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二〇〇六年カナダ法会での説法

李 洪 志

二〇〇六年五月二十八日 トロント市において



 皆さん、ご苦労さまです。(弟子たちは熱烈に拍手、一斉に「師父、こんにちは! 師父、お疲れ様です!」)

 数回の大型法会はすべて中国大陸以外の大法弟子により開かれた盛会です。毎回の大型法会に多くの新しい学習者と遠方からやってきた学習者が参加しています。ですから、毎回の法会は行うべき事項以外、本当に修煉の向上に実際の効果と作用のある法会にならなければなりません。このようになれば、新しい学習者とはるばる遠いところからやってきた学習者にとって、無駄足になりません。ですから、大法弟子の法会は毎年、必ず開催しなければならない形式的なものではなく、真に着実に修煉するために開かれるものです。これは私が当時、皆さんのために残した、広範囲の大法弟子が一緒に切磋琢磨できる唯一の環境です。ですから、必ず法会を確かなものにしなければならず、法会は修煉の向上にとって本当に有益なものになってはじめて、意義があるのです。

 皆さんは今のこの修煉方式について分かり、大法弟子にとってすでに明確になっています。大法弟子の修煉形式の要求に、在席の皆さんは、ほぼ達することができると思います。大法の修煉方式は常人の中で、かつてない常人社会での修煉方式を切り開きました。これは私が法を伝え出したその日から、すでに定めたこのような形式です。この方式は古から今日まで、かつてなかったことです。

 私が説法するとき、次元の低いものから高いものへ説かなければならず、基礎から話して、多くの人が分かるように話さなければならないため、最初のとき高いレベルのことを話しませんでした。実は、三界全体が創られたのは、今日大法を伝えるためです。以前の宇宙に三界はなく、人類も存在しませんでした。人類は神によって造られたのであって、これは間違いのないことです。宇宙人はなぜ、頻繁に地球を訪れるのでしょうか? たくさんの目的があります。そのほかに、宇宙人が人体を見て、かつて見たことのないものに圧倒され、驚嘆しています。以前の宇宙のこの環境の中に、つまり現在の三界が存在しているこれらの空間の中に、以前は各種の低級な生物がここで生息していました。中にいわゆる宇宙人も含まれています。実は宇宙人は、技術を身につけた低級な生物なのです。突然、この天体に巨大な変化が生じ、世が創られる中で人間が現れ、人間というこのような生命が現れました。しかも、人体の構造について、それらの生物は自分の技術から見て、人体の仕組みがあまりに完璧だと思っています。もちろんそうです。なぜ完璧なのでしょうか? 神が造ったからです。それらの単純な生物、この空間にある以前の低級な生命とは比べ物になりません。それはまったく違うものです。 

 人間は神によって造られたため、神の外形を備えており、神の内部の構造まで持っています。ただ、その現れには神の能力が備わっていません。その上、この空間本来の原因により、生命は真相を見ることができないようになっていて、この空間の生物が一種の特定された、特別に作られた環境、つまり人間の生存を維持する各種の神が総合的に構成している環境に存在しています。この環境が原因で、この空間にいる人間はこの空間の物体しか見えず、この空間以外の物体が見えないのです。さらに、特殊な形でこの空間に存在している物体も見えません。しかし、根基の良い少数の人はこのような物体を見たり、またはそれと接触したりすることができます。これによって多くの人は、宇宙の中に人間という生命しか存在しておらず、ここの生存条件が、すべての生命が宇宙で存在する際の唯一の条件であると信じ込んでいます。これによって、人間はますます自分自身を封じ込めてしまっています。ですから、人間はいくら研究しても認識しても、宇宙の真相が見えません。実はこれも正常な状態です。これは神が定めたことであり、人間がこの次元の中で、このような境地の中で生存するようにしているからです。つまり、人間の方法で、宇宙をどのように探測しても、永遠に宇宙の真相は見えません。これも神が定めたことです。
 
 それでは、このすべての目的は何でしょうか? 大法が伝わる前に、人間がこのような状態、この安定した状態を保てるようにするためであり、大法が伝え出されるまで待つためです。ですから、歴史の各過程で、三界と人類が造られた後、この世の歴史上に起きた各種の事件、人類が現れた初期の状態から、この数千年に人類の正統文化が現れた後の状態まで、例えば歴史上に現れたすべての有名人や大きな事件も含めて、実はいずれも、人類のために文化と思想、人間の理念を築き、大法が伝え出されるその日に、人間が法を認識し、本当の修煉を認識できるための文化なのです。これらの歴史が築かれていなければ、今日、ここに座っている大法弟子はみな、神によって造られたばかりの人間の原始的な状態であり、何もわからないという状態であれば、法を伝えることができず、法を理解することもできません。修煉とは何ですか? 分かりません。最も簡単に言えば、もし現在の人に知識がなければ、今日、どのように法を説くのでしょうか? 説く方法はありません。ですから、古から今日までのすべては、大法が伝え出されるために文化を築いているに過ぎません。

 このことを私は二つの段階に分けて進めています。一つの段階は、法を正す中で、法を正す修煉とともに歩んできた大法弟子は法を正す時期の大法弟子になります。その後、まだあります。次の段階は、法がこの世を正す時期の修煉者です。そのとき、全宇宙では人類以外、すべて法によって正され終えました。私はいつも言っていますが、旧宇宙の要素、旧勢力、各種の異なる良くない高次元の生命による法を正すことに対する妨害がありますが、そのとき、未来の修煉者の向上のために残された低次元のもの以外は、何も存在しなくなります。高次元の旧い要素の妨害がなくなった後、法がこの世を正すことはどんな様子でしょうか? みなさん、考えてみてください。人間はもともと弱いもので、宇宙の低次元空間の生命と三界内の各空間にいる生命はもともと、たいした力がありませんが、いかなる力のある高次元の旧勢力の要素による抵抗もなくなれば、そのとき、法がこの世を正すことはきっと別の状態になります。今、人間は「邪党がなくなったら、どうしますか? それはどういう状態でしょうか? 中国の未来の政府はどういうものでしょうか?」と想像しています。考える必要はなく、心配する必要もありません。もちろん、皆さんは法を実証し、真相をはっきりと伝える中、今の認識で推測してもかまいません。これは問題ありません。なぜなら、人間の正常な考えで、正常な理解で推測するのは問題ないからです。しかし、いったいどのようになるのか、それは人間が決めることではなく、人間が今想像しているようなことでもありません。そのとき、人類社会は完全に変化し、状態や社会の構造まで変わるのです。

 それならこの期間、特に大法弟子が法を実証する時期は法が正される時期と同じなので、この時期の修煉者にとって、要求は特別に高いのです。なぜなら、今の修煉者は法を正すことと同時に存在しているので、多くのものを背負い、責任も大きいのです。師父にどれほどの法身があっても、宇宙の中でどれほどの能力を持っていても、一層一層に重なる旧宇宙の間隔にいる主体はこの世で法を正す中でのすべてを指揮しています。人類と三界はもともと、法を正すために造られたのであり、師父の主体もここにいるので、法を正すことに対する邪悪の妨害の焦点もここにあります。大法弟子はここで、法を実証し、法を守り、同時に自分を修煉しているので、その責任は必ず重いものです。しかも、ここの衆生をも救い済度しなければならず、この責任も大法弟子にとって非常に重いものです。ですから、法を正す時期の大法弟子はなおさら、普通ではありません。

 私はすでに話しましたが、歴史上にこのような修煉、あのような修煉があっても、文化を築いているだけなのです。修煉とは何でしょうか? 今日こそ人間が本当に修煉しているのです。(拍手) 今日のこの形式だけが、宇宙のすべての神に本当の修煉として認められています。(拍手) 以前は、いずれも文化を築いていたのです。人は三界に降りた後、今までここから出た者はいません。宇宙から人間のところにやってきた生命の誰もが天上に戻ることができず、今まで一人もいませんでした。昔、修煉、修煉と口にしていましたが、誰もが成就しませんでした。天上に上ると言いますが、誰もが上ることができませんでした。ご存知のように、副元神がいます。人間を担体として修煉する副元神の中に天上に上ったものがいます。なぜなら、人間を担体にすれば、副元神は人間の外見と形象を持つようになるからです。ですから、以前の修煉方式の中に誰それが天に昇ったと見た人がいて、亡くなったとき天に昇ったのだと言っています。しかし、天に昇ったのはその人の主元神ではなく、本当のその人ではありません。ですから、これまで三界に来た生命の誰もが戻っておらず、戻ったのはすべて副元神でした。しかし、副元神は主体がどうなるのかをまったく重視していません。いかなる神も今まで、人間を重視したことはありません。

 以前、私は神も異なる時期に造られ、成就したのだと言いました。宇宙の真相、三界の歴史、三界が存在する目的でさえ、ここに近づくことができる神には分からないのです。特に、人間と接触できるそれらの神はみな、低次元のもので、これらのことや、人間が存在する意義についてもまったく知らないのです。ですから、これが原因で、彼らは人間をまったく重視していません。私が大法を伝えた当初、多くの神は、すでに人間がこのようになったのに、まだ大法を伝え、これほど良い法を人間に伝えている、と言ったのです。彼にどうして人間が存在する本当の意義が分かるのでしょうか? もちろん、今になって全部分かるようになり、知るようになりました。法を正す中で、一歩一歩歩んできて、真相が絶えず現れ、一部の負の作用を働いた神は間違ったことをしたと分かるようになり、徐々に真相が見え、全部分かるようになりました。まだ最も根本的な問題が残っています。つまり、旧勢力は根本から完全に否定されましたが、これについてそれらはまだ完全に、最終的に受け入れることができず、まだこの真相が見えていません。最後の一歩になって、それらがこの真相を見たときは、もう遅いのです。それらにとって恐ろしいことです。

 このことは二つの段階に分かれて、進んでいます。人類社会は大法弟子が迫害されているのを見て、いくら無関心であっても、人類社会での各種の表れは常人社会に対して、それほど大きな衝撃はないようであり、各業種はまだ順調に動いており、人類社会、この機械はまだ動いており、しかも正常に動いています。これは法がこの世を正すときに、はじめて人間のことを正すことになるからです。私は今、ほとんど人間に関係することを行っていません。世の人を救い済度する中、皆さんは人間の良知と善なる本性を啓発しているに過ぎません。邪悪が大法弟子を迫害する期間中、邪悪は大法弟子を迫害するための言い訳を作るため、世の人々が全部大法弟子と大法に反対し、この世に大法弟子の居場所がないようにするため、人類社会で多くの虚言を作りました。全国のすべての宣伝機関を利用して煽り、全世界の人々が邪悪の虚言を信じ、大法弟子に対する迫害に参加するように企んでいました。この情況下で、多くの真相を知らない衆生と世の人々が毒害されました。つまり、大法弟子がこの期間に真相を伝える目的は人を救い、旧い要素と悪党の邪霊の人間に対する毒害を根絶するためです。法を正す中で、これらの旧い勢力は淘汰されなければならず、悪党と邪霊も必ず淘汰され、それらの仲間になったものも、すべて淘汰されるのです。これは法を正す中に定めた原則であり、このようにしなければならないのです。もし私たちがその人を救わなければ、その人は邪悪とともに、歴史に淘汰されてしまいます。
 
 生命が本当に淘汰されるなら、それは恐ろしいことです。人間に見える人間の死は怖いことではありません。それは生命の死亡ではないのです。人間の死とは、最も表面の物質空間によって構成された外殻を脱いだだけで、一枚の服を脱いだと同じで、本当の生命はすでに六道に入り、輪廻しました。もちろん、修煉中の人が死んだ時、修煉が良くできていた場合、一つの副元神が連れて行かれますが、それは本人ではありません。これは人間が死んだ後に見られる一つの現象です。大法が切り開いた修煉だけが、本当に人間を成就させることができます。人間がやってきた目的、人間の存在する目的は、歴史上ずっと謎のままでした。謎だから、すべての神も分かりません。これによって、人類の安定と三界の安定、人間の安全を有効に保証しています。

 これらの謎は現在、少しずつ明かされています。なぜ大法を伝えるのか、なぜ人類でこれほど大きな法を伝えるのか、人間になぜこれほど多くの福があるのかと、神と天上の生命も徐々に分かり、真相を知るようになりました。それらの神はかつてよく私に「あなたは人間ばかりを重視している」と言っていました。その言外の意味は、つまり「あなたは私たちを重視していない。法を正す中で私たちに対して厳しくやっているのに、人間に対してそれほど優しくしている」ということです。しかし、今では、これを言わなくなり、このように言う神はいなくなりました。つまり、三界、世間、人類、ここのすべては全宇宙に及んでおり、全宇宙の数え切れないほどの衆生が救い済度されることに及んでいるのです。中に、高級生命、極めて高い次元の生命が数え切れないほどいます。これは重大なことではありませんか? しかし、人間は、長期に迷いの状態にいるので、三界の中で真相が見えないのです。真相が見えない以上、人間に三界で生活を維持できる状態を与えなければなりません。迷いの中で人間は必ず、この状態の中に陥ってしまうのです。そのため、人間は生存のために互いに傷つけあい、利益のために争い、闘いあったりします。それは穏やかに現れても、強烈に現れても、いずれも個人の利益のため、私心のためなのです。しかし、いずれにせよ、人間にこの状態を按排したので、この状態に収まっていれば、人間の間違いとは見なしません。長くこの環境の中に、この迷いの状態にいて、いざ大法が伝え出されたら、人間が法を認識できるかどうか、長い間、人間の中に封じ込められていて、この殻を破ることができるかどうか、これは人間にとって極めて重要な問題です。人間にとって、不公平のように見えますが、実は公平なのです。

 人はこの世にやってきて、この環境の中で、誰かが限定された状態を超え、生存していくうちに絶えず相手をひどく傷つけたり、悪事を働けば、つまりその人は、この環境を破壊し、人間のこの状態を破壊し、この重大なことに対して罪を犯しているのです。大法が伝え出されている中、大法弟子が修煉しているこの過程の中で、法を得られるかどうか、最後まで修煉できるかどうかは、歴史上造った業力の多少により、必ずその人、その修煉者に対して、程度の違う困難をもたらします。はっきり言えば、法を得られるかどうか、最後まで修煉できるかどうか、異なる人に異なる妨害があります。厄介なことは全部、自分で昔造ったのです。誰のせいにすることもできません。誰が法を得ることができるのでしょうか? 誰がこの殻を破ることができるのでしょうか? 誰が本当に理性的にこの法を認識することができるのでしょうか? 衆生にとって、このことから見れば、間違いなく公平なのです。

 これほど、重大な一大事に対して、どのような態度で対処するのか、人間にとって極めて重要なことです。ですから、この謎は人間に対してこの作用を働いています。修煉できるかどうか、真理が見えるかどうか、真相を見るかどうか、この法に接することができるかどうか、衆生にとって、迷いの中で確かにとても難しいことです。ですから、今日ここに座っている大法弟子は全人類のすべての人ではないのです。もちろん、私が言ったように、大法が伝え出され、衆生に対して全部平等なのです。階層や職位を見ておらず、人心と大法に対する態度のみを見ています。実は、法を正す全過程で、ずっとこの最も寛容で慈悲なる方法で行っています。生命の歴史上の過ちを見ていません。歴史上、いくら大きな罪を犯しても、いくら大きな過ちがあっても、まったく見ていません。今日の法を正すことに対する態度、大法に対する認識だけを見ています。これだけなのです。大法を受け入れられないのであれば、機縁を失ってしまいます。大法を認めないと言う人がいます。大法を認めなければ、すなわち未来を認めないということになります。なぜなら、未来はこの法によって創建されるからです。

 法を正す中で、全宇宙はほぼ、やり終えました。以前、私は話したことがありますが、旧宇宙と新宇宙との間は、天秤のように新宇宙の比重がますます多くなり、法が正され終えた部分はますます多くなり、天秤のように押え切っています。今はもうこの問題ではなく、新しい宇宙はもう間もなく完全に完成されます。(熱烈な拍手) 残ったものはすべて最後の要素です。これらのものもすべて解決されれば、最終的に法を正すことが終わります。法を正すことが終われば、新しい宇宙の歴史がいよいよ始まります。最後はこの世だけが残っています。人類のこの地球、三界の範囲を取り囲み、封じ込め、さらに新しい宇宙から切り離し、大宇宙から切り離します。現在の科学者も発見したのではありませんか? 銀河系は宇宙からますます遠のいており、急速に離れているのではありませんか? 実は分離する過程なのです。法を正し終えた新しい宇宙に対して、三界内のすべての生命はこの新しい宇宙を汚染する作用をしてしまうので、離脱させなければなりません。三界を封じ込めて単独に行います。これはすなわち、法がこの世を正すことです。

 この期間に修煉している大法弟子が背負っている責任はこれほど多く、これほど大きいのです。皆さんよく分かったでしょう。人類が存在する目的と大法の修煉状態は、もともとこういうことです。それなら、皆さんはこの世で修煉するこの形式について、もっとはっきりと理解すべきです。これこそ修煉であり、これこそ三界の生命のために按排した本当の修煉です。今まで現れたすべては、全部人類に文化を築くためのものであり、これこそ人間が本当に元に向かって昇っていく最後の始まりなのです。ですから、修煉の中で修煉者に対する要求も異なります。師父が法を伝える中で、しっかり行うようにと教えた三つのことは、見た目は簡単ですが、精進しているかどうかはそれによって決められ、どういう果位を成就するのかもそれによって決められます。大法は常人社会で最大限に常人社会にあわせながら修煉するという修煉形式を切り開きました。これに対して、多くの人はこれが修煉を易しくするため、便利にするためのものだと思っていますが、精進している学習者はこのように理解してはいません。これは大法弟子が修煉の中で必ず歩まなければならない道なのです。ですから、皆さんが行なったすべてのことは、常人の中で、家庭関係、社会での関係を正しく扱うこと、職場や社会での行動でさえ、簡単にいい加減にしていいことではありません。このすべてはあなたの修煉形式であり、厳粛なことなのです。

 多くの学習者は煉功と法の勉強だけが修煉だと知っています。そうですが、これは直接、法に接触している部分です。着実に自分を修めるとき、あなたが接触している社会はつまり、あなたの修煉環境なのです。あなたが接触する職場の環境、家庭の環境はいずれも、あなたの修煉環境であり、あなたが歩まなければならない道であり、必ず対処し、しかも正しく対処しなければならないことで、どのこともいい加減にしてはいけません。最終的に歩み終わったら、師父が皆さんのために按排したこの道を、皆さんはどのように歩んできたのでしょうか? このすべては最後に、見ないといけません。修煉過程の中のこのすべても見なければなりません。ですから、いかなることも軽視してはいけません。便利と言うなら、人間は出家せずに修煉でき、山奥に行く必要もなく、世俗から離れる必要がなくなりましたが、もう一面から言えば、このすべてによって、別の困難がもたらされました。つまり、すべてのことをしっかり行わなければならず、いかなることもしっかり行ってはじめて、抜け出すことができるのです。

 もちろん、私はこのように話しても、人によって法に対する認識の高さは異なります。さらに新しい学習者もいます。しかし、「家庭のことをしっかりすれば、つまり修煉することになる。それなら、親や兄弟との関係をさらに親密にすればいい」と思う人がいます。あなたはまた、新しい執着に入り、極端に走ったのです。すべてのことをしっかりやらなければなりませんが、やりすぎてはいけません。やりすぎると、また執着になります。しかも、大法に対する態度を正しく取らなければならず、本当に自分を修煉者として見なし、どのように精進すべきなのか、どのように法に対処し、修煉すべきなのか、本を読む時間の長さも含めて、軽視してはなりません。むしろ、もっと重要なのです。なぜなら、これはすなわち、皆さんの道であり、皆さんが歩むべき道だからです。皆さんはほかでもなく、常人社会から抜け出し、法を正すことと同時に存在し、衆生に対して責任を持たなければならないので、このように修煉しているのです。
 
 以前、話したことがありますが、皆、山奥に入り、お寺で修煉していれば、社会に広く接触することができず、さらに広範囲にわたって、力強く衆生を救い済度することができません。そうではありませんか? ですから、目的をもって皆さんにこのように行わせているのではありませんか? これで、より便利な条件で衆生を救い済度することができるのではありませんか? もちろん、修煉の過程で、あなたが向上しなければならないので、あなたにとって、修煉者にとって、きっと試練があります。正しく行わなければ、絶えず厄介なことが現れます。正しく行っても、修煉の中の試練も絶えず現れます。皆さんはそれを一概に妨害と見なし、この厄介なことを終わらせるために解決しようとするならば、解決することができません。なぜなら、それはあなたの向上のために現れるものだからです。これに対して、「この厄介なことを通じて、どのようにすれば、この妨害に関係するすべてに正しく対処し、衆生を救い済度する目的から、その関係を正しく対処できるのか、衆生に対して責任を持っているので、どのようにすれば、これらの出来事の現れを真相を伝えるきっかけにすることができるのか、これがちょうど真相を伝える良い機会だ」と、正念をもって対処すべきです。普段、相手のところに真相を伝えに行こうとしても訪ねる理由がなく、きっかけがなければ、訊ねにいっても、会ってくれないし、妨害者が現れたら、ちょうど接触の機会を持てるようになったのではありませんか? ちょうど真相を伝えられるのではありませんか? 大法弟子は自分の修煉のほかに、最大の責任は衆生を救い済度することです。このことをしなくて良いでしょうか? しっかり行わなくて良いでしょうか? ですから、現れたすべての問題は全部自分が行おうとする大事なことで、法の勉強や真相を伝えることに対する妨害だと思わないでください。そうではありません。問題が現れれば、それは真相を伝える機会なのです。
 
 三界で物事を見る場合、すべてが逆になっていると私は言ったのではないでしょうか? 人類が良くないと思っていることの多くは良いことです。人類が良いと思うことの多くは良くないことなのです。この世の理は逆になっているのではありませんか? 人間は苦をなめることが良くないことだと思っていますが、常人にとって、苦をなめることは同様に、業力や罪を消去することができます。一生で多くの苦をなめたなら、来世、福報を得ます。来世、金持ちになり、高官になることは、前世に良いことをしたため、貯めた福と徳があるからです。悪事ばかりを働く人は、少しの福と徳もなく、多くの業力を貯めてしまい、来世に福報がなく、幸せを享受できないだけでなく、業力を返さなければなりません。今生、貧しい生活を強いられ、人からも見下され、社会がどうして自分にこんなに不公平なのかと思う人がいます。実は、すべて前世に造った借りを今、返しています。これは常人の角度から言っています。修煉者にとって言えば、この環境はちょうど修煉者に向上の機会を提供してくれているのではありませんか? 大法弟子はみな、苦をなめることによって、業が滅されると同時に、自分に向上の機会を提供してくれていると思い、正しく認識できれば、業力を返すほかに、この機会を利用して行うべきことをしっかり行えます。難しいですが、それは自分が乗り越えなければならない関なのです。自分の心を正しく持ち、自分とトラブルとの関係に正しく対処し、正しく乗り越えることができれば、あなたはこの関を乗り越えたことになり、あなたの次元が高まり、境地が向上し、功も伸びるのです。そうではありませんか? 正法修煉の全過程はこのようになっているのではないでしょうか?
 
 覚えておいてください。人類の理は逆になっています。修煉の中でぶつかった厄介なことは、全部トラブルだと思ったり、自分が行おうとする大事なことへの妨害、自分が行おうとする大事なことへの邪魔だと思ったりしてはいけません。自分がこのことが重要だ、あのことが重要だと思っていても、実は多くのことは、あなたが見たような状態ではないかもしれません。皆さんの本当の向上はいつになっても、第一位のものです。皆さん自身が修煉して圓満成就することは、いつになっても第一位のものです。しかし、あなたが自分の修煉と向上が最も重要だから、誰も妨害してはいけないと思ってしまえば、あなたはまた、間違えました。妨害は向上の機会ではありませんか? 師父である私から言えば、あなたの向上が最も重要だと思いますが、あなたに平坦な道を歩ませて向上させるわけではありません。体中の業力を持って昇天し、多くの荷物を抱えて昇天したなら、(皆笑って)それではいけません。あなたのために幾つかの関を設けて、それらの心、それらの荷物を放下させます。一つ一つの関の中で、あなたは絶えず執着と人心を放下しなければいけません。それらのものは異なる関に持っていくことができません。ですから、関がやってきたら、あなたは厄介なことが来たと言うかもしれません。更にあちこちに師父を探して、「私はどうしたら解決できるのか?」と聞く人もいます。私が解決してあげたらよいのですか? 私が解決してあげたら、あなたはこの関を乗り越えることができません。この関をなくしたら、あなたはまた、大きな荷物を持って前へと進むつもりですか? ですから、私はその関を無くすわけにはいきません。(笑) そうではありませんか? ですから、修煉するなら、皆さんは修煉とは何かを本当に認識しなければならず、本当に理性を持って自分の修煉に対して責任を持つべきであり、本当に正念を持ってぶつかったすべてのことに対処し、正念を強く持たなければなりません。
 
 私は前回の西部法会で、大法弟子の中の多くの人が、人から指摘されたくないことを言ったのではないでしょうか? 指摘されてはならず、指摘されるとすぐ怒ってしまい、機嫌が悪くなり、相手と衝突を起こしますが、褒められると嬉しいのです。あなたは、平坦な道を歩みたく、自分の大きな荷物を抱えながら昇天したいのではありませんか? そういう意味ではありませんか? 常人にあるすべての良くない心、様々な執着は全部、放下しなければなりません。指摘されることを恐れる心も執着ではありませんか? 褒め言葉だけを聞きたい、これはあり得ることでしょうか? わざとあなたが聞きたくないことを話して、あなたの心が動じるかどうかを見るのです。人間が神のことを何と言おうと、神はまったく気にしません。人間は神を動かすことができません。神はあなたがしたことに自分とどういう関係があるのかを、まったく気にしないし、まったく構いません。なぜなら、あなたは神を動かすことができないからです。神は人心を制御して、人間の行為を左右することができますが、人間が神を左右しようとしても、それはありえますか? ですから、神になりたければ、あなたはこのようにならなければいけないのではありませんか? あなたは執着を放棄しなければならないのではありませんか? 人間に動かされえる心を全部、放下すべきではありませんか?

 大法弟子があなたにもたらしたトラブルも同じです。これが常人からもたらされたトラブルではないので、なかなか乗り越えられないとあなたは言い訳をするかもしれません。当然ながら、大法弟子は修煉している神ではなく、修煉している人間なのです。人間が修煉しているから、時に各種の人心が現れてくるはずです。ですから、大法弟子のこの修煉環境の中で、生命が絶えず上に向かって進んでいるとしか言えません。この修煉環境の中で、すべてが神のように純粋であることは不可能です。この環境は常人の環境よりかなりよくなっていて、このようになっただけです。しかも、ますます良くなっています。ですから、大法弟子のこの環境の中にも、各種の人心の現れがありえます。時に非常に良くない行いの現れもあります。皆さんが歩んできている中、これらのことを見たのではありませんか? これはすべて正常なことです。

 確かに、多くの人は大法に与える良くない影響を見て、非常に心配で、どうしてこの学習者がしっかり行わなかったのかと思っています。そうです。皆このように思っていれば、この環境を守り、この環境を絶えず清らかなものにすることができます。しかし、問題はまた現れることがあり、人心もまた現れてきます。私は全体を見ており、それが修煉環境の中で必ず現れることだと分かっています。しかも、それが修煉の過程で必ず徐々に取り除かれるものだと、私も分かっています。修煉ですから、最後は皆向上できます。これも私に分かっています。この環境で修煉していれば、このようになります。しかし、それぞれは自分に対して気を緩めてはならず、大法の名誉を傷つけている人を見たら、放っておいてもいけません。これは皆さんに対する要求です。大法弟子として、皆さんはみな、法を守り、法を実証しているのではありませんか? これは皆さんの責任です。ですから、修煉の過程で、自分が想像しているように、修煉だけが重要であり、ほかのことはすべて重要ではない、例えば、家庭は重要ではなく、社会は重要ではなく、いかなることも重要ではないということではありません。それらの関係に正しく対処してください。これはあなたの歩むべき道です。私は、最大限に常人社会の形式に合わせて修煉するようにと言いました。もちろん、どのような人もいます。法を破壊している人は学習者を転向させる強制労働収容所で、「師父が最大限に常人社会に合わせて修煉するようにと言ったのではないか? 常人に戻って、もう勉強する必要はない。本を上納せよ」と言っています。そうですね、どのような人もいます。もちろん、最も根本的なことは、あなたが修煉者であるかどうかです。法から離れたなら、何を修煉するのですか? 常人の中にも、私を師父と呼んでいる人もたくさんいますが、彼らは修煉者ではありません。つまり、私を師父と呼んでいる人が、みな修煉者であるとは限りません。必ず真に着実に修煉し、本当に自分を修煉者として扱わなければならないのです。

 先ほどの話は、このくらいにしましょう。皆さんの法会に確実な効果がなければなりません。先ほど学習者の発表を聞いて、法会の熱い雰囲気を感じています。とても良かったのです。私はとても嬉しいのです。皆さんの時間を多く使いたくはありません。皆さんに会いに来ただけです。毎回、法会に来る目的は、一つはなんらかの問題を解決するためであり、もう一つは皆さんに会ってみたいからです。師がいて、法があると言っている人がいるのではありませんか? それなら、皆さんは自分が行うべきそのすべてをしっかり行ってください。ありがとうございます。(長時間の熱烈な拍手)