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ニューヨーク座談会での説法

李 洪 志

一九九七年三月二十二日



 明日の交流会の前に、今日皆さんは何か聞きたいことがあれば、どうぞ聞いてください。

弟子:夫のお金を使うのは徳を失うことになりますか?

師:夫婦には、このような問題はありません。なぜあなたがこの問題を聞いたのかと言いますと、現在このような人間の倫理が人為的に乱されたからです。一部の人は女性の解放を唱えていますが、これは非常に微妙な問題です。女性があまりにも苦しんでおり、女性が解放され、男女平等になり、女性が少し強くなるべきだと言う人がいます。なぜこうなったのでしょうか? 女性をひどくいじめる男性がいて、女性が苦しんでいるからです。皆さんに教えますが、社会に腐敗堕落が起きる時、人々は腐敗堕落の原因と腐敗の状態がどのように引き起こされたのか、なかなか見抜くことができません。皆さんはとかく物事の中で物事を議論しがちです。

 実は皆さんに教えますが、女性解放という宣伝も人類が堕落してから現れたのです。女性が男性にいじめられているということだけではなく、男性も男性をいじめ、女性も女性をいじめ、男性も女性をいじめています。ただ男性が女性をいじめていることはより顕著に現れているのです。実は権勢を得た女性は男性をいじめることもあります。これは社会全体の道徳がすべて堕落したため引き起こされた現象です。実は男性と女性の間は剛と柔の関係ですから、女性が男性にいじめられることは比較的顕著に現れるのです。しかし皆さんに教えますが、なぜ私はこの現象が誤っていると言うのでしょうか? なぜ女性の自立と出世を宣伝することは間違っていると言うのでしょうか? 今の人々はいつも現代人の堕落した観念で古代の人を量っており、女性が昔いじめられていたと思っていますが、実は全く現代人が思っているようなことではありません。中国古代には、全世界を含めて西洋社会もそうですが、男性は如何に自分の妻に接し、自分の妻を思いやって労わるかを知っていました。妻も夫を思いやっているので、陰陽はこのように共存していました。二つの陽がぶつかると喧嘩になりますが、二つの陰が一緒になってもいけません。陰陽はこのように相補い、相互依存しています。

 ところが、現在では、皆さん考えてみてください。女性解放を唱えると、女性たちは自分がいじめられていると感じ、立ち上がるべきだと思うようになりました。しかしこれに伴って出てきた問題は何でしょうか? 離婚、争い、子供が遺棄されるなどの社会問題が全て現れました。根本的な原因は、女性が解放されるかどうかの問題ではなく、人類社会の道徳が腐敗堕落したからです。この原因ではないでしょうか? これが根本的な原因です。問題を解決するのに、根本を解決せず、現象の中で現象を解決しようとすれば、古い問題を解決しても新しい問題がまたやってきて、社会がますますいびつに発展していきます。現在の社会では、多くの人がこの具体的な問題の中で問題を考え、闘争という方法で危機を解決しようとすれば、永遠に解決できません。人類は近代がなぜこうなったのか不可解に思っています。皆物事の中で物事を議論している時、各種の法律を作って制約を加えますが、人の心が良くなければ、また新たな変異、もっと良くない問題が現れ、そこでまた何かの法律を作り、人類はこのように自分を封じ込めており、最後に活路が全くなくなるまで自らを封じ込めるのです。しかもこのようなやり方に伴って、多くの社会問題が引き起こされています。

 陰陽の学説によれば、女性は柔であるべきで、剛になってはいけません。男性は陽に属し剛であり、女性は陰に属し柔であり、剛と柔を合わせると、間違いなく調和がとれるはずです。現在男性が女性をいじめたいのではなく、社会が腐敗堕落したからです。男性であろうと、女性であろうと、皆他人をいじめています。同時に、近代に陰陽反転が現れてきました。中国で最も目立っています。スポーツ選手ですが、受賞者は女性のほうが多く、男性はめったに賞を取りません。ただこの意味を言っているだけです。なぜこうなったのでしょうか? すべて陰盛陽衰になり、その原因は陰陽反転によってもたらされたことです。女性解放などを宣伝した副作用もあり、社会の道徳の腐敗堕落は世の中の人心の変化に拍車をかけました。実は女性は心から自分の夫が羊のように、女性のようになってほしいのではありません。そうではありませんか? 自分の夫が男らしくなく、強くないと悔やんでいますが、いざ彼が本当に強くなったら、女性はまた耐えられなくなります。こういうことではありませんか?

 人類は人類のあらゆる堕落現象、一切の一切に対しその根本的な原因を探そうとしません。具体的な問題の中で具体的な問題を解決しています。あるところに問題が起きると、法律を作ります。別のところに問題が起きると、また法律を作ります。最後にあなたを牢の中にいるように動けないほど閉じ込めるのです。法律も最後に行き詰まり、法律を作る人は皆他人を治めたいと思っていますが、結局自分も法律によって治められるとは思いもよりませんでした。人間が自分で自分に仕出かした全てが降りかかってきています。この道理ではありませんか? ですから、皆さんは社会観念が変異した流れに従い、それを助長してはいけません。常人がそのようにするからと言って、私たちもそれに従ってやってはいけません。なぜ私たちが常人と同じになってはいけないかというと、常人はこれらのことが分からないからです。

 人類の根本的な打開策は、何かの法律で誰かを管理することではなく、天下を徳で治めることです。人間の道徳が皆向上したら、人をいじめることはなくなり、お互いに敬いあい、そうなれば、まだ悪人がそんなに多くいるのでしょうか? 警察も要らなくなります。警察に管理されるよりもよくできているので、まだ警察は必要なのでしょうか? 如何なる人も徳を重んじるなら、法律はなくてもいいのではありませんか? 皆さんがご存知のように、古代の中国に、世界の他の地域も同じですが、人々の道徳水準がとても高かった時、法律はなく、法律の必要もありませんでした。とても簡単な王の法しかなかったのです。人々は良し悪しを量るのに、全て道徳の基準を用いたのです。やったことが良いか悪いかは、その人の道徳観念がどうであるかをみるだけでした。この人には徳がない、この一言だけで彼を量ったのです。判決を下す時もこのようにするのです。不徳者なら、板でたたきます。更に良くなければ殺してしまいます。この人はもう人間ではない、殺してしまえ、人間の倫理を破壊するものはもう要らない、という具合でした。人間はこの世に生きている以上、人間としての道徳規範、行動の規準があります。これらのものを失ったら、動物と同じようになり、それではこのような人を残しても意味がないので、淘汰してしまいます。現在の人類の考えを改めるのはなかなか難しいことです。皆さんは今日現れてきた女性の現象に気付きましたが、他の面でも同じではありませんか? 人類の社会問題があまりにも多いので、唯一の打開策は人心を正すしかありません。

弟子:若者が結婚したいと思うのは執着心ですか?

師:私がもし出家して、寺でこの法を伝えるとすれば、白人、他の民族の人はともかく、中国大陸にはお寺に行く人はあまりいませんので、もっと多くの人々、真に法を得るべき人に法を得させることができないのです。私は社会で法を伝え、このような形を採って皆さんに法を得させている以上、この社会のやり方、普通の人々の生活様式に符合すると同時に、人に修煉させることができるようにしなければなりません。ですから、このような法を伝える形式と、いろいろ細かいところまで、全て念入りに按排したのです。

 私がもしお寺に入っていたら、結婚しなくてもいいのです。私も将来この法を学ぶ人が非常に多くなると知っていますが、将来の人間なら誰でもこの法を知っており、白人であれ、黄色人種であれ、どの人種の人であっても、皆知っているはずです。そこで、一つとても重大な問題が現れてきます。つまり、人々が皆結婚しなければどうなるのでしょうか? 皆私のまねをするのです。私は法を説いている時も、自分の行ないで皆さんに教えているからです。私のちょっとした行ないや、ひいては私の身なりでさえも、一部の人は真似をしたいので、私は非常にこれらの細かい事を重く見ています。正法を伝えるだけでなく、私の行ないも正しくなければなりません。皆さんが見た袈裟を着ている写真がありますが、それは将来、専修弟子のために残したのです。私のように背広を着て常人社会で佛法を伝えることは、天地開闢以来はじめてのことで、従来はなかったのです。法がこのように伝えられている以上、私たちの修煉は社会の形式に符合しなければなりません。

 もし私のやった事に間違いがあれば、将来の人類はとても大きく変わってしまうのです。皆さんご存知のように、佛は肉を食べないのです。修煉の法門はとても多いのですが、皆佛教のように肉食のことを絶対的に言っていませんが、修煉は皆肉に執着しないのです。私は常人の中でこの法を伝え、修煉する人に常人の中で修煉させ、また学ぶ人はこれほど多いため、もし私が肉を食べないなら、将来の人は食べなくなり、人類の生活習慣、食べ物に変化が起こってしまうのです。ところが、肉食は確かに身体を丈夫にする作用があると神は皆知っており、これは菜食ではできないことです。これは確かにそうです。もちろん、私たち修煉者は違います。修煉者は肉を食べなくても身体はかえってとてもいいのです。それは修煉しているからです。もし一人の常人であれば、修煉もせず、肉も食べなければ、きっと栄養不足になるに違いありません。これも確かです。

 結婚しないということについてですが、人間には後継ぎがいなければならないのではありませんか? 私たちは全て考えたのです。佛家の専業修煉者は、結婚してはならないという決まりがありますが、しかし、異なる修煉方法では絶対的ではありません。昔異なる歴史時期、人類の異なる歴史時期、異なる文明時期において、修煉の人に対する要求も違っていました。

 結婚しないのは、人の欲と色、この二つのものを取り除くためです。しかし、常人の中で修煉するのであれば、はじめからこのように要求してはいけません。人類はやはり代々存続していかなければなりません。常人社会で大法を修煉する人も多いので、常人社会で修煉させながら、修煉者に常人社会の生活から離脱するように要求してしまえば、人類社会はなくなってしまうのです。それは絶対にいけません! 人類社会は良くなくても、それは私たちの宇宙の上から下まで貫かれている一部分であり、法の最も低い次元での現れの一部分でもあります。人類がなくなってはいけません。しかし個人として、結婚したくなくても構いません。それはあなた個人の問題で、間違いでもありません。しかし、一つ注意点があり、つまり彼が結婚しないのは、執着によるのであればいけません。皆さんは、出家しなければ圓満成就できないという、もう一種の障碍の中に誤って入ってはいけません。

 例えば、何千年来残された修煉法は、佛家、道家、初期のカトリック教、キリスト教、山の中で修煉するにしても、皆結婚しないのです。修煉するなら結婚してはならないという観念を人々にもたらし、今日私たちの大法が世間で伝わっていくことに大きな障碍をもたらしました。この障碍のために、常人社会で修煉する弟子は結婚しなくなるということにならないよう、くれぐれも気をつけてください。今日の私たちの修煉形式は、最も複雑な人の群れの中で自分を高めることであり、副元神を高め、或いは他の何かを修めるだけではありません。それならば、皆さんは最も複雑な常人の中で自分の心を練磨しなければならず、在家で修煉する弟子は常人の社会状態に符合しなければなりません。これがこの法に厳しく要求されている部分です。私が言った意味が分かったでしょうか? しかし、欲と色は必ず捨てなければならない執着です。昔の古い修煉方法或いは古い宗教の修煉方法によって一種の錯覚を持ち、修煉しようとすれば、私たちもこのようにしなければならないと思わないでください。そうではありません。私たちの今日の修煉形式は私が皆さんに残す修煉方法であり、今日この法を社会で伝えることに対する各種の要求と方式も含めて、全て後の人のために残すものです。

 私たちが明確に定めたことは皆さんも知っていますが、例えば、政治に参与しない、有形の組織という管理方法を採らない、階級分けもしない、金銭に触れてはならない、またこの法は人に役職を与えてはならないなどがあります。社会の中でどんなことをしてもどんな高官になっても問題はなく、あなたの修煉に影響もしません。それは常人社会のことです。修煉は修煉で、常人の中での事と修煉を分けるべきであり、それは別々の事です。例えば、あなたは常人の仕事をして常人社会に対し、人類に対して有益であっても、それは徳を積むことであり、修煉ではなく、別のことです。くれぐれも一緒にしないでください。私の仕事は、徳を積み善を施すことで、将来圓満成就できると言う人がいますが、人間は確実に修煉しなければ、宗教組織の管長や指導者になって、お寺や佛像を造っても圓満成就できるはずはありません。それは自分の言う事をうまくこじつけているだけです。仕事は仕事で、永遠に修煉に代わることはできません。修煉は修煉で、常人の中のことは常人の中のことです。宗教のために何かをすることも、常人のためにすることなのです。出家した人は佛ではありません。佛は人心を認めますが、宗教を認めません。これは別のことで、一緒に混ぜてはいけません。

弟子:先生、私は深圳と広州の学習者を代表して先生にご挨拶を申し上げます。私が出発する前にぜひ伝えてくださいと言われました。

師:先生はいつも全ての弟子のことを気にかけていると彼らに伝えてください。

弟子:高校生ですが、大学受験を前にして、勉強がとてもきついので、煉功は少なくなりましたが、どうしたらいいでしょうか。

師:それは問題ありません。私たちが修煉する動作は、圓満成就になるための補助的な手段であり、とても大事ですが、もっと大事なのは人の心を修めることです。心の中でずっと自分を修煉者と見做していれば、暫くの間、或いはかなり長い間、大変忙しくてどうしても煉功できなくても、ずっと心の中で自分を修煉者として要求していれば、功も伸びるのです。ただし、気をつけてほしいのは、先生がこうおっしゃったからといって、煉功をやめようと思ってしまえば、それではいけません。これはもう一つの極端に走ってしまうことになります。特別な事情があれば、特別に配慮します。佛法には果てがないからです。佛法には果てがないというのはどういう意味でしょうか? 方法がいくらでもあり、個々の事情を配慮しながら人を済度することができるということです。

弟子:先生、明日は録画してもよろしいでしょうか?

師:皆さんは既に聞いたかもしれませんが、中国大陸では私たちが伝えたこの法を学ぶ人がとても多いのですが、私は今講習会を全く開いていません。大陸で学習者と会うこともしません。実は私は三年も中国大陸の学習者と会っていません。しかし学ぶ人はますます多くなり、社会から重視されるようになりました。それほど多くの人々が学んでいるのを見て、しかも人々は学んだら皆良いと言っています。皆さんの言葉を借りて言えば、皆さんは学んでから、非常に固い決意を持って修煉しています。人数が多くなると、中国という社会で一部の人々は何かを考え始めるかもしれません。多くの人は常人の考えを持って、私と法を量り、人のために良い事をするのもとても難しいことですが、それは人の心が歪んでしまったからです。これらの余計な厄介な事を避けるため、私はこのところ、外国で学習者と会うときに録音も録画もしないように言いました。どういう意味でしょうか? これらのものが国内に伝わらないようにしたいからです。私たちは政治に関与しないから、もちろん政治的な問題もありませんが、悪人が私の話の一部から意味を取って破壊活動をし、天下が乱れることを望んでいます。面倒を引き起こさず、この法を正確に、正しく如何なるずれもなく人類と未来に残したいからです。もし私たちが何か不必要な損失を受けたら、将来とても残念なことになるので、私たちは一時的なことだけを考えてはいけません。

 録音テープであれ、録画テープであれ、将来は決して残らないのです。これは間違いのないことです。ご存知のように、一部のものは現在既に消され始めました。つまり以前の録画テープは既に画像がなくなり、録音テープも音声がなくなり、徐々に消されています。一部のものはこのように残されてはいけません。私が皆さんの情況に対して言ったことを他の人が聞いたらまた違う状態が現れ、それに対する理解も違います。『轉法輪』は皆さんが読むのにふさわしいものです。こういう情況です。皆さんは自分で判断してください。このことについて私は絶対だとは言っていません。
 
弟子:師父、私は上海から来たのです。上海の弟子は本当に非常に先生に会いたいのです。前回の国際交流会から帰って、先生に会ったと言ったら皆涙を流しました。彼らは先生によろしくお伝えくださいと言っていました。

師:彼らに伝えてください。私はとても残念に思っています。当初功を伝えた時、上海に行くことができなかったのです。私は当時この法に正しい道を残すため、他の気功師のように、露店を出して大道のたたき売りや、行商人のようにしなかったのです。皆現地の気功団体、気功科学研究会、或いは政府部門からの要請を得てから、はじめて行くのです。上海がずっと要請しなかったので、このことは後回しにされました。後に要請があった時には、功を伝えることは既にやめていました。しかし、中国のこの大都市へ法を伝えに行くことができなかったのは残念に思っています。中国で北京に次ぐ一番大きな都市は上海です。もちろん、今上海で法を学ぶ人がとても多くいるのを知っています。とても嬉しいことに、私は行きませんでしたが、上海での大法の広がりと発展の過程はやはり非常に健全で、皆さんも着実に学んでおり、これはすばらしいことです。

弟子:李先生、私は北京からの弟子です。北京の全ての弟子は先生にご挨拶申し上げます。

師:北京、実は北京だけでなく、多くのところの学習者も同じですが、私も皆さんに会いたいのですが、皆さんに会いに行けないのです。一旦皆さんに会ったら、一人が私に会うと、数時間のうちにすぐ数十人が来て、一日に数千人が来て、翌日一万人以上になるかもしれません。地方の人も来ます。今日のように多くの人が地方から来れば、社会から苦情が出るかもしれません。ですから皆さんに会うことができません。しかし私も考えていますが、厳しい社会制度の下で社会にこの法を何のずれもなく伝えていくことができれば、歴史上とても厳しい時期の試練を通過したということです。ですから、将来如何なる歴史時期にも、私たちは破壊されない地に立つことができます。そうではないでしょうか?

弟子:香港と中国から『轉法輪』を持ってきた学習者がいますが、会場で販売してもよろしいですか?

師:もし『轉法輪』を持っており、会場で皆さんのために良い事をし、本を持っていない学習者に便宜を図りたいのなら、間違ってはいません。しても良いと思います。皆さんも名や利を求めているわけではないので、問題はありません。ところが私たちはこれらのことをする前に、他の厄介なことを起こさないように、アメリカの責任者に声をかければ、問題ないと思います。

 在席の皆さんは前回私に会ってから、既に暫く修煉して、法に対してある程度の理解があるので、みだりに行動することはないと思います。私はなぜこんなに安心していられるのでしょうか? 皆さんは私が何を伝えたかを知っているからです。私たちは何も求めませんが、ただ人の心だけを求めています。もし人の心も変えられないなら、この法は何の役割もありません。如何なる厳しい形式も人の心を変えることができません。ですから、私たちはあれこれの規定で如何に行動すべきかを要求していないのです。このようにしてはいません。この法が健全に発展することができ、学ぶ人がますます多くなり、社会でこれほど良い役割を果たすことができたのは、皆さんの心の中に既に法があって、どのようにするか分かっており、誰かから教えてもらう必要もなく、私もどのようにするかを皆さんに教える必要がないからです。私も割合安心しています。もしここにいる誰かが良くないことをしたら、他の人はすぐ気付くのです。法があるから、法によって量られ、きっとそうなるのです。

弟子:先生は法を私たち中国人に伝える他に、他の人種にも伝えるとおっしゃいましたが、どのようにこの法を広く伝えるかについてご指導をお願いしたいのです。

師:これについて私たちも特別な規定はありません。法が伝えだされたからには、それは人に与えるものです。現在、既にドイツ語、日本語、韓国語、フランス語、英語、それにロシア語などに翻訳されています。かなり多いのです。またイタリア語にも訳されているようです。他の翻訳も頑張ってやっているところです。

 このような仕事は翻訳班がしました。資料があれば、人は読むことができます。どのように伝えるかについて、私たちはそのやり方に関して何の規定もありません。この法を伝えた時この法は良いと思い、皆さんははじめて大切にしています。良いからこそ法を他の人に教えたいのです。ですから、この法の伝播は皆心から心へ、人から人へと伝わっています。大体このようなやり方で伝えています。中国で着実に修煉している人は既に二千万余もいますが、一応修煉していますが、それほどしっかりやっていない人も含めれば、現在一億人もいます。しかし、社会においては表面的に静かで、知っている人はいないようですが、皆口コミで心から心へと伝えています。既に相当大きな勢いが形成されました。何か特別な規定もなく、皆自ら伝えています。私が言ったこのことの意味は分かりましたか? 私たちには如何なる形式上の規定もありません。佛家は衆生を普く済度することを重んじているからです。人を済度するということは、あなたが人を済度するということではなく、あなたはまだ修煉しているので、絶対に人を済度することはできませんが、あなたが法を他の人に紹介することは、他の人が法を得ることへの最も良い助けとなります。将来の人はどれほど貴重かが分かりますが、人にいくらお金をあげても、いくら良いものをあげても、法を紹介することには及びません。法はある地域、民族、国ひいては人類の道徳を回復させ、幸せにすることができます。これらがあって、はじめて人類は健全に発展することができます。

弟子:私は法輪佛法を学んでから、まず真面目に働いて、仕事をきちんとして、どうしても暇でやることがない時、本を読もうと思います。

師:それは最も良い事ではありませんか。あなたが日常生活でぶつかったこと、職場或いは社会でぶつかった何らかのことは、あなたの心を向上させることができるかもしれません。ぶつかったそのことは、あなたの執着心を取り除くためであるかもしれず、或いはあなたの何かを助けるためであるかもしれません。人間は一旦修煉の道を歩み出せば、その後の一生に偶然な事は存在しなくなります。修煉は順序良く按排されたので、それほど時間的な余裕があるわけではなく、偶然なことはあり得ません。全て無駄なく按排されています。皆さんが普段ぶつかった偶然に出現したような些細なことを、偶然なことと考えてはいけません。なぜならば、多くの不思議な事が起こったりして、或いは他の空間に行って修煉する事はあり得ないからです。それなら、あなたの心を高めることができません。やはりこのような日常の状態で、常人の中のトラブルで、常人の生活方式でぶつかったことは、以前とさほどの違いはありません。しかし、よく考えてみてください。やはり違います。全てはあなたが修煉して向上するために現れたのです。

弟子:先生は真・善・忍を説いていらっしゃいますが、以前他人を裏切ったり、他人と約束があった場合、私たちはその人を助けて、その人をいじめる悪人を懲らしめてもいいでしょうか。

師:私たちはこのように考えています。本にも全て書いてあります。つまり日常の事、腹が立って仕方のない事にぶつかって、それに構ってはいけないと言っているのではありません。このようなことに出くわしたら少し助言してもいいのですが、何の効果もないかもしれません。あなたの言ったことは的が外れているかもしれません。なぜなら、そのトラブルの背後に何があるか、つまりどういう因縁関係なのか、あなたには分からないからです。例えば、ある人が別の人を殴ったとします。常人の立場からみれば、人を殴った人は正しくないと思われます。なぜ人を殴るのですか? しかし時間を遡れば、殴られた人の前半生或いは前世に、彼がかつて相手を一発殴った事があることが分かります。私たち修煉者は人をみるとき、その人の一生だけをみてはならず、その生命の全過程をみなければなりません。つまり、彼は相手に借りがあったのです

 これらの事を警察が扱うのは合理的です。常人が常人を管理するのは世間の理に適っています。これは何も批判されることはありません。しかし一人の修煉者として、このような事に遭ったらあまり構わず、できるだけ構わないほうがいいと思います。なぜでしょうか? 構うと間違って構ってしまう恐れがあります。思っているような事ではないからです。あなたは修煉者で、どうしてもそうしてしまえば、業を造ることになるかもしれません。このことに支障を来たし、邪魔をしてしまいました。本来その神は彼が今生に業を返すと按排しましたが、返す事ができなかったので、いつか二人はまた殴りあうような事をしなければなりません。私が言った話はこの意味です。しかし、もし本当に殺人や放火などに遭って何も助けなかったら、それは心性の問題です。修煉者、一人の神としても助けてあげるべきです。そうではないでしょうか? しかし、このようなことには普通なかなか遭遇せず、ひいては全く遭遇しないのです。つまり、あなたの生活にこのような事を按排しません。皆さんの心性の向上に役立たなければいけません。何の役にも立たなければ意味がありません。そのような出来事は、往々にして私たち学習者はめったに遭遇せず、ほとんどありません。

 誰かを裏切ったとか、常人に何かを約束したとかについて、それは全て常人の事です。修煉した以上法で量り、修煉者の基準で自分に要求しなければなりません。裏切りだとか、常人に対する約束だとか、何に対しても常人の基準で量るようでは、常人ではありませんか?

弟子:アメリカにいる留学生は、皆一種の執着心を抱いて無味乾燥な自然科学を勉強しています。

師:私は明日この問題について触れるかもしれません。私はこのような道理を言っていますが、人類の歴史と人類の科学は実は一つの間違いです。その発展の基点、人類、大自然、物質に対する認識の基点は間違っているので、今日人類社会の道徳の腐敗堕落をもたらしたのです。これはとても深刻な問題なので、明日これについて話します。ただ、もし人類が知識を持っていなければ、今日『轉法輪』を読むことができず、少なくとも中にあるもっと奥深い内涵を読み取ることができません。ですから皆さんが習った知識も偶然なことではないかもしれず、未来の人類は新しい科学の基点から発展することになりますが、やはり知識が必要です。

 一人の大法弟子として、そのときどうするかは自ずと分かってくると思います。全てが偶然なことではないかもしれませんので、今は学ぶべきものを学び、それを執着と思わないでください。聞くところによると、ある学習者は当初アメリカに来た時、間違ったことをしたため、自ら退学したそうです。私に言わせれば、はじめは間違ったかもしれませんが、今は誤りに誤りを重ねたのです。こうなった以上、自分の今後の生活に人為的に困難をもたらさないでください。間違って行なったことに対して全て同じやり方で改める事はできないので、心の中でもう二度とこのような間違いはしないと認識し、今後、更に良く行ない、成績で補えばよいのです。こうであれば問題ないと思います。間違ったからといって、どうしてもあなたにこのことを引き受けて償わせるはずはありません。このように過失に対処しません。つまり修煉と生活に困難をもたらさないでください。学生として、今しっかり勉強しなさいと教えることしかできません。学生だからしっかり勉強すべきです。

 たとえ、あなたが他の何かの仕事をしても、それは常人社会の仕事なので、常人社会の理からみれば、この空間の人類社会に奉仕しているので、それをしっかりやるべきです。人類も宇宙大法の最低の次元における生命の現れです。

弟子:私はドイツの弟子を代表して先生にご挨拶申し上げます。

師:ドイツからの招聘状を私は既に見ました。去年の11月、寒かったときロシアからも招聘状がありました。暖かくなったら時期をみて行きます。

弟子:先生、私は元々日本に移住した者ですが、もし将来機会があれば、先生に日本にいらしていただきたいと思っております。

師:私が広州で講習会を開いた時、日本からある人が受講に来ました。その後、彼は日本に帰って年配の日本人を何人か集めて学んでいたようです。しかし暫く学んでも、彼はやはりもとの気功を捨てることができなかったので、私たちはずっと彼と連絡をしていません。彼が教えたそれらの人も純粋なものではないので、ずっと彼と連絡をとらなかったのです。

弟子:夫は日本人ですが、彼は大法がとても好きで、非常に良いと思っています。

師:文化の違いではないかと思います。しかし日本人は本当に学べば、白人より学びやすいと思います。東方の人は皆考え方が同じだからです。西洋の人は考え方が違います。西洋の人が学んでも、効果は良かったのです。日本に私は一回行ったことがあります。ただ日本人がどうなったかをみただけです。

弟子:もし、この大法が将来人々の心の法となったら、社会科学の領域ではつまり哲学や文学はどうなっていくのでしょうか。

師:全て変化が生じます。しかも斬新なものになります。人間のこの社会、人類、全てに対する認識は全て正されるのです。現在北京の多くの学習者は自分が他の人と違うと知っているので、私たちが新人類だという言い方を広げています。もちろん、私はこの言い方を認めているというわけではありませんが、ただこの意味を言っているだけです。将来は間違いなく現在の人の考え方、物事に対する認識の仕方とは全く違います。必ずそうなるのです。絶えずこの法を深く勉強していくにつれて、あらゆることに対しても新たに認識することになるはずです。在席の皆さんの多くは学歴が高く、多くの人が留学生ですが、よく考えてみれば、人類の全てのことに対するあなたの認識は皆、変化していることに気付くはずです。先ほど話しましたが、人類の発展、人類が人類の起源に対する認識、進化論などは全て存在しないものです。物質、宇宙、生命及びこの現実世界、この宇宙空間に対する認識は全て誤った基点に立って発展してきたのです。

弟子:主元神は何時入るのですか・・・。

師:主元神は普通生まれる直前に入るのです。具体的な時間は決まっていません。生まれる直前、或いは生まれる随分前、生まれる半月前、一カ月前、または更に前の時もあり得ます。

弟子:先生は人類がクローン人間を作ることに対してどう思っていらっしゃいますか?

師:人類は道徳規範がなくなったら、何でもやってしまいます。このような人が生まれたら父母という観念がなく、倫理道徳の観念もなく、非常に恐ろしいのです。ひいてはある人の替わりとして人を複製し、その人を殺すまでやりかねません。人類の道徳が腐敗堕落したので、このようなことが現れたのです。しかし皆さんのクローン人間は現れてこないと思います。なぜなら、神はそれを許さないからです。本当に複製できても、その人ではなく、魔だけが憑くことができます。神はその人に元神を与えるはずがありません。

弟子:混血の人が修煉すれば、どの世界に入るのでしょうか?

師:混血の人は一人の人間として言えば、既に天上にそれに対応する人種がなくなりました。一人の修煉者として言えば、その表面的なものを重視せず、彼の元神をみるのです。彼の元神が白人であれば、白人、黄色人種であれば、黄色人種、黒人であれば、黒人になるのです。修煉すれば話は別です。

弟子:混血の人は圓満成就することができるのでしょうか?

師:修めることができるか否か、圓満成就できるか否かは、何れもその人自身にかかっています。混血の人が最後まで修煉すれば同様に圓満成就できます。圓満成就できれば、その元神がその由来するところに帰ります。

弟子:先生は前回に混血の人は既に何を失ったとおっしゃいましたか?

師:混血の人は上から貫いてきた身体を失いました。こういうふうに説明しましょう。黄色人種は天上に黄色人種がいます。白人は天上に白人がいます。彼はつながりの糸を失いました。

弟子:先生は赤ちゃんが生まれてからはじめて元神があるとおっしゃいましたが、それでは妊娠の時に生命がないのでしょうか。ご説明をお願いします。

師:違います。如何なる物体、私はこの話をしたことがあります・・・。如何なる物体でも生じたときに既に一つの生命が注ぎ込まれているのです。工場で造られた製品、如何なる物も、見かけはそうですが、皆生命があるのです。胎児が母体の中でまだ小さい時、少しばかりの芽生えができたら、既に命があるのです。しかしまだ元神がないのですが、どのように生きていくのでしょうか? 元神がなくても、それ自身も生命力があります。その人は自分の他に、昔の修煉で言う三魂七魄があるのではありませんか? もちろん、それほど具体的ではありませんが、ただこの意味を言っているのです。つまり主元神以外に、あなたの体の中に人の生命を構成する他の要素があります。肉体自身にはまた親の形象を持つ生命があります。父親、母親の形象も生き物です。人体は元々非常に複雑なのです。

弟子:それなら中絶も殺生になるのでしょうか?

師:それはそうです。妊娠して中絶すれば殺生になります。人類の道徳はどうなったのか、人類や法律が承認するかどうかに関わらず、法律は神を代表できないので、中絶をしたらそれは間違いなく殺生になります。法律で量れば殺生ではないと言っても、それは人間が言ったことです。私たちが見るところでは、産婦人科病院の周りの空間に多くの赤ちゃんがいて、その多くは手足がそろっておらず、或いは手足がそろっていても、行く処のない幼い子供がいます。本来この生命は転生したら、その将来があり、幾年か生きてからまた輪廻に入るかもしれません。しかし、まだ生まれていないのに、彼を殺してしまったのです。そこで彼はこの長い歳月苦しんでもがいています。そんな幼い生命が一人ぼっちになって、なんとかわいそうでしょう! 彼は定められたこの世に生きる年月が全て過ぎてから、はじめて次の輪廻に入ることができます。ですから急にそれほど苦しい境地まで追い込んでしまったら、それは殺生ではないでしょうか? しかも業力はとても大きいのです。
 
弟子:これほどの業力をもっていて、まだ修煉することができるのでしょうか?

師:できます。もちろんできます。しかし私は話したことがありますが、宇宙大法が圓容なので、ある固定した次元からみれば、法は絶対的なものになります。異なる次元に異なる法があり、次元が高ければ高いほど、理に対する認識もより明白になります。本当に圓満成就できれば、彼らはきっとあなたの宇宙の衆生になります。それなら、これから殺生しても大丈夫だと思う人が出てくるかもしれません。このように考える人は決して圓満成就できません。もし圓満成就できなければ、あなたが殺したそれらの生命に対し、いくら償っても償い切れません。私が話したこの意味は分かったでしょうか? 修煉はこれらのことを補うことができますが、真に修煉しなければなりません。圓満成就してから因果関係をみるのです。

弟子:例えば二十年前に中絶したとしますが、そのときまだ分かっておらず、中絶は許される事でした。もし今から修煉すれば、業力はこんなにも大きいのですが、どうしたらいいのでしょうか?

師:ただひたすらに修煉してください。実は私たちの多くの人は生々世々にどの世で何をしたかも分かりませんし、何時か大きな業力を積んだかもしれません。今日の人は皆業に業を重ねて来たので、業力がない人はもういません。生命を殺害したことがない人もいないのです。殺生は必ずしも人間の生命を殺すとは限りません。あなたを済度することができ、あなたが修煉することができ、法を得た以上、これらの問題をもう考えないでください。ただ修煉に専念してください。私は全てのことに対して按排し、あなたが圓満成就できたら、私はうまくこれらのことをやってあげます。

弟子:ドイツに猟師をしている法輪大法の学習者がいます。彼らは狐が人に憑くから良くないと言っていますが、私はまだその言い方を受け入れることができません。

師:狐そのものについて私たちは触れませんが、将来存在しないかもしれません。しかし、修煉者としてできるだけ殺生をしないほうがいいのです。慈悲を持たなければいけないからです。狐が人に憑くことですが、一部の狐は霊気を得たからできますが、霊気を得ていなければ、人に憑くことができません。

弟子:将来の人類はまた上へ修煉するのでしょうか?

師:将来の人類がそのときになったら、皆さんの修煉がほとんど終わっているでしょう。しかし、それももうすぐです。将来録音テープ、録画テープは未来の人に残されず、未来の人は私の形象を知りません。私が多くの天機を漏らしたと言う人がいますが、実は未来の人は私の説法を聞くことはありません。今街にいる人は何も知らず、法を聞いたこともありません。もちろん皆さんはもし本当に圓満成就できたら、皆ここから離れてしまうので、私は神に法を説いています。ですから天機はまだ人間に漏らしていません。未来の人は非常に素晴らしい時期に入り、未来の人は皆とても福のある人です。相対的に言えば、修煉は少し難しくなります。なぜなら、環境が良くなり、それほど多くの苦がないので、修煉も難しくなります。しかし、逆から言えば、それはまた正常なことであり、この世もそれほど苦しくなくなり、悪くなくなり、正常な修煉時期に入るのです。

 修煉はとても苦しいのです。あなたが嘗めた苦だけではなく、私は昔「高き処、寂しさに耐えがたし」と言ったことがあります。私が言ったこの話の意味は常人の言っているのとは違います。つまり、あなたの境地が向上し、功が伸びたら、あなたの全ても従って向上し、あなたの考え方も変わったから、あなたと理解し合える人はとても少なくなるのです。このことに関してあなたはとても寂しく感じ、心に苦しみを感じます。これに伴ってある状態が現れます。常人との話や接触が少なくなり、家族までもそうなります。きっとそうなるのです。しかし、これは皆正常なことです。できるだけこの関係をうまく扱えばいいのです。皆さんが確かに一人の常人だとは言えないからです。神である以上、常人ではなくなり、昔修煉の和尚は出家すると半分は神になったのです。現在の和尚はもちろんそうではなく、彼らはその素質も備えていません。出家すると半分は神になったと言ったのはなぜでしょうか? 昔の修煉は出家すると世間との縁を切るのです。彼はこれでまだ常人なのでしょうか? もちろん常人と同じではないのです。常人は常人の情から離れることができません。皆さんが修煉を通じて本当に向上してきたら、常人の執着するものに執着せず、常人が興味津々に話している事は無味乾燥だと感じるのです。

 皆さんは必然的に常人と差があり、この溝がますます深くなります。しかし、これらのことをあまり考えすぎないようにしてください。一旦この状態に入ったら、次第に接触すべきものに接触し、徐々に功が開き、悟りが開くようになります。皆さんには皆さんの楽しみがあり、常人には常人の楽しみがあり、もちろん神には神の楽しみがあります。

弟子:アメリカで育てられた子供は中国語があまり上手ではないので、将来は中国に帰国させる必要があるのでしょうか?

師:皆さんに教えますが、私は海外で多くの国を回りましたが、どこでもこの問題に気付いたので、私は弟子に会ったら、子供に中国語を習わせ、黄色人種としての特徴を失ってはいけないとよく言いました。白人世界の中にはあなたがなく、最後にはやはり黄色人種の世界に帰らなければならないからです。もし法を勉強するとき、法の本当の意味を理解できなければ、それこそ深刻な事です。今日翻訳された本も過度期に人に法を認識させる過程のものであり、私たちの『法輪功』のように、ただ認識過程中のものに過ぎず、本当の修煉は『轉法輪』を読まなければなりません。外国語で翻訳した本もただ認識過程のもので、本当に修煉しようとすれば、原文を読まなければなりません。原文の中から、はじめて本当の意味が分かるようになるのです。いくら上手に翻訳できたとしても、とても浅く内涵がありません。ですから多くの人は本を読むたびに違うと感じます。同じ言葉でも異なる境地からみれば全く違っています。

弟子:一部の古い学習者は新しい学習者と一緒に交流したくないのですが、この現象は正しいのでしょうか?

師:私たちは皆必ず煉功点に来て煉功しなければならないと規定していません。ただ煉功点で集団煉功し、切磋琢磨すれば向上が速く、学習者の向上に役に立つと言っているだけです。家で煉功したいなら、家で煉功すればいいのです。これは構いません。一部の人は修煉が良くできていますが、確かに家で修煉する人にこのような人が少なくないのです。しかし精進ができず、家から出て来ない人も少なくありません。ですから一概に論じてはいけませんし、無理に要求してもいけません。修煉は人の心にかかることであり、本人が修めたくなければ、無理に修煉させても何の意味もありません。そうではないでしょうか? 本人が佛になりたくなければ、佛も為す術がありません。自分がほしい、自分がやりたいと思ってから、はじめてできるのです。しかし外に出れば、法を広めることに役立つので、とてもいいと思って、皆に手伝ってもらうように、あなたが彼に勧めたいかもしれませんが、必ずしもそうではないかもしれません。家で修煉しても外で修煉しても皆同じです。

 更に、私はもう一つの問題に気付きました。もちろんこの質問者が言った問題ではありません。中国大陸で初期の古い学習者の多くは外に出て来なくなりました。今外で煉功しているのはほとんど私の説法を聞いたことのない人で、このような人は非常に多いのです。これはこの大法が伝わっていく形式なので、皆さんに残しました。後の人もこのようにします。非常にいいのです。それらの家に戻った人がだめになったと言っているのではなく、多くの人は既に修煉がかなり良くできています。彼らは入門してまだ間もなく、法に対する認識が深くない学習者と共通の言葉がないため、このような問題があります。学習者たちが興味津々に口にすることが執着だと彼は思って、とてもつらいのです。これは彼が来ない理由かもしれません。このような場合もあります。常人は何かをするとき、往々にしてある心、ある目的を持っています。もしその人の修煉が非常に良くできて、如何なる常人の執着心もないとき、人と一緒にいられなくなります。人間の全ての話に耐えられないのです。常人の全ての話、全ての念、思想の中にある全ての念に全て目的があります。人の心が非常に清浄で、何も考えないとき、他人が何を考えているのかを全て知ることができます。そのため他人の一念、一挙一動、一言にも耐えがたく、非常に辛く感じます。また相手にその訳をはっきりと説明できないので、出て来なくなりました。こういう人もいますが、全てこのような状況ではありません。ところが、新しい学習者は出て来て煉功したほうが良いと思います。なぜでしょうか? 確かに皆さんの向上に良いからです。もし出て来ないで、家で煉功し、自分で悟れば、もちろん悟ることはできますが、非常に遅いのです。みんな精進したいのではないでしょうか? 速く向上したいのではないでしょうか?

弟子:私たちは何かをするとき、それをやるべきかどうか判断できないときがあります。どのように真・善・忍を私たちの行動の指標にするのでしょうか?

師:実はそれは、やるべきかどうかの問題ではありません。人は往々にして、具体的な物事の中に陷って良し悪しを判断しているので、それでは判断することができないのです。私はなぜ人類の今日の発展の全てが分かるのでしょうか? どんな事であっても私ははっきり説明できます。私はその中にいないからです。皆さんが物事をみる時、今までのようにその中に入り込んで判断し、その具体的な物事の中でそれを論じるようなことをしてはならず、そこから抜け出して観察し、それが真・善・忍に符合しているかどうかを判断すべきです。もし修煉の良くできた人、或いは神や菩薩なら、この事をどう扱うのでしょうか? このように考えると、正念が出てすぐ分かるはずです。

弟子:複雑な環境では、高い次元の人が現れてくると言われていますが、大陸の環境はアメリカよりずっと複雑なので、大陸で修煉する人は向上が少し速いのでしょうか?

師:どこも複雑ですが、ただ複雑さの現れ方は違います。大陸の人はお互いの心の摩擦がとても激しいのです。互いに腹を探り合って暗闘することが激しいのです。しかしアメリカの表面的な文化はひどく破壊され、魔性がとても強いので、どこでも修煉できます。

弟子:空気がひどく汚染されていますが、修煉に悪影響があるのでしょうか?

師:ありません。私たち修煉者にとって問題はありません。皆さんの身体は次第に高エネルギー物質に取って代わられているので、これらのものは皆さんを汚染できません。 

弟子:修煉は、自然環境、社会環境などを含む外的環境、或いは修煉者本人の人間関係と生活環境を良い方向、真・善・忍のほうへ発展させることができますか?

師:このような働きがありますが、ただ非常に微妙で、観察しにくいのです。あなたと関係ある全ても微妙に変化しています。二つの方面の変化です。一つはあなたからますます離れてしまいます。もう一つはあなたにますます近づいてきます。つまり、ますます良くなります。あなたから完全に背離するものもあります。だめなものはあなたから背離してしまいます。こうなるはずです。変化はとても微妙なのです。

弟子:先生、煉功する時の半跏趺坐と結跏趺坐にはどんな影響があるのでしょうか?

師:これは修煉に関する一つの基礎的な要因、一つの機制に関わっています。私たちの功法の結跏趺坐という機制は一台の機械のようで、機械の歯車はこのように組み立てられていますが、どうしても別の形で組み立てようとすれば、物を作る事ができなくなります。しかし、それはそれほど絶対的なことではなく、一部の人は徐々に向上するという過程があるからです。組めなければ徐々に組めるようにすればいいのです。私たちには対応する方法があります。あなたはできるだけ早く追いついてください。

弟子:坐禅する時入静できないし、「定」に達することもできません。これは自分の次元が低く、高次元へ修煉できないことを意味しているのでしょうか?

師:そこに座ってすぐ入定できれば、現在の次元は既に非常に高いのです。これは既に本に書かれています。どうしても入定できなければ、その抑えられない考えを他人だと思えばいいのです。実は皆さんに教えますが、それは本来のあなたではなく、後天的に形成された観念と思想業力から構成されたのです。あなたは本来坐禅して入静しようとしていますが、なぜ入静できないのでしょうか? あなたの言う事を聞かないのなら、まだあなたであり得ますか? それは業力が湧き出てきたもので、それを他人と見做すべきです。執着が少なくなるにつれて、段々と静かになることができ、次元も向上できるのです。

弟子:煉功する時いつも眠くなりますが、その時、寝たほうがいいのでしょうか? それともそれを魔によることとして、それと戦ったほうがいいのでしょうか?

師:睡眠そのものは魔ではなく、それは人間が必ず必要とする休息の一種です。これも宇宙を構成したもので、一種の要素です。しかし修煉者として言えば、修煉の時に寝てしまえば、それは魔としての作用が働き、あなたに修煉させないのです。それ自身は魔ではありませんが、このような作用が働きます。しかし逆に言えば、またあなたの意志を固めるために作用しているので、意志はあなた自身で修めるものではありませんか? 自分の意志を固めるべきで、それを抑制することも意志を固めることであり、これも修煉です。煉功の時に眠くなるということも思想業力が働いたからです。

弟子:気機は一体どういうことでしょうか?

師:気機とは功のとてもミクロ的な物質、人に見えない物質で構成された運動の機制です。この機制は有形のものですが、人には見えません。将来ある程度まで修煉し、天目がよく開いたら見えるようになります。それは一本の白い帯のようなもので、あなたの体外で回転しています。しかも丹田の中の法輪と繋がっており、あなたが煉功しているとき、それを絶えず強化しています。機制は強ければ強いほど、あなたを率いて自動的に煉功することができ、あなたが煉功していないときにもそれが回転しており、あなたを助けて自動的に煉功しています。私たちが伝えだした五式の功法の中には、全てこのように働いている機制があります。ですから、あなたがここに立ったまま動かなくても、あなたの身体の機制は絶えず動いており、あなたの身体を率いて全面的に演化しています。

弟子:法輪世界の中に法輪の歌があるのでしょうか?

師:それは広告をしているようで、人間の情によって生じたものです。佛法はそんなに厳粛でなくてもいいのでしょうか?! 現在人々は佛をも人格化しています。しかし、佛は比類なく偉大な神です。昔佛のことに言及したら、誰でもこの上ない敬慕の念が生じてきました。現在では皆軽々しく口にしています。墓石に佛、菩薩、聖母マリアの肖像が刻まれていますが、まさに佛、菩薩、聖母マリアを踏みにじるものです。周りは全て死んだ人の墓碑です。人間は、自分が何をしているか分かっていません。人間はそれが良いと思っており、佛、菩薩、聖母マリアに死んだ人を見守らせようと、まるで神に指図しているかのようです。こういうことではありませんか? これは実は全て人間の罪深い考えから出たものです。多くの功法が何か踊ったり歌ったりしていると聞いていますが、これらのものは修煉と何の関係があるのでしょうか? しかも人々の情に対する執着を助長しているのです。人間の考え、人間の考え方で、佛、道、神を扱っていますが、実は全く人間の思惟方法で考えてはいけません。修煉がとてもよくできたとき、これらの人間の考えがなくなったとき、やっと圓満成就できるのです。

弟子:私たちは有為の状態の中で生活していますが、正常な暮らしの中のどのような欲望を捨てるべきなのか、分からないときがあるので、非常に緊張してしまいます。

師:あなたが言ったのは、私たちが修煉の時、自分が法に対してある程度の認識ができて、向上したい、一部の考えを捨てるべきだと思いますが、しかし、そのような考えを捨てきれず困っており、どうしてこのような考えがまだあるのかと、非常に困惑しているということでしょうか? 皆さんに教えますが、前回私が説法した時、既にこの事について言及しました。常人の中での生活を維持するという常人の考えを全て除去してしまえば、あなたは一日も常人の中にいられなくなります。人間は何をしても皆執着心に指図されているのですから、あなたは常人の一思一念にも耐えられません。常人の考えがなく常人と一緒にいる時の気持ちは、あなたは想像すらできません。ですから、常人の中で修煉することができるように、圓満成就の時に、はじめて人の最も表面まで転化させ、全ての執着を除去するのです。

弟子:白人が圓満成就したら、どの世界に行くのでしょうか?

師:この問題について既に話したことがあります。一部の人は『轉法輪』を読むと中に全て佛の形象が見えますが、英語版の『轉法輪』を読む人は、中に全て聖母マリアとイエスのような身なりをしている神、白人の形象の神が見えます。全ての文字が皆そうです。あなたはこの大法を修煉していますが、私たちは佛家だと話したことがあります。私が伝えたものは全宇宙の特性、宇宙の理、宇宙の法なので、もちろん、それらの神も中に含まれています。もしその人が白人で圓満成就したら、修煉して身体から出た功も白人の形象で、圓満成就してから白人の世界に行きます。彼らが修煉してできた小さな嬰孩は全て翼を持っています。もちろん道家も同じような情況です。

弟子:殺生によって生じた業力はどうやって償うのでしょうか?

師:非常に多くの弟子は修煉の過程でいくらかの危ない事、例えば自動車にぶつけられたり、高い所から落ちたりするなど、多くの事に遭いました。その後、その学習者は心の中ではとても喜んでいました。確かに喜ぶに値する事です。もちろん私は法の中で話したことがありますが、これで以前借りた非常に大きな業力を償い、ひいては命を償ったことに等しいのです。もし本当にその命を償ったら、本当に地獄から除名されたことになります。あなたはその命をすでに償ったからです。

 ぶつけられて大した怪我はなかったと思うかもしれませんが、実は一人のあなたが本当に死んだのです。それは業力で構成されたあなたです。しかもその身体にはあなたの良くない業力で構成された考えや心臓、四肢があり、ぶつけられて死んでしまったのは、全て業力で構成されたものです。私たちはあなたのためにこんなに良い事をし、これほど大きな業力を取り除いて命の償いをしたのです。このようなことをする人は他にいません。あなたが修煉できるから、私たちはこうしてあげたのです。皆さんがそれを分かった時、私に感謝する方法はありません。

弟子:私たちはどのように圓満成就するのでしょうか?

師:私たちが伝えだしたこの修煉法は、人の本体を佛体に転化することになり、このような道を歩みます。涅槃や虹化の道を歩まず、道家のように竹の棒を人間の体に変化させて棺の中に置くという屍解の方法も採りません。正々堂々と人々に皆さんの圓満成就を見せるのです。あなたの身体は既に変わったからです。

弟子:先生は常人の中で修煉していれば、常人の仕事をきちんとしなければならない・・・とおっしゃいましたが、私は短い時間でやりこなせるような仕事を探して、余った時間を修煉に使いたいと思っています。

師:私たちは皆このような考えを持っています。時間があまりかからない仕事を見つければ、修煉の時間が十分得られ、仕事もできると思っているかもしれませんが、考えはあくまでも考えであり、動機は全て修煉のためかもしれません。しかし往々にして、私たちの思ったことが必ずしも実現できるとは限りません。皆の状況はそれぞれ違うので、あなた自身が強く執着せず、そうすることに固執しなければ、私の法身は全てきちんと按排してあげますので、普通に仕事をしても同じように修煉できます。

弟子:繁体字と簡体字の『轉法輪』を読む時の感覚が違うという人がいます。

師:そんなことはないでしょう。同じはずです。ただ中国大陸で「文化大革命」を経てから、人々の考えが大きく変わったのです。台湾や東南アジアなど他の地域の華僑と華人の考えはそれと少し違いがあります。繁体字の『轉法輪』を読むとき、あなたはこのような観念を持ち込んでいるのではありませんか? 簡体字の『轉法輪』を読むとき、慣れない中国の変わった考えと混じるように感じてしまいますが、実際、これがあなた自身の一種の心理的な障碍です。

弟子:『轉法輪』を読みだしたら、止めたくなくて、煉功もしたくない時があります。

師:『轉法輪』を読んで止めたくなければ、多く読めばいいので構いません。煉功の時間は後にしてもいいのです。本を多く読むことは良いことで、法を学ぶのはとても重要なことです。