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法 輪 功

第二章 法輪功



 法輪功ファールンゴンは佛家法輪ファールン修煉大法に源を発する、佛家気功修煉の特殊な方法ですが、一般の佛家修煉方法とは異なる独特なところがあります。本功法は本来、きわめて高い心性を持つ大根器だいこんきの修煉者が学ぶ、特殊な強化修煉でしたが、より多くの煉功者が向上できるように、そして修煉に志のある多くの方々の要求を満たすために、本功法の中から普及に適した修煉方法を整理してここに公開することにしました。それでも、それは一般の功法で学ぶものと一般功法の次元を遙かに超えています。

 一、法輪の作用


 法輪功の法輪は宇宙と同じ特性を持った宇宙の縮図です。法輪功を修煉する者は、功能と功力を速やかに伸ばすことができるばかりでなく、非常に短い時間内に威力この上ない法輪を修煉して得ることができます。法輪は形成されれば、一種の霊性をもった生命体の存在となります。普段は煉功者の下腹部で自動的に回転してやまず、絶えず宇宙からエネルギーを採りこみ演化して、最終的には煉功者の本体のなかでそれを功に転化させ、法が人を煉る効果を発揮します。言い換えれば、人がいつも煉功していなくても、法輪が絶えず人を煉っているということです。法輪は内に向かっては自己を済度し、健康増進、知恵の開発および煉功者を逸脱いつだつから守ってくれる作用がありますし、心性の劣っている人から妨げを受けないよう修煉者を守ることもできます。法輪は外に向かっては人を済度し、他人の病気を治し邪気をはらい、あらゆる異常な状態を直すことができます。法輪は下腹部で絶えず回転しており、右回り(時計回り)に九回、左回り(反時計回り)に九回回転します。右回りのときは、宇宙からエネルギーを猛烈に吸収し、そのエネルギーは非常に大きいものです。功力の増大に従って回転力はますます強くなり、人為的に気をすくい上げて灌頂かんじょうしてもこれには遠く及びません。左回りのときは、エネルギーを放出して、衆生を普く済度し、正しくない状態をただしますので、煉功者のまわりにいる人がみんなその恩恵を受けます。我が国で伝えられているあらゆる功法の中で、法が人を煉ることのできる功法は、法輪功のみです。
 法輪は最も貴重なものであり、千金でもっても替え難いものです。わたしの師は、私に法輪を伝えてくれたとき、この法輪は誰にも伝えてはならないものであり、千年にわたって道を修めている人でさえそれを得ようとしても得られないのだ、と言いました。われわれのこの法門は非常に長い年月を経て、はじめて一人の人に伝えられるものであり、数十年で一人に伝えるようなものとは違います。ですから法輪はきわめて貴重なのです。いま、われわれはそれを取り出して演化しましたので、本来ほどの大きな威力はなくなりましたが、それでもやはりきわめて貴重なものです。修煉者がそれを得れば、修煉の半分が達成されたようなもので、あとは自分の心性を向上させさえすれば、将来かなり高い次元があなたを待っているのです。もちろん、縁のない人は、将来修煉していけなくなりますので、法輪も存在しなくなります。
 法輪功は佛家功ですが、佛家の範囲を完全に超えており、宇宙全体を煉っています。昔、佛家修煉では佛家の理を、道家修煉では道家の理を唱えましたが、誰も根本から宇宙を完璧に説明できた人はいませんでした。宇宙も人間と同じように、物質的に構成されている以外に、その特性の存在をもっており、「真・善・忍」という三文字にまとめることができます。道家修煉は主として「真」を悟り、真実のことを話し、真実のことをし、返本帰真へんぽんきしんして、最終的に真人になることを目指します。佛家修煉は「善」に重点が置かれており、衆生を普く済度するために、大いなる慈悲心を生み出そうとします。われわれのこの法門は、「真・善・忍」を同時に修め、宇宙の根本特性から修煉して、最終的に宇宙との同化を果たします。
 法輪功は性命双修の功法であり、功力と心性の上で一定の次元に達すると、世間にいる間にも悟りを開く(功を開く)状態に到達し、修煉によって不壊ふえの身体を得るよう求めています。法輪功はおおよそ世間せけんほう出世間しゅっせけんほうなど多くの次元に分かれていますが、志のあるすべての者が修煉に勤め、絶えず心性を高めていき、圓満成就できるよう期待しています。

 二、法輪の形態構成


 法輪功の法輪は霊性をもった、回転している高エネルギー物質体です。法輪は天体宇宙全体の運行規則に従って回転しており、ある意味では、宇宙の縮図といえます。
 法輪の中央は佛家の「卍」符で、梵語ではSrivatsa(シェリーバトゥサ)、「吉祥の集まるところ」(『辞海』)という意味であり、法輪の核心をなします。色は黄金色に近く、その地色は非常に鮮やかな赤、外の輪の地色はオレンジ色です。四つの太極と四つの佛家法輪が、交互に並んで、八つの方位に配置されています。赤と黒からなる太極は道家のものであり、赤と青からなるのは先天大道のものです。四つの小さな法輪も黄金色で、法輪の地色は、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、と周期的に変化し、色が非常に綺麗です(口絵参照)。中心の「卍」符と太極の色は変わりません。これらの大小の法輪と「卍」符はみな自転しています。法輪の根は宇宙におろされており、宇宙が回り、各恒星系も回っているので、法輪も回っています。天目の次元の低い人には、法輪が扇風機のように回転しているのが見えますが、天目の次元の高い人には、法輪の全景が見え、それは非常に美しく、鮮やかなものであり、煉功者をして修煉においていっそう勇猛邁進させてくれます。
 

 三、法輪功の修煉の特徴


(一) 法が人を煉る
 法輪功を学ぶ者は、速やかに功力と功能を伸ばすことができるばかりでなく、修煉によって法輪を得ることもできます。法輪は非常に短い時間で形成されますが、いったん形成されると、その威力はこの上なく大きく、煉功者を逸脱から守るとともに、本人が心性の劣る人に妨げられないように守ってくれます。理論の上でも伝統的な修煉法とはまったく異なっています。なぜなら法輪は形成されてから、絶えず自転を続ける、霊性をもった生命体の存在であり、普段は煉功者の下腹部に絶えずエネルギーを蓄えているからです。法輪は回転によって宇宙からエネルギーを採りこみます。自転して止まらないからこそ、法が人を煉る目的を達することができるのです。すなわち人が四六時中煉功していなくても、法輪は絶えず人を煉っているわけです。当然のことですが、常人は昼間は仕事をしなければならず、夜は睡眠をとらなければなりませんので、煉功時間は非常に限られています。二十四時間絶えず煉功していようとして、いわゆるつねに練功のことを考えておくというやり方ではいけません。あるいはほかのどんな方法を取り入れても、本当に二十四時間つねに煉功しているという目的を達することは難しいのです。しかし、われわれの法輪は絶えず回転しており、宇宙から内に向かって大量の気(初期エネルギーの存在形式)を採りこむ一方、採りこんだ気を昼夜を分かたず、つねに法輪の各方位に蓄え転化させ、気をさらに高次の物質に変え、最終的に修煉者の身体で「功」に転化させます。法が人を煉るというのはこのことを言うのです。法輪功の修煉は各流派、各門派の丹道たんどう気功の煉功学説とまったく異なっています。
 法輪功の修煉における最大の特徴は、法輪を修煉することであり、「丹」の道を歩みません。現在伝えられているどんな流派、どんな門派の功法にせよ、佛教、道教の各功派にせよ、また佛家、道家、民間のものに関わらず、多くの旁門の中の修煉方法にせよ、どれもこれも丹道を歩むものであり、丹道気功と呼ばれます。和尚、尼僧、道士の修煉は、いずれも丹道という道を歩んでいます。死後火葬すると、舎利しゃりが出てきます。現在の科学測定機器でもそれがどんな物質によって構成されているのか分かりませんが、非常に硬くて、綺麗なものです。実はそれは他の空間から採集した高エネルギー物質にほかならず、われわれのこの空間のものではありません。それがつまり丹です。丹道気功で生存中に悟りを開く状態に達するのは非常に難しいことです。昔、多くの丹道を煉る人が丹を上へ引き上げようとして、泥丸宮でいがんきゅうまで上げるのですがそこで詰まってしまい、結局息ができなくなって死んでしまいました。人為的にそれを炸裂させようとする人がいますが、炸裂させようがありません。こんな例がありました。ある人のお爺さんが修煉して成就できなかったので、死後丹をお父さんに吐き残し、お父さんも成就できなかったので、死後その人に吐き残したのですが、今に至ってもその人は相変わらず何者でもありません。とても難しいのです! もちろん、良い功法もたくさんあり、本当に直伝を得れば素晴らしいのですが、上級のものを伝えてもらえない恐れがあります。
 
(二) 主意識を修煉する
 人にはそれぞれ主意識があり、普段何かをしたり、物事を考えたりするときは、主意識を働かせています。主意識のほかに、人には一つないしいくつかの副意識も存在していますし、さらには家族の間で先祖から伝わっている信息もあります。副意識は主意識と同じ名前をもっています。副意識は普通、主意識より力があり、次元が高いので、彼自身の特定の空間が見え、われわれの常人社会にまどわされません。多くの功法は副意識を修煉する道を歩んでおり、肉体や主意識は単なる媒体の役割しか果たしていません。こういうことは、煉功者には普通分かっていないのに、得意満面にさえなっている人もいます。人は社会に生活しているため、現実のものを捨て去るのは非常に難しいことです。とりわけその人が執着しているものならなおさらです。ですから多くの功法は入定の中で演化すること、完全に入定することを強調していますが、入定の中で演化するとき、その人の副意識がその社会の中で演化し、演化の過程で向上しているのです。そのうちあなたの副意識が修煉して成就し、功をたずさえて行ってしまえば、あなたの主意識と本体には何も残りません。一生の修煉が無駄になってしまいます。それは大変惜しいことです。一部の著名な気功師は、さまざまなすごい功能をもっており、高い名声を得ているのですが、その功が全然自分の身体についていないことに本人は分かっていないのです。
 法輪功は主意識に焦点を定めて修煉しており、功が確実に本当にあなたの身体につくように求めています。もちろん副意識もその恩恵を受けるのですが、彼は従属しながら向上することになります。われわれのこの功法は何よりも厳しく心性を求めています。常人社会の中で、最も複雑な条件の下で心性を錬磨することによって、向上することを求めており、まるで泥沼から咲き出た蓮の花のようです。だからこそ、あなたの修煉の成就が許されるのです。法輪功が貴重なのはまさにこのためであり、あなた自身が功を得るということが貴重なのです。しかしこれは非常に難しいことです。その難しさはまさに、最も複雑な環境の中で錬磨する道を歩むことにあります。
 煉功の目的が主意識を修煉することにある以上、つねに主意識で自分の煉功を支配しなければなりません。主意識が決定権を持たなければならず、副意識にそれを譲り渡してはならないのです。さもなければいつか、副意識が成就して去っていくとき、功も持って行かれてしまい、本体と主意識に何も残らなくなります。高い次元を目指して修煉しようとしているときに、主意識が眠っているかのように何も知らず、何の功を煉っているのかも分からないようではいけません。必ず自分が煉功し、上を目指して修煉しており、心性を向上させているということを自覚しておかなければなりません。そうしてこそはじめてあなたに主導権があり、功を得ることができるのです。あなたがぼうっとしている間に、やろうとしていたことがやり遂げられて、あなたにもどうしてそうなったのか分からないときがありますが、実はそれは副意識が役割を果たし、副意識が指揮を執ったのです。もし坐禅の途中で目を開け正面を見たとき、向かいにもう一人の自分がいたとすれば、それはほかでもなくあなたの副意識です。ところが、北に向かって坐禅をしているのに、突然自分が北にいるのに気づいたとします。どうして出てきたのだろうか、と不思議に思うでしょうが、それは本当のあなたが出てきたのであって、そこに坐っているのはあなたの肉体と副意識です。これは区別できることです。
 法輪功を修煉するのに、我を忘れてはいけません。我を忘れるのは、法輪功の修煉大法に適いません。煉功では、必ず頭がはっきりしていなければなりません。煉功のとき主意識が強ければ、逸脱することがなく、たいていのものはあなたを害することができません。主意識が弱ければ、何かがつけこんでくることがあります。
 
(三) 煉功は方位や時間を問わない
 多くの功法は、煉功するのにどの方向を向いたらよいか、何時に煉功すればよいかにこだわりますが、われわれはまったくそういうことを問いません。法輪功は宇宙の特性に従って修煉し、宇宙演化の原理にしたがって修煉しているのですから、方向や時間を問わないのです。われわれは法輪の上に坐って煉功しているのに等しく、全方位的であり、つねに回転しています。つまりわれわれの法輪は宇宙と歩調を同じくしているのです。宇宙も銀河系も運動しており、九大惑星も太陽を巡って回転していますし、地球自身でさえも自転しているのですから、東西南北などどこにあるのでしょうか? われわれの言う東西南北は、地球人が地球の角度から区分けしたものです。ですからどの方位に立って煉功しても、全方位に立って煉功していることになります。
 の刻に煉功するのがよいとか、うまの刻に煉功すればよいとか、あるいはこれこれの時間がよいとかと言う人がいますが、われわれはそういうことは言いません。なぜならあなたが煉功をしていなくても法輪があなたを煉り、四六時中あなたの煉功を手助けしており、法が人を煉っているのです。丹道気功では、人が丹を煉りますが、法輪功では法が人を煉っています。時間に余裕があれば多めに煉功すればいいし、なければ煉功時間を減らしてもかまいません。全く自由です。
 

 四、性命双修


 法輪功の修煉では、心性も修めるし命も修めます。煉功を通してまず本体を変え、本体を捨てずに、主意識と肉体が一つになって、全体で成就することを目指します。

(一) 本体を変える
 人間の身体は肉と血液と骨格からなっており、異なる分子構造と成分を有しています。煉功を通して身体の分子成分を高エネルギー物質に転化しますが、そうすることによって人体の構成は本来の物質成分ではなくなり、本質的な変化が起きます。しかし、修煉者は常人の中で修煉しており、人の群の中で生活しているのですから、人類の社会状態に背いてはいけません。ですからこのような変化は、その人本来の分子構造を変えるものではなく、分子の配列順序はそのままで、本来の分子成分のみを変えるのです。人体の肉は相変わらず軟らかく、骨格は依然硬く、血液はもとどおり流れており、ナイフで切りつければやはり血が出ます。中国の五行説によれば、金・木・水・火・土が万物を構成しているのですが、人体も同じです。煉功者に本体の変化が起き、高エネルギー物質が本来の分子成分に取って代わるようになれば、その時点で人体は本来の物質構成ではなくなっています。いわゆる「五行の中に居ず」とはこのことです。
 性命双修功法の最大の特徴は、人間の生命の進度を遅らせ、老衰を遅らせることにあります。われわれ法輪功はまさにこのような際立った特徴を持っています。法輪功は次のような道を歩んでいます。つまり、根本から人体の分子成分を変え、採り入れた高エネルギー物質を一つ一つの細胞の中に蓄えていくことによって、最終的に高エネルギー物質が細胞成分に取って代わります。すると、新陳代謝が停止し、その人は五行を抜け出し、他の空間の物質から構成された身体になり、われわれの空間時間の制約を受けなくなりますので、いつまでも若々しさを保つことができるようになるのです。
 歴代の高僧は寿命が非常に長いのですが、今数百歳の人が街を歩いたとしても誰にも気づかれません。非常に若々しく見えるし、常人と同じ身なりをしていますので、見た目には分からないのです。人間の寿命は、本来今のように短いはずはないのです。科学の角度から言って、人間は二百歳あまりまでは生きられるはずです。記録によれば、イギリスにフィムカスという人がいて、二百七歳まで生きました。日本には満平という人がいて、二百四十二歳まで生きました。我が国では唐の時代に、恵昭という和尚がいて、二百九十歳まで生きました。福建省永泰県の県志の記載によれば、唐の時代の僖宗きそう中和元年(紀元八八一年)生まれの陳俊という人は、元の時代の泰定年間、紀元一三二四年に死去したので、四百四十三歳まで生きたことになります。これらはいずれも記録があって調べられるもので、おとぎ話でも何でもありません。われわれの法輪功学習者は修煉によって、顔の皺が明らかに減り、顔色がつやつやし、身体が非常に軽やかになり、道を歩いても仕事をしても疲れを感じなくなりました。これらは普遍的に見られる現象です。わたし自身も数十年修煉して来ましたが、二十年あなたの容貌があまり変わっていないと言われました。ほかでもなくこれが原因です。われわれの法輪功は命を修める強烈なものを持っているため、法輪功の修煉者は年齢から見て常人と大きく異なり、見た目には実際の年齢と一致しません。つまり、性命双修功法の最大の特徴は人間の生命の進度を遅らせ、人間の老衰を遅らせ、寿命を延ばすことができることにあります。
 
(二) 法輪周天
 われわれの人体は一つの小宇宙であり、人体のエネルギーが身体を一巡りするのを、小宇宙循環、あるいは周天循環と言います。任、督二脈がつながるのは、次元から言えば、まだうわべだけの周天であり、命を修めるのには役に立ちません。本当の小周天は、泥丸宮から丹田まで、中で循環しています。中の循環によって、身体を率いて中から外へと広げていき、百脈を開かせます。われわれの法輪功は、初めから百脈を開かせるようにしているのです。
 大周天とは奇経きけい八脈はちみゃくの運行のことで、体中を一回りします。もし大周天が通れば、その煉功者が舞い上がる、という状態が現れるのですが、『丹経』に書かれている「白日はくじつ飛昇ひしょう」とはこのことなのです。しかし通常は、舞い上がらないように、あなたの身体のある部位に鍵をかけます。しかし、道を歩くときは非常に軽やかで、山登りをするときは誰かに押されているかのように感じる、という状態がもたらされます。大周天が通るようになると、人体の内臓各部位の気を交換させることができる、という功能も身に付くようになります。心臓の気が胃に移り、胃の気が腸に移り、……功力の増強にしたがって、体外にそれを打ち放つと運搬功になります。このような周天は子午しご周天、あるいは乾坤けんこん周天とも呼ばれます。その運行だけではまだ身体を演化するという目的を達成することができず、もう一つそれと対応する周天の存在が必要とされます。それは卯酉ぼうゆう周天と呼ばれます。卯酉周天の運行は、会陰えいんまたは百会穴ひゃくえけつから突き出て、身体の陰陽両面の境目、つまり身体の側面を走ります。
 法輪功の周天運行は一般功法で言う奇経八脈の運行よりずっと大きく、身体全体を縦横して交錯する気脈が一斉に運行しています。ですから、身体全体が一気に打ち通され、打ちかれ、一斉に回転するよう要求されます。われわれの法輪功はこれらのものを自ら持っており、人為的に煉る必要がなく、意念で導く必要もありません。もしあなたがそういうことをすれば、間違った方向にずれてしまうことになります。わたしが講習会であなたの体外に気機を植え付けましたが、それは自動的に循環するものです。気機とは高い次元における煉功に特有なものであり、われわれの自動的な煉功の一部をなし、法輪と同じように絶えず回転し、身体の中の気脈を率いて運行しています。あなたが周天を修煉したことがなくても、実際に気脈がすでに率いられて、縦横に一緒に運行しています。われわれの煉功の動作は体外の気機を強化するためです。
 
(三) 脈を通す
 脈を通すのは、エネルギーを運行させ、細胞の分子成分を変え、高エネルギー物質へ転化させるためです。煉功しない人の場合、脈は塞がっており、中には非常に細々としたものもあります。煉功者の場合、脈は次第に明るくなり、通らないところが通るようになります。煉功に素養のある人は、脈が広くなります。高い次元の修煉になると脈はますます広くなり、人によっては手の指ほどになるのもあります。とはいえ、脈が通ること自身が修煉の到達したレベルや功の高さを示すものではありません。煉功によって脈が明るく広くなり、最終的に脈という脈が一つにつながるようになれば、その人には脈もなければツボもなくなり、言い換えれば、体中が脈でありツボであるようになります。このような状態になっても、まだ得道したとは言えません。それは法輪功の修煉過程における一つの現れであり、ある一つの次元の現れに過ぎません。ここまで来ると、世間法修煉はすでに終点に達したことになりますが、同時に外観にも顕著な状態――「三花聚頂さんかしゅうちょう」が現れてきます。功はすでに形状としてみえるほど物凄く伸びており、功柱もかなり高くなり、しかも頭上に三輪の花――一輪は蓮花に似ており、一輪は菊の花に似ている――が現れてきます。三輪の花は自転しますが、自転しながら順番に回転もします。どの花にも一本の天に通じる柱があり、とてつもなく高いのです。この三本の柱も花に従って順番に回転し、自転しますので、頭がずしりと重い感じがします。ただ、これでもまだ、彼は世間法修煉の中で、最後の一歩を歩み終えたに過ぎません。
 

 五、意念


 法輪功の修煉は意念を用いません。意念そのものは何の役にも立ちませんが、指令を出すことができます。本当に役に立つのは功能であり、それは霊体の思惟能力をもっており、大脳信息の指揮を受けます。しかし多くの人、特に気功界の間ではさまざまな説があって、意念そのものによってさまざまなことができると思われています。意念で功能を開き、意念で天目を開き、意念で病気治療をし、意念で運搬するなどと言う人がいますが、それは間違っています。常人のいる低い次元では意念が感覚器官と四肢ししを支配していますが、煉功者のいる高い次元では、意念が昇華し、功能を操って働かすことができます。つまり功能が意念に支配されることになるのです。これが意念についてのわれわれの考え方です。気功師が人の病気を治療するとき、手も動かしていないのに病気が治ったのを見ると、意念がその病気を治したと思われがちですが、実際は彼は功能を打ち放ち、それを操って病気治療や何かをさせているのです。功能は他の空間を通るので、常人の目には見えず、知らない者は意念がやったと思い込むわけです。意念で病気治療ができると思って、人を間違った方向へ導いてしまう人がいますが、こういう見方は正さなければなりません。
 人間の思惟は一種の信息であり、エネルギーであり、物質的存在の一種の形式です。人間が物事を考え、思惟するとき、大脳に周波が生じます。呪文を唱えると効き目の現れることがありますが、なぜでしょうか? それは宇宙にも周波の振動があり、あなたの唱えた呪文と宇宙の周波との間に共振が起きて、効き目が生じるためです。もちろん良性の信息であってはじめて作用します。なぜなら宇宙では邪なものの存在が許されないからです。意念は特定の思惟方式でもあり、高い次元の大気功師の法身は主体の思惟から制御と支配を受けます。法身にも自分の思惟があり、独自に問題を処理し仕事をする能力をもっています。つまり、それは完全に独立した自我なのです。同時に、法身は気功師の主体の思惟を察知し、主体の思惟に従って仕事をすることもできます。たとえば気功師がある人の病気を治そうとすれば、法身はそこへ行きます。その意念がなければ法身は動かないのです。非常に素晴らしいことを目にした場合、法身は自ら進んでそれを行います。まだ悟りを開くまでには至っていない大気功師がおり、自分ではまだ分からないことがあるのですが、法身にはそれが分かっているのです。
 意念には霊感という意味合いもあります。霊感は人間の主意識から出たものではありません。主意識は知識の幅が限られており、社会に存在しない物事を行うには、主意識だけではうまくいきません。霊感は副意識から来ています。執筆や科学研究に取り組んでいて、どんなに脳みそを絞り尽くしても良い考えの出てこないとき、ひとまず休憩して、外を一回りしているうちに突然、無意識のうちに霊感が湧いてくる人がいます。その勢いでペンを走らせると、ものが書けてしまうのです。これは主意識が強すぎると、大脳が支配されて、考えを絞り出せないからです。ところが主意識が緩むと、副意識が働き出して、大脳をコントロールするようになります。副意識が他の空間のものなので、この空間の束縛を受けず、新しいものを作り出すことができます。しかし副意識といえども、常人社会の状態を超越し妨害して、社会発展の進行を妨げてはなりません。
 霊感は二つの面からきています。一つは副意識が提供するものです。副意識は世間に惑わされないので、霊感を生み出すことができるのです。もう一つは高次元の高い霊の支配、指示に由来します。高い霊から指示を受けているときは、思惟活動が活発なので、あっと人を驚かすようなことをなし遂げることができます。社会全体と宇宙の発展にはそれ自身の特定の法則があり、偶然なことは何一つないのです。
 

 六、法輪功の修煉次元


(一)高い次元の修煉
 法輪功はきわめて高い次元において修煉しているので、非常に速く功が伸びます。大道はいたって簡単で易しいものです。マクロ的に見れば法輪功の動作は少ないのですが、しかしそれは身体の各方面を制御しており、現れようとする多くのものを制御しています。心性が追いついてくれば、功は飛躍的に伸びていきますので、人為的にあれこれと苦労したり、鼎を立て竈を設け、薬を採集し、丹を煉るなどということをしなくてもかまいません。どれだけ火を添えればよいかとか、どれだけ薬を採集すればよいかとか気にする必要がないのです。意念による導引は非常に複雑であり、間違った方向へずれてしまいやすいものです。われわれはここで皆さんに最も便利な、最も良く、かつ最も難しい法門を提供しています。煉功者の身体が乳白体状態に達するには、他の功法では十数年、数十年ないしもっと長い時間修行しなければなりませんが、われわれはあなたを一気にそのレベルまで押し上げていきます。あなたがまだ感じないうちに、その次元は通り過ぎてしまいます。ほんの数時間の間のことであるかもしれません。ある日、あなたは非常に敏感に感じとれたかと思うと、しばらくすると敏感に感じとれなくなることがあります。実はそれは大きな次元を一つ通り過ぎたということなのです。
 
(二)功の表現形式
 法輪功の学習者の身体は、調整を経れば大法修煉に適する状態に達しますが、それがつまり「乳白体」状態なのです。調整を受けてこの状態に達して、はじめて功が現れてきます。天目の次元の高い人なら見えるのですが、功が一旦煉功者の表皮に現れたのち、身体のなかに入り、再度出てきてはまた入るというように繰り返しながら、一つ一つの次元を通っていき、時には素速く通っていきます。これは一回目の功です。一回目の功が出た後、煉功者の身体はもはや一般の身体ではなくなります。乳白体に達すれば、今後二度と病気になることはありません。これ以降はたとえここかしこが痛んだり、どこかの具合が悪くなったりして、病気のように見えても、それは病気ではなく、業力ごうりきが作用をしているのです。二回目の功が出たときには、この霊体は大きく成長しており、動いたりおしゃべりしたりすることができるようになります。まばらに出てくるときもあれば、隙間なくぎっしりと出てくるときもあり、互いにおしゃべりもします。この霊体には本体を変えるためのエネルギーが大量に蓄えられています。
 法輪功の修煉が非常に高い次元に達すれば、体中に「嬰孩えいがい」が現れてくることがあります。彼らは非常に腕白で、遊び好きですが非常に善良です。このほかにもう一つの身体、すなわち「元嬰げんえい」を修煉して得ることもできます。元嬰は蓮花台に坐っており、とても綺麗です。煉功によって得た元嬰は、人体の陰陽の和合からなるもので、男女の修煉者とも修煉によって元嬰を得ることができます。元嬰は初めは非常に小さいのですが、徐々に成長して、最終的には煉功者と同じ大きさ、同じ姿かたちになり、修煉者の体の中にいます。特異功能のある人はその人を見て、二つの身体をもっていると言いますが、実際はその人の真身が修煉によってできあがったのです。このほかに、多くの法身も修煉して得ることができます。要するに、宇宙にある功能は法輪功の中に全てあり、他の功法で得ることができる功能は全て法輪功でも得られるということです。
 
(三)出世間法修煉
 煉功者は煉功を通して脈を絶えず広げ、一つにつなげることができます。つまり脈もなくツボもない状態まで修煉することができるのです。言い換えれば、体中が脈でありツボであるようになります。しかし、これでもまだ得道したとは言えません。それは法輪功の修煉過程における一つの現れであり、ある一つの次元の現れに過ぎません。ここまでくれば、世間法修煉ではすでに終点に達しており、功も形状として見えるほど物凄く伸び、功柱もかなり高くなり、しかも頭上に三輪の花が現れてきます。ただこれでも、その人は世間法の中で最後の一歩を歩み終えたに過ぎません。
 さらに一歩前進したとき、何もかも無くなり、功を全部身体の中の最も深い空間に沈めますので、その人は「浄白体」状態に入り、身体が透明なものになります。そしてさらに一歩進めば、「佛体修煉」とも言う出世間法の修煉に入ります。それから出てくる功は神通力の類いのものになりますが、この時になれば、その人の威力は無尽蔵で、とてつもなく大きくなります。そしてさらに高い境地に達するといよいよ大覚者になります。全てはあなたがいかに心性を修煉するかにかかっていますが、あなたの修煉した次元まで果位も到達します。大きな志をもつ者は正法を修煉し、正果しょうかを得れば、それは圓満成就にほかなりません。