李 洪 志
一九九九年六月二十六日 シカゴにて
皆さん、こんにちは!(拍手) またしばらく皆さんにお会いしませんでした。特に在席の中に新しい学習者がおり、このような法会は新しい学習者にとってなかなかない機会であり、彼らの向上にとってとても必要です。新しい学習者を促すこともできるので、今回の法会を開きました。今回のシカゴ法会の後、シカゴを中心にして、中部地区の学法を促進できるようにしたいのです。これはとても必要なことだと思います。同時にこの機会に皆さんに会ってみたいと思います。皆さんが最近の修煉の過程で、どのような向上と認識があったのか、皆さんの体験発表も聞いてみたいと思います。昨日、ある記者から一生の間に最も喜ばしいと思うことは何かと聞かれました。もちろん、私はこれまでずっとこのことを行なっており、常人のことに対して喜ばしく感じたことはありませんが、学習者が体験交流しているのを見たり聞いたりすることは、私にとって最も喜ばしいことです。(拍手) 学習者の一歩一歩の向上はみな容易いことではなく、多くの苦を嘗めました。利益を重んじる現実社会の中で、人間の情の中で、心を放下し、常人と同じようにトラブルに対処しないことなどは、口で言うほど簡単にできることではありません。実際には非常に難しいのです。世間のこれらの利益を前にして心が動ぜず、怨みの前に微笑みながら全てに対処し、更にトラブルの中で自分の原因を探さなければならず、これは常人にはできないことです。実は関を乗り越える時はとても苦しいのです。
ですから、皆さんの体験交流を読んだり聞いたりする時、皆さんが歩んだ全ての道は私に分かっています。皆さん一人一人の修煉過程はみな一冊の本が書けるほどです。中に皆さんに分かっていることもあれば、まだはっきり分からないこともあります。更に背後にあるその他の要素による原因もあります。皆さんが圓満成就したら、それぞれの修煉過程は、つまり自分自身の威徳を築き上げる過程であり、それを目にすることができます。その時になって、はじめてその生命の偉大さが分かるようになります。(拍手) 歴史上、どれほどの人が修煉して圓満成就したでしょうか? 僅かしかいませんでした。歴史から伝わってきた修煉者の物語や神話の中から皆さんは少し知っていますが、世の中にこれほど多くの人がいるのに、なぜ大部分の人が修煉することができず、より多くの人が圓満成就できないかの原因は他でもなく、人間は人間のことを放下することができないからです。人間はいつも人間の理をもって全てを量っており、中に現代人が科学の中で認識したこと、修煉界に現れた不思議な奇跡や宗教の中で信仰に対する人々の敬虔な心なども含まれていますが、人間はいつも人間の基準と境地をもって、後天に形成された習慣的な思考様式でこの全てを量っています。これでは永遠に量れるわけがありません。人間は利益の中でますます現実的になり、どうしても人間のことを放下できないので、歴史上修煉して圓満成就した人はそれほどいませんでした。もちろん、今日私は宇宙の真法を皆さんに伝え、できないことはないという法の一面も現れ、更に現在確かに多くの人が真に修煉できるようになり、真に修煉して向上できるようになりました。それではじめてこれほど多くの大法弟子が現れ、多くの人が精進しており、未来に多くの人が圓満成就するのです。(拍手)
「なぜこれほど多くの人が学んでいるのですか?」といつも記者に聞かれます。彼らからみれば、とても不思議なのです。記者だけでなく、世の中の多くの人がその理由を探すという観念を抱きながら、大法の本を読んでいます。『轉法輪』を手にとっていても、まだ探しています。なぜこれほど多くの人が学ぶのか、本の中には一体何があるのでしょうか? いくら読んでも結局何も見つからなかったのです。(笑) 実はこの心自体が大きな障碍です。求めずとも自ずと得るので、人類社会のいかなることも努力と奮闘によって得ることができますが、常人を越えることだけが努力と奮闘によって手にすることはできません。これとちょうど反対に、何かを探すという執着を放棄して、はじめて法理を得ることができるのです。これは人類社会の認識と全く逆になっています。ですから、多くの人が人間の認識を抱きながら全てをみているので、永遠に分かりません。なぜこれほど多くの人が学びに来たのでしょうか? これほど多くの人に宇宙の法理がみえたからです。これだけです。それなら、なぜ多くの人に宇宙の法理がみえないのでしょうか。それは人間の悟性の問題です。人間の観念と執着をもって全てを量っている人がいるのに対し、いかなる観念をも抱いていない人がいます。このような人には法がみえ、法の本質がみえるのです。(拍手) ひいては、後天に形成された考えをどうしても放棄できない人がおり、このような人は、そのような観念をもって全てをみるように大法をみています。何かをみるとき、すぐ常人の中で形成された観念をもって量りますが、彼の観念自体は正しいでしょうか? 間違っているでしょうか? 真理でしょうか? 真剣に考えようとしません。これが多くの人が法を得られなかった原因の一つでもあります。しばらくの修煉を通じて、多くの学習者は確かに大幅に向上しました。古い学習者は特にそうです。みな法に則って法を認識し、常人と違った修煉者の境地と現れを真に表すことができ、本当に素晴らしいのです。
「なぜこれほど長く修煉したのに、常人の良くない多くの考えがやはりいつも現れ、ひいては非常に良くない考えまであるのか」と、いつもこのように聞いてくる学習者がいます。このことについて私は既に皆さんに幾度となく説きました。修煉者が本当に人間の執着心を取り除くことは非常に難しいのです。しかし、執着がまだあることは修煉が良くできていないということではありません。自分自身に執着があると感じたこと自体が修煉して向上した後の現れです。実は修煉者に現れた執着は既に少なくなった後の現れです。時に現れた考えは非常に良くありません。確かにそれは非常に良くないものです。それは修煉していなかった常人の時に形成されたものです。常人はそういう状態なので、それが良くないと気づかないのです。修煉が絶えず向上するにつれ、ますます少なくなります。しかし、いくら少なくなっても、完全に取り除かれるまで、現れたものはやはりそれほど良くありません。ですから、何年修煉しても、やはり良くない執着心があることに気づく学習者がいますが、これが原因です。
以前の修煉者は執着心を本当に取り除いたのではなく、良くない心と考えを抑え、または抑制しただけです。大法を修煉している弟子だけが真に全ての執着を取り除いています。大法だけがこれをやり遂げることができるのです。
修煉者の執着心や良くない考えがますます少なく、執着心と良くない考えがその現れにおいてもますます弱くなったため、修煉者と常人の現れとの差も大きくなりました。修煉者の心性の高さが功の高さです。あなたは修煉者なので、修煉の中で執着心と良くない考えが少なくなったので、問題を見る時、常人とは違ってきます。あなたの思想境地が上がったため、あなたの功も伸びてきました。思想境地が上がらなければ、功も伸びません。功が高く神通も備わる者が得道したあと悪事をしないように、徳を重んじることを強調するという、人間が思っているようなことではありません。それではまるで、徳を重んじないことは修煉者本人にとっても構わないことのようです。そうではありません! 徳を重んじなければ、全く向上することができません。私は物質と精神が同一のものであると話しました。宇宙の全ての物質はみな真・善・忍という宇宙の法理によって造られています。全ての物質、全ての生命要素もみな真・善・忍という特性で成されているため、この特性に符合しなければ、向上できません。精神は物質と同一なのです。今日は多くを話したくありません。法会は一日しかないので、多くの人が発表しなければなりません。やはり慣例のように、午前中皆さんが発表し、時間が足りなかったら午後続けて発表してください。残った時間に私は皆さんが修煉の中で遭った問題に解答します。皆さんは質問を書いたメモを提出していいのです。今はここまでにしましょう。(拍手)
午前中と午後の数時間の間に学習者は体験を発表し、とても素晴らしく語りました。しかも、法に対して高いレベルまで認識した学習者がおり、これは非常に素晴らしいことです。つまり、法会は目的に達しました。学習者がお互いに体験を語り合い、交流し合うことによって、もっと多くの人が自分の修煉の足りないところと互いの差に気づくことができました。他の人の修煉を見て、自分がどのように追いつくかを考えるようになっています。実際にこのような作用を果たさなければなりません。個人の修煉を形式的なものにしてはならず、本当に学習者を向上させる作用がなければなりません。この法会は成功裏に行なわれたと思います。それでは、午後の時間を使って皆さんの質問に答えます。
弟子:多くの人が私と同じように分からないのですが、煉功の時、第二式と第五式以外の功法を可能であれば何回しても構いませんか? 例えば九回しても大丈夫ですか?
師:問題はないと思います。特殊な情況で、時間があれば多くしても大丈夫ですが、時間がなければ、少なくてもいいのです。しかし通常、今要求されている回数に従って行なうべきで、これでほぼ皆さんの修煉を保障できます。特に皆さんが一緒に煉功する時、統一しなければなりません。もちろん、時間があり、更に多く行なえば、もっといいのです。大法の今日の修煉は常人社会で行なわれており、修煉は常人社会の形式と結び付けなければならないので、煉功を多くするように要求すれば、仕事や勉学に影響してしまう可能性があり、この関係を正しく扱うことができなくなります。皆さんの修煉の目的を達成させるため、私はこの点について既に十分考慮し、要求されている回数通りにすれば、目的に達することができます。しかし、多く行なっても問題ありません。どうしても忙しい時は煉功を少なくして、いつか機会があればそれを補えばいいと私は言いました。煉功は自分の時間に応じて調整してもいいのですが、心性の向上と法の学習をいい加減にしてはなりません。時間がなくても、時間を作って本を読まなければなりません。このことに対して気を付けるべきです。
弟子:言い換えれば、五式の功法はそれぞれ何回すればいいでしょうか?
師:本の中の要求に従えば十分です。時間があれば多くしても大丈夫です。テープの時間と同じようにすれば、要求に達しています。
弟子:先生がカナダの法会で、子供に対する母親の愛が修煉者の執着になってはいけないとおっしゃいました。ありがとうございました。私はその母親です。今息子に『法輪功』を買って与えました。
師:母親は子供を可愛がるものであり、母性愛はこの世になくてはならないものです。しかし、修煉者として、この愛を更に高尚で広義なものにすべきであり、更に多くの人が慈悲を感じられるようにすべきです。全ての子供が大法弟子の慈悲を感じられるようにし、この心を全ての人に対して慈悲深いものにまで拡大すべきです。これは更に素晴らしいことです。同時に修煉の中で皆さんはあることに気を付けるべきです。大法弟子は常人の中で修煉しており、家庭や親族友人との関係を正しく扱うべきです。善をもって接し、慈悲でなければなりません。人為的に誰に対しても冷たく振る舞ってはなりません。これは正しくありません。修煉者が本当に情に対する執着を放下した時と、皆さんが無理矢理にそうする時とは全く違います。ですから、向上は漸進の過程で現れた異なる状態です。修煉の過程で、子供を可愛がり、年寄りを思いやるのは間違っておらず、修煉者としても間違っていません。大事なのは執着しすぎてはいけないことです。修煉者には執着だけはあってはいけません。いかなる縄で縛られても、あなたはここから離れることができません。
弟子:この美しい地球は今人類の暴力と工業汚染にひどく破壊されています。(一)この脆弱で敏感な地球はいつまで続くでしょうか?
師:今、私はこれらのことに触れないほうがいいと思います。私が真実を話しても、人間はすぐにはそれを信じることができません。修煉者は地球がいつまで続くかについて関心を持つ必要はありません。地球の持続時間はあなた個人の修煉と関係ないからです。あなたは常人を超え、完全に常人を超えた状態にならなければなりません。返本帰真と修煉の中で、あなたは既に少しずつ常人の状態から離れています。いかなる天災人災もあなたと関係ありません。ですから、このことを気にしないほうがいいのです。
弟子:(二)法輪大法の修煉者として、私の慈悲は地球および各種の生物にまで及ぶべきでしょうか?
師:修煉者の慈悲は広義なものです。私たちは全ての衆生に対して慈悲を持つべきです。なぜなら、全ての衆生が苦の中で生きているからです。しかし、人間と同じように動物に対処してはいけません。なぜかと言うと、皆さんにある真実を教えますが、地球の繁栄は人類のために造られたのです。全ての生物は、植物や動物を含めて、みな人間のために存在しているのです。ですから、決してそれらを人間と混同してはいけません。他の生物に対する慈悲と愛護は、決して人間に対する思いやりを超えてはなりません。全ての衆生が苦しんでいるのを見て、それらに対して慈悲を持ってもいいのですが、決して同等に対処してはいけません。
弟子:地球は疾病、火山などの自然災害の手段を通じて自らを守ることがあるでしょうか?
師:地球上の全ては偶然に存在するものではなく、起きた全ても偶然ではありません。全てに原因があります。しかし、あなたが認識しているようなことではなく、神がこの次元の法理と生命を守っています。自然災害と疾病は人為的な原因によって引き起こされたのであり、つまり人類の業力が重くなったからです。人間の心が非常に悪くなった時、土地が瘠せてしまい、水が不足し、自然災害が多くなり、火山の噴火や地震などが起こるのです。この全ては人間のために造られたので、人間が良くなれば全てが良くなり、悪くなれば、全てが悪くなります。
弟子:人類はどうすれば地球上でより良い住民になることができるでしょうか?
師:道徳を高めることです。人類がもし道徳を最も良い状態に昇華させることができれば、自然災害や人類を脅かす各種の疾病、戦争はきっと減少します。もし道徳が昇華できなければ、全てが起こり得るのです。実は全てが駄目になったのは人間の心が駄目になったからです。先ほど皆さんにお話しましたが、この地球は人類のために造成されたので、人間が駄目になればそれと連動して全てが駄目になります。
弟子:私は何回も他の人や自分の身に起きた奇妙なことを見たり聞いたりしました。以前にも起きたことがありましたが、詳細を思い出すことができません。今、見たり聞いたりしたことは、以前にも確実にあったと分かっていますが、再度同じことが起きるまで、以前のことは詳しく覚えていません。これはなぜでしょうか?
師:これは一種の感知功能であり、以前または未来のことを感じ取ったのです。宇宙の構造に異なる時間と空間が存在しています。この問題は『法輪功』と『轉法輪』の中で既に言及しました。また、私たちのこの空間の全ては、みな分子によって構成されており、空気や鉄、このマイク、人間の身体や目などもそうであるため、人間に見えたのは分子で構成された世界です。しかし、分子は宇宙の中の唯一の粒子ではなく、分子は更にミクロ的な粒子によって構成されています。分子は私たち人間に見えたこの人類の生存環境を構成することができます。人類に見える分子粒子より小さい粒子で構成された世界は、人間の目で見ることができなくなります。人間はそのような目、つまりそれほどミクロの粒子によって構成された目を備えて、はじめてその次元を見ることができます。修煉者は修煉の中で更にミクロ的な目が開かれたため、見えるのです。実はミクロの粒子も、更にミクロ的な粒子によって構成されています。ですから、各層の粒子に目の存在形式があります。修煉者はその目を使えるようにし、人間のこの空間と繋がれば、あなたに他の空間が見えるのです。これは他の角度から天目についてお話しました。
弟子:私はトロント法会で発表した後、多くの人から発表の原稿がほしいと言われました。西洋人に法を広める時に使えると言っていますが、私は自分の原稿を配ってもいいでしょうか?
師:法を広めるために使うという目的であれば大丈夫です。配っても大丈夫です。しかし、使った後、それを学習したり回してみなで読んだりしないでください。法に影響しないようにしてください。組織的に配ってはいけません。特殊な情況下で法を広める時、必要があれば配っても、それは別のことになります。
弟子:多くの地区から李先生への真摯な挨拶が寄せられました。数が多いので、以下のように整理しました。中国大陸の遼寧省葫芦島市、威海、瀋陽、広州、昆明、鄭州、重慶、寧波、盤錦、保定、十堰、南京、ハルビン、天津、遼寧省営口市、平頂山、広東中山、秦皇島、石家荘、北京、煙台、湘潭からの挨拶で、皆さんはとても師父にお会いしたいと思っています。また、いくら大きな妨害や試練に遭っても、大法を固く修める彼らの決意と気持ちを揺るがすことができず、必ず合格できる答案用紙を師父に提出しますので、師父ご安心くださいということです。(拍手) 米国ワシントン地区、ミシガン州、ヒューストン、フロリダ、カリフォルニア州オークランド、シカゴ、シンガポール、カナダ、トロント、インドネシアの弟子は師父に最高の敬意を表したいと思います。
師:ありがとうございます。(拍手)
弟子:彼らは大法を確固として修め、圓満成就にいたるまで勇猛邁進すると言っています。
師:学習者の現れは非常に素晴らしいのです。これほど大法を認識できたのは、修煉の中で大法に対する深い理解と修煉そのものに対する深い認識があったからです。そのため、このようにすることができました。
弟子:師父にお伺いしますが、イエスが十字架に磔にされた時、彼の弟子は何をしていたのでしょうか? 師父にお願いしますが、大法弟子はこのようなことが現れるのを決して許さないと世の人々と天上にお伝えください。
師:(熱烈な拍手) ありがとうございます! 修煉者は常人の考えに動かされず、皆さんは修煉者です。大法と師父に対する気持ちに感謝します。皆さんの気持ちは師父に分かっています。
弟子:弟子が業を滅している時、自分が苦しければ苦しいほど、師父のために辛くなります。師父はまたどれくらい耐えられたのでしょうか?
師:師父のこと、これらのことを考えすぎないようにしてください。
弟子:ある脳梗塞の患者のために、師父は茶碗いっぱいの毒薬を飲まれましたが、ガン患者や死期を宣告された人、一億人以上の弟子のために、師父はどれくらい受け持ってくださったのでしょうか?
師:皆さんに教えますが、在席の皆さんは修煉者なので、師父の情況をいくらか感じ取ることができます。実は私のことは安易に話してはいけないのです。しかも、常人社会で話してはいけないと、ますます感じました。人間はこれらのことをますます受け入れられなくなり、分かる術もありません。将来皆さんが全てを知り、あなたが圓満成就さえできれば、自分自身の偉大さと師父が皆さんに対して申し訳がたっているということに気づくのです。(拍手)
弟子:大法の国内での情勢を私は理解できます。全ての国内の修煉弟子にとってこれは圓満成就に向かっていくための大きな試練です。しかし、海外の弟子は依然として圧力のない情況下で心地よく修煉しています。私たちはどのように圓満成就するのでしょうか?
師:このように物事をみてはいけません。大法弟子は一つの全体を成しています。海外には海外の情況があります。皆さん考えてみてください。生活が困難な学習者も大法を確固として修めており、食事に困っても大法を放棄しません。中国からアメリカに来ている学習者の多くはレストランで働いたり、ひいては非常に過酷な仕事をしたりしてやっと今日まで至ったのです。時に大きな試練に直面し、ひいてはあなたの前途や将来に影響していますが、それでも心が動じなければ、もう十分です。誰でも同じ問題に遭遇しなければならないということはありません。実は私が思うには、この大きな難は学習者に対してやってきたのではなく、大法全体に対してやってきたのです。このような困難を前にし、正しく歩むことができれば、これは極めて重要なのです。法の偉大さは修煉者の偉大さを表すことができます。なぜなら、大法がこの世で表した金剛不破は大法の全ての構成員、一人一人が極めて重要だからです。多くの魔難の中、皆さんは乗り越えて来たと思います。大法は試練を受けたことがあります。(拍手)
弟子:中国に帰って陳情した学習者がいます。
師:これらのことは個人でしないでください。実は、中国政府は私たちの情況が十分分かっていると思います。これらの人はみな良い人だと分かっています。これからどのように私たちに対処するか、私と皆さんも見ています。こういうことです。
弟子:大法の仕事をしている弟子の一部は非常に忙しく、法の学習や煉功の時間も少なく、心もなかなか静かになりませんが、この情況にどのように対処すべきでしょうか?
師:いくら忙しくても、大法の仕事をしていても、法の学習を第一にすべきです。このようにするしかありません。学習者にとって、それぞれ自分の仕事、家庭、社会でのことがあり、更に法を学び煉功もしなければなりませんが、確かに非常に難しいのです。難しいから、覚者に向かっていく道のりで、威徳を築き上げているのかもしれません。もう一つのことですが、ほぼ全ての大法弟子は当時法を容易く得たのではありません。誰かが扉を遮ってあなたが入って来ないようにしていると言っているのではありません。多くの場合は、心性の試練に現れており、あなたの心がどのように動くかを見ています。法を得るかどうかの問題に対して、あなたの心がどのように動くか、どのように対処するか見ています。乗り越えることのできる人がいます。以前の多くの学習者はみな知っていますが、私が中国で講習会を開いた時、講習会を開けば、百メートルも離れていないところで、必ずある偽気功師も講習会を開いていました。邪悪は人に正法を得てほしくありません。人間を試すなどと言って、あなたがどの門に入るか見ています。往々にしてこういう状況です。釈迦牟尼が当時法を伝えた時、ご存知のように多くの邪な法門が邪魔をしていました。このような邪魔の中であなたがどの門に入るか見るしかありません。自分自身で選択するしかありません。老子が法を伝えた時、諸子百家の各種の学説が現れましたが、どの門に入るか自分で決めるしかありません。いかなる時期においても、正法が伝えられていれば、必ずそういうことが現れます。普通の修煉に対してはこのように按排してもいいのですが、今日の法を正すことに対してこのように按排したら、法を正すことを破壊することになり、決して認めてはならず、徹底的に否定すべきです。
弟子:国内の弟子が書いた多くの公開状を西洋の中国語の新聞に掲載すべきだと思いますが、一方、書いた内容が高く、政治性が強すぎると言っている学習者もいます。どのように対処すべきでしょうか?
師:これらのことは各地の責任者が判断してください。政治に参与しないでください。他の人が私たちにこのように対処していますが、私たちは同じように相手に対処してはいけません。いかなる状況下でも、政治に参与しません。
弟子:ミクロ的な粒子からマクロ的な粒子までの構造からみれば、人体の分子は最小でもなく、最大でもありません。人類社会が法の最も低い次元での現れであるという法理をどのように理解すべきでしょうか?
師:これはとても簡単なことです。この宇宙の中心は最大の粒子によって構成されているはずがありません。最大の粒子であれば、宇宙の外殻になってしまいます。ですから、宇宙の中心はちょうど大きい粒子と小さい粒子の間にある中間粒子によって構成されており、最もミクロ的な粒子と宇宙全体の外殻にある最大の粒子の中間にあります。ですから、全ての粒子の中間に位置しており、それで、はじめて宇宙の中心位置になります。人体もこの次元の粒子によって構成されています。
弟子:大量の時間を使って、ネットで佛教の居士と各自の見解について議論し、彼らの質問に答えている弟子がいます。このやり方を通じて彼らに法を得てほしいと思っています。こういうやり方は有効でしょうか?
師:これは別に問題ないと思います。しかし、気を付けるべきことは、くれぐれも相手と議論しないでください。佛は縁のある人を済度しており、本人が法を得たくなければ、仕方がありません。法理を相手に教えるしかありません。せいぜい善を勧めるだけです。相手と議論しないでください。彼らに罵られても相手と同じようにしないでください。彼らも人間だからです。出家者が正法を得なければ、ただの常人なのです。
弟子:佛教の居士に法を得てもらうために、本を読み煉功する時間も少なくなりました。これは魔や業力に妨害されたのでしょうか?
師:それでは、割が合わないかもしれません。人に法を得てもらうことはいいことです。もし煉功も終わり、本も読み、少し休憩する時、ネットでこういうことをするのは大丈夫です。このことのために皆さんの修煉が影響されたら、割に合わなくなります。それなら、このようにしないでください。
弟子:道家は主に「真」を修め、佛家は主に「善」を修めますが、「忍」を重点的に修める法門があるでしょうか?
師:苦を嘗めることは業を滅する作用があります。しかし、多くの苦を嘗めても、多くの業を滅することができるとは限りません。なぜなら、修煉しない人が業を滅したくても、多くの業を滅することはなかなか難しく、多くの苦に耐えられないからです。以前釈迦牟尼時代にもっぱら苦を修める人がおり、わざわざ苦を嘗めていたのです。このような人は昔からずっといます。寒い中、自分を寒くし、鞭で自分を引っぱたいたり、ナイフで自分を切りつけたりしています。このような修煉は小道または邪道と見なされています。正法を得て大道を歩まなければ、私が思うには、最終的に正果を得ることができません。ですから、いくら修めても三界を出るのはなかなか難しいのです。また、もう一種の執着になりやすいのです。つまり、ただ業を滅するために業を滅することになります。
弟子:弟子は大法を固く信じていますが、妻が常人でどうしても堕胎しようとしているので、私はとても困っているのですが?
師:現在複雑なことが本当に多いですね。そうしないようにと説得するしかありません。堕胎は人間にとって罪なのです。ご存知のように、いかなる物体も生じた途端に生命を持つようになるのです。工場で製造した機械や製品も同じです。あるものが生産され、製品になったら、他の空間で一つの霊体が注ぎ込まれます。ですから、どんなものも生き物です。妊娠中の赤ちゃんははっきり言えば人間なのです。中絶したら殺生になり、人を殺すことになります。まだ生まれてはいませんが、堕胎はつまり殺人です。人間は赤ちゃんがお腹にいてまだ生まれていないので、中絶してもたいしたことはないと思っているかもしれませんが、これは現代の観念が変異した人間が思っていることです。神と常人を超えている全ての高級生命はこのように見ていません。ご存知のように、生命が転生する時、母体に入るのですが、母体に入ったら、その生命は世間での生命の輪廻に入ります。神は既に彼の未来を按排しました。しかし、生まれてもいないのに殺されたら、皆さん考えてみてください。この生命はどこに行くのでしょうか? 按排の通り、数十年後の臨終まで待たなければならず、人間なら七、八十年後に死んでから、やっと次の輪廻に入るのです。その時になって、はじめて彼を守る神が現れます。そんなに小さい命が殺されただけでなく、極めて苦痛な境地におかれ、しかも、まだそれほど幼い命なのです。あまりにもかわいそうです! そうではありませんか。
弟子:『轉法輪』の百十七ページに、「われわれが末法の時期に正法を伝えるのもこれが最後です」と書いてあります。師父にお伺いしたいのですが、歴史の未来にこれほど大きな法が伝えられることはもうないと理解してもいいでしょうか?
師:まず末法時期とは何かを説明しておきます。末法時期の意味を皆さんに教えます。社会の常人や記者は分かっていませんが、分かっているふりをしています。末法時期と聞けば、すぐ「大変だ、法輪功が世界の終末を言っている」と言うのです。彼には全くどういうことか分かっていません。末法時期という言葉は釈迦牟尼佛が言った言葉です。どういう意味でしょうか? 釈迦牟尼は「私が在世中とこの世を去ってからの五百年間、人々は私の法に従って修煉することができ、済度されます。五百年後、私が伝えたこの法は末法時期に入ります」と言いました。末法というのは法が最後の時期に入り、既に作用しなくなった時であり、この意味です。つまり、この法で人を済度することができなくなったということです。末法ですから、どのように人を済度するのでしょうか? つまり彼が伝えた法の最後の時期という意味であり、宇宙の劫難とは全く関係ありません。しかも、今は末法の末法時期です。釈迦牟尼がこの世を去ってから既に二千五百年も過ぎ、釈迦牟尼が言った五百年より四倍の時間が過ぎました。末法の末法までなくなりました。しかし、人間は佛に対してやはり尊敬の気持ちがあり、信仰しているので、まだ佛教の形式を維持していますが、圓満成就するのは既に難しいのです。未来に宇宙の大法が伝えられることは多分もうないと思います。私は二度と来ることはないかもしれません。
弟子:修煉の締め切りの直前に法を得た人には、圓満成就する機会があるでしょうか?
師:この話をするのは時期的にまだ早いのです。大法の今の修煉弟子は将来の修煉者と同じではありません。今は法を正しており、皆さんは法を正す中の最も低い次元で法を得た人で、同時にこの世で大法を圓容することに参与している一員でもあります。つまり、皆さんの今の修煉は法を正すことと関係しており、本当の偉大さはここにあります。この世で師父を手伝って法を実証することこそ、最も偉大なのです。ですから、皆さんは歴史上の他の修煉のように、なかなか法を得ることができないということはありません。しかも、将来心が動揺せず、大法の安定を維持することができ、これは非常に素晴らしいことです。あなた個人の心性だけを見るのではなく、同時に法に対しても貢献しました。これが最も偉大なところです。未来の人が修煉する時、こういう状況ではなく、その時の人はただの修煉者であり、ただの個人修煉です。もちろん、未来の人も私が伝えた大法に基づいて修煉するので、多くの人が済度されるのです。将来このようになり、これもある時期に限定されていることですが、更にその後、この法は人間に残されないことになります。この法を未来の人類の文化として残すことはできず、これは絶対してはいけないことです。
弟子:如来佛の天国は彼の玄関から演化されてできたものか、それとも彼自身が造ったものでしょうか?
師:如来とは何でしょうか? 如来そのものの意味は、如意の法理をもってこの世にやって来て、圓容不破の如意の真の法理をもってやって来たと言う意味です。このように翻訳すればいいのです。これは中国語ではなく、古代の梵語です。天上では如来を法王と呼んでいます。如来はみな自分の天国世界を持っているため、自分の天国世界を管理しなければなりません。如来は善をもって自分の世界を管理しており、慈悲をもって衆生を善に感化しています。人間の行政手段のようなものではなく、こういうことではありません。それでは、彼の世界はどのように生じたのでしょうか? 二通りの状況があります。一つは大部分の佛、道、神と衆生はそもそもその境地で生じた生命です。もう一つは、修煉の過程で彼の威徳と同時に出来上がったものです。具体的に言えば、初期の修煉の中で玄関の修煉方式で出来上がったその部分です。神佛の情況は人間の言葉で言うと、その素晴らしさを表現できず、修煉の過程でそれを玄関と呼んでいいのですが、偉大な佛が圓満成就し、彼の世界も同時に圓満成就することが既に現実になった時、このように言ってはいけません。それでは、不敬な言葉になります。彼の偉大な全ては既に、佛と佛の世界の荘厳さと偉大さの現れなのです。
弟子:師父がお書きになった「わたしの感想」を読んだ後、とても悲しく思っている学習者がおり、あのことが起こらないようにいろいろなところに手紙を出しています。
師:私を引き渡すということがデマだと中国政府は既に言いました。誰が作ったデマかにかかわらず、デマだと既に言ったら、つまりこのことはもうないということです。このことがなくなっても、きっと出所のあることです。これは中国政府を代表してやったことではなく、法輪功を利用して昇進したい下心のある人、法輪功を中国政府と対立させたい人がやったことかもしれません。
弟子:最近国内で起きた全てのことは、国内の弟子が圓満成就できるかどうかを試している以外、大法そのものを破壊しようとする要素も入っているのでしょうか?
師:これらのことに皆さんもう係らないでください。中国政府が既に二十七号指示文書を出した以上、過ぎたことは過ぎたことにしましょう。皆さんはみな修煉者であり、常人のことに執着していないのです。常人がしたことが正しくても、間違っていても、私たちは気にすることなく、何も起こらなかったように対処します。しかし、私たちにどのように対処するかに至っては、それは彼らのことであり、皆さんはただ修煉をすればいいのです。師父である私も観察しています。皆さんはそれらのことをこれ以上言わないでください。しかし、中国国内の学習者が修煉のため迫害されたら、私や海外の学習者はもちろん注目しなければなりません。これは確かなことです。
高次元空間から見れば、旧勢力が低次元空間の良くない生命を利用して破壊しているということです。
弟子:あなたの敵を愛することができなければ圓満成就することができないと先生はおっしゃいましたが、私はどうしても先生や大法を攻撃する人を愛することができません。
師:(笑)「皆さんは修煉者ですが、私は違います。私は皆さんに法を伝える人です」と私が言ったのを皆さんは覚えていると思います。皆さん考えてみてください。宇宙の法理が宇宙の異なる次元の生命、異なる状態の生命のために彼らの生存環境を切り開き、異なる次元の生命を造成したのですが、人間が宇宙の法まで反対していれば、この生命は宇宙のどこに行くでしょうか? 宇宙に彼の位置はありません。このような人は法からはみ出るほど悪いので、悪人ではありませんか? 法理を破壊する人は皆さん個人の敵と永遠に同じにしてはいけません。自分の敵を愛すべきだとはどういう意味でしょうか? 皆さんはみな修煉しており、慈悲でなければならないからです。自分に優しい人だけに対して慈悲の心を持っており、そうでない人に対して慈悲の心を持たないということにとどまってはならず、それでは、常人の優しさとどこが違うでしょうか? 何の区別もありません。皆さんは修煉者なので、常人の境地を超えなければならず、常人の境地を超えるべきです。常人の次元はこのくらい低く、あなたの次元はこれほど高いのに、自分よりはるかに低い人を敵にすべきでしょうか? 相手を敵にした時、あなたも相手の次元まで低くなり、常人の次元まで低くなったのではありませんか? そうでしょう。ですから、神は人間を敵にしたことはなく、人間にそういう資格もありません。慈悲の角度から言っても、人間を敵にしてはいけません。
しかし、法と法を正すことを破壊するなら、それは全く違うことになります。知らない状況下で軽々しく同調することも駄目です。人間はいかなることをしても、責任を取らなければなりません。在席の全ての修煉者は歴史上したことに対して同じように償いました。人間は何をしても、それに対して責任を取らなければなりません。受動的にそうしたとか、でまかせで言ったとか、または圧力の前で言った、したとか、或いは邪悪に操られてしたとか言い、責任を取らなくてもいいと思っていますが、全く関係ありません。これらのことは言い訳になりません。
弟子:今になって、先生が最も慈悲深い方式で、この世で法を正されることがこれほど難しいとやっと感じたのです。上の次元で法を正す時、ここより、更に難しいのでしょうか? ご教示願います。
師:(笑)実は、上の次元にいる生命は人間のように多くの悪い考えを持っているのではなく、こういう生命に人間の考えはありません。しかし、自分の観念を固守することはあります。全ての生命は良い時期から腐敗堕落してきた時、自分自身が気づいていないのです。衆生はみな自分自身が堕落したことに気づいていません。衆生は自分を自分より劣っている生命と比べがちで、他の人よりましだと思っています。みなこのように量っています。実は自分を堕落してしまった人と比較しており、生命に対する宇宙の基準と比べているのではありません。神は人間の考えを持っていませんが、その境地の元々の基準に符合しなくなりました。法を正す中で、彼らは自分を守るため、一種の勢力と障碍を形成し、法を正すことを妨害し、ひいては法を正すことを破壊しています。宇宙の法理は変わらず、誰が何をしても自分で償わなければなりません。
弟子:先生と大法は私たちに多くのものをくださいましたが、私たちの払った代価はあまりにも少ないと痛感しました。特に大法や国内の弟子がこれほど厳しい試練を受けている時、私たちは確固として着実に修煉する以外に、何をすればいいでしょうか?
師:皆さんは精進して着実に修煉すればいいのです。皆さんの煉功を妨害する人さえいなければ、天上と地下の衆生はみな救われることになります。なぜなら、誰であっても、法を正すことを妨害すれば淘汰されるからです。実は大法弟子が求めるのは修煉のためだけのことで、多くのことを求めていません。私たちを理解できない一部の人に時間を与えて認識してもらえばいいのです。私たちを罵ったり攻撃したりしていますが、彼らと同じように対処せず、自分の修煉をすれば十分です。人間は何をしても、自分で責任を取らなければならず、これは間違いないことです。
弟子:大連の弟子は師父にご挨拶を申し上げます。
師:ありがとうございます。(拍手)
弟子:この間、一部の輔導員、ひいては分站の責任者まで家にある師父の写真や大法の本を隠してしまい、学習者にもこのようにさせ、法や大法の本を守るためと言っています。
師:このことをもう言わないでください。大法が傷つけられ、または損失を蒙っているのを見て、人間の方法でその場を凌ごうと思っていますが、間違いとは言えません。しかし、皆さんはできるだけ大法の本を守ってください。このようにしたほうがいいのです。もし恐れる心があり、そうしたのであれば、大法弟子の要求に合っていないことになります。
弟子:新疆庫爾勒の全ての大法弟子は師父にご挨拶を申し上げます!
師:ありがとうございます!
師:たくさんあるので、一緒に読み上げます。
弟子:牡丹江の弟子は師父にご挨拶を申し上げます。北京人定湖公園、大慶の数万人の弟子、南昌八一公園全ての弟子、北京航空部および第六設計院の弟子、台湾の学習者は師父にお会いしたいと思っています。テキサス州オースティンの全ての大法学習者、秦皇島の大法学習者、第一軍医大学の大法弟子、深センの弟子は尊敬する師父にご挨拶を申し上げます。
師:ありがとうございます! 本当に素晴らしいです! これらの弟子は本当に素晴らしいのです!
弟子:河北、山海関、朝陽、湖北の潜江、アメリカ中部の弟子は師父にご挨拶を申し上げます!
師:ありがとうございます!
弟子:数年も学び続けてきて、毎日学法していますが、現在の情勢が少しでも複雑になったら、どうすればいいか分からなくなります。他の人が言ったことは全て理にかなっているように聞こえますが、自分が法に基づいて物事を考えることができません。ひいては肝心な問題を避け、ただ機械的に忍んでおり、内心では自分を守り、過ちを犯さないように考えています。この執着はどのように取り除けばいいでしょうか?
師:これは別にたいした問題ではなく、ただ決心だけの問題です。最も良い方法は法を多く学ぶことだと思います。正念を固めれば執着は取り除きやすくなります。法をもって正誤を判断してください。実は法を多く学ぶこと自体は良くないものを取り除いているのです。
弟子:先生は『長春輔導員法会での説法』の七十七ページに、「いつも亡くなった人を模範人物としますが、生きている人を模範人物にはしません」と書いてありますが、ご教示願います。
師:つまり、以前はいつも死んだ人を模範として立てていたということです。生前これほど偉大だったと言って、死んでからその人を記念しています。生きている人を記念せず、生きている人に対してこうしてはいけません。なぜなら、生きている人はある日また過ちを犯すかもしれないので、いったん模範として立てたら、また否定するのはよくありません。ですから、いつも死んだ人を模範として立て、生きている人を模範にしません。これは人間のことです! 実はある人が素晴らしいと評価している時、この人の何もかもが全て素晴らしいと言う必要はありません。常人に過ちのないことがあり得るでしょうか? そうでなければ、誰かがどの面において素晴らしいという時も、心配する必要はありません。人間に間違いがあり、間違いをまた起こすことはあり得るのです。この面において人間の智慧は本当に限られています。
弟子:何かの活動をするかどうか決める時、輔導站の責任者或いは総輔導站の責任者の同意を得なければならないでしょうか? もしそうであれば、どのように彼らの悟りが正しいと保証できるでしょうか?
師:あなたのことは私に分かっています。人間はいつも人間の考えで修煉者を量ろうとしていますが、永遠に分かりません。今日はっきり言っておきますが、あなたが常人の観念で私や法輪大法の人々を量るのであれば、永遠に分からず、いくら研究しても納得いきません。中南海に行った学習者がなぜこれほど強い協調性、紀律があるのかと言っている人がいますが、学習者はみな心の中でこの言い方がおかしいと思っています。なぜなら、使った言葉がおかしいのです。今になっても常人社会は私たちを理解できず、まだこの言葉を使っています。彼らは永遠に修煉者を理解できないのです。私たちには命令する必要も動員する必要もありません。みな意識的にまた無意識的に、一人でいる時もみなと一緒にいる時も、非常に正しく行なっています。修煉者はどのように行なうべきか分かっています。修煉者は悪いことをしてはならず、良いことをすべきだと分かっています。どんな状況下でも良い人であるように自らを保たなければならないと分かっています。ご存知のように、中南海に行った人にはスローガンはありませんでした。なぜ誰もスローガンを言わないのか、なぜこれほど強い協調性があり、みな立ったまま動かないのか、兵隊でさえ訓練しないとここまでできないのにと思う人がいます。しかし、今日の人類社会の常人の誰もが、人類が腐敗した根本的な原因が人間の心、考えや道徳が腐敗したからだと分かっていません。もし人間の心が正しくなり、考えや道徳レベルが昇華できたら、まとめる必要もなく、何を行なっても正しく行なわなければならないと自身で分かるようになります。多くの人が知っているように、煉功が始まる前、おしゃべりをする人、歩いている人、何でもする人がいますが、音楽が流れると、みな一斉にそろって、呼びかける人や号令をかける人もいませんが、みなまっすぐに立ち、兵隊よりも整然としています。(拍手) 修煉者はどこにおいても正しく行なうべきだと分かっており、大法の中にいる時はなおさらです! これは常人には理解できないことです。学習者はそこから離れる時、警察官が吸ったタバコの吸いがらまで拾い、地面は非常にきれいで、紙くずもありませんでした。(拍手) 彼らはこれを見て、なんと厳しい紀律だろうと思っています。実はこれらの修煉者は本当に常人に理解され難くなりました。常人の考えと大法修煉者の考えとはあまりにもかけ離れています。彼らは常人であり、永遠に人間の利己的な考えで全てを見ているのです。人間の考えはまた非常に複雑で、政治、経済の仕事をする人もいれば、記者や警察官もいます。彼らは後天的に形成した異なる観念をもってこの世界や全ての物事をみるのです。しかし、修煉者は常人を超えているのです。彼らは常人の観念で修煉者を理解できず、はっきり認識することもできません。大法の学習者はどこにおいても正しく行なうのです。まさに一部の人から言われた通り、法輪功は全世界のいかなる政府や民族にとっても、百利あって一害なしです。(拍手)
弟子:天象の変化であれば、秦の始皇帝はいくら多くの人を殺しても業力がないのでしょうか?
師:違います。自分の人柄と関係している場合もあり、天象によってもたらされた場合もあります。秦の始皇帝が中国を統一することは歴史上必然的なことであり、天象によってもたらされたのです。政権の交代も同じであり、天上の神が既に次の一手の駒を指したので、そのようになったのです。しかし、この過程の中でどういう手段で世の人々に対処するか、それはその人の選択です。ですから、ある常人が権力と地位を持つようになった時、どのように人と接するのか、生活の過程でどのように行動するのかはその人自身のことです。自分の有利な条件を利用して多くの善いことをした人がいるかもしれませんが、このような人は来世福報を得ます。一生の間に報われきれない場合、来世更に福報を得ます。幾世においても高官になるかもしれません。いずれにせよ、あまりに多くの福があると、一生では享受しきれません。また、権力を利用して多くの悪事をした人もいるかもしれません。このような人は道徳レベルが高くなく、心が狭ければ、多くの悪事を働いてしまいます。悪事を多くしたら、寿命を縮めてしまい、しかも来世に悪報を得ることになります。悪報なので、皆さん考えてみてください。お金や権力もなく、乞食をして苦を嘗めなければなりません。あまりに悪ければ、一生では償いきれず、幾世にわたって償うか分かりません。年配の人が難に見舞われている人を見て、前世に善いことをしなかったといつも言っていますが、(笑)本当にその通りです。
弟子:縁も物質であり、これは正しいでしょうか? どのように縁を理解すべきでしょうか?
師:牛の角先に潜ってしまったようですね。もちろん、物質の要素があることを否むことはできません。縁とは何かについて、私は既に明白に説きました。縁は一種の現象であり、同時に実質的な繋がりでもあります。しかし、この実質的な繋がりは常人の状態下で現れてきません。この人とあの人を線で繋ぎ、どこへ行っても一緒に引っ張って行くというようなことではありません。それは他の空間で現れており、人間にはそれが見えません。ですから、人間はそれを説明できず、縁という名前を付け、縁があると言っています。もちろん、この宇宙の中の全ては実はみな物質です。精神はつまり物質であり、物質はつまり精神であると私は言いました。
弟子:全ての正法の中で男性は女性より次元が高いと言っているようです。多くの徳を積まなければ男性の身体に転生することができないと佛教は言っています。佛は男性の姿であり、女性の姿は実質的な意義はないようです。先生は男性の姿を選ばれましたが、女性の佛を聞いたことはありませんが?
師:私はこのことについて説法の中で幾度となく話したことがあります。男性の佛と女性の佛は両方おり、男性の如来と女性の如来もいます。人間は修煉の中で、羅漢の果位に達した時、三界を出ることになります。羅漢はただ一つの果位だけでなく、初果羅漢、正果羅漢、大羅漢もあります。羅漢果位まで達した時、男性か女性かに関係なく、この次元で圓満成就すれば、みな男性の姿です。三界を出てまず到達するのは羅漢の果位です。菩薩果位に到達すると、大菩薩か小菩薩か、または男性から成就したのか女性から成就したかに関わらず、みな女性の姿になります。修煉してできた体が菩薩の境地で圓満成就したのであれば、修煉の過程での全ての身体はみな女性の姿をしているので、未来の体は女性の体になります。もちろん、神は変化することができますが、しかしその固定して変わらない身体はその様子です。もし人が修煉して佛まで成就したら、全て男性の姿になります。もし如来佛に成就したら、男性か女性かに関わらず、本来の姿になります。つまり、その生命の元々の姿になります。世間で修煉していた時の身体は違っていましたが、如来佛になった時、その元神の性別によって決められます。もちろん、特殊な場合もあります。ここでは一般的な状況を言っています。実は世の人々は繰り返し転生するので、男性になるか女性になるかは福報と因縁関係によって決められています。女性の姿をしている人は、男性から転生したかもしれません。また、女性から転生してきた男性もいます。ここに業力による応報の問題があります。私はここで女性を差別しているのではありません。男性に転生するには、前世で徳を積まなければならないと、今まで佛教もこのように言っており、釈迦牟尼も自らこのような話をしたことがあります。男性か女性かに関係なく、良くないこと、またはどちらかの面において良くないことをしたら、来世女性に転生するかもしれません。以前はこういう状況でしたが、現代人にこの問題は存在していません。将来またこの状況が現れます。私の多くの女性弟子は修煉が非常に良くできています。法を得る前わざわざ女性に転生して修煉するようにした人がいます。この中に一つ歴史的な原因があります。おそらく女性は大きな業を造りにくいからです。
弟子:周りの人に法を広める時、私たちがここまで熱心に法を学び、煉功し、法を広めることが理解できないと言われました。私たちは師父が教えてくださった最大限に常人社会に符合しながら修煉できなかったので、他の人が法を得ることに障碍を作ってしまったと感じました。私たちは既に取り返しのつかない損失を作ったのでしょうか?
師:そこまで深刻ではありません。良くできていなければ今度改めればいいのです。皆さんはみなもっと多くの人に法を得てほしいと思い、世の人々を済度しようと思っています。この世において、どんなものも無常であり、いかなるものも生まれる時に持って来ることもできなければ、死ぬ時に持って行くこともできません。ただ修煉するならば、佛法をいったん得たら、永遠に得ることになります。これは生まれる時、持って来ることができ、死ぬ時に持って行くこともできるのです。ですから、これは最も貴重なのです。したがって、人間に何をあげても、法を与えることより良いことはありません。大法を更に多くの人に知ってほしいと多くの人はそう思っています。特にこれが最も偉大な真理だからこそ、多くの人に知ってほしいと、法を広めています。今まで良くできなくてもこれから良くできるようにすればいいのです。しかし、善を修める者は、衆生に対して慈悲の心を持つべきです。
弟子:三、四年前に既に多くの学習者は功が開き、悟りが開いたのですが、三、四年後の今、まだこの世で苦を嘗めて修煉しています。彼らの次元はまだ絶えず高まっているでしょうか?
師:このように話しましょう。絶えず新しい人が入って来て修煉を始めているので、圓満成就していない限り、続けて修煉しなければなりません。関をしっかり乗り越えた人、修煉が速く進んでいる人、精進している人もいれば、関をしっかり乗り越えなかった人、精進していない人、時間を長引かせた人もいます。圓満成就したかどうかは、今それを言う必要はありません。まだここにいる限り、どの学習者も修めなければなりません。
弟子:形体のない神はあちらこちらをさすらう仙人のように、天国を持っていないのでしょうか?
師:形体を持っていない神とあちらこちらをさすらう仙人とは同じではありません。あちらこちらをさすらう仙人のことですが、それは私が常人の言葉で言ったことであり、私はこのように話してもいいのです。この意味を知っていればいいのです。つまり、一部は天国世界を持っていません。例を挙げて説明すると、あちらこちらをさすらう仙人のようにあちこち回っています。実は以前の道はこういう情況でした。道教は後になって作られたのであり、天上では以前道は自分の世界を持っていなかったのです。修煉して圓満成就したら、宇宙の中で自由自在に、或いは洞穴を見つけてきれいにし、そこで一人で静かに自在にしています。形体のない神とは、生じた時から体がない神、または修煉して到達した境地で体があってはいけない神のことを言っています。しかし、このような神は変化して形体を顕現することができます。形体のない神は往々にして次元が非常に高いので、なりたい形を思えば、すぐその形になります。しかし、彼はそのようになりたくなく、そうすることが面倒だと思っています。そうする必要はなく、面倒なので、何もなくこのままでよいと思っています。もちろん、私はこのように話していますが、人間の考えでそれを理解することはなかなか難しいのです。
弟子:他の空間で生命が生じれば、その存在とともにその次元の法を備えるようになりますが、その次元で生じたので、法がその次元の生命に定めた基準に同化しており、人間の赤ちゃんのように長い時間をかけて目覚める過程や外部から学ぶ過程はないのでしょうか?
師:三界以外、異なる次元で生じた生命は、特に神の空間では、必ずその次元の生命の基準を備えており、その次元の法によって造られたのです。神の境地で生じた赤ちゃんも神です。人間の目覚めの過程、学習の過程にいたっては、今日のいわゆる発展は物質が変異したもので、非人類的で、生命の本性から見ると、後退しているのです。これは目覚めではなく、迷いに入ったのです。実はこれは腐敗堕落していく過程であり、純真さを失う過程です。人間はこれを発達の過程と言っているのに対し、神はこれを後退の過程と言っています。
弟子:転生の時、記憶を消去することを司るのはどの神でしょうか?
師:これは知識を求めています。好奇心ですね。どの神に任せてもいいのです。異なる生命は異なる神に管理されています。しかし、宇宙の基準は一つしかなく、あなたが想像しているようなことではありません。みな非常に自然なことです。具体的に言えば、三界内の生命の転生を司る神によって行なわれています。
弟子:尊敬する李洪志先生、トロント法会で海外からやって来た弟子と法会に参加できなかった弟子から先生に出した質問は全てふるい落とされました。これが理解できません。
師:皆さんの気持ちを私は理解できます。実は千人、二千人の法会で、みなが質問を出したら、明日の夜にならないと終わりません。答え切れない場合どうすればいいかというと、選ばなければなりません。その中で、本当に師父に解答してほしい重要な質問が選ばれなかったのかもしれません。このような情況であっても、皆さんは法の学習から必ず答えを得ることができます。実は質問を選別する時、私は担当者にある原則を教えました。つまり、政治に関する質問を出さない、知識を求める質問はできるだけ少なくし、大法の修煉と関係ないことをできるだけ選ばないようにすることです。これは私たちの法会の質を守るためであり、この目的です。
この中に両面の要素があります。もちろん選別を担当している学習者も修煉者なので、修煉の中の重要な質問を選ばなかった可能性があります。これはあり得ることです。今後、彼らはこのことをより良く行なうことができると私は思います。
弟子:ルイ十四世はフランスの歴史上、この上なく輝かしい存在であり、太陽のようでした。彼の元神は天上から来たのでしょうか? 私の悟りでは、ルイ十四世はつまり先生の……
師:私は確かに多くの国に転生したことがあり、ほぼどのような人にも転生したことがあります。時に転生が間に合わないこともあります。異なる歴史の時期に世に下りて縁を結んで法を得る人がいるので、私は必ず彼らを見つけて縁を結ばなければなりません。転生が間に合わなくなったので、分身して転生していました。同じ世の中に私である人物が何人もいるかもしれません。冗談として聴きましょう。(拍手)
弟子:修煉した後、先生は私たちが殺した生命を私たちの世界に済度してくださるとおっしゃいましたが、もし私たちが羅漢または菩薩までしか修煉できず、自分が主宰する世界がなければ、どうなるのでしょうか?
師:皆さんに教えますが、在席の全ての学習者に私は圓満成就の道を開いたのです。どの境地で圓満成就するかを考える必要はありません。これらのことをどのように片付けるかにいたっては、私にその方法があります。私はただ概括的に、悪いことをどのように良いことに変えるかと言っただけであり、どのように変えるのか、もちろん方法があります。もしあなたが自分の業力を償いきれず、圓満成就できなければ、今日ここに坐っていないかもしれません。(熱烈な拍手) 繰り返しますが、私があなたのために按排した道があなたを圓満成就させることができなければ、あなたは大法の学習者になれなかったかもしれません。私は皆さんに非常に良い道を按排しましたが、どのように修煉するかは自分次第です。師父は入口まで導きますが、修行は各自にあります!
弟子:師父は『轉法輪』の九十一ページで、「高い次元で修煉するようになると……自分の心性を向上させさえすれば、功が伸びますので、手法すらいらなくなるのです」とおっしゃいました。ここでおっしゃっている高次元はどのような現れでしょうか? 私たちはいつになったらいかなる手法をする必要もなくなるのでしょうか?
師:古代の修煉の多くの方法は、初期には動作が非常に複雑でしたが、最後になれば全て必要とされなくなります。高い境地になった最後の時、何の手法もする必要はなく、ただそこに坐って静かに修めるだけであり、形体の動作はもうありません。しかし、皆さんが今日修煉しているこの大法の場合、以前どのような特徴を持っていた生命であっても、今日私が教えたこの方式で修煉しなければなりません。なぜでしょうか? 私はミクロから表面に向かって絶えずあなたを同化させており、その速度は非常に速いのです。毎日人の変化が見えます。三界に入ると、実は三界内のあらゆる粒子で構成されている人身は全て人身と呼ばれています。三界に入ると、速度が直ちに遅くなり、ひいては停滞して進まなくなります。人身のこの部分に入ることができず、つまり、人身のこの部分は修煉して心性が向上してから、はじめて変化が起こるのです。
以前の修煉は表面をまず変化させる方法をとっていました。修煉して間もないころ、ご存知のように、道家は修煉の中で丹を呑む方法をとりました。つまり、できるだけ修煉者の病気を取り除くようにします。表面の身体に隠れている全ての良くないもの、病業を排出し、全て出してしまいます。これで身体が浄化されることになります。そして、煉功が始まってから、すぐ表面の細胞を変えます。表面の細胞と分子が変わると、皆さん考えてみてください。この人は直ちに仙人になります。次元がまだ高くなく、身体の第一層の分子粒子を変えただけです。つまり、三界の第一層の天に入り、常人の境地から離れただけです。人間にとって、これで神通力が大いに顕れ、人類の全ては彼を束縛することができなくなりました。人間に見えた全てはみな分子によって構成されているので、この次元の分子と細胞が変われば、飛べるようになり、壁を通り抜けることができ、分子以外の次の一層の粒子で構成されている空間の情況が見えるようになります。もちろん、更に高いもの、更にミクロ的なものを彼は見ることができず、なぜなら、彼の次元が限られているからです。
このように修煉が進んでいくと、最高の次元まで修煉したら、低次元で使っていた方法はもう使えなくなりました。以前煉功に使用していた方法や手段はもう役に立たなくなりました。完全に高い次元まで至ったら、手法は必要でなくなり、静かに修めるだけで、何の動作もありません。こういう意味です。
しかし、大法修煉はこれではいけません。もし大多数または全ての学習者が修煉して間もないころ、表面から変わってしまえば、皆さん考えてみてください。今日一億人の人々が大法を修めており、みな最も表面のところから変わってしまえば、皆さんに教えますが、今日の世界に一億の神がいるということになります。人類社会の形式は完全に打ち壊されてしまいます。私たちは常人社会のこの形式を維持しなければなりません。なぜなら、これは宇宙大法が衆生のために切り開いた最も低い次元でもあるからです。皆さんはまだここで修煉して向上しなければなりません。この環境があるからこそ、私たちは最も速い速度で自らを高め、変えることができます。ですから、私たちはこの環境を大事にしなければなりません。人類は良くありませんが、人類は私たちを更に速く修煉させることができます。人類の中に人間が思っている様々な真理がありますが、これらの真理こそ、修煉の中で放下すべき執着です。今日の人々と古代の人々が学法して修煉するとすれば、どちらが修煉しやすいでしょうか? 社会的な要素は多くありませんが、大事なのは大法が人々を済度しており、その上、法を正す時期の学習者であるため、私に言わせると、大法の修煉を通じて、更に高い次元まで到達できます。しかも最も速く進むのです。古代社会の人々はみな神を信じており、より簡単に真の道と真の法を理解できるので、相対的に言えば、高い次元まで修煉することができません。社会全体がみな理解できるので、相対的に言えば、人間の道徳基準が非常に高かったため、それほど大きな難もありません。今日の社会が悪ければ悪いほど、私たちの修煉の辛さと偉大さを表わすことができます。それによって、高い次元まで修煉することができます。つまり、こういう関係です。
弟子:瀋陽の弟子は師父にご挨拶を申し上げます!
師:ありがとうございます!(拍手)
弟子:世の人々はみな法輪大法を知っているようです。
師:今はこういう状況です。私たちは静かにして社会を妨害せず、静かな環境で修煉したかったのですが、今の状況から見ると、私たちは世界の舞台に上がってしまったようです。私たちの多くはこれで有名人になりました。(笑) 話すと非常に面白いのです。修煉者はこのようになりたくありません。
弟子:意図的に大法に反対し、人々を惑わす虚言を撒き散らした人が原因で、縁のある一部の人が良い機会とすれ違ってしまいました。どうすれば、大法を破壊する人がもたらした良くない影響を挽回できるでしょうか? 人為的に大法を破壊した人の将来はどうなるでしょうか?
師:皆さんに教えますが、現在本当に大法を破壊しているのはその数人だけです。気勢を張っているようですが、多くの人がやっているわけではありません。人間は何をやっても、自分で責任を負わなければなりません。でっち上げをしたりして、本当に悪いのです。本当に悪いのです。私がやはり以前言ったように、大法を学ぶ人がいないのではないかを心配する必要はありません。佛は縁のある人を済度しています。(拍手) 人間が佛法を破壊してしまうなど、とんでもないことです。
弟子:最近起きたことや、師父の六月二日の経文「わたしの感想」は海外の多くの弟子にとっても圓満成就できるかどうか、自我や人間の全ての観念を放棄できるかどうかの試練です。このように悟っていいでしょうか?
師:みな間違っていません。それぞれ異なる認識がありますが、みな間違っていません。みな正しく悟っています。
弟子:私はいつも動揺しており、毎回の法会の後、後悔してやみませんが、勇猛邁進して精進するように決心しても、しばらくすると、また駄目になってしまいます。時に自分は師父の弟子になる資格がないと感じ、師父の慈悲に申し訳なく思っています。本を多く読み、法を多く学ぶ以外に方法はないのでしょうか? 私は本当に確固として修煉したいと思います。他の空間が見え、天目が開いたら、良くなるでしょうか?
師:先ほど「私は本当に確固として修煉したい」と言いましたが、どういう状態でこの言葉を書いたかに関わらず、この話は純粋であり、あなたの自我です。しかし、後に続く話はまた後天の観念に妨害され、精進できないと感じてしまいました。後天の観念を取り除かなければ、本当に精進できません。他に方法はありません。本を多く読み、この壁を突破するしかありません。考えたことがなかったのでしょうか。精進できないこと自体が阻害の現れであり、これを破ったら、どうなるかみてください。
弟子:佛家修煉に八万四千の法門がありますが、各次元が全て含まれているのでしょうか? 他の空間と……。
師:佛法修煉に八万四千の法門があるということは、釈迦牟尼佛が言ったことです。釈迦牟尼佛は人間に教えてもいいことを話しました。ご存知のように、釈迦牟尼佛自身が宇宙の最終の主ではないので、全宇宙更に広範囲の最終的なことは彼も知らないのです。つまり、釈迦牟尼佛は彼の境地から、修煉に八万四千の法門があると言ったのです。これは人間に教えてもいいことであり、間違っていません。人間に十万の法門があると言っても、何の意味があるのか人間は知らないかもしれません。
釈迦牟尼佛が言った八万四千法門の修煉方式は、みな三界内の衆生と関係があるように思えます。他の空間体系については、人間に教えたことはなく、人間はそれを知らないのです。しかも、宇宙の中で、地球のような環境は地球だけではありません。しかし、他のいずれも宇宙の中心位置ではありません。
弟子:この間、煉功点は法を広める幾つかの活動を行ない、学習者はそれにある程度の時間を使いました。しかし、一部の活動は効果がないようにみえます。
師:法を広める効果については、皆さんは自分の力の範囲でできるところまですればいいのです。旧勢力、私が言った旧勢力は本当の魔ではなく、腐敗堕落した各次元の生命であり、正の生命も負の生命もいます。それらはみな私を助けていると思っていますが、実はそれらの助けは、かえって私にとって障碍になりました。阻害の要素があるので、法を広めることが阻まれ、新しい学習者はなかなか法を得ることができません。法を得た人も、それらによって、法に対して無関心になり、学習しなくなりました。これらの問題も解決されているところです。しかし、これらの困難に打ちのめされないようにしてください。行なうべきことを行なってください。これらはみな解決されています。
弟子:法を広めることは圓満成就と関係ないと先生はおっしゃいましたが、法を広めることは神聖なことであり、法を得ていない人の命を本当に救うことができます。法を広めることに興味がないのも、自分自身が突破すべきことではないでしょうか?
師:法を広めることと圓満成就とは別々の概念です。この二つの概念の間に直接的な関係はありません。圓満成就はあなたが厳しく修煉し、修煉の道を終え、圓満成就の境地に到達して、はじめて圓満成就になるのです。法を広めることは修煉の過程で大いなる慈悲心を持つ人としてすべきことであり、個人の向上の他にすべきことです。しかし、あなたが法を広める時に行なった全ては、ただ常人の中の福報になるのではありません。なぜなら、あなたは来世また人間になるとは思っておらず、圓満成就するので、法を広めるために行なった全ては、修煉の中の慈悲と衆生を救い済度することに関係し、修煉の中で威徳を樹立する一部となりました。
弟子:女の子がおしゃれをするのは天性なのか、それとも執着でしょうか?
師:女の子がおしゃれをするのは、今執着とは言えないと思います。女性はそういう天性だからと言っている人がいますが、実は女性としてこの面に気を配るべきです。だらしなくしていれば、誰が見ても、良いとは思いません。しかし、あまりに派手にすると、逆効果になってしまいます。私が良くないと言っているのではなく、常人が見ても良いと思わないかもしれません。身だしなみには気を付けるべきです。天上の神佛や菩薩はこの上なく神聖で美しいのです。彼らの皮膚の粒子は極めてミクロ的な粒子によって構成されているため、その肌は非常にきめ細かいのです。その時になると、わざわざ綺麗にする必要もなくなります。
弟子:師父は『轉法輪』の中で、「定められた天寿を越えた、延長された生命は、すべて煉功するために与えられたものであり、間違った考えが浮かんだだけで命の危険を招くことがあります」とおっしゃいました。この話を具体的に説いていただきたいのです。私は三年あまり修煉しており、多くの病気が治り、何十年も飲み続けていた薬をやめました。今六十歳を越えましたが、四十歳ごろの時よりも元気です。修煉の他に自分にできる仕事をしてみたいのですが、大丈夫でしょうか?
師:もちろん大丈夫です。法の学習と煉功に影響しなければいいのです。天寿を超えるのは、もしある人が数十歳までしか生きられなければ、その年になると世を去ることになります。しかし、もうすぐ定められた年になる時、彼は修煉を始めました。良い素質を持っており、修煉を始めてすぐ非常に精進しています。その人の年とは関係なく、私も年を見ていません。ご存知のように、張三豊は七十歳あまりの時、道を得て百三十歳まで生きました。七十歳あまりから修煉し、正式に修煉を始めたのです。つまり、修煉は年とは関係なく、あなたが精進できるかどうかの問題です。本当に生死を放下することができ、どんな年でも、既に法を得た以上、それを気にせず、ひたすら修煉し、(拍手) 本当に自分を修煉者と見なし、自分を常人のように対処せず、このようにできれば、あなたの生命は絶えず修煉し、絶えず延長されています。命はますます延びていき、あなたの修煉に間に合うようにします。しかし、精進できない人がおり、今生、圓満成就するまで精進できなければ、これ以上寿命を延ばしてはならず、寿命になると、死んでしまいます。今生、成就するまで修煉できず、来世のことも遅らせてしまうのでは、どうすればいいでしょうか。死ぬしかありません。つまりこういうことです。ですから、年をとった人としては数十年の間、この世の風雨の中で世の全ての執着、一生の間求めていることはたかが知れていると分かっており、自分はそれが分かっているはずなのに、まだ何を放下できないのでしょうか。しかし、言うのは簡単ですが、行なうのはやはり難しいのです。
弟子:今回、北京と天津で起きたことは私を大きく悟らせ、向上させてくれました。修煉者であっても、肝心かなめの時はなかなか真・善・忍をやり遂げることはできませんが、彼らは「真」を本当にやり遂げました。彼らは本当のことを話しに行ったので、善意からこのようにしており、修煉者の基準に合っていないいかなることもしませんでした。彼らは穏やかな気持ちで忍耐しています。本当に法輪大法を修煉している弟子は決して師父の気持ちを無駄にすることはありません。師父、ご安心ください。私が言ったことは正しいでしょうか?
師:正しいのです。実践の中で、私は既に目にしました。私は「わたしの感想」という文章の中で、「人にはそれぞれの志がある」と書きました。私は一生の中で他でもなく、このことを行なっており、修煉できる人の圓満成就のために責任を負っています。圓満成就できるかどうかの大きな関を学習者が一つ一つ乗り越えてきたのを見て、私がどういう気持ちなのかご存知でしょうか?!(熱烈な拍手) 素晴らしいのです。本当に素晴らしく、さすが偉大な神です! ノストラダムスはある時、人間と神は共に存在する時期があると言ったのを私は覚えています。彼が何を指しているかはともかく、本当に皆さんを常人と見なしてはいけないと思います。人間に放下できないことを皆さんは放下することができ、人間に耐えることができないことを皆さんは耐えてきました。ですから、人間は皆さんを理解することができません。しかし、できるだけ人間に理解されるようにしてください。(笑)
弟子:修煉の中で、どのように大法の厳粛さと圓容の関係を正しく対処すべきでしょうか?
師:大法は厳粛であり、修煉して圓満成就することが厳粛でないことがあり得るでしょうか? 大法に少しのずれがあっても、修煉者が圓満成就できなくなってしまいます。邪法は人間を偉大な神にまで修煉させることができるでしょうか? 決してできません。ですから、法は厳粛であり、大法弟子一人一人は必ず到達すべき各境地の基準に達しなければならず、これは厳粛なことです。修煉の中で取り除くべきものを取り除かなければならず、少しでもいい加減にしてはいけません。大法は人間を済度することができ、宇宙の全てを造成することができます。異なる次元の法理があり、各次元の法理はこの法全体と繋がっており、上下においても、内外においても、ミクロとマクロにおいても、お互いに繋がっているのです。いかなる次元においても法は単独で貫通しているので、どの角度から見ても、法は圓容であり、はっきり説明することができ、破られることはなく、法理から全てのことを圓満に説明することができます。なぜなら、この宇宙は法によって造られたので、もちろんこの法は至るところに存在している真理と、万能の真理を圓満に現すことができます。法は全ての良くないものを良いものにし、宇宙の中の全てと衆生を救うことができます。今までは成、住、壊、滅が存在してきましたが、大法は壊滅に向かっている全てを再び新しく素晴らしいものに戻すことができます。法は全ての作用を働くことができ万能なのです。ですから、この大法は絶対的に圓容不破なのです。(拍手)
弟子:私は四月二十五日の後、大法を迫害している人から大法のことを聞いて、大法を知るようになったのです。僅か二ヵ月ですが、既に大法の博大さと奥深さを感じました。
師:悪い人は悪いことしか耳に入れることができませんが、良い人は良いことを聞くことができます! 邪悪の徒が大法を罵る時、少なくとも「法輪功」という三文字を言わなければならないのです。この学習者は「法輪功」という言葉を聴いて、良いことが耳に入りました。(拍手) 佛法は人間に破壊されることはありません。邪悪が悪人を利用して私たちを破壊するたびに、実は私たちのことを広めているのです!(熱烈な拍手) しかし、その悪事を働く人の心はやはり悪いので、これは間違いないことです。これはその生命の位置なのです。
弟子:どのように自分の大法に対する高い認識を固めることができるでしょうか?
師:私が皆さんに教えているのは法理であり、学習者も当初この法理がいいと思い、学びに来たのです。この法理はただ人々に徐々に良い人になるように教えているだけでなく、これは修煉のための本であり、佛法、天法、宇宙大法であると認識するようになりました。これは学習者が徐々に認識したのです。(拍手) ですから、いかなる考えも抱かずに修煉したほうがもっといいのではないかと私は思います。毎日佛の世界に行きたいと思っていれば、実はこれも執着になってしまう恐れがあります。求めずとも自ずと得るというように、ただ修煉すればいいのであり、全てが自然に現れてきます。現れたら、かえって全てが自然だと思うようになります。なぜなら、その境地に達したから、自然だと感じたのです。人間は他でもなく、人間の境地におり、自分の境地より高い境地のことを知りたいと思っており、みなこういう心です。修煉者はその境地にいる時、それが見えても驚くことなく、非常に自然だと思っています。
弟子:広州の弟子は先生に非常に会いたがっています。
師:ありがとうございます。今は何とも言えません。(笑) 今はまだできません。
弟子:南京多倫路煉功点の大法弟子と南京の全ての大法弟子は慈悲深い師父にご挨拶を申し上げると同時に、最高の敬意を捧げたいと思います!
師:ありがとうございます!
弟子:北京、蘭州、ハルビン、チチハル、内モンゴル、広州、上海、武漢の全ての大法弟子は師父にご挨拶を申し上げます。師父、ご安心ください!
師:ありがとうございます!
弟子:康熙大帝の徳政は後世の君主に模範を示したでしょうか?
師:康熙大帝の一生は比較的偉大であり、康熙と乾隆の時の繁栄ぶりは歴史上伝えられています。人間のことについてこれ以上触れませんが、康熙は偉大な皇帝です。
弟子:弟子は先生をとても悲しませる質問を出したことがあります。
師:別に悲しむことはありません。多分私は他のことを考えていたかもしれません。私が考えていることは皆さんが考えていることと違います。皆さんは表面の形式を見ていますが、私には真実の現れが見えています。
弟子:夢の中で出てきた色魔は夫です。これも魔の妨害でしょうか?
師:ご主人はすぐそばにいるでしょう。夢の中に出てきたのはご主人ではありません。きっと演化されたものです。気を付けるべきです。
弟子:妹は漢方医科大学の学生であり、来期の必修科目に気功があります。この授業をとらないほうがいいでしょうか?
師:漢方医科大学の学生ですね。そうですね。今の中国の医科大学も漢方医学の治療法において気功の医療効果を認識するようになり、学生に学ばせています。しかし、私が知る限り、中に正法門の気功は非常に少ないのです。気功が普及し始めたころ、幾つかの良い気功がありましたが、その後、偽気功が徐々に現れてきました。最初に現れた比較的良かった功法は太極拳です。現在、太極拳はでたらめに改ざんされてしまいました。改ざんされたら、必ず害があります。その後、易筋経が現れました。太極拳は道家のものであり、易筋経は佛家のもので、以前の少林寺の和尚の内修功法のものです。その後、民間の修煉法の五禽戯がありました。これらのものは人類にとって良かったのです。他にもありますが、一々触れる必要はありません。今はみなでたらめな憑き物の功法であり、もし学校がそれを学生に学ばせたら、害を与えてしまいます。
弟子:修煉者の基準をもって自らを量っていますが、常に自分が真に修煉の弟子として師父に認められていないのではないかと心配しています。しかし、他の人は私が悪くないと思い、最近なんと私を輔導員にしようとしています。輔導員にふさわしくないと分かっており、大法のイメージを損なってしまうのではないかと心配しています。
師:恐れていることが少し多すぎるようですね。実は輔導員はすることがそれほど多くなく、何かの幹部でもありません。毎朝煉功点に行き、皆さんの煉功と法の学習を取りまとめるだけで、多くのことはありません。あれこれ恐れないでください。自分の修煉が良くできていないと思うこと自体は良いことであり、自分の足りないところに気づいています。欠点や間違いに気づいたら、恐れないでください。欠点や間違いがあれば、それを取り除けばいいのです。執着や間違いがなければ、修煉する必要もありません。修煉の過程にみな常人の心があります。これは間違いないことです。
弟子:苦難に遭っている時、これが関だと分かっており、できるだけ心が動じないようにしています。しかし、嬉しいことがある時、どうしても喜んでしまいます。
師:それなら、喜べばいいのです。大丈夫です。自分が難しいと思う関を乗り越えられないより、喜ぶことは随分いいことです。実はこの嬉しく思う心は境地が高まるにつれて自然に消えてしまい、意識的に抑制する必要はありません。もちろん、嬉しいことがある時、踊り上がらんばかりに喜ぶべきではありません。みな理性と教養のある人なので、これは問題ないと思います。しかし、その苦しい関は確かに乗り越えにくいものです。
弟子:(一)覚者に次元の高低があるでしょうか?
師:もちろんあります。如来もみな同じ次元ではありません。私は彼らを法王と言いましたが、修煉者は彼らのことを如来と総称しています。更に大法王もあり、更に次元の高い大法王があります。
弟子:(二)もし覚者に次元の高低があれば、次元の低い覚者の生命は次元の高い覚者に按排されるのでしょうか?
師:これはあなたが思っているようなことではありません。人間の考えで神のことを考えないでください。考えても分からないのです。しかも不敬なことです。如来まで修煉したら、彼の能力の範囲内で、全てが思うままになり、できないことはないのです。
弟子:私は早期の学習者です。もし私たちが最大の努力を払っても、自分自身の根基が良くないため、修煉が終わるその日に圓満成就できなかったら、師父について行くことができるでしょうか?
師:最大の努力を払って修煉してもと言っていますが、あまり自信がないようですね。最大の努力を払って修煉しても、圓満成就できないとなれば、どこかが間違っていることになります。この話は矛盾しています。(笑) このような問題はありません。精進すればいいのです。自分がどういう根基なのかあなたにも分からないのに、なぜ根基が良くないと言うのでしょうか。最大の努力を払えば、あなたを待っているのは他でもなく、圓満成就なのです!(拍手)
弟子:地球を粒子、例えば分子として見ている場合、地球という分子で構成されているものは人間より次元が低くなったと思います。なぜなら、次元が高ければ高いほど、それを構成している物質もますますきめ細かいからです。
師:私はこの宇宙の全てを明かすことができません。しかし、皆さんに教えましたが、物質がきめ細かくミクロ的であればあるほど、次元が高いのです。しかし、地球が最も低い次元にあるということも皆さんに教えました。この最も低い次元は大きい粒子と小さい粒子の間にあります。つまり大きい粒子よりも小さい粒子よりも低いと言うことを私は皆さんに教えました。真ん中にあるので、最も低いのです。更に大きな粒子についても説いたことがあります。それは人間より次元の高いものです。
弟子:テープレコーダーがないので、煉功の時、大法の音楽を流す代わりに、数を数える方法で動作を変えてもいいでしょうか?
師:大丈夫です。当初、煉功の時、私が学習者に教えていたときは音楽がなく、数を数えていたのです。修煉はなんといっても超常的なので、私たちには自動的な機制があり、機制が強くなる時、九回を終えたら両手は自動的に下腹部で重ねます。ですから、煉功の時、機制にしたがって動くという言い方があり、機制がいったん形成されたら自動的に動くようになり、身体を導いて煉功します。必ず自動的に煉功しています。学習者に音楽を聞かせながら煉功するように教えた目的は、初めて学びに来た人ができるだけ早く雑念に妨害されないようにするためです。音楽を聴いていれば他のことを考えなくなります。この一念をもって万念に代わる方式をとっています。音楽を聴くこと自体も一つの念ですが、しかし、私は音楽の中にも法と功の内涵を加え、修煉に対して補助的な作用を働くことができるようにしました。これが煉功のときに音楽を聴くことの目的です。
もし、動作が正しければ、音楽のない状況下で煉功しても同じであり、影響はありません。
弟子:煉功をもって寝ることに代替することができるでしょうか? このようにしてもいいでしょうか?
師:駄目です。これでまたもう一つの極端に走ってしまうのです。修煉の過程でこの身体で修煉しなければならないので、この身体がなければ、修煉できなくなります。ですから、食事も睡眠もとらなければならず、この身体の健康状態を保つために寝なければなりません。仕事が忙しくなり、また大法のために忙しくなり、数日間寝ることができず、どうすればいいかに至っては、これは偶々のことなので、違う話になります。煉功すれば、すぐ回復します。長期に寝ないで煉功して、煉功で寝ることを代替しようとすれば、これではいけません。大法はこのように修めるものではないので、なぜこのように煉るのでしょうか。修煉にとってもっと重要なのは、心性の向上こそ本当にあなたを向上させることができるのです。心性が向上しなければ、いくら煉功しても向上できません。これは人為的に行なうことではなく、無理強いで煉功して高まることではありません。心性が向上しなければ、いくら煉功しても向上できません。
弟子:株取引を行なうのは良くないと分かっていますが、その本質を理解することができません。アメリカの会社は株を福祉として従業員に割り当てていますが、これも不義の財なのでしょうか? 株は会社が発展するための資金集めの手段でしょうか?
師:皆さんに教えますが、人間が正しいと思っていることは必ずしも正しいとは限りません。特に、人間の道徳が悪くなった時、人間に良いと思われているものは悪いものかもしれません。ご存知のように、働くことによってお金を得たり、智慧と努力によって儲かったり、または商売が大きくなり、あなたにそういう能力があれば、みな正しい方法で金を儲けているのです。いくら儲かってもかまいません。投機であれば、やはり良くないと私は思います。なぜなら、この宇宙には失わないものは得られずという理があるからです。金が儲かった時、どれほど良い物を失ったのかあなたには分からないのです。なぜなら、あなたがその代価を払わなかったからです。株は上がったり下がったりしますが、人間の心はそれにしたがって動いてしまいます。修煉者はこういうことをしてはいけません。大金を儲けた人が出たら、代わりにビルから飛び下りる人が出るかもしれません。株は実はギャンブルです。修煉者としてギャンブルをすべきかどうかに至っては、私に言わせると、そうすべきではありません。もちろん、私は常人がどのように株に対処すべきか、人間が株の売買をすべきかについて話しているのではありません。それは常人のことです。私はここで修煉者に修煉の道理について言っているだけです。皆さんは常人を超える状態がなければならず、もっと高い基準で自分に要求しなければなりません。そうではありませんか? 会社から福祉や給料の一部として支給された株は直接換金することができます。
弟子:修煉者は親族の業力を肩代わりすることはできませんが、なぜ業力のない子供が私たちの業力を肩代わりすることがあり得るでしょうか?
師:多分その子供は親が関に遭っている時、あまりに苦しんでおり、本当にできていないのを見て、一部肩代わりしているのかもしれませんが、あなたは子供が私のためになぜ苦しんでいるのかと、ありがたく思っていません。(笑) ただ一つの道理を説いているだけで、必ずしもこういう状況ではないかもしれません。しかし、大法弟子の子供だけにこういうことがあります。
弟子:五歳の子供は二年修煉しており、額にテレビがあり、師父は昼夜を問わず説法してくださっていると言っています。これは妨害なのか、それとも正常な状態でしょうか?
師:子供の場合、これは妨害ではありません。多分こういう方法を通じて子供に法を得させているかもしれません。しかし、決して子供の睡眠に影響することはありません。
弟子:常人社会で、極めて魔性の強い勢力が広範囲にわたって大法を破壊し、ひいては撲滅しようとする状況下で、大法を圓容する最も良い方式とは何でしょうか?
師:最後まで大法を修め、頭を切り落とされても身体はまだ坐禅していると私に言った学習者がいます。(拍手) 人間の考えが動じなければ、いかなる強制的な方法も表を治めることしかできず、根本を治めることはできません。修煉の中で、私は道理から人々を分からせているので、もし形式から人間を管理し、何々をしてはいけないと制限してしまうのは、できることでしょうか? そうでしょう。もちろん、どのようになっても、どんなに妨害されても、何も動じなければ最も良いことだと私に言った学習者もいます。もちろん、これは考えが動じないのであって、人が動かないということではありません。
弟子:毎日法を広めることばかり考えるのも魔に利用されてしまうのでしょうか?
師:法を広めることを考えるのは良いことで、間違いではありませんが、修煉に影響しないようにすべきです。法を広めることは大法弟子として確かに行なうべきです。
弟子:西洋社会で人々は歯の美しさを重視していますが、弟子として歯石、歯垢などを除去し、表面を滑らかにしてもいいでしょうか?
師:したければしてもいいのです。これはたいしたことではありません。ただ自分の身なりを飾りたいと考えているのでしょう。これはみな常人のことです。
弟子:釈迦牟尼佛とイエスが法を伝え人間を済度していた時、宇宙の衆生は既に法からずれてしまったのに、なぜその時、法を正さなかったのでしょうか?
師:彼らは如来なので、宇宙の法を正すことはできません。彼らは自分の法を正すことしかできません。
弟子:先生にお伺いしたいのですが、全ての人はみな圓満成就のための試練を経験したのでしょうか? 乗り越えられなかった人はこれからまた機会があるでしょうか?
師:これについて話してはいけません。まだあると教えて、あなたが用意して待っていれば、試練にならないのです。みな圓満成就でき、どのくらいの人が圓満成就したかについても話してはいけません。
弟子:アメリカに長く住んでいるので、国内の特に貧しい学生をいつも助けたいと思っています。これは憐憫の心だと思います。法輪大法を修煉してから、この心について葛藤があり、助けるべきかどうか分からなくなり、心の中で激しく戦っています。これは常人の情なのか、それとも昇華した慈悲でしょうか?
師:故郷の人に同胞の気持ちを抱くことは間違いではありません。貧しい人を見て助けてあげるのも間違いではありません。しかし、修煉者は修煉に多くの精力を注ぐべきだと私は言ったのです。多くの因縁関係はあなたに見えないのです。あなたが助けたその人が将来大法を破壊する人になったら、どうしますか。もちろん、あなたが助けた人がみな将来大法を学びに来る人であれば、これは功徳無量なことです。将来彼はあなたに善い報いを与えます。いかなることに対しても、修煉者としての高い基準をもって自らに要求しなければなりません。お寺を建てることが良いことだと言っている人がいますが、実は私に言わせると、釈迦牟尼まで有為の法は幻のうたかただと言いました。自分を修めなければ永遠に上に行くことはできず、町中にお寺を建てても、佛になれません。なぜなら、あなたは修めていないからです。常人の心でこのことを図っており、佛のために多くのお寺を建てたからと言って、佛は便宜を図り、上に上らせることはありません。そういうことがあり得ますか? 修めなければ誰も上に上がって行けません。逆に言えば、あなたが建てたお寺の中に佛はおらず、佛が行くこともなく、狐、イタチ、ハリネズミ、蛇によって占領されているかもしれません。それでは、あなたはそれらの悪者を助長し、悪いことをすることになります。つまりこういう関係です。人間にはそれを見抜くことができませんが、修煉者は分かっていなければなりません。
弟子:『法輪大法義解』の七十二ページに、「もし本当に続けて修める事ができれば、自分はまだ修められる、まだ修めたいと思えば、親戚や友人の業力を取って来て、あなたが消去してあげれば、それも徳に変わります。しかしこれは非常に難しいことです。これは人の心性、心の容量に相応して成り立つことです。その一歩になると、すでに満杯になり、もう入れられなくなります。このような状態が現れます。更に苦を嘗めると、容量が足りないことによってその人は悪く変わり、落ちてしまい、修煉が無駄になってしまうかもしれません」と書いてありますが、最後の一文をどのように理解すべきでしょうか?
師:もし本当にこういう状況があっても、人々を高い次元まで修煉させる方法があると法理から説明しているのです。修煉者は関が大きすぎて耐えられなくなると、他の極端に走ってしまう可能性があります。常人が相手を指摘する時、あまりやりすぎてはならず、やりすぎると、相手が受け入れられなくなり、すぐにもう一つの極端に走ってしまう恐れがあります。これは常人が適切に問題に対処できていないということです。修煉の場合も同じです。そこまで修煉した時、大きすぎる難をあなたに与えたら、本当に危ないのです。関を乗り越えている時、これはあなたの関であり、修煉のためだとあなたに教えることはできません。教えることができるでしょうか? あなたには教えないのです。もう一つは、修煉が圓満成就した人は必ずすぐ悟りが開いてしまいます。これは間違いないことです。そこまで修煉して既にいっぱいになったのに、まだ悟りを開かせなければ、既に極限に達しています。悟りがまだ開かなければ、その人は絶望してしまいます。絶望によって、彼はもう一つの極端に走ってしまいます。これは極めて危険なことです。つまりこういう意味です。
弟子:撫順と西安の学習者は師父にご挨拶を申し上げます!
師:ありがとうございます!
弟子:国内で法輪大法を修煉している親族は、外からの妨害があり、煉功点で煉功できない状況下で、家で修煉し、修煉の心も変わっていませんが、これは彼らの圓満成就に影響するでしょうか?
師:『轉法輪』の中でこれについて私は既に説きました。家でしても外でしてもみな同じです。しかし、お互いに高めあうという条件を失ってはいけません。大法は学習者を圓満成就に向かわせることができますが、学習者も大法に圓容しなければなりません。
弟子:将来師父が自ら『洪吟』を吟じられるのを聞く機会があるでしょうか? ビデオテープにして……。
師:将来、機会があればできます。
弟子:人に優しく接するべきであり、女性の弟子は優しく穏やかでなければならないと先生はおっしゃいましたが、多くの場合、異性に誤解を与えることがあります。異性に対して常人のような態度で接したほうがいいでしょうか?
師:もちろんそうです。何かを話す時、どうしても男性のようにしなければならないのでしょうか? 女性は女性らしく、何をしても女性らしくすればいいのです。私はただこのように教えているだけです。誤解を与えるということにいたっては、通常、そういうことは起きません。人に接する時、やりすぎないでください。正々堂々としていれば問題ありません。
弟子:夫がアメリカ人で、私は大法を得て彼に紹介しました。彼が本を読んでいる時、法輪が彼の頭上で回っているのが私に見えました。しかし、ある日、彼は急にヨガを習い始め、ヨガが身体を強健にしてくれたと言い、ほぼ毎晩それが必要です……。
師:一部の物事に対して、冷静にみるべきです。自分のどこかに問題があったのではないかと、まず自分をみるべきです。もしそうでなければ、魔の妨害です。しかし、妨害であっても、自分に問題があっても、ご主人に道理から話すことはできます。人間はみな理性を持っているのです。私たちは心性を守らなければなりません。相手が間違ってもいいのですが、私たちは間違ってはいけません。もし、心性を守ることができれば、しばらくすると、これらのことは過ぎてしまいます。長く続くことはありません。最後に、彼は必ず私たちが修煉する次元の突破によって変化するのです。必ずそうなります!(拍手)
弟子:主観的な願望と無私無我の関係について。
師:常人の考えを修煉の状態と一緒にしないでください。あなたが言っている主観的な願望は常人の執着かもしれません。修煉の中で皆さんが無私無我に到達すべきだと要求しましたが、人為的にやり遂げるようにとは言っていません。しかし、修煉の中でこれをやり遂げるように努力しなければ、修煉ではなくなります。つまり、無私無我とは何かをまだ知らないのに、修煉してすぐそのような状態になるべきだと、無理強いで行なってはいけないということです。全ては向上の中で認識するようになってから、やり遂げることができるのです。
弟子:夫が大法の本を破り、大法に対して多くの不敬なことを話したことがあります。また、大法に不敬なことを何回かしたことがあります。私は非常に辛いのです。夫は大法の本を読んだことがありません。
師:以前大法を理解することができず、このようなことをしましたが、後で法を得た人が在席の中にいます。自分の何かが原因でそうなったのか、それとも本当に妨害があるかみてください。しかし、妨害であれ、修煉の中で現れた状態であれ、学習者はみな心性を守らなければなりません。人間は悪事や間違ったことをしてもいいのですが、私たちはこのようにしてはいけません。実は人間は何をやっても、償わなければなりません。大法を破壊する罪は非常に大きいのです。
弟子:大法弟子が煉功や法の学習に非常に熱心なのを見て、周りの人は理解することができず、修煉を敬遠してしまいます。これは弟子が最大限に常人社会に符合しながら修煉できなかったからでしょうか。
師:それでは、どのように熱心にやっているかみるべきです。もし学習者がいつも煉功や法の学習ばかりして、家事や仕事をしなければ、それではいけません。更に普段煉功の時、みな黄色い服を着ていれば、常人に宗教と見なされ、常人が入って来ることができなくなります。もし、煉功の時、みな普段の服を着て、普通の人と同じようにし、できるだけ周りの人と同じようにしていれば、煉功しに来て法を得る人が現れるかもしれません。
弟子:目の前に透明な風船のような膜が回っており、既に二年余り経ちました。膜の中で多くの黒い点が変化していますが、これは玄関と関係あるでしょうか? 師父にご教示願います。
師:そういうことかもしれません。それぞれの具体的な状態について私は明かしたくありません。このようにしたほうが皆さんの修煉にとっていいのです。
弟子:私に一歳の混血児の孫娘がいます。二十四時間彼女と一緒にいます。私が本を読んでいる時、彼女はいつも『轉法輪』と師父の写真に口付けしようとします。法を得させるために、師父の説法の録音を彼女に聞かせてもいいでしょうか?
師:もちろんできます。もちろんできます。大法弟子の子供は常人の子供とはやはり違います。
弟子:北京海淀区の大法弟子を代表して師父にご挨拶を申し上げます!
師:ありがとうございます!(拍手)
弟子:修煉の中で自分の執着心を取り除けば取り除くほど、常人が持っている各種の執着と執着の中の汚さを認識することができます。師父にお聞きしたいのは、どのような心で対処すべきでしょうか?
師:これは正常なことです。しばらくの修煉を通じて、こういう感じ方があります。常人社会で形成したこれらのことは常人社会の全ての人々に存在しており、常人はそれに気づかないのです。皆さんがそれに気づいたのは修煉の中で常人を超えたからです。しかし、それを排除し排斥する考えを持っていなければなりません。
弟子:「佛家の法輪、道家の陰陽、十方世界の一切、法輪の中に反映されないものはない」を翻訳する時、佛家の法輪を「ダマ輪」と訳す人がいます。「ダマ輪」と大法の中の法輪とどういう区別があるでしょうか? ご教示願います。この「ダマ」は英語の中で佛教の教えを指しています。師父は既にこの文にある二つの法輪を中国語の音声表記を使って法輪に直訳すべきだと指示されました。
師:そうです。直訳したほうがいいのです。直訳しなければならない言葉があり、確かに法輪の本当の意味合いをなかなか反映することができない言語があります。ですから、翻訳できない言葉があります。私はこのように思っています。「ダマ輪」を使ってはいけません。なぜなら、内涵が全く違うからです。
弟子:(一)今月の初め、世界日報に「引渡……」が書いてあるのを読んで、本当に辛かったのです。私は師父の写真の前で一人でいつも涙を流しており、師父の代わりに中国に帰ってこの難を受けようという考えがあります。
師:皆さんの心は私には全て分かっています。
弟子:(二)師父が多くの多くのことをしてくださったので、私がそうなったのか、それとも私は人間の心でこの全てに対処しているのでしょうか。
師:違います。そうではありません。全て違います……。この考えがあるのも自然なことです。(拍手)
弟子:夫が離婚を言い出して、それに同意しなければ、徳を失うことになるでしょうか?
師:他の人が何かをして、あなたが徳を失うことはありません。しかし、これらのことに対して自分で判断すべきです。なんといっても自分を煉功者、修煉者と見なすべきです。離婚はやはり良くないことであり、こういう場合相手をなかなか説得することができません。しかし、どんな状況もあり、何かの心を取り除くためかもしれません。どんなことがあっても私たち自身が正しく行なわなければなりません。
弟子:私は常人の勉学と生活を正しく扱うことができず、もし離婚が仕方ないことであれば、どうなるでしょうか? 私は大量に法を学んでも突破することができませんでした。この情を放下してこのことを受け入れれば、修煉者としての基準に合うでしょうか?
師:修煉者の基準に従って行なうべきだと私はこのようにあなたに教えるしかありません。確かに、多くの人はこの方面において放下できていません。他の学習者にもこのようなことがあったと私は知っています。離婚しそうになり、どのように説得しても駄目で、一緒に暮らすこともできなくなったので、離婚を決意しました。しかし、相手が本当に離婚しそうになるのをみて、これ以上何も言わなくなりました。学習者が本当に心から放下することができ、意地になって争わなければ、相手も離婚を言わなくなり、かえって法輪功をしたければしてもいいと言ってくれました。こういうこともありました。しかし、一律に全てこのようになるのではありません。確かに離婚してしまう人もいるので、あなたにこのようにすれば良いと教えることができません。修煉者の基準に従って行なうべきだと、このように教えるしかありません。自分が正しく行なってから、事態がどのように変化するかみてください。
弟子:武漢で煉功していた時、煉功点の輔導員から、私の姉は古くからの学習者ですが、しかし、色欲の関をずっと乗り越えていないと聞かされました。私は彼女が本当の修煉者ではないと思っています。これは私の個人的な認識であり、この認識は正しいでしょうか?
師:これはそれぞれの状況に応じて考えるべきだと思います。夫婦間のことをこのようにみてはいけません。なぜなら、最大限に常人に符合しながら修煉するように私は教えたからです。あなたの修煉が原因で家庭生活に影響してはいけません。私たちは常人のところで修煉しています。最大限に常人に符合しながら修煉すべきです。もし夫婦間のことでなければ、学習者としてこれは大きな問題になります。
弟子:私は画家で、今仕事を持っていますが、仕事以外に時間のある時にいつも何かを描きたいと思っています。しかし、法を学ぶ時間を使ってしまうのではないかと心配しているため、いつもこういう考えを抑えています。私は法輪功を始めてから、向上心を失い、以前の目標を放棄したと家族や友人に思われています。私は常人社会に符合しながら、自然に任せて、描きたいことを描いたほうがいいでしょうか?
師:ここで二つの問題についてお話します。一つは、あなたは仕事と法の学習との関係を正しく扱うことができなかったのです。正しく扱うことができれば、絵を描くことや創作に影響することはありません。私たちはみな仕事を持っており、みな社会の一員であり、しかも、多くの人がこの関係を非常に正しく扱うことができています。先ほど私は記者にもこのことを言いました。法を学んで、執着がなくなったら、どのように良い作品を描くのでしょうか? 常人の智慧は非常に限られており、智慧を絞りに絞って、食事も睡眠もろくにとれないほど、考え、推敲して創作し、やっと出来上がりましたが、良いものであるとは限りません。修煉者の場合、絵画が専門で、これを職業にしていれば、自分の仕事をしっかりこなすべきです。修煉の中であなたの思想境地もあなたの修煉とともに昇華しており、常人を超える思想境地で創作していれば、智慧を絞って考える必要がまだあるでしょうか? あなたが描こうとする全て、表現の手法、芸術の成果はきっと常人を超えるのです。こういう関係ではありませんか? しかし、どんな状況であっても、絵を描く時に時間が必要です。このことは私に分かっています。こういう状況でも正しく関係を扱うことができます。毎日法の学習と煉功に使う時間を決めて、残りの時間に仕事をすればいいのです。影響することはありません。
更に、ここであなたはあることに言及しました。絵を描く人はひらめきを重んじるのです。ひらめいたら、それを描きたい情熱が現れます。何を描くべきでしょうか? あなたに創作の意欲をもたらしたその考えから、どういうものが現れたのか見るべきです。当然、修煉者の基準に合っていないことを描いてはいけません。修煉者としては常人社会で最大限に常人に符合しながら修煉すべきですが、もし常人の道徳にまで符合しなくなったのであれば、描いてはいけません。それを描いてしまったら、業を造り、悪事を働くことになります。あなたが描いた絵は他の人にも見せなければなりません。もし本当に美しいものを描くのであれば、どうぞ描いてください。
全ての質問の解答は終わりました。今日の質疑応答はここまでにします。皆さんありがとうございます!(長時間の拍手)
いかなる厳しい環境下でも、皆さんは心を落ち着かせるべきです。いかなる心も動じなければ、全ての変動を制することができます!(熱烈な拍手)