スイス法会での説法

李 洪 志

一九九八年九月四、五日 ジュネーブにおいて


 皆さん、こんにちは!

 ここにはシンガポール法会に参加したばかりの人や、他の国或いは地区から駆けつけて来た人もいれば、新しい学習者もいます。法会を開く目的は法会を通じて皆さんが修煉の中でお互いを参考にして、自分の足りないところを見出し、共に向上するところにあります。同時に、法会を開くこと自体も法を広めているのです。私たちがしようとする全てのことは皆さんの修煉のため、向上のためでもあり、決して形式的なものになってはいけません。ですから、将来如何なる時も法会を開く際、このような原則に基づいて本当に学習者を向上させ、着実にこの目的に達成できるものであって、はじめてこのような会を開くことができるのです。法会の開催が頻繁で多すぎると、お互いに見比べるような現象が表れがちです。あなたがこのように開催すれば、私はあのようにするといった具合で、皆人間の心を抱いていれば、それではいけません。私たちは法に基づいて、完全に学習者の修煉のために法会を開くべきです。

 ここに古い学習者が多くいますが、皆さんにお会いしてとても嬉しく思います。私たちは確かに修煉という道に勇猛邁進して己を高めています。皆さんの変化は皆さん自身には今のところまだ分からないのですが、変化は非常に大きいのです。これは近い将来に実証され、感じることができます。ですから、私は非常に嬉しく思っています。

 皆さんは最近の修煉において、法会での私の説法を聞き、また絶えず『轉法輪』を深く勉強しているので、多くの様々な真相の現れがみえ、法に対して異なる更に深い理解を得ることができるはずです。同時に、私は更に皆さんの修煉の過程及びもう一種の宇宙の構造に対する認識についてお話したいと思います。まず宇宙のもう一種の構造についてお話します。ここで一つだけ言っておきたいのですが、宇宙は実際のところ法によって構成されたのです。私が宇宙についてお話するのは、決して現在の科学を高い境地まで発展させるためではなく、知識として皆さんに教えるのでもなく、皆さんが修煉できるようにするためです。それは法と相補うものなので、皆さんを異なる境地まで修煉させるのが目的です。つまり、皆さんは異なる境地にあるあなたの生まれたところ、宇宙の異なる次元、異なる境地に戻るのです。この宇宙の大きさは即ち、法の大きさです。皆さんの考えにとってこれは未知の概念です。今日、私は別の角度からお話しますが、皆さんの考えがついて来られるかどうか見てみましょう。

 まずこの宇宙についてお話しますが、宇宙に言及すると即ち物質、物質に対する認識に言及することになります。現代科学の物質に対する認識のレベルがいくら高くても、まだ極めて浅はかなものであり、しかも宇宙全体と比べれば、口にするほどのものではなく、全く比べものになりません。ご存知のように、私はこの宇宙が基本粒子によって構成されたと話しました。基本粒子はどういうものによって構成されたのでしょうか? これは具体的に話さなければなりません。異なる天体の次元という概念において(異なる宇宙の次元と言っているのではない)、天体はどれほど大きいのでしょうか? その中の一層の天体の範囲は既に非常に大きいのですが、しかし、それには規律があり、平均して何層かの宇宙が一層の天体を構成しているのではありません。およそ一万層以上の宇宙が一層の天体を構成している場合もあれば、一億層以上の宇宙が一層の天体を構成している場合もあります。この概念はとてつもなく大きいのです。ですから、一層の天体は想像できないほど厖大な宇宙の範囲になります。

 人々は宇宙という概念について話す時、ほとんどの場合は認識できた星系の存在範囲について話しており、現在、科学が観察できた範囲は、つまり人々が言っている小宇宙のことです。私は地球という基点からお話します。この小宇宙から言えば、三千個の第二層の宇宙ほどの大きさの宇宙によって第三層の宇宙を構成しました。三千個の私たちのような大きさの小宇宙によって第二層の宇宙が構成され、さらに三千個の第二層の宇宙ほどの大きさの宇宙によって第三層の宇宙が構成されました。その倍数は相当大きいのですが、それは一つの基点から展開して話しているだけです。しかし、地球のような大きさの粒子は宇宙において一つだけではなく、地球とほぼ同じ大きさの粒子は宇宙に万遍なく分布しており、計り知れないほどあります。先ほどは宇宙の拡大する倍数を一つの粒子の基点から話しましたが、実はそれが天体全体に遍く分布しているので、一切の一切の中にこのような大きさの粒子があります。皆このように展開できる体系を持っており、大から小、小から大に展開しています。この小宇宙という層は人類にとって既にとても、とても大きいもので、中にどれほどの大きさの異なる星の粒子があるか数えることができません。なぜでしょうか? 非常に高い次元にいる佛、神、道は全てを洞察することができますが、しかし、誰も塵埃がどのぐらいあるか調べようとしません。実は星は厖大な天体の中で、一粒の塵埃のように宇宙天体の中に漂っているだけです。

 三千個のこのような大きさの宇宙は絶えずその範囲、その体系を拡大し、展開していき、一千層前後になると、第一層の天体の体系範囲を突破します。しかし、この範囲も一つだけではなく、厖大な宇宙の中でそれも一つの粒子にすぎず、この層の粒子も茫々たる天体に遍く分布しています。この範囲を出ると、全て空の状態になります。どこまで空なのでしょうか? この体系のあらゆる物質はそこに入れば自ら解体してしまうことになります。なぜならば、この体系範囲内にあるあらゆる物質には生命があり、特性があり、思想がありますが、それほどミクロ的な空の状態に入ると、まるでこの粒子は既に思想と生命を受け持つことができなくなったので、瞬時に解体してしまい、つまり如何なるものであっても中に落ちると解体してしまうのです。このように話せば、この概念について皆さんは理解しやすいのです。しかし、この空の範囲を越えると、実はまだ他の天体、更に大きい範囲の天体があります。この境地の生命はその天体に一歩も立ち入ることができません。なぜならば、更に更にミクロ的な状態に、更にミクロ的な要素が存在しているからです。しかし更に大きい天体範囲になると、その天体にある物質と生命の概念が完全に変わり、物質の概念は既に存在しなくなります。この天体の範囲において、宇宙の層の数が違いますが、各層の天体を構成する最もミクロ的な最も基本の粒子があるのです。ところが、基本の粒子は全て真・善・忍という宇宙の特性の組み合わせによって造られたのです。

 ここで話している概念は非常に複雑ですが、人類の言葉が非常に限られているので、皆さんは注意して聞いてください。例えば、ある層の最大の顆粒物質もそれ自身の体系の限りなくミクロ的な粒子から発展してきたものであり、これは横方向の粒子の組み合わせ体系と言います。つまり物質の粒子は縦方向にミクロ的な体系から組み合わせてきただけでなく、それ自身も、自ら構成した体系のミクロから更に大きい、更に更に大きい物質によって構成されたものです。つまりこの体系にある全ての大きさの異なる粒子自身も、ミクロ的な物質から構成された体系です。しかし、この体系にある全ての大きさの異なる粒子も遍く分布しているので、大きさの異なる粒子の間にまた横方向に組み合わせる体系を成しています。そのため、その最も基本的な粒子はその最大の層の粒子まで遥かに離れています。

 では、最も本源的な物質は一体何でしょうか? 水です。しかし私が言っているこの水は常人社会の水ではなく、異なる次元にある江、川、湖、海の水でもありません。この水はその一層の天体にある全ての物質と生命を造成しており、本源だと言ってもいいのですが、本源と呼ぶしかありません。しかし、この水はまた私たちが認識している常人の空間のような水の概念とは異なります。正確に言えば、死水と呼ぶべきです。なぜならば、それは動かず、完全に静止して動かないので、ものを投げ込んでもさざ波も起きることなく、水切りもありません。

 水についてお話していますが、まず人間社会にある水について話します。人類の科学で例をあげて説明してもいいのです。私たちがいるこの常人社会では、皆さんもご存知のように、現在、科学者の言う有機物と無機物に関しては、この空間に限っての認識です。物質の構成はただ表面のこの空間の物質だけではありませんが、通常、科学者は木、花、草、植物、動物、人間も含めて、この空間の人間がそれには生命があると思うものを有機物だと認識しています。実はこれらのものは全てこの空間の水で構成されたのです。ご存知のように、私たちの身体の九十パーセント以上が水です。つまり、私たち人間もこの空間の水によって構成されているのです。昔、私は水が万事万物を構成できると言いましたが、現在の科学者はまだそこまで探測できません。しかし、この物質空間の水から野菜を生育することができます。手で野菜を絞りに絞れば、最後に何も残らず、ただ葉緑素だけが残ります。特殊な処理をすると葉緑素も残らず、全て水になってしまいます。この空間の全て、人々に有機物質と見做されている物質は、実は全てこの空間の水からできており、つまり水が全てを形成し、全てを造成したのです。

 一方、認識された無機の物質も、実は皆さんに教えますが、それは更に高い次元の水でできたのです。しかし、現在の科学は認識できないため、それには生命がないと思ってしまいますが、実は生命があるのです。その生命の存在形式は、現在の科学が認識できるものとはほど遠いのです。彼らの現在の観念に沿って発展していけば、永遠に認識することはできません。昔、中国古代の修煉界でこのような話がありました。ある神仙は非常に優れた能力を持っており、石を鍋に入れて水を搾り出すことができます。笑い話のように聞こえますが、実はそうではありません。この宇宙が構成した天体の範囲内に存在しているあらゆる物体は、その最も本源的なものが皆、水なのです。更にミクロ的な水はどのようなものでしょうか? そして更に更にミクロ的な水はどのようなものでしょうか? それは不可思議なもので、想像できないのです。ですから、皆さんにとってそれは一つの概念にすぎないと言いました。

 先ほど、異なる次元の粒子に皆最も本源的なもの、最も本源的なものがあると話しました。しかし、この粒子全体に縦の順序もあれば横の順序もあります。まさに私たちが地球にいて、幾つかの銀河系が一つの宇宙を構成し、また幾つかの宇宙が更に広範囲の宇宙を構成することと同じです。ここでは地球を一つの基点としていますが、私たち人間がここにおり、私がここで法を説いているので地球を基点としました。しかし、地球が宇宙の全ての物質の基点ではありません。私たちは自分が見た周りの全ての物質を最も物質的なものだと思っています。今まで説法の時、皆さんの思想を混乱させないように、それを最低の物質だと話しました。実はそれが唯一の物質ではなく、基本物質と言ってもいいのですが、別の言い方では、また超物質、更なる超物質、更に更なる超物質……もあります。

 地球はこの三界の空間の中心に位置していますが、縦にしても横にしても顆粒の大きさにしても地球は中心にあります。地球の質量より更に大きい物質はまだありますが、ここでいう質量は私が今まで話したあの質量ではありません。原子や原子核で構成したものの質量は非常に大きいなど、全くこのような概念ではなく、それらは人類が認識できる物質です。私が話しているのは超物質で、全く人類の空間の物質ではありません。しかし、顆粒にしても表面の構成状態にしても、皆、この空間の物質を超えています。ですから、最も大きい超物質の基点は三界の果てにあります。また最も小さい物質の基点も同様に三界の果てにあります。人類の空間は大きい物質と小さい物質の中心にあり、これは即ち人類が認識した物質の基点です。もし人類のこの空間の全てを物質と呼べば、三界内にある人類世界の物質より小さいものを非物質、更に小さいものを非非物質と呼ぶしかなく、このように三界内の最も小さい粒子に到るのです。以前、宇宙の大きさの概念は、常人が認識した大きさの概念のようではないと私は話しましたが、つまりこの意味です。

 天体宇宙全体も同じです。粒子は皆生きており、生命があるのです。それでは皆さん考えてみてください。宇宙がいくら広くてもそれも生き物です。しかし、天体の範囲内に無数の大きさの異なる粒子があり、それも一つ一つの生命体として存在しています。この宇宙に何層の天があるのでしょうか? 何層の宇宙があるのでしょうか? 何層の天体があるのでしょうか? 中に存在しているあらゆる生命は、この宇宙の厖大さと複雑さを推し量ることができません。私が話した天体という概念は、数千万層以上の宇宙によって構成されていますが、それもこの無限で厖大な宇宙の一粒の塵埃にすぎず、非常に小さい粒子です。もしあなたが遥かに遠いところにたどり着くことができて振り返って見れば、それは人間が砂を見る時よりも小さく感じるのです。更に遠いところから見れば塵埃よりも小さいのです。更に遠くなれば全く見えなくなります。はっきり言えば、先ほど皆さんにいろいろ話しましたが、宇宙全体が粒子から粒子を構成し、更に粒子から粒子を構成していると思われているかもしれません。実は更に広いところまで見れば、粒子から構成されたということではなくなり、それを表現する言葉もなく、人間に明かすこともできません。

 しかし、人間の思想にはどうしても限界があり、私が粒子から粒子を構成したと話すことによって、皆さんをまたある単純な法則に導いてしまいましたが、実はそうでもありません。宇宙の構造は非常に複雑で、人間の言葉では明らかに表現することができず、しかも私たちの空間から離れると、思想、時間、空間、生命の形態など全て変わり、特に時空が変わります。粒子と粒子の間に大きな差異があります。例えば星と星の間に距離があることを皆さんは知っていますが、その距離は非常に遠いものです。しかし皆さんは知っているでしょうか。私たちの身体、木材、空気、水などの全ては皆分子で構成されています。分子も一層の粒子ですが、この層の粒子は星とわずか一層の違いだけです。つまり星より小さい粒子の中で分子が最も大きいのです。分子より小さい粒子の中で最も大きい粒子は原子です。それでは分子と原子の間の距離は私たち人間の概念で認識すれば、距離がないほど近いものだと思われています。しかし、もしその状態に入ることができれば、中に同様にその空間の時間と状態があり、それも一つの極めて果てしなく広い空間であることに気付きます。全ての層がこのようです。分子と星の間に立って見れば、天体が非常に広いと感じますが、もし原子と分子の間に立てば、その天体がもっと広いと感じます。つまり、その時間と空間の状態に符合して、はじめてそれを認識することができます。

 先ほどの話は、星と星が相当離れているのに対して、私たち人間の概念で認識すれば、分子と分子の間が非常に近いと感じられていますが、実はそれもかなり離れているということを皆さんに教えたいのです。粒子は私たち人間、各種の動物、各種の植物、木材、セメントや鉄鋼、及び私たちの生存に必要な空気など、無数の生命を構成することができます。以前、私は人間が実は土の中で生存していると話しました。虫が土の中でうごめいていると私たちに分かりますが、ご存知ですか? 神も私たちをそう見ており、人間も土の中でうごめいているのです。なぜでしょうか? 私たち人間は土を見て、それを土だと思いますが、神は全ての分子、つまり三界内の分子が皆、土だと思っており、しかも最も荒い物質、最も汚い物質であり、神はそれを土だと見ており、確かに土です。ですから、皆さん考えてみてください。神はどのようにこの宇宙、この世界を見ているのでしょうか? 空気も分子で構成され、あなたの周りにある全ての環境は皆、分子で構成されており、またこの空間の水も分子で構成され、空気までもそうです。神は分子を土だと思っているので、あなたは完全に土に埋められています。人間は土の中を這いまわっており、このような環境の中で生存しています。このように話せば、皆さんは多分、なぜ西洋の宗教のエホバ或いは(JESUS)イエスが泥で人間を造ったと話したか分かるでしょう?! 実は東洋の人も女媧が泥で人間を造ったという物語を伝えています。このように話せば理解しやすくなると思います。実は、神はこの空間にある全ての物質を構成する粒子を土だと見ていますが、実質はそうです。

 先ほど粒子が空間の全てを構成でき、異なる天体が皆広々としており、非常に繁栄していると話しました。粒子がミクロであればあるほど、構成した世界はよりきれいで、より美しいのです。実は更に大きな粒子はまた更に広い天体範囲、或いは更に大きな生命を構成することができます。この星は、私たち人間から見れば非常に遠く感じるのに対して、更に大きな生命にとっては非常に近く感じられ、まさに人間が分子と分子の距離を見るのと同じです。それでは、人間に見える星と星の間もある生命の身体の一部分の存在であるかもしれないのではありませんか? 言い換えれば、それが更に大きな生命を構成することができるのではありませんか? 実は同じです。昔、巨人と小人がいたと伝わっていました。常人がそれを認めるかどうかは別として、私は道理から言っており、ただ時代が変わっただけです。歴史はここまで至り、この時期の歴史と文化の要求に符合しなければならないので、現在の社会が今のようになってしまったのです。人間は見ることができず、触ることのできないものを信じようとしません。信じなければ信じないほど、人間に真相を知らせなくなります。それは人間が愚かになったからです。人間が信じなくなったのも按排されたのです。人間が自分で決着をつけようとしていますが、今までそのようなことは一度もなかったと私はいつも言っています。

 人間は自分で決着をつけようとして、民主主義を取り込もうとしていますが、実は人間は一度も本当に自分で決着をつけたことなどありませんでした。なぜならば、神がこの世界を制御しているからです。福の多い人、能力のある人は必ず高官につくように按排されています。福の少ない人、能力のない人は決して高官にはなれないのです。パリコミューンは君主制を覆しましたが、皆さんに教えますが、フランスの歴代で選出された大統領は皆、昔の皇帝であり、ただ別の按排になっただけです。ここでこの話をしたのは、つまり、全てが神に按排されているということです。また、今日常人社会に現れてきた各党派間の闘争も今日の人類の生存状態です。古代、このようなことはないと皆さんも信じていると思いますが、今日に至って実は、人類は変異した人類であり、変異した社会です。このことについてはまずこのぐらいにしましょう。

 先ほど宇宙の異なる粒子は大きさの異なる生命を構成することができると話しました。全ての星に生命が存在していますが、ただ人間の空間に現れてこないので、人類もそれを認識することができません。今日の科学はまだ進んでいないため、この空間で手探りをしているだけで、それを認識することができません。実は別の空間を開くのも簡単なことです。ミクロの空間を観察できる巨大なシステムがあれば、分子以下の粒子で構成された物体の存在形式を見ることができるのです。人間には各種の障碍があり、考え方の障碍により信じられず、それを行なう勇気がなく、意味のないことだと思っているので、それらの真実の存在も目にすることができないのです。しかし、あなたが見ようとしても、しなくても、その本来の姿がたまに現れてくることがあります。時折、複雑な運動をする物質の中に突然現れ、それを忽然と見た人がいます。これはよく起きることです。人々が皆、蜃気楼を大気の屈折だと言っていますが、それは解釈することのできない、現在の科学の辻褄合わせであり、何の道理もありません。実は、それは別の空間の如実な体現です。先ほど話したこの宇宙の概念は皆さん理解できましたね。そうでしょう? (拍手)

 この宇宙の全ての物質は皆、真・善・忍によって構成されています。真・善・忍は異なる次元に異なる現れがあり、異なる次元における表現形式があり、異なる次元の生命に異なる生存環境を切り開いたのです。人間というところまでくると、この法の現れは非常に大きくなり、非常に厖大で繁雑になり、修煉形式も多くあり、悟った理も非常に多くなりました。一人の良い人間になるのに、この空間に存在している要求はつまり仁、義、禮、智、信などです。これらも真・善・忍から派生してきたもので、これだけに留まらず、まだ多くあります。女性を構成する要素は愛嬌と優しさ、男性を構成する要素は剛直であるなどは、全て法から現れてきたのです。物質の存在状態と方式も含め全てが法から現れてきたのであり、法が全てを造成したのです。

 次に修煉のことについて触れたいと思います。なぜその境地の基準に達するまで修煉して、やっとその境地に行くことができるのでしょうか? その次元にその次元の法があり、その境地には生命への要求と生命の環境に対して基準があるからです。身体に業力があり、その空間の環境に符合していなければ、それではいけません。汚い身体では決してそれほど次元の高い空間に行くことはできないのです。ですから、必ずそれほど高い次元の境地における身体の状態に符合しなければならず、つまり業力がないということです。業力がないだけでなく、この身体の物質はそれほどミクロになり、それほどきめ細かくならなければいけません。このことは着実に修煉しない人が求めて得ようとしても得られないので、修めるしかありません。苦を嘗めて厳しい修煉を経てやっと得るのです。

 更にあなたの生命の一面もその境地の基準に符合しなければなりません。つまりあなたの心、思想、あなたの生命に存在している全ての霊性もその境地の基準に符合しなければいけません。

 もちろん、その空間における生命の存在形態には、もう一つの基準があります。今の人間のままでは、そこに行くことはできません。あなたが圓満成就する時、必ずその空間の生命の形象にならなければなりません。次元が高ければ高いほど、生命の形象は若くて美しいのです。下の空間であればあるほど、きれいでなくなります。次元が高ければ高いほど、形象が美しくなるだけでなく、考えも純粋で清らかで美しく、その存在の方式、物言いや振る舞いまで変化が起こります。その境地にいる生命が話したことは詩のようですが、これでもまだ一定の次元での状態にすぎません。更に次元の高い境地は更に素晴らしいのです。その境地の要求に符合していなければ絶対いけません。私はいつも「修は己にありて、功は師にあり」と言っています。つまり、あなたが到達しようとしているそのような境地のことを全く知らないのに、どのようにしてその境地に到達するのでしょうか? どのように成し遂げるのでしょうか? 自分ではできないのです。私はただあなたの修煉の心を見ているだけで、ひたすら修めていくと決意すれば、他の一面は師父が行ないます。決意を固めることができるかどうか、最後まで修煉を続けるかどうかが最も肝心なことです。

 功の具体的な演化方式について、私は皆さんに説いたことがなく、このことに気を取られてほしくありません。こうすれば、執着が起こりにくく、あれこれと妄想に耽けることが避けられます。皆さんもご存知のように、次元が高ければ高いほど思想が静まります。しかし心性を高めずに、一途に入静を求めるのは間違いです。煉功の時、一途に入静を求める人がいますが、どうしてもその状態になりたいと思えば、一種の執着を形成してしまいます。しかし皆さんに教えますが、小道から言えば、それは一つの方法ですが、高い次元から言えば、これは有為なのです。なぜでしょうか? 入静は修煉によって執着心を取り除いてから、はじめて得ることができるのです。人為的に完全に入静し、たちまち全てを放棄するということは(もちろん特殊な情況もあります。それについては触れません)、普通はできないことです。入静できたのは、あなたの考えが既にそれほど純粋で清らかになったということです。いわゆる特殊な情況は、副元神を修煉する方法を指しています。最初から人為的に入静することはできますが、それは大法の修煉方法ではありません。これは決して小さな問題ではありません。

 自分が目的を抱いて相手を変えようとし、或いは相手を説得しようとして話しかける時、あなたの話がいくら理にかなっていても、相手にそれを完全に受け入れてもらうことはなかなか難しく、しかも、相手の心を打つこともできないと以前私は説いたことがあります。なぜでしょうか? 実は皆さんに教えますが、その話の中にあなたの全ての思惟があるからです。皆さんは常人の中にいて各種の七情六欲があり、ひいては多くの執着があり、話したことの中に複雑な考えがあるので、話にそれほどの力がなくなり、力が分散してしまったのです。更に、人に何かを言おうとする時、往々にして自分の観点に立脚し、宇宙の法に符合しているとは限りません。ですから、この点から言えば、また真理の力も欠けています。また人に何かを話す時、自分が傷つけられないように、自己を守ろうとするため、つまり、あなたが話をする時の目的も不純になり、このように話すことは非常に重みがなくなるのです。しかし、もし考えが本当に清らかで静かになることができれば、或いは執着心がますます少なくなり、雑念が少なくなった時、自分の話に力がついたと気付くのです。無為を説いた時に、構うべきではないことに勝手に手を出さないようにと言いましたが、それはなぜでしょうか? あなたの話に力がつき、力のある話は他人を変えることができます。正しいかどうかを問わず、あなたが人を変えてしまえば、間違いを犯す可能性があります。あなたの目に見えたのは表面的なことで、過去の因縁関係はあなたには見えず、真相が分からないのです。更に高い次元まで到達すれば、あなたの思想はますます清らかになり、あなたの考えから現れてきたもの、口にした話は非常にきれいになります。きれいであればあるほど、単一であればあるほど宇宙の理に、より符合するようになります。話したことも直ちに人の心まで届き、人の思想の深いところ、その生命の更なるミクロなところまで届くのです。なんと強い力でしょう?! ですから、入静できるのは境地の現れです。

 修煉してその次元の基準に符合して、はじめてその境地に行くことができます。さもなければ、その境地に行くことはできません。これは、なぜ私がいつも修煉は人の執着心を取り除き、業を滅し、法の要求に符合し、いつも多く本を読み、法をはっきり知らなければならないと言っていることの理由です。

 先ほど、以上のことを簡単にお話しましたが、今日は法会であり、皆さんが私に会う機会も少ないので、機会があれば是非聞いてみたい質問も多くあるかと思います。これからの時間を利用して皆さんの質問にお答えします。しかし気を付けていただきたいのは、一部の人(主に新しい学習者ですが)は質問をする時、偉そうな言い方をして、師父への尊敬の気持ちも欠けています。もちろん、私は師道の尊厳を言っているのではありませんが、なんといっても私は皆さんの師父であり、皆さんをそのような境地まで済度していくのです。私が皆さんに与えたものは、皆さんの生命が永遠に報いることのできないものです。ですから、弟子として相応しい口の利き方をしてください。

 それでは、皆さん質問を出してください。

弟子:釈迦、老子、イエスの後に如来まで修煉できた人は、どのぐらいいたのでしょうか?

師:総じて言えば非常に多かったのです。釈迦牟尼の後に多くの人が得道しましたが、皆佛教の中で修煉して圓満成就したのです。イエスの弟子には修道士として圓満成就した人もいました。もちろん、中国にも道を修める方式は多くあります。修煉方法は地域に制限されないため、古代の西洋社会にも道を修める人がおり、圓満成就した人も多く、全て宗教の中で修煉して圓満成就したわけではありません。しかし、近代になって圓満成就した人は少なくなり、現代社会では、ほぼゼロに近いのです。

弟子:『轉法輪』の中で、月は先史人類が造ったと書かれていますが、当時のその理由と目的を少し説明していただけますか?

師:皆笑っています。質問は私が説法する目的から遥かにずれてしまったからです。あなたは知識を求めており、いろいろ妄りに考えています。考えれば考えるほど、あなたの思想は清浄でなくなります。あなたは常人の中で執着しているそれらのものを手放すどころか、私に聞き、更に法の中に混ぜてしまいました。私はまさにこの方面において皆さんのために焦っています。修煉に心を置いてください。もちろん質問を出した以上、少し説明してあげてもいいのです。

 歴史上、今日のような科学の状態はありませんでしたが、異なる時期の人類にその時期の発展方式がありました。その時期の人類は、夜が人々に不便をもたらすと認識したので、月を造って天に置いたのです。月は夜の地球に光を与えることができます。これは修煉と何の関係もありません。あなたに説いてあげたくないというわけではありませんが、私が説いた話は何らかのことを是認してしまい、私が説いた話は法になるので、個人的に興味のあることを私に言わせないでください。

弟子:意念の速度は光速より速いのでしょうか?

師:これは間違いなくそうです。人間の意念の速度は非常に速いのです。次元が高ければ高いほど、あなたの次元の下にある全ての空間を貫いてしまいます。この話を皆さんはしっかり聞いてください。あなたの次元が高ければ高いほど、あなたの功はあなたの下にあるあらゆる空間を通り抜ける時、その空間の時間の制約を受けませんが、功はあなたの意念によって制御されています。この環境に生存しているので、あなたの歩く速度、車の速度、全ての全てはこの空間の時間の範囲内に制限されています。人間が発した意念は、人間の空間において非常に速いのです。修煉者がこの空間の制約を超越していれば、その意念は非常に速いのです。同時に、人の功と人体に備わっている全ての能力が皆あなたの思想に制御されていると説いたので、つまりあなたの意念がそこに届けば、あなたの功もすぐにそこに届くということです。これほど大きな力があるのです。高い境地まで修煉した人に鍵を掛けなければ、本当に一瞬にして天地を覆してしまいます。ですから、完全に悟りを開いておらず、この世で修煉している間、決してあなたに鍵を掛けずに修煉させてはいけません。能力の小さい場合は大丈夫です。なぜならば、この空間もこの空間の神によって管理されており、神がこの空間の全てを制御できるので、あなたは天地を覆すことができません。しかし能力が大きくなると、それはいけません。師父もそれを止めるのです。

弟子:この宇宙でどの物質の速度が一番速いのでしょうか?

師:あなたは科学を聞いていますね。皆さんに教えますが、あなたのこの求める心を満たしてしまうと、あなたの執着を強めてしまうことになります。教えたくないのですが、この質問は既に出されました。

 この空間、即ち今人間が認識している速度には、更に強いエネルギーがあるのですが、人間はそれを発見もできず、利用することもできません。いわゆる最大とか、最小などは、全て人間の認識に基づいたものであり、人間の空間場と時間場の範囲内の認識です。この宇宙には人間が認識したような大、小の概念がありません。ですから、宇宙のどの物質の速度が一番速いかということも、次元によって定められています。例えば、次元の非常に高い神の話の速度ですが、時に非常にゆっくりゆっくりと話していても、あなたの思惟の速度よりも速いのです。私がここで話したこと、先ほどのあなたの質問は執着だという話は過ぎたばかりですが、ある空間では既に数百年が過ぎました。これほど大きな差があります。宇宙はあまりにも厖大なので、時間場の違いによって宇宙の複雑な空間を構成しました。

 実は、「時間の制約を受けないものは一番速いのです」。しかし、人間にとって永遠にこの言葉の内涵を本当に理解することはできません。「宇宙のどの物質の速度が一番速いのか?」というあなたの概念も人間の考えであり、人間の認識です。私たちの今の空間も含め、この時間も絶対的なものではありません。皆さんご存知のように、私は『轉法輪』の中で、今見えた星は私たちと十五万光年離れていると説きましたが、実は私は、現在の科学と人間に認識できることを用いて説いただけで、実はそのようなことではありません。なぜでしょうか? 皆さん考えてみてください。異なる空間に異なる時間が存在しているので、私たちの地球範囲内にはある時間場が存在しており、全てがこの時間の範囲内に制限されています。人工衛星は一旦この大気圏を抜け出すと、別の時間になり、決して地球の時間と同じ時間場ではありません。また他の星を通過する時、その星の時間場になるのです。天体範囲が大きくなればなるほど、時間と速度の差異も大きくなります。

 銀河系に起きた出来事を十五万光年経ってからやっと見ることができると言いましたが、実は皆さんに教えますが、二、三年ぐらい経てば見ることができるようになるかもしれません。なぜでしょうか? 光の速度も時間場に制約されているからです。異なる時間場を通過する時、光の速度は「シャー、シャー、シャー」と速くなったり遅くなったりします。地球までやってきたら、地球の時間場に符合し、非常に遅くなります。地球にいる人類が認識した時間場をもって宇宙の時間を量ろうとしても、全く不可能です。人類の真理に対する認識、物質に対する認識、生命に対する認識、宇宙に対する概念、人類の発展も含めて、多くの物事に対する認識は皆間違っています。

弟子:佛家の大覚者は私たちのこの宇宙の光について、どう解釈しているのでしょうか?

師:光だけが見えても、全然たいしたことではありません?! 光には多くの種類があり、異なる次元の光も違い、光を放つ情況や目的も異なります。ですから、常人の考えで人類より次元の高い物事を考えないでください。修煉したければ、本を多く読み、法を多く学んでください。悟り得ないこと、知り得ないことは将来皆法の中から見えてくるのです。皆さん考えてみてください。如何なる物体にもエネルギーがあると私は言いましたが、分子さえエネルギーがあるのです。人々が分子にエネルギーがあると感じられないのは、人間自身も分子によって構成されているので、感じられないのです。エネルギーのある物体であれば、光があり、エネルギーを持っています。ですから、事を針小棒大にし、何に対しても大げさに騒がないでください。いざ大法弟子の威徳が現れれば、それこそ偉大で光り輝くのです。

弟子:法を広めるために、師父の経文を新聞に掲載してもよろしいでしょうか? 経文の内涵が曲解されてしまうのではないかと心配もしていますが?

師:曲解されてしまうことがあります。ですから、できるだけそうしないでください。なぜでしょうか? 皆さんに教えますが、私たちの法を広める最も良い方法は、皆で集団煉功することです。私たちは縁のある人を取り残さないようにと説いているだけです。私は全人類に法を得させるために法を広めているのではないと言いました。決してこのような概念ではありません。縁のある人に法を得てもらうと私は言っています。今日ここで、皆さんにはっきり話してもいいと思いますが、私たちがいつも言っている法を広める方法は、皆さんが外で煉功することと、社会で大法の本が書店で販売されていることです。私の法身は縁のある人に本を買い求めさせ、縁のある人であれば、本を読んですぐ学びにやって来ます。また私たちが外で煉功しているので、法身はその人が煉功場を尋ねて法を得るように按排するのです。偶然が重なるようにその人を煉功場に行かせ、煉功させます。或いは、他の学習者と連絡が取れるようにします。私はこのようにこのことを按排しています。

 皆さんはもっと多くの人に大法を知ってもらうために、多くの方法を講じました。これが皆さんの気持ちであり、私には分かっています。皆さんもよく行ないましたが、皆自発的な個人としての行動なので、それが正しいかどうかについて、私は言わなかったのです。しかし、私が法の中で大法のために残した法の広め方は、これだけです。外で集団煉功をし、法会を開催することと、書店で本が販売されているということです。縁のある人は本を買いに行き、読んで学びたくなれば自分で尋ねて来るのです。そういうことです。もちろん、時には学習者は個人的な行動として、他の人に知ってもらうため新聞に載せたりしましたが、それも多くの人に法を得させることができます。私はこのようなやり方も否定しません。なぜなら、縁のある人に知ってもらえるからです。ただ皆さんに残した最も良い法の広め方が集団煉功と法会であると私は話しただけです。

弟子:私は法を広めることが修煉と切り離せないと考えていますが、法を広めることは圓満成就と関係ないと師父はおっしゃいました。

師:法を広めることと圓満成就は、もちろん二つの語彙の概念です。しかし、法を広める学習者はそれを仕事として考え、いつも頑張って精力を費やしており、普段あまり本を読まず、煉功をする時間もなければ、このような状態下で行なった仕事は必然的に法とかけ離れてしまいます。つまり、あなたは自分の修煉を仕事と結び付けなかったのです。仕事をする時に強い執着を抱いており、ぶつかった厄介なことが自分の心性と関係しているのではないかなどと考えもしません。自分のやり方が大法及び修煉者としての基準に符合しているかどうか、このように内に向けて自分を探さず、このようにみなければ、それはただ常人の仕事で、常人が大法の仕事をしているにすぎず、少なくとも修煉者としての基準に基づいて行動していません。修煉と仕事を結び付けなければなりません。仕事の中でどんな難題にぶつかっても自分の心性を探し、自分を反省することができれば、例えば、トラブルに遭ったら、「どうしてこうなったのか? 私が間違ったのか? 或いは、私の出発点に問題があったのか? 或いは他の原因なのか?」と自問し、つまり、あなたはいつも修煉者としての基準をもって自分に要求し、自分を量るということです。一つの念も緩めず自分を修煉者と見做すことができれば、あなたは既に修煉の中にいるのです。そうであれば、あなたの仕事は既に法と結びついたのではないでしょうか? 圓満成就にいたっては、あなたの修煉の度合い、圓満成就まで修煉したかどうかを見るのです。皆さんは一人一人毎日修煉していますが、圓満成就できるかどうかは圓満成就の基準に至らなければならないのです。

弟子:私は毎日『轉法輪』を読んでいますが、しかし「祝由科」、「辟穀」、「気を盗むこと」、「気を採ること」などの内容は知る程度でいいと思います。

師:皆さんに教えますが、私はそのようなことを例として説いているのですが、私が説いたのはそれだけではなく、私が説いたのは法理なのです! その背後にある内涵は数えきれず、尽きることなく、終わることもないことであり、この宇宙の大きさは法の大きさなのです。私はただ人間の最も一般的な行為、最も分かりやすい言葉、最も次元の低い人間の形式をもって法を説いているにすぎませんが、このようにする目的は皆さんが理解できるようにするためです。その背後に尽きることのない内涵があるということを悟ってほしいので、決して飛ばして読んではいけません。法を読む時に全ての内容を漏れるところなく最後まで読んでください。くれぐれもこの問題に気を付けてください。法の一貫性は皆さんの修煉に非常に有益なのです。法は最初から最後まで繋がっていますので、飛ばして読んではいけません。

弟子:煉功者の周りの環境にある全ての事物は、皆師父が演化してくださったのでしょうか。

師:周りの環境は演化されて出てきたのではなく、修煉の過程で周囲に起きた全ての出来事はみな、自分の先天の因縁によって引き起こされたことです。つまり、それはあなたが造った業力の報いであり、昔、行なった良いことの報いでもあり、全てがあなたの善果と悪果です。私はあなたが修煉できるようにそれを利用したのです。私が演化したのではありません。また、あなたは関を乗り越えると同時に、確かに業も返しています。これは間違いのないことです。多くの学習者が夢の中、或いは座禅をしている時に見えたものも全て演化されたものではなく、その多くが真実の体現ですが、ただ、あなたはそれほどはっきりと感じていないだけです。

弟子:師父が修煉されていた時のことを圓満成就できる弟子に教えていただけますか?

師:圓満成就したら分かるようになります。元々私が修煉していた時の情況を皆さんに教えるつもりでいました。現在の状況から見れば、それはますます不可能になりました。なぜ不可能なのでしょうか? 将来の人間に私の存在を知らせないため、人間に私の情況を残したくないからです。皆さんの場合、圓満成就さえすれば、分かるようになります。その時、あなたは言葉を尽くしても、あなたの師父がどれほど偉大なのか言い表せません!(拍手)

 私は皆さんだけでなく、全ての生命のために心を砕いており、全ての生命のため、ほぼ私の全てを使い果たしました。もちろん、この使い果たしたとは、皆さんが理解しているような、無くなったという意味ではありません。皆さんが修煉して向上できるもの、修煉の中で得ることのできるものを、全て法に詰め込んだと私はいつもこのように言っています。皆さんは異なる境地にいますが、誰もこの話の重みを本当に理解することができません。修煉さえすれば、何でも得られます。しかし皆さん、知っていますか? 皆さんが得たものに私のものがどのくらい溶け込んでいるでしょうか? (拍手) もちろん私は自分のこれらのことを話したくありませんが、ただ皆さんに伝えたいのは、師父である私がしているこのことを皆さんも大事にすべきだということです! 必ず着実に修煉し、この機縁を逃さないようにしてください。

弟子:いつになったら、私たちは西洋の人が翻訳した大法を入手することができるのでしょうか?

師:『轉法輪』はもうすぐできますよ。フランス語版はもうすぐ出版社に渡して印刷します。英語版は既にできました。ドイツ語版は既に書店にあり、多くの書店にあるようです。他の言語、例えばイタリア語版、スペイン語版は今翻訳中だそうです。ロシア語版は既にできました。これが西洋の各国語版の情況です。他の言語にも訳されている最中です。このことは私としては確かにあせっています。しかし往々にして、各方面の機縁がまだ熟しておらず、その上、皆さんが各方面からの妨害を認識できなかったため、ずっと長引いています。

弟子:心性の修煉が最も大事であれば、どうして師父は本の中で修煉の次元や神通について言及されたのでしょうか?

師:多くの質問は新しい学習者が出したものですが、本を読んでから質問したほうがいいでしょう! 修煉は佛の能力と切っても切れない関係にあります。ですから私はこのようなことを説いた時、ただ道理から、法理から概括的に説いているだけであり、あなたに分からせ、例を挙げて修煉者に他のことも分からせる、このような目的です。これらのことを求めてはいけないと言いながらも、修煉の次元や神通を説いたということではありません。これらのことは佛法修煉と切っても切れない関係にあります。皆さんが求めていることと、法理を知っておくべきこととは完全に違います。それは佛法のもう一面の体現です。佛法神通の殊勝さが見えないのは、あなたが常人の観念を抱きながら本を読んでいるからです。自分の考えに合ったものなら読みますが、あなたの常人としての考えで理解できないものは読まず、ひいては受け入れません。しかし、これがまさにあなたが向上できない原因なのです。

弟子:どうして同性愛が道徳観念にかなっていないのでしょうか?

師:皆さん考えてみてください。同性愛は人間としての行為なのでしょうか? 神が男性と女性を造りましたが、その目的は何でしょうか? 子孫を残すためです。男性と男性、女性と女性なら、少し考えればすぐにそれが間違っているかどうか分かります。小さい事であれば、それは間違いだと言えますが、大事なことを間違えたら、それは人間の道徳規範を失ったことになり、人間でいる資格がなくなります。

 今日の社会はなぜこのようになったのでしょうか? 皆さんに教えますが、それは人間を規制する正法がないから引き起こされたのです。大法は他でもなく、このような最も乱れた環境の中で、全ての宗教が人を済度できない時、全ての神も見放した状態の中で伝えるのです。なぜなら、法の力が大きいからです。最も良い時期なら、これほど大きな法を伝える必要もなく、最も良くない時期こそ、法の威力を現わすことができます。しかしまた別の原因もあります。

弟子:どうして同性愛者は悪いと思われているのでしょうか?

師:皆さんに教えますが、私が今日この法を伝えなければ、神にまず消滅されるのは同性愛者です。私が同性愛者を消滅するのではなく、神がするのです。同性愛者はある根拠を引っ張り出して、古代ギリシャ文化に同性愛が既に存在したと言っています。確かにそうです。古代ギリシャの文化には類似した現象がありました。では皆さん、古代ギリシャの文化がなぜ消えたのか知っていますか? 古代ギリシャ人がなぜいなくなったのでしょうか? その程度まで腐敗堕落したから消滅されたのです。

 神が人間を造った時、人間に人間としての行動規範、生活様式を定めたので、人間がこの範囲から逸脱すれば、人間と見做されなくなります。しかし、同性愛者が人間の姿かたちをしているので、神はその存在を認めず、彼らを消滅させるのです。なぜ世界に戦争、疫病、天災、人災が起こるのでしょうか? それは人間に業力があり、人間の業力を滅するためにあるのです。将来いくら素晴らしい歴史時期であっても、地球には戦争、疫病、天災、人災が存在しますが、それは人間の業力を滅する方法の一つです。罪を犯した人なら、肉体の死や苦痛によって業力が滅され、輪廻転生して業力はなくなりますが、その生命は本当になくなるということではなく、再び輪廻転生します。しかし、造った業があまりに大きい人の場合、生命の本質まで及び、全てが消滅されるのです。同性愛者は神が人類に与えた規範に自ら反しているだけでなく、人類社会の道徳規範をも破壊していますが、特に児童に与える印象が将来の人類社会を魔物の世界にしてしまいます。つまりこの問題です。しかし、その消滅はすぐになくなるのではなく、全ての次元において、私たちにとって非常に速いスピードで消滅されていますが、その時間場にいる人間にとっては極めて長いのです。繰り返し、繰り返し、極めて苦痛な状態の下で消滅されます。それは非常に恐ろしいことです。人間は明るく、正々堂々と人間らしく生きていくべきです。自分の魔性を放任し、やりたい放題ではいけません。

弟子:私は正果を得たいのですが、羅漢果位を目標としていますので、法を広めることも含めて積極的に私と縁のない人を助けたりはしません。これは間違っているのでしょうか?

師:間違っています。これはあなたの表面にある人間としての考えです。ご存知でしょうか? 一人一人がどこまで修煉できるのか、どれぐらいの忍耐力があるのか、どれぐらいの徳があるのか、どれぐらいの物質的な基礎が備わっているのか、私は全て皆さんのために非常によく按排しました。自分で自分の修煉の道を按排しようとすれば、それは成り立たないことで、しかも誰にも認められないのです。なぜ、羅漢果位を目標として設定したのでしょうか? あなたの法に対する理解は今この程度のものであり、あなたに多くの取り除きたくない執着があります。それもあなたの法に対する理解がこの程度のものだと言うしかありませんが、あなたはこのように認識しています。将来法理に対する理解が高まり、大法の本を読む回数が多くなれば、きっと考えが変わると思います。その時、今日の質問を出すべきではなかったと思い、赤面してしまうに違いありません。今の段階ではそれがあなたの現在の基礎を表しているとしか教えられないので、私もあなたを咎めません。しかし、あなたのやり方は間違っています。自分を緩めてしまうと、放棄したくない執着心はあなたが精進できないように阻害します。

弟子:私は修煉を始めて間もない頃、非常に熱心に精進していましたが、ついこの間、突然、大法を疑い始め、更にしばしば間違いを起こし、関を乗り越えられなくなりました。これは思想業力或いは魔の妨害なのでしょうか?

師:私はなぜ、返本帰真するようにと皆さんに説いたのでしょうか? 帰真するということの目的は何でしょうか? つまり本当のあなたに帰るということです。人間には多くの執着心、各種の観念、七情六欲があり、全ての考えがあなたの頭に存在していますが、この全てはあなたではないのです。私は大法の門を全て開いたと言いましたが、ただ皆さんの心、人々の心、修煉できるかどうか、返本帰真したいという考えをまだ持っているかどうかを見ます。ですから、皆さんに教えますが、皆さんの思想を妨害している全てのものは、あなたではないかもしれません。しかし、常人の利益を前にしてそれを放棄できず、或いはその考えが自分の考えであるかどうかを判断できず、良くない考えも自分の考えとした人を、私たちは絶対面倒を見ません。なぜでしょうか? その人が良くない考えも自分のものとして認めてしまいましたが、大法の全てをその良くない考えに与えるわけにはいかないのです。

弟子:『轉法輪』の中で、大覚者が自分の特性に基づいて宇宙を構成したと書かれています。

師:皆さんに教えますが、多くの人がこの内容に気付いたのです。それは全ての宇宙を包括する厖大な天体にある異なる境地の宇宙に起きたことを指しています。この天体はあまりに大きいのですが、私が皆さんに説こうとする天体全体のことではありません。大覚者は異なる次元の天体で宇宙大法の異なる法理を悟りましたが、同じ次元の大覚者がそれぞれ悟った理も同じではありません。厖大な天体に、大きさの違う宇宙に腐敗堕落が出現した時、高く正しく悟った大覚者がその層の宇宙を建て直すのです。ここでは、無数の異なる次元の宇宙を包括する比類ない厖大な天体のことを指しているのではありません。

弟子:「時間との対話」という経文の中で、神が言及された神の概念、佛、道との区別、そして原始の神との関係をどう理解すべきでしょうか?

師:宇宙にいる常人を超えた能力を持つ者は皆神であり、空気に満ち溢れているミクロ的な厖大な生命は数え切れないのですが、皆無形の神です。このような概念です。神には異なる境地があり、また異なる種類もあります。佛は神ではありませんか? 道は神ではありませんか? 総称して皆、神です。ただそれぞれ自分の修煉の特徴と外形があり、独自のものが形成されたので、各々を道、佛、神と呼びました。宇宙にある一切の一切は皆思想と生命を持っていますが、それが神ではないと言えますか? 如何なる空間の時間も、皆その空間にある全ての物質の変化を厳密に制約していますが、それが神ではないと言えますか? 自分の管轄範囲にいる全ての生命の考えを知ることができ、何かを話そうと思えば、話すこともでき、人間の形になろうと思えばなることもできます。それが神ではないと言えますか? 人々は時間をただ一つの概念として考えていますが、日が出て沈んでいくので、人々は時計に幾つかの点をつけ、幾つかの数字を置き、それが時間になりました。日が出ることと沈むことも含めて、これは時間の常人社会での表現形式です。皆さんに教えますが、日の出と日の入り、地球が太陽を巡って回転していることも皆、この空間の時間が制約し按排したので、少しのずれもありません。

弟子:私は圓満成就を志していますが、先生が法を伝えることを止められたら、先生の法身はまた守ってくださるのでしょうか?

師:実は私は既に法を伝えておらず、私が系統的に法を伝える時期は既に過ぎました。今私はただ法会に参加し、ついでに皆さんの質問に答えているだけです。輔導站の責任者がいつも私に次元の高いこと、多くのことを話してもらいたいと思っています。以前は私が法を伝えることが最も重要だったのですが、今は皆さんの修煉と向上が最も大事なので、法身が守ってくれないということがあり得ますか? 私の法身が手放す時は、皆さんが既に圓満成就したのです。

弟子:法を得たばかりの新しい学習者は1998年以前、先生が北米で説法なさった時のビデオと録音テープを見たり聞いたりしたいと思っていますが、よろしいでしょうか?

師:私がはじめてアメリカで説法した時の内容は既に本にまとめてありますので、本を読んでください。それはあなたの法に対する認識に非常に役立ちます。ビデオを見ることはかえって、あなたにとって的外れになるかもしれません。なぜなら、その時私は法を聞いている学習者の具体的な情況に合わせて説法をしたからです。本は普遍性があり、整理されたものです。しかも、私が説法した時の最大の特徴は皆さんがビデオを見て既に気付いたと思います。法を説いているうちに、話題が急に変わり、別のことを説き始めますが、皆さんにはこのような感覚があるかもしれません。なぜでしょうか? 説いているうちに、学習者が皆分かったと気付き、私の話がまだ終わっていないうちに既に分かったからなのです。そして私はそのことについてそれ以上説かず、他のことを説き始めます。ビデオではこのようなことがよくありますので、あなたにとってビデオを見ることは、必ずしも本を読むことより良いとは限りません。かえって本を読む方があなたにとっていいのです。この意味です。本とビデオが同時に存在すれば妨害が生じるので、各地での説法をまとめた本が出版されると、全ての録音と録画を必ず処分しなければならず、これは大法を守るためです。放下できないのは人間の情なのです。

弟子:妻と私は大法を修煉しています。数カ月前に、二人は相次いで非常に綺麗な大きな鳥を夢で見ました。その鳥は私の身体に入って消えましたが、妻はその鳥の鳴き声が聞こえました。これは何を意味しているのでしょうか?

師:ただの鳥です。皆さんが生々世々の輪廻転生の中で、非常に高い次元から来た神であっても、今生は人間、来世は動物に生まれ変わることがあり、人類社会ではこのようです。修煉してから、はじめて見たものは恐らく皆さんの原形、或いは最初にいたところの映像であるかもしれません。それは人間の形だったり、動物だったり、或いはあれこれだったりします。天上の鳥も神です。

弟子:修煉者は栄養補助食品を食べてもいいですか?

師:あなたは本を読んでいません。きっと読んでいません。皆さん考えてみてください。修煉者は身体に病気があれば功が出ることはなく、つまり、きれいではない身体では修煉できないのです。ですから、修煉の時、あなたの身体を絶対に純潔できれいになるまで浄化してあげてから、やっと功が出ます。ですから、私たちは病気治療をしないと私は言っています。しかし、私は真に修煉する人のために身体を浄化してあげるので、そのような身体には病がありません。皆佛の境地の身体になりたがっていますが、栄養補助食品を食べてそのような身体になることができますか? 絶対無理です。それでは、何のためにそれを食べるのですか? それは美味しいと味見するほどのものでもありません。修煉の過程で、私たちはあなたの身体を浄化し、ますます正常で最も良い状態を目指しており、これは薬を飲んでもできないことです。それでもまだ薬を飲めば、修煉に対して不安があり、自分を修煉者と見做していません。このような道理ではありませんか? 自分を修煉者と見做さなければ、私たちはどうやってあなたを修煉者として扱うのでしょうか? この道理ではありませんか? 漢方薬にしても西洋の薬にしても、皆薬であり、これは間違いのないことです。あなたはただ健康な身体がほしいのですが、私たちの修煉はこのことを遥かに超えています。このような関係ですが、あなたはどのようにしますか?

弟子:私たちは中国の弟子ですが、まだ五人が他の原因で来られませんでした。彼らが来られなかった原因は魔の妨害が大きかったのか、それとも師父の按排によるものでしょうか?

師:あなた達五人も私は来てほしくありません。なぜでしょうか? 先ほど私が話したように、以前は私が法を伝えることが最も重要だったのですが、現在は皆さんの修煉と向上が最も大事なことです。修煉に専念して、着実に修煉していくことが最も重要なのです。人心が働き、私を探したり、法を聞きたがったり、あちこちに私を追っかけたりして、これはあなたの修煉に対して何のメリットもありません。シンガポールで法会を開く時、多くの国内の人は行こうとしました。それで学習者に何のメリットもないので、あちこちに行かないように各地の輔導站に知らせてくださいと私は研究会に言いました。本来なら法身がこの期間に順序よく修煉するように按排したのに、皆さんはそれを乱してしまいました。この期間の修煉によって一部の執着心を取り除くことができるかもしれませんが、向上すべきところが撹乱されました。つまりこの原因です。どうしてもやりたいのに、うまくいかなかったことに対する執着を全て魔の妨害としないでください。

弟子:夫は煉功していませんが、『轉法輪』を一回読んで、先生の説法ビデオを見ただけですが、彼は天目が開き、更に遠隔透視功能があります。

師:これは彼の縁、また根基が良いことから引き起こされた現象ですが、見たらすぐ天目が開いたのです。彼が大法を学ぶかどうか、修煉するかどうかに至っては、この複雑な社会の中で、全ての人は皆非常に複雑になりました。ここにいる皆さんは歴史上、まだ人間社会に来ていなかった時、心の奥に今日法を得る種が植え付けられました。人類社会の中で私は幾度となく皆さんを探し出し、印を授けたことがあり、これらのものは強烈に作用しています。しかし、これらのものも皆さんの常人の執着を弱め、「私はずっと待っていた、これを得るために来たのだ」という当初法に出会った時のような気持ちを引き出すことができません。多くの人は既にこの感覚を失ったので、修煉しているようで実は修煉しておらず、あまり精進しなくなりました。縁があって既に法を得たのに、今度はまた様々な執着を放下できなくなりました。各種の情況がありますが、縁が尽きると全ては終わります。

弟子:師父は卍符について説かれた時、「如来より倍ぐらい高いのは、二つ持っています」とおっしゃいましたが、如来より倍ぐらい高いというのは功柱の高さを指しているのでしょうか?

師:それは心性と威徳を指していますが、功はただ一種の現れにすぎません。功柱を指してもいいのですが、必ず圓満成就した後の功柱でなければなりません。つまり圓満成就した後、あなたの功柱は如来のものより倍高いということです。修煉過程での功柱ではなく、それは未定のものであり、まだあなたの他の部分を圓満成就させておらず、ただエネルギーの存在形式の一種にすぎません。しかし、ある意味ではそれはあなたの修煉過程での次元と心性をも表しています。

弟子:シンガポール法会の時、弟子の拍手に対して師父は両手で合掌なさいましたが、以前説法なさった時、いつも片手で挨拶されていましたが、中に何か深い意味があるのでしょうか?

師:私は弟子に対して片手を使います。ただ、皆さんの純粋で清らかな心と絶えず精進している状態を見て、本当に嬉しく思う時、両手を使います。通常、師父は弟子に対して片手を使います。

弟子:聞いた話によると、『轉法輪』を暗記できれば、主元神が永遠に大法を覚えているので、圓満成就するか否かはどちらでも良いと聞いたのですが。

師:法を覚えるだけで圓満成就したくない人がいるでしょうか? 何のために本を暗記するのでしょうか? 圓満成就のためではありませんか? 『轉法輪』を暗記できれば、向上には役立ちます。なぜならば、あなたの身体のミクロの部分とあなたの人間としての最も表面的な部分は皆、暗記しているからです。しかし、どんなに暗記しても、どんなに流暢に暗記した人であっても、ある時期になるとまた暗記できなくなることが現れてきます。なぜでしょうか? あなたの主たる部分、大法を暗記した部分が基準に達してから、あなたから隔離されたからです。急にあなたは「あれ、どうして暗記できなくなったのか?」と感じます。既に基準に達した部分は隔離されたからです。人間の表面の部分はまた漏れなく暗記できなくなり、忘れてしまいます。多く忘れたり、少し忘れたりする人がいますが、このような情況が現れてきます。

 次のような状態のある人も少なくありません。即ち、一時期耳がよく聞こえたり、天目がよく見えたりするということです。いつはっきり見えるのでしょうか? いつよく見えるのでしょうか? つまりこの段階で修煉が最も良くできた時です。まだ隔離されておらず、もうすぐ基準に達しようとする時、はっきり見えます。耳もよく聞こえ、身体も敏感になります。一旦隔離されると、彼はまた「私は落ちた? どうして全てが良くなくなったのか?」とだめになったことに気付きます。どうして全て良くなくなったのでしょうか? 落ちたのではなく、修煉してでき上がったその部分は既に隔離され、残ったのはまだできていない部分なので、引き続き修煉しなければなりません。ですから、これは段階的に現れる敏感な感覚であり、このような状態です。この情況は大法を修煉する場合だけみられます。

弟子:次元が高ければ高いほど、睡眠時間が少なくなるのでしょうか?

師:それは違います。このような情況はあなたの思想の粒子の変化と向上に関係していますが、しかし段階性のあるものです。先ほど説いた問題もこの中に含まれています。修煉して良くできた部分は隔離されると、あなたの表面は正常になり、圓満成就までずっとこのような状態が続きます。これであなたが常人と同じように生活することができます。しかし、人間としての一面はますます弱まり、その上自分に対して厳しく要求すれば、常人の中での現れがますます良くなるかもしれません。こういうことです。

弟子:時間が迫ってきているのに、結跏趺坐がどうしてもできず、どうすればいいでしょうか?

師:焦らないでください。時間が足りないと言っていませんし、私も時間がないと説いたこともありません。早く修煉してほしいので、あなたはひたすら修煉すればいいのです。しかし、自分に厳しく要求すべきだということを知らなければならず、このようにすればいいのです。いずれにせよ、絶対に足が組めないのは本当に珍しいのです。一部の元神が天上では人間の形象ではなく、他の結跏趺坐しない神の形象をしている場合、この要素が存在する可能性もあります。しかし、あなたに人身、肉体があるので、極めて特殊な情況以外、皆結跏趺坐できると思います。笑い話ですが、在席の皆さんの中に確かに修煉して良くできている人がいますが、あなた達が結跏趺坐できなければ、天上の菩薩たちは口を押えて「あの修煉者を見てごらん。いまだに結跏趺坐ができていない」とあなたを笑っています。

弟子:師父、執着の概念についてご教示ください。

師:皆さんに宇宙の真相が見えない原因は何でしょうか? なぜこの空間は迷いなのでしょうか? 皆さんに教えますが、常人として常人社会の空間で見えるもの、触れるもの、常人社会から学んだ知識が皆、あなたを局限し、封じています。この空間に関する知識、この空間の一切に対する認識がますますはっきりして、ますます分かるようになったと感じる時、あなたはますます自分を封じ込めているのです。皆さんが常人の空間で真理だと思ったものは、実は恐らく間違っており、逆になっています。ですから、常人社会で認識したものを放棄しない限り、宇宙の真相が見えないのです。特に、人々は生存のため、自己保護のため、自分の利益をより多く得るため、私は放下できないものを皆、執着と呼んでいます。これらの執着はあたかも大きな錠前のようにあなたを閉じ込めています。あなたは前進の道のりにおいて、全ての錠を開けなければならず、開けなければ、それはあなたを閉じ込め、迷わせ、そのためあなたは真相を見ることができません。しかも、返本帰真に向かう道のりに、これらの錠を開けなければ、あなたは行き詰まってしまいます。これは即ち関なのです。執着している全ては即ちあなたの障碍であり、修煉の時に遭った全ての関は実はあなた自身の難でもあります。私がそれを利用する目的は、あなたの執着の錠を開け、真相が見えるように、あなたの思想が昇華できるようにするところにあります。

弟子:執着を全て放棄したということは、どのように理解すればいいのでしょうか?

師:つまり、常人の空間にあって放下できない各種の心を放下することであり、なぜならば、今日の修煉方式が今までと違うからです。大勢の人が学びに来ると私に分かっていますが、そこで、ある種の社会形式が形成され、将来学びに来る人は更に多くなります。もし修煉者の集団という社会形式が形成されたら、社会に大きな影響を与えます。修煉者は皆功能が開かれている状態で修煉し、神通力を駆使すれば、社会形式全体に大きな変化が生じ、人類の社会ではなくなり、神の社会のようになってしまい、これではいけません。なぜならば、人類社会はこのようであり、私たちはこの修煉環境を利用してその中で修煉しているからです。私たちはこの環境を破壊しないだけでなく、修煉の時この環境に符合しなければなりません。なぜならば、この環境に符合しなければ、あなたは修煉できないからです。ですから、今日私たちが採った修煉形式に関しても同様です。今一億以上の人が大法を修煉しているので、皆出家し、修道士や和尚になるようではいけません。将来更に多くの人が学びに来ますが、その社会はどうなるのでしょうか? 皆が修煉しに来れば、誰があなたを養いますか。これではいけません。ですから、できるだけ常人社会に符合すべきです。私たちは常人社会の形式を利用して修煉しているので、この環境に符合しなければなりません。

 皆さんは、仕事や環境、更に家庭や多くの常人社会の親戚もあり、この全ては私たちが常人社会の形式に符合できる現れです。同時にこの全てはまた私たちに修煉の良い機会を作り出し、修煉の環境を提供してくれました。なぜなら、皆さんは他でもなく、常人の中で修煉しているからです。常人社会で修煉している以上、物質との接触、物質の占有といってもいいのですが、この点においてもできるだけ常人社会の状態に符合すべきです。しかし、他の人と異なっているのは、皆さんが修煉者なので、心が物質に執着せず、大金持ちになっても、家庭があっても、財産があっても、他にいろいろあってもいいのです。ただし、その心を放下しなければならず、これが即ち皆さんの修煉形式です。

 ここで言う全てを放下するとは、物質的なものの放下に限る話ではありません。逆に、もし物質上のものを全て放下しても、心の中で放下できずまだ未練があり、割り切れず、時々思い出し、場合によって修煉を妨害してしまえば、それは放下とは言えず、無理強いして捨てたということです。ですから、物質の表面上のものを淡泊に見るのは形式にすぎません。本当に向上できる原因は人の心に変化が生じ、心が基準に達し、思想境地が基準に達してから、はじめて修煉によって向上したと言えます。物質を軽く見て、あってもなくても構いませんが、大事なのはあなたの心がそれを放下し、向上することができるかどうかであり、これが極めて重要なのです。更に、私たちの修煉形式全体は、常人の中で修煉できるように按排したので、如何に精進させながら、功が落ちないようにするかなど、各方面での按排はみな今日のこのような修煉形式に符合しています。ですから、私が法を伝え始めた当時、神たちは皆これを「高徳大法」と呼び、これを非常に良いものだと思っていました。

弟子:法を広めるやり方は、ヨーロッパ人に合わせる必要があるでしょうか?

師:修煉者としてこの法を得てから、如何に法を広め、もっと多くの人に学ばせたいと思うのは、非常に良い願望です。ヨーロッパにおいても、東洋社会においても、どんなに広めても縁のない人はなかなか学びに来ません。それでは、縁のある人とはどういう人でしょうか? 縁のことについて私は既に説いたことがあります。どのように縁のある人を探し出すのでしょうか? 新聞に掲載して縁のある人を探しても無理です。しかし、皆さんに分かっていただきたいのは、多分皆さんは既に分かっているかもしれませんが、あなたが「法輪功」の三文字、或いは『轉法輪』の三文字を言い出しただけで、一瞬何かが身体を貫いたと感じ、或いは興奮して、すぐ学びたい人がいます。このような人は多分縁のある人です。いくら勧めても学ぼうとしない人もいますが、これは多分縁のない人です。

 どのように法を広めるか、最も良い方法は学習者が公共の場で煉功し、縁のある人が尋ねて来るようにすればいいのです。また大法の本を異なる民族や国の書店に並べ、人の目に触れさせればいいのです。私には無数の法身があり、誰が縁のある人か、誰が法を得るべき人か、法身は一目で分かります。もし、書店に大法の本があり、公園で煉功している学習者がいれば、法身は縁のある人を見つけ、法と出会えるようにその人を導きます。もし、このような環境がなければ難しくなります。様々な方法を使い、その人が本を見つけて読めば、縁のある人はきっと良いと思います。あちこち探して公園で煉功する人を見つけるのです。私が法を伝えてから、今まで多くの人がこのようにして法を得ましたが、学習者の説明を聞いて、とても良いと思って家族を誘った人も多くいました。本人がそれを良いと思わなければ、決して家族が騙されるようなことをしません。自分がそれを良いと思っているからこそ、家族を学ばせたのです。その家族も良いと思って、更に他の友人を誘って学ばせました。自分自身の体験を通じて、学習者が自分の感じたことを語れば、相手を感動させることができます。自分の親族、友人に嘘をつくはずはないので、友人も彼の話を信じて学び、また同じ体験をすることができます。これが大法を広める方式なのです。

 しかし、一部の学習者は新聞或いは雑誌に掲載された文章を読んで法を得ました。昨日既にお話したように、私はこのような方式に反対しません。しかし、そこでどんな問題が起こるのでしょうか? つまり上士も来れば下士も来ます。来た人にそれぞれ異なる目的、様々な心があるので、しばらく煉功すると止めてしまう人がいます。このような人は恐らく下士です。またはこの人は法を得たくないのかもしれず、或いは法を得るべきでないのかもしれません。往々にしてこのようです。学習者が自分で新聞に文章を出したり、情報を載せたりすることはいいことですが、私も反対しません。なんといってもこれで縁のある人に来てもらえるからです。上士も新聞を見て来ますが、つまりこの原因で、何らかの役割を果たすことができます。しかし、主なやり方は二通りあります。一つは、書店に本があり、煉功場もあって、法身が彼を連れて行くのです。もう一つは、法会を通じて或いは学習者が自分の体験を家族に語ることです。主にこの二つの方式で法を得に来た人が比較的多く、質も高いのです。他の方法を採るにあたって、東洋人にしても西洋人にしても、主なやり方はこの二つだと思います。初期のころ、多くの地域の人はまだ法輪功に対する認識がないので、他の人に紹介する時、新聞や雑誌などに文章を書いたりしましたが、もちろんこれも法を広めています。これは確かなことです。

弟子:私は白人です。あなたが試練に遭う時、その試練を受けるのか、それともそれを素通りさせるのでしょうか?

師:「あなたが・・・」と言っていますが、つまり私のことを指しています。そうでしょう? 皆さんに教えますが、これはとてもいい質問です。このことについて皆さんにはっきり説明する時期も来たと思います。

 皆さんに教えますが、今日いくら多くの人が大法を修煉していても、私にいくら多くの学習者、弟子がいても、皆修煉者であり、そうでない人は一人もいません。ですから、皆さんは修煉しているのです。修煉が良くできているかどうか、精進しているかどうか、次元が高いかどうかに関して、皆自分に厳しく要求して修煉し、自分を修煉者と見做さなければなりません。しかし、私は修煉しに来たのではありません。このことを皆さんははっきり認識していなければなりません。私には私自身の難はなく、皆さんのように修煉しなければならない要素もありません。皆さんに教えますが、私が皆さんを弟子として導いているため、即ち私は皆さんを済度しているので、このことから見れば、私は皆さんと違います。皆さんはぶつかった一切の厄介なことを修煉として扱わなければならず、なぜならば、それは必ず修煉だからです。もし、私のところに厄介なことが現れたら、それは法に対する妨害と破壊です。なぜこのように見るのでしょうか? この宇宙は先天的に存在するもので、私がこのことを行なう目的は法を正すためです。宇宙の衆生が既に法から逸脱したので、法を正さなければなりません。私はいつも皆さんに言っていますが、この世で宇宙全体の大法、昔、神も知らなかった法を伝えることは、万年もの間めぐり合えず、天地開闢以来かつてなかったことです。

 長い歴史の中で、生命はますます不純になり、全てが変異しているので、このままでいくと、真・善・忍の最も基点まで変異してしまうことになり、これは非常に恐ろしいことです。しかし私は宇宙の生命を大切にしており、できるだけ原始生命を保持し、壊滅されないようにしたいと思っています。私にこの念が生じたので、この世に来ました。(拍手) 来た以上、私は最も原始で最も素晴らしく、当初より更に完璧な一切を持った形式で現れたのです。ご存知のように、法輪は回転していますが、皆さんが見ているその法輪は、ただ法輪の表面形式にすぎず、その法の一面は皆さんには見えません。法輪は絶えず回転し、自動的に機制を修復し、全てを最も原始で最高の状態にまで戻しています。全ての物質、全ての生命は皆このようにミクロ的なところから表面まで回転しており運動しています。私はこの全てを作り出し、回復させ、しかも絶えず圓容させています。私には修煉の問題がありません。私がこのことを行なう目的は、宇宙の生命が不純になった後、形成された邪悪な勢力がもたらした障碍を解決するところにあり、同時に常人社会の衆生自身の造った業力が私にもたらした困難も解決しなければなりません。私はいつも次のように言っています。イエスがなぜ人に十字架に磔にされたのか、なぜ釈迦牟尼が涅槃をしなければならなかったのか、老子がなぜ『五千言』を書いてすぐ去ってしまったのか私には分かります。一人の人間がこの世に来たとして、生々世々に輪廻転生し、既に幾生、幾世になったかも分からなくなりました。しかし、各生、各世に他人に多くの借りを作り、多くの良くないことをしました。一部の人は異なる次元に由来し、地球に転生して来ましたが、一歩一歩下りて来る時に皆誤ったことをしました。つまり、彼らは異なる次元の高い空間に留まったことがあります。どうしてその空間にいられなくなったのでしょうか? その空間でまた良くないことをしたため、再び堕ちて来たのです。また良くないことをしては堕ちて来ます。天上でそれらの良くないことをした借りの相手は神なのです。

 人間が天上に帰ろうとしても、天上の神はそれを許しません! 教えてくれる師父がいなければ、見守ってくれる師父がいなければ、いくら能力があっても永遠に元に戻ることができません。地球に来た以上、本当に人を済度する師父が見守ってくれない限り、永遠に戻ることはできません。なぜならば、あなたはこの世で造った業を償うことができても、天上で造った業を償うことはできないからです。イエスは人を済度しようとして、このことに構わず大いなる慈悲を発したので、人身に縛られている解けない業力の結び目を解かなければなりません。しかし、この宇宙には失わなければ得られず、得ようとすれば失わなければならない、という理があります。借りがあれば返さなければならず、これは永遠に変わらない絶対的な理なのです。その人を解脱させれば、その人の借りは誰が返すのでしょうか? 自然に全ての借りはイエスのところに降りかかりました。彼らの借りを代わりに解決してあげたので、彼らの業を肩代わりしなければなりません。解決できない全て、借りた全て、済度された人が全く解脱できないものは皆、イエスの身に降りかかったのです。なぜならば、彼はこの世にいるからです。異なるどの次元の業もあるので、つまり、この世のものだけではありません。結局どうなったのでしょうか? イエスが済度した人が多ければ多いほど、身に降りかかったものがますます多くなり、全く解脱できなくなりました。彼にこれらのことを片付ける精神的余力もありませんでした。最終的にイエスは人を済度しましたが、自分の人身もそこから解脱できなくなりました。そこで、イエスはこの身体を捨てることによって、代わりに借りと業を返すしかありませんでした。多くの生命の業力、大きな恨みは皆イエスのところに降りかかってきました。「それでは、私が信者たちの代わりに返しましょう」。それでイエスは十字架に磔にされ、激しい苦痛の中で死にました。全ての借りはイエスの肉体に降りかかったので、肉体が死亡すると、全てが償われたのです。この身体がなくなると、イエスも解脱しました。これがなぜイエスが十字架に磔にされなければならず、なぜ「イエスは人間の代わりに受難された」と言われている理由で、まさにこういう原因です。

 多くの人がこの法を学びに来ており、将来更に多くなると皆さんも分かっています。修煉しようとすると、これらのことは皆師父が行なわなければなりません。しかし、私は彼らと違います。なぜならば、イエスにしても、釈迦牟尼にしても、彼らはなんといっても小さな天体範囲にいる覚者です。私は宇宙の中にいないので、異なる次元、異なる天体と宇宙の中にいる異なる生命のことを解決できます。人を済度することは私の本当の目的ではないと言いましたが、人間はその中に含まれている一つの次元の生命であり、私が救い済度しようとする一層の生命です。実際のところ、私には難がなく、修煉ということもありません。私がぶつかったトラブルは、めったに常人のところに現れませんが、この世に現れたものもあります。その多くは皆さんに分かりません。私がこのことから解脱することができるのは、私がその中にいないからです。私には彼らのように、解脱できなくなることはありません。私は解脱できますが、それは至難のことで、如何なる生命にも想像できないことです。私は最大限に私の全てを放棄できるので、この一切を解決できるのです。(拍手)

 先ほどこのことに触れましたが、ここでついでにもう少し厳しく言っておきます。私の周りにはいつも一部の学習者がいますが、各地にも責任者や輔導站の世話人或いは他の責任者がいます。これらの責任者に分かってもらいたいのは、皆さんが遭った全ての出来事は関を乗り越えることですが、師父を代表することはできないのです。如何なることに関しても、私がこのことに参与したので、皆さんは私の角度から問題を考えなければなりません。これは今まで皆さんに軽視されていたことです。私に厄介なことをもたらしたら、それはこの法に対する破壊です。ですから、皆さんの関を乗り越えることと全く違います。これは決して師父が修煉しており、或いは師父が関を乗り越えるということではなく、それは法と宇宙に対する破壊なので、同等に扱ってはいけません。このことについてはっきり認識しておかなければなりません。私は問題を処理する時、それを本当の魔として片付けることができますが、皆さんは決してしてはいけません! 皆さんがぶつかった如何なる出来事も皆さんの修煉と直接関係しています。ですから、それを修煉と見做し、自分の原因を探さなければなりません。これは明らかに違います。

弟子:ヨーロッパ人は非常に入静しにくいようですが、これはなぜでしょうか?

師:実は東洋人とヨーロッパ人は同じです。常人社会で修煉する場合、本当に入静できるようになれば、その人は既に高い次元まで達しているのです。なぜならば、常人社会にしなければならない仕事、常人としてのこと、いろいろなことがあるからです。座禅してあなたが何も考えたくなくても、事は自らあなたの思想の中で働きかけており、思わず考えてしまうので、入静できないのです。私たちは修煉の中で絶えず向上し、執着心を取り除いています。執着心が減れば減るほど、自然にますます心が静かに、静かになります。これは次元の現れです。はじめから入静しようとしていますが、それは現実的ではありません。如何なる方法を採ってもできないのです。特殊な情況、人間としての一面が極めて弱く、しかも他の一面が非常に強く、半分分かって半分分からない状態で、このような極めて特殊な人であれば、ある程度入静できます。このような人に主として働いているのは、人間の面ではなく神の面です。このような人以外の如何なる人も、はじめから入静できません。ですから、人種に関係なく、ヨーロッパ人と東洋人は皆同じです。

 入静できなくても焦らないでください。煉功の時、心地よくなり身体がリラックスし、できるだけあれこれ考えないように抑制すればいいのです。どうしても仕方なく、まだあれこれ思い浮かんでいるのであれば、そのままにさせればいいのです。このあれこれ思い浮かぶ考えを他人と見做せばいいのです。あなたは「考えなさい。私はあなたが考えているのを見ている」と思えばいいのです。これも一つの方法です。幸いなことに、あなたはそれが自分ではないとはっきり認識でき、これはとても貴重なことです。或いは考えないように抑制すれば、修煉者としてできることをしたことになります。身体がリラックスして、演化に最も良い状態に入ります。しかし、考えが静かにならず、演化に最も良い状態になれなかったら、どうしたらいいのでしょうか? ご存知のように、私たちはミクロから修煉しているので、ミクロのところが入静しているのです。ミクロのところから、だんだん静かになり、修煉がますます向上してきた時、表面上のものは制約され、次第に弱くなります。表面になればなるほど悪くなりますが、しかし表面になればなるほど弱くなっています。つまりこのような関係です。多くの人は長く修煉していて、思想にまだ良くないものがあることに気付きましたが、あなたがそれを抑制しようと思えば抑制できます。それが悪ければ悪いほど、ますます表面のものになっていき、だんだん弱まります。なぜならその根がなくなったからです。

弟子:西洋人の煉功者として、どのように物事を弁別し、生活するのでしょうか? 自然に任せるべきでしょうか?

師:私が思うには、自然に任せるということは、私が異なった環境下で説いたもので、何でも自然に任せると皆さんに教えているのではありません。会社で働いているなら、給料をもらっているので、仕事をうやむやに済ませ、自然に任せて努力もしなければ、給料をもらう資格もありません。私たちはどこにあっても良い人でなければなりません。ですから、皆さんに教えますが、自然に任せるということは場合によると思います。修煉の時自然に任すべきですが、人為的に自分の良くない面を抑え、努力して修煉しなければならないので、また自然に任すということではなくなります。実は皆このように修煉しています。積極的に自分を修め、生活の中でできるだけ常人社会の形式に符合すべきだということは、修煉を通じて皆さんは既に非常に明確に分かっています。ですから、常人の仕事と修煉を分けなければなりません。必ず分けなければなりません。仕事は仕事、修煉は修煉です。ただし、あなたは修煉者ですから、自分に高い基準を要求することは仕事に反映され、社会、家庭、異なる社会環境に現れてきます。つまり、どこにいてもあなたは良い人で、皆に良い人だと思われます。つまりこのような関係です。私たちが言った自然に任せるという概念は、昔説かれていたようなものではありません。何も構わなくなり、ただそこに座っているだけで、出家したようになるのは自然に任せたということではありません。決してこの概念ではありません。

 もし何か厄介なことに遭ったら、修煉者として、まず自分を反省すべきだと思います。自分のどこかがきちんとできていなかったから、引き起こされたのではないでしょうか? 修煉者がもしこのようにすることができなければ、前進できません。ですから全ての人は、もしトラブルに遭ったらまず自分を探すべきです。自分のやり方が間違っているのではないでしょうか? 宇宙の中にある全ては皆、調和がとれていると私はよく言っています。自分が間違ったから、事がねじれ、他人ともねじれてしまい、周囲の全てがおかしくなったと感じ、人間関係にも緊張が走ります。この時、自分の原因を探り、自分の良くないところを正せば、全てがまた調和するようになり、順調になります。他人と言い争ったりすることはお勧めしません。もし本当にトラブルに遭い、不公平にされたようにみえても、修煉者としてそれが前世その人に借りがあったかもしれないので、少し我慢して気に留めないほうがいいのです。常人でも分かるように、二人が言い争いになったら、結局けんか別れになり、いざこざが生じ、二人はなかなかそれを解決できません。時間が長くなると、ますます解決しにくくなり、とどのつまり敵となってしまいます。私たちはそれを堪え忍び、気にせず譲歩することができます。中国には「一歩引き下がれば世界が広々と開ける」という言葉があります。それでも争ったり、たてついたりすれば、本当に解決の道がありません。一歩下がって、その心を放下し気にしなくなれば、広い世界が目の前に開け、全く別の光景になります。こういうことです。修煉者はこうあるべきです。もし常人と同じように言い合ったり、争ったり、トラブルを助長したりすれば、私たちは常人と同じようになってしまいます。こういうことではありませんか? 実はこういうことです。

弟子:どのようにして自分の次元を知ることができるのでしょうか?

師:私の主観から言えば、当初、本当に皆さんに自分の次元を知ってほしくなかったのです。一人の人間がこれほど大きな法の中で熔けていますが、喩えを使って説明すれば、もし一片の木屑が熔けた鋼鉄の入った熔鉱炉に落ちたら、瞬時に見えなくなるようなことです。これほど大きな法で人間を熔かせば、その人の身体の業力、思想業力、各種のものが瞬時になくなります。もし完全にこのようにすれば、あなたは修煉していないことになり、私が生命を造り直していることになるので、あなたの修煉と見做されません。ですから、私たちはこのようにしてはいけません。皆さんが自ら修煉し、自分で自分を変えるようにさせなければなりません。この法はとてつもなく大きいのです。修煉の過程で、自分を修煉者と見做して着実に修煉し、絶えず本を読んでいけば、既に絶えず昇華し向上しているのです。その上、煉功という補助的な手段を加えれば、あなたの向上は非常に速いものになります。これが最も速い修煉形式です。

 初期に、皆さんに自分のいる境地を知らせたら、あなたは心をうまく制御できなくなります。「あら! 私はこんなに神通力があるのだ! 私は既にここまで修煉したのだ」という有様です。もしあなたの身体の周りに起きた本当の変化を皆さんに見せれば、あなたには常人の七情六欲など各種の執着心があるので、心が動揺せずにいられますか? あなたは常人としての考えがまだ強いので、早い段階であなたに知らせることはできません。これは修煉の過程で皆さんが絶えず向上し、向上し、最も早い速度で向上するよう保証するためです。上士が道を聞けば、悟りによって圓満成就します。これが最も素晴らしいのです。これが最も速い方式で、本当に最も速いのです。

 弟子によってそれぞれの状況も違うので、開かれている状態、或いは半ば閉鎖されている状態で修煉している人もいます。このような人はいろいろ見えます。また非常にはっきり見える人もおり、その人には全てが分かります。これは個別な情況ですが、多くの人は閉ざされて修煉しています。ひたすら本を読み修煉していけば、あなたは既に自分を絶えず高め、天機を悟り、法理そのものもあなたを確信させるのです。もちろん、今日の社会の人は、常人社会の各種のいわゆる偽の現実にひどく惑わされ、執着しており、なかなか抜け出せません。大法と個人の利益に対する執着がいつも対峙しており、甚だしい場合、法を放棄しても執着を放棄しません。これらのこともなんとも言い難いのですが、今日の社会は既に人間が本性と、人間としての基準を知らない段階にまできているからです。

 しかし、社会が良くなければ良くないほど、私たちの修煉に絶好の環境を与えています。環境が複雑であればあるほど、修煉によって高人が現れて来るのではありませんか? つまりこの道理です。数年前、中国に多くの気功師が現れましたが、常人は皆彼らに感服しており、「すごいですね。気功の大家で、本当に能力がありますね」という具合です。人の病気を治したら、何らかの利益、ひいてはお金を受け取っています。物質的利益に対する追求もますます強くなり、多くの人はこれで落ちてしまい、功もなくなり、完全にだめになり、その師父も手放してしまいました。なぜでしょうか? 以前彼らの修煉は常人の知らない環境で行なっていたからです。山奥や或いは人に知られていない環境、または寺院、或いは他の宗教のような形式の中で修煉していました。彼らは常人社会の現実と複雑な利益に全く接触せず、この染め物がめを経験していなかったのです。一旦社会と接触するようになると、複雑な社会に汚染され、結局常人と同じように名利を追求することによって常人になってしまいました。彼らの修煉方法は常人の中で使えなくなったからです。しかし、私たちはまさしくその染め物がめの中で修煉しています。接触しているのが皆そのようなものなので、そこから脱皮できれば、あなたは素晴らしいのではありませんか?! なぜ高い次元まで修煉できるかお分かりですか? あなたが修煉して高い次元まで達することを促す最も基本的な保証は、このひどくただれた環境なのです。そこから抜け出すことができれば、または修煉したいという念が生じるだけで、その人は素晴らしい人です。なぜならば、このような環境にいて、苦しみに浸かっていてもまだこのような心があるからです。

 表面上、形式上の苦しみは何でもありません。その心を切り捨て、執着を放下する時、それは本当に骨身に沁みる苦であり、最も苦しいのです。この複雑な環境はあなたが高い次元を目指して修煉するのに最も良い条件になりました。また逆の角度から言えば、このような最も良くない環境にあって、はじめて大法の威力を顕すことができます。良い社会環境では、この大法も必要でなくなります。また良い環境では、法を正す必要もなく、世間にイエスや釈迦牟尼の如来の次元の法があれば十分です。しかし、なぜ、現在の宗教が末法時期に入り、全ての宗教が人を済度できなくなったのでしょうか? 人々は佛さえ罵り、イエスの像を足で踏みつけて放尿までし、このような時期にまた人に法を学ばせ、人を済度するのは既に不可能だからです。

弟子:私は一途に修煉したいのですが、どうすれば大法を疑わないようになるのでしょうか?

師:常人社会にいて、全ての人の考えに後天的に多くの観念が形成され、常人社会の偽りの現実の知識を受け入れることにより、あなたを深く迷わせたのです。思想の中に各種の観念や固定した考えが形成され、全てあなたが法を得られないように阻んでいます。頭に浮かんだ疑問は、常人の現実の中で認識したものをもって、大法を量っていることにより引き起こされたのではないでしょうか? そのため疑問が生じたのではないでしょうか? きっとそうです。つまり、あなたは常人の知識、常人の考えから形成された観念をもって大法を量っています。常人は最低の次元にいるのではありませんか? 常人は迷いの中にいるのではありませんか? 常人に宇宙の真理と肩を並べるものが一つでもあるでしょうか? 何もありません。私たちの大法はまた常人という最低の形式に立脚し、人間の言葉という最低の表現方式で大法を説いています。ですから見た目では、とても表面的なもののようですが、絶えず勉強していけば、ますます次元が高くなり、奥深くなり、とても届くことのできないところにあると気付くのです。一方、常人の知識にはこれらの内涵がありません。もし大法を信じず、疑う気持ちを皆自分の考えと見做してしまえば、それは大間違いです。それは常人の中で後天的に形成された観念であり、あなた自身はそれを自分のものと見做していますが、実はそれはあなたではありません。

弟子:私は煉功する前から天目が開いており、占いで生計を立てています。この仕事をやめる必要があるでしょうか?

師:もしあなたが煉功しておらず、常人であれば、私は反対しません。私は修煉者が修煉できるように説法をしています。誰でも大法を修煉するようにと言っておらず、自分が修煉できると思えば、修煉すればいいのです。修煉できないと思えばしなくてもいいのです。将来の人類社会に占いのような小道や風水、或いは何らかの方法で病気治療をするようなものが存在するかもしれません。古から全世界にこのようなものが存在しています。修煉者として、将来ますます高い次元のものが見え、発言する時のエネルギーもますます強くなるので、占いをする時に問題を起こしかねません。この世の事は時に安定しておらず、こうなるかもしれないし、こうならないかもしれません。もしその人があなたの話を信じて、信じ込んでいれば、彼自身もそれを強化することができます。あなたにエネルギーがあるので、あなたの発言はその不安定な要素を決めてしまい、本来そうなるべきでない事をそのようにしてしまいます。あなたに見えたのは物事の本質ではなく、他にまだ因縁関係がありますが、あなたが話してしまえば、それを決めてしまい、それではあなたは悪いことをしたのかもしれません。しかし、このような業力はあなたが修煉の過程で余計に加えたもので、あなたの関や難は既にそこにあり、全ての関や難はあなたが乗り越えられるようにしなければなりませんが、余計に加えた難はあなたには乗り越えられません。大きな影響を及ぼしたこと、或いは結果が極めて良くないことをしてしまえば、あなたはこの関を乗り越えられず、修煉できなくなります。ですから、修煉者は口を修めなければなりませんが、あなたにとってこれは無理です。もし見えたものを直接口にしたら、それは天機を漏らすことで、しかも無責任に、勝手気ままに常人に聞かせており、このようなことをしていいのですか? それでは尚更いけません。

 更に皆さんに教えますが、占いをする人は自分自身の要素以外、多くの場合、外来の要素が働いているため、それは非常に恐ろしいことです。一つの生命にとって非常に恐ろしいことです! それでは修煉できなくなります。私はただ人間にこのことの道理を教えていますが、常人が占いをすることに私は反対しているのではありません。あなたが修煉したければ、私はあなたに対して責任を持たなければならず、この道理を教えなければなりません。このような事をしたら、あなたに良くない結果をもたらすしかありません。そこであなたはきっと「私の生活はどうなるのか?」と思います。私はただ修煉者に道や法を説いているだけで、修煉できれば修煉すればよく、このように話すしかありません。しかし、私はあなたに責任を持たなければならないので、逆に言えば、大法弟子としてあなたが生活できるようにしてあげなければなりません。そういうことになります。

弟子:どうすれば恐怖心を放棄できるでしょうか?

師:恐怖心も執着です。それは自分の意志が強いかどうかの問題で、克服すべきです。「煉功するとすぐ寝てしまう」という人がいますが、それも自分の意志で克服しなければなりません。それらのものは魔ではありませんが、修煉者に魔の作用を果たしています。それを突破しなければ、そのものはあなたに作用してしまうのです。

弟子:私はどうしても下腹部で法輪が回っているのを感じ取ることができません。

師:誰でも感じられるようなものではありません。敏感な人はエネルギーが動くと、「おや! こんなに強烈なのか」と感じます。ある人はお腹で天地がひっくり返るほどのことがあっても、彼には感覚がありません。それぞれの身体の情況は違うので、感覚で人の次元の高低を判断しないでください。くれぐれも感覚で判断しないでください。

弟子:私の天目はいつまでも開かないのでしょうか?

師:あなたは求めているのですか? 圓満成就してもまだ開かなければ、それは問題です。あなたは修煉の過程でずっと開かないのかと言っているのでしょうか? もしそれを求め、このような考えがあれば、たとえ少しあるとしても、見させません。見えるようになったとしても見させません。なぜなら、あなたの心、その執着が取り除かれていないからです。ですから、その執着を放棄し、気にかけなくなれば、その時どうなるかまた見てみましょう。

 白人の学習者はまた東洋の学習者と違い、東洋、特に中国文化の淵源は比較的深いのです。五千年、六千年の文化があるだけでなく、前回の先史文化も受け継いでいます。ですから、その骨や細胞にまで皆とても深い文化の内涵が沁み込んでいます。それに対して、白人社会の文化は二千年しかなく、その迷いを破るのは非常に簡単です。迷いが破られると、ほぼ見えるようになります。しかし、中国人はどこが違うのでしょうか? あることの原因を教えると、彼は「なるほど、これは正しく言えている。ならばそのなぜはなぜか?」と考えます。再び答えを出してあげると、彼は「なるほど、ならばそのなぜのなぜはなぜなのか?」とまだ考えています。ですから、最後まで迷いを破ってから、はじめて全てを開くことができます。これは多くの白人の学習者が大法を学んだら、なぜすぐ恍惚としている間に何かが見えるかの理由です。つまりこのことです。彼には常人社会の表面的なものに封鎖された部分が非常に少ないからです。ただこの原因です。常人の道理が彼を束縛しているので、その道理を破ってしまえば、常人の中で彼を束縛できるものはもうなくなります。つまりこういう意味です。もちろん、全てこの情況ではありません。感性的な認識と理性的な認識はやはり違います。もし本当に心の底まで法を勉強し、修煉していく中で法を真に認識するようになれば、それはやはり初期の感性的な認識とは違い、昇華して理性的に法を認識するようになります。

弟子:出家人に対して、どのように法を広めればいいでしょうか?

師:私は出家人のことがいつも気に掛かっています。特に数年前ずっと彼らのことで焦っていました。釈迦牟尼にせよ、イエスにせよ、これらの大覚者は修煉を創立しました。修煉している弟子はそれを継承しています。なんといっても彼らも佛家の弟子なので、私はずっと彼らのことを気に掛けています。しかし、末法時期は既にここまできて、宗教の中で本当に修煉したいと思っている人は確かに多くありません。私はあることに気付いたのです。つまり多くの出家人は、彼が維持し守っているのは神佛ではなく、宗教なのです。彼の心は修煉になく、完全に宗教の形式を維持し守っています。このような執着はある深刻な障碍をもたらしました。また宗教の形式以外に佛法はなく、みな邪で歪んだ説だと思っている人もいます。これが法を得ることを阻害する最大の要素です。しかし、本当に自分の考えをもって、真に道理から全てを量ることのできる人もいますが、このような人は立派な人です。このような人は私の本を読んで、読み終えたらこれが何であるか分かるのです。なぜなら、全ての人に皆佛性があるからです。あたかも電気のように、両極が接しただけで、「パチッ」と繋がります。佛性がなければ、繋がることができません。反応を起こすことができず、電気も通りません。ですから、一部の出家した弟子は違いますが、本当に立派だと思います。なぜならば、出家の目的は修煉のためだとはっきり分かっているからです。一方、この正念をもっていない人もいます。宗教についてはこれぐらいにしましょう。ついでに触れただけです。もしあなたがある出家人の居士や友人、或いは親戚であれば、大法のことを話してもいいのです。本人が修煉したければ修煉すればいいのですが、したくなければそれでいいのです。「修煉しに来てください。あなたが修煉しなければ本当にもったいないのです! 是非私と一緒に行きましょう!」と決して無理に人を引っ張ってはいけません。人の情で心は変えられるものではありません。人の心が自ら動いて、はじめて修煉することができるようになります。

弟子:寺院で定職に就いている僧侶はどのように着実に修煉するのでしょうか? 還俗する必要があるのでしょうか?

師:還俗する必要は全くありません。なぜでしょうか? 私が不二法門という問題を説いたのは、私たちが今修煉している法に対してです。昔、佛経にある全ての文字の後ろは皆、佛の形象でした。現在経典を開いても全然見えなくなりました。釈迦牟尼とイエスの名前の後ろにさえ彼らの形象がなくなりました。つまり佛経は人を済度する力がなくなり、ただの紙と活字になりました。また法事も、一種の宗教儀式にすぎず、私はそれを常人の仕事として見ているだけです。実は多くの和尚はこのような儀式を仕事としてみており、自分はお金をもらって働いていると思っています。中国大陸の和尚は課長クラス、部長クラスにランク付けされ給料をもらっています。更に局長クラスの和尚もいるそうです。彼らは釈迦牟尼の元々のものを変え、それが釈迦牟尼の伝えた法を破壊していると人々は分かっていません。ここまできたら、釈迦牟尼は当然見放してしまいます。佛教がこのようになったので、私はそれを仕事として見ています。和尚は経を唱えても、法事を行なっても、何の働きもありません。大法さえ修煉すれば、私たちは何の形式にもこだわりません。大道無形だからです。これほど大きな法は常人の中の如何なる形式にも適しません。私たちは緩やかな管理を行ない、人の心だけを見ています。修煉すれば、私が見守ってあげますが、これらのことは常人には見えないのです。ですから、常人社会の如何なる形式にもこだわりません。形式がない以上、常人の中の全てを私は仕事として見ています。私はこのように見るしかありません。和尚でありながら修煉する人は、法事を行ないたければ行なっても構いません。自分が大法を修煉している者だと分かっていればいいのです。如何に精進するかに力を入れるべきで、このように対処すればいいのですが、他の宗教についても同じことが言えます。

弟子:清浄心とは全ての執着を取り除き、興味のあるものまで放棄しなければならないのでしょうか?

師:真に清浄な心の状態になれば、そうなります。しかし、あなたは常人の中で修煉しているので、すぐここまでできれば、その場で佛になります。ですからこれはあり得ない話です。佛の境地に到達するには、修煉の過程が必要で、しっかりした思想の基礎を築き上げなければなりません。つまり絶えず修煉し、絶えず深まり、自分を高め、ますます高まっていきますが、これは徐々に達成することです。すぐそこまで達しなさいと要求すれば、あなたは恐れて修煉をやめてしまうかもしれません。なぜなら、あなたの思想はそれほど高くなく、常人から始めたので、これはあまり気を使わなくても、ゆっくりと自然に到達することができるのです。修煉し、本さえ読んでいれば、達成できるのです。法理はあなたの全ての問題を解決することができます。無理強いでするのではなく、無理強いで何かをすることも有為です。ただ自分を修煉者と見做していればいいので、これは明確なことです。皆自分の心を修め、できるだけ良くないことを行なわないようにしていますが、これはできる限りあなたの先天的な本質に近づこうとすることであり、有為ではありません。

弟子:科学は宗教だとおっしゃいました。一方で、私はまた科学研究の仕事をしっかりやらなければなりません。この矛盾する状態の中でいつも悩んでいます。

師:科学は宗教だと私は言いましたが、既に非常に詳しく話しました。なぜそれが宗教でしょうか? しかも、非常に完備されている宗教なのでしょうか? それは徳を重んぜず、神の存在も認めないからです。それには神の存在が見えず、悪いことをすれば悪報に遭い、良いことをすれば、良い報いがやってくると信じていません。良いことをすれば、良い報いがやってきますが、悪いことをすれば悪報に遭うとか、神が存在すると言う人がいれば、それは科学の理論をもってその人を否定し、打ちのめします。ひいては正教まで打ちのめし、人類の道徳を破壊します。人間に心の縛りがなければ、敢えてどんな悪事でも働きますが、この点から言えば、科学は正しいものなのか、それとも邪なものなのでしょうか? それは邪な作用をしているのではありませんか? 現在の人間はなぜこれほどひどく道徳を喪失しているのでしょうか? つまり、人間に正しい信念がなくなったからです。西洋の人は特にそうですが、実はあなた達が本当に信じているのは宗教ではなく、あなた達の科学です。自分の思想の奥まで考えてみてください。皆さんが最も信じているのは本当に科学なのです。皆さんにとって他のどんなものも二の次のことで、その科学だけが非常に重要なのです。それが修煉にとって一つの障碍なので、皆さんに明らかにしたのです。

 聞くところによると、ローマの教皇庁は昔、人間が猿から進化してきたことを認めず、人間は天主に泥で造られたと信じていたのです。しかし、教皇庁も今、公に人間が猿から進化してきたと認めるようになったそうです。これでは、自分たちの主を否定してしまったのではありませんか。この科学にどれほど大きな力があるのでしょうか。現在の人間は皆それを信じています。大から小まで、私は人類の如何なることもはっきり説明することができます。また古から今日まで、人類が発展してきた中での全てを私は明白に説くことができます。しかし、それはみな常人のことなので、あえて言う必要もありません。私が何かを話すのも、それは皆さんの修煉と関係があるからです。科学のほとんどの認識の基点、物質、宇宙、生命に対する認識の基点は皆、間違っています。オーストラリア上空のホール、つまり南極上空に現れたオゾン層のホールについて、現在の科学は、それが工業の排気ガスとクーラーに使用されているフロンガス及びその他の排気ガスによるもので、これらの排気ガスがオゾン層を破壊したと言っています。皆さんに教えますが、実はこの宇宙にある全てのものは皆生命であり、生きものです。厖大な気体は私たちに見えませんが、幾層にも重なり、数え切れないほどあり、皆生命であり、神です。近代科学が作り出した工業は人類の生存環境をひどく破壊しており、これは確かなことです。排気ガスの破壊で南極上空にホールが現れたのではなく、人間が神を破壊することはできません。なぜ、工業が発達しているヨーロッパにホールが現れなかったのでしょうか? なぜ、人間が生息していない南極に現れたのでしょうか? 神は、地球上に排気ガスや毒ガスが多くなり過ぎたのを見て、自ら窓を開け、排気ガスを外に出してからまた閉めるからです。全く現在の科学が認識しているようなことではありません。

 現在、人類の発展は既に科学があらゆる領域を操るところまできました。ですから、人類はいま科学を振り捨てることができず、それが既に人類社会の発展の現実となり、それに従って行動しなければならないところまできました。私たちは最大限に常人の状態に符合しながら行動しているので、自分の科学研究の仕事をきちんとすればいいのです。これはあなたの間違いではなく、誰か個人或いはある民族、またはある国が回避できることではありません。あなたの仕事である以上、きちんとやり遂げ、自分の職責を果たせばいいのです。自分が科学のために何かをしているなどと思わないでください。実は、科学は既にあらゆる隙に乗じて人類の全ての領域を占領したのです。人類の一切はほとんど科学のために存在していますが、だからといって何もしなくてもいいというわけではありません。修煉者として、この道理だけは分かってほしいのですが、現在の人類社会が既に回避できない現実を放棄して、仕事を放棄するようにと言っているのではありません。

 私が話した科学は宗教であり、しかも完備された宗教です。それはまず物質面からあなたに認識させ、それから精神面の信仰に到らせるのです。それに対して、本当の宗教は道理からあなたに分からせ、真に思想から分かるようにさせ、最後には無形から有形に到達させるのです。最後には、本当に物質からもそれを認識することができ、圓満成就して天国に戻る、このような過程です。しかし科学は逆になっており、まず物質から人の精神を動かしています。宗教は精神の認識から物質の変化をもたらしています。私がこの道理を説いたのは、このことを分かってほしいからです。科学は既に社会の現実になりましたが、私は人類が依存している科学に反対しているのではなく、ただ現在の科学における真実の情況を言っているだけです。

弟子:因果関係と慈悲心について説明していただけませんか?

師:あなたは慈悲ということに言及しましたが、あなたの考えを正し、慈悲とは何かを教えます。常人社会で楽に暮らし、何の災難もなく、毎日のんびりしていて、お金も十分あり、欲しいものも全て揃っていれば、人々は神が人に慈悲であり、やさしくしていると思っています。皆さんに教えますが、神はこのようなことをしません。もし本当にこのようなことをしたら、それはあなたにとって非常に良くないのです。この世での理は全て反対になっているからです。ご存知のように、人々はこの世で生活しており、社会と付き合いがあるので、業を造ることがあります。イエスは人に皆罪があると説きました。なぜならば、罪があるからこそ、常人のこの空間まで堕ちてきたのです。この空間で、生々世々に業を造り、罪を犯しているのに、楽に暮らそうとするのは業を返さないということではありませんか? 業を返さず、更に今生に造った業を加えると、来世は人体さえ得られず、もっと良くないものに転生してしまうかもしれません。これ以上業を造れば、地獄に堕ちるしかありません。更に堕ちれば、消滅されてしまう羽目になります。この道理からみれば、神がどのようにあなたに対処したら、本当にあなたのためになるのでしょうか? これが因果です。

 しかし、本当の慈悲に対して私はどのように見ているのでしょうか? ある人がもし本当に良い人であれば、一生に多くの魔難に遭います。これらの魔難は以前彼が造った業を返させ、今生の時間を大切にして、できるだけ早く全てを返させるためです。人体を持っている今生で、借りを全て返して天国に行き、永遠の幸せを得ることができるので、常人の中で苦を嘗めることがあります。それでは、皆さん考えてみてください。どちらが本当の慈悲でしょうか? 物事に対する佛の見方は人間とは絶対違います。佛がこの世で幸せにしてくれれば、それが佛や神の慈悲だと常人は思っています。逆に苦を嘗めることがあれば、「神はどうして見守ってくれないのだろうか? 私は見捨てられた人だ!」と怨んでしまいます。これはまさに神があなたを見守っているのです。あなたが業を返し元に戻れるようにしており、生まれることも消滅されることもない、永遠に二度と堕ちないところに帰るのは、なんと素晴らしいことでしょう。これこそ本当の慈悲です。皆さんは修煉していますが、私はどうして皆さんの全ての苦を取り除かないのでしょうか? 関を乗り越えることにも遭わせず、皆さんを高い次元まで持っていけばよく、これはどれほど慈悲なことでしょう! それではいけません! 皆さんは自分が造った業は自分で返さなければなりません。できるだけ早く返し、できるだけ早く返してから、私はやっと皆さんを済度することができます。この道理ではありませんか? 私は別の角度から慈悲を説き、慈悲とは何かを説いています。法は常人に説いているのではなく、皆さんに説いているのです。このことを永遠に覚えておいてください。常人は永遠に迷いの中にいるので、これらの道理を知ることは許されず、人間は取りも直さず人間なのです。しかし、学習者は取りも直さず学習者であり、修煉者は常人とは永遠に違います。

 このことを皆さんに教えることができます。世の中に偶然なことはなく、神は常に見ています。この空間についていえば、輪廻転生、社会の安定を管理する神もいれば、社会の体系、地球の安定、また空気や、各種の空気の成分を管理する神もいます。更に、それぞれの神が地球で何をしているのかを見守っている神もいます。様々な神がいるので、これらのことを見て手をこまねいていられるでしょうか? 常人社会で勝手に何かを起こしたければそれができるのでしょうか? このようなことは決してあり得ません。

弟子:相生相克の理というのは、次元の高い空間ではこの二種類の物質の中の一つは真・善・忍により近いということなのでしょうか?

師:このように理解するのではありません。宇宙全体は真・善・忍によって構成されています。このように話しましょう。この二種類の物質も、真・善・忍によって宇宙で造られたのです。もし宇宙に正の面しか存在していなければ、生命にとってあまりにも気の毒で、幸せもなければ、苦痛もなく、何の生きがいもありません。魔難があるからこそ、苦痛を味わい、幸せを手にすればそれは大事にすべきで、貴重だと感じ、生きがいがあると思うようになります。宇宙に正の一面が存在しているので、生命のために負の一面も按排し、同時に、生命に業を滅してあげることもできます。

弟子:根本に関わる問題が解決された後、大法を守ることに言及する度に、私は情熱的になります。師父にお尋ねしたいのは、この状態は正しいでしょうか?

師:間違っています。正しくありません。皆さん、くれぐれも気をつけてください! まさに先ほど話した問題のように、正の一面があれば負の一面もあります。負の一面は下の次元へ来れば悪の一面となり、正の一面は下へ来れば善の一面となります。ですから、皆さんに教えますが、常人社会で私たちは常人社会の人々がしているようなことを決してしてはならず、必ず善の一面を作用させなければなりません。釈迦牟尼佛が衆生には皆佛性があると説きましたが、実は皆さんに教えますが、同時に衆生には皆魔性もあります。つまり魔性と佛性は同時に一つの生命に存在しています。人が怒っている時、かんしゃくを起こしている時、理性を失った時、それは魔性です。理性的で、和やかで優しく、しかも慈悲の状態にある時、それは佛性の現れです。異なる二種類の性質は異なる状態に現れてくるので、私たちは永遠に善の一面で物事に対処しなければなりません。この間、テレビ局は私たちに対して不実な報道をしましたが、テレビ局へ訪ねて行った時、皆とても理性的で、善意をもって話していました。多くの人が行きましたが、人が多いのは悪いとは限りません。態度と方法には善と悪の違いがありますが、完全に和やかで善の態度で道理を話し、国の政治に干渉せず、公共物を壊すこともなく、皆修煉者らしくテレビ局の人に私たちの道理を訴えました。このような人たちは見たことがないとテレビ局の人も感動しました。逆に、人類社会になぜ暴力があるのでしょうか? 常人が何かを訴え、道理を話そうとする時、デモなどの方法を採り、暴力を振るい、「ウォー」と叫び、ひいては武力まで行使してしまいます。これは常人に魔性の一面が存在しているためであり、それは常人なのです。私たちは修煉者なので、善の一面だけを使い、悪の一面を用いてはいけません。常人は善と悪の両方を使っており、常人は道理も説けば、暴力も振るいます。道理で押し通すことができなければ、手を出し、罵り始めますが、常人には善と悪という両面があるのです。

弟子:宇宙を片付けた時、地球に逃げて来た宇宙人がいると先生はおっしゃいましたが、彼らの生存形式は憑き物なのか、それとも他の何かの形式なのでしょうか?

師:まず宇宙人のことについてお話します。ご存知のように、私たちのこの地球がこの宇宙で唯一の生命のある星ではなく、地球の存在もこの一回だけではありません。今の地球の位置に昔、以前の地球がありました。以前の地球は廃棄されたり、爆発されたりした時もあります。このようなことは何回も起こり、それはかなり多いのです。毎回この地球の最終段階になる時は、必ず生命が最も腐敗し、物質が不純になった時であり、それ以上存在することができなくなりました。その時、地球全体が業力の塊となり、淘汰されてしまいます。生命は、土、石、植物、物質に転生しますが、どんなものに転生しても、業力を伴っているので、至るところに業力があり、次第に地球は業力の塊になり、淘汰されてしまいます。地球にはまだ少し良い人もいますが、それは極めて少なく、数えるほどですが、このような人たちを取り出して三界にある別の星に移します。しかしこの地球は年月が経つにつれ、何回淘汰されたか分かりませんが、淘汰される度に残った人がいます。そのため、生き残った生命もだんだん多くなりました。異なる時期に神が造った人間の外形も違うので、残った生命も大きく異なっています。また他の星で生まれた生命もいますが、これらの人が即ち宇宙人です。

 それらは歴史の記録となり、歴史の一ページとして残されると言った程度の役割しかありません。それは当時の地球の末期に残されたもので、当時の技術をもって別の星に行ったため、技術の出発点が高いのです。長い歳月の間、それらが把握した宇宙の状況は既に現在の地球人を遥かに超えています。その身体は別の空間に入り、その空間場の状態に適応できる程度にまで達したのです。それらが乗っている、人々に空飛ぶ円盤と呼ばれる飛行物体で別の空間に入り、その時空で飛行することができます。もし速度の速い時空を飛んでいれば、その空間に入って時間があまり経たないうちに、既に遠いところまで行ってしまっているので、その速度は人間にとって摩訶不思議なものです。使用されている燃料は全く現在の科学が認識し得た物質及び技術の理論概念ではありません。

 長い歳月の間、これらの宇宙人は絶えず発展し変異していくうちに、この宇宙にこれらの生命が生存しているような正常でない社会関係が現れました。貪欲や欲望により、それらのところで本当に宇宙大戦のようなことが起きました。まだ人類まで脅かしていないのは、人類にまだ彼らを脅かす能力がないために、それらは人類を攻撃していません。もし、脅威となれば攻撃してきます。しかし、宇宙人は人類を攻撃していないものの、人類の身体が最も完璧なものだと分かっています。ですから、それらは人体が気に入り、人体を盗み取ろうとして、科学を人類のあらゆる領域に浸透させ、人間に科学を信じ込ませ、依存させています。人類の思惟と生存方式が完全にそれらに同化するようになった時、それらは人間の元神を取り替え、最終的に人類にとって代わります。

 遡れば、西洋社会に工業革命が始まった時から、それは全面的にやって来たのです。それ以前にも既に来ましたが、手を出さなかったのです。全面的にやって来たのは、白人社会が工業社会に入った時です。それらはこの地球を占領するために綿密に準備し、系統的に段取りしました。それらが人類のために科学を作り出し、この科学は実は宇宙人が作った代物なのです。その目的は、人間を統一し、人間の思想を簡単にし、機械のように規範してしまうところにあります。知識を統一させ、将来、容易に人間を制御でき、人類にとって代わることができるようにしました。更に、それらはまた将来、全面的に人類を操るための先導として、幾つかの民族を選びました。日本は技術の先導として選ばれました。アメリカは地球の全ての伝統的な文化を破壊するための先導です。そのため、最も古く閉鎖的な国の文化まで免れることができず、全世界がアメリカの現代文化の衝撃を受けています。またイギリスは初期段階における機械製造の先導であり、スペインは人種を乱れさせる先導です。人類を神の守りから離れさせる方法は人種を乱れさせ、現在の交配種の植物のように人類の源を失わせることです。南米、中米、メキシコ人及び東南アジアの一部の人は皆、乱された人種となりました。この全ては神の目から逃れることはありません。宇宙人は既に充分綿密に準備し、人類にとって代わろうとしています。

 コンピュータを操作できる人は皆、番号を振られています。もちろん、学習者にはこのような問題がありません。皆さんが法を得たら、私はそれらに占有された一層の身体を取り除いてあげます。それらは人間の身体の中で既にそれらの層の身体を形成しました。これは非常に恐ろしいことです! なぜならば、人々が小学校から大学まで学んだのは、全てそれらがもたらした科学で、更に人類が今使用している全ては、あらゆる領域に浸透した科学によってもたらされたものだからです。コンピュータと技術に関する人間のひらめきはなぜ凄まじい勢いで進んでいるのでしょうか? これは宇宙人が人間の身体に形成されたあの一層の身体を操って行なったのです。それらの技術と科学が人間の身体に形成したものが人間の考えを操って行なったのです。現在コンピュータの発展は凄まじいのですが、それは人間の技術ではありません。人類はこのままでは、宇宙人に取って代わられてしまいます。しかし、皆さん考えてみてください。宇宙人はなんといっても、常人のこの三界内の生命であるにすぎませんが、敢えてこのようにしているのはやはり他の原因があります。つまり宇宙の法にずれが生じたため現れたことであり、神も手放したので、このことは高級生命とも関係しています。ですから、このことを改めるために、上の空間から行なわなければなりません。なぜならば、それらは一つの観念を持っており、つまり人間がだめになり、道徳も腐敗堕落し、全般的にだめになったため、どうせ淘汰されるので、取って代わられても構わないと思っているのです。佛が人に対して慈悲を持っているのは如来と菩薩が人類に最も近く、最も次元の低い佛だからです。この次元を遥かに超えている佛は、振り返って見れば、如来佛も常人として見ています。それならば人間は何になるでしょうか? 人間は何者でもありません。悪くなれば消滅して造り直せば良いという概念です。慈悲という概念は彼らにとって人間に対してあるのではなく、佛に対して言っているのです。更に高い次元の神は振り返って見れば、人間は何者でもなく、微生物にも及ばないと思っています。こういう道理ではありませんか?! 先生が私たちを済度していますが、このように済度すべきだ、あのように済度すべきだと言っている人がいます。私に言わせれば、佛がどうしてあなたを済度しなければならないのでしょうか? このようなことではありません。佛は人間に慈悲心を持っており、皆さんに慈悲心を持っているため、このようにしました。人間はどのように済度されるか、どのように修煉するかを自分で選ぼうとしていますが、自分が何を言っているかも分かっていません。

 宇宙人のことはこのような情況です。上の空間でそれらを片付けているので、それに気付いて皆、この空間に逃げ込んで来ましたが、この数年に特に多いのです。しかし、私が行なっていることも系統的に按排されているとそれらは知らないので、どこまで逃げても逃げ切れないのです。それらは仕出かした全ての悪事を全て償わなければならず、これは明確なことです。この宇宙の理はいかなる生命に対しても、絶対理に適っているので、それらはした全てに対して償わなければなりません。それらの生命を最終的にどのように処理するかにいたっては、今後宇宙人は絶対に存在しません。もし宇宙人に本当に良い者がいれば、その生命は別の生命に転生することができます。それに対して、良くない生命は淘汰されてしまいます。ですから全ての人間も含めて、一切の生命が行なった全ては自分の将来の位置を決めています。人間も自分の行なったことで自分の位置を決めているのです。

 現在、大多数の宇宙人は一命を取り留めるために逃げ込んで来ましたが、最終的に逃げきれないと既に分かっているので、地球人と結婚する宇宙人もいます。しかし、それは正当な結婚ではなく、誰もそれらと結婚しようとしません。それらは農村の女性を捕まえて後継ぎを残そうとしています。常人の中に隠れているのもいます。しかし、いくら隠れようとしても無理です。厖大な功はミクロからきて、鋼であろうが、鉄であろうが、木材、人体、水、石、空気、植物、動物、物質など全てにおいて、ミクロから表面に押し上げています。では、それらはどこへ逃げるのでしょうか? 厖大な功は全てのものに及んでおり、みな表面に向かっています。どこにも身を隠すことができないと分かっており、どのように存在しているのでしょうか? 憑依しているものはなく、人間の形象に化けて街を歩いているものがいますが、人々はそれを見分けることができません。また、どこかに隠れて出て来ないものもいます。しかし、数は既に非常に少なくなりました。今までそれらは自分を隠すことができ、空飛ぶ円盤で別の空間に行くことができましたが、別の空間が既に全て片付けられ、厖大な功はこの空間に向かって移動しているため、既に隠れてしまうことができなくなりました。それらはこの空間のどこかの洞窟、海底に隠れるしかありませんが、それでも隠れてしまうことはできません。いずれにせよ、それらが今直面している問題はこのような状況で、全ての生命はこの出来事の中で自分の位置を決めています。

弟子:常人社会の科学は間違っていますが、私たちは常人の知識を勉強せず、直接修煉に入ることができるでしょうか。

師:別の角度から言えば、知識によって高まることもできます。人に分かってもらうために、私も現代人の観念を用いて説法しており、知識の面において人々の発想を広げ、法を得ることにも有益なのです。教育レベルの低い人なら、私が話している現代の用語をなかなか理解できません。しかし、それがなければいけないというわけではありません。もし現代のこのような科学によってもたらされた文化がなければ、私は古代の言葉で説法し、今日のこのような方式を使いません。しかし、現在の社会が既にこのようになったので、皆さんは常人社会の状態に符合して行動すれば大丈夫です。というより、今そうするしかありません。修煉者として、大人であろうと、子供であろうと、どんな環境においてもするべきことを全てきちんと行なうべきだと思います。学生であればよく勉強し、勤めている人であれば、仕事をきちんとこなすべきです。もし何かの特別な形式を作り出せば、皆さんの修煉形式もそれによって変化するので、生活と修煉に困難をもたらします。宇宙人が自分の目的を達成させるために、人類にそれらの科学を与えましたが、神が全てを掌握し、逆にそれらをも利用していることを皆さんは知っておかなければなりません。

弟子:修煉に大量の時間を割いて、常人の仕事に時間をかけないようにすべきでしょうか?

師:このような概念ではありません。できるだけ常人の勤務時間に従い、自分の仕事をこなしてください。いくら忙しくても、煉功と本を読む時間はあるはずです。精進している弟子として、余暇を修煉に多く使わなければならないと思うべきです。

弟子:わざわざ複雑な環境を見つけて修煉する必要があるでしょうか?

師:そうする必要はありません。人為的に何かをしようとして、自分で修煉の道を按排してはいけません。人為的にこうしたい、ああしたいと思わないでください。皆さんの道は私が按排していますが、修煉したければこのようにしてください。するべきことをすればいいのです。中国で煉功してから、急に身だしなみを気にしなくなった人がいます。本来きちんと手入れをして、人間らしくしなければなりませんが、今、だらしなく、甚だしい場合、羞恥心さえなくなるようではこれではいけません。今は張三豊が当時道を修めていた時のようではありません。皆さんは今日、常人社会で修煉しており、少なくとも人間らしくしなければなりません。神は人間を超えているので、更に良く行なうべきで、如何なる点においても、もっと良く行なうべきです。決して煉功したからといって何も構わなくなり、毎日だらしなく、汚くしてはいけません。ある意味では、あなたは大法のイメージを壊しています。そうではありませんか? ですから、今回法会を開いた時、皆身なりに気をつけて、だらしなくならないようにと責任者に連絡しました。そうでしょう? 中国の経済状況はここ数年でだいぶ良くなったので、良い服を着ることもそれほど大変なことではありません。私に言わせれば、必ずしも良い服を着るようにとは言いませんが、少なくとも身なりに気をつけ、清潔なものを着ればいいのです。私たちは常人社会で修煉していることを心に留めておいてください。このことは問題にならないと思います。修煉に関して、自分で自分の修煉環境を按排しないでください。

弟子:四歳の子供は天目が開いたので、法輪と先生の名前が光っているのが見えますが、時には非常にわがままで、自分の言う通りにならないと、すぐ大泣きして騒いでしまい、いらいらしてしまいます。

師:「いらいらしてしまう」とあなたは自分で書きました。いらいらしていれば、つまりあなたの心が動じたのであり、子供はあなたの向上を手伝っているのではありませんか?

弟子:二歳の子供は法輪を見た時、非常に興奮して「法輪だ」と言い、また先生の写真を見た時「師父だ」と言っています。いつも床に座って合掌して「煉功する」と言います。先生の説法テープをかけたら、「師父の話を聞いて」と言います。

師:この子は普通の子供ではありませんね。なぜならば、まだ二歳だからです。このような子供は多分法を得に来ているのかもしれません。四歳、五歳、六歳で修煉が良くできている子供弟子がとても多く、非常に不思議に思われています。また多くの子供は優れた神通を持っています。どの家が未来に法を得るのか、上にいる神にははっきり見えており、「なるほど、この家の人が法を得るのだ」と按排して転生して来るかもしれません。転生すれば法を得られるからです。

弟子:病院は、他の場所より業力が大きいのでしょうか?

師:常人社会の病院、病気を治療する機関として言えば、病の気は少し多いようです。しかし、修煉者として何を恐れるのでしょうか? 煉功者に全く関係なく、私たちに害を与えることはできません。

弟子:病院で病理解剖をするのは、煉功者にとってよくないのでしょうか?

師:もし、それがあなたの仕事であれば、してください。大丈夫です。もう死んだ人だからです。最大限に常人社会の状態に符合して修煉するように言いましたが、修煉したからといって、常人社会の全ての形式を変えてしまってはいけません。

弟子:口では人を罵っていないのですが、心の中で罵っています。これも徳を失うのでしょうか?

師:「私の修煉は良くできていて、行ないも良い」と言う人がいます。しかし、その人の心にある執着は少しも放下されていませんが、それは修煉と言えますか? それは偽りの修煉ではありませんか? 本質的な変化こそ本当の変化です。表面上のものは全て形式なのです。口で罵るかどうかは形式であり、心が変わったかどうかが本当のことです。心で罵っていれば、心は当然変わっていません。徳を失うかどうかは、たいしたことではありません。大法は常人の徳を保つために伝え出されたのではありません。

弟子:毒のある動物などの生物を恐れている学習者がいますが、この心を取り除かなければ圓満成就できないのでしょうか?

師:これは別のことです。その恐怖心を取り除けばいいのです。しかし多くの人はそれを恐れているのではなく、汚いから嫌がっているようです。この汚さは糞便を見る時に感じた不潔感ではなく、良くないものだと思って感じた汚さなのです。未来の世界、未来の宇宙にこのような生物は存在しません。皆さんに教えますが、宇宙の初期には、このような毒を持つものや悪いものがいませんでした。後になってどうして現れてきたのでしょうか? 生命の業力がますます大きくなり、生命がますます悪くなったため、宇宙もますます複雑になり、生じた良くないものもだんだん多くなり、持っている毒性も次第に強くなってきました。このような発展の過程です。

弟子:「悟」という経文に「倆倆相継而来」という文がありますが、「倆倆」はどう理解すべきでしょうか?

師:これは中国古代の文法です。中国古代の文法は物事を説明することができ、文字が簡潔で説明される意義も含まれる内涵も深いので、最も良い文字です。昔の人々はそれが天上の言葉、天上の文字だと言っていました。現在の人類は道徳が腐敗堕落したので、現代文を使うようになりました。「倆倆相継而来」を解釈すれば、つまり三人が一緒に、または二人が一緒に来るという意味です。ある人は他の人と相談して、「この法はとても良いので、一緒に修煉しに行きましょう」と声をかけると、その人もこれが良いと思ってやって来ます。彼はまた家族に教えて家族を連れて来ます。このように皆は三人か二人で一緒に来ました。現代文で解釈すれば、このぐらいの言葉を費やしました。「倆倆相継」でやって来たという言葉を使えば、四文字で全てを概括できました。つまりこの意味です。「相継」というのは、つまり異なる時間に相継いで、続々と続けてやって来るという意味です。「相継」を解釈するにもこれほどたくさんの言葉を使いました。

弟子:書店を営む大法弟子は、卸値で大法の本を仕入れ、小売価格で販売していいでしょうか?

師:この間、私はあることについて考えました。中国には最近、一時帰休(実は失業)の労働者がわりと多くいますが、その中のごく少数は私たちの学習者です。ですから私が思ったのは、彼らに法輪大法の書籍を販売させたらどうでしょうか? 彼らの生活問題を解決できるだけでなく、学習者が本を購入する問題も解決できます。既にこのようにした学習者がいます。後になってよくよく考えると、どこかおかしいと思いました。どうしておかしいのでしょうか? 皆さん考えてみてください。大法は私たちを済度することができますが、これほど神聖な大法なのに、私たちはそれを利用して金儲けをしようとしており、これでは、自分をどこに位置付けたのでしょうか? 法をどこに位置付けたのでしょうか? これではいけないので、やめさせました。それではどうして社会ではこのようなことをしてもいいのでしょうか? 私が常人社会を利用して法を伝えているからです。常人社会も法の最低次元における表現形式であるため、社会の各業界はこのように存在していますが、これは間違いではありません。私たちの本に背後の内涵がなければ、紙に活字があるだけで、普通の本にすぎません。背後に内涵があるので、法としての作用があるのです。常人社会の書店や業者が販売するのは問題ではなく、つまり常人社会の層の法に符合しています。弟子として、確かにこのような問題があります。私たちは法を利用してお金を儲け、しかも本を買う人の多くが弟子ですから、このお金をどう使えばいいのでしょうか?

 もし、書店を経営しており、この便利な条件を利用して大法の本の販売をし、昔から書店を経営し、大法のためにわざわざ開いたのでなければ、私も反対しません。なんといっても昔から書店を経営しているからです。しかし法に対する認識が深まるにつれて、あなたは新しい方法を採ると思います。

弟子:先生に会いに行くために、何もかも構わずに家族と大喧嘩しましたが、これは正しいのか、それとも間違っているのでしょうか?

師:もし、あなたが中国大陸から来たのであれば、多分来させないようにしているのかもしれませんが、私の法身はあなたが落ち着いて修煉できるように、来させないのかもしれません。もし中国大陸から来たのでなければ、あなた自身に他の原因があるかもしれません。あなたが法に対して確固とした信念を持っているかどうかを見ているのかもしれませんが、どんな可能性でもあり得ます。これは自分で悟らなければなりません。

弟子:修煉の時間を大切にしなければならないと分かっていますが、子供もほしいのですが、これは執着でしょうか?

師:最大限に常人に符合しながら修煉すると言いました。現在全ての若い修煉者は数千万もいると思いますが、皆結婚せず子供も作らなければ、それは常人社会に対する一種の破壊ではありませんか? 少なくとも、あなたは常人社会の形式に符合しながら修煉していないと言えます。しかし、どうしても結婚したくない人がおり、既に決意したのであれば、私も反対せず、このように修煉すればいいのです。あなたの生活或いは他の面に余計な負担やトラブルをもたらさない限り、私は何も構いません。この世のことは自分で決め、行なわなければなりません。子供がいても修煉の邪魔になることはないと私は思います。そのようなことはありません。

弟子:圓満成就に何種類の形式があるのでしょうか? それぞれの形式もみな本体を持って行くのでしょうか?

師:このことについて、私は既に説いたことがありますが、法輪世界に行く人だけは身体を持って行きます。他のところに行く人の場合、皆さんの多くが異なる次元の異なる境地から法を得に来たのですが、上の世界では身体を持って戻れば、神佛は奇怪なものを持って来たと思ってしまうので、その世界に身体はなく、要りません。もしこれを持って戻れば、そこの修煉体系を破壊してしまいます。気をつけてください。どこから来たにしても、私はただ皆さんが元々持っていたものを新しく、最も正しい法をもって同化させたのです。皆さんの修煉の表面にあるものにいたっては、私は何も手をつけないので、これで皆さんが元のところに戻ることができるのです。つまり、あなたは佛であれば佛になり、道であれば道になり、神であれば神になります。あなたの形象、過去の全てはみな変わらないのです。過去に果位がなかった人は今回を通じて果位を得ることができ、行くべき所に行くように按排されます。

弟子:煉功の時にいつも同じ音楽が聞こえますが、それは大法の音楽ではありませんが、他の空間の信息に邪魔されるのを心配しています。

師:他の空間の音楽は私たちの修煉用の音楽と違います。しかし他の空間に確かに美しい音楽があり、聞こえたら聞こえたで気にしないでください。それは他の空間の音です。心配もしないでください。音楽そのものは修煉を意味していません。皆さんが大法を修煉する時、この音楽を聞きながら煉るようにと要求した目的は、まだ入静できない時、一念をもって万念を代えるところにあります。つまり、音楽を聴いている時、妄りに考えずに、音楽を聴いているだけで、これは皆さんの煉功にいいのです。しかし、それは私たちの煉功音楽でなければなりません。

弟子:身体が一種の妨害を受け、言葉や画像のようなものですが、既に半年も経ちましたが、ずっと突破できていません。

師:もし、あなたが本当の修煉者であれば、当初どんな考えや目的で大法を始めたとしても、それを放下しなければならず、何も気にしないようにすべきです。そのことを解決するために、大法を始めたのではないということを、あなたははっきりと認識しなければなりません。私がこの法を伝えだした目的は、人を済度し、修煉させ、人々が元に戻れるようにするところにあり、常人の身体の問題を解決するためではありません。これは非常に厳粛なことです。自分が本当に修煉すると決めてから、はじめてどんな問題でも解決してあげることができます。ただ常人の何らかの問題を解決するためであれば、何も解決してあげることができません。一言で言えば、つまり法は修煉のためのものです。例えば、ある人は法輪功が病気治療をしないことを知り、「病気治療をしないのですね。分かりました。それなら病気治療のことに触れず、治してほしいとも言わず、煉功さえすれば、師父は必ず私の病気を取り除いてくださる」と心の中でまだこのように考えています。皆さんみてください。彼は煉功さえすれば、師父がきっと病気を取り除いてくださると、依然心の中で思っています。彼の心に深く隠れているものがまだ存在しており、私に病気を構ってほしいとやはり思っています。つまり、彼はまだ自分の病気に執着しています。真に放下して何も考えず、気にもしなければ、どうなるのでしょうか? 求めずとも自ずから得ると言います。如何なる修煉形式、修煉方法もこのようです。常人社会の如何なるものも、努力やそれに執着することによって手に入れることができ、ひいては更に執着し追求してしまうかもしれませんが、他の空間では理がちょうど逆になっており、正反対です。どうしても得ようとして、どうしても行動に移そうとする時、何も得られません。まさに放棄すればするほど、何も気にしなくなった時、はじめて得ることができます。ですから、これは求めずとも自ずから得ると言います。

弟子:師父がシンガポール法会で大手印を打っていらっしゃった時、気持ちがよいと思う人、美妙だと思う人、悲しく感じ、心が痛んで涙を流す人がいましたが、修煉の次元と関係しているのでしょうか?

師:ほぼそのようで、大体そのようです。人によって感じたことや悟ったことは違います。

弟子:修煉して圓満成就すれば皆、無私無我の境地に至るわけですが、どうしてまだ次元が違うのでしょうか?

師:このように説明しましょう。修煉して初果羅漢に到達することも圓満成就であり、自分自身の解脱さえできればいいのですが、衆生を普く済度し、他人の面倒をみるというようなことを考えず、修煉者自身が努力して圓満成就すればいいと思っています。これが初果羅漢です。もし菩薩の果位に到達しようとすれば、それが初果菩薩であっても、必ず大いなる慈悲心が現れるように、大慈悲を修めなければなりません。自分が解脱するだけでなく、他の人も解脱できるように手伝います。それができるかどうかは別として、衆生を見て彼らが苦しんでいると感じ、涙を流してしまう心を持つようになります。これは見せかけのものではなく、本当にそう思っています。あなたはこの時何の心も念も動かしていません。もちろん、修煉の時、常にこのような状態が現れてくるわけではありませんが、現れてくることがあります。もし、あなたが圓満成就して佛になれば、あなたの慈悲心も変わり、慈悲心がありながら、菩薩が衆生を見て涙を流すようなことはありません。更に、あなたは衆生の因縁関係が分かり、更に大いなる智慧をもって全てを見ています。如来佛より次元の高い佛まで圓満成就した時、振り返って見ると、この慈悲心は何でしょうか? 彼には佛の常人に対する慈悲も執着に見えます。彼より下の神たち、佛たち、佛の世界にいる衆生たちのみに、慈悲の心を持っていますが、人間に対する慈悲はありません。彼が慈悲ではないと言っているのではなく、境地があまりに高く、下の生命が微生物にも及ばないほど小さいので低能である人間が何かに役立つ生命とは全く見ていません。更に高い境地に到達した佛は振り返って、「おや、如来佛も皆常人だ。この人たちは下で何をしているのか?」と思います。彼には人間が何に見えるのでしょうか? 人間は何ものでもありません。人間は極めてミクロ的な生物のように土の中でうごめいています。更に更に高い境地にいる佛の状態に到達しようと思えば、修煉してその境地に到らなければなりません。私はただ、佛の最も簡単な状態を話しただけで、佛はこのような状態だけではありません。

 皆さんにまだ人間の心があるので、真の法を人間に知らせることができません。異なる境地にいる生命は異なる状態があり、しかも、生命の物質的な身体の一面も絶えず変化しています。もし、佛の身体が原子から構成されたとすれば、佛より次元が高く、更に次元の高い佛、神の身体は中性子に当たるもので構成されているかもしれません。更に次元が高まっていくと、中性微子、クオークで構成されているかもしれません。これは人間が認識できるミクロ的な状態です。更にミクロ、更に更にミクロ的な物質によって構成されたものはどうなるのでしょうか? エネルギーは更に強くなり、物質の粒子が小さければ小さいほど、その密度も高くなるので、見た目はきめ細かく、光沢があるように見えます。私たちが人間の身体を見ると、まだ毛穴が見えますが、神の身体を見れば毛穴がありません。人間より次元が一つ上の三界内の生命、つまり三界の異なる次元にいる天人の場合、彼らの身体は人間から見ると、本当に滑らかできめ細かく非常に美しいのです。これは彼が世の人々に比べて粒子が小さく、密度が高いからです。言い換えれば、彼の絶えざる昇華につれて、全ての表面にある形式も昇華しており、境地の昇華が先決条件です。圓満成就には異なる境地がありますが、どの次元まで修煉したとしても、あなたの次元より下の次元はあなたにとって既に迷いではなくなり、全てを見ることができ、全ての真相が見えます。しかし、あなたの次元より高い全てのものはあなたにとって永遠の謎で、永遠に知ることができません。これは即ちあなたが実証した果位であり、払った代価や修煉の程度に応じて得るものが決められます。

弟子:修煉は厳粛なものだと分かっていますが、苦を楽と見做し、いつも喜んで楽しみに修煉していますが、これは間違いなのでしょうか?

師:間違っていません。もし修煉の過程で常に喜びを保つことができ、どんな困難に遭ってもこのようにすることができれば、本当に立派だと思います。皆さんもきっとあなたが素晴らしいと思い、感心します。これはなかなかできないことで、どんな困難を前にしても心が動ぜず、楽観的に対処することは非常に難しいのです。しかし厄介なことや関に遭っていない時でも、常に楽観的な態度、慈悲の心を保つことは修煉者が平素から備えるべきもので、最も良い状態です。

弟子:煉功者は結婚後、夫婦生活があってもいいのでしょうか?

師:あなたが常人の中で修煉しており、専業の出家修煉者でなければ、常人の状態に符合して生活すべきです。私たちは常人の中の物質的な形式を重く見ていません。なぜでしょうか? 私たちが変えているのは人の心だからです。人の心が変わらない限り、全てが偽りのものになります。表面上全てなくなっても、心の中でどうしても放下できず、これらのことに対して心が動いているようでは、何の意味もありません。心に何もなく、これらが人間のものを維持させ、人間の状態を維持させるものだと思っているのであれば、私に言わせれば非常に良く行なっていると思います。もちろん、高い次元まで修煉したら、これらのものはみな放棄しなければなりません。それまでの間にどのように行なっても、間違いとは言えません。『轉法輪』の中で私は既にその状態を明白に説きました。

 なぜ、修煉の過程でこのようにすることができるのでしょうか? 私たちの法門、私が今日伝えているこの大法は、わざわざ複雑な常人社会で修煉するようにしたので、更に高い次元の人が元に戻ることができます。もし、この常人社会の複雑さが足りなければ、つまり大きな難や妨害がなければ、更に高い次元から来た皆さんは永遠に元に戻ることができません。法が大きいだけではなく、また常人社会で伝えられているので、この法はあなたが常人社会で生活できるための便利な条件を提供しました。つまり、あなたのミクロ、あなたの生命の本源から、即ちあなたの生命を構成した本源の粒子から身体を変えており、木の年輪のように中心から外へと広がっていきます。修煉さえすれば、基準に達しさえすれば、年輪のように外へと広がっていき、表面まで広がった時、つまり木の皮まで到る時、全てが変わり、あなたはその時圓満成就するのです。まだ木の皮まで広がっていない間、つまり、あなたの身体の最も表面にあるこの物質的な身体に到る前、表面上あなたの物質的な身体にまだ常人の考えが存在しているので、きっと常人の各種の欲望、常人の色欲、情、各種の執着があるのです。常人ほど強くありませんが、存在はしています。それはあなたが修煉する時、常人の環境に符合できるようにわざわざ残してあげたのです。しかし、修煉してでき上がった一面は常人の表面の身体に動かされ、常人のことをするようなことはないので、修煉してでき上がった一面は基準に達した途端に、すぐ隔離してしまいました。

 隔離することの利点は何でしょうか? 人間の表面にある一面が常人の中でいくら活動しても、どんなことをしても、修煉してでき上がった一面はただそこにじっと座っており、念や考えを動かすことなく、身体も動かず、如何なることにも参与しないのです。これで人間が常人のことをする時、神の一面は何もしないで人間のまだ修煉してできていない一面が活動することになり、そのため、絶えず向上し堕ちないように保障することができます。逆に、もし常人社会で表面から奥深くに向かってあなたを変える方法を採れば、あなたは全く常人社会で修煉できなくなります。変化した身体は即ち神の身体になっているので、あなたの常人社会における一切の行為は、みな神が行なっていることになり、神が常人のことを行なうことになります。それではあなたは全く修煉できなくなります。神が常人のことをすれば、大変なことになり、神が常人の情を持つことは決して許されないことです。ですから私たちはこの事を逆にして、生命の本源からあなたを変え始め、このようにして絶えず表面へと広げ、広げ、広がっていきます。あなたが圓満成就するまで、表面上あなたは常人の中での生活状態を維持し続けることができますが、次第にますます淡泊になり、より一層淡泊になり、最後にどんなことでも淡泊に見て、放下できるようになり、これで圓満成就に近づいてきます。全体が表面まで広がってきたら、あなたは完全に圓満成就しますが、その瞬間何の震動もなく、非常に自然です。昔、修煉して圓満成就する時に震動があったのです。人が圓満成就する時、山崩れ、津波、また広範にわたって地震が起きるのです。私たちのような修煉方法で圓満成就する場合、震動がないので常人社会を妨害せず、より多くの人が常人社会で修煉するのに適しています。これほど多くの人が圓満成就したら、地球が耐えられなくなるので、各方面において常人社会で修煉できるように按排しました。

 修煉してまだでき上がっていない部分が表面まで進んできていない時、自分の常人の心がなくなったと言っても、私は信じません。それは無理強いでやったことです。高い基準をもって自分を厳しく要求し、煉功者らしい振る舞いをすればいいのです。同時にできるだけ常人社会の形式に符合して行なってください。しかし、私が説いたこれらのことも、ただこの質問に対して言っているだけでなく、夫婦生活に関しては短絡的にこのようにしなければならないということでもありません。このことに関して、皆さんが自分にとって最も便利な方法を講じればいいのですが、いいと思うようにすればいいのです。自分に常人の心がまだあり、しかもかなり強烈で、まだ結婚や相手を探したいと思い、ある女性を好きになったり、或いはある青年を好きになったりして、この心をまだ持っており、このようにしたければ、つまりあなたがまだそこまで修煉できていないということを物語っているので、このようにしてもいいのです。今日で何もかも放下し、必ずやり遂げて、すぐにでも成佛したいと思わないでください。そうであれば、あなたにはもう修煉の必要がなく、あなたは既に佛なのです。ですから修煉はゆっくりすることで、漸進の過程があります。私はこのように話しましたが、圓満成就するまで、表面にみな常人の七情六欲があると先生がおっしゃったので、このようにすれば大丈夫だと思ってはいけません! あなたに七情六欲があり、私もできるだけ常人に符合して行なってくださいと教えましたが、修煉者としての基準をもって自分に厳しく要求しなければ、修煉していないことになります。つまりこのような弁証的な関係です。

弟子:白人の学習者は全ての時間を利用して法を勉強したいのですが、同時通訳付きの説法テープがまだない状況で、自分で『轉法輪』を朗読し、録音したものを聞いてもいいでしょうか?

師:このようにすれば効果が良くないかもしれません。なぜ良くないのでしょうか? 私が説いた法に力があるからです。あなたが修煉者で、圓満成就する前は、語った話の中に各種の常人の信息が入っているため、それを発してから再び自分に取り入れる、このように繰り返して交差する汚染は良くありません。本を読むなら別です。いま私たちが同時通訳の作業を急いでいるので、もうすぐできますが、この問題はもうすぐ解決されます。いずれにせよ、私はこの道理を教えていますが、つまりあなたの語る話には自分の常人の各種の心、各種の考えがあります。法が何らかの働きをしなければならないので、表面の道理だけを聞いてもたいしたことが分からないのです。あなたが語るものはあなたの境地における認識であるため、またそれを聞くと、あなたは永遠にその境地での認識に留まってしまいます。同時通訳なら違います。なぜならば、私の声も入っているからです。私の声は小さく、同時通訳の声は大きいのですが、実はそれは通訳しているだけで、本当のところ私が説いています。学習者が聞いて分かるだけでなく、私の説法に付随した全てを受信できます。この意味です。

弟子:三歳か五歳ぐらいの女の子が三回現れたことがあります。私が半醒半睡の時、彼女は枕の上で笑いながら跳ねていました。これは法輪から出てきた嬰孩なのでしょうか?

師:この情況はみな良いことですが、絶対良いことだとも言えません。嬰孩は非常に小さいのです。私たちの昔の背景はみな極めて複雑なので、このようなことを気にしないでください。以前から連れて来たのかもしれず、他の原因があるかもしれません。女の子であるにすぎませんが、良いことかもしれません。彼女のことを気にせず、ただ修煉に専念してください。

 私はまだはっきり説明していないようですが、まだ分かっていない人がいます。例をあげて説明しますが、この情況に一致していないかもしれません。私たちが上の世界から転生して来た時、以前の子供もついて来る場合もありますが、子供は転生せずに他の空間でついているだけです。また前世で子供を持っていて、その人は転生しましたが、子供は転生しなかったのです。しかし、霊的な感性が良く、いつもついています。このような情況もあり、どんな情況も可能です。あなたが正法を得たから、もしあなたと因縁関係のあるものであれば、この全てを按排してあげます。全てを周到に按排してあげますので、これ以上これらのことに構わないでください。

弟子:いくら考えても質問を出すことができませんが、修煉がよくできていないのでは・・・。

師:修煉が良くできている一部の古い学習者は、私に会うと何も話せなくなりますが、胸いっぱいで苦しんでいても、何も話せないと分かっています。私に会う前にたくさん聞きたいことがあるのに、いったん私に会うと言葉が出てきません。その理由を皆さんに教えます。修煉者であれば、私に会うと皆こうなります。私に会うと何も話せなくなったのは、皆さんが絶えず修煉している中、修煉によってはっきり分かった一面、修煉してでき上がった部分は隔離され、まだできていない部分と隔離されました。ですから修煉してまだできていない部分は永遠に分からないので、質問があり、更にはそれを聞きたいのです。しかし私に会う時、師父に会ったので、修煉してできた部分が元気になり、あなたの常人の一面も完全に支配されました。ここに座っていてどうして皆さんは良くない考えがなく、和やかなのでしょうか? つまり修煉してできた部分が元気になり、身体全体がその部分によって制御されているからです。修煉してできた部分が基準に達していなければ、それはできたと言えますか? つまり修煉してできた部分は何でも知っていますが、できていない部分は分かっていません。要するに、その時あなたは聞きたくなくなり、聞きたいことがなく、何でもはっきり分かっているのです。いったん私から離れると、修煉してできた部分はまた制御しなくなり、静止して動かなくなるため、あなたのこちらの一面はまた分からなくなり、「さっき、どうして先生に聞かなかったのか!」と思ってしまいます。このような状態ではありませんか? 実はこういうことです。

 皆さんに教えますが、本を多く読み、多く読み、多く読み、必ず本を多く読んでください。これは宇宙の法であり、古から今日まで、常人社会で伝わっている如何なる法門も、如来の境地及び如来以下の法しか伝えていません。これほど大きな法は、宇宙の異なる生命に異なる生存環境を切り開き、宇宙全体を造成したこれほど大きな法の境地にあなたが達していないため、それほど深い内涵を読み取ることができないだけです。しかし果位を得ることができ、圓満成就することができれば、知るべき一切はその中にあるので、必ず本を多く読み、多く読んでください。もちろん、古い学習者は問題があれば本を読めばきっと解決されると既に分かっています。新しい境地でまた新たに更に次元の高い質問が現れてきますが、本を読めばまた解決してくれます。更にこの境地に質問が現れたら、本を読めばまた解決してくれます。このように絶えず修煉し、絶えず昇華していきます。問題があれば、この法は回答を与えてくれるので、日常生活の中で自らに厳しく要求し、絶えず向上していけば、あなたは即ち勇猛邁進しています。

弟子:名、利、情の根源は利己心なのでしょうか?

師:名と利はみな利己心です。情について、私は今までの説法で既に説明しましたが、情は私たちのこの層の人類空間と三界内に充満しています。三界内のあらゆる生命も情から逃れることができず、みな情の制約下にあります。人間はまさしく情の中におり、情に執着すればするほど、情の力がますます強くなり、作用もますます強くなります。特に親友に死なれた時、或いは若者が失恋した時、思想の中に情のことを思えば思うほど、情の力が強くなります。情は三界内のもので、修煉者は必ず情から抜け出さなければならず、情を放下し、超越すべきです。利と名にいたっては、それは人間が重くみているものであって、実は同じく情に由来しています。名があれば、名によってもたらされる幸福を享受することになるのではありませんか? そのため喜んだりしますが、名、利を求めているのは自ら満たされるためではありませんか? 満たされると喜んでしまうのではありませんか? この喜びもまた情ではありませんか? ですから、それはあなたに喜びや名誉を与えることができるので、情ではありませんか? 利益に満たされたら、また喜んでしまうのではありませんか? これもまた情なのです。人間はこの情のために生きています。常人の中で喜んだり、気分を損ねたり、何かに反対したり、賛同したり、何かをほしがったり、ほしがらなかったり、ある状態に達しようと思ったり、あるものが良いと思ったり、思わなかったり、そうしようと思ったり、思わなかったりすること、この全てはみな情です。人間は情のために生きていると言われています。人類社会に情がなくていいのですか? 人類社会にもし情がなければ、人間は生きていても面白くなく、本当につまらないのです。人間はこのように生きていくのです。

 私心の問題についてですが、先ほど私が説いた道理を聞いてみな拍手をして、喜んでいました。未来の宇宙が不滅だとお話しましたが、皆さんはこれを聞いて喜んでいました。それがなぜか皆さんはご存知でしょうか? 自分のために計らぬ者は、天地の罰を受けると言う人がいます。この言葉を座右の銘としている人もいます。実は皆さんはご存知ではありませんが、「私」という心が非常に高い次元まで貫いています。「私は何かをしている」、「私は何かをしたい」、「私は何かがほしい」、「私は修煉している」、「私は成佛したい」、「私は何かの目標に達したい」など、昔の修煉者は言っていましたが、実はみな「私」の心から抜け出すことができませんでした。しかし、皆さんに到達してほしいのは、真の純正、真の無私であり、本当の正法正覚の圓満成就であり、それになってはじめて永遠の不滅に到達することができます。ですから、皆さんに教えますが、どんなことをしても、まず他人に配慮しなければなりません。他人からお金をもらえば喜ぶ人がいますが、「お金をもらうことで相手が不幸なことに遭ってしまうのではないか? 経済的余裕がなくなってしまうのではないか? 或いはどうなるのか」と皆さんは考えてもみません。他人から貰い物があれば、喜びますが、その人のことを考えようとしません。優しくしてくれれば喜びますが、相手のことを考えません。甚だしい場合、相手が極度に苦痛であっても、まだ無理にあなたに優しい言葉を掛けていますが、あなたは全く相手の気持ちを配慮しません。どんなこともあります。つまり、今日修煉し始めたからには、どんなことにも相手を配慮しなければなりません。

弟子:『轉法輪(巻二)』の中で、海にも人間がおり、しかも数種類もいると書いてあります。

師:そうです。私たちのこの空間に生活している者もいれば、この空間に生活していない者もいます。海に人間がいるだけでなく、私たちと同次元の別の空間にも人間がおり、中に皆さんと同じような者もいれば、そうでない者もいます。それを人間と呼んでもいいし、人間と呼ばなくてもいいのです。彼らには少しの情がありますが、常人の欲がないので、下半身は物質的な形をしており、上半身だけが人間の形をしています。ですから、彼らは浮遊し、飛ぶことができます。海にいる大多数の人は昔の地球の各時期に淘汰された人たちです。元々海底の人間だった者もおり、人間とさほど違わないのですが、上半身は人間で、下半身が魚の者もいますし、上半身が魚で下半身が人間の者もいます。また、大陸プレートの下にも昔の人間がいて、過去に淘汰され、上がって来ることができなくなったのです。世間、つまり地球に淘汰された者なので、その一部は業がまだそれほど深くないのに、地中に潜り込みました。このようになったので、彼も地中から出ないで、そこで生きていますが、数は非常に少ないのです。往々にして彼らは人間より能力があり、人間ほど迷っていないのです。この話はこのへんにしましょう。面白がらないでください。あなたの修煉とはあまり関係がありませんので、これらのことに構わないでください。

弟子:将来、日本語の新版の大法書籍が正式に発行された後、訳に間違いがある旧版はどう処理すればいいでしょうか?

師:旧版に間違いがあるとも言えないでしょう。ただ訳が適切でなく、或いは単語の用い方が正確ではない、このように言うしかありません。どう処理しますか? 処理せず、そのままでいいのです。どんな版も少しもずれることなく、中国語を訳すことはできません。幾種類もの版があったほうが私はいいと思います。読んだ人は「この意味もある、あの意味もある、こういう意味だ」と思うようになります。それならまだ利点があります。このようにしてください。

弟子:臆病は執着心なのか、それとも体質的な要素なのでしょうか?

師:臆病というのも、この宇宙にそのような要素が存在しているので、あなたを恐れさせています。それは他でもなく恐れと呼ばれています。あなたが恐れれば恐れるほど、この要素は働きかけてきます。意志でそれを克服しなければなりません。これはあなたの意志の問題で、修煉の中でできなければならないことでもあります。

弟子:煉功の時、いつも修煉や、法を広めること及び先生の話などを考えていますが、これは正しいのでしょうか?

師:これはある時期に現れてくる状態なので、将来良くなります。

弟子:他の人に、代わりに殺生してもらう場合、造った業力は依然として私の身体に付いてくるのでしょうか?

師:もしあなたがこのような仕事をしているのであれば、私はこの場でこのことを話したくありません。私は二篇の経文でこの問題に言及し、明白に説明しましたが、悟らない人がいます。このようにお話しましょう。皆さんが生々世々にどのぐらいの生命に傷害を与えたのか、ご存知でしょうか? 皆非常に多いのです。法が小さければ、今生で修煉して成就できず、それぞれの世で殺した生命に償わなければなりません。佛教の中では、一世では成就できないと言っていますが、つまり佛教も殺生したら償わなければならないと分かっています。しかし、私たちはあなたを今生で圓満成就させようとしているので、時間がありません。それでは、皆さんが殺した生命はどうしますか? 彼らに与えた苦痛は、皆さんが業を滅し、苦痛に耐えている中で償われるほか、絶対多数の部分は私が消してあげますが、残りの部分は皆さんで償い、この関を乗り越えられるようにします。同時に、皆さんが未来に圓満成就する時、皆さんが殺した生命は、あなたの世界の衆生になります。これでこのことは良いことになりました。もし殺される生命が将来佛の世界に行くことができると知っていれば、喜んであなたに殺してほしいぐらいです。もちろん、その生命は果位がなく、その世界の衆生になり、あなたの佛の世界の庶民或いは動物、花、鳥になりますが、異なる生命に異なる按排があります。

 しかし、このように話したので、「そうか、それなら、私は殺生しても問題がない」と、逆に理解してしまう人がいるかもしれません。もし圓満成就できなければ、あなたが殺した生命に、あなたは将来永遠に償いきれませんが、これほど大きな業を造ったら償わなければなりません。つまり、極めて苦痛の中で、尽きることなく償うのです。ですからこれは非常に恐ろしいことです。先生が地獄について話していないと、ある学習者は昨日言いました。それは話してはいけないと答えました。これほど神聖な場で、そのようなことを話すのは非常に恐ろしいことです。もちろん、私にとって何も恐れることはありません。しかし、一部の人にとっては非常に恐ろしいことです。ですから、先ほど直接あなたに答えませんでしたが、私は既にはっきり説明したと思います。

 中国で医学の博士課程に在学している学習者がいますが、解剖実験をやっています。実験が終わったら、博士号を取れますが、つまり試験に全て合格し、幾つかの実験を行ない、千匹かまたは五百匹のマウスを解剖すれば、博士号を取れるようになります。彼は、いま法輪大法を修煉しており、殺生が業を造っているのだと分かったので、実験ができなくなったと指導教官に申し入れました。彼は自分が殺生できないため、学位は要らないと指導教官に言いました。皆さん考えてみてください。生死の関を乗り越えられなければ圓満成就できません。しかし決して死ぬ時の痛みを経験してから、はじめて生死を放下したと言えるというようなことではなく、それはただの形式にすぎません。私は形式を重く見ておらず、あなたの心を見ており、心から本当にできるかどうかを見ています。皆さん考えてみてください。人間は他でもなく名と利のために、この世で生きています。彼が博士号を取れれば、良い仕事と明るい将来があり、給料ももちろん高く、常人や普通の人より高いのです。人間はこのために生きているのではありませんか? 彼はこれさえほしがらず、これさえ放棄できます。若者として、これも放棄できれば、何でも放棄できるようになり、生死まで放棄できるに等しいのではありませんか? 人間はこれらのために生きているのではありませんか? ここまでできたのは、実は彼が修煉して既にその境地まで到達したからです。このような人、彼のこのような情況に対して、私はこう話しました。情を放棄できて、名、利まで放棄できれば、どうして殺生を恐れること自体も放棄しないのでしょうか?! これで最後の執着を取り除いたことになるのではありませんか? 私はこの意味を話しています。もしこの境地に到達することができず、生死の関を乗り越えられず、この全てを放棄できないにもかかわらず、このようにすれば、それは別のことになります。殺生で造った全ての業を尽きることなく償わなければなりませんので、それは非常に恐ろしいことです。法理や道理は私が既に皆さんにはっきり説きましたが、どのように行なうべきか、自分で判断しなければなりません。大法の原則として、殺生してはならず、修煉しようと思うならば、殺生してはいけません。しかし、大法が更に高い境地でも圓容なので、法はまた佛の境地での道理を表しました。皆さんが殺生した一部の生命は皆さんの未来の世界の衆生になると話しましたが、もし皆さんが圓満成就できなければ、全ては台なしになります! 全ては自分で償わなければなりません。このような関係です。ですから、私は高い次元の法を説きたくありません。いま説けば、多くの人が私の説いた道理を真に理解できないからです。

 もちろん、法は常人の中の道理を超えており、古今東西の本を読み尽くしてもそれを見つけることができず、他の経書の中でも見つけることができません。ですから、皆さんは聞きたがっていますが、くれぐれもそれを知識としないでください。私はあなたの知識を求める心を満たしているのではなく、あなたを済度しており、法を説いています。

弟子:先生はいつも「私たち」という言葉を使っていらっしゃいますが、どう理解すればいいのでしょうか?

師:私は現代の中国大陸の言葉を使っています。皆さんがみな大法の中の一員であり、つまり大法の一員だと思っているので、皆さんのことを「私たち」と呼んでいます。それを聞いて皆さんは本当の修煉に身を投じるのだと思います。このような考えです。

弟子:人間がどのようになったら、精神病になったと言えますか?

師:精神病はつまり、自分で自分の身体を主宰することができず、非常に脆弱になり、厄介なことに遭う時、全て放り出してしまうということです。主意識が寝てしまったかのように、何もかも放り出してしまい、瞬時にこの身体を手放してしまいましたが、この時人間に常人が言う精神病の状態が現れてきます。なぜでしょうか? 主意識が身体を手放した時は、即ちその人が理性を失ったのです。それでは、あなたの各種の業力で構成された思想と、後天的に形成された各種の観念は身体、口、目、あなたの全てを支配し始め、でたらめなことを言わせ始めます。気が狂ったかのようになり、常人の規範に合う行為は全くないので、人々に精神病者と言われます。私に言わせれば、精神病は病気ではなく、何の病理的な状態もありませんが、ただその人の主意識が弱すぎるのです。先天性の場合もありますが、生まれた時から主意識が弱く、身体が常に他の人に支配されており、いつも支配権を他の人に預けています。その上、各空間からの強烈な信息の妨害もあり、この人は何でもやりかねません。脳は既成の機器のように、誰によって操られてもいいので、本人が操らなくなったら、他の人が操りにやって来るので、人間としての規範がなくなります。ですから、人間の意志は必ず強くなければならず、確固としていなければなりません!

弟子:圓満成就の時、本体の転化もなく、元嬰を修め出すこともない人はいるでしょうか?

師:大法弟子の中の多くが異なる次元から来た者だ、と私は言いましたので、異なる状態もあり得るのです。しかし、自分がどういう状態であるか気にしないでください。修めさえすれば、あなたが最も満足できる状態まで達することを保証します。皆同じです。私が皆さんに最も良いものを与えたら、この宇宙に最も良いものを造り出したことになるのではありませんか?(拍手)

弟子:『轉法輪』を読む時、佛、道、神から明白に悟らせられることはめったに感じませんが、着実に修煉する過程で法理を悟ることができます。

師:あなたが悟ることができるから、悟らせなくてもいいということでしょう。自ら進んでそこまでできれば、それが自分で悟ったので、非常にいいことです。どうしても悟らなければ、まだ素質がある場合、どうしたらいいでしょうか? 一言で悟らせるのです。

弟子:最近いつも良くない心理状態が現れ、善の念がなく、考えも乱れていますが、私は本当にそこまで落ちたのでしょうか?

師:自分を甘やかすと、業力は気が狂ったかのようになります。あなたの方が強くなれば、それを抑制することができます。それを抑制すると同時に、あなたが本当にすることができ、修煉者だと私が判断すれば、あなたの面倒をみなければならず、あなたのためにこれらのものを消してあげます。このような関係です。自分がそこまでできなければそれもいけません。「なるほど、それを抑制すれば先生が消してくれるので、それなら抑制しよう」と思ってはいけません。先ほど話した病気に対する考えのように、私に業を消してもらうために、修煉したのであれば、それもいけません! いずれにせよ、如何なることに対しても執着してはならず、正念を持つべきです。

弟子:公園で集団煉功する時、功法を教える先生のビデオを流してもいいでしょうか?

師:もしこのような環境があり、政府も干渉しなければ大丈夫です。ビデオを流す時、状況と場所を考慮すべきです。

弟子:一年ほど修煉しましたが、修煉すればするほど脆弱になり、ちょっとした執着でも、心が激しく動じてしまいます。

師:多分あなたはますます敏感になり、修煉が良くできていないのではないかと心配しているかもしれませんが、この心も無くし、正々堂々と修煉してください。しかし自分に対して厳しく要求しなければなりません。誰でも修煉の過程で間違いを起こし、乗り越えられない関があるのです。もしどんな関でも順調に乗り越えることができれば、師父である私がよく按排していなかったことになります。ですから、それぞれの関はみな非常に乗り越えがたく、乗り越えられるかもしれず、乗り越えられないかもしれません。またはうまく乗り越えられるかもしれず、うまく乗り越えられないかもしれません。しかし、よく乗り越えられなかったら、あなたは辛く感じ、修煉ができていないと悔やんで、次回は必ず乗り越えられるようにしようと思うのです。次回、再び関に遭い、このような状態の中で、乗り越えられるか、乗り越えられないか、自己を反省し、絶えずこのようにしていれば、あなたはつまり修煉していることになります。もし全ての関を順調に乗り越えられれば、修煉しなくてもよくなり、どんな関もあなたを遮ることができず、あなたは圓満成就することになります。しかし、「関をうまく乗り越えても乗り越えなくても、修煉さえすればよい」と先生はおっしゃったので、自分を甘やかし、うまく乗り越えなくても気にしなくなるようでは、またあなたは修煉していないことになります。このような関係です。自分に厳しく要求しなければなりません。

弟子:どうなれば圓満成就したことになりますか? 常人が死んだようになるのか、それとも師父によって按排されるのでしょうか?

師:圓満成就に多くの形式があります。ご存知のように、釈迦牟尼佛は人間の執着心を最大限に放棄させるため、涅槃を講じます。彼の法門では、人体さえ要らないのであって、つまり人体に執着せず修煉します。チベットのラマ教では虹化を講じ、つまり圓満成就する時に座ったまま迎えます。もし身体全体が修煉によって良くできていれば、圓満成就の瞬間に一筋の赤い光を放ち、身体が溶けて消えてしまい、元神が修煉してできた佛体を持って去って行きます。しかし、修煉してできた佛体は常人の物質を持っていないため、人間には見えず、ただ光や光の影が昇って行くのが見えます。修煉の足りない人は身体を全て虹化することができません。ですから、そういう人は虹化する時、一瞬にしてその身体が一尺ぐらいの高さの完全な人間になり、本人とそっくりで、身体のバランスがよく取れています。これはつまり修煉が足りないので、まだ完全に虹化できなかったということです。

 また別の状態もあります。中国の道家は圓満成就の時「屍解(しかい)」の形式を採っています。屍解とは何でしょうか? 中国古代では大道を修める人が多くいました。大道の修煉法は圓満成就の時、身体を持って行くので、身体を捨てないのです。しかし、肉体は既に常人の身体ではなく、完全に高エネルギー物質に取って代わられ、道の身体になりました。屍解の方法はつまり自分が既に圓満成就したと分かっており、身体の全てが修煉によってできたのです。それでは、彼はどのようにこの世から去って行くのでしょうか? 道を修める人の多くは、常人の中でまだやり残していることを圓満成就してから解決することにしています。佛門はそうではなく、圓満成就の過程でそれを解決します。

 屍解はつまり彼が去ってから、人々が彼を探さないように、仮死状態になりますが、実はその時、彼は天に上り地に入るなど何でもできるようになります。この世から離れる時、私はもうすぐ圓寂し、修煉が既にできてそろそろ逝きますので、棺を用意するようにと家族に言います。その時刻になると、彼はベッドに横になり、しばらくして息を引き取ります。家族は彼が死んだのを見て、彼を棺に入れて埋めます。実質上、彼は神通を使って「目くらましの方法」を採りました。その日家族が見た彼は、既に本当の彼の身体ではないのです。それでは何でしょうか? 彼は靴、箒或いは棒、剣などを自分の形象に変えさせ、それは何でも話せます。「私はここで横になり、すぐ死ぬので、後で棺に入れてくれればよい」と家族に告げます。実はそれは木の棒、或いは箒、または靴が話しています。本当の彼は既に行ってしまいました。遠いところまで行ってしまいました。それで、家族は彼を埋めます。実は埋められてから、二時間ぐらいで元の姿に戻ります。また靴、竹の棒、或いは木の棒に戻ってしまいます。これを屍解と言います。他の地方から帰ってきた人は、「あれ、商売に行った時、ある遠いところで、お宅の誰それに会いました。話もしました」と言います。家族は「違いますよ。あの人は既に死にました」と言います。その人は「見ましたよ。彼は死んでいません。確かに会いました。話もしてご飯も一緒に食べました」と言います。確かに死んだのを見たのにと家族は怪しく思い、彼が道を修めていたのを知っているので、掘り出して見てみようと棺を開けると、一足の靴が中にありました。

 道家にまた白日飛昇という形式があります。白日飛昇というのはつまり、その人の身体が修煉して完全にできており、この世で圓満成就する前に願も解き、することがなくなったので、世を離れる時が来たということです。この時を天門開きと言い、つまり三界の門が開くということです。天神或いは龍、鶴などが彼を迎えに来て、彼はそれに乗って飛んで行きます。場合によっては天上の車が迎えに来ます。このようなことは古代には非常に多く、この形で白日飛昇する場合もあります。私たちの法門では、法輪世界に行く人に対して、私は白日飛昇という方法を採ります。また身体の要らない法門もあります。身体を与えると、その世界のものが全て乱されてしまいます。釈迦牟尼が涅槃したように、彼に身体を与えると、涅槃ではなくなります。それではその法門全体をかき乱してしまうのではありませんか? 彼の世界は戒・定・慧という要素で構成されているので、身体が要らないのです。私たちの多くは「白日飛昇とはなんと素晴らしいのだろう。私が飛んでいるのを人々に見せてあげよう」と常人の思想で考えています。あなたは常人の心で神のことを考えており、これでは絶対いけません。つまり圓満成就の時、当然、圓満成就の方法があります。しかし皆さんに教えますが、私たちの今回の圓満成就はこれほど多くの人なので、私は必ず信じない人に深い教訓を残します。ですから、将来私の弟子が圓満成就する時は、人類社会が永遠に忘れがたい壮観な光景であるかもしれません。(拍手)

 このように話しましたが、どんな心も放下しなければなりません。これらのことに構わないでください。ひたすら修煉してください。圓満成就できなければ、全てゼロになります。

弟子:『轉法輪』の中の異なる字の後ろに、異なる佛、道、神がいるのでしょうか?

師:そうです。これは間違いないことです。ですから本を読むようにと皆さんに教えています。あるところを読んで、分かったと思う時、身体に震動が走り、熱くなるのを感じますが、ただ非常に弱い感覚です。実はその時身体の変化は非常に強烈なもので、中のあらゆるところが沸き上がっています。なぜならば、あなたはまた次元を高めたので、身体には異なる次元の異なる形式の変化があるのです。ご存知のように、中国の廟にある佛像は頭の上に更に四つの頭が出てきて、またこの四つの頭の上に更に三つの頭が出てきて、更に三つの頭の上に一つの頭が出てきています。実はこれは佛の異なる次元に現れている法像の表現形式です。つまり異なる次元での身体に起きた変化は非常に激しいものです。偉大で、荘厳かつ威厳があり、また奥深いのです。ですから皆さんに見せないのは理由があるのです。皆さんに常人の心があるため、常人の心で理解し、甚だしい場合、理性を失ってしまうことになりますが、それではいけません。

弟子:握手や身体の接触によって、業力が伝わってくることはあり得るのでしょうか?

師:真に修煉している人なら、いくら敏感であっても、相手はあなたに如何なる傷害も与えることはありません。修煉している身体は全てが功なので、功より低いものを恐れることがあり得ますか? あなたより境地と次元が随分かけ離れているので、心配する必要はありません。

 人と人との握手、常人間の接触、握手で確かに業力は伝わります。少なくとも業力がくっ付くことはあり得ます。これは確かなことです。現在皆さんは握手をしています。握手は西洋の白人社会から伝わってきたもので、東洋人は昔握手をせず、会ったら、片手でこぶしを握り、もう一方の手をそれに被せるようにして、胸の前で合わせ、それも良かったのです。女性はこのような方法ではなく、格好が悪いので、右側の下腹部で手を合わせていました。会ったらこぶしを作り、身体の右側に持っていき、脚をやや曲げます。西洋社会ではルネサンス以後、握手が現れてきたようです。昔西洋でも握手をせず、それなりの礼法があり、それぞれ違いました。このようにする人もいれば、あのようにする人もおり、種類は非常に多く、いろいろな礼法がありました。握手は後になって形成されたのです。私たちには合掌という佛門の礼法があります。

弟子:修煉してからの一年、めったにトラブルに遭いませんでしたが、このままでは、多くの執着心をどのようにして取り除くのでしょうか?

師:そのようなことはありません。人それぞれ違う状態があり、このような状態、或いはあのような状態、或いは・・・。いろいろな方面の要素があると思いますが、くれぐれもこれらのことに執着しないでください。本当に難がやってきたら、なかなか乗り越えられませんが、難がなければまたそれをほしがっています。みな理由があるのですが、実は確かにそれほど多くの難がない人もいます。これも確かなことです。

弟子:私たちの煉功場に数十人いますが、大半は顔色が悪いのです。私たちは着実に修煉を実践していないのでしょうか?

師:煉功場によってはとても良くない場合があり、学習者の間で噂話やでたらめな悟りを広げるところもあります。本来私の説いた法とは全く関係のないことでも、でたらめに悟り、学習者を率いてあれこれと妄りに思索を巡らしています。更にこの法や法のこの部分がどうであるかということを話したりして、法についての議論をするという具合です。人に法を議論する資格があるでしょうか? 少なくとも、あなたにまだ人間としての考えがあるので、このようなことをするのは間違っています。私たちは他でもなく、大法にのっとって修め、本を読み、集団で煉功するのです。多くの時間は法を読むことに用いて、自分の体験を語ることにあまり時間を費やさないようにしましょう。或いは煉功が終わったら互いに語り合っても結構です。修煉や法を読む時間を使って体験を語り合うのは、私が思うには、良くないことです。人によってはその語るものの中に、各種の個人的な念や情緒を帯びており、甚だしい場合、法から全く離れてしまうこともあります。そのため学習者を違う方向へ連れ込み、更に妄想に走らせるのです。人間には皆、常人としての考えがあります。学習者の間では古くからの学習者、新しい学習者を問わず、字面以上の道理を語らせ、知らせることはできません。あなたの語ることはなんといっても、字面上の道理、表面的な道理にすぎず、なぜならば、天の法は常人の中で説かれてはいけないからです。ですから、なぜか分かりませんが、そのような人はどのようにしてそれらのでたらめなことを悟ったか分かりません。注意しましょう!

弟子:「印」の訳語は何でしょうか? なぜ「結印」が必要なのでしょうか?

師:佛は印とは言いませんが、それは佛法の一種の荘厳な体現であり、古代のインドから翻訳された時、そのままにした言葉で、「印」と呼ばれています。結印、大手印、小手印などは、法像及び法語のもう一種の荘厳な表現です。

弟子:私の修煉はもうすぐ一年になりますが、まだ法輪を見たことがないのですが?

師:このように話しましょう。もしあなた自身に何の変化もなく、法があなたにもたらした変化を体験したことがなく、或いはあなたの知っている、悟った常人の状態を超えるものが全く無いと言うのであれば、あなたが修煉者である限り、私はそれを信じません。あなたがどうしても見ようと思い、現れてほしいと思えば、或いは常人を見るようにはっきりと見え、これほど鮮明に現れてほしいと思えば、まだ無理だと思います。あなた自身の条件、常人の思惟状態の相違、及び将来の圓満成就の違いに基づいて、一人一人にそれぞれ異なる方法で対処していますが、絶対に千篇一律にはなりません。法輪を見たいという心があれば、その心を取り除かない限り見ることはできません。

弟子:より高い次元の佛が人類など取るに足りないものだと見ているのに、なぜ師父は私たちを済度しに来られたのでしょうか?

師:宇宙の法は宇宙の全ての異なる次元の生命に異なる次元での生存環境を切り開いたので、この生存環境の中には必ず衆生がいなければなりません。常人もこの法が全宇宙のために切り開いた異なる次元の中での最も低い次元です。そこで、私の立場では法全体と宇宙全体を考慮に入れる必要があります。私ははっきり説明したでしょうか?(拍手) ですから、私の立場から、生命や、正の生命と負の生命に対する認識は皆さんのものとは違います。これは皆さんには理解できないことです。

弟子:絶えず法を学ぶにつれ、頭の中の考えがどんどん少なくなり、時には何も考えたくないのですが、これは自分の主意識が弱いからなのか、それとも修煉からずれたのでしょうか?

師:いいえ、そうではありません。更にこれはとても良い現象だとあなたに教えたいと思います。なぜとても良い現象なのでしょうか? 皆さんに教えますが、常人の中で脳の反応はとても機敏で、自分の利益を守り、損失を蒙らないようにするため、その方面の考えはとても敏速で、しかも記憶力もいいのです。言い換えれば、あなたが働かせている脳のこの部分は良くないもので、それが業を造り、とても発達しており、あなたの修煉を妨害しています。ではどうすればいいでしょうか? 私たちはここで、先ずあなたの脳のこの部分を抑えてしまうという方法を採っています。言い換えれば、その部分にまず鍵を掛けてから、それを調整します。まず修煉者らしい考えに置き換え、その部分の思想を発達させるのです。そして例の狡猾な部分を調整してから、徐々に開いていき、その時あなたは自分を把握できるようになります。自分自身も自分の良くない考えを意識することができず、その部分はあまりに発達しているので、何かを考える時、すぐその良くない考えに走ってしまいます。脳のその部分は皆さんの修煉に大いに影響し、多くの人にそういった状態が現れますが、それは一時的なものです。あなたがいつも好んで使う部分、つまり自分の利益を守るとか、他人を傷つける考えとか、あまりに発達した脳細胞を全て封じ込めて調整しているので、このような状態が現れます。しかし、これは一時的なことです。封じ込めてから、それほど発達せず、正常に使用できる程度まで処理も行ないます。あなたの正念を持った思想細胞を発達させていきますが、このようなことです。そうでなければ、私はある方言でピッタリ表現できると思いますが、正々堂々とした佛を修める人として、あなたの考えがあまりずる賢くてはいけません!

弟子:他人の体験を聞いている時、自分もヒントを得たように感じるのですが、自分で悟り得たものほどしっかりしていないような気がします。

師:そうです。もちろんそのとおりです。あなたが自ら悟り得たことは自らの修煉でできたものでそれが最もしっかりしています。ただし他の人の話もあなたにとって、確かに参考になり、あなたを促すものですから、それにも良いところがあります。法会はいつも開くものではないので、私たちの法会には法会としての良さがあります。体験を語ることを頻繁に行なわないでください。法を学ぶことと、本を読むことに精力を集中してください。

 幾つかの質問は比較的レベルの低いものや重複しているもの、また本を読んで解決できるものもありますので、そういったものには解答しないことにしました。時間の関係で質疑応答はこれぐらいにしましょう。(熱烈な拍手)





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