげたそれらの機制を強めるためです。私はなぜ、気機に従い動くようにと言ったのでしょうか? つまり、煉功の時、あなたの手のエネルギーが強くなり、修煉者はこの機を加持し、機が強く加持されればされるほど、機制の力が強くなり、機制は自動的にあなたを導いて煉功するからです。

弟子:法の勉強の最も良い方法は何でしょうか? 本だけを読むのか、それとも、書き写しながら読むのか、または本を書き写すことなのでしょうか?

師:中国大陸で本を暗記する人も本を書き写す人も多くいて、また暗記できなくていつも本を読んでいる人も多くいます。どの方法でも構わないのです。暗記できた人は何かの問題に遭うとき、すぐに法を思い出し、そう簡単に悪いことをしないで済むのです。本を書き写すのも認識を深めるためです。いつも本を読むことも認識を深め、絶えず向上するためです。

弟子:先生、私たちはあなたのことを先生と呼ぶのは良くないと感じています。先生という呼び方はあまりにも普遍的なので、先生と呼ぶようにとおっしゃったのは大陸の状況を考慮したからではないかと思っています。ここで、「師父、こんにちは」と言わせていただきます。以前、佛を学んだ人は皆、上にいらっしゃるのは師父で、先生ではないと感じています。

師:ありがとうございます。実は呼び方は何でも良いのです。先生、師父、名前はいずれでも結構です。

 なぜ呼び方は何でも良いと言ったのでしょうか? 現在の社会はそれらの邪な人によってひどく乱されたからです。自分のことを佛と自称したり、活佛や大師、教主と呼ばせたりする人がいて、いずれも名利のためではないでしょうか? 私は何と呼んでも良いと言っていますが、先生と呼んでも何の支障もありません。私はこれらのことを気にせず、求めてもいません。もちろん、学習者として先生に敬意を持ち、先生が本当に私たちを済度しており、助けていると思い、呼び方にこだわりたいのであれば、それは皆さんのことですが、私は先生で十分です。  

弟子:もう一つのことですが、先ほど先生はお金のために行なってはいけないとおっしゃいましたが、それこそが本当の佛だと感じました。もちろん、先生は本の中で自分が佛だとはおっしゃっていませんが、今まで佛教を学んだときにも、このような本当に指導できる次元の高い明師に会ったことがありません。ですから、私は他の人に、「どこでお金を求めずに修行を指導してくださる師が見つかるのでしょうか? 更に業も滅してくださるような師に会ったことがありますか?」と言っています。なぜ今この話をするかというと、先生が本当に私たちの修行を指導しに来られたと感じたからです。今まで習ったことを全て捨てます。在席の中に佛教を習っている人や、居士や、他のものを習っている人も多くいると思いますが、これから私たちの明師を本当に私たちの修行を指導する先生と見なし、他のことをもうすべきではないと思います。もちろん、他の人のことを指摘するつもりはありませんが、少なくとも今日先生がいらっしゃったので、先ほどの話を今日、ここでお伝えしたいと長年来ずっと胸に抱いてきたような気がします。

 私は生涯、高い次元を目指して修煉しようとしていますが、ずっと見つかりませんでした。密教や他の気功を習ったこともあり、大師に弟子入りしたこともありますが、弟子入りしても私はやはり元の私であり、何の変化も感じませんでした。しかし、先生の法を聞いてから、これが佛法だと分かりました。説法のビデオを聞きに行った初日のとき、先生は「本当に修煉さえすれば」とおっしゃいましたが、私はテレビの画面に向かって、「私は本当に修煉します」と言いました。ずっと先生にアメリカに来て頂きたいと思っています。在席の皆さんも先生がいらっしゃることを期待しているので、サンフランシスコで佛を修めるときに何に気を付けるべきかを、先生にもう少しご教示とご指導をお願いできればと思います。これが私からのお願いです。(拍手)

 佛を学んでいる居士がたくさんいますが、もしそれらのものが放棄できなければ、私たちもその人を助ける義務があります。しかし、あることについて直接、先生にお伺いしたいと思います。つまり、ある人は以前、佛を学んでいて、長年経を読み佛を拝んでいました。彼は以前の佛経を読むと、香りを感じますが、法輪功の本を読むと、異臭を感じると言っています。今日、先生がいらっしゃるので、私自身は何も分からず、見えないので、先生にご指導をお願いしたいと思います。

師:分かりました。実は、末法時期に本当の佛は世間のことに関わらなくなりました。しかし、多くの霊気を得た動物は佛像に入り込み、人を拝ませ、供養させ、人にわずかな恩恵を与えています。人間がいったん、本当に自分を修煉しようとすると、それらのものは妨害してきます。例えば、ある功を練習すれば香りを感じると言っている人がいますが、実はそれはイタチが放った匂いです。二つの空間の匂いが違うので、こちらでは良い香りですが、他の空間では臭い匂いです。人間世界の理は逆になっているため、全ても逆になっています。人間が嗅いだ香りは実は、佛は臭いと思っています。そういうものがあなたに大法を学ばせないために、わざとその匂いを放ち、妨害しているのです。

 サンフランシスコの学習者は自分たちのところだけではなく、アメリカ全体のことにも手伝ってほしいのです。どのように修煉するかについては、やはりこの形式を保つことです。私が今日、このように行なったのも後人に残すためです。でなければ、私は廟に入り、出家してしまいます。出家してはならず、宗教は既に多くの人に法を得させることができなくなりました。私はこの形式で人々に修煉させているので、皆さんもこの形式を守るべきです。私のこの法門に入ったらすぐ、さまざまな規則や戒律に縛られるのであれば、それではいけません。学びたい人に認識の過程があり、良いと思ったら本を読んでください。認識が高まったら、本人が自発的に自らより良く行なうようになります。宗教の居士はまだましですが、和尚は最も気の毒です。宗教の形式は彼らを完全にさえぎってしまい、彼らは法に接触することができず、接触する勇気もありません。

弟子:先生に二つのことについてお聞きしたいと思います。一つは、今日先生は縁があってこちらに来られ、私たちにお会いになりました。先生は私たちに縁があるとおっしゃいましたが、こちらの学習者のレベルはどういったものでしょうか? また、私たちはみんな圓満成就できるのでしょうか?

師:在席の全ての人、子供も含めて、皆さんに教えますが、修煉さえすれば、私が按排したこの道の最後はいずれも圓満成就なのです。(拍手) 喜ぶのはまだ早いです。修煉では師父は入り口まで導きますが、修行はやはり自分自身にかかっています。私は按排してあげたので、あなたを守り、加持し、各次元で功の昇華を演化してあげますが、心を修めるとき、やはり自分自身にかかっています。この心が難や関に遭ったとき、我慢できるかどうか、乗り越えられるかどうかは、完全に自分自身にかかっています。もちろん、どうしても乗り越えられないとき、あなたに悟らせるようにしますが、最も厄介なのはあなたの考えが極端に走り、悟らず、いくら悟らせようとしても悟らないことで、それならとても難しくなります。皆さんに教えますが、関を乗り越えられないとき、耳障りなことを聞いたとき、それは本当に私の法身が耳障りな話であなたを刺激し、あなたに教えているのです。関を乗り越えることはとても難しいのですが、乗り越えてから振り返ると、その関は実は何事でもなかったのですが、当時はなぜかどうしても執着してしまいました。本当に乗り越えてきたら、心性も高まり、業を滅することもできます。必ずこのようになります。もしこの関が他の人にもたらされたのであれば、その人はあなたに徳を与えることになります。ですから、皆さんに教えますが、苦を嘗めることは悪いことではありません。人間だけが苦を嘗めることは悪いことであり、苦を嘗めていれば幸せではないと思っています。修煉者として、苦を嘗めることは業を滅するだけではなく、次元を高め、圓満成就もできます。どうしてもこの世で幸せになりたいと思い、少しの苦も嘗めたくなく、心地よく修煉していれば良いと思うなら、業を滅することも心性を高めることもできず、圓満成就もできません。つまり、こういう道理です。

 話すべきことは話しましたし、法理もはっきり説きましたが、苦を嘗めるとき、やはり耐えられないかもしれません。以前皆さんにある真理を教えました。佛はなぜそれほど大きな福があるのでしょうか? 本当に福寿すべて揃っているのです。それは彼が嘗めた苦の大きさに相応した福だからです。今日、在席の皆さんにそれほど大きな苦を嘗めさせたら、誰も圓満成就できません。実は、皆さんが本当に修煉し続けさえすれば、多くの業力は師父が滅してあげます。やはり先ほど話したことですが、この法を得るために、皆さんは多くの世で苦を嘗めていたかもしれません。多くの人は確かに法を得るためにやって来たのであって、ずいぶん前から苦を嘗めていました。皆さんは今、何が足りないのでしょうか? その常人の心を取り除くことが足りないのです。私が言った苦も主に心を取り除くときの苦を指しています。