法 輪 功
第五章
質疑応答
しつぎおうとう
一、
法輪
ファールン
と
法輪功
ファールンゴン
弟子:
法輪
ファールン
はどんなものから
構成
こうせい
されているのですか?
師:
法輪
ファールン
は
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
から
構成
こうせい
されている
霊体
れいたい
であり、
自動的
じどうてき
に
功
こう
を
転化
てんか
することができますが、われわれのこの
空間
くうかん
には
存在
そんざい
していません。
弟子:
法輪
ファールン
とはどんなものですか?
師:
法輪
ファールン
の
色
いろ
は
黄金色
こがねいろ
としか
言
い
いようがありません。われわれのこの
空間
くうかん
にはまだこのような
色
いろ
はありません。
輪
りん
の
地色
じいろ
は
非常
ひじょう
に
鮮
あざ
やかな
赤
あか
で、
外輪
がいりん
の
地色
じいろ
は
橙色
だいだいいろ
になっています。
赤
あか
と
黒
くろ
の
二
ふた
つの
太極
たいきょく
は
道家
どうけ
のもの、
赤
あか
と
藍
あい
の
二
ふた
つの
太極
たいきょく
は
先天
せんてん
大道
だいどう
のものであり、これらは
二種類
にしゅるい
の
異
こと
なるものです。「
卍
まんじ
」は
黄金色
こがねいろ
です。
天目
てんもく
の
次元
じげん
の
低
ひく
い
人
ひと
から
見
み
れば、
扇風機
せんぷうき
のように
回転
かいてん
しているように
見
み
えますが、はっきり
見
み
えるならそれは
非常
ひじょう
に
美
うつく
しいもので、
煉功
れんこう
者
しゃ
をして
修煉
しゅうれん
において
一層
いっそう
勇猛
ゆうもう
邁進
まいしん
させることができます。
弟子:
法輪
ファールン
ははじめはどこにありますか? その
後
あと
はどこにありますか?
師:
わたしが
本当
ほんとう
に
皆
みな
さんに
与
あた
える
法輪
ファールン
は
一
ひと
つしかなく、それは
下腹部
かふくぶ
、つまりよく
言
い
う「
煉丹
れんたん
」「
守丹
しゅたん
」の
部位
ぶい
にあり、その
位置
いち
は
変
か
わりません。おびただしい
法輪
ファールン
が
回転
かいてん
しているのが
見
み
える
人
ひと
がいますが、それはわたしの
法身
ほうしん
が
皆
みな
さんの
身体
からだ
を
調整
ちょうせい
するために
体外
たいがい
で
働
はたら
いているのです。
弟子:
煉功
れんこう
して、
法輪
ファールン
を
作
つく
り
出
だ
すことができますか? どれくらい
作
つく
り
出
だ
せますか? それは
師
し
が
授
さず
けてくださるのとどう
違
ちが
いますか?
師:
煉功
れんこう
して
法輪
ファールン
を
作
つく
り
出
だ
すことができます。あなたの
功力
こうりき
が
絶
た
えず
高
たか
まっていけば、
法輪
ファールン
もますます
多
おお
くなりますが、
法輪
ファールン
はいずれも
同
おな
じものであり、ただ
下腹部
かふくぶ
にある
法輪
ファールン
はあちこち
動
うご
かないもので、
根本
こんぽん
です。
弟子:
どうすれば
法輪
ファールン
の
存在
そんざい
と
回転
かいてん
を
体感
たいかん
することができますか?
師:
体感
たいかん
する
必要
ひつよう
はありません。
非常
ひじょう
に
敏感
びんかん
な
人
ひと
がいて、
法輪
ファールン
が
回転
かいてん
しているのを
感
かん
じることができますが、
法輪
ファールン
を
植
う
え
付
つ
けられたばかりの
時
とき
は、
体内
たいない
に
違和感
いわかん
を
覚
おぼ
えたり、
腹痛
ふくつう
や、
何
なに
かが
動
うご
いているのを
感
かん
じたり、
熱
あつ
い
感
かん
じがあったりします。
慣
な
れてきたら、
感
かん
じなくなります。しかし
功能
こうのう
のある
人
ひと
には
見
み
えます。
胃袋
いぶくろ
と
同
おな
じです。
誰
だれ
も
胃袋
いぶくろ
が
動
うご
いていると
感
かん
じません。
弟子:
法輪
ファールン
図
ず
における
法輪
ファールン
の
回転
かいてん
方向
ほうこう
と
学
がく
員
いん
証
しょう
(
北京
ぺきん
第一
だいいち
、
二期
にき
を
指
さ
す)のそれとは
違
ちが
いますが、
聴講
ちょうこう
用
よう
の
学
がく
員
いん
証
しょう
における
法輪
ファールン
が
逆
ぎゃく
時計回
とけいまわ
りをしているのはなぜでしょうか?
師:
それは
皆
みな
さんに
良
よ
いものを
与
あた
えてあげようとするためです。
法輪
ファールン
が
外
そと
に
向
む
かってエネルギーを
放出
ほうしゅつ
するのは、
皆
みな
さんの
身体
からだ
を
調整
ちょうせい
するためなのですから、
時計回
とけいまわ
りに
回転
かいてん
していません。
皆
みな
さんにはそれが
回
まわ
っているのが
見
み
えます。
弟子:
師
し
が
学習者
がくしゅうしゃ
に
法輪
ファールン
を
植
う
え
付
つ
ける
時機
じき
は?
師:
ここで
皆
みな
さんに
断
ことわ
っておきますが、われわれの
一部
いちぶ
の
学習者
がくしゅうしゃ
はいろいろな
功法
こうほう
を
学
まな
んできているので、
彼
かれ
らの
身体
からだ
にあるごちゃごちゃしたものを
片
かた
づけて、
良
よ
いものを
残
のこ
し
悪
わる
いものを
取
と
り
除
のぞ
いてあげることは
本当
ほんとう
に
難
むずか
しいことで、そのために
手続
てつづ
きがひとつよけいに
増
ふ
えました。これを
終
お
えてはじめて、
法輪
ファールン
を
植
う
え
付
つ
けることができます。その
人
ひと
の
煉功
れんこう
の
次元
じげん
の
高
たか
さによって、
法輪
ファールン
の
大
おお
きさも
違
ちが
います。
煉功
れんこう
した
経験
けいけん
のない
人
ひと
がいますが、
根基
こんき
は
悪
わる
くないので、
調整
ちょうせい
をしてあげると、この
講習会
こうしゅうかい
で
病気
びょうき
が
取
と
り
除
のぞ
かれ、
気
き
を
煉
ね
る
次元
じげん
を
通過
つうか
して、
乳白体
にゅうはくたい
状態
じょうたい
に
入
はい
ります。そうなると
法輪
ファールン
を
植
う
え
付
つ
けてあげることができます。
身体
からだ
が
相当
そうとう
悪
わる
く、ずっと
調整
ちょうせい
中
ちゅう
の
人
ひと
も
多
おお
くいますが、
調整
ちょうせい
も
済
す
んでいないのにどうして
法輪
ファールン
を
植
う
え
付
つ
けてあげられますか? しかし
植
う
え
付
つ
けてあげられない
人
ひと
は
少数
しょうすう
の
人
ひと
に
過
す
ぎませんので、
問題
もんだい
がありません。わたしはすでに
法輪
ファールン
を
形成
けいせい
する
気
き
機
き
を
植
う
え
付
つ
けておきました。
弟子:
法輪
ファールン
はどういうふうに
身
み
につけるのですか?
師:
それは
身
み
につけるのではありません。わたしは
法輪
ファールン
を
打
う
ち
放
はな
って
皆
みな
さんの
下腹部
かふくぶ
に
植
う
え
付
つ
けますが、しかしそれはわれわれのこの
物質
ぶっしつ
空間
くうかん
にあるのではなく、
他
た
の
空間
くうかん
にあります。この
空間
くうかん
では、
皆
みな
さんの
下腹部
かふくぶ
に
腸
ちょう
がありますから、それが
回転
かいてん
しだしたら
大変
たいへん
ではないでしょうか? それは
他
た
の
物質
ぶっしつ
空間
くうかん
にあるもので、こちらと
衝突
しょうとつ
しません。
弟子:
次
つぎ
の
講習会
こうしゅうかい
でも
続
つづ
けて
法輪
ファールン
を
植
う
え
付
つ
けてもらえますか?
師:
法輪
ファールン
は
一
ひと
つしか
得
え
られません。たくさんの
法輪
ファールン
が
回
まわ
っているのを
感
かん
じる
人
ひと
がいますが、それは
体外
たいがい
で
用
もち
いられ、あなたの
身体
からだ
を
調整
ちょうせい
するために
用
もち
いられるものです。われわれのこの
功
こう
の
最
もっと
も
大
おお
きな
特徴
とくちょう
は、エネルギーを
放出
ほうしゅつ
するときに、
次
つぎ
から
次
つぎ
へと
法輪
ファールン
を
打
う
ち
放
はな
つことにあります。ですからあなたが
煉功
れんこう
していなくてもおびただしい
法輪
ファールン
があなたの
身体
からだ
を
回
まわ
っており、あなたの
身体
からだ
を
調整
ちょうせい
してあげています。
本当
ほんとう
にあなたに
与
あた
えた
法輪
ファールン
は、
下腹部
かふくぶ
にあるそれです。
弟子:
煉功
れんこう
しなければ
法輪
ファールン
は
消
き
えて
無
な
くなりますか?
法輪
ファールン
はどれくらい
長
なが
く
持
も
ちますか?
師:
あなたが
自分
じぶん
を
煉功
れんこう
者
しゃ
として
自覚
じかく
し、わたしの
言
い
う
心性
しんせい
の
要求
ようきゅう
に
従
したが
って
行動
こうどう
すれば、あなたが
煉功
れんこう
していなくても、それが
消
き
えて
無
な
くなることはないばかりか、
逆
ぎゃく
に
強化
きょうか
され、あなたの
功力
こうりき
も
伸
の
びます。しかし
反対
はんたい
に、あなたが
誰
だれ
よりもまめに
煉功
れんこう
していても、わたしの
要求
ようきゅう
した
心性
しんせい
に
従
したが
って
行動
こうどう
していなければ、おそらく
煉功
れんこう
は
無駄
むだ
になるかもしれません。
煉功
れんこう
していても
役
やく
に
立
た
ちません。どんな
功法
こうほう
をやるにせよ、
要求
ようきゅう
通
どお
りにやらなければ、
邪法
じゃほう
をやっていることになるかもしれません。もしあなたが
頭
あたま
の
中
なか
で、「
誰
だれ
それはなぜあんなにいまいましいのか?
功能
こうのう
を
持
も
つようになったら
懲
こ
らしめてやる」などと、
良
よ
くないことを
考
かんが
えていれば、たとえ
法輪功
ファールンゴン
を
学
まな
んでいても、
煉功
れんこう
にこんなものを
加
くわ
え、わたしの
言
い
う
心性
しんせい
の
要求
ようきゅう
に
従
したが
っていないのですから、それは
邪法
じゃほう
をやっているということになるのではありませんか?
弟子:
師
し
は「
法輪
ファールン
はたとえ
一億元
いちおくげん
出
だ
しても
得
え
られません」とよくおっしゃいますが、それはどういう
意味
いみ
でしょうか?
師:
つまり、それはあまりにも
貴重
きちょう
だということです。わたしが
皆
みな
さんに
与
あた
えたものは
法輪
ファールン
だけではなく、
皆
みな
さんの
煉功
れんこう
を
保証
ほしょう
する
一連
いちれん
のものも
貴重
きちょう
なものであり、みな
千金
せんきん
を
積
つ
んでも
取
と
り
替
か
えられないものばかりです。
弟子:
遅
おく
れてきた
者
もの
も
法輪
ファールン
を
得
え
られますか?
師:
最後
さいご
の
三日間
みっかかん
の
前
まえ
に
来
き
た
人
ひと
であれば、みな
調整
ちょうせい
をしてあげ、しかも
法輪
ファールン
をはじめ
他
ほか
のものを
植
う
え
付
つ
けてあげます。
最後
さいご
の
三日間
みっかかん
に
来
き
た
人
ひと
の
場合
ばあい
は
何
なん
とも
言
い
えませんが、
調整
ちょうせい
は
受
う
けられます。
何
なに
かを
植
う
え
付
つ
けてあげるのは
難
むずか
しいのですが、もしあなたの
条件
じょうけん
が
悪
わる
くなければ
植
う
え
付
つ
けてあげることもあります。
弟子:
法輪
ファールン
で
人体
じんたい
の
正
ただ
しくない
状態
じょうたい
を
直
なお
すというのは、
一種
いっしゅ
の
方法
ほうほう
ですか?
師:
全部
ぜんぶ
が
全部
ぜんぶ
法輪
ファールン
で
直
なお
しているわけではなく、
先生
せんせい
はさまざまな
方法
ほうほう
で
直
なお
すことになります。
弟子:
法輪功
ファールンゴン
が
創出
そうしゅつ
される
有史
ゆうし
以前
いぜん
の
背景
はいけい
はどんなものでしょうか?
師:
この
問題
もんだい
は
大
おお
きすぎて、
高
たか
すぎて、われわれのこの
次元
じげん
で
知
し
るべきことの
範囲
はんい
を
超
こ
えていると
思
おも
いますので、ここで
話
はな
すわけにはいきません。ただし
一
ひと
つだけ、
皆
みな
さんが
知
し
っておかなければならないのは、これは
佛家
ぶっけ
気功
きこう
であって、
佛教
ぶっきょう
気功
きこう
ではなく、
佛教
ぶっきょう
ではない、ということです。しかし、われわれは
佛教
ぶっきょう
と
共通
きょうつう
した
目標
もくひょう
があります。
修煉
しゅうれん
の
法門
ほうもん
が
違
ちが
い、
歩
あゆ
む
道
みち
が
違
ちが
いますが、
目標
もくひょう
は
一致
いっち
しています。
弟子:
法輪功
ファールンゴン
の
歴史
れきし
はどれくらいありますか?
師:
わたしが
煉
ね
っていた
功法
こうほう
といま
伝
つた
えているこのものとは
完全
かんぜん
に
同
おな
じではありません。わたしが
煉
ね
っていた
法輪
ファールン
はいま
伝
つた
えているものより
威力
いりょく
がさらに
大
おお
きく、
功
こう
の
伸
の
びもいまのこれより
速
はや
いのです。とはいえ、わたしがいま
伝
つた
えているこの
功法
こうほう
でも
功
こう
の
伸
の
びはすでにかなり
速
はや
く、そのため
煉功
れんこう
者
しゃ
への
心性
しんせい
の
要求
ようきゅう
も
一層
いっそう
高
たか
く
一層
いっそう
厳
きび
しいのです。わたしがいま
伝
つた
えているものは
整理
せいり
を
経
へ
た
上
うえ
で
公開
こうかい
したのであって、
要求
ようきゅう
はそれほど
高
たか
くありませんが、
一般
いっぱん
の
功法
こうほう
よりは
高
たか
いのです。それは
元
もと
のものとは
違
ちが
っていますので、わたしが
創始者
そうししゃ
だと
言
い
っています。
法輪功
ファールンゴン
の
歴史
れきし
の
長
なが
さに
関
かん
しては、
公
おおやけ
にして
伝
つた
えたことがないので
数
かぞ
えようがありませんが、わたしは
去年
きょねん
(
一九九二年
せんきゅうひゃくきゅうじゅうにねん
)
五月
ごがつ
に
中国
ちゅうごく
の
東北
とうほく
で
初
はじ
めて
功
こう
を
伝
つた
えましたから、
去年
きょねん
五月
ごがつ
から
始
はじ
まったと
言
い
ってもよいのです。
弟子:
先生
せんせい
は
受講
じゅこう
しているわたしたちに
何
なに
を
与
あた
えてくださいましたか?
師:
皆
みな
さんに
法輪
ファールン
を
与
あた
えました。
修煉
しゅうれん
用
よう
の
法輪
ファールン
もあれば、
身体
からだ
を
調整
ちょうせい
する
法輪
ファールン
もあり、
同時
どうじ
にわたしの
法身
ほうしん
が
皆
みな
さんを
見守
みまも
っており、
法輪功
ファールンゴン
を
煉
ね
っている
者
もの
なら、
誰
だれ
にも
付
つ
いています。あなたが
煉功
れんこう
しなければ
法身
ほうしん
は
当然
とうぜん
構
かま
ってくれず、
行
い
かせようとしても
行
おこな
ってくれません。あなたが
何
なに
を
考
かんが
えているのか、わたしの
法身
ほうしん
は
手
て
に
取
と
るようにはっきり
分
わ
かっています。
弟子:
法輪功
ファールンゴン
は
修煉
しゅうれん
するわたし
本人
ほんにん
に、
正果
しょうか
を
得
え
させてくれますか?
師:
大法
ダーファ
には
果
は
てがありません。
如来
にょらい
の
次元
じげん
まで
修煉
しゅうれん
して
到達
とうたつ
したとしても、
頂点
ちょうてん
ではありません。われわれは
正法
しょうぼう
ですので、ひたすら
修煉
しゅうれん
してください。
得
え
るものはみな
正果
しょうか
です。
二、
功理
こうり
と
功法
こうほう
弟子:
「
大
だい
周天
しゅうてん
」を
終
お
えて
帰
かえ
ったら、
空
そら
を
舞
ま
う
夢
ゆめ
を
見
み
る
人
ひと
がおり、
非常
ひじょう
にはっきり
見
み
えたと
言
い
いますが、これはどういうことでしょうか?
師:
皆
みな
さんに
教
おし
えますが、
坐禅
ざぜん
あるいは
夢
ゆめ
の
中
なか
でこのような
状況
じょうきょう
が
現
あらわ
れたとき、それは
夢
ゆめ
ではなく、
元神
げんしん
が
身体
からだ
を
離脱
りだつ
したことであって、
夢
ゆめ
とは
全然
ぜんぜん
違
ちが
います。
元神
げんしん
が
身体
からだ
を
離脱
りだつ
したとき、あなたが
何
なに
を
見
み
たのか、どういうふうに
舞
ま
い
上
あ
がったのかまで、あなたは
非常
ひじょう
に
確実
かくじつ
に
見
み
え、
鮮明
せんめい
に
記憶
きおく
することになります。
弟子:
法輪
ファールン
が
変形
へんけい
したらどんな
良
よ
くない
結果
けっか
になりますか?
師:
その
人
ひと
が
間違
まちが
った
方向
ほうこう
へずれてしまったことを
意味
いみ
します。そうなれば
法輪
ファールン
は
効力
こうりょく
を
失
うしな
い、しかもあなたの
修煉
しゅうれん
にたくさんの
面倒
めんどう
なことがもたらされることになります。あたかもこの
大通
おおどお
りがあるのに
歩
あゆ
まないで、
脇道
わきみち
にそれて
道
みち
に
迷
まよ
い、
迷子
まいご
になってしまったかのように、
面倒
めんどう
なことに
遭遇
そうぐう
します。これらのことは
常人
じょうじん
の
生活
せいかつ
状態
じょうたい
に
反映
はんえい
されてきます。
弟子:
一人
ひとり
で
煉功
れんこう
する
場合
ばあい
、
家庭
かてい
の
環境
かんきょう
はどう
処理
しょり
すればよいのでしょうか?
家
いえ
に
法輪
ファールン
をいただけるのですか?
師:
ここにいる
人
ひと
の
多
おお
くは、すでに
家
いえ
に
法輪
ファールン
があるのを
見
み
ていますし、
家
いえ
の
人
ひと
も
恩恵
おんけい
を
受
う
けはじめています。すでにお
話
はなし
したように、
同
おな
じ
時間
じかん
、
同
おな
じ
場所
ばしょ
に
多
おお
くの
空間
くうかん
が
存在
そんざい
しているのであって、あなたの
家庭
かてい
も
例外
れいがい
ではなく、
処理
しょり
をしなければなりません。
処理
しょり
の
方法
ほうほう
としては
普通
ふつう
、
良
よ
くないものを
片
かた
づけたうえ、
覆
おお
いをかけるのですが、そうすればどんな
良
よ
くないものも
入
はい
れなくなります。
弟子:
煉功
れんこう
中
ちゅう
に
気
き
が
病
やまい
のある
部位
ぶい
を
襲
おそ
い、はれて
痛
いた
むような
感
かん
じがしますが、どういうことでしょうか?
師:
病
やまい
は
一種
いっしゅ
の
黒
くろ
いエネルギーの
塊
かたまり
です。
講習会
こうしゅうかい
の
初
はじ
めにそれを
打
う
ち
砕
くだ
いてあげたら、
病
やまい
のある
部位
ぶい
がはれるような
感
かん
じがしますが、その
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
はすでに
根
ね
っこを
失
うしな
っており、
外
そと
へ
向
む
かって
散
ち
っているので、すぐに
排出
はいしゅつ
されます。そうすれば
病
やまい
も
存在
そんざい
しなくなります。
弟子:
もともとあった
病気
びょうき
は
講習会
こうしゅうかい
を
数日
すうじつ
受講
じゅこう
すると
消
き
えましたが、しかししばらく
経
た
ったらまた
突然
とつぜん
現
あらわ
れてきました。これはどういうことでしょうか?
師:
この
功
こう
では
次元
じげん
の
飛躍
ひやく
が
非常
ひじょう
に
速
はや
く、
一
ひと
つの
次元
じげん
はあっという
間
ま
に
通過
つうか
しますので、あなたがまだ
気
き
づいていないのに、
実際
じっさい
には
病気
びょうき
がすでに
治
なお
っています。その
後
あと
の
症状
しょうじょう
は、わたしのお
話
はな
しした「
劫難
ごうなん
」がやってきたのです。
気
き
をつけて
観察
かんさつ
すれば
分
わ
かりますが、もとの
病状
びょうじょう
とは
違
ちが
います。
他
ほか
の
気功
きこう
師
し
に
調整
ちょうせい
を
頼
たの
んでも、
彼
かれ
らもそれを
動
うご
かせません。それは
功
こう
が
伸
の
びるときの
業力
ごうりき
の
反映
はんえい
なのです。
弟子:
煉功
れんこう
してもまだ
薬
くすり
を
服用
ふくよう
する
必要
ひつよう
がありますか?
師:
これはあなた
自身
じしん
で
悟
さと
ってください。
煉功
れんこう
しながら
薬
くすり
を
服用
ふくよう
するということは、
煉功
れんこう
で
病気
びょうき
が
治
なお
るのを
信
しん
じていないということです。
信
しん
じているのならどうしてまだ
薬
くすり
を
服用
ふくよう
するのですか? ところが、あなたは
心性
しんせい
の
基準
きじゅん
に
従
したが
って
自分
じぶん
を
律
りっ
していないのに、
問題
もんだい
が
起
お
きれば
李洪志
りこうし
が
薬
くすり
を
服用
ふくよう
させてくれないと
言
い
うかもしれません。しかし、
李洪志
りこうし
が
心性
しんせい
を
厳
きび
しく
律
りっ
するようにと
言
い
っているのに、あなたはそうしましたか?
本当
ほんとう
に
大法
ダーファ
を
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
の
場合
ばあい
、
身体
からだ
に
持
も
つのはみな
常人
じょうじん
のものではないので、
常人
じょうじん
の
病気
びょうき
はあなたの
身体
からだ
に
上
あが
ることが
許
ゆる
されません。あなたの
心
こころ
がしっかりしていて、
煉功
れんこう
で
病気
びょうき
が
治
なお
ると
信
しん
じて、
薬
くすり
をやめて、
気
き
にせず、
治療
ちりょう
にも
行
い
かなければ、
治
なお
してくれる
人
ひと
が
現
あらわ
れます。
皆
みな
さんがここで
日一日
ひいちにち
と
元気
げんき
になって、
日一日
ひいちにち
と
気分
きぶん
が
良
よ
くなっているのは、なぜでしょうか?
多
おお
くの
人
ひと
の
身体
からだ
にわたしの
法身
ほうしん
がせわしく
出入
でい
りしているのは、ほかでもなくあなたのためにそういうことをやっているのです。もし
自分
じぶん
の
心
こころ
がしっかりしておらず、
煉功
れんこう
していながら、
信
しん
じないあるいは
試
ため
してみようなどという
態度
たいど
をとっているなら、あなたは
何
なに
も
得
え
られません。あなたが
佛
ほとけ
を
信
しん
じるかどうかは、あなたの
悟性
ごせい
や
根基
こんき
が
決
き
めるものです。もし
佛
ほとけ
が
顕現
けんげん
してきて、ここからでも
肉眼
にくがん
ではっきり
見
み
えるなら、
人々
ひとびと
はみな
佛道
ぶつどう
に
入
はい
りますので、
考
かんが
え
方
かた
を
変
か
えるというような
問題
もんだい
は
存在
そんざい
しなくなります。まず
信
しん
じることが
先
さき
で、そうしてこそはじめて
見
み
えるのです。
弟子:
師
し
あるいは
師
し
の
弟子
でし
に
病気
びょうき
治療
ちりょう
をお
願
ねが
いしたい
人
ひと
がいますが、お
願
ねが
いできるでしょうか?
師:
わたしが
世間
せけん
に
現
あらわ
れた
目的
もくてき
は、
病気
びょうき
治療
ちりょう
のためではありません。
病気
びょうき
になるべくしてなっている
人
ひと
がいます。わたしの
言
い
っていることは
一部
いちぶ
の
人
ひと
にはどうしても
分
わ
かりませんが、わたしはそれ
以上
いじょう
解釈
かいしゃく
をしません。
佛家
ぶっけ
功法
こうほう
は、
普
あまね
く
衆生
しゅじょう
を
済度
さいど
するためですから、
他人
たにん
の
病気
びょうき
を
治
なお
してもいいのです。われわれが
病気
びょうき
治療
ちりょう
を
行
おこな
うときは、
組織的
そしきてき
に
行
おこな
うのであって、
宣伝
せんでん
を
兼
か
ねています。わたしは
現
あらわ
れたばかりで、
知名
ちめい
度
ど
が
低
ひく
く、
人
ひと
に
知
し
られていないため、
功
こう
を
伝
つた
えるときに
聞
き
きに
来
く
る
人
ひと
がいないかもしれません。
治療
ちりょう
相談
そうだん
サービスを
通
とお
して、みんなに
見
み
てもらい、
実際
じっさい
に
良
よ
い
効果
こうか
を
上
あ
げていますので、それが
宣伝
せんでん
になっていますが、
専門的
せんもんてき
に
病気
びょうき
治療
ちりょう
をやっているわけではありません。
高
たか
い
功能
こうのう
で
専門的
せんもんてき
に
病気
びょうき
治療
ちりょう
を
行
おこな
うことは
許
ゆる
されません。
超
ちょう
世間
せけん
法
ほう
をもって
世間
せけん
法
ほう
に
代
か
えるのはいけないことで、そういう
状態
じょうたい
ではないので、
治療
ちりょう
効果
こうか
も
時々
ときどき
良
よ
くありません。
煉功
れんこう
者
しゃ
に
責任
せきにん
を
持
も
つためには、あなたの
身体
からだ
を
無病
むびょう
状態
じょうたい
にまで
調整
ちょうせい
してあげなければなりません。そうしてはじめて
高
たか
い
次元
じげん
に
向
む
かって
修煉
しゅうれん
することができます。もしあなたが
自分
じぶん
の
病気
びょうき
のことばかり
気
き
になって、
全然
ぜんぜん
煉功
れんこう
するつもりがなければ、たとえ
口
くち
に
出
だ
して
言
い
わなくても、あなたの
考
かんが
えていることをわたしの
法身
ほうしん
は
何
なに
もかも
知
し
っているので、
最終的
さいしゅうてき
にあなたは
何
なに
も
得
え
ることができません。われわれは
講習会
こうしゅうかい
ですでに
皆
みな
さんのために
身体
からだ
を
調整
ちょうせい
してあげました。もちろんそれはあなたがまず
煉功
れんこう
者
しゃ
でなければならないのですが。
別途
べっと
で
皆
みな
さんのために
治療
ちりょう
を
行
おこな
い、しかもお
金
かね
をとるようなことは、われわれはしません。もしあなたの
病気
びょうき
が
治
なお
らなければ、それは
悟性
ごせい
の
問題
もんだい
です。もちろん
個別
こべつ
には
病気
びょうき
が
非常
ひじょう
に
重
おも
い
人
ひと
もいます。
身体
からだ
にはっきりとは
現
あらわ
れていなくても、
実際
じっさい
にはとてつもなく
重
おも
いのです。
一回
いっかい
で
調整
ちょうせい
しきれないかもしれませんが、われわれは
力
ちから
を
尽
つ
くしました。あなたに
対
たい
して
責任
せきにん
を
負
お
わないのではなく、あまりにも
病気
びょうき
が
重
おも
すぎるのです。あなたが
帰
かえ
ってからも
煉功
れんこう
すれば、
病気
びょうき
が
治
なお
るまでずっと
治
なお
してあげます。このような
状況
じょうきょう
は
少数
しょうすう
の
部類
ぶるい
に
入
はい
ります。
弟子:
煉功
れんこう
の
時
とき
、どうすれば
入静
にゅうせい
できますか?
煉功
れんこう
の
時
とき
仕事
しごと
上
じょう
の
難問題
なんもんだい
を
考
かんが
えるのは、
執着
しゅうちゃく
と
言
い
えるのでしょうか?
師:
利益
りえき
に
関
かん
することに
無頓着
むとんちゃく
でいれば、
平素
へいそ
から
静
しず
かで
清
きよ
らかな
心
こころ
を
保
たも
てます。
心
こころ
の
準備
じゅんび
があれば、
劫難
ごうなん
がいつ
来
き
ても、どんなものであっても、
劫難
ごうなん
とはなりません。
往々
おうおう
にして
突然
とつぜん
やってくるのですが、
覚悟
かくご
を
決
き
めていれば
間違
まちが
いなく
乗
の
り
越
こ
えられます。そうしてはじめてあなたの
心性
しんせい
の
高
たか
さが
量
はか
られます。
執着心
しゅうちゃくしん
が
取
と
り
除
のぞ
かれ、
心性
しんせい
が
高
たか
まり、
人
ひと
との
争
あらそ
いや
怨恨
えんこん
などがみな
放下
ほうげ
できて、
心
こころ
が
穏
おだ
やかになって、はじめて
定力
じょうりき
のことが
語
かた
れます。もしそれでも
入静
にゅうせい
できなければ、
自分
じぶん
を
他者
たしゃ
とし、いま
考
かんが
えているのは
自分
じぶん
ではないと
思
おも
うのです。
海
うみ
がひっくり
返
かえ
っているほど
雑念
ざつねん
が
湧
わ
いてきても、あなたはそこから
脱
ぬ
けだして、
好
す
きなようにさせておけばいいのです。
佛
ほとけ
の
名前
なまえ
を
唱
とな
えるとか、
数
かず
を
数
かぞ
えるとか
言
い
う
人
ひと
がいますが、これらはみな
煉功
れんこう
の
数々
かずかず
の
手段
しゅだん
です。われわれが
煉功
れんこう
するとき「
意守
いしゅ
」を
求
もと
めませんが、しかしあなたは
自分
じぶん
が
煉功
れんこう
しているのだということを
分
わ
かっていなければなりません。
仕事
しごと
上
じょう
の
難問題
なんもんだい
などは、
個人
こじん
の
利益
りえき
に
入
はい
らないので、
執着心
しゅうちゃくしん
ではなく、
良
よ
いことです。わたしはある
僧侶
そうりょ
を
知
し
っていますが、
彼
かれ
は
修煉
しゅうれん
のこういうことをよく
分
わ
かっています。
彼
かれ
は
寺
てら
で
住職
じゅうしょく
をやっていて、けっこう
忙
いそが
しいのですが、
坐禅
ざぜん
を
始
はじ
めたら
仕事
しごと
を
切
き
り
離
はな
して、
絶対
ぜったい
考
かんが
えません。これも
功
こう
です。いざ
本当
ほんとう
に
煉功
れんこう
するときには、
何
なに
も
考
かんが
えず、
何
なん
の
雑念
ざつねん
もありません。
仕事
しごと
のことは
個人
こじん
のものを
混
ま
ぜ
入
い
れなければ、きっとうまくできると
思
おも
います。
弟子:
煉功
れんこう
の
時
とき
、
頭
あたま
に
良
よ
くない
考
かんが
えが
浮
う
かんだらどうしますか?
師:
煉功
れんこう
の
時
とき
に、
時々
ときどき
あれこれ
良
よ
くないものが
現
あらわ
れてくることがあります。
皆
みな
さんが
煉功
れんこう
を
始
はじ
めたばかりで、
一足飛
いっそくと
びで
非常
ひじょう
に
高
たか
い
境地
きょうち
まで
達
たっ
するのは
不可能
ふかのう
ですので、
今
いま
の
段階
だんかい
であなたに
高
たか
すぎる
要求
ようきゅう
もしません。
頭
あたま
の
中
なか
に
悪
わる
い
考
かんが
えが
全
まった
く
浮
う
かばないよう
求
もと
めても、
非現実的
ひげんじつてき
です。
初
はじ
めは
徐々
じょじょ
に
進
すす
んでもかまいませんが、
自分
じぶん
を
放任
ほうにん
してはなりません。
時間
じかん
が
経
た
ち、
思想
しそう
が
昇華
しょうか
すれば、
自分
じぶん
に
対
たい
してもっと
高
たか
いことを
要求
ようきゅう
しなければなりません。なぜならあなたはもう
大法
ダーファ
を
修煉
しゅうれん
しており、この
講習会
こうしゅうかい
から
帰
かえ
ると、あなたはもう
常人
じょうじん
ではないからです。
身体
からだ
に
非常
ひじょう
に
特殊
とくしゅ
なものを
持
も
っているのですから、
自分
じぶん
の
心性
しんせい
を
厳
きび
しく
律
りっ
しなければなりません。
弟子:
煉功
れんこう
の
時
とき
、
頭
あたま
と
下腹部
かふくぶ
が
回
まわ
っているように
感
かん
じられ、
胸
むね
が
苦
くる
しいのですが。
師:
これは
初期
しょき
段階
だんかい
で
法輪
ファールン
が
回
まわ
っているためであって、
今後
こんご
このような
症状
しょうじょう
が
出
で
てくるとは
思
おも
いません。
弟子:
煉功
れんこう
の
時
とき
、
小
ちい
さい
動物
どうぶつ
を
引
ひ
き
寄
よ
せますが、どうすればよいでしょうか?
師:
どんな
功
こう
を
煉
ね
っても
小
ちい
さい
動物
どうぶつ
を
引
ひ
き
寄
よ
せることがありますが、
気
き
に
掛
か
けなければすむことです。
良
よ
いエネルギーの
場
ば
では、
特
とく
に
佛家
ぶっけ
功
こう
においては、
功
こう
の
中
なか
に
普
あまね
く
衆生
しゅじょう
を
済度
さいど
する
要素
ようそ
があります。われわれ
法輪功
ファールンゴン
が
時計回
とけいまわ
りをするときに
自分
じぶん
を
済度
さいど
しますが、
逆
ぎゃく
時計回
とけいまわ
りをするときは
普
あまね
く
衆生
しゅじょう
を
済度
さいど
することになります。こうして
循環
じゅんかん
を
繰
く
り
返
かえ
しますので、われわれのまわりの
万物
ばんぶつ
がみな
恩恵
おんけい
を
受
う
けます。
弟子:
貫通
かんつう
両極
りょうきょく
法
ほう
では、
手
て
の
上
あ
げ
下
さ
げを
一回
いっかい
と
数
かぞ
えますか?
佛展
ぶってん
千手
せんじゅ
法
ほう
の
時
とき
、
手
て
を
伸
の
ばす
前
まえ
に
自分
じぶん
が
非常
ひじょう
に
高大
こうだい
だとイメージした
方
ほう
がよいのでしょうか?
師:
両手
りょうて
を
一回
いっかい
ずつで
一回
いっかい
とします。
佛展
ぶってん
千手
せんじゅ
法
ほう
を
行
おこな
う
時
とき
、
自分
じぶん
のことを
考
かんが
えなくても、
高大
こうだい
だと
感
かん
じます。「
天上
てんじょう
天下
てんげ
、
唯我独尊
ゆいがどくそん
」という
意
い
念
ねん
を
持
も
って、そこに
立
た
っていればけっこうです。
常
つね
に
意
い
念
ねん
で
追求
ついきゅう
しないように。それは
執着
しゅうちゃく
にほかなりません。
弟子:
煉功
れんこう
して
坐禅
ざぜん
をする
時
とき
、
脚
あし
が
組
く
めなければどうしますか?
師:
組
く
めなければ、
椅子
いす
の
端
はし
に
坐
すわ
って
煉
ね
ればよく、
同
おな
じ
効
こう
果
か
を
得
え
ることができます。しかしあなたが
煉功
れんこう
者
しゃ
であるかぎり、
両脚
りょうあし
を
煉
ね
らなければならず、
組
く
めるようにしなければなりません。
椅子
いす
の
端
はし
に
坐
すわ
り、
徐々
じょじょ
に
脚
あし
を
煉
ね
って、
最終的
さいしゅうてき
には
組
く
めるようにならなければなりません。
弟子:
もし
家族
かぞく
の
人
ひと
が
良
よ
くないことをして、「
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
」に
背
そむ
けばどうすればよいのでしょうか?
師:
家族
かぞく
の
方
かた
が
法輪功
ファールンゴン
を
修煉
しゅうれん
しているわけではないので、このことは
問題
もんだい
になりません。
要
よう
は
自分
じぶん
を
修煉
しゅうれん
することです。
自分
じぶん
で
修煉
しゅうれん
すればけっこうです。あまり
複雑
ふくざつ
に
考
かんが
えずに、しかも
少
すこ
し
融通
ゆうずう
が
利
き
くようにした
方
ほう
がよく、
自分
じぶん
自身
じしん
の
修煉
しゅうれん
に
勤
つと
めてください。
弟子:
日常
にちじょう
生活
せいかつ
で
時々
ときどき
間違
まちが
ったことをした
後
あと
、
非常
ひじょう
に
後悔
こうかい
しますが、しかし
同
おな
じ
間違
まちが
いをまた
犯
おか
してしまいます。これは
心性
しんせい
が
低
ひく
すぎるためでしょうか?
師:
これを
書
か
けたこと
自体
じたい
、あなたの
心性
しんせい
がすでに
高
たか
まって、それに
気
き
づいたことを
物語
ものがた
ります。
常人
じょうじん
は
間違
まちが
いを
犯
おか
しても
気
き
づかないのですから、あなたがすでに
常人
じょうじん
を
上回
うわまわ
っていることを
物語
ものがた
っています。
一回
いっかい
目
め
間違
まちが
いを
犯
おか
して、
心性
しんせい
を
守
まも
られなくても、
物事
ものごと
には
過程
かてい
がありますので、
次回
じかい
また
問題
もんだい
に
出会
であ
ったときに、さらに
向上
こうじょう
するようにすればよいのです。
弟子:
四
し
、
五十歳
ごじゅうさい
の
人
ひと
でも、「
三花聚頂
さんかしゅうちょう
」に
達
たっ
することができますか?
師:
われわれは
性命双修
せいめいそうしゅう
の
功法
こうほう
なので、
年齢
ねんれい
のことは
問
と
いません。
一心
いっしん
に
修煉
しゅうれん
して、わたしの
言
い
う
心性
しんせい
で
自分
じぶん
を
律
りっ
しさえできれば、
煉功
れんこう
すればするほど
寿命
じゅみょう
が
延
の
びる
現象
げんしょう
が
現
あらわ
れます。そうすればあなたは
煉功
れんこう
時間
じかん
が
足
た
りるようになるのではありませんか? しかし
一
ひと
つだけ、とりわけ
性命双修
せいめいそうしゅう
の
功法
こうほう
では、あなたの
生命
せいめい
が
延長
えんちょう
されたとき、もし
心性
しんせい
に
問題
もんだい
が
起
お
きれば、すぐに
生命
せいめい
の
危険
きけん
が
現
あらわ
れてきます。
煉功
れんこう
のために
延長
えんちょう
された
生命
せいめい
ですから、
心性
しんせい
が
間違
まちが
った
方向
ほうこう
へ
行
い
くと、すぐに
生命
せいめい
の
危険
きけん
が
起
お
きます。
弟子:
「
柔
じゅう
の
中
なか
に
剛
ごう
あり」の
力
ちから
具合
ぐあい
を
如何
いか
に
心得
こころえ
たらいいのでしょうか?
師:
これは
自分
じぶん
で
探
さぐ
るしかありません。たとえば、われわれが「
大手印
だいしゅいん
」を
結
むす
ぶとき、
見
み
た
目
め
では
手
て
が
非常
ひじょう
に
柔
やわ
らかいように
見
み
えますが、
実際
じっさい
にやるときはかなり
力
ちから
が
入
はい
っています。この
前腕
ぜんわん
と
手首
てくび
、
指
ゆび
と
指
ゆび
との
間
あいだ
の
力
ちから
はかなりのものです。しかし
見
み
た
目
め
には
非常
ひじょう
に
柔
やわ
らかいのです。
実際
じっさい
のところすごい
力
ちから
が
入
はい
っています。「
柔
じゅう
の
中
なか
に
剛
ごう
あり」とはこのことです。こういうものは
皆
みな
さんのために
手印
しゅいん
を
結
むす
ぶとき、すでに
皆
みな
さんに
与
あた
えました。
皆
みな
さんは
煉功
れんこう
の
中
なか
でゆっくり
体感
たいかん
してください。
弟子:
男女
だんじょ
の
間
あいだ
のことはあってもなくてもよいことでしょうか?
若
わか
い
人
ひと
は
離婚
りこん
しなければならないのでしょうか?
師:
色欲
しきよく
のことについてはすでに
述
の
べましたように、
皆
みな
さんのいまの
次元
じげん
では、
僧侶
そうりょ
や
尼僧
にそう
になれとは
言
い
っていません。
皆
みな
さん
自身
じしん
がなろうとしているだけです。
肝心
かんじん
なのはその
心
こころ
を
放下
ほうげ
することです!
放下
ほうげ
できない
心
こころ
を
全部
ぜんぶ
放下
ほうげ
してください。
常人
じょうじん
にとってはこういうのは
一種
いっしゅ
の
欲望
よくぼう
ですが、われわれの
場合
ばあい
は
放下
ほうげ
できて、
淡々
たんたん
としていられなければなりません。こればかり
追求
ついきゅう
している
人
ひと
がいて、
溺
おぼ
れてしまって、
常人
じょうじん
としても
度
ど
を
超
こ
しています。
煉功
れんこう
者
しゃ
としては
言
い
うまでもなくそうしてはいけません。あなたが
煉功
れんこう
しても、
配偶者
はいぐうしゃ
が
煉功
れんこう
していないので、
正常
せいじょう
な
生活
せいかつ
を
過
す
ごすのは
現
げん
段階
だんかい
では
許
ゆる
されることです。
高
たか
い
次元
じげん
に
達
たっ
すれば、どうすべきか
自分
じぶん
で
分
わ
かるようになります。
弟子:
坐禅
ざぜん
するときに
眠
ねむ
ってはいけませんか? どうすればよいでしょうか?
三分間
さんぷんかん
も
気
き
を
失
うしな
ってしまう
時
とき
がありますが、どういうことなのか
分
わ
かりません。
師:
眠
ねむ
ってはいけません。
煉功
れんこう
しているのにどうして
眠
ねむ
っていいのですか?
坐禅
ざぜん
中
ちゅう
に
眠
ねむ
るのも
魔
ま
の
一
ひと
つです。あなたの
言
い
う
気
き
を
失
うしな
うというのはあり
得
え
ないことです。
質問
しつもん
をはっきり
書
か
けなかったのではありませんか?
三分間
さんぷんかん
意識
いしき
を
失
うしな
うのは
大
たい
したことではなく、
定力
じょうりき
の
高
たか
い
人
ひと
にはよく
無意識
むいしき
状態
じょうたい
がありますが、ずっとこのままではいけません。
弟子:
修煉
しゅうれん
して
正果
しょうか
を
得
え
ようとする
決意
けつい
のある
人
ひと
はみな
正果
しょうか
を
得
え
られるのですか?
根基
こんき
がちょっと
劣
おと
った
場合
ばあい
はどうしますか?
師:
あなたにその
決意
けつい
があるかどうかにかかっており、その
決意
けつい
がどれほど
大
おお
きいかが
肝心
かんじん
です。
根基
こんき
が
少
すこ
し
劣
おと
っている
人
ひと
でも、あなたの
決意
けつい
と
悟性
ごせい
次第
しだい
です。
弟子:
風邪
かぜ
を
引
ひ
いて
熱
ねつ
を
出
だ
しているときでも
煉功
れんこう
できますか?
師:
皆
みな
さんが
講習会
こうしゅうかい
から
帰
かえ
ったら
病気
びょうき
は
全
すべ
てなくなっていると
言
い
いましたが、あなたは
信
しん
じていないのかもしれません。わたしの
弟子
でし
も
時
とき
に
風邪
かぜ
を
引
ひ
いて
熱
ねつ
を
出
だ
しているかのようになることがありますが、それは
関門
かんもん
や
難
なん
に
遭遇
そうぐう
したのであり、
次元
じげん
を
高
たか
めるべきことの
現
あらわ
れです。
彼
かれ
ら
自身
じしん
みんなよく
分
わ
かっていますので、
気
き
にしなければすぐ
通過
つうか
するのです。
弟子:
妊娠
にんしん
中
ちゅう
の
女性
じょせい
は
法輪功
ファールンゴン
を
煉
ね
ることができますか?
師:
構
かま
いません。
法輪
ファールン
は
別
べつ
の
空間
くうかん
に
植
う
え
付
つ
けており、われわれの
功法
こうほう
には
激
はげ
しい
運動
うんどう
がないので、
妊婦
にんぷ
に
悪
わる
い
影響
えいきょう
はなく、かえって
身体
からだ
に
良
よ
いのです。
弟子:
先生
せんせい
がわれわれから
離
はな
れたら、
空間的
くうかんてき
な
距離
きょり
がありますか?
師:
多
おお
くの
人
ひと
が、「
先生
せんせい
が
北京
ぺきん
にいらっしゃらなくなったら、われわれはどうしたらいいだろうか?」と、
思
おも
っています。あなたが
他
た
の
功法
こうほう
を
煉
ね
っても
同
おな
じですが、
先生
せんせい
といえども
毎日
まいにち
そばにいてあげるわけにはいきません。
法
ほう
を、わたしは
皆
みな
さんに
教
おし
えました。
理
り
を、
皆
みな
さんに
教
おし
えました。この
功法
こうほう
も、
皆
みな
さんに
教
おし
えました。
完全
かんぜん
に
整
ととの
ったものを
全部
ぜんぶ
皆
みな
さんに
与
あた
えました。
後
あと
はあなたがどう
修
おさ
めるかにかかっています。わたしのそばにいれば
安心
あんしん
で、いなければ
不安
ふあん
だということはありません。
佛教
ぶっきょう
徒
と
の
例
れい
を
挙
あ
げましょう。
釈迦牟尼
しゃかむに
がこの
世
よ
にいなくなって
二千年
にせんねん
以上
いじょう
になりますが、
彼
かれ
らはそれを
継承
けいしょう
して、
一心不乱
いっしんふらん
に
煉
ね
っているではありませんか? ですから
煉
ね
るかどうかは
自分
じぶん
の
問題
もんだい
なのです。
弟子:
法輪功
ファールンゴン
を
煉
ね
れば、
辟穀
へきこく
することがありますか?
師:
ありません。というのは、
辟穀
へきこく
は
佛道
ぶつどう
がいまだ
存在
そんざい
しなかったときに
存在
そんざい
していた
大道
だいどう
修煉
しゅうれん
であり、
宗教
しゅうきょう
になる
前
まえ
からあったもので、
普通
ふつう
このような
方法
ほうほう
は
単独
たんどく
修煉
しゅうれん
の
部類
ぶるい
に
入
はい
るからです。
当時
とうじ
寺院
じいん
制度
せいど
がなかったので、
山
やま
の
中腹
ちゅうふく
でやるしかありませんでしたが、
食
た
べ
物
もの
を
提供
ていきょう
してくれる
人
ひと
がいませんでした。
修煉
しゅうれん
の
時
とき
は
閉
と
じこもる
必要
ひつよう
があって、
半年
はんとし
一年
いちねん
じっとしていなければなりませんので、このような
方法
ほうほう
を
採
と
りました。われわれの
今日
こんにち
の
修煉
しゅうれん
では、そのようにする
必要
ひつよう
はありません。あれは
特定
とくてい
の
環境
かんきょう
のもとで
採
と
られた
方法
ほうほう
であって、
功能
こうのう
などではありません。これを
教
おし
える
人
ひと
がいますが、わたしに
言
い
わせれば、
世界
せかい
中
ちゅう
の
人
ひと
が
食事
しょくじ
をとらなくなったら、これは
常人
じょうじん
社会
しゃかい
を
破壊
はかい
したことになるのではありませんか? そうなってはならず、そういうことではないのです。
弟子:
この
五式
ごしき
の
功法
こうほう
でもってどの
次元
じげん
まで
修煉
しゅうれん
することができますか?
師:
この
五式
ごしき
の
功法
こうほう
はあなたがとてつもなく
高
たか
い
次元
じげん
まで
修煉
しゅうれん
するのに
十分
じゅうぶん
間
ま
に
合
あ
います。もちろんどの
次元
じげん
まで
修煉
しゅうれん
したいのか、その
時
とき
になれば
自分
じぶん
で
分
わ
かるようになります。
功
こう
には
終
お
わりがないので、あなたが
本当
ほんとう
にそのレベルに
達
たっ
したら、それ
相応
そうおう
の
縁
えん
があって、さらに
高
たか
い
次元
じげん
の
大法
ダーファ
を
得
え
ることができます。
弟子:
法
ほう
が
人
ひと
を
煉
ね
るといいますが、
法輪
ファールン
が
常
つね
に
回
まわ
っているなら
煉功
れんこう
しなくても
良
よ
いということになりませんか?
師:
煉功
れんこう
と
寺院
じいん
での
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
は
違
ちが
います。
実際
じっさい
のところ、
寺院
じいん
では
心
こころ
の
中
なか
で
修行
しゅぎょう
するといっても、やはり
坐禅
ざぜん
は
必要
ひつよう
で、あの
功夫
こうふ
は
煉
ね
らなければならないものです。
功
こう
を
伸
の
ばすだけでいいからといって
何
なに
も
煉
ね
る
必要
ひつよう
がないというわけではありません。
頭上
ずじょう
に
功
こう
があるだけでは、まだ
煉功
れんこう
者
しゃ
とは
言
い
えないでしょう? どの
功法
こうほう
にも
伝承
でんしょう
されてきたものがあるので、それを
煉
ね
らなければならないのです。
弟子:
他
た
の
功法
こうほう
をやっている
人
ひと
が
言
い
うには、
意
い
念
ねん
のない
功
こう
は
功法
こうほう
ではないと
言
い
いますが、
正
ただ
しいでしょうか?
師:
さまざまな
説
せつ
があまりにも
多
おお
いのですが、わたしのようなやり
方
かた
で
大法
ダーファ
を
皆
みな
さんに
伝
つた
えた
人
ひと
はいません。
佛家
ぶっけ
では、
有為
うい
の
法
ほう
はあまり
高
たか
くならないと
言
い
いますが、
有為
うい
の
法
ほう
とは
別
べつ
に
動作
どうさ
を
指
さ
しているわけではありません。
坐禅
ざぜん
、
結印
けついん
も
動作
どうさ
ですので、
問題
もんだい
は
動作
どうさ
の
大
おお
きさにあるのではありません。
有為
うい
か
無為
むい
かはあなたの
意
い
念
ねん
にあり、
追求
ついきゅう
にあります。
意
い
念
ねん
があり、
追求
ついきゅう
があれば、
執着
しゅうちゃく
にほかならず、
有為
うい
にほかなりません。そういう
意味
いみ
です。
弟子:
心性
しんせい
すなわち
徳
とく
ではありません。
徳
とく
の
多
おお
さは
次元
じげん
を
決
き
めるとおっしゃりながら、
心性
しんせい
の
高
たか
さが
功
こう
の
高
たか
さともおっしゃいますが、
両者
りょうしゃ
は
矛盾
むじゅん
しませんか?
師:
あなたははっきり
聞
き
き
取
と
れていないのかもしれません。
心性
しんせい
の
内容
ないよう
は
非常
ひじょう
に
幅
はば
が
広
ひろ
く、
徳
とく
はその
中
なか
の
一部
いちぶ
です。ほかには「
忍
にん
」も、
苦
く
に
耐
た
える
力
ちから
も、
悟性
ごせい
も、トラブルにどう
対処
たいしょ
するかも
含
ふく
まれており、これらすべてが
心性
しんせい
の
問題
もんだい
に
入
はい
ります。
中
なか
には
功
こう
の
演化
えんか
、
徳
とく
の
演化
えんか
も
含
ふく
まれており、
非常
ひじょう
に
広義
こうぎ
なものです。
徳
とく
の
多
おお
さは、
功
こう
の
高
たか
さを
示
しめ
しているわけではなく、
将来
しょうらい
功
こう
をどれだけ
伸
の
ばせるかを
意味
いみ
しています。
徳
とく
は
錬磨
れんま
を
通
とお
して
心性
しんせい
を
高
たか
めてから、はじめて
功
こう
に
転化
てんか
されます。
弟子:
家族
かぞく
同士
どうし
で
違
ちが
う
功
こう
を
練
ね
っている
場合
ばあい
、
互
たが
いに
邪魔
じゃま
することになりませんか?
師:
なりません。しかし、
他
た
の
功法
こうほう
同士
どうし
で
邪魔
じゃま
し
合
あ
うことになるかどうかについてはわたしは
知
し
りません。われわれの
法輪功
ファールンゴン
は
誰
だれ
にも
妨
さまた
げられることがありません。それどころかあなたが
彼
かれ
らに
良
よ
い
影響
えいきょう
を
与
あた
えます。なぜならわれわれは
正法
しょうぼう
修煉
しゅうれん
ですので、
間違
まちが
った
方向
ほうこう
へずれてしまうことがないからです。
弟子:
現在
げんざい
、
社会
しゃかい
ではいろいろな
言
い
い
方
かた
が
飛
と
び
交
か
っています。たとえば
金
きん
の
鎖
くさり
とか
何
なん
とかありますが、どう
対処
たいしょ
すればよいのでしょうか?
師:
皆
みな
さんに
言
い
いますが、それは
純粋
じゅんすい
に
人
ひと
を
騙
だま
すものであり、そういうものに
返事
へんじ
をしないでください。
全
まった
くばかげていることで、
無視
むし
すればよいのです。そういうものは
正
ただ
しいかどうか
一目
ひとめ
で
分
わ
かります。われわれのこの
法
ほう
では
心性
しんせい
の
修煉
しゅうれん
を
厳
きび
しく
求
もと
めていますが、
一部
いちぶ
の
気功
きこう
師
し
のことをわたしは
気功
きこう
商人
しょうにん
と
呼
よ
んでいます。
気功
きこう
を
商品
しょうひん
として、
金
かね
に
換
か
える
資本
しほん
としていますので、このような
人
ひと
が
功
こう
を
教
おし
えても
大
たい
したものは
教
おし
えられません。
何
なに
かを
持
も
っていても
高
たか
いはずがありません。
中
なか
には
邪
よこしま
なものもあります。
弟子:
法輪功
ファールンゴン
の
学習者
がくしゅうしゃ
が
寺院
じいん
で
帰依
きえ
している
場合
ばあい
はどうしますか? やめるべきですか?
師:
それはわれわれとあまり
関係
かんけい
がありません。
帰依
きえ
したと
言
い
ってもそれは
形式
けいしき
上
じょう
のものです。
弟子:
われわれ
数人
すうにん
は、
習
なら
って
以来
いらい
、
頭
あたま
が
張
は
り、
目眩
めまい
がするのですが。
師:
これは
新
あたら
しく
入
はい
ってきた
学習者
がくしゅうしゃ
で、
身体
からだ
の
調整
ちょうせい
がまだ
済
す
んでいないためかもしれません。わたしが
打
う
ち
放
はな
ったエネルギーは
非常
ひじょう
に
強
つよ
いので、
病
やまい
の
気
き
が
外
そと
へ
出
で
るとき、
頭
あたま
が
張
は
るように
感
かん
じることがあります。
頭
あたま
が
張
は
るというのはあなたの
頭
あたま
にある
病
やまい
を
取
と
り
除
のぞ
いてあげているからで、
良
よ
いことです。しかしあまりにも
激
はげ
しく
取
と
り
除
のぞ
いていると、
反応
はんのう
も
激
はげ
しいのです。われわれが
七日間
なぬかかん
で
講習会
こうしゅうかい
を
行
おこな
うと、
耐
た
えられない
人
ひと
が
出
で
てきますが、それ
以上
いじょう
に
時間
じかん
を
縮
ちぢ
めると、
恐
おそ
らく
問題
もんだい
が
起
お
きます。
打
う
ち
放
はな
ったエネルギーが
強
つよ
いので、
反応
はんのう
も
非常
ひじょう
に
激
はげ
しく、
我慢
がまん
できないほど
頭
あたま
が
張
は
ってきます。ですから
講習会
こうしゅうかい
は
十日間
とうかかん
にした
方
ほう
が
無難
ぶなん
かもしれません。あとから
入
はい
ってきた
人
ひと
の
場合
ばあい
は
反応
はんのう
が
激
はげ
しいことがあります。
弟子:
煉功
れんこう
者
しゃ
はタバコを
吸
す
い、
酒
さけ
を
飲
の
むことができますか?
仕事
しごと
の
関係
かんけい
で
酒
さけ
を
飲
の
まなければならない
場合
ばあい
はどうしますか?
師:
この
問題
もんだい
についてわたしはこう
思
おも
います。われわれ
佛家
ぶっけ
功
こう
では、
酒
さけ
はやめなければなりません。しばらく
飲
の
まないとあなたは
飲
の
みたくなるかもしれません。
少
すこ
しずつやめていっても
良
よ
いのです。しかしあまり
時間
じかん
がかかりすぎないように。あまり
時間
じかん
がかかりすぎると
懲
ちょう
罰
ばつ
を
受
う
けることがあります! タバコを
吸
す
うことについては、わたしは
意志
いし
の
問題
もんだい
だと
思
おも
います。やめようと
思
おも
えばやめられます。
常人
じょうじん
はよく「
今日
きょう
からタバコをやめる」と
心
こころ
に
思
おも
いながら、
数日
すうじつ
も
経
た
たないうちに
続
つづ
けられなくなります。しばらくしてからまた
思
おも
い
出
だ
し、またやめようとします。このようにいつまで
経
た
ってもやめられません。
常人
じょうじん
は
世間
せけん
に
身
み
を
置
お
いているので、
世間
せけん
の
人
ひと
と
人
ひと
との
間
あいだ
ではこのようなつきあいは
避
さ
けられません。しかし、あなたは
自分
じぶん
がもはや
常人
じょうじん
ではなく、
修煉
しゅうれん
を
始
はじ
めているのだと
自覚
じかく
しなければなりません。
意志
いし
があれば、
目的
もくてき
は
達成
たっせい
できるものです。もちろん、わたしの
弟子
でし
のなかにはタバコを
吸
す
う
人
ひと
もおり、
自分
じぶん
ではやめられますが、
人
ひと
から
勧
すす
められると、
面子
めんつ
にこだわって、また
吸
す
いたくなります。
二日間
ふつかかん
吸
す
わないと
我慢
がまん
できなくなりますが、
吸
す
い
出
だ
すとそれもまた
辛
つら
いのです。
必
かなら
ず
自分
じぶん
で
制御
せいぎょ
しなければなりません! つきあいで、しょっちゅうお
客
きゃく
さんと
酒
さけ
を
飲
の
まなければならない
人
ひと
もいますが、これは
難
むずか
しい
問題
もんだい
です。できるだけあまり
飲
の
まないようにしてみてください。あるいは
自分
じぶん
で
何
なん
とかして
解決
かいけつ
してください!
弟子:
まだ
法輪
ファールン
が
回転
かいてん
しているのが
見
み
えない
間
あいだ
は、もし
時計回
とけいまわ
りの
意
い
念
ねん
を
与
あた
えると、ちょうど
逆
ぎゃく
時計回
とけいまわ
りをしている
法輪
ファールン
に
影響
えいきょう
を
与
あた
えることになるのでしょうか?
師:
法輪
ファールン
は
自動的
じどうてき
に
回転
かいてん
しているので、あなたが
意
い
念
ねん
で
導
みちび
く
必要
ひつよう
はありません。もう
一度
いちど
強調
きょうちょう
しておきますが、
意
い
念
ねん
を
用
もち
いないようにしてください。
意
い
念
ねん
を
用
もち
いてもそれを
制御
せいぎょ
することはできません。
意
い
念
ねん
で
制御
せいぎょ
するとそれを
逆方向
ぎゃくほうこう
へ
回転
かいてん
させることができると
思
おも
わないでください。
下腹部
かふくぶ
にある
法輪
ファールン
は、
意
い
念
ねん
の
制御
せいぎょ
を
受
う
けないものです。
体外
たいがい
で
身体
からだ
を
調整
ちょうせい
してくれる
法輪
ファールン
は、あなたが
回転
かいてん
させようと
思
おも
えば、あなたの
思惟
しい
活動
かつどう
を
受
う
け
止
と
めて、そういう
感覚
かんかく
をあなたに
与
あた
えるかもしれません。
皆
みな
さんに
言
い
っておきますが、そうしないでください。
人為的
じんいてき
に
煉
ね
ってはいけません。
人為的
じんいてき
に
煉
ね
ると、
人
ひと
が
功
こう
を
煉
ね
ることになってしまうのではありませんか。
法輪
ファールン
が
煉
ね
っているのであって、
法
ほう
が
人
ひと
を
煉
ね
っているのです。なぜいつまで
経
た
っても
意
い
念
ねん
というものを
放棄
ほうき
できないのでしょうか?
如何
いか
なる
功法
こうほう
も
高
たか
い
次元
じげん
に
達
たっ
すると、たとえ
道家
どうけ
の
功法
こうほう
といえども、
意
い
念
ねん
で
導
みちび
くことはありません。
弟子:
法輪功
ファールンゴン
を
煉
ね
るにはどんな
時間
じかん
、
場所
ばしょ
、
方位
ほうい
がいちばん
効果
こうか
があるのでしょうか?
何回
なんかい
煉
ね
ればよいのでしょうか?
食前
しょくぜん
と
食後
しょくご
に
煉
ね
ってもよいのでしょうか?
師:
法輪
ファールン
は
丸
まる
い
形
かたち
をしており、われわれのこの
宇宙
うちゅう
の
縮図
しゅくず
なので、われわれが
煉
ね
っているのは
宇宙
うちゅう
の
理
り
です。そのうえ
宇宙
うちゅう
は
運動
うんどう
しているため、
逆
ぎゃく
に
言
い
えば、
法
ほう
が
人
ひと
を
煉
ね
ると
言
い
えます。あなたが
煉功
れんこう
していなくても、それがあなたを
煉
ね
っているのです。いままで
伝
つた
えられてきたすべての
功法
こうほう
の
理論
りろん
と
異
こと
なり、これは
唯一
ゆいいつ
、
法
ほう
が
人
ひと
を
煉
ね
るものです。その
他
ほか
の
功法
こうほう
は
例外
れいがい
なく
丹道
たんどう
を
歩
あゆ
み、
人為的
じんいてき
に
煉功
れんこう
したり、
丹
たん
を
蓄
たくわ
えたりしますが、われわれはそこまでする
必要
ひつよう
がありません。われわれのこの
功
こう
はいつ
煉
ね
ってもよく、あなたが
煉功
れんこう
していなくても
功
こう
があなたを
煉
ね
るので、
時間
じかん
を
選
えら
ぶ
必要
ひつよう
がありません。
時間
じかん
があればたくさん
煉
ね
るし、あまり
時間
じかん
がなければ
少
すく
なめにすれば
良
よ
いのです。われわれのこの
功法
こうほう
は
要求
ようきゅう
がそれほど
厳
きび
しくありません。ただわれわれの
心性
しんせい
に
対
たい
する
要求
ようきゅう
は
非常
ひじょう
に
厳
きび
しいものです。われわれの
功法
こうほう
は
方位
ほうい
も
問
と
わないので、どの
方位
ほうい
に
立
た
っていても
構
かま
いません。
宇宙
うちゅう
は
回転
かいてん
しており、
変動
へんどう
しているので、あなたが
西側
にしがわ
に
立
た
っていても、
必
かなら
ずしも
西
にし
とは
言
い
えず、
東側
ひがしがわ
に
立
た
っていても
必
かなら
ずしも
東
ひがし
とは
言
い
えません。わたしが
弟子
でし
たちに
煉功
れんこう
の
時
とき
に
西
にし
に
向
む
かって
立
た
たせるのは、ただ
敬意
けいい
を
表
あらわ
すだけで、
実際
じっさい
には
別
べつ
にこれといった
作用
さよう
はありません。
煉功
れんこう
はどこでやってもけっこうで、
家
いえ
の
中
なか
でも
外
そと
でも
構
かま
いません。とはいえやはり、
場所
ばしょ
、
環境
かんきょう
、
空気
くうき
とも
比較的
ひかくてき
良
よ
い、
特
とく
に
汚
よご
れ
物
もの
たとえばゴミ
箱
ばこ
とかトイレとかから
離
はな
れているところを
選
えら
んだほうがよいと
思
おも
います。あとは
特
とく
に
気
き
にしません。
大法
ダーファ
を
修煉
しゅうれん
するのに
時間
じかん
や
場所
ばしょ
、
方向
ほうこう
を
問
と
いません。
食前
しょくぜん
でも
食後
しょくご
でも
構
かま
いません。しかしあまりお
腹
なか
いっぱい
食
た
べたら、すぐに
煉
ね
るのも
辛
つら
いので、しばらく
間
あいだ
をおいた
方
ほう
がいいでしょう。またお
腹
なか
がすいた
時
とき
も
入静
にゅうせい
しにくいので、
皆
みな
さんは
自分
じぶん
の
状況
じょうきょう
に
合
あ
わせてやってください。
弟子:
煉功
れんこう
し
終
お
えてから
何
なに
か
注意
ちゅうい
事項
じこう
がありますか?
手
て
で
顔
かお
を
擦
さす
る
必要
ひつよう
がありますか?
師:
煉功
れんこう
をし
終
お
えてから、
別
べつ
に
冷
つめ
たい
水
みず
とかに
触
ふ
れてはいけないということはなく、
手
て
で
顔
かお
をぬぐったり、
手
て
を
洗
あら
う
必要
ひつよう
もありません。それらはいずれも
初期
しょき
の
頃
ころ
に、
人体
じんたい
の
穴脈
けつみゃく
を
開
ひら
かせるために
採
と
られた
方法
ほうほう
に
過
す
ぎません。われわれは
大法
ダーファ
を
修煉
しゅうれん
しているので、そういうものは
一切
いっさい
ありません。
今
いま
はもはや
人体
じんたい
を
変
か
えるという
状態
じょうたい
ではありません。
常人
じょうじん
から
煉功
れんこう
者
しゃ
になるのはとてつもなく
難
むずか
しいことのように
見
み
え、そのうえ
一部
いちぶ
の
功法
こうほう
には
直接
ちょくせつ
人体
じんたい
を
変
か
える
方法
ほうほう
もないので、そういう
功法
こうほう
にはかなり
複雑
ふくざつ
な
要求
ようきゅう
もありますが、われわれには
一切
いっさい
なく、そういう
説
せつ
もありません。わたしが
言
い
っていないことは
皆
みな
さんも
気
き
にせずに、ひたすら
煉
ね
ってください。われわれは
大法
ダーファ
を
修煉
しゅうれん
しているのですから、あなたの
身体
からだ
が
初期
しょき
の
状態
じょうたい
にあって、あれこれと
恐
おそ
れ、あるいはあれこれと
要求
ようきゅう
するその
過程
かてい
は
数日
すうじつ
中
ちゅう
に
通過
つうか
してしまいます。これは
他
た
の
功法
こうほう
の
数
すう
年
ねん
間
かん
分
ぶん
の
煉功
れんこう
に
値
あたい
するとまでは
言
い
いませんが、だいたいそれくらいでしょう。
低
ひく
い
次元
じげん
のもの、
方位
ほうい
だとか、
脈
みゃく
だとかについては、わたしは
一切
いっさい
言
い
いません。われわれは
高
たか
い
次元
じげん
のものを
説
と
きます。
大法
ダーファー
修煉
しゅうれん
において、
本当
ほんとう
の
煉功
れんこう
は「
煉
れん
」という
字
じ
であって、「
練
れん
」ではありません。
弟子:
煉功
れんこう
の
後
あと
、すぐに
大
だい
小便
しょうべん
してもよいのですか?
小便
しょうべん
のなかに
泡
あわ
が
目立
めだ
ちますが、
気
き
を
漏
も
らしたことになりませんか?
師:
大丈夫
だいじょうぶ
です。われわれ
煉功
れんこう
者
しゃ
は
高
たか
い
次元
じげん
に
立
た
っており、
大小便
だいしょうべん
のとき
確
たし
かにエネルギーがいっしょに
出
で
ていきますが、しかしそれぐらいのエネルギーは
何
なん
でもありませんし、
何
なん
の
影響
えいきょう
もありません。
大法
ダーファ
を
修煉
しゅうれん
して、
普
あまね
く
衆生
しゅじょう
も
済度
さいど
しなければならないのですから、これくらいのことは
気
き
にしないでください。われわれはもっともっと
多
おお
くのものを
得
え
ています。この
講習会
こうしゅうかい
で、わたしが
打
う
ち
放
はな
ったエネルギーは
非常
ひじょう
に
強
つよ
く、
壁
かべ
にも
多
おお
くのものが
残
のこ
っています。
弟子:
法輪功
ファールンゴン
を
宣伝
せんでん
してもよろしいでしょうか?
講習
こうしゅう
を
受
う
けたことのない
人
ひと
に
法輪功
ファールンゴン
を
教
おし
えてもよいのでしょうか?
講習
こうしゅう
を
聞
き
いたことのない
人
ひと
でも
煉功
れんこう
場
ば
で
煉功
れんこう
できますか?
録音
ろくおん
テープと
本
ほん
を
遠
とお
くにいる
親戚
しんせき
や
友人
ゆうじん
に
郵送
ゆうそう
してもよろしいでしょうか?
師:
われわれの
功法
こうほう
を
普及
ふきゅう
させ、より
多
おお
くの
人
ひと
に
恩恵
おんけい
を
受
う
けさせても、
問題
もんだい
が
起
お
こる
恐
おそ
れはありません。
皆
みな
さんに
多
おお
くの
法
ほう
を
明
あき
らかにしたのは、
皆
みな
さんに
法
ほう
を
知
し
ってもらい、
高
たか
い
次元
じげん
のものを
理解
りかい
してもらい、
高
たか
い
次元
じげん
のものを
見
み
てもらうためです。
前
まえ
もって
明
あき
らかにしたのは、
皆
みな
さんが
見
み
たあるいは
遭遇
そうぐう
したときに
理解
りかい
できないようなことがないようにしたいからです。
皆
みな
さんは
他人
たにん
に
煉功
れんこう
を
教
おし
えることはできますが、しかし
法輪
ファールン
を
植
う
え
付
つ
けることはできません。どうすればいいでしょうか? わたしが
言
い
ったように、あなたがためらったり
疑
うたが
ったりしてあまり
煉功
れんこう
もしなければ、わたしの
法身
ほうしん
があなたから
離
はな
れていきます。もしあなたが
本当
ほんとう
に
煉功
れんこう
すれば、
法身
ほうしん
があなたを
見守
みまも
ります。ですからあなたが
人
ひと
に
功
こう
を
教
おし
えるとき、わたしが
教
おし
えた
信息
しんそく
を
携
たずさ
えており、
法輪
ファールン
を
形成
けいせい
させる
気
き
機
き
を
携
たずさ
えているわけです。あなたが
教
おし
えた
人
ひと
が
本気
ほんき
で
煉功
れんこう
すれば、
法輪
ファールン
を
手
て
に
入
い
れることができます。
縁
えん
があり、
根基
こんき
が
良
よ
い
人
ひと
は、その
場
ば
で
法輪
ファールン
を
得
え
ることができます。われわれの
本
ほん
に
詳細
しょうさい
にわたって
書
か
いてあるので、
教
おし
える
人
ひと
がいなくても
上手
じょうず
に
煉
ね
ることができます。
弟子:
法輪功
ファールンゴン
の
煉功
れんこう
では、
呼吸
こきゅう
は
問
と
われますか?
如何
いか
に
息
いき
を
調整
ちょうせい
すればよいのでしょうか?
師:
法輪功
ファールンゴン
の
煉功
れんこう
では、
息
いき
を
調整
ちょうせい
する
必要
ひつよう
もなければ、
呼吸
こきゅう
も
問
と
いません。それは
初級
しょきゅう
レベルの
功法
こうほう
で
習
なら
うものであって、われわれの
煉功
れんこう
では
必要
ひつよう
がありません。なぜなら
息
いき
を
調整
ちょうせい
するのは、
丹
たん
を
煉
ね
り、
風
かぜ
を
添
そ
え、
火
ひ
を
加
くわ
えるためだからです。
逆
ぎゃく
式
しき
呼吸
こきゅう
、
順
じゅん
式
しき
呼吸
こきゅう
、
津
つば
を
咽
の
むなどはいずれも
丹
たん
を
煉
ね
るためのものであり、われわれはそれをやりません。あなたに
必要
ひつよう
なことはすべて
法輪
ファールン
がやってくれます。さらに
高
たか
い、さらに
難
むずか
しいものは、
師
し
の
法身
ほうしん
がやってくれます。どんな
流派
りゅうは
でも、たとえ
道家
どうけ
がとりわけ
細
こま
かいことを
説
と
いていても、
人為的
じんいてき
に
煉功
れんこう
することによって
成
な
し
遂
と
げられるものではありません。
実際
じっさい
はその
流派
りゅうは
の
上師
じょうし
が
煉
ね
ってくれて、
演化
えんか
してくれているのであって、
本人
ほんにん
にはそのわけが
分
わ
からないだけです。
自分
じぶん
で
人為的
じんいてき
にやってもできません。
悟
さと
りを
開
ひら
き、
功
こう
を
開
ひら
いた
人
ひと
でしかやり
遂
と
げられないのです。
弟子:
煉功
れんこう
には
意守
いしゅ
がありますか?
功法
こうほう
の
意
い
念
ねん
はどこにありますか?
師:
われわれには
意守
いしゅ
がありません。
一貫
いっかん
して
皆
みな
さんに
意守
いしゅ
を
教
おし
えておらず、
皆
みな
さんに
執着
しゅうちゃく
を
放棄
ほうき
するよう、
意
い
念
ねん
を
求
もと
めないようにと
言
い
っています。
第
だい
三式
さんしき
功法
こうほう
で、
両手
りょうて
の
掌
てのひら
が
気
き
を
率
ひき
いて
両極
りょうきょく
を
貫通
かんつう
させるとき、ちょっと
考
かんが
えるだけで
結構
けっこう
です。その
他
ほか
は
考
かんが
えないようにしてください。
弟子:
エネルギーを
採
と
りこむのは
気
き
を
採
と
りこむのと
同
おな
じですか?
師:
気
き
を
採
と
りこんでどうするのですか? われわれが
修煉
しゅうれん
しているのは
大法
ダーファ
であり、そのうち
気
き
を
発
はっ
することができなくなります。われわれの
煉
ね
っているのは
低
ひく
い
次元
じげん
の
気
き
ではなく、
放出
ほうしゅつ
しているのは
光
ひかり
です。エネルギーの
採集
さいしゅう
は、
法輪
ファールン
に
任
まか
せているので、
自分
じぶん
でやる
必要
ひつよう
がありません。ところで、
貫通
かんつう
両極
りょうきょく
法
ほう
では、
気
き
を
採
と
りこんでいるのではなく、
実
じつ
は
身体
からだ
を
貫通
かんつう
させているのですが、エネルギーを
採
と
りこむ
役割
やくわり
も
果
は
たしています。しかしそれが
主
おも
な
目的
もくてき
ではありません。
気
き
の
採集
さいしゅう
はどうすればいいのかということですが、
大法
ダーファ
を
修煉
しゅうれん
しているので、ちょっと
手
て
を
振
ふ
れば、
頭上
ずじょう
に
圧力
あつりょく
を
感
かん
じ、あっという
間
ま
に
気
き
が
溢
あふ
れるほど
寄
よ
ってきます。しかし、
気
き
を
集
あつ
めてどうするのですか? エネルギーもわざわざ
採
と
りこむものではありません。
弟子:
法輪功
ファールンゴン
には、「
百日
ひゃくじつ
築基
ちくき
」や「
胎息
たいそく
」がありますか?
師:
それらはみな
低
ひく
い
次元
じげん
のものであり、われわれは
煉
ね
りません。われわれはとっくに
初級
しょきゅう
の
不安定
ふあんてい
な
時期
じき
を
通過
つうか
しています。
弟子:
法輪功
ファールンゴン
には
陰陽
いんよう
の
均衡
きんこう
がありますか?
師:
これらはみな
気
き
を
練
ね
る
類
たぐ
いのもので、
低
ひく
い
次元
じげん
のものであって、
気
き
という
次元
じげん
を
抜
ぬ
け
出
だ
せば、あなたの
身体
からだ
には、
陰陽
いんよう
という
問題
もんだい
が
存在
そんざい
しなくなります。どんな
流派
りゅうは
の
功
こう
を
煉
ね
るにせよ、
本当
ほんとう
に
師
し
の
直伝
じきでん
を
得
え
ていれば、あなたが
低
ひく
い
次元
じげん
を
通過
つうか
するとき、
間違
まちが
いなく
以前
いぜん
煉
ね
ったものをすべて
捨
す
てて、
一
ひと
つも
残
のこ
さないに
違
ちが
いありません!
新
あたら
しい
次元
じげん
において、
新
あたら
しいものを
煉
ね
り、さらにその
次元
じげん
を
通過
つうか
すれば、さらに
新
あたら
しいものを
煉
ね
ることになるのです。そういうことです。
弟子:
雷
かみなり
が
鳴
な
るときに
煉功
れんこう
していいのでしょうか?
法輪功
ファールンゴン
を
煉功
れんこう
するのに
音
おと
を
気
き
にしますか?
師:
皆
みな
さんに
一
ひと
つ
例
れい
を
挙
あ
げましょう。
以前
いぜん
わたしが
北京
ぺきん
のあるところで
学習者
がくしゅうしゃ
に
教
おし
えていたときのことですが、
雨
あめ
が
降
ふ
りそうで、
雷
かみなり
がごろごろと
鳴
な
っていました。そのとき
彼
かれ
らが
煉
ね
っていたのはわたしが
弟子
でし
に
伝
つた
えた
功
こう
であって、
煉
ね
るときは、
法輪
ファールン
の
上
うえ
で
煉功
れんこう
しなければなりません。
雨
あめ
が
降
ふ
りそうになったのに、
彼
かれ
らはまだ
煉功
れんこう
が
終
お
わっていませんでした。しかし、
雨
あめ
は
全然
ぜんぜん
降
ふ
ってきません。
雲
くも
が
非常
ひじょう
に
低
ひく
く、ビルの
上
うえ
を
雲
くも
の
塊
かたまり
が
翻
ひるがえ
り、
雷
かみなり
がごろごろと
大
おお
きな
音
おと
を
立
た
て、
空
そら
が
真
ま
っ
暗
くら
になりました。
雷
かみなり
が
法輪
ファールン
の
輪
りん
に
落
お
ちましたが、われわれは
傷
きず
ひとつありませんでした。
雷
かみなり
が
地面
じめん
に
落
お
ちたときの
様子
ようす
が
非常
ひじょう
にはっきり
見
み
えましたが、われわれは
傷
きず
つけられることがありませんでした。これはわれわれのこの
功
こう
が
守
まも
られていることを
物語
ものがた
っています。
普通
ふつう
わたしは、
煉功
れんこう
するとき
天気
てんき
のことを
気
き
にしません。
煉功
れんこう
しようと
思
おも
うときに
煉功
れんこう
し、
時間
じかん
があれば
煉功
れんこう
し、
音
おと
なども
気
き
にしません。
他
た
の
功
こう
はみな
音
おん
を
気
き
にします。
静
しず
まり
返
かえ
ったときに
突然
とつぜん
大
おお
きな
音
おと
が
聞
き
こえてくると、まるで
体中
からだじゅう
の
気
き
が
爆発
ばくはつ
して
光
ひかり
を
発
はっ
しながら
体外
たいがい
へほとばしるかのような
感覚
かんかく
を
覚
おぼ
えることがあるからです。しかし
大丈夫
だいじょうぶ
です。われわれの
功
こう
にはそういった
間違
まちが
いが
起
お
きません。もっともできるだけ
静
しず
かなところで
煉功
れんこう
するに
越
こ
したことはありません。
弟子:
先生
せんせい
のお
姿
すがた
を
観想
かんそう
したほうがいいのでしょうか?
師:
観想
かんそう
する
必要
ひつよう
はありません。あなたの
天目
てんもく
が
開
ひら
いたら、わたしの
法身
ほうしん
がすぐ
側
そば
にいるのが
見
み
えます。
弟子:
五式
ごしき
の
功法
こうほう
を
煉功
れんこう
するとき
何
なに
か
注意
ちゅうい
することはありますか?
連続
れんぞく
して
煉
ね
らなければなりませんか?
九
きゅう
回
かい
繰
く
り
返
かえ
す
動作
どうさ
は、
心
こころ
の
中
なか
で
数
かず
を
数
かぞ
えてもいいのですか?
九
きゅう
回
かい
を
超
こ
えたり、あるいは
動作
どうさ
を
間違
まちが
えたりしたら
逆
ぎゃく
の
作用
さよう
が
起
お
きますか?
師:
五式
ごしき
の
功法
こうほう
はどれを
煉
ね
っても
構
かま
いませんが、できれば
煉功
れんこう
を
始
はじ
める
前
まえ
に、
第
だい
一式
いっしき
の
功法
こうほう
を
煉
ね
ったほうがいいと
思
おも
います。それによって
身体
からだ
全体
ぜんたい
が
伸
の
びやかになるからです。まずそれを
一回
いっかい
やって、
身体
からだ
が
十分
じゅうぶん
に
伸
の
びやかになってから、
他
ほか
の
功法
こうほう
を
煉
ね
った
方
ほう
が
効果
こうか
が
良
よ
くなります。
時間
じかん
があればたくさん
煉
ね
り、なければ
少
すく
なめにしてもよく、あるいはその
中
なか
の
一式
いしき
を
選
えら
んで
煉
ね
ってもけっこうです。
第三
だいさん
、
四式
よんしき
功法
こうほう
では、それぞれ
九
きゅう
回
かい
やることになっており、
本
ほん
には
心
こころ
の
中
なか
で
数
かず
を
数
かぞ
えるようにと
書
か
いてありますが、
帰
かえ
ってから
試
ため
してみてください。お
子
こ
さんに
側
そば
に
立
た
って
数
かぞ
えてもらい、やってみてください。
九
きゅう
回
かい
し
終
お
えたら、
気
き
機
き
を
探
さが
そうと
思
おも
っても
見
み
つかりません。これはこのようになっているのです。
初
はじ
めは
頭
あたま
で
考
かんが
えなければなりませんが、
慣
な
れたら
自
おの
ずとそこで
止
と
まることになります。
覚
おぼ
え
間違
まちが
ったり、あるいは
回数
かいすう
をオーバーしたり
足
た
りなかったりしたら、
直
なお
せばいいのです。
弟子:
どうして
終
お
わるときに、
功
こう
を
収
おさ
めることをしないのですか?
師:
法輪
ファールン
は
自動的
じどうてき
に
回転
かいてん
しており、あなたが
煉功
れんこう
を
終
お
えたのが
瞬間的
しゅんかんてき
に
分
わ
かります。それのエネルギーは
非常
ひじょう
に
大
おお
きいので、
一瞬
いっしゅん
のうちに
放出
ほうしゅつ
したものを
回収
かいしゅう
してしまいます。あなたがいくら
人為的
じんいてき
にやってもそれには
及
およ
びません。ただこれも
功
こう
を
収
おさ
めるのではなく、エネルギーを
呼
よ
び
戻
もど
しているだけです。
他
た
の
功法
こうほう
では、
一瞬
いっしゅん
のうちに
止
と
まってしまいます。この
功法
こうほう
では、ずっと
煉
ね
っており、
止
と
まってからも
煉
ね
っていますので、
功
こう
を
収
おさ
めることによって
止
と
めるということはできないのです。
法輪
ファールン
を
止
と
めようと
思
おも
っても、あなたにはできません。あまり
深遠
しんえん
なことを
言
い
っても
理解
りかい
してもらえませんが、あなたがもしそれを
止
と
めることができれば、わたしのところのも
止
と
まらなければならないことになってしまいます。あなたにはわたしのところのを
止
と
めることができますか?
弟子:
結印
けついん
、
合掌
がっしょう
は
站樁
たんとう
として
煉
ね
ってもよいのでしょうか?
師:
第
だい
一式
いっしき
功法
こうほう
――
佛展
ぶってん
千手
せんじゅ
法
ほう
は
站樁
たんとう
として
煉
ね
ってはいけません。
力一杯
ちからいっぱい
伸
の
ばしすぎると、
問題
もんだい
が
起
お
きかねません。
弟子:
煉功
れんこう
のとき、
脇
わき
の
下
した
を「
虚
きょ
」にしたほうがいいのですか?
第
だい
一式
いっしき
功法
こうほう
を
煉
ね
るとき、
脇
わき
の
下
した
がきつく
感
かん
じるのはなぜでしょうか?
師:
あなたに
病気
びょうき
があるのではありませんか?
初期
しょき
状態
じょうたい
において、あなたの
身体
からだ
を
変
か
えるときに、あれこれの
現象
げんしょう
が
現
あらわ
れ、
少
すこ
し
症状
しょうじょう
があるかもしれませんが、それは
功
こう
がもたらすものではありません。
弟子:
李
り
先生
せんせい
の
講義
こうぎ
を
聞
き
いたことのない
人
ひと
でも、
公園
こうえん
で
他
ほか
の
学習者
がくしゅうしゃ
と
一緒
いっしょ
に
煉功
れんこう
できますか?
師:
できます。
学習者
がくしゅうしゃ
は
誰
だれ
でも
他人
たにん
に
煉功
れんこう
を
教
おし
えることができます。
学習者
がくしゅうしゃ
が
他
ほか
の
人
ひと
に
煉功
れんこう
を
教
おし
えるのは、わたしが
教
おし
えるのとは
違
ちが
います。わたしは
皆
みな
さんのために
直接
ちょくせつ
身体
からだ
を
変
か
えてあげるのです。しかし
煉功
れんこう
するとすぐ
法輪
ファールン
を
持
も
つようになる
人
ひと
もいます。
学習者
がくしゅうしゃ
の
背後
はいご
にみなわたしの
法身
ほうしん
がいて、それが
直接
ちょくせつ
処理
しょり
してくれているからです。これは
縁
えん
によります。
縁
えん
の
強
つよ
い
人
ひと
は、その
場
ば
で
法輪
ファールン
を
得
え
ることができますが、
縁
えん
の
強
つよ
くない
人
ひと
は、
長期
ちょうき
の
煉功
れんこう
を
通
とお
して、
自分
じぶん
で
徐々
じょじょ
にこのような
玄機
げんき
を
形成
けいせい
していきます。そのうえでさらに
煉功
れんこう
して
玄機
げんき
を
法輪
ファールン
にしていきます。
弟子:
静
せい
功
こう
「
神通
じんつう
加持
かじ
法
ほう
」の
手印
しゅいん
動作
どうさ
の
意味
いみ
は
何
なん
でしょうか?
師:
これはわれわれの
言語
げんご
では
解釈
かいしゃく
できません。ひとつひとつの
動作
どうさ
に
含
ふく
まれている
意味
いみ
はたくさんありますが、
要
よう
するに、わたしは
煉功
れんこう
しようとしており、
佛法
ぶっぽう
を
煉
ね
ろうとしており、
身体
からだ
を
調整
ちょうせい
して、
煉功
れんこう
状態
じょうたい
に
入
はい
ろうとしている、ということです。
弟子:
煉功
れんこう
して
乳白体
にゅうはくたい
に
達
たっ
すれば、
毛孔
けあな
までも
開
ひら
き、
身体
しんたい
呼吸
こきゅう
になるのですか?
師:
皆
みな
さん
体感
たいかん
してみてください。
皆
みな
さんはすでにこの
次元
じげん
を
通過
つうか
しています。わたしが
皆
みな
さんの
身体
からだ
を
乳白体
にゅうはくたい
に
調整
ちょうせい
してあげるのに、
十時間
じゅうじかん
以上
いじょう
法
ほう
を
説
と
かなければなりません。これ
以上
いじょう
短縮
たんしゅく
するのは
無理
むり
です。
皆
みな
さんは
他
た
の
功法
こうほう
では
十数年
じゅうすうねん
あるいはもっと
長
なが
い
時間
じかん
煉
ね
らなければならないのですが、われわれはここで
一気
いっき
に
皆
みな
さんをそのレベルまで
持
も
っていきます。そのレベルでは
心性
しんせい
の
要求
ようきゅう
がなく、
師
し
の
能力
のうりょく
によって
行
おこな
われるので、あなたがまだ
気
き
づかないうちに、この
次元
じげん
はすでに
通過
つうか
してしまいました。
場合
ばあい
によっては
数
すう
時間
じかん
しかかかりません。ある
日
ひ
、あなたは
非常
ひじょう
に
敏感
びんかん
になったと
感
かん
じるでしょうが、しばらくすると、また
敏感
びんかん
ではなくなります。
実
じつ
は、それは
大
おお
きな
次元
じげん
を
通過
つうか
したことにほかなりません。ところが
他
た
の
功法
こうほう
ではあなたは
一年
いちねん
あるいは
数
すう
年
ねん
間
かん
もこのような
状態
じょうたい
を
保
たも
たなければなりません。しかし、
実
じつ
のところこれらはみな
低
ひく
い
次元
じげん
のものです。
弟子:
バスの
中
なか
であるいは
列
れつ
に
並
なら
んでいるとき、
法輪功
ファールンゴン
の
各
かく
動作
どうさ
を
想像
そうぞう
してもいいですか?
師:
われわれの
功
こう
は
意
い
念
ねん
を
用
もち
いるものではなく、
毎日
まいにち
必
かなら
ずどれくらいの
時間
じかん
煉功
れんこう
しなければならないというものでもありません。もちろん
煉功
れんこう
の
時間
じかん
が
長
なが
ければ
長
なが
いほどいいのです。あなたが
煉功
れんこう
していないときは、
逆
ぎゃく
にそれがあなたを
煉
ね
ってくれます。しかし
煉功
れんこう
の
初期
しょき
段階
だんかい
では、それを
強化
きょうか
させるために、やはりたくさん
煉
ね
ったほうがよいのです。
一
いち
、
二
に
カ
月
げつ
出張
しゅっちょう
していて、その
間
あいだ
仕事
しごと
に
追
お
われて、
煉功
れんこう
できませんでしたが、
帰
かえ
ってきてみると
全然
ぜんぜん
影響
えいきょう
を
受
う
けておらず、
法輪
ファールン
が
相変
あいか
わらず
回
まわ
っている、という
人
ひと
もいます。それは
絶
た
えず
回転
かいてん
しているからです。
頭
あたま
の
中
なか
で
自分
じぶん
が
煉功
れんこう
者
しゃ
だということを
忘
わす
れずに、
心性
しんせい
をしっかり
守
まも
っていれば、それが
作用
さよう
します。ただ
一
ひと
つ、あなたが
煉功
れんこう
もしないうえ、
自分
じぶん
を
常人
じょうじん
と
混同
こんどう
するようなことがあれば、それが
消
き
えてしまいます。
弟子:
法輪功
ファールンゴン
は
密教
みっきょう
と
一緒
いっしょ
に
煉
ね
ってもいいのでしょうか?
師:
密教
みっきょう
も
法輪
ファールン
ですが、われわれの
功
こう
と
一緒
いっしょ
に
煉
ね
ってはいけません。もしあなたが
密教
みっきょう
を
煉
ね
って
法輪
ファールン
をすでに
形成
けいせい
していれば、
密教
みっきょう
を
煉
ね
ればよいのです。
密教
みっきょう
も
正法
しょうぼう
ですから。しかし
同時
どうじ
に
煉
ね
ってはいけません。
密教
みっきょう
の
法輪
ファールン
は
中
ちゅう
脈
みゃく
を
修
おさ
めるもので、
水平
すいへい
に
回転
かいてん
します。その
法輪
ファールン
はわれわれのと
違
ちが
い、
呪文
じゅもん
があります。われわれの
法輪
ファールン
は
下腹部
かふくぶ
に
立
た
っており、
平面
へいめん
が
外
そと
に
向
む
かっています。
下腹部
かふくぶ
は
決
き
まった
大
おお
きさしかなく、わたしの
法輪
ファールン
ひとつで
一杯
いっぱい
になりますので、もう
一
ひと
つ
入
い
れるとごちゃ
混
ま
ぜになります。
弟子:
法輪功
ファールンゴン
を
煉
ね
ると
同時
どうじ
に
他
ほか
の
佛家
ぶっけ
功法
こうほう
を
煉
ね
ってもいいですか?
観音
かんのん
の
録音
ろくおん
テープは
聞
き
いてもいいですか?
在家
ざいけ
の
居士
こじ
が
功
こう
を
学
まな
んでから、お
経
きょう
を
読
よ
んでもいいですか?
同時
どうじ
に
他
ほか
の
功法
こうほう
を
煉
ね
ってもいいですか?
師:
わたしはしてはいけないと
思
おも
います。どの
法門
ほうもん
もひとつの
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
であって、
病気
びょうき
治療
ちりょう
や
健康
けんこう
増進
ぞうしん
のためではなく、
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
しようとすれば、
一
ひと
つに
専念
せんねん
しなければなりません。これは
厳粛
げんしゅく
な
問題
もんだい
です。
高
たか
い
次元
じげん
を
目指
めざ
して
修煉
しゅうれん
するには、
一
ひと
つに
専念
せんねん
して
修煉
しゅうれん
しなければなりません。これは
絶対
ぜったい
の
真理
しんり
です。
佛家
ぶっけ
の
中
なか
の
異
こと
なる
法門
ほうもん
も
混
ま
ぜてはいけないものです。われわれが
説
と
いているこの
功法
こうほう
は
高
たか
い
次元
じげん
のもので、
悠久
ゆうきゅう
な
年代
ねんだい
を
経
へ
て
伝
つた
わってきたものですので、
自分
じぶん
の
感覚
かんかく
に
頼
たよ
ってはいけないです。
他
た
の
空間
くうかん
からその
演化
えんか
の
過程
かてい
を
見
み
れば、きわめて
玄妙
げんみょう
で、きわめて
複雑
ふくざつ
なものなのです。あたかも
精密
せいみつ
機器
きき
が、
一
ひと
つの
部品
ぶひん
でも
他
ほか
のものに
取
と
り
替
か
えられたらすぐ
壊
こわ
れてしまうように。
功法
こうほう
も
同
おな
じで、
如何
いか
なるものを
混
ま
ぜてもいけません。
混
ま
ぜれば
間違
まちが
いなく
問題
もんだい
が
起
お
きます。
各
かく
門派
もんぱ
の
功法
こうほう
はいずれも
同
おな
じですが、
煉
ね
ろうとすれば
一
ひと
つに
専念
せんねん
しなければなりません。
一
ひと
つに
専念
せんねん
しなければ、どうにも
修煉
しゅうれん
はできません。それぞれの
流派
りゅうは
の
長所
ちょうしょ
を
取
と
り
入
い
れるというのは、
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
増進
ぞうしん
の
次元
じげん
の
言
い
い
方
かた
であって、あなたを
高
たか
い
次元
じげん
へ
導
みちび
くことはできません。
弟子:
他
た
の
功法
こうほう
を
煉
ね
っている
人
ひと
と
一緒
いっしょ
に
煉功
れんこう
すれば、
互
たが
いに
影響
えいきょう
し
合
あ
うことがありますか?
師:
相手
あいて
がどんな
功
こう
を
煉
ね
っているにせよ、
道家
どうけ
功
こう
でも、
神功
しんこう
でも、
佛家
ぶっけ
功
こう
でも
構
かま
いませんが、
正法
しょうぼう
であるかぎり、われわれには
何
なん
ら
妨
さまた
げにならず、あなたも
相手
あいて
にとって
妨
さまた
げになりません。
一方
いっぽう
、
相手
あいて
はあなたの
近
ちか
くで
煉功
れんこう
すればメリットがあります。
丹
たん
を
煉
ね
るのと
違
ちが
い、
法輪
ファールン
は
霊体
れいたい
であって、
自動的
じどうてき
に
助
たす
けてくれるからです。
弟子:
他
ほか
の
気功
きこう
師
し
に
身体
からだ
の
調整
ちょうせい
を
頼
たよ
んでもいいですか?
他
ほか
の
気功
きこう
師
し
の
講義
こうぎ
を
聞
き
いたら
影響
えいきょう
がありますか?
師:
この
講習会
こうしゅうかい
から
帰
かえ
ると、
皆
みな
さんは
自分
じぶん
の
身体
からだ
がどう
変
か
わったのか
分
わ
かると
思
おも
います。しばらくすれば
皆
みな
さんの
身体
からだ
に
病気
びょうき
が
現
あらわ
れることが
許
ゆる
されなくなります。
再
ふたた
び
病気
びょうき
が
現
あらわ
れても、たとえば
風邪
かぜ
とか
腹痛
ふくつう
とかのように
見
み
えても、
実
じつ
はそういうのとはもはや
違
ちが
って、それは
劫難
ごうなん
であり、
関門
かんもん
であることになります。あなたが
他
ほか
の
気功
きこう
師
し
に
調整
ちょうせい
を
頼
たの
むのは、あなたが
悟
さと
っておらず、わたしの
言
い
うことを
信
しん
じていないからです。
求
もと
めようとする
考
かんが
えを
持
も
っていれば、あなたの
修煉
しゅうれん
を
妨害
ぼうがい
する
良
よ
くない
信息
しんそく
を
招
まね
いてしまうことになります。その
気功
きこう
師
し
の
功
こう
が
憑
つ
き
物
もの
の
功
こう
であれば、あなたはそれを
招
まね
いてしまいかねません。
講義
こうぎ
を
聞
き
くのも
同
おな
じで、
聞
き
きたいと
思
おも
うのは
求
もと
めることではありませんか? この
問題
もんだい
はあなた
自身
じしん
で
悟
さと
ってください。これは
心性
しんせい
の
問題
もんだい
ですので、わたしは
口出
くちだ
ししません。もしその
人
ひと
が
非常
ひじょう
に
高
たか
い
法
ほう
を
講義
こうぎ
し、
心性
しんせい
のことを
説
と
いていればそれでも
構
かま
いません。わたしの
講習会
こうしゅうかい
に
参加
さんか
してから、あなたの
身体
からだ
はやっとのことで
調整
ちょうせい
してあげることができました。もともとあなたの
身体
からだ
には
練功
れんこう
の
信息
しんそく
がかなり
乱雑
らんざつ
に
入
い
り
乱
みだ
れていましたが、
調整
ちょうせい
を
経
へ
て、
悪
わる
いものが
取
と
り
除
のぞ
かれ、
良
よ
いものだけが
残
のこ
りました。もちろんわたしは
他
た
の
功法
こうほう
を
学
まな
ぶことに
反対
はんたい
しませんが、
乱雑
らんざつ
に
学
まな
んではいけないと
思
おも
います。あなたはすでに
大法
ダーファ
を
修煉
しゅうれん
し
始
はじ
めており、
法身
ほうしん
があなたのすぐ
側
そば
におり、
高
たか
いものを
得
え
たにもかかわらず、
引
ひ
き
返
かえ
して
探
さが
そうとしています!
弟子:
法輪功
ファールンゴン
を
煉
ね
る
一方
いっぽう
、
他
た
の
功法
こうほう
を
学
まな
んでもよいのでしょうか? たとえば
按摩
あんま
、
護身
ごしん
功
こう
、
一指
いっし
禅
ぜん
、
太極拳
たいきょくけん
など、その
功
こう
は
練
ね
らないのですが、その
方面
ほうめん
の
本
ほん
を
読
よ
んでもよいのでしょうか?
師:
按摩
あんま
、
護身
ごしん
は
学
まな
んでもよいのですが、
闘
たたか
う
心
こころ
を
起
お
こしたとき、ときどき
違和感
いわかん
を
覚
おぼ
えることがあります。
一指
いっし
禅
ぜん
、
太極拳
たいきょくけん
は
気功
きこう
の
類
たぐ
いで、
煉
ね
れば
中
なか
に
加
くわ
えてしまう
可能性
かのうせい
がありますので、わたしのものがあなたの
身体
からだ
において
純粋
じゅんすい
でなくなります。
本
ほん
を
読
よ
むことですが、
心性
しんせい
を
説
と
くものならまだ
構
かま
いません。しかし
一部
いちぶ
の
本
ほん
の
著者
ちょしゃ
は
自分
じぶん
でもよく
分
わ
からないのに、
結論
けつろん
を
下
くだ
しているので、あなたの
頭
あたま
はそれによってかき
乱
みだ
されかねません。
弟子:
「
頭前
とうぜん
抱輪
ほうりん
」では、
手
て
が
触
ふ
れ
合
あ
う
時
とき
がありますが、
大丈夫
だいじょうぶ
でしょうか?
師:
触
ふ
れ
合
あ
わないようにしてください。われわれは
離
はな
れるように
要求
ようきゅう
していますが、
触
ふ
れ
合
あ
うと、
手
て
のエネルギーは
戻
もど
ってしまうことがあります。
弟子:
第二式
だいにしき
功法
こうほう
を
煉
ね
るとき、
腕
うで
が
持
も
ちこたえられなくなったら、しばらく
下
お
ろしてまた
煉
ね
ってもいいのですか?
師:
煉功
れんこう
は
辛
つら
いものです。
疲
つか
れたらすぐ
下
お
ろしたりすると、
何
なん
の
意味
いみ
もありません。
時間
じかん
は
長
なが
ければ
長
なが
いほどいいのですが、
自分
じぶん
の
力
ちから
に
合
あ
わせて
行
おこな
ってください。
弟子:
結跏趺坐
けっかふざ
のとき、どうして
女性
じょせい
の
場合
ばあい
、
左脚
ひだりあし
が
下
した
にあり、
右脚
みぎあし
が
上
うえ
にあるのですか?
師:
われわれの
煉功
れんこう
には、
女性
じょせい
の
身体
からだ
と
男性
だんせい
の
身体
からだ
は
違
ちが
う、という
一
ひと
つの
基点
きてん
があります。ですから
女性
じょせい
の
本体
ほんたい
で
自分
じぶん
自身
じしん
を
煉
ね
るには、
女性
じょせい
の
生理
せいり
に
合
あ
わせてはじめて
効果
こうか
があります。
女性
じょせい
は
通常
つうじょう
左脚
ひだりあし
が
右脚
みぎあし
を
支
ささ
えているので、
自分
じぶん
自身
じしん
の
状態
じょうたい
に
合
あ
います。
男性
だんせい
はその
反対
はんたい
であり、
基点
きてん
が
違
ちが
います。
弟子:
録音
ろくおん
テープあるいは
音楽
おんがく
を
聞
き
きながら、あるいは
口訣
くけつ
を
念
ねん
じながら
煉功
れんこう
していいのですか?
師:
もし
良
よ
い
佛家
ぶっけ
音楽
おんがく
があれば
聞
き
いてもいいのですが、
本当
ほんとう
に
煉功
れんこう
するには
何
なん
の
音楽
おんがく
も
要
い
りません。
定力
じょうりき
が
求
もと
められるからです。
録音
ろくおん
を
聞
き
くのは、その
一念
いちねん
で
万
まん
念
ねん
を
追
お
い
払
はら
うためです。
弟子:
「
貫通
かんつう
両極
りょうきょく
法
ほう
」では、
力
ちから
を
抜
ぬ
いたほうがいいのですか、それとも
力
ちから
を
入
い
れたほうがいいのですか?
師:
「
貫通
かんつう
両極
りょうきょく
法
ほう
」では、
自然
しぜん
に
立
た
ち、
力
ちから
を
抜
ぬ
くよう
求
もと
められています。
第
だい
一式
いっしき
功法
こうほう
の
要求
ようきゅう
とは
違
ちが
い、その
他
ほか
の
功法
こうほう
はいずれも
力
ちから
を
抜
ぬ
くよう
求
もと
められています。
三、
心性
しんせい
を
修煉
しゅうれん
する
弟子:
わたしは「
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
」に
従
したが
おうとしたのですが、
昨夜
さくや
夢
ゆめ
の
中
なか
で
人
ひと
と
喧嘩
けんか
しました。すごい
喧嘩
けんか
でした。「
忍
にん
」をしようとしましたが、「
忍
にん
」ができませんでした。これはわたしの
心性
しんせい
の
向上
こうじょう
を
促
うなが
しているのですか?
師:
もちろんそうです。
夢
ゆめ
はどういうことなのかについて、わたしはすでにお
話
はな
ししましたので、
皆
みな
さんは
自分
じぶん
で
悟
さと
ってください。
心性
しんせい
を
高
たか
める
出来事
できごと
は
突然
とつぜん
やって
来
く
るのであって、あなたがそれを
迎
むか
えるための
心
こころ
の
用意
ようい
をしてからやってくるものではありません。ある
人
ひと
が
良
よ
いか
悪
わる
いかを
見
み
るのは、
心
こころ
の
用意
ようい
ができていないときにこそ
分
わ
かるのです。
弟子:
法輪功
ファールンゴン
の「
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
」の
中
なか
の「
忍
にん
」についてですが、
如何
いか
なる
出来事
できごと
に
対
たい
しても、
正
ただ
しいかどうかを
問
と
わず、「
忍
にん
」をしなければならないのですか?
師:
わたしが
言
い
っている「
忍
にん
」は、あなたの
個人
こじん
の
利益
りえき
にかかわる
問題
もんだい
において、あなたが
執着
しゅうちゃく
して
放下
ほうげ
できないものにおいて、あなたの
心性
しんせい
を
高
たか
めることを
指
さ
しています。
実際
じっさい
に「
忍
にん
」は
決
けっ
して
悪
わる
いことではなく、たとえ
常人
じょうじん
にとっても
悪
わる
くありません。
昔
むかし
の
話
はなし
を
一
ひと
つしましょう。
大将軍
だいしょうぐん
韓信
かんしん
は
小
ちい
さいときから
武術
ぶじゅつ
をたしなんでいましたが、
当時
とうじ
武術
ぶじゅつ
をやる
人間
にんげん
は
好
この
んで
剣
けん
をさげていました。
韓信
かんしん
が
街
まち
を
歩
ある
いていると、ならず
者
もの
がやってきて、「お
前
まえ
はなぜそれをさげているのか?
人
ひと
を
殺
ころ
すだけの
勇気
ゆうき
があるのか?
殺
ころ
せるものならまずこの
俺
おれ
を
殺
ころ
せ。
殺
ころ
す
勇気
ゆうき
がなければ、
俺
おれ
の
股下
またした
をくぐって
行
い
け!」と、そう
言
い
いながら、
首
くび
を
突
つ
き
出
だ
してきました。すると
韓信
かんしん
は
本当
ほんとう
にくぐっていきました。
彼
かれ
の「
忍
にん
」は
並大抵
なみたいてい
のものではありません。「
忍
にん
」を
軟弱
なんじゃく
でいじめられやすいものと
見
み
る
人
ひと
もいますが、
本当
ほんとう
のところ「
忍
にん
」ができる
人
ひと
の
意志
いし
はとてつもなく
堅
かた
いのです。ある
出来事
できごと
が
正
ただ
しいかどうかは、それが
本当
ほんとう
に
宇宙
うちゅう
の
理
り
に
合致
がっち
しているかどうかによります。ある
出来事
できごと
はあなたのせいではなく、
他人
たにん
があなたを
怒
おこ
らせたものだと、あなたは
思
おも
うのですが、
実際
じっさい
、あなたにはなぜそうなのかが
分
わ
からないのかもしれません。あなたは「
知
し
っているとも、つまらないことがきっかけだった」と
言
い
うかもしれませんが、わたしが
言
い
っているのは
別
べつ
の
理
り
であって、われわれのこの
物質
ぶっしつ
空間
くうかん
で
見
み
えるものではありません。
冗談
じょうだん
ですが、もしかするとあなたが
前世
ぜんせ
人
ひと
に
借
か
りがあったせいかもしれません。あなたにどうしてそれが
正
ただ
しいか
間違
まちが
っているのか
判断
はんだん
できるのですか? われわれはだからこそ「
忍
にん
」をしなければなりません。まず
人
ひと
を
怒
おこ
らせておいてそれから「
忍
にん
」をする
理屈
りくつ
がどこにあるのですか?
本当
ほんとう
にあなたを
怒
おこ
らせた
人
ひと
に
対
たい
しては、あなたは「
忍
にん
」ができなければならないばかりか、その
人
ひと
に
感謝
かんしゃ
しなければなりません。その
人
ひと
があなたを
罵
ののし
り、
先生
せんせい
の
前
まえ
であなたの
告
つ
げ
口
ぐち
をしたとしても、あなたは
後
あと
で
心
こころ
の
中
なか
で、ありがとう、と
言
い
わなければなりません。「それでは『
阿
あ
Q』になってしまうではないか」と
言
い
うかもしれませんが、それはあなたの
考
かんが
え
方
かた
です。その
出来事
できごと
において、もしあなたが
相手
あいて
と
異
こと
なる
見方
みかた
ができれば、あなたの
心性
しんせい
はそれこそ
高
たか
まったことになります。この
物質
ぶっしつ
空間
くうかん
においては
相手
あいて
が
得
とく
をしたのですが、あちらでは
相手
あいて
があなたに
何
なに
かを
与
あた
えてくれたのではありませんか? あなたの
心性
しんせい
が
高
たか
まれば、
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
が
転化
てんか
されることになり、
一石
いっせき
三鳥
さんちょう
なのに、どうして
相手
あいて
に
感謝
かんしゃ
しない
理由
りゆう
がありましょうか?
常人
じょうじん
の
角度
かくど
からは
理解
りかい
し
難
がた
いのです。わたしは
一般
いっぱん
の
人
ひと
に
向
む
かって
言
い
っているわけではなく、
煉功
れんこう
者
しゃ
に
聞
き
かせているのです。
弟子:
憑
つ
き
物
もの
に
憑
つ
かれていない
人
ひと
は、
心性
しんせい
を
高
たか
めれば
憑
つ
き
物
もの
を
防
ふせ
ぐことができますが、
憑
つ
き
物
もの
に
憑
つ
かれている
人
ひと
の
場合
ばあい
はどうすればよいのでしょうか? どうすれば
憑
つ
き
物
もの
から
逃
のが
れることができますか?
師:
一正
いっせい
が
百邪
ひゃくじゃ
を
圧
あっ
します。あなたは
今日
きょう
この
法
ほう
を
得
え
たので、これからたとえ
憑
つ
き
物
もの
があなたにおいしいことをもたらしてくれても、あなたはそれを
欲
ほ
しがらなくなります。それがあなたに
金銭
きんせん
や
名
みょう
、
利
り
をもたらしてくれたとき、あなたはうきうきして、「ほら
見
み
てごらん、わたし、すごいでしょう」と、
人
ひと
の
前
まえ
で
見
み
せびらかしたりします。
一方
いっぽう
、
辛
つら
い
目
め
に
遭
あ
わされたときにはやめようと
思
おも
って、
先生
せんせい
に
頼
たの
んで
治
なお
してもらおうとします。ならばそれがあなたにおいしいことをもたらしてくれたときにどうして
受
う
け
入
い
れたのでしょうか? そんな
人
ひと
の
面倒
めんどう
を
見
み
てあげるわけにはいきません。あなたはメリットを
受
う
け
入
い
れたのですから。メリットばかり
得
え
ようと
考
かんが
えるなんて、いけません。あなた
自身
じしん
、
心
こころ
から
求
もと
めず、メリットを
与
あた
えられても
欲
ほ
しがらず、
先生
せんせい
の
言
い
う
方法
ほうほう
に
従
したが
ってひたすら
修煉
しゅうれん
すべきです。
正々堂々
せいせいどうどう
として、
心
こころ
がしっかりすれば、
憑
つ
き
物
もの
が
恐
おそ
れることになります。メリットを
与
あた
えられても
受
う
け
取
と
ろうとしなければ、それは
去
さ
っていかざるを
得
え
ません。それでも
去
さ
らなければ
悪事
あくじ
を
働
はたら
くことになりますので、その
時
とき
になれば、わたしがそれを
退治
たいじ
することができるようになります。
手
て
を
一振
ひとふ
りすれば
跡形
あとかた
もなく
消
き
えてしまいます。ただしあなたがメリットを
受
う
け
取
と
ろうとすればそうはいきません。
弟子:
公園
こうえん
で
煉功
れんこう
したら、
憑
つ
き
物
もの
に
憑
つ
かれることがありますか?
師:
皆
みな
さんに
何度
なんど
も
言
い
いましたが、われわれは
正法
しょうぼう
修煉
しゅうれん
なので、
心
こころ
が
正
ただ
しければ
百邪
ひゃくじゃ
を
圧
あっ
します!
正法
しょうぼう
修煉
しゅうれん
で、
心
こころ
が
非常
ひじょう
に
純正
じゅんせい
なので、
何
なに
ものも
上
のぼ
ってくることはありません。
法輪
ファールン
はすごいものですから、
良
よ
くないものが
上
のぼ
って
来
こ
られないばかりか、
目
め
の
前
まえ
に
来
き
ただけで
恐
おそ
れるのです。
信
しん
じなければよそへ
煉功
れんこう
に
行
い
ってみてください。みんなあなたを
恐
おそ
れるのです。
数
かず
を
言
い
えば
皆
みな
さん
怖
こわ
くなるでしょうが、
多
おお
くの
人
ひと
が
憑
つ
き
物
もの
に
憑
つ
かれているのです。あなたが
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
増進
ぞうしん
の
目的
もくてき
を
達
たっ
してからもさらに
練
ね
り
続
つづ
けているのは、
何
なに
を
得
え
ようとしているのですか?
心
こころ
が
正
ただ
しくなければこういう
問題
もんだい
を
起
お
こしてしまいます。とはいえ、そういう
人
ひと
を
責
せ
めているわけではなく、
彼
かれ
らにはこれらの
理
り
が
分
わ
からないからです。わたしが
現
あらわ
れた
目的
もくてき
のなかにこれも
含
ふく
まれており、
皆
みな
さんのためにこういった
間違
まちが
ったことを
正
ただ
してあげたいのです。
弟子:
将来
しょうらい
はどんな
功能
こうのう
が
現
あらわ
れてくるのでしょうか?
師:
わたしは
言
い
いたくありません。
人
ひと
それぞれ
状況
じょうきょう
が
違
ちが
うから、
言
い
いにくいのです。この
次元
じげん
に
何
なに
が
現
あらわ
れるか、あの
次元
じげん
に
何
なに
が
現
あらわ
れるかについて、
肝心
かんじん
なのは、
一
ひと
つ
一
ひと
つの
次元
じげん
におけるあなたの
心性
しんせい
です。
執着心
しゅうちゃくしん
がこの
方面
ほうめん
で
取
と
り
除
のぞ
かれたら、この
方面
ほうめん
で
功能
こうのう
が
現
あらわ
れてきます。しかしあなたに
現
あらわ
れてくる
功能
こうのう
は
間違
まちが
いなく
初期
しょき
のものであって、
高
たか
くないはずです。
心性
しんせい
が
非常
ひじょう
に
高
たか
いところに
達
たっ
していなければ、あなたに
功能
こうのう
を
与
あた
えるはずがありません。ところでわれわれの
講習会
こうしゅうかい
においては、
一部
いちぶ
の
人
ひと
は
根基
こんき
がかなり
良
よ
く、すでに「
神足通
じんそくつう
」が
現
あらわ
れており、
雨
あめ
の
中
なか
でも
雨
あめ
に
降
ふ
られることがありません。
運搬
うんぱん
功能
こうのう
が
現
あらわ
れている
者
もの
もいます。
弟子:
心性
しんせい
を
修煉
しゅうれん
して、
一切
いっさい
の
執着心
しゅうちゃくしん
を
取
と
り
除
のぞ
くというのは、
佛家
ぶっけ
の「
空
くう
」、
道家
どうけ
の「
無
む
」に
達
たっ
することですか?
師:
われわれの
言
い
う
心性
しんせい
あるいは「
徳
とく
」は、
佛家
ぶっけ
の「
空
くう
」、
道家
どうけ
の「
無
む
」でもって
包容
ほうよう
できるものではありません。
反対
はんたい
に、
彼
かれ
らのものはすべてわれわれの
心性
しんせい
の
中
なか
に
含
ふく
まれています。
弟子:
佛
ほとけ
は
永遠
えいえん
に
佛
ほとけ
でいられますか?
師:
修煉
しゅうれん
して
得道
とくどう
した
者
もの
が
悟
さと
りを
開
ひら
けば、
大
だい
覚者
かくしゃ
に
属
ぞく
し、
高次
こうじ
生命
せいめい
にほかなりません。しかしあなたが
永遠
えいえん
に
悪
わる
いことをしない
保証
ほしょう
はありません。もちろんあの
次元
じげん
では
普通
ふつう
あなたは
悪
わる
いことをしません。
真相
しんそう
が
見
み
えているからです。しかしもし
悪
わる
いことをしたら、
同
おな
じように
堕
お
ちていきます。
永遠
えいえん
に
良
よ
いことをすれば、
永遠
えいえん
にそこに
居続
いつづ
けます。
弟子:
大根器
だいこんき
の
人
ひと
とはどんな
人
ひと
ですか?
師:
これはいくつかの
要素
ようそ
によって
決
き
まります。(一)その
人
ひと
の
根基
こんき
が
非常
ひじょう
によい。(二)
悟性
ごせい
が
非常
ひじょう
に
高
たか
い。(三)
忍耐力
にんたいりょく
が
非常
ひじょう
に
強
つよ
い。(四)
執着心
しゅうちゃくしん
が
小
ちい
さく、
世間
せけん
のものに
対
たい
して
無頓着
むとんちゃく
である。これが
大根器
だいこんき
です。
大根器
だいこんき
の
人
ひと
は
非常
ひじょう
に
得難
えがた
いのです。
弟子:
大
だい
根基
こんき
のない
人
ひと
が
法輪功
ファールンゴン
を
煉
ね
っても
功
こう
が
出
で
ますか?
師:
大
だい
根基
こんき
のない
人
ひと
にも
功
こう
が
現
あらわ
れてきます。なぜなら
誰
だれ
でも
徳
とく
の
成分
せいぶん
を
持
も
っているからです。
徳
とく
の
成分
せいぶん
を
少
すこ
しも
持
も
っていないことはあり
得
え
ないことで、そういう
人
ひと
はいません。たとえあなたの
身体
からだ
に
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
が
無
な
くても、
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
があり、
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
が
煉功
れんこう
によって
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
に
転化
てんか
されますので、
手続
てつづ
きが
一
ひと
つよけいにかかるだけに
過
す
ぎません。
煉功
れんこう
の
中
なか
であなたは
苦
くる
しみに
耐
た
えて、
心性
しんせい
を
高
たか
め、
代価
だいか
を
払
はら
ったので、
功
こう
も
得
え
られるわけです。
煉
ね
るのが
先決
せんけつ
条件
じょうけん
で、それから
師
し
の
法身
ほうしん
がそれを
功
こう
に
転化
てんか
してくれます。
弟子:
人
ひと
は
生
う
まれたときから、その
一生
いっしょう
が
定
さだ
められています。では、
努力
どりょく
によってそれを
変
か
えることができますか?
師:
当然
とうぜん
変
か
えられます。
努力
どりょく
するということも
段取
だんど
りされているのですから、
努力
どりょく
しなければなりません。あなたは
常人
じょうじん
ですから。しかし
大
おお
きなものは
変
か
えられません。
弟子:
天目
てんもく
が
開
ひら
いていない
状況
じょうきょう
で、どうして
受
う
け
取
と
った
信息
しんそく
の
善
よ
し
悪
あ
しを
判別
はんべつ
できるのですか?
師:
あなた
自身
じしん
では
判別
はんべつ
し
難
がた
いです。
煉功
れんこう
中
ちゅう
、あなたの
心性
しんせい
を
試
ため
そうとすることがいっぱいあります。
法身
ほうしん
はあなたの
生命
せいめい
に
危険
きけん
が
生
しょう
じないように
守
まも
ってくれますが、
一部
いちぶ
のことについてはたとえ
現
あらわ
れても
必
かなら
ずしも
面倒
めんどう
を
見
み
てくれるとは
限
かぎ
りません。
自分
じぶん
でそれを
乗
の
り
越
こ
え、
自分
じぶん
でそれを
解消
かいしょう
させ、
自分
じぶん
で
悟
さと
らなければなりません。
良
よ
くない
信息
しんそく
が
現
あらわ
れて、
今日
きょう
の
金券
きんけん
くじの
当選
とうせん
番
ばん
号
ごう
を
教
おし
えてくれたりすることがありますが、それは
正
ただ
しいかもしれませんし、
正
ただ
しくないかもしれません。あるいはあなたにその
他
ほか
のことを
教
おし
えてくれますが、どうするかはあなた
次第
しだい
です。
心
こころ
が
正
ただ
しければ、
邪
じゃ
は
侵入
しんにゅう
できません。あなたが
心性
しんせい
をしっかり
守
まも
っていれば
何
なに
も
問題
もんだい
が
起
お
きません。
弟子:
気分
きぶん
、
情緒
じょうちょ
が
不安定
ふあんてい
の
時
とき
に
煉功
れんこう
してもよいのでしょうか?
師:
気分
きぶん
があまり
良
よ
くないときは、
坐禅
ざぜん
をしても
入静
にゅうせい
できず、
悪
わる
いことばかり
考
かんが
えます。
煉功
れんこう
には
信息
しんそく
がありますので、
頭
あたま
で
良
よ
くないものばかり
考
かんが
えると、
煉功
れんこう
にそれを
持
も
ち
込
こ
んでしまうことになり、
人為的
じんいてき
に
邪法
じゃほう
を
練
ね
ることになってしまいます。あなたが
煉
ね
っている
功
こう
は
有名
ゆうめい
な
師
し
が
教
おし
えてくれたものかもしれず、どこかの
上師
じょうし
が
教
おし
えてくれたものかもしれず、あるいは
密教
みっきょう
の
活
い
き
佛
ぼとけ
が
伝
つた
えたものかもしれませんが、しかしあなたは
彼
かれ
らの
要求
ようきゅう
した
心性
しんせい
に
従
したが
って
厳
きび
しく
行
おこな
わなければ、いくら
彼
かれ
らが
教
おし
えたといっても、
彼
かれ
らの
功
こう
ではなくなります。
皆
みな
さん
考
かんが
えてみてください。もしあなたがそこで
站樁
たんとう
をくたくたになるほど
煉
ね
っていながら、
頭
あたま
の
中
なか
では、「
勤
つと
め
先
さき
の
誰
だれ
それはなんであんなにいまいましいのか? なんでわたしの
告
つ
げ
口
ぐち
をするのか? どうすれば
給料
きゅうりょう
を
上
あ
げてもらえるのか?
今
いま
は
物価
ぶっか
が
上
あ
がる
一方
いっぽう
なので、
買
か
いだめしておこう」などと、あれこれ
考
かんが
えるとします。それではあなたが
人為的
じんいてき
に、あるいは
無意識的
むいしきてき
に、
知
し
らないうちに
邪法
じゃほう
を
練
ね
っていることになるのではありませんか? ですから
気分
きぶん
が
良
よ
くないときはなるべく
煉
ね
らないほうがよいのです。
弟子:
「きわめて
高
たか
い
心性
しんせい
」の
基準
きじゅん
は
何
なん
ですか?
師:
心性
しんせい
は
修煉
しゅうれん
するものですので、
基準
きじゅん
などなく、あなた
自身
じしん
がどう
悟
さと
るかにかかっています。もしどうしても
基準
きじゅん
を
示
しめ
せと
言
い
うなら、
何
なに
かが
起
お
きたときに、
覚者
かくしゃ
ならどうするのか、を
考
かんが
えてみることに
尽
つ
きます。
模範
もはん
人物
じんぶつ
はもちろん
非常
ひじょう
に
素晴
すば
らしい
人
ひと
たちですが、それでもやはり
常人
じょうじん
の
模範
もはん
に
過
す
ぎません。
弟子:
どの
気功
きこう
師
し
の
講演
こうえん
や
言葉
ことば
にも
懐疑的
かいぎてき
な
態度
たいど
を
抱
いだ
いてはいけませんが、
人
ひと
を
騙
だま
し、
金
かね
を
騙
だま
すものに
出会
であ
ったらどうしたらいいのですか?
師:
それは
一概
いちがい
には
言
い
えません。まずその
人
ひと
が
何
なに
を
言
い
うかによります。
人
ひと
を
騙
だま
すものに
出会
であ
えば、
自分
じぶん
で
判断
はんだん
しなければなりません。
気功
きこう
師
し
の
善
よ
し
悪
あ
しを
判別
はんべつ
するには、その
人
ひと
の
心性
しんせい
を
見
み
ればよいのです。
心性
しんせい
の
高
たか
さは、
功
こう
の
高
たか
さだからです。
弟子:
どうすれば
業力
ごうりき
、つまり
佛教
ぶっきょう
で
言
い
う
業障
ごっしょう
を
消
け
すことができますか?
師:
煉功
れんこう
そのものが
業
ごう
を
消
け
すことです。いちばん
良
よ
いのは、
自分
じぶん
の
心性
しんせい
を
高
たか
めることです。それは
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
を
白
しろ
いもの、すなわち「
徳
とく
」という
物質
ぶっしつ
に
転化
てんか
させ、
徳
とく
を
功
こう
に
転化
てんか
してくれます。
弟子:
法輪功
ファールンゴン
を
煉
ね
るのにどんな
戒律
かいりつ
がありますか?
師:
佛教
ぶっきょう
の
中
なか
で
戒
かい
の
対象
たいしょう
となるものは、われわれはほとんど
戒
いまし
めなければなりません。しかし
見方
みかた
は
違
ちが
います。われわれは
出家
しゅっけ
者
しゃ
ではなく、
常人
じょうじん
の
中
なか
で
生活
せいかつ
しなければなりません。ですから
異
こと
なります。
一部
いちぶ
のものはそれに
対
たい
して
淡々
たんたん
としていられれば
結構
けっこう
です。もちろん、
功力
こうりき
が
絶
た
えず
向上
こうじょう
するに
従
したが
って、きわめて
高
たか
い
次元
じげん
に
達
たっ
したときに、あなたへの
心性
しんせい
の
要求
ようきゅう
もきわめて
高
たか
いものになります。
四、
天目
てんもく
弟子:
先生
せんせい
が
説法
せっぽう
されるときに、
先生
せんせい
の
頭上
ずじょう
三尺
さんしゃく
のところに
金色
きんいろ
の
光
ひかり
の
環
わ
があり、
背後
はいご
に
人
ひと
の
頭
あたま
ぐらいの
大
おお
きさの、
多
おお
くの
金色
きんいろ
の
光
ひかり
の
環
わ
が
見
み
えますが。
師:
そう
見
み
えた
人
ひと
の
天目
てんもく
の
次元
じげん
は
相当
そうとう
高
たか
いと
言
い
えます。
弟子:
先生
せんせい
の
弟子
でし
が
人
ひと
のために
病気
びょうき
治療
ちりょう
を
行
おこな
い、
酒
さけ
で
噴霧
ふんむ
をしたときに
金色
きんいろ
の
光
ひかり
がその
中
なか
に
混
ま
ざっているのが
見
み
えましたが。
師:
そう
見
み
えた
人
ひと
はかなりのところまで
修煉
しゅうれん
していると
言
い
えます。
打
う
ち
放
はな
たれた
功能
こうのう
まで
見
み
えたからです。
弟子:
子供
こども
が
天目
てんもく
を
開
ひら
いたら、
本人
ほんにん
に
影響
えいきょう
がありますか?
天目
てんもく
が
開
ひら
いたらエネルギーを
放出
ほうしゅつ
することになりませんか?
師:
六歳
ろくさい
以下
いか
の
子供
こども
は
天目
てんもく
が
非常
ひじょう
に
開
ひら
きやすいです。
子供
こども
は
煉功
れんこう
しないので、
天目
てんもく
が
開
ひら
いたらエネルギーを
放出
ほうしゅつ
することになりますので、
家族
かぞく
の
中
なか
で
誰
だれ
かが
煉功
れんこう
していなければなりません。いちばん
良
よ
いのは、
毎日
まいにち
一回
いっかい
見
み
させることです。
閉
と
じないようにするとともに、
過度
かど
に
外
そと
へ
放出
ほうしゅつ
しないようにするのです。
子供
こども
はできれば
自分
じぶん
で
煉功
れんこう
したほうがいいです。
多
おお
く
使
つか
えばエネルギーも
多
おお
く
放出
ほうしゅつ
することになりますが、
影響
えいきょう
を
受
う
けるのは
肉体
にくたい
ではなく、もっとも
根本的
こんぽんてき
なものです。しかし、もししっかり
保
たも
つことができれば、
問題
もんだい
ありません。わたしが
言
い
っているのは
子供
こども
のことで、
大人
おとな
ではありません。
一部
いちぶ
の
人
ひと
は
天目
てんもく
が
開
ひら
けばエネルギーを
放出
ほうしゅつ
するのではなく、
開
あ
けっ
放
ぱな
しにしているのであって、そもそもエネルギー
放出
ほうしゅつ
は
問題
もんだい
になりません。しかしとても
高
たか
い
次元
じげん
のものは
見
み
えません。
高
たか
い
次元
じげん
が
見
み
える
人
ひと
もいますが、
見
み
るとき、
法身
ほうしん
あるいはその
他
ほか
の
師
し
がエネルギーを
提供
ていきょう
してくれますので、
問題
もんだい
ありません。
弟子:
先生
せんせい
の
身体
からだ
から
金色
きんいろ
の
光
ひかり
が
放
はな
たれているのが
見
み
え、
先生
せんせい
の
影
かげ
も
見
み
えましたが、
瞬
またた
く
間
ま
に
消
き
えてしまったのはなぜでしょうか?
師:
それはわたしの
法身
ほうしん
にほかなりません。わたしが
説法
せっぽう
するとき、
頭上
ずじょう
に
功柱
こうちゅう
がありますが、わたしのこの
次元
じげん
ではそういうふうになっているのです。
瞬
またた
く
間
ま
に
消
き
えてしまったのは、あなたがまだ
天目
てんもく
を
使
つか
いこなせず、
目
め
で
見
み
てしまったからです。
弟子:
特異
とくい
功能
こうのう
はどういうふうに
運用
うんよう
すればよいのでしょうか?
師:
特異
とくい
功能
こうのう
を
軍事
ぐんじ
科学
かがく
あるいはその
他
ほか
の
高度
こうど
な
科学技術
かがくぎじゅつ
に
用
もち
い、または
情報
じょうほう
収集
しゅうしゅう
に
用
もち
いることについて、わたしはその
中
なか
に
一
ひと
つの
問題
もんだい
があると
思
おも
います。われわれのこの
宇宙
うちゅう
には
特性
とくせい
があります。この
特性
とくせい
に
合
あ
えば、
効
き
き
目
め
がありますが、
合
あ
わなければ
思
おも
い
通
どお
りにいきません。いくらその
人
ひと
に
良
よ
いことをさせようとしても、
高
たか
い
次元
じげん
のものはその
人
ひと
には
分
わ
からないので、せいぜい
感応
かんのう
するだけに
過
す
ぎません。
小技
こわざ
を
施
ほどこ
しても
社会
しゃかい
の
正常
せいじょう
な
発展
はってん
に
影響
えいきょう
はありません。その
人
ひと
がもし
何
なに
かを
変
か
えようとすれば、それは
非常
ひじょう
に
大
おお
きなことになってきますので、
彼
かれ
にさせるかどうか、
彼
かれ
の
一存
いちぞん
では
決
き
められません。なぜなら
社会
しゃかい
の
発展
はってん
は
人間
にんげん
の
意志
いし
に
左右
さゆう
されるものではないからです。その
人
ひと
がどこそこまで
達
たっ
しようと
思
おも
っても、それは
誰
だれ
にも
決
き
められないことなのです。
弟子:
人間
にんげん
の
意識
いしき
はどうやって
出入
でい
りしているのですか?
師:
われわれが
言
い
う
意識
いしき
は
普通
ふつう
、
頭
あたま
のてっぺんから
出
で
ていきますが、もちろんそうとは
限
かぎ
りません。それは
如何
いか
なるところからも
出
で
ていくことができます。
一部
いちぶ
の
功法
こうほう
が
強調
きょうちょう
しているように
頭
あたま
のてっぺんからしか
出
で
られないということではありません。どんなところからでも
離脱
りだつ
することができます。
入
はい
るときも
同
おな
じです。
弟子:
天目
てんもく
の
区域
くいき
に
赤
あか
い
光
ひかり
がちらつき、
真
ま
ん
中
なか
が
暗
くら
いトンネルで、
次
つぎ
から
次
つぎ
へと
飛
と
ぶように
花
はな
を
咲
さ
かせていますが、これは
天目
てんもく
を
開
ひら
かせているのですか?
時々
ときどき
星
ほし
の
光
ひかり
や
稲妻
いなずま
も
見
み
えますが。
師:
星
ほし
の
光
ひかり
が
見
み
えるようになれば、そろそろ
開
ひら
かれようとしているのです。
稲妻
いなずま
が
見
み
えたら、
実際
じっさい
あと
一歩
いっぽ
のところまで
開
ひら
かれています。
弟子:
先生
せんせい
の
頭上
ずじょう
に
赤
あか
や
緑
みどり
の
光
ひかり
の
環
わ
が
見
み
えましたが、
目
め
を
閉
と
じると
何
なに
も
見
み
えなくなりました。
視角
しかく
の
端
はし
で
見
み
たものですか?
師:
視角
しかく
の
端
はし
で
見
み
たものではありません。あなたは
目
め
を
閉
と
じて
見
み
ることができないため、
開
あ
けて
見
み
ているだけです。
往々
おうおう
にして
天目
てんもく
が
開
ひら
いた
人
ひと
は
使
つか
い
方
かた
を
心得
こころえ
ておらず、
時々
ときどき
目
め
を
開
ひら
いて
無意識
むいしき
のうちに
見
み
えることもありますが、しかし
仔細
しさい
に
見
み
ようと
思
おも
えば、
目
め
を
使
つか
ってしまいますので、また
見
み
えなくなります。
気
き
がつかないときまた
見
み
えたりします。
弟子:
娘
むすめ
は
空
そら
に
輪
わ
が
見
み
えました。どんなものかはっきり
言
い
えませんでしたが、
法輪
ファールン
のバッチを
見
み
たとき、それだと
言
い
いました。
娘
むすめ
には
本当
ほんとう
に
天目
てんもく
が
開
ひら
いたのでしょうか?
師:
われわれの
法輪
ファールン
バッチは、
六歳
ろくさい
以下
いか
の
子供
こども
なら
一目
ひとめ
見
み
れば
天目
てんもく
が
開
ひら
きます。しかしあなたはわざとそうしないようにしてください。いずれにしても
子供
こども
には
見
み
えるのです。
弟子:
天目
てんもく
が
開
ひら
きましたが、
使
つか
い
方
かた
が
分
わ
かりません。
先生
せんせい
にご
教示
きょうじ
願
ねが
います。
師:
天目
てんもく
が
完全
かんぜん
に
開
ひら
いたときは、
使
つか
い
方
かた
が
分
わ
からない
者
もの
でも
使
つか
えます。
非常
ひじょう
に
明
あか
るくて
使
つか
いやすいときは、
使
つか
い
方
かた
が
分
わ
からない
者
もの
でも
使
つか
えるようになります。
天目
てんもく
で
物
もの
を
見
み
るというのは、
無意識
むいしき
の
状態
じょうたい
において
見
み
えるのであって、
仔細
しさい
に
見
み
ようと
思
おも
えば、
無意識
むいしき
のうちに
目
め
を
働
はたら
かせ、
視神経
ししんけい
を
通
とお
ってしまうので、
見
み
えなくなります。
弟子:
天目
てんもく
が
開
ひら
いてから
見
み
えるのは、
宇宙
うちゅう
空間
くうかん
全体
ぜんたい
の
様子
ようす
でしょうか?
師:
天目
てんもく
が
開
ひら
くには
次元
じげん
の
違
ちが
いがあります。つまり、どれだけ
真相
しんそう
が
見
み
えるかということは、
次元
じげん
の
違
ちが
いによって
決
き
まるのです。
天目
てんもく
が
開
ひら
いたからといって、
宇宙
うちゅう
のありとあらゆるものが
見
み
えるというわけではなく、むしろこれからの
煉功
れんこう
において
徐々
じょじょ
に
自分
じぶん
の
次元
じげん
を
高
たか
め、
最終的
さいしゅうてき
に
悟
さと
りを
開
ひら
くようになって、はじめてより
多
おお
くの
次元
じげん
が
見
み
えるようになるのです。それでもあなたに
見
み
えるのが
宇宙
うちゅう
全体
ぜんたい
の
真理
しんり
かどうかは
保証
ほしょう
できません。なぜなら
釈迦牟尼
しゃかむに
でさえ、
在世
ざいせい
中
ちゅう
説法
せっぽう
をしていた
当時
とうじ
、
絶
た
えず
自分
じぶん
を
高
たか
めていたからです。
次元
じげん
を
一
ひと
つ
高
たか
めるごとに、
彼
かれ
は
以前
いぜん
説
と
いたものに
不安
ふあん
を
覚
おぼ
え、さらに
上
うえ
へ
行
い
ってから
下
した
を
見
み
ればまた
違
ちが
うと
思
おも
うようになりました。だからこそ
彼
かれ
は
最後
さいご
に、「
法
ほう
には
定法
じょうほう
無
な
し」と
言
い
ったのです。
一
ひと
つの
次元
じげん
に
一
ひと
つの
理
り
があり、
彼
かれ
でさえ
宇宙
うちゅう
全体
ぜんたい
の
真理
しんり
を
完全
かんぜん
に
見極
みきわ
めることができませんでした。われわれ
一般
いっぱん
の
人
ひと
から
見
み
れば、
世間
せけん
修煉
しゅうれん
によって
如来
にょらい
の
次元
じげん
に
達
たっ
することだけでも
不可思議
ふかしぎ
なことです。なぜなら
一般
いっぱん
の
人
ひと
は
如来
にょらい
という
次元
じげん
しか
知
し
らないからです。さらに
高
たか
いものは
一般
いっぱん
の
人
ひと
には
知
し
られていないので、
受
う
け
入
い
れられません。
如来
にょらい
は
佛法
ぶっぽう
の
中
なか
のごくごく
小
ちい
さい
次元
じげん
の
一
ひと
つであって、「
大法
ダーファ
無辺
むへん
」とはこのことを
指
さ
しているのです。
弟子:
われわれに
見
み
えた
先生
せんせい
の
身体
からだ
にあるものは、
本当
ほんとう
の
存在
そんざい
でしょうか?
師:
もちろん
本当
ほんとう
の
存在
そんざい
です。すべての
空間
くうかん
は
物質
ぶっしつ
によって
構成
こうせい
されており、
構造
こうぞう
がわれわれのと
違
ちが
うだけに
過
す
ぎません。
弟子:
わたしの
予感
よかん
は
起
お
きたこととしばしば
一致
いっち
しますが。
師:
それはつまりわれわれの
言
い
う
予測
よそく
功能
こうのう
です。
実際
じっさい
それは
宿命
しゅくめい
通
つう
の
低
ひく
い
次元
じげん
のものです。われわれが
煉
ね
っている
功
こう
はみな
他
た
の
空間
くうかん
にあり、その
空間
くうかん
には
時空
じくう
の
概念
がいねん
が
無
な
く、どんなに
離
はな
れていても
同
おな
じなのです。
弟子:
煉功
れんこう
中
ちゅう
に、
色彩
しきさい
豊
ゆた
かな
人
ひと
や、
色彩
しきさい
豊
ゆた
かな
空
そら
、
画像
がぞう
が
見
み
えましたが。
師:
あなたの
天目
てんもく
が
開
ひら
いたので、あなたに
他
た
の
空間
くうかん
のものが
見
み
えたわけです。
他
た
の
空間
くうかん
には
次元
じげん
の
違
ちが
いがあるので、あなたに
見
み
えたのはその
中
なか
の
一
ひと
つの
次元
じげん
であるかもしれません。それは
見
み
えたとおりに
美
うつく
しいものです。
弟子:
煉功
れんこう
中
ちゅう
に
突然
とつぜん
バーンという
音
おと
がして、
身体
からだ
が
突
つ
き
破
やぶ
られたかのように
感
かん
じ、
多
おお
くのことがぱっと
分
わ
かったような
気
き
がしましたが。
師:
煉功
れんこう
中
ちゅう
にこのような
状況
じょうきょう
が
現
あらわ
れやすい
人
ひと
がいます。
身体
からだ
の
一部
いちぶ
を
炸裂
さくれつ
させて、
一部
いちぶ
の
方面
ほうめん
で
悟
さと
りを
開
ひら
きますが、これは
漸悟
ぜんご
にみられる
状況
じょうきょう
です。あなたの
修煉
しゅうれん
が
一
ひと
つの
次元
じげん
を
終
お
えると、
一部
いちぶ
を
炸裂
さくれつ
させるのですが、これらはいずれも
正常
せいじょう
なのです。
弟子:
動
うご
きがとれないように
感
かん
じるときがありますが、どんな
原因
げんいん
でしょうか?
師:
煉功
れんこう
の
初期
しょき
において、あなたは
突然
とつぜん
手
て
あるいはある
部分
ぶぶん
が
動
うご
かなくなったような
感覚
かんかく
を
持
も
つことがありますが、なぜでしょうか? あなたに「
定功
じょうこう
」という
功能
こうのう
が
現
あらわ
れたからです。それはあなた
自身
じしん
に
存在
そんざい
する
功能
こうのう
です。この
功能
こうのう
はすごいもので、ある
人
ひと
が
悪
わる
いことをして
逃
に
げているときに、あなたが「
定
じょう
」と
言
い
えば、その
場
ば
でその
人
ひと
が
動
うご
けなくなるのです。
弟子:
どんな
時
とき
に
人
ひと
のために
病気
びょうき
治療
ちりょう
をしてよいのでしょうか? わたしは
以前
いぜん
人
ひと
のために
病気
びょうき
治療
ちりょう
を
行
おこな
って、
一定
いってい
の
効果
こうか
がありました。
法輪功
ファールンゴン
を
学
まな
んでから、
病気
びょうき
を
治
なお
してほしいと
頼
たの
んでくる
人
ひと
もいますが、
治
なお
してあげてもよいのでしょうか?
師:
この
講習会
こうしゅうかい
にいる
人
ひと
には、
以前
いぜん
どの
流派
りゅうは
の
功法
こうほう
を
学
まな
んだにせよ、どれくらい
長
なが
く
練功
れんこう
していたにせよ、
病気
びょうき
治療
ちりょう
ができるかどうかにかかわらず、
低
ひく
い
次元
じげん
では、わたしは
皆
みな
さんに
病気
びょうき
治療
ちりょう
をさせたくありません。
皆
みな
さんが
自分
じぶん
自身
じしん
がどの
状況
じょうきょう
にあるのかが
分
わ
からないからです。あなたは
確
たし
かに
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
したことがありますが、
当時
とうじ
あなたの
心
こころ
が
正
ただ
しかったから、
効
き
き
目
め
があったのかもしれません。あるいはどなたか
通
とお
りがかりの
師
し
がちょっと
手伝
てつだ
ってくれたのかもしれません。あなたが
良
よ
いことをしていたからです。しかしあなたが
煉功
れんこう
して
得
え
たあれくらいのエネルギーが
役
やく
に
立
た
つにしても、あなた
自身
じしん
を
守
まも
ることはできません。あなたは
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
しているとき、
患者
かんじゃ
と
同
おな
じ
場
ば
にいるので、
時間
じかん
が
経
た
てば、あなたの
身体
からだ
にある
黒
くろ
い
気
き
は
患者
かんじゃ
よりもひどくなります。
患者
かんじゃ
に、「
治
なお
りましたか?」と
聞
き
いて、その
患者
かんじゃ
は「ちょっと
楽
らく
になりました」と
答
こた
えますが、それは
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
言
い
えるでしょうか? 「
明日
あした
もあさっても
来
き
てください。
一
ひと
つの
治療
ちりょう
周期
しゅうき
が
終
お
わるまで
面倒
めんどう
を
見
み
てあげましょう」と
言
い
う
気功
きこう
師
し
がいます。
彼
かれ
らも「
治療
ちりょう
周期
しゅうき
」を
必要
ひつよう
とするなんて、これは
人
ひと
騙
だま
しではありませんか?
高
たか
い
次元
じげん
に
達
たっ
してから
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
すならなんと
良
よ
いことでしょう。
治
なお
そうと
思
おも
えば、すぐ
治
なお
るのですから、なんと
気分
きぶん
爽快
そうかい
なことではありませんか! もしあなたにすでに
功能
こうのう
が
現
あらわ
れており、しかもそれが
低
ひく
くなければ、どうしても
病気
びょうき
治療
ちりょう
を
行
おこな
う
必要
ひつよう
のあるときに、わたしはあなたの
手
て
を
開
ひら
かせて、あなたの
病気
びょうき
治療
ちりょう
功能
こうのう
を
取
と
り
出
だ
してあげることになります。しかし、あなたが
高
たか
い
次元
じげん
を
目指
めざ
して
修煉
しゅうれん
しているならば、わたしはやはりできればそういうことをしない
方
ほう
がよいと
思
おも
います。
大法
ダーファ
を
宣伝
せんでん
するため、また
社会
しゃかい
活動
かつどう
に
参加
さんか
するため、わたしの
弟子
でし
のなかに
病気
びょうき
治療
ちりょう
を
行
おこな
っている
者
もの
もいます。
彼
かれ
らはわたしの
近
ちか
くにおり、わたしが
彼
かれ
らを
指導
しどう
しており、
彼
かれ
らは
守
まも
られているから、
大丈夫
だいじょうぶ
なのです。
弟子:
功能
こうのう
が
現
あらわ
れたら、
人
ひと
に
言
い
っても
構
かま
いませんか?
師:
功能
こうのう
が
現
あらわ
れたら
法輪功
ファールンゴン
を
煉功
れんこう
している
人
ひと
に
謙虚
けんきょ
に
言
い
うのは
構
かま
いません。
皆
みな
さんを
集
あつ
めて
一緒
いっしょ
に
煉功
れんこう
しているのは、ほかでもなく
皆
みな
さんが
切磋琢磨
せっさたくま
できるようにしたいからです。もちろん、よそで
功能
こうのう
のある
人
ひと
に
出会
であ
ってその
人
ひと
に
言
い
っても
構
かま
いません。ただしひけらかそうとしないように。わたしはすごいだろう、とひけらかそうとすればだめになります。ひけらかしてばかりいると、その
功能
こうのう
が
消
き
えてしまいます。もし
気功
きこう
現象
げんしょう
について
語
かた
るなら、
探求
たんきゅう
の
態度
たいど
で、
個人
こじん
の
雑念
ざつねん
を
少
すこ
しも
混
ま
ぜ
入
い
れなければ、
問題
もんだい
がないと
思
おも
います。
弟子:
佛家
ぶっけ
は「
空
くう
」を
唱
とな
え、
道家
どうけ
は「
無
む
」を
唱
とな
えますが、われわれは
何
なに
を
唱
とな
えますか?
師:
佛家
ぶっけ
の「
空
くう
」、
道家
どうけ
の「
無
む
」はその
功
こう
に
特有
とくゆう
なものです。もちろんわれわれもこのような
境地
きょうち
に
達
たっ
する
必要
ひつよう
があります。われわれは「
有心
うしん
で
功
こう
を
煉
ね
り、
無心
むしん
で
功
こう
を
得
え
る」ことを
説
と
きます。
心性
しんせい
を
修
おさ
め、
執着心
しゅうちゃくしん
を
取
と
り
除
のぞ
くので、
結局
けっきょく
やはり「
空
くう
・
無
む
」になります。しかしわれわれはそれをことさら
強調
きょうちょう
しません。
皆
みな
さんは
物質
ぶっしつ
世界
せかい
に
生活
せいかつ
しており、
勤
つと
めなければならず、
仕事
しごと
をしなければならず、
必然的
ひつぜんてき
に
何
なに
かをしなければならないからです。
何
なに
かをしなければならない
以上
いじょう
、
必然的
ひつぜんてき
に
良
よ
い
事
こと
、
悪
わる
い
事
こと
の
問題
もんだい
が
生
しょう
じてきます。どうすればよいのでしょうか? われわれが
修
おさ
めているのは
心性
しんせい
であって、これはわれわれのこの
功
こう
の
最
もっと
も
突出
とっしゅつ
しているものです。あなたの
心
こころ
が
正
ただ
しく、
行
おこな
いがわれわれの
要求
ようきゅう
に
合致
がっち
していれば、
心性
しんせい
は
大丈夫
だいじょうぶ
です。
弟子:
われわれは
普段
ふだん
どうすれば
功能
こうのう
の
伸
の
びを
感
かん
じ
取
と
ることができるのでしょうか?
師:
煉功
れんこう
の
初期
しょき
において、もし
功能
こうのう
が
現
あらわ
れたらそれを
感
かん
じ
取
と
ることができます。
功能
こうのう
が
現
あらわ
れていない
場合
ばあい
でも
身体
からだ
が
敏感
びんかん
であれば、
感
かん
じ
取
と
れます。もしどちらも
持
も
っていなければ、
感
かん
じ
取
と
りようがなく、
目
め
をつむって
煉
ね
るしかありません。われわれの
学習者
がくしゅうしゃ
は
六
ろく
、
七割
しちわり
天目
てんもく
が
開
ひら
いており、
見
み
えています。わたしはそれを
知
し
っているのです。
皆
みな
さんは
口
くち
に
出
だ
さずひたすら
目
め
を
大
おお
きくして
見
み
ていますが、なぜ
皆
みな
さんにグループで
煉功
れんこう
するようにと
言
い
っているのでしょうか? グループ
内
ない
で
互
たが
いに
切磋琢磨
せっさたくま
して
交流
こうりゅう
してほしいからです。ただし
功法
こうほう
に
責任
せきにん
を
持
も
つために、よそでやたらとおしゃべりをしないように。
内部
ないぶ
で
交流
こうりゅう
して、
互
たが
いに
向上
こうじょう
を
目指
めざ
すのは
結構
けっこう
です。
弟子:
法身
ほうしん
はどんな
格好
かっこう
をしていますか? わたし
自身
じしん
に
法身
ほうしん
はありますか?
師:
法身
ほうしん
は
本人
ほんにん
と
同
おな
じ
格好
かっこう
をしています。あなたには
現在
げんざい
法身
ほうしん
はありません。
煉功
れんこう
がある
程度
ていど
に
達
たっ
し、
世間
せけん
法
ほう
を
通過
つうか
して、
修煉
しゅうれん
がきわめて
高
たか
い
段階
だんかい
に
入
はい
って、はじめて
法身
ほうしん
が
現
あらわ
れてきます。
弟子:
講習会
こうしゅうかい
終了
しゅうりょう
後
ご
、
先生
せんせい
の
法身
ほうしん
はどれくらいの
間
あいだ
ついていてくださいますか?
師:
一人
ひとり
の
学習者
がくしゅうしゃ
がいきなり
高
たか
い
次元
じげん
のものを
煉
ね
るというのは、その
人
ひと
にとって
相当
そうとう
大
おお
きな
転換
てんかん
です。
思想
しそう
の
転換
てんかん
ではなく、
人間
にんげん
全体
ぜんたい
の
転換
てんかん
を
指
さ
しています。
一人
ひとり
の
常人
じょうじん
が
突然
とつぜん
常人
じょうじん
として
得
え
るべきではないものを
得
え
たというのは、
危険
きけん
なことであり、
生命
せいめい
が
脅
おびや
かされることがありますので、わたしの
法身
ほうしん
は
彼
かれ
を
守
まも
ってあげなければなりません。もしわたしがそこまでできないのに、ここで
説法
せっぽう
をしているとすれば、それは
人
ひと
を
害
がい
することです。
多
おお
くの
気功
きこう
師
し
がそれをやる
勇気
ゆうき
がなく、
伝
つた
える
勇気
ゆうき
がないというのは、
彼
かれ
らはこの
責任
せきにん
を
負
お
えないからにほかなりません。わたしの
法身
ほうしん
は
皆
みな
さんが
修煉
しゅうれん
して
成就
じょうじゅ
するまで、ずっと
皆
みな
さんを
守
まも
りつづけます。
途中
とちゅう
であなたが
修煉
しゅうれん
をやめれば、
法身
ほうしん
も
去
さ
っていきます。
弟子:
先生
せんせい
は、「
普通
ふつう
の
人
ひと
の
修行
しゅぎょう
は、
煉功
れんこう
ではなく、
心性
しんせい
にかかっている」と、おっしゃっています。それでは
心性
しんせい
さえ
高
たか
ければ、
煉功
れんこう
しなくても
正果
しょうか
を
得
え
られると
言
い
ってもかまいませんか?
師:
理屈
りくつ
からはそうなのです。
心性
しんせい
を
修
おさ
めてさえいれば、
徳
とく
は
功
こう
に
転化
てんか
されます。しかし、あなたは
自分
じぶん
を
煉功
れんこう
者
しゃ
として
自覚
じかく
しなければなりません。
煉功
れんこう
者
しゃ
として
自覚
じかく
しなければ、
徳
とく
を
積
つ
むことしかできません。あなたは
徳
とく
をたくさん
積
つ
むことができるかもしれませんが、
良
よ
い
人
ひと
になり
徳
とく
ばかり
積
つ
んでも、そしてたとえ
自分
じぶん
を
煉功
れんこう
者
しゃ
として
自覚
じかく
していてもだめです。あなたは
高
たか
い
次元
じげん
の
法
ほう
を
得
え
ていないからです。
皆
みな
さんがご
存
ぞん
じのように、わたしは
多
おお
くのことを
明
あき
らかにしましたが、
師
し
が
守
まも
ってくれなければ、あなたはなかなか
修煉
しゅうれん
して
上
うえ
へ
上
あ
がっていくことができません。たとえ
一日
いちにち
たりとも
高
たか
い
次元
じげん
で
煉功
れんこう
できないのです。つまり
正果
しょうか
を
得
え
ようとするのはそんなに
生
なま
やさしいことではありません。しかし、
心性
しんせい
が
高
たか
まれば、
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
と
同化
どうか
することになります。
弟子:
遠隔
えんかく
治療
ちりょう
の
原理
げんり
は
何
なん
でしょうか?
師:
理屈
りくつ
は
非常
ひじょう
に
簡単
かんたん
です。
宇宙
うちゅう
は
大
おお
きくも
小
ちい
さくもなれます。
功能
こうのう
が
打
う
ち
放
はな
たれてからも
大
おお
きくも
小
ちい
さくもなれるのです。わたしが
一歩
いっぽ
も
動
うご
かなくても、
打
う
ち
放
はな
たれた
功能
こうのう
はアメリカのような
遠
とお
いところにいる
患者
かんじゃ
にも
届
とど
くのです。
功
こう
を
向
む
こうに
打
う
ち
放
はな
ってもよいし、その
人
ひと
の
元神
げんしん
を
直接
ちょくせつ
手元
てもと
に
引
ひ
き
寄
よ
せることもできます。これが
遠隔
えんかく
治療
ちりょう
の
理屈
りくつ
です。
弟子:
どれくらい
功能
こうのう
が
現
あらわ
れてくるのかを
知
し
ることができますか?
師:
功能
こうのう
は
一万
いちまん
種
しゅ
にとどまりません。
具体的
ぐたいてき
にどれくらいあるかを
知
し
るのは
大事
だいじ
ではありません。この
理
り
、この
法
ほう
を
知
し
っていれば
結構
けっこう
です。あとは
自分
じぶん
で
修煉
しゅうれん
することです。そんなに
多
おお
くのことを
知
し
る
必要
ひつよう
もなく、あなたのためにもなりません。
師
し
が
弟子
でし
を
捜
さが
し、
弟子
でし
をとりますが、
弟子
でし
は
何
なに
も
知
し
らないのです。
教
おし
えてもくれないし、すべて
自分
じぶん
で
悟
さと
らなければなりません。
弟子:
講習会
こうしゅうかい
の
時
とき
に
目
め
を
閉
と
じると、
先生
せんせい
が
演壇
えんだん
で
講義
こうぎ
をされ、
上半身
じょうはんしん
が
黒
くろ
く、テーブルも
黒
くろ
く、バックの
生地
きじ
はピンク
色
いろ
なのが
見
み
えてきます。
時々
ときどき
先生
せんせい
の
周
まわ
り
一面
いちめん
に
緑
みどり
の
光
ひかり
が
見
み
えますが、それはどういうことでしょうか?
師:
それはあなたの
次元
じげん
の
問題
もんだい
です。
天目
てんもく
が
開
ひら
いたばかりの
時
とき
、
白
しろ
を
黒
くろ
と、
黒
くろ
を
白
しろ
と
見
み
ることがあります。
次元
じげん
がちょっと
向上
こうじょう
すれば、
何
なに
を
見
み
ても
白
しろ
になります。さらに
向上
こうじょう
すれば、
色
いろ
が
分
わ
かれていきます。
五、
魔
ま
難
なん
弟子:
魔
ま
難
なん
は
師
し
が
弟子
でし
のために
段取
だんど
りされた
試練
しれん
ですか?
師:
そうとも
言
い
えます。それは
皆
みな
さんの
心性
しんせい
を
高
たか
めるために
段取
だんど
りされたものです。たとえて
言
い
えば、あなたの
心性
しんせい
がそこまで
高
たか
くなっていないのに、あなたを
修煉
しゅうれん
して
上
うえ
へ
上
あ
がらせることができるでしょうか? つまり
一人
ひとり
の
小学生
しょうがくせい
を
大学
だいがく
へ
送
おく
り
込
こ
むことができるでしょうか? そんなことはできないでしょう! あなたの
心性
しんせい
が
本当
ほんとう
に
高
たか
まっておらず、
何
なに
に
対
たい
しても
淡々
たんたん
としていられず、
何
なに
も
放下
ほうげ
できない
時
とき
に、あなたを
成就
じょうじゅ
させたら、あなたがつまらないことで
覚者
かくしゃ
とトラブルを
起
お
こしてしまいかねないので、それはだめです! なぜ
心性
しんせい
をこんなに
重要
じゅうよう
だと
見
み
ているのか、これがその
理由
りゆう
です。
弟子:
煉功
れんこう
者
しゃ
と
常人
じょうじん
の
魔
ま
難
なん
に
何
なに
か
区別
くべつ
がありますか?
師:
われわれ
煉功
れんこう
者
しゃ
と
常人
じょうじん
とでは
特
とく
に
区別
くべつ
がありません。あなたの
魔
ま
難
なん
は
煉功
れんこう
者
しゃ
の
歩
あゆ
む
道
みち
に
従
したが
って
段取
だんど
りしてあげているのであり、
常人
じょうじん
は
常人
じょうじん
としての
業
ごう
を
返
かえ
しているのであって、どちらにも
魔
ま
難
なん
がありますので、
煉功
れんこう
したからあり、
常人
じょうじん
ならないというわけではなく、どっちにしてもあるのです。ただあなたのこの
魔
ま
難
なん
はあなたの
心性
しんせい
を
高
たか
めるために
設
もう
けられたのに
対
たい
して、
常人
じょうじん
の
魔
ま
難
なん
は
彼
かれ
の
業
ごう
を
返
かえ
させるために
設
もう
けられたのです。
実
じつ
は、
魔
ま
難
なん
は
自分
じぶん
の
業力
ごうりき
にほかならず、わたしはそれを
弟子
でし
の
心性
しんせい
を
高
たか
めるのに
利用
りよう
しただけです。
弟子:
魔
ま
難
なん
は
天竺
てんじく
にお
経
きょう
を
取
と
りに
行
い
くときのあの
八十一難
はちじゅういちなん
のようなものですか?
師:
似
に
ているところがあります。
煉功
れんこう
者
しゃ
の
一生
いっしょう
はすでに
段取
だんど
りされているので、
多
おお
くなることも
少
すく
なくなることもありません。ただし
必
かなら
ずしも
八十一難
はちじゅういちなん
とは
限
かぎ
りません。それはあなたの
根基
こんき
でもってどこまで
高
たか
く
修煉
しゅうれん
できるかによります。あなたが
到達
とうたつ
できるレベルに
従
したが
って
段取
だんど
りされるのです。
常人
じょうじん
が
持
も
っているが、
修煉
しゅうれん
者
しゃ
として
取
と
り
除
のぞ
かなければならないものは、みな
一通
ひととお
り
乗
の
り
越
こ
えなければならないので、たしかにとても
辛
つら
いのです。あなたの
放下
ほうげ
できないものは、さまざまな
方法
ほうほう
を
工夫
くふう
してあなたに
放下
ほうげ
させなければならず、
魔
ま
難
なん
を
通
とお
してあなたの
心性
しんせい
を
高
たか
めます。
弟子:
煉功
れんこう
の
時
とき
、
撹乱
かくらん
する
人
ひと
が
現
あらわ
れたらどうしますか?
師:
法輪功
ファールンゴン
を
煉
ね
るのに
際
さい
して
他人
たにん
の
撹乱
かくらん
を
恐
おそ
れません。
初期
しょき
においては、わたしの
法身
ほうしん
があなたを
守
まも
ります。かといってあなたが
何事
なにごと
にも
遭遇
そうぐう
しないわけではありません。
一日中
いちにちじゅう
ソファーに
坐
すわ
ってお
茶
ちゃ
を
飲
の
んでいれば
功
こう
が
伸
の
びるなどといったことはありません! あなたが
魔
ま
難
なん
に
出
で
くわして、わたしの
名前
なまえ
を
呼
よ
び、わたしがあなたの
目
め
の
前
まえ
にいるのが
見
み
えたのに、
助
たす
けてくれないときもありますが、それはあなたが
乗
の
り
越
こ
えなければならない
関門
かんもん
だからです。とはいえ、あなたが
本当
ほんとう
に
危険
きけん
に
遭遇
そうぐう
したときは
助
たす
けてあげるのです。そうはいうものの、
普通
ふつう
このような
本当
ほんとう
の
危険
きけん
はありえません。あなたの
歩
あゆ
む
道
みち
はすでに
変
か
えられており、
予定
よてい
外
がい
のものが
入
い
り
込
こ
むのを
許
ゆる
さないからです。
弟子:
どのように
魔
ま
難
なん
に
対処
たいしょ
すればよいのでしょうか?
師:
繰
く
り
返
かえ
し
言
い
っているように、あなたの
心性
しんせい
をしっかり
守
まも
ってください!
自分
じぶん
の
成
な
したことを
自分
じぶん
で
間違
まちが
っていないと
思
おも
えば
結構
けっこう
です。とりわけあることが
原因
げんいん
で
他人
たにん
があなたの
利益
りえき
を
犯
おか
したとき、もしあなたも
常人
じょうじん
と
同
おな
じように
相手
あいて
とやり
合
あ
うようになれば、あなたも
常人
じょうじん
になってしまいます。あなたは
煉功
れんこう
者
しゃ
だから、そのように
対処
たいしょ
してはいけません。あなたが
出会
であ
う、あなたの
心性
しんせい
を
妨
さまた
げることはすべて、あなたの
心性
しんせい
を
高
たか
めるためのものであって、あなたがいかに
対処
たいしょ
するか、しっかり
心性
しんせい
を
守
まも
れるかどうか、そのことにおいて
自分
じぶん
の
心性
しんせい
を
高
たか
めることができるかどうかが
量
はか
られます。
六、
空間
くうかん
と
人類
じんるい
弟子:
宇宙
うちゅう
にどれくらいの
次元
じげん
の
空間
くうかん
がありますか?
師:
わたしの
知
し
っているところでは、
宇宙
うちゅう
には
無数
むすう
の
次元
じげん
の
空間
くうかん
があります。さらに
多
おお
くの
次元
じげん
の
空間
くうかん
の
存在
そんざい
について、
及
およ
びその
空間
くうかん
に
何
なに
があるのか、
誰
だれ
がそこにいるのかについて、
現代
げんだい
の
科学
かがく
方法
ほうほう
で
知
し
ろうとするのは
至難
しなん
のことです。
現代
げんだい
科学
かがく
はまだそれを
実証
じっしょう
することができません。しかしわれわれ
一部
いちぶ
の
気功
きこう
師
し
と
特異
とくい
功能
こうのう
者
しゃ
は
他
た
の
空間
くうかん
を
見
み
ることができます。
他
た
の
空間
くうかん
を
見
み
るには
天目
てんもく
しか
使
つか
えず、
肉眼
にくがん
で
見
み
ることができないからです。
弟子:
各
かく
空間
くうかん
とも「
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
」の
特性
とくせい
を
持
も
っていますか?
師:
その
通
とお
り、どの
空間
くうかん
も「
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
」という
特性
とくせい
を
持
も
っています。この
特性
とくせい
に
順応
じゅんのう
する
人
ひと
は
良
よ
い
人
ひと
で、
背
そむ
いて
反対
はんたい
に
行
い
く
人
ひと
は、
悪
わる
い
人
ひと
になります。それに
同化
どうか
する
人
ひと
は
得
とく
道者
どうしゃ
にほかなりません。
弟子:
最初
さいしょ
の
人類
じんるい
はどこから
来
き
たのですか?
師:
最初
さいしょ
の
宇宙
うちゅう
はこんなにたくさんの
縦方向
たてほうこう
の
次元
じげん
もなければ、こんなにたくさんの
横方向
よこほうこう
の
次元
じげん
もなく、とても
単一
たんいつ
なものでした。その
発展
はってん
、
運行
うんこう
の
過程
かてい
において
生命
せいめい
が
誕生
たんじょう
しましたが、それがわれわれの
言
い
う
最
もっと
も
原始的
げんしてき
な
生命
せいめい
であり、
宇宙
うちゅう
と
同化
どうか
しているのであって、
良
よ
くないものの
存在
そんざい
がありませんでした。
宇宙
うちゅう
に
同化
どうか
するというのは
宇宙
うちゅう
と
同
おな
じであるということであり、
宇宙
うちゅう
にあるすべての
功能
こうのう
は
彼
かれ
にもあるわけです。
宇宙
うちゅう
の
発展
はってん
、
演化
えんか
に
従
したが
って、
天国
てんごく
が
現
あらわ
れました。その
後
ご
、ますます
多
おお
くの
生命
せいめい
が
現
あらわ
れてきましたが、われわれの
低
ひく
い
次元
じげん
で
言
い
えば、
社会的
しゃかいてき
な
群
むれ
ができ、
互
たが
いに
関係
かんけい
ができあがりました。この
演化
えんか
変遷
へんせん
の
過程
かてい
において、
一部
いちぶ
の
人
ひと
に
変化
へんか
が
起
お
き、
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
からますます
遠
とお
ざかり、あまり
良
よ
くなくなりましたので、
神通力
じんつうりき
も
小
ちい
さくなりました。だからこそ
煉功
れんこう
者
しゃ
は「
帰真
きしん
」、つまり
原始
げんし
状態
じょうたい
へ
回帰
かいき
するということを
言
い
うのです。
次元
じげん
が
高
たか
ければ
高
たか
いほど、
宇宙
うちゅう
に
同化
どうか
する
度合
どあ
いも
高
たか
く、
神通力
じんつうりき
も
大
おお
きいわけです。
宇宙
うちゅう
の
演化
えんか
する
中
なか
で、
一部
いちぶ
の
生命
せいめい
が
良
よ
くなくなりましたが、それらを
滅
ほろ
ぼすわけにもいかないので、それらを
比較的
ひかくてき
低
ひく
い
次元
じげん
に
行
い
かせて
苦
くる
しみを
嘗
な
めさせることによって、それらを
高
たか
め
宇宙
うちゅう
に
同化
どうか
させる
工夫
くふう
がなされました。その
後
ご
絶
た
えずこの
次元
じげん
にやってくる
人
ひと
がいました。そのうち、この
次元
じげん
でも
分化
ぶんか
が
起
お
き、
心性
しんせい
がさらに
悪
わる
くなった
人
ひと
がこの
次元
じげん
にもとどまれなくなったので、
下
した
にまた
一
ひと
つ
次元
じげん
が
造
つく
られました。こうしてますます
下
した
へ
堕
お
ち、
徐々
じょじょ
に
分化
ぶんか
を
経
へ
て、
今日
こんにち
に
至
いた
り、われわれ
人類
じんるい
がいるこの
次元
じげん
が
生
う
まれました。これが
人類
じんるい
の
起源
きげん
です。