轉 法 輪
第一講
本当
ほんとう
に
高
たか
い
次元
じげん
へ
人
ひと
を
導
みちび
く
わたしは、
法
ほう
を
伝
つた
え、
功
こう
を
伝
つた
えるにあたって、
常
つね
に
社会
しゃかい
と
学習者
がくしゅうしゃ
に
対
たい
して
責任
せきにん
をもつことを
念頭
ねんとう
においてきました。ですから
得
え
られた
結果
けっか
も
良
よ
く、
社会
しゃかい
に
与
あた
えた
影響
えいきょう
もかなり
良
よ
いものでした。
数年
すうねん
前
まえ
、
大
おお
勢
ぜい
の
気功師
きこうし
が
気功
きこう
を
教
おし
えていましたが、
彼
かれ
らが
教
おし
えたのはいずれも
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
という
次元
じげん
のものでした。もちろん、
彼
かれ
らの
功法
こうほう
が
良
よ
くないと
言
い
うのではありません。わたしが
言
い
いたいのは、
彼
かれ
らは
高
たか
い
次元
じげん
のものを
教
おし
えていなかったということです。わたしは
中国
ちゅうごく
の
気功
きこう
の
現状
げんじょう
も
知
し
っていますが、
今
いま
、
国内
こくない
にも
国外
こくがい
にも、
本当
ほんとう
に
高
たか
い
次元
じげん
への
功
こう
を
伝
つた
える
者
もの
は、わたし
一人
ひとり
しかいません。
高
たか
い
次元
じげん
への
功
こう
を
伝
つた
える
人
ひと
がなぜいないのでしょうか? それはこのことが
非常
ひじょう
に
大
おお
きな
問題
もんだい
と
絡
から
んでいるからです。
歴史
れきし
的
てき
な
問題
もんだい
と
深
ふか
く
絡
から
んでいるばかりでなく、
幅広
はばひろ
い
分野
ぶんや
に
及
およ
び、
非常
ひじょう
に
微妙
びみょう
な
問題
もんだい
にかかわりを
持
も
っているのです。そのうえ、
多
おお
くの
気功
きこう
流派
りゅうは
のものを
揺
ゆ
るがしかねないという
問題
もんだい
も
絡
から
んでくるので、
普通
ふつう
の
人
ひと
では
伝
つた
えられるはずがありません。
特
とく
に
多
おお
くの
練功者
れんこうしゃ
は、
今日
きょう
はこの
功
こう
を
習
なら
い、
明日
あす
はあの
功
こう
を
習
なら
うなどしたあげく、
自分
じぶん
の
身体
からだ
をすっかり
乱
みだ
してしまったので、
上
うえ
の
次元
じげん
をめざす
修煉
しゅうれん
はもう
間違
まちが
いなくできなくなっています。
一本
いっぽん
の
大道
だいどう
に
沿
そ
って
上
うえ
をめざして
修煉
しゅうれん
すべきなのに
対
たい
し、その
人
ひと
たちは
脇道
わきみち
ばかり
歩
ある
くので、これを
修煉
しゅうれん
しようとすればあちらから
妨害
ぼうがい
が
入
はい
り、あれを
修煉
しゅうれん
しようとすればこちらから
妨害
ぼうがい
が
入
はい
り、あちらこちらから
妨害
ぼうがい
されるというしまつで、もう
修煉
しゅうれん
することができなくなってしまったのです。
これらの
問題
もんだい
は、われわれがすべて
片付
かたづ
けてあげなければならないものです。
良
よ
い
部分
ぶぶん
を
残
のこ
し、
悪
わる
い
部分
ぶぶん
を
除
のぞ
き、
今後
こんご
修煉
しゅうれん
できるようにしなければなりません。しかしそれは、
本当
ほんとう
に
大法
ダーファー
を
学
まな
びに
来
く
る
人
ひと
だけにしかしてあげられません。もし、あなたがさまざまな
執着心
しゅうちゃくしん
を
持
も
っていて、
功能
こうのう
を
追求
ついきゅう
するとか、
病気
びょうき
の
治療
ちりょう
を
求
もと
めるとか、
理論
りろん
を
聞
き
いてみたいとか、あるいは、
何
なに
かの
良
よ
くない
目的
もくてき
を
抱
いだ
いているとすれば、やってあげるわけにはいきません。
今
いま
、お
話
はな
ししたように、このことをやっているのはわたし
一人
ひとり
しかいません。
今回
こんかい
のような
機会
きかい
はめったにありませんし、わたしもこれから
先
さき
ずっとこのように
教
おし
えていくことはありません。
直接
ちょくせつ
わたしの
説法
せっぽう
を
聞
き
き、
功法
こうほう
伝授
でんじゅ
を
受
う
けられる
人
ひと
は、
本当
ほんとう
に……
今
いま
のこの
時間
じかん
が
最
もっと
も
喜
よろこ
ばしい
時
とき
だったと、
将来
しょうらい
きっと
分
わ
かることでしょう。もちろんわれわれは
縁
えん
を
重
おも
んじます。
皆
みな
さんがここに
坐
すわ
っていることは、すべて
縁
えん
によるものです。
高
たか
い
次元
じげん
への
功
こう
を
伝
つた
えるとはどんなことでしょうか? よく
考
かんが
えてみてください。それは
人
ひと
を
済度
さいど
することではないでしょうか?
人
ひと
を
済度
さいど
するというからには、あなたはもはや
普通
ふつう
の
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
のみにとどまらず、
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
をしなければなりません。
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
する
以上
いじょう
、
学習者
がくしゅうしゃ
の
心性
しんせい
への
要求
ようきゅう
も
高
たか
くなります。ここに
坐
すわ
っている
皆
みな
さんは
大法
ダーファー
を
学
まな
ぶために
来
き
ているのですから、
真
しん
の
煉功者
れんこうしゃ
としての
自覚
じかく
を
持
も
ち、
執着心
しゅうちゃくしん
を
捨
す
てなければなりません。いろいろな
目的
もくてき
を
追求
ついきゅう
しながら
功
こう
を
学
まな
び、
大法
ダーファー
を
学
まな
ぼうとしても、
何
なに
も
身
み
につけることはできません。あなたに
一
ひと
つの
真理
しんり
をお
教
おし
えしましょう。
絶
た
えず
執着心
しゅうちゃくしん
を
取
と
り
除
のぞ
くことこそ
人間
にんげん
の
修煉
しゅうれん
の
過程
かてい
のすべてです。
常人
じょうじん
の
社会
しゃかい
において、
人々
ひとびと
は
奪
うば
い
合
あ
ったり、
騙
だま
し
合
あ
ったり、
個人
こじん
のわずかな
利益
りえき
のために
人
ひと
を
傷
きず
つけたりしますが、こういった
心
こころ
は
全部
ぜんぶ
捨
す
てなければなりません。
特
とく
に、
今
いま
ここで
功
こう
を
学
まな
んでいる
人
ひと
は、これらの
心
こころ
をなおさら
捨
す
てなければなりません。
わたしはここで
病気
びょうき
治療
ちりょう
の
話
はなし
をしませんし、
病気
びょうき
治療
ちりょう
などもしません。しかし、
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
をしようとする
人
ひと
の
身体
からだ
に、
病気
びょうき
があっては
修煉
しゅうれん
できるわけがありません。ですからわたしは
身体
からだ
を
浄化
じょうか
してあげなければなりません。しかし
身体
からだ
の
浄化
じょうか
をしてあげるのは
本当
ほんとう
に
功
こう
を
学
まな
びに
来
き
た
人
ひと
、
本当
ほんとう
に
法
ほう
を
学
まな
びに
来
き
た
人
ひと
だけに
限
かぎ
ります。もしあなたが
病気
びょうき
のことばかり
考
かんが
えるその
心
こころ
を
捨
す
てられないのなら、われわれは
何
なに
もしてあげられないし、どうすることもできないということを
強調
きょうちょう
しておきます。なぜでしょうか? この
宇宙
うちゅう
には
次
つぎ
のような
理
り
があるからです。
佛家
ぶっけ
によれば、
常人
じょうじん
の
中
なか
のことは、すべて
因縁
いんねん
関係
かんけい
があり、
生老病死
しょうろうびょうし
は
常人
じょうじん
にとって
当然
とうぜん
のことです。
人
ひと
は、
以前
いぜん
に
悪事
あくじ
を
働
はたら
いたために
生
しょう
じた
業力
ごうりき
のせいで
病気
びょうき
になったり、
魔
ま
難
なん
に
遭
あ
ったりしています。
苦
くる
しみを
味
あじ
わうことはほかでもない「
業
ごう
」を
返
かえ
すことなので、いかなる
人
ひと
といえども
勝手
かって
にそれを
変
か
えるわけにはいきません。
変
か
えてしまうと
借金
しゃっきん
を
踏
ふ
み
倒
たお
してもよいということにもなります。しかも
勝手
かって
にこのようなことをしてはなりません。さもなければ、
悪事
あくじ
を
働
はたら
くことに
等
ひと
しいのです。
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
したり、
健康
けんこう
のために
何
なに
かしてあげたりするのは、
良
よ
いことだと
思
おも
う
人
ひと
がいます。しかしわたしの
見
み
るところでは、
誰
だれ
も
本当
ほんとう
に
病気
びょうき
を
治
なお
せたわけではなく、ただ
病気
びょうき
を
先送
さきおく
りさせ、あるいは
転化
てんか
させただけで、
病気
びょうき
を
取
と
り
除
のぞ
いてはいません。
本当
ほんとう
にその
難
なん
を
取
と
り
除
のぞ
こうとすれば、
業力
ごうりき
を
消去
しょうきょ
しなければなりません。もし
本当
ほんとう
に
病気
びょうき
を
治
なお
すことができて、
業力
ごうりき
をきれいに
取
と
り
除
のぞ
くことができるなら、
本当
ほんとう
にそこまでできれば、この
人
ひと
の
次元
じげん
はもはや
低
ひく
くはありません。つまり
彼
かれ
にはすでに、
常人
じょうじん
の
中
なか
の
理
り
を
勝手
かって
に
壊
こわ
してはならない、という
理
り
が
分
わ
かっているのです。
修煉
しゅうれん
途中
とちゅう
の
修煉者
しゅうれんしゃ
が
慈悲
じひ
心
しん
から、
良
よ
いことをし、
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
してあげるのは
許
ゆる
されることです。しかし、
完全
かんぜん
に
治
なお
すことはできません。もし
本当
ほんとう
に
常人
じょうじん
の
病気
びょうき
を
根治
こんじ
してあげることができるとして、
修煉
しゅうれん
しない
常人
じょうじん
がここから
出
で
て、
何
なん
の
病気
びょうき
もなくなったとしましょう。でもその
人
ひと
が
相変
あいか
わらず
常人
じょうじん
のままで、
私利
しり
私欲
しよく
のために
人
ひと
と
争
あらそ
ったりするようでしたら、
彼
かれ
の
業力
ごうりき
をどうして
勝手
かって
に
取
と
り
除
のぞ
いてあげられるのですか? そのようなことは
絶対
ぜったい
に
許
ゆる
されません。
ではなぜ、
修煉者
しゅうれんしゃ
のためならしてあげてもいいのでしょうか?
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
こそ
最
もっと
も
貴重
きちょう
なのであり、その
人
ひと
が
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
うこと、そこで
生
しょう
じた
一念
いちねん
こそ、なによりも
貴重
きちょう
なのです。
佛教
ぶっきょう
では
佛性
ぶっしょう
を
重
おも
んじており、
佛性
ぶっしょう
がいったん
現
あら
われると、
覚者
かくしゃ
たちはその
人
ひと
を
助
たす
けることができます。それはどういう
意味
いみ
なのでしょうか? わたしは
高
たか
い
次元
じげん
にあって
功
こう
を
伝
つた
えていますから、
高
たか
い
次元
じげん
の
理
り
に
関
かか
わっており、
非常
ひじょう
に
大
おお
きな
問題
もんだい
に
及
およ
ぶのです。この
宇宙
うちゅう
で、
人間
にんげん
の
生命
せいめい
は
常人
じょうじん
社会
しゃかい
の
中
なか
で
生
しょう
じたものではない、とわれわれは
見
み
ています。
人間
にんげん
の
本当
ほんとう
の
生命
せいめい
は
宇宙
うちゅう
空間
くうかん
で
生
しょう
じたものです。この
宇宙
うちゅう
には
生命
せいめい
を
造
つく
るさまざまな
物質
ぶっしつ
がたくさん
存在
そんざい
しており、これらの
物質
ぶっしつ
が
互
たが
いに
働
はたら
き
合
あ
うことによって、
生命
せいめい
が
誕生
たんじょう
します。つまり、
人間
にんげん
の
最初
さいしょ
の
生命
せいめい
は
宇宙
うちゅう
に
起源
きげん
を
持
も
つということです。
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
という
特性
とくせい
を
持
も
った
宇宙
うちゅう
空間
くうかん
は
本源
ほんげん
的
てき
に
善良
ぜんりょう
なものであり、
人間
にんげん
も
生
う
まれた
時
とき
は、
宇宙
うちゅう
と
同
おな
じ
特性
とくせい
を
持
も
っています。しかし、
生命体
せいめいたい
が
多
おお
くなると、その
集団
しゅうだん
に
社会
しゃかい
的
てき
な
関係
かんけい
ができてきます。その
中
なか
の
一部
いちぶ
の
者
もの
が、
利己
りこ
的
てき
になっていったために、
次第
しだい
に
自分
じぶん
の
次元
じげん
を
下
さ
げ、ついに
自分
じぶん
のいる
次元
じげん
にいられなくなり、それより
低
ひく
い
次元
じげん
へ
堕
お
ちていきました。ところが、つぎの
次元
じげん
においても、まただんだん
悪
わる
くなり、そこにもいられなくなって、
下
した
へ
下
した
へと
堕
お
ち、
最後
さいご
には
人類
じんるい
という
次元
じげん
にまで
堕
お
ちて
来
き
たわけです。
人類
じんるい
社会
しゃかい
全体
ぜんたい
は、
同
おな
じ
次元
じげん
にあります。ここまで
堕
お
ちてしまったら、
功能
こうのう
の
角度
かくど
から
見
み
ても、あるいは
大覚者
だいかくしゃ
の
立場
たちば
から
見
み
ても、これらの
生命体
せいめいたい
は
本来
ほんらい
消滅
しょうめつ
されるべきものでした。しかし、
大覚者
だいかくしゃ
たちがその
慈悲
じひ
心
しん
により、
彼
かれ
らにもう
一度
いちど
機会
きかい
を
与
あた
えたので、このような
特殊
とくしゅ
な
環境
かんきょう
、
特殊
とくしゅ
な
空間
くうかん
ができあがったわけです。ところが、この
空間
くうかん
の
生命体
せいめいたい
は、
宇宙
うちゅう
のあらゆる
他
た
の
空間
くうかん
の
生命体
せいめいたい
とは
違
ちが
います。この
空間
くうかん
の
生命体
せいめいたい
には、
他
た
の
空間
くうかん
の
生命体
せいめいたい
が
見
み
えず、
宇宙
うちゅう
の
真相
しんそう
も
見
み
えないので、これらの
人々
ひとびと
は
迷
まよ
いの
中
なか
に
堕
お
ちたも
同然
どうぜん
です。
病気
びょうき
の
快復
かいふく
、
難
なん
の
回避
かいひ
、
業
ごう
の
消去
しょうきょ
を
願
ねが
う
人々
ひとびと
は
必
かなら
ず
修煉
しゅうれん
を
通
つう
じて、
返本帰真
へんぽんきしん
しなければなりません。
修煉
しゅうれん
の
各派
かくは
も、このことについては
同
おな
じように
考
かんが
えています。
返本帰真
へんぽんきしん
することこそ、
人間
にんげん
としての
本当
ほんとう
の
目的
もくてき
です。したがって、ある
人
ひと
が
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
うと、
佛性
ぶっしょう
が
現
あら
われて
来
き
たと
認
みと
められます。この
一念
いちねん
こそ
最
もっと
も
貴重
きちょう
なものです。なぜならその
人
ひと
が
返本帰真
へんぽんきしん
を
願
ねが
い、
常人
じょうじん
という
次元
じげん
から
抜
ぬ
け
出
だ
そうとしているからです。
皆
みな
さんもお
聞
き
きになったことがあるだろうと
思
おも
いますが、
佛教
ぶっきょう
には、「
佛性
ぶっしょう
がひとたび
現
あら
われると、
十方
じっぽう
世界
せかい
を
震
ふる
わす」という
言葉
ことば
があります。
覚者
かくしゃ
がそのような
人
ひと
を
見
み
ればひとしく
救
すく
いの
手
て
を
差
さ
し
伸
の
べ、
無条件
むじょうけん
に
助
たす
けてあげようとします。
佛家
ぶっけ
では、
人
ひと
を
済度
さいど
するにあたって、
条件
じょうけん
を
言
い
わず、
代償
だいしょう
を
求
もと
めず、
無条件
むじょうけん
に
助
たす
けるということなので、われわれも
学習者
がくしゅうしゃ
の
皆
みな
さんに
多
おお
くのことをしてあげることができるのです。しかし、
一人
ひとり
のただ
常人
じょうじん
のままでよいと
思
おも
っている
人
ひと
が
病気
びょうき
を
治
なお
してもらおうと
思
おも
っても
無理
むり
です。
病気
びょうき
が
治
なお
ったら
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
う
人
ひと
がいるようですが、
修煉
しゅうれん
にはいかなる
条件
じょうけん
も
付
つ
けてはいけません。
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
い
立
た
ったら、
修煉
しゅうれん
を
始
はじ
めるべきです。しかし、
病気
びょうき
の
身体
からだ
をもっている
人
ひと
や、あるいは
体内
たいない
の
信息
しんそく
がかなり
乱
みだ
れている
人
ひと
、まったく
練功
れんこう
した
経験
けいけん
がない
人
ひと
もいれば、
何
なん
十
じゅう
年
ねん
も
練功
れんこう
していながら、まだ
気
き
のレベルを
抜
ぬ
け
出
だ
せず、
修練
しゅうれん
が
向上
こうじょう
していない
人
ひと
もいます。
どうしてあげたらよいのでしょうか? われわれは、
高
たか
い
次元
じげん
をめざす
修煉
しゅうれん
ができるように、その
身体
からだ
を
浄化
じょうか
してあげなければなりません。
最
もっと
も
低
ひく
い
次元
じげん
で
修煉
しゅうれん
する
際
さい
には、
身体
からだ
を
完全
かんぜん
に
浄化
じょうか
する
過程
かてい
があります。つまり、
頭
あたま
の
中
なか
の
良
よ
くない
考
かんが
えや、
身体
からだ
のまわりの
業力
ごうりき
によってできた
場
ば
、
身体
からだ
に
不健康
ふけんこう
をきたす
要素
ようそ
などを、
全部
ぜんぶ
きれいに
取
と
り
除
のぞ
くということです。それを
取
と
り
除
のぞ
かなければ、このような
濁
にご
った
身体
からだ
や
真
ま
っ
黒
くろ
な
身体
からだ
、
汚
けが
れた
考
かんが
えを
持
も
っていたのでは、どうやって
高
たか
い
次元
じげん
をめざして
修煉
しゅうれん
ができるでしょうか? ここでは「
気
き
」を
練
ね
ることなどはしません。あなたはもう
低
ひく
い
次元
じげん
のものを
練
ね
る
必要
ひつよう
はないのです。われわれは
皆
みな
さんの
身体
からだ
を
無病
むびょう
状態
じょうたい
にまで
押
お
し
上
あ
げていきます。そして
同時
どうじ
に、
低
ひく
い
次元
じげん
の
段階
だんかい
で
基礎
きそ
として
備
そな
えなければならないものも、
一式
いっしき
できあがったものを
植
う
えつけてあげましょう。こうすれば、われわれは
初
はじ
めから
高
たか
い
次元
じげん
で
煉功
れんこう
することになります。
修煉界
しゅうれんかい
の
言
い
い
方
かた
によれば、
気
き
を
含
ふく
めるとすれば、
三
みっ
つの
次元
じげん
があります。しかし、
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
(
気
き
を
練
ね
るものは
含
ふく
めない)は、
大
おお
きく
二
ふた
つの
次元
じげん
に
分
わ
けられます。
一
ひと
つは
世間法
せけんほう
修煉
しゅうれん
で、もう
一
ひと
つは
出世間法
しゅっせけんほう
修煉
しゅうれん
です。この
世間法
せけんほう
と
出世間法
しゅっせけんほう
は、お
寺
てら
で
言
い
うところの
出世間
しゅっせけん
と
入世間
にゅうせけん
とは
違
ちが
います。それは
理論
りろん
的
てき
なものですが、われわれは、
真
しん
の
人体
じんたい
修煉
しゅうれん
における
二
ふた
つの
次元
じげん
で
起
お
こる
変化
へんか
を
意味
いみ
しています。
世間法
せけんほう
修煉
しゅうれん
の
過程
かてい
において、
人間
にんげん
の
身体
からだ
は
絶
た
えず
浄化
じょうか
され、
絶
た
えず
浄化
じょうか
されていき、
世間法
せけんほう
の
最高
さいこう
形式
けいしき
に
達
たっ
しますと、
身体
からだ
は
完全
かんぜん
に
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
に
取
と
って
代
か
わられます。その
先
さき
の
出世間法
しゅっせけんほう
の
修煉
しゅうれん
は
本質
ほんしつ
的
てき
に
佛体
ぶったい
の
修煉
しゅうれん
になります。
身体
からだ
はすでに
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
で
構成
こうせい
されたものとなり、あらゆる
功能
こうのう
が
新
あら
たに
現
あら
われます。これがわれわれの
言
い
う
二
ふた
つの
大
おお
きな
次元
じげん
です。
われわれは
縁
えん
を
重
おも
んじています。
皆
みな
さんが
今
いま
ここに
坐
すわ
っておられるから、わたしは
皆
みな
さんにこのことをしてあげてもよいのです。
今
いま
ここにいる
人
ひと
は、せいぜい
二千人
にせんにん
あまりですが、
何千人
なんぜんにん
、もっと
多
おお
くの
人
ひと
、
一
いち
万
まん
人
にん
でも、わたしは
楽々
らくらく
としてあげることができます。つまり、
皆
みな
さんは
低
てい
次元
じげん
ではもう
練
ね
らなくてもよいということです。あなたの
身体
からだ
を
浄化
じょうか
してから、
高
たか
い
次元
じげん
へ
押
お
し
上
あ
げ、
完璧
かんぺき
な
修煉
しゅうれん
システムを
一式
いっしき
植
う
えつけてあげますので、あなたは
最初
さいしょ
から
高
たか
い
次元
じげん
で
修煉
しゅうれん
することになります。しかし、それは
真
しん
に
修煉
しゅうれん
する
学習者
がくしゅうしゃ
にしかしてあげられません。ここに
坐
すわ
っているからといって、あなたが
修煉者
しゅうれんしゃ
だというわけではありません。
植
う
えつけてあげることができるのはあなたの
考
かんが
え
方
かた
が
根本
こんぽん
的
てき
に
変
か
わった
時
とき
です。しかもこれくらいにとどまりません。いったいわたしがどれくらいのものを
皆
みな
さんに
与
あた
えたのか、いずれ
皆
みな
さんもお
分
わ
かりになると
思
おも
います。われわれはここでは、
病気
びょうき
治療
ちりょう
などはしませんが、
煉功
れんこう
できるようにするために、
学習者
がくしゅうしゃ
の
身体
からだ
を
全面
ぜんめん
的
てき
に
調整
ちょうせい
します。
病気
びょうき
の
身体
からだ
では、
功
こう
など
出
で
てくるはずがありません。というわけですから、
病気
びょうき
を
治
なお
してほしいとかわたしに
言
い
わないでください。わたしもそれをしません。わたしが
出山
しゅつざん
した
主
おも
な
目的
もくてき
は、
高
たか
い
次元
じげん
へ
人
ひと
を
導
みちび
くこと、
本当
ほんとう
に
高
たか
い
次元
じげん
へ
人
ひと
を
導
みちび
くことなのです。
異
こと
なる
次元
じげん
に
異
こと
なる
法
ほう
あり
これまで、
大勢
おおぜい
の
気功
きこう
師
し
が、
気功
きこう
には
初級
しょきゅう
、
中級
ちゅうきゅう
、
上級
じょうきゅう
があるなどと
言
い
っていました。それらはすべて
気
き
や
気
き
を
練
ね
る
次元
じげん
のものに
過
す
ぎないのに、
初級
しょきゅう
、
中級
ちゅうきゅう
、
上級
じょうきゅう
などに
分
わ
けています。
本当
ほんとう
に
高
たか
い
次元
じげん
のものは、
多
おお
くの
気功
きこう
修煉者
しゅうれんしゃ
の
頭
あたま
の
中
なか
ではまったくの
空白
くうはく
で、
何
なに
も
知
し
られていません。わたしがこれから
述
の
べようとするものはいずれも
高
たか
い
次元
じげん
の
法
ほう
です。そのほか、わたしは
修煉
しゅうれん
の
本来
ほんらい
の
姿
すがた
を
伝
つた
えたいとも
思
おも
います。
講義
こうぎ
の
中
なか
では、
修煉界
しゅうれんかい
に
見
み
られる
良
よ
くない
現象
げんしょう
にも
触
ふ
れる
予定
よてい
です。それらのものにどのように
対処
たいしょ
すればよいか、どうとらえたらよいかについても、すべてお
話
はな
ししたいと
思
おも
います。それから、
高
たか
い
次元
じげん
において
功
こう
を
伝
つた
え、
法
ほう
を
説
と
くとなれば、かかわりを
持
も
つ
問題
もんだい
が
幅広
はばひろ
く、
大
おお
きいばかりでなく、
非常
ひじょう
に
微妙
びみょう
な
問題
もんだい
も
絡
から
んできますので、これらについても
明
あき
らかにしたいと
思
おも
います。また
他
た
の
空間
くうかん
からの、われわれ
常人
じょうじん
社会
しゃかい
への
妨害
ぼうがい
、
特
とく
に
修煉界
しゅうれんかい
に
対
たい
する
妨害
ぼうがい
についても
明
あき
らかにしますが、
同時
どうじ
に、われわれの
学習者
がくしゅうしゃ
のためにこれらの
問題
もんだい
を
片付
かたづ
けてあげなければなりません。これらの
問題
もんだい
を
解決
かいけつ
しないと、あなたは
煉功
れんこう
できません。これらの
問題
もんだい
を
徹底的
てっていてき
に
解決
かいけつ
するには、
皆
みな
さんのことを
本当
ほんとう
の
修煉者
しゅうれんしゃ
として
扱
あつか
わなければなりません。それでこそはじめてこのようなことをしてあげられるのです。もちろん、いっぺんにあなたの
考
かんが
え
方
かた
を
変
か
えるのは
容易
ようい
なことではありませんが、これからの
受講
じゅこう
で、あなたは
少
すこ
しずつ
自分
じぶん
の
考
かんが
え
方
かた
を
変
か
えていかれると
思
おも
いますので、
講義
こうぎ
は
真剣
しんけん
に
聞
き
いてください。わたしの
功
こう
の
伝
つた
え
方
かた
は
他
ほか
の
人
ひと
のやり
方
かた
と
違
ちが
います。
他
ほか
の
人
ひと
は
功
こう
を
伝
つた
える
時
とき
、ただ、
簡単
かんたん
に
功法
こうほう
の
理
り
を
説明
せつめい
し、それから
信息
しんそく
を
与
あた
えたりして、
動作
どうさ
を
教
おし
えるだけで
終
お
わってしまいます。
人々
ひとびと
はすでにこのような
功
こう
の
伝
つた
え
方
かた
に
慣
な
れています。
本当
ほんとう
に
功
こう
を
伝
つた
えるには、
法
ほう
を
説
と
き、
道
どう
を
説
と
かなければなりません。
十回
じゅっかい
にわたる
講義
こうぎ
の
中
なか
で、わたしは
高
たか
い
次元
じげん
の
理
り
をすべて
明
あき
らかにしなければなりません。こうすればはじめてあなたは
修煉
しゅうれん
できるようになります。さもなければ
修煉
しゅうれん
などできるものではありません。
他
ほか
の
人
ひと
が
教
おし
えているのは、すべて
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
という
次元
じげん
のものですが、
高
たか
い
次元
じげん
へ
修煉
しゅうれん
しようとするには、
高
たか
い
次元
じげん
の
法
ほう
による
指導
しどう
がなければ、
修煉
しゅうれん
することはできません。
学校
がっこう
のことを
喩
たと
えにして
言
い
いますと、
小学校
しょうがっこう
の
教科書
きょうかしょ
を
持
も
って
大学
だいがく
に
入
はい
っても、やはり
小学生
しょうがくせい
にしか
過
す
ぎないのです。たくさんの
気功
きこう
を
習
なら
ったつもりで、あれやこれやの
気功
きこう
の
修了証書
しゅうりょうしょうしょ
だけは
山
やま
ほどあるのに、
一向
いっこう
に
功
こう
が
伸
の
びていない
人
ひと
がいます。
彼
かれ
はそれらが
気功
きこう
の
真諦
しんたい
であり、すべてだと
思
おも
い
込
こ
んでいますが、
実
じつ
はそうではなく、それらは
気功
きこう
のいろはに
過
す
ぎず、いちばん
低
ひく
い
次元
じげん
のものです。
気功
きこう
はそれだけにとどまらず、
気功
きこう
は
修煉
しゅうれん
であり、
博大
はくだい
で
奥深
おくぶか
いものであり、しかも、
異
こと
なる
次元
じげん
に
異
こと
なる
法
ほう
がありますので、
今日
こんにち
知
し
られているような、いくら
多
おお
く
習
なら
っても
同
おな
じである
気
き
を
練
ね
るものとは
違
ちが
います。
例
たと
えば、イギリスの
小学校
しょうがっこう
の
教科書
きょうかしょ
を
勉強
べんきょう
し、
次
つぎ
にアメリカの
小学校
しょうがっこう
の
教科書
きょうかしょ
も
勉強
べんきょう
し、さらに
日本
にほん
の
小学校
しょうがっこう
の
教科書
きょうかしょ
も
勉強
べんきょう
し、そして
中国
ちゅうごく
の
小学校
しょうがっこう
の
教科書
きょうかしょ
をも
勉強
べんきょう
したとしても、あなたはやはり
小学生
しょうがくせい
です。
気功
きこう
の
低
てい
次元
じげん
のものをたくさん
習
なら
って、いっぱい
身
み
につけたとしても、かえって
害
がい
になります。なぜかというと、あなたの
身体
からだ
がすでに
乱
みだ
されてしまっているからです。
ここでもう
一
ひと
つの
問題
もんだい
を
強調
きょうちょう
しておきたいと
思
おも
います。われわれが
修煉
しゅうれん
するには、
功
こう
を
伝
つた
え、
法
ほう
を
説
と
く
必要
ひつよう
があります。
一部
いちぶ
の
寺院
じいん
の
和尚
おしょう
、
特
とく
に
禅宗
ぜんしゅう
では、
異議
いぎ
があるかも
知
し
れません。
説法
せっぽう
と
聞
き
いただけで
耳
みみ
を
塞
ふさ
いでしまいます。なぜでしょうか?
禅宗
ぜんしゅう
では、
法
ほう
というものは
話
はな
してはいけないもので、
言葉
ことば
に
出
だ
したら
法
ほう
ではなくなるので、
説
と
ける
法
ほう
はなく、ただ
心
こころ
で
悟
さと
るのみだ、と
考
かんが
えているからです。そのため、
禅宗
ぜんしゅう
は
今日
こんにち
に
至
いた
っても、
何
なん
の
法
ほう
も
説
と
くことができません。
禅宗
ぜんしゅう
の
達磨
だるま
が
伝
つた
えたものは、
釈迦牟尼
しゃかむに
の
言
い
った「
法
ほう
には
定法
じょうほう
無
な
し」という
一言
ひとこと
に
基
もと
づいています。
彼
かれ
は
釈迦牟尼
しゃかむに
のこの
言葉
ことば
に
基
もと
づいて
禅宗
ぜんしゅう
法門
ほうもん
を
創立
そうりつ
しました。この
法門
ほうもん
はわれわれから
見
み
れば、ほかならぬ
牛
うし
の
角先
つのさき
に
向
む
かって
潜
もぐ
り
込
こ
むようなことをやっているのです。なぜ
牛
うし
の
角先
つのさき
に
潜
もぐ
るというのでしょうか?
達磨
だるま
が
入
はい
った
時
とき
はまだけっこう
余裕
よゆう
がありましたが、
二
に
祖
そ
が
入
はい
った
時
とき
はあまり
余裕
よゆう
がなくなり、
三
さん
祖
そ
はなんとか
入
はい
れる
程度
ていど
で、
四
よん
祖
そ
の
時
とき
はもうかなりせせこましく、
五
ご
祖
そ
はほとんど
入
はい
れなくなり、
六
ろく
祖
そ
の
慧能
えのう
になると、もう
行
い
き
詰
づ
まってしまったのです。
今
いま
、
禅宗
ぜんしゅう
へ
法
ほう
を
学
まな
びに
行
い
ったら、
何
なに
も
問
と
わないほうがよいのです。もし
何
なに
か
質問
しつもん
があって
尋
たず
ねると、すぐに
棒
ぼう
で
頭
あたま
を
叩
たた
かれますが、それを
棒喝
ぼうかつ
というのです。
何
なに
も
聞
き
くな、
自分
じぶん
で
悟
さと
れという
意味
いみ
です。「
何
なに
も
知
し
らないから
学
まな
びに
来
き
たのに、
悟
さと
れって、
何
なに
を?!
棒
ぼう
で
頭
あたま
を
叩
たた
くなんて」と、あなたはきっとそう
思
おも
います。それこそ
行
い
き
詰
づ
まってしまって、
教
おし
えられるものがもう
何
なに
もないことを
示
しめ
しています。
達磨
だるま
自身
じしん
でさえ、
六
ろく
祖
そ
までは
伝
つた
えられるが、その
後
ご
はもう
無理
むり
だと
言
い
っていました。
数百年
すうひゃくねん
も
過
す
ぎ
去
さ
ったのに、まだ
禅宗
ぜんしゅう
の
理
り
を
固守
こしゅ
している
人
ひと
がいます。
釈迦牟尼
しゃかむに
の
言
い
う「
法
ほう
には
定法
じょうほう
無
な
し」の
本当
ほんとう
の
意味
いみ
は
何
なん
でしょうか?
釈迦牟尼
しゃかむに
のいた
次元
じげん
は
如来
にょらい
でしたが、その
後
ご
の
多
おお
くの
僧侶
そうりょ
たちはいずれも、
釈迦牟尼
しゃかむに
がいた
次元
じげん
や、
彼
かれ
の
思想
しそう
境地
きょうち
における
心
こころ
の
状態
じょうたい
、
彼
かれ
の
説
と
いた
法
ほう
の
本当
ほんとう
の
意味
いみ
、
言
い
った
言葉
ことば
の
本当
ほんとう
の
意味
いみ
などを、
悟
さと
ることができませんでした。そのために、こう
解釈
かいしゃく
したり、ああ
解釈
かいしゃく
したりして、
非常
ひじょう
に
混乱
こんらん
しています。「
法
ほう
には
定法
じょうほう
無
な
し」というのは
何
なに
も
言
い
うことは
許
ゆる
されず、
言
い
い
出
だ
したら
法
ほう
ではなくなることだと
思
おも
われています。
実
じつ
はそういう
意味
いみ
ではありません。
釈迦牟尼
しゃかむに
は
菩提樹
ぼだいじゅ
の
下
した
で、
功
こう
を
開
ひら
き
悟
さと
りを
開
ひら
いた
後
あと
、
直
ただ
ちに
如来
にょらい
の
次元
じげん
に
達
たっ
したわけではありません。
彼
かれ
は
四十九年間
よんじゅうきゅうねんかん
にわたる
説法
せっぽう
の
間
あいだ
も、
絶
た
えず
自分
じぶん
を
高
たか
めていました。
次元
じげん
を
一
ひと
つ
上
あ
がる
度
たび
に
振
ふ
り
返
かえ
って
見
み
ると、
説
と
いたばかりの
法
ほう
はみな
違
ちが
っていました。さらに
上
あ
がれば、
先
さき
に
説
と
いた
法
ほう
もまた
違
ちが
ってきました。さらに
上
あ
がれば、
先
さき
ほど
説
と
いた
法
ほう
もまた
違
ちが
ってきました。
四十九年
よんじゅうきゅうねん
の
間
あいだ
に、
彼
かれ
はこのように
絶
た
えず
昇華
しょうか
していきながら、
次元
じげん
が
上
あ
がる
度
たび
に、
自分
じぶん
の
以前
いぜん
に
説
と
いた
法
ほう
は
認識
にんしき
が
低
ひく
かったことに
気
き
づいたのでした。さらに、それぞれの
次元
じげん
の
法
ほう
はみなその
次元
じげん
における
法
ほう
の
現
あら
われで、どの
次元
じげん
にも
法
ほう
がありますが、どれも
宇宙
うちゅう
の
絶対
ぜったい
的
てき
真理
しんり
ではないということにも
気
き
づきました。しかも
高
たか
い
次元
じげん
の
法
ほう
ほど
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
に
近
ちか
いのです。そこで
彼
かれ
は「
法
ほう
には
定法
じょうほう
無
な
し」と
言
い
ったわけです。
釈迦牟尼
しゃかむに
は
最後
さいご
に、「わたしは
生涯
しょうがい
、
何
なん
の
法
ほう
も
説
と
いていない」とも
言
い
いました。
禅宗
ぜんしゅう
ではまたしても
説
と
くべき
法
ほう
がないと
理解
りかい
してしまいました。
釈迦牟尼
しゃかむに
は、
晩年
ばんねん
すでに
如来
にょらい
の
次元
じげん
に
到達
とうたつ
しましたが、なぜ
何
なん
の
法
ほう
も
説
と
いていないと
言
い
ったのでしょうか?
本当
ほんとう
はどういうことを
言
い
っているのでしょうか?
自分
じぶん
は
如来
にょらい
の
次元
じげん
に
到達
とうたつ
していても、
宇宙
うちゅう
の
最終
さいしゅう
の
理
り
、
最終
さいしゅう
の
法
ほう
が
何
なん
なのかまだ
見
み
えていない、と
釈迦牟尼
しゃかむに
はこういうことを
言
い
っているのです。したがって
彼
かれ
は、
自分
じぶん
の
話
はな
した
言葉
ことば
を
絶対
ぜったい
の
真理
しんり
、
不変
ふへん
の
真理
しんり
と
見
み
なさないようにと
言
い
っており、そういうことをすれば
後世
こうせい
の
人
ひと
は
如来
にょらい
あるいは
如来
にょらい
以下
いか
の
次元
じげん
に
限
かぎ
られ、もっと
高
たか
い
次元
じげん
へ
突破
とっぱ
できなくなるのだ、と
後世
こうせい
の
人
ひと
に
教
おし
えているのです。
後世
こうせい
の
人
ひと
はこの
話
はなし
の
真意
しんい
が
分
わ
からず、
法
ほう
は
語
かた
られると
法
ほう
ではなくなると
思
おも
い
込
こ
み、そのように
理解
りかい
しています。
実
じつ
は
釈迦牟尼
しゃかむに
は、
異
こと
なる
次元
じげん
には
異
こと
なる
法
ほう
があり、どの
次元
じげん
の
法
ほう
も
宇宙
うちゅう
の
絶対
ぜったい
的
てき
真理
しんり
ではないが、その
次元
じげん
においては
指導
しどう
作用
さよう
がある、ということを
説
と
いています。
彼
かれ
は
本当
ほんとう
のところ、そのような
理
り
を
語
かた
っています。
昔
むかし
、
多
おお
くの
人
ひと
は、
特
とく
に
禅宗
ぜんしゅう
では、ずっとこのような
偏見
へんけん
と
極端
きょくたん
に
誤
あやま
った
認識
にんしき
を
持
も
っていました。
教
おし
えなければ
何
なに
に
基
もと
づいてどのように
修行
しゅぎょう
し、どのように
修煉
しゅうれん
すればよいのでしょうか?
佛教
ぶっきょう
には
佛教
ぶっきょう
にまつわる
多
おお
くの
物語
ものがたり
があり、
読
よ
んだことのある
人
ひと
がいるかも
知
し
れませんが、
天国
てんごく
へ
行
い
った
話
はなし
があります。
天国
てんごく
へ
行
い
ったら、そこで
見
み
た『
金剛経
こんごうきょう
』と
下界
げかい
の『
金剛経
こんごうきょう
』とは、
同
おな
じ
文字
もじ
が
一
ひと
つもなく、
意味
いみ
もまったく
違
ちが
うのに
気
き
づいたというのです。どうしてこの『
金剛経
こんごうきょう
』と
人間
にんげん
世界
せかい
の『
金剛経
こんごうきょう
』は
違
ちが
うのでしょうか? また、
極楽
ごくらく
世界
せかい
の
経典
きょうてん
が
下界
げかい
のそれとまったく
異
こと
なっており、ほとんど
同
おな
じものとは
言
い
えず、
文字
もじ
だけではなく、
指
さ
し
示
しめ
すところや
意味
いみ
まで
違
ちが
い、
変化
へんか
している、と
言
い
う
人
ひと
もいます。それはほかでもない、
同
おな
じ
法
ほう
が
異
こと
なる
次元
じげん
において
異
こと
なる
変化
へんか
や
現
あら
われ
方
かた
をもち、
異
こと
なった
次元
じげん
において、
修煉者
しゅうれんしゃ
に
対
たい
して
異
こと
なった
指導
しどう
作用
さよう
をなすことができる、ということです。
皆
みな
さんもご
存知
ぞんじ
のように、
佛教
ぶっきょう
には『
西方
さいほう
極楽
ごくらく
世界
せかい
遊記
ゆうき
』という
小
しょう
冊子
さっし
があります。
一人
ひとり
の
僧侶
そうりょ
が
坐禅
ざぜん
している
間
あいだ
に、その
元神
げんしん
が
極楽
ごくらく
世界
せかい
に
行
い
ってそこの
景色
けしき
を
見
み
ました。
一日
いちにち
ぶらぶらして、
現世
げんせ
に
戻
もど
ってきたら、すでに
六
ろく
年
ねん
が
過
す
ぎていたという
話
はなし
です。
彼
かれ
には
本当
ほんとう
に
見
み
えたのでしょうか?
確
たし
かに
見
み
えました。しかし
見
み
たのは
真相
しんそう
ではありません。なぜでしょうか?
彼
かれ
の
次元
じげん
が
低
ひく
いので、その
次元
じげん
において
彼
かれ
の
見
み
るべき
佛法
ぶっぽう
の
現
あら
われだけしか、
彼
かれ
に
見
み
せることができないからです。というのは、そのような
世界
せかい
はまさに
法
ほう
が
構成
こうせい
するものの
現
あら
われなので、
彼
かれ
に
真相
しんそう
が
見
み
えるはずもありません。わたしの
言
い
う「
法
ほう
には
定法
じょうほう
無
な
し」はそういう
意味
いみ
です。
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
は
良
よ
い
人
ひと
か
悪
わる
い
人
ひと
かを
判断
はんだん
する
唯一
ゆいいつ
の
基準
きじゅん
佛教
ぶっきょう
において
人々
ひとびと
は、「
佛法
ぶっぽう
とは
何
なに
か」をずっと
探求
たんきゅう
しています。
佛教
ぶっきょう
の
中
なか
で
述
の
べられている
法
ほう
が
佛法
ぶっぽう
の
全部
ぜんぶ
だと
言
い
う
人
ひと
もいますが、
実際
じっさい
はそうではありません。
釈迦牟尼
しゃかむに
の
法
ほう
は、
二
に
千
せん
五
ご
百
ひゃく
年
ねん
前
まえ
に、
次元
じげん
のきわめて
低
ひく
い
常人
じょうじん
、つまり
原始
げんし
社会
しゃかい
から
脱皮
だっぴ
したばかりの、
考
かんが
え
方
かた
も
比較的
ひかくてき
単一
たんいつ
な
人々
ひとびと
に
説
と
いた
法
ほう
であるに
過
す
ぎません。
釈迦牟尼
しゃかむに
の
言
い
う
末法
まっぽう
時期
じき
は、
今日
こんにち
のことで、
今
いま
の
人
ひと
はその
法
ほう
に
基
もと
づいてはすでに
修煉
しゅうれん
できなくなっています。
末法
まっぽう
時期
じき
には、
寺
てら
の
和尚
おしょう
が
自己
じこ
を
済度
さいど
することさえもできないのに、ましてや
他人
たにん
を
済度
さいど
することなどなおさらです。
釈迦牟尼
しゃかむに
が
当時
とうじ
伝
つた
えた
法
ほう
は
当時
とうじ
の
実状
じつじょう
に
合
あ
わせて
伝
つた
えたもので、しかも
彼
かれ
も
自
みずか
らの
到達
とうたつ
した
次元
じげん
における
佛法
ぶっぽう
を
全部
ぜんぶ
説
と
いたわけではないので、その
法
ほう
をいつまでも
変
か
わらずに
維持
いじ
し
続
つづ
けようとしても
不可能
ふかのう
です。
社会
しゃかい
は
発展
はってん
し、
人類
じんるい
の
思想
しそう
もますます
複雑
ふくざつ
になりましたので、
以前
いぜん
と
同
おな
じように
修煉
しゅうれん
し
続
つづ
けることが
難
むずか
しくなりました。
佛教
ぶっきょう
の
法
ほう
は
佛法
ぶっぽう
の
全部
ぜんぶ
ではなく、
佛法
ぶっぽう
の
中
なか
のほんのわずかな
一
いち
部分
ぶぶん
に
過
す
ぎません。
他
ほか
にも
多
おお
くの
佛家
ぶっけ
大法
たいほう
が
代々
だいだい
一人
ひとり
にしか
伝
つた
えない
形
かたち
で
民間
みんかん
に
伝
つた
わっています。
異
こと
なる
次元
じげん
に
異
こと
なる
法
ほう
があり、
異
こと
なる
空間
くうかん
に
異
こと
なる
法
ほう
がありますが、いずれも
佛法
ぶっぽう
の
各
かく
空間
くうかん
、
各
かく
次元
じげん
においての
違
ちが
った
現
あら
われです。
釈迦牟尼
しゃかむに
も
佛
ほとけ
を
修
おさ
めるには
八万四千
はちまんよんせん
の
法門
ほうもん
があると
言
い
っていましたが、
佛教
ぶっきょう
には
禅宗
ぜんしゅう
、
浄土
じょうど
、
天台
てんだい
、
華厳
けごん
、
密教
みっきょう
など
十
じゅう
数
すう
の
法門
ほうもん
しかないので、
佛法
ぶっぽう
の
全部
ぜんぶ
を
代表
だいひょう
することはできません。
釈迦牟尼
しゃかむに
も
自分
じぶん
の
法
ほう
を
残
のこ
らず
伝
つた
えたわけではなく、ただその
時代
じだい
の
人間
にんげん
の
受
う
け
入
い
れ
能力
のうりょく
に
合
あ
わせてその
一部
いちぶ
しか
伝
つた
えていません。
それでは
佛法
ぶっぽう
とは
何
なん
でしょうか? この
宇宙
うちゅう
の
最
もっと
も
根本
こんぽん
的
てき
な
特性
とくせい
は
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
で、これこそが
佛法
ぶっぽう
の
最高
さいこう
の
体現
たいげん
であり、
最
もっと
も
根本
こんぽん
的
てき
な
佛法
ぶっぽう
なのです。
佛法
ぶっぽう
は
異
こと
なる
次元
じげん
では
異
こと
なる
現
あら
われ
方
かた
があり、
異
こと
なった
次元
じげん
においては
異
こと
なった
指導
しどう
作用
さよう
を
持
も
っていますが、
次元
じげん
が
低
ひく
くなればなるほど、
現
あら
われ
方
かた
が
厖大
ぼうだい
で
複雑
ふくざつ
になります。
空気
くうき
の
微粒子
びりゅうし
や
石
いし
、
木材
もくざい
、
土
つち
、
鉄鋼
てっこう
、
人体
じんたい
など、あらゆる
物質
ぶっしつ
の
中
なか
に、
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
という
特性
とくせい
が
存在
そんざい
しています。
古代
こだい
では
五行
ごぎょう
が
宇宙
うちゅう
の
万事万物
ばんじばんぶつ
を
構成
こうせい
すると
考
かんが
えていましたが、それにも
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
という
特性
とくせい
が
存在
そんざい
しています。
修煉者
しゅうれんしゃ
は
自分
じぶん
の
修煉
しゅうれん
して
到達
とうたつ
した
次元
じげん
の
佛法
ぶっぽう
の
具体
ぐたい
的
てき
な
現
あら
われしか
認識
にんしき
できず、これが
修煉
しゅうれん
によって
得
え
た
果位
かい
であり、
次元
じげん
です。
裾野
すその
を
広
ひろ
げて
考
かんが
えれば、
法
ほう
はとてつもなく
大
おお
きいのですが、
頂点
ちょうてん
に
立
た
って
説明
せつめい
すれば、
法
ほう
はピラミッドのような
形
かたち
をしているので、
非常
ひじょう
に
簡単
かんたん
なものになります。
最高
さいこう
の
次元
じげん
では
三
さん
文字
もじ
で
概括
がいかつ
できます。それが
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
にほかなりません。しかし、
各
かく
次元
じげん
に
現
あら
われてくると、きわめて
複雑
ふくざつ
になります。
人間
にんげん
を
例
れい
にして
言
い
えば、
道家
どうけ
は
人体
じんたい
を
小宇宙
しょううちゅう
と
見
み
なしています。
人間
にんげん
は
物質
ぶっしつ
的
てき
な
身体
からだ
を
持
も
っていますが、
物質
ぶっしつ
的
てき
な
身体
からだ
だけでは
完全
かんぜん
な
人間
にんげん
を
構成
こうせい
することができません。
人間
にんげん
としての
気質
きしつ
や
性格
せいかく
、
特性
とくせい
、
元
げん
神
しん
を
持
も
って、はじめて
完全
かんぜん
な、
独立
どくりつ
した、
自我
じが
の
個性
こせい
を
持
も
った
人間
にんげん
になれます。われわれの
宇宙
うちゅう
も
同
おな
じで、
銀河系
ぎんがけい
があり、
他
た
の
恒星
こうせい
系
けい
があり、
生命
せいめい
や
水
みず
もありますが、この
宇宙
うちゅう
にある
万事
ばんじ
万物
ばんぶつ
は、
物質
ぶっしつ
的
てき
存在
そんざい
の
一
いち
面
めん
です。それと
同時
どうじ
に、
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
の
特性
とくせい
も
存在
そんざい
しています。あらゆる
物質
ぶっしつ
の
微粒子
びりゅうし
の
中
なか
に、このような
特性
とくせい
が
含
ふく
まれており、きわめて
小
ちい
さい
微粒子
びりゅうし
の
中
なか
にさえ、このような
特性
とくせい
が
含
ふく
まれています。
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
という
特性
とくせい
は、
宇宙
うちゅう
の
中
なか
の
善悪
ぜんあく
を
判断
はんだん
する
基準
きじゅん
です。
善
よ
し
悪
あ
しはそれによって
量
はか
られます。
昔
むかし
から
言
い
われてきた
徳
とく
というものも
同
おな
じです。
言
い
うまでもなく、
今日
こんにち
の
人類
じんるい
社会
しゃかい
の
道徳
どうとく
水準
すいじゅん
にはすでに
変化
へんか
が
起
お
こり、
道徳
どうとく
基準
きじゅん
までが
歪
ゆが
んでしまっています。
今
いま
、
誰
だれ
かが
雷鋒
らいほう
を
手本
てほん
にしていれば、
頭
あたま
がおかしいと
言
い
われるかも
知
し
れません。しかし、
五
ご
、
六
ろく
十
じゅう
年代
ねんだい
には、
頭
あたま
がおかしいと
言
い
う
人
ひと
がいたでしょうか?
人類
じんるい
の
道徳
どうとく
水準
すいじゅん
は
甚
はなは
だしく
低下
ていか
しており、
世
よ
の
中
なか
の
風紀
ふうき
は
日増
ひま
しに
乱
みだ
れ、
人々
ひとびと
は
利益
りえき
に
目
め
がくらみ、ちょっとした
利益
りえき
のために
人
ひと
を
傷
きず
つけたり、
奪
うば
い
合
あ
ったりして、
手段
しゅだん
を
選
えら
ばずにやっています。よく
考
かんが
えてみてください。このような
状態
じょうたい
を
続
つづ
けていくことが
許
ゆる
されてよいでしょうか?
悪事
あくじ
を
働
はたら
いている
人
ひと
に、それは
悪事
あくじ
だよと
注意
ちゅうい
してあげても、
信
しん
じない
人
ひと
がいます。
彼
かれ
は
本当
ほんとう
に
自分
じぶん
が
悪
わる
いことをしているとは
信
しん
じません。また
低下
ていか
した
道徳
どうとく
水準
すいじゅん
で
自分
じぶん
の
行動
こうどう
を
判断
はんだん
し、
他人
たにん
よりましだと
思
おも
っている
人
ひと
もいます。
判断
はんだん
の
基準
きじゅん
まで
変
か
わったからです。しかし、
人類
じんるい
の
道徳
どうとく
基準
きじゅん
がどんなに
変
か
わろうとも、この
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
は
変
か
わることはなく、それが
良
よ
い
人
ひと
と
悪
わる
い
人
ひと
を
量
はか
る
唯一
ゆいいつ
の
基準
きじゅん
です。ですから、
修煉者
しゅうれんしゃ
としてはこの
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
に
照
て
らして、
自分
じぶん
を
律
りっ
しなければならず、
常人
じょうじん
の
基準
きじゅん
で
自分
じぶん
を
律
りっ
してはいけません。
返本帰真
へんぽんきしん
を
願
ねが
い、
上
うえ
の
次元
じげん
へ
修煉
しゅうれん
しようとするには、この
基準
きじゅん
に
従
したが
って
行動
こうどう
しなければなりません。
一人
ひとり
の
人間
にんげん
として、
宇宙
うちゅう
の
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
の
特性
とくせい
に
順応
じゅんのう
できる
人
ひと
だけが
本当
ほんとう
に
良
よ
い
人
ひと
で、この
特性
とくせい
に
背
そむ
く
人
ひと
が、
本当
ほんとう
に
悪
わる
い
人
ひと
です。
職場
しょくば
で、あるいは
社会
しゃかい
で
評判
ひょうばん
が
悪
わる
くても
本当
ほんとう
に
悪
わる
い
人
ひと
とは
限
かぎ
らず、
逆
ぎゃく
に
評判
ひょうばん
が
良
よ
くても、
必
かなら
ずしも
本当
ほんとう
に
良
よ
い
人
ひと
とは
限
かぎ
りません。
一人
ひとり
の
修煉者
しゅうれんしゃ
として、あなたがこの
特性
とくせい
に
同化
どうか
すれば、
得道
とくどう
した
者
もの
となるのです。
理
り
はこんなにも
簡単
かんたん
です。
道家
どうけ
は
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
を
修煉
しゅうれん
する
際
さい
に、
主
おも
に
真
しん
を
修煉
しゅうれん
します。ですから、
道家
どうけ
は
真
しん
を
修
おさ
め、
心性
しんせい
を
養
やしな
うことを
重
おも
んじ、
真実
しんじつ
のことを
話
はな
し、
嘘
うそ
偽
いつわ
りのないことをし、
正直
しょうじき
な
人間
にんげん
になって
返本
へんぽん
帰
き
真
しん
し、
最後
さいご
には
修煉
しゅうれん
が
成就
じょうじゅ
して
真人
しんじん
になることを
目指
めざ
します。もちろん、それには
忍
にん
もあり、
善
ぜん
もありますが、
真
しん
を
重点的
じゅうてんてき
に
修煉
しゅうれん
します。
佛家
ぶっけ
は
主
おも
に
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
の
善
ぜん
を
修煉
しゅうれん
します。
善
ぜん
を
修煉
しゅうれん
すれば、
大
おお
いなる
慈悲
じひ
心
しん
が
生
う
まれます。
慈悲
じひ
心
しん
が
生
う
まれると、すべての
衆生
しゅじょう
が
苦
くる
しんでいるのを
見
み
て、
衆生
しゅじょう
を
済度
さいど
しようとする
願望
がんぼう
を
持
も
つようになります。
真
しん
もあり、
忍
にん
もありますが、
善
ぜん
を
重点的
じゅうてんてき
に
修煉
しゅうれん
するのです。われわれの
法輪大法
ファールンダーファー
という
法門
ほうもん
は、
宇宙
うちゅう
の
最高
さいこう
の
基準
きじゅん
─
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
に
基
もと
づいて
同時
どうじ
に
修煉
しゅうれん
するので、われわれの
修煉
しゅうれん
する
功
こう
はとても
大
おお
きいのです。
気功
きこう
は
先史
せんし
文化
ぶんか
気功
きこう
とは
何
なに
か?
多
おお
くの
気功
きこう
師
し
がみなそれぞれ
説明
せつめい
していますが、わたしの
説明
せつめい
は
彼
かれ
らとは
違
ちが
います。
多
おお
くの
気功
きこう
師
し
がそれぞれの
次元
じげん
で
話
はな
していますが、わたしはより
高
たか
い
次元
じげん
において、
気功
きこう
に
対
たい
する
認識
にんしき
を
話
はな
しているので、
彼
かれ
らの
認識
にんしき
とはまったく
違
ちが
います。
気功
きこう
は
我
わ
が
国
くに
において、
二
に
千年
せんねん
の
歴史
れきし
があると
言
い
う
気功
きこう
師
し
がいます。
三千年
さんぜんねん
の
歴史
れきし
があると
言
い
う
人
ひと
もいれば、
五
ご
千年
せんねん
、つまり
中華
ちゅうか
民族
みんぞく
の
文明
ぶんめい
の
歴史
れきし
とほぼ
近
ちか
い
歴史
れきし
があると
言
い
う
人
ひと
もいます。さらに、
遺跡
いせき
から
出土
しゅつど
したものを
見
み
ると、
中華
ちゅうか
民族
みんぞく
の
文明
ぶんめい
の
歴史
れきし
を
遥
はる
かに
上回
うわまわ
る
七
なな
千年
せんねん
の
歴史
れきし
があると
言
い
う
人
ひと
もいます。しかし、どんなに
解釈
かいしゃく
しても、
人類
じんるい
の
文明
ぶんめい
の
歴史
れきし
をあまり
大
おお
きく
超
こ
えていません。ダーウィンの
進化
しんか
論
ろん
によれば、
人類
じんるい
は
水生
すいせい
植物
しょくぶつ
から
水生
すいせい
動物
どうぶつ
になり、そして
陸地
りくち
に
上陸
じょうりく
し、
樹
き
の
上
うえ
に
登
のぼ
り、また
地上
ちじょう
に
降
お
りて
猿人
えんじん
になり、
最後
さいご
に
文化
ぶんか
と
思想
しそう
を
持
も
つ
現代
げんだい
人類
じんるい
に
進化
しんか
したと
言
い
いますが、それによって
推計
すいけい
すれば、
人類
じんるい
の
文明
ぶんめい
が
真
しん
に
現
あら
われてから
一
いち
万年
まんねん
にもなっていません。さらに
遡
さかのぼ
れば、
縄
なわ
を
結
むす
んで
事
こと
を
記録
きろく
することもなく、
木
こ
の
葉
は
を
衣
ころも
にし、
生
なま
の
肉
にく
を
食
た
べていました。さらに
遡
さかのぼ
れば、
火
ひ
を
使
つか
うことも
知
し
らない、まったくの
野蛮
やばん
人
じん
、
原始
げんし
人
じん
になります。
しかし、われわれは
一
ひと
つの
問題
もんだい
に
気
き
づいています。つまり、
世界中
せかいじゅう
の
多
おお
くの
地域
ちいき
に、われわれ
人類
じんるい
の
文明
ぶんめい
の
歴史
れきし
を
遥
はる
かに
超
こ
えたたくさんの
文明
ぶんめい
遺跡
いせき
が
残
のこ
っているのです。これらの
遺跡
いせき
は、
工芸
こうげい
の
面
めん
から
見
み
ると、レベルがかなり
高
たか
く、
芸術
げいじゅつ
の
面
めん
から
見
み
ても、かなり
優
すぐ
れており、
現代人
げんだいじん
はまるで
古人
こじん
の
芸術
げいじゅつ
を
模倣
もほう
していると
思
おも
うほど、
高
たか
い
鑑賞
かんしょう
価値
かち
があります。ところが、それは
十
じゅう
数
すう
万年
まんねん
前
まえ
、
数
すう
十
じゅう
万年
まんねん
前
まえ
、
数
すう
百
ひゃく
万年
まんねん
前
まえ
、さらには
一
いち
億年
おくねん
も
前
まえ
から
残
のこ
されたものです。
皆
みな
さん
考
かんが
えてみてください。それは
今日
こんにち
の
歴史
れきし
をあざ
笑
わら
っているのではありませんか? いや、あざ
笑
わら
うなどということはありません。なぜなら、
人類
じんるい
も
絶
た
えず
自
みずか
らを
向上
こうじょう
させ、
絶
た
えず
自
みずか
らを
再
さい
認識
にんしき
しており、
社会
しゃかい
もこのように
発展
はってん
してきたもので、
初
はじ
めの
認識
にんしき
が
必
かなら
ずしも
正
ただ
しいとは
言
い
えないからです。
「
先史
せんし
文化
ぶんか
」、あるいは「
先史
せんし
文明
ぶんめい
」という
言葉
ことば
を
聞
き
いたことがある
人
ひと
も
多
おお
いかも
知
し
れませんが、この
先史
せんし
文明
ぶんめい
についてお
話
はな
ししましょう。
地球
ちきゅう
上
じょう
にはアジア、ヨーロッパ、
南
みなみ
アメリカ、
北
きた
アメリカ、オセアニア、アフリカ、そして
南極
なんきょく
があります。
地質
ちしつ
学者
がくしゃ
はそれらを
一括
いっかつ
して「
大陸
たいりく
プレート」と
称
しょう
しています。
大陸
たいりく
プレートができてから
今日
こんにち
まで、すでに
数
すう
千
せん
万年
まんねん
の
歴史
れきし
があります。
言
い
い
換
か
えれば、
多
おお
くの
陸地
りくち
は
海底
かいてい
から
上
あ
がってきたもので、
逆
ぎゃく
に
海底
かいてい
に
沈
しず
んだ
陸地
りくち
もたくさんありましたが、
安定
あんてい
して
今日
こんにち
の
状態
じょうたい
に
落
お
ち
着
つ
くようになってから、すでに
数
すう
千
せん
万年
まんねん
が
経
た
っているということです。ところが、
多
おお
くの
海底
かいてい
で、
巨大
きょだい
な
古代
こだい
建築物
けんちくぶつ
が
発見
はっけん
されました。これらの
建築
けんちく
の
彫刻
ちょうこく
は
非常
ひじょう
に
精巧
せいこう
で
美
うつく
しいものですが、われわれの
今
いま
の
人類
じんるい
の
文化
ぶんか
遺産
いさん
ではありません。だとすると、
海底
かいてい
に
沈
しず
む
前
まえ
に
建
た
てられたものに
違
ちが
いありません。では、
数
すう
千
せん
万年
まんねん
前
まえ
に
誰
だれ
がこのような
文明
ぶんめい
を
創造
そうぞう
したのでしょうか? その
時
とき
、われわれ
人類
じんるい
はまだ
猿
さる
にもなっていなかったのに、どうしてこのような
高
たか
い
知恵
ちえ
に
富
と
むものを
作
つく
れたのでしょうか?
世界
せかい
の
考古
こうこ
学者
がくしゃ
は「
三葉虫
さんようちゅう
」という
生物
せいぶつ
を
発見
はっけん
しました。それは
六
ろく
億年
おくねん
から
二
に
億
おく
六
ろく
千
せん
万年
まんねん
前
まえ
までのもので、
二
に
億
おく
六
ろく
千
せん
万年
まんねん
前
まえ
以降
いこう
はこの
種
しゅ
の
生物
せいぶつ
は
姿
すがた
を
消
け
しました。アメリカの
科学者
かがくしゃ
が
見
み
つけた「
三葉虫
さんようちゅう
」の
化石
かせき
に
人
ひと
の
足跡
あしあと
があり、
靴
くつ
を
履
は
いた
足跡
あしあと
がはっきりと
残
のこ
っています。これは
歴史
れきし
学者
がくしゃ
をからかっているのではありませんか? ダーウィンの
進化
しんか
論
ろん
に
従
したが
えば、
二
に
億
おく
六
ろく
千
せん
万年
まんねん
前
まえ
に
人類
じんるい
がいるはずがないのではありませんか?
ペルー
国立
こくりつ
大学
だいがく
博物館
はくぶつかん
に
一
ひと
つの
石
いし
があり、その
石
いし
に
人間
にんげん
の
姿
すがた
が
彫刻
ちょうこく
されています。
鑑定
かんてい
によれば、この
人間
にんげん
の
姿
すがた
は
三
さん
万年
まんねん
前
まえ
に
彫刻
ちょうこく
されたものです。しかし、その
人間
にんげん
は
服
ふく
を
着
き
て、
帽子
ぼうし
をかぶり、
靴
くつ
を
履
は
いていて、おまけに
望遠鏡
ぼうえんきょう
まで
手
て
に
持
も
って
空
そら
を
観察
かんさつ
しているのです。
三
さん
万年
まんねん
前
まえ
の
人
ひと
がどうして
布
ぬの
を
織
お
り、
服
ふく
を
着
き
ることができるのでしょうか? もっと
不思議
ふしぎ
なのは、その
人
ひと
はある
程度
ていど
の
天文
てんもん
知識
ちしき
をもっているらしく、
望遠鏡
ぼうえんきょう
を
持
も
って
天体
てんたい
を
観察
かんさつ
していることです。
望遠鏡
ぼうえんきょう
は、ヨーロッパ
人
じん
のガリレオが
発明
はつめい
したとわれわれはずっと
思
おも
っており、
現在
げんざい
までせいぜい
三百年
さんびゃくねん
の
歴史
れきし
があるに
過
す
ぎません。なのに、
三
さん
万年
まんねん
前
まえ
に
誰
だれ
がこの
望遠鏡
ぼうえんきょう
を
発明
はつめい
したのでしょうか?
他
ほか
にも
不可解
ふかかい
な
謎
なぞ
はたくさんあります。
例
たと
えば、フランス、
南
みなみ
アフリカ、アルプス
山脈
さんみゃく
では
多
おお
くの
洞窟
どうくつ
に
壁画
へきが
があり、
非常
ひじょう
に
真
しん
に
迫
せま
り、
生
い
き
生
い
きと
表現
ひょうげん
されています。
彫刻
ちょうこく
された
人間
にんげん
の
姿
すがた
は
非常
ひじょう
に
精巧
せいこう
で
美
うつく
しく、
鉱
こう
物質
ぶっしつ
の
顔料
がんりょう
で
着色
ちゃくしょく
されてもいます。しかも、これらの
人間
にんげん
はみな
現代
げんだい
人
じん
の
身
み
なりをして
背広
せびろ
のような
服
ふく
を
着
き
て、
細
ほそ
いズボンを
穿
は
いています。パイプのようなものを
手
て
にする
者
もの
もいれば、ステッキを
持
も
って
帽子
ぼうし
をかぶっている
者
もの
もいます。
数十万年前
すうじゅうまんねんまえ
の
猿
さる
に、こんな
高
たか
い
芸術
げいじゅつ
レベルがありえたのでしょうか?
もっと
遠
とお
いお
話
はなし
をしましょう。アフリカのガボン
共和
きょうわ
国
こく
ではウランという
鉱石
こうせき
が
発見
はっけん
されましたが、
国
くに
が
立
た
ち
後
おく
れていて、
自国
じこく
ではウランの
精錬
せいれん
ができないため、
先進
せんしん
国
こく
へ
輸出
ゆしゅつ
していました。
一九七二
せんきゅうひゃくななじゅうに
年
ねん
にフランスのある
会社
かいしゃ
がそれを
輸入
ゆにゅう
し、
科学
かがく
実験
じっけん
をしたところ、そのウラン
鉱石
こうせき
はすでに
精錬
せいれん
されて
使用
しよう
されたものだと
判明
はんめい
しました。
不思議
ふしぎ
に
思
おも
った
会社
かいしゃ
側
がわ
は
現地
げんち
に
技術
ぎじゅつ
者
しゃ
を
派遣
はけん
して
調査
ちょうさ
し、
多
おお
くの
国々
くにぐに
の
科学
かがく
者
しゃ
も
調査
ちょうさ
に
行
い
きました。
最後
さいご
に、そのウラン
鉱石
こうせき
採掘
さいくつ
場
じょう
は
大型
おおがた
の
原子
げんし
炉
ろ
だったこと、
構造
こうぞう
が
非常
ひじょう
に
合理
ごうり
的
てき
で、われわれ
現代
げんだい
の
人類
じんるい
も
造
つく
れないものだということが
実証
じっしょう
されました。では、いつ
建
た
てられたのでしょうか?
二
に
十
じゅう
億年
おくねん
前
まえ
で、
五十
ごじゅう
万年
まんねん
も
運
うん
転
てん
されていたというのです。まるで
天文学
てんもんがく
的
てき
な
数字
すうじ
で、ダーウィンの
進化
しんか
論
ろん
では
解釈
かいしゃく
のしようもありません。このような
例
れい
が
非常
ひじょう
に
多
おお
いのです。
現在
げんざい
、
科学
かがく
界
かい
が
発見
はっけん
したことは
今日
こんにち
の
教科書
きょうかしょ
を
十分
じゅうぶん
書
か
き
換
か
えられるのです。
人類
じんるい
は
固有
こゆう
の
古
ふる
い
観念
かんねん
により、ある
種
しゅ
のやり
方
かた
、
考
かんが
え
方
かた
を
形作
かたちづく
ってしまうと、
新
あら
たな
認識
にんしき
を
受
う
け
入
い
れることが
難
むずか
しくなります。
真理
しんり
が
現
あら
われても、それを
受
う
け
入
い
れる
勇気
ゆうき
がなく、
本能
ほんのう
的
てき
に
排斥
はいせき
したりします。
伝統
でんとう
的
てき
観念
かんねん
の
影響
えいきょう
により、これらのものを
系統的
けいとうてき
に
整理
せいり
する
人
ひと
がいないので、
人類
じんるい
の
認識
にんしき
はいつも
発展
はってん
に
追
お
いつきません。このようなことは、まだ
広
ひろ
く
知
し
られていないことではありますが、すでに
発見
はっけん
されています。にもかかわらずそれを
言
い
い
出
だ
すと、
迷信
めいしん
だと
言
い
って
認
みと
めようとしない
人
ひと
がいるものです。
勇気
ゆうき
ある
外国
がいこく
の
多
おお
くの
科学
かがく
者
しゃ
は、すでにこれは
先史
せんし
文化
ぶんか
で、われわれ
人類
じんるい
の
今回
こんかい
の
文明
ぶんめい
より
前
まえ
の
文明
ぶんめい
であることを
公
おおやけ
に
認
みと
めています。すなわち、
今回
こんかい
の
文明
ぶんめい
の
前
まえ
にさらに
文明
ぶんめい
時期
じき
が
存在
そんざい
しており、しかも
一回
いっかい
だけではありませんでした。
出土
しゅつど
したものから
見
み
ても、
同
おな
じ
文明
ぶんめい
時期
じき
のものではないことが
分
わ
かります。
人類
じんるい
の
文明
ぶんめい
は、
度重
たびかさ
なる
壊滅
かいめつ
的
てき
な
打撃
だげき
を
受
う
けては、
少数
しょうすう
の
人
ひと
だけが
生
い
き
残
のこ
り、
原始
げんし
生活
せいかつ
を
過
す
ごしながら、また
次第
しだい
に
新
あたら
しい
人類
じんるい
を
生
う
み
出
だ
し、
新
あら
たな
文明
ぶんめい
に
入
はい
りますが、それからまた
壊滅
かいめつ
に
向
む
かって、
再
ふたた
び
新
あら
たな
人類
じんるい
が
生
う
まれる、というように、
幾度
いくど
も
異
こと
なった
周期
しゅうき
的
てき
な
変化
へんか
をたどってきたものと
考
かんが
えられています。
物質
ぶっしつ
の
運動
うんどう
には
規律
きりつ
があると
物理
ぶつり
学者
がくしゃ
が
言
い
いますが、われわれのこの
宇宙
うちゅう
全体
ぜんたい
の
変化
へんか
にも
規律
きりつ
があります。
われわれの
地球
ちきゅう
は、この
果
は
てしない
宇宙
うちゅう
の
銀河系
ぎんがけい
の
中
なか
で
運行
うんこう
するにあたって、
順風満帆
じゅんぷうまんぱん
というわけにはいかず、どこかの
星
ほし
と
衝突
しょうとつ
したり、あるいは
何
なに
か
他
ほか
のことが
起
お
こったりして、
大
おお
きな
災難
さいなん
に
見舞
みま
われることがあります。われわれの
功能
こうのう
の
視点
してん
から
見
み
れば、そういうふうに
定
さだ
められているにほかならないのです。ある
日
ひ
、わたしが
詳
くわ
しく
調
しら
べてみたところ、
人類
じんるい
は
八十一回
はちじゅういっかい
も
完全
かんぜん
に
壊滅
かいめつ
された
状態
じょうたい
に
陥
おちい
り、ただわずかの
人
ひと
だけが
生
い
き
残
のこ
り、わずかの
先史
せんし
文明
ぶんめい
が
残
のこ
され、
次
つぎ
の
時期
じき
に
入
はい
って、
原始
げんし
生活
せいかつ
を
送
おく
り
始
はじ
めたのです。
人類
じんるい
がだんだん
増
ふ
えていって、
最後
さいご
に
再
ふたた
び
文明
ぶんめい
が
現
あら
われました。
八十一回
はちじゅういっかい
もこのような
周期
しゅうき
的
てき
な
変化
へんか
をたどってきましたが、わたしはそれでもまだ
調
しら
べ
尽
つ
くしたわけではありません。
中国人
ちゅうごくじん
は
天
てん
の
時
とき
、
地
ち
の
利
り
、
人
ひと
の
和
わ
というのを
重
おも
んじますが、
天象
てんしょう
の
変化
へんか
が
違
ちが
い、
天
てん
の
時
とき
も
違
ちが
えば、
常人
じょうじん
社会
しゃかい
は
違
ちが
った
社会
しゃかい
状態
じょうたい
になります。
物理
ぶつり
学
がく
の
言葉
ことば
を
借
か
りれば、
物質
ぶっしつ
の
運動
うんどう
に
規律
きりつ
があるということですが、
宇宙
うちゅう
の
運動
うんどう
も
同
おな
じです。
今
いま
、
先史
せんし
文化
ぶんか
のことをお
話
はな
ししたのは、
気功
きこう
もわれわれ
今日
こんにち
の
人類
じんるい
が
発明
はつめい
したものではなく、
悠久
ゆうきゅう
の
年月
ねんげつ
を
経
へ
て
伝
つた
わってきたもので、
先史
せんし
文化
ぶんか
の
一
ひと
つであることを、
皆
みな
さんに
知
し
ってもらいたかったからです。
経典
きょうてん
の
中
なか
にもそれについて
書
か
いているところがあります。
釈迦牟尼
しゃかむに
は
自分
じぶん
は
数
すう
億
おく
劫
こう
より
前
まえ
にすでに
得道
とくどう
して
成就
じょうじゅ
したと
言
い
っていましたが、
一劫
いっこう
というのは
何
なん
年
ねん
でしょうか?
一劫
いっこう
は
数
すう
億年
おくねん
なので、これだけ
厖大
ぼうだい
な
数字
すうじ
は、とても
不思議
ふしぎ
に
聞
き
こえます。もし
本当
ほんとう
なら、これは
人類
じんるい
の
歴史
れきし
および
地球
ちきゅう
の
変化
へんか
に
符合
ふごう
するのではありませんか? しかも
釈迦牟尼
しゃかむに
は、
彼
かれ
の
前
まえ
にさらに
原始
げんし
六佛
ろくぶつ
がいて、
彼
かれ
にも
師
し
がおり、みな
数
すう
億
おく
劫
こう
以前
いぜん
に
修煉
しゅうれん
して
得道
とくどう
したものだと
言
い
っています。それらのことが
本当
ほんとう
ならば、
今日
こんにち
、
世間
せけん
で
伝
つた
わっている
本当
ほんとう
の
正統
せいとう
功法
こうほう
や
直伝
じきでん
功法
こうほう
には、そのような
修煉
しゅうれん
法
ほう
が
含
ふく
まれているのでしょうか? わたしの
答
こた
えは、もちろん「はい」です。しかし、あまり
多
おお
く
見
み
られません。
現在
げんざい
、インチキな
気功
きこう
や
偽物
にせもの
の
気功
きこう
、
憑
つ
き
物
もの
に
取
と
り
付
つ
かれた
人
ひと
が、でたらめなものをでっち
上
あ
げて
人々
ひとびと
を
騙
だま
しています。そういうものは、
本物
ほんもの
の
気功
きこう
より
何
なん
倍
ばい
も
多
おお
く、
真偽
しんぎ
を
判別
はんべつ
するのが
難
むずか
しくなっています。
本当
ほんとう
の
気功
きこう
はそう
簡単
かんたん
に
見分
みわ
けることができるものではなく、
探
さが
し
当
あ
てることも
大変
たいへん
です。
実
じつ
は、
大昔
おおむかし
から
伝
つた
わってきたものは
気功
きこう
だけではなく、
太極
たいきょく
、
河図
かと
、
洛書
らくしょ
、
周易
しゅうえき
、
八卦
はっけ
などもみな
先史
せんし
から
残
のこ
されたものです。したがって、
今日
こんにち
われわれは
常人
じょうじん
の
立場
たちば
に
立
た
って、それをどんなに
研究
けんきゅう
し
理解
りかい
しようと
思
おも
っても、
究明
きゅうめい
できません。
常人
じょうじん
という
次元
じげん
、
立場
たちば
、
思想
しそう
境地
きょうち
からでは、
本当
ほんとう
のことを
理解
りかい
できるはずがありません。
気功
きこう
は
修煉
しゅうれん
にほかならない
気功
きこう
はこのような
長
なが
い
歴史
れきし
をもっていますが、いったい
何
なん
のためのものでしょうか? わたしが
皆
みな
さんに
言
い
いたいのは、われわれのやっているのは
佛家
ぶっけ
修煉
しゅうれん
大法
ダーファー
ですので、
言
い
うまでもなく
佛
ほとけ
を
修
おさ
めるものです。
道家
どうけ
はもちろん、
道
どう
を
修煉
しゅうれん
し、
得道
とくどう
するものです。
言
い
っておきますが、この「
佛
ほとけ
」は
迷信
めいしん
ではありません。この「
佛
ほとけ
」は、
梵語
ぼんご
であり、
古代
こだい
インドの
言語
げんご
です。
中国
ちゅうごく
に
伝
つた
わって
来
き
た
当時
とうじ
は、
二文字
ふたもじ
、「
佛陀
フォートウォ
」、あるいは「
浮図
フートゥ
」と
音訳
おんやく
されていました。あちこちに
伝
つた
わっているうちに、
中国人
ちゅうごくじん
は
一
いち
字
じ
を
省
はぶ
いて、それを「
佛
フォー
」と
呼
よ
ぶようにしました。それを
中国
ちゅうごく
語
ご
に
訳
やく
せば、どういう
意味
いみ
になるでしょうか? それは
覚者
かくしゃ
で、
修煉
しゅうれん
を
通
つう
じて
悟
さと
りを
開
ひら
いた
人
ひと
のことです。この
中
なか
のどこに
迷信
めいしん
の
意味
いみ
があると
言
い
うのですか?
皆
みな
さん
考
かんが
えてみてください。
修煉
しゅうれん
を
重
かさ
ねると
超能力
ちょうのうりょく
が
生
しょう
じてくるものです。
今
いま
、
世界
せかい
で
六
ろく
種類
しゅるい
の
超能力
ちょうのうりょく
が
認
みと
められていますが、それだけにとどまらず、わたしに
言
い
わせれば、
本当
ほんとう
の
功能
こうのう
は
一
いち
万
まん
種類
しゅるい
以上
いじょう
あります。
人
ひと
はそこに
坐
すわ
ったまま、
手
て
も
足
あし
も
動
うご
かさないで、
他
ほか
の
人
ひと
が
手
て
足
あし
を
使
つか
っても
出来
でき
ないことをやり
遂
と
げてしまいます。
宇宙
うちゅう
の
各
かく
空間
くうかん
の
本当
ほんとう
の
理
り
が
見
み
え、
宇宙
うちゅう
の
真相
しんそう
が
見
み
え、
常人
じょうじん
の
見
み
えないものが
見
み
えます。そういう
人
ひと
は、
修煉
しゅうれん
によって
得道
とくどう
した
人
ひと
ではないでしょうか?
大覚者
だいかくしゃ
ではないでしょうか?
常人
じょうじん
と
同
おな
じだと
言
い
えるでしょうか?
修煉
しゅうれん
によって
悟
さと
りを
開
ひら
いた
人
ひと
ではないでしょうか?
覚者
かくしゃ
と
呼
よ
んでどこが
正
ただ
しくないのでしょうか?
古代
こだい
インドの
言葉
ことば
に
翻訳
ほんやく
すれば、
佛
ほとけ
となります。
実際
じっさい
そういうことになるのです。
気功
きこう
はそのためのものにほかなりません。
気功
きこう
と
言
い
えば、「
病気
びょうき
がなければ
誰
だれ
が
気功
きこう
なんかやるものか?」と
言
い
う
人
ひと
がいます。まるで
気功
きこう
が
病気
びょうき
治療
ちりょう
のためだけのような
言
い
い
方
かた
ですが、その
認識
にんしき
は
実
じつ
に
浅
あさ
はかです。これは
別
べつ
に
皆
みな
さんのせいではありません。
多
おお
くの
気功
きこう
師
し
がみな
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
のことばかりやっており、
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
のことだけを
教
おし
えて、
誰
だれ
も
高
たか
い
次元
じげん
のものを
伝
つた
えていないからです。この
人
ひと
たちの
功法
こうほう
が
良
よ
くないと
言
い
っているわけではありません。
彼
かれ
らの
使命
しめい
はほかでもなく
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
という
次元
じげん
のものを
伝
つた
え、
気功
きこう
を
普及
ふきゅう
させることです。
高
たか
い
次元
じげん
をめざして
修煉
しゅうれん
したいという
考
かんが
えや
願望
がんぼう
を
持
も
っている
人
ひと
が
大勢
おおぜい
いるのに、
正
ただ
しい
修煉
しゅうれん
の
方法
ほうほう
が
分
わ
からないために、
結果
けっか
的
てき
に
大
おお
きな
困難
こんなん
をきたし、いろいろな
問題
もんだい
も
起
お
こっています。もちろん、
本当
ほんとう
に
高
たか
い
次元
じげん
への
功
こう
を
伝
つた
えようとすると、
非常
ひじょう
に
高度
こうど
な
問題
もんだい
にかかわりを
持
も
ってきます。そこで、われわれは
常
つね
に
社会
しゃかい
に
責任
せきにん
をもち、
人
ひと
に
責任
せきにん
をもつことを
念頭
ねんとう
に
置
お
いています。ですからわれわれの
伝
つた
える
功
こう
は
全般
ぜんぱん
的
てき
に
良
よ
い
効果
こうか
を
収
おさ
めているのです。
一部
いちぶ
の
内容
ないよう
は
確
たし
かに
非常
ひじょう
に
高度
こうど
なので、
迷信
めいしん
のように
聞
き
こえますが、しかし、われわれはできるだけ
現代
げんだい
科学
かがく
でそれを
解
と
き
明
あ
かしていきたいと
思
おも
います。
一部
いちぶ
の
内容
ないよう
は、われわれが
言
い
うと、すぐに
迷信
めいしん
だと
言
い
う
人
ひと
がいます。なぜでしょうか?
彼
かれ
らにとっては、
科学
かがく
がまだ
認識
にんしき
していないこと、あるいは
自分
じぶん
自身
じしん
が
接触
せっしょく
していないこと、
存在
そんざい
不可能
ふかのう
だと
思
おも
っていることは、すべて
迷信
めいしん
で、
唯心
ゆいしん
的
てき
だということになります。
彼
かれ
らはそういうふうにしか
物事
ものごと
が
考
かんが
えられません。このような
見方
みかた
は
正
ただ
しいでしょうか?
科学
かがく
がまだ
認識
にんしき
していないもの、あるいはまだ
到達
とうたつ
していないものを、
迷信
めいしん
だ、
唯心
ゆいしん
的
てき
だと
言
い
えるのでしょうか? そんなことを
言
い
っている
人
ひと
こそ
自分
じぶん
が
迷信
めいしん
や
唯心
ゆいしん
的
てき
なことをやっているのではないでしょうか? そのような
考
かんが
え
方
かた
に
従
したが
えば、
科学
かがく
の
発展
はってん
、
進歩
しんぽ
がありうるでしょうか?
人類
じんるい
社会
しゃかい
も
前
まえ
へ
進
すす
めなくなります。
科学
かがく
技術
ぎじゅつ
界
かい
の
発明
はつめい
したものはすべてそれ
以前
いぜん
にはなかったものばかりであり、みな
迷信
めいしん
だと
見
み
なされると、
当然
とうぜん
発展
はってん
などはしなくてよいことになります。
気功
きこう
はなにも
唯心
ゆいしん
的
てき
なものではありませんが、
多
おお
くの
人
ひと
は
気功
きこう
のことが
分
わ
からないので、いつも
唯心
ゆいしん
的
てき
だと
思
おも
い
込
こ
んでいます。
最近
さいきん
、
測定
そくてい
機器
きき
を
使
つか
って
気功
きこう
師
し
の
身体
からだ
から
低音波
ていおんぱ
、
超音波
ちょうおんぱ
、
電磁波
でんじは
、
赤外線
せきがいせん
、
紫外線
しがいせん
、ガンマ
線
せん
、
中性子
ちゅうせいし
、
原子
げんし
、
微量
びりょう
金属
きんぞく
元素
げんそ
などの
成分
せいぶん
を
測定
そくてい
できました。これらはみな
物質
ぶっしつ
として
存在
そんざい
しているものではないでしょうか? それらも
物質
ぶっしつ
です。あらゆるものはみな
物質
ぶっしつ
で
構成
こうせい
されているのではありませんか?
他
た
の
時空
じくう
も
同
おな
じく
物質
ぶっしつ
によって
構成
こうせい
されているのではありませんか? どうして
迷信
めいしん
だと
言
い
えるのですか?
気功
きこう
が
佛
ほとけ
を
修
おさ
めるためのものである
以上
いじょう
、
必然
ひつぜん
的
てき
に
多
おお
くの
奥深
おくぶか
い
問題
もんだい
にかかわりを
持
も
ちます。ですからわれわれはそういったことをすべてお
話
はな
ししなければなりません。
気功
きこう
は
佛
ほとけ
を
修
おさ
めるためのものであるのに、なぜわれわれはそれを
気功
きこう
と
呼
よ
ぶのでしょうか?
本当
ほんとう
はその
名
な
は
気功
きこう
ではありません。
何
なん
と
呼
よ
ぶのでしょうか? それを「
修煉
しゅうれん
」と
呼
よ
びます。ほかでもない
修煉
しゅうれん
そのものです。もちろん、
他
ほか
にも
具体
ぐたい
的
てき
な
呼
よ
び
名
な
がありますが、
全体
ぜんたい
としては
修煉
しゅうれん
と
呼
よ
んでいます。それでは、なぜ
気功
きこう
と
呼
よ
ぶのでしょうか?
皆
みな
さんもご
存
ぞん
じのように、
気功
きこう
は
社会
しゃかい
で
普及
ふきゅう
してからすでに
二
に
十
じゅう
数年
すうねん
経
た
っていますが、「
文化
ぶんか
大
だい
革命
かくめい
」の
半
なか
ば
頃
ごろ
から
始
はじ
まり、その
後期
こうき
にブームとなったのです。
皆
みな
さん
考
かんが
えてみてください。あの
頃
ころ
は
極左
きょくさ
思想
しそう
がかなり
横行
おうこう
していました。
先史
せんし
文化
ぶんか
の
時
とき
に
気功
きこう
が
何
なん
と
呼
よ
ばれていたかを
別
べつ
にしても、
今期
こんき
の
人類
じんるい
文明
ぶんめい
の
発展
はってん
過程
かてい
において、
気功
きこう
は
封建
ほうけん
社会
しゃかい
を
経
へ
たので、その
名前
なまえ
はとかく
封建
ほうけん
的
てき
色合
いろあ
いが
濃
こ
くなりがちです。
宗教
しゅうきょう
と
関係
かんけい
があるものはたいてい
宗教
しゅうきょう
色
しょく
の
濃
こ
い
名前
なまえ
をもっています。
例
たと
えば、「
修道大法
しゅうどうたいほう
」、「
金剛禅
こんごうぜん
」、「
羅漢法
らかんほう
」、「
修佛大法
しゅうぶつたいほう
」、「
九転金丹術
きゅうてんきんたんじゅつ
」などなど、こんな
感
かん
じのものばかりです。もし「
文化
ぶんか
大
だい
革命
かくめい
」の
時期
じき
にそう
呼
よ
んでいたら、つるし
上
あ
げられ
批判
ひはん
されたにきまっているのではありませんか?
気功
きこう
を
普及
ふきゅう
させようとする
気功
きこう
師
し
の
願望
がんぼう
がいくら
良
よ
くても、
大衆
たいしゅう
の
病気
びょうき
を
取
と
り
除
のぞ
き
健康
けんこう
を
増進
ぞうしん
させ、
人々
ひとびと
の
身体
からだ
の
素質
そしつ
を
向上
こうじょう
させることがいくら
良
よ
いことにきまっているとはいえ、
人々
ひとびと
はやはりそういう
名前
なまえ
で
呼
よ
ぶ
勇気
ゆうき
がありませんでした。そこで、
多
おお
くの
気功
きこう
師
し
は
気功
きこう
を
普及
ふきゅう
させるため、『
丹経
たんけい
』、『
道蔵
どうぞう
』の
中
なか
から、
適当
てきとう
に
二
ふた
つの
文字
もじ
を
取
と
り
出
だ
し、
気功
きこう
と
名
な
づけたのです。
今
いま
、
気功
きこう
という
言葉
ことば
の
研究
けんきゅう
に
首
くび
を
突
つ
っ
込
こ
んでいる
人
ひと
もいますが、それはとりたてて
研究
けんきゅう
する
価値
かち
のないもので、
昔
むかし
はまさにそれを
修煉
しゅうれん
と
呼
よ
んでいました。
気功
きこう
はただ
現代
げんだい
人
じん
の
考
かんが
え
方
かた
に
合
あ
わせるために、
新
あたら
しく
作
つく
られた
呼
よ
び
名
な
です。
煉功
れんこう
してもなぜ
功
こう
が
伸
の
びないのか
煉功
れんこう
してもなぜ
功
こう
が
伸
の
びないのでしょうか?
多
おお
くの
人々
ひとびと
は、
自分
じぶん
が
直伝
じきでん
を
得
え
ていないので、もしどこかの
先生
せんせい
が
素晴
すば
らしい
技
わざ
、
高度
こうど
な
手法
しゅほう
を
教
おし
えてくれれば、
自分
じぶん
も
功
こう
が
伸
の
びるのにと
思
おも
っています。
現在
げんざい
、
九
きゅう
十
じゅう
五
ご
パーセントの
人
ひと
がこのような
考
かんが
えを
持
も
っていますが、わたしは
非常
ひじょう
におかしいと
思
おも
います。なぜだと
思
おも
いますか? それは
気功
きこう
が
常人
じょうじん
の
中
なか
の
技能
ぎのう
ではなく、まったく
超常的
ちょうじょうてき
なものなので、
高
たか
い
次元
じげん
の
理
り
でそれを
量
はか
らなければならないからです。
功
こう
が
伸
の
びない
根本
こんぽん
的
てき
な
原因
げんいん
は、「
修
しゅう
・
煉
れん
」の
二
ふた
文字
もじ
の
中
なか
で、
人々
ひとびと
がその
煉
れん
しか
重視
じゅうし
せず、
修
しゅう
をおろそかにしていることにあります。あなたは
外
そと
に
向
む
かって
求
もと
めても、
何
なに
も
得
え
られません。
常人
じょうじん
の
身体
からだ
、
常人
じょうじん
の
手
て
、
常人
じょうじん
の
考
かんが
え
方
かた
だけで、
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
を
功
こう
に
演化
えんか
させようとでも
思
おも
っているのですか?
功
こう
が
伸
の
びるとでも
思
おも
うのですか? そんな
簡単
かんたん
にできるはずはありません! わたしから
見
み
れば、まったく
馬鹿
ばか
げた
話
はなし
です。これでは
外
そと
に
向
む
かって
求
もと
め、
外
そと
に
向
む
かって
探
さが
すのに
等
ひと
しいので、
永遠
えいえん
に
探
さが
し
当
あ
てることができません。
常人
じょうじん
の
中
なか
のいかなる
技能
ぎのう
とも
違
ちが
い、お
金
かね
を
払
はら
って、
何
なに
かコツを
習
なら
えば
身
み
に
付
つ
くようなものではありません。そんなことではなく、それは
常人
じょうじん
の
次元
じげん
を
超
こ
えるものなので、あなたを
超常
ちょうじょう
の
理
り
で
律
りっ
しなければなりません。どのように
律
りっ
するのでしょうか? それはつまりあなたは
内
うち
に
向
む
かって
修
おさ
めなければならないということで、
外
そと
に
向
む
かって
探
さが
してはなりません。
大勢
おおぜい
の
人
ひと
は
今日
きょう
はこれを、
明日
あした
はあれをと
外
そと
に
求
もと
め、しかも
執着心
しゅうちゃくしん
を
抱
いだ
いて
功能
こうのう
を
求
もと
めるなど、さまざまな
目的
もくてき
を
持
も
っています。
気功師
きこうし
になって、
病気
びょうき
治療
ちりょう
で
大金持
おおがねも
ちになりたいという
人
ひと
さえいます!
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
は
自分
じぶん
の
心
こころ
を
修煉
しゅうれん
しなければならず、それは「
心性
しんせい
を
修
おさ
める」ということです。
例
たと
えば、
人間
にんげん
関係
かんけい
でトラブルが
生
しょう
じた
時
とき
、
個人
こじん
の
七情六欲
しちじょうろくよく
や
諸々
もろもろ
の
欲望
よくぼう
を
抑
おさ
えなければなりません。
私利
しり
私欲
しよく
のために
争
あらそ
っていながら、
功
こう
を
伸
の
ばそうとするなど、とんでもありません! それでは
常人
じょうじん
と
変
か
わりないではありませんか? どうして
功
こう
を
伸
の
ばせるはずがありましょうか? ですから、
心性
しんせい
の
修煉
しゅうれん
を
大切
たいせつ
にしてこそはじめて
功
こう
が
伸
の
びるし、
次元
じげん
を
高
たか
めることができるのです。
心性
しんせい
とは
何
なん
でしょうか?
心性
しんせい
は、
徳
とく
(
徳
とく
は
一種
いっしゅ
の
物質
ぶっしつ
)をはじめとして、
忍耐
にんたい
すること、
悟
さと
ること、
捨
す
てること、
常人
じょうじん
の
中
なか
のさまざまな
欲望
よくぼう
や
執着心
しゅうちゃくしん
を
捨
す
てること、さらに
苦
くる
しみに
耐
た
えることなどなど、
多
おお
くのものを
含
ふく
んでいます。
人
ひと
の
心性
しんせい
の
各
かく
方面
ほうめん
を
全面
ぜんめん
的
てき
に
向上
こうじょう
させて、はじめて
本当
ほんとう
に
上昇
じょうしょう
することができます。これが
功力
こうりき
を
伸
の
ばす
肝心
かんじん
な
要素
ようそ
の
一
ひと
つです。
心性
しんせい
のことを
言
い
うと、それはイデオロギーに
関
かん
するものであり、
人間
にんげん
の
思想
しそう
問題
もんだい
なので、われわれの
煉功
れんこう
とはかかわりのない
問題
もんだい
だと
思
おも
う
人
ひと
がいます。どうしてかかわりのない
問題
もんだい
だと
言
い
えますか?
思想
しそう
の
世界
せかい
では、
従来
じゅうらい
から
物質
ぶっしつ
が
第一
だいいち
か、それとも
精神
せいしん
が
第一
だいいち
かという
問題
もんだい
があり、
常
つね
に
議論
ぎろん
され
論争
ろんそう
されていますが、
実
じつ
は
物質
ぶっしつ
と
精神
せいしん
は
同一
どういつ
のものです。
人体
じんたい
科学
かがく
の
研究
けんきゅう
において、
現在
げんざい
の
科学
かがく
者
しゃ
は
人間
にんげん
の
脳
のう
から
発
はっ
せられた
思惟
しい
が
物質
ぶっしつ
であると
認識
にんしき
するに
至
いた
っています。
思惟
しい
は
精神
せいしん
的
てき
なものではなかったのでしょうか? それが
物質
ぶっしつ
的
てき
存在
そんざい
であるならば、
精神
せいしん
と
物質
ぶっしつ
は
同一
どういつ
のものではありませんか?
宇宙
うちゅう
についてお
話
はな
ししたように、
宇宙
うちゅう
は
物質
ぶっしつ
的
てき
な
存在
そんざい
であるとともに
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
という
特性
とくせい
も
持
も
っています。
宇宙
うちゅう
におけるそういった
特性
とくせい
の
存在
そんざい
は
常人
じょうじん
には
感知
かんち
できません。
常人
じょうじん
はすべて
同
おな
じ
次元
じげん
にいるからです。
常人
じょうじん
の
次元
じげん
を
超
こ
えれば、
感得
かんとく
することができます。どうすれば
感得
かんとく
することができるのでしょうか?
宇宙
うちゅう
におけるいかなる
物質
ぶっしつ
も、
宇宙
うちゅう
に
立
た
ち
込
こ
めるあらゆる
物質
ぶっしつ
も
含
ふく
めて、みな
霊的
れいてき
なものであり、みな
思想
しそう
を
持
も
っており、みな
宇宙
うちゅう
の
法
ほう
の
異
こと
なる
次元
じげん
における
存在
そんざい
の
形態
けいたい
です。それがあなたの
昇華
しょうか
を
許
ゆる
さないかぎり、いくら
自分
じぶん
の
次元
じげん
を
向上
こうじょう
させようと
思
おも
っても、
向上
こうじょう
できません。それが
許
ゆる
さないのです。なぜあなたの
向上
こうじょう
を
許
ゆる
さないのでしょうか? あなたの
心性
しんせい
が
上
あ
がっていないからです。どの
次元
じげん
にも
異
こと
なる
基準
きじゅん
があり、
上
うえ
の
次元
じげん
へ
上
あ
がろうとすれば、
持
も
っていた
良
よ
くない
考
かんが
えや
汚
きたな
いものを
捨
す
てて、その
次元
じげん
の
基準
きじゅん
に
同化
どうか
しなければなりません。そうしてはじめて
上
あ
がって
来
こ
られるのです。
心性
しんせい
が
高
たか
まってくると、
身体
からだ
にも
大
おお
きな
変化
へんか
が
起
お
こります。
心性
しんせい
が
高
たか
まってくると、
身体
からだ
を
構成
こうせい
している
物質
ぶっしつ
も
間違
まちが
いなく
変化
へんか
が
起
お
こります。どんな
変化
へんか
でしょうか? あなたは、
今
いま
まで
追求
ついきゅう
し
執着
しゅうちゃく
していた
良
よ
くないものを、
捨
す
てることになります。
例
たと
えて
言
い
えば、
瓶
びん
の
中
なか
に
汚
きたな
い
物
もの
を
一杯
いっぱい
入
い
れて、
蓋
ふた
をしっかり
閉
し
めてから、
水
みず
に
投
な
げ
入
い
れると、
底
そこ
まで
沈
しず
んでしまいます。
中
なか
の
汚
きたな
い
物
もの
を
出
だ
せば
出
だ
した
分
ぶん
だけ
瓶
びん
が
浮
う
き
上
あ
がってきます。
全部
ぜんぶ
出
だ
せば、
完全
かんぜん
に
浮
う
き
上
あ
がってきます。
修煉
しゅうれん
の
過程
かてい
において、ほかでもなく
人間
にんげん
の
身体
からだ
にもっているさまざまな
良
よ
くないものを
取
と
り
除
のぞ
かなければなりません。そうしてはじめてあなたは
昇華
しょうか
して
上
あ
がって
来
こ
られるのです。この
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
はそういう
働
はたら
きをするのです。あなたが
心性
しんせい
を
修煉
しゅうれん
せず、
道徳
どうとく
水準
すいじゅん
を
高
たか
めようとしないで、
悪
わる
い
思想
しそう
や
悪
わる
い
物質
ぶっしつ
を
捨
す
て
去
さ
らなければ、
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
はあなたを
昇華
しょうか
させてはくれません。ならば
精神
せいしん
と
物質
ぶっしつ
が
同一
どういつ
のものではないとどうして
言
い
えるのでしょうか?
冗談
じょうだん
ですが、
七情六欲
しちじょうろくよく
をすべて
抱
かか
えた
常人
じょうじん
をそのまま
上
うえ
へ
昇
のぼ
らせ、
成佛
じょうぶつ
させることは、
皆
みな
さん
考
かんが
えてください、
可能
かのう
でしょうか? その
人
ひと
が
大菩薩
だいぼさつ
を
見
み
て、なんと
綺麗
きれい
だと
邪念
じゃねん
が
生
しょう
じるかも
知
し
れませんし、
嫉妬心
しっとしん
が
取
と
り
除
のぞ
かれていないために、
佛
ほとけ
とトラブルを
起
お
こすかも
知
し
れませんが、このようなことが
許
ゆる
されるものでしょうか? ではどうすればよいのでしょうか? あなたは
常人
じょうじん
の
中
なか
で、さまざまな
良
よ
くない
思想
しそう
をすべて
取
と
り
除
のぞ
かなければなりません。そうしてはじめて
上
あ
がって
来
こ
られるのです。
要
よう
するに、あなたは
心性
しんせい
の
修煉
しゅうれん
を
重視
じゅうし
し、
宇宙
うちゅう
の
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
の
特性
とくせい
に
照
て
らして
修煉
しゅうれん
し、
常人
じょうじん
の
持
も
つ
欲望
よくぼう
や、
良
よ
くない
心
こころ
、
悪
わる
いことをする
考
かんが
えなどを
取
と
り
除
のぞ
かなければなりません。
思想
しそう
の
境地
きょうち
がわずかでも
高
たか
くなったらその
分
ぶん
だけ、
自分
じぶん
自身
じしん
の
悪
わる
いものも
取
と
り
除
のぞ
かれたことになります。
同時
どうじ
に、あなたは
少
すこ
しでも
苦
くる
しみに
耐
た
え、
難儀
なんぎ
を
忍
しの
ぶことによって、
自分
じぶん
自身
じしん
の
業力
ごうりき
を
少
すこ
しでも
滅
めっ
しなければなりません。こうすればあなたは
少
すこ
し
昇華
しょうか
して
上
あ
がって
来
こ
られるのです。
言
い
い
換
か
えれば、あなたに
対
たい
する
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
の
制約力
せいやくりょく
が
弱
よわ
くなるということです。「
修
しゅう
は
己
おのれ
にありて、
功
こう
は
師
し
にあり」なのです。
師
し
があなたに
功
こう
を
伸
の
ばすための
功
こう
を
与
あた
えますと、その
功
こう
が
働
はたら
いて、
体外
たいがい
であなたの
徳
とく
という
物質
ぶっしつ
を
功
こう
に
演化
えんか
させてくれます。あなたが
絶
た
えず
向上
こうじょう
して、
絶
た
えず
上
うえ
へ
修煉
しゅうれん
していけば、あなたの
功柱
こうちゅう
もどんどん
上
うえ
へ
突破
とっぱ
していきます。
一人
ひとり
の
修煉者
しゅうれんしゃ
として、ほかでもない
常人
じょうじん
の
環境
かんきょう
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
し、
自分
じぶん
を
錬磨
れんま
し、
徐々
じょじょ
に
執着心
しゅうちゃくしん
とさまざまな
欲望
よくぼう
を
無
な
くしていかなければなりません。
往々
おうおう
にして
人類
じんるい
が
良
よ
いと
思
おも
うものは、
高
たか
い
次元
じげん
において
見
み
れば
悪
わる
いものになります。したがって
人々
ひとびと
が
良
よ
いと
思
おも
うもの、
例
たと
えば、
常人
じょうじん
の
中
なか
で
個人
こじん
の
利益
りえき
を
多
おお
く
得
え
れば
得
え
るほど、
楽
らく
に
暮
く
らせば
暮
く
らすほど、
大覚者
だいかくしゃ
たちから
見
み
れば、この
人
ひと
は
悪
わる
い
人
ひと
になります。どこが
悪
わる
いのでしょうか? たくさん
得
え
れば
得
え
るほど、その
分
ぶん
だけ
人
ひと
を
傷
きず
つけることになり、
得
え
るべきではないものまで
得
え
てしまいます。
名利
みょうり
を
追
お
い
求
もと
めることによって、
徳
とく
を
失
うしな
ってしまいかねないのです。
功
こう
を
伸
の
ばそうと
思
おも
っても、
心性
しんせい
の
修煉
しゅうれん
を
重
おも
んじなければ、もとより
功
こう
は
伸
の
びるはずがありません。
われわれの
修煉界
しゅうれんかい
では、
人間
にんげん
の
元神
げんしん
は
不滅
ふめつ
であると
言
い
います。
今
いま
まで
人間
にんげん
の
元神
げんしん
などと
言
い
うと、
迷信
めいしん
だと
言
い
われかねませんでした。
皆
みな
さんもご
存
ぞん
じのように、
物理
ぶつり
学
がく
の
研究
けんきゅう
によれば、われわれ
人間
にんげん
の
身体
からだ
には
分子
ぶんし
、
陽子
ようし
、
電子
でんし
があり、さらに
追究
ついきゅう
してクォーク、
中性微子
ちゅうせいびし
まで
至
いた
っています。そこまで
行
い
ったら
顕微鏡
けんびきょう
でも
見
み
えなくなります。しかしそれは
生命
せいめい
の
本源
ほんげん
、
物質
ぶっしつ
の
本源
ほんげん
からはまだまだかけ
離
はな
れています。
皆
みな
さんがご
存
ぞん
じのように、
原子
げんし
核分裂
かくぶんれつ
においては、
核
かく
融合
ゆうごう
や
核分裂
かくぶんれつ
を
起
お
こすためにかなり
強
つよ
いエネルギーの
衝突
しょうとつ
とかなり
大
おお
きな
熱量
ねつりょう
を
必要
ひつよう
とします。
人間
にんげん
が
死
し
ぬ
時
とき
、
身体
からだ
の
中
なか
の
原子
げんし
核
かく
がそんなに
簡単
かんたん
に
死
し
んでしまうのでしょうか? ですからわれわれの
見
み
るところでは、
死
し
ぬということは、ただこの
空間
くうかん
での
最大
さいだい
の
分子
ぶんし
成分
せいぶん
が
脱落
だつらく
するだけで、
他
た
の
空間
くうかん
に
存在
そんざい
する
身体
からだ
は
別
べつ
に
壊滅
かいめつ
してはいません。よく
考
かんが
えてみてください。
顕微鏡
けんびきょう
で
見
み
た
人体
じんたい
はどのような
状態
じょうたい
でしょうか?
身体
からだ
全体
ぜんたい
が
動
うご
いているもので、そこに
坐
すわ
って
動
うご
かないでいても、
身体
からだ
全体
ぜんたい
が
動
うご
いており、
分子
ぶんし
細胞
さいぼう
が
動
うご
いており、
身体
からだ
全体
ぜんたい
は
砂
すな
からできているようにばらばらで、
固
かた
まっていないように
見
み
えます。
顕微鏡
けんびきょう
で
人体
じんたい
を
見
み
るとこのようになり、
目
め
で
見
み
るのとはまったく
違
ちが
ってきます。それは
人間
にんげん
の
目
め
がこういうものが
見
み
えないように、
虚像
きょぞう
を
造
つく
るからです。
天目
てんもく
が
開
ひら
くと、ものを
拡大
かくだい
して
見
み
ることができます。それは
本来
ほんらい
人間
にんげん
の
本能
ほんのう
ですが、
今
いま
は
超
ちょう
能力
のうりょく
と
呼
よ
ばれています。
超
ちょう
能力
のうりょく
を
出
だ
したいと
思
おも
えば、
返本
へんぽん
帰
き
真
しん
して、
元
もと
へ
戻
もど
るように
修煉
しゅうれん
しなければなりません。
徳
とく
についてお
話
はな
ししましょう。
徳
とく
とそれにまつわる
他
ほか
のものとの
具体
ぐたい
的
てき
な
関連
かんれん
は
何
なん
でしょうか? それを
分析
ぶんせき
しながら
説明
せつめい
しましょう。われわれ
人間
にんげん
は
数多
かずおお
くの
空間
くうかん
に
自分
じぶん
の
身体
からだ
をもっています。
今
いま
われわれが
人体
じんたい
の
構成
こうせい
を
見
み
ると、
最大
さいだい
の
成分
せいぶん
は
細胞
さいぼう
で、それが
人間
にんげん
の
肉体
にくたい
です。もしあなたが
細胞
さいぼう
と
分子
ぶんし
の
間
あいだ
に、あるいは
分子
ぶんし
と
分子
ぶんし
の
間
あいだ
に
入
はい
ることができれば、
別
べつ
の
空間
くうかん
に
入
はい
ったことを
体験
たいけん
できます。その
身体
からだ
はどのような
存在
そんざい
形式
けいしき
をしているのでしょうか? もちろん、
今
いま
のこの
空間
くうかん
の
概念
がいねん
で
理解
りかい
してはいけません。あなたの
身体
からだ
はその
空間
くうかん
の
存在
そんざい
形式
けいしき
の
要求
ようきゅう
に
同化
どうか
しなければなりません。
他
た
の
空間
くうかん
にある
身体
からだ
は
本来
ほんらい
、
大
おお
きくも
小
ちい
さくもなれるので、その
時
とき
あなたは、これもとてつもなく
広
ひろ
い
世界
せかい
であることに
気
き
づくに
違
ちが
いありません。これは
他
た
の
空間
くうかん
存在
そんざい
の
簡単
かんたん
な
形式
けいしき
を
指
さ
しており、
同
おな
じ
時
とき
に
同
おな
じ
所
ところ
に
他
た
の
空間
くうかん
が
存在
そんざい
しているということです。
人間
にんげん
は
他
た
の
多
おお
くの
空間
くうかん
に、みな
特定
とくてい
の
身体
からだ
をもっていますが、ある
特定
とくてい
の
空間
くうかん
において、
人体
じんたい
のまわりに
一
ひと
つの
場
ば
が
存在
そんざい
しています。どんな
場
ば
なのでしょうか? それはほかでもないわれわれが
言
い
う
徳
とく
です。
徳
とく
は
一種
いっしゅ
の
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
で、
今
いま
まで
思
おも
われていたように
人間
にんげん
の
精神
せいしん
的
てき
なものとか、イデオロギー
的
てき
なものではなく、それはまったく
物質
ぶっしつ
的
てき
な
存在
そんざい
です。
昔
むかし
、お
年
とし
寄
よ
りが
徳
とく
を
積
つ
むとか、
徳
とく
を
失
うしな
うとか
良
よ
く
言
い
っていましたが、まったくその
通
とお
りです。この
徳
とく
が
身体
からだ
のまわりに
一
ひと
つの
場
ば
を
作
つく
っています。
昔
むかし
、
道家
どうけ
では、
弟子
でし
が
師
し
を
探
さが
すのではなく、
師
し
が
弟子
でし
を
探
さが
す、と
言
い
っていました。どういう
意味
いみ
でしょうか?
師
し
は
弟子
でし
が
身体
からだ
に
持
も
っている
徳
とく
の
成分
せいぶん
が
大
おお
きいかどうかを
見
み
るということです。
大
おお
きければ、
修煉
しゅうれん
しやすいのですが、
大
おお
きくなければ、
修煉
しゅうれん
しにくく、なかなか
高
たか
い
功
こう
は
得
え
られないのです。
同時
どうじ
に
存在
そんざい
するものに、
一種
いっしゅ
の
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
もあり、われわれはここで
業力
ごうりき
と
呼
よ
びますが、
佛教
ぶっきょう
ではそれを
悪業
あくごう
と
呼
よ
んでいます。
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
と
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
が
同時
どうじ
に
存在
そんざい
しています。
二
ふた
つの
物質
ぶっしつ
の
間
あいだ
はどういう
関係
かんけい
でしょうか?
徳
とく
という
物質
ぶっしつ
は、われわれが
苦
くる
しみに
耐
た
えたり、
打撃
だげき
を
受
う
けたり、
良
よ
いことをしたりして
得
え
るものです。これに
対
たい
して、
業力
ごうりき
という
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
は
悪事
あくじ
を
働
はたら
いたり、
良
よ
くないことをしたり、
人
ひと
をいじめたりして
得
え
るものです。
今
いま
の
人
ひと
は
利益
りえき
に
目
め
がくらむばかりでなく、
一部
いちぶ
の
人
ひと
は
悪事
あくじ
のかぎりを
尽
つ
くし、お
金
かね
のためならどんな
悪事
あくじ
でもやりかねません。
人
ひと
を
殺
ころ
すとか、
金
かね
で
命
いのち
を
買
か
うとか、
同性愛
どうせいあい
、
麻薬
まやく
など
何
なん
でもやります。
人
ひと
は
良
よ
くないことをする
時
とき
、
徳
とく
を
失
うしな
っていきます。どういうふうに
失
うしな
うのでしょうか? ある
人
ひと
が
人
ひと
を
罵
ののし
ったとします。うっぷんを
晴
は
らしたので、
得
とく
をしたと
思
おも
うかも
知
し
れません。ところがこの
宇宙
うちゅう
には、「
失
うしな
わないものは
得
え
られず、
得
え
るためには
失
うしな
わねばならぬ」という
理
り
がありますから、
失
うしな
いたくなくても
強制
きょうせい
的
てき
に
失
うしな
わせられるのです。
誰
だれ
がこの
役割
やくわり
を
果
は
たすのでしょうか? ほかでもない
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
がこの
役割
やくわり
を
果
は
たします。ですから
得
え
ることばかり
考
かんが
えてはいけません。どういうことでしょうか? つまり
人
ひと
を
罵
ののし
ったり、いじめたりすると、その
人
ひと
は
自分
じぶん
の
徳
とく
を
相手
あいて
に
投
な
げ
与
あた
えることになります。
一方
いっぽう
、
相手
あいて
はいじめられ、
苦
くる
しめられ、
失
うしな
った
側
がわ
なので、
償
つぐな
いとしてそれをもらえるのです。ここで
相手
あいて
を
罵
ののし
ったとすると、
罵
ののし
った
途端
とたん
に、
自分
じぶん
の
空間場
くうかんば
の
範囲
はんい
から
一塊
ひとかたまり
の
徳
とく
が
飛
と
んでいって、
相手
あいて
の
身体
からだ
に
落
お
ちます。ひどく
罵
ののし
るほど、
相手
あいて
に
与
あた
える
徳
とく
も
多
おお
くなります。
人
ひと
を
殴
なぐ
るとか、いじめるとかも
同
おな
じです。
殴
なぐ
ったり、
蹴
け
ったりすると、その
分
ぶん
だけ
徳
とく
が
相手
あいて
のところへ
飛
と
んでいきます。
常人
じょうじん
にはこの
理
り
が
分
わ
からないので、いじめられたら、
我慢
がまん
できません。
殴
なぐ
られたら
殴
なぐ
り
返
かえ
さなければ、とつい
手
て
を
出
だ
してしまいます。すると、この
徳
とく
を
相手
あいて
に
押
お
し
戻
もど
してしまいますので、
両者
りょうしゃ
とも
損
そん
も
得
とく
もないことになります。もしかするとその
人
ひと
は、
一発
いっぱつ
殴
なぐ
られたら
二発
にはつ
殴
なぐ
り
返
かえ
さないと
気
き
がすまないかも
知
し
れません。そこで
彼
かれ
がもう
一発
いっぱつ
殴
なぐ
り
返
かえ
すと、
今度
こんど
は
自分
じぶん
の
方
ほう
から
徳
とく
が
飛
と
んで
行
い
き、
相手
あいて
のものになります。
なぜ
徳
とく
をこんなに
重
おも
く
見
み
ているのでしょうか? この
徳
とく
の
転化
てんか
は
他
ほか
とどのような
関係
かんけい
にあるのでしょうか?
宗教
しゅうきょう
では、この
徳
とく
をもっていれば、
今生
こんじょう
で
得
え
なくても
来世
らいせ
で
得
え
ると
言
い
います。
何
なに
を
得
え
るのでしょうか?
徳
とく
が
大
おお
きければ、
高官
こうかん
になる、
大金持
おおがねも
ちになるなど、
欲
ほ
しいものがあればなんでも
手
て
に
入
はい
りますが、それはほかでもないこの
徳
とく
で
交換
こうかん
しているのです。
宗教
しゅうきょう
ではさらに、この
人
ひと
に
徳
とく
がなければ、
形神全滅
けいしんぜんめつ
とも
言
い
います。この
人
ひと
は
元神
げんしん
まで
壊滅
かいめつ
してしまい、
死後
しご
何
なに
もかもなくなり、
何
なに
も
残
のこ
らないということです。それに
対
たい
して、われわれ
修煉界
しゅうれんかい
では、
徳
とく
が
直接
ちょくせつ
功
こう
に
演化
えんか
できると
言
い
っています。
徳
とく
はどうやって
功
こう
に
演化
えんか
するのかについてお
話
はな
しします。
修煉界
しゅうれんかい
には、「
修
しゅう
は
己
おのれ
にありて、
功
こう
は
師
し
にあり」という
言葉
ことば
があります。
一方
いっぽう
、「
鼎
かなえ
を
立
た
て
竈
かまど
を
設
もう
け、
薬
くすり
を
採集
さいしゅう
し、
丹
たん
を
煉
ね
る」ことや、
意念
いねん
活動
かつどう
のことを
何
なに
よりも
大事
だいじ
に
思
おも
う
人
ひと
がいます。
言
い
っておきますが、ちっとも
大事
だいじ
ではありません。そればかりに
気
き
を
取
と
られると、
執着心
しゅうちゃくしん
になります。
大事
だいじ
に
思
おも
いすぎると、
執着
しゅうちゃく
して
追
お
い
求
もと
めたくなるのではありませんか? 「
修
しゅう
は
己
おのれ
にありて、
功
こう
は
師
し
にあり」なのですから、あなたにそういう
願望
がんぼう
があれば
充分
じゅうぶん
です。
本当
ほんとう
にこのことをやってくれるのは
師
し
で、あなたにはとてもそういう
力
ちから
はありません。あなたのような
常人
じょうじん
の
身体
からだ
で、このような
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
で
構成
こうせい
された
高
たか
い
次元
じげん
の
生命体
せいめいたい
を
演化
えんか
できるとでも
思
おも
いますか? まったく
不可能
ふかのう
なことで、
言
い
うだけで
笑
わら
われてしまいます。
他
た
の
空間
くうかん
における
人体
じんたい
の
演化
えんか
の
過程
かてい
はすこぶる
玄妙
げんみょう
で、すこぶる
複雑
ふくざつ
なものなので、それをやり
遂
と
げることは、あなたにはとても
不可能
ふかのう
です。
師
し
は
何
なに
を
与
あた
えてくれるでしょうか?
功
こう
を
伸
の
ばすための
功
こう
を
与
あた
えてくれます。なぜなら
徳
とく
は
身体
からだ
の
外
そと
にあり、
本当
ほんとう
の
功
こう
は
徳
とく
によって
生成
せいせい
されるものだからです。
一人
ひとり
の
人間
にんげん
の
次元
じげん
の
高
たか
さも
功力
こうりき
の
大
おお
きさもみな
徳
とく
が
生成
せいせい
したものです。それはあなたの
徳
とく
を
功
こう
に
演化
えんか
し、
螺旋状
らせんじょう
に
上
うえ
へ
伸
の
ばしてくれます。
本当
ほんとう
に
人
ひと
の
次元
じげん
の
高
たか
さを
決定
けってい
する
功
こう
は
身体
からだ
の
外
そと
で
伸
の
びるもので、
最終
さいしゅう
的
てき
に
螺旋状
らせんじょう
に
頭
あたま
のてっぺんまで
伸
の
びた
後
あと
、
一
ひと
つの
功柱
こうちゅう
を
形作
かたちづく
ります。その
人
ひと
の
功
こう
の
高
たか
さは、その
功柱
こうちゅう
の
高
たか
さを
見
み
ればすぐに
分
わ
かり、それが
彼
かれ
のいる
次元
じげん
であり、
佛教
ぶっきょう
で
言
い
う
果位
かい
です。
坐禅
ざぜん
する
時
とき
、
元
げん
神
しん
が
身体
からだ
から
離
はな
れることができる
人
ひと
がいます。
一気
いっき
にかなり
高
たか
いところまで
上
のぼ
れますが、それ
以上
いじょう
は
上
のぼ
れなくなり、
上
のぼ
る
勇気
ゆうき
もないのです。その
人
ひと
は
自分
じぶん
の
功柱
こうちゅう
に
乗
の
って
上
のぼ
るので、そこまでしか
上
のぼ
れません。
功柱
こうちゅう
の
高
たか
さがそこまでしかないので、それより
高
たか
くは
上
のぼ
れなくなります。これが
佛教
ぶっきょう
で
言
い
う
果位
かい
のことです。
心性
しんせい
の
高
たか
さを
測
はか
るのに、もう
一
ひと
つ
尺度
しゃくど
というのがあります。
尺度
しゃくど
は
功柱
こうちゅう
とは
同
おな
じ
空間
くうかん
に
存在
そんざい
してはいませんが、
同時
どうじ
に
存在
そんざい
しています。
心性
しんせい
が
修煉
しゅうれん
して
上
あ
がって
来
き
たら、
例
たと
えば、
常人
じょうじん
の
中
なか
で
人
ひと
に
罵
ののし
られても、
黙
だま
って
平然
へいぜん
としています。
殴
なぐ
られても
何
なに
も
言
い
わず、
一笑
いっしょう
に
付
ふ
するだけで
済
す
ませてしまいます。そうなれば、その
人
ひと
の
心性
しんせい
はもうかなり
高
たか
くなったと
言
い
えます。それでは
煉功者
れんこうしゃ
としてあなたの
得
え
るべきものは
何
なん
でしょうか? あなたは
功
こう
を
得
え
るのではありませんか?
心性
しんせい
が
向上
こうじょう
すれば、あなたの
功
こう
も
伸
の
びてきます。
心性
しんせい
の
高
たか
さは
功
こう
の
高
たか
さ、これは
絶対
ぜったい
の
真理
しんり
です。これまで、
公園
こうえん
や、
自宅
じたく
で
練功
れんこう
するにあたって、けっこう
真剣
しんけん
に
練功
れんこう
し、かなり
敬虔
けいけん
で、
真面目
まじめ
に
励
はげ
んでいる
人
ひと
がいます。しかし、その
場
ば
を
離
はな
れると、
元
もと
の
木阿弥
もくあみ
で、
常人
じょうじん
の
中
なか
での
名誉
めいよ
や
利益
りえき
のために
人
ひと
と
争
あらそ
ったりします。そういう
人
ひと
の
功
こう
は
伸
の
びるでしょうか?
絶対
ぜったい
に
伸
の
びるはずがありませんし、またその
人
ひと
の
病気
びょうき
も
同
おな
じ
原因
げんいん
で
治
なお
りません。
長年
ながねん
練功
れんこう
をしていても、
病気
びょうき
が
治
なお
らない
人
ひと
がいるのはなぜでしょうか?
気功
きこう
は
修煉
しゅうれん
であり、
超常
ちょうじょう
のものなので、
常人
じょうじん
の
中
なか
の
体操
たいそう
とは
違
ちが
い、
心性
しんせい
を
重
おも
んじないかぎり
病気
びょうき
も
治
なお
らなければ、
功
こう
も
伸
の
びないのです。
「
鼎
かなえ
を
立
た
て
竈
かまど
を
設
もう
け、
薬
くすり
を
採集
さいしゅう
し、
丹
たん
を
煉
ね
る」の
丹
たん
こそ
功
こう
だと
思
おも
う
人
ひと
がいますが、
違
ちが
います。この
丹
たん
はただ
一部
いちぶ
のエネルギーを
蓄
たくわ
えているだけで、エネルギーのすべてではありません。
丹
たん
とは
何
なん
でしょうか?
皆
みな
さんもご
存
ぞん
じのように、われわれの
法門
ほうもん
にはほかにも、
命
めい
を
修
おさ
める
部分
ぶぶん
がありますので、
身体
からだ
に
功能
こうのう
も
現
あら
われてきますし、さらに
数多
かずおお
くの
術
じゅつ
類
るい
もあります。これらのもののほとんどは、あなたには
使
つか
えないように
鍵
かぎ
がかかっています。
功能
こうのう
はたくさんあり、
一
いち
万
まん
種
しゅ
以上
いじょう
にも
上
のぼ
りますが、できあがる
度
たび
に
一
ひと
つずつ
鍵
かぎ
がかけられます。なぜ
出
だ
させないのでしょうか?
常人
じょうじん
社会
しゃかい
で
勝手
かって
にそれを
何
なに
かに
使
つか
わないようにさせるためです。
常人
じょうじん
社会
しゃかい
を
勝手
かって
に
撹乱
かくらん
してはいけません。
自分
じぶん
の
力
ちから
を
勝手
かって
に
常人
じょうじん
社会
しゃかい
で
見
み
せびらかしてもいけません。
常人
じょうじん
社会
しゃかい
の
状態
じょうたい
を
破壊
はかい
する
恐
おそ
れがあるからです。
多
おお
くの
人々
ひとびと
は
悟
さと
りながら
修煉
しゅうれん
しています。
何
なに
もかも
顕現
けんげん
させると、
本物
ほんもの
だと
分
わ
かってしまうので、みな
修煉
しゅうれん
にやってきて、
極悪
ごくあく
非道
ひどう
の
者
もの
まで
修煉
しゅうれん
しようとすることになりかねませんが、それはいけないことです。そういうふうに
見
み
せびらかすのは
許
ゆる
されないのです。それにあなたも
悪
わる
いことをしかねません。なぜならあなたはその
因縁
いんねん
関係
かんけい
や
本質
ほんしつ
を
見抜
みぬ
くことができないからです。あなたが
良
よ
いことをしているつもりでも、
実
じつ
は
悪
わる
いことかも
知
し
れません。そこであなたに
使
つか
わせないのです。
悪
わる
いことをすると、
次元
じげん
が
下
さ
がり、
修煉
しゅうれん
が
無駄
むだ
になってしまうので、
多
おお
くの
功能
こうのう
は
鍵
かぎ
をかけられています。どうすればよいでしょうか?
功
こう
を
開
ひら
き
悟
さと
りを
開
ひら
く
時
とき
がくれば、その
丹
たん
が
爆弾
ばくだん
となり、あらゆる
功能
こうのう
や、
身体
からだ
のすべての
鍵
かぎ
および
百竅
ひゃっきょう
をいっぺんに
爆破
ばくは
し、パーンという
震動
しんどう
ですべてを
開
ひら
いてしまいます。
丹
たん
の
役割
やくわり
はこれです。
和尚
おしょう
が
亡
な
くなって
火葬
かそう
する
時
とき
に
舎利
しゃり
が
出
で
てくることがあります。それを
骨
ほね
とか、
歯
は
とか
言
い
う
人
ひと
もいますが、
常人
じょうじん
にはなぜないのでしょうか? それは
丹
たん
が
爆発
ばくはつ
して、エネルギーが
放出
ほうしゅつ
され、その
中
なか
に
大量
たいりょう
の
他
た
の
空間
くうかん
の
物質
ぶっしつ
が
含
ふく
まれているからです。それも
物質
ぶっしつ
的
てき
存在
そんざい
ではありますが、あまり
役
やく
に
立
た
つことはありません。
今
いま
の
人
ひと
はそれをなかなか
貴重
きちょう
なものと
見
み
ていますが、ただエネルギーがあり、
光沢
こうたく
があり、
非常
ひじょう
に
硬
かた
いだけのものです。
功
こう
が
伸
の
びないことにはもう
一
ひと
つの
原因
げんいん
があります。つまり
高
こう
次元
じげん
の
法
ほう
を
知
し
らないため、
修煉
しゅうれん
しても
向上
こうじょう
することができないのです。どういう
意味
いみ
なのでしょうか?
先程
さきほど
もお
話
はな
ししたように、さまざまな
功法
こうほう
を
習
なら
っている
人
ひと
がいます。
忠告
ちゅうこく
しておきますが、いくら
数多
かずおお
く
学
まな
んでも
役
やく
に
立
た
たず、
相変
あいか
わらず
小学生
しょうがくせい
のままで、
修煉
しゅうれん
における
小学生
しょうがくせい
に
過
す
ぎないのですから、
低
ひく
い
次元
じげん
の
理
り
しか
分
わ
からないのです。
高
たか
い
次元
じげん
へ
修煉
しゅうれん
しようとしても、
低
ひく
い
次元
じげん
の
理
り
には
指導
しどう
作用
さよう
はありません。
大学
だいがく
へ
行
い
っても
小学校
しょうがっこう
の
教科書
きょうかしょ
を
勉強
べんきょう
しているのなら、
相変
あいか
わらず
小学生
しょうがくせい
で、いくら
勉強
べんきょう
しても
役
やく
に
立
た
たず、かえってますます
駄目
だめ
になります。
次元
じげん
が
違
ちが
えば
法
ほう
も
違
ちが
います。
法
ほう
は
異
こと
なった
次元
じげん
では
異
こと
なった
指導
しどう
作用
さよう
を
果
はた
していますので、
低
ひく
い
次元
じげん
の
理
り
でもって
高
たか
い
次元
じげん
への
修煉
しゅうれん
を
指導
しどう
することはできません。われわれがこれから
述
の
べようとするのは、みな
高
こう
次元
じげん
で
修煉
しゅうれん
するための
理
り
であり、わたしは
異
こと
なる
次元
じげん
のものを
結
むす
び
合
あ
わせて
話
はな
しているので、
皆
みな
さんの
今後
こんご
の
修煉
しゅうれん
にとってずっと
指導
しどう
作用
さよう
があります。わたしは
数
すう
冊
さつ
の
本
ほん
を
出
だ
しており、ほかに
録音
ろくおん
テープやビデオテープもあります。
一回
いっかい
読
よ
んだり、
聞
き
いたりしたあと、しばらく
経
た
ってからまた
読
よ
み
直
なお
し、
聞
き
き
直
なお
してみれば、その
中
なか
に
依然
いぜん
として
指導
しどう
作用
さよう
があることにあなたは
間違
まちが
いなく
気
き
づくでしょう。あなたが
絶
た
えず、
自分
じぶん
を
向上
こうじょう
させていっても、ずっとあなたを
指導
しどう
していくことができます。これが
法
ほう
です。ここまで、
煉功
れんこう
しても
功
こう
が
伸
の
びない
二
ふた
つの
原因
げんいん
についてお
話
はな
ししました。
高
こう
次元
じげん
の
法
ほう
が
分
わ
からないために
修煉
しゅうれん
ができないことと、
内
うち
へ
向
む
かって
修
おさ
めず、
心性
しんせい
を
修煉
しゅうれん
しないので、
功
こう
が
伸
の
びないのです。この
二
ふた
つが
原因
げんいん
です。
法輪大法
ファールンダーファー
の
特色
とくしょく
われわれの
法輪大法
ファールンダーファー
は、
佛家
ぶっけ
八万四千
はちまんよんせん
法門
ほうもん
の
中
なか
の
一
いち
法門
ほうもん
で、
今回
こんかい
の
人類
じんるい
文明
ぶんめい
の
歴史
れきし
時期
じき
においては、
一
いち
度
ど
も
公
おおやけ
に
伝
つた
えられたことはありませんが、
先史
せんし
のある
時期
じき
には
広範囲
こうはんい
に
人
ひと
を
済度
さいど
したことがあります。わたしが
末劫
まつごう
の
最後
さいご
の
時期
じき
に
再
ふたた
びそれを
広
ひろ
く
世
よ
に
伝
つた
えましたが、この
意味
いみ
で、それはきわめて
貴重
きちょう
なものです。
徳
とく
が
直接
ちょくせつ
功
こう
に
転化
てんか
する
形式
けいしき
についてお
話
はな
ししました。
実
じつ
は
功
こう
というものは
煉
れん
によって
得
え
るものではなく、
修
しゅう
によって
得
え
るものです。
多
おお
くの
人
ひと
は
功
こう
の
伸
の
びを
追求
ついきゅう
して、
練功
れんこう
のやり
方
かた
にばかり
気
き
を
使
つか
い、いかに
修煉
しゅうれん
するかを
重視
じゅうし
していませんが、
実
じつ
は
功
こう
はまったく
心性
しんせい
の
修煉
しゅうれん
によって
得
え
るものなのです。では、なぜわれわれも
煉功
れんこう
を
教
おし
えているのでしょうか? まず、
和尚
おしょう
がなぜ
煉功
れんこう
しないのか? ということからお
話
はな
ししましょう。
彼
かれ
らは
主
しゅ
として
坐禅
ざぜん
を
組
く
み、
経文
きょうもん
を
読
よ
み、
心性
しんせい
を
修
おさ
めているだけで、それなりに
功
こう
が
伸
の
びますが、
彼
かれ
らは
自己
じこ
の
次元
じげん
の
高
たか
さに
見合
みあ
う
功
こう
を
伸
の
ばしているのです。なぜなら、
釈迦牟尼
しゃかむに
は
本体
ほんたい
を
含
ふく
めて、
世間
せけん
のすべてを
捨
す
てるようにと
言
い
っていましたので、
身体
からだ
の
動作
どうさ
は
必要
ひつよう
としないからです。
道家
どうけ
は
衆生
しゅじょう
済度
さいど
を
唱
とな
えませんから、
相手
あいて
とするのは、
私心
ししん
の
大
おお
きい
人
ひと
、
小
ちい
さい
人
ひと
なども
含
ふく
めた、さまざまな
心理
しんり
状態
じょうたい
をもち、さまざまな
次元
じげん
に
属
ぞく
する
人
ひと
たちではありませんでした。
彼
かれ
は
弟子
でし
を
選
えら
びますが、
三人
さんにん
の
弟子
でし
を
取
と
っても、その
中
なか
の
一人
ひとり
しか
直伝
じきでん
を
受
う
けられません。その
弟子
でし
は
間違
まちが
いなく
徳
とく
が
高
たか
く、
人
ひと
が
良
よ
くて、
問題
もんだい
を
起
お
こさない
人
ひと
でなければなりません。したがって
彼
かれ
らは
重点的
じゅうてんてき
に
手法
しゅほう
を
伝
つた
え、
命
めい
を
修
おさ
めることを
教
おし
えています。そして
神通力
じんつうりき
やさまざまな
術
じゅつ
類
るい
のものを
煉
ね
るためには、ある
程度
ていど
の
動作
どうさ
が
必要
ひつよう
です。
法輪大法
ファールンダーファー
も
性命双修
せいめいそうしゅう
の
功法
こうほう
なので、
煉功
れんこう
するのに
動作
どうさ
が
必要
ひつよう
です。
動作
どうさ
は、
一
ひと
つは
功能
こうのう
を
加持
かじ
する
働
はたら
きをもちます。
加持
かじ
とは
何
なん
でしょうか? それは
強
つよ
い
功力
こうりき
で
功能
こうのう
を
強化
きょうか
して、ますます
強
つよ
くさせることです。もう
一
ひと
つは、
身体
からだ
の
中
なか
にたくさんの
生命体
せいめいたい
を
演化
えんか
させなければならないことです。
高
たか
い
次元
じげん
の
修煉
しゅうれん
になりますと、
道家
どうけ
では
元嬰出世
げんえいしゅっせ
を
重
おも
んじ、
佛家
ぶっけ
では「
金剛
こんごう
不壊
ふえ
の
体
からだ
」を
重
おも
んじますが、このほかに、さまざまな
術
じゅつ
類
るい
のものも
演化
えんか
させなければなりません。これらのものはすべて
手法
しゅほう
を
通
つう
じて
煉
ね
りますが、
動作
どうさ
はそれらを
煉
ね
るためのものです。
完全
かんぜん
な
性命
せいめい
双
そう
修
しゅう
の
功法
こうほう
には、
修
しゅう
も
必要
ひつよう
とし、
煉
れん
も
必要
ひつよう
とします。
皆
みな
さんは、
功
こう
がいかにしてできあがるのかについてお
分
わ
かりになったと
思
おも
いますが、
真
しん
に
次元
じげん
の
高低
こうてい
を
決定
けってい
づける
功
こう
は、
煉功
れんこう
によって
得
え
るものではまったくなく、
修煉
しゅうれん
によって
得
え
るものです。
修煉
しゅうれん
する
過程
かてい
で、
常人
じょうじん
の
中
なか
で
自分
じぶん
の
心性
しんせい
を
高
たか
め、
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
に
同化
どうか
すれば、
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
があなたを
制約
せいやく
しなくなるのですから、あなたが
昇華
しょうか
して
向上
こうじょう
できるのです。そこで
徳
とく
が
功
こう
に
演化
えんか
しはじめますが、
心性
しんせい
の
基準
きじゅん
が
高
たか
くなるにつれて
功
こう
も
伸
の
びてきます。それらはこのような
関係
かんけい
にあります。
われわれのこの
功法
こうほう
は、
真
しん
に
性命
せいめい
双
そう
修
しゅう
の
功法
こうほう
であり、
修煉
しゅうれん
によって
得
え
た
功
こう
は、
身体
からだ
の
一
ひと
つ
一
ひと
つの
細胞
さいぼう
の
中
なか
に
蓄
たくわ
えられ、きわめて
微視
びし
的
てき
状態
じょうたい
で
存在
そんざい
している
物質
ぶっしつ
の
本源
ほんげん
である
微粒子
びりゅうし
成分
せいぶん
にまで、その
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
の
功
こう
が
蓄
たくわ
えられることになります。
功力
こうりき
が
高
たか
まるにつれて、その
密度
みつど
が
高
たか
くなり、
威力
いりょく
もますます
大
おお
きくなります。この
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
は
霊的
れいてき
なもので、
身体
からだ
の
一
ひと
つ
一
ひと
つの
細胞
さいぼう
や
生命
せいめい
の
本源
ほんげん
にまで
蓄
たくわ
えられるので、
時間
じかん
が
経
た
つにつれて、だんだん
身体
からだ
の
細胞
さいぼう
と
同
おな
じ
形態
けいたい
となり、
分子
ぶんし
の
配列
はいれつ
順序
じゅんじょ
とも
同
おな
じになり、さらにすべての
原子核
げんしかく
の
形態
けいたい
とも
同
おな
じになります。しかし、
本質
ほんしつ
はすっかり
変
か
わり、もはや
元
もと
の
肉体
にくたい
細胞
さいぼう
で
構成
こうせい
されたあの
身体
からだ
ではなくなります。それならあなたは
五行
ごぎょう
の
中
なか
にいないのではないでしょうか? もちろん、
修煉
しゅうれん
はまだ
終
お
わったわけではなく、あなたは
依然
いぜん
として
常人
じょうじん
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
していますので、
見
み
た
目
め
には
常人
じょうじん
と
同
おな
じように
見
み
えます。
唯一
ゆいいつ
の
区別
くべつ
は
同
おな
じ
年齢
ねんれい
の
人
ひと
と
比
くら
べてあなたがかなり
若
わか
く
見
み
えることです。
言
い
うまでもなく、まずは、
病気
びょうき
を
含
ふく
めて、
皆
みな
さんの
身体
からだ
のあらゆる
良
よ
くないものを
取
と
り
除
のぞ
いてあげなければなりません。しかし、ここでは
病気
びょうき
治療
ちりょう
はしません。われわれは
身体
からだ
を
浄
きよ
めてあげるので、
言葉
ことば
も
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
言
い
わず、
身体
しんたい
浄化
じょうか
と
言
い
います。
真
しん
の
修煉者
しゅうれんしゃ
のために
身体
からだ
を
浄化
じょうか
してあげるのです。
病気
びょうき
治療
ちりょう
が
目的
もくてき
で
来
き
ている
人
ひと
もいますが、われわれは
重病
じゅうびょう
患者
かんじゃ
を
講習会
こうしゅうかい
に
入
い
れないことにしています。なぜかというと、そういう
人
ひと
は
病気
びょうき
治療
ちりょう
の
心
こころ
を
捨
す
てることは
難
むずか
しく、
自分
じぶん
に
病気
びょうき
があるという
考
かんが
えを
捨
す
てられないからです。
重病
じゅうびょう
を
患
わずら
ってとても
苦
くる
しい
時
とき
に、そういうものを
捨
す
てられますか? そういう
人
ひと
は
修煉
しゅうれん
できそうもありません。たびたび
強調
きょうちょう
しているように、われわれは
重病
じゅうびょう
患者
かんじゃ
を
受
う
け
入
い
れません。ここでやっているのは
修煉
しゅうれん
で、
彼
かれ
らの
考
かんが
えていることとずいぶんかけ
離
はな
れています。
病気
びょうき
治療
ちりょう
なら
他
ほか
の
気功
きこう
師
し
に
頼
たの
めばいいわけです。もちろん、
多
おお
くの
学習者
がくしゅうしゃ
にも
病気
びょうき
があるでしょうが、しかし
皆
みな
さんは
真
しん
に
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
なので、われわれはこのことをしてあげられるのです。
法輪大法
ファールンダーファー
の
学習者
がくしゅうしゃ
は、
一定
いってい
期間
きかん
の
修煉
しゅうれん
を
経
へ
ると、
表
おもて
に
現
あら
われる
大
おお
きな
変化
へんか
として、
肌
はだ
のきめが
細
こま
かくなり、
色
いろ
も
白
しろ
くなり
赤
あか
みがさしてきます。
年配
ねんぱい
者
しゃ
は、
皺
しわ
が
減
へ
り、ほとんど
消
き
えてしまう
人
ひと
もいます。これはよく
見
み
られる
現象
げんしょう
です。わたしはここで
摩訶不思議
まかふしぎ
なことを
言
い
っているわけではなく、ここに
集
あつ
まっている
古
ふる
い
学習者
がくしゅうしゃ
はこのことをよく
知
し
っているはずです。また、
年配
ねんぱい
の
女性
じょせい
には
再
ふたた
び
生理
せいり
が
来
く
る
人
ひと
もいます。
性命
せいめい
双
そう
修
しゅう
の
功法
こうほう
には、
経血
けいけつ
の
気
き
で
命
めい
を
修
おさ
める
必要
ひつよう
があるからです。
生理
せいり
が
来
き
ても、
量
りょう
はあまり
多
おお
くなく、
今
いま
の
段階
だんかい
では
間
ま
に
合
あ
う
程度
ていど
で
結構
けっこう
です。これもよく
見
み
られる
現象
げんしょう
の
一
ひと
つです。さもなければ、それを
欠
か
いていては、どうやって
命
めい
を
修
おさ
めることができますか?
男性
だんせい
も
同
おな
じく、
年寄
としよ
りも、
若者
わかもの
も
身体
からだ
が
軽
かる
くなることを
覚
おぼ
えるに
違
ちが
いありません。
真
しん
に
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
はこういった
変化
へんか
を
感
かん
じることができるはずです。
われわれのこの
功法
こうほう
は、
動物
どうぶつ
の
真似
まね
などをしている
多
おお
くの
功法
こうほう
とは
違
ちが
って、ずいぶん
大
おお
きなものを
修煉
しゅうれん
しています。この
功法
こうほう
によって
修煉
しゅうれん
するものはあまりにも
大
おお
きいのです。
釈迦牟尼
しゃかむに
や
老子
ろうし
が
当時
とうじ
説
と
いた
理
り
は、すべてこの
銀河系
ぎんがけい
の
範囲
はんい
内
ない
の
理
り
でした。われわれ
法輪大法
ファールンダーファー
は
何
なに
を
修煉
しゅうれん
しているのでしょうか? われわれは、
宇宙
うちゅう
の
演化
えんか
の
原理
げんり
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
し、
宇宙
うちゅう
の
最高
さいこう
特性
とくせい
─
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
という
基準
きじゅん
に
基
もと
づいて
自
みずか
らの
修煉
しゅうれん
を
指導
しどう
しているのです。われわれはこれほど
大
おお
きなものを
修煉
しゅうれん
しているのであり、
宇宙
うちゅう
を
修煉
しゅうれん
していることに
等
ひと
しいのです。
法輪大法
ファールンダーファー
には、もう
一
ひと
つきわめて
特殊
とくしゅ
で、どの
功法
こうほう
とも
異
こと
なる、
最大
さいだい
の
特徴
とくちょう
があります。
今
いま
、
社会
しゃかい
で
流行
りゅうこう
している
気功
きこう
のほとんどが
丹
たん
の
道
みち
を
歩
あゆ
み、
丹
たん
を
煉
ね
るものです。
丹
たん
を
煉
ね
る
気功
きこう
によって
常人
じょうじん
の
中
なか
で
功
こう
を
開
ひら
き、
悟
さと
りを
開
ひら
こうとするのは、とても
難
むずか
しいことです。
法輪大法
ファールンダーファー
は
丹
たん
の
道
みち
を
歩
あゆ
まず、
下腹部
かふくぶ
のところで
一
ひと
つの
法輪
ファールン
を
修煉
しゅうれん
しますが、
講習会
こうしゅうかい
でわたしが
自
みずか
ら
皆
みな
さんにそれを
植
う
えつけてあげます。
法輪大法
ファールンダーファー
を
説
と
きながら、
皆
みな
さんに
次々
つぎつぎ
と
法輪
ファールン
を
植
う
えつけますが、
感
かん
じる
人
ひと
もいれば、
感
かん
じない
人
ひと
もおり、
大
だい
多数
たすう
の
人
ひと
は
実感
じっかん
できるでしょう。
人
ひと
それぞれ
身体
からだ
の
素質
そしつ
が
違
ちが
うからです。われわれは
法輪
ファールン
を
煉
ね
るのであって、
丹
たん
を
煉
ね
るものではありません。
法輪
ファールン
は
宇宙
うちゅう
の
縮図
しゅくず
で、
宇宙
うちゅう
のすべての
功能
こうのう
を
備
そな
えており、
自動的
じどうてき
に
運行
うんこう
し、
回転
かいてん
することができます。あなたの
下腹部
かふくぶ
のところでいつまでも
回転
かいてん
し
続
つづ
けていくもので、いったん
植
う
えつけてあげると、もう
止
と
まらずに、どこまでも
回転
かいてん
していきます。
法輪
ファールン
は
時計
とけい
回
まわ
りに
回転
かいてん
する
間
あいだ
、
自動的
じどうてき
に
宇宙
うちゅう
からエネルギーを
吸収
きゅうしゅう
し、しかも
自
みずか
らエネルギーを
演化
えんか
して、
身体
からだ
のあらゆる
部分
ぶぶん
に
演化
えんか
に
必要
ひつよう
なエネルギーを
送
おく
ります。
法輪
ファールン
が
逆
ぎゃく
時計
とけい
回
まわ
りに
回転
かいてん
する
時
とき
は、エネルギーを
放出
ほうしゅつ
することになり、
廃棄
はいき
物質
ぶっしつ
を
体外
たいがい
に
出
だ
して、
身体
からだ
の
周囲
しゅうい
で
散逸
さんいつ
させます。
法輪
ファールン
がエネルギーを
放出
ほうしゅつ
する
時
とき
は、
非常
ひじょう
に
遠
とお
いところまで
届
とど
きますが、
同時
どうじ
に
再
ふたた
び
新
あたら
しいエネルギーを
取
と
り
入
い
れます。
放出
ほうしゅつ
されたエネルギーによって、まわりにいる
人々
ひとびと
も
恩恵
おんけい
を
受
う
けることがあります。
佛家
ぶっけ
は、
己
おのれ
を
済度
さいど
するとともに
人
ひと
を
済度
さいど
し、
衆生
しゅじょう
を
済度
さいど
することを
重
おも
んじ、
自分
じぶん
が
修煉
しゅうれん
するだけでなく、
衆生
しゅじょう
も
済度
さいど
しなければなりません。そこで
他
ほか
の
人
ひと
にも
恩恵
おんけい
を
与
あた
え、
知
し
らないうちに、
他人
たにん
の
身体
からだ
を
調整
ちょうせい
し、
病気
びょうき
を
治
なお
してしまうことがあります。もちろん、エネルギーが
失
うしな
われることはありません。
常
つね
に
止
と
まることなく
回転
かいてん
していますから、
法輪
ファールン
が
時計
とけい
回
まわ
りに
回転
かいてん
すると、おのずとエネルギーを
回収
かいしゅう
します。
なぜこの
法輪
ファールン
がいつでも
止
と
まることなく
回転
かいてん
できるのか、と
思
おも
う
人
ひと
がいます。また、「それがなぜ
回転
かいてん
できるのか、その
原理
げんり
は
何
なに
か?」とわたしに
質問
しつもん
した
人
ひと
もいます。エネルギーがたくさん
集
あつ
まると
丹
たん
を
形成
けいせい
するということは
理解
りかい
できても、
法輪
ファールン
の
回転
かいてん
は
不思議
ふしぎ
に
思
おも
うようです。
例
れい
を
挙
あ
げて
説明
せつめい
しましょう。
宇宙
うちゅう
は
運動
うんどう
しており、
宇宙
うちゅう
にあるすべての
銀河系
ぎんがけい
、
恒星
こうせい
系
けい
も
運動
うんどう
し、
九
きゅう
個
こ
の
惑星
わくせい
が
太陽
たいよう
のまわりを
回転
かいてん
し、
地球
ちきゅう
も
自転
じてん
しています。
皆
みな
さんよく
考
かんが
えてみてください。
誰
だれ
がそれらを
回
まわ
るようにしているのでしょうか?
誰
だれ
がそれらに
力
ちから
を
与
あた
えたのでしょうか?
常人
じょうじん
の
概念
がいねん
でそれを
考
かんが
えてはいけません。それはそのような
旋機
せんき
になっているからです。
法輪
ファールン
も
同
おな
じで、
回転
かいてん
するようにできているのです。それは、
常人
じょうじん
が
普通
ふつう
の
生活
せいかつ
状態
じょうたい
を
保
たも
ったまま
煉功
れんこう
する
問題
もんだい
を
解決
かいけつ
し、
煉功
れんこう
の
時間
じかん
を
増
ふ
やしてくれました。どうやって
増
ふ
やしたのでしょうか?
法輪
ファールン
が
止
と
まることなく
回転
かいてん
し、
絶
た
えず
宇宙
うちゅう
からエネルギーを
吸収
きゅうしゅう
し、エネルギーを
演化
えんか
しているからです。
出勤
しゅっきん
している
間
あいだ
でも、
法輪
ファールン
はあなたを
煉
ね
っています。
当然
とうぜん
、
法輪
ファールン
だけではなく、ほかにもあなたの
身体
からだ
に
数
かず
多
おお
くの
機能
きのう
、
機
き
制
せい
を
植
う
えつけてあげますが、それらは、すべて
法輪
ファールン
と
連動
れんどう
して
自動的
じどうてき
に
回転
かいてん
し、
自動的
じどうてき
に
演化
えんか
しています。したがって、この
功
こう
は
完全
かんぜん
に
人
ひと
を
自動的
じどうてき
に
演化
えんか
しますので、「
功
こう
が
人
ひと
を
煉
ね
る」あるいは「
法
ほう
が
人
ひと
を
煉
ね
る」ということになります。つまり、あなたが
煉功
れんこう
していない
間
あいだ
も、
功
こう
があなたを
煉
ね
っています。あなたが
煉功
れんこう
している
時
とき
も
功
こう
があなたを
煉
ね
っています。
食事
しょくじ
している
時
とき
、
寝
ね
ている
時
とき
、
出勤
しゅっきん
している
時
とき
、
功
こう
は
常
つね
にあなたの
身体
からだ
を
演化
えんか
しています。それなら、何のために
煉功
れんこう
するのでしょうか? それは
法輪
ファールン
を
加持
かじ
し、
植
う
えつけてあげたあらゆる
機能
きのう
や
気機
きき
を
加持
かじ
するためです。
高
たか
い
次元
じげん
で
修煉
しゅうれん
する
時
とき
は、すべて
無為
むい
で、
動作
どうさ
も
気機
きき
に
導
みちび
かれるがままに
動
うご
き、
意念
いねん
による
導引
どういん
は
一切
いっさい
なく、
呼吸
こきゅう
法
ほう
なども
問題
もんだい
にしません。
われわれは
煉功
れんこう
の
時間
じかん
や
場所
ばしょ
にもこだわりません。「いつ
煉功
れんこう
するのがいいのか?
子
ね
の
刻
こく
か、
辰
たつ
の
刻
こく
か、それとも
午
うま
の
刻
こく
か?」と
尋
たず
ねる
人
ひと
がいます。われわれは
時間
じかん
のことも
言
い
いません。
子
ね
の
刻
こく
に
煉功
れんこう
しなかったとしても
功
こう
があなたを
煉
ね
っており、
辰
たつ
の
刻
こく
に
煉功
れんこう
しなかったとしても、
功
こう
はやはりあなたを
煉
ね
っています。あなたが
寝
ね
ている
間
あいだ
も、
功
こう
があなたを
煉
ね
っており、
歩
ある
いている
時
とき
も
功
こう
があなたを
煉
ね
っています。
仕事
しごと
をしている
間
あいだ
も、
功
こう
はやはりあなたを
煉
ね
っています。こうなれば
煉功
れんこう
の
時間
じかん
は
大幅
おおはば
に
短縮
たんしゅく
されるのではありませんか? われわれの
多
おお
くは、
本当
ほんとう
に
得道
とくどう
したいという
心
こころ
をもっています。それはもちろん
修煉
しゅうれん
の
目的
もくてき
で、
修煉
しゅうれん
の
最終
さいしゅう
目的
もくてき
はほかでもなく、
得道
とくどう
して
圓満
えんまん
成就
じょうじゅ
することです。しかし、
一部
いちぶ
の
人
ひと
は
残
のこ
りの
人生
じんせい
が
短
みじか
く、
時間
じかん
が
足
た
りないかも
知
し
れないという
問題
もんだい
があります。
法輪大法
ファールンダーファー
ならば、この
問題
もんだい
を
解決
かいけつ
し、
煉功
れんこう
の
期間
きかん
を
短縮
たんしゅく
することができます。
性命
せいめい
双
そう
修
しゅう
の
功法
こうほう
でもありますので、
絶
た
えず
煉功
れんこう
すれば、
絶
た
えず
延長
えんちょう
されます。
修煉
しゅうれん
すればするだけ
延
の
びるので、
根基
こんき
が
良
よ
いのにすでに
年
とし
を
取
と
ってしまった
人
ひと
も、これで
煉功
れんこう
の
時間
じかん
は
足
た
りるようになります。しかし、ここに
基準
きじゅん
が
一
ひと
つあります。
定
さだ
められた
天寿
てんじゅ
を
越
こ
えた、
延長
えんちょう
された
生命
せいめい
は、すべて
煉功
れんこう
するために
与
あた
えられたものであり、
間違
まちが
った
考
かんが
えが
浮
う
かんだだけで
命
いのち
の
危険
きけん
を
招
まね
くことがあります。というのは、あなたの
生命
せいめい
の
過程
かてい
はとっくに
終
お
わっているからです。
世間法
せけんほう
の
修煉
しゅうれん
を
終
お
えて、この
制御
せいぎょ
を
受
う
けなくなれば
話
はなし
は
別
べつ
です。その
時
とき
になれば、まったく
別
べつ
の
状態
じょうたい
になるのです。
煉功
れんこう
の
時
とき
に
向
む
く
方角
ほうがく
や、
煉功
れんこう
を
終了
しゅうりょう
する
時
とき
の
動作
どうさ
にもこだわりません。
法輪
ファールン
が
絶
た
えず
回転
かいてん
しており、それを
止
と
めることはできないからです。
電話
でんわ
が
鳴
な
り、
来訪者
らいほうしゃ
が
来
く
れば、
直
ただ
ちに
応対
おうたい
に
行
い
けばよく、
煉功
れんこう
を
終了
しゅうりょう
させる
動作
どうさ
をしなくてもかまいません。
応対
おうたい
に
行
い
っている
間
あいだ
、
法輪
ファールン
がすぐ
時計
とけい
回
まわ
りに
回転
かいてん
して、あっという
間
ま
に
体外
たいがい
に
出
だ
したエネルギーを
回収
かいしゅう
してきます。
人為
じんい
的
てき
に
気
き
をもち
上
あ
げて
灌頂
かんじょう
をいくらしても、
気
き
は
散
ち
ってしまいますが、
法輪
ファールン
は
霊的
れいてき
なものなので、
何
なに
をどうすればいいかを
知
し
っています。
方角
ほうがく
にこだわらないというのは、
宇宙
うちゅう
全体
ぜんたい
が
運動
うんどう
し、
銀河系
ぎんがけい
が
運行
うんこう
し、
九
きゅう
個
こ
の
惑星
わくせい
が
太陽
たいよう
のまわりを
回転
かいてん
し、
地球
ちきゅう
が
自転
じてん
もしているからです。われわれは
宇宙
うちゅう
の
大
おお
きな
理
り
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
するのですから、どこに
東西
とうざい
南北
なんぼく
があるというのですか? ありません。どの
方位
ほうい
に
向
む
かって
煉功
れんこう
しても
全
ぜん
方位
ほうい
に
向
む
かって
煉功
れんこう
していることになります。どの
方向
ほうこう
に
向
む
かって
煉功
れんこう
しても
同時
どうじ
に
東西
とうざい
南北
なんぼく
に
向
む
かって
煉功
れんこう
していることになります。
法輪大法
ファールンダーファー
には、
間違
まちが
った
方向
ほうこう
へずれることから
学習者
がくしゅうしゃ
を
守
まも
る
力
ちから
があります。どのように
守
まも
るのでしょうか? あなたが
真
しん
の
修煉者
しゅうれんしゃ
であれば、われわれの
法輪
ファールン
が
守
まも
ってくれます。わたしは
根
ね
を
宇宙
うちゅう
に
下
お
ろしているので、あなたを
動
うご
かせる
人
ひと
がいれば、このわたしをも
動
うご
かすことができることになり、はっきり
言
い
って、その
人
ひと
はこの
宇宙
うちゅう
を
動
うご
かすことができることになります。わたしの
話
はなし
は
信
しん
じ
難
がた
いように
聞
き
こえるかも
知
し
れませんが、これから
学
まな
び
続
つづ
けていけば、あなたも
分
わ
かるようになるはずです。ほかにもありますが、
程度
ていど
が
高
たか
すぎるものは、お
話
はな
しするわけにはいきません。
浅
あさ
いものから
深
ふか
いものへと、
系統
けいとう
的
てき
に
高
たか
い
次元
じげん
の
法
ほう
を
述
の
べていきたいと
思
おも
います。しかし、あなた
自身
じしん
の
心性
しんせい
が
歪
ゆが
んでいてはいけません。
求
もと
めようとすれば、
問題
もんだい
が
起
お
こるかも
知
し
れません。わたしは
多
おお
くの
古
ふる
い
学習者
がくしゅうしゃ
の
法輪
ファールン
がすでに
変形
へんけい
してしまったことに
気
き
づいています。なぜでしょうか?
他
ほか
のものを
混
ま
ぜて
練功
れんこう
し、
他人
たにん
のものを
取
と
り
入
い
れたからです。ではどうして
法輪
ファールン
が
守
まも
ってくれなかったのでしょうか? あなたに
与
あた
えられたからには、
法輪
ファールン
はあなたのもので、あなたの
意志
いし
の
支配
しはい
を
受
う
けます。あなたが
欲
ほ
しがるなら、
誰
だれ
もそれに
干渉
かんしょう
できません。これはこの
宇宙
うちゅう
の
理
り
です。あなたが
修煉
しゅうれん
をやめようと
思
おも
えば、
誰
だれ
も
強制
きょうせい
的
てき
に
修煉
しゅうれん
させるわけにはいかず、
強制
きょうせい
すれば、
悪
わる
いことをすることになります。あなたの
心
こころ
をむりやり
変
か
えることのできる
人
ひと
などいるでしょうか?
自分
じぶん
で
自分
じぶん
を
律
りっ
しなければなりません。
各
かく
流派
りゅうは
の
良
よ
いものを
取
と
るといって、
誰
だれ
のものであろうとなんでもかんでも
取
と
り
入
い
れて、
今日
きょう
はこの
気功
きこう
、
明日
あす
はあの
気功
きこう
をやり、
病気
びょうき
を
取
と
り
除
のぞ
こうとしても、
果
はた
して
病気
びょうき
は
取
と
り
除
のぞ
かれたでしょうか?
取
と
り
除
のぞ
かれてはおらず、ただ
先送
さきおく
りされただけです。
高
こう
次元
じげん
での
修煉
しゅうれん
は
一
ひと
つに
専念
せんねん
することが
大事
だいじ
で、
一
ひと
つの
法門
ほうもん
に
専念
せんねん
しなければなりません。ある
法門
ほうもん
を
修煉
しゅうれん
する
以上
いじょう
、ひたすらにその
法門
ほうもん
に
専念
せんねん
しなければなりません。その
法門
ほうもん
で
功
こう
を
開
ひら
き、
悟
さと
りを
開
ひら
いてはじめて
他
た
の
功法
こうほう
を
修
おさ
めることができますが、それはまったく
違
ちが
ったものになります。なぜなら、
完璧
かんぺき
な
修煉
しゅうれん
法
ほう
は、
相当
そうとう
長
なが
い
年月
としつき
を
経
へ
て
伝
つた
わってきたもので、いずれもかなり
複雑
ふくざつ
な
演化
えんか
の
過程
かてい
があるからです。
自分
じぶん
の
感覚
かんかく
を
頼
たよ
りに
練功
れんこう
している
人
ひと
もいますが、あなたの
感覚
かんかく
はなにほどのものですか? なにものでもありません。
本当
ほんとう
の
演化
えんか
の
過程
かてい
は
他
た
の
空間
くうかん
で
行
おこ
なわれており、きわめて
複雑
ふくざつ
で
微妙
びみょう
であり、ちょっとしたずれも
許
ゆる
されず、
精密
せいみつ
機器
きき
に
他
ほか
の
部品
ぶひん
を
一
ひと
つでも
付
つ
け
加
くわ
えると
直
ただ
ちに
故障
こしょう
してしまうのと
同
おな
じです。
各
かく
空間
くうかん
におけるあなたの
身体
からだ
はみな
変化
へんか
しており、
非常
ひじょう
に
微妙
びみょう
ですので、ほんの
少
すこ
しでもずれがあってはいけません。
前
まえ
にお
話
はな
ししたように、「
修
しゅう
は
己
おのれ
にありて、
功
こう
は
師
し
にあり」なのです。
勝手
かって
に
人
ひと
のものを
取
と
り
入
い
れると、
違
ちが
う
信息
しんそく
が
混入
こんにゅう
して
来
く
るので、この
法門
ほうもん
のものを
妨害
ぼうがい
してしまうことになり、あなたが
間違
まちが
った
方向
ほうこう
へ
行
い
ってしまうかも
知
し
れません。しかも、それが
常人
じょうじん
社会
しゃかい
にも
反映
はんえい
され、
常人
じょうじん
としての
生活
せいかつ
の
中
なか
に
煩
わずら
わしいことが
起
お
こることもあります。それはあなた
自身
じしん
が
求
もと
めたものなので、
他
ほか
の
人
ひと
は
干渉
かんしょう
してはいけないことになっています。それには
悟性
ごせい
の
問題
もんだい
がかかわっています。それだけではなく、あなたが
混
ま
ぜ
入
い
れたものによって
功
こう
が
乱
みだ
され、そのためにあなたはもう
修煉
しゅうれん
できなくなる、というような
問題
もんだい
が
起
お
きてきます。わたしは
皆
みな
さんにどうしても
法輪大法
ファールンダーファー
を
学
まな
ばなければいけないと
言
い
っているわけではなく、
法輪大法
ファールンダーファー
を
学
まな
ばなくても、
他
ほか
の
功法
こうほう
で、
真
しん
の
伝授
でんじゅ
を
得
え
られればわたしも
賛成
さんせい
します。しかし、
一
ひと
つ
言
い
っておきますが、
本当
ほんとう
に
高
たか
い
次元
じげん
をめざして
修煉
しゅうれん
したいのなら、
必
かなら
ず
一
ひと
つに
専念
せんねん
しなければなりません。もう
一
ひと
つはっきり
言
い
っておかなければならないことは、
今
いま
このように
真
しん
に
高
たか
い
次元
じげん
への
功
こう
を
伝
つた
えているのは、
他
ほか
に
誰
だれ
もいない、ということです。わたしが
何
なに
をしてあげたのか、
皆
みな
さんはそのうちきっとお
分
わ
かりになると
思
おも
いますが、あなたの
悟性
ごせい
があまり
低
ひく
くないことを
希望
きぼう
します。
多
おお
くの
人
ひと
が
高
たか
い
次元
じげん
へ
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
い
立
た
ちますが、
今
いま
この
修煉
しゅうれん
法
ほう
が
目
め
の
前
まえ
に
置
お
かれていながら、あなたはまだ
気
き
づいていないかも
知
し
れません。
師
し
を
求
もと
めてあちらこちらへと
出
で
かけ、いくらお
金
かね
を
使
つか
っても、
探
さが
し
当
あ
てられないものを、いま
目
め
の
前
まえ
に
届
とど
けてあげましたのに、まだ
分
わ
からないかも
知
し
れません! これは
悟
さと
るか
悟
さと
らないかの
問題
もんだい
で、つまり、
済度
さいど
できるかできないかの
問題
もんだい
なのです。