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サンフランシスコでの説法

李 洪 志

一九九七年四月六日



 ニューヨークで会ったばかりですが、数日後の今日またここで会うことができました。前回説いた内容はとてもレベルの高いものなので、本来ならもう少し皆さんに消化吸収する過程を与えるべきでした。実は私が最近話したことはよく吟味すれば、とてもレベルが高いと感じられるかもしれません。なぜなら本質的なことを説いたからです。こうすることに一つの原因があるからです。つまり皆さんの文化と知識のレベルが高く、しかも一部の人は後になって法を得たのです。後になって法を得た人たちは向上がとても速く、彼らに対する要求も高いので、次元の向上も速いのです。皆さんは難度が高く、困難も比較的多く、魔難が多いように思っていますが、それは必然的なことです。今日私が説いた多くのことは、以前説いたことのないものです。修煉の時間が非常に限られているので、できるだけ速くこの法を皆さんに全て伝え、皆さんが速く修煉し、一日も早く圓満成就するよう願っています。

 私は昨日も話したことですが、皆さんは中国の『西遊記』を知っているかもしれません。三蔵法師は西方へ経を取りに行くときに、ありとあらゆる苦難を嘗め尽くし、九×九、八十一回の難ですが、一難が足りなくても許されず、必ず経験しなければなりません。それはなかなか容易なことではありません。皆さんが今日法を得たのはあまりにも易しいのです。アメリカにいなくても、飛行機に乗れば、すぐ着くのです。それと比べて、法を得たのは確かにとても簡単ですが、しかし、修煉になるとそれほど簡単ではなくなります。学べるか否か、法を得られるか否か、如何にこの法に対処しているかなどを私たちもみてみたいと思います。この時間を長く延ばしてはならず、人間はこの法を得るかどうかについて、まだ再三考えており、学ぶかどうかを思案しています。私たちもこの問題を考えています。ですから時間が少し切迫しているということは、それなりにいいところもあると思います。この法は誰でも得られるものではなく、私たちは縁を重んじています。つまり、時間が切迫していれば、法を得るべきではない人は入ってくることができません。時間が長引いてしまえば、このような問題が存在するかもしれませんが、つまり法を得るべきではない人が入ってきて、私たちを妨害し、破壊するのです。そのような人が大法を信じなければ、妨害の作用を働きます。もちろん、私たちはこの門を大きく開いているので、どんな人であっても、学びさえすれば、私たちはあなたに責任を負います。ところが私たちは人心をもみるのです。

 佛法は博大で、奥深いものです。私たちが今日説いたこの法は、佛法に対する一般的な認識を超え、宇宙全体の法、宇宙全体の特性について説いています。この厖大な宇宙において、その全ての次元に宇宙の特性があり、即ち真・善・忍が各境地において現れた法理です。更に各次元の法理も非常に厖大かつ繁雑なものです。一つの次元の理をはっきり説こうとするなら、一生をかけても完全に説くことができないかもしれず、それほど厖大で繁雑なものです。ご存知のように、釈迦牟尼佛は如来という次元で、人間および彼の弟子に法を説いたのです。しかし、彼は一生を使い果たしても、彼の一門のことしか説けなかったのです。釈迦牟尼佛は修煉には八万四千の法門があると言いましたが、中に道家のものはまだ含まれていません。中国の道家が言うには、まだ三千六百の法門があり、しかも中に私たちが一般に認識している西洋の宗教の神のような修煉方法がまだ含まれていません。そして釈迦牟尼佛の言った八万四千の法門も、ただ如来という次元でその範囲における認識を説いただけです。それではこの範囲を超えたら、どれくらいの修煉の方法、どれくらいの異なる如来佛、および彼らが悟り得た法理があるか量りしれません。それは非常に大きなものです。佛法は洋々たる大海に喩えても表現できません。宇宙の大きさはつまりこの法の大きさであり、こういった概念です。

 私は今日ただ人類の言葉で、しかも人類の今日の最も平易な言葉で皆さんにとてつもなく大きく、奥深い宇宙全体の状況を概括しました。この法を本当に完全に理解し、法の中で修煉することができれば、皆さんの体得し悟ったものの奥深さは言葉で表し難いものです。修煉することができさえすれば、徐々にますます多くのものを体得し悟ります。『轉法輪』を読めば読むほど多くのことが分かってきます。もしあなたの根基がとても良く、この大法の中で修煉すれば、十分あなたを修煉させることができます。あなたがどれほど高く修めようとも法は果てしなく大きいのです。この法はとても博大だからです。ご存知のように、私は『轉法輪』という本の中で既に話しましたが、中の法理は非常に博大で、各文字の背後に幾重にも重なった無数の佛道神がおり、数え切れないほどいます。各次元にその次元の理があり、各次元にその次元の佛、道、神が存在しているからです。皆さん考えてみてください。この法はどれほど大きいのでしょうか? 実は私はただ概括的に皆さんに説いただけです。真の理解は皆さんが着実に修煉する中で自ら悟り、修煉し、自分で理解しなければなりません。ですから皆さんに教えますが、『轉法輪』という本も読み、動作もできたからといって、これでいい、大法が良いと分かって煉功だけすれば十分だと思わないでください。向上したいなら、すべてがその本にかかっているので、繰り返し読まなければなりません。この本を読んでいれば、認識を深め、向上しているのです。更に圓満成就する手段である煉功を加えれば、あなたは絶えず自分の次元を高めています。ですから一通り読んで、良いとも思い、皆さんと一緒に煉功しており、また煉功を怠けてもいないからといって、十分だと思わないでください。この法は実は非常に大事なので、必ず法を学ぶことに力を入れなければなりません。

 この宇宙はこれほど大きく、構造もとても複雑です。私は皆さんに空間の構造について説いたことがあります。例えば、物質は分子と更にミクロ的な粒子から構成され、私たちの認識した空間もこれらの粒子から構成されています。現在、科学が認識した粒子には分子、原子、中性子、原子核、電子があり、更にクォーク、中性微子があり、もっと追究していけば、現在の科学も分からなくなります。しかし私が言っているのは、一層一層のこのような粒子が存在している境地のことですが、私たちはそれを一つの次元の面と呼んでいます。実は粒子の分布は面ではなく、その次元の至るところに存在しているので、面としての存在ではないのですが、人類にはその言葉がないので、面と呼ぶことにし、このように表現するしかありません。つまりこの境地の中に、あの次元の粒子の境地に一つの空間が構成されます。粒子と粒子との間は空間であり、しかも粒子自身の中も空間です。また粒子は大きさの異なる粒子を構成することができ、同じ粒子が構成した大きさの違う粒子の間はまた空間です。これが即ち私が前回皆さんに説いた空間の概念です。

 今まで原子から分子までの間は一つの広々とした空間があり、私たち人間は分子から構成した最大の一層の粒子と、私たちが見ることのできる星という粒子の間に生活しており、人はこの空間の中で生活していると説いています。星も一つの粒子です。更に大きく見ていけば、銀河系にも外殻があります。その銀河系と同様に無数の銀河系が宇宙に分布しており、それもまた一つの空間を構成しているのではありませんか? それも繋がりがあるのです。それでは銀河系以外にもう一つの宇宙範囲があります。この宇宙範囲も一層の粒子ではありませんか? それも一層の粒子です。この宇宙はとても大きく、言い表しようがないほど大きいのです。しかも、私たちが住んでいる宇宙のような三千個の宇宙はまた更なる大きな一層の宇宙を構成し、その外側にも外殻があるのです。それはまた更なる大きな一層の宇宙の粒子です。しかし私が先ほど話した粒子は一点から展開したものですが、実は全ての次元の粒子も天体全体に普く分布しています。しかし、私が今言ったのは二層の宇宙のことに過ぎませんが、皆さんは既に不可思議に思っています。実は未来の人類科学もこれらのことを認識することができず、人類は永遠にそれほど高く認識することができません。ここまで説きましたが、それでもこの一層の粒子はこの浩瀚たる宇宙の中で僅か一粒の塵埃に過ぎません。しかも非常に小さな小さな塵埃です。この宇宙はなんと広いのでしょう! 私が今まで皆さんに話したのはこのような空間のことでした。

 前回私は空間の構造について話しましたが、原子と分子の間、星と分子の間のような空間の他に、各層の原子粒子が大きさの異なる粒子を構成することができるので、これらの大きさの異なる粒子の層の間にまた空間があるのです。例えば分子の場合、私たちが普段分子と原子の間は空間だと知っていますが、原子が分子を構成する時、相当多くの原子が配列して分子になるのです。それでは、少し少ない原子粒子で構成された更なる大きな粒子とこれより少し多い原子粒子で構成された更なる大きな粒子との間も、また一つの空間です。なぜならば、分子は最も表面的なもの、つまり私たち人間に見える鋼、鉄、水、空気、木材、私たち人体などを含む如何なる物体をも構成することができるからだと私は説きました。これらは分子で構成した最大の粒子でできたもので、人間の見ることができる表面的な物質です。また分子はこの最大の分子粒子よりやや小さい、後ろから第二層の粒子、更に第三層の粒子をも構成することができます。いずれも分子で構成されたのです。分子は大きさの異なる粒子を構成することができるからです。それぞれの間はまた空間を成しているので、この宇宙は非常に複雑なのです。これだけにとどまらず、各層の空間にまた縦の異なる次元の空間が存在し、つまり、異なる次元の空間です。言い換えれば、空間にある異なる次元は、つまり宗教の認識したような何層かの天のような空間です。そして異なる次元の空間にまた異なる単元世界が存在していますが、非常に複雑なのです。私はただ皆さんに普遍的に存在しているこのような現象を話しただけです。

 実はこのような空間の他に、もう一つ粗い空間、つまり最も表面的な空間があります。私はいつも皆さんに言っていますが、もちろんこの間も質問があったように、私は『精進要旨』の中で人類社会はちょうど最も中心、最も外側、最も表面にあると言いましたが、それを理解できない人がいます。この「最も表面」という意味ですが、宇宙の理から言えば内外の区別がなく、人類が認識した大きさの概念もなく、私たち人間の概念とは完全に異なっています。私は今日この「外」について話します。なぜ人類は最も辺縁、最も外側にあるというのでしょうか? どんな意味でしょうか? つまり私が以前話した空間の他に、もう一種の空間があります。この空間は私たち人類が今日生活している空間のようであり、神のいる空間とは全く異なっています。以前話した空間は、全て更にミクロ的な高エネルギー物質から構成されたものです。しかし、今日話すこの空間は表面物質から構成されたのです。これらの表面物質の中にも多くの異なる元素、異なる粒子が存在しています。このとても特殊な表面空間は、まさに私たち人間のように、大きさの異なる身体の細胞、それは粒子とも言えるものですが、細胞の表面に皆一層の皮があり、また人体表面の皮を構成した粒子の皮があり、人体の表面粒子の皮が人体表面の皮を構成しています。そしてその皮も極めてミクロなレベルにおいて、一つ一つ極めて広い空間を成しています。身体の中にある粒子の皮で構成された肉の組織は表面以内の構造とは全く違うのです。この宇宙もこのようですが、もちろんとても複雑なのです。私たち人間が生存している空間はどういう形態なのでしょうか? 例えば全ては一つの粒子から構成されたのであれば、どんなに大きい粒子であろうと、どんなに小さい粒子であろうと、全ての粒子に外殻があるのです。

 私は今日実は皆さんにこの外殻について話します。これらの外殻は粒子によって粒子が包まれているため、一部の粒子は内側にあるようですが、地球も真中の位置にありますが、実は皆外側に属しています。これは私が話した、人間がなぜ最も外側にいるかということです。皆最も外側に属しており、最も外側の皮殻とつながりがあるからです。皮殻は一つの独立した体系であり、宇宙には最大の外殻がありますが、全てこの最大の外殻とつながりがあります。私たち人類の肉体が存在している空間もこのような形式です。この空間にはこの空間の特徴があり、神の世界、私が以前話した空間とは全く異なっています。しかし宇宙の中のあらゆる物質はこれらの空間に由来しています。

 今日香を焚くという問題について質問した人がいました。この空間の物質が消えたら、向こうの空間の物質が解放され、放出されると私は答えました。それによってこの空間の物体は向こうの空間に入ることができるようになります。この空間のものは向こうの空間にとってとても貴重なのです。この空間の物質は燃焼を通じて既に変化し、物質がこの空間にあった時とは既に異なりました。私は昔このようなことを話したことがあります。あなたがこの空間で修煉して一握りの土を持ち帰ることができたら、その空間の人はあなたをたいしたものだと思います。とりも直さずこの意味です。極楽世界の至るところが金であると言う人がいますが、極楽世界に行ったら、そこにひとかけらの石も一粒の塵埃もないことに気付きます。そのためこの物質世界から何かを持って行けば、それは極めて貴重なものだと思われます。希少なものに価値があり、少ないから珍しいという言葉があります。もちろん実際はそうではないかもしれませんが、ただこういう意味を言っているだけです。向こうの空間の一切の物質は、この空間に由来しているからです。もちろん、私たち人間がこのようなことをしなければならないということではなく、宇宙の機制が作用をしています。

 私は更にこの表面が構成する世界、つまり私たちに見えるこの星のことについて説明します。全ての星にその他の空間があり、多くの異なる粒子で構成された空間があります。しかし、粒子で構成された最大の表面の空間は、つまりそれの殻、それの最も表面なのです。先ほど私は人体をもって比較しましたが、この宇宙をもって比較すれば、私たち人類が生活しているこの宇宙は、まさにこの宇宙の外殻です。

 この宇宙はとてつもなく大きいのですが、私たちは実はまたこの宇宙の真ん中にいます。しかし私が先ほど話したように、粒子は異なる粒子に包まれているようですが、実はやはり外側にあるのです。あなたが存在しているこの空間の構造、物質、つながりは皆外側の空間の体系で、外側の空間の制約を受けているからです。このような状況です。更に、釈迦牟尼佛が一粒の砂の中に三千大千世界が含まれていると言ったことを私は説いたことがあります。実は釈迦牟尼佛も砂の粒子の表面が構成したミクロな空間に、様々な世界が存在していると言ったのです。しかし私は今日更に明確に皆さんに教えますが、この砂の外殻、即ち皮は、砂を構成した各層の粒子の外殻をも含めて、私たちのこの物質空間と同じ体系です。分子から構成した大小の異なる粒子にある多くの生命は、その生命の形態が私たち人類の生命の形態と全く同じです。つまり砂の中に存在している人間は、私たち人間と瓜二つなのです。黒人、白人、黄色人種がいます。しかも将来皆さんがとても奇怪に思うのは、つまり彼らの服装が皆私たちの古代人のものとほぼ同じであるということです。更に彼らの世界の更にミクロなところに全体的な変化が起こるのです。この変化について今まで明かしたことはありませんが、つまり異なるミクロ的な世界にも、ある程度の天体の範囲があるということです。先ほど砂の粒子が構成した砂の天体範囲のことについて話しました。

 私たちが言ったミクロ的な世界に存在しているそれらの生命はまた別の体系であり、別の天体生命の体系です。中には彼らの佛、道、神と人間、動物、物質、山、川、天、地、空気とそのミクロ的な宇宙に存在している全ての物質もあります。しかもまた更にミクロ的で更に更にミクロ的なこのような世界が存在しています。ですから、昔多くの修煉者はそのミクロ的な世界から、小さな小さな砂、土、石のミクロ的な世界から出てきた佛を見たことがあります。そこの佛も大きくなったりすることができます。この体系より更に小さい体系の中にも佛、道、神、人間がいて、そこの佛も変化して出ることができ、私たちのこの世界に来ることができるのです。彼は佛だからです。彼はどれほどの大きさまで変化できるのでしょうか? 最大は銀河系のような大きさまで変わることができ、最小は影も形もないまで小さくなるのです。彼はミクロ的な世界の佛ですから、私たちの天体の佛とは全く別の事です。しかし形象は同じで、修煉の要求も同様で、同様に偉大であり、同様に真、善、忍という法が上から下まで貫いてきたのです。

 この宇宙は本当に大変奥深く玄妙であり、しかもそれより更に更に更に小さなものには更に小さい佛、道、神、人間、物質が存在している天体があるのです。しかし、一粒の砂の中に生命があるだけではなく、宇宙の全ての物質の全ての粒子、内外にある一切の粒子の殻に普く分布しているのです。先ほどミクロ的なところのことを話しましたが、この厖大な天体がある程度まで大きくなったときに、私たちの天体の範囲を超えてしまいます。しかも、この天体の範囲は宇宙という言葉で概括することができず、この概念と全く違います。宇宙がある程度の限界まで大きくなったとき、突然宇宙はある空のところに至り、何もかもが無くなっているのです。更に遥かなところに進んでいけば、更に大きな天体が存在していることに気付くのです。それは私たちのこの天体と全く別のことになります。私が言った天体は私たちのこの宇宙の概念を完全に超えています。それなら、更に大きな天体の中の佛、道、神は非常に大きいもので、まさに私たちがミクロ的な世界、ミクロ的な天体の中の佛、道、神、人間、物を見ると同様に私たちを見ているのです。ですから彼らは別の体系に属しており、とてつもなく大きいのです。彼らが私たち人間、私たちのこの天体を見るときは、私たちが出土文物を見ているのと同じです。とても不思議で、とても奥深く玄妙で、とても良く、面白いと思っています。彼もこの生命が限りなく奥深いと思っています。この小さな小さな天体の中にも、生気が満ち溢れていると彼らも思っています。ただし、彼には私たち生命の存在している天体範囲内の概念がなく、全くないのです。彼から見ると、あなたは取りも直さず微生物の生命で、彼らといささかも関係がありません。ですから往々にして多くの修煉者が石、砂の中、ひいては更にミクロ的な粒子に何かの光景が見えたときの感覚と同じです。

 一部の学習者は天目が開いた時、自分の天目の中に山があり川があり、自分が外へ走っているのが見えました。飛ぶように速く外へ走り、多くの山や川を突き抜けて、ひいては多くの町を突き抜け、天目の中から外へとずっと走っているのが見えました。あなたに見えた光景ですが、皆さんに教えますが、それは外から来たものではなく、紛れもなくあなたの頭の中の細胞、更にミクロ的な粒子が構成したその世界の存在形式です。私はいつも言っていますが、もしあなたに見えたら、一つの毛穴に多くの町があるかもしれず、または中に汽車や車が走っているかもしれないということに気付くのです。とても摩訶不思議に聞こえますが、この世界はこのような非常に厖大で繁雑な世界です。現在の科学の認識とは全く違うのです。私はいつも言っていますが、現在の科学は最初から局限的な認識、誤った基点に立脚し発展してきたので、この枠の中に局限されるしかありません。私たちが真に理解したこの宇宙の生命物質の情況から言えば、現在の科学はまだ科学とは言えません。この科学の方法では永遠に宇宙の奥義を探し測ることができません。人類は自分自身だけが宇宙の唯一の生命だと信じ込んでいますが、本当に可哀相で、これほど気の毒なのです。宇宙人の存在は、宇宙人は確かに私たちの地球を訪ねたことがあり、一部の写真も撮れているのに、人類はまだ信じていません。この科学に束縛されてしまったのです。感情的な人は研究しているのではなく、非理性的に、人に既に受け入れられたものしか信じず、本当に正しいかどうかを問わず、本から学んだものしか信じていません。これが私の話したこの空間の形式です。人類の言葉は非常に限られているため、私までとても表現しにくいと感じます。皆さんは聞いてお分かりになったでしょうか? (拍手)

 私たちの認識している佛、道、神、私たち人間、そして私たちが見ている全ての物質が存在している空間の中に、無数の宇宙と数え切れない宇宙が含まれており、兆で計算しても計算しきれません。これほど大きな天体範囲ですが、それは一つの独立した体系です。では、この体系を超えたら、また更に大きな天体が存在しており、それはまた一つの独立した体系です。それを超えると、また更に大きな、更に大きな、更に大きな体系が存在していますが、この宇宙はこれほど厖大なのです。それに対し、ミクロ的な世界では、それはまた極めてミクロ的で極めてミクロ的なのです。私たち人間の生存しているこの境地はほぼ中心にあり、マクロから見てもミクロから見ても、人類世界はほぼ中心にあります。異なる粒子は異なる空間を構成していますが、このほか特殊な異なる粒子から構成された表面世界もあります。ご存知のように、私が中国にいた時、元神が身体から離れて私たちのこの物質空間の宇宙空間に入って、飛び廻ったと言った学習者がいます。しかし、なぜ彼には佛の世界、神の世界が見えなかったのでしょうか? 彼に見えたのは私たちのこの物質空間の真実の光景ですが、神はどうしていなかったのでしょうか? 彼は皮殻という空間に入り、つまり人間が生存している空間、私たちのこのような物質空間の形式で、このような情況が見えたのです。これは私が説いた空間の存在形式です。

 人間の生命はどのように始まったのかと、私に質問をした学習者もいました。私は物質の本源について話したことがありますので、このことについて話したいと思います。皆さんは私が科学を説いていると思わないでください。佛法は一切を含んでいるからです。私は以前物質の本源を話したことがあります。本源とは何でしょうか? 私は皆さんに物質の本源が何であるかということを今まで話しませんでした。しかし、先ほど話した異なる大きな天体の本源については教えてはいけません。ところが、私は皆さんに私たちの天体にある異なる境地に存在している物質と、生命の本源を話すことができます。実は、物質の本源は他でもなく水です。宇宙の本源の水は常人の地球の水ではありません。物質の本源はなぜ水だと言えるのでしょうか? 異なる次元の最もミクロ的な物質がある程度まで行き当たったら、物質が無くなってしまいます。物質が無くなると、物質の顆粒は存在しなくなります。更に見ていくと、あることに気づきますが、物質粒子が存在せず、もの静かな、私が通常死水と呼ぶものが見えるのです。それは本源とも言う生命のない水です。物を中に投げ込んでも、さざ波もなく、音の振動も波動も起こることなく、完全に静止しています。物質の最も基本的な構成は即ち、このような水から来たのです。

 どのように構成されたのでしょうか? この宇宙に法があり、この法は即ち私たちの言う真・善・忍です。宇宙のこの特性はこの水を最も初期の、最も微小で原始の物質の単一粒子に構成し、それを原始粒子と呼んでもいいのです。しかしそれは単一なもので、何ものでもなく、一つの水泡のようです。そして二つの原始粒子を一緒にし、更に大きな原始粒子を構成し、また二組の二位一体の粒子でより大きな粒子を合成するのです。このように絶えず合成し、異なる次元の粒子が各種の物質の外形、生命、物質、空気と生息に必要な光、水、時間などを合成するのです。粒子には様々な組み合せ方式がありますが、私たちは今日それを配列順序と呼んでいます。

 粒子の配列順序が違うので、その境地の表面の物質も異なってしまいます。このように絶えずミクロからマクロへと更に大きな粒子、更に大きな粒子を組み合わせ、最後に今日の人類が認識した中性微子、クォーク、電子、中性子、原子核、原子、分子に至ったのです。私たちの認識した表面物質まで、更に大きな天体まで構成したのです。表面物質はここまで組み合わさった時、その配列順序が変化に富んでいるため、表面物質における差異は相当大きなものになりました。しかし、周知の通り、木材は分子から構成されていますが、鉄も分子からできており、プラスチックも同じです。この空間の水も更にミクロ的な水が更に大きな粒子を構成し、水の分子となったのです。そうであれば、よりミクロ的なものが表面物質を構成した以上、皆さんに教えますが、私たちの認識できるこの宇宙全体は水から構成されているのです。しかし、この水は密度が極めて高く、全く動いていない水であり、この水から構成されたのです。

 皆さんは古代の人が語った神話を聞いたことがあるかもしれません。ある修道者は石からも水を搾り出したそうです。皆さんに教えますが、現在の人の考え方、現在の科学では解釈できないように聞こえます。神話、伝説を言っていると思われるかもしれません。皆さんに教えますが、それは確かにできることです。全ての物質も水から構成されているからです。鋼鉄からも水を搾り出すことができ、ひいては溶かして水にしてしまうこともでき、いくら硬度の高い物質でもその基本粒子は水からできたのです。もしこの角度から佛法神通を理解すれば、理解しやすいと思います。佛法神通はそれほど大きな威力を備えているので、全てのものを原始的な物質に戻すことができます。私が先ほど話したこの種の形式には段階性があり、異なる大きな次元の中に異なるこのような水があります。

 もう一つの問題ですが、この世の水もとてもミクロ的な水から、より大きな粒子を構成し、最後に水の分子を形成し、この世界の水が構成されたと先ほど話しました。それならば、異なる次元の本源の水は更に、人類の物質世界の粒子よりもっと大きな粒子を構成することができるのではないでしょうか? それから、またそこの水を構成することができるのではないでしょうか? 私は先ほどこの宇宙の究極が何であるかについて言ってはいけないと言いました。しかし、皆さんに言えるのは、異なる次元に異なる物質の本源が存在しており、つまり異なる物質の本源の水が存在しているということです。上へ行けば行くほど水の密度が高くなります。その水は異なる空間の異なる粒子、異なる水、異なる生命を形成することができます。ご存知のように、人体、鉄鋼など全てはこの空間の生命と物体なのです。つまり私たちが認識した、人々が接触できる生命、人間の目で見ることのできる生命も実はこの水に由来したのです。ただし、それは常人の世界の水であるに過ぎません。つまり最も表面の水で、動かない本源の水で人類の水を構成したのです。その距離は既にとても大きいものです。しかも、私たち人間の目で見た生命物質も、この水から構成されたのです。ご存知のように、野菜を絞りに絞れば、最後に何も残らず、全て水になります。果物も同じです。現在、科学者は人体の七十パーセントが水からできていると言っています。しかし彼らにまだ知られていないのは、骨、髪の毛までも水の分子によって組成されているのです。ただ、これらは更にミクロ的な水で組成された粒子によって構成されているに過ぎず、全ては水です。更にミクロ的な粒子で構成された私たちのこの物質空間の全ては皆、水で組成されているのです。

 ミクロ的な物質が表面の異なる物質を構成できるのは、粒子の配列順序の違いによるものです。もしあなたに手品ができれば、もちろん昔多くの人は手品をしましたが、水を氷に変えたり、或いはある物体を他の物体に変えたりしました。非常に不可思議に聞こえますが、実は全く不可思議なことではありません。もし分子の配列順序を変えることができれば、それは別の物になります。物体の表面の形状をどのように変えるのでしょうか? もちろん、形状はもっと変えられやすいのです。形状が変われば、他の物になります。佛、道、神の次元が高ければ高いほど、このような威力を備えています。皆さんがご存知のように、人間は非常に能力の低いもので、どこまで低いのでしょうか? 人間は何かの仕事を完成させたければ、自ら手足を動かさなければならず、肉体労働を通じてそれを成し遂げるのです。佛なら、そうする必要はありません。佛はただ考えるだけでできるのです。佛は多くの神通力、多くの功能を持っており、彼自身がまた強大な功を持っているからです。功の全ての微粒子は本人の姿かたちをしており、その微粒子は更にミクロ的な粒子から構成されており、全て彼の姿かたちをしています。彼が思うだけで、功は出ていくのです。極めてミクロ的なレベルまで異なる次元の粒子の構造を変えており、しかも時間の最も速い空間での時間なので、瞬時に出来上がります。佛は何かをやるときとても速く、この空間と時間の制限を受けません。瞬時に最も基礎から物体を別の物に変えてしまうのです。これは佛法神通が作用する原理です。なぜ佛は思うだけで物が変わるのでしょうか? 佛が考えている時、功の無数の粒子と無量の智慧は各次元で同時に変えており、全体からもやろうとしていることを変えています。彼の功の更に大きな顆粒も物体の表面を変えています。ある物体はその最も本源の粒子から表面の粒子まで、皆功によってミクロから表面まで同時に変えられています。瞬時にそれを変え、一瞬の間にそれをやり遂げるのです。何もない状態から作り上げ、空気中に存在している分子、粒子からあなたが目に見えるものを構成することができ、これは即ち無から有に至るということです。なぜ佛法神通はこれほど大きな力があるのでしょうか? 人類の科学技術は永遠にここまで達することができません。

 佛法の力は人類が科学技術の手段を通じて得ることはできません。なぜならば、人類は科学技術の発展につれて、道徳も昇華することはあり得ないからです。これは不可能なことです。しかも、人間は科学技術が発展している時、皆強い執着心をもって何かを完成させようとしているので、この宇宙の法理に背いてしまったため、心性はそれほどの高さに達することができません。そして、人間にまた多くの七情六欲、各種の執着心、闘争心、嫉妬心、歓喜心、貪欲などがあります。もし、本当にそれほど進んだ科学技術を持っていれば、きっとこの宇宙に宇宙戦争が起こり、宇宙大戦が本当に起きてしまいます。しかし、佛、道、神はこのようなことを許さず、絶対に人間が宇宙を撹乱するようなことをさせないので、神は人類を制約しています。人類の道徳が向上せず、科学技術の手段ばかりが高いレベルに到達することは許されず、絶対あり得ません。

 人類が異なる歴史時期を経て、今日まで発展してきたと私はいつも言っていますが、つまり、人類が何回も何回も異なる歴史上での劫難を経て消滅させられ、また新しい人類が生まれ、このような異なる周期を経てここまで来たのです。これはなぜでしょうか? 修煉界は皆このような状況に気づきました。人類が危険な境地に瀕している時、或いは歴史に淘汰された時、いずれも人類の道徳が極めて堕落した時です。ギリシャ文化が素晴らしいと言う人がいますが、その時の人間はどこに行ってしまったのでしょうか? 今ギリシャ文化からあることを発見したのですが、ギリシャ人が残した文化は、きっとギリシャ文明の最期のもので、そこから同性愛や性の乱れなどを発見し、また当時の生活ぶりは非常に贅沢で堕落していたのです。当時の人類は既に非常に腐敗堕落していました。どうしてギリシャ文明は消えたのでしょうか? それは道徳が廃れたからです。人間はただ人類の外形だけあっても、人間とは言えません。なぜ鬼を人間と呼ばないのでしょうか? 鬼を構成している粒子は人間を構成している粒子より一層少ないのです。猿、チンパンジーをなぜ人間と呼ばないのでしょうか? 人間は人間の体だけでなく、人間としての道徳規範、道徳観念も備わっているからです。人間がもし人間としての道徳観念、道徳規範、人間としての準則を失えば、もはや人間ではなくなります。ですから今日の人類社会について、はっきりと皆さんに教えますが、神は既に今の人類を人間と見做していません。考えてみてください。人間は危ないのではありませんか? 政府、国家、民族はそれを認めており、ひいてはあなたの考えの中で、意識の中でそれを認めていても、それは必ずしも良いものとは限りません。ですから今日の社会に麻薬中毒、麻薬の密売、麻薬の密造、性の転換、同性愛、性の解放、マフィアなどが次々と現れ、きりがありません。利己心と欲望で人々はお互いに敵となり、正念は全くなくなりました。人類社会を腐敗させる各種の現象は至るところにあり、各業種の中の現代派芸術や、ロック・ミュージックや、サッカー場での魔性の大いなる発散などがあります。社会のあらゆる方面まで影響しています。人心が悪くなったため、観念に逆の変化が起こり、良いものを悪いものとし、悪いものを良いものとしており、人々の観念は皆逆になりました。金銭や名利を奪い取り、闘争の哲学が宣伝され、暴力団のボスが上流の席に上りました。これでまだ人間と言えるのでしょうか?

 現在の中学生のはいているズボンですが、ベルトをお尻の上に締めており、ズボンは腸のように脚にふさふさと垂れ下がっています。ベルトをだらしなく締めており、頭の両側をつるつるに剃り上げ、前髪を軒下のようにしています。また真ん中に一握りの髪の毛しか残っておらず、全く鬼のようですが、本人はそれがよいと思っています。ところが、本当によいのでしょうか? よく吟味すれば、それには何の美的な概念もありません。女性は黒い服を着て、魔性のような髪型で、顔は強張っており、地獄の鬼と変わりありません。つまり人間の観念は正反対になっており、魔が人類を乱して陰気なものが美しいものにされたのです。

 昨今は妖怪や化け物の玩具や醜いもの、凶悪なものであればあるほど、売れ行きがよく、きれいな人形は誰も買わないと話しました。人間の観念はすっかり変わりました。皆さん考えてみてください。それは恐ろしいことではありませんか? 人類の発展は確かに周期性があります。人類がこのようなことの発生を避けるには、方法は一つしかなく、つまり人間の道徳を維持することです。皆さんも気づいたと思いますが、今社会問題が次々に起きていますが、どの政府も解決できません。民族問題、国家間の問題、民族間のトラブル、民族内部のトラブル、多くの社会における犯罪など各方面の原因にどの政府も頭を抱え、誰も解決できません。なぜ解決できないのでしょうか? 彼らの対策はいずれも現象の中から現象を解決しようとしているからです。しかし、この現象は抑制されましたが、引き続いてもっと良くない現象が現れてきます。更に制約してもまたもっと良くない現象が現れてきます。人類が作った法律は機械的に人を制限し、法律を作った人も含めて、人間をその中に閉じ込めています。人間は絶えず自分を閉じ込めており、結局最後に活路が封じられてしまいました。法律があまりにも多く作られたので、人間は動物のように管理されており、行き詰っており、誰も解決方法を見つけられないのです。

 ところが、皆さんに教えますが、実は人類が良くなくなった全ての根源は人間の道徳が堕落したからです。ここから着手しなければ、人類はどの問題をも解決できません。この問題から着手すれば、人類のどんな問題でも解決できます。このようなことではありませんか? 皆さん考えてみてください。全ての人が皆、心から一人の良い人間になるように自ら要求し、制約することができ、どんなことをしてもまず他人の立場を優先的に考え、他人を傷つけるようなことをせず、相手がそれに耐えられるかどうかということを考えていれば、社会はどのようになるのでしょうか? 法律などは要りますか? 警察は要りますか? 人間は皆自分で自分を制約し、自己を管理しています。しかし、政治的な宣伝と強制的な管理は同様に道徳を回復させることができず、かえって失敗してしまいます。世界は今日まで発展してきて、皆法律がとても良いと思っていますが、実はそれは仕方なくこの方法を採ったのです。何千年も経て発展してきた人類は、以前、人間を管理するこれほど多くの法律がありませんでした。簡単な王の法しかなく、良し悪しを量る基準は徳でした。しかし、古代の人の道徳はかえって、現在よりずっと高尚でした。現在の人は古代の人が良くないと思っていますが、実はそれは、現在の人間の腐敗堕落した観念から古代の人をみているからです。昔の人は現在の人と比べて、全然劣っていません。人間の大脳の使用できる部分は少しも多くなっていません。ただ、私たち現代人は自分が偉い、賢いと思っているだけです。

 社会の発展は神が按排したもので、ここまで発展したら現代化された機械、設備、生活用品が現れることを神が許可しています。古代の人はそれを作ることを思いつかなかったのでしょうか? 神はその段階でまだ按排していないだけです。現代の人は古代の人より全然優れていません。ただし、物質が発展すればするほど、人間は往々にして、物質的な現実に陥ってしまいがちです。これはなんといいものだろう、古代の人には作れないだろう、私たち現代人は神仙のようになったとうぬぼれています。飛行機に乗って、昨日まだヨーロッパですが、今もうアメリカに来ており、まるで神仙のようです。皆さんに教えますが、この浩瀚たる宇宙の中に、この全てが既に存在していました。他の世界に既にありました。人間が良くなくなって下落して、人類の所、この地球に堕ちてきました。人間の考えに皆先天的な意識が存在していますが、ただ自分は知らないだけです。科学技術の手段や自分の科学技術が優れているから、飛行機や自動車や現代的なものを作ったのだと思っています。実は皆さんに教えますが、それは意識の中に過去のものが存在しているに過ぎず、ゴミの中でまたゴミをもって最も表面の粗い物質で作り上げたに過ぎません。人間はまだ悪くないと思っています。もちろん、人類がこのように堕ちてきたのは既に悪くなったので、ここまで堕ちてきました。苦しいのですが、人間は耐えなければなりません。人類の発展は人間自身が発展したいように発展し、思うままになってはいけません。人間がやりたい放題にしては絶対いけません。ですから人類は危ないのです。この劫難、あの劫難を言う人はいますが、私はこれらのことに言及したことがなく、何の役にも立ちません。災難があるかどうかは、私も触れません。あっても私たち修煉者、良い人と関係ありません。しかし、人類が今日まで発展し、問題を解決できない時、ぶつかった厄介なことが人類の出口を塞いでしまい、確かに人類の道徳の腐敗によって引き起こされたのです。先ほど、生命の構成、空間のことを話しましたが、今人類のことを話しています。物質が人間を構成できたのは粒子が異なる物質を構成したとき、人間の異なる表面物質を構成することができるからです。分子の配列順序が骨の粒子のような配列であれば、表面物質は骨となります。肉の分子の配列順序であれば、肉となります。あるものの配列であれば、それになります。これで人間の生命を構成することができ、はっきりと説明すればとても簡単なことです。

 先ほど、私はもう一つのことについて話しましたが、多くの人は神が人間を造ったのだと言っています。泥で人間を造ったのだとあれこれを言う人はいますが、具体的にどのように造られたのかについて話しません。実はいろいろな方法で造られています。もっと次元の高い神はちょっと思うだけで直ちに人間を造り出すことができます。如何なる物体も生き物であり、外形を造ってから、内臓を造って与えます。人間は人体が非常に複雑だと思っていますが、大いなる智慧を持っている神にとっては取るに足らないほど簡単なことです。佛は思いをちょっと巡らすだけで、極めてミクロ的な物質で内臓を造ってしまい、とても速く造りだすことができます。物体を形成する度に、一つの生命が中に注ぎこまれます。もちろん、人間にはまた副元神があるので、多くの生命も入ってきて人間を構成しました。言ってみれば、取りも直さずこういう情況です。

 昔、科学界で人々はいつも出口のない議論に終始しがちで、鶏が先か、卵が先かを議論していました。私に言わせれば、鶏でもなければ卵でもありません。ミクロ的な物質がマクロ的な物質を構成しただけです。小さい粒子がもっと大きな粒子を構成したのです。まだ物質とも言えないものが物質を構成しました。より大きな生命と私たちのこの生命は、体積から見れば、体を構成した粒子が違うので、構成した外形の大きさも違いますが、生命の存在を構成した物質がどんなに大きくても、どんなに小さくても、表面の粒子の配列順序は同じです。例えば、一層大きな人間の場合、彼の身体の全ての粒子が星という粒子で構成されたのであれば、彼の肉は私たち人間の体の分子の配列と同じです。つまり、その星という粒子の配列順序は、私たちの分子の配列順序で構成された肉と同じはずです。ですから、一層小さい粒子で構成された人もこのように構成され、このようにミクロ的に進んでいきます。この問題についてはこれぐらいにしましょう。

 今日まで、宇宙の構造について全て説きました。もちろんもっと詳しい情況について話してはいけません。「先生、佛がどのような生活をしているのかを知りたい」と質問した人がいましたが、それでは修煉して佛になればと私は答えました。人間は佛がどのような生活をしているのかを知ってはいけないからです。人間は絶対そのような概念を持っていません。教えてあげたら皆さんは人間の歓喜心、人間の考え、人間の理論的な考え方でそれを考え、佛を罵り、不敬になります。ですから、具体的なことを話してはいけません。私は限られた人類の言葉で概括的に話すしかありません。実は今日、私たちは中国語で法を説くのが最適なのです。中国語は世界で最も表現力のある内涵の深い言語だからです。もし、英語或いは他の言語で説くなら、何も話せなくなります。私は法をはっきり説くために、方言も使いました。規範された現代中国語でも、それをはっきり説くことができないので、私の言葉に地方の言葉があると皆さんは気づくかもしれません。そのような言葉は適切に法を説明することができ、しかも言葉の使い方も規範通りのものではありません。現代の決まりきった文章に深い内涵がないため、そのような言葉を使わなければ表現することができなくなります。

 もう一つ皆さんがとても関心を持っていることについて話します。「先生、私は煉功していますが、何も見えない」と話してくれた人がいました。それでは、見えると見えないということについて話します。実は私は天目について説いた時、既にこのことに触れました。人間に対する要求は割合高く、理も絶えず昇華しているのです。更に深く説くと、その認識を超えてしまいます。しかし、私はできるだけ前回説いたことと関連付けて話しますので、このことについて更に深く話します。

 在席の絶対多数の人は根基が非常に良いのです。実は修煉し始めてから今日までの時間がいくら短くても、なんらかのものが見えたはずです。『轉法輪』の中に執着心を取り除くことを強調し非常に厳しく要求しているので、多くの人は敢えて見ようとしません。多くの人は本当にぼんやりと何かが見えても、敢えて信じる勇気もありません。ここには、あなたが見られない、或いは見えないことをもたらす幾つかの原因があります。まず何かが見えたら、この物質世界を見ているようにはっきり見えて、はじめて見えたと思う人がいます。これは非常に大きな障碍であり、このような人はいつも人間の考えと概念でこのことを認識しています。そうではありません。もし本当にそれほどはっきり見えた時、あなたは既に悟りを開き、百パーセント悟りを開いており、しかも神を見る時、人間を見る時よりもはるかに鮮明です。向こうの世界は私たちの世界より立体感があり、空気ももっと澄んでおり、物質はより実在性があり、もっとはっきり見えます。つまり、私たちにはっきり見えて、はじめて本当に見えたという観念がありますが、そうではありません。修煉の過程で見えたとしても、はっきり見させてはいけません。ですから、ぼんやりとしたものしか見えません。そして、一部の人はわりとはっきり見えますが、その人に見えたのは局部的なもので、視角がとても狭いのです。はっきり見えたのは、わずかな一部分だけです。視角が広ければ、見えたものは比較的ぼやけているに違いありません。はっきりと見えず、または低い空間、わずかな空間しか見えません。ですから、いわゆる人間が思っている現実という物質の概念で自分を阻害しないでください。これは一つの原因です。しかし、例外もありますが、生まれつきとてもはっきり見える人は少ないので、ここでは触れないことにしましょう。

 他にもう一つの原因ですが、私たちの多くの人は見えないのではなく、見えますが、いつもそれが幻覚で、想像したものだと思っています。初期の頃このようなケースがありましたが、考えてはならず、思いに従って変化するので、少しでも考えるとすぐ変わり、あなたの心に従って変化すると私は『轉法輪』の中で強調して話しました。しかし、一部の人はこの関係を正しく扱うことができません。更に、あなたの執着心、歓喜心による原因の他に、もう一つの障碍があります。どんな障碍なのでしょうか? あなたの頭で考えていることと、あなたに見えた物体の形象は脳の同じ区域に反映されています。脳の同じ部分で作用しています。人間の見た物体の形象はあなたの目で分析して見えたのではなく、視神経を通じて脳の松果体という区域に伝わって見えたのです。しかし、あなたが何かを形象として考え出したときも、その区域で働いています。そのため一種の錯覚が生じました。本当に何かが見えた時、そもそもぼんやりとしか見えないので、あなたはそれを想像したものだと思い込んでしまいます。実は想像したのではなく、本当に見えたのです。

 昔、多くの小道の修煉は弟子を訓練する時、わざと想像させ、見えなければ想像すれば良いと教えていました。最後に、想像すればするほど確実になり、想像すればするほど確実になり、このように弟子を訓練したのです。小道の修煉で正果を得ることが難しいのは、漏れがあるからです。このこと自身が即ち執着です。彼は弟子に一つのものを見るように命じ、見えなければ想像し、じっくり見てからまた目を閉じて想像するようにと要求します。想像すればするほどそれが確実になり、徐々に現実のものとして想像できるようになります。昔、小道はこのように弟子を訓練していました。小道ですから、このような執着が執着だと彼らは気づきませんでした。彼らは圓満成就を重んじていなかったからです。

 私たちはこれらのことをとても重く見ており、如何なる執着も圓満成就に影響します。皆さんに教えますが、この問題をはっきりと見分けてください。もしかしてあなたは、見えたものを想像したものと思っているかもしれません。しかし、このように練習してはいけません。例えば法輪ですが、恍惚として法輪が見えましたが、自分が想像したものだと感じている人がいるとしましょう。法輪が運動しており、回っているのが見えたら、皆さんに教えますが、それはあなたが見たのです。皆さんやってみてください。私の言った通りに見てみましょう。私はただ既に見えたのに、それを想像だと思っている弟子に言いますが、この感覚のない人は無理やり想像してはいけません。それは執着です。私は皆さんの心理的障碍を取り除くため、先ほどのことを言ったのですが、くれぐれも執着しないでください。皆さん、くれぐれもそれに執着しないでください。