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ニューヨーク法会での説法

李 洪 志

一九九七年三月二十三日



 遠く離れて、皆さんになかなか会うことができません。しかし、皆さんは私本人に会えないのですが、実は修煉さえすれば、私は常にあなたの身近にいます。修煉さえすれば、私はあなたに最後まで責任を持つことができ、しかも私は時々刻々皆さんを見守っています。(拍手) もしこうしなければ、邪法を伝え、悪事をし、勝手に天機を漏らすことに等しいのです。もちろん、実践を通じて皆さんも分かっているので、このことについて私もあまり多く説明しません。私にできることであれば話しますが、できないことなら、私は口にしません。ですから、大法はずっと健全に発展しています。

 前回私が皆さんにお会いした時、これほど多くの人はいませんでした。もちろん、多くの人は仕事で来られませんでした。つまり、前回皆さんにお会いしてから、また多くの人が道(どう)に入り法を得たのです。この法を迅速に発展させ、広めることができたのは、大法の威力によるものだと思います。同時に私たちが大法を広める過程において歩んだ道は、皆正しいからです。私たちも確かに学習者のために責任を負い、社会のために責任を負うことができたので、このような効果を収めたのです。皆さんにお会いする機会はとても少なく、アメリカに来るのは容易なことではなく、ビザが必要で、すぐに来られません。せっかく皆さんにお会いすることができたので、できるだけ皆さんに何らかの問題を解決してあげたいと思います。何か質問があれば出してください。私は皆さんにお答えします。この時間を充分利用して皆さんが疑問に思うことを解決することによって、アメリカで大法を更に健全に発展させて欲しいと思います。本来、学習者に一部の具体的なことについて話したいと思いましたが、ここにいる一部の人たちは昨日、既に話を聞きました。彼らが早く来ましたので、昨日彼らのために一部の質問に答えました。しかし、あなたは残念に思わないでください。昨日聞けなかった話は続けて質問してもいいのです。私は皆さんに解答します。

 私はこの時間を利用して皆さんに修煉の事、つまり法を説きます。皆さんは最近かなり速く向上し、しかも相当速く向上していると私には分かっています。私は前回アメリカから中国に帰った時、中国の学習者に話したことですが、アメリカは非常に特殊なところで、たくさんのエリートがいて、特に中国系のエリートがいます。これらの人は根基が割合良く、大法に対する理解が深く、速く理解することができ、次元の突破も割合速いのです。これは皆さんの強みです。しかし鼻を高くしてはいけません。異なる形の執着と妨害もあります。全てを克服してから、はじめてより速く向上できるのです。

 次に私は病業のことについて話します。これも法を深く学んでいない多くの学習者をずっと困惑させている問題です。しかし、私は本の中に既に書いていますが、つまり私たち修煉者が如何に病気に対処するかということです。私は別の角度から説明します。実は、私たち修煉者は常人と混同してはいけません。皆さんもご存知のように、昔和尚が出家したら、人は、もうその人を常人と見做さないのです。彼は既に半分、神になったのです。それでは、人間と神の間にどのような差異があるのでしょうか? 人間には情があり、しかも非常に強いのです。人間はこの情のためにこの世に生きています。この情がなければ、この世で生活することもできません。何かが好き、何かを好み、何かで喜んだり、怒ったり、肉親同士の情、夫婦の情、親子の情、これをやりたい、やりたくない、このことが好き、このことが嫌いなど、この全ては人間の情です。この情がなければ、常人社会もなくなるのです。この情の状態の下で、人間が常人という状態に合わせて行なった一切は間違いとは言えません。それではなぜ、昔多くの人は人間の認識したことが全て間違いだと言ったのでしょうか? このことを話した人は既に常人ではなくなり、彼らは別の境地から人間を見ていたからです。しかし常人の中にいる以上、それは間違いだとは言えません。私は昨日、常人という社会は非常に良くないと言いました。しかし、それも宇宙全体の上から下まで貫いている一つの次元であり、最も低い次元ですが、宇宙の特性と大法の最も低い次元における現れでもあります。この次元の人が存在しなければなりません。全ての人が修煉によって佛になるということもあり得ません。人類社会が存在しなくなることもあり得ず、それはこのように存在しています。ただこの環境はとても特殊で、高い境地の人を生み出すことができるのです。高い境地から人間を見れば、違いが出てきます。ですから私が言ったように、修煉者は目にした、触れた、体験した一切の事を常人の観念で量ってはいけません。高い基準で自分を律しなければならないのです。

 常人は病気に罹っても病院に行かず薬を飲まないのは、常人の理、世間の理に合っていないので、当然人間には受け入れられません。常人は病気に罹ったら薬を飲み、病院へ行って治療を受けるのは当然です。人間はこのようにこの問題に対処しています。これは間違いではありません。しかし一人の修煉者として、常人と混同してはいけません。少し厳しく言えば、あなたはもう人間ではないのです。先ほど言ったように、人間には七情六欲があり、情のために生きています。皆さんは次第にこれらのことを軽く見て、次第に淡泊になっていき、修煉の過程において、それらを完全に放棄するようになります。人間はこのために生きていますが、皆さんはこのために生きているのではありません。あなたは人間と同じであり得ますか? 既に違うようになりました。それなら、あなたはなぜ人間と違う高い次元の理で物事、自分自身が遭遇したことを判断しないのでしょうか? つまりこういうことです。ですから修煉者は、もしどこか具合が悪くなったら、皆さんに教えたことがありますが、それは病気ではありません。しかし常人が思っている病気の症状は、修煉者が身体の業を滅するときに現れる状態と同じなので、常人はなかなか区別できません。ですから、修煉は悟りを重んじます。もしその状態が異なるなら、誰でも修煉し、悟りということがなくなるのです。体に現れることは素晴らしい事ばかりで、少しつらいことがあっても神仙と同じような現れであれば、修めない人はいないのではありませんか? だれでも修煉するのです。しかし、それでは修煉として認められず、修煉とも言えなくなります。このように修煉させるわけにはいきません。なぜならば、悟りがなくなったからです。ですから、修煉は必然的に真か偽か区別できない状態であなたを試しており、どのようにこの問題に対処するかをみています。自分を一人の修煉者と見做すか、それとも普通の常人と見做すかをみています。これはこの人が修煉できるか否かをみているのではないでしょうか? もちろん、表面上あなたは常人と変わらない普通の人ですが、実はあなたは修煉者です。

 私は昨日佛法修煉のことについても話しました。修煉ということは宇宙の中で最も重大なことです。人間はそのような境地まで昇華し、羅漢、菩薩、佛、道、神になろうとしています。業力の満ち溢れている人間が神になりたいということは、非常に厳粛なことではありませんか? あなたは高い基準で真剣にこの問題に対処し、正念で自分を律するべきではありませんか? あなたが相変わらず常人の視点でこのことを考えるなら、あなたは常人ではありませんか? これほど厳粛なことであり、あなたを佛にさせようとしているのに、あなたはやはり自分を常人と見做し、常人の理でこれらのことを考えるなら、それではいけません。それでは、厳粛なことではなくなり、修めることもできなくなります。佛、道、神は現在の和尚、現在の人間が認識しているようなことではありません。皆さんがご存知のように、佛や神に常人の情はなく、常人の考え方や常人の物事を認識する概念もありません。彼の考え方は全く別の境地にあります。人間の物事に対する考えや概念、観念などは彼らには全くないのです。現在人々は佛、菩薩を人格化し、人間の情を付与しました。寺院に行って香を焚き佛を拝む人はいますが、彼は修煉のため、敬うためでなく、求めるために行くのです。執着して佛に求めていますが、皆さん考えてみてください。これはなんと良くない心でしょう!

 昔、人間が佛を拝むのは佛を崇敬しているからでした。佛は偉大で、全面的に人類を見守っているので、人間が佛を敬い、佛を拝み、或いは佛を修めるのであり、自分自身のために何かを求めようとしているのではありませんでした。しかし、現在の人はこうではありません。昔の人は佛、菩薩のことを思うと、自然に一種の正念、一種の崇敬の気持ちが生じて、はじめて佛、菩薩という言葉に言及し、とても殊勝で偉大なことだと思っていました。しかし、現在の人はこのような考えがなく、気ままに口を開き佛のことを言います。佛、菩薩のことを軽々しく口にします。もっとひどいのは佛像を勝手に至る所で、でたらめに彫刻し、描き、どんなところにも平気で置いています。阿弥陀佛、聖母マリアの像もお墓に置かれ、まるで死んだ人を見守るように人間は神に指図しているようです。人間が神に指図しようとしています。そうではありませんか? 皆さん考えてみてください。それほど神聖で偉大な神は、手を振る瞬間に全人類を幸福にさせることもできれば、絶滅させることもできます。このように神を扱っていいのでしょうか? 神がもし、人間に慈悲でなければ、人が無意識に悪事を働く時、一瞬の間に人を影も形もないまでに壊滅させてしまうのです。人間は現在これらのことを理解できないので、敢えてこういうことを行なっています。私が以前話したように、実はこれは佛を誹謗しているのです。この前、皆さんに言いましたが、献立の中に「佛跳牆」(ぶっちょうしょう)というような料理名もあります。佛は味や色への執着がないのです。よい香りを嗅ぐと、塀の向こうから飛んで来て食べるとか、これは佛を最もひどく誹謗しているのではありませんか? また「羅漢斎」というのもあります。羅漢も常人の如何なる味や色に対する執着はないのです。羅漢が食べるものだからと、その料理を羅漢斎と名付けていますが、それは羅漢を罵っているのではありませんか? 羅漢は常人の食べ物を汚いものとみているので、彼の考えは人間と違います。現在人間は金と欲望のために、神、佛をこのように扱っているのです。佛、道、神には人間の観念がなく、常人の考え方を持っていません。しかし、先ほど言ったように、人々は佛を拝むときに崇敬の念、修めたい気持ちから佛を拝むのではなく、佛に求めに行っているのです。息子を授かり、金持ちになり、災いを消し、難を解消してくれるように加護を求めています。全てはこの気持ちです。しかし佛はこれらのことに構わないのです。佛は根本から人を済度するのです。人間を神仙のように常人の中で心地よく生活させ、金がいくらでもあり、何の災いも難もないようにすれば、本当に佛を修めたくなく、神にもなりたくないのです。なぜならば、それは既に神の状態だからです。なんと気持ちが良いことでしょう。これは不可能なことです。

 人は生々世々にも業を造っており、自分の業力で自分の来世、今世の困難、苦痛、魔難、貧困、病気などをもたらすのです。業力を償ってからはじめて、幸福を得ることができ、はじめて良い暮らしになります。悪事をしたら償わなければなりません。宇宙にはこの理が存在しています。前世のことと今世のことは、それぞれ別人だとあなたは思うかもしれませんが、高次元の生命はあなたの生命をみる時、生命の全過程をみるのです。一晩寝て起きたら、昨日したことと今日したことは別々の人がしたことであり、昨日のことは自分がしたのではないと思うかもしれませんが、実は全てあなた一人がしたのです。彼らはこのように生命をみるのです。ですから、先ほどの話を展開してその意味を説きましたが、つまり常人の観念でこれらのことに対処してはいけないということです。常人は病気に罹ったら薬を飲まなければなりませんが、一人の修煉者として、どうしても薬を飲んではいけないと言っているのではありません。しかし、修煉のことを話しているのではありませんか? 悟りを重んじるのではありませんか? 全て悟ってほしいということでもなく、できる範囲まで悟ればいいのです。あなたは「これは私にできません」、「どうしてもこの心を放下できない、やはり薬を飲まなければならない、煉功しても薬を飲まなければならない」と思うかもしれませんが、しかし私はどのようにこの問題をみているのでしょうか? 私はその人の悟性の低さをとても残念に思うだけで、彼はこの関門を乗り越えていません。本来なら、彼が向上し圓満成就に向かって大きな一歩を踏み出すはずだったのですが、この一歩を踏み出せなかったのです。私はただこれを残念に思っているだけで、この人はもう駄目だとは言っていません。薬を飲んだから絶対に修煉することができなくなったとも言っていません。悟性というものは人それぞれで、根基も人によって違うからです。向上してはじめてこの関門を乗り越え、新しい認識を得ることができます。向上できず、このことについて完全に悟れなければ、このことにおいてあなたはまだ常人なのです。ところが、この人がもう駄目だとは言えません。

 薬を飲むことと業を滅することとの関係について更に話しましょう。先ほど私は生々世々に積んだ業が病気を作り出したのだと言いました。業はどんなものでしょうか? 別の空間に存在している業はその微粒子が小さいほど、つまりその顆粒が小さいほど、力はより強いのです。それが私たちのこの空間に滲透してきたら、つまり微生物であり、最もミクロ的なウイルスです。ですから、病気に罹ることは偶然なことでしょうか? 現在の医学、科学でそれを認識しようとしても認識できず、ただ現有の分子から構成された最大の一層の粒子で構成される、この表面空間に現れた一種の現象しか認識できません。この認識に基づいて病気、腫瘍、炎症などと判断しています。しかし、現在の科学は病気をもたらした根本的な原因を見出すことができず、それを常人の認識できる僅かな道理で解釈しています。もちろん、人間が病気に罹った時、往々にして世間のこの次元の理に合っているようです。世間において、この病気を誘発する外的要因があり、この世間の理にうまく合ったかのようにみえますが、実はこの世間の理と状態に合わせるために出現した外的な条件であるに過ぎません。根本的な原因として、病気はこの空間で生じたのではありません。ですから、薬を飲むことはこの病気、表面のウイルスを殺すのです。薬は表面のウイルスを本当に殺すことができます。しかし、煉功者の功は自ずとウイルスと業力を消滅しています。ところが、薬が別の空間から滲透して来たウイルスを表面上で殺した時、如何なる物体も生きものなので、別の空間からのウイルス、つまり別の空間の業力はすぐ感知してこの空間に来なくなります。そのため、薬を飲んで治ったと思っています。しかし皆さんに教えますが、却って業がそこにたまってしまいます。人間は生々世々にこの業を蓄えており、ある程度までたまったら、この人をもう救う手立てはありません。そして、死亡したとき徹底的に消滅されて生命を失い、永遠に生命を失ってしまうのです。これほど怖いのです。ですから、このような関係を説いたのです。薬を飲ませないのではなく、常人は病気になれば治療しなければなりません。

 しかし修煉の人なら、どのようにこのことに対処するのでしょうか? あなたの身体を浄化してあげるのではありませんか? 身体は樹の年輪のように生々世々があり、中心部に業力があり、各層にも業力があります。あなたが修煉している時、私はこの業力を中心からずっと外へと押し出し、押し出して、押し出して、押し出して、押し出しているのです。業力を完全に押し出してあげます。全ての業力を身体の表面から押し出してはいけません。全て身体の表面を通して押し出すなら、あなたはそれに耐えられないのです。ただ身体の表面からその一部を押し出しますが、その時、あなたは突然病気になったように感じ、苦しくて、つらくて耐えがたいと思い、自分を常人と見做して薬を飲んでしまいます。それなら、薬を飲んでもいいのです。私たちも常人が薬を飲んではいけないと言っていません。ただあなたの悟性が足りず、この関門をよく乗り越えられなかったと言うだけです。私たちも修煉した以上薬を飲んではいけないと規定していません。このような堅い規定を作っていません。しかし、私は皆さんに法の道理を説いています。この業力を放出したいのに、薬を飲んでしまえば、また業力を押し戻してしまうので、どうやって身体を浄化してあげられるでしょうか? もちろん別の空間からそれを全て取り除くことができます。ところが、この宇宙の法には一つの道理があり、つまりあなたの業を滅しているときに、あなたはこの事で苦を嘗めなければならないということです。以前他人にもたらした苦痛を、自分も同様に受けなければなりません。しかし、修煉者に同様な方式で全てを受けさせてはならず、それでは死んでしまい、修煉できなくなります。修煉者として圓満成就した後、福をもって傷つけた生命に報いるのです。しかし、精神面における苦痛の部分は、あなたがやはり嘗めなければなりません。人に与えた苦痛に耐えると同時に業を償っています。なぜならば、あなたが苦を受けたからです。問題は孤立しているのではありません。この業を償っている時、苦を嘗めている最中に、自分を修煉者と見做さなければなりません。それを病気と考えていない時、この問題においてあなたは確かに高い次元から認識しており、常人としての考えではありません。あなたの境地と考えはこの問題において向上してきたのではありませんか? こうではありませんか? 動作だけで向上できることはあり得ません。動作は圓満成就するための補助的な手段です。

 人は修煉して心性を向上させなければ、永遠に次元を高めることはできません。人々が言ったように、お経を唱えれば佛になれるということでもありません。また多くの良いことをすれば佛になれると思っている人がいますが、全て笑い話です。皆、有為の法です。あなたが着実に修めなければ、お経を唱えて何になりますか? 修めなければ絶対佛になることはあり得ません。釈迦牟尼佛が法を伝えた当時、経書もなかったのです。イエスが彼の法を伝えた時にも経書がなく、人々はただ着実に修めるだけでした。自分の心を修めなければ、どうして高い次元に上がってこられるのでしょうか? その境地の要求に達することができなければ、どうして高い次元に上がってこられるのでしょうか? 常人の七情六欲や各種の執着心、金に対する欲望が、佛になる気持ちよりも強烈であれば、天に上がることができるのでしょうか? 絶対あり得ません。皆分かったと思います。つまり一人の修煉者として既に超常的な人間になったのです。超常的な人間として、身体の苦痛にどのように対処するのでしょうか? 常人に病気があるのは当然のことですが、あなたの場合、私はあなたの身体の業を外へ押し出しているのです。表面まで押し出した時、人の身体の表面にある末梢神経は最も敏感なので、身体の具合が悪く、病気に罹ったかのように感じます。しかも重く現れる場合もあり、こうなるのです。こうなる以上、皆さん考えてみてください。自分を常人と見做し、それが病気だと思えば、もちろんそれでもいいのです。薬を飲んでもいいのです。この関門はあなたが乗り越えられなかったので、少なくともこの問題においてあなたは常人です。いつかこの関門を乗り越えたら、このことにおいてあなたは超常的になります。ところが、佛になろうと思えば、あらゆる問題に対する認識においても超常的でなければなりません。その心を放下できなければ、この関門を乗り越えることができず、圓満成就になれません。ですから、もしこの機会を失ったら、この関門を乗り越えられなかったのです。一部の輔導員、古い学習者はよく分かっているので、学習者が薬を飲むのを見ると非常に心配になります。もちろん、彼らは私のように対処できず、皆お互いによく知っているから、「薬を飲んではいけないよ」と言ってしまいます。その人はまだ悟らず、「煉功したらなぜ薬を飲んではいけないのか?」と思います。本人が悟らなければ難しくなります。皆薬を飲んではいけないという強制的な取り決めなどはありません。私はただ修煉者に薬を飲むべきかどうかの道理を説いただけです。常人に薬を飲んではいけないと言っているのではありません。 

 私たちのこの法は、まさに世間で修煉するために広く伝え出しましたが、修煉する人が皆、佛になれるとは限りません。非常に精進し、法に対して確固とした気持ちを持っている人は、圓満成就への進み具合は速いのです。あまり精進しない人なら、圓満成就への進み具合はかなり遅いはずです。修めているようですが、実は修めておらず、大法を信じているようですが、信じていない人は圓満成就できないかもしれません。しかし修煉という立場から言えば、無駄に修煉したことにはならないかもしれません。今世で修煉しましたが圓満成就できず、駄目になりましたが、来世にまた修煉して成就できるかもしれません。しかし、彼はもう修煉したくなくなるかもしれませんが、大法の中ですでに一部の心を放下することができ、また佛法も聞き、常人より良くなったので、来世に福がもたらされるかもしれません。来世は大金持ちになり高官になるかもしれません。それらのものは福にしか換えられません。彼は高い次元まで修煉することはできませんでしたが、修煉は無駄にはなりません。つまりこういう道理です。一人の修煉者として、今日法を聞いた以上、最後まで修煉してほしいのです。佛法は誰もが聞くことができるのではありません。実は皆さんに教えますが、アメリカというところは割合特殊なのです。私は二年前からもう法を説かなくなりましたが、アメリカでは華人がとても多く、アメリカ人にも多くの善良な人がいるため、私は彼らにも法を得てほしいのです。実は系統的に説いているのではなく、ここの情況に応じて説いているだけです。本が既にあるので、皆学ぶことができるようになりました。煉功点もあって皆さんと一緒に煉功することもできます。人が佛法に出会える機会は、数千年に一度しかないのです。しかも、あなたが必ずこの機縁に出会えるとも限りません。六道輪廻の時、人間は異なる動物、植物、物質に転生することがあります。数百年か千年に一度、人間に生まれ変わりましたが、この数百年、数千年の転生の中で、ちょうどその時期に人間になり、この法に出会えるところに転生しなければなりません。また世間でその時期に大法を聞き、この講習会に参加する機縁がなければなりません。もちろん、多くの機縁が寄せ集められてはじめて、この法を得ることができます。なかなか容易なことではありません。

 私が説いたのは佛法です。皆さんもはっきり分かっていると思います。私は常人の中の道理を説いておらず、しかも私が説いた多くの問題は、全て常人の中で従来人が言及したことのないことであり、常人の知識でもありません。

 薬を飲む問題について今私はもう一回説きました。この問題は各地においても突出しているのです。大法を破壊しようとする人は、薬を飲まないということに対して、「この功を修煉したら薬を飲んではいけないことになる」などと言いました。実は私は薬を飲んではいけないと言っていません。もちろん在席の輔導員も仕事の進め方に気をつけなければならず、人に薬を飲まないように強要してはいけません。私たちはただ道理を明白に説明するだけです。修めたければ修めてください。修めたくなければ毒薬を飲んでもそれは常人の事です。この心が変らなければ誰も為す術はありません。私たちは縁を重んじて、善を勧めることしかできません。強要するのは修煉ではありません。

 もう一つのことについて話します。今日午後の時間を全て皆さんのために使いますから、私が話し終えてから、質問があれば出してください。私はそれに解答します。中国大陸の「文化大革命」の後に生まれた若者は、佛や菩薩や神に対して理解がとても浅いのです。私が伝えたのは佛法です。一部の人はそれが良いと分かっていますが、一部の言葉をやはり理解することができません。佛家の事についての知識はとても限られており、つまり佛家に対する認識ははっきりしていません。

 次に私は阿弥陀佛と釈迦牟尼佛のことについて簡単に触れたいと思います。私がこれから話すことは経書と同じではありません。私が話す内容は釈迦牟尼佛が二千五百年前にも話したことがありますが、当時の和尚は後世の人に伝えませんでした。経書は釈迦牟尼佛がこの世を去って五百年後に系統的に整理されたものです。ご存知のように今から五百年ほど前の中国はちょうど元朝でした。ジンギスカンが当時何を言ったのか、今それを知っている人がいますか? しかし、何と言っても佛法ですから、断片的で不完全なものと口伝えによる伝承のものはずっと伝わっています。しかし往々にして、そこには佛がその話を語ったときの時間、場所、環境の要素や話の意味合い、話された対象者などの要素はもう残っていません。更に伝わっていく過程で、圓満成就していない人は皆、常人の観念を持っているので、自分の観念に合うものを加えて佛法を変えてしまう場合もあります。理解できない部分を削除し、次第に佛、菩薩などの神を人格化したのです。自分が好むもの、理解できるものを伝えますが、自分の心理、要求に合っていないもの、自分の観念に合っていないものは言いたくないので、それは伝わってきませんでした。

 まず、釈迦牟尼佛について話します。釈迦牟尼佛は歴史上確かに存在していた人物であり、二千五百余年前、古代インドで、修煉の人に彼の佛門の修煉方法を残しました。それは戒、定、慧と言います。佛教について言えば、それはただ現在の人が政治的な目的で名付けた言い方です。釈迦牟尼佛は宗教を認めず、自分のものが宗教だと言っていませんでした。人間がそれを宗教と言ったのです。彼はただ佛法を伝え、彼の法門で圓満成就できる方法を説いただけです。それはつまり戒、定、慧です。もちろん、その詳しいことについて経書に記載がありますから、私は多く話しません。ご存知のように、阿弥陀佛は極楽世界を、薬師佛は琉璃世界を持っています。佛は皆一つの天国世界を主宰しています。佛、菩薩、如来は私たち中国人の言い方です。如来は天上において法王と呼ばれ、つまり彼の天国の主宰者です。しかし彼の管理方法は人間のように行政手段、法律をもって管理するのではなく、このようなものはありません。全て慈悲と善なる念によるのです。そこの衆生は皆とても素晴らしく、そこの基準に達しているから、その世界に入ることができたのです。佛は皆自分が主宰している世界を持っていますが、今まで釈迦牟尼佛がどの世界を主宰しているかを知る人はいませんでした。釈迦牟尼佛が本来誰であるかも誰にも分かりません。誰も釈迦牟尼佛の世界がどこにあるか知らないのです。釈迦牟尼佛が娑婆世界にいると言う和尚はいますが、皆さんに教えますが、娑婆世界はどこにあるのでしょうか? 私たちの三界の中にあります。そこがなぜ佛の世界になり得るのでしょうか? なんと汚いところでしょう。皆そこから脱出したいと思っているのに、なぜ佛の世界となり得るのでしょうか? その理由は和尚でも説明できず、宗教の中にも記載がありません。実は釈迦牟尼佛の次元はとても高いのです。この宇宙は非常に大きいのですが、後にその構造、宇宙の構造について話します。釈迦牟尼佛が下りて来る前にいた最も低い次元は、その次元から直接人に転生した次元ですが、第六層の宇宙にあります。第六層の天ではなく、第六層の宇宙です。後ほど私は宇宙がどれほど大きいかについて話します。

 第六層の宇宙に彼は一つの天国を持っています。彼がそこで創造した天国は大梵世界と言います。つまり釈迦牟尼佛は大梵世界からこの世に転生して来たのです。彼は法を伝え人を済度し、彼の弟子を済度するために、大梵世界からこの世に転生して来ました。釈迦牟尼佛によって済度される弟子は、皆少なくとも第六層の宇宙以上まで修めなければなりません。それほど高くまで修めるのです。ですから、釈迦牟尼佛は下りてから、ずっと弟子が転生して修煉するのを見守っており、彼の世界に帰りませんでした。三界に大梵天というところがありますが、彼はそこにいます。大梵天も彼が名付けた名前です。彼は大梵世界から来たので、そこを大梵天と呼びました。彼はそこで自分の弟子を見守っています。彼の弟子にはみな印を授けました。彼が授けた印は全て「卍」符で、みな印を授けられた弟子です。釈迦牟尼佛の弟子であるかどうかは高い次元で見るとすぐ分かります。彼らは高い次元まで修め、釈迦牟尼佛が彼らをそれほど高い境地まで済度しなければならないので、一世では成就できないのです。こうして繰り返しながら二千五百余年修めましたが、現在は最後の一回で、圓満成就になる時が来ました。今回で圓満成就したら、彼は弟子を全て連れて帰り、みな娑婆世界を離れるのです。我々の大法弟子の中にも釈迦に印を授けられた多くの弟子がおり、みな法を得ています。釈迦に印を授けられた弟子の多くは和尚ですが、常人の中にもいます。常人の中にいる多くの人は既に私たちのこの法を得ています。実はここまで話しましたが、皆さんに教えますが、私が伝えたこの法では皆さんが必ず法輪世界に行かなければならないということではなく、私が伝えたのは宇宙全体の理です。私はこれほど大きなものを伝えています。彼らも皆この法を得ようとしています。新しい宇宙は既に構成され、法は乾坤を正しているので、宇宙の法に同化して、はじめて元に戻ることができます。釈迦牟尼佛は系統的にずいぶん昔に彼の弟子のために按排しており、彼はこの日が来ることを知っています。また他の多くの異なる世界の人々と他の正法門の弟子が法を得ています。釈迦牟尼佛の弟子の大多数は漢地にいます。インドにはもういないのです。世界各地にもばらばらに分布していますが、とても少ないのです。大部分は漢地にいますが、漢地というのは、つまり中国大陸のことです。

 先ほど、私は簡単に釈迦牟尼佛と彼の弟子の状況を紹介しました。次に私は阿弥陀佛について話します。阿弥陀佛といえば、人々は極楽世界があると知っています。極楽世界はどこにありますか? 阿弥陀佛は誰でしょうか? 阿弥陀佛について、佛教の経書に紹介があり、その部分について私はもう話しませんが、経書に記載されていない部分を話します。ご存知のように、人々は佛が話した宇宙の一部の構造に関する内容を伝えています。須弥世界というところがあり、つまり須弥山の説です。私たちの現在の地球、及び三界内外の天体は須弥山の南にあり、南贍部洲(なんせんぶしゅう)と言います。地球は須弥山の南部にあります。「この須弥山はヒマラヤ山ではないのでしょうか? 当時のインドは南贍部洲ではありませんか?」などと思う人がいますが、これとは別の事です。彼は佛であり、この世での認識から話しているのではなく、彼の理は神の角度から説かれたのです。彼の考えは人間という基点からではありません。

 須弥山は確かに存在しています。それなら、なぜ人はそれを見ることができないのでしょうか? 望遠鏡でもできないのでしょうか? それは最大の一層の分子から構成された粒子で構成したものではないからです。皆さんに教えますが、原子で構成した粒子はともかく、分子から構成された粒子、分子から組成された、私たちの最も表面の粒子より小さい粒子で構成した物質でも、人にはもう見えないのです。しかしこの須弥山は原子から構成されたので、人間には全く見えないのです。しかし、最近天文学や宇宙科学を研究する人は、一つの現象に気づいたかもしれません。彼らは宇宙の中に見られる星がいくらあるとしても、あるところに至ると、星がなくなることを発見したのです。こちら側に星が多く、銀河系がたくさんありますが、ある処に至ると一斉に消えてしまいます。科学者はそれを宇宙壁と呼んでいますが、これがなぜであるかは解釈できません。なぜ向こう側にはないのでしょうか? 実は須弥山に遮られており、この山があまりにも大きいからです。どれほど大きいのでしょうか? その頂点は第二層の宇宙の中心にあり、私たちのこの小宇宙を超えており、非常に大きいのです。ですから、これほど大きな山なので、人々は全くそれを想像できないのです。この山の他の部分を見るのは人間には不可能です。地球のような一粒の小さい丸い球でも、地球の向こうから北京を見ようとしても全くできません。それほど大きな山なので、その大きさも想像がつかないのです。彼も須弥山の他の幾つかのところに他の世界があると言いましたが、それについて私はこれ以上触れません。

 それでは、なぜこのような一つの山があるのでしょうか? 須弥山について話しましょう。皆さんに教えますが、実は須弥山は即ち阿弥陀佛と観音菩薩、大勢至菩薩の一種の形象の現れです。しかし、完全にそれを形象だとも言えません。なぜなら、彼らが佛であるため、人の形象があるからです。集まれば形になり、散れば物になりますが、彼には形象があります。散れば物になるのは彼の変化によるものです。人間には佛が見えないので佛は身体がないと言っています。佛の身体が原子から構成されているので、あなたにその身体が見えないのは当然で、佛には身体がないと言ったのも正しいのです。それでは、須弥山は原子から構成された以上、私たちの人間の目ではそれを見ることができませんが、ある意味から言えば、それは阿弥陀佛と観音菩薩、大勢至菩薩を代表しています。ですから、須弥山は一つではなく三つであり、しかも動いているのです。私たちのこの物質空間にある物体は固定して動かないようですが、如何なる空間の物体も動いています。ご存知のように、分子は動いており、原子もそうですが、全てのものは皆動いています。電子が原子核をめぐって回転しており、全ては動いているのです。物質は運動しているのです。須弥山はある時には一直線になり、ある時には三角形になり、変化しているのです。人々は違う角度から見た時、違う状態下で見た時、必ずしもその真の姿を見ることができるとは限りません。もし一の字に並んでいたらそれが一つの山だと見えます。昔、それを見た修煉の人はいましたが、説はそれぞれ違っていました。彼にその具体的な状態が見えなかったからです。それでは、それは阿弥陀佛と観音菩薩、大勢至菩薩の一種の象徴である以上、何の作用があるのでしょうか? 実は皆が言う極楽世界は須弥山の中にあります。しかし、この山は私たち人間の、現有の物質に対する認識のような概念ではなく、須弥山以下は全て水です。時間があまりないので、この辺にしましょう。

 次にこの宇宙空間の構造について話します。この宇宙はどれほど大きいのか、人間の言葉で表現しがたいのです。人間の言葉はそれを表現できませんが、表現できても、あなたの頭はそれを納めることもできず、理解できないのです。それはあまりにも厖大で、不思議なほど大きいのです。神にとっても不思議なのです。ですから、宇宙がどれほど大きいかはっきり説明できる佛、道、神は一人もいません。先ほど言いましたが、一般的に認識された宇宙は、実は小宇宙範囲のことを言っています。前回アメリカに来た時に話したことがありますが、二十七億余りの銀河系のような星系、大体このくらいの数で、三十億未満ですが、この範囲の星系が一つの宇宙を構成しています。しかしこの宇宙には外殻があり、果てがあるのです。これは私たちがいつも言っている宇宙です。しかしこの宇宙を超えたら、更に遥かに遠いところにまた宇宙があります。一定の範囲内にまた三千のこのような宇宙があります。しかもこの三千の宇宙の外側に殻があり、第二層の宇宙を構成しています。第二層の宇宙の外にまた大体三千の第二層の宇宙のような大きな宇宙があり、外には殻があり、第三層の宇宙を構成しています。まさに微粒子から原子核を構成し、原子核から原子、原子から分子、ミクロの粒子からより大きな粒子を構成していく体系の状態のようです。私が言ったこの宇宙はただこの一つの体系における状態にすぎません。言葉では言い表しようがなく、人類の言葉ではうまく表現する方法はありません。この状態下ではこのような状態ですが、しかし、それにはとても多くの体系があり、無数の原子が分子を構成しているように、宇宙に普く分布しています。宇宙には私たちのこの小宇宙のような宇宙が一体どれくらいあるのか、誰も答えられないのです。先ほど、第二層の宇宙、第三層の宇宙について話しましたが、釈迦牟尼佛が第六層の宇宙から来たと言われていますが、これはただ一つの体系の中で、このような一つの体系の中での話です。小さい粒子から大きい粒子を構成し、大きい粒子からより大きな粒子を構成するように、皆同じ体系にあります。しかし、このような体系の粒子はこれ一つだけではなく、非常に多くの異なる次元の粒子が天体に普く分布しています。

 この宇宙は非常に複雑です。私はスウェーデンで講習会を開いた時、少し具体的に話しました。私は八十一層の宇宙のことまで説きましたが、実は八十一層にとどまることなく、人類の数字では計算し切れないのです。人類の数字の最大の単位は兆ですが、佛が計算するとき使う最大の数字は劫です。一劫はつまり二十億年に相当し、二十億年で一劫を成しています。劫でもってもこの宇宙の層を数えることができず、天の層の数ではなく、宇宙の層の数です。これほど厖大なのです。人間について言えば、それはあまりにも微小です。地球も一粒の塵埃に過ぎず、しかも取るに足りないほど小さいと前回話しました。しかし、このような範囲内には数え切れない、非常に複雑な空間構造があるのです。この空間構造はどんな形状なのでしょうか? 私は前回も言及しました。私たち人類はどの層の空間に生活しているのでしょうか? 最大の分子粒子で構成した表面物質の中で生活しており、分子と星との間で生活しています。星も一つの粒子で、厖大な宇宙の中でそれも取るに足りない微々たる塵埃です。銀河系も取るに足りない微々たる塵埃に過ぎません。この宇宙、私が先ほど言った小宇宙も取るに足りない微々たる塵埃に過ぎません。私たち人類が目で見ることのできる最大の粒子は即ち星で、最小の粒子は即ち分子です。私たち人類は分子と星との間の粒子に生存しており、この空間の中にいます。あなたにはそれがとても広いと感じられますが、実は角度を換えて言えば、それは非常に狭いのです。

 更に、角度を換えて話します。原子と分子との間の空間は一層の空間ではありませんか? 理解しにくいかもしれませんが、皆さんに教えますが、いま科学者は原子から分子までの間は二十万の原子が並んで、はじめて分子に達するほどの距離があると知っています。しかし物体が小さければ小さいほど、つまり粒子は小さければ小さいほどその全体の体積は大きくなります。それは一つの層の面であり、孤立している一つの点ではないからです。そうであれば、その分子は非常に大きいのです。物質の顆粒、粒子は大きければ大きいほどその空間の体積は小さく、空間全体の体積は小さくなるのです。もしその空間に入ったら、それがもっと広い空間だと気づくはずです。もちろん、その状態に符合してはじめてその空間に入ることができます。人間の考え、人間の概念、人間の今の物質世界に対する認識の仕方でそれを認識しようとすれば、どうしても納得がいかず、その空間に入ることもできません。人類は自分たちの科学が如何に発達しているかと言っていますが、とてもかわいそうです! 分子のこの層の空間さえ突破できず、別の空間を見ることもできないのに、うぬぼれています。更に原子から構成されたその空間を見るということは、話にもなりません。皆さんに教えますが、これは一つの大きな空間体系の区分で、原子と原子核の間も空間であり、原子核とクォークの間も空間であり、クォークと中性微子の間もやはり空間です。物質の最も本源まで何層あるのか、人類の数字でも、佛が言った劫でも計算できないのです。

 人類が真に物質を認識しようとしても、現有の知識範囲内で理解することしかできないのです。人間は永遠にこの宇宙の物質の最も基本的なものが何であるかを知ることができず、永遠に探測することもできません。ですからこの宇宙は人類にとって永遠の謎です。もちろん高級生命と常人には、永遠にこの宇宙を知る方法はないと言っているのではなく、修煉者には方法があります。つまり修煉しかありません。人類は自らの技術的な手段を通じて、かなり多くの層の宇宙空間を見通せる、佛の境地ほどの大きな能力に達することは、永遠に不可能です。人には七情六欲と各種の執着心が存在しているので、もし本当に佛の境地に達したとすれば、星と星との戦争、宇宙大戦が起こります。しかし、神は人類にこのようにさせることはあり得ません。ですから、人類の科学が一定のレベルに達するときは人類にとって必ず危険なことになります。人類の道徳はそれほど高いレベルに達するはずはなく、人類の文明は壊滅されてしまいます。これは不公平ではなく、人類自身がだめで、人間の道徳がついてくることができないからです。しかし逆に言えば、人間の道徳がついてきたら、人間は神になり、人間的な手段で探求する必要もなく、目を開ければ全て見えてしまいます。宇宙は取りも直さずこうなのです。それを知りたければこの境地を超えなければなりません。

 先ほど大きさの異なる粒子が構成した世界について話しましたが、実はこれだけにとどまることなく、私たちの分子という現有の空間にも、まだ多くの空間があります。人間には見えないのです。先ほど言いましたが、分子から構成された最大の顆粒は、即ち私たち人間の最も表面上にある物質です。鋼、鉄、木材、人体、プラスチック、石、土、紙など、人類に見えるこれらのものは、最大の一層の分子から構成された最大の一層の粒子でできているため、見えるのです。もし分子で構成された最大の一層の粒子より少し小さいその層の空間の粒子であれば、あなたにはもう見えないのです。この分子はまたより小さい粒子の空間を構成することができます。この分子が構成した最小の粒子から表面の最大の粒子までの間には、とても多くの層の空間が存在しています。つまり異なる分子から構成された大きさの異なる粒子が、この非常に複雑な異なる分子の空間を構成したのです。ある人が突然消えて、また突然他の所から出て来たという話を人々は信じませんが、もしその人の身体が全て分子から構成されていても、その顆粒が非常にきめ細かければ(修煉を通じてそうなることができます)、彼はこの空間を通り抜けることができます。彼は突然消えてしまい、あなたには彼が見えないのですが、突然他の所からまた出て来ることは、とても簡単なことです。

 先ほどこの空間の構造について話しましたが、前回より詳しく話しました。人間にあまり多くのことを教えてはいけません。人間はあまり多くのことを知ってはいけません。私が話したこれらのことを、人間は全て探測することができません。人類の現在の科学は、実は一つの誤った基点から発展してきたのです。宇宙、人類、生命に対する認識は全て間違っています。ですから、修煉界では私たち修煉の人は現在の科学を全く認めておらず、それを一つの誤りだと思っています。もちろん、常人は皆このように学んできており、これほど多くの分野に分けられ、皆各分野で何らかの成果を収めたのです。しかしその基点が誤っているため、人類の認識は永遠に真相から相当離れている一種の認識にすぎません。

 人類の科学に対する認識は永遠に手探りのものでしかありません。盲人が象に触れるように、科学は現在まさにそうです。象の足、或いは鼻に触って、科学がこのようなものだと言っています。実は真実の全体像が見えていないのです。私は先ほどなぜこのように言ったのでしょうか? 現在、人類は人間の発展が進化によってもたらされたものだと思っていますが、実は進化論は全く存在していないものです。私たち修煉界では、人間が自分で自分を踏みにじっていると思っています。人間が自分を猿と結びつけるなど、とても馬鹿げた話だと思います。人類は決して進化してきたのではありません。ダーウィンが提唱した進化論は欠陥だらけなのです。その最大の欠陥は猿から人間まで進化し、古代生物から近代生物まで進化したというのに、その中間の過程はないということです。人間だけでなく、生物、動物も進化の中間過程がありませんでした。これはどのように解釈するのでしょうか? 実は異なる歴史時期に、人には異なる生存状態があります。つまりその生活環境は、全て当時の人間に合わせて生じたのです。

 このことに言及したので、私は更に現在の人間の観念について話します。道徳の堕落によって、多くの観念も変りました。昔多くの予言者も言いましたが、ある時期が来たら、人間は妖怪のような格好をすると言っていました。頭髪を赤く染め、真ん中にただ一筋の髪を残し、両側を全て剃ってしまいます。またある時期になると、人間は犬にも劣ります。多くの人は犬を息子、わが子のように扱い、ミルクを飲ませ、高級なブランドの服を着せ、ベビーカーに乗せ、犬を息子と呼んでいます。町に多くの乞食がいます。私もこのような人に出会ったことがあります。アメリカにもこのような人はいますが、手を出して、「お金をください」と言うのです。彼は確かに犬にも劣ります。ところが皆さんに教えますが、この地球にもし人間がいなければ、何もないのです。人間がいたからこそ、地球に万事万物が生じたのです。一切の動物、生物、植物は、皆人間のために生き、人間のために滅び、人間のために造成され、人間のために用いられています。人間がいなければ、何もありません。六道輪廻の転生も全て人間のためにあります。地上の一切は人間のために造られたのです。現在これらの観念は皆逆方向に変化しています。動物が人間と平等になることがどうして許されるでしょうか?! 現在動物は人体に取り憑いて人間を主っています。天はこれを許さないのです! これはいけないことです! 人間は最も偉大で、修煉して神に佛になることができ、しかも人間は高い次元に起源を持っています。それに対し、これらの生物の多くはここで造られ、地球で造られたものです。ついでにこの問題に触れました。

 私が今話した進化論ですが、私たちの見るところでは、それは存在していないものです。人類は長い歴史の歳月の中で、何度も異なる時期の文明を経てきました。人類の道徳が堕落する度に、その文明が壊滅され、最後にごく少数の人が生き残り、僅かな先史文化を継承し、もう一度石器時代を経て発展してきました。石器時代も一度だけではなく、何回もの石器時代があったのです。現在科学者は幾つかの問題に気づいており、考古学によって発見された多くのものは、同じ時期のものではありません。進化論の理論で無理に説明しようとしても、現実の前にそれを解釈することができません。異なる歴史時期の人間が、この地球で異なる時期の文明を残したことに私たちは気が付いたのです。古代エジプトのピラミッドですが、現代人は皆エジプト人が造ったものだと言いますが、それは現在のエジプト人と全く関係ありません。人間、民族が自分の歴史に対して持つ認識も全て誤っています。ピラミッドはエジプト人に全く関係がありません。先史のある文明時期に造られ、その後の大陸プレートの変動によって水の中に沈んでしまったのです。その次の文明が現れ、新大陸を造る時に沈んだ大陸がまた水の底から上がってきました。以前の人は既に存在しなくなりましたが、その後また現在のエジプト人が現れました。エジプト人はピラミッドの機能を発見したので、また幾つかの小さなこのようなピラミッドを造りました。棺を中に置けばいいと思って、そこに棺を置きました。新しく造られたものもあり、古いものもあります。そのため、現在の人間はそれが一体いつの時期のものか区別することもできなくなり、歴史も混乱してしまいました。

 マヤ人の文化は、現在のメキシコ人と関係があると多くの人は言っています。実はメキシコ人とは全く関係なく、彼らはただスペイン人と原住民との混血です。しかし、マヤ文化は前回の文明時期のもので、当時の人類は既にメキシコで消滅され、ただ少数の人が逃げ出したのです。しかしこのマヤ文化はモンゴル人と直接関係があります。具体的なことには触れません。人類はその歴史の淵源が分かっておらず、白人も同じです。前回の大洪水の時、人類文明は大洪水で壊滅され、地球上の海抜二千メートル以下の高山は全て水没し、二千メートル以上の所に住んでいた人だけが生き残りました。ノアの方舟の話は本当にあった事です。大洪水のため、西洋の文化は完全に壊滅されてしまいました。東方文化も壊滅に見舞われ、ただヒマラヤ山脈と崑崙山脈一帯の山に住んでいた人、農村の人は幸いにも免れ、崑崙山に住んでいた中国人が生き残りました。その時、東方文化はとても発達していたので、以前の河図、洛書、易経、太極、八卦などを継承しました。人々はそれが後世の誰それが作ったものだと言っていますが、実はその人がそれを変えて新たに持ち出しただけで、全くその人が作ったのではなく、全ては先史文化です。中国ではこれらのものが残されましたが、歴史が発展する中で、残されたのはこれだけではありませんでした。古代にもっと多くのものが残されていましたが、伝わってくる間にますます少なくなりました。実は、それは内涵がとても深く、歴史の淵源がとても悠久な一つの民族です。それはつまり中国です。一方、白人の文化は全て大洪水で水没し、何もかもなくなりました。当時ヨーロッパ大陸の端には、もう一つの大陸がありましたが、それも水没しました。そこは彼らの最も発達したところでしたが、沈んでしまいました。ですから白人の科学は何一つ残されず、如何なる文明もない状態から新たに発展してきたもので、すなわち、彼らの現在のこの科学です。

 中国の古い科学は西洋の実証科学とは違います。多くの考古学者も私とこれらの問題について討論したことがあり、私は彼らに教えましたが、彼らもその通りだと思っています。彼らには解釈できない難題がたくさんあったからです。私は先ほど人類の宇宙に対する認識について話しましたが、更に多くの事を認識するのは不可能です。現在多くの科学者はその研究の基点を誤ったのです。特に彼らはこの領域で少しばかりの成果を収めたら、それに固執してしまい、自分が認識したものに定義を下し、一つの枠を作ってしまうのです。在席の人々に留学生、博士、修士がたくさんおり、皆さんの考えは開放的なので、彼らの定義は彼の領域内では正しいのですが、一旦彼の認識を超え、境地を超えた時、それはまた間違っており、人を束縛するものだと気づくでしょう。本当に造詣のある科学者なら、これらの枠を突破する勇気があります。アインシュタインもそうですが、彼の認識した範囲内において、その説は正しいのですが、この範囲を超えたらアインシュタインが言った事は間違っていることに気づきます。この道理ではありませんか? なぜかと言うと、人間は昇華した時、思惟状態が高次元の真理に近づけば近づくほど、低次元における認識が間違っていたと分かります。このようなことです。

 人類の物質に対する認識も誤っているのではありませんか? 人間は現在の最大の分子粒子で構成した表面物質と星との間の空間にいるだけで、もう分からなくなりました。この空間で、このように発展しあのように発展し、これが絶対的な科学であり、物質に対する唯一の認識で、一番優れていると思い込んでいます。それはただ厖大で複雑な宇宙空間の中の極めて極めて小さな微粒子の中で物質世界を認識しているだけです。しかも一つの小さな空間に局限されています。私が今話した天体の構造もこれと同じ系統のことですが、あなたは一つの小さな小さな系統、一粒の塵の系統の中で、無数億のそのような空間の中で僅かばかりの空間を認識し、つまり一つの小さな小さな空間の中で認識したものを、それが正しいと言えますか? ですから、人類の科学の発展とその認識の起源から間違っていたのです。人類の起源、生命のことに触れると、もっと複雑なので、ここでは話しません。更に話すと生命の起源を言わなければなりませんが、あまりにも複雑なので、しかも高次元のことをたくさん話すと、人間は信じなくなります。人間はなんといっても人間の考えなのです。私のここでの話は、神が聞いたら信じるのです。彼は神の考えだからです。彼は自分の境地で見えるのです。彼の思惟方法は人とは全く異なっています。

 私はこのように話していますが、皆さんはお分かりになったでしょうか? 皆さんに聞きたいのですが、私がこのように話して、皆さんは分かったでしょうか?(拍手) 私は常にあることを言っています。昨日も再三に強調しましたが、つまり縁のことです。私たちの多くの人は、いつもこの大法をより多くの人に紹介したいと思っています。紹介されると、すぐとても素晴らしいと感じ、しかも積極的に学ぼうとする人がいますが、この人には縁があるかもしれません。紹介してあげても、自分の肉親を含めて、聞きたくもなく、信じない人がいます。いくら勧めても彼は信じません。皆さんに教えますが、それは彼に縁がないのかもしれません。もちろん、この状態は縁という一つの要素で構成したのではなく、本人の悟性の問題もあります。或いは業力が大きいということにも関係しているかもしれません。

 私は今日この縁を取り上げて話したいと思います。縁とは何でしょうか? 以前この問題について説明したことがあります。修煉界では特別に縁のことを強調しています。縁はどのように形成されたのでしょうか? 実は皆さんに教えますが、私たち修煉界でいう縁は、短い歴史時期で完全に説明できるものではありません。それは人間の一生を超え、数世、或いはもっと長い時間に関わっています。縁は絶えることはありません。なぜ絶えないのでしょうか? 先ほど私は業を償うということを話した時、如何に人の生命をみるべきかについて言及しました。一つの生命をみるには、その生命の全体をみなければならず、彼の一生だけをみてはいけません。例えばあなたが一晩寝て起きたとき、今日の自分と昨日の自分は関係ないと言えるでしょうか? それではいけません! ですから縁はかなり長い時間に及ぶのです。良いものは受け継がれますが、悪いものも受け継がれます。つまり、人と人との因縁関係も絶えることがないのです。人々が普通にいう縁は、多くの場合親縁のことを指しています。つまり夫婦の縁です。これはよく言われる縁です。実は夫婦の縁について私は以前説いたことがあります。それは常人のことですが、縁のことを言っているのでこれに触れたのです。それはどのように結ばれたのでしょうか? 次のような場合が多いのです。前世で、ある人から恩恵を受けましたが、その人に恩返しする方法がなく、前世の時地位が低かったのかもしれません。或いはとても貧しかったのかもしれません。受けた恩恵がとても大きかったので、心の中で恩返しをしようと思っています。そのため夫婦の縁が結ばれるかもしれません。また、前世である人に憧れていて、或いは二人は互いに憧れていましたが、縁がなく一緒になれなかったのですが、来世で夫婦の縁を結ぶことがあります。人の願望はとても大事です。何かが欲しければ、何かをやりたければ、例えば佛を修めたいと思えば、佛はあなたを助けるかもしれません。なぜでしょうか? この一念は極めて貴重だからです。これほど苦しい環境にいても、まだ佛を修めたいのです。しかし人が魔になりたければ、それも阻むことはできません。一途に悪事をやるなら、どのように阻むのでしょうか? 言っても耳を貸さずに相変わらず悪事をやります。ですから、人の願望はとても大事なのです。

 また他にも、親戚や友人、教え子や弟子、或いは人と人との恩讐で結ばれた縁で、あなたたちは一つの家族、または一つの集団になることがあります。そして、社会で互いに繋がりを持つ中で、人と人とのトラブルの中で恩怨が報われるようになります。この全ては縁です。縁はこれを指しています。これは一世で結んだものではなく、数世或いは前世で結んだものかもしれません。これはこのような状況を指して言っています。また、このような関係があり、つまり人間はその一生に彼の恩怨関係があり、親戚友人がいて、妻と子供などがいるので、この集団に恩怨が存在しているかもしれません。ある人に良くしてあげたり、あげなかったり、恩返しをしなければならなかったりすることで、来世に一つの集団として転生するようになります。しかし、皆一緒に来て、皆一緒に転生するのではありません。そうではありません。世に来る時期は早かったり遅かったりそれぞれ違います。年寄りも若い人もいます。どのみち、この集団の中で何らかの関連が発生しており、続々と転生してきます。一つの集団でなければ、或いは縁のない人、あなたと関係のない人なら、街で出会っても、世を隔てているようで、その人と如何なる関係もないように感じられます。このような人に出会っても、全く関わりはないように感じるのです。これはつまり、あなたはその集団から来た者ではなく、彼と何の因縁関係もありません。ですから、往々にして転生して来る時は皆同じ集団で、ただそれぞれ時期が異なるだけです。親となる者もいれば、子供となる者、友人や敵、また恩人となる者もいます。先ほど言った縁はこれです。

 もちろん、修煉もこの縁から逃れることはできません。あなたは修煉しようとしており、人が修煉すると、昔一人の人が修煉すると祖先までも徳を積み、皆恩恵を受けると言われました。あなたが修煉して佛になったら、彼らの罪は返さなくてもよくなり、みな佛になると言うことではありません。これではいけません。つまりあなたが修煉者になる場合、今生で法を得ると分かった前世の肉親たちが、あなたの周囲に転生するかもしれず、あなたと恩怨がある人々はこれによって法を得られるかもしれず、このような関係を形成するのです。もちろん、修煉は肉親の情を問わないのです。肉親の情を問わない以上、彼はこの情の局限を超えて、特に独修の法門や一人にしか伝えない法門の人は、自ら人を選び、弟子を選ぶのです。代々に皆このように修めてきたのです。普く済度するということは我々が今日話しているこの縁のことです。私が話しているこの縁は、在席の皆さんと関係があるのです。あなたは縁があって法を得たのかもしれません。それでは、この縁はどのように形成されたのでしょうか? 皆さんの中でかなり多くの人は法を得に来ており、目的があって来たのです。中に親戚や友人、歴代の弟子、或いは他の縁によって来た人もいるかもしれません。しかし修煉は常人の情を問わず、このようなものはありません。私はいつも言っていますが、人が法を得るために、このような願を立て、苦しみを嘗めてはじめて法を得ることになります。このような要素も含まれています。ですから、今生の一時的な誤った考えにより、法を得る今回の機会が影響されないようにと私はいつも言っています。さもなければ、あなたがいくら後悔しても挽回する方法はありません。実は私の見たところでは、縁の糸はしっかり繋がれており、取り残された人はなく、みな法を得ています。ただ精進の度合いに違いがあるだけです。

 次に私はもう一つのことについて話します。つまり修煉形式のことです。昨日もこれについて簡単に話しました。一部の学習者は結婚するかどうかの問題に言及しました。結婚したくなく、山に入って修煉したい人もおり、また違う考え方を持っている人もいます。私たちの大法を修煉している多くの弟子もこの考えを抱いています。しかし、誰でも知っているように、私が伝えたこの法は主に常人社会の中で修煉し、人間自身の主意識、主元神の次元を高めることを修煉の目的にしています。はっきりと苦しみに耐え、自分の利益が侵害されることが分かっていても心が動じません。これはあなた自身を修めているのではありませんか? この法はあなたが得るべきではありませんか? もし本当に山に入って修煉し、トラブルを避けてしまえば、修煉は遅くなり、長い歳月の中で少しずつそれらの心を削り取ることになります。この法を得なければ、修めたのは副元神であるかもしれません。山の奥で修煉するなら、これらの条件が備わっていないため、主に坐禅し、入定し、長期的に入定することになります。そのような状態の下では自分が修煉しているかどうかあなたには分からないのです。あなたは本当にこの複雑な環境の中で向上しているのではないからです。このようなことです。出家した人も主元神を修めることができますが、常人社会こそ、最も人の心を練磨できるところです。

 昔、私たちが聞いた修煉方法ですが、歴代のどの宗教であれ、どの修煉方法であれ、人々に伝えられてきたのは、山や寺に入って修煉し、世間の縁を断絶し、家族の情も捨てて、親がお寺に訪ねて来ても、知らん顔をします。「あなたは誰を捜しているのですか?」、「あなたですよ、あなたは私の息子です」、「あ、阿弥陀佛、施主は人を間違えたのです。私は何々と申します」。彼は既に名前を法名に変えていました。「私は佛門の弟子で、あなたの息子ではありません」と、本当に世間の縁を断絶するのです。今の和尚は修煉しようとしないばかりか、金を稼いで家族に仕送りをします。真に修めるなら、世間の縁を断絶しなければなりません。和尚が出家したら、もう人間としてみてはいけないと言われているのは、取りも直さずこの道理です。彼はもう神で、半分が神です。現在、修めることができなくなりましたが、往々にして、多くの人もこの古い修煉方法の形式にこだわって、このような方法で大法を修煉したいと思っています。将来はできますが、今はこの条件が整っていません。私が伝えたこの法は、目下このような形式で修煉するしかありません。師父である私も山の中にいません。ですから、あなたは修煉しようと思うとき、山の中に入るとか、出家するとか、結婚しないとか、常人の状態を変えようとしてはいけません。そうではありません。修煉方法はとても多く、八万四千法門の中で私たちの法門だけがこのように修煉しているのではありません。ですから、以前の幾つかの修煉方法と伝統的な観念に影響されないようにと私は説いているのです。私が今日あなたに教えたのは真新しい、真にあなたを一番速く済度する修煉形式です。将来には将来の修煉方法があります。実は私は本の中で言いましたが、人間が修煉したいと思っても、それは口で言うほど易しいものではありません?! 一生懸命修めても、実は修めたのはあなたではなく、あなたはまだそれを知らないのです。

 皆さんに教えますが、遥か昔、多くの神は人の主元神があまりにも済度し難いことに気づき、副元神を済度する方法をとるようになったのです。ある神はこの方法をとってから効果が良かったと感じ、別の神も良いと思い、それで皆はこの済度の方法をとるようになったのです。こうして、この形式が認められたのです。しかし、この形式は人間にとって不公平です。この人が修煉しているのに、済度されるのは副元神です。それは不公平だから敢えて世に公開せず、人にも知らせないのです。私は人間にそれを明らかにしました。なぜでしょうか? 私は人が本当に法を得られるようにしているからです。このような状態を変え、自分自身を修煉できるようにしています。同時に、もしこのように修煉すれば、社会に対して有益で、向上したあなたはきっと社会で一人の良い人になります。これは最も良いことです。ですから、私はこのことを正そうとしています。しかし一部の神も長い歳月の間にこのように修めて向上し、つまり副元神が修煉して上がったので、私が皆さんにこのことを伝えるのを妨害しています。皆さん考えてみてください。この法を伝えることはとても難しいだけでなく、得ることも容易なことではありません。最後に神、佛、道は私がどのような事をしているかが分かり、効果が非常に良いとみて、今は皆分かってくれました。

 当初私が中国で法を伝えたときは、とても難しかったのですが、もちろん今はわりとやりやすくなりました。特にアメリカに来てから、皆さんは簡単に法を聞くことができました。先ほど私は私たちのこの修煉形式が過去の観念に影響されないようにと言いましたが、私たちはこの方式で修煉しています。もちろん皆さんが修煉し終えてから、将来は将来の人の修煉状態があります。将来の人は法についてこれほど多く知ることができません。今は特殊な歴史時期にあるので、この法を伝えました。更に将来の人は私が誰であるかも知らず、将来の人に私の形象も残しません。録音テープ、ビデオテープですが、今録音や録画を撮っていますが、将来に残すことはできず、全て消去されてしまいます。昔、釈迦牟尼佛は弟子を率いて修煉する時、物質的利益に対する執着心を起こさないように、お金と物を貯めることを許さなかったのです。どんなものでももらってはならず、ただ袈裟一枚、托鉢用のお碗一つだけです。しかし、往々にして人間に捨て難い心がたくさんあります。一時期多くの人はこのお碗を収集していました。「私のお碗は銅のものだ、私のお碗は玉のものだ、私のお碗はきれい、私のこのお碗は銀のものだ」と比べ合っていました。お碗をたくさん貯めた和尚も出てきました。釈迦牟尼佛は次のように説きました。もし物に対する執着心があれば、家に帰ればよく、家には何でもあり、何を貯めてもいいのです。なぜ托鉢用のお碗に対する未練を放下できないのでしょうか? 出家した人は何でも放下しなければならず、なぜお碗を収集するという一念さえ取り除かないのでしょうか? 財宝もなくなったのに、お碗に対してまた執着するのでしょうか? 釈迦牟尼佛はつまり一念、僅かな執着でさえも残さずに、捨てなければならず、この心を持ってはいけないと言ったのです。

 釈迦牟尼佛時代の和尚のお碗はとても小さく、一食分しかもらうことが許されませんでした。今の和尚は、とても大きなお碗を使っています。昔は鉢、今は磬(きん)を持っています。磬を持って托鉢しています。ご飯を全くもらわず、金を求めています。物質利益、お金に対してそれほど強く求める心があり、それは修煉なのでしょうか? 皆さんに教えますが、金銭は修煉者にとって最大の障碍です。先ほど話したのは出家した人のことです。しかし、大法修煉は物を重んじず、心を重んじています。常人社会で仕事をしながら修煉しますので、金がいくらあっても構いませんが、ただ金に執着する心を捨てないといけません。金の煉瓦で家を建てても、頭に何も思わず、重くみていません。常人の中で修煉しているので、どんな仕事をする人もいます。商売をすればお金を稼ぎますが、何も思わなければ何の差し支えもありません。それを大事にみていなければ、それがあってもなくても同じだと思っていれば、あなたはこの関を乗り越えたことになります。家は相変わらず金の塊であってもかまいません。私たちの修煉は物質上、何かを捨てることではなく、この心を捨てることを要求しています。こうして、はじめて世間に符合しながら修煉することができます。皆が修煉し、何もやらなくなれば、社会で何を食べていくのでしょうか? これではいけません。私たちは人の心だけを重んじ、人の心を真っ直ぐに指し、真にあなたの心性を向上させます。物質上から何かを取り除くのではありません。これは今までの伝統的な修煉方法とはっきり区別しなければなりません。ただあなたにその心が有るか無いかを試すために、却ってその方面から厳しく試練します。

 修煉者がもし大法の中で修煉すれば、私たちはこのような方法でやります。これらの執着心を全て淡泊にしなければなりません。将来、専業修煉者はお碗を持って托鉢し、各地を行脚しなければなりません。世間の苦しみを嘗め尽くして、はじめて圓満成就できます。将来の出家した人はこのように修煉します。

 苦しみに言及しましたが、皆さんに教えますが、人が修煉し始めたら必ず苦しくなり、苦に遭うのです。大法を修煉できるのは福があるからですが、修煉すると難儀に見舞われます。絶対にそうです。しかし往々にして人間は僅かな苦しみに遭い、僅かな苦難に遭ったら、悪い事だと思ってしまいます。「どうしてこんなに具合が悪いのでしょうか、そんなに気分が悪いのでしょうか」など。もし一生何の苦難もなければ、皆さんに教えますが、その人は絶対に地獄に堕ちるに違いありません。一生何の苦難もないことはともかくとして、一生病気に患わされなければ、死後百パーセント地獄に堕ちるのです。生きている限り業を造っています。業を造らないことはあり得ません。口を開くと、他人を傷つけるかもしれません。言い出した話は、知らないうちに他人を傷つけてしまいます。相手に何かを話したとき、本人は気にしなくても、別の人が聞いたら、その人を傷つけたかもしれません。人間は生きている限り、食べた物、ひいては道を歩いても生物を踏み殺しています。もちろん、先ほど話したように、世に生きている以上、人間は業を造っているのです。もし病気に罹らなければ、業を消すこともできません。人間は病気で苦しんでいる時、本当に業を消しています。消したら治るはずです。往々にして大病に罹って、暫く経って回復したら、顔色は良くなり、何をしても順調にできます。業が消され、福、即ち徳に転化したからです。苦しんだ後、何事をしても割合順調にできて、簡単に成し遂げることができます。人間はこれらのことが見えないので、僅かな苦を嘗めても、悪い事だと思ってしまいます。実は、苦を嘗めることのどこが怖いのでしょうか?! 少し苦しんでも、必死に耐えれば、その後、どんなことも良いほうに変わります。私に言わせれば、修煉は他でもなく、苦ではありませんか? もしその心を放下できれば、必ず圓満成就になります。更に少し高い次元の話をすれば、もし生死の念を放下できれば、あなたは本当に神になります!

 昔、阿弥陀佛は私の佛号を唱えれば、極楽世界に往生することができると言いました。どうしてそんなことがあり得るのでしょうか? 彼が言った意味は表面で理解できるものではありません。佛号を唱えれば確かに極楽世界に行くことができますが、人々は皆、表面で佛の話を理解しています。佛法には異なる次元の内涵があります。彼の佛号を唱えるのはつまり煉功していることです。頭の中に何もなく、阿弥陀佛という文字だけがあって、一念で万念を代えて、頭が全て空になるまで唱え、何もなく、阿弥陀佛だけが残ります。佛号を唱える時は無数の執着心と各種の妨害がありますが、あなたはそれに対抗し切れますか? 全ての執着を放下し、心の中の念が空になれば、修煉の目的を達することになります。佛号を唱えることは佛に対する崇敬の念を表しています。極楽世界に行こうとするから唱えているのであって、当然、極楽世界の佛はあなたを見守ってくれるのです。あなたが佛を修めているからです。中の内涵はとても深いのです。死ぬ前に阿弥陀佛を唱えれば極楽世界に行くことができると言う人はいますが、どういうことでしょうか? 本当に生死の念を放下できれば、あなたは確かに行くことができます。人と神との区別は、ここにあります。生死を放下できればあなたは神になり、生死を放下できなければあなたはやはり人間です。つまりこの違いです。私たちは長く修煉して、如何なる執着をも放下したら、生死までも放下したのではありませんか? もし人が一気に生死さえも放下できれば、それならまだ執着することがあるのでしょうか? 既に法を得た以上、生死さえも恐れず、命も捨てることができれば、まだどういうことに対して執着するのでしょうか? この道理です。人間は死ぬ前に、怖くてたまらず、「ああ、私はすぐ死ぬ、もうすぐ息を引き取るのだ」と思う人がいますが、それはどういう心境でしょうか? しかし死ぬ前に恐れることなく、まだ阿弥陀佛を唱えている人なら、極楽世界に行けないはずがないのではありませんか? 何でも放下し、彼にとって生死の概念は全くありません。人間の一念は長きにわたる修煉を基礎としているのです。常人の考えは極めて複雑で、如何なる心もあり、生死の間際に恐れないはずがないのではありませんか? 大道は極めて簡単で、極めて易しいことだと言われており、多くの事はとても簡単ですが、具体的に詳しく話せば、多くのことを言わなければなりません。ところが、もし直接あなたに教えても、あなたもそこまですることができず、人々もそこまで深く理解することもできません。みな字面や表面から理解しているので、皆さんに法を説く必要があります。