シドニー法会での説法

李 洪 志

一九九六年


 自己紹介をする必要はないと思います。いずれにしても、皆さんは私を知っています。私が李洪志です。ずっと皆さんに会いたかったのですが、様々な原因で、このような機会がありませんでした。今回、私はわざわざ皆さんに会いに来たのです。なぜかというと、オーストラリアではこれまで、この大法を知っている人は今日ほど多くいなかっただけでなく、学ぶ人の多くは法を学ぶことを重視しておらず、認識も割合浅かったからです。私がどういうものを伝えているか皆さんが分かった今、皆さんに会いに来ようと私は思っていました。皆さんの知りたいことは全て本の中に書いてあります。私には一つの習慣があります。私は修煉について分からないことを聞かれることを好みますが、この法についてまだ何なのか分かっておらず、この法が何であるかと私に聞くに至っては、私は……、どう言ったらいいでしょうか。認識がまだ浅ければ、説いてもすぐに分からせることができません。もし本を読み、法を学び、ある程度の理解があって、次元の向上に意味のあることを聞くのであれば、法の勉強にしても、あるいは修煉にしても、あなたに対して有益なのです。私は今、機が熟したと思ったので来ました。

 在席の人にはまだ学び始めていない人もいれば、煉功の動作だけを行ない、法の勉強を重視していない人もおり、比較的良く学んでいる人もいます。私はなぜ、皆さんに法を学ばなければならないと要求するのでしょうか? ここには次のような関係があるからです。ご存知のとおり、中国では、気功が常人社会に広く普及されてからすでに二十数年の歴史があり、「文化大革命」の中期、後期に高潮に達しました。しかし、気功が一体どのようなものであるかを説いた人はいませんでした。気功をすることによって現れた幾つかの功能、現代科学では解釈できない幾つかの現象について、一体どういうことなのかを説いた人もいませんでした。では、なぜ気功が出現したのでしょうか? これを知る人はもっと少ないのです。歴史上、気功はなかったのですが、なぜ今日気功が現れてきたのでしょうか? しかも修煉法として社会に広まっています。これはなぜでしょうか? 分かっている人はあまりいません。もちろん気功が中国で普及された当時、良い気功師がたくさんいましたが、彼らはただ大衆の健康のために少し役立ちたいと思っているだけでした。このような単純な考えと認識だけだったのです。

 気功はすでに数十年というかなり長い時期にわたって普及されてきましたが、気功の本当の意義が分かる人はいませんでした。そのため、私は『轉法輪』の中に気功界の幾つかの現象、気功が常人社会に広まったその背景、気功の最終目的について全て書きました。ですから、この本は人を系統的に修煉させることができるのです。多くの人は繰り返し本を読むことを通じて、このようなことに気づきました。この本は何回読んでも、いつも一種の新鮮さを覚えます。何回読んでも、同じ言葉でも違う認識を覚えます。何回読んでも、中に読み取れていなかった内涵がまだたくさんあります。これはなぜでしょうか? つまり私は修煉できるもの、どのように修煉するか、この宇宙の特性などの天機と見なされる多くのものを、全て系統的にこの本にまとめました。修煉者を圓満成就させることができ、歴史上、このような事をした人はいませんでした。この本を読んだ多くの人は、中に多くの天機が含まれ、多くのものは秘中の秘であり、これまで人類に知らされたことはなく、また知ることも不可能だったと気づきます。私は全てをこの本の中で明らかにしました。もちろん、私がこのようにしたのは私の目的があります。もし誰かが勝手に天機を漏らし、無責任にこれらのことを行ない、この高い次元の理を一般の理論として普通の人に聴かせるようなことをすれば、それは天機を漏らすことであり、悪い事をしているのと同じであるため、必ず罰が当たります。

 私がこの事をするのは目的があるからです。低いレベルから言えば、多くの人は長年の気功の練習を通して、気功には高い次元の内涵があり、人を高い境地まで修煉させることができ、更に圓満成就させることさえもできると知っています。しかし、このような本当の修煉法に巡り合えず、一般の気功は病気治療の類のものであるため、修煉できないのです。したがって、多くの人は寺院の中で居士になり、和尚を師とします。ここまで話したので、一言つけ加えますが、釈迦牟尼佛は彼の法は末法の時期に人を済度することができないと言いました。これは釈迦牟尼佛が言ったことで、中に多くの原因があったからです。ですから、多くの人は寺院の中で、あるいは気功でいくら修めても、たいしたものを得られず、昇華できず、真に向上できなかったと感じています。皆さんにこのような向上心があるのに、正しい道を見つけられず、苦しんでいるのを私は見てきました。したがって、私は法を得たい人を本当に高い次元へ導こうと思います。これが一つの大きな原因です。

 しかし、正法が伝え出されると、人心、道徳の向上を求め、人が善に向かうことを要求します。修煉する人に対する要求は普通の常人レベルの道徳水準を超えているため、人類社会に対して有益になるのです。もちろん多くの人はこの本を読んだ後、真に修煉するとは限りませんが、それでも人間としての道理が分かってくるはずです。これから一人の良い人間になるかもしれません。修煉はできなくても良い人間になるでしょう。そのため、彼は社会に対して有益なのです。正法は伝え出されると必ずこうなります。実は歴代に現れた正教、例えばキリスト教、カトリック教、佛教、道教、ユダヤ教も含め、みな人心を善に導くと同時に、真に高い次元まで修煉したい人に法を得させ、圓満成就させることができたのです。修煉して成就できなかった人をも、常人社会の中で良い人にすることができ、未来に修煉する縁を結ばせることができます。このようになります。

 我々は宗教ではありませんが、私は気功の高い次元のものを伝えているので、一般の気功ではありません。はっきり言いますと、気功も常人のものではありません。気功とは何でしょうか? 気功は即ち修煉です。しかし太極拳も含め、それは最も低いレベルの修煉のものです。太極拳は良いものだと皆さんは知っています。五十年代の中国ではすでに広範囲にわたって広まっていました。これは、明の時代の張三豊が伝え出したものです。しかし、伝わってきたのは技法、動作だけで、心を修める法は伝えられてきませんでした。つまり、彼は修煉を指導し、各次元でいかに向上するかという法を人に残しませんでした。ですから、太極拳は病気治療のレベルにとどまり、高い次元への修煉ができないのです。太極拳はとても良いものですが、心を修める法は伝えられていません。当時、心を修める法はあったのですが、後世の人に残されていません。我々が今日伝えるこの法はこの事を系統的に行なっているのです。

 もちろん、ここに多くの新しい学習者がいます。私の言ったことは非常に高いものだと思う人がいるかもしれません。皆さんも知っているように、各種の宗教はみな、人に善を目指すよう教え、人が天国に行くなどと言っています。もちろん佛教の極楽世界も天国です。歴史上のどの大覚者も、どの聖人も、いかにして人を良い人にするかを話し、更に高い境地の基準に到達してから、はじめて天国に行くことができると言っています。しかし、その中の道理に触れた人はいません。なぜなら、これらの大覚者は、イエスにしても、釈迦牟尼佛にしても、老子にしても皆、約二千年前に現れたのです。その時期の人と今日の人とは違うのです。その当時の人の考えは割合単一で、純朴で、善良で、それほど複雑ではなかったのです。その当時の人の思惟状態は今と違うので、彼らがその時に説いた法は当時には有用であり、伝えたことは当時において人を圓満成就させるには問題がありませんでした。時間が経つにつれ、現在、人の考えがますます複雑になり、思惟方法も変わりました。昔これらの大覚者が伝えたものは現在の人に理解できないのです。ですから、今これらの経書を読んでも、皆その中の真の意味が分かりません。今日私が気功の形で法を伝えていますが、皆私が佛法を伝えていると分かっています。「あなたの伝えている佛法は釈迦牟尼佛の話した言葉に似ていないのではないでしょうか?」と思う人もいます。もし、私が釈迦牟尼佛の言った言葉で説いたとすれば、今日の人は誰も分からないのです。釈迦牟尼佛の言葉は当時の人類の言葉なので、当時の人は皆分かります。今日佛法を説くには、現在の言葉で説いて、はじめて皆さんは理解することができるのです。また「あなたが説いたのは佛教の経文とも違うのではないでしょうか?」と思う人がいるかもしれません。釈迦牟尼佛は原始六佛の法を説いていたのでしょうか? 弥勒がもしこの世に降りて来たら、釈迦牟尼佛の説いた法を繰り返すのでしょうか? 人を済度する全ての覚者は皆自分が悟った法を説き、人に伝えるのです。

 この本に、私は数多くの修煉に関することを書きました。人の修煉は常人から始めるのですが、圓満成就する時まであなたの修煉を指導する法があります。私は確かにかつて誰もしたことのないことをしました。さらなる大きな宇宙の根本大法を伝えました。古今東西の本を調べ尽くしても見当たらないものです。私の伝え出した道理は宇宙の特性で、佛法の根本であり、私の言葉でその真実を表現したのです。多くの人は本を読んでから一つの考えが生じ、「李先生はどれほどの学問を持っているのでしょうか? 先生は古今東西の天文、地理、歴史、化学、物理、天体物理、高エネルギー物理、哲学、かなり多くの範疇のものを全て概括したようです」と話す人もおり、人々は先生が博学であると思いますが、実のところ常人の学問になると、私はまだとても及ばないと思いますが、しかしこれらの理論は世界中のあらゆる本を調べ尽くしても、世界中の全ての学問を学んでも、学ぶことのできないものです。世界中のあらゆる学問を学んだとしても、あなたはやはり常人にすぎません。あなたは人間というレベルの人ですから、常人の知識を幾ら多く身につけても、やはり常人なのです。しかし私が説いた道理、知識は常人というレベルのものではなく、常人というレベルを超えるものです。ですから、その中の道理は常人の知識からきたものではないのです。法は宇宙ひいては常人社会の一切の知識を包括しているのです。

 私は分かりやすい常人の言葉と気功という最も低い修煉形式で、最低から最高までの宇宙の一切の法理を表現しました。この本を一回読み終えたら、いかにして人が良い人になるかの道理を教える本だと気づきます。もう一回読むと、常人の道理を述べているのではなく、常人の知識を超えた本であることに気づきます。三回読むことができたら、それが天書だと分かります。更に読んでいけば手放せなくなり大切にします。現在、中国ですでに百回以上読んでも、まだ読んでいる人がいます。しかも、彼は完全に手放せなくなり、中の内涵があまりにも大きく、読めば読むほど多く分かり、読めば読むほど多くみえてくるのです。なぜでしょうか? 私はかなり多くの天機を漏らしましたが、修煉しない人には表面から読み取れないのです。修煉する人だけが絶えず本を読んでいくうちに、はじめて中の内涵を読み取れるのです。人は修煉する過程で絶えず昇華しているからです。なぜこの本を初めて読んだ時にいかに良い人になるかの道理を説いていると思うのでしょうか? なぜ二回目に読むと、そう思わなくなり、昇華するのでしょうか? 人が修煉しようとすれば、まず常人のレベルから始めなければならないからです。次第に心性を高め、更に高い基準に達します。第一層のレベルの基準に達した時、そのレベルの法によって修煉を指導します。第二層のレベルに達したら、第二層のレベルの法によって、その境地において修煉を指導するのです。絶えず昇華しても、この法はその境地においてあなたの修煉を指導できなければなりません。つまりどんな境地まで修煉しても、そのレベルにおいてあなたの修煉を指導する法はなければならず、こうして、はじめて最後に圓満成就できるのです。この本にはこれらのものが含まれており、真に修煉するのであれば、これらのものを読み取ることができ、高いレベルへの修煉を指導できるのです。この本にある内涵は相当大きいため、一万回読んでもあなたの修煉を指導でき、圓満成就まで指導できるのです。

 圓満成就と言えば、皆さんも知っているように、イエスは汝が私を信じれば天国に行けると説きました。佛教も佛を修めれば極楽世界に行けると言っています。もちろん彼らは皆とても簡単に言っており、人が実際の修煉を通じて、はじめて行くことができると強調していません。しかし本当は宗教も修煉です。ただ釈迦牟尼佛でも、イエスでも、皆一つのことに気づいたのです。我々修煉界では「修は己にありて、功は師にあり」という言い方があります。これも常人の知らないことです。常人は動作を練習すれば、功を高く伸ばすことができると思っていますが、我々から見ると、それは冗談で、完全に不可能なことです。もちろん、あなたが修煉したいのであれば、師は真にあなたに責任を負わなければならず、身体に多くの機制を植えつけ、また種のように多くのものを植え付けて、はじめて修煉できるようになるのです。しかも修煉の過程において師はあなたを見守り、業力を滅し、功を演化して、はじめて高いレベルに到達することができます。宗教では修煉を講じませんが、なぜでしょうか? イエスは、汝が私を信じれば修煉して向上できると知っているからです。現在の宗教で修煉できなくなったのは、彼らが説いた話の真の意味を理解できないからです。多くの人は、イエスを信じれば、自分は死後天国に行けると思っています。皆さん考えてみてください。どのように天国に行くのでしょうか? 我々は常人の心、七情六欲、各種の執着心、闘争心、顕示心を持っており、常人には良くない心があまりにも多いのです。このままあなたを佛のところに行かせれば、佛と争い、喧嘩をするかもしれません。あなたの常人の心が取り除かれていないからです。大菩薩がこんなにきれいなのを見て、邪念が生じるかもしれませんが、これは許されることでしょうか? 当然許されません。そこで、常人社会であなたのこれらの執着心、汚い、良くない心を取り除いて、はじめてあなたはその境地に昇華することができます。修煉することによって天国に行くことができ、信じることによっても行くことができます。ただし、懴悔してから再び過ちを起こさないように、ますます良くなり、天人の基準に達して、はじめて天国に行くことができます。実はこれがまさに修煉なのです。

 イエスを信じれば天国に行けると言う人がいますが、私に言わせると行けないのです。なぜ行けないのでしょうか? 現在の人もイエスの言った話の真の意味を理解していないからです。イエスは如来の次元におり、佛の境地の覚者でもあります。彼の言った話の意味が常人には理解できないのです。絶えず彼の方法に従って修めて、はじめて次第に彼の話の意味を会得することができます。例えばイエスが「私を信じれば、汝は天国に行ける」と言いましたが、実際の意味は、あなたが私の教えた良い人になる道理にしたがって行動して、はじめて真に私を信じることになり、はじめて天国に行けるということです。さもなければ、彼はどうしてそれほど多くの話をしたのでしょうか?! 懴悔の時にはしっかりしており、心理状態はとても良いと感じていましたが、教会を出ると、自分勝手で、常人の中で常人よりも良くない行ないをするのであれば、どうして天国に行けるでしょうか? あなたの心は全く向上していません。イエスは汝が私を信じれば、汝は天国に行けると言いました。彼を信じるというのは、彼の言うとおりに行動することが真に信じることなのです。そうでしょう? 他の宗教においてもこの道理です。

 釈迦牟尼佛が言った一部の話を後世の人がまとめて経書にしました。その後、人々は経書を読んだ量、佛教の知識を掌握した量を修煉としてしまいました。実は釈迦牟尼佛がこの世にいた時、全く経書はなかったのです。まして、経書は五百年も過ぎてから系統的にまとめられたもので、釈迦牟尼佛が当時言った話から完全に離脱してしまいました。しかしその当時、人にはこれぐらいのことしか分からせることができませんでした。あまり多すぎてもだめです。これもまた必然のことだったのです。釈迦牟尼佛は晩年に「私は一生何の法も説いていない」と言いました。釈迦牟尼佛は確かにこの宇宙の法を説いておらず、真・善・忍という特性の常人社会での現れ、あるいは彼の如来の次元での現れを説いていないからです。本当に説いていないのです! 如来佛が言ったのは何でしょうか? 彼が言ったのは過去世で修煉して悟ったものと、過去世で輪廻する時の修煉の状況、修煉の物語及び一部の法の具体的な現れに対する彼の認識です。経書はとぎれとぎれに整理されてできたもので、系統的なものではありません。それでは、後の人はなぜ釈迦牟尼佛の説いたことを佛法としたのでしょうか? これは人の認識であるほかに、釈迦牟尼は佛であり、彼の説いた話は佛性を帯びているからです。佛性を帯びた話は人にとって一層の佛理であり、即ち佛法なのです。しかし、彼は確かに系統的に修煉の原理、宇宙の特性、人がなぜ向上できるかなどを伝えていなかったのです。本当に説いていません! ですから、私が今まで誰もしたことのない事をし、大きな門を開き、更に大きな事をしたと私は言うのです。つまり私は修煉の道理、圓満成就の要素を全て説いたのです。しかも、とても系統的に説いています。これは高い次元の神が「あなたは人間に天に上る梯子――『轉法輪』を残した」と言った理由です。

 私がここで釈迦牟尼佛と比べて云々するのではありません。私はそんな心を持っておらず、常人の情の中にいないので、世間の名利に対する執着もありません。私がこれを伝え出した以上、あなたに責任を負わなければならず、この道理を明白に説かなければなりません。私は皆さんから何も求めず、一円も取らず、皆さんに善に向かうことだけを教えます。私にこのような質問をした人がいます。「先生、あなたは私たちにこんなに多くのものを教え、こんなに多くのものをくださいましたが、何を求めるのですか?」。私は「私は何も求めません。皆さんを済度しに来たのです。私はあなたの善に向かう心を求め、向上できることを期待しています」と答えました。人間は人間になるのが目的ではないと私には分かっているからです。現在、人は皆常人社会の偽りの現実の中に迷い、人間はこうしなければならないと思っています。特に、現在の人類社会は道徳観念がひどく堕落し、皆この流れとともに落ちています。社会全体が落ちています。そうすると、誰も自分が堕落しているとは自覚しません。他人より少しばかり良いから自分が良い人だと思っています。実はあなたはすでにだめになったこの基準で自分を量っているので、良くない中で他人より少し良いだけです。もし修煉することができれば、元の人類社会の境地に戻り、少しでも高い境地から今日の人間、人類社会を振り返れば、恐ろしいと感じます。本当にとても恐ろしいのです! 現在の人類が本当に極悪非道だと分かります。

 天上の大覚者たちは、佛にしても、道にしても、神にしても、すでに今日の人間を人間と見なしていないのです。この話は少し絶対的に言っているかもしれませんが、もちろん良い人もまだいます。しかし彼らは全人類、広い範囲でのことについて言っているのです。本当にそうです。昔、人はお寺、教会に懴悔に行ったとき、イエスや天国の人が本当に彼の話を聞いていると感じていました。脳の中にこのような感応の声が彼の問題に答えているようでした。しかし今日の人にはこのような感覚がなく、佛を拝む人も佛の存在が見えないのです。なぜでしょうか? 人類社会の人はますます悟らず、ますます腐敗堕落したので、神も見捨てたのです。現代人は業力がとても大きく、ますます悟らなくなったので、悪い事をして罰が当たった時、偶然だと思います。私の見るところでは、人類の道徳基準は凄まじく堕落しましたが、人々は皆、無意識にこの流れに従って堕落したのです。一部の人には佛性、本性がまだあります。この数年間、私が功を伝えたことによって、多くの人は修煉して向上してきました。しかもかなり高い次元まで修煉してきました。悟りを開いた人も、漸悟に入った人もおり、すでに果位の中で修煉している人もいます。私はとても嬉しく思います。私が行なったこの事は無駄にならなかったのです。私は人にも社会にも責任を負い、天機をもらしたことも無駄にならず、人をここまで修煉させたのです。

 私は先ほど人の生きる目的は、人間になるためではないと言いましたが、多くの人はまだ理解できないかもしれません。人間は今のように生きるべきだと思っています。確かに、生まれた時は皆が同じで、別の空間の存在が見えず、信じることもできないのです。更に、現代人は現代の科学を過度に信じていますが、現代科学は不完全なものです。この宇宙の中で、それは認識レベルがとても浅く、つまり、とても低いとしか言えないようなものです。人間がそれを過度に信じると、最大の危険に直面します。つまり人の道徳は徹底的に打ち壊されます。そうなると、上の世界では道徳観念のない人を人として認めなくなります! 人類の外形をしているのは人間だけでなく、鬼、猿、チンパンジーなども、脳があり、四肢をもっています。人間は世の中に生きている以上、人間としての道徳規範を有し、人間としての道徳基準が存在し、人としての生存方式がなければならないのです。これらの規範から離れると、神はもう人を人間として見なさないのです。しかし人間は皆、自分がどう生きていけばいいか、どのように発展するかなどを考えていますが、人類社会は高級生命に制御されているので、技術をもってしては永遠に佛の境地に達することができないのです。でなければ、宇宙戦争が本当に起きるのです! ですから、闘争心、嫉妬心、七情六欲を持つ人類の技術を更に高い基準に到達させないのです。

 人の大脳の七十パーセントあまりは使われていません。現代医学においてもこのことはすでに認識されています。なぜでしょうか? 人類の智慧は抑制されていますが、なぜ佛は人類以上の智慧、神通を持っているのでしょうか? なぜ佛には何でも分かるのでしょうか? 大智大慧なのでしょうか? つまり私が先ほど言ったこの道理です。私がこの本で科学知識に広く言及したので、先生には豊富な知識があり、多くの大学に通ったのではないかと思う人がいますが、違います。なぜでしょうか? 私と皆さんとの違いは、私の脳は全て開いており、皆さんはそうでないのです。この世においては、哲学にしても、天文学にしても、物理、化学、人類の歴史などを人々はとても複雑だと思っていますが、実はとても簡単なもので、佛法範囲にある最低レベルの人類のものにすぎません。みな同じ理であり、つまりこの宇宙の特性とこの次元に存在する物質の形式によるものであり、これだけなのです。しかし、人類の智慧はそれすら受け容れることができず、人の大脳は閉鎖されているので、受け容れることができないのです。どうすればいいでしょうか? もっと多くのことを知りたくても、人の脳には入りきれないので、あなたは物理を学び、化学を学び、天文学を学び、高エネルギー物理を学び、哲学を学び、歴史を学び、あなたはこれを学び、あれを学んでいます。この一つの分野の知識だけでも、人間が一生かけても全て身に付けることはできません。ですから、人類の知識はとても情けないほど少ないのです。

 先ほど言いましたが、知識をいくら学んでも、大学の教授や大学院の指導教授になっていくら有名になっても、その人はやはり常人です。なぜなら、あなたの知識は常人という次元を超えていないからです。しかも、我々人類の現在の実証科学はまだ不完全なものです。例えば、現在の科学は神の存在や別の空間の存在を実証できません。別の空間の生命と物質の存在形式が見えず、道徳という物質の人体での現れを知らず、業力という物質の人体の周囲での現れも知りません。人々は皆、現代科学を信じていますが、現代科学ではこれらのことを実証できません。また、道徳や善悪など科学以外のものに言及すると全て迷信と見なされます。実質上は現代科学という棍棒を振るって、我々人類の最も本質的なもの、即ち人類の道徳を打ち破ろうとしているのではありませんか? この通りではありませんか? 人間は徳の存在を認めず実証できないので、それを迷信と決めつけてしまいます。人類の道徳観念が本当に破壊されてしまえば、人間は心の法の制約、道徳の規範がなくなり、人間は何でも敢えてやります。どんな悪い事でも敢えてやり、人類の道徳の堕落を絶えず助長するのです。これは即ち科学の最も足りない部分が果した作用です。

 以前言いましたが、造詣のある科学者は、理智的でなく感情的に考える多くの人たちと違い、現代科学を一つの決まりきった枠に固定し、実証科学から外れる全てが科学ではないという頑固な認識を持ちません。皆さん考えてみてください。人類が認識できていないものを、我々が科学的な方法で認識できた時、それは科学ではありませんか? それも科学的になったのではありませんか。人類は絶えず自らを修正し、自らを新たに認識しているので、科学は発展し、最後に真に宇宙を認識するようになります。現在の実証科学はその発展の方式が非常に拙く、緩慢なものです。まるで盲人が象に触れているかのように、宇宙全体の物質の存在方式、宇宙の特性の存在を認識できません。触れた一部を全てだと思います。象の足しか触れていないのに、「ほら、科学はこのようなもので、これは真に生命、物質を認識した科学です」と主張します。象の全体像が見えません。宇宙が無数の異なった時空から構成されているのに、別の空間と別の生命及び物質形式の存在を認識できないため、脳が単純で頑固な人に全て迷信だと決めつけられたのです。これは、我々人類の道徳を堕落させた最も肝要な原因です。多くの人は科学という棍棒を振るい、最も古く、最も本質的である人間の徳性を叩いているのです。これはなんと危険なことでしょう! 人に徳がなくなれば、神は人を人間として見なさなくなるのです。もし、神が人を人間として見なさなければ、人間は淘汰され、新たに発展するのです。

 「我々人類は進歩しています。猿から今日まで発展し、とても輝いているのです!」と思う人がいます。皆さんに教えますが、歴史上、先史の時期、十万年以前、あるいはもっとずっと昔、一億年前に、この地球に遥かに高度な文明が存在していましたが、ただ異なる時期に壊滅されてしまったのです。なぜ壊滅されたのでしょうか? 物質や技術の発展はとても速かったのですが、道徳がついていかず、あるいは破壊されたからです。そのためその存在が許されず、壊滅されてしまったのです。現代科学で考えると、物質の運動には規律があり、ある程度の形式まで発展すれば、必ずほかの形式が現れてきます。例えば、地球が宇宙で運行している時、いずれかの星に衝突され壊されるかもしれません。どんな原因であるかは別として、現在、科学者は確かに、我々の星に多くの古い文明の遺跡が存在しているのを発見しました。しかも、これらの文明遺跡は現在より遥かに昔のものであり、数十万年前、数百万年前のものもあれば、数千万年前のものもあります。各時期に存在した文明、残った遺跡はそれぞれ異なり、同じ時期のものではないので、一部の科学者はこの問題について考えているのです。すでにこのような論点を提起した学者がいます。つまり先史文明が存在し、先史文化があると言っています。これは科学者が言ったことです。我々修煉界ではもっとはっきり分かっています。確かに今期の人類の文明の前に、多くの回数にわたって人類の文明が存在していました。もちろんこれは我々が見たのですが、道徳が腐敗堕落したので、その後この文明は存在しなくなります。壊滅された古代ギリシャ文化から当時の人類の腐敗、堕落の遺跡を見出すことができるのです。

 我々人間は猿人から進化してきたと言っている人がいます。実は皆さんに教えますが、人は絶対に猿人から進化してきたのではありません。ダーウィンは人が猿人から進化してきたという理論を提唱しましたが、彼は当初この理論を持ち出した時、おどおどしながら出したのです。この理論には疑わしいところが多く、完璧なものではないのですが、人に受け入れられ、ずっと今日にまで至りました。皆さん考えてみてください。彼が提唱した猿から人までの進化の中間過程、千百万年というこのような過程は見つかっておらず、ないのです。なぜ人と猿との間の人が存在しないのでしょうか? 人間だけでなく、彼の言う進化する動物においては全て中間の過程がありません。オーストラリア大陸に存在する種と他の大陸に存在している種とはなぜ異なるのですか? 彼は説明できません。この疑わしいところの多い進化論が人に受け入れられています。これこそおかしいことです!

 実は我々の見たところでは、人は猿人から進化してきたのではなく、各時期に各種の生物が存在していたにすぎません。人類の生存している地球、大陸プレートは変動するもので、変化しています。地質学者はアジア、ヨーロッパ、アメリカ大陸、南米、北米の陸地を大陸プレートと名付けていますが、大陸プレートは常に変化するものであるため、その陸上にある文明が海底に沈み、他の大洋から一つの陸地が上がってくるかもしれません。このように絶えず変化しています。現在の人々も太平洋や大西洋、インド洋、多くの大洋の海底に古くて高大な建築物があり、文明が存在していたことを発見しました。しかし調べるといずれも数十万年、数百万年、更に遥か昔に存在したものだと分かりました。我々の現在の人類が知っている範囲では、少なくともこの数十万年の間に大陸プレートに変動が発生したことはありません。それでは、それはいつ海底に沈んだのでしょうか? きっともっと前に、数十万年前あるいはもっと久しい以前に沈んだのです。ですから異なる大陸プレートが変動した時、その上にある生物の種は違うものであり、進化してきたものではありません。似ているところがありますが、同じ生物の種ではありません。絶対に違います! 

 もちろん私は佛法を説いているので、常人の理論とは違います。私たちはさらなる高い認識で、真に人類を認識しているのです。皆さんに教えますが、人は猿人から進化してきたのではなく、宇宙の中で生じたのです。ご存知のとおり、中国には道家の太極の学説があります。この学説は陰、陽という二つの気を唱えています。陰陽という二つの気が生じる前は混沌状態で、無極と言います。そこから太極が生じ、陰、陽の二つの気が生まれ、そして太極から万事万物が生み出されます。これが道家の理論です。私はこれがとても科学的だと思います。実は私は一つのことに気づきました。もちろんこれは私だけが発見したのではありませんが、この宇宙にある厖大な物質の運動により、生命が生じるのです。我々に見えない物質が必ずしも存在しないとは限りません。例えば、空気は人の目には見えませんが、それは存在していないのですか? 存在しています。空気よりもっとミクロの物質はありますか? とても多いのです。ミクロの物質よりも更にミクロな物質も多くあります。これらの厖大な物質はなぜこのように生存できるのでしょうか? 実は皆生命の存在なのです。いかなる物体にも生命がありますが、我々常人のこの空間に顕現しないだけで、あなたにはその生命の存在が見えないのです。後で私はそのわけを述べます。いかなる物体にも生命があります。この厖大な物質は運動することにより生命が生じるのです。このような生命は更に高い次元では多くの場合は無形ですが、人類の形になる場合もあります。あるいは動物の形、物質の形、植物の形状になっています。

 それではなぜ人間にまで至ったのですか? 最初は人間という次元はなかったのです。宇宙の物質の運動により生じた生命は皆、宇宙の特性に同化しているもので、つまり宇宙の法理に同化し、真・善・忍に同化しているのです。なぜなら、それは他でもなく真・善・忍から生じたのです。そのため、生命が高い次元の空間で多く生じた時、その生存環境は複雑になり、彼らの社会の生存形式を持つようになります。人類社会のように、人がどのように生存するかは、それ相応の社会形式が存在するのです。そのような社会形式ができてから、これらの生命は次第に変化し、複雑になりました。一部の生命には私心が生じ、その次元における宇宙の特性の生命に対する要求から逸脱したので、その境地にいられなくなり、下へ落ちてしまい、低い次元に落ちて来たのです。また彼がこの低い次元で更に悪くなれば、また下へ落ちてしまいます。このように生命は長い歴史の歳月の中で徐々に悪くなったために、次第に一層の空間、更に一層の空間へ落ち、ついに人類のこの層の空間に落ちて来たのです。それから低能な生活を送り、低能な方式で子孫を繁殖しています。

 しかし、当初は人類というこの層の空間がなかったのです。それで覚者、高級生命は人のために一つの空間を造り、最も深い迷いの空間を造り、人のほんのわずかな本性が失われるかどうか、まだ戻れるかどうかを見てみようと思ったのです。こうしてこのような空間を造りました。当時はただ人に、生命に最後の機会を与えるためだけで、あまり深く考えていませんでした。ところが後になって、この空間はあまりにも特殊であることに気づきました。この空間にいる生物はみな他の空間が見えず、他の空間の生命が見えないのです。しかし宇宙の他の空間では全て、別の空間の景象を見ることができるのです。いかなる空間の生命も、その身体は空間の中で飛んだり、漂って行ったり来たりすることができます。いかなる次元の空間の生命もその身体を大きく変えたり小さく変えたりすることができます。現在の科学者は、人の思惟は物質で、電波のようなものだと思っています。電波についてあなたは無論それを物質だと認めます。ところが別の空間の中で見たところ、それはそんなに簡単ではありません。人の思想は自分の想像したものを作り出すことができ、思ったものが現実になることもあります。人にはエネルギーがないので、それが作り出されてしばらくすると散ってしまいます。しかしエネルギーを持つ大覚者、天人、高次元の生命なら、思いついたものは、確実に存在するのです。欲しいものがあれば、思うだけでそれを作り出すことができます。ですから昔「佛は大いに自在なので、欲しいものは何でもあります」と言われました。それらの生命は皆このように存在しているのです。しかし人類はこの空間まで押し出され、このような存在になってしまったのです。

 皆さんはいずれも母体から出て来たので、自分はあまり悪くないと思っています。ある人は商売がとても繁盛し、ある人は非常に高い官職につき、ある人は自在に生きていると感じ、他人より偉いと思っているのですが、実のところ、あなたも苦しいのです! なぜなら、あなたは自分が以前どのように生きていたかを知らないからです。例えば、宗教では、人間が生きていること自体が苦だと言っています。なぜでしょうか? あなたが母体から出て来た時、すでにこのような分子から構成された物質の身体を持つようになったのです。別の空間の生命は分子で構成された層の身体を持っていません。彼の最も表面の身体は原子から構成されています。しかし、分子で構成された表面物質はこの空間を形作ったのです。人間の肉体にしても分子で構成されたものです。この層の物質から構成された身体が生まれると、あなたはこの肉体を持ち、分子で構成された目を与えられ、他の空間を見ることができなくなり、この迷いの中にいるのです。そのため、あなたは迷いの中にいて宇宙の真相が見えず、井戸の中に座って天を見るように生きていると言えるのではありませんか。これだけで、すでにかなり哀れな生き様になっています。その上、人はこの身体を持っていると、身体に痛みが生じ、寒くてもいけない、暑くてもいけない、のどが渇いてもいけない、歩いて疲れてもいけない、とにかくあなたに多くの不都合をもたらし、多くの苦痛をもたらすのです。しかも生老病死はいずれにしても存在し、常に病気に罹り、あなたはとても自由自在に生きていると思いますが、実はあなたはその苦痛の中で他人より少し良く、苦痛が少し少ないだけで、あなたはそれでとても自在だと思ってしまうのです。人間はこのように生きているので、このような生存環境の中で人は次第に人の本性を失い、ますます神の存在を信じなくなり、その上、実証科学は完璧でないため、人は人の道徳基準を失ってしまい、最も危険な境地へ滑り落ちて来たのです。

 しかし、人類社会にはまた一つ非常に大きな良いところがあります。つまり人には苦しみがあるので、修煉することができるのです。なぜ佛はいつもその佛界の中の佛なのでしょうか? なぜもっと高く向上できないのでしょうか? なぜあの菩薩は修めて佛に成就できないのでしょうか? 少しの苦しみを嘗めたくても探すところがありません。つまり迷いの中でその佛性を固めることができ、はじめて修煉することができるのです。そこに迷いはなく、何でも見えます。何でも見えるのであれば修めても何にもならないのです。ですから修は先にあり、悟は先にあり、見えるのは後にあります。「見ることができれば修めます。見ることができなければ修めません」と言う人がいます。もし皆に全て見させたら、常人社会は人類社会ではなくなり、神の社会になってしまいます。それなら百パーセントの人が一人も漏れることなく、誰もが修め、許すべからざる極悪非道の人、もっと悪い人でも修煉するのです。考えてみてください。それはまだ人類社会でしょうか? 人間が悪くなったからこそ、この環境の中に落ちて来たのです。あなたが元へ戻りたければ二つの要素を備えなければならず、一つは苦しみに耐えること、もう一つは悟ることです。悟ると言えば、イエスは信じることを説き、東方では悟ることを説きますが、あなたはこれらのものを失ったら、修煉することはできません。しかし往々にして修煉者は、修煉は非常に難しいと思うのですが、なぜでしょうか? 実は修煉は難しくありません。難しいのは常人の心を放下できないからです。歴史をたどっても何が佛法なのかを人に教えたこともありません。人々は皆、釈迦牟尼佛の説いたものを系統的な佛法としました。皆さん考えてみてください。この厖大な宇宙は相当に完備しており、相当な智慧があるのです。釈迦牟尼佛はただ佛理のわずかな一部しか説いていませんでした。しかも、釈迦牟尼佛も自分の知っているものを人に全て説いたわけではなく、ただ人に人が知るべきことを説いただけなのです。ですから、現在人類社会に残された佛法はただ佛法の中のほんの少し、ほんの少しだけなのです。先ほど言ったように、私が人類社会に残したものはとても多く、私は前人が今までしたことのない事をしました。私が書いたこの『轉法輪』は、言語が規範に従っていません。それは、現在の規範された言語では更に高い次元、更に大きな内涵を含むことができないので、私は口語の方式で書いたのです。

 かなり話しました。今日は時間に余裕がありそうなので、皆さんに多く話しておこうと思います。しかし、ここに在席している一部の人は私があまりにも高いものを説けば、受け入れることができないかもしれません。例えば全く学んだことはないのですが、とても良いことだと思って聞きに来た人がいるかもしれません。一部の人は何か少し得ようと思っているかもしれず、あるいは私が何を演じて見せるか見に来たのかもしれません。様々な思いを抱いて来たのです。私が今日もしここであなたに演じてみせると、あなたは楽しくなって笑い、魔術や手品を見るようで、私と法を大切にしないのです。佛法を伝えることはこのようにすることを許しません。私はただあなたにこの佛法を説くだけで、信じるか信じないかはあなたに任せます。しかしその威力はとても大きく、私が人に与えようとするもの、人が修められるものを全てその法の中におさめました。私の録画テープや録音テープ、私が書いたこの本をあなたが読みさえすれば、感じることができます。あなたが読みさえすれば、あなたの身体は浄化され、あなたを病気のない状態に到達させます。あなたが修めさえすれば、常人の見えないものが見え、あなたが修めさえすれば、常人の感じられないことを感じることができます。境地がますます高くなり、ますます美妙になり、全てその本の中にあります。しかしあなたが修めなければ、あなたには見えません。あなたは一回読んで全て見られるようにしたいと言うのですが、それは不可能です! あなたは自分の境地の中で、自分の理解の程度の中でものを見られるだけです。更に美妙なものはあなたが修めて向上し、絶えず深く学び、深く修煉し、深く見れば、そこではじめて感じることができ、見ることができ、知ることができるのです。

 私が説いたことは高すぎて、多くの人は理解できないかもしれません。私はこう思いますが、私はこの二年来すでに法を系統的に説いたことはありませんでした。と言うのは、私は人に残すべき法をすでに全て残しています。私は講演する時、録音させないようにしています。なぜでしょうか? 多くの人は新奇を追求しているのです。先生がまた何を講じられるのか、また何を講じられるのかと、彼らはこれらのものを追求しており、着実に修煉していないからです。私が人に与えた修煉のものは『轉法輪』だけで、この本は系統的な法なのです。他に私が説いたことは『轉法輪』を解釈するだけにすぎず全て補助的なものです。録音した後、社会に伝わると、実修することに邪魔をもたらします。『轉法輪』は低いところから高いところまで全て系統的なもので、それに対して私がこの場で説いたものはこの場にいる人に対して説いただけです。

 私はまた一つの問題を強調しておきたいと思います。つまり我々修煉者は専一を重んじなければなりません。皆さんに教えますが、諸家の長所をとるという話は常人の中の言葉で、修煉界の言葉ではありません。技術を学ぶ場合には、誰かの技術が良ければその人のものを学び、これは問題になりません。しかし、高次元の空間から見れば人類の理は反対になっているので、人類が良いと思うことは、良くないことかもしれず、全て反対になっているのです。我々のこちらは昼ですが、あちらは夜なのです。あなたが正しいと思うことも、正しくないことかもしれません。なぜでしょうか? 私は皆さんに簡単な道理を説きます。皆さんが知っているように人は苦痛があると良くないと思い、あるいは誰かにいじめられたら気持ちが良くないと思い、良くないと感じてしまいます。皆さんに教えますが、人が少し苦しみを嘗め、少しの難儀に遭うことは良いことなのです! 見てください。私が説いたことはあなたの思っていることと違います。なぜでしょうか? 高次元の空間に至ると、この理は全く反対になるからです。高次元では、人になることが目的ではないと思っています。あなたは人類社会の中で少し難儀に遭い、前世で借りた業力を返せば、もっと高い次元の空間に戻ることができ、ひいてはあなたの生命が生じたところ、最も美しく素晴らしいところに帰ることができます。高い次元に行けなくても、来世は業力が小さくなったので苦難も少なくなるはずです。

 しかし、返すべき業力を返さなければ、あなたは高次元の世界に行くことができません。私が説いた道理のように、瓶の中に汚い物を一杯入れ、蓋をしっかり締めて水の中に投げ入れれば、ストンとすぐ沈んでしまいます。もしあなたが中の汚い物を少し捨てれば、それが少し浮き上がってきます。また少し捨てれば少し浮き上がってきます。もっと多く捨てた後、あなたはそれに蓋をして試してみてください。あなたが押さえても沈まず、それが自分で浮き上がってきます。我々人が修煉するのと同じで、あなたの身体は生々世々、つまりあなたは各世、各生において人をいじめたり、人を騙したり、あるいは人を害したり、殺生したり、更に良くない事をしたことがあるかもしれません。ですから、返すべきこれらの業力をあなたは返さなければなりません。この宇宙には一つの理があり、失わなければ得られず、得るには失わなければならないと言います。借りたものは返さなければならず、現世で返さなければ来世で返す、必ずこうなのです。ですから今、人は苦痛に遭うと偶然だと思い、他人に不公平に扱われ、他人が悪いと思ってしまいます。皆さんに教えますが、全て偶然なことはなく、全て以前造った業力がもたらしたのです。もし人に業力がなければ、街を歩いているとき、誰でもその人に笑顔で接し、知らない人でも進んでその人のために奉仕するので、彼には楽しいことばかりです! しかしこのような人は人類の空間で生活するわけはなく、彼は天上に戻るはずです。人はこうなのです。人には業力があり、思想を浄化しなければ永遠に修めて向上することはできません。まさに私が今話したこの道理なのです。

 人は少し苦しみを嘗め、少し難儀に遭うことは悪い事ではありません。あなたは少しの難儀に遭うことによって、業力を返すことができ、真に美しく素晴らしい所に行き、永遠に再び苦しみを嘗めないのです。あなたが人類社会でいくら幸せに生きていると思っても、家に億万のお金があっても、いくら高官になってもたかが数十年で、あっという間に過ぎてしまいます。皆さん考えてみてください。転生の時、あなたが来る時は裸で、行く時も裸です。あなたは何を持って行くことができますか? 何も持って行くことはできません。あなたは誰に残して行くのですか? 自分の後代に与えたいと思うかもしれません。しかしあなたが次回に再び転生した時、彼はあなたが誰か知らず、あなたが彼の所に行って働き、床を掃除しても、彼があなたに良い顔をして見せるとは限らず、あなたに一円でも多く稼がせるとは限りません。本当にこうなのです! 人間はまさにここで迷っているのです。

 我々はここで人生の本質の道理を説いています。特に修煉者は、皆さん考えてみてください。我々が苦痛を受けた時、他人にいじめられた時、トラブルに巻き込まれた時、何かの物質的利益を失った時、私の見るところではそれは悪い事だとは限らないのです。なぜなら、この宇宙には一つの理があり、失わなければ得られず、得るには失わなければならないのです。もう一つの特徴は、あなたが得たのに失わなければ、それはあなたに強いて失わせます。これが宇宙の特性なのです。厖大な宇宙の一切の物質はみな生命であり、一切の物質はみな真・善・忍から構成されたものです。ですから、いかなる物体、石や鉄鋼、空気、人類が造り出したいかなる製品や物質にしても、その構造のミクロの成分はいずれも真・善・忍という特性から構成された物質なのです。この厖大な宇宙はまさに真・善・忍で構成されているのです。それが宇宙の中の全てを均衡にしています。ある人は人を殴ったり、罵ったり、いじめたり、他人に苦痛をもたらした時、自分はとても嬉しく思い、得た側に属します。常人は彼に「君は本当にたいしたものだ。偉い! 損をしていないね」と言うでしょう。しかし、私は彼が大変大きな損をしたと思います。なぜだと思いますか? 彼が良くない事をした時は得た側に属し、他人をいじめて、彼が得たと言えるので、そこで彼は失わなければなりません。相手が受けたのは苦痛なので、幸福を失うことに等しく、そこで相手が得るべきだということになるのです。どのようにして得るのですか? あなたは彼を一発殴り、一言罵れば、それであなたは自分の罵った強さ、殴った強さによって、自分の身体の周囲からその強さに比例する量の一塊の白い物質が飛んでいきます。この物質を徳と言います。それは相手のところに飛んで行き、相手の身体に落ちます。相手も人ですから、この道理が分からないかもしれず、殴られたことに対して怒ってしまいます。彼が怒れば、この徳を元へ押し返すことに等しいのです。彼はその後相手を一発殴り返し、一言罵り返した時、この徳をまた投げ返してしまったことになります。二人とも失うことも得ることもなく、誰も得ていません。宇宙の法理は公平なのです。

 修煉者として、彼が心の中で放下できれば、「あなたに殴られても罵られても、心は平然として全然気にしない。なぜなら、私は修煉者だから、常人のあなたと同じ見識を持ってはならない」と言うでしょう。それでは皆さん考えてみてください。この人の道徳基準はすでに一般の人より高く昇華したのではありませんか? 他人が彼を殴る時、彼に徳を与えるのではありませんか? この徳という物質は演化して功になることができます。あなたの功はどこからきたかと言うと、皆さんに教えますが、まさに徳から演化してきたのです。宇宙の中から採集した幾らかの物質にあなたの徳を加えて、はじめてあなたの功を演化することができるのです。あなたにこの徳がなければ、修めても功は出てこないのです。それでは彼があなたを殴った時、彼は自分の徳をあなたに与え、あなたは徳が増え、更に高く修めることができます。この道理ではないでしょうか? あなたが得たものは、常人によってもたらされた苦痛のために得る補償より、ずっと大きいのではないでしょうか? それでは彼があなたを殴り、あるいは罵り、何か迷惑をかけ、そのためあなたが苦痛を受け、その苦痛の中で自分の身体に帯びた業力、つまり前世に造った黒い物質を業力と言いますが、それもまた徳に転化し、相手がまた相応した量の徳をあなたに与えます。常人として、皆さん考えてみてください。これで一挙両得になります。あなたは私に少し苦痛をもたらしましたが、私は却って二つの補償を得ました。

 しかし修煉者として、彼は四つのものを得ることになります。この全てに遭遇した時、あなたが彼と同じ見識を持たず、心はとても平然として、殴られても殴り返さず、罵られても口答えしません。心がとても平静であれば、皆さん考えてみてください。あなたの心性は修煉して向上してきたのではありませんか? もし彼があなたにこのトラブルをもたらさず、苦痛を与えなければ、あなたはどのように修煉するのですか? そこに気持ちよく座ったままで、お茶を飲みながらテレビを楽しむだけで修煉して向上でき、望むほどの高さにまで達することは絶対不可能です。この複雑な環境の中で、いろいろな困難にぶつかり、魔難の中でこそ、あなたははじめて自分の心を向上させることができ、はじめて高い基準、高い境地に到達できるのです。そこで彼と同じようにしないことによって、あなたの心性は修煉して向上するのではありませんか。あなたは一挙三得です! あなたは煉功者として次元を高め、一日も早く圓満成就に達したいのではありませんか? あなたの心性を修めて向上してきたら、あなたの功も上がってくるのではありませんか? 間違いなくそうなります! このような一つの道理があります。つまり心性の高さは功の高さであるということです。この人は心性がさほど高くないのに、功ばかり伸びるものでしょうか? それは絶対に不可能です! こんなことは存在しません。絶対に不可能です。ある人は、一部の修煉者の心性は私にも及ばないのに、なぜ彼に功があるのかと思っています。彼はこの方面ではあなたに及びませんが、ある面ではあなたに勝っているかもしれません。人は修煉する時、一つの心、一つの心を取り除くのです。取り除かれていない心が表に現れると彼はやはり常人と同じですが、その心が取り除かれてなくなったら、もちろん表に現れないのです。修煉者として、あなたが苦痛を受けた時、あなたは一挙四得になります。冗談ですが、あなたはどこでこのようなお得なことを探すことができますか?

 人は他人に殴られ、罵られたら怒りがこみ上げ、心の中で憤りを覚え、あるいは他人に食いものにされ、金を巻き上げられたら全く我慢できません! 人はこれらのものをとても重くみており、甚だしきはわずかな利益をも失うことができません。皆さん考えてみてください。この人はなんと哀れな生き方をしているのでしょう! 彼はわずかな旨味を知ると、心の底から喜びます。これしきのわずかな得のために生きており、人は今こんな有様です。彼は自分が真に失ったものが何か分からず、これは最も恐ろしいことなのです! この徳がなぜそんなに貴重なのでしょうか? 皆さんが知っているように、東方の老人は皆こう言います。徳があってはじめて福があります。この福は幾つかの面を含み、高官になるとか、大金持ちになるとか、家を持ち、土地を持ち、幸福になるなどは、いずれもその徳と交換してやってきたのです。それは人の生命についており、人が死ねば元神についていき、あなたが転生すればそれもついて転生します。徳だけでなく、黒色物質つまり私が今言った業力、この業力も人の生命についていくのです。この二種の物質は、ともに人についていきます。昔の年寄りは、悪い事をすれば報いに遭うと言いました。誰があなたに報いますか? 誰があなたの債務を帳簿につけますか? あなたのためにこれらの事を管理する人はどこにいますか? しかしこの徳はあなたの身体についており、しっかりあなたについているので、来世はこの徳で決まるのです。業力が多ければ、あなたの一生は苦痛が多く、病気が多く、災難が多いのです。徳が多ければ、あなたの一生はお金が多く、福が多く、官職も高くなります。まさにこの徳がもたらしたのです。煉功者として、この徳は功に転化できるので、更に貴重なのです。とりも直さずこのような道理なのです。

 現代の科学でこのことがみえないのは、現代の科学はこの空間を突破できないからです。我々人類はどのような空間形式の中に生存しているのでしょうか? 皆さんに教えますが、我々人類が生存するこの層の空間は二種類の物質粒子の間にあります。粒子について、物理を学んだ人は知っているとおり、分子、原子、原子核、クォーク、中性微子、それらは全てある次元の粒子で、それがもっと大きな粒子を構成する物質の元素なのです。我々人間はどの次元の粒子の中に生存しているのでしょうか? 我々人間が目で見ることのできる一番大きなものは星で、一番小さなものは顕微鏡で見ることのできる分子です。実は我々人間は星と分子との間のこの一層の空間の中に生存しています。我々はとても広く、果てしなく広く、大きく、比べるものはないと思っています。私に言わせると現代の科学は発達しておらず、宇宙船が幾ら高く飛んでも、我々のこの物質空間から飛び出していません。コンピュータが幾ら発達しても人間の脳とは比べるべくもなく、人間の脳はいまだに謎のままであり、したがって人類の科学はやはり非常に浅いものなのです。

 皆さん考えてみてください。我々人類は星と分子という二種類の粒子の間に生存しており、そして分子は原子から構成されたものです。原子と分子の間の空間はどんな様子なのでしょうか? 現代の科学者は原子の一つの点、その一つの小さな構造しか認識できません。実は原子の存在するところはそれも一つの面であり、この面で構成された物質空間も相当厖大ですが、あなたが発見したのはその中の一つの点であるにすぎません。それではこの次元の面の中で、この空間はどれほど大きいのでしょうか? 我々の距離を測る基準は、いつも人類自身の現代科学の角度に立って全てを量っています。あなたは実証科学の枠及び概念から飛び出さなければなりません。あなたがその空間に入るには、その空間の形式に符合して、はじめて入ることができます。科学により分かったことは、原子から分子までの距離は、約二百万個の原子が並んで、はじめて原子から分子に到達できるということです。彼が認識できるこの距離だけでもすでに相当広いのですが、あなたは現在の人類のこの実証科学の枠という状態の中に立ってそれを認識してはいけません。皆さん考えてみてください。原子から原子核までの間はそれも一層の空間ではありませんか? それでは原子核とクォークとの間はどれほど大きな空間距離がありますか? 更にクォークから中性微子までの間はどうでしょう? もちろん我々現在の人類の科学は中性微子までしか認識できません。見ようとしても見えず、機器で測って、それの存在形式を知ることしかできません。実は物質の本源物質までどれほどかけ離れているか分からないのです!

 私の言ったこれは最も簡単な空間の存在形式です。我々人類の全ての物質は、あなたが見えないこの空気の中に存在する全ての物質と、見ることのできる物質、例えば、鉄やセメント、動物、植物、物質、更に人の身体を含め、いずれも分子から構成されています。人類は分子という面の上に生存しているのであり、まさに一枚の立体画のようで、あなたはこの面に生存しており、そこから抜け出せないのです。人類の科学もこのわずかな空間の内に局限され突破できないのに、また科学はいかに発達しているかと言い、一切の学説を排斥します。人類の技術は更に高く宇宙を認識することができず、もし本当にこの層の空間を突破できれば、別の空間の生命の存在形式、物質の存在形式、その中の時空の構成の構造が見えるはずです。しかし、我々修煉者は見ることができます。佛こそが最高の科学者なのです。

 私が天目を開くことを説いた時、この問題について語ったことがあります。人は目を使わずに物を見て、我々のこの天目から見ますが、つまり両眉の間、あるいは道家のいう山根、鼻の付け根のところに一本の通路を開いて、直接あなたの松果体に通じさせます。医学上では松果体と言いますが、道家の煉功者はそれを泥丸宮と言い、即ちそれを指しているのです。しかし、医学者はすでにこの松果体の前半部が、人間の目のあらゆる組織構造を備えていることを発見しました。現代の医学者は、なぜこの中に一つの目があるのかとても不思議だといぶかりました。それを退化した目であると思い、やはり進化論によってこれらのことを解釈しています。実はそれはこのように存在しているもので、全く退化したものではないのです。人間が肉眼を使わずに物を見る時、もちろんこの肉眼でも良く修煉できた時、肉眼も突破してこのような功能を備えることができます。佛法は無辺なのです。一般的に目を使わずに、分子で構成された目を使わずに見れば、この空間を突き抜けて別の空間の景象を見ることができます。とりも直さずこの道理なので、修煉者は常人の見えないものを見ることができるのです。もちろん一部の常人は、彼の一生の中でぼんやりしているうちに、偶然に何らかの不明な現象を見たことがあります。例えば、誰かが目の前をちらっと通り過ぎたのを見た、あるいは何かを見た、何かの音声を聴いたといったことです。それはぼんやりとしながら、真に別の空間の情況を見たり、聴いたりしたのかもしれません。人の天目はあまりきつく閉鎖されておらず、あるいは耳もあまりきつく閉鎖されていなければ、偶然に別の空間の音声が聞こえ、あるいは別の空間の何らかの現象が見えます。

 私は今人類の生存しているこの空間のことを言いました。実は我々人類が生存するこの星は最大の粒子、最大の物質ではありません。星以外にまだ更に大きな物質があるのです! ですから、釈迦牟尼佛の目はきわめて微視的には、すでに相当ミクロ的な物質が見え、巨視的には相当大きく、マクロ的な物質が見えました。しかし釈迦牟尼佛は最後までこの宇宙が一体どれほど大きいかを見ることができず、そこで彼は「其の大は外無く、其の小は内無し」と言ったのです。この宇宙はなんと厖大でしょう! どれほど複雑なのか、皆さん考えてみてください。人類の知り得る我々のこの空間、この形式ではなく、それは相当に複雑なのです! この種の空間形式以外に、また縦方向に存在する空間形式があり、しかも縦方向の空間の中にまた数多くの単元世界があり、とても複雑なのです。私の言ったこの単元世界とは天国などを指しているのですが、各空間にまた違う時空が存在しているので、考えてみてください。原子から構成された空間の時間は、我々こちらの分子で構成された空間の時間と同じであり得るでしょうか? その空間概念、その距離も我々のものと違い、全てに変化が生じています。あの宇宙人の空飛ぶ円盤(UFO)は、なぜ瞬時に現れたり消えたりすることができ、それほど速く飛べるのでしょうか? それは別の空間を通っているので、このように簡単なのです。人類は現在自分の科学の立場に立って宇宙の中の不明な現象を認識し、あるいはこの方法で修煉、あるいは宗教を研究しているので、永遠に究明することができません。その思惟方法を変えなければならず、別の角度から認識しなければなりません。人類の歴史において、科学というものは現在のヨーロッパ人が発見し、発明したこのいわゆる実証科学だけでなく、この一筋の道だけでなく、他にも道があります。地球上で発見された、歴史上かつて存在した古い文明の発展した過程は全て生命物質、宇宙に対する別の認識の道なのです。中国の昔の科学は別の道を歩みました。もちろん中国のこの文化が及んだ次元はとても高く、人の道徳が駄目になったため、それも抑制されたのです。ですからそれは伝わってきておらず、西洋のこの最低な科学形式が却って人に残されたので、それはかなり不充分なものです。

 先ほど人間は我々のこの物質空間で生じたのではないことと、人間になる目的を説きました。人がもし更に滑り落ちて行けば、壊滅、徹底的な壊滅に臨むことになります。それは、形神全滅と言い、とても恐ろしいことです! ですから佛は人を済度しようとし、つまりあなたがこのような絶体絶命の状況に陥らないようにさせ、あなたを人間の苦痛の中から済度し天国に上がらせ、真に根本から人間の苦を解決するのです。現在の人が佛を信じる基点と古人が佛を信じる基点とは同じではなく、過去の人が佛を信じるのは佛を拝み、佛を修め、佛を敬うことであり、他に何の心もなかったのです。現在の人が佛を信じるのは佛を求めるためです。しかし求めるという心は佛にとって最も醜く、最も汚い心なのです。ですから皆さん考えてみてください。佛はあなたを済度するためにいるのに、あなたは常人の中での安逸、幸福を求めています。あなたを常人の中でもし真に幸せにさせ、気楽に生きさせるなら、あなたは本当に佛になろうと思わなくなります。あなたは現在すでに佛なのです。これはどうして可能なのですか? 人間は生々世々に造った業力、してしまった悪い事を返さず、幸福を求めるばかりでは、それはどうやって求められるというのでしょうか? あなたには一つの方法しかありません。修めることによって、はじめて造った業力を消去することができるのです。あなたは佛になりたいと思わなくても、一人の良い人にならなければならず、善い事を多く行ない、悪い事をしないようにすれば、はじめて将来幸福になることができ、真の自我の生命を更に延長させることができます。しかし人間は転生する時に洗脳された後、良くない環境の中に転生し、環境に左右されたまま流され、壊滅の縁(ふち)に至ってしまうかもしれません。

 先ほど私は、釈迦牟尼佛が言ったこの宇宙は、其の大は外無く、其の小は内無しということに触れました。人によってはまだこの話を理解できていないかもしれません。つまり釈迦牟尼佛にはどんな問題が見えたのでしょうか? 彼は三千大千世界の学説を説きました。釈迦牟尼佛によれば、我々人間と同じような物質の身体をもつ人は、別の空間の中に生存している人だけでなく、我々人類社会のような世界が三千個あります。この銀河系の中に、三千個のこのような星があります。しかも、彼は更に一粒の砂の中に三千大千世界が含まれていると言いました。彼は一粒の砂の中に三千個の我々人類が生存しているような空間があると言いました。しかし、そこにいる人の大きさを、現代科学の概念で認識してはならず、それは別の時空形式の中に生存しているのです。

 今私が言ったこの話について人によっては不思議に思い、理解できないかもしれません。皆さん、試しに考えてみてください。地球はとても規則的に運行しています。それでは、電子が原子核を巡って運行している時と、地球が太陽を巡って回っている時と何の違いがありますか? 同じ形式なのです。もし電子を地球ほど大きく拡大して見ることができれば、その上に生命があるかどうか? どんな物質がその上に存在しているかを見ればいいのです。釈迦牟尼佛は、其の小は内無しと言いました。彼はどの程度まで見たのでしょうか? 物質をミクロ的にすでにかなりミクロ的に見ることができました。彼は一粒の砂の中に三千大千世界があり、一粒の小さな砂の中に三千大千世界があると言いました。それでは皆さん考えてみてください。釈迦牟尼佛が言った事が本当であれば、その砂の中にも、その世界の中にも、江、河、湖、海があるのではありませんか? その江、河、湖、海の岸にも砂があるのではありませんか? その一粒の砂の中にまた三千大千世界があるのではありませんか? その一粒の砂の中の砂の中に、また三千大千世界があるのではありませんか? 下へ追っていけば、釈迦牟尼佛は尽きることがないと気づいたのです。ですから彼は、其の小は内無しと言い、物質の最も本源が何であるかを見極められませんでした。もちろんこの物質の最終的な本源について私は以前説いたことがあり、ここで多く言わないことにします。説いたことがあまりに次元が高く、あまりに奥深ければ、特に多くの人は中国語を聞いてあまりよく分からないので、このようなことを多く言わないことにします。とりあえずこれくらいにしておきましょう。次に皆さんは修煉及び法の勉強の中での問題を出してください。私は解答します。

弟子:『轉法輪』、『轉法輪(巻二)』を私たちは読みました。私は以前密教の弟子だったので、その中のある話があまりよく理解できません。本の中で、菩薩と如来佛の次元が現在劫難に遭っていると言われているようですが?

師:この質問はとても高いことを尋ねています。更に高い次元まで修煉できた時、はじめて見ることができ、認識もできます。もちろん私はあなたに簡単に、概括的に説くことしかできません。人間のこの層の法が法力を失ったのは、人類社会の道徳がみな落ち、人の道徳観念が堕落してしまい、正念がなくなってしまったので、法が法力を失ったのです。人類社会では法が法力を失った時、人類が滑落するのです。もし、この法が人類のこの社会で法力がなくなったのではなく、かなり高い次元の空間に逸脱が現れたら、物質生命は下へ落ちてしまうことになり、悪くなってしまったので、下へ落ちるのです。もし、広範囲にこのような問題が出現すれば、もはや人類だけの問題ではなくなります。例えば、大法は上から下へ貫いているので、上が少しずれたら、下はもう完全に崩れてしまうのです。射撃と同じで、手元が僅かにずれると、弾丸はどこに飛んで行くのか分からなくなります。なぜ下ではこんなに大きな変化が発生したのでしょうか? 人類社会の変化は非常に恐ろしいのです! 麻薬の常習や販売など、人は悪事の限りを尽くし、多くの人が限りなく悪事を働くのです。マフィア、同性愛、性の乱れなど、みな人間としての基準を失ってしまったのです。佛はどのようにこれらの問題を見ているのでしょうか? 政府が許しても、法律が許しても、それは人間自らが許しているだけで、天理はそれを許しません! 以前は美しくて良いものが人類の追求する対象でしたが、現在売られている玩具や描かれた絵は、全て粗製濫造されたものばかりで、それを作品だと言うのです。どういうことでしょうか? 誰もはっきり説明できません。人間の一切の観念はみな反対の方向へ変化しています。一山のゴミをそこに並べると大家の芸術作品になるのです。全社会の現象はほとんどこうなのです。店の中の玩具、甚だしきは便の形をまねて作った玩具さえも売られています。昔、人形はとてもきれいに作られて、はじめて人々が買いたくなるのですが、現在ではどくろや、とても凶悪な人、妖怪や化け物を玩具にし、しかも売れ行きがとても良く、善の念がない人はそれを買いたがります。これはある問題を物語っています。つまり、人の観念がこれほどまでに滑落してしまったということです! 以前、歌手は声が美しく、音楽学校を卒業し、体型や姿勢も優美なものがよしとされました。音楽はとりも直さず人に美を感じさせるものなのです。現在は男らしくもなく、女らしくもない長髪の人が、アー、アーと力を入れて叫び、テレビで持ち上げればスター歌手になってしまうのです。全てが堕落し、人類の全てが下へ滑落しています。他にも多くの現象があり、恐ろしさの極みです! 修煉しなければ気づかないでしょう。人類の宗教に対する認識も違ってきており、政治と見なしてしまい、口を開けば佛を罵る人もいます。料理のメニューには「佛跳牆(ぶっちょうしょう)」というものさえあります。これこそ佛を謗るものです! 現在の人類社会は一体どうなったのでしょうか? あなたが修煉しなければそれに気づくことはないでしょう。修めて振り返って見れば驚いてしまうのです! 皆さん考えてみてください。人類がこの程度まで堕落してしまったのは単独のことではなく、一定の空間の中で法に問題が起きてしまったのです。数多くの物質、数多くの生命が法から逸脱したことによって引き起こされたのです。私はこのように言うしかできません。あまりにも深く説けば在席の多くの人は理解できません。このように言えばあなたは分かると思います。

弟子:本来はとても聞きにくいのですが、この機会を掴まなければ恐らくもう機会がないと思います。この問題は多くの人が全く答えてくれませんでしたが、今日先生が来られたので、この機会は大変得難いものだと思います。つまり数年前のある日、私は深夜十二時過ぎに密教の方法に従って座禅をしました。私は以前密教を修める者でした。しかし私は飛行機のプロペラのように旋回し始め、表現できないほど速く旋回しながら浮き上がりました。私がこのぐらいの高さまで浮き上がってから、頭上から出て来たのです。頭上から出て来た時、激痛が走り痛みを感じているうちに更に上昇して行く時、とても怖くなりました。私の魂が行ってしまったかもしれないと思い、しかも自分の身体が見えませんでした。翌日、不思議な現象が発生しました。真っ昼間に私が部屋の中に座っている時、銀色の光輪、銀色の光が見えました。それから五分後に見えなくなりました。三日目に法輪が見えました。これはどういうわけでしょうか?

師:あなたは以前密教を練っていましたが、効果が得られませんでした。あなたになぜ法輪が見えたのでしょうか? 我々はあなたが修める前にすでにあなたの面倒を見ていたのです。煉功する人が浮き上がるということはとても簡単なことですが、現在の科学者には解釈できないのです。実は人の身体の全ての脈が通じた時、その人は浮き上がることができます。浮き上がらなくても、軽やかに歩き、山を登るのも、階段を上がるのも疲れを感じないのです。これは脈が通じたからです。こうなるはずです。元神が出て来たことに至っては、人によっては、元神が身体から簡単に離れる人もいれば、なかなか出ることができない人もいます。元神が身体から離れると、法輪はあなたの浮かび上がった身体を率いて回るので、回転がとても速いわけです。それ以上高く上がると怖くなったのは、当時のあなたにその高さまでのエネルギーしかなかったからです。初めてこのような問題に遭うと、誰でも怖がるでしょう。実は我々の法輪大法を修煉して浮かび上がった人はとても多く、このことは普通のことです。修煉者は修煉を始めるとすぐ脈が通じ始め、そして大周天が通れば、その時人は浮かび上がることができます。

 このことを言ったからには、皆さんに一つ念を押しておかなければなりません。誰も「私が浮かび上がることができれば、なんと素晴らしいことでしょう!」というような考えを持ってはなりません。あなたに求める心が生じると、浮かび上がることはありません。なぜなら、煉功は無為を重んじ、空を重んじ、修める心があって、得ようとする心はないからです。即ち煉功する心があればとて、功を得る心無しということです。皆このような気持ちを持って修煉しているのです。いつも成佛することを考えていれば、それは強い執着です。この心を取り除かないかぎり、永遠に駄目です。ですから修煉は常人の心を捨て去ることです。常人の中でいかなるものに対する執着も執着心なのです。あれを求め、これを求め、求めれば求めるほど得られなくなります。この心を放棄してはじめて得ることができます。皆さん、くれぐれもこの理を覚えておいてください。常人として何かを得たいのであれば、それを求めても学んでもよく、努力すれば得られます。しかし常人を超えるものであれば放棄して、はじめて得られるのです。これは何と言うのでしょうか? 求めずとも自ずから得ると言うのです。

 あなたが言ったその怖い問題について、実際は何も怖いことはありません。浮かび上がれるなら浮かび上がればいいのです。当時あなたに教える人がおらず、常人の中で教えてくれる師父がいなかったのです。浮かび上がって来たことはとても普通の現象で、それは人の意念の制御を受けるのです。あなたは自分が降りようと思えば、直ちに降りられます。上がろうと思えば上がれるのです。それを恐れていれば、それは執着心なので、落ちやすいのです。ですから、どんなことがあっても恐れないでください。昔、ある人が羅漢に成就して、喜んでしまったために落ちてしまいました。なぜでしょうか? 喜ぶことも情の現れで、一つの執着でもあるからです。成就した人は、罵られても悪口を言われても気にすることなく、誉められても心が動ぜず、貶されても気にしません。彼は喜んだので落ちてしまいました。羅漢に成就することもなかなか容易なことではないので、最後にこの人は修煉し直すしかありませんでした! 数年して彼はまた羅漢に成就したのですが、今回は心の中で「喜んではいけない、喜ぶとまた落ちてしまう」と考えました。心の中で自分が喜ぶことを恐れたのです。ところが彼は恐れたので、また落ちてしまいました。恐れることも執着心なのです。佛を修めることはとても厳粛なことで、遊びではありません! ですから皆さんは必ずこの問題に注意しなければなりません。

 皆さんが質問する前に私はもう一つのことを言っておきます。我々の煉功は必ず専一でなければなりません。在席している皆さんの多くは、以前密教を学んでいた人もいれば、佛教を信じる人、キリスト教やカトリックを信じていた人もいます。私が思うには、修煉は専一でなければなりません! なぜ専一でなければならないのでしょうか? これは紛れもない真理です! これは現在の末法時期に人が修煉できなくなった大きな原因の一つです。ほかにまた幾つかの原因があります。例えば、法を理解できないこと、混ぜて修煉することなどです。混ぜて修煉することは一つの主な原因です。この功を煉った以上、他の功を煉ってはいけません。なぜこのように教えるのでしょうか? 「諸家の長所を取り入れる」という言い方は常人の言うことで、常人が技術や知識を求めるのは正しいのです。しかし修煉は専一でなければならないという理があります。佛教の中ではこれを不二法門と言います。佛も修め、道も修めると言うなら、修めても何も得られず、誰もあなたに功を与えません。「修は己にありて、功は師にあり」なのです。皆さん考えてみてください。気功で鍛えるだけで佛になれるというのでしょうか? 密教は呪文を唱え、その上に意念を加え、幾つかの手印を結べば佛になれるというのでしょうか? 人の意念は取るに足らず、願望にすぎません。真に作用するのは師父なのです! 「いずれも佛家のものなので、佛経も唱え、密教も学び、また佛家気功もすればいいではないか?」と考えている人がいます。それは常人の認識で、神はこのように認識していません。皆さん考えてみてください。如来佛、阿弥陀佛はどのように修めて成就したのでしょうか? 自分の修煉方法に基づいて圓満成就に達したのです。彼の功も自分の演化の形式に基づいて、自分の世界を圓満させ、自身を成就させたのです。彼の全ては修煉過程における彼自身の修煉形式という要素がもたらしたのです。

 釈迦牟尼佛の圓満成就に達する方法は「戒・定・慧」と言います。四禅八定などを修め、彼の修煉方法に従って行わなければなりません。この法門で修めるには、あなたの功も釈迦牟尼佛の修煉した功と同じで、はじめて彼の世界に修煉して行けるのです。密教を修煉したければ、密教の身、口、意の要求に従って修めて、はじめて大日如来が主宰している天国に行けるのです。何でも煉るなら、何も得られないのです。浄土宗を修め、阿弥陀佛を念じ、その上に禅宗の理論も学ぶのであれば、あなたは同様に何も得られないのです。人は一つの身体しかありません。この身体を佛体、佛の身体に変えるのは、皆さんも知っているように、決して容易なことではなく、あなた自身ではできないのです。それは佛がすることで、あなたの身体を佛体に変えることは非常に複雑なことで、人類の最も精密な機器より複雑なことです。更に、あなたの身体に機制を植えつけ、各種の佛法神通を圓満させる多くの種を丹田の田に蒔いてあげるのです。この一切はみな彼の法門のものです。そうしてはじめて、あなたは彼の法門で修煉することができ、はじめてその佛の世界に修煉して行くことができるのです。もし専一でなければ、あなたには身体が一つしかないのに、どのようにして二つの佛の世界にいる一人のあなたを修煉させることができるでしょうか? 二人のあなたを修めて得ることは可能なのでしょうか? 佛はあなたがこうしているのを見ると、皆あなたに何も与えません。心性が低いと思うからです。はっきり言えば、それは人間が佛法を撹乱することになります。如来佛が如来に成就することは何と苦しく、難しいことでしょう! 一人の如来佛が如来に成就するまで、どれほどの苦に耐えて、はじめて如来に成就できるのでしょう! 常人にすぎないあなたが彼のものを変え、撹乱し、また二種類のものを混ぜ、二人の佛が悟ったものを勝手に乱してしまうことは、佛法を撹乱することではないでしょうか?! これほど重大なことなのです! しかし現在の和尚と人類は佛法を破壊しているのに、そのことに気づいていないのです。もちろん、あなたは知らないので、全てをあなたのせいにはせず咎めませんが、何もあなたに与えないのです。勝手に佛法を人に撹乱させることなどあり得ません。二つの法門の佛法、二人の如来佛の法もあなたに撹乱されてしまうことは絶対あり得ないことです! ですからあなたが混ぜて修めれば、何も得られないのです。佛家のものだけを修め、道家のものを修めず、修めているものが全て佛家のものであれば大丈夫だということではありません。佛家の禅宗も修め、密教も修め、浄土、華厳宗、天台宗も修めるならば、あなたはやみくもにするだけで、それはでたらめで、何も得られません。本当に何も得られないのです。ですから、必ず一つの法門に専念して修煉し、はじめて圓満成就できるのです。

 ここで私は一つの道理を言っているだけで、どうしても私、李洪志の法輪大法を学ばせたいと言うのではありません。我々の法輪大法は先史のある時期にかつて釈迦牟尼佛の佛教のように、人類社会で広範囲に人を済度したことがありますが、今期の人類の文明時期には伝えたことはありません。今期の人類が出現してから、我々は初めて再びそれを持ち出しましたが、人に伝えることはこれで最後かもしれません。しかも、永遠に不壊のものです。もちろん我々には法輪世界があり、圓満成就した弟子は法輪世界に行くことができます。どうしてもあなたに私の法を修煉させたいと言っているのではありません。どの法を修めてもいいのです。正法でさえあれば、その法門の本当の教えを得ることができ、その法門で圓満成就できると思えば、それを修めればいいのです。しかし必ず専一でなければなりません。

 更に皆さんに言っておきましょう。佛はその本来の姿で直接あなたを済度しに来てはいけません。大いに神通を顕し、佛がここに座って、あなたに法を説くのであれば、それは人を済度することではなく、法を破壊することになります。極悪非道の者も学びに行き、悟りということはなくなるのです。本当の佛がそこにいるのを見て、誰が学ばないでしょうか? 全人類が学びに来ます。このようなことではありませんか? ですから常人に転生した師父だけが教えることができ、人を済度することができるのです。この中に一つの悟りの問題があります。信じるか否かはあなた次第です。しかし法に対してあなた自身が斟酌すればいいのです。いずれにせよあなたに責任を持つため私はこの道理を話しました。あなたに修煉したい気持ちがあるため、教えたのです。そうでなければ、私はあなたに責任を果たさなかったことになります。あなたにこのような機縁があり、ここに座った以上、私は教えます。現在いかなる法門で修煉しても非常に成就し難く、見守ってくれる人はなく、むやみやたらに修めているだけです。もちろんあなたが自分で分別することができるなら、修めればいいのです。圓満成就まで修めることができると思えば、どの法門で修めてもいいのです。このような道理です。佛は人のために考えているので、皆さんに教えておきたいのは、修煉したければ専一でなければなりません。動作において他のものを練習してはいけないだけでなく、他の法門の経を読んでもいけません。あなたの考えの中で別の法門のものが生じてはならず、意念も除去しなければなりません。煉功の時、多くのものは意念に頼っているので、何かの意念が生じると、それは求めていることになります。何かを求めていれば、そのものがやってくるのです。そうすると、あなたの功が乱れ、法輪は変形し、効力を失い、今までの修煉は無駄になってしまうのです。

 皆さんに教えますが、この法輪は大変貴重なもので、それをあなたに与えましたが、私がこの法を伝える前に、千年も道を修めた人たちは法輪を得ようとしても得られなかったのです。法輪を得たら、この人の修煉は半分できたと言えるのです。功は法輪によって自動的に演化されます。心を修めさえすれば、功が伸び、向上してくるのです。法輪は高級生命であり、つまり、あなたの生命よりも高級です。あなたに与えましたが、あなたが修煉したいということで、佛性が現れてきたからです。この一念が生じたから、あなたを済度するのです。このようにしたのです。あなたが得たものはとても貴重なものです。佛を修めるのは非常に厳粛なことであり、法輪を乱し、壊すことも許されません。もしあなたが他のものを混ぜて修めたら、我々は法輪を取り戻すしかないのです。あなたにこの生命――高級生命を壊させるわけにはいかないからです。それなら、他のものを学んだ時、法輪はこんなに大きな威力があるのに、どうして構ってくれないのかと思う人がいるかもしれません。この宇宙の中に一つの理があり、何を求めるかは自分で決めることであり、自分自身が求めていれば、もし邪なものを求めていれば、邪なものがあらゆる機会を逃さず入って来るのです。あなたが求めていなくても、無理やり入り込もうとします! 求めていれば、すぐやって来て、一秒も経たないうちに来てしまうのです。法輪はなぜ手助けをしないのでしょうか? あなたが求めているからです。ですから皆さんはくれぐれもこのことに注意してください。人が修煉するということは、とてもとても厳粛なことです。

 私が中国で功を伝えた時、多くの人は高い次元まで天目が開きました。天目が開いても、修煉がしやすくなるわけではありません。高くて大きな神仙が見えて、別の空間の生命体は大きくなることができ、同じく黄色の衣服を着ており、高くて大きいので、人類は大きな神通を持っていると思ってしまいます。「あなたを弟子として受け入れましょう。私について学びなさい」とあなたに言います。人の心が動じ、すぐ彼について学びに行けば、もうおしまいです。彼はいくら高くて大きくても、三界を出ていないので、何者でもありません。ただ彼はこの空間におらず、身体を変化させることができるだけです。ですから、皆さんはぜひこれらのことに気をつけてください。またあなたを邪魔しに来る魔があります。「私について学びなさい。何かを教えます」と言うのです。特に他の功を練る人は、いわゆる自発功が出やすく、そこに座ってきれいな手印を打っているようですが、あなたに教えますが、魔もこのことができるのです。誰が与えてくれたのか分からないので、彼に従って練習すると、あなたの身体に何かが加えられ、あなたの身体を乱してしまうのです。一部の人は、これを学んだり、あれを学んだりしたために、身体の中はめちゃくちゃで、何でもあります。もう全く修煉できなくなるのです。我々は縁を重んじますが、私に会うことができることも、あなたの縁なのです。真に修めたければ、徹底的に浄化してあげます。良いものを残し、悪いものを除き、身体を整え、浄化させ、乳白体の状態に達してから、はじめて真に功が出て次元を高めることができるのです。

弟子:先生にはたくさんの法身があり、人の修煉を指導することができます。しかし我々はオーストラリアにおり、誰が我々を指導してくれるのでしょうか? 誰を師とするのでしょうか?

師:彼はとても重要な問題を出しました。皆さんもご存知のように、人が修煉することは非常に厳粛なことです。人は生々世々に業力があり、前世に良くないことをすれば、別の空間に敵と債権者がいるかもしれません。あなたが修煉すると知れば、復讐してくるかもしれないので、修煉して間もないころの人は生命の危険に直面するのです。ですから私が言ったように、もし師父がいなければ、あなたが修煉して成就することは全く不可能で、絶対に成就できないのです。師父があなたを見守り保護して、はじめてあなたは修煉し成就できます。あなたにいかなる大きな問題も起きないようにして、はじめてあなたは修煉し成就できるのです。修煉者は以前世界各地にいましたが、中国は割合多かったのです。多くの道を修める人は弟子をとりますが、後に道教が現れて多くの弟子がいても、秘伝を受け継ぐのは一人だけです。こうして、はじめて弟子に問題がないように保証できるのです。一人しか見守れないのです。なぜなら、道家は衆生を普く済度する願望を持っていないからです。

 私はなぜこんなに多くの人を済度できるのでしょうか? 海外の人は別にして、中国だけで現在一千万の人々が学んでいます。なぜ皆さんに問題がなかったのでしょうか? 在席の皆さんの中にも自動車事故に遭った人がいて、車は壊れましたが、彼には確かに何の問題もなく、痛みもなく、怖がってもおらず、どこも怪我をしていなかったのです。なぜこうなり得るのでしょうか? つまり債権者があなたに債務の返済を求めに来たのです。しかし我々はあなたを真の危険にさらしてはいけません。ただし、借りはやはり返さなければなりません。もし師父の保護がなければ、それですぐ死んでしまうのです。死ねばどうやって修煉するのでしょうか? 私には無数の法身があり、私と同じような姿をしています。法身は別の空間にいるので、当然大きくも小さくも変わることができ、とても大きく変わり、小さくもなれます。彼の智慧は完全に開いているので、佛のような法力があるのです。主体は私のところにありますが、彼ら自身で独立して事を成し遂げる能力があります。彼らはあなたを見守り、保護し、功を演化してあげることができるのです。実は彼らは即ち私の智慧の化身であるため、あなたを保護できるのです。私はオーストラリアにはいませんが、大法をすでにあなた達に伝えたので、法を師とすべきです。

弟子:法身は我々の修煉を指導し我々を守ることができますか?

師:修煉者がトラブルに遭う前から、私の法身はこれらのものを処理し、出現させないようにしたり、あなたにヒントを与えたりすることもできます。あなたがどうしても悟らず、しかし修煉がよくできていれば、法身はあなたの目の前に顕現し、何かを教え、あるいは声を聴かせるかもしれません。あなたの修煉の次元が限られているので、法身は姿を見せることはありませんが、声を聞かせるのです。多くの場合はあなたが寝ている時、それを見ることがあります。こうしてあなたは夢を見ているようで、真か偽か、また悟りの問題が存在します。ですから多くの場合は夢の中で見ることができます。もしあなたの定力がとても高ければ、座禅している時でも見ることができます。しかしいつも私を見たいと思えば、それも一種の求めることであり、執着です。ですから、あなたに見せてはいけないのです。何もこだわらず、修めさえすれば将来必ず見ることができます。

弟子:師父は守ってくださいますが、私の業力はとても大きいので、どうやって守ってくださるのでしょうか?

師:ここにも一つ重要な問題が提出されました。今日の人類社会は、みな業に業を積み重ねてここまで至ったので、業力はすでに相当大きくなっています。人間だけにこんなに大きな業力があるのではなく、人間は転生できるので、動物、物質、植物、高次元空間の生物、低次元空間の生物にも転生します。六道で輪廻するので、全て転生できるのです。人は徳と業力を持って輪廻しています。現在の人は徳が少なく業力が大きいのです。見たところ、人だけに業力があるのではなく、セメント、土までも業力があります。皆さんもご存知の通り、昔、中国の農民は畑で野良仕事をする時、もし手に怪我をしたら、土を取って付ければすぐ治り、土を少々付けるだけでよくなったのです。現在、敢えてこのように土に触れようとする人がいるでしょうか? 触れなくても破傷風に罹ってしまいます! 至るところに業力があります。物質に業力があり、植物に業力があり、動物や人や至るところに業力があるので、高次元空間から見れば、人類社会には黒い波が押し寄せているのです。なぜ伝染病があるのでしょうか? とても深刻な伝染病は、とりも直さずその黒い波で、密度のとても大きな業力の塊であり、あちこちに流れているのです。流れてきたところで、伝染病が出現するのです。現在、人類の業力はこんなに大きいのですが、どうすればいいでしょうか? 皆さんに言っておきますが、あなたが修煉したいと思っても、つまり私が先ほど言ったように、借りがあった何人かの命を償ってから修めようとすれば、恐らく時が移り状況も変わって、私に出会うこともないでしょう。

 それではどうしたらいいでしょうか? この宇宙の人は人間になるためではなく、修煉して元に戻る、つまり真にその人が生まれたところに帰るためです。私は常人社会におり、常人の情から離れることができず、修煉したら、私の妻や子供、親兄弟をどうすればいいのでしょうか? それなら、私は生きていてもつまらないと言う人がいるかもしれませんが、それは常人の角度からの認識で、今の次元での考えです。新しい次元に向上し、つまり次元が高まれば、このような考えはなくなるのです。別の境地にいればこのように考えないのです。ここで一つの道理を教えましょう。誰があなたの本当の身内なのでしょうか? ここで皆さんの家庭関係に干渉しようとするのではなく、人は六道輪廻で転生する時、今世は人間であっても、来世は動物になり、植物になり、一世更に一世と転生します。繰り返し転生する中であなたに何人の両親、何人の妻子、何人の兄弟姉妹がいたでしょうか? あなたの長い生命の過程では、数え切れないほど多いのです。それには人間もいれば、人間でないものもあり、どれが本当の身内なのでしょうか。人間はあまりにも深く迷い込んでいます! あなたの本当の親は宇宙であなたが生まれたところにいて、そこだけにあなたの親がいるのです。生命は二種類の由来があります。一つは厖大な物質の運動によって生まれた生命であり、もう一つは宇宙の物質の運動によって生まれた有形の生命で、彼は人間が身ごもるように独自で生命を生み出します。このような生命であれば、彼には親がいます。ですからあなたの本当の親は、そこであなたを見ており、あなたが帰るのを待ち望んでいるのに、あなたは帰らず、ここで迷ってしまい、まだ身内が皆ここにいると思っているのです。

 人は人間になるのが目的ではなく、返本帰真こそが目的なのです。人にもし佛を修めるという一念が生じれば、修煉する機縁がなくても、佛を修めるという善の種を蒔いたのです。なぜこう言えるのでしょうか? つまり彼に生じたこの一念は大変貴重なのものです! 人はこれほどの苦しみと迷いの中にいても、まだ元に戻る気持ち、佛を修め善に向かう心があるためです。もしあなたが修煉したいなら、皆あなたを助け、方法を考えてあなたのために便宜を図ってあげるのです。人にこの一念が生じると、十方世界を震わせ、黄金のように輝き、誰にでも見えるのです。人が修煉したいと思えば、このようになるのです。しかし、こんなに大きい業力を持っているので、どうすればいいでしょうか? 何らかの方法で業を消してあげます。業は無条件に消してはならず、全て消してあげてもいけません。他の人の場合、どこまでこれをしてあげられるのでしょうか? 私はそれに関心がないのですが、佛教では、一世で成就できず、何回も輪廻して、はじめて成就できるといいます。つまりそれほど多くの業は一度に無くすことはできないということです。しかし、もしあなたが真に修めたければ、我々は何らかの方法で、今生であなたを成就させ圓満成就させます。もしかなり年をとっていて、あるいは定められた寿命がもう非常に短くなって間に合わない場合、法輪を持って天寿を全うし、転生することになります。法輪を持っているので、次の縁を続けさせることができるのです。

 正法を修めるには、私はあなたが修煉できるように、耐えることができる程度まで業力を消してあげます。全て消してはいけません。全く償わないわけにはいきません。では、どのように償うのでしょうか? それをあなたの修煉の過程に置きます。全てはあなた自身の業力なので、修煉していく中で、向上する必要のある各次元に置きます。それは心性を高めるための関や難として現れてきます。次元を高めなければならない時になると、何らかの厄介なことに出くわし、あるいは身体の具合が悪くなります。この全てはあなたに悟らせるためです。この時に自分を修煉者として扱うことができるかどうか、あるいは常人のようにこれらの出来事に対処するのか、放下して淡々として見ることができるかどうかを試しています。関や難を向上する良い機会と見なし、放下できれば、この関を乗り越えることができるのです。一部の修煉者は難がとても大きいと思いますが、実はそれほど大きくないのです。それが大きいと思えば思うほど、関は大きくなり、あなたは小さくなるのです。もし気にせず、気にかけなければ、緑の山さえあれば、薪がなくなる心配はないように、師がいて、法もあるのに、何を恐れるのですか? 無視すればいいのです! 放下した途端、関は小さくなり、あなたは変って大きくなり、一歩だけで乗り越えてしまい、その難は何ほどのものでもなくなります。必ずそうなるのです。乗り越えられないのは実は執着心を取り除くことができず、あるいは法を信じないからです。多くの場合は、この心を放下できず、あるいはあの心を放下できず、何かの心を放下できないので、関を乗り越えられないのです。彼は人心から抜け出すことができないので、乗り越えられないのです。

弟子:一つ質問があります。私は長い間法輪大法を修煉してきて、むさぼるように先生の本を読み、ビデオを見ています。しかし一つ分からない話があります。つまり先生のおっしゃった「法輪は自分で煉り出すことができるものではありません。先生が自ら法輪を植えつけてあげます」という話です。それで、私は中国に行って先生に法輪をいただきたいと思っています。これが一つの質問です。もう一つの質問は、仮に法輪があるとして、どのように自分に法輪があると証明できるのでしょうか? この二つの質問だけです。

師:多くの人はこのようなことを心配しています。この法を学びたいのですが、先生の講習会に参加したことがなく、先生にお目にかかったこともないのに、法輪を持つことができるでしょうか? 何も感じていない人は、先生は見守ってくれていないのではありませんか? 多くの人はこのような疑問があります。実は私はすでに本の中に書いていますが、皆さんは法輪を持つことができます。私は衆生を済度しに来ているので、あなたに責任を負わなければ、本やビデオを見るだけでは皆さんに危険をもたらすことになります。ですから私はあなたの面倒を見なければならないのです。あなたが真に修めていても見守ってあげなければ、私は人に害を加え、人を死地に置くことになり、私は罰に遭うはずです。ですから、私はそのようなことをしてはいけません。私はすでにこのようにした以上、皆さんに責任を持たなければならないのです。多くの根基のかなり良い人はこの本の文字一つ一つも法輪であるのが見えます。空間が異なっているので、更に深い空間を見ていけば、全ての字が私の法身であり、佛の形象であり、字の部首も一人の佛なのです。皆さん考えて見てください。一人の佛はすでにかなり大きな威力がありますが、この本を読んでいる時、なぜ病気が治ったのでしょうか? どうして目の良くない人はこの本を読めば読むほど字が大きくなり、目の疲れも感じなくなるのでしょうか? なぜこの本を読むと奇跡的な変化が起こるのでしょうか? 本の中の文字は法によって構成されており、文字自体はあなたのために何でもしてあげられるし、あなたに法輪を植えつけることができるのです。更に私の法身も見守ってあげています。この全ての事は彼らにできるのです。したがって、私本人に会わなくても得られるのです。

 感じるかどうかについては、敏感な人であれば、下腹部で回っていると感じられますが、一ヵ所だけでなく、全身のどこでも回っていると感じます。ここに在席している人の中に間違った話をした人がいますが、今後注意してください。その人は、法輪大法は九つの法輪を煉ると言いました。皆さんに教えますが、真に与えた法輪は一つだけです。この一つの法輪だけですでに限りない威力を持っています。この法輪は無限に分身できるのです。修煉の初期段階において、身体を調整してあげるために、あなたの体外に何百あるか分からないほどの法輪を植えつけてあげました。どこでも回っています。ここでも回っており、そこでも回っており、いや全身で回っていると話した人がいます。至るところで回っています。身体を浄化し、同化してあげなければならないため、私はこの功の特性を用いて調整してあげています。ですから、至る所で法輪が回っていると感じられ、数え切れないほど多くの法輪があると感じるのです。九つあると感じたから、それで九つあると言ったのかもしれません。私はかなり多くの体外にある法輪であなたの身体を調整してあげますが、敏感な人もいれば、そうでない人もいます。敏感でない人は感じられませんが、敏感な人には感じられます。感じられても、感じられなくても、これは全て初期段階のことです。感じられる人は法輪が身体に順応して、身体の一部になった時、感じなくなるのです。心臓は動いていますが、普段その動きを感じられるでしょうか? 手で触れば分かります。胃は蠕動していますが、それが動いていると感じられるでしょうか? 血液は流れていますが、あなたに感じられるでしょうか? 身体の一部となった時に感じなくなります。初期段階に感じられない時もあり、初期段階に感じない人はかなりいます。しかしその後修煉していくと、数多くの感覚があるはずです。修煉さえすれば必ず見守ってあげます。

 最も顕著な変化はあなたの身体が速やかに浄化されることです。中国大陸で多くの人が知っていますが、法輪大法はとても不思議です! 修煉すれば病気がすぐ治ります。なぜでしょうか? 多くの人は病気治療を求めず、大法が素晴らしいと思って修煉を始めたのですが、病気が治りました。しかし往々にして効果が良くない人もいます。なぜ病気が治らないのでしょうか? 法輪大法は病気を治すことができると聞き、病気治療の目的で修煉を始めたため、病気を取り除くことができないのです。「求めずとも自ずから得る」ということです。病気を治療したいというのも求めることです。人の身体には病気があるはずで、業を返すべきです。ただ修煉したいという心だけを持ち、病気治療の心を取り除かなければならないのです。病気治療のことを考えず、このようなことに構わず、ただ煉功すれば、何でも得られます。しかし病気を治したい心があれば、何も得られないのです。これまで我々はずっと精神病患者と重病患者が講習会に参加することを認めていませんでした。つまり、重病患者にいかにその心を放下させようとしても、彼は放下できません。生命がもうすぐ終わるのに、病気を考えずにいられるでしょうか? 病気のことばかりで夜も眠れない有様ですから、放下するようにと言っても放下できないのです。時に口では放下すると言いますが、頭の中ではやはりとても強く考えています。ですから我々は何もできません。なぜできないのでしょうか? 正法を伝えて人を済度するには要求があり、とても厳しい要求なので、そうでなければ我々は邪法を伝えることになるのです。あなたはこの一念を変えなければなりません。そこではじめて何かをしてあげられるのです。その一念を変えなければ、我々は何もできません。その一念を変えれば、あなたは常人ではなくなり、この一念を変えられなければ、あなたは即ち常人です。その差はここにあるのです。ですから、求めずとも自ずから得るということにほかなりません。一部の人は何の考えも持たずに来て、とても良いと思い修煉してみました。人々が皆気功を修煉しているのを見て、彼もわけが分からず修煉しに来ましたが、そのために却って全てうまくいったのです。もちろん我々は一度に人々にかなり高い要求をするわけではなく、一つの認識の過程があってもかまわないのですが、修煉はいかなる求める心も抱いてはいけません。

弟子:先生、すいませんが、三つの質問があります。一つ目は『轉法輪』で言及されている奇門功法では、修煉してできた功をもぎ取りません。一部の功は修煉した功の八割をもぎ取ってその世界を充実させるのですが、我々が修煉しているこの大法でも、もぎ取るのでしょうか?

師:人は常人の中で修煉し、将来、佛になるために備えるべき一切のものを全て煉り出さなければなりません。皆さんもご存知の通り、佛には欲しいものが何でもあり、しかも神通が大きく、限りない福があります。それはどこからきたのでしょうか? どれほど苦しみを嘗めたかによって、それに相応する福を得るのです。功が相当高い次元に達してから、はじめて佛になることができるのです。これは昔修煉界でとても高い次元の修煉者の間で話すことで、常人の中で話されたことはありません。修煉者は確かにかなり高い次元まで修めて、はじめて圓満成就することができるのです。なぜでしょうか? 功だけあっても上がれません。必要なものがなければ、何の福もなければ、それではいけません。修煉していく過程で、それを全て修め出さなければならないのです。修煉の過程で嘗めた苦は、即ちあなたの威徳です。苦しみを嘗めれば、功が伸び、心性が向上すれば功が伸びるのです。ですから将来とても高い次元まで修煉すれば、また功の八割をもぎ取ってあなたの果位の限りない福分を圓満させ、あなたの世界を充実させます。それはあなたが苦しみに耐えて修めて得たものです。修めて得た心性の基準までもぎ取り、あなたの世界を充実させて、はじめてあなたの福分となるのです。それはあなたが苦しみに耐えて得たものです。残ったその二割は、それこそあなたの果位なのです。菩薩の基準に達すれば菩薩になり、佛の基準に達すれば佛になり、羅漢の基準に達すれば羅漢になり、更に高い境地に達すれば即ち更に大きな佛になるのです。奇門功法の修煉は割合複雑ですが、自分自身の功で福徳を圓満させるのです。

弟子:私の聞きたい第二の質問は、私の心性はあまり高くないので、人に罵られたり、いじめられたりしたら、心の中で怒りがおさまりません。先生の言われたことによれば、人々があなたを殴り、罵り、いじめる時、あなたに徳を与えているので、心の中で怒ってはいけないとあります。怒ったら、功が伸びていないことになりますか?

師:修煉者として、常人に対して怒った時、すでに常人と同じになってしまったのです。怒った時、あなたは外へ向かって押し出そうとしていますが、ただ押し戻していないだけです。押し戻せなかったのは、あなたが失ったからです。相手と同じように対処すればそれを押し戻してしまうことになります。ある人は次のように考えるかもしれません。彼は私をいじめて、私の金をたくさん騙し取ったのに、私は喜んで彼に感謝しなければならず、私を殴って罵ったのに、私は罵り返してはいけないばかりか、彼に感謝しなければなりません。これでは、人々に阿Qではないか、あまりにもひ弱で女々しいと言われるのではありませんか? 違います。皆さん考えてみてください。あなたにそれほどの高い心性がなければ、できないことなのです。それは修煉者の強い意志の表れで、常人にできることでしょうか? それほどの強靭な意志がなければできないことで、ひ弱で女々しいのではありません。もちろんあなたは喜ぶべきです。皆さん考えてみてください。彼がもしあなたをいじめなければ、あなたは一塊の徳を得られるはずはなく、一塊の徳を多く得たら、一塊の功が伸びます。彼にいじめられた時、あなた自身の業力も消えているのです! あなたは業力を持ったまま佛になれるでしょうか? 業力をきれいに消さなければなりません。彼はあなたをいじめてあなたに徳を与え、あなたの業も消えるのです。彼と同じように対処せず、心の中がとても平静であれば、あなたの心性基準は高くなります。頭上に心性の尺度があり、尺度の高さが功の高さです。あなたは心性も功も高くなり、業も徳に転化し、更に彼があなたに徳を与えたので、あなたは一挙四得です。彼に感謝すべきでしょう。本当に心から彼に感謝すべきです。私が先ほど言ったように、人類社会で思っている善し悪しの理は反対になっているのです。高い次元から見れば、人が執着しているものは全て良くないものです。

弟子:三番目の質問は本の中に書かれている殺生の問題です。殺生は一種のかなり大きな罪ですが、自殺も罪になりますか?

師:罪になります。現在の人類社会は悪くなり、奇々怪々なことが現れています。安楽死などと言って、注射で人を死なせます。皆さんも知っていますが、なぜ注射で人を死なせるのでしょうか? 彼が苦しんでいると考えているからです。しかしその苦で業を消していると我々は考えています。彼は来世に転生する時、身体が軽くなり業力が消え、かなり大きな福が待っています。苦の中で業を消している時、当然辛いのです。しかし、業を消させることなく彼を殺してしまうことは、殺人ではありませんか? 彼が業力を持ったまま死んでしまえば、来世でまた業を返すことになるのです。それではどちらが正しいと思いますか? 自殺にはもう一つの罪があります。人の生命は按排されており、あなたは神が按排した全体の順序を破壊したことになるのです。あなたが社会に果たす義務を通じて、人と人との関係が繋がっています。死ねば神の按排した全体の順序を乱したことになるのではありませんか? 乱せば神も許さないのです。ですから自殺は罪なのです。

弟子:佛はしたいことが何でもできますが、佛は心を清らかに保ち無欲なのではないでしょうか? 彼も何かを楽しもうと思うのでしょうか?

師:佛は食事をせず、人の身体もないと言う人がいます。この話を聴くと、人々は皆、佛はこうだと思ってしまいます。言っておきますが、修煉界の人の話を、常人の考えで認識してはいけません。佛が人の身体を持っていないということは、分子という層の粒子の物質で構成した汚い身体がないということです。彼の身体の最も粗い粒子は、表面は原子で、最もミクロな粒子は宇宙の中のもっとミクロの物質なのです。物質はよりミクロであればあるほど、その放射性エネルギーも大きくなり、佛光が普く照らすのです。佛はご飯を食べないと言われていますが、佛は人間のご飯は食べず、自分の次元の物質を食べます。「飯」という人類の言葉も当てはまりません。ですからあなたは佛の境地の言葉の意味や、佛のことも理解できません。人には人の考え方しかないのです。

 佛になったら、なんと退屈なのでしょう。何もなく、まるで丸太がそこに座っているようだと言う常人がいます。皆さんに教えますが、佛は自分の天国世界の法王なのです。如来と呼ばれるのは彼の心性の基準の次元の体現を指しています。彼は実際には自分の天国の法王で、その世界にいる無数の衆生を管理しています。もちろん常人のように法律で強制的に管理するのではなく、完全に慈悲と善の心で管理しており、中にいる誰もがその境地の基準に達しているので、限りなく美しいのです。常人の情はありませんが、慈悲があり、更に高い境地のより純潔なものを持っています。常人の持っているものは一切持っていません。更に高い境界にふさわしい素晴らしいものを備えています。これこそ高級生命ですが、まだ更に高級、更に高級、更に高級な生命がいます。何も面白くないというなら死ねばいいのです。それらは更に素晴らしいもので、その世界に行って、はじめて何が幸福であるかが分かります。更に素晴らしいのですが、常人のものを放下せず、取り除かなければ、その境地に行くことはできないのです。

弟子:なぜ奇門功法はその功をもぎ取らないのですか?

師:奇門功法は功をもぎ取らないということを、誰が言ったのですか? 皆修めて得た功を用いて、自らの果位を圓満させなければなりません。奇門修煉は一種類だけではありません。奇々怪々で非常に独特です。修煉する過程で、修煉しながらその果位を圓満させている場合もあります。払った代価は同じです。この場合、功が上へ伸びるばかりではないので、もぎ取りません。もぎ取られる人は、その功が速く伸びますが、もぎ取られない人は、修めながら福徳を圓満させているので、その功の伸びはとても遅いのです。払った代価は同じです。

弟子:二つの質問があります。一つは、私が初めて座禅をした時、師父の法身が私の側に、私の左側にいらっしゃるのが見えました。しかし黒い服を着て、満面に微笑みをたたえておられました。後で読んだ資料のとおりでした。初めて見ましたので、今日ご教示をいただきたいのです。録画の中の色と同じではないのです。

師:これも異なる空間には色の違いがあるからです。例えば、道教の好きな色は何ですか? 紫です。ですから道教は紫気東来と言い、紫が最高の色だと思っています。佛家は黄色、黄金色を好みます。しかし両者は同じ色です。この空間においては紫ですが、あの空間においては黄金色になります。我々の空間で見た黒いものは、別の空間で見れば白なのです。この空間で見た真っ白なものは、別の空間で見れば、真っ黒なものになります。この空間の緑は別の空間で赤になります。全ての色はいずれもこのような異なる空間の異なる表れ方があるのです。あなたがちょうどそのような状態でいれば、そのような色が見えるのです。皆さん、あることに気をつけてください。時に魔の妨害はとても強いのです。多くの場合、私の法身は佛の袈裟を着ており、くるくると巻いた青い髪で、明るい青色です。時には、きわめて特殊な場合に私のこのような衣服を着た法身が見えるのですが、きわめてきわめて特殊で、めったにないことです。ですから皆さんはこのことをはっきりわきまえてください。見えたものがもし私であれば、あなたはそう感じて安心感を覚えますが、もし私でなければ、あなたは心に疑問が生じるはずです。

弟子:私は法を学んですでに二ヵ月経ちました。この二ヵ月で私は数十年の病気が全てなくなったと感じました。私が大法を学ぶ目的は私の業力を除去するためです。この二ヵ月は、私は本当にとても気持ち良く、薬を全く飲みませんでした。これが一つです。もう一つは、座禅の時に見たのが法輪なのかどうか師父にお伺いしたいのです。私は螺旋式に回転するものが見えました。しかし、色は土の色で、泥土の色と同じで、その回転は大変奥妙ですが、中の構造は見えませんでした。

師:法輪の中の符号を除いて、地色は変わることがあります。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、有色、無色にそれらが変わるので、法輪は全てこのような色とは限りません。また法輪が皆さんの身体を浄化する時、その回転はとても速く、扇風機の羽根、竜巻のように見えます。回転がとても遅い時、中の構造をはっきり見ることができます。速く回転しているときは容易には見えません。初期段階に身体を調整するとき、速く回るべきか遅く回るべきか、どう回るべきか法輪自身が知っていますので、これは大丈夫で、全て正常です。

弟子:大蓮花手印を結んでもいいのですか?

師:大蓮花手印は一つの定印で、つまり固定した印で、これが大蓮花手印です(手振りをする)。我々が煉功する時に結ぶ必要はありません。家にある佛像を師父に開眼してほしい時、あるいは道家の老子や原始天尊や他の佛像の場合、私の本を持てば一番いいのです。中に写真があるではありませんか? あなたは私に、「先生、開眼をお願いします」と言って、大蓮花手印を結んでこの本を持てば、三秒で終わります。私の法身は佛像と同じような神の法身を一体招いて来ます。もし阿弥陀佛の像を開眼したいなら、私の法身は一体の阿弥陀佛の法身を招いてその佛像に来てもらいます。これが本当の開眼と言います。現在、宗教の中で着実に修めていない和尚や多くの偽気功師は開眼できません。彼は佛に来てもらうほどの威徳を持っていません。それは佛であって、誰かが呼ぶと来るのではありません。もちろん鏡で佛像を照らすことを開眼だと言う者もおり、更に佛像の目に辰砂を付ける者もいます。目を真っ赤にすることを彼は開眼だと称しますが、これらは全てでたらめです!

弟子:人間は異なる天国から落ちて来たもので、異なる次元から落ちて来たと先ほどおっしゃいました。それでは、道理から言えば自然にその人は彼の元の天国に帰るべきです。しかし人間という次元では、自分が元いた天国を知らないのです。それでは修める時、彼は違った方法を選択したかもしれません。例えば、縁があって法輪大法を学ぶようになったかもしれません。

師:あなたは自分の元の世界、あなたの生命が生じた所に帰りたいという願望はいいのです。あなたは現在、まずどのように帰るのか、どのように修めて帰るのかということを解決しなければなりません。これが最も肝要なことです。他に選ぶ余地はありません。全くないのです。全てがそこに並べられ、佛がそこに座り、あなたの欲しいものを与えるということではありません。もしあなたが修めて向上し、本当にとても高く修め、元の位置に帰ることができれば、あなたはその世界にいて、その世界にいる親族に会いに行ったり、見て回ったりすることができます。あなたはどの世界にいても構いません。あなたはシドニーに住んでいても、ブリスベンに住んでいてもどちらでも構いません。

弟子:東南アジア地区で天道というものがかなり広範囲に伝わっていますが、これはどういうことでしょうか?

師:皆さんに教えますが、現在は末劫の時期で、釈迦牟尼佛は末法の時期に、万魔が世に出ると言っていました。釈迦牟尼佛がこの世にいた時、魔は「私は今あなたの法を乱すことはできませんが、あなたの法が末法の時期に入る時、私は私の弟子、孫弟子たちを出家させてあなたの寺に行かせます。あなたがどうするかを見てみましょう!」と言いました。釈迦牟尼佛はその時すぐ涙を流しました。釈迦牟尼佛にはもちろんどうしようもありません。末法に至れば、乱れてしまいます。彼の言った末法の時期は人間だけでなく、寺だけでもなく、人類社会の至るところに人類を破壊することが存在し、そのような人が存在しています。邪教は縦横無尽に横行しています! 表面上でそれらも人に善に向かうことを教えますが、本当はこのためにやっているのではないのです。それは名のためでなければ金のためです。あるいは一種の黒い勢力のためで、全てこれです。ですから見てごらんなさい。彼らは一体何を追求していますか? 佛法は人を済度するために伝え出されたものです。それを金儲けに利用すれば、この上なく罪深いことになります! もちろん魔はこのことを気にしないのです。彼は宗教の看板を揚げて、あるいは人を善に向かわせる看板を揚げて人類を破壊し、人の心を乱し、心の法を破壊するのです。これは最もあくどいのです。ですから私が思うには、もちろん一部のことは話したくありませんが、あなたには正と邪を弁別できるので、自分で弁別してください。

 ただし、あなたに教えられるのは、一人の人が常人社会に来て人を済度したいとすれば、これはあまりにも大きなことで、全宇宙の神が同意しなければいけません。なぜならば各方面に関わり、人類社会の全ての上下に対応している民族に及び、数多くの問題に及ぶからです。誰かが急に思いついてしたくなったからと言ってできることではないのです。イエスがなぜ十字架に磔にされたのか私は知っています。釈迦牟尼佛はなぜ涅槃の道を歩んだのでしょうか?! 正法を伝えることは容易ではなく、邪法を伝えるなら却って誰も構わないのです。誰もが構わないということでもなく、往々にして正法を伝える時、邪法が多くなり、どの法門に入るかはあなたが決めることです。もし皆同じ法門であれば、伝えるのは全て正法で、世間に邪法がなく、全て処理されたとすると、人はあまりにも修めやすくなるのです。この法はどのように得て、誰もがあなたのものを修め、その一門しかなければ、弟子がその法に対して確固たる心を持っているか否かをどう試練するのでしょうか? ですから往々にして正法を伝える時、邪法も伝え、人がどの法門に入るかを見るのです。人の悟性を量るということは、あなたの修煉過程で「さあ、私についてこれを練りましょう、私についてあれを練りましょう。私の今やっている功法はとてもいいものです」などと、あなたに声をかける人がいます。あなたを引っ張り試すのです。このことは絶対にあるはずです。あなたの修煉過程に、終始このような現象があり、あなたを引っ張って行きます。なぜ我々はこれらの事を止めようとしないのでしょうか? 法身は何でも解決できるのです。ではなぜこれを放置しておくのでしょうか? つまり魔を利用して人の心を試し、あなたが根本からこの法に対して確固たる心を持っているか否かを見るのです。佛を修めることはこれほど厳粛なことなのです。ですから、このような事が存在しています。

 良し悪しについて私は全て話しました。正教でさえも現在、人を済度するのはとても難しく、邪教はなおさらです! モデルのように着飾り、人に担がれて至るところで金をもらっている人がいますが、人々はまだ彼女を信じています。人はとても愚かなものです! 法を得ていない時はとても騙されやすいのです。

弟子:思想業とはどういうことですか?

師:人によっては脳の中に無意識のうちに良くない思想が生まれることがあります。我々は正法を修煉しています。私は社会に対して責任を持ち、人類に対して責任を負い、人に責任を持つという原則に基づいてこの事をしています。その人もこれが良いと知っていますが、頭の中では私を罵り、しかも信じてはいけない、全てが偽りだと彼に教えます。なぜこのようなことがあるのでしょうか? 人は自身の身体に存在する業力以外に思想業力も存在しています。いかなる物体も生き物で、思想業も生き物です。あなたが修煉を始めようとすれば、あなたの思想を浄化し、これらの生々世々に生じた良くないもの、人を罵る思想、形成した観念、各種の業力を全て除去しなければならないのです。それを除去して、はじめてあなたの本性が現れてくるのです。あなたは修煉を始めて、これらのものを消そうとし、これらの人を罵る思想概念を除去しようとすれば、これらのものが承知しません。それ自身が死ぬことを受け入れられるでしょうか? それはあなたの脳に「これは全て偽りだ、彼を罵れ、人を罵れ」と反応します。あなたが煉功すればするほどこれらのものはますます人を罵り、脳の中に人を罵る言葉、とても汚い言葉が生じるのです。実はあなたに教えましょう。これらのものはあなたではなく、業力で、思想業なのです。必ずそれを排斥してください。我々のこの功法はあなた本人を修めさせるものです。もし自分の意識をはっきりさせなければ、人を罵る言葉が出る時、心が揺れてしまえば、あなた自身の主意識もそれについていってしまい、修煉をやめて、動揺してしまいます。そうなると、我々ももうあなたを構ってあげることはできません。我々が済度しているのはあなたですから、あなたが駄目になったら、我々も済度しなくなります。

 このような情況は以前たくさんありました。中国に思想の中で激しい反応を体験した人がいて、その罵りがとても激しく、彼は排斥しようとしてもできませんでした。最後に彼は、「先生に申しわけありません! 先生を罵ってしまい、私のこの業力はあまりにも大きいので、いっそのこと死んでしまおう」と思い、ナイフを取って首を切ろうとしました。当然ながら、あなたはこれを試してはいけません。彼は切ろうとしても切れず、痛みもなく、血も出ません。彼は気が収まらず、輔導員のところに行き、「頭の中でよく先生を罵っているのですが、どうすればいいですか?」と聞きました。この輔導員が事情を聞いた後に彼に向かって法を読むと、彼は心地よく感じました。その後私に聞いたので、私は次のように教えました。実際はあなたの業力が罵っており、あなたが罵っているのではありません。あなたはいかなる心理的な負担も持つ必要はありません。あなたが私を罵るのではなく、業力が罵っているからです。しかしあなたの主意識ははっきりしなければならず、それを排斥して、できるだけそれを排斥して、罵ることをやめさせるのです。それを排斥し、抑制すれば、私の法身は分かるのです。あなたが何をするかそれは全て知っています。それは罵る前にすでに分かっているのです。これもあなたに対する試練で、主意識が動揺するかどうかに対する試練なのです。動揺しなければ、しばらく経てば私の法身はこの業を消してあげます。この種の思想業力は直接あなたの修煉を妨害し、直接あなたの悟性に影響するため、それを消してあげるのです。この問題は皆さん覚えておいてください。こういった問題が出現したときには、わきまえておかなければいけないのです。

弟子:煉功について一つ質問があります。動作と心性との関係についてですが、動作の練習を強化すれば心性を高めることができますか?

師:直接の関係はありません。しかし動作も圓満成就するための肝要な部分で、それもとても重要なものです。我々のこの功は法が人を煉るので、あなたが煉功していなくても、寝ている間、仕事をしている間、食事をしている間も、法はいつもあなたを煉っています。二十四時間、絶えずあなたを煉っています。あなたが生きている間の煉功時間を短縮させ、できるだけ速くあなたを圓満成就させます。先ほど言ったように、現世であなたを圓満成就させます。こうしなければなりません。しかし、我々の煉功動作は、実際は他の功法のように煉れば功が伸び、煉らなければ止まるというようなことではないのです。我々が煉功するのは私があなたに植え付けてあげた一切の機制、体内と体外の機制を強化しているのです。あなたはこれらの機制を強化しているのです。なぜ私はこの手の動き方が灌頂のような形式ではなく、発することでも、放すことでもなく、手のひらが身体に向かって動くのだと説いたのでしょうか? なぜなら私はあなたの体外に気機を植え付けており、あなたが気機に従って動くと、煉功の時、あなたの手のエネルギーはとても大きいので、気機が強化され、つまりあなたは機制を強化しているのです。手を下腹部の前に重ねる時、丹田の機制を強化しており、手を伸ばす時に運動の機制を強化しています。ですから我々の煉功はあなたを長期に煉功させることができ、二十四時間止まらずこの機制を強化しており、煉功は圓満成就の手段です。しかしそれは絶対的なものではなく、圓満成就するための一種の補助的手段です。とは言っても煉功もとても重要なことです。この法門で修煉してでき上がったものが変異したものにならないように、あなたの持っている一式のものとあなたの動作とは直接関係があります。なぜなら我々にはまだ術類のもの、更に生命を演化し、人を長生きさせるための命を修めるもの、功能を加持するものなどがあるので、動作は一定の役割を果たしているのです。修が先にあり、煉は後にあります。つまり修が第一で、煉は二の次です。しかしあなたがこの法門で圓満成就したいのであれば、修と煉のいずれも欠かせないのです。

弟子:私は煉功の時、どんな光景も見えず、白い光しか見えません。先生の姿を見たいと思ったら見えましたが、これは幻想ではないでしょうか?

師:私は二つに分けて言いましょう。天目の見えない人は、更に高い次元へ突破するというような要素が存在するかもしれません。悟性がとても高く、とても高いレベルまで修めることのできる人なら、彼に見せなければ、より速く修めることができるのです。なぜなら彼は苦の中に迷っており、迷いの中で悟っているからです。同様に苦を嘗めても、彼はより速く向上できるのです。それぞれ状況が違うので、高いレベルへと修めているのかもしれません。

 もう一つは、あなたは見えないと言いましたが、実際にあなたはすでに見えたのです。あなたは知らないうちに白い光が身体を照らしているのを見たのです。また、あなたは見ようと思った時に見えました。実際にあなたには本当に見えたのです。あなたはそれを幻覚だと思っていました。多くの人は見えた時それを想像したものだと思います。皆さんに教えますが、人の目が物を見る時、すでに慣れており、目で見たと思っています。しかし、あなたは考えたことがありますか。何かが見えたということは視神経を通じて脳に伝導して画像を映し出し、脳に反映したことによって何かの物体が見えたのです。あなたの目はただカメラのレンズのようなもので、それ自身が物を分析し、映し出すことはできません。脳が画像を映し出しているので、我々が天目を通じて見たものと人が想像したものも、皆脳に映し出されているのです。何を想像するかは脳の中で行なわれており、物が見えたのは脳に画像を映し出しているからです。これによって、見えたのにそれを想像だと思ってしまう人がいます。しかし同じではないのです。あなたが想像して見たものは、それほど実像のようには見えず、動くこともできず、固定された画面だけなのです。しかしあなたに本当に見えたものは動いているのです。このように徐々に見ていけば、だんだんと慣れてきて、時間が長くなれば、次第にあなたは本当に見えたと分かるようになり、しかももっとうまく使えるようになるかもしれません。

 昔、道家は弟子を訓練する時、わざと弟子に想像させます。この関係を知った上で、弟子の功能を訓練するのです。目の前にリンゴはありませんが、仮に目の前に一つのリンゴが置いてあると言い、師父はリンゴの様子を弟子に教えます。実際はリンゴはありませんが、その香りがしてきたと感じて、更にリンゴの具体的な様子が見えたと感じるまで弟子を訓練させます。いずれも脳に画像が現れるので、人によってはこの問題をはっきりと解釈できないのです。要するに、あなたが想像したものは動かないのですが、見えたものは動いているのです。

弟子:ある夜、夢を見て、とても恐ろしいものを見ましたが、私は先生を思いつかず、密教のもの思いついたのです。しかし私はとても敬虔に法輪大法を修めています。もし、いつか何かが起こって私が死ねば、元神までも要らなくなるのでしょうか?

師:あなたはあまり本を読んでいないからです。今大法を修煉していますが、密教のものがまだあなたの考えにあります。ですから、夢の中で思いついたのは密教であり、大法ではないのです。「命にかかわる危険なことに遭ったらどうしますか?」と私に聞く人がいますが、あなたの修煉と関係のないことは、あなたに遭遇させません。絶対に遭遇させません。あなたの修煉と関係があることならば遭遇します。あなたが今日もし本当に生命を失ったら、いかなる法門もあなたを見守っておらず、全く修めていないことを意味しています。宗教では命で償うことを主張しており、一生で圓満成就まで修めることができず、命で償ってから、来世続けて修煉すると説いています。このように考えています。しかし我々の法門はこのようなことを言いません。我々はあなたにこれらの問題に遭遇させないと説いています。真に私の弟子であれば、絶対にあなたを生命の危険に遭わせないのです。

弟子:私は当時夢だと知らなかったのです。

師:あなたはその時密教を練習していましたが、本当の修煉もしていないので、当然効果もなく、誰も見守ってくれなかったのです。地面にお金があるのを見て、それを拾ってポケットに入れた夢を見た、と言う人がいますが、実はこれらの夢は全て人に対する試練なのです。あなたの心性が安定しているかどうかみているのです。昼間はしっかりしていますが、夢の中だと、駄目になるという修煉者がいます。これは彼の思想の深層ではまだしっかりしていないので、夢の中でしっかりしているかどうかを試練しています。ですからこの問題とぶつかるのです。正しく対処できなくても落ち込む必要はなく、この問題を重視して正しく行動するように心がければ、将来は良くなります。

弟子:李先生は国内で講習会を開かれた時、学習者たちに法輪を植え付けてくださいました。今日私は先生の講義を聞きましたが、我々にも法輪を植え付けてくださるのでしょうか? またもう一つ質問があります。精神異常の人の修煉は断わられていますが、脳に軽い問題がある者は何か方法があるでしょうか?

師:まず一番目の質問について話します。私が言ったように、この本の中の文字一つ一つに私の法身がいて、どの文字も私の法身の形象なのです。どの文字も佛の形象です。私には無数の法身がおり、私の法身は数字では数え切れません。皆さんもご存知の通り、釈迦牟尼佛が説いたように、阿弥陀佛は二百万の法身がいると言われました。私の法身の多さは数字では数え切れません。どんなに多くの人でも私は面倒を見てあげることができます。全人類でも私は面倒を見られます。もちろん修煉者だけにこのようなことをします。修煉しない人や常人社会のことに関与しません。ですから、あなたに修煉しようとする一念が出ると、私の法身はすぐ分かるのです。もう一つの問題があります。私の現在のこの身体は常人の肉体で、これくらいの大きさしか見えませんが、しかし一つ空間を変えれば、私の身体は今の私よりずっと高いのです。各空間で、私の身体は空間ごとに高くなり、大きくなり、大きくなっています。私の最大の身体は言葉では言い表しようのないほど大きいのです。多くの学習者は、一瞬私のとても大きな身体を見ましたが、彼は「先生、私はあなたの足指の下にいて、先生の足指の上が見えません」と言いました。ですからこれほど大きな身体では、考えてみてください。全地球もここにあるので、あなたがどこにいても面倒を見てあげることができます。あの法輪は、私があなたの目の前にいる時しか植えつけられないのでしょうか? あなたの目の前にいなくても同様にしてあげられるのです。私があなたの傍にいなくても、実はあなたの傍にいるのです。

 二番目の質問は、精神分裂症に関することですが、軽かろうと重かろうと、我々は明確に規定しており、その人に煉功させるべきではないと主張しています。我々のこの功法は他の功法と違い、我々は本人を済度するだけで、本人を済度することができなければ、ほかの誰にも与えないのです。我々の功は本人の身体に植え付けており、あなたの主元神を済度するだけで、あなた自身を済度するのです。歴史上従来このような事はありませんでした。歴史上密教であろうと、他の宗教であろうと、いずれもあなたの副元神を済度していたのです。ここで私は千古の謎を明らかにしました。この謎を明らかにした当時、かなり大きな抵抗を受けました。しかし将来、世界が全て良くなった後、多くの佛が新たに世に出て人を済度するのです。私だけでなく、その時に彼らも人の主元神を済度するのです。このことは私により変えられ、改変されたのです。なぜなら、人の主元神を済度することは、人類の社会道徳の安定に対して直接よい影響を与えるからです。副元神を済度すれば、本人は修煉できず、修煉にならないので、あなたが宗教に入ったとしても、社会はやはりこのままで、社会に対してたいした役割を果たすことができません。ですから人の主元神を済度すれば、彼は修めても、修めなくても、社会で一人の良い人になるので、社会に対して有益なのです。精神病の患者については、彼自身の意識がはっきりしていないので、我々は彼を済度することはできません。我々は意識のはっきりしている者を済度するのです。はっきりしない者に私が何かを与えてあげても他人に取られてしまうのです。彼が練るか練らないか、我々の法に従うことができるかどうか、つまり別の法門のあれもこれも練ってはならないという不二法門を守れないからです。佛を修めることはとても厳粛なことで、彼が要求されたことを守れなければ、済度する方法はないのです。どうしても彼に学ばせようとする人がいますが、問題が現れたら、あなたがその責任を負わなければなりません。彼が練功しているうちに問題が起これば、その時彼は法輪大法を練ったせいだと言うでしょう。精神病のある人に我々は絶対に教えません。これは原則です。彼は常人ですから、病気にかかり、問題が出てくるはずです。彼が煉功場で練功しようとした時、何かの問題が起こるかもしれませんが、それは練功することによって起こったのではなく、彼がその時になると発病するようになっていたからです。

弟子:全人類の人は皆同じですが、東方では佛教、西方ではキリスト教が普及していますが、地域の差異はとても大きいのです。佛教は西方での影響力がとても弱いのですが、異なる系統なのでしょうか?

師:なぜ西方ではキリスト教で、東方では佛教なのでしょうか? 東方の宗教あるいは西方の宗教は、なぜ同じではなく、違いがとても大きいのでしょうか? 実のところ、キリスト教も佛家体系の範疇内のもので、ただ人類の差異、文化上の差異と天体文化の差異で、人類の形象の違い、考え方の違いをもたらしたのです。つまり人の基準と特徴が違うので、佛を修める方法や、高次元の神に対する認識の概念や、理解の違いをもたらしたのです。本当は同じなのです。みな佛のこの境界のものなのです。イエスは本当のところ如来という次元なのです。しかし文化の違い、考え方の違い、形象上の差異のため、西方では佛と言わず、東方では佛と言うのです。もちろん、形象上の違い、形象上の差異のため、イエスの天国の人は、皆白い布を巻いた衣服を着ています。ところが佛の世界の人は皆黄色の布を巻いた衣服を着ています。髪型も違います。最も違うのは髪型です。道家は髷を結いますが、佛家の羅漢は坊主頭で、菩薩は中国古代の女性のような髪型です。なぜでしょうか? 中国古代の衣装は天人の衣装と同じです。実際、天国つまり天上世界の人の身なりと同じです。ところが西方でもそうなのです。それは彼の天国世界の身なりなのです。人間はこういう情況です。もちろん現在のファッションは全て新しい様式になっていますが、実は今の人が着ている衣服は最も格好が悪く、美しくないのです。

 なぜ白人の世界に佛教がないのでしょうか? なぜ東方人の世界にキリスト教がないのでしょうか? 厳密に言えばないのです。私の記憶では『聖書』あるいはこの類の本に、当初エホバもイエスも言った話が書いてあります。「お前たちは東へ行ってはいけない」。話はまだ続きがありますが、私は「お前たちは東へ行ってはいけない」の一句だけを覚えています。つまり弟子たちに、東へ伝えてはいけないと教えたのです。彼の弟子は彼の言うとおりにせず、遠征軍について東方に来ました。それによって一つの問題が起こりました。つまり人種の問題です。世界の人種が混じり合うことは許されないのです。現在人種が混じり合ったために、非常に大きな問題がもたらされました。混じり合ってしまえば、天国の世界との対応関係がなくなり、彼は根元を失ったのです。混じり合ってできた人種は根元を失ったのです。つまり天国世界の中に彼を見守る人がいなくなり、どの世界にも属しておらず、どの世界も彼を引き受けなくなったのです。ですから、欧州とアジア大陸の連接地帯は昔砂漠で無人地域でした。交通手段が発達していなかったころ、なかなか渡って来られませんでした。近代の交通手段の進歩につれ、この情況はすっかり変わったため、人種がますます混じり合うようになってきました。これは深刻な結果をもたらしたのです。このような話はこの辺にしましょう。つまり天国世界はこのような人種を認めないのです。

 私が先ほど言った問題は、人種は天国世界と対応関係にあるということです。天国世界の白人は、この世界の中で、この宇宙の中で、この宇宙の少ない一部分、とても少ない一部分を占めています。それは即ち彼らの天国世界なのです。ところが、黄色人種と佛の世界、道の世界は非常に多く、ほとんど全宇宙に分布しています。如来佛はガンジス川の砂と同じように多く、非常に多く、非常に大きいのです。黄色人種の形象はこの宇宙の中に特に多くあります。ですから、天国世界とこの世の人種は対応しているのです。イエスが言ったお前たちは東へ伝えてはいけないということの意味は、彼らは我々に属していないということです。イエスは東へ伝えてはいけないと教えましたが、私もイエスの天国の中に東方の人がいないことに気づいたのです。なんと悲しいことでしょう! 近代に至って、人は皆、主の話を聴かず、東方の人も佛の話を聴かないのです。ですから人はこれらの事を乱してしまったのです。私はまた佛の世界に昔白人がいなかったことにも気づきましたが、しかしどうして今日この法を西方の人にも伝えるのでしょうか? 私が伝えるものは宇宙の理、全宇宙の理なのです。この大法の中で修煉している白人は、将来成就したら、彼の身体の形と修煉形式は皆イエスの天国の人と同じです。彼が修煉して成就したら、そのようになるのです。ところが黄色人種が修煉し、成就したら佛の形象になるのです。ですから、白人でも黄色人種でも私は全て済度することができるのです。私が伝えたこの法はすでにとても大きく、更にあなたに教えますが…、今までこれほど修煉の門を大きく開いたことはなかったのです。ただしこれにもわけがあるのです。

弟子:先生がおっしゃった混血児のことはどういう事でしょうか?

師:先ほど私は混血児のことを話しましたが、これは天機を人類に伝えてしまったのです。我々がどうこうしようとすることではありません。私は一つの更に大きな事を行なったと言っています。混血児であっても私は済度することができるのです。ただしこの時期だけ、私は混血児を済度することができるのです。東方の人と西方の人は皆地球にいますが、東方と西方は一つのものによって隔てられています。人間はこれを知らないのです。皆さんご存知のように、東方の人は「九」という数字の発音は縁起がよく、持久という意味につながっており、「八」という数字の発音は「発」と近似しており、「発財」ということに結び付いています。確かに少しだけは作用があるのです。東方で用いられている風水や、地理的環境を重んじるといったものを、西方で使っても効かず、白人には効果がありません。これに対して、白人が重視している占星術や何とか現象は、東方の人には効果がないのです。効果があると思う人がいますが、それはあなたがそう思うだけで、実は効果はないのです。なぜでしょうか? 白人の生物圏には、彼らの空間を構成している特殊な物質要素が存在しており、東方の人の生物圏にもその生命を構成した特殊な物質が存在しているからです。人の生命の構成はこれらのものに貫かれているので、東方と西方は同じではないのです。混血して生まれた子供は、混血児になりますが、しかし、この子供の中に一つの隔たりがあるのです。分けられてしまうと、彼は身体と理知が不健全になり、身体が健全でない人になってしまうのです。現代の科学でも分かっているように、次の世代は前の世代よりだんだんと劣ってしまいます。ですからこのような状態を引き起こすのです。もちろんこの人が修煉していれば、私はこの問題を片付けて対処できるのですが、修煉していない常人に対して勝手にしてあげてはいけないのです。

弟子:私は煉功して衝をする時、掌が熱く感じます。私はどんな功法をしてもこのようなことがなかったのです。煉功している時、自分がまるで唯我独尊の菩薩のように感じますが、これは正しいでしょうか?

師:煉功する時、何の意念も加えないでください。密教は自分を佛であると思って修めています。彼はそもそも佛ではありません。彼の肉体は変わりましたか? 変わっていません。修煉して、将来変わるのは誰でしょうか? 副元神です。私がこの法を伝えた時、すでに皆さんに教えましたが、私が済度しているのは主元神です。あなたの副元神が修めて成就しても、あなたは相変わらず六道の中で輪廻し、それぞれの生命が分けられた時、あなたは何も知らないのです。掌が熱くなるのは正常なことです。

弟子:大法を修煉するには少しの意念も加えないのですか?

師:いかなる意念活動もなく、いかなる意念も全て執着なのです。

弟子:二つの質問ですが、一つは先生が先ほど言われた東方の人と西方の人の問題です。仮に以前多くの人は本来東方の人でしたが、西方の人に生まれ変わったら、どうすればいいでしょうか?

師:それは構わないのです。これには二つの状況があります。もしこの人が何かの目的を持って来たのでなければ、彼はその身体に従って変化します。我々は即ちこの人を変えさせるのです。もし目的があって来たのであれば、それはまた別の問題になります。それは別の情況です。

 また皆さんに言っておきたいのですが、この法を広める時も、やり方に注意しなければなりません。彼に興味が湧いて学びに来たら、あなたは功徳を積んだことになり、功徳無量のことです。しかし一つだけ言いますが、学びたくないのに、どうしても学ぶように勧め、強引に学ばせるのであれば、それは良くないことです。本人に佛を修めたい気持がなければ、佛はどうしようもないのです。何を得たいのか、何を求めるのか、その人自身で決めることです。善を勧め、善を勧めて、その人に教えてもいいのですが、強いて人を引っ張って来てはいけません。この点に関して皆さんに言っておきますが、我々はいかなる人にも無理に学ぶことを求めてはいけません。我々の将来の輔導員、あるいは責任者は、大法の仕事をする時、行政的な手段をとってはいけません。みんな修煉している人なので、法をもって人を納得させるのです。みんな法を学んでいるので、輔導員のどこかに良くないところや間違ったところがあれば、学習者はそれをみて心性の問題を指摘してあげます。ですから彼が行なったような間違いを皆さんはしません。なぜでしょうか? みんな法を学んでいるので、自分の観念に従うのではなく、全て法の要求に従って行動しています。もちろん我々はあなたに対してもこのように対処しています。学びたければ学び、学びたくなければあなたはやめてもいいのです。我々はいかなる人にも害を加えません。もう学びたくないと言ったら、学ばなくていいのです。学びたい、修めたいと思えば我々はあなたに責任を負います。このことは保証します。形式上は緩やかですが、佛を修めることは厳粛なことです。なぜなら我々はこんなに大きく厳粛な法に対して、ほんの少しでもずれを起こしてはいけないからです。歴史上、人にこんなに大きな法を伝えたことはありませんでした。あなたは今ここに座り、自然に来たと思い、人から話を聞いてすぐに来たと思っているかもしれません。あなたに教えますが、あなたには縁があるかもしれず、知らないうちにこの縁を結んだのかもしれません。縁もゆかりもなく来た者はとても少ないでしょう。皆さんが質問し続けても、聞くことはもうあまりないと思います。あなたが聞こうとすることは全て法から解答を得ることができます。

弟子:不二法門のことですが、法輪大法を学んでいる人で、他のもの、それに他の伝統の数術のようなものを学んでいるかもしれませんが…。

師:佛を修めることはとても厳粛なことです。周易、八卦を研究してはいけないと言っているのではありません。私が思うには、修煉の時間には限りがあり、その時間があれば、法輪を研究し、明らかにすることができれば、たいしたものです。それより大きなものはないのです。現在の常人社会が知っている八卦の理や多くの数術のものでも、銀河系を超えていません。ところが、この宇宙は大きく、あなたには分からないほど大きいのです。三千個の我々のような宇宙が、更に大きな宇宙を構成しています。三千個の更に大きな範囲の宇宙が、更に更に大きな範囲の宇宙を構成しています。そこには数え切れないほど多くの神、佛がいます。その銀河系は何ほどのものですか? とても小さいのです。大法を学ぶ人は、考えてみてください。こんなに大きな法をあなたに伝えたので、修煉者であればそのような精力を費やす必要はないと私は思います。しかし、これがあなたの職業であれば、私は反対しません。それは常人の学問であり、学んでもいいのです。もしこれが自分の趣味だと言うなら、その心を切り捨てたほうがいいと思います! 私はあなたに責任を持たなければならず、また佛を修めることは厳粛なことです。この法の研究に精力を用いたほうが最もよく、いかなる学問も比べものにならないほど、あなたは無限に受益できるでしょう。

 常人の中で神や鬼を招くようなことに至っては、私に言わせれば尚更やるべきではありません。それらの低い次元の霊は全て鬼だからです。あなたが求めているそれは、我々のこの佛法とは天と地の差ほど遠いのです! それに、その全ては邪なものであり鬼なのです。また占いのことについて、私は本の中ですでに詳しくこの問題を説きました。修煉はとても厳粛なことです。人にエネルギーがある時、その人が言った話は、その事を決めてしまうからです。常人の事は不安定なので、そうではないかもしれませんが、あなたがそのようになると占って、それを口にし、その通りになってしまえば、悪い事をしたことになるのです。修煉者に対して、もっと高い基準で要求しなければなりません。悪い事をすれば、ただでは済みません。私は身体を浄化してあげますが、それはあなたが修煉したいという気持ちがあるのを見て、してあげられるのです。修煉したければこれらのものを放下し、清らかで純粋な心で修煉するのが最もよいのです。

弟子:私は一つ心配していることがあります。今日こんなに良い縁があって、法輪大法を学ぶことができました。私は第二巻に書かれたことを読みましたが、つまり、現世で成就することができなければ、また来世に続けて修煉することを誓うことができます。私の真の目的は圓満成就に達するまで修煉することです。しかし私は今もう歳をとっていますが、どうしたらいいでしょうか?

師:年配の人にはこのような問題が存在します。この功はとても速く修めることができますが、その人の残りの人生は修煉に間に合うでしょうか? 厳密に言えば、いかなる人も間に合うのです。いくら歳をとっていても同じです。しかし一つの問題があります。つまり一般の人は自分をしっかり制御できません。口先ではできると言いますが、本当はやはりできないのです。あなたはそれほど高い境地まで修めておらず、心もそれほど高い基準に達していないので、しっかり制御できないのです。この功は性命双修の功法で、修煉しながらあなたの身体を変え、あなたの命を延ばしてあげます。性命双修なので、修煉しながら、命が延びていき、修煉しながら延びていきます。どんなに歳をとった人でも理論上は、厳密に言えば間に合うのです。しかし一つ問題があります。延ばされた生命は百パーセント修煉に用いなければなりません。常人の中で生きていくためではありません。彼は自分の生命が延ばされたことを知らず、しっかり制御できず、煉功者に対する要求に百パーセント従って行動することができなければ、彼はいつでもこの世を去る危険に直面しているのです。これが年配の人が直面している問題です。

 しかし、もし本当に成就することができず、精進しなかった場合、その人には三つの進路しかありません。一つは、つまり来世続けて修めることです。私の法身は、転生することも見てあげています。どの家に転生したら法を得られるか、これも按排してあげるのです。もう一つは、人間はあまりにも苦しいので、もう修めたくない場合、修めて到達した次元に行きます。三界を出たのであれば、あなたは三界以外のその次元の衆生になります。三界を出ていなければ、あなたは三界内のその次元で天人になります。ただし三界内の場合、五百年もしくは三百年経てば、やはりこの世に降りて輪廻しなければなりません。ただそこで数百年のよい生活を送ることになります。これが一つの問題です。もう一つは確かによく修めましたが、やはり基準に達しておらず、しかし、法に対する理解や、あるいは大法に幾らかの特殊な貢献をしたような人は、法輪世界に行って法輪世界の衆生になれます。同じく三界以外なので輪廻はしません。それはもちろん良いことですが、このような人は割合少なく、基準は比較的厳しいのです。しかし彼は佛でも、羅漢でも、菩薩でもなく、法輪世界の衆生にすぎません。このようなことです。実はもう法を得たので、佛を修める機縁はすでに結ばれました。

弟子:私は一つ質問があります。人のレベルはどのように見分けるのでしょうか?

師:私はこのように話しています。「上士、道を聞けば勤めて之を行う」、と私は老子の言った話を引用しています。「中士、道を聞けば、存るが若く、亡きが若し。下士、道を聞けば、大いに之を笑う」。どういう意味でしょうか? 上士、道を聞けばというのは、つまりこの人は修煉のことを聞くと、すぐ信じて修めようとします。このような人はめったにいません。一気に最後まで修煉するのです。これは上士の場合です。「上士、道を聞けば、勤めて之を行う。中士、道を聞けば、存るが若く、亡きが若し」。どういう意味でしょうか? つまり皆学びに来たのを見て、自分もついて学ぼう、いずれにしても良いことなのだからと思っています。しかし忙しくなると、あるいは常人の厄介な事にあうと、忘れてしまい、どうせ他の人は学んでいないから、私もやめようと思います。学んでもよく、学ばなくてもよい、これは中士で、道を聞けば、存るが若く、亡きが若しということの意味です。修煉して成就できるかもしれず、成就できないかもしれません。成就できるかどうかは自分で決めるのです。「下士、道を聞けば、大いに之を笑う」。この下士は道を聞くと、修煉するなんて、と大いに笑って、全て迷信だとして信じません。むろん、彼は修煉することは更にできません。こういうことです。人がどこまで修煉できるかに至っては、それは自分の心がどれだけ耐えられるかによると私は思います。少しばかり厄介な事にあり、ここを出ると、もう我慢できなくなります。私はここで法を説いていますが、皆これが良いと思っています。正法の修煉なので、持っているエネルギーは全て慈悲で和やかで、ここに座って皆気持ちが良いと感じ、私の話が聞きたくなります。将来皆さんの修煉もこのようになり、正法の修煉はみな同じです。しかしここを出た途端、もうあなたではなくなり、頭の中に常人が執着しているものが戻ってきて、しかもとても強烈で、修煉なんてと、また忘れてしまいます。これではいけないと思います。

弟子:もう少し混血児のことをお話していただけますか?

師:混血児について私はすでに話しました。私はただこの末法時期に出現した現象を言っただけです。もしあなたが混血児であれば、もちろんあなたやあなたの親のせいにしてはいけません。いずれにせよ人類が起こしたこのような乱れた現象で、このような状態が出現したのです。黄色人種と白色人種、それに黒色人種は、それぞれ天に対応する民族があります。ところで、その民族以外の人、その民族に属していない人に対しては、確かに見守ってあげていません。これは本当の事です。私はここで何かを言おうとしているのではなく、皆さんに教えたことはみな天機なのです。混血児は皆、末法時期に出現したもので、人を責めてはいけないのです。皆全て流れに身を任せているので、誰も真相を知らないまま、このように生きてきたのです。あなたが修煉したければ、私には方法があります。どの天国に行くかに至っては、あなたの状況によって決めます。残ったものが多い部分を多く同化してあげます。こういったことを気にせず、あなたは修めることに専念すればいいのです。これらのことに気を取られないでください。法を得た以上、まだ何か恐れるものがありますか。私は今まで法を説いた時にこのことを言わなかったのですが、しかしこの事は遅かれ早かれ人に教えることになるのです。

弟子:人類はみな精進料理を食べれば、とても良いのではないでしょうか?

師:いいえ、それはあなたの一方的な考えです。天は人のために生活の基準を規定しました。これではじめて人間になるのです。カロリーの補給は肉が野菜を超えているのは間違いありません。しかし、修煉になると、また別の事になります。

弟子:我々が座禅をする時、入静に関して具体的な基準はありますか? 大法を修める人の主元神がいつも自分のことを考えて修煉していれば、入静に影響しませんか?  

師:主元神とあなたの入静とは別の事です。最初のころは入静するのは不可能です。なぜ人は静かになれないのでしょうか? 人の執着心があまりにも多いからです。あなたの商売や勉強、仕事、人と人とのトラブル、子供が病気になるとか、親の面倒を見る人がいないとか、世間の事など、あなたの思いつかない事はありません。どれもあなたの頭の中で多くの比重を占めています。皆さん考えてみてください。これであなたは静かになれますか? 何も考えないと言っても、そこに座れば、それが自ずと湧いてきます。ですからどんな方法を用いても静かになれないのです。まさに私が本の中で言ったように、あなたが口で佛号を念じたり、心を内視したり、数を数えたりすれば、静かになれると言いますが、いずれも静かになれません。それは一種の手段であって、絶対的な作用はありません。執着心、常人の中の執着心を徐々に淡泊にするほかありません。淡泊になれば、自然に静かになれます。本当に静かになれる時、あなたはすでにかなり高い境地にいます。しかし、法輪大法を修煉したら和尚と同じようになり、何も要らず、物質上何もなくなってしまうのでしょうか? そうではありません。我々は常人の状態に最大限に符合して修煉していきます。あなたは常人社会の中にいるので、特別になってはいけません。表面上あなたはとりも直さず普通の人です。ですから常人に最大限に符合しながら、修煉すべきです。結婚するのであれば、若者は結婚すべきで、何かの商売をするとか、官職につくとか、これは全く影響ありません。我々は一つの道理を説いていますが、常人社会のどの階層にもその軋轢があります。我々は宗教の枠を取り払いました。道家は太極を超えることができず、佛教も彼らの理から離れません。ですから我々は宗教の考え方を放棄し、全宇宙の理を説いているのです。

 あなたがどの階層の人であっても、どんな事をしていても、どんな職業の人であっても、修煉することができることに私は気づきました。なぜでしょうか? ごく普通の労働者は生活のために、彼の行動範囲で人と人との間、仕事の間でトラブルに遭遇するのです。これらのトラブルの中で、彼がいかに良い人間になるかの問題があります。なお一般のホワイトカラー、つまり事務職員は自分の階層で、いかにして良い人になるのか、人と人との間にも相互の利益をめぐって争うことがあり、さまざまな方面において、トラブルの中でいかにして良い人になるのかという問題もあります。社長になる者は、いかに自分の階層で商売をするのか、社長と社長との間、人と人との軋轢の中で、彼はいかにして良い人になるのか、彼にも彼のトラブルが存在するのです。大統領になる者も同じで、大統領として国家のために心を労しても、思い通りにいくこともあれば、いかないこともあり、やり遂げられることもあれば、やり遂げられないこともあり、国と国との間にも紛争があります。ですから彼にも心配事があります。人は生きている以上こうなのです。ですからどの境地にいてもあなたは浮世から離脱できず、人と離れられず、社会から離脱できないので、必ずあなたなりのトラブルが存在します。これらのトラブルの中で、どのように良い人になるのでしょう。良い人になることができれば、あなたはもう常人を超えています。

 我々の説いたことはこの道理で、物質上何かを捨てることではなく、常人としての心を捨てるのです。商売を手広くしても、あなたの修煉には影響しません。商売が成功したら、無論お金も多く稼げます。しかし、心の中でお金を命ほど大切だと思っていません。わずかばかりの利益にもこだわるようなこともありません。家が黄金で造られていても、心にかけず、気にもしません。これが我々修煉者に求める基準です。あなたがどれほどの高官になっても人民のために良い事を行ないます。これが我々の求めている修煉者の基準です。そうでしょう? 我々は宗教の枠を越えてこの事を説き、その本質を説いています。いかなる環境の中でも修煉できます。ただ一つだけ言っておきますが、常人の中での修煉は、つまり直接人の心を錬磨します。ですから、なぜ私は本当にあなたを済度することを説くのでしょうか? つまりあなたが真に自分で自分を高め、真にこの社会の圧力を受け、真に自分で自分を高めるので、この功はあなたに与えるべきで、我々はあなたを済度するのです。

 副元神も功を得ることができますが、彼はいつになってもあなたの護法の役割を果たすだけです。彼も修めて成就してあなたについて行くことができます。私がこの事を今日言い出しましたが、あなた達はまだそれほど高い認識を持っていません。皆さんに教えますが、一部の人はまだ他の修煉法の話をしています。この功はどうか、あの功はどうかなどと話し、まだ私が先ほど言ったこの話の意味を認識できていないのです! 歴史上のいかなる修煉法も、あなたを済度せず、あなたの副元神を済度するのです。あなたを済度しないのです! 私は千古の謎を明らかにしました! 私はとても大きな困難を乗り越えて、はじめてこの事を説き明かすことができたのです。過去にあなたがどのように修めてもあなたは済度されることはなく、あなたが修めたのは誰でしょうか? あなたは一生修めても、やはり六道輪廻に入り、来世何に転生するか分からず、哀れではありませんか! なぜでしょうか? 過去には宗教でも、他の修煉法でも、主元神を済度しませんでした。彼らにとって主元神はあまりにも済度し難く、あまりにも頑迷だからです。私がこう言うと、皆さんは分かったと思うかもしれませんが、この門を出ればまた元の木阿弥になり、また常人の現実の利益の中に入り込んで、互いに争い合います。きっとそうなってしまいます。ですから神は人をあまりにも済度し難いとみています。しかし私が済度するのはあなたです。あなたの副元神もあなたと同じ名前で、同時に母胎から生まれたもので、共にこの身体を主宰しています。ただあなたはその存在を知らないだけです。他の功法が済度するのは副元神で、あなたに話をしているようですが、実際は副元神に対して話をしています。あなたは時に無意識のうちに何らかの話をしましたが、それはあなたの脳が言っているのではありません。多くの人は座禅すると何も分からなくなり、何時間も座禅を続けます。彼は出定した時とても喜んで、私は本当によくできて、座禅を何時間も続け、入定できたと言います。これは大変悲しむべきことなのです! あなたが煉功したのでしょうか? あなたは知っていますか? 全く他人が煉っていたのです。

 昔、一部の道家は副元神が修煉できるように主元神を麻痺させ、酒を飲ませていました。道家では酒を飲む者が多く、自分を麻痺させ、何も分からないほど飲んで寝てしまい、副元神が連れて行かれ、煉功させられます。簡単に言っているようですが、私が言ったことは千古の謎です。この方法にしても、あの方法にしても同じであり、彼らは人が修めても成就できないと思っています。彼は好意かもしれませんが、あなたの身体から一人が成就できたので、あなたも徳を積むことになり、苦しみに耐え、あなたの青春は全て宗教に費やしたからです。ではどうなるでしょうか? 来世にあなたを一人の副元神として転生させてくれますか? そうかもしれませんが、可能性はきわめて低いと思います。それからあなたに修煉させますが、これもきわめて少ないことです。しかし福報を受ける人がいます。どのように福報を受けるのでしょうか? 高官になり、大金持ちになり、あるいは大実業家になり、来世はこのようになります。なぜなら彼は一生をかけて徳を積み、福を積んだからです。在席の誰もこうなりたいと思っていないと私は思います。私がこの事を言ってから、誰かがまた私に、この功はどうか、あの功はどうか、あの宗教はどうか、この宗教はどうかというようなことを話せば、その人の悟性はあまりにも低いと私は思うのです。皆さんが法輪大法の特色を読めば、そこに全て書かれていますが、人々は皆気づかず、それを普通の話として見過ごしています。それは宇宙の規則で、過去はその通りだったのです。

 あなたはこの会場を出たら、身体がとても心地良く感じるかもしれません。しかし、修煉していくうちに、また身体が辛くなることがあります。なぜでしょうか? あなたの生々世々に業力があるからです。一生一世のものは一気に押し出すことができず、一気に押し出せば、人はすぐ死んでしまいます。ですからこの業力を我々は徐々に身体の中から外へ押し出します。しばらく時間が経つと、また身体が辛くなり、「病気に罹ったのか?!」と思うかもしれません。皆さんに教えますが、それは病気ではありません。しかし身体がとても辛く、時に重病のような症状が現れてきます。しかし分かっている人は辛くなると、うれしくなります。先生が私を見守って、病気を取り除き、私の業を消してくださっていると言います。一部の人は身体に辛い感覚がなければ、「先生は私の面倒を見てくださっていない。どうして業を消してくださらないのか?」と却って焦ってしまいます。しかし、一部の新しい学習者は身体に辛さを感じるとこれを病気だと思って薬を飲み、薬を飲みながら煉功すればもっとよいと思っています。我々には一つの道理が見えています。つまり病院は業を消すことができません。医者は修煉者ではないので、この威徳がありません。彼は常人の技術者にすぎず、あなたの表面上の苦痛を取り除くことしかできず、病気を深いところにそのまま留まらせているのです。薬を飲むことは病気を身体の中に押し込むことで、それは積み重なっていきます。表面上苦痛はなくなりますが、身体の深いところに更に積み重なっていくのです。手術をするのも同じことです。例えば腫瘍ができたので切除すると、これは表面の物質を切り取っただけでその病気を生み出す本当の原因は他の空間にあり、それは動かされていません。ですから業力が重い場合、病気がまた再発します。治ったように見えても、今生の間は再発しなくても来世でまた再発します。というのはそれが深層に押し込まれただけで、いずれまた現れてくるからです。自分の業力を全て償わなければなりません。こういった道理なのです。私たちがここでしていることはあなたの生命の本源からあなたの汚いものを全て押し出しています。しかし誰もこんなことはしていません。修煉だけがこのことを可能にするのです。私たちがあなたにこのことをしてあげるのです。しかしこのためには皆さんは心性を制御する必要があり、身体の具合が悪くなると、また病気になったと思ってはいけません。あなたが病気になったと思い薬を飲むのであれば、私たちは何も言いません。修煉は悟性によるもので、いろいろな取り決めがあるわけではないのです。私たちは身体の具合が悪い時、薬を飲んではいけないと言っているのではありません。そうではないのです。

 一部の人は自分を修煉者として律しておらず、ただ煉功するだけで、法を学ばずどんなことでもしてしまいます。煉功しても、私の法身はその人の面倒を見ません。面倒を見なければ彼はただの常人なので、病気になることもあります。もし我々が薬を飲んではいけないと規定し、あなたが修煉者としての基準によって自らを律することができなければ、あなたはまだ常人です。病気になった時、あなたは李洪志が私に薬を飲ませないと言うかもしれません。ですから私は薬を飲むか飲まないかのことを言いません。自分で判断してください。本来それはあなたに対する試練ですが、自らを修煉者とすることができなければ、あなたは病気に罹ることもあるでしょう。これが道理なのです。我々はただその理を言っているだけです。皆さんに教えますが、今後あなたが修煉する場合、身体の具合が悪くなることは、前世の業力を押し出しているのかもしれません。私が見たところでは、一部の人は何十世も転生し、更に百世も転生した人がおり、各世に多くの病気を抱えているので、全て押し出してあげなければならず、とにかく全て取り除いてあげなければなりません。他の空間から取り除くものは更に多く、必ず一部を取り除かなければならないのです。しかし、全て他の空間から取り除くことはできません。なぜなら、あなたに少し苦を嘗めさせなければならないからです。苦を嘗めなければ、悪事をしても償わないのと同じです。あなたは成就した日に佛の位置に置かれると、自分でもそこにいる資格はないと感じるでしょう。他の生命もそう思います。彼はどのようにして上がって来ましたか? そうではありませんか? ですから、あなたは一部の苦痛に耐えなければなりません。苦に耐えていると同時に、あなたの悟性を高めることができます。あなたはそれを病気と見なしますか? それとも修煉者の業を消していると見なしますか?





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