李 洪 志
一九九九年二月二十一、二十二日ロサンゼルスにおいて
皆さん、こんにちは!(拍手)
本来なら、今回の法会を西部地区の体験交流会にしたかったのです。その目的は、西部地区の学習者がよりよく修煉し、更に良い修煉環境を持つようにするところにあります。これがこの地域の法会であり、この地区の学習者の問題を解決するための法会なので、それ以外の多くの人々に教えておらず、世界各地に知らせることもしませんでした。もっと重要なのは、皆さんが安定した環境を有し、落ち着いて修煉し、いかなることにも影響されないようにしたいからです。現在、各地区に多くの学会と輔導站があるので、活動も多くなっています。もし私がどこかへ行くたびに、皆さんが追いかけて来るのであれば、皆さんは修煉の時間がなく、安定した修煉環境もなくなります。これはあなたの修煉にとって良いことにはならないので、多くの人にあちこち駆け回ってほしくありません。もちろん、皆さんもこのことが分かっていますが、やはりどうしても師父に会いたいと思っています。この心情は私に分かっていますが、実はあなたがしっかり修煉して成就できれば、更に簡単に会えるようになります。
皆さんは来た以上、西海岸の学習者がこの間の修煉を通じてどのような向上と収穫があったのか落ち着いて聞いてみましょう。彼らの発表と体験から、自分との差を見出すことができ、修煉の中で自分自身をより良く向上させることができます。皆さんも自分のことを振り返って、違いを探し、お互いに促し合いましょう。これが私たちの法会の根本的な目的です。もし、私たちの法会がこの役割を果たすことができなければ、法会を開いてはならず、開いても無駄になり、その意義を失ってしまうことになります。大法の全ての修煉形式及び私が行なった全てはみな、皆さんができるだけ早く向上してこられるようにするためです。もし、そうではなく、この目的に達することができなければ、私はこれらのことをしません。もちろん、皆さんの現在の修煉形式の中に、煉功以外に、法を広めるということもあります。これは当時、私が法を伝え始めた頃から現在に至るまで、残したものです。これも非常に重要であり、確かに非常に良い作用を果たすことができます。ですから、各地区でやはり法会を開くべきです。ただし、私が思うには、各地区の場合はやはり地域的なものにし、小規模な法会にしたほうがいいと思います。大規模な法会は年に一回か二回くらいにすればいいと思います。頻繁に開きすぎてはならず、形式的なものになってはいけません。本当に皆さんが着実に向上できるように何らかの役割を果たさなければなりません。
ご存知のように、この法について私は既に高い次元のものを説きました。『轉法輪』という本から、皆さんは比較的、法を理解しやすいのです。その後説いた法ですが、もし『轉法輪』を読まずに、直接各地での説法を読めば、理解することもできますが、一貫して修煉を指導することはできません。法は圓容なので、その全体は繋がっているのです。どのように法を読んでも、説明することができます。順番通りに読んでも、逆から読んでも、真ん中から読んでも、どんな方法で読んでも、どのようにこの大法を読んでも、大法は繋がっており、互いに説明することができ、互いに関連しています。これが即ち大法の圓容不破の要素なのです。私が各地で説いた法は、実は異なる地区、異なる情況に応じて説いたものです。特に、アメリカやヨーロッパの一部の国で宇宙の構造について多く説きました。もちろん、これらのことは皆さんの修煉と切り離してはいけないことです。皆さんの修煉の目的はどういうものでしょうか? 皆さんが圓満成就したら、当然のことですが、この空間にはいません。そこで、必然的に他の空間と宇宙の構造に関わってしまいます。ですから、私はこういったものを説きました。しかし、異なる地区の学習者と異なる情況に対して、私は異なる角度から、異なる方式で法を説いています。これが私の説法の特徴です。
誰にも自分が執着しているものがあり、誰もが常人社会で自分が認識した真理を持っていると思い、人間はそれを固守しながら自分の人生を維持しています。実は皆さんに教えますが、常人の中でどんな理を悟ったにせよ、人類より高い次元にいる生命から見れば、みな間違っています。なぜなら、人類社会は全て逆になっているからです。ですから、皆さんのこの障碍を破るために、つまり皆さんに形成されたこの観念は、あなたが法を得ることをひどく妨害しているため、私は異なる地区で異なる人に対して異なる説き方をして、あなたの頭にある障碍、法を得ることの障碍を破っています。中国からアメリカに来ている多くの人々は、多くの成果を収めた人で、みなレベルの高い知識人であり、多くの人が学位を持っています。彼らは自分の現代科学に対する認識がかなりはっきりしたものだと思っています。しかし、実はあなたが思っているこのはっきりという認識そのものが、既に一つの障碍になっています。なぜなら、この科学について私は既に幾度となく話したことがあります。科学自身が科学的ではないのです。科学は宇宙人が人間に押し付けたものであり、既に社会全体に浸透し、各方面に浸透しています。あなたはその中にいるので、もちろんそれを見分けることができません。それでは、私はどうして現代科学と結びつけて法を説いたのでしょうか? それは科学が人間の観念と行為を変えたからです。人類の生存条件の変化が、人間の行為にも変化をもたらし、人類の全ての文化を変化させました。科学以外の文化は、各民族の文化も含め、今日の人間は分からなくなりました。現代科学の方式でこの宇宙の情況を説いて、はじめて現代の人々に理解させ、宇宙の真の物質の根本原因、生命の根本原因、宇宙の根本原因が何であるか分からせることができます。こうして、皆さんが思っている常人の中で得たいわゆる真理を破ることができます。これを破ることによって法、つまり本当の真理を得ることに役立ち、それが真理ではないと気付き、法を得やすくなります。ですから、これも私が異なる人間、異なる情況と異なる地区に対してこの法を説く時の特徴の一つであり、つまり現代人の変異した観念と結びつけて法を説いています。もちろん、多くの人々、特に知識レベルの高い人は長期に、科学や知識に対して探求したいという習慣と観念を形成しました。いったん、これらのものと接触したら、探求したくなり、それを理解しようとします。彼は既に形成された知識に対する追求心、更に人間の満足を知らないという心理作用によって、いつも探求しようとします。実は、人間の考え、人間の観念と人間の現在のレベルまたは将来のレベルで、永遠にこの宇宙がいったいどういうものかを突き止めることはできません。それは全く不可能なことです。なぜなら、人間の考えと言葉はある程度の範囲内のことを言い表すことしかできません。その範囲を超えてしまえば、人類にそれを言い表す言葉はなくなります。それを言い表す言葉がないだけでなく、このような言葉さえないのです。現有の言葉にはそれに対応できるものが全くないのです。ですから、いくら言い表したくても言い表せないのです。これはつまり、私が時に皆さんに説法する際にうまく表現できないことの原因です。
もう一つですが、人間の思惟にはある種の順序があり、この順序が適用できなくなったら、宇宙のことも完全に説明できなくなります。学習者が法を読む時、多くの場合その意味を心底から理解できても、言い表すことができません。全ての学習者にこのような感触があり、理解できますが、うまく表現できません。つまり、それは常人の考え方で、常人の言葉ではっきり説明できるものではありません。しかし、私はやはりできるだけ人類の言葉でそれを説き、皆さんが理解できるようにしています。前回ジュネーブで説法した時、既に非常に難しいと感じ、私さえそれをはっきり説明できなかったと感じました。
最近、私は六冊の本を出しました。去年のシンガポール、ジュネーブ、フランクフルト、北米第一回の法会と長春輔導員法会での説法、その他に私が学習者に書いた四句からなる詩の本があります。合計六冊で全て出版しました。このようにした目的は何でしょうか? つまり私が各地で説いたものはその情況下で聞くのに適しているだけで、他の環境で聞くと、それが法なので役に立つこともありますが、聞く人の状況に合っていないかもしれません。しかもまた系統的に法を聞いていなかった人は、間違って理解してしまう恐れもあります。従って、この不足を補うために、これらの説法の内容を整理して出版しました。本が手に入ったら、皆さんは各地で回して見ている説法のビデオテープを処分すべきです。ご存知のように、このビデオテープには大きな特徴があります。私が質問に回答しているのを皆さんが聞くと、答えが質問に合っていないと感じる場合が多いのです。なぜでしょうか? 時間が限られているので、私が皆さんから出された質問を読み、皆さんがすぐに答えが分かるような場合、私はその質問を利用して他の問題を説きました。もしこの答えと質問が合っていないビデオテープを他のところで聞くと、理解できない人がいます。これらの問題を全て解決しなければならないので、本を出版しました。先ほど言った話は、つまり私が異なる地区の情況に応じて異なる地区のことを話したということです。
前回、中国で、つまりこの間アメリカに来ようとする前に、私は北京科学技術界の大学教授や科学研究をしている学習者、そして一部の大法の責任者を招いて、科学の見地から詳しく話したいと関係者に話しました。結局、しようとしたことは円満に行なうことができなかったのです。多くの他の学習者もやって来て、彼らが出した質問は私が話そうとする内容と一致していないので、説きづらくなりました。皆さんが法を聞きたい、または私に会いたいということに反対しませんが、異なる地区にその地区の情況があります。今日は多く話したくありません。なんといっても法会なので、皆さんの発表があります。明日は皆さんの質問にお答えします。
皆さんがここにいるので、ついでに幾つかのことについてお話したいと思います。
まず、法を広めることについてです。皆さんは確かに多くの努力をしました。しかし、ある問題があります。最近、新しい学習者が少ないことに皆さんは気付いたと思います。なぜこの情況が現れたのでしょうか? 当初、このこと全体は非常に系統的に按排されたからです。しかし、この按排は私の承認を得なかったのです。これは宇宙の中の以前の旧勢力が、私が知らず、同意もしていない情況の下で按排したのです。このように概括的に言うしかありません。法を正すとは、何を正すのでしょうか? 法からずれてしまったそれらの旧い全てを正すことです。以前の正しくないものは既に一つの勢力を形成し、一つの系統になったのです。このものは上から下までマイナスの働きをしています。私は法を伝える中で更に多くの人に法を得てほしいのです。旧勢力は既にこのことを段階に分け、このことをする人数は既に足りたと思い、抑制しました。当初、私は二億人が法を聞くように定めたのですが、これらの旧勢力は一億人に限定してしまいました。そのため、皆さんが法を広めることを更に前進させるには困難がありました。しかし、これからの人々が法を得ることができなくなるということではなく、その後の人々も相次いで法を認識し法を得ています。皆さんがすべきことであればそれを行なってください。たとえこの情況であっても、無理をして誰かに法を得させる必要はありません。修煉は自由意志に基づくものであり、修煉したくなければ好きにさせればいいのです。旧勢力の干渉があるので私たちを変えてしまうようなことをしないでください。皆さんはこの法を認識していない人に認識してもらい、知らない人に知ってもらえば、十分心を尽くしたことになります。このようにすればいいのです。先ほど話したのは、このことにある要素が存在しているので、この情況が生じたことを皆さんに教えています。しかし、皆さんは私の話を間違って理解しないでください。また何かが分かったかのように、私の話の一部だけを取り上げ、自分の観念や執着心を抱いて何かを話してはいけません。普通にしていればいいのです。私はこのことがただ、このような情況であると皆さんに教えているだけです。
しかし、今日私がこのことを行なっている時、皆さんを法と結び付けたのです。皆さんの修煉はなぜこれほど速いのでしょうか? 中に多くの要素があります。これが非常に重要な原因です。私がこの法を伝え、法を正している期間中、異なる次元で法を聞いている生命がいます。最も低い次元で法を聞き、この世で修煉しているのは皆さんです。ですから、皆さんはこの大法と関連しています。最も低い次元で法を聞いているのは皆さんですが、皆さんが将来永遠に最も低い次元に留まるということではありません。皆さんは圓満成就し、異なる境地、異なる次元に行き、全てが上から下まで貫いているのです。将来、このことが終わったら、そこから修煉し始める人は、今日の法を正すことと関係なく、普通の修煉に入ります。
今日私が伝えているこの宇宙大法は、人間に最大の機会を与えているのです。なぜなら、これほど大きな法で修煉することは、昔は当然想像もつかないことでした。ですから、皆さんが今法を得て、私自らの説法を聞くことができ、しかも法を正すことと関係していますが、今皆さんはまだこのことの意義がどれほど偉大なのか想像もつきません! 時に皆さんは精進できませんが、それは自分に対して無責任なのです! なんといっても人間なので、人間としての考えがあり、これらのことに気付くことができず、こういう情況になるしかありません。実は、それは言葉で表現できず、将来皆さんは自分がどれほど幸運なのか分かるようになります!(拍手)
また、修煉の中で、皆さんは私たちのこの環境が非常に良いと分かっています。煉功点で皆さんは心を開いて話したいことを話せるのです。これは人類社会のいかなる場所でもできないことです。ですから、大法の煉功点に行ったら、浄土に入り、最も神聖な場所に入ったと全ての学習者は感じているに違いありません。みなお互いに気をつかっています。これは人類のあらゆる環境の中でも見つからないのです。なぜこのようになったのでしょうか? つまり、大法弟子の誰もが自ら修煉しているからです。問題やトラブルが現れたら、みな自分の原因を探しており、自分がきちんと行なっていないから問題が生じたのではないかという具合です。みなこのようにすべきだと分かっていますが、法を学び続けていない一部の人はまだそこまでできません。この一部の人のことに言及したので、それについても話さなければなりません。トラブルに遭ったらみな、内に向けて探すべきだと私は多くの場で皆さんに幾度となく話しました。しかし、トラブルに遭ってもやはり内に向けて探すことのできない人がいます。それを認識できる人はいますが、考えることさえしたくない人もいます。甚だしい場合、自分が修煉者であることも完全に忘れています。これではまだまだ不十分だと思います。あなたと学習者の間や職場、常人社会のいかなる環境においても、学習者同士の間、或いは学習者と輔導員の間に何かトラブルが現れても、あなたは自分の原因を探そうとも考えなかったのです。
私はいつも皆さんにこのことを話しています。つまり、二人の間にトラブルがあった時、「私に何の問題があるのか?」と各自が原因を探し、みな自分にどういう問題があるか探すべきです。もし第三者が彼ら二人のトラブルをみたら、その第三者も偶然にそれを見たのではないと私は思います。「どうして彼らのトラブルが私に見えたのか? 私自身にも不足しているところがあるのではないか?」と第三者であるあなたまで考えるべきです。このようにすべきです。しかし、皆さんはトラブルに遭ったら、それを外に押し出して相手の弱点や欠点を探していますが、これは正しくありません。これによりあなたが大法の仕事、大法に損失をもたらすことになります。皆さんは大法や大法の仕事を口実にして、自分の足りないところを取り繕っており、自分の執着を覆い隠していると思ってみませんでしたか。他の人がしたことが良くないと思って心がすっきりしない時、「どうして私の心がすっきりしないのか? 本当に彼に問題があるのか? それとも私自身の心の問題なのか?」とあなたは考えるべきです。しかもそれをよく考えるべきです。もし本当に自分に問題がなく、確かに相手に問題があれば、善意をもって相手に話すべきです。このようにすると、トラブルが現れてきません。きっとそうなります。もし相手が理解できなければ、それは彼個人の問題であり、あなたは話したら話したで、気にしなければいいのです。
トラブルがなければ向上もありません。環境が非常に平和で、こういう環境で修煉すれば非常に良いと思っている人がいますが、実はあなたに教えますが、それはかえって良くありません。私は他でもなく、皆さんのためにトラブルを生じさせているのです。トラブルがなければいけません。なぜなら、トラブルの中でその心が現れ、あなたにそれに気づいてもらい、同時に他の人にもそれを見せることによって、その心を取り除いているからです。トラブルがなければあなたの常人の心を取り除くことができません。ですから、くれぐれも注意してください。いかなる環境においても、特に皆さんが常人の中で修煉しているので、必ずトラブルや心性の妨害の中で、はじめてやっと心性を高めることができます。私は説法するたびに、この問題に触れています。ここで法を聞いている時、皆さんはそれが分かっていますが、外に出るとだめになり、それを忘れてしまいます。
最近、特にこの一、二年来、学習者は大幅に向上し、法に対する理解もますます深まっていますが、これは非常に良いことです。大法が伝え出されて以来、私が皆さんを導いて歩んで来た修煉の道は、最も正しいので、法を伝える方式にしても、社会で伝えられる形式にしても、そして私が皆さんに教えた全てはみな、最も正しい道を歩んで来ました。私たちが正しいので、一切の正しくないものは私たちに何かの思惑を持つようになりました。全ての正しくないものが大法の前で表れてくるので、そういったものは必ず大法に対してマイナスの作用を働き、かえって大法について云々するのです。きっとそうなります。
しかし、逆から言えば、もしマイナスの要素がなく、この大法が何事もなく伝わってしまえば、皆さんに教えますが、大法は現在の人類の道徳基準と同じものになり、現在の人類から非難されることもありません。私たちが歩んだ道が非常に正しいからこそ、全ての正しくないものが表れるのです。それによって皆さんの正しくないものを取り除き、常人社会の正しくない全てを正すことができます。もちろん皆さんが社会の何かのことをするのではなく、良くないものが表れたら常人自身がそれを目にするのです。人間にまだ善の心があり、まだ善良な本性があるので、足りないところや間違いを目にしたら、人類は自らどのようにすべきか分かり、必然的に常人社会で人の心を正す役割を果たすのです。皆さんは修煉の中で、いかに精進するかに力を多く入れるべきであり、常人社会のあれこれを考えないでください。社会のために何かをしたいと考える必要はありません。皆さんにはこの任務がなく、私も皆さんにこのように教えませんでした。皆さんは修煉者であり、いかに自分の心性を高めるかということこそ、修煉の根本です。
ご存知のように、今一億人が大法を学び修めています。この人数が発揮した作用は既に社会において人の心が正されたという変化をもたらしました。必ずそうなります。しかし、これは私がしたいことではありません。特に大法が伝わる過程で難があり、常人から大法に対する非難がありますが、皆さんはどのようにこれらの問題に対処するのでしょうか? 学習者は常人のように暴力を振るうことや、または常人のようにやられたらやり返すこと、ひいては相手よりもひどくやり返すことなどしません。皆さんはこのようにしませんでした。みな善の心でこの全てに対処しています。これも大法を健全に発展させた要素の一つです。もちろん、皆さんが遭遇した全ての難は皆さんと大法に威徳を樹立しています。
皆さんは既に目にしましたが、これほど多くの人が将来圓満成就し、修煉して圓満成就します。天上の神はこう聞くでしょう。「あなたはどのようにして圓満成就したのでしょうか? どのように修煉して上がって来たのでしょうか? どの法を修めて上がって来たのでしょうか?」。もちろん、ご存知のように小道は人を済度することができず、一般の方法も三界を出るはずの神を済度することができません。法の大きさと次元の高さにより、済度され成就する神の大きさ、済度されるべき人のレベルの高さが決まります。将来、あなたがどのように上がって来たかを神が見る時、さすが大法に従って修めて上がって来たと分かるのです。この大法自身が樹立した威徳も極めて重要なのです。一人が正しく行なうことができれば、それはあなた個人の修煉のことであり、ある地区の人が正しく行なうことができれば、それはその地区の学習者が正しく行なったのであり、もし全世界または大法弟子のいる全ての地区で皆さんが非常に正しく行なうことができれば、それは一つの地区、一個人の問題ではなく、大法全体が正しく行なわれたということであり、大法が正しく歩んだことになります。
次にもう一つのことについてお話します。もちろん、アメリカにもこのような学習者がおり、ただ人数は少ないのですが、中国大陸にはかなり多いのです。一部の人は以前佛教の居士であり、佛教に興味を持っており、または他の宗教に興味を抱いています。彼らは功能や他人の話を通じて、或いは自ら見えたこと、または社会で伝わっていることから、大法が人を済度できること、現在この大法だけが人を救うことができると分かりました。また、彼らは宗教の中に現れた情況も分かるようになり、宗教が人を済度することが全くできないと分かったのです。なぜなら、神も見放してしまい、いかなる経書にもその背後の内涵がないので、人を済度するという本当の作用も失ったからです。このような人はこれらが分かり、大法を学びに来ました。しかし、彼らは以前のものと宗教に対する執着を根本から放棄したくありません。彼らは以前のものを抱きながら、大法を利用して自分の目的に達したいと思っています。この心は非常に良くありません。もちろん、意識的にこのようにした人、分かっていながらもこのようにした人を私は全て排除しました。決して彼らに何も得させません。なぜなら、彼らは大法を利用しており、このこと自体が人間にとって非常に良くない、非常に良くない心だからです。無意識のうちにしてしまい、人間としての表面があまり分かっておらず、恍惚としている人の場合、私はできるだけ彼らを正し、この問題を分からせるのです。今日、私がこのことを話したのは、これは決して許されないことだと彼らに知ってもらいたいからです。
ご存知のように、私が伝えているのは宇宙の法であり、いかなる法門もこの宇宙に含まれており、同時にこの法に覆われているのです。各次元の生命はみな、宇宙大法によって切り開かれたのであって、宇宙の中の各世界、全ての神の世界、佛の世界、各次元の宇宙と各次元の天体はみな、この大法によって切り開かれたのです。この大法が全てを覆いつくしているのではありませんか? 大法の中の多くの人々は以前、佛門の衆生であり、多くの生命は道であり、また多くの人は西洋の人種の神、或いは彼らの世界の生命であり、更に皆さんや人類の知らない多くの異なる神の世界の生命でしたが、今法を得に来ています。大法はなぜこのような人を元に戻らせることができるのでしょうか? 私がこのような人を元に戻らせることができるのは、私の説いているものが宇宙の根本の大法だからです。一方、いかなる世界の法も宇宙の異なる次元からその人自身が悟った理であり、大法とは比べものにならないのです。
なぜ、他のものを修煉してはならず、大法のみを修煉しなさいと私は皆さんに教えたのでしょうか? 大法は異なる次元の情況と異なる生命の情況を結び合わせた、皆さんが真に元に戻ることができる唯一の方法です。皆さんの先天にある全てを変えず、同時に皆さんを元のところまで済度することができます。ご存知のように、学習者の中の多くの人は、自分が道であり、自分が西洋の神の形象、または自分が佛家の形象をしているのが見え、彼らはみな大法の中で修煉していますが、私は彼らのいかなるものも失わせず混乱させないのです。彼らが以前どの法門を修めたかに関わらず、私は彼らを元のところまで済度することができます。これが唯一の方法です。宇宙の法だけがこれをやり遂げることができ、これが大法と以前の修煉方法や宗教との最大の区別です。
実は人間は知らないのですが、多くの人は佛を信じ、神を信じると言っていますが、あなたがその神の世界の人間でなければ、彼はあなたを済度しません。以前言った話ですが、キリスト教にしても、カトリック教にしても、彼らの世界には東洋人がいないと言いました。これは絶対的な真理であり、人間には分からないことです。西洋の宗教は遠征軍によって伝わってきたのですが、伝わってきたこと自体良くありません。なぜなら、イエスとエホバは彼の弟子が東に教えを伝えることを許さなかったからです。つまり、人種を乱してはいけないということですが、彼らにはこれが分かりませんでした。以前話したことですが、イエスには多くの偉大な形象があるのにそれを使わず、かえって彼が十字架に磔にされている姿をシンボルとしています。これではイエスが永遠に十字架に磔にされたほうが良いと人間が望んでいるようではありませんか?! 人間はまだ自分が良いことをしていると思っています。実は人間がしたいこと、人間がしたことは必ずしも良いこととは限りません。なぜ神はまだ人間を見守っているのでしょうか? 人間にまだ神を信じる心があるからです。迷いの中にあって、人間に何が分かるというのでしょうか?!
大法は全ての生命をその生命が生まれたところに戻らせることができ、これは私に絶対できることです。法を正す実践の中で、いくら次元の高い生命に対しても、これを成し遂げることができました。これほど多くの弟子の中に、この数年来修煉してできた人が既に相当多いのです。圓満成就し、または圓満成就に近い人は相当多いのです。このこと全体がまだ終わっていないので、彼らを抑制しています。彼らは全てを知り見ることができますが、彼らに神通力と法力を使わせないのです。なぜなら、この地球は耐えられないからです。もちろん、学習者も徐々にこれらのことが分かるようになり、お互いの切磋琢磨と交流を通じて、多くのこともますます明らかになりました。ですから、私が皆さんにこれらのことをお話したのは、つまりその人種に属していなければ、その世界の人間でなければ、そこで受け入れられないということを言いたかったのです。
釈迦牟尼は、如来佛がガンジス川の砂の数ほどいると説きました。異なる世界の生命が悪くなった時、みな下へ落ちて行きます。どこへ落ちるのでしょうか? 宇宙の中心へ落ちて行き、そこは最も次元の低いところです。宇宙の中心は即ち私たちのこの地球のことで、地球は特殊な環境なのです。みなここへ落ちて来るので、それで落ちたのです。佛は慈悲深いので、みな自分の世界から落ちてしまった生命を救いたいと思い、彼らを見放さないのです。ですから、実は神々が救いたいのは自分の世界の人であり、他の世界の生命には全く手を出してはいけません。なぜでしょうか? その生命を構成した全ての要素はみな、その神の世界にある要素であり、これらの要素を除いてしまえば、この生命も散ってしまいます。誰もそれを勝手にいじってはいけません。昔、人々はみな佛を信じたり、佛や神を拝んだりしましたが、実はそれは神を信じているという一種の正念にすぎず、佛は彼を見守る方法がなく、彼を見守りたくてもそれができません。もちろん、釈迦牟尼やイエスのような神が下りて人を済度しに来たのは特殊な情況であり、それはもちろん多くのことに絡んでいるので、これ以上触れません。つまり、大法はこのような役割を果たすことができます。心の底からまだ元のものを放下していないそれらの人のことですが、今日私がそれを説いたのはこのような人に機会を与えているのであり、まだ放下しなければ機会を失ってしまいます。大法は厳粛であり、修煉は厳粛なのです。
次に、皆さんにもう一つのことについてお話します。それは学習者が修煉の中でずっとはっきり分からないことですが、つまり「天」のことです。現在の科学は、宇宙船が地球外の宇宙空間や多くの星に飛んで行くことができるようになりましたが、そこで人や神の世界が見えず、人間が言っている三界にある異なる天の状態も見えませんでした。従って、現代人はこの理論をもって宗教や古来の伝説を覆し、人間の最も本質的なものを否定しています。実は神が言っている天は人間に見えている「天」とは全く異なる概念です。分子が人間のこの空間の全てを構成していると私はいつも言っていますが、ミクロ的な物質が分子を構成する要素であり、更にミクロ的な一層一層の物質も異なる次元の粒子を構成する根本的な要素です。神は極めてミクロ的な世界にいますが、それは極めて広々とした世界であり、広々とした空間です。私は毎回、皆さんにミクロ世界のことを説きましたが、ミクロのところで構成された空間は神のいるところです。皆さん考えてみてください。人間のいるこの空間の一切、空気、物質、土、石、鉄鋼など、あなたの身体も含めて、この空間にある全ては、みな分子で構成されていると先日私は説きました。しかし、この分子はこの宇宙の中の最も粗い、最も表面にある最も汚い物質です。この分子ですが、神から見れば全ての分子が土であり、宇宙の中の泥だと思われています。しかも、これは如来という次元での認識です。ですから、エホバまたは女媧が泥で人間を造ったという昔の話は本当なのです。あなたの肉体も分子であり、神から見ればみな泥であり、土であり、最も粗いものです。それでは、皆さん考えてみてください。宇宙船がいくら高く飛ぼうとも、分子という境地から抜け出したのでしょうか? 飛行機が空を飛んでおり、アジアからアメリカまで飛びましたが、なんと高く遠く飛んだのだろうとあなたは思いますが、実はただこの分子の塊の中を飛んでいるだけであり、地上で飛んでいるだけなのです。それは天ではありません。神から見れば、ただ同等の物質の中の距離の違いだけです。ミクロの世界が構成した空間こそ神が言っている本当の天のことです。物質はきめが細かければ細かいほど、ミクロであればあるほど、構成した表面も精華で精細なのです。
全ての物質にエネルギーがあるのです。分子にもエネルギーがあります。ただ人間の身体と周りの全てがみな分子で構成されており、エネルギーを測定する機器まで分子で構成されているため、分子のエネルギーを測ることができません。物質がミクロであればあるほど、そのエネルギーが大きく、放射性も強く、ミクロになればなるほど大きく強くなるのです。これがなぜ神のエネルギー及びその存在形式がそのようなものかの理由です。皆さんに更にはっきり教えますが、地球にいる人間が月、太陽、金星、火星、銀河系、地球外の宇宙空間及び遥かに遠い天体を見てそれを天だと思っています。しかし、火星から地球を見る場合、それも天にあるのではありませんか? それも天にあるのです。これは常人の考え方を破った認識なのです。
しかし更に深い認識では、皆さん考えてみてください。天とは何でしょうか? ミクロの空間に入れば、そこが天なのです。最も簡単な例を挙げて、一つの物語をお話します。昔、ある道を修めている人が街を歩きながらお酒を飲んでいました。突然ある人を見かけました。この人はまさに自分が探している道を修めることのできる人です。そこで、彼はこの人を済度し、弟子にしようとしました。「私と一緒に道を修めにいきませんか?」とその人に聞きました。その人は悟性と根基がなかなか良いので、「行きたいです」と答えました。「では、私について来る勇気がありますか?」、「あります!」、「私がどこへ行ってもついて来る勇気がありますか?」、「あります」、「それでは私について来てください!」と彼は言って、掌ほどの大きさの徳利を地面に置き、蓋を開けて瞬時に徳利の中に飛び込みました。彼は師父が中に飛び込んだのを見て、師父のまねをして徳利に入りました。見物をしている人々はみな、徳利の口から中を覗きました。あれ、覗いて見ると中は広々とした世界で、非常に広いのです。「これほど小さな徳利なのに、こんなに大きい人間がどうやって中に入ったのか?」と人間の思惟ではきっとそのように考えてしまいますが、その空間に入ろうとすれば、あなたの身体の全ての状態がその空間の状態と一致して、はじめて中に入ることができます。空間の間隔を通り抜ける時、身体は必然的にその状態に入るのです。物質の粒子がミクロであればあるほど、その次元の面が広くなります。ミクロ的な粒子の次元の中で、徳利の表現形式は人間に見えた形態ではなく、全ての粒子が通じ合っています。人間に見えた大きさは、ただ同じ粒子で構成された時空の中での現れにすぎません。つまり、この徳利の表面が分子で構成されており、この形をしているとあなたの目はそう見ていますが、ミクロ的なところでは徳利はこのような形ではなく、その境地の宇宙に繋がっているのです。私の話が分かったでしょうか?(拍手) 私はこのことを言っているのです。これは人間が理解できないことであり、人間の概念では理解できません。
人間が天に行ったという話ですが、皆さんに教えますが、もしあなたが突然ある石の中に入ったら、それは天に上ったのではありませんか? 物質で形成された石の表面の中に入るだけなら、それではいけません。石の分子粒子を構成したミクロ的な粒子の境地に入ったら、天に上ったのではありませんか? 自分の身体のミクロ的な次元に入ったら、それは天に上ったのではありませんか? いかなる層の空間の表面粒子を構成しているミクロ的な粒子に入ったら、つまり表面粒子より一層小さい粒子の中に入ったら、あなたは即ち天にいるのです。ただ天の次元に違いがあり、ミクロの程度にも違いがあります。ミクロの世界に入れば、石や身体またはある物体の中に入ったように見えますが、実はあなたはその空間と相通じている広々とした宇宙の中に入ったのです。つまり、これは人間の考え方ではありません。人間が認識している東西南北や上、下、内、外は宇宙の中に存在していないと私はいつも説いていますが、これは人間の思考概念ではありません。私がこのように説けば、全く人間が考えているようなことではないと皆さんは分かったでしょう。現在の科学は極めて浅はかで、本当の天を見ることも認識することもできません。なぜなら、現在の科学は現有の物質空間の中で這い回っており、制限されているからです。宇宙人が人間に押し付けた科学の限界もここにあり、宇宙人もこの空間の生命なので、それにも宇宙の真相を認識することができません。
人間は神を信じていませんが、これは小さな問題ではなく、人間が人間の道徳を滅ぼしているのです。業力で応報に遭い、良いことをすれば良い報いがあり、悪事を働けば良くない報い、悪い報いに遭い、人間が何をしても神に見られていると人々が信じていれば、敢えて悪事をすることもできません。良いことをすると徳を積み、将来福として報われると人間は知っています。しかもこれは確かなことです。人間はこれらのことを信じなくなり、科学は現在これらのことを信じていません。それが迷信だと思っています。これは即ち、科学という棍棒を振るって人間の正念を打ちのめしているのであり、人間の最も本質的なものを打ちのめしているのではありませんか? 人間の道徳、正しい信念、正念が全て打ち壊された時、人間ははばかることなく、やりたい放題やってしまいます。自分の目的を達成させるために、手段を選ばずにやってしまいます。これは人類社会が堕落した根本的な原因の一つです。西洋社会は神を信じているようですが、実は彼らは本当に神を信じているのではなく、彼らが本当に信じているのは科学です。神も彼らが想像したような人間の感情を持っている生命ではありません。先ほど私は皆さんのためにある大事な概念を正しました。つまり天に対する認識であり、神と人間が思っている天は同じではありません。
多くの人は修煉している中で、時に自分自身が自らの身体に入ったかのように見えました。身体の中は広々とした空のように、自分が空の中で運行しており、天体の中を歩いています。扉が一つ一つ開かれ、自分が突き進んでおり、更によく見ると、考えを更に拡大してみると、なるほど、自分の身体の脈とツボが開かれています。皆さん考えてみてください。修煉の時、最もミクロ的なところからあなたの身体を変えています。最もミクロ的なところとは何でしょうか? あなたの他の身体は天にいるのではありませんか? その境地にいるのではありませんか? ただ人間が常人の中に落ち、あなたもその全てと共に常人の中に落ちて来ており、最もミクロ的な部分まで常人の中に落ちて来たのです。しかし、もしあなたが修めて元に戻るのであれば、この全てを元に戻し正さなければなりません。そこで、そのような状態が現れました。歴史上、多くの修煉者はこの光景を見ましたが、それを言い表すことができませんでした。時に、佛教の中で佛は人々の心の中にいると説いており、道家は人体が小宇宙であるなどと説いていますが、つまり、彼らにもこの光景が見えたのです。
私は科学を説いた時、科学が良くない働きをもしていると説きました。科学は人類の環境を汚染しており、人体の組織を破壊しているだけでなく、宇宙人は最終的に人間に取って代わろうとしています。宇宙人のものは既に人類社会の全ての領域に浸透しており、人類も科学から逃れることができません。全ては科学によって作られたのです。ですから、私たち大法弟子はいかなる仕事をしていても、それをすればいいのであって、自分の仕事をきちんとこなせばいいのです。これらのことに至っては、関わらないでください。私はこの科学に反対するようにと言っているのではなく、どのように科学を排除するかを皆さんに教えているのでもありません。この意味ではありません。私は皆さんに科学がどういうものかを教えているのです。多くの物事に対する科学の認識は浅はかで、現有の空間にある物事に対する認識も不十分です。科学が神の存在を認識できないので、自らの発展を制限しています。例えば、現在人類の工業による汚染は非常に深刻だと科学者はみな言っています。冷却媒体として使用されているフロンなどが大気中のオゾン層を破壊し、南極でオゾン層の破壊が現れ、一つのホールができたと言われています。実は、科学が神の働きを認識することができないので、オゾン層が破壊されてホールが現れたと言っています。確かに現在の工業による汚染は人類の空気をひどく汚したのです。
しかし、ミクロのところで、厖大な宇宙にある無数の有形無形のものは全て神であり、人類に見えないミクロのところにいます。空気は分子粒子によって構成され、分子粒子はまた更にミクロ的な粒子によって構成されており、この空気の中で一層一層無限にミクロのところに進んでおり、その数は計り知れず、全て神です。彼らは人間の環境がこのようになったのを見て、一つの窓、扉を開け、地球の中の排気ガスを出しています。神はこのようにしており、意図的にそれを開けてからまた閉じるのです。神が人間を守っていなければ人間は生き続けることができません。人間は神を信じていないだけでなく、敢えて神を尊敬さえしていないのです。最も簡単な例を挙げましょう。ご存知のように、工業汚染の最も深刻なところは人間が最も多い所、つまり大都市です。なぜ大都市の上空にオゾン層のホールが現れなかったのでしょうか? 神は南極でホールを開けたほうが人類にとって安全だと思っているからです。本来、排気ガスの多いところの上空にホールができるはずですが、なぜそうならなかったのでしょうか? 全く人類が想像しているようなことではありません。中国のチベット高原の上空にもあります。みな人煙の少ないところに大きなホールが現れました。私たちに見えたオゾン層だけでなく、物質の中に含まれているミクロ的な物質の要素は非常に多いので、これらの物質はみな一本の道を作り、はじめてそれを放出することができます。もちろん、これは神が人間のためにしたことです。
人類の汚染に更に深刻な問題があります。ご存知のように、現在の世界の淡水に本当に清潔な水はほとんどありません。地下水にしても地上水にしても、人間はいくら水をろ過し浄化しても、本当の水の純度に達することはできません。しかも、人類が水を繰り返して再利用しているので、水はますます汚染されています。人類の水は循環しており、淡水は循環する物質なのです。淡水と海水は混ざってしまうことはありません。なぜなら、淡水と海水は同じ物質ではないからです。いかなる物質、いかなるものにも生命が存在しています。表面では水のように見えますが、中に生命があります。土、水、空気などがますます汚染されている時、人類に対する悪影響もひどくなります。今日の人類の発展は前回の人類の発展の繰り返しであり、前回は今回のために行なった実験でした。このまま進んでいけば、人間は畸形になります。工業の排気ガスと廃水によって人間が畸形になり、容貌は非常に醜悪で、人間でも鬼でもないものになります。このまま更に進んでいけば、このようになってしまいます。更に道徳の腐敗によって現れた人間の犯罪行為などもあります。
ここでついでにもう一つのことについてお話します。現在の科学は宇宙人が人類に与えたものだと皆さんは分かりました。それらは西洋社会の工業革命の時に既に入ってきたのです。宇宙人は数学や化学から始まり、最も早期の皮相な知識から、近代の機械まで浸透し、最後に今日のコンピューターに至ったのです。更に進んでいけば、その最終的な目的は人間に取って代わることです。どのように取って代わるのでしょうか? 現在のほぼ全ての人類の身体に宇宙人によって作られた一層の身体があると私は言いました。なぜでしょうか? 宇宙人があなたに注ぎ込んだ科学は、あなたの考えの中で変異した人類の考えを構成したからです。人類のいかなる文明時期にもこのような人間はいませんでした。このような考えがあったので、このような身体ができたのです。ご存知のように、あなたの身体の全ての細胞はあなたであり、あなたの大脳は一つ一つの細胞にある大脳と繋がっています。そのため、あなたの身体の無数の細胞にある考えは全て変異した人間の考えであり、身体全体がそうなってしまいました。これは神がこのような人を人間と見なしていないことの理由の一つでもあります。人間は既に人間ではなくなり、神はそれを済度して何をしようというのでしょうか?
ご存知のように、人間が死んでも、本当に死んだのではありません。最も大きい分子粒子の外殻が脱落したのであって、分子以下の微粒子で構成されたその部分の身体は死んでおらず、離れたのです。まさに人間が一枚の服を脱いだように、本当に死んだのではありません。しかし、この空間でのこの人は消えてしまいました。なぜなら、身体は火葬され、または土葬され、身体は腐り解体してしまうからです。この空間にいるこの人がいなくなり、つまりこの層の粒子が消えたということです。先ほどお話した宇宙人の文化のことですが、彼らは人間に気付かれないように彼らに必要な身体を造っているのです。それでは、彼らは最終的にどのように人間に取って代わるのでしょうか? ご存知のように、人間の最も表面的な外殻に取って代わるには方法がなければなりません。それはつまり、今日の人類が使おうとしている「クローン」という方法です。神は人間を見守っていますが、もし神が人間を見守らなくなれば、生命になる要素を人間に注ぎ込まないのです。
つまり、あなたという人間がこの世に生きているというのは、この肉体があったからでもなく、母親からこの肉体をもらったから生きているのでもありません。あなたにあなたの元神、あなたの全ての他の神が存在しているから生きています。どうして人間が死ねば、同じ身体なのに生きていられないのでしょうか? 全ての元神が離れたからです。つまり、生まれた人間に神を与えず、生を受けなければ、生まれても死んでいるのです。それならどうしますか? 宇宙人が中に入るのです。これが、宇宙人が人間に取って代わる最終的な方法であり、つまりクローン人間です。人間は宇宙人に利用され自らを滅ぼしているのに、まだ気が付いていません。まだこの科学を維持し守っており、人類を絶滅させています。将来できるクローン人間は、大量にできてから、みな宇宙人が人体に入って生まれてくるのです。それ以降人間もなくなります。もちろん、今日私がこのことを明らかにすることができたのは、これらの問題も解決されつつあり、多くのことが既に解決できたからです。今日これを明らかにしたのは、現在まで発展してきたことの一部の真相を人類に教えるためです。
この地球の構造も人類が想像しているようなものではありません。大爆発で星を形成したという理論ですが、全くそのようなことではありません。どのように形成したのでしょうか? 現在の科学の物質の基礎、生命の基礎と宇宙に対する認識は完全に間違っています。神がこの地球を創ったのです。どのように創ったのでしょうか? ご存知のように、この地球は既に幾度となく繰り返されています。各宗教の中にも劫難のことについて言及しました。もしこの地球において劫難が起き、つまり人類が悪くなったら、人類は壊滅され、この地球で壊滅されます。これが大劫難です。これより更に大きな劫難があり、つまりこの地球そのものが見捨てられてしまうということです。人間は六道輪廻の生まれ変わりの中で、業力とともに生まれ変わっています。悪事をすればするほど、業力が大きくなり、その人が植物に生まれ変わったら、植物は業力によって覆われています。人間の目には見えませんが、業力は最大の分子より小さい粒子の空間に存在しています。人間が植物や物質、動物に生まれ変わり、ひいては土、石にまで生まれ変わりますが、到るところに業力がついてきています。それでは、地球はどうなるのでしょうか? 業力の球のように見えます。私が話した腐ったリンゴの話はつまりこの道理なのです。このような腐ったものをどうして神聖で清らかな宇宙に置くことができるでしょうか? もう要りません! 本当に見捨てられてしまうのです。
佛が人間に慈悲深いというのは、地球に近い佛のことを言っているのであって、このような佛は慈悲を重んじています。極めて次元の高い神にとって慈悲とは何でしょうか? 彼は慈悲が執着であると見ています。彼に慈悲があるのでしょうか? 彼にも慈悲があります。しかし、彼の慈悲の境地と概念は違ったものになります。私が話したように、考えが全く異なります。彼の慈悲は彼に最も近い衆生に対するものであって、彼は次元の低い神をも常人と見なしています。それでは、人間はどういったものになるのでしょうか? 微生物、ばい菌にも及びません。人間が道を歩く時、ばい菌を踏み殺したら、それを殺生と思う人がいるでしょうか? そうではありませんか? 悪くなった者は糞便のようなものであり、糞便の塊で捨てられてしまいます。慈悲とか慈悲ではないとかの概念があるでしょうか? 全くありません。人間は自分が偉いと思っていますが、更に次元の高い神から見れば、何者でもありません。この厖大な宇宙の中において、境地の異なる生命の存在方式と認識に大きな差異があります。私は皆さんにこれほど大きく、これほど次元の高い境地のことを話しましたが、皆さん考えてみてください。それほど大きな宇宙の次元でさえ、厖大な天体の中のただ一粒の塵埃にすぎませんが、地球は何だというのでしょうか、人間が何だというのでしょうか、そうではありませんか? 人間が自分のことを偉くみているだけで、自分は偉大だと思っているだけです。この地球は幾度となく更新されたのです。つまりこういう情況です。
厖大な宇宙の歴史上、この地球は幾度となく取り替えられたのです。どのように取り替えられたのでしょうか? 地球の最も表面の部分がこの次元の物質によって構成されており、この空間の分子で構成された物質によって構成されたので、この空間の物質で造らなければなりません。宇宙の中でこの空間の異なる天体はみな更新されることがあり、新陳代謝という状態があります。一定の天体が解体された後、その塵埃または残渣を宇宙の厖大な神は収集し分類して、新しい地球を造り出しました。ですから、現在の科学者は歴史や地理を研究し、ある物質が地球で生じてからどれくらいの時間が経ったとか、地球がこれほどの歴史を持っているとか言っていますが、そのやり方ではそれを究明できるはずがありません。なぜなら、地球の物質の一部は地球が造り出される前に既に存在していました。それらの一塊の大きな石や一塊の大きな天体を集めて地球を造ったわけです。ですから、地球はどれほどの歴史があったのか解明することができません。多くのことは説かれると、神話のように聞こえます。私は修煉者に法を説いているので、皆さんは受け入れることができます。法は常人に説くものではなく、常人社会に説くものではありません。
先ほど水について説いた時に海のことに言及しました。実は海はどういうものでしょうか? 海と水の概念は全く異なっています。淡水だけが水であり、海水は人間がそれを水と呼んでいるだけであって、実はそれは別の物質です。水は生命を創造する要素です。ご存知のように、地球は宇宙の中で、ある小さい次元から見ると一粒の塵埃のように見えます。それほど厖大な神はその体積が相当大きいのです。もし彼が一滴の涙を流すと、地球が水没してしまいます。実は海水は神の一滴の涙です。私がこのように話すと、神話のように聞こえます。海水と人間の涙の成分を分析してみてください。同じではありませんか? しかも全く同じです。もし、あなたの涙が海水の体積ほど拡大されれば、中を見てください。どのような生き物がいますか? 鯨もいるかもしれません。笑い話のように聞こえますが、実は本当の話です。地球上の全ての物質と人類の起源について私は全てはっきり説明することができますが、皆さんの修煉と関係がないので、それに触れていません。実は地球上の全てのものにそれの由来があります。
地球の表面を覆っている黄土はどういうものかご存知でしょうか? 実は、それは常人の空間より高い次元の空間にいる生命の糞便なのです。昔、神はこう言ったことがあります。人間は汚い世界にいます。つまりこういう意味です。高次元にいる生命はその物質が清らかなので、彼らの糞便は人間にとってきれいなのです。人類より次元の低いものに対して人間は汚いと感じるのです。人類のものより次元が高いものは、人間はそれをきれいだと思います。しかし、人類空間より次元が高いため、養分がありません。汚くなければ養分がないので、黄土で何かを栽培すると育ちにくいのです。黒土には腐った植物が混じっているので、ものが育ちやすいのです。腐った植物によって黄土が黒くなり養分ができ、中に有機のものが入ったため、人類はそれを利用して耕作しています。人類より次元の高いものは、植物にとって栄養はありません。
実は多くの種類の石は土と同じなのです。一般的に言えば、地球を造る際、固く固められたのは石になり、ばらばらになっているのは土になります。しかし、全てがそうではありません。赤土と赤い石は実は厖大な生命の血なのです。在席の中に物理や化学を専門にする人が少なくありませんが、このことを信じられなければ分析し研究してみてください。中に含まれている成分はきっと血と同じです。ただそれは長い間凝固していた血なのです。赤土の中に鉄の成分が多く含まれており、人間の血液も同じです。そして皆さんに教えますが、宇宙の中の赤い血は大体、正の生命の血です。魔の血は白なので、石灰岩は実は魔の血です。もちろん、それは死亡した後の物質で、この空間では既に働きが無くなり、爆破され消滅された後、石や砂、土などに作られたので、魔性はありません。人類がそれを使って壁を塗ったり、染料として使ったりしても問題はありません。
現在、科学者は石炭が厖大な植物によって作られたと分かっています。これは現在の科学で分かっていることです。どこにそれほど多くの植物があり、これほど多くの石炭になったのでしょうか? これは彼らが知らないことです。現在の科学者は石油が生物の体の残骸によってできたと知っており、これは彼らに分かっていることです。しかし、どこにこれほど多くの残骸があり石油になったのでしょうか? これは彼らに分かっていないことで、いくら考えてもその解答を得られません。ですから、現在この理論を覆したい人が、「これほど多くの動物の残骸があったのでしょうか? これほど多くの生物がいたのでしょうか?」と言っています。石油はあまりにも多いのです。実は、厖大な宇宙にあって長い歳月の中で生命が一回一回現れてきたのです。しかも、地球を造る時、将来のエネルギー源として、意識的に宇宙にあるこのようなものを新しい地球に入れました。ですから、これほど多くありますが、それは今期の生命のものではありません。地球上の生命も一期一期に交替していたので、同じ時期のものではありません。現在の科学研究は現有の歴史から離れておらず、しかも現有の歴史に対する科学の認識の多くも間違っています。石器時代から現在の人類までの全ての動物を殺しても、これほど多くの石油ができるはずがありますか?! それに多くの石炭や植物もあります。それらは時期が同じではなく、同じ時期の生命ではありません。もちろん、他にもいろいろありますが、話すと多くのことがあります。
更に、ダイヤモンドや金、銀などがあります。もちろん、宇宙の異なる次元を構成するには不可欠な要素となる金属元素もありますが、それらは私が説いた地球を構成する成分とまた違います。しかし、金と銀は宇宙の中の金属元素ではありません。金ですが、ご存知のように佛体は金なのです。如来という境地に達した神の体はみな金です。つまり、金は膨大な正の生命の体の残骸です。広々とした宇宙が解体する時、全てが瞬時に粉々になります。金は異なる次元のものがあり、粒子の大きさも違うと私は説いたことがあり、以前このことを話しました。銀の場合、それは佛より次元の低い菩薩という次元の生命の体の残骸です。
多くの人はダイヤモンドがある能力を持っていると知っており、つまり邪なものがダイヤモンドを恐れ、エネルギーの小さい負のものはダイヤモンドを恐れています。なぜなら、ダイヤモンドはそういうもののエネルギーを吸収してしまうからです。ですから、ダイヤモンドは厄除けができると言っています。厄除けができるとは限りませんが、ダイヤモンドは爆破されたエネルギーであり、功のようなものです。もちろん既に死んだもので、何の働きもありません。しかし、何と言ってもそのようなものなので、ダイヤモンドには力があります。
私が話したことに執着し、帰ってからダイヤモンドを買いに行こうと思うかもしれません。私が説いたのは法であり、この空間のあらゆるものも持っていくことができず、同時に修煉者にとって何の役にも立ちません。なぜ爆破されたのでしょうか? 先ほど話したように、金ではありますが、純金でなくなったので爆破されました。功はどうして爆破されたのでしょうか? 既に不純になったからです。表面上ではまだ純粋なもののように見えますが、ミクロのところ、極めてミクロのところで観察すると、既に不純になりました。今日は多く話しませんが、今から学習者の発表を聞きましょう。
明日、皆さんは質問を出してください。私はそれに解答します。しかし、新しく入門してきた学習者は、できれば質問を出さないでください。時間が大切だからです。これほど多くの人がみな質問を出せば、解答しきれなくなります。在席の多くが既に修煉の中である程度の次元に達した人なので、彼らが出す質問は彼らの修煉と向上にとってとても重要で、今回の私たちの法会の目的でもあります。新しく入門してきた学習者が出す質問は、私に聞かなくても、古くからの学習者や周りの人に聞けば解答してもらえるので、この時間をとらないでください。これが一つの問題です。もう一つは、修煉と関係のないこと、知識への探究などに関する問題はできるだけ質問しないでください。先ほどお話した内容ですが、それは皆さんの知識を豊かにするためのものではなく、修煉と関係しているからです。私の話はこのくらいにしましょう。(拍手) これから、皆さんは落ち着いて学習者の発表を聞きましょう。私もここを離れず、聞いています。しかし、私を探さないでください。探しても見つかりません。(拍手)
皆さん、こんにちは! 昨日交流会が始まった時、皆さんに会って幾つかのことについてお話しました。今回の交流会は主に米国西部地区の体験交流会で、全米または更に多くの人が参加する大規模な交流会にするつもりはありませんでした。なぜなら、彼らにまだ解決しなければならない幾つかの問題があるからです。これを目的にして私はやって来ました。昨日の情況から見ると、他の国から駆けつけて来た学習者がおり、他の地区の学習者と現地の一部の新しい学習者、または私たちに興味がありますが、まだ学習者でない人も今日やって来たようです。みな大法について知りたがっているかもしれません。皆さんが来た以上、私は皆さんに大法に関わる幾つかのことを解答します。これも法会での説法です。それでは、皆さんの質問に解答します。(拍手)
弟子:修煉者が心の奥で自分の最も本質的な利益を固守していれば、それは偽りの修煉であると師父はおっしゃいました。
師:皆さんに教えますが、修煉は他でもなく人の心を修めることです。これこそ真の修煉です。例えば、今、法律や人間に対する要求と制約があるにも関わらず、人間を変えることができません。表面で人を変え制約しているので、表面において間違いを起こさないように正しく行なうことができますが、実は人に見られていない情況下や、自分の利益が脅かされている情況下で、相変わらず良くないことをしてしまいます。なぜなら、あなたの心が変わっていないからです。つまり、修煉は必ず本当に人の心を変えなければなりません。あなたは高い境地、神の境地に達したければ、神の思想境地に達しなければなりません。表面だけを変え、本質が変わっていなければ、それは偽りのものです。ある時または肝心な時になると、また現れてきます。ですから、人の心を変えなければ、虚像で隠されているだけです。必ず本質から変化して、はじめて本当に自分を変えることができます。つまり、修煉は自分に対して責任を持たなければならず、本当に自分を変え、心の奥から執着している良くないものを放下して、はじめて本当の放下になります。表面では体裁の良いことをし、心の奥で放したくないものを守り固守しているのであれば、それは絶対いけません。ご存知のように、佛、神は衆生のため、宇宙の利益のために命を放棄することができ、何でも放棄することができ、しかも平然として動じないのです。あなたをその位置に置けば、あなたはそこまでできますか? できません。もちろん佛、道は本当にこのようなことに遭うことはありませんが、このような境地にいます。必ず本当に自分を変えて、はじめてこの境地に達することができます。
宗教さえ信じていれば天に上り天国に行くことができ、宗教さえ信じていれば佛になることができると、今まで宗教の中で多くの人が言っていました。私に言わせると、それは人を騙しています。成佛とは何でしょうか? 天国に行くとは何でしょうか? 各次元の生命に対する要求は違います。まさに学校のように、一年生には一年生のレベル、二年生には二年生のレベルがなければならず、中学に行けば中学生のレベルがなければなりません。いつも小学校の教科書を持って、一年生のレベルで大学に行っても、やはり小学生であり、大学に行くことはできません。つまりこういう意味です。これは表面から言っていますが、私たちが言っているのは心からその基準に本当に達して、はじめて天国に行くことができ、圓満成就することができるということです。宗教を信じている人が祈る時、私は間違ったことをしたと言って非常に敬虔なようですが、外に出ると相変わらず同じ間違いを繰り返すのです。彼の祈りは何の役にも立ちません。彼の心は本当に変わっていません。信じて祈れば天国に行くことができると彼は思っていますが、これでは祈っても永遠にこのレベルに留まるので、永遠に天国に行くことができません。「私を信じれば天国に行くことができる」とイエスは言いましたが、イエスの前で祈り心から信じ、このような形式的なことをすれば天国に行くことができるのではありません。そうではありません。毎回の祈りを経て、同じ間違いを起こさなければ、ますます良くなり、ますますイエスの天国の要求に近づいて、はじめて天国の基準に達することができます。これこそ本当に信じているということです。さもなければ、イエスはなぜ多くのことを説いたのでしょうか? その目的は彼の言ったことに従って行ない、更に良く行なうようにするためではありませんか? 私が言ったのはこの意味です。佛教を含めて現在の宗教の場合、みなが心の中で修めておらず、形式的なものになってしまい、みな偽りのものです。この問題についてはこれくらいにしましょう。
弟子:人間の元神は身体から離れて、どのくらいの時間が経って戻って来なければ、肉体が死亡してしまうのでしょうか?
師:これには正確な決まりはありません。例えば、頭の中で「戻って来たくない」と思い、この一念が生じれば肉体は死んでしまうかもしれません。なぜなら、あなたが戻って来たくないからです。しかし、このようなことは大法の中にはありません。大法を修めながら他のものも修め、専一に修煉しておらず、本当に不二法門を守ることができなければ、このような危険があります。真に修煉しておらず、二股を掛ける人の場合、どのような問題が現れるか何とも言えません。
弟子:ニューヨーク説法の中で初めて釈迦牟尼佛に関する内容を読んだ時、思わず泣いてしまい、心の中で師父と呼んでいました。それがなぜなのか自分にも分かりません。
師:これは縁によることです。私は別のことをお話したいと思います。多くの人が大法を学んでから、世界のいかなる宗教も人を済度することができないと深く認識するようになりました。一つは基準がだめになったことで、もう一つは、神が人間を見放してしまったからです。神が人間を見放した原因は多くありますが、その一つは、現在の人間の考えが宇宙人によって造られた変異した考えであり、歴史上今日のような人間はいませんでした。歴史は繰り返しているので、何回も異なる時期の人類が現れましたが、今日のような状態の人類はいませんでした。人間に難がある時、人間を迎え、衆生を救い済度しに戻って来るのだと、確かにイエス、佛、神は言いました。しかし、彼らの目から見ると、現在の人は既に人間ではなくなったので、当然迎えに来なくなりました。彼が迎えるのはまだ人間と言える人です。もちろん、これは概括的に言っているので、他に様々な要素によって変異してしまった人もおり、神はこのような人を人間と見なしていません。これは最も危険なことです。
宗教の中で政治屋になって金儲けをする人について、何も言うことはありません。ここでは、宗教の中にいてまだ修煉したい気持ちのある人についてお話します。その中の一部の人は修煉を重要視しています。彼らは私たちの大法を知るようになり、または彼がある状態にいた時、法輪大法だけがあなたを元に戻し、済度することができると他の神が彼に告げたのです。多くの人はこのようなメッセージを受け、このことが分かり、それによって大法を学びに来ました。しかし、彼は元のものを頑として放棄しようとしません。彼の目的は自分の元のものを固守し、私の大法を利用して元に戻ろうとするところにあります。それは全くあり得ないことであり、自らを欺き人をも欺くことです。元のものを放棄しなければ、全く済度されません。自分を欺くことに他なりません。
ご存知のように、他の空間において、その時間で人間のこの空間の時間を見ると、非常にゆっくりしたものだと感じます。頭の中でどのような問題を考えていても、その空間で見ると、あなたの考える行為は非常にゆっくり進む過程が見えます。あなたは何かを考えようとして、まだ考えてもいない時、あなたがこれから何を考えようとし、何をしようとしているかはっきり見えています。自分の頭の中で何を考えているのか他の人に分からないと人間は思っていますが、これは常人を騙すことしかできず、神を騙すことはできません。つまり、自分に対して責任を持つという純粋で清らかな考えでこれほど厳粛なことに対処しなければ、済度され元に戻ることはできません。大法の中の多くの人は以前釈迦牟尼の弟子であり、また他の佛門の弟子もおり、更に他の宗教の弟子もいます。しかも、在席の中の学習者は白人や黄色人種、他の人種の人のように見えますが、あなたは必ずしも本当にその人種の人とは限りません。つまり、あなたがどの天国から来たか分かりません。ある民族の人に転生しましたが、それはあなたの本当の姿ではありません。表面から判断してはいけません。しかも、人間は転生の中でどの民族にも転生した可能性があります。しかし、私は皆さんが圓満成就して元の本当の位置に戻るようにすることができます。
私は皆さんを全て法輪世界に済度していくのではありません。なぜなら、私は佛法の基点に立って宇宙の法を説いており、これほど大きな法を説きました。宇宙のいかなる法門または修煉法がこの世に残した修煉形式も、異なる次元の天上の神が残したものです(これは本当の神が人間に残した修煉方法を指しています)。異なる次元で人を済度しているこれらの神も宇宙の異なる次元の生命であり、私から見ると全て宇宙の異なる次元の衆生なのです。この宇宙大法は異なる次元の衆生に彼らの生存環境とその境地の生存の基準を切り開きました。これほど大きな法なので、全ての生命が中に含まれています。ですから、私は皆さんの問題を解決することができ、この大法で皆さんを元のところまで済度することができます。あなたがどの法門の人であっても、やり遂げることができます。歴史上のいかなる宗教、いかなる法門の修煉形式もこれをやり遂げることができず、なぜなら、彼らが修煉しているのは自分の一門のもので、他の法門のものにまで及ぶことができません。それは彼が宇宙大法から自ら悟り得たその次元のものだけだからです。それに対し、私が今日伝えているのは宇宙の大法であり、これは以前の人々が知っている修煉方法と異なっています。しかし、大法を尊重せず、まだ何かを固守していれば、これは厳粛な問題です。
弟子:宇宙の次元と修煉の次元とは同じでしょうか?
師:先ほど、大法が宇宙の異なる次元の生命に異なる生存環境を切り開いたとお話しましたが、つまり、異なる生存環境に大法の彼らに対する異なる要求と基準があるということです。ですから、修煉の中で、異なる次元に行こうとすれば、必ず異なる次元での大法の要求に符合していなければなりません。修煉の向上、境地の向上と絶え間ない昇華は即ち次元の突破であり、宇宙の次元の突破でもあります。今日、修煉中に第一層の天の基準に達し、数日後に第二層の天の基準に達していれば、これが宇宙の次元つまり修煉の次元の突破です。更に修煉していくと、三界を突破して三界の外に至ると、六道に入らなくなります。更に上へと修煉していくと、更に大きな天体範囲に入ります。上へ修煉すればするほど、修煉の次元の基準が高くなり、またそれによって現れる状態も多くなります。
弟子:昔の全ては既に存在しなくなりました。この全てはまだ衆生の記憶に存在しているのか、それとも既に深い教訓を残したのでしょうか?
師:この問題は非常に大きいものです。それを知る人もいれば、知らない人もいます。私はなぜ宇宙大法を伝えるのでしょうか? 宇宙にいる全ての異なる次元の生命はみな大法からずれてしまったので、法を正すのです。宇宙は自らの最も良い状態に戻ります。ご存知のように、某年に大劫難がやってくると多くの予言者が言いました。人々は劫難があることだけは知っていますが、なぜ現れるのでしょうか? 人類社会がここまで腐敗堕落したからです。ご存知のように、今の社会にマフィア、同性愛、麻薬、性の解放や性の乱れなどがありますが、本当に乱れきっています。このようなことをしている人は人間らしくなく、このようなことをしない人も汚染され麻痺してしまい、人間らしくなくなりました。みなこの染物がめの中に浸かっており、知らないうちにあなたの観念はそれと一致し、同調してしまい、人間からますます離れてしまいました。人間にこのような腐敗と堕落が現れたのは偶然ではありません。神はなぜこれに構わないのでしょうか? なぜここまでの腐敗堕落を許したのでしょうか? 異なる次元の生命がみな宇宙の根本的な法からずれてしまったからです。ある次元の生命がずれたら、異なる次元ではそのずれが見えます。一人の生命が悪くなったら、この生命を打ち落とすことができ、この生命は落ちてしまいます。もし宇宙全体が長い歳月の中でずれてしまったら、その中の生命は腐敗堕落に気付くことができず、人類は今日の人類がここまで腐敗堕落したことに気付いていないのと同じです。大法を修煉している人だけがある次元で振り返ってみれば、人類が今日の状況になってしまったことに気付き、その恐ろしさを感じるのです。
この全てを原始の最も良い状態に戻し、宇宙の中に劫難が現れないように、つまり人類の劫難が現れないようにしなければなりません。現在既に変化しています。人類の中の多くの人が良くなり、今一億人が大法を修めており、みな良い人、更に良い人になるよう自分に要求しています。世界の更に多くの人がこのようにし、人心が向上し、道徳が戻って昇華していれば、その劫難が現れるでしょうか? 絶対現れません! 自然な現象はなく、全てに按排があり、いわゆる「偶然」は存在しません。ただ人間が神を信じておらず、分からないこと、説明できないことを自然だと言っています。自然は全く存在していません。各次元に見守る神がいます。しかし、各次元の生命の基準が全てずれたら、まさに銃を撃つことと同じように、的の中心を狙っている時少しでもずれれば、銃弾がどこへ飛んでいくか分かりません。つまり、上のほうで少しでもずれたら、下に至った時、法がどれほどずれたか分からなくなります。人類での現れは、まさに今日の人類の腐敗堕落のひどさなのです。ですから、それを原始状態に戻す必要があります。
このことを行なう時、異なる次元から来た人がいるかもしれません。彼は元に戻った時、元々生きていた空間環境がそのままではなくなったと気付きます。大体はまだ元々の形式であり、その世界ですが、自分がそこで生まれた時より更に美しくなったことが分かります。多くの衆生は長い歳月の中で衆生が法からずれた後に生まれたので、宇宙の初めがどんな様子だったのかも分かりません。
残した深い教訓に至っては、圓満成就した覚者にとって教訓などはありません。その高い境地まで修煉したら、全てが素晴らしいのです。しかし、かつて宇宙の中で起きたことを知ることができます。それだけです。未来において人類がどうなるかに至っては、多くの人が修煉していますが、修煉の目的は圓満成就するためです。もし多くの弟子が圓満成就したら、残された良くない人、まだ法を得ていない人が引き続き腐敗堕落したら、どうしますか? このまま更に腐敗堕落していくことは決して許しません! 宇宙の中に一塊の糞便があり、衆生と高級生命がその匂いを嗅ぐようなことが決してあってはいけません。ですから、それを処分しなければなりません。もちろん、私は劫難のことを言っているのではなく、以前言われているあのような劫難は存在していません。皆さんに教えますが、某年には人々が言っていたような劫難はもう存在しません。多くの予言者も、もし某年にあることが起きれば、彼らの予言がはずれてしまうことを知っていました。それは今日大法が伝わっており、多くの人々の心が向上しているためです。もし本当にあの問題が現れたら、これらの良い人はどうなるのでしょうか? つまりこういうことです。しかし、残って次の紀元に入ることのできる人は最後の時の深い教訓を覚えるのです。
弟子:私たちの中の多くの人が科学を研究していますが、どのようにこのことをみるべきでしょうか?
師:大法を学んでいる多くの人がレベルの高い知識人であり、つまり多くの人が科学によって造り上げられたのです。実は現在全ての人は学校に通ったことさえあれば、科学によって造り上げられた人になります。科学が人類社会の各方面に浸透したので、あなたが使ったり、接触したり、目で見た一切は全てこの科学によって造り出されたのです。ですから、あなたは科学から離れることができず、先ほどあなたが出したこの問題も存在しません。人類社会は全てこうなので、自分の仕事をきちんとこなせばいいのです。修煉は仕事とは別のことです。しかし、皆さんの修煉の境地、修煉状態は仕事の中に表れることがあり、あなたは非常に良く行ない、どこに置かれても良い人なのです。科学に従事している多くの人は大法を学んでから、大法こそ本当の真理であり、しかも人類の現在の科学は全く大法と比べることができないと気付きました。在席の大法弟子、皆さんが知っている宇宙の情況と真理は現在の科学をはるかに超えており、最先端の科学も皆さんと比べられません。常人が人類を超えた物事を知ることは永遠に許されないことであり、彼らは私が皆さんに説いたこの宇宙の情況を永遠に探測することができません。あなたがどの仕事に従事していても、大法を修めることができます。徐々に法に対する理解が深まるにつれ、あなたの考えは自然に変化します。なぜなら、真理を前にして、誰もが信じるようになるからです。しかし、あることをはっきり説明しなければなりません。いかなる人も常人の執着を持って圓満成就することはできません。科学に関しても同じです。異なる常人の心をもって大法に入って来ることはできますが、修煉の中でそれを全て取り除かなければなりません。
弟子:常人の個性は今生での表れだけでしょうか? 法がその生命を造った時の境地とどのくらい関係しているでしょうか?
師:もし高次元から来た生命であれば、その高次元の特徴を強く持っています。これは常人には察しがたいことです。あなたのほとんどの行為は全て常人としての今生の表れであり、つまり今生において生命、物質、客観的世界に対する認識によってでき上がったあなたの行動様式、態度、思考方式なのです。しかし、あなたがもともと先天的に持っていたものは善念が非常に強い状況下で微かに現れることがあります。常人のことにとても執着したり、怒ったり、正しくないことを考えている時、それは少しも現れてきません。
修煉の中で基準に達したその部分はあなたが圓満成就するまで、常人の中で多く現れることはなかなか難しいのです。
弟子:佛は広大な慈悲を持つ他、人を済度する能力もなければなりません。この能力は修煉の過程で現れるのでしょうか?
師:皆さんが大法を学ぶ時、本当にこれらの執着を放下しなければなりません。一人の神、人類社会を超えた生命であれば、三界内の低次元の生命であっても、人間を左右する能力があります。三界の外にいる全ての佛、菩薩はみな人を済度することができます。彼は神なので、このような能力が備わっているのです。人間に幾つかの生まれ持つ行為があるのと同じように、彼は神なのでこの能力を持っているのです。これは皆さんが想像しているような修煉過程での現れではありません。修煉して圓満成就したら、誰それを済度したいとか、家族の人や自分の親戚友人、衆生を済度したいとか考えてはいけません。私に言わせれば、それは妄想であり、執着と強大な障碍であり、それによって圓満成就できなくなります。全ての観念と執着を放下して、はじめて修煉の道のりにおいて阻まれることなく前進することができます。
修煉して圓満成就したら人を済度しに来ると宗教の中で誓った人がいます。実はこれはその人の顕示心であり、常人の中での各種の複雑な心理による常人としての現れであり、佛がどういう状態なのか全く知らないのです。この心があれば、修煉は成就できません。なぜなら、人間を済度することに執着しているからです。佛が人を済度するかしないか、それは一種の自然な状態です。この千年百年来、人を済度する佛がどのくらいいたのか、皆さんご存知でしょうか? 西洋にはイエスが、東洋には釈迦牟尼が現れましたが、なぜこれほど長い間に二人しか下りて来なかったのでしょうか? 佛が世に下り人を済度しようとする時、全ての神々の同意を得なければならないからです。なぜなら、その佛が直面し、ぶつかる問題は普遍性のある問題であり、他の佛や神、ひいては道のことにまで及んでしまうからです。それは非常に複雑なことであり、人間が想像しているようなことではありません。思い立って執着心が生じてしまい、私も人を済度すると言っている人がいますが、それは人心、顕示心、放さない執着心が作用しているのです。
弟子:『轉法輪』の中から悟った法理は、先生の説法から悟ったものほど多くはありません。
師:『轉法輪』は系統的に人々を圓満成就させることができる大法、天機なのです。それに対し、『轉法輪』と近似している公に発行している済南での説法、大連での説法、広州での説法のビデオテープ以外の私の各地での説法は、単一的で異なる境地、または異なる地区の学習者の情況に対して説いたもので、普遍性はありません。多くの人は執着心を持ってこれを得たい、あれを求めたいと思っており、このように修煉して、はじめて満足できると思っています。みな執着です。着実に修めなければ、自分の時間を無駄にしてしまいます。歴史上、今回大法が伝えられることが按排されなければ、皆さん考えてみてください。人類の発展に他の按排でもあるのでしょうか? 自分のことを子どもの遊びとしないでください。機縁を失ってしまえば・・・・・・。私の今日のこの大法があなたを済度することができなければ、誰も再びあなたを済度せず、しかも済度することもできません。
皆さんはご存知ではないのですが、当時この大法を伝え出した時、私が最も懸念したことは、どういうことだったでしょうか? 人類の学説があまりに多いので、人々は宗教の中で言われていることさえ信じなくなりました。イエスと佛を本当に信じている人がどれほどいるでしょうか? 宗教の中の多くの人が守っているのは宗教であり、本当に修煉しようとしているのではありません。イエス(佛も含む)に対する神聖な心はまだあるのでしょうか? どれほどの人が修めることができるでしょうか? 本を読まないといけません! なぜなら、当時私は既にこの問題について考えたからです。私が相手にしているのは数多くの人々であり、将来一人一人に直接どのように修めるか指導することはできず、各方面にわたって指導することができません。
あなたが修煉し、圓満成就することができるように、あなたに責任を持つため、私は皆さんに『轉法輪』を残しました。『轉法輪』を通じてあなたを圓満成就させることができます。あなたが得るべきことを全てこの法に入れ込みました。ですから、この法を読めば、身体の変化を感じ、異なる次元での法理を感じ取り悟ることができ、大法の中で向上するのです。この法は本当に貴重なのです。私が自ら説法したものにせよ、皆さんが思っているような、いくら具体的に説かれたものにせよ、私は『轉法輪』の中のことを説いているのです。また、『轉法輪』の中の全ては「論語」に含まれています。
弟子:先生の海外での説法を一部の弟子が翻訳するように、佛学会に段取りしてもらってもよろしいでしょうか?
師:これは非常に良いことで、大丈夫です。段取りをすることにいたっては、皆さんにこのような熱意がなければならないと言うしかありません。このような能力がある人はみな、行なっていいのです。ただ、所在地区の責任者にはっきりその旨を伝え、意思疎通を図らなければなりません。このようにすれば、研究会との連絡や確認もスムーズにいきます。
弟子:大法を紹介するチラシの中に先生のお話がありますが、これらのチラシは捨てられることがあります。このようにしていいでしょうか?
師:中国以外でこのようなことをするのは、現在はしてもよく、このようにしていいと言うしかありません。中国国内ではしてはいけません。なぜなら、大法は中国で既にみなに知られているので、敢えてする必要はありません。修煉するかどうかはその人個人のことです。しかし、海外の多くの地区で、人々は大法のことがまだ分かっておらず、知らないのです。ですから、このようにしても良いと言ったのです。チラシにある私の話に関して、もしその背後に要素や内涵がなければ、紙にある活字でしかなく、作用はありません。このことについては皆さん安心してください。しかし、皆さん自身は大法を大切にすべきで、文字の一つ一つを大切にすべきだと知っておかなければなりません。これらのことに厳粛に対処すべきだと、皆さん自身は知っておかなければなりません。
弟子:自分の結婚を利用して相手に法を学ばせようと思っている学習者がいますが、先生の法身はどのようにこのことを按排されるのでしょうか?
師:このことについて皆さんに教えますが、自分の生活を修煉と一緒にしないでください。また、自分の仕事も修煉と一緒にしないでください。修煉は非常に厳粛なことで、大法も非常に厳粛なことであり、どうしても誰それに得てもらわないといけないのではなく、彼らが得たくなければそれまでです。もちろん、「私は自分の結婚という一大事を代価にして、あなたに法を得てもらおうと思います」という学習者の心はいいのです。この心は非常に素晴らしいと私に分かっています。しかし、私が思うには、このようにしなければならないということではありません。なぜなら、法は厳粛なことで、あなたが相手のために払った代価は、その人にとって法を得ることに対して求めがあるということになります。結婚してはじめて法を得るようでは、その人にとって、これではいけません。初めから彼は不合格です。大法はどうしても彼に得てもらわなければならないものではありません。「先生、この法はこのように説くべきです。佛はなぜあのように人を済度しないのでしょうか?」と言っている人がいます。佛がどうしてあなたを済度しないといけないのでしょうか? 佛は人間に慈悲深いのですが、彼は偉大な神なのです! しかも、決して人間が想像しているような人格化された慈悲ではありません。人間が言っている慈悲、観念をもって想像している慈悲はただ一種の善です。佛は善であり、これは間違いないことです。しかし、そのような慈悲は一種の偉大な佛法の力の現れです。いくら良くないもの、悪いものであっても、鋼鉄のようなものでも佛法の慈悲の威力の前では熔けてしまいます。ですから、魔は慈悲をみたら恐れを感じ、本当に怯えてしまいます。それが溶けて消えてしまうからです。決して人間が想像しているようなものではありません。
弟子:真、善の境地の素晴らしさは感じやすいのですが、忍の中には苦痛しかないのでしょうか?
師:これはあなたの常人の考えによる理解です。私が言ったあの道理のように、あなたがあることに執着して、目的に達せない時に、腹が立ちますが、面子や体裁を気にしてみなの前でそれを表しません。私に言わせると、これは常人の忍であり、全く修煉者の忍ではありません。あなたの理解は完全に間違っています。私たちの忍にはいささかの執着もなく、怒りも全く生じていません。私たちが求めているのはこのような忍であり、これが基準に達している忍です。様々な事情の前に、心が全く動じません。他の人からはあなたがよく耐えることができたように見えますが、実際には心が全く動じていません。これこそ修煉の忍です。
法を得たばかりの人が『轉法輪』を初めて読んだ時、真と善は私にできると言っています。実はあなたには真も善もできていません。あなたはただ既に堕落した人間の基準をもって自分を量っているだけです。本当に修煉に入ったら、大きな差があると気付くはずです。また、修煉の中で絶えず自分の次元を高めた時、今までの異なる次元での真・善・忍に対する認識はそれほど高くないと感じるのです。修煉の次元が高くなればなるほど、真・善・忍が異なる次元において異なる現れや要求と状態があります。それが境地であり、果位なのです。忍はあなたに美しい境地をもたらすことができ、このように理解すべきです。皆さんが何かをしている時、それが目的に達していない場合、一途に思い込み、食事も睡眠もろくにとれず、他の人に情緒をコントロールされているかのように、他の人に振り回されて生きているのです。つらく生きていますが目覚めておらず、あなたは他人のために生きています。本当に一歩を譲ることができ、それを放棄することができれば、青々とした山がある限り、薪がなくなる心配はないと常人は言いますが、本当に一歩を譲ることができれば、世界が広々となったと感じます。思い切ってそれを放棄すれば、境地が直ちに変わります。この状態になれば、あなたは全身が軽くなり、これが忍です。しかし、法を多く学び、これより更に高い境地に達するように私は皆さんに要求しています。
弟子:時々、修煉者と常人との境界線を見分けることができません。
師:これについてあなたに多く説明しなくてもいいのです。あなたが修煉して絶えず精進する時、何でも分かるようになります。あなたが修煉しているので、すぐに全ての心を取り除くことはできません。これはつまり私が言ったその話ですが、修煉の中の境地は全ての環境に現れます。仕事、生活、家庭、社会において、みなあなたを良い人と言うのです。なぜでしょうか? あなたの修煉状態はあなたの全ての生活の中に現れるからです。意識的に何かを行なっているのではなく、意識的に行なうのは無理強いして行なうことです。しかし、私たちは修煉者として、自らを律し、穏やかな心の状態を保つべきです。いかなることに対しても善の心で対処すべきです。これは私たちが行なうべきことであり、執着とは言えません。これは私たちが魔性を抑制し、善の基準に到達し、絶えず向上する境地の中の要求と基準に到達するために採った方法です。これは執着ではありません。
弟子:理性から法を認識すれば、直接常人の観念を取り除くことができ、早く修煉することができます。
師:皆さんが法を認識する時、みな初期の認識という段階があります。多くの人が『轉法輪』を読んで、みな良いと言っていますが、どこが良いのでしょうか? 本当にその人に聞いたら、彼は答えることができません。つまり、これが一種の感性的な認識であり、良いと感じたのです。いったいどこが良いのでしょうか? 中に入って着実に修煉して、はじめて本当の良さに気付くことができます。これは即ち理性まで上昇し、認識することです。もし生活の中であなたの全ての行動が修煉者としての基準に達することができて、法に対する人間の考え、観念から理解し認識していなければ、既に理知をもって理性的に大法を認識し、自らに対して責任を持つことになります。
弟子:修煉して得たものをもって常人の借りを返していいでしょうか?
師:いけません。私は皆さんにこのようにすることを教えたことがありません。なぜなら、修煉のものには値段が付けられず、師父があなたの圓満成就のために行なったことを、あなたはそれを大切にしようとしません。それはあなたが修煉してできたものだけでなく、師父があなたのために受け持ったもの、してあげたものも含まれています。このように考えてもいけません。この道理はありません。
弟子:半ば悟った弟子は、他の空間の法理を見ることができるでしょうか?
師:これについて詮索しないでください。多くの学習者は、特に早く法を得た学習者と初期において法を得た多くの学習者は既にこの状態に入りました。彼は何でも知っており、見ることができ、理解することができます。しかし、彼の次元においてこれを言い表すことができないため、彼は何も話さず、言わないのです。しかし、彼には何でも分かっています。ただ、彼の神通と能力を使うことはできません。なぜなら、皆さんがみな修煉しているので、彼らがみな神通を使えば、地球は耐えられなくなります。このような人がたくさんいます。
弟子:佛法修煉に極めて大きな自信を持っている人がおり、ひいては常人のやり方で日常問題を解決しようとしません。
師:皆さんに教えますが、私たちの修煉の中でこういう状態が見られます。つまり、法を得たからこれもあれもしたくない、仕事も商売もしたくない人がいます。皆さんに教えますが、見た目では、あなたが本当に法を最も重要なところに位置付け、修煉を最も重要なことにしたように見えます。しかし、他の角度から見れば、あなたは本当に法を理解していません。皆さんに教えますが、あなたは最大限に常人に符合して修煉すべきです。私が言ったこの話は人々が軽視しがちです。皆さん考えてみてください。今一億人が修煉していますが、将来更に多くなったらどうなるでしょうか? 人々が何もしなくなったら、社会はどうなるでしょうか? 社会の人々はどのように大法を見るでしょうか? これでは大法に泥を塗っているのではありませんか? もちろん、そこまで高い境地の状態に達したら、私はそれについてお話しません。今話しているのは普遍性のある問題です。まだその状態に達してもいないのに、人為的に何かを行なおうとするのは正しくありません。普段ぶつかった問題にどのように対処すべきか、これはあなたの修煉の中のことであり、具体的な問題に私は答えません。どのように対処し、向上するかはあなた自身のことです。
弟子:法輪を得たら修煉が既に半分までできたと先生がおっしゃいましたので、それを既に半分成功したと理解している学習者がいます。
師:修煉のことについて、なぜ今日の中国人にこのような考え方があるのでしょうか? 古から今日まであなた達の思考方式を作り、このような思考方式で法を理解できるようにしています。修煉に関して、皆さんに『轉法輪』を与え、法輪を植え付け、師父は大法輪を使ってあなたの全てを純潔なものにしており、確かにあなたの修煉の中の半分の問題を解決しました。これは間違いないことです。しかし、これだけではありません。この大法自体はその威力があまりに大きいので、人間の修煉を更に速くしています。師父が法輪を植え付けてくれたので、私は既に半分成功し、今日修煉をやめても、半分成功したという概念ではありません。
弟子:ある時、四、五人の高次元の大覚者、大道と一緒にいたというお話をされましたが、なぜこのことを言わなければならないのかよく悟ることができないのですが?
師:それはあなたの人間としての考えに障碍があるからです。法をあなたの好みに合わせて説いてはいけません! よく悟ることができないということは、つまりあなたが心の中で執着による障碍が大きいということを物語っています。意識的に文字を詮索してはならず、一つの言葉、一行の文字に対してみな意識的にその意味を詮索するのであれば、それは大間違いです。私は従来から、『轉法輪』を最後まで一気に読み通すように教えていますが、何を読んでいるのか分かっていなければなりません。あなたが悟るべきその次元に至れば、佛道神はすぐにそれを分からせ、あなたは直ちにその言葉の意味を知るようになります。あなたが悟るべきでない内容は、あなたに分からせることはなく、あなたがいくら詮索しても無駄です。どうしてもこの字面から高い境地の理を知りたいと言うなら、それは無理強いなのです。修は己にありて、功は師にありというように、あなたがどんな方法を考えても、天に上ることはできません。つまりこういう意味です。『轉法輪』の中の幾つかの内容を読みたくなく、心性に関する部分だけを読みたい人がいます。皆さんに教えますが、功能や他のことについて説いているように見えますが、中に異なる理や修煉において到達すべき異なる要求が含まれています。全てを連続して読むべきです。毎回読む時、一ページも一文字も漏れてはいけません。必ずこのように読まなければなりません。その配列順序は人間の修煉に対して極めて厳密な作用があります。
私は関連性もなくこの部分の法を説いたことはなく、または物語を説いたのではありません。表面上、私はその境地で心が静かになった時の状態と、私が彼らと繋がった時の感覚を皆さんに教えたようにみえます。私はまだしなければならない常人の中のことがあり、常人の身体をもっており、皆さんを済度しなければならないのです。でなければ、彼らの静けさは私の境地では静かでないかもしれません。皆さんのような普通の人が彼らと繋がったら、あなたの考えは瞬時に何もかもなくなり、全ての常人の考えが消滅し尽くされます。彼の考えはこれほど大きな威力があります。あなたは一瞬にしてとても高い境地の要求に達することができるかもしれませんが、それはあなたが修めて達したのではありません。中にとても深い内涵があるので、人間の考えで法を量らないでください。
弟子:宇宙の中の二種類の非常にミクロ的な物質は、真・善・忍の特性とどういう区別があるのでしょうか? なぜ下の次元に行けば行くほど、二種類の物質はますます対立するのでしょうか?
師:実は皆さんが人間の考えでこれらの事を聞くのは本当に不敬です。もし皆さんが神のようになることができれば、決してこのような質問を出す勇気はありません。これは宇宙大法が生命のために切り開いたものであり、この二種類の物質も大法によって造り出されたものです。私はこのようにあなたに教えるしかありません。生命にとってある環境での生活は多彩であるべきです。人間について言えば、人間がもし人間としての楽しみがなければ、生きていても退屈で、つまらないと感じるのです。つまりこういう感覚です。生命が楽しく生きることができるようにしなければならないので、大法は異なる次元の生命のために繁栄した社会を切り開くことができます。これは人間が思っているようなことではありません。私はただこの二種類の物質の存在によって相生相克と陰陽が生じたことを話し、陰陽と相生相克の由来について話した時、この二種類の物質に簡単に触れたのです。しかし、宇宙の中の複雑な要素があまりに多いので、皆さんの現在の修煉と直接関連のないことについては話していません。私はあなたに法理を悟らせ、向上させることのできるものを選んで概括的に話しています。多く知りすぎたら、あなたはいつもこういうことばかりを考え、それによってあなたの修煉に影響してしまいます。
弟子:多くの学習者は週末になると一つの公園に集まり煉功していますが、幾つかの公園に分散したほうが法を広めるのにいいのではありませんか?
師:これは皆さんが具体的にどのように行なうか考えるべきことです。多くの人が一緒に煉功すれば、場は大きく、影響も大きいと思う学習者がいるでしょう。常人がそれを見たら、あっ、こんなに多くの人が法輪功を修煉している! エネルギーがとても強い! 私たちも一緒にしようと思うかもしれません。また、ここの人はみな知っていますが、他のところの人はまだ知らないので、別のところへ行き、そこの人にも法を得てもらおうと思う学習者もいるでしょう。これは皆さんの具体的なことであり、自分の行ないたいように行なえばいいのです。これらのことは私に規定してもらってはいけません。異なる地区、異なる状況、また法に対する異なる次元の認識の状態があるので、これも皆さんの修煉の一部です。どのように行なうべきかを検討して、いいと思うようにすればいいのです。
弟子:法を広めることはつまり、煉功と大法の本があればいいと思っている人がおり、大型の集団煉功、或いは説法のビデオを放映する必要はないと言っています。
師:具体的にどのように行なうべきか皆さんのことであり、これは皆さんの修煉と同じことです。皆さんに教えますが、ビデオを見ること、集団で法を学び煉功すること、更に今日開かれている法会のことは私が皆さんに残した大法修煉の唯一の形式です。他の全ては緩やかなものです。今日来るかどうかも、誰かに呼ばれて来たのではなく、みな自分の意志から来ているのです。修煉は他でもなく自分の心次第です。来たくなく、修煉したくなければ、自分で決めればいいのです。
弟子:白人の学習者はコミュニティのボランティア活動に非常に熱心であり、これが慈悲の現れ、良い人の現れだと思っています。
師:これは常人の奉仕の精神ですが、私は反対しません。どの状態においても良い人であるようにと私は要求しているからです。しかし、これらのことを法の学習と修煉よりも重要なところに位置付けたら、これは間違いです。いかなることに執着してもそれは執着です。しかし、いかなる環境においても正しく行なうことができなければ、修煉者としての基準に達していないことになります。つまり、あなたが法の中で絶えず精進する時、この問題を解決することができ、どのようにすべきか分かるようになります。
弟子:冬はずっと外で煉功していますが、この業を滅する方法は、結跏趺坐に代わることができるでしょうか?
師:こういう言い方はありません。自分のために困難を解決する方法を探し、苦を嘗めず、または少なめに苦を嘗める修煉の道を探そうとしてはいけません。しかし、私が思うには、修煉は他でもなく向上することであり、いつまでも同じ状態に留まることはありません。坐禅を恐れるのも一つの心ではありませんか?
弟子:副意識が覚者まで修煉しても、主意識はまた六道に入る可能性があります。彼らは異なる個体でしょうか?
師:この問題について私は既に非常にはっきり説明しました。この世においてあなたにとって、あなたの主意識も副意識もみなあなたであり、どちらも認めなくてはいけません。みなあなたと同じ名前であり、同じことを行ない、あなたの大脳を支配しており、みなあなたです。しかし、人間を本当に主宰しているのは主元神であり、あなたの頭が最もはっきりしている時、あなたの全ての意識はあなたの主元神によって支配されています。なぜでしょうか? 副元神が修煉して圓満成就した時、あなたには分からないのです。彼はあなたと同じであり、同じ姿かたちをしており、成就して去って行きましたが、あなたは依然として六道に入らなければなりません。主意識が成就する時、あなたはそれを知っており、修煉が成就し、もうすぐ圓満成就すると分かるのです。しかし、副意識はあなたの一部でもあり、あなたが修煉している時、副意識も修煉し、あなたが圓満成就したら、副意識もあなたと一緒に圓満成就します。つまりこういう関係です。
弟子:私は以前薬剤師であり、マッサージの手法もいくらかできますが、今でも無償でマッサージをすることができるでしょうか?
師:無償でマッサージをして金儲けをしていないことを強調していますが、これで良い事をすることになるでしょうか? 皆さんに教えますが、修煉はとても厳粛なことであり、私が絶えずあなたの身体を浄化しているので、あなたは再び汚染してはいけません。つまりこういう意味です。人間の肌や肉体による接触はお互いの場を繋いでしまうからです。なぜ集団で煉功する時、エネルギーが強くなるのでしょうか? 皆さんの全ての場、これほど良い場がみな繋がったから、進歩が速く、気持ち良く感じるのです。常人は修煉していないので、身体の周囲の場はみな業力です。このように話せば、「ならば、家の人と一緒にいてはいけないのか?!」と多くの人は思ってしまいますが、あなたは修煉者であり、私は既にこの問題を解決してあげました。ですから、このことを考える必要はなく、意識的に何かを恐れる必要もありません。つまり、意識的に何かをしようとする時、意識的にそれを受け入れることになります。相手にマッサージを施す時、彼の病を治したいと思っています。現代の医療手段と薬で治療しているのではなく、あなたは自分の身体で治療しているため、あなたを汚染してしまう恐れがあります。つまりこういう意味です。生活のために、マッサージ師の仕事をし、他の仕事につくことができない場合、私はあなたの身体を封じて、あなたの生活の問題を解決してあげます。しかし、これを職業としている人でなければ、しないほうがいいのです。こういう意味です。鍼灸のことにいたっては、医者であれば、患者に薬を飲ませたり鍼を刺したりするのは影響ありません。これは技術です。
弟子:家族に精神病の人がいますが、本人がそうでない場合、煉功することはできるでしょうか?
師:私は既に言いましたが、家族に精神病の人がいても、あなたも精神病になるとは限りません。このように見るべきではありませんか? 二つの角度から見るべきです。理性的で主意識の強い人であれば、煉功することができます。家系に精神病の病歴がある人は、気を付けるべきです。精神病の人は煉功してはいけません。なぜなら、精神病患者は往々にして主意識がはっきりしていないからです。私があなたを済度しないと責めないでください。私の法は主意識に与えるもので、その人を済度するのですが、その人の主意識がはっきりしていなければ、私たちはこの法を誰に与えるのでしょうか? 精神病が発症している時、あなたの業力、良くない考えと外来の生命があなたを制御しているので、それらに与えることができるでしょうか? できません。つまりこういう理由です。ですから、家族に精神病の病歴のある人が煉功する時、くれぐれも気を付けてください! 自分を制御する自信がなければ、参加しないでください。精神病の人は煉功点に来ないでください。法を聞きに法会にも来ないでください。
弟子:子どもが十二歳で、週に一回煉功しており、夜寝る前に法を聞いていますが、彼の煉功と法の学習は正常なものでしょうか?
師:子どもには子どもの状態があります。法と接触し、法を学んでおり、煉功もしていれば、実は彼も修めています。これは間違いないことです。子どもと大人とは厳格に区別しています。子どもには大人のそれらの観念、複雑な考えによって構成されたものがないので、非常に単純で、法を速く得ることができます。
弟子:頭の中で良くないことを考えている時、他の空間で良くない物質が生じてしまいますが、どうしたらいいでしょうか?
師:できるだけ良くないことを考えないようにしてください。あなたは少しずつ修煉しています。考えてもそれに構わず、恐れないでください。「どうしたらいいのか?」と恐れている時、これは執着です。ですから、できるだけ法をよく学び、本を多く読み、純粋で清らかな心の状態を保持したほうがいいのです。しかし、悪いことを少しも考えないというのは全くあり得ず、圓満成就するまでそれはあり得ないのです。何かが生じてしまうことに至っては、あなたは修煉者なので、皆さんに教えますが、天上では修煉者を人間と見なしていません。彼らは皆さんを神だと思っています。皆さんが圓満成就したら、将来異なる次元の神になります。ですから、いったん常人を超え、皆さんの身体に常人を超えたものを持つようになったら、特に法を正す時期に修煉している時、私が皆さんを見守っているだけでなく、あなたの身体の周りで本当に天竜八部も法を守っているのです。皆さんはそれを知らないだけです。多くの人は煉功してから大胆になりましたが、なぜでしょうか? 皆さん自身の要素だけでなく、皆さんにそれを分かる一面があるので、大胆になったのです。
弟子:子どもの頃から恥ずかしがり屋で、これは強い執着心でしょうか?
師:人間として、恥を知らなければ、この人は非常に悪い人です。修煉者として、これらのことに執着していれば、あなたは他でもなく人間なのです。以前、煉功を始めたら、身だしなみに気を配らず、だらしなくなり、汚い格好をしている人が多くいました。大法弟子がこのようになったら、私に言わせると、大法に泥を塗ることになります。ご存知のように、私はいかなる場所でも、皆さんに説法する時、身だしなみは、わりときちんとしていると思っています。実は私は皆さんに身をもって示しているのです。私の話し方、生活方式の真似をしている人さえいるので、私はこれらのことにとても気を付けています。皆さんに良くない行動様式を残してはいけません。皆さんは常人の中で生活しているので、これらのことに気を付けなければいけません。
私はある情況に気付いています。中国人は表面のことを軽視しており、わりと大雑把です。前回私が言った笑い話のように、中国人は内涵を重視しており、頭の中に豊富なものがあり、優れた技能を持ち、料理も美味しいのです。しかし、その身だしなみはだらしないのです。私の話を冗談として聞いてもいいのですが、白人の場合、料理は中国人の料理ほど美味しくありませんが、ナイフやフォークをきれいに並べ、これを食べる時はこの食器を使い、これを飲む時はこのグラスで飲むというように、外見に非常にこだわっており、礼儀正しいのです。これは白人と中国人の差異です。しかし、両者を融合させ、中国人はマナーにもう少しこだわり、白人にもう少し内涵があれば、更によいと思います。(拍手)
白人はマナーをとても重視しており、これは彼らの文化です。白人は時になぜ皆さんのことを怒るのでしょうか? わけもなく怒っていると思う中国人がいますが、彼らのマナーを破ったら、ほんの小さいことであっても、彼らは非常に腹が立つのです。多くの人は細かいところに気を使わず、例えばお店に入る時、後ろに人がいる場合、ドアを開けて、そのまま「バタン」と閉めて去ってしまう人がいます。もし後ろの人が白人であれば、怒ってしまいます。あなたは彼のマナーを破っているので、彼はこれが小さいことだとは思いません。彼に対する失礼な挙動と言動に腹が立つのです。皆さんは彼らの社会で生活しているので、これらの方面に気を付けるべきです。
弟子:私は中国からの学習者で、今回師父に会えて涙が止まらず、気持ちを言い表すことができません。
師:私はアメリカにいて、最近の半年間皆さんに何回も会い、とても簡単でした。しかし、中国大陸にあれほど多くの学習者がいるのに、私に会うことができません。彼らは師父に会いたがっており、私も彼らのことを気にかけています。こういうことです。
弟子:各空間に私が存在していますが、これらの空間は三界内に存在しているのでしょうか?
師:そうです。三界の中にあります。三界内の空間はまた最も複雑です。将来機会があれば、皆さんに物質の構造についてお話します。その複雑さは人々を驚かせるほどのものです。しかし、それを言い表す言葉もなく、絵で表現することもできません。ですから、時に皆さんに説法する時、本当に人類の言葉を使い尽くしても宇宙の偉大さを表現することができません。
弟子:中国の科学研究部門がパンダを複製していると聞きました。
師:つまりクローンのことですね。そうでしょう? 皆さんはこれらのことに構わないでください。人類は自らを壊滅させています。この前私は既にお話しましたが、人類はこれを複製したりあれを複製したりしていますが、いったん人間を複製し始めたら、それが宇宙人を人間の代わりとして受け入れることの始まりなのです。人間は神の一面の存在が見えないので自分たちのこの限りない追求、いわゆる探索は、言葉としては聞こえがいいのですが、実は人類を壊滅させています。人間は自らを壊滅させているのです。
弟子:大法が正道ではないと攻撃している佛教界の人がいます。
師:それに構わないでください。彼らは末法の最期に至りました。これらの問題に対して、私たちも彼らと同じやり方で、つまり彼らが大法を攻撃したら、皆さんも資料を配って彼らを攻撃するのであれば、大法が彼らと同じようになってしまうのではありませんか? 私たちの大法は宇宙大法であり、彼らが今破壊していますが、実は彼らは何者でもありません。釈迦牟尼が現れた当時、バラモン教もこのようにやっていました。
弟子:ミクロ的な部分からマクロ的な部分に演化する過程は即ち、本体の転化過程でしょうか?
師:このように理解してもいいのです。修煉が速く進めば進むほど、転化は速くなります。
弟子:なぜ宇宙のある一定範囲内の他の多くの空間に、同じ人が同時に存在しているのでしょうか?
師:この宇宙はこのような複雑な構造です。あなたが生まれて来た時、多くの空間にもあなたが生まれて来ました。姿かたちも、していることも大同小異であり、あなたと同じ名前です。同時に生まれて同時に死んでいきます。しかし、生活の質において違いがあります。あなたとどういう関係があるのでしょうか? 先ほどお話しましたが、同時に生まれ同時に死んでいきますが、この他に大きな関連はありません。先ほど同時に生まれるとお話しましたが、他の空間のあなたが生まれて来なければ、あなたが生まれたくてもそれはできません。彼らが死ななければ、あなたが死にたくてもそれは難しいのです。ですから、孤独にさまよう魂が転生できないのは、全ての彼がまだ死んでおらず、その中の一人だけがどうしても死にたいと思い、自殺してしまっても死んだ後行くところはありません。生きている全てのあなたが生命の過程を終えてから、やっと一緒に帰る場所を探すことができます。元神にいたっては、先ほど私が既にお話しましたが、元神は即ちあなたであり、主元神はあなた自身であり、あなたの考えの源は即ちあなたです。元嬰というのは、修煉の中であなたの智慧と法が生成した佛体です。私たちのこの法は人間の身体に本質的な変化を生じさせることができ、この身体そのものも佛体に転化することができます。
弟子:将来あなたが得道した際、多くの人が受益するかもしれないと師父はおっしゃいました。
師:そうです。皆さん考えてみてください。ある人が佛まで成就したら、その親兄弟、特に親ですが、これほど素晴らしい子どもを産んで、福があるのではありませんか? 必ずあります。どれほどの福があるのでしょうか? どの次元に置かれるのでしょうか? それは必ず本人の福の多さによって扱われます。子どもが佛まで圓満成就しても、その親が修煉しないで佛になることはあり得ません。なぜなら、彼らは修煉していなかったからです。その人の福と心性によって決められます。業力の量もとても重要です。親、兄弟だけでなく、あなたがこの世で接触した多くの人と生命および怨恨と縁、あなたが殺した生命などは、あなたが成佛した後、どのように処置されるのでしょうか? あなたはその生命たちを済度しなければなりません。もちろん、これらのことはあなたが修煉して圓満成就した時、師父は全てしてあげますが、それもあなたが済度したことにします。これらの生命はあなたの世界まで済度されなければならないため、このようにして皆さんにこれらのことを解決してあげました。あなたの役に立った多くの人も放っておくわけにはいきません。修煉は簡単なことではなく、あなた自身は多くの様々な因縁関係を解決することができません。これらのことも師父がしてあげます。
弟子:師父が各地の一部の学習者と接見される時、誰も取り残されたくはありませんが、これは執着なのでしょうか?
師:今日はこういう現象があったかもしれません。私が中国で法を伝えた時、学習者はみな知っており、皆さんも聞いたことがあるかもしれませんが、講習会の初日には、みな前方の席を探しており、師父に近いところに座れば、受けるエネルギーが強いと思っていました。三日目が終わった時、前に来る学習者は誰もいませんでした。みなは良い席をお年寄りの人または他の人に譲り、席取りをする人もいませんでした。会場全体に穏やかな状態が現れました。みな変化の過程があります。もちろん、今日多くの人が地方からやって来て、また長く私に会っていないので、前の方に行って先生をはっきり見てみたいと思っています。この気持ちを私は理解することができます。良い席を取ることにいたっては、このようなことを白人はしないと思います。全体的に言えば、これも表面上のことです。
弟子:古い学習者は心性が高く、功力がますます大きくなっているので、彼らの言動は新しい学習者に大きく影響しています。新しい学習者と古い学習者はそれぞれどのようにこのことに対処すべきでしょうか?
師:古い学習者の大半は修煉が良くできていますが、全員がそれほど素晴らしいとは言えません。あなたが基準に達していなければ、煉功に来てはいけないと言えません。このようにしていいのでしょうか? いけません。ですから、あなたの多くの言動は他の人に影響してしまうかもしれません。しかし、法があるので恐れる必要はありません。新しい学習者も法を何回か学んだ後、法をもって全てを判断するようになります。あなたは古い学習者ですが、どこが間違っているか新しい彼には分かっています。人間に自分の考えがあり、その上法もあるので、これらのことは問題になることはありません。皆さんもこのように経験してきました。輔導員や古い学習者として、このことを心配するかもしれませんが、出発点と考えはみな良いものです。皆さんはそれに気付いたら、それを解決する方法を考え、皆さんにできるだけ注意してもらうようにしてください。ですから、古い学習者として、確かに新しい学習者の前で自らのことに気を付け、自分に対する影響を考えなくても、大法に対する影響を考えるべきです。ここは浄土であり、私は他でもなく、皆さんがトラブルに遭った時、自分の内心を見ないということをしてほしくありません。社会の職場のようになってはいけません。
弟子:修煉する前のある日の夜、寒くて動けなくなりました。
師:個人の状態についての質問は、私が思うにはできるだけ出さないほうがいいのです。あなた一人に一千万、一億種類の状態がありますが、どのように解答してあげればいいでしょうか? あなたに教えますが、みな良いことです。昨日私はあることについてお話しました。つまり、それが良いと感じていても良くないと感じていても、実はあなたにはそれを見分けることができません。それがみな良いことだと思えばいいということだけを皆さんに教えます。(拍手) 一例を挙げます。皆さん考えてみてください。人類社会の土は高次元生命の糞便であり、人間はこのような汚い環境の中で、肥溜めの中に飛び込んだと同じように、既に肥溜めに入ったのに、心地良いと感じ、そうでなければ良くないと思うのです。こういうことにこだわって、何の意味があるでしょうか? 速く修煉して、どんなことにぶつかっても良いことだと思えばいいのです。実際にそれは本当に良いことです。修煉しなければ、気分が悪く感じたことも含めて、きっとこういう感覚はありません。いくら良い変化であってもあなたの身体に現れると、心地良く感じないのです。なぜなら、いかなる功やエネルギーの存在も電気を帯びており、あなたの身体に何らかの反応が現れます。それほど強い功であり、あなたにまだ人間としての身体があるので、功が身体の中で動くだけで、人体は気分が優れないと感じるのです。修煉が全てできた時、そういう感覚はなくなります。一部の人は空中に浮き上がった時、空中で何らかの状態が現れることはありますが、それを気にしないでください。みな良いことです。恐れれば恐れるほど、何回かひっくり返されます。なぜなら、あなたに恐れる心があるのも正しくないからです。
弟子:自分のために存在していながら、無私無我にならければならない、ということをどのように理解すべきでしょうか?
師:皆さん考えてみてください。人間は個体の生命であり、修煉も返本帰真も望まなくなるほど無私無我になることが、真の無我だと理解するのが正しいのでしょうか? あなたの修煉は自分のためではありませんか? しかし、皆さんは修煉の過程でますます善になり、何かを考える時、みな相手のために考えている、というところまで善になり、無私の生命になるよう修煉しています。修煉はあなた自身のために修煉しているのであって、あなたが圓満成就まで修煉したら、同時に相手のために考え、相手のために代価を惜しまないほど偉大な生命にもなります。個体の生命は永遠に存在するのです。みなが自分の個体がなくなるまで修煉するのであれば、それはいけないのではありませんか?! ですから、皆さんに教えますが、あなたは元に向かって上昇し、圓満成就しますが、相対的に言えば、あなたが払った代価はあなたに限りない幸せをもたらすのです。それはあなたが自分で払った代価によって得たものです。更に高く、更に美しい境地に戻ることは、善に向かい、上を目指すことです。無為は自分がなくなり、自我が存在しないことだと理解する人がいますが、実は全くそうではありません。宇宙に次元があり、厳格に言えば、生命に階級があるのです。それはあなたが修煉によって実証して得た果位と威徳によって構成されています。
弟子:足が硬いということは業力が大きいからですか?
師:これについて私は既に話しました。業力があるから足が痛くなる人もいれば、足をこのように組んだことがないので足が硬いと感じた人もいます。これは身体の表面にある生理的な状態です。しかし、業力が大きいからそうなったにしても、生理的な要素によるものであっても、みな組めるようになります。痛くならない人は少ないのです。
弟子:全世界で法を得た人が既に一億人あまりいますが、法を広めることは今までと同じく重要なのでしょうか?
師:法を広めることはあなたにとってそんなにしたくないのでしょうか? ご存知のように、皆さんは修煉の中で善を修め、人間が難の中にいるのを見て、その人に法を得てもらいたいと思うようになり、これは皆さんが修煉の中で徐々に備わるようになるのです。人間にいかなるものをあげても、法をあげることより良いものはありません。いくら良いもの、いくら多額のお金を与えても、それは一世一時の幸せです。それに対し、法を与えることは生命の永遠の幸せになるのです。大法より素晴らしいものがあるでしょうか!(拍手) ですから、大法を他の人に紹介すること自体は法を広めることであり、良いことです。しかし、皆さんは無理に行なわないでください。相手が学びたくないのに、どうしても学ばせようとしてはいけません。法があることを教えるだけでいいので、皆さんはそこまで行なえばいいのです。修煉するかどうかは本人自身のことです。多くの人が法を広めることをたくさんして、大量の時間を使いましたが、意味がないとは決して言えません。あなたがそのために使った時間はみな修煉の中で補われるのです。何といっても、あなたは大法のために行なっており、良いことをしているからです。もちろん、無理に人を引っ張らないように、今後気を付けてください。便利な方法で法があることを教えればいいのです。法があるのを知っても学びたくなければ、それでいいのです。
弟子:「明智」という経文の中で、思想業力と良くない正常な念を見分けなければならないと言っています。
師:そうです。思想業力による妨害は常人にはわきまえることができません。修煉者が精進せず、自分の考えの根本的な動機を探さなければ、修煉者も思想業力をわきまえることができません。思想業力が長い間滅されていない人がなぜいるのでしょうか? つまりどれが自分なのかをわきまえようとしないからです。なぜ修めるようにと言っているのでしょうか? あなたはまず良くない考えを修煉によって取り除くべきです。それらの良くないものを取り除くことができたのは、それが自分だとあなたは認めていないからです。これは極めて重要なことです。それが自分だと認めていないので、それを滅することができました。実質、それは本当のあなたではありません。それはあなたが生まれてから事を行なう時に形成された各種の観念であり、ひいては造った業力です。他でもなくこういうものです。しかし、人間は往々にしてそれが自分だと思い、「私は頭が良くて、社会で誰も私をいじめることができず、私は各方面において他の人より強い」と考えるのです。彼はこれらの後天的なものを自分だと思ってしまい、ひいては最も良いものだと思っています。人間が何をほしいのか、これは本人が決めることです。これを欲しくないと思う時だけ、取り除いてあげることができます。
なぜ精神病患者は済度し難いのでしょうか? 彼は全く見分けることができないからです。思想業力、自分ではない考えを見分けることは新しい学習者にとって難しいことです。これができれば、本当に素晴らしいのです。大法をもって量ってください。実は全ての良くない考えは、みなあなたではないのです。あなたはこれをやり遂げることができれば、既に見分けることができたのです。「この考えは良くないので、滅してしまい、取り除くべきであり、私はこのように考えてはいけない」という具合です。これは即ち思想業力を滅しているのです。それらの悪いことをする人、人殺しや放火ひいては同性愛者がこういうことを自らすすんで行ない、それは生まれつきだったのでしょうか? これは後天的に形成された正しくない観念がますます強くなり、強くなって、かえってこの観念が人間を操るようになったから、そうなったのです。
弟子:人を済度する覚者は通常如来ですが、どのように物質の本源から修煉者に功を演化してあげるのでしょうか?
師:私はこのように皆さんに教えたことはありません。釈迦牟尼がこのようにしていたと、私は言ったことがないのではありませんか? 如来の法は宇宙大法と比べることができません。普通の神は将来にもこのことをすることができず、今までのいかなる神にもできなかったことです。昔、人を済度する法は小さかったので、彼は他の如来または更に次元の高い神の助けを借りて人を済度しており、彼も天を拝み、更に次元の高い神を敬わなければなりません。人間が思っているように如来佛が一番偉いということではありません。法が小さければ、一生でその人を済度することができず、何世かを経てやっとできるのです。しかし、大法にはできます。(拍手) なぜなら、これは宇宙大法であり、全ての法を超えているからです。全ての法は修煉する大覚者が宇宙大法から実証し悟ったものです。この関係が皆さんお分かりになったでしょうか? 人を済度する全ての大覚者または天上の全ての如来にしても、佛、神にしても、彼らの世界の特性または彼が得た果位は、みな宇宙大法から実証し悟ったものです。(拍手) 彼らが宇宙大法からそのまま持ってきたものではありません。なぜなら、以前宇宙大法は全く彼らに知られてはいけなかったからです。彼らは異なる次元の中の生命が到達すべき境地の基準を知っているだけで、それだけです。ですから、彼らは自分が理解したもの、どのようにこの基準に達するかを実証し悟ることができます。これは彼らが実証し悟ったものです。釈迦牟尼が実証し悟ったものは「戒・定・慧」と言います。私はこの問題をはっきりと説明したでしょうか?(拍手) 彼らは宇宙の法、更に次元の高い神の助けによって行なっており、彼ら自身にこれはできません。
また、如来佛の中に異なる如来もいます。例えば、釈迦牟尼佛も皆さんが想像しているような普通の如来ではありません。彼はこの境地では如来ですが、実は更にミクロ的で他の佛に知られていない状況があります。彼がやって来た次元は非常に高いのです。彼は「地水火風」という「四大」を実証し悟りました。以前経書の中でこの言葉を見た人がいるかもしれません。これは既に相当高い次元であり、普通の生命が存在する天体をはるかに超えています。つまり彼が実証し悟ったものは既に非常に次元の高いものであり、彼がやって来た次元が非常に高いということを物語っています。しかし、彼は如来という境地の法力だけをもって人を済度しに来ました。
弟子:人類社会が変異した原因の一つは、大部分の常人の分子細胞が既に宇宙人に変えられてしまったからですか?
師:人間が言っている生命と人体の物質はつまりこの身体の構成であり、考えの変異は人間の行為と生活方式を変えることができる一方、生活方式はまた人間の身体の粒子成分を変えることができます。この変異がもし受動的なもので、何かの生物によって操られているのであれば、人間にとって非常に恐ろしいことです。これはなぜ人間が後天に観念を形成することができ、この観念がまた人間を左右することができるのか、ということと同じです。これを取り除かなければ、この一生の中でそれはあなたの一部分になり、ひいてはあなたを主宰するものの一部になります。つまり、宇宙人が地球人に押し付けたこの一式の文化は、あなたの頭の中で生活方式と物質世界を認識する方式を完全に形成してしまいました。今は既にこのようになりました。これがあるので、このような身体が形成されるのです。この車はどのように運転するのでしょうか? あなたは宇宙人の方式を使わなければなりません。あの機械はどのように製造するのでしょうか? 生産されたものをどのように使うのでしょうか? この一連のものは人間の全ての生活方式の中に浸透しており、このような身体と考えを形成しました。前回私は既に話しましたが、パソコンを操作している全ての人は宇宙人に番号を割り当てられています。これは間違いないことです。しかし、私たちの弟子の中にこういう問題はありません。私はその全てを片付けました。しかも、宇宙人は最終的に片付けられています。まだ隠れているものがいますが、もう見かけることはありません。以前彼らは超物質の空間に隠れて人間を操っていました。前回私は超物質についてお話したことがあります。宇宙人はその中に隠れており、非常に気付きにくいのです。人間は今の分子を最も物質的なものだと思っていますが、実は分子より更に物質的なものがあり、それがそこに隠れて人間を操っています。私たちはあの空間を既に片付けたので全てが根絶され、きれいになりました。
弟子:出世間法は羅漢果位ではありませんか? なぜまだ衆生なのでしょうか?
師:法をまだよく読んでおらず、よく理解していません。修煉していましたが、成就できなかった人は、到達した三界の中の次元で生存するしかありません。天上の人は天人であり、人間にとってそれも神です。三界を出たら、まず到達する果位は羅漢です。もう一種の特殊な状況もあります。修煉をしなかったけれど、高い基準に達した人には果位はありませんが、佛と縁があり、または在席の中の将来佛まで成就する人と縁があれば、あなたの世界の衆生になるかもしれません。つまり、あなたの世界の庶民です。佛の世界の中には佛と菩薩ばかりでなく、それは栄えている世界です。佛は法王であり、善なるものです。つまりこういうことです。人間の考えで天上のことを分かろうとすれば、永遠に分かりません。頭の中がこういうことばかりであれば、修煉できなくなります。私が皆さんに説いたそれほど大きな天体は一粒の塵埃にすぎず、宇宙は言い表すことができないほど複雑であり、言葉にすることができません。地球には白人、黄色人種、黒人がおり、人種にある程度の差異があります。天体には各種の人種が多くおり、様々です。中に模様がある者もいます。宇宙はこれほど膨大で繁雑なのです。
弟子:人類の業力はますます多くなっていますが、なぜ平均寿命は延びているのでしょうか?
師:今の人間の寿命が昔より長いことに皆さんは気付いたかもしれません。大法が広く伝わっており、この一世に間に合ったこと自体はその人の福です。(拍手) 私は済度したい全ての人に機会を与えなければならず、大法が広く伝わるこの一世に来て、この大法と巡り会うのも容易なことではありません。人々に機会を与えています。しかし、修煉するかどうかは人間自身のことです。大法がまだ多くの地区に伝わっていないので、その生命の寿命を延ばして将来法を聞くことができるようにしています。その時、その生命の心がどう動くか見ています。ですから、人間に大法を知ってもらうことは重要なことであり、しかもとても重要なことです。私が言ったことの意味はつまり、皆さんが法を広める時、相手に法があることを教えますが、修煉するかどうかは個人の問題です。この世に来て、佛法に出会い、佛法を聞きましたが、気にせず、修煉せず学ばなければ、あなたにとってとても残念なことです! 先ほどあなたが聞きたかったのは、なぜ業力がこれほど大きいのに、命が短くならず、かえって延びているかということでしょう? こういう原因です。
弟子:古い学習者の家に師父の写真で開眼された観音の彫刻がまだ置かれていますが、これは正しいでしょうか?
師:彼らはみな偉大な神なので、大丈夫です。開眼されたら、飾りたければ飾ればいいのです。どの法門を修煉しているかあなたは心の中で分かっていなければなりません。誰を敬うべきかを心の中で明確にしておかなければなりません。
弟子:私たちはみな師父の身体の中で生きていると理解してもよろしいでしょうか?
師:このように理解してもいいのです。(拍手) 実は皆さんに教えますが、人間は修煉の中で身体の体積が絶えず増加しているのです。人間がこの空間に落ちて来て、修煉して元に戻ろうとすれば、身体が変化します。最もミクロ的なところから変化し、宇宙のミクロの次元の基準に符合して、最もミクロ的なところに戻るのです。その時、彼の身体の体積は元のあの空間にいた時の状態と一致しなければなりません。ですから、大きくなりました。ミクロ的であればあるほど体積が大きくなります。全ての修煉者にこのような変化が見られます。常人はあなたが見えず、それを見ることが許されていません。多くの学習者は師父の背後に数え切れないほどの身体があるのが見えました。師父の身体が一層一層、どんどん大きくなっていき、果てが見えないほど大きく、全てを覆っていると言っています。地球を覆っていれば、あなたは地球にいるのではないでしょうか? つまりこういう意味です。(拍手)
弟子:私たちは主元神を修めていますが、なぜある程度の時間が過ぎると、周りの全てを見たことがないかのように感じ、おかしく思うことがあるのでしょうか?
師:このように感じたのは次の情況によることがあります。もしあなたの考えのある部分が洗われ、またはあなたの思惟方式が変えられてしまったら、こういう情況があります。どんな情況であっても、自分がここにいて、これが自分だと分かっていれば、問題ありません。
弟子:『轉法輪』は既に非常にはっきり説いているので、他の人と交流する必要はないと思います。
師:これはあなた自身の修煉状態です。他の人に押し付けてはいけません。しかし、あなたが間違っているとは言えません。人によってそれぞれ異なる状態があります。新しい学習者も絶えず入って来ているので、皆さんには浄土がなければなりません。
弟子:常人の中で深く落ちれば落ちるほど、修煉して戻って成就したら、その威徳がますます大きくなると言ってもいいでしょうか?
師:こういうことではありません。深く落ちれば落ちるほど望みがなくなり、大法が広く伝わらなければ、おしまいになります。
弟子:師父が弟子の業を滅してくださることは宗教による修煉の中でなぜ明確にされていないのでしょうか?
師:理由はありません。イエスが説いたことはなぜ釈迦牟尼の説いたことと違うのでしょうか? なぜみな同じでなければいけないのでしょうか? 釈迦牟尼は業を滅することを説いたことがあり、説かなかったのではありません。現代佛教も業を滅することを言っています。釈迦牟尼は四十九年間の説法の中で多くのことを話しましたが、人間に理解されなかったことは継承されなかったのです。後世の人は自分の好みに合ったものを選んで読んでいました。まさに学習者が選んで法を読んでいるのと同じように、これが良いと思えばこれを読むという情況です。理解したものは継承しますが、理解することができず、自分の観念に合っていないものは継承しませんでした。釈迦牟尼が当時、法を伝えていた時、文字はありませんでした。五百年後に、釈迦牟尼の説法は整理され始めたのです。五百年間の伝承の中でどれくらいの間違いがあったでしょうか?! 佛教は業を滅することを言っていますが、あなたはそれを知らないのです。イエスが十字架に磔にされた時、キリスト教はイエスが人間の代わりに罪をあがなっていると言ったのではありませんか?
弟子:「同修」という言葉で他の学習者のことを指している学習者がいますが、先生もこの言葉を言われたことがないので、適切ではないと思っています。佛教の中でこういう言い方があります。
師:これは世の人々が言い出した言葉であり、佛教だけにある言葉ではなく、佛教の専門用語ではありません。実は佛教の中では同修という言葉を全く使っていません。これもここ数年人々が使った言葉です。私たちがどういう語句を使うのか別に気にすることはありません。大法は表面形式において、こういうことを重んじておらず、最大限に常人に符合して修煉しています。以前何と呼べばいいかと聞かれたことがあります。私は何でもいいと答えました。特有の名詞を規定すると、私たちが宗教だと本当に思われてしまうかもしれません。こういう面の形式において、常人とはっきりした違いがないほうがいいと思います。
弟子:どのように人間は自分で自分を封じ込めているかという問題をみるべきでしょうか?
師:これは各方面と広く関わる問題です。人類の各方面にこの問題が存在しています。最も簡単な例をあげますが、例えば、現在の法律のことです。ご存知のように、古代には法律がなかったのです。人間の心がみな比較的善良で、多くの法律で人間を束縛する必要はなく、どのように行なうべきかを人間自身が分かっていました。しかも、正しく行動していました。今の人間の心がみなだめになり、悪くなったので、多くの法律を作って人間を管理しており、動物を管理するかのように人間を管理しています。それは目に見えない籠です。しかし、人間は今でも悪くなりつつあります。法律も絶えず制定されています。最後にどの程度にまでなるでしょうか? 罪を犯しても人間がそれに気付かなくなり、法律が多すぎて覚えられなくなるほどです。最後になると、人間が動けば、家を出れば法を犯してしまい、ここまでになる可能性があるのではありませんか? 人類は絶えず自らを封じ込めており、法律だけでなく、全ての方面において自らを封じ込めています。最後にいかなる方法もなくなるまで自らを封じ込めてしまいます。人間が制定した法律は逆に人間を治め始めるのです。法律を制定する人はみな他の人を治めようとしており、なぜなら、彼は常人の心をもって他人の行動が気に入らず、嫉妬心から相手を治めようとしているからです。しかし、彼自身も人間の中の一人であることは思いもよらなかったのです。この法律は法律を制定した人をも管理しています。最後に人間が息をすることができなくなるまで封じ込められてしまい、どんな方法もなくなります。その時になると、人間はどのように生きるのでしょうか? ですから人間の根本的な問題を解決することができるのは、法律ではなく、人間の心です。(拍手)
どの国も社会で混乱を起こす要素、安定に影響する要素に頭を抱えています。例えば、社会の治安などの問題ですが、治める方法がありません。みなこの良くない現象に対して法律を定めて治めたいと思っています。法律がますます多くなりましたが、見られていないところで悪事をする人はやはり悪事を働くのです。実は誰もこの問題の根本的な原因を突き止めていません。他でもなく、人間の心を治め、人心を善に向かわせることです。人心が良くなれば、多くの法律もいらなくなります。警察官がいなくても誰も法を犯しません。誰もが悪事をしないように自らを律し、警察官がいる必要はありません。そのような社会はどういう社会になるでしょうか? 将来、警察官一人が一人の人間につくほど多くなっても、人心が相変わらず良くなければ、やはり悪事をしてしまいます。警察官も人間なので、悪事をする警察官もいますが、人間はどうしたらいいでしょうか? 裁判官も常人であり、裁判官にも悪事をする人はいますが、誰が裁判官を管理するのでしょうか?
つまり、人間の根本的な問題を解決するには、制定した法律の多さによるのではなく、どのように人間を制限し、制約し管理するかの問題ではなく、どのように人間に善の心を芽生えさせ、社会を本当に高尚なものにするかの問題だと私は言っています。いかなる人間を制約する外在のものも人間の心を制約することはできず、つまり根本を治すことができないということです。
私は人類の全てのことを知っています。もちろん、私はこれらのことを言いましたが、現在人類社会に対して何かをするという考えはなく、関わらないようにしています。政治的なことも私は干渉せず、人間のいわゆる政治を全く好みません。聞くことも干渉することもしません。しかし、人類のことであれば私は全てはっきり説明することができますが、今修煉している学習者だけに対して、責任を負います。しかし、更に多くの人が修煉して良くなったら、この強い正の力によって社会にいくらかの変化をもたらします。人心が善に向かい、社会が安定するのは間違いないことです。しかし、これは私が意識的にしようとすることでなく、大法を伝えたことに付随してきた作用です。
弟子:法輪功はこの世においてあなただけが伝えており、他の誰も下りて伝える勇気はないと先生はおっしゃいました。
師:そうです。私は法輪世界の・・・・・・。法輪世界は私が造ったのです。(拍手) 大法は私だけが伝えており、実は他に誰もいません。あなたが想像しているこの概念さえありません。
弟子:現れたばかりの考えが正しくないとすぐに気付くことがよくあります。
師:それは良いことです。あなたの主意識は覚者ほど強くはありませんが、正しくない念が現れたらすぐそれに気付き、正しくないと分かったのは、良く修めた部分の思想が既にかなり強いからです。その部分が作用しています。そのため、良くない考えが現れたらすぐにそれに気付き、捕らえることできます。
弟子:「蓮」は何を表しているのでしょうか? 修煉者が汚泥から出て来たが、汚されていないということを表しているのでしょうか?
師:蓮花は人間の空間から生じたのではありません。人々は蓮の花が蓮花に似ていると思っていますが、それは蓮花ではありません。蓮花は佛の世界で生じたのであり、佛の世界では、花として存在しているのではなく、果位と佛の威徳を表しています。蓮花は人間の概念の中の花ではありませんが、花に喩えることができます。今、佛教は蓮の花をもって神聖で純潔なものと喩えており、汚泥から出ましたが汚されていないことを喩えています。つまり、汚泥から出てきたのですが、汚染されておらず、きれいで神聖かつ純潔なものです。これは一種の喩えですが、佛の蓮花ではありません。
弟子:修煉の過程でどのように次元の向上と突破を感じるのでしょうか? 私の身体はよく同じ状態を繰り返していると感じています。
師:これはよくあることです。自分がどの次元まで修煉したか感じることができるかと言っているのですか? これはいけないことです。どのように言ったらいいでしょうか。これほどたくさんの人にそれぞれの詳しい情況を教えるのは、まず不可能なことです。また、あなたは形式的なことに執着してしまう恐れがあります。こういうことに気を取られてはいけません。皆さんは大法弟子として大法に基づいて修煉し、はじめて最も速く修煉することができます。
弟子:人の個性は根基と関係があるでしょうか?
師:後天的に形成された変な癖は個性ではなく、あなたの執着であり、後天的に形成されたものです。確かに自分の特徴を持っている人がいます。例えば、何をしてもてきぱきする人もいれば、ゆっくりしている人もいます。または本性においてお互いに差異があり、これはその人が本来持っているものです。何かをする時、私はこのようにするのが好きで、このようにします。このようにするのを好み、どうしてもこのようにしますという現れは、後天的に形成されたものです。これらの執着と癖を自分の個性や性格と見なしてしまうのは正しくありません。これらのことは取り除かなければなりません。
弟子:宇宙、天体、時空の概念をどのように理解するのでしょうか?
師:宇宙、天体、時空の概念ですが、この三つの言葉から説明しなければなりません。なぜなら、人類の言葉は極めて限られているからです。皆さんがいつも思っているこの宇宙は、目で見える宇宙と人間に想像できる宇宙のことです。私は皆さんに多くの多くの次元の宇宙を説きましたが、更に話すと宇宙の概念を超える次元があり、私はそれを天体と呼んでいます。これは私が皆さんに説いた言葉と認識の概念です。しかし、人間が言っている天体と私が言っている天体とは同じではありません。この天体の異なる宇宙に更に異なる空間が存在しています。その異なる空間に当然それぞれの時間があり、つまりその空間の時空ということです。異なる時間が存在しているその空間は、異なる時空と呼ばれています。これは表面から認識した概念です。
弟子:大法が社会で広まることは即ち、宇宙の法理のこの世での再現だと理解していいでしょうか?
師:正しいのですが、完全に正確な言い方ではありません。これほど大きな法理はこの世で再現されるのではなく、天地開闢以来なかったことであり、宇宙の中でも天地開闢以来、初めてのことです。
弟子:アメリカ人は煉功を学び始めたばかりの時、煉功の音楽テープに英語の同時通訳もあればと思っています。
師:翻訳のことは今進められています。煉功テープの中に翻訳された指令を入れるのは、良くないと思います。例えば、「佛」という言葉は、西洋人は今まで全くその意味を知りませんでした。今はみな知っています。つまり、翻訳できないものがあります。しかし、煉功テープの中の解釈は翻訳してもいいのです。「結印」、「合十」を訳してしまうと、意味が伝わらず、もともとの意味を失ってしまいます。ですから、これらの言葉を翻訳してはいけません。
弟子:自分の心から魔が生じた修煉者を、どのように助けることができるでしょうか?
師:まずこういう学習者は良い学習者ではないと私は思います。なぜなら、修煉が良くできている学習者に決してこういうことはありません。大法に対する磐石のような堅い心は、魔に妨害されるどころか、魔が彼を見たら恐れてしまうのです。(拍手) 魔が彼を妨害しに来れば、即ち卵をもって石とぶつかることと同じであり、全く近づくことができません。ですから、やはり彼自身の考えに問題があり、特に外来のものが彼の考えの中の執着を利用して、虚像をもって妨害しています。きっと彼は以前のものをまだ放棄しておらず、彼から原因を探せばいいのです。彼がそういうものを求めなければ、そういうものは絶対近づいて来る勇気はありません。宇宙の以前の生命も現在既に正された全ての生命もみな見ています。心が正しくないので邪なものを招いてしまったのです。心が正しければ、誰も近づいて来る勇気はありません。本当にやって来たら、神々はそれを許しません。こういう学習者の問題をどのように改めるのでしょうか? 本人に分かってもらい、心を放下して法を多く学ぶしかありません。いったん心から魔が生じたら、自ら悟ることは既に難しいのです。他人に説得されればされるほど、ますます自分が正しいと思い、考えを改めたくありません。それでは、何の方法もなく、好きなようにさせればいいのです。誰も彼と関わりを持たず、居場所を与えず、この人が存在していないかのようにすればいいのです。本人が面白く思わなくなったら、冷静になるかもしれません。しかし、法を深刻に破壊した人は、永遠に再び法を得る機会を手にすることができません。しかも、将来自ら犯した罪を償わなければなりません。これは彼自身の原因で引き起こされたことであり、彼に対して慈悲深くないということではなく、私はこの方面に関する法を幾度となく説きました。
弟子:自分が絶えず関にぶつかっているとはっきり分かっていますが、身体に特別な変化が起きたと一度も感じませんでした。
師:多くの学習者は多くの苦を嘗め、確かに他の人より大きな代価を払い、多くの苦を嘗めました。ここに二つの原因があります。一つは、以前造った業力があまりに大きく、または大きな悪事を働いたからです。今生でこれらのことを知らないといって、償わなければ、それではいけません。皆さんが大法を修めたので、私は皆さんを見守ります。更に、皆さんが修煉して向上し、圓満成就できるようにしなければなりません。しかし、皆さんが以前こういうことをしたということを皆さんに教えてはいけないので、なぜこういうことがあったのか、ああいうことがあったのかと皆さんは私に聞いていますが、(もちろん質問を出している学習者のことを言っているのではなく、例をあげてこのことを言っているだけです)、どうしたらいいでしょうか? あなたが苦を嘗め、苦しんでいるのを見て、私もあなたを心配しています。しかし、相対的に言えば、消してあげたものは既に相当大きかったのです。師父が他の空間で消してあげたもの、あなたの代わりに受け持ったものは既に相当大きかったのです。これ以上滅してはならず、それは許されないことです。どうしたらいいでしょうか? 苦を多く嘗めるしかありません。
もう一つの情況ですが、どうしても自分のことに執着して放そうとしない人がいます。どうしても執着を放さず、深く隠し、ひいてはそれに気付いても放そうとしません。その執着に触れるとすぐ逃げてしまい、考えようとしません。あなたは執着を放棄しようとしませんが、修煉もしたいと思っています。私はあなたが良い素材で修煉できると見て、あなたに悟らせるのです。あなたがいつもその状態にいるので、難が大きくなります。どうしたらいいでしょうか? 他に方法はありません。これが一つの情況です。つまり、人為的に自分が自分に造った関です。
また、修煉の中で身体の変化はみな同じように顕著に現れるとは限らず、あまり感じない人もいます。どれほどの変化があっても感じない人がいます。こういう人がいます。言い換えれば、ミクロ的なところで天地をひっくり返すほど大きな変化があっても、あなたの表面の身体は後天的要素によって敏感でなくなり、麻痺してしまったため、全く感じ取ることができません。こういう情況もあります。しかし、表面の身体がいくら悪くなっても、感じ取られなくても、あなたの修煉に影響することはありません。進み具合も他の人より劣ることはありません。最後に圓満成就する時、表面にある阻む力は何ものでもなく、功がやってきて一瞬の間に全てが終わってしまいます。しかし、それがあるため、あなたはどうしても敏感にならないかもしれません。
弟子:師父は変異した社会と変異した人類についてお話されましたが、弟子に更に詳しく説いていただけないでしょうか?
師:ご存知のように、東洋人にしても西洋人にしても、古代の人間は、彼らの考え、人間としての行為および社会の存在方式は現在と全く違っていました。神もそれが人間の生活だと思っています。しかし、中に発展の過程もありました。ご存知のように、中国は多くの王朝を経てきており、服飾に変化があり、各王朝はそれぞれの服飾も違っていましたが、彼らの人間としての観念、人間としての考え、社会で携わっていた全てのことは本当の人間の生活です。現在の場合、社会が非常に発達しているように見えますが、全て現在の科学によってもたらされたものです。
なぜ神は人類の変異を許しているのでしょうか? このことを話すととても大きな問題と絡んでしまうので、私は話したくありません。しかし、簡単に概括的に話してもいいのです。つまり、この宇宙に一つの旧い勢力があります。この旧い勢力は魔ではありませんが、長い歳月の中で法からずれてしまった後に生じた生命であり、宇宙が悪くなったとは全く分かっていません。この類の生命は自らの全てを守るために、生命が法を得ることと法を正すことを妨害するために、極めて悪い勢力を形成しました。彼らは魔ではありませんが、魔も及ばないことをしています。彼らは建前では人のためですが、本当のところ破壊しています。
表面では神の形象をしていますが、善の生命ではありません。この勢力は今日私がこの大法を伝える中でひどい妨害の作用を働いています。私の功がいったん彼らに及んだら、それらは何ものでもなくなります。それらが分かるようになった時、自分が徹底的に消滅されていることに気付くのです。それらは法によって正され根絶される結末から逃れることができません。このことはつまりこういう過程です。このことを話すと、多くのことを話さなければならず、大きな問題と関わってしまいます。つまり、この旧い勢力は既に相当長く存在しているため、生命が法からずれていることと、宇宙に変化があったことを信じようとしません。
私が行なっているこのことは上の次元から下の次元までみな知っているため、最も次元の高い神たちは協力しようと思って、一連の系統的な按排を行ない、このようにすることは私にとって最も良いことだと思っています。異なる次元から下まで貫いてきて、全てこのような按排があります。しかし、彼らの基準と按排は私が法を正すことにとって障碍になっていることを、彼らは思いもよらなかったのです。ひいては、古から今日までの人類社会で、彼らは今日の人類がどのように法を得るかを按排しており、人間の身体と考えを利用して宇宙人の智慧を残そうと思っています。これは最も低い次元で、私が法を正し人を済度することにもたらした厄介なことであり、私が行なうことを難しくしています。ですから、彼らは私が法を正すことを助けようと思ってこのことを行ないましたが、実はみな妨害の作用をしています。しかし、人類に対する最大の破壊は、人間が法を得ることを妨害していることです。特に、この科学が神を信じておらず、伝統の、本当の人間としての考えと行為を否定しています。これらのことは人間が法を得ることの大きな妨害となっています。宇宙人は神ではないので、神がこのように按排したことも知らないのです。ただ神はコントロールして扉を開け、宇宙人を人類社会に入れただけです。これで宇宙人の思う壺になったのです。宇宙人は以前から人体を欲しがっていたのです。やりたい放題やっても、誰にも言われることはありません。宇宙人は手を尽くして人体を得て、人類のこのところを占拠しようと思っています。ですから、話し出すと、とても複雑なことになります。先ほど簡単に話しただけで、大きな問題に関わってしまいました。これは変異した社会と今日のような人類の状態がなぜ現れたかの原因です。
「今いくら弟子がいても、師父は将来数人の弟子だけを圓満成就させるのだ」と言っている学習者がいます。私は幾つかの地区でこのことを聞きました。これは大法を深刻に破壊しているのです。それでは、私は今日なぜここで法を説く必要があるのでしょうか? 幾人かを個別に呼んで来て教えればいいでしょう。衆生を普く済度する必要がまだあるでしょうか? しかし、これを信じてしまった学習者がいます。そういう学習者は法をどのように学んだのでしょうか? これが一つの問題です。また、「先生は学習者の身体に憑いて話すことによって、他の人を悟らせ、他の人に何かを教えている」と言っている学習者がいます。これは決してあり得ないことです。私はよく他人の口を借りて、あなたの家族の口、或いは任意に誰かの口を借りてあなたを指摘し、悟らせています。誰かの身体に憑くなんて、誰がそんなに偉いのですか? こういうことは全くありません。このことを言っている人に問題があります。きっと彼に問題があります。これは憑き物がやっていることです。
弟子:常人に法を広める時、まず『轉法輪』を三回読むように要求しています。その後、学びたければ、動作を教えるようにしています。
師:そこまで絶対的にしないでください。大法に入ろうとする人にこのような、またあのような要素があるので、煉功を教えて、徐々に認識してもらってもいいのです。または、本を渡して、いいと思って学びたくなれば、それでもいいのです。絶対的なことはありません。このことを規範化しないでください。本を一回読んでいいと思い、一日でも早く煉功したい人に、「だめ、もっと読みなさい」と言ったら、それではいけません。
弟子:「新しく来た人は先に本を読んではならず、まず考える、悟る、想う必要がある」と言っている学習者がいます。
師:悟りにしても、考えにしても、思考にしても、法を得ていない情況下で、彼に何かを考えさせたり、悟れと言ったりしても何も悟ることができません。そうでしょう? 本を多く読み多く読むべきです。修煉の過程で現れた状態に正しく対処することができれば、これは即ち正しい悟りです。悟りとは何でしょうか? これを悟るのです。これが即ち正しい悟りです。考えるとか思考するとか言っていますが、何を考えるのでしょうか? 現れてきた全ての考えを皆さんは本当に検視しなければなりません。どれが自分の考えであり、どれが良くない考えなのか考えなければなりません。良くない考えをそのまま続けさせてはいけません。また、わざわざ何かを考える必要もありません。皆さんは大法を認識する時、次のような過程があります。つまり、本を読んだらすぐ素晴らしいと思いました。なぜこのように感じたのでしょうか? あなたは理智、思考、常人社会での実践があるので、法が素晴らしいと感じたのです。読めばすぐこのように感じますが、しかし、これはあくまでも感性からの認識です。絶えず本を読むことを通じて、ますますこの法の価値が分かるようになり、これで理性まで昇華したことになります。これ以外に、何を考えるのですか? もしあなたが今日学んだこの部分の法が正しいかどうか、この部分で説いたことが理にかなっているかどうかと思うならば、あなたの悟りがずれてしまうことになります。このようにするのは絶対に間違っています。
弟子:法を広めるのが不十分なので、今でも科学技術界の高いレベルの人の中に本当の修煉者がまだ多くいません。私たちはどのように行なうべきでしょうか?
師:どんな部門、社会階層かを気にする必要はありません。大法が伝えられ、人心を見ているのであって、個人に関する問題であり、団体とは関係ありません。たとえ権力のある人が、みなに大法を学ばせ、学ばなければならないと言ったとしましょう。しかし、誰が本心から学びたいのでしょうか? 強制的な手段で来させても、命令または面子を気にして来たのであり、大法を得るために来たのではありません。本人が本心から学びたいと思ってやって来たのでなければなりません。ですから、どんなに高い官職についていても、どんなに大きな権力や勢力があっても、私たちはその人の心のみを見ています。誰も他の人を代表することはできません。一部の部門に勤めている人が法を得たら、大法の広がりと大法が科学的であると証明することにおいて、有利であるかもしれません。皆さんにこの考えがあることに私は反対しません。大法を守り、大法の仕事をしようとするのは、とても良いことです。しかし、往々にして皆さんが思っているようなことではありません。本人が法を得たいかどうかがとても大事であり、本人が法を得たいと思わなければなりません。得たくないのであれば、それではいけません。しかし、誰がいなくても、大法は困ることはありません。「われわれの煉功点は学習者に何かをするようにと言えないのです。何かを言うと、学習者は修煉をやめて帰ってしまいます」と言って心配している学習者がいます。これは大法に対する理解がまだ浅いという情況であれば、こういうことがあってもいいのです。もししばらく大法を学んで、やはりこういう状態であれば、帰ってしまったら帰ったで、引き止める必要はありません。私たちがほしいのは修煉する人であり、心から修煉しない人や上辺だけの人は要りません。百人中九十九人が帰ってしまい、残りの一人が本心から修煉する者であれば、これは即ちあなたの成果です。一人だけが済度されても素晴らしいことです。しかし、このようにはなりません。なんと言っても、今日これほど多くの人が大法を修煉しています。
弟子:関を乗り越える時、悟ったと感じ、心がすぐに楽になりましたが、しばらく経つと、また同じ関がやってきます。
師:先ほど、「周天を通す状態は以前あったのですが、なぜまた現れたのでしょうか?」と私に聞いた学習者がいます。皆さんに教えますが、皆さんが修煉の中で最大限に常人社会の状態に符合することができるように、修煉してできたその部分はミクロのところから隔離されました。まだできていないこの部分に同じ問題が存在しているかもしれず、このように修煉を続け、できたらその部分をまた隔離します。例えば、あなたの各次元の身体に機制があり、多くの次元の身体にも良くない考えがあるかもしれません。つまり、ある良くない考えは最も表面の浅いもの、もしくはよりミクロ的な物質で構成されているかもしれず、一部の悪い考えはミクロから表面まで存在しているかもしれません。この次元で基準に達したら、この次元にある悪い考えを取り除き、隔離されますが、次の次元に更に存在しており、繰り返し、修煉の中で取り除かれるべきものを消去しなければなりません。
「修煉がよくできて、しばらく状態が良かったのに、なぜ今良くない考えが出てきたのか?」と言っている人がいます。修煉してできたその部分は既に隔離され、まだできていないその部分は続けて修煉しなければなりませんが、ますます弱くなります。時に出てきた考えは非常に悪いのですが、私はこの情況を知っています。皆さん心配しないでください。物質がミクロであればあるほど、そのエネルギーがますます強くなります。つまり、その力が大きければ大きいほど、働く悪い作用も大きくなり、人間を左右することができます。それに対し、最も表面において、物質が表面にあればあるほど、エネルギーが小さいのです。エネルギーが小さければ小さいほど、能力はありません。しかし、エネルギーが小さければ小さいほど、表面にあればあるほど、より悪いのです。悪ければ悪いほど、次元が低ければ低いほど、エネルギーを持っていません。つまりこういう関係です。ですから、多くの良くないものを消滅し、既にかなり弱くなりましたが、その現れは更に悪くなっているかもしれません。これらのことを心配しないでください。あなたは既にここまで修煉したので、考えの中に良くない考えがあればすぐに気付くようになります。これは初期においてなかなかできなかったことです。悪い考えは徐々に一層一層、取り除かれています。しかし、皆さんが分かっていなければならないことは、「なるほど、そういうことだ。悪い考えが現れたら、好きにさせればいいのだ」と思ってはいけません。自らを律し、悪い考えを排斥しなければ、修煉していないことになります。つまりそういう関係です。それをわきまえて、制約し、自らを修めようとし、良くない考えを抑制することができれば、あなたはつまり修煉しており、絶えず悪い考えを消滅し、消滅して、基準に達した部分がますます多くなります。全て基準に達したら、圓満成就になります。つまり、こういう過程です。
弟子:北米の弟子は多くの機会を利用してアメリカ人に法を広めていますが、本当に法を得ているアメリカ人はまだ少ないのです。
師:宇宙の中の旧い勢力は自分なりに按排をしました。それらの按排は今日私が行なおうとすることをひどく妨害しています。
それらの誰もが私がどこから来たのか知りません。以前私は皆さんにある道理を話したことがあります。例えば神の場合、どの位置にいても、自分より次元の高い神がいることを知りません。しかも、神の存在は人間の存在と同じではありません。今日皆さんに教えますが、天の上に更に天があると私は言いましたが、道理から皆さんはそれを信じています。しかし、皆さんの考えは神の考えと違っています。皆さんは法の中からこれを認識したのであって、神には何でも見え、何でも明らかになっているため、天の上に更に天があると言ったら、神は信じようとしません。本当に信じません。それは彼の果位と次元によって決められたことであり、彼の智慧が実証し悟ったことでもあります。彼より下の次元、または同等の次元のことに対しては一目瞭然であり、思うままに事を行なうことができます。彼より下の生命にとっては彼が絶対的に偉大なのです。それらの次元で現れた私の形象およびその現れ方がそれらには見えますが、それらより高い次元での私の存在形式を見ることができないため、それらなりの作用を働く勇気があるのです。
それらは私も自分たちと同じだと思っています。「私はこのように按排しており、あなたの役に立っている」と思っています。しかし、私にしなければならない更に高い次元のことがあるとそれらは知らないのです。各次元でそれらはこのようにしており、この次元もあの次元もみな同じように考えています。ですから、それらは幾重にも重なった妨害を按排しました。法を広めることについて言えば、当初私は法を正す過程で二億人に法を得てもらおうと考えていました。全世界に七十億の人がいるので、二億という数字はとても小さいのではありませんか? しかし、それらは一億人に制限し、それらの変異したものを固守して放しません。私がある次元の按排を破ったら、更にそれより上の次元の按排があります。私が一つの次元一つの次元というようにそれを破ってから、それらの一連の按排に制限されなくなります。ですから、それらの按排は私が法を正すことに非常に大きな妨害となっています。
弟子:多くの人は修煉の原動力を探して、家に帰るといった考えを持つようにしています。無為で修煉したほうがもっといいのではありませんか?
師:一種の自信や原動力、またはどこかへ行きたいという考えを持ち、修煉の促進力とするのは原則的に間違っていません。しかし、やはり漏れがあると私は思います。なぜなら、あなたはやはり何かのために修めています。もちろん、修煉して戻りたいとか、何かの状態に達したいとかの考えですが、目標またはある正念を定めたら、これ以上考えないほうがいいのです。この考えがあれば、ひたすら修煉すればいいのであって、他のことに構う必要はありません。いつもそれを原動力として考え、それによって促進されたいと思っていれば、ある次元になると、皆さんに対する要求が更に厳しくなり、その時、それが原動力ではなくなり、一種の執着になると思います。しかし、初期において問題はありません。如来佛が慈悲を唱えていると私は言いましたが、ある次元の相当高い神から見れば、何が慈悲なのか、慈悲とは何か分からなくなりました。分からないのではなく、何でも分かっています。この慈悲が執着だと彼は思っています。理は昇華するものであり、法も絶えず昇華しているのです。異なる次元の生命に対して、異なる次元の境地の要求があります。
弟子:毎回法会に参加する時、大きく促進されていると感じますが、家に帰ってしばらくすると、精進できなくなると気付きます。
師:昨日も学習者とこのことについて話しており、皆さんにも同じ感じがあります。大法の環境で師父の話を聞くと、みな確かに精進しなければならないと分かっています。しかし、なんといっても皆さんは常人社会で修煉しており、接触した全ては常人の中の利益であり、いかなることもあなたの利益に関わっています。自分の利益のために生きているという雰囲気が、この社会全体から滲み出ています。この環境の中で無意識のうちに、皆さんはこの全てが当たり前だと思い、精進できなくなります。これはあなたが精進できなくなる重要な原因の一つです。しかし、逆から言えば、この環境が人々を緩め、悪くさせ、複雑で修煉し難いため、この中から抜け出すことができれば、それこそ偉大であり、それほど高い次元に行き、元に戻ることができ、素晴らしいと言われるのです。そうではありませんか? ですから、私たちはいかなる環境下でも、今日のこの環境においても、自らを絶えず精進させたければ、本を多く読み、本を多く読むべきです。
弟子:ミクロであればあるほど、次元が高く、異なる次元の天はミクロのほうに向かって進んでいると先生は昨日おっしゃいました。
師:あなたが想像しているような上と下はありません。地球は丸いので下のほうも上です。地球はもともと丸いので、人間が逆さまになったり、また戻ってきたりして、人間の上下の観念はありません。四方八方はみな上です。私が言った上へ向かって進むということは、実はミクロに向かって進むと理解してもいいのです。正確に言えば、天に上ると言うのはミクロの中に向かっていくということです。
弟子:先生は『轉法輪』の中で光年を用いて時間を言い表されていますが、物理学で光年は距離を指しています。
師:私は天体を説く時、時空概念の距離を用いて必要な時間を説きました。同じ次元の中で距離をこのように言い表すことができます。マクロからミクロまでの距離の概念は、空間と時間の違いによって変化しています。つまり、人類に空間の距離と時間を統一させる不変の概念や言葉はありません。私は全ての時間の制約を破り、行なっており、これは私の方法です。しかし、いかなる生命もその環境にいればその環境の時間に制約されてしまいます。ですから、天体の構造を説く時、距離の概念は時間と速度を分けてはいけません。同じ境地に存在している異なる世界、または同じ次元にある異なる粒子に対して、距離で量ることができるのは、それらが同じ次元において統一した時間と距離を有しているからです。ミクロからマクロまで通り抜ける過程の中で、統一した時間と距離はありません。宇宙の中の全てはみな大法が衆生のために切り開いたものであり、中に異なる次元の衆生の文化も含まれています。法を正す中で、正しくないものを正すだけでなく、今まで足りていなかった人類の新しい文化をも切り開いています。私は既にはっきり説いたと思います。(拍手)
弟子:情の関を乗り越えるたびに、どうしても捨てがたいと感じています。私は最も本質的なことを変えたくない人間でしょうか?
師:情を自分の理性またはあなたの身体の一部と思ってしまえば、それは間違いです。しかし、そこまでまだ達していないのに、どうしても意識的に放棄しようとすれば、無理強いして行なうことになります。絶えず修煉し、本を読み、煉功する過程で徐々に本当に法から法を認識するようになります。自らに対して高く要求し、できるだけ良くない考えを抑制し、執着しているものをできるだけ淡泊に見て、排斥すればいいのです。一秒でも基準に達すれば、その部分は既に基準に達したのです。このように絶えず絶えず表面に向かって突破していきます。最後まで全て突破し終え、最後の次元を突破した時、全く当初の考え、考え方ではなくなると気付くのです。あなたの思惟方式までも元と違ってきます。それは本当のあなたであり、本当の本性です。現在放下できない考えの一切はみな後天的に形成された観念であり、その観念があなたを邪魔しています。
この観念以外、人間のこの空間の中にある特定の環境があり、即ち情です。三界の中の全てはみな情にどっぷり浸かっています。あなたは情を離れることができず、あなたはこの中にいます。実は皆さんがすべきことは、どのように情から離れるかです。私は明確に言っていますが、修煉して時間がまだ浅い人にはできないことです。古い学習者が圓満成就するまで完全にやり遂げるのも難しいことです。修煉の中で自分に厳しく要求し、良くないものを取り除くべきです。大法の修煉の中で、全てを変えることができます。絶えず本を読み、普段できるだけ煉功者らしく自らに要求すれば、あなたに全ての変化をもたらすことができます。なぜなら、大法はあなたを熔かし煉っているからです。
弟子:ある地区は月に一回大規模な交流会を開くことを計画しており、今既に三回開催しました。私は多いと感じました。
師:確かに多いのです。そこまで頻繁に開かないでください。このような大規模な法会は年に一回または二回で十分です。多すぎると、皆さんの修煉に影響してしまいます。なぜなら、修煉は最も重要なことだからです。皆さんの法会は、人々に法を得させるためであり、皆さんが本当に向上し、修煉に対する気持ちを固めることができるようにするため行なうのです。しかし、形式的なものになってはいけません。
弟子:「私はもともと二億人に決めていた」と師父は昨日おっしゃいましたが、私たちが法を広めれば、二億人が法を得ることになるでしょうか?
師:法を妨害する全てのものは既に最終的に片付けられています。しかし、人間のために用意した修煉の時間は既に多く失い、二度と取り戻すことができません。更に一億人が来たら、彼らはきっと皆さんと同じではありません。皆さんに追いつき、皆さんについて行くことができません。しかし、それでは法を広めることをやめてしまうのでしょうか? 行ない続けなければなりません。人類に次にしなければならないことがあり、まだ多くの人が修煉しておらず、学んでいません。法を知らない人に法を知ってもらうようにすべきです。
弟子:遠いところに法を広めに行ったら、師父が弟子のために按排した修煉のプロセスを妨害してしまうのではないかと心配しています。
師:こういうことはありません。遠いところに法を知っている人がいなければ、法を広めにいくのは間違いではありません。そのため修煉に支障をきたすこともありません。法を広めることをしながら、自分で絶えず法を読み煉功する、このこと自体が修煉です。
弟子:「私」が貫いている次元はどこまででしょうか? 私たちはどのようにこの次元を突破することができるでしょうか?
師:生命が法からずれてしまい、高次元から落ちて来たのは、私心があったからです。人類に私心があるのは、人間の考えが後天的に形成した多くの良くない観念によってもたらされたのです。実はそれは思想の汚染です。更に高い次元の神は更に純潔で神聖なのです。あってはならないものを持つようになったら、その神は純潔でなくなるということです。あなたが考えているような次元の概念と形式はありません。
弟子:私たちが自分の本来の生命が生じたところに戻るだけでなく、更に高い次元に行くことも可能であると先生はおっしゃいました。
師:そういう人がいるかもしれませんが、本当に難しいのです。しかし、修煉し続ければ、法を得た人も含めて、私は一人も取り残したくありません。(拍手) 私は必ず方法を考えて、あなたをあなたが元々生じたところに戻します。(拍手) 更に次元の高いところに行くことに至っては、それはあなた次第です。中に特殊、極めて特殊な人もいます。実は、皆さんは人間の考えで考えています。あなたの生命の中で、最も重要なことはあなたの元々のところに戻ることであり、これはあなたの最大の願いであり、最も美しい願望です。生命は自分がいる位置の高さが重要でなく、得るべきことを得ることができれば、それで十分であり、幸せに思うのです。しかし、人間の言葉で話すと、低俗に聞こえます。人間は限りない欲望で全てを探索していますが、この心はよくありません。神にはそういう心はありません。衆生にとって、宇宙は果てしなく、その果てを見ることができません。ですから、更に高い次元のことを知りたいという心は、限りなく恐ろしいものであり、それではいけません。
今までの修煉の中で確かに非常に高い次元まで修煉した人がいますが、かなり多くの苦を嘗めました! 皆さんに例を挙げましょう。私がこのことを行なっている時、全力を尽くして絶えずミクロ的なところへ突破し、法を正しています。私は下から上へ向かって行なっています。このようにして、私はどこまでたどり着いたでしょうか? 人体のあるところをはるかに超えたところです。そこの全てが物質であり、物質の形で存在している生命が充満しています。
宇宙の大変動という特殊な歴史の時期に、数人の神はその次元まで巻き上げられ、下りて来られなくなり、そこに留まってしまいました。彼らはとてもつまらなく感じており、一心に元のところに下りようとしていました。皆さんが想像しているように、次元が高ければよいということではありません。私はそこまで進めた時、彼らを元のところに戻すと、彼らはとても喜んでいました。(拍手) 不思議に聞こえる話ですが、今ここに座っているのは人間の姿かたちを備えている李洪志です。皆さんに教えたのは法理であり、皆さんに話したことは全て本当にあることです。しかし、全ての能力は常人の空間に現れていません。私はそのような能力で皆さんを同化させ、昇華させる必要はなく、皆さんが大法の法理で全てを圓満成就させることができます。
弟子:『轉法輪』を読むたびに、一つの殻から抜け出ることができると聞いていますが、本当ですか? (学習者が笑って)
師:皆さん笑わないでください。大法に確かにこの威力があると思います。『轉法輪』を読み終えた一回目の時に体得したことは、二回目の時に繰り返されることはありません。ですから、皆さんに多く読み、多く読むようにと教えました。更に高い理を悟ったのは、その境地に入ったからです。その境地に達することができなければ、その次元の理を分からせてはなりません。
弟子:法を読む回数と圓満成就に到達する次元は関係があるでしょうか?
師:法を多く読めば、あなたの圓満成就の進み具合を促進することができます。圓満成就できるかどうかは、あなたの修煉とその他の面にも関わっています。実はこのように本を読むことができれば、何でも正しく行なうことができると私に分かっています。
弟子:同じ根基を持つ二人の社会階層が違っていれば、圓満成就する時、同じ次元に達することができるでしょうか?
師:修煉は人類社会の階層などを見ておらず、貧乏人か、金持ちか、地位の高い人か、低い人かを区別することなく平等に扱っています。もし同じ次元から来た人であれば、少しの違いもなく、きっと同じです。もし同じ一門の人でなければ、それも問題ありません。特殊な貢献をした人は、あなたの修煉の進み具合を大きく前進させることができます。(拍手) しかし、近道を探して、帰ったら良いことをたくさんするとか、こういう面に力を入れないでください。下手をすると逆効果になってしまいます。皆さんがしたいようにできることではありません。
弟子:ごく少数の輔導員は大法の要求と一致していないため、交代を求める学習者がいますが、どのように対処すべきでしょうか?
師:もしこの人が法を破壊したら、必ず交代しなければなりません。交代しなくても、学習者の誰もが彼と一緒にいたくなくなると思います。自然に彼は輔導員ではなくなります。もし大法を破壊したのでなく、ただ仕事のやり方に問題があれば、善意から彼の間違っているところを教えればいいのです。彼は自分の問題を認識できるかもしれず、できないかもしれません。しかし、彼も修煉者であり、最後に認識するようになると思いますが、一つの過程があるかもしれません。一方では、この過程の中で私たちは彼の間違いに過剰に執着し、気になって仕方がないのではありませんか? もしそうであれば、あなたはそれに執着していることになり、外に向けて探すことになってしまいました。彼の間違いがなぜあなたの目に留まったのか考えてみたらどうでしょうか? 彼の間違いに対して、あなたはなぜそれほど気がすまないのでしょうか? 中にあなた自身の間違いもあるかもしれず、なぜこのことを重く見たのでしょうか? いかなる面で問題にぶつかった時でも、自らを修め、自分自身をみるべきです。
もしこの輔導員の修煉が本当に良くできていれば、問題を指摘されたら本当に自らをみるはずです。もし問題を指摘されて、自分自身をみなければ、私に言わせると、この輔導員の法の勉強は良くできておらず、大いに改善すべきです。(拍手) 皆さんはみな修煉の中におり、誰かに合わせるのではなく、自分の執着と放下できないものをみな持っています。あなたが正しいかもしれませんが、そうでないかもしれません。あなたが間違っていれば、相手の正しいところを間違っていると見なしてしまうかもしれず、あなたは正しいのに、自分は正しくないと思い、相手の間違いを正しいと見なしてしまうかもしれません。
皆さんは修煉者なので、先ほど私が言ったことを聞いてみな拍手していますが、私は法を得た弟子をできるだけ一人も取り残さないようにしています。私までこのようにできるのに、皆さんはなぜ善意をもって全ての人に対処できないのでしょうか?(拍手) トラブルに遭ったら、「私に問題があるのではないか?」とみな自分の内心に向かって探すことができれば、どんなこともやりやすくなります。修煉は飛ぶように速くなります。しかし、私は皆さんにこのように教えるしかありません。実際の修煉の過程で、自分が間違っていると知りながらも、なかなか乗り越えられないことがあります。ですから、できるだけ正しく行ない、精進するようにと教えるしかありません。トラブルは免れがたいものであり、トラブルがなければ向上もありません。輔導員と学習者がみな良く行ない、この環境で誰にもトラブルがなければ、誰が喜ぶのでしょうか? 魔が喜びます。私は喜びません。なぜなら、皆さんは修煉の環境を失い、向上することができず、元に戻るという目的を達成できなくなるからです。ですから、皆さんはトラブルが良くないと思わないでください。
人間が苦を嘗めることは悪いことではないと私はいつも言っています。トラブルに遭うことも苦だと思わなかったのでしょうか?(拍手) ですから、この間、アメリカの大法弟子にこのようなことがたくさんありました。もちろん、中国大陸の学習者が法を早く得て、速く認識したので、この過程は既に過ぎましたが、皆さんはそうではありません。今から良くなると思います。特に最近は随分良くなっています。古い学習者の法に対する認識も高まり、何かを行なう時も、今までのような偏ったやり方をしていません。これは非常に良いことです。今からますます良くなると思います。なぜなら、皆さんが成熟しつつあり、法に対する認識がますます高まっているからです。
「先生、足を組む時に痛くないので、焦っています。私の難がなくなったから修煉が遅くなったのでしょうか?」と言っている人がいます。他の人がここまで認識したのに、あなたはなぜトラブルがやってきた時に、「私を向上させる機会がやってきた」と嬉しく思わないのでしょうか? 人はトラブルに遭ったら押し出し、お互いに押し合います。ですから、皆さんはトラブルがない時は焦らず、とても良いと思いますが、トラブルがきたら、かえって良くないと思っています。トラブル自体は苦しく修めることの一部です。「私はもう歳だから、社会と接触していない」と言っている人がいます。歳であっても、あなたを圓満成就させるため、あなたの気分を損なった昔の出来事を思い出させるのです。思い出すだけで怒ってしまい、腹が立って仕方がありませんが、しばらく経つと、「私は修煉者だから、このように怒ってはいけない」と我に返るのです。この心はこのように取り除かれます。いずれにせよ、良い気分のままでいようとすれば、向上することができないので、あなたを良い気分にさせません。(拍手)
トラブルの中にいて、はじめて人心を取り除くことができ、自分のどこが間違っているか知るようになります。他の人との間にトラブルが起きたら、きっとあなたの執着心が出てきたからです。非常に明らかです。その一瞬の間に現れた執着心に気付かず、まだ他の人と対峙し、自分の理が正しいと言い争っていれば、自分が正しいと執着しているこの過程は、つまり執着が強く表れている過程です。更に、深く自分の心を見ていき、何が動機なのか探すことができれば、この心の根を見付けることができます。(拍手) ですから、修煉は皆さんが自ら進んで修めなければならず、いつも私の法身に悟らせてもらいたいと思ってはいけません。法身は決してどのように行なうべきかを直接あなたに教えることはありません。
ご存知のように、先ほど私が法を正す時に絶えずミクロなところへ突破していると言いましたが、なぜこのことができるのでしょうか? 私は全ての異なる次元の主たる部分を全て私のところで掴まえているからです。(拍手) ですから、それらは逃れることができません。しかし、ある問題が生じています。つまり、それらが消滅される過程で、塵埃のようなものになり、下へ落ちた時(良くないものだから消滅しているのです。魔よりも悪いのです。他でもなく悪いものなので消滅され、瀕死状態の時でも悪事を働こうとしています)、もっぱら北京のあたりに落ちてきています。
ご存知のように、人々が北京の天気を心配しています。北京はどうなったのでしょうか? このごろ、雲のように見えますが雲ではなく、霧のように見えますが霧でもありません。空中に漂っている物質は顆粒が大きく、肉眼でも見えます。それは車の排気ガスだと言って、すぐ排気ガスの対策を講じました。これは車と関係ないと思います。車から排出されたのは一酸化炭素、二酸化炭素であって、空中で漂っているのは主に窒素化合物です。アメリカには非常に多くの車があり、水のように道路を流れていますが、数十年経ってもここまで汚染されていません。ですから、これは車の問題ではありません。工業の汚染とも言われていますが、発展途上国の工業汚染は相当深刻なものですが、ここまで至っていません。特に北京に汚染源となる工業はそれほどありません。石炭を燃やしているからと言っていますが、今みなスチームを使っており、煙突も非常に少ないのです。しかし、以前ストーブを使っていた時、各家に煙突がありましたが、その時もこの程度まで汚染されませんでした。こういう汚染ではないと言っても、人間は当然それを信じず、人間に教える必要もありません。人間には言いたいように言わせておけばいいのです。
実はミクロにおいて消滅された空間に存在していた非常に良くない物質が、絶えず落ちてきているからです。飛行機に乗って、空港から飛び立ち、五百メートルの高さを過ぎた後、青い空は非常にきれいです。見下ろすと、下は蓋に覆われているようです。それはどこから来たものか、なぜいつまでも散らないのでしょうか? 実はそれはミクロなところから来たもので、その由来を究明することができません。それは表面分子の粒子より小さい粒子の次元から来たもので、その由来を究明することができません。最後にそれは窒素化合物だと分かりました。(化学を専門にする人ならみな知っていますが)窒素化合物は有機物の粉塵であり、火葬炉から出てきた煙と同じものです。実はそれはミクロ的な良くない生命を消滅したことによって引き起こされたのです。
弟子:先生は一九九六年、九七年に「再び人類を造る」、「変異」、「時間との対話」をお書きになったのですが、なぜ一九九八年になって発表されたのでしょうか?
師:皆さんに読ませるその発表時間に理由があるのです。問題が現れた時、私は文章を書きましたが、問題が多く見られるようになった時、それを発表したのです。(拍手)
弟子:先生が説かれた宇宙の構造が大きくなるにつれ、私の視野と心も拡大されつつあると感じました。先生がこのように説かれる目的は・・・・・・?
師:あなた自身が全て話したではありませんか。実は私はあなたの容量を拡大しており、皆さんの全ても共に拡大、増長されます。天体が宇宙の中で一粒の塵埃にすぎないと言いましたが、私が皆さんに説いた皆さんの理解できるもの、それより数億、数兆倍も大きい天体も宇宙の一粒の塵埃です。私以外、誰も宇宙の最終について知らないのです。(拍手) しかもこの宇宙の中は相当膨大かつ複雑で、人間の考えはそれを収めることができず、このような言葉もないので、私は皆さんにそれを言い表すことができません。実は私は皆さんにいろいろ説きましたが、一つの体系から離れていません。地球が一つの粒子であるように、皆さんに教えますが、地球のような粒子は宇宙天体の全てにあまねく分布しています。空気中のこの大きさの分子で空気の分子を構成しているように、全てにあまねく分布しています。その天体はどれほど大きいでしょうか?! 私が皆さんに説いたのは一つの体系から説いたことであり、その複雑さを言い表す言葉はなく、描くこともできません。その構造は無数兆の立体的に交差している面をもっても表現することができません。ですから、皆さんにはっきり説明することは難しいのです。(拍手) しかし、皆さんが『轉法輪』の中で、ある一定の次元まで修煉したら、自ら思想の中でそれを会得することができ、その膨大さを会得することができますが、言い表すことはできません。(拍手)
弟子:情はなぜこれほど捨てがたいのでしょうか?
師:皆さんに教えますが、人間のこの外殻は情の中で生まれ、生まれつき情の中にいます。あなたの外殻を構成している身体の細胞は、この情の環境の中で生まれたのです。それから離れることができれば、あなたは人間でなくなり、神になります。情に対する人間の執着は、実は受動的なものですが、人間はそれを主動的なものだと思っています。
弟子:同性愛は罪ですが、私は苦痛と絶望に陥りました。私は真・善・忍を信じていますが、私に修煉の資格があるでしょうか?
師:現在の間違った考えに導かれ、誤った宣伝の影響と環境の侵食により、人間は多くの間違いを起こす可能性があります。しかし、あなたは救いようがないということではありません。あなたは大法を学び、それらの正しくない考えと行為を改めることができます。私が言ったように、なぜ同性愛があるのでしょうか? 実は人間は受動的に情に執着しています。それに執着している時、それはあなたの考えに各種の執着を生じさせ、各種の観念ひいては変異した観念がもたらされます。あなたは突然ある人のある動作または姿が好きになり、時間が経てばあなたは執着してこれらのことを好むようになります。または、あなたはある人の態度、表れが好きになり、時間が長くなると、観念が形成され、他でもなく相手のこの表れを気に入ってしまいます。徐々にこのものがますます強くなり、あなたの考えを左右してしまいます。あなたは何かが好きになり、それは一種の観念として形成された時、ますます強くなります。心の状態が変異していれば、その変異した考えは拡大され、ますます変異してしまいます。ですから、同性愛は情の中の一種の変異したものであり、実はこれも一種の観念によって形成されたのです。ただそれが変異しただけなのです。
しかし、人間はこの時、これらのものを自分だと思っています。実は後天の正しくない認識が形成したものが逆にあなたを主宰しているのに、あなたはそれが自分の考えだと思っています。人間は自分の観念が自分ではないと一度も思ったことがなく、自分が形成したそれらの思想業力にも気付くことができません。思想業力から反映されたいかなる念についても、これが自分であるかどうかよく考えたことがありません。実は頭に反映してきた念は必ずしもあなたであるとは限りません。しかし、これらの正しくない考えは正され得ないということではありません。大法を学んでいるため、つまり人々に正しい道を教え、更に良く行なうようにしています。大法の中で何でも正されると思います。問題ありません。法を学ぶことができます。しかし、あなたは自分に対して真に責任を負わなければならず、特にその考えを排斥すべきです。その考えはあなたを害しており、人間の行為でない行為をあなたにさせ、あなたを地獄に引っ張っています。心が変異した人間はこれが自分だと思っています。同性を好きになるという観念が現れたら、それが自分ではなく、あなたに害を加えに来ているのだと覚えてください。しかし、あなたは長期にわたり受動的にそれに従っており、従ってみたらとても良いと感じ、そして同性愛者になりました。その考えを必ず正さなければなりません。
弟子:私は今年五十歳ですが、学習者に十六、七歳ぐらいに見られます。これは他の空間の私なのか、それとも修煉している私でしょうか?
師:このことについて私は説いたことがあります。ここに座っている皆さんは何歳であっても、それは皆さんの本質的な年齢、本当の年齢ではありません。これは人間のこの時間、環境の中で現れた年齢です。あなたは今年六、七十歳かもしれませんが、元神はまだ七、八歳かもしれません。既に四、五十歳ですが、元神がまだ十七、八歳かもしれません。しかし、修煉を通じて、あなたの人間という表面も含めて、みな最も良い状態、最も若い状態へ転化します。これは間違いないことです。
弟子:私は西洋人でプロのマジシャンです。超能力を使わなくてもマジックはできると思います。あなたが言っていることは本当だと思いますが、心の中で矛盾を感じています。
師:マジックはテクニックであり、手の動きが速いのが決め手で、或いは道具の補助を借りてできます。マジックを決して功能と一緒にしてはいけません。しかし、テクニックに熟練した人には、功能と似ている状態が生じるのです。例えば、帽子を投げては受け取るというマジックですが、こちらから投げて向こうで受け取り、速く投げられていますが、手の動きはそれほど速いようには見えません。しかし、受けることができます。時間が長くなると、功能のようなものが生じ、時間の差を調整することができます。ですから、こういう作用を発揮することができます。
ご存知のように、緩やかな太極拳はどのように実戦に使われるのでしょうか? 緩やかなように見えますが、その功能は時間を調整することができます。それはこの空間の時間を使わないので、人間の目ではゆっくりしているように見えますが、実は非常に速いのです。あなたがいくら速く拳を打っても、彼の速さには及ばず、彼は緩やかに動いていますが、先にあなたに打撃を与えてしまいます。太極拳は心を修める法が伝わらなかったため、現在の人は太極拳が神妙である理由を知る術はありません。ご存知のように、これは時間の差異、空間の差異です。この差は相当大きいのです。東洋人なら、神足通という神話の物語を聞いたことがあります。おじいさんがゆっくり歩いているのを見ましたが、馬に乗っても追いつけません。つまり、同じ空間で動いていません。マジシャンはテクニックが非常に熟練した時、このような功能を少し持つようになります。しかし、マジシャン自身はこれに気付いていません。彼ら自身もこれを知らず、技術だと思っています。熟練すれば巧みになるという言葉も、こういう意味かもしれません。しかし、功能の働きはマジックが真似できるものではありません。
弟子:大法の本を翻訳、校正する時、自分の人間の観念、人間のものが入らないようにするには、どのようにしたらいいでしょうか?
師:中国大陸で、昔英語に訳し始めた時、いつも議論していました。なぜ議論するのでしょうか? いつも他の人の訳が良くないと思い、相手も彼の訳が良くないと思っています。二人は同じ境地と次元ではなく、悟ったものを口で言い表すことができないので、相手が正しくないと思ったのです。彼がいったんそれを言い出したら、自分自身もそれが間違っていると感じ、相手もそう感じるのです。なぜでしょうか? 高次元の理は心で会得するしかなく、言葉で言い表すことができません。私は随分前から既に言いましたが、つまり、あなたが『轉法輪』の訳本に高次元の理を書き出したいのであれば、それは絶対許されないことであり、書き出すこともできません。高次元の理は人間に示してはならず、この世で現れてはいけないからです。あなたの修煉の過程でそれをみることしかできません。修煉者には分かりますが、他の人には分かりません。つまりこういう道理です。ですから、本を翻訳する際、文字の最も表面の言葉の意味を訳せばいいのです。表面の言葉の意味を正しく訳し、背後の内涵を私が加えれば、自然に法になり、作用するようになります。翻訳は他でもなくこういうことです。
皆さんは往々にして、あなたが間違っており、私が正しいと言って議論してしまいますが、実は自分の意見を言ってしまうと、自分の言ったことも正しくないと気付くのです。つまり、心で会得するしかなく、言葉で表現することができないということです。高次元で悟った理を人間の言葉で表現してはなりません。ですから、翻訳したければ、表面のその言葉を正しく翻訳すればいいのです。できるだけ正確な言葉を見付けて訳せばいいのです。このようにすれば、個人の観念が入りにくいのです。
弟子:私は何回か明るくて白い法輪が見えました。真ん中は赤の卍符です。私はずれてしまったのでしょうか?
師:違います。あなたに見えたその色はあなたの天目によるものです。ずれてはいません。この法輪は宇宙の縮図であり、宇宙の中で幾つかの色があり、変化しているのです。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、有色、無色など多くの色があり、一種類だけではありません。この色が鮮やかなので大法のマークにしました。卍符の金色と太極の色以外、他の色はみな変化するのです。しかも、他の空間に存在する物質の色の構成は、人類のこの空間の色のように分子で構成されたものではありません。他の空間の色は更にきめ細かい物質粒子によって構成されています。ですからその光彩はきめ細かく非常にきれいに見えます。
この二日間の法会を通じて、特に昨日の午後の学習者の発表を聞いて、多くの学習者はとても深い感銘を受けました。法会は皆さんの修煉において自分との差に気付く機会と、修煉の信念を固める機会を提供しました。ですから、今回の法会で得たもの、認識したものを今後の修煉の中に反映させ、真に自らを速く向上させ、速く精進することこそ、最も肝心なことです。
法会を開くこと自体が目的ではなく、皆さんがどのように速く向上することができるかどうかが目的です。皆さんの法に対する認識がますます高まったと私に分かっており、多くのことは説く必要もありません。今日解答したこれらの質問を含めて、多くのことは皆さんに分かっているのです。
今回の法会は本来、米国西部地区の交流会ですが、結局世界的な法会になりました。どこから来た学習者であれ、今回の法会で得たことを今後に生かしましょう。少なくとも今回の法会を通じて何らかの向上があるべきであり、それで、はじめて遥々やって来たことが無駄にならないのです。(拍手)
弟子:各国と各地区から来た弟子はみな、自国と自分の地区の大法弟子を代表して師父にご挨拶を申し上げます。
師:皆さんありがとうございます。(拍手)
多く話したくありませんが、皆さんが絶えず精進し、認識が更に高まり、次元の突破が更に速くなり、一日でも速く圓満成就し、功を開き悟りを開くことを期待しています。(拍手)