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轉 法 輪

第一講



 本当ほんとうに高たかい次元じげんへ人ひとを導みちびく


 わたしは、法ほうを伝つたえ、功こうを伝つたえるにあたって、常つねに社会しゃかいと学習者がくしゅうしゃに対たいして責任せきにんをもつことを念頭ねんとうにおいてきました。ですから得えられた結果けっかも良よく、社会しゃかいに与あたえた影響えいきょうもかなり良よいものでした。数年すうねん前まえ、大おお勢ぜいの気功師きこうしが気功きこうを教おしえていましたが、彼かれらが教おしえたのはいずれも病気びょうき治療ちりょうと健康けんこう保持ほじという次元じげんのものでした。もちろん、彼かれらの功法こうほうが良よくないと言いうのではありません。わたしが言いいたいのは、彼かれらは高たかい次元じげんのものを教おしえていなかったということです。わたしは中国ちゅうごくの気功きこうの現状げんじょうも知しっていますが、今いま、国内こくないにも国外こくがいにも、本当ほんとうに高たかい次元じげんへの功こうを伝つたえる者ものは、わたし一人ひとりしかいません。高たかい次元じげんへの功こうを伝つたえる人ひとがなぜいないのでしょうか? それはこのことが非常ひじょうに大おおきな問題もんだいと絡からんでいるからです。歴史れきし的てきな問題もんだいと深ふかく絡からんでいるばかりでなく、幅広はばひろい分野ぶんやに及および、非常ひじょうに微妙びみょうな問題もんだいにかかわりを持もっているのです。そのうえ、多おおくの気功きこう流派りゅうはのものを揺ゆるがしかねないという問題もんだいも絡からんでくるので、普通ふつうの人ひとでは伝つたえられるはずがありません。特とくに多おおくの練功者れんこうしゃは、今日きょうはこの功こうを習ならい、明日あすはあの功こうを習ならうなどしたあげく、自分じぶんの身体からだをすっかり乱みだしてしまったので、上うえの次元じげんをめざす修煉しゅうれんはもう間違まちがいなくできなくなっています。一本いっぽんの大道だいどうに沿そって上うえをめざして修煉しゅうれんすべきなのに対たいし、その人ひとたちは脇道わきみちばかり歩あるくので、これを修煉しゅうれんしようとすればあちらから妨害ぼうがいが入はいり、あれを修煉しゅうれんしようとすればこちらから妨害ぼうがいが入はいり、あちらこちらから妨害ぼうがいされるというしまつで、もう修煉しゅうれんすることができなくなってしまったのです。
 これらの問題もんだいは、われわれがすべて片付かたづけてあげなければならないものです。良よい部分ぶぶんを残のこし、悪わるい部分ぶぶんを除のぞき、今後こんご修煉しゅうれんできるようにしなければなりません。しかしそれは、本当ほんとうに大法ダーファーを学まなびに来くる人ひとだけにしかしてあげられません。もし、あなたがさまざまな執着心しゅうちゃくしんを持もっていて、功能こうのうを追求ついきゅうするとか、病気びょうきの治療ちりょうを求もとめるとか、理論りろんを聞きいてみたいとか、あるいは、何なにかの良よくない目的もくてきを抱いだいているとすれば、やってあげるわけにはいきません。今いま、お話はなししたように、このことをやっているのはわたし一人ひとりしかいません。今回こんかいのような機会きかいはめったにありませんし、わたしもこれから先さきずっとこのように教おしえていくことはありません。直接ちょくせつわたしの説法せっぽうを聞きき、功法こうほう伝授でんじゅを受うけられる人ひとは、本当ほんとうに……今いまのこの時間じかんが最もっとも喜よろこばしい時ときだったと、将来しょうらいきっと分わかることでしょう。もちろんわれわれは縁えんを重おもんじます。皆みなさんがここに坐すわっていることは、すべて縁えんによるものです。
 高たかい次元じげんへの功こうを伝つたえるとはどんなことでしょうか? よく考かんがえてみてください。それは人ひとを済度さいどすることではないでしょうか? 人ひとを済度さいどするというからには、あなたはもはや普通ふつうの病気びょうき治療ちりょうと健康けんこう保持ほじのみにとどまらず、本当ほんとうの修煉しゅうれんをしなければなりません。本当ほんとうに修煉しゅうれんする以上いじょう、学習者がくしゅうしゃの心性しんせいへの要求ようきゅうも高たかくなります。ここに坐すわっている皆みなさんは大法ダーファーを学まなぶために来きているのですから、真しんの煉功者れんこうしゃとしての自覚じかくを持もち、執着心しゅうちゃくしんを捨すてなければなりません。いろいろな目的もくてきを追求ついきゅうしながら功こうを学まなび、大法ダーファーを学まなぼうとしても、何なにも身みにつけることはできません。あなたに一ひとつの真理しんりをお教おしえしましょう。絶たえず執着心しゅうちゃくしんを取とり除のぞくことこそ人間にんげんの修煉しゅうれんの過程かていのすべてです。常人じょうじんの社会しゃかいにおいて、人々ひとびとは奪うばい合あったり、騙だまし合あったり、個人こじんのわずかな利益りえきのために人ひとを傷きずつけたりしますが、こういった心こころは全部ぜんぶ捨すてなければなりません。特とくに、今いまここで功こうを学まなんでいる人ひとは、これらの心こころをなおさら捨すてなければなりません。
 わたしはここで病気びょうき治療ちりょうの話はなしをしませんし、病気びょうき治療ちりょうなどもしません。しかし、本当ほんとうに修煉しゅうれんをしようとする人ひとの身体からだに、病気びょうきがあっては修煉しゅうれんできるわけがありません。ですからわたしは身体からだを浄化じょうかしてあげなければなりません。しかし身体からだの浄化じょうかをしてあげるのは本当ほんとうに功こうを学まなびに来きた人ひと、本当ほんとうに法ほうを学まなびに来きた人ひとだけに限かぎります。もしあなたが病気びょうきのことばかり考かんがえるその心こころを捨すてられないのなら、われわれは何なにもしてあげられないし、どうすることもできないということを強調きょうちょうしておきます。なぜでしょうか? この宇宙うちゅうには次つぎのような理りがあるからです。佛家ぶっけによれば、常人じょうじんの中なかのことは、すべて因縁いんねん関係かんけいがあり、生老病死しょうろうびょうしは常人じょうじんにとって当然とうぜんのことです。人ひとは、以前いぜんに悪事あくじを働はたらいたために生しょうじた業力ごうりきのせいで病気びょうきになったり、魔ま難なんに遭あったりしています。苦くるしみを味あじわうことはほかでもない業ごうを返かえすことなので、いかなる人ひとといえども勝手かってにそれを変かえるわけにはいきません。変かえてしまうと借金しゃっきんを踏ふみ倒たおしてもよいということにもなります。しかも勝手かってにこのようなことをしてはなりません。さもなければ、悪事あくじを働はたらくことに等ひとしいのです。
 人ひとの病気びょうきを治なおしたり、健康けんこうのために何なにかしてあげたりするのは、良よいことだと思おもう人ひとがいます。しかしわたしの見みるところでは、誰だれも本当ほんとうに病気びょうきを治なおせたわけではなく、ただ病気びょうきを先送さきおくりさせ、あるいは転化てんかさせただけで、病気びょうきを取とり除のぞいてはいません。本当ほんとうにその難なんを取とり除のぞこうとすれば、業力ごうりきを消去しょうきょしなければなりません。もし本当ほんとうに病気びょうきを治なおすことができて、業力ごうりきをきれいに取とり除のぞくことができるなら、本当ほんとうにそこまでできれば、この人ひとの次元じげんはもはや低ひくくはありません。つまり彼かれにはすでに、常人じょうじんの中なかの理りを勝手かってに壊こわしてはならない、という理りが分わかっているのです。修煉しゅうれん途中とちゅうの修煉者しゅうれんしゃが慈悲じひ心しんから、良よいことをし、人ひとの病気びょうきを治なおしてあげるのは許ゆるされることです。しかし、完全かんぜんに治なおすことはできません。もし本当ほんとうに常人じょうじんの病気びょうきを根治こんじしてあげることができるとして、修煉しゅうれんしない常人じょうじんがここから出でて、何なんの病気びょうきもなくなったとしましょう。でもその人ひとが相変あいかわらず常人じょうじんのままで、私利しり私欲しよくのために人ひとと争あらそったりするようでしたら、彼かれの業力ごうりきをどうして勝手かってに取とり除のぞいてあげられるのですか? そのようなことは絶対ぜったいに許ゆるされません。
 ではなぜ、修煉者しゅうれんしゃのためならしてあげてもいいのでしょうか? 修煉しゅうれんする人ひとこそ最もっとも貴重きちょうなのであり、その人ひとが修煉しゅうれんしようと思おもうこと、そこで生しょうじた一念いちねんこそ、なによりも貴重きちょうなのです。佛教ぶっきょうでは佛性ぶっしょうを重おもんじており、佛性ぶっしょうがいったん現あらわれると、覚者かくしゃたちはその人ひとを助たすけることができます。それはどういう意味いみなのでしょうか? わたしは高たかい次元じげんにあって功こうを伝つたえていますから、高たかい次元じげんの理りに関かかわっており、非常ひじょうに大おおきな問題もんだいに及およぶのです。この宇宙うちゅうで、人間にんげんの生命せいめいは常人じょうじん社会しゃかいの中なかで生しょうじたものではない、とわれわれは見みています。人間にんげんの本当ほんとうの生命せいめいは宇宙うちゅう空間くうかんで生しょうじたものです。この宇宙うちゅうには生命せいめいを造つくるさまざまな物質ぶっしつがたくさん存在そんざいしており、これらの物質ぶっしつが互たがいに働はたらき合あうことによって、生命せいめいが誕生たんじょうします。つまり、人間にんげんの最初さいしょの生命せいめいは宇宙うちゅうに起源きげんを持もつということです。真しん・善ぜん・忍にんという特性とくせいを持もった宇宙うちゅう空間くうかんは本源ほんげん的てきに善良ぜんりょうなものであり、人間にんげんも生うまれた時ときは、宇宙うちゅうと同おなじ特性とくせいを持もっています。しかし、生命体せいめいたいが多おおくなると、その集団しゅうだんに社会しゃかい的てきな関係かんけいができてきます。その中なかの一部いちぶの者ものが、利己りこ的てきになっていったために、次第しだいに自分じぶんの次元じげんを下さげ、ついに自分じぶんのいる次元じげんにいられなくなり、それより低ひくい次元じげんへ堕おちていきました。ところが、つぎの次元じげんにおいても、まただんだん悪わるくなり、そこにもいられなくなって、下したへ下したへと堕おち、最後さいごには人類じんるいという次元じげんにまで堕おちて来きたわけです。
 人類じんるい社会しゃかい全体ぜんたいは、同おなじ次元じげんにあります。ここまで堕おちてしまったら、功能こうのうの角度かくどから見みても、あるいは大覚者だいかくしゃの立場たちばから見みても、これらの生命体せいめいたいは本来ほんらい消滅しょうめつされるべきものでした。しかし、大覚者だいかくしゃたちがその慈悲じひ心しんにより、彼かれらにもう一度いちど機会きかいを与あたえたので、このような特殊とくしゅな環境かんきょう、特殊とくしゅな空間くうかんができあがったわけです。ところが、この空間くうかんの生命体せいめいたいは、宇宙うちゅうのあらゆる他たの空間くうかんの生命体せいめいたいとは違ちがいます。この空間くうかんの生命体せいめいたいには、他たの空間くうかんの生命体せいめいたいが見みえず、宇宙うちゅうの真相しんそうも見みえないので、これらの人々ひとびとは迷まよいの中なかに堕おちたも同然どうぜんです。病気びょうきの快復かいふく、難なんの回避かいひ、業ごうの消去しょうきょを願ねがう人々ひとびとは必かならず修煉しゅうれんを通つうじて、返本帰真へんぽんきしんしなければなりません。修煉しゅうれんの各派かくはも、このことについては同おなじように考かんがえています。返本帰真へんぽんきしんすることこそ、人間にんげんとしての本当ほんとうの目的もくてきです。したがって、ある人ひとが修煉しゅうれんしようと思おもうと、佛性ぶっしょうが現あらわれて来きたと認みとめられます。この一念いちねんこそ最もっとも貴重きちょうなものです。なぜならその人ひとが返本帰真へんぽんきしんを願ねがい、常人じょうじんという次元じげんから抜ぬけ出だそうとしているからです。
 皆みなさんもお聞ききになったことがあるだろうと思おもいますが、佛教ぶっきょうには、「佛性ぶっしょうがひとたび現あらわれると、十方じっぽう世界せかいを震ふるわす」という言葉ことばがあります。覚者かくしゃがそのような人ひとを見みればひとしく救すくいの手てを差さし伸のべ、無条件むじょうけんに助たすけてあげようとします。佛家ぶっけでは、人ひとを済度さいどするにあたって、条件じょうけんを言いわず、代償だいしょうを求もとめず、無条件むじょうけんに助たすけるということなので、われわれも学習者がくしゅうしゃの皆みなさんに多おおくのことをしてあげることができるのです。しかし、一人ひとりのただ常人じょうじんのままでよいと思おもっている人ひとが病気びょうきを治なおしてもらおうと思おもっても無理むりです。病気びょうきが治なおったら修煉しゅうれんしようと思おもう人ひとがいるようですが、修煉しゅうれんにはいかなる条件じょうけんも付つけてはいけません。修煉しゅうれんしようと思おもい立たったら、修煉しゅうれんを始はじめるべきです。しかし、病気びょうきの身体からだをもっている人ひとや、あるいは体内たいないの信息しんそくがかなり乱みだれている人ひと、まったく練功れんこうした経験けいけんがない人ひともいれば、何なん十じゅう年ねんも練功れんこうしていながら、まだ気きのレベルを抜ぬけ出だせず、修練しゅうれんが向上こうじょうしていない人ひともいます。
 どうしてあげたらよいのでしょうか? われわれは、高たかい次元じげんをめざす修煉しゅうれんができるように、その身体からだを浄化じょうかしてあげなければなりません。最もっとも低ひくい次元じげんで修煉しゅうれんする際さいには、身体からだを完全かんぜんに浄化じょうかする過程かていがあります。つまり、頭あたまの中なかの良よくない考かんがえや、身体からだのまわりの業力ごうりきによってできた場ば、身体からだに不健康ふけんこうをきたす要素ようそなどを、全部ぜんぶきれいに取とり除のぞくということです。それを取とり除のぞかなければ、このような濁にごった身体からだや真まっ黒くろな身体からだ、汚けがれた考かんがえを持もっていたのでは、どうやって高たかい次元じげんをめざして修煉しゅうれんができるでしょうか? ここでは「気き」を練ねることなどはしません。あなたはもう低ひくい次元じげんのものを練ねる必要ひつようはないのです。われわれは皆みなさんの身体からだを無病むびょう状態じょうたいにまで押おし上あげていきます。そして同時どうじに、低ひくい次元じげんの段階だんかいで基礎きそとして備そなえなければならないものも、一式いっしきできあがったものを植うえつけてあげましょう。こうすれば、われわれは初はじめから高たかい次元じげんで煉功れんこうすることになります。
 修煉界しゅうれんかいの言いい方かたによれば、気きを含ふくめるとすれば、三みっつの次元じげんがあります。しかし、本当ほんとうの修煉しゅうれん(気きを練ねるものは含ふくめない)は、大おおきく二ふたつの次元じげんに分わけられます。一ひとつは世間法せけんほう修煉しゅうれんで、もう一ひとつは出世間法しゅっせけんほう修煉しゅうれんです。この世間法せけんほうと出世間法しゅっせけんほうは、お寺てらで言いうところの出世間しゅっせけんと入世間にゅうせけんとは違ちがいます。それは理論りろん的てきなものですが、われわれは、真しんの人体じんたい修煉しゅうれんにおける二ふたつの次元じげんで起おこる変化へんかを意味いみしています。世間法せけんほう修煉しゅうれんの過程かていにおいて、人間にんげんの身体からだは絶たえず浄化じょうかされ、絶たえず浄化じょうかされていき、世間法せけんほうの最高さいこう形式けいしきに達たっしますと、身体からだは完全かんぜんに高こうエネルギー物質ぶっしつに取とって代かわられます。その先さきの出世間法しゅっせけんほうの修煉しゅうれんは本質ほんしつ的てきに佛体ぶったいの修煉しゅうれんになります。身体からだはすでに高こうエネルギー物質ぶっしつで構成こうせいされたものとなり、あらゆる功能こうのうが新あらたに現あらわれます。これがわれわれの言いう二ふたつの大おおきな次元じげんです。
 われわれは縁えんを重おもんじています。皆みなさんが今いまここに坐すわっておられるから、わたしは皆みなさんにこのことをしてあげてもよいのです。今いまここにいる人ひとは、せいぜい二千人にせんにんあまりですが、何千人なんぜんにん、もっと多おおくの人ひと、一いち万まん人にんでも、わたしは楽々らくらくとしてあげることができます。つまり、皆みなさんは低てい次元じげんではもう練ねらなくてもよいということです。あなたの身体からだを浄化じょうかしてから、高たかい次元じげんへ押おし上あげ、完璧かんぺきな修煉しゅうれんシステムを一式いっしき植うえつけてあげますので、あなたは最初さいしょから高たかい次元じげんで修煉しゅうれんすることになります。しかし、それは真しんに修煉しゅうれんする学習者がくしゅうしゃにしかしてあげられません。ここに坐すわっているからといって、あなたが修煉者しゅうれんしゃだというわけではありません。植うえつけてあげることができるのはあなたの考かんがえ方かたが根本こんぽん的てきに変かわった時ときです。しかもこれくらいにとどまりません。いったいわたしがどれくらいのものを皆みなさんに与あたえたのか、いずれ皆みなさんもお分わかりになると思おもいます。われわれはここでは、病気びょうき治療ちりょうなどはしませんが、煉功れんこうできるようにするために、学習者がくしゅうしゃの身体からだを全面ぜんめん的てきに調整ちょうせいします。病気びょうきの身体からだでは、功こうなど出でてくるはずがありません。というわけですから、病気びょうきを治なおしてほしいとかわたしに言いわないでください。わたしもそれをしません。わたしが出山しゅつざんした主おもな目的もくてきは、高たかい次元じげんへ人ひとを導みちびくこと、本当ほんとうに高たかい次元じげんへ人ひとを導みちびくことなのです。

 異ことなる次元じげんに異ことなる法ほうあり


 これまで、大勢おおぜいの気功きこう師しが、気功きこうには初級しょきゅう、中級ちゅうきゅう、上級じょうきゅうがあるなどと言いっていました。それらはすべて気きや気きを練ねる次元じげんのものに過すぎないのに、初級しょきゅう、中級ちゅうきゅう、上級じょうきゅうなどに分わけています。本当ほんとうに高たかい次元じげんのものは、多おおくの気功きこう修煉者しゅうれんしゃの頭あたまの中なかではまったくの空白くうはくで、何なにも知しられていません。わたしがこれから述のべようとするものはいずれも高たかい次元じげんの法ほうです。そのほか、わたしは修煉しゅうれんの本来ほんらいの姿すがたを伝つたえたいとも思おもいます。講義こうぎの中なかでは、修煉界しゅうれんかいに見みられる良よくない現象げんしょうにも触ふれる予定よていです。それらのものにどのように対処たいしょすればよいか、どうとらえたらよいかについても、すべてお話はなししたいと思おもいます。それから、高たかい次元じげんにおいて功こうを伝つたえ、法ほうを説とくとなれば、かかわりを持もつ問題もんだいが幅広はばひろく、大おおきいばかりでなく、非常ひじょうに微妙びみょうな問題もんだいも絡からんできますので、これらについても明あきらかにしたいと思おもいます。また他たの空間くうかんからの、われわれ常人じょうじん社会しゃかいへの妨害ぼうがい、特とくに修煉界しゅうれんかいに対たいする妨害ぼうがいについても明あきらかにしますが、同時どうじに、われわれの学習者がくしゅうしゃのためにこれらの問題もんだいを片付かたづけてあげなければなりません。これらの問題もんだいを解決かいけつしないと、あなたは煉功れんこうできません。これらの問題もんだいを徹底的てっていてきに解決かいけつするには、皆みなさんのことを本当ほんとうの修煉者しゅうれんしゃとして扱あつかわなければなりません。それでこそはじめてこのようなことをしてあげられるのです。もちろん、いっぺんにあなたの考かんがえ方かたを変かえるのは容易よういなことではありませんが、これからの受講じゅこうで、あなたは少すこしずつ自分じぶんの考かんがえ方かたを変かえていかれると思おもいますので、講義こうぎは真剣しんけんに聞きいてください。わたしの功こうの伝つたえ方かたは他ほかの人ひとのやり方かたと違ちがいます。他ほかの人ひとは功こうを伝つたえる時とき、ただ、簡単かんたんに功法こうほうの理りを説明せつめいし、それから信息しんそくを与あたえたりして、動作どうさを教おしえるだけで終おわってしまいます。人々ひとびとはすでにこのような功こうの伝つたえ方かたに慣なれています。
 本当ほんとうに功こうを伝つたえるには、法ほうを説とき、道どうを説とかなければなりません。十回じゅっかいにわたる講義こうぎの中なかで、わたしは高たかい次元じげんの理りをすべて明あきらかにしなければなりません。こうすればはじめてあなたは修煉しゅうれんできるようになります。さもなければ修煉しゅうれんなどできるものではありません。他ほかの人ひとが教おしえているのは、すべて病気びょうき治療ちりょうと健康けんこう保持ほじという次元じげんのものですが、高たかい次元じげんへ修煉しゅうれんしようとするには、高たかい次元じげんの法ほうによる指導しどうがなければ、修煉しゅうれんすることはできません。学校がっこうのことを喩たとえにして言いいますと、小学校しょうがっこうの教科書きょうかしょを持もって大学だいがくに入はいっても、やはり小学生しょうがくせいにしか過すぎないのです。たくさんの気功きこうを習ならったつもりで、あれやこれやの気功きこうの修了証書しゅうりょうしょうしょだけは山やまほどあるのに、一向いっこうに功こうが伸のびていない人ひとがいます。彼かれはそれらが気功きこうの真諦しんたいであり、すべてだと思おもい込こんでいますが、実じつはそうではなく、それらは気功きこうのいろはに過すぎず、いちばん低ひくい次元じげんのものです。気功きこうはそれだけにとどまらず、気功きこうは修煉しゅうれんであり、博大はくだいで奥深おくぶかいものであり、しかも、異ことなる次元じげんに異ことなる法ほうがありますので、今日こんにち知しられているような、いくら多おおく習ならっても同おなじである気きを練ねるものとは違ちがいます。例たとえば、イギリスの小学校しょうがっこうの教科書きょうかしょを勉強べんきょうし、次つぎにアメリカの小学校しょうがっこうの教科書きょうかしょも勉強べんきょうし、さらに日本にほんの小学校しょうがっこうの教科書きょうかしょも勉強べんきょうし、そして中国ちゅうごくの小学校しょうがっこうの教科書きょうかしょをも勉強べんきょうしたとしても、あなたはやはり小学生しょうがくせいです。気功きこうの低てい次元じげんのものをたくさん習ならって、いっぱい身みにつけたとしても、かえって害がいになります。なぜかというと、あなたの身体からだがすでに乱みだされてしまっているからです。
 ここでもう一ひとつの問題もんだいを強調きょうちょうしておきたいと思おもいます。われわれが修煉しゅうれんするには、功こうを伝つたえ、法ほうを説とく必要ひつようがあります。一部いちぶの寺院じいんの和尚おしょう、特とくに禅宗ぜんしゅうでは、異議いぎがあるかも知しれません。説法せっぽうと聞きいただけで耳みみを塞ふさいでしまいます。なぜでしょうか? 禅宗ぜんしゅうでは、法ほうというものは話はなしてはいけないもので、言葉ことばに出だしたら法ほうではなくなるので、説とける法ほうはなく、ただ心こころで悟さとるのみだ、と考かんがえているからです。そのため、禅宗ぜんしゅうは今日こんにちに至いたっても、何なんの法ほうも説とくことができません。禅宗ぜんしゅうの達磨だるまが伝つたえたものは、釈迦牟尼しゃかむにの言いった「法ほうには定法じょうほう無なし」という一言ひとことに基もとづいています。彼かれは釈迦牟尼しゃかむにのこの言葉ことばに基もとづいて禅宗ぜんしゅう法門ほうもんを創立そうりつしました。この法門ほうもんはわれわれから見みれば、ほかならぬ牛うしの角先つのさきに向むかって潜もぐり込こむようなことをやっているのです。なぜ牛うしの角先つのさきに潜もぐるというのでしょうか? 達磨だるまが入はいった時ときはまだけっこう余裕よゆうがありましたが、二に祖そが入はいった時ときはあまり余裕よゆうがなくなり、三さん祖そはなんとか入はいれる程度ていどで、四よん祖その時ときはもうかなりせせこましく、五ご祖そはほとんど入はいれなくなり、六ろく祖その慧能えのうになると、もう行いき詰づまってしまったのです。今いま、禅宗ぜんしゅうへ法ほうを学まなびに行いったら、何なにも問とわないほうがよいのです。もし何なにか質問しつもんがあって尋たずねると、すぐに棒ぼうで頭あたまを叩たたかれますが、それを「棒喝ぼうかつ」というのです。何なにも聞きくな、自分じぶんで悟さとれという意味いみです。「何なにも知しらないから学まなびに来きたのに、悟さとれって、何なにを?! 棒ぼうで頭あたまを叩たたくなんて」と、あなたはきっとそう思おもいます。それこそ行いき詰づまってしまって、教おしえられるものがもう何なにもないことを示しめしています。達磨だるま自身じしんでさえ、六ろく祖そまでは伝つたえられるが、その後ごはもう無理むりだと言いっていました。数百年すうひゃくねんも過すぎ去さったのに、まだ禅宗ぜんしゅうの理りを固守こしゅしている人ひとがいます。釈迦牟尼しゃかむにの言いう「法ほうには定法じょうほう無なし」の本当ほんとうの意味いみは何なんでしょうか? 釈迦牟尼しゃかむにのいた次元じげんは如来にょらいでしたが、その後ごの多おおくの僧侶そうりょたちはいずれも、釈迦牟尼しゃかむにがいた次元じげんや、彼かれの思想しそう境地きょうちにおける心こころの状態じょうたい、彼かれの説といた法ほうの本当ほんとうの意味いみ、言いった言葉ことばの本当ほんとうの意味いみなどを、悟さとることができませんでした。そのために、こう解釈かいしゃくしたり、ああ解釈かいしゃくしたりして、非常ひじょうに混乱こんらんしています。「法ほうには定法じょうほう無なし」というのは何なにも言いうことは許ゆるされず、言いい出だしたら法ほうではなくなることだと思おもわれています。実じつはそういう意味いみではありません。釈迦牟尼しゃかむには菩提樹ぼだいじゅの下したで、功こうを開ひらき悟さとりを開ひらいた後あと、直ただちに如来にょらいの次元じげんに達たっしたわけではありません。彼かれは四十九年間よんじゅうきゅうねんかんにわたる説法せっぽうの間あいだも、絶たえず自分じぶんを高たかめていました。次元じげんを一ひとつ上あがる度たびに振ふり返かえって見みると、説といたばかりの法ほうはみな違ちがっていました。さらに上あがれば、先さきに説といた法ほうもまた違ちがってきました。さらに上あがれば、先さきほど説といた法ほうもまた違ちがってきました。四十九年よんじゅうきゅうねんの間あいだに、彼かれはこのように絶たえず昇華しょうかしていきながら、次元じげんが上あがる度たびに、自分じぶんの以前いぜんに説といた法ほうは認識にんしきが低ひくかったことに気きづいたのでした。さらに、それぞれの次元じげんの法ほうはみなその次元じげんにおける法ほうの現あらわれで、どの次元じげんにも法ほうがありますが、どれも宇宙うちゅうの絶対ぜったい的てき真理しんりではないということにも気きづきました。しかも高たかい次元じげんの法ほうほど宇宙うちゅうの特性とくせいに近ちかいのです。そこで彼かれは「法ほうには定法じょうほう無なし」と言いったわけです。
 釈迦牟尼しゃかむには最後さいごに、「わたしは生涯しょうがい、何なんの法ほうも説といていない」とも言いいました。禅宗ぜんしゅうではまたしても説とくべき法ほうがないと理解りかいしてしまいました。釈迦牟尼しゃかむには、晩年ばんねんすでに如来にょらいの次元じげんに到達とうたつしましたが、なぜ何なんの法ほうも説といていないと言いったのでしょうか? 本当ほんとうはどういうことを言いっているのでしょうか? 自分じぶんは如来にょらいの次元じげんに到達とうたつしていても、宇宙うちゅうの最終さいしゅうの理り、最終さいしゅうの法ほうが何なんなのかまだ見みえていない、と釈迦牟尼しゃかむにはこういうことを言いっているのです。したがって彼かれは、自分じぶんの話はなした言葉ことばを絶対ぜったいの真理しんり、不変ふへんの真理しんりと見みなさないようにと言いっており、そういうことをすれば後世こうせいの人ひとは如来にょらいあるいは如来にょらい以下いかの次元じげんに限かぎられ、もっと高たかい次元じげんへ突破とっぱできなくなるのだ、と後世こうせいの人ひとに教おしえているのです。後世こうせいの人ひとはこの話はなしの真意しんいが分わからず、法ほうは語かたられると法ほうではなくなると思おもい込こみ、そのように理解りかいしています。実じつは釈迦牟尼しゃかむには、異ことなる次元じげんには異ことなる法ほうがあり、どの次元じげんの法ほうも宇宙うちゅうの絶対ぜったい的てき真理しんりではないが、その次元じげんにおいては指導しどう作用さようがある、ということを説といています。彼かれは本当ほんとうのところ、そのような理りを語かたっています。
 昔むかし、多おおくの人ひとは、特とくに禅宗ぜんしゅうでは、ずっとこのような偏見へんけんと極端きょくたんに誤あやまった認識にんしきを持もっていました。教おしえなければ何なにに基もとづいてどのように修行しゅぎょうし、どのように修煉しゅうれんすればよいのでしょうか? 佛教ぶっきょうには佛教ぶっきょうにまつわる多おおくの物語ものがたりがあり、読よんだことのある人ひとがいるかも知しれませんが、天国てんごくへ行いった話はなしがあります。天国てんごくへ行いったら、そこで見みた『金剛経こんごうきょう』と下界げかいの『金剛経こんごうきょう』とは、同おなじ文字もじが一ひとつもなく、意味いみもまったく違ちがうのに気きづいたというのです。どうしてこの『金剛経こんごうきょう』と人間にんげん世界せかいの『金剛経こんごうきょう』は違ちがうのでしょうか? また、極楽ごくらく世界せかいの経典きょうてんが下界げかいのそれとまったく異ことなっており、ほとんど同おなじものとは言いえず、文字もじだけではなく、指さし示しめすところや意味いみまで違ちがい、変化へんかしている、と言いう人ひともいます。それはほかでもない、同おなじ法ほうが異ことなる次元じげんにおいて異ことなる変化へんかや現あらわれ方かたをもち、異ことなった次元じげんにおいて、修煉者しゅうれんしゃに対たいして異ことなった指導しどう作用さようをなすことができる、ということです。
 皆みなさんもご存ぞんじのように、佛教ぶっきょうには『西方さいほう極楽ごくらく世界せかい遊記ゆうき』という小しょう冊子さっしがあります。一人ひとりの僧侶そうりょが坐禅ざぜんしている間あいだに、その元神げんしんが極楽ごくらく世界せかいに行いってそこの景色けしきを見みました。一日いちにちぶらぶらして、現世げんせに戻もどってきたら、すでに六ろく年ねんが過すぎていたという話はなしです。彼かれには本当ほんとうに見みえたのでしょうか? 確たしかに見みえました。しかし見みたのは真相しんそうではありません。なぜでしょうか? 彼かれの次元じげんが低ひくいので、その次元じげんにおいて彼かれの見みるべき佛法ぶっぽうの現あらわれだけしか、彼かれに見みせることができないからです。というのは、そのような世界せかいはまさに法ほうが構成こうせいするものの現あらわれなので、彼かれに真相しんそうが見みえるはずもありません。わたしの言いう「法ほうには定法じょうほう無なし」はそういう意味いみです。
 

 真しん・善ぜん・忍にんは良よい人ひとか悪わるい人ひとかを判断はんだんする唯一ゆいいつの基準きじゅん


 佛教ぶっきょうにおいて人々ひとびとは、「佛法ぶっぽうとは何なにか」をずっと探求たんきゅうしています。佛教ぶっきょうの中なかで述のべられている法ほうが佛法ぶっぽうの全部ぜんぶだと言いう人ひともいますが、実際じっさいはそうではありません。釈迦牟尼しゃかむにの法ほうは、二に千せん五ご百ひゃく年ねん前まえに、次元じげんのきわめて低ひくい常人じょうじん、つまり原始げんし社会しゃかいから脱皮だっぴしたばかりの、考かんがえ方かたも比較的ひかくてき単一たんいつな人々ひとびとに説といた法ほうであるに過すぎません。釈迦牟尼しゃかむにの言いう末法まっぽう時期じきは、今日こんにちのことで、今いまの人ひとはその法ほうに基もとづいてはすでに修煉しゅうれんできなくなっています。末法まっぽう時期じきには、寺てらの和尚おしょうが自己じこを済度さいどすることさえもできないのに、ましてや他人たにんを済度さいどすることなどなおさらです。釈迦牟尼しゃかむにが当時とうじ伝つたえた法ほうは当時とうじの実状じつじょうに合あわせて伝つたえたもので、しかも彼かれも自みずからの到達とうたつした次元じげんにおける佛法ぶっぽうを全部ぜんぶ説といたわけではないので、その法ほうをいつまでも変かわらずに維持いじし続つづけようとしても不可能ふかのうです。
 社会しゃかいは発展はってんし、人類じんるいの思想しそうもますます複雑ふくざつになりましたので、以前いぜんと同おなじように修煉しゅうれんし続つづけることが難むずかしくなりました。佛教ぶっきょうの法ほうは佛法ぶっぽうの全部ぜんぶではなく、佛法ぶっぽうの中なかのほんのわずかな一いち部分ぶぶんに過すぎません。他ほかにも多おおくの佛家ぶっけ大法たいほうが代々だいだい一人ひとりにしか伝つたえない形かたちで民間みんかんに伝つたわっています。異ことなる次元じげんに異ことなる法ほうがあり、異ことなる空間くうかんに異ことなる法ほうがありますが、いずれも佛法ぶっぽうの各かく空間くうかん、各かく次元じげんにおいての違ちがった現あらわれです。釈迦牟尼しゃかむにも佛ほとけを修おさめるには八万四千はちまんよんせんの法門ほうもんがあると言いっていましたが、佛教ぶっきょうには禅宗ぜんしゅう、浄土じょうど、天台てんだい、華厳けごん、密教みっきょうなど十じゅう数すうの法門ほうもんしかないので、佛法ぶっぽうの全部ぜんぶを代表だいひょうすることはできません。釈迦牟尼しゃかむにも自分じぶんの法ほうを残のこらず伝つたえたわけではなく、ただその時代じだいの人間にんげんの受うけ入いれ能力のうりょくに合あわせてその一部いちぶしか伝つたえていません。
 それでは佛法ぶっぽうとは何なんでしょうか? この宇宙うちゅうの最もっとも根本こんぽん的てきな特性とくせいは真しん・善ぜん・忍にんで、これこそが佛法ぶっぽうの最高さいこうの体現たいげんであり、最もっとも根本こんぽん的てきな佛法ぶっぽうなのです。佛法ぶっぽうは異ことなる次元じげんでは異ことなる現あらわれ方かたがあり、異ことなった次元じげんにおいては異ことなった指導しどう作用さようを持もっていますが、次元じげんが低ひくくなればなるほど、現あらわれ方かたが厖大ぼうだいで複雑ふくざつになります。空気くうきの微粒子びりゅうしや石いし、木材もくざい、土つち、鉄鋼てっこう、人体じんたいなど、あらゆる物質ぶっしつの中なかに、真しん・善ぜん・忍にんという特性とくせいが存在そんざいしています。古代こだいでは五行ごぎょうが宇宙うちゅうの万事万物ばんじばんぶつを構成こうせいすると考かんがえていましたが、それにも真しん・善ぜん・忍にんという特性とくせいが存在そんざいしています。修煉者しゅうれんしゃは自分じぶんの修煉しゅうれんして到達とうたつした次元じげんの佛法ぶっぽうの具体ぐたい的てきな現あらわれしか認識にんしきできず、これが修煉しゅうれんによって得えた果位かいであり、次元じげんです。裾野すそのを広ひろげて考かんがえれば、法ほうはとてつもなく大おおきいのですが、頂点ちょうてんに立たって説明せつめいすれば、法ほうはピラミッドのような形かたちをしているので、非常ひじょうに簡単かんたんなものになります。最高さいこうの次元じげんでは三さん文字もじで概括がいかつできます。それが真しん・善ぜん・忍にんにほかなりません。しかし、各かく次元じげんに現あらわれてくると、きわめて複雑ふくざつになります。人間にんげんを例れいにして言いえば、道家どうけは人体じんたいを小宇宙しょううちゅうと見みなしています。人間にんげんは物質ぶっしつ的てきな身体からだを持もっていますが、物質ぶっしつ的てきな身体からだだけでは完全かんぜんな人間にんげんを構成こうせいすることができません。人間にんげんとしての気質きしつや性格せいかく、特性とくせい、元げん神しんを持もって、はじめて完全かんぜんな、独立どくりつした、自我じがの個性こせいを持もった人間にんげんになれます。われわれの宇宙うちゅうも同おなじで、銀河系ぎんがけいがあり、他たの恒星こうせい系けいがあり、生命せいめいや水みずもありますが、この宇宙うちゅうにある万事ばんじ万物ばんぶつは、物質ぶっしつ的てき存在そんざいの一いち面めんです。それと同時どうじに、真しん・善ぜん・忍にんの特性とくせいも存在そんざいしています。あらゆる物質ぶっしつの微粒子びりゅうしの中なかに、このような特性とくせいが含ふくまれており、きわめて小ちいさい微粒子びりゅうしの中なかにさえ、このような特性とくせいが含ふくまれています。
 真しん・善ぜん・忍にんという特性とくせいは、宇宙うちゅうの中なかの善悪ぜんあくを判断はんだんする基準きじゅんです。善よし悪あしはそれによって量はかられます。昔むかしから言いわれてきた徳とくというものも同おなじです。言いうまでもなく、今日こんにちの人類じんるい社会しゃかいの道徳どうとく水準すいじゅんにはすでに変化へんかが起おこり、道徳どうとく基準きじゅんまでが歪ゆがんでしまっています。今いま、誰だれかが雷鋒らいほうを手本てほんにしていれば、頭あたまがおかしいと言いわれるかも知しれません。しかし、五ご、六ろく十じゅう年代ねんだいには、頭あたまがおかしいと言いう人ひとがいたでしょうか? 人類じんるいの道徳どうとく水準すいじゅんは甚はなはだしく低下ていかしており、世よの中なかの風紀ふうきは日増ひましに乱みだれ、人々ひとびとは利益りえきに目めがくらみ、ちょっとした利益りえきのために人ひとを傷きずつけたり、奪うばい合あったりして、手段しゅだんを選えらばずにやっています。よく考かんがえてみてください。このような状態じょうたいを続つづけていくことが許ゆるされてよいでしょうか? 悪事あくじを働はたらいている人ひとに、それは悪事あくじだよと注意ちゅういしてあげても、信しんじない人ひとがいます。彼かれは本当ほんとうに自分じぶんが悪わるいことをしているとは信しんじません。また低下ていかした道徳どうとく水準すいじゅんで自分じぶんの行動こうどうを判断はんだんし、他人たにんよりましだと思おもっている人ひともいます。判断はんだんの基準きじゅんまで変かわったからです。しかし、人類じんるいの道徳どうとく基準きじゅんがどんなに変かわろうとも、この宇宙うちゅうの特性とくせいは変かわることはなく、それが良よい人ひとと悪わるい人ひとを量はかる唯一ゆいいつの基準きじゅんです。ですから、修煉者しゅうれんしゃとしてはこの宇宙うちゅうの特性とくせいに照てらして、自分じぶんを律りっしなければならず、常人じょうじんの基準きじゅんで自分じぶんを律りっしてはいけません。返本帰真へんぽんきしんを願ねがい、上うえの次元じげんへ修煉しゅうれんしようとするには、この基準きじゅんに従したがって行動こうどうしなければなりません。一人ひとりの人間にんげんとして、宇宙うちゅうの真しん・善ぜん・忍にんの特性とくせいに順応じゅんのうできる人ひとだけが本当ほんとうに良よい人ひとで、この特性とくせいに背そむく人ひとが、本当ほんとうに悪わるい人ひとです。職場しょくばで、あるいは社会しゃかいで評判ひょうばんが悪わるくても本当ほんとうに悪わるい人ひととは限かぎらず、逆ぎゃくに評判ひょうばんが良よくても、必かならずしも本当ほんとうに良よい人ひととは限かぎりません。一人ひとりの修煉者しゅうれんしゃとして、あなたがこの特性とくせいに同化どうかすれば、得道とくどうした者ものとなるのです。理りはこんなにも簡単かんたんです。
 道家どうけは真しん・善ぜん・忍にんを修煉しゅうれんする際さいに、主おもに真しんを修煉しゅうれんします。ですから、道家どうけは真しんを修おさめ、心性しんせいを養やしなうことを重おもんじ、真実しんじつのことを話はなし、嘘うそ偽いつわりのないことをし、正直しょうじきな人間にんげんになって返本へんぽん帰き真しんし、最後さいごには修煉しゅうれんが成就じょうじゅして真人しんじんになることを目指めざします。もちろん、それには忍にんもあり、善ぜんもありますが、真しんを重点的じゅうてんてきに修煉しゅうれんします。佛家ぶっけは主おもに真しん・善ぜん・忍にんの善ぜんを修煉しゅうれんします。善ぜんを修煉しゅうれんすれば、大おおいなる慈悲じひ心しんが生うまれます。慈悲じひ心しんが生うまれると、すべての衆生しゅじょうが苦くるしんでいるのを見みて、衆生しゅじょうを済度さいどしようとする願望がんぼうを持もつようになります。真しんもあり、忍にんもありますが、善ぜんを重点的じゅうてんてきに修煉しゅうれんするのです。われわれの法輪大法ファールンダーファーという法門ほうもんは、宇宙うちゅうの最高さいこうの基準きじゅん──真しん・善ぜん・忍にんに基もとづいて同時どうじに修煉しゅうれんするので、われわれの修煉しゅうれんする功こうはとても大おおきいのです。
 

 気功きこうは先史せんし文化ぶんか


 気功きこうとは何なにか? 多おおくの気功きこう師しがみなそれぞれ説明せつめいしていますが、わたしの説明せつめいは彼かれらとは違ちがいます。多おおくの気功きこう師しがそれぞれの次元じげんで話はなしていますが、わたしはより高たかい次元じげんにおいて、気功きこうに対たいする認識にんしきを話はなしているので、彼かれらの認識にんしきとはまったく違ちがいます。気功きこうは我わが国くににおいて、二に千年せんねんの歴史れきしがあると言いう気功きこう師しがいます。三千年さんぜんねんの歴史れきしがあると言いう人ひともいれば、五ご千年せんねん、つまり中華ちゅうか民族みんぞくの文明ぶんめいの歴史れきしとほぼ近ちかい歴史れきしがあると言いう人ひともいます。さらに、遺跡いせきから出土しゅつどしたものを見みると、中華ちゅうか民族みんぞくの文明ぶんめいの歴史れきしを遥はるかに上回うわまわる七なな千年せんねんの歴史れきしがあると言いう人ひともいます。しかし、どんなに解釈かいしゃくしても、人類じんるいの文明ぶんめいの歴史れきしをあまり大おおきく超こえていません。ダーウィンの進化しんか論ろんによれば、人類じんるいは水生すいせい植物しょくぶつから水生すいせい動物どうぶつになり、そして陸地りくちに上陸じょうりくし、樹きの上うえに登のぼり、また地上ちじょうに降おりて猿人えんじんになり、最後さいごに文化ぶんかと思想しそうを持もつ現代げんだい人類じんるいに進化しんかしたと言いいますが、それによって推計すいけいすれば、人類じんるいの文明ぶんめいが真しんに現あらわれてから一いち万年まんねんにもなっていません。さらに遡さかのぼれば、縄なわを結むすんで事ことを記録きろくすることもなく、木この葉はを衣ころもにし、生なまの肉にくを食たべていました。さらに遡さかのぼれば、火ひを使つかうことも知しらない、まったくの野蛮やばん人じん、原始げんし人じんになります。
 しかし、われわれは一ひとつの問題もんだいに気きづいています。つまり、世界中せかいじゅうの多おおくの地域ちいきに、われわれ人類じんるいの文明ぶんめいの歴史れきしを遥はるかに超こえたたくさんの文明ぶんめい遺跡いせきが残のこっているのです。これらの遺跡いせきは、工芸こうげいの面めんから見みると、レベルがかなり高たかく、芸術げいじゅつの面めんから見みても、かなり優すぐれており、現代人げんだいじんはまるで古人こじんの芸術げいじゅつを模倣もほうしていると思おもうほど、高たかい鑑賞かんしょう価値かちがあります。ところが、それは十じゅう数すう万年まんねん前まえ、数すう十じゅう万年まんねん前まえ、数すう百ひゃく万年まんねん前まえ、さらには一いち億年おくねんも前まえから残のこされたものです。皆みなさん考かんがえてみてください。それは今日こんにちの歴史れきしをあざ笑わらっているのではありませんか? いや、あざ笑わらうなどということはありません。なぜなら、人類じんるいも絶たえず自みずからを向上こうじょうさせ、絶たえず自みずからを再さい認識にんしきしており、社会しゃかいもこのように発展はってんしてきたもので、初はじめの認識にんしきが必かならずしも正ただしいとは言いえないからです。
 「先史せんし文化ぶんか」、あるいは「先史せんし文明ぶんめい」という言葉ことばを聞きいたことがある人ひとも多おおいかも知しれませんが、この先史せんし文明ぶんめいについてお話はなししましょう。地球ちきゅう上じょうにはアジア、ヨーロッパ、南みなみアメリカ、北きたアメリカ、オセアニア、アフリカ、そして南極なんきょくがあります。地質ちしつ学者がくしゃはそれらを一括いっかつして「大陸たいりくプレート」と称しょうしています。大陸たいりくプレートができてから今日こんにちまで、すでに数すう千せん万年まんねんの歴史れきしがあります。言いい換かえれば、多おおくの陸地りくちは海底かいていから上あがってきたもので、逆ぎゃくに海底かいていに沈しずんだ陸地りくちもたくさんありましたが、安定あんていして今日こんにちの状態じょうたいに落おち着つくようになってから、すでに数すう千せん万年まんねんが経たっているということです。ところが、多おおくの海底かいていで、巨大きょだいな古代こだい建築物けんちくぶつが発見はっけんされました。これらの建築けんちくの彫刻ちょうこくは非常ひじょうに精巧せいこうで美うつくしいものですが、われわれの今いまの人類じんるいの文化ぶんか遺産いさんではありません。だとすると、海底かいていに沈しずむ前まえに建たてられたものに違ちがいありません。では、数すう千せん万年まんねん前まえに誰だれがこのような文明ぶんめいを創造そうぞうしたのでしょうか? その時とき、われわれ人類じんるいはまだ猿さるにもなっていなかったのに、どうしてこのような高たかい知恵ちえに富とむものを作つくれたのでしょうか? 世界せかいの考古こうこ学者がくしゃは「三葉虫さんようちゅう」という生物せいぶつを発見はっけんしました。それは六ろく億年おくねんから二に億おく六ろく千せん万年まんねん前まえまでのもので、二に億おく六ろく千せん万年まんねん前まえ以降いこうはこの種しゅの生物せいぶつは姿すがたを消けしました。アメリカの科学者かがくしゃが見みつけた「三葉虫さんようちゅう」の化石かせきに人ひとの足跡あしあとがあり、靴くつを履はいた足跡あしあとがはっきりと残のこっています。これは歴史れきし学者がくしゃをからかっているのではありませんか? ダーウィンの進化しんか論ろんに従したがえば、二に億おく六ろく千せん万年まんねん前まえに人類じんるいがいるはずがないのではありませんか?
 ペルー国立こくりつ大学だいがく博物館はくぶつかんに一ひとつの石いしがあり、その石いしに人間にんげんの姿すがたが彫刻ちょうこくされています。鑑定かんていによれば、この人間にんげんの姿すがたは三さん万年まんねん前まえに彫刻ちょうこくされたものです。しかし、その人間にんげんは服ふくを着きて、帽子ぼうしをかぶり、靴くつを履はいていて、おまけに望遠鏡ぼうえんきょうまで手てに持もって空そらを観察かんさつしているのです。三さん万年まんねん前まえの人ひとがどうして布ぬのを織おり、服ふくを着きることができるのでしょうか? もっと不思議ふしぎなのは、その人ひとはある程度ていどの天文てんもん知識ちしきをもっているらしく、望遠鏡ぼうえんきょうを持もって天体てんたいを観察かんさつしていることです。望遠鏡ぼうえんきょうは、ヨーロッパ人じんのガリレオが発明はつめいしたとわれわれはずっと思おもっており、現在げんざいまでせいぜい三百年さんびゃくねんの歴史れきしがあるに過すぎません。なのに、三さん万年まんねん前まえに誰だれがこの望遠鏡ぼうえんきょうを発明はつめいしたのでしょうか? 他ほかにも不可解ふかかいな謎なぞはたくさんあります。例たとえば、フランス、南みなみアフリカ、アルプス山脈さんみゃくでは多おおくの洞窟どうくつに壁画へきががあり、非常ひじょうに真しんに迫せまり、生いき生いきと表現ひょうげんされています。彫刻ちょうこくされた人間にんげんの姿すがたは非常ひじょうに精巧せいこうで美うつくしく、鉱こう物質ぶっしつの顔料がんりょうで着色ちゃくしょくされてもいます。しかも、これらの人間にんげんはみな現代げんだい人じんの身みなりをして背広せびろのような服ふくを着きて、細ほそいズボンを穿はいています。パイプのようなものを手てにする者ものもいれば、ステッキを持もって帽子ぼうしをかぶっている者ものもいます。数十万年前すうじゅうまんねんまえの猿さるに、こんな高たかい芸術げいじゅつレベルがありえたのでしょうか?
 もっと遠とおいお話はなしをしましょう。アフリカのガボン共和きょうわ国こくではウランという鉱石こうせきが発見はっけんされましたが、国くにが立たち後おくれていて、自国じこくではウランの精錬せいれんができないため、先進せんしん国こくへ輸出ゆしゅつしていました。一九七二せんきゅうひゃくななじゅうに年ねんにフランスのある会社かいしゃがそれを輸入ゆにゅうし、科学かがく実験じっけんをしたところ、そのウラン鉱石こうせきはすでに精錬せいれんされて使用しようされたものだと判明はんめいしました。不思議ふしぎに思おもった会社かいしゃ側がわは現地げんちに技術ぎじゅつ者しゃを派遣はけんして調査ちょうさし、多おおくの国々くにぐにの科学かがく者しゃも調査ちょうさに行いきました。最後さいごに、そのウラン鉱石こうせき採掘さいくつ場じょうは大型おおがたの原子げんし炉ろだったこと、構造こうぞうが非常ひじょうに合理ごうり的てきで、われわれ現代げんだいの人類じんるいも造つくれないものだということが実証じっしょうされました。では、いつ建たてられたのでしょうか? 二に十じゅう億年おくねん前まえで、五十ごじゅう万年まんねんも運うん転てんされていたというのです。まるで天文学てんもんがく的てきな数字すうじで、ダーウィンの進化しんか論ろんでは解釈かいしゃくのしようもありません。このような例れいが非常ひじょうに多おおいのです。現在げんざい、科学かがく界かいが発見はっけんしたことは今日こんにちの教科書きょうかしょを十分じゅうぶん書かき換かえられるのです。人類じんるいは固有こゆうの古ふるい観念かんねんにより、ある種しゅのやり方かた、考かんがえ方かたを形作かたちづくってしまうと、新あらたな認識にんしきを受うけ入いれることが難むずかしくなります。真理しんりが現あらわれても、それを受うけ入いれる勇気ゆうきがなく、本能ほんのう的てきに排斥はいせきしたりします。伝統でんとう的てき観念かんねんの影響えいきょうにより、これらのものを系統的けいとうてきに整理せいりする人ひとがいないので、人類じんるいの認識にんしきはいつも発展はってんに追おいつきません。このようなことは、まだ広ひろく知しられていないことではありますが、すでに発見はっけんされています。にもかかわらずそれを言いい出だすと、迷信めいしんだと言いって認みとめようとしない人ひとがいるものです。
 勇気ゆうきある外国がいこくの多おおくの科学かがく者しゃは、すでにこれは先史せんし文化ぶんかで、われわれ人類じんるいの今回こんかいの文明ぶんめいより前まえの文明ぶんめいであることを公おおやけに認みとめています。すなわち、今回こんかいの文明ぶんめいの前まえにさらに文明ぶんめい時期じきが存在そんざいしており、しかも一回いっかいだけではありませんでした。出土しゅつどしたものから見みても、同おなじ文明ぶんめい時期じきのものではないことが分わかります。人類じんるいの文明ぶんめいは、度重たびかさなる壊滅かいめつ的てきな打撃だげきを受うけては、少数しょうすうの人ひとだけが生いき残のこり、原始げんし生活せいかつを過すごしながら、また次第しだいに新あたらしい人類じんるいを生うみ出だし、新あらたな文明ぶんめいに入はいりますが、それからまた壊滅かいめつに向むかって、再ふたたび新あらたな人類じんるいが生うまれる、というように、幾度いくども異ことなった周期しゅうき的てきな変化へんかをたどってきたものと考かんがえられています。物質ぶっしつの運動うんどうには規律きりつがあると物理ぶつり学者がくしゃが言いいますが、われわれのこの宇宙うちゅう全体ぜんたいの変化へんかにも規律きりつがあります。
 われわれの地球ちきゅうは、この果はてしない宇宙うちゅうの銀河系ぎんがけいの中なかで運行うんこうするにあたって、順風満帆じゅんぷうまんぱんというわけにはいかず、どこかの星ほしと衝突しょうとつしたり、あるいは何なにか他ほかのことが起おこったりして、大おおきな災難さいなんに見舞みまわれることがあります。われわれの功能こうのうの視点してんから見みれば、そういうふうに定さだめられているにほかならないのです。ある日ひ、わたしが詳くわしく調しらべてみたところ、人類じんるいは八十一回はちじゅういっかいも完全かんぜんに壊滅かいめつされた状態じょうたいに陥おちいり、ただわずかの人ひとだけが生いき残のこり、わずかの先史せんし文明ぶんめいが残のこされ、次つぎの時期じきに入はいって、原始げんし生活せいかつを送おくり始はじめたのです。人類じんるいがだんだん増ふえていって、最後さいごに再ふたたび文明ぶんめいが現あらわれました。八十一回はちじゅういっかいもこのような周期しゅうき的てきな変化へんかをたどってきましたが、わたしはそれでもまだ調しらべ尽つくしたわけではありません。中国人ちゅうごくじんは天てんの時とき、地ちの利り、人ひとの和わというのを重おもんじますが、天象てんしょうの変化へんかが違ちがい、天てんの時ときも違ちがえば、常人じょうじん社会しゃかいは違ちがった社会しゃかい状態じょうたいになります。物理ぶつり学がくの言葉ことばを借かりれば、物質ぶっしつの運動うんどうに規律きりつがあるということですが、宇宙うちゅうの運動うんどうも同おなじです。
 今いま、先史せんし文化ぶんかのことをお話はなししたのは、気功きこうもわれわれ今日こんにちの人類じんるいが発明はつめいしたものではなく、悠久ゆうきゅうの年月ねんげつを経へて伝つたわってきたもので、先史せんし文化ぶんかの一ひとつであることを、皆みなさんに知しってもらいたかったからです。経典きょうてんの中なかにもそれについて書かいているところがあります。釈迦牟尼しゃかむには自分じぶんは数すう億おく劫こうより前まえにすでに得道とくどうして成就じょうじゅしたと言いっていましたが、一劫いっこうというのは何なん年ねんでしょうか? 一劫いっこうは数すう億年おくねんなので、これだけ厖大ぼうだいな数字すうじは、とても不思議ふしぎに聞きこえます。もし本当ほんとうなら、これは人類じんるいの歴史れきしおよび地球ちきゅうの変化へんかに符合ふごうするのではありませんか? しかも釈迦牟尼しゃかむには、彼かれの前まえにさらに原始げんし六佛ろくぶつがいて、彼かれにも師しがおり、みな数すう億おく劫こう以前いぜんに修煉しゅうれんして得道とくどうしたものだと言いっています。それらのことが本当ほんとうならば、今日こんにち、世間せけんで伝つたわっている本当ほんとうの正統せいとう功法こうほうや直伝じきでん功法こうほうには、そのような修煉しゅうれん法ほうが含ふくまれているのでしょうか? わたしの答こたえは、もちろん「はい」です。しかし、あまり多おおく見みられません。現在げんざい、インチキな気功きこうや偽物にせものの気功きこう、憑つき物ものに取とり付つかれた人ひとが、でたらめなものをでっち上あげて人々ひとびとを騙だましています。そういうものは、本物ほんものの気功きこうより何なん倍ばいも多おおく、真偽しんぎを判別はんべつするのが難むずかしくなっています。本当ほんとうの気功きこうはそう簡単かんたんに見分みわけることができるものではなく、探さがし当あてることも大変たいへんです。
 実じつは、大昔おおむかしから伝つたわってきたものは気功きこうだけではなく、太極たいきょく、河図かと、洛書らくしょ、周易しゅうえき、八卦はっけなどもみな先史せんしから残のこされたものです。したがって、今日こんにちわれわれは常人じょうじんの立場たちばに立たって、それをどんなに研究けんきゅうし理解りかいしようと思おもっても、究明きゅうめいできません。常人じょうじんという次元じげん、立場たちば、思想しそう境地きょうちからでは、本当ほんとうのことを理解りかいできるはずがありません。
 
 

 気功きこうは修煉しゅうれんにほかならない


 気功きこうはこのような長ながい歴史れきしをもっていますが、いったい何なんのためのものでしょうか? わたしが皆みなさんに言いいたいのは、われわれのやっているのは佛家ぶっけ修煉しゅうれん大法ダーファーですので、言いうまでもなく佛ほとけを修おさめるものです。道家どうけはもちろん、道どうを修煉しゅうれんし、得道とくどうするものです。言いっておきますが、この「佛ほとけ」は迷信めいしんではありません。この「佛ほとけ」は、梵語ぼんごであり、古代こだいインドの言語げんごです。中国ちゅうごくに伝つたわって来きた当時とうじは、二文字ふたもじ、「佛陀フォートウォ」、あるいは「浮図フートゥ」と音訳おんやくされていました。あちこちに伝つたわっているうちに、中国人ちゅうごくじんは一いち字じを省はぶいて、それを「佛フォー」と呼よぶようにしました。それを中国ちゅうごく語ごに訳やくせば、どういう意味いみになるでしょうか? それは覚者かくしゃで、修煉しゅうれんを通つうじて悟さとりを開ひらいた人ひとのことです。この中なかのどこに迷信めいしんの意味いみがあると言いうのですか?
 皆みなさん考かんがえてみてください。修煉しゅうれんを重かさねると超能力ちょうのうりょくが生しょうじてくるものです。今いま、世界せかいで六ろく種類しゅるいの超能力ちょうのうりょくが認みとめられていますが、それだけにとどまらず、わたしに言いわせれば、本当ほんとうの功能こうのうは一いち万まん種類しゅるい以上いじょうあります。人ひとはそこに坐すわったまま、手ても足あしも動うごかさないで、他ほかの人ひとが手て足あしを使つかっても出来できないことをやり遂とげてしまいます。宇宙うちゅうの各かく空間くうかんの本当ほんとうの理りが見みえ、宇宙うちゅうの真相しんそうが見みえ、常人じょうじんの見みえないものが見みえます。そういう人ひとは、修煉しゅうれんによって得道とくどうした人ひとではないでしょうか? 大覚者だいかくしゃではないでしょうか? 常人じょうじんと同おなじだと言いえるでしょうか? 修煉しゅうれんによって悟さとりを開ひらいた人ひとではないでしょうか? 覚者かくしゃと呼よんでどこが正ただしくないのでしょうか? 古代こだいインドの言葉ことばに翻訳ほんやくすれば、佛ほとけとなります。実際じっさいそういうことになるのです。気功きこうはそのためのものにほかなりません。
 気功きこうと言いえば、「病気びょうきがなければ誰だれが気功きこうなんかやるものか?」と言いう人ひとがいます。まるで気功きこうが病気びょうき治療ちりょうのためだけのような言いい方かたですが、その認識にんしきは実じつに浅あさはかです。これは別べつに皆みなさんのせいではありません。多おおくの気功きこう師しがみな病気びょうき治療ちりょうと健康けんこう保持ほじのことばかりやっており、病気びょうき治療ちりょうと健康けんこう保持ほじのことだけを教おしえて、誰だれも高たかい次元じげんのものを伝つたえていないからです。この人ひとたちの功法こうほうが良よくないと言いっているわけではありません。彼かれらの使命しめいはほかでもなく病気びょうき治療ちりょうと健康けんこう保持ほじという次元じげんのものを伝つたえ、気功きこうを普及ふきゅうさせることです。高たかい次元じげんをめざして修煉しゅうれんしたいという考かんがえや願望がんぼうを持もっている人ひとが大勢おおぜいいるのに、正ただしい修煉しゅうれんの方法ほうほうが分わからないために、結果けっか的てきに大おおきな困難こんなんをきたし、いろいろな問題もんだいも起おこっています。もちろん、本当ほんとうに高たかい次元じげんへの功こうを伝つたえようとすると、非常ひじょうに高度こうどな問題もんだいにかかわりを持もってきます。そこで、われわれは常つねに社会しゃかいに責任せきにんをもち、人ひとに責任せきにんをもつことを念頭ねんとうに置おいています。ですからわれわれの伝つたえる功こうは全般ぜんぱん的てきに良よい効果こうかを収おさめているのです。一部いちぶの内容ないようは確たしかに非常ひじょうに高度こうどなので、迷信めいしんのように聞きこえますが、しかし、われわれはできるだけ現代げんだい科学かがくでそれを解とき明あかしていきたいと思おもいます。
 一部いちぶの内容ないようは、われわれが言いうと、すぐに迷信めいしんだと言いう人ひとがいます。なぜでしょうか? 彼かれらにとっては、科学かがくがまだ認識にんしきしていないこと、あるいは自分じぶん自身じしんが接触せっしょくしていないこと、存在そんざい不可能ふかのうだと思おもっていることは、すべて迷信めいしんで、唯心ゆいしん的てきだということになります。彼かれらはそういうふうにしか物事ものごとが考かんがえられません。このような見方みかたは正ただしいでしょうか? 科学かがくがまだ認識にんしきしていないもの、あるいはまだ到達とうたつしていないものを、迷信めいしんだ、唯心ゆいしん的てきだと言いえるのでしょうか? そんなことを言いっている人ひとこそ自分じぶんが迷信めいしんや唯心ゆいしん的てきなことをやっているのではないでしょうか? そのような考かんがえ方かたに従したがえば、科学かがくの発展はってん、進歩しんぽがありうるでしょうか? 人類じんるい社会しゃかいも前まえへ進すすめなくなります。科学かがく技術ぎじゅつ界かいの発明はつめいしたものはすべてそれ以前いぜんにはなかったものばかりであり、みな迷信めいしんだと見みなされると、当然とうぜん発展はってんなどはしなくてよいことになります。気功きこうはなにも唯心ゆいしん的てきなものではありませんが、多おおくの人ひとは気功きこうのことが分わからないので、いつも唯心ゆいしん的てきだと思おもい込こんでいます。最近さいきん、測定そくてい機器ききを使つかって気功きこう師しの身体からだから低音波ていおんぱ、超音波ちょうおんぱ、電磁波でんじは、赤外線せきがいせん、紫外線しがいせん、ガンマ線せん、中性子ちゅうせいし、原子げんし、微量びりょう金属きんぞく元素げんそなどの成分せいぶんを測定そくていできました。これらはみな物質ぶっしつとして存在そんざいしているものではないでしょうか? それらも物質ぶっしつです。あらゆるものはみな物質ぶっしつで構成こうせいされているのではありませんか? 他たの時空じくうも同おなじく物質ぶっしつによって構成こうせいされているのではありませんか? どうして迷信めいしんだと言いえるのですか? 気功きこうが佛ほとけを修おさめるためのものである以上いじょう、必然ひつぜん的てきに多おおくの奥深おくぶかい問題もんだいにかかわりを持もちます。ですからわれわれはそういったことをすべてお話はなししなければなりません。
 気功きこうは佛ほとけを修おさめるためのものであるのに、なぜわれわれはそれを気功きこうと呼よぶのでしょうか? 本当ほんとうはその名なは気功きこうではありません。何なんと呼よぶのでしょうか? それを「修煉しゅうれん」と呼よびます。ほかでもない修煉しゅうれんそのものです。もちろん、他ほかにも具体ぐたい的てきな呼よび名ながありますが、全体ぜんたいとしては修煉しゅうれんと呼よんでいます。それでは、なぜ気功きこうと呼よぶのでしょうか? 皆みなさんもご存ぞんじのように、気功きこうは社会しゃかいで普及ふきゅうしてからすでに二に十じゅう数年すうねん経たっていますが、「文化ぶんか大だい革命かくめい」の半なかば頃ごろから始はじまり、その後期こうきにブームとなったのです。皆みなさん考かんがえてみてください。あの頃ころは極左きょくさ思想しそうがかなり横行おうこうしていました。先史せんし文化ぶんかの時ときに気功きこうが何なんと呼よばれていたかを別べつにしても、今期こんきの人類じんるい文明ぶんめいの発展はってん過程かていにおいて、気功きこうは封建ほうけん社会しゃかいを経へたので、その名前なまえはとかく封建ほうけん的てき色合いろあいが濃こくなりがちです。宗教しゅうきょうと関係かんけいがあるものはたいてい宗教しゅうきょう色しょくの濃こい名前なまえをもっています。例たとえば、「修道大法しゅうどうたいほう」、「金剛禅こんごうぜん」、「羅漢法らかんほう」、「修佛大法しゅうぶつたいほう」、「九転金丹術きゅうてんきんたんじゅつ」などなど、こんな感かんじのものばかりです。もし「文化ぶんか大だい革命かくめい」の時期じきにそう呼よんでいたら、つるし上あげられ批判ひはんされたにきまっているのではありませんか? 気功きこうを普及ふきゅうさせようとする気功きこう師しの願望がんぼうがいくら良よくても、大衆たいしゅうの病気びょうきを取とり除のぞき健康けんこうを増進ぞうしんさせ、人々ひとびとの身体からだの素質そしつを向上こうじょうさせることがいくら良よいことにきまっているとはいえ、人々ひとびとはやはりそういう名前なまえで呼よぶ勇気ゆうきがありませんでした。そこで、多おおくの気功きこう師しは気功きこうを普及ふきゅうさせるため、『丹経たんけい』、『道蔵どうぞう』の中なかから、適当てきとうに二ふたつの文字もじを取とり出だし、気功きこうと名なづけたのです。今いま、気功きこうという言葉ことばの研究けんきゅうに首くびを突つっ込こんでいる人ひともいますが、それはとりたてて研究けんきゅうする価値かちのないもので、昔むかしはまさにそれを修煉しゅうれんと呼よんでいました。気功きこうはただ現代げんだい人じんの考かんがえ方かたに合あわせるために、新あたらしく作つくられた呼よび名なです。
 

 煉功れんこうしてもなぜ功こうが伸のびないのか


 煉功れんこうしてもなぜ功こうが伸のびないのでしょうか? 多おおくの人々ひとびとは、自分じぶんが直伝じきでんを得えていないので、もしどこかの先生せんせいが素晴すばらしい技わざ、高度こうどな手法しゅほうを教おしえてくれれば、自分じぶんも功こうが伸のびるのにと思おもっています。現在げんざい、九きゅう十じゅう五ごパーセントの人ひとがこのような考かんがえを持もっていますが、わたしは非常ひじょうにおかしいと思おもいます。なぜだと思おもいますか? それは気功きこうが常人じょうじんの中なかの技能ぎのうではなく、まったく超常的ちょうじょうてきなものなので、高たかい次元じげんの理りでそれを量はからなければならないからです。功こうが伸のびない根本こんぽん的てきな原因げんいんは、「修しゅう・煉れん」の二ふた文字もじの中なかで、人々ひとびとがその煉れんしか重視じゅうしせず、修しゅうをおろそかにしていることにあります。あなたは外そとに向むかって求もとめても、何なにも得えられません。常人じょうじんの身体からだ、常人じょうじんの手て、常人じょうじんの考かんがえ方かただけで、高こうエネルギー物質ぶっしつを功こうに演化えんかさせようとでも思おもっているのですか? 功こうが伸のびるとでも思おもうのですか? そんな簡単かんたんにできるはずはありません! わたしから見みれば、まったく馬鹿ばかげた話はなしです。これでは外そとに向むかって求もとめ、外そとに向むかって探さがすのに等ひとしいので、永遠えいえんに探さがし当あてることができません。
 常人じょうじんの中なかのいかなる技能ぎのうとも違ちがい、お金かねを払はらって、何なにかコツを習ならえば身みに付つくようなものではありません。そんなことではなく、それは常人じょうじんの次元じげんを超こえるものなので、あなたを超常ちょうじょうの理りで律りっしなければなりません。どのように律りっするのでしょうか? それはつまりあなたは内うちに向むかって修おさめなければならないということで、外そとに向むかって探さがしてはなりません。大勢おおぜいの人ひとは今日きょうはこれを、明日あしたはあれをと外そとに求もとめ、しかも執着心しゅうちゃくしんを抱いだいて功能こうのうを求もとめるなど、さまざまな目的もくてきを持もっています。気功師きこうしになって、病気びょうき治療ちりょうで大金持おおがねもちになりたいという人ひとさえいます! 本当ほんとうの修煉しゅうれんは自分じぶんの心こころを修煉しゅうれんしなければならず、それは「心性しんせいを修おさめる」ということです。例たとえば、人間にんげん関係かんけいでトラブルが生しょうじた時とき、個人こじんの七情六欲しちじょうろくよくや諸々もろもろの欲望よくぼうを抑おさえなければなりません。私利しり私欲しよくのために争あらそっていながら、功こうを伸のばそうとするなど、とんでもありません! それでは常人じょうじんと変かわりないではありませんか? どうして功こうを伸のばせるはずがありましょうか? ですから、心性しんせいの修煉しゅうれんを大切たいせつにしてこそはじめて功こうが伸のびるし、次元じげんを高たかめることができるのです。
 心性しんせいとは何なんでしょうか? 心性しんせいは、徳とく(徳とくは一種いっしゅの物質ぶっしつ)をはじめとして、忍耐にんたいすること、悟さとること、捨すてること、常人じょうじんの中なかのさまざまな欲望よくぼうや執着心しゅうちゃくしんを捨すてること、さらに苦くるしみに耐たえることなどなど、多おおくのものを含ふくんでいます。人ひとの心性しんせいの各かく方面ほうめんを全面ぜんめん的てきに向上こうじょうさせて、はじめて本当ほんとうに上昇じょうしょうすることができます。これが功力こうりきを伸のばす肝心かんじんな要素ようその一ひとつです。
 心性しんせいのことを言いうと、それはイデオロギーに関かんするものであり、人間にんげんの思想しそう問題もんだいなので、われわれの煉功れんこうとはかかわりのない問題もんだいだと思おもう人ひとがいます。どうしてかかわりのない問題もんだいだと言いえますか? 思想しそうの世界せかいでは、従来じゅうらいから物質ぶっしつが第一だいいちか、それとも精神せいしんが第一だいいちかという問題もんだいがあり、常つねに議論ぎろんされ論争ろんそうされていますが、実じつは物質ぶっしつと精神せいしんは同一どういつのものです。人体じんたい科学かがくの研究けんきゅうにおいて、現在げんざいの科学かがく者しゃは人間にんげんの脳のうから発はっせられた思惟しいが物質ぶっしつであると認識にんしきするに至いたっています。思惟しいは精神せいしん的てきなものではなかったのでしょうか? それが物質ぶっしつ的てき存在そんざいであるならば、精神せいしんと物質ぶっしつは同一どういつのものではありませんか? 宇宙うちゅうについてお話はなししたように、宇宙うちゅうは物質ぶっしつ的てきな存在そんざいであるとともに真しん・善ぜん・忍にんという特性とくせいも持もっています。宇宙うちゅうにおけるそういった特性とくせいの存在そんざいは常人じょうじんには感知かんちできません。常人じょうじんはすべて同おなじ次元じげんにいるからです。常人じょうじんの次元じげんを超こえれば、感得かんとくすることができます。どうすれば感得かんとくすることができるのでしょうか? 宇宙うちゅうにおけるいかなる物質ぶっしつも、宇宙うちゅうに立たち込こめるあらゆる物質ぶっしつも含ふくめて、みな霊的れいてきなものであり、みな思想しそうを持もっており、みな宇宙うちゅうの法ほうの異ことなる次元じげんにおける存在そんざいの形態けいたいです。それがあなたの昇華しょうかを許ゆるさないかぎり、いくら自分じぶんの次元じげんを向上こうじょうさせようと思おもっても、向上こうじょうできません。それが許ゆるさないのです。なぜあなたの向上こうじょうを許ゆるさないのでしょうか? あなたの心性しんせいが上あがっていないからです。どの次元じげんにも異ことなる基準きじゅんがあり、上うえの次元じげんへ上あがろうとすれば、持もっていた良よくない考かんがえや汚きたないものを捨すてて、その次元じげんの基準きじゅんに同化どうかしなければなりません。そうしてはじめて上あがって来こられるのです。
 心性しんせいが高たかまってくると、身体からだにも大おおきな変化へんかが起おこります。心性しんせいが高たかまってくると、身体からだを構成こうせいしている物質ぶっしつも間違まちがいなく変化へんかが起おこります。どんな変化へんかでしょうか? あなたは、今いままで追求ついきゅうし執着しゅうちゃくしていた良よくないものを、捨すてることになります。例たとえて言いえば、瓶びんの中なかに汚きたない物ものを一杯いっぱい入いれて、蓋ふたをしっかり閉しめてから、水みずに投なげ入いれると、底そこまで沈しずんでしまいます。中なかの汚きたない物ものを出だせば出だした分ぶんだけ瓶びんが浮うき上あがってきます。全部ぜんぶ出だせば、完全かんぜんに浮うき上あがってきます。修煉しゅうれんの過程かていにおいて、ほかでもなく人間にんげんの身体からだにもっているさまざまな良よくないものを取とり除のぞかなければなりません。そうしてはじめてあなたは昇華しょうかして上あがって来こられるのです。この宇宙うちゅうの特性とくせいはそういう働はたらきをするのです。あなたが心性しんせいを修煉しゅうれんせず、道徳どうとく水準すいじゅんを高たかめようとしないで、悪わるい思想しそうや悪わるい物質ぶっしつを捨すて去さらなければ、宇宙うちゅうの特性とくせいはあなたを昇華しょうかさせてはくれません。ならば精神せいしんと物質ぶっしつが同一どういつのものではないとどうして言いえるのでしょうか? 冗談じょうだんですが、七情六欲しちじょうろくよくをすべて抱かかえた常人じょうじんをそのまま上うえへ昇のぼらせ、成佛じょうぶつさせることは、皆みなさん考かんがえてください、可能かのうでしょうか? その人ひとが大菩薩だいぼさつを見みて、なんと綺麗きれいだと邪念じゃねんが生しょうじるかも知しれませんし、嫉妬心しっとしんが取とり除のぞかれていないために、佛ほとけとトラブルを起おこすかも知しれませんが、このようなことが許ゆるされるものでしょうか? ではどうすればよいのでしょうか? あなたは常人じょうじんの中なかで、さまざまな良よくない思想しそうをすべて取とり除のぞかなければなりません。そうしてはじめて上あがって来こられるのです。
 要ようするに、あなたは心性しんせいの修煉しゅうれんを重視じゅうしし、宇宙うちゅうの真しん・善ぜん・忍にんの特性とくせいに照てらして修煉しゅうれんし、常人じょうじんの持もつ欲望よくぼうや、良よくない心こころ、悪わるいことをする考かんがえなどを取とり除のぞかなければなりません。思想しそうの境地きょうちがわずかでも高たかくなったらその分ぶんだけ、自分じぶん自身じしんの悪わるいものも取とり除のぞかれたことになります。同時どうじに、あなたは少すこしでも苦くるしみに耐たえ、難儀なんぎを忍しのぶことによって、自分じぶん自身じしんの業力ごうりきを少すこしでも滅めっしなければなりません。こうすればあなたは少すこし昇華しょうかして上あがって来こられるのです。言いい換かえれば、あなたに対たいする宇宙うちゅうの特性とくせいの制約力せいやくりょくが弱よわくなるということです。「修しゅうは己おのれにありて、功こうは師しにあり」なのです。師しがあなたに功こうを伸のばすための功こうを与あたえますと、その功こうが働はたらいて、体外たいがいであなたの徳とくという物質ぶっしつを功こうに演化えんかさせてくれます。あなたが絶たえず向上こうじょうして、絶たえず上うえへ修煉しゅうれんしていけば、あなたの功柱こうちゅうもどんどん上うえへ突破とっぱしていきます。一人ひとりの修煉者しゅうれんしゃとして、ほかでもない常人じょうじんの環境かんきょうの中なかで修煉しゅうれんし、自分じぶんを錬磨れんまし、徐々じょじょに執着心しゅうちゃくしんとさまざまな欲望よくぼうを無なくしていかなければなりません。往々おうおうにして人類じんるいが良よいと思おもうものは、高たかい次元じげんにおいて見みれば悪わるいものになります。したがって人々ひとびとが良よいと思おもうもの、例たとえば、常人じょうじんの中なかで個人こじんの利益りえきを多おおく得えれば得えるほど、楽らくに暮くらせば暮くらすほど、大覚者だいかくしゃたちから見みれば、この人ひとは悪わるい人ひとになります。どこが悪わるいのでしょうか? たくさん得えれば得えるほど、その分ぶんだけ人ひとを傷きずつけることになり、得えるべきではないものまで得えてしまいます。名利みょうりを追おい求もとめることによって、徳とくを失うしなってしまいかねないのです。功こうを伸のばそうと思おもっても、心性しんせいの修煉しゅうれんを重おもんじなければ、もとより功こうは伸のびるはずがありません。
 われわれの修煉界しゅうれんかいでは、人間にんげんの元神げんしんは不滅ふめつであると言いいます。今いままで人間にんげんの元神げんしんなどと言いうと、迷信めいしんだと言いわれかねませんでした。皆みなさんもご存ぞんじのように、物理ぶつり学がくの研究けんきゅうによれば、われわれ人間にんげんの身体からだには分子ぶんし、陽子ようし、電子でんしがあり、さらに追究ついきゅうしてクォーク、中性微子ちゅうせいびしまで至いたっています。そこまで行いったら顕微鏡けんびきょうでも見みえなくなります。しかしそれは生命せいめいの本源ほんげん、物質ぶっしつの本源ほんげんからはまだまだかけ離はなれています。皆みなさんがご存ぞんじのように、原子げんし核分裂かくぶんれつにおいては、核かく融合ゆうごうや核分裂かくぶんれつを起おこすためにかなり強つよいエネルギーの衝突しょうとつとかなり大おおきな熱量ねつりょうを必要ひつようとします。人間にんげんが死しぬ時とき、身体からだの中なかの原子げんし核かくがそんなに簡単かんたんに死しんでしまうのでしょうか? ですからわれわれの見みるところでは、死しぬということは、ただこの空間くうかんでの最大さいだいの分子ぶんし成分せいぶんが脱落だつらくするだけで、他たの空間くうかんに存在そんざいする身体からだは別べつに壊滅かいめつしてはいません。よく考かんがえてみてください。顕微鏡けんびきょうで見みた人体じんたいはどのような状態じょうたいでしょうか? 身体からだ全体ぜんたいが動うごいているもので、そこに坐すわって動うごかないでいても、身体からだ全体ぜんたいが動うごいており、分子ぶんし細胞さいぼうが動うごいており、身体からだ全体ぜんたいは砂すなからできているようにばらばらで、固かたまっていないように見みえます。顕微鏡けんびきょうで人体じんたいを見みるとこのようになり、目めで見みるのとはまったく違ちがってきます。それは人間にんげんの目めがこういうものが見みえないように、虚像きょぞうを造つくるからです。天目てんもくが開ひらくと、ものを拡大かくだいして見みることができます。それは本来ほんらい人間にんげんの本能ほんのうですが、今いまは超ちょう能力のうりょくと呼よばれています。超ちょう能力のうりょくを出だしたいと思おもえば、返本へんぽん帰き真しんして、元もとへ戻もどるように修煉しゅうれんしなければなりません。
 徳とくについてお話はなししましょう。徳とくとそれにまつわる他ほかのものとの具体ぐたい的てきな関連かんれんは何なんでしょうか? それを分析ぶんせきしながら説明せつめいしましょう。われわれ人間にんげんは数多かずおおくの空間くうかんに自分じぶんの身体からだをもっています。今いまわれわれが人体じんたいの構成こうせいを見みると、最大さいだいの成分せいぶんは細胞さいぼうで、それが人間にんげんの肉体にくたいです。もしあなたが細胞さいぼうと分子ぶんしの間あいだに、あるいは分子ぶんしと分子ぶんしの間あいだに入はいることができれば、別べつの空間くうかんに入はいったことを体験たいけんできます。その身体からだはどのような存在そんざい形式けいしきをしているのでしょうか? もちろん、今いまのこの空間くうかんの概念がいねんで理解りかいしてはいけません。あなたの身体からだはその空間くうかんの存在そんざい形式けいしきの要求ようきゅうに同化どうかしなければなりません。他たの空間くうかんにある身体からだは本来ほんらい、大おおきくも小ちいさくもなれるので、その時ときあなたは、これもとてつもなく広ひろい世界せかいであることに気きづくに違ちがいありません。これは他たの空間くうかん存在そんざいの簡単かんたんな形式けいしきを指さしており、同おなじ時ときに同おなじ所ところに他たの空間くうかんが存在そんざいしているということです。人間にんげんは他たの多おおくの空間くうかんに、みな特定とくていの身体からだをもっていますが、ある特定とくていの空間くうかんにおいて、人体じんたいのまわりに一ひとつの場ばが存在そんざいしています。どんな場ばなのでしょうか? それはほかでもないわれわれが言いう徳とくです。徳とくは一種いっしゅの白しろい物質ぶっしつで、今いままで思おもわれていたように人間にんげんの精神せいしん的てきなものとか、イデオロギー的てきなものではなく、それはまったく物質ぶっしつ的てきな存在そんざいです。昔むかし、お年とし寄よりが徳とくを積つむとか、徳とくを失うしなうとかよく言いっていましたが、まったくその通とおりです。この徳とくが身体からだのまわりに一ひとつの場ばを作つくっています。昔むかし、道家どうけでは、弟子でしが師しを探さがすのではなく、師しが弟子でしを探さがす、と言いっていました。どういう意味いみでしょうか? 師しは弟子でしが身体からだに持もっている徳とくの成分せいぶんが大おおきいかどうかを見みるということです。大おおきければ、修煉しゅうれんしやすいのですが、大おおきくなければ、修煉しゅうれんしにくく、なかなか高たかい功こうは得えられないのです。
 同時どうじに存在そんざいするものに、一種いっしゅの黒くろい物質ぶっしつもあり、われわれはここで業力ごうりきと呼よびますが、佛教ぶっきょうではそれを悪業あくごうと呼よんでいます。白しろい物質ぶっしつと黒くろい物質ぶっしつが同時どうじに存在そんざいしています。二ふたつの物質ぶっしつの間あいだはどういう関係かんけいでしょうか? 徳とくという物質ぶっしつは、われわれが苦くるしみに耐たえたり、打撃だげきを受うけたり、良よいことをしたりして得えるものです。これに対たいして、業力ごうりきという黒くろい物質ぶっしつは悪事あくじを働はたらいたり、良よくないことをしたり、人ひとをいじめたりして得えるものです。今いまの人ひとは利益りえきに目めがくらむばかりでなく、一部いちぶの人ひとは悪事あくじのかぎりを尽つくし、お金かねのためならどんな悪事あくじでもやりかねません。人ひとを殺ころすとか、金かねで命いのちを買かうとか、同性愛どうせいあい、麻薬まやくなど何なんでもやります。人ひとは良よくないことをする時とき、徳とくを失うしなっていきます。どういうふうに失うしなうのでしょうか? ある人ひとが人ひとを罵ののしったとします。うっぷんを晴はらしたので、得とくをしたと思おもうかも知しれません。ところがこの宇宙うちゅうには、「失うしなわないものは得えられず、得えるためには失うしなわねばならぬ」という理りがありますから、失うしないたくなくても強制きょうせい的てきに失うしなわせられるのです。誰だれがこの役割やくわりを果はたすのでしょうか? ほかでもない宇宙うちゅうの特性とくせいがこの役割やくわりを果はたします。ですから得えることばかり考かんがえてはいけません。どういうことでしょうか? つまり人ひとを罵ののしったり、いじめたりすると、その人ひとは自分じぶんの徳とくを相手あいてに投なげ与あたえることになります。一方いっぽう、相手あいてはいじめられ、苦くるしめられ、失うしなった側がわなので、償つぐないとしてそれをもらえるのです。ここで相手あいてを罵ののしったとすると、罵ののしった途端とたんに、自分じぶんの空間場くうかんばの範囲はんいから一塊ひとかたまりの徳とくが飛とんでいって、相手あいての身体からだに落おちます。ひどく罵ののしるほど、相手あいてに与あたえる徳とくも多おおくなります。人ひとを殴なぐるとか、いじめるとかも同おなじです。殴なぐったり、蹴けったりすると、その分ぶんだけ徳とくが相手あいてのところへ飛とんでいきます。常人じょうじんにはこの理りが分わからないので、いじめられたら、我慢がまんできません。殴なぐられたら殴なぐり返かえさなければ、とつい手てを出だしてしまいます。すると、この徳とくを相手あいてに押おし戻もどしてしまいますので、両者りょうしゃとも損そんも得とくもないことになります。もしかするとその人ひとは、一発いっぱつ殴なぐられたら二発にはつ殴なぐり返かえさないと気きがすまないかも知しれません。そこで彼かれがもう一発いっぱつ殴なぐり返かえすと、今度こんどは自分じぶんの方ほうから徳とくが飛とんで行いき、相手あいてのものになります。
 なぜ徳とくをこんなに重おもく見みているのでしょうか? この徳とくの転化てんかは他ほかとどのような関係かんけいにあるのでしょうか? 宗教しゅうきょうでは、この徳とくをもっていれば、今生こんじょうで得えなくても来世らいせで得えると言いいます。何なにを得えるのでしょうか? 徳とくが大おおきければ、高官こうかんになる、大金持おおがねもちになるなど、欲ほしいものがあればなんでも手てに入はいりますが、それはほかでもないこの徳とくで交換こうかんしているのです。宗教しゅうきょうではさらに、この人ひとに徳とくがなければ、形神全滅けいしんぜんめつとも言いいます。この人ひとは元神げんしんまで壊滅かいめつしてしまい、死後しご何なにもかもなくなり、何なにも残のこらないということです。それに対たいして、われわれ修煉界しゅうれんかいでは、徳とくが直接ちょくせつ功こうに演化えんかできると言いっています。
 徳とくはどうやって功こうに演化えんかするのかについてお話はなしします。修煉界しゅうれんかいには、「修しゅうは己おのれにありて、功こうは師しにあり」という言葉ことばがあります。一方いっぽう、「鼎かなえを立たて竈かまどを設もうけ、薬くすりを採集さいしゅうし、丹たんを煉ねる」ことや、意念いねん活動かつどうのことを何なによりも大事だいじに思おもう人ひとがいます。言いっておきますが、ちっとも大事だいじではありません。そればかりに気きを取とられると、執着心しゅうちゃくしんになります。大事だいじに思おもいすぎると、執着しゅうちゃくして追おい求もとめたくなるのではありませんか? 「修しゅうは己おのれにありて、功こうは師しにあり」なのですから、あなたにそういう願望がんぼうがあれば充分じゅうぶんです。本当ほんとうにこのことをやってくれるのは師しで、あなたにはとてもそういう力ちからはありません。あなたのような常人じょうじんの身体からだで、このような高こうエネルギー物質ぶっしつで構成こうせいされた高たかい次元じげんの生命体せいめいたいを演化えんかできるとでも思おもいますか? まったく不可能ふかのうなことで、言いうだけで笑わらわれてしまいます。他たの空間くうかんにおける人体じんたいの演化えんかの過程かていはすこぶる玄妙げんみょうで、すこぶる複雑ふくざつなものなので、それをやり遂とげることは、あなたにはとても不可能ふかのうです。
 師しは何なにを与あたえてくれるでしょうか? 功こうを伸のばすための功こうを与あたえてくれます。なぜなら徳とくは身体からだの外そとにあり、本当ほんとうの功こうは徳とくによって生成せいせいされるものだからです。一人ひとりの人間にんげんの次元じげんの高たかさも功力こうりきの大おおきさもみな徳とくが生成せいせいしたものです。それはあなたの徳とくを功こうに演化えんかし、螺旋状らせんじょうに上うえへ伸のばしてくれます。本当ほんとうに人ひとの次元じげんの高たかさを決定けっていする功こうは身体からだの外そとで伸のびるもので、最終さいしゅう的てきに螺旋状らせんじょうに頭あたまのてっぺんまで伸のびた後あと、一ひとつの功柱こうちゅうを形作かたちづくります。その人ひとの功こうの高たかさは、その功柱こうちゅうの高たかさを見みればすぐに分わかり、それが彼かれのいる次元じげんであり、佛教ぶっきょうで言いう果位かいです。坐禅ざぜんする時とき、元げん神しんが身体からだから離はなれることができる人ひとがいます。一気いっきにかなり高たかいところまで上のぼれますが、それ以上いじょうは上のぼれなくなり、上のぼる勇気ゆうきもないのです。その人ひとは自分じぶんの功柱こうちゅうに乗のって上のぼるので、そこまでしか上のぼれません。功柱こうちゅうの高たかさがそこまでしかないので、それより高たかくは上のぼれなくなります。これが佛教ぶっきょうで言いう果位かいのことです。
 心性しんせいの高たかさを測はかるのに、もう一ひとつ尺度しゃくどというのがあります。尺度しゃくどは功柱こうちゅうとは同おなじ空間くうかんに存在そんざいしてはいませんが、同時どうじに存在そんざいしています。心性しんせいが修煉しゅうれんして上あがって来きたら、例たとえば、常人じょうじんの中なかで人ひとに罵ののしられても、黙だまって平然へいぜんとしています。殴なぐられても何なにも言いわず、一笑いっしょうに付ふするだけで済すませてしまいます。そうなれば、その人ひとの心性しんせいはもうかなり高たかくなったと言いえます。それでは煉功者れんこうしゃとしてあなたの得えるべきものは何なんでしょうか? あなたは功こうを得えるのではありませんか? 心性しんせいが向上こうじょうすれば、あなたの功こうも伸のびてきます。心性しんせいの高たかさは功こうの高たかさ、これは絶対ぜったいの真理しんりです。これまで、公園こうえんや、自宅じたくで練功れんこうするにあたって、けっこう真剣しんけんに練功れんこうし、かなり敬虔けいけんで、真面目まじめに励はげんでいる人ひとがいます。しかし、その場ばを離はなれると、元もとの木阿弥もくあみで、常人じょうじんの中なかでの名誉めいよや利益りえきのために人ひとと争あらそったりします。そういう人ひとの功こうは伸のびるでしょうか? 絶対ぜったいに伸のびるはずがありませんし、またその人ひとの病気びょうきも同おなじ原因げんいんで治なおりません。長年ながねん練功れんこうをしていても、病気びょうきが治なおらない人ひとがいるのはなぜでしょうか? 気功きこうは修煉しゅうれんであり、超常ちょうじょうのものなので、常人じょうじんの中なかの体操たいそうとは違ちがい、心性しんせいを重おもんじないかぎり病気びょうきも治なおらなければ、功こうも伸のびないのです。
 「鼎かなえを立たて竈かまどを設もうけ、薬くすりを採集さいしゅうし、丹たんを煉ねる」の丹たんこそ功こうだと思おもう人ひとがいますが、違ちがいます。この丹たんはただ一部いちぶのエネルギーを蓄たくわえているだけで、エネルギーのすべてではありません。丹たんとは何なんでしょうか? 皆みなさんもご存ぞんじのように、われわれの法門ほうもんにはほかにも、命めいを修おさめる部分ぶぶんがありますので、身体からだに功能こうのうも現あらわれてきますし、さらに数多かずおおくの術じゅつ類るいもあります。これらのもののほとんどは、あなたには使つかえないように鍵かぎがかかっています。功能こうのうはたくさんあり、一いち万まん種しゅ以上いじょうにも上のぼりますが、できあがる度たびに一ひとつずつ鍵かぎがかけられます。なぜ出ださせないのでしょうか? 常人じょうじん社会しゃかいで勝手かってにそれを何なにかに使つかわないようにさせるためです。常人じょうじん社会しゃかいを勝手かってに撹乱かくらんしてはいけません。自分じぶんの力ちからを勝手かってに常人じょうじん社会しゃかいで見みせびらかしてもいけません。常人じょうじん社会しゃかいの状態じょうたいを破壊はかいする恐おそれがあるからです。多おおくの人々ひとびとは悟さとりながら修煉しゅうれんしています。何なにもかも顕現けんげんさせると、本物ほんものだと分わかってしまうので、みな修煉しゅうれんにやってきて、極悪ごくあく非道ひどうの者ものまで修煉しゅうれんしようとすることになりかねませんが、それはいけないことです。そういうふうに見みせびらかすのは許ゆるされないのです。それにあなたも悪わるいことをしかねません。なぜならあなたはその因縁いんねん関係かんけいや本質ほんしつを見抜みぬくことができないからです。あなたが良よいことをしているつもりでも、実じつは悪わるいことかも知しれません。そこであなたに使つかわせないのです。悪わるいことをすると、次元じげんが下さがり、修煉しゅうれんが無駄むだになってしまうので、多おおくの功能こうのうは鍵かぎをかけられています。どうすればよいでしょうか? 功こうを開ひらき悟さとりを開ひらく時ときがくれば、その丹たんが爆弾ばくだんとなり、あらゆる功能こうのうや、身体からだのすべての鍵かぎおよび百竅ひゃっきょうをいっぺんに爆破ばくはし、パーンという震動しんどうですべてを開ひらいてしまいます。丹たんの役割やくわりはこれです。和尚おしょうが亡なくなって火葬かそうする時ときに舎利しゃりが出でてくることがあります。それを骨ほねとか、歯はとか言いう人ひともいますが、常人じょうじんにはなぜないのでしょうか? それは丹たんが爆発ばくはつして、エネルギーが放出ほうしゅつされ、その中なかに大量たいりょうの他たの空間くうかんの物質ぶっしつが含ふくまれているからです。それも物質ぶっしつ的てき存在そんざいではありますが、あまり役やくに立たつことはありません。今いまの人ひとはそれをなかなか貴重きちょうなものと見みていますが、ただエネルギーがあり、光沢こうたくがあり、非常ひじょうに硬かたいだけのものです。
 功こうが伸のびないことにはもう一ひとつの原因げんいんがあります。つまり高こう次元じげんの法ほうを知しらないため、修煉しゅうれんしても向上こうじょうすることができないのです。どういう意味いみなのでしょうか? 先さきほどもお話はなししたように、さまざまな功法こうほうを習ならっている人ひとがいます。忠告ちゅうこくしておきますが、いくら数多かずおおく学まなんでも役やくに立たたず、相変あいかわらず小学生しょうがくせいのままで、修煉しゅうれんにおける小学生しょうがくせいに過すぎないのですから、低ひくい次元じげんの理りしか分わからないのです。高たかい次元じげんへ修煉しゅうれんしようとしても、低ひくい次元じげんの理りには指導しどう作用さようはありません。大学だいがくへ行いっても小学校しょうがっこうの教科書きょうかしょを勉強べんきょうしているのなら、相変あいかわらず小学生しょうがくせいで、いくら勉強べんきょうしても役やくに立たたず、かえってますます駄目だめになります。次元じげんが違ちがえば法ほうも違ちがいます。法ほうは異ことなった次元じげんでは異ことなった指導しどう作用さようを果はたしていますので、低ひくい次元じげんの理りでもって高たかい次元じげんへの修煉しゅうれんを指導しどうすることはできません。われわれがこれから述のべようとするのは、みな高こう次元じげんで修煉しゅうれんするための理りであり、わたしは異ことなる次元じげんのものを結むすび合あわせて話はなしているので、皆みなさんの今後こんごの修煉しゅうれんにとってずっと指導しどう作用さようがあります。わたしは数すう冊さつの本ほんを出だしており、ほかに録音ろくおんテープやビデオテープもあります。一回いっかい読よんだり、聞きいたりしたあと、しばらく経たってからまた読よみ直なおし、聞きき直なおしてみれば、その中なかに依然いぜんとして指導しどう作用さようがあることにあなたは間違まちがいなく気きづくでしょう。あなたが絶たえず、自分じぶんを向上こうじょうさせていっても、ずっとあなたを指導しどうしていくことができます。これが法ほうです。ここまで、煉功れんこうしても功こうが伸のびない二ふたつの原因げんいんについてお話はなししました。高こう次元じげんの法ほうが分わからないために修煉しゅうれんができないことと、内うちへ向むかって修おさめず、心性しんせいを修煉しゅうれんしないので、功こうが伸のびないのです。この二ふたつが原因げんいんです。
 

 法輪大法ファールンダーファーの特色とくしょく


 われわれの法輪大法ファールンダーファーは、佛家ぶっけ八万四千はちまんよんせん法門ほうもんの中なかの一いち法門ほうもんで、今回こんかいの人類じんるい文明ぶんめいの歴史れきし時期じきにおいては、一いち度ども公おおやけに伝つたえられたことはありませんが、先史せんしのある時期じきには広範囲こうはんいに人ひとを済度さいどしたことがあります。わたしが末劫まつごうの最後さいごの時期じきに再ふたたびそれを広ひろく世よに伝つたえましたが、この意味いみで、それはきわめて貴重きちょうなものです。徳とくが直接ちょくせつ功こうに転化てんかする形式けいしきについてお話はなししました。実じつは功こうというものは煉れんによって得えるものではなく、修しゅうによって得えるものです。多おおくの人ひとは功こうの伸のびを追求ついきゅうして、練功れんこうのやり方かたにばかり気きを使つかい、いかに修煉しゅうれんするかを重視じゅうししていませんが、実じつは功こうはまったく心性しんせいの修煉しゅうれんによって得えるものなのです。では、なぜわれわれも煉功れんこうを教おしえているのでしょうか? まず、和尚おしょうがなぜ煉功れんこうしないのか? ということからお話はなししましょう。彼かれらは主しゅとして坐禅ざぜんを組くみ、経文きょうもんを読よみ、心性しんせいを修おさめているだけで、それなりに功こうが伸のびますが、彼かれらは自己じこの次元じげんの高たかさに見合みあう功こうを伸のばしているのです。なぜなら、釈迦牟尼しゃかむには本体ほんたいを含ふくめて、世間せけんのすべてを捨すてるようにと言いっていましたので、身体からだの動作どうさは必要ひつようとしないからです。道家どうけは衆生しゅじょう済度さいどを唱となえませんから、相手あいてとするのは、私心ししんの大おおきい人ひと、小ちいさい人ひとなども含ふくめた、さまざまな心理しんり状態じょうたいをもち、さまざまな次元じげんに属ぞくする人ひとたちではありませんでした。彼かれは弟子でしを選えらびますが、三人さんにんの弟子でしを取とっても、その中なかの一人ひとりしか直伝じきでんを受うけられません。その弟子でしは間違まちがいなく徳とくが高たかく、人ひとが良よくて、問題もんだいを起おこさない人ひとでなければなりません。したがって彼かれらは重点的じゅうてんてきに手法しゅほうを伝つたえ、命めいを修おさめることを教おしえています。そして神通力じんつうりきやさまざまな術じゅつ類るいのものを煉ねるためには、ある程度ていどの動作どうさが必要ひつようです。
 法輪大法ファールンダーファーも性命双修せいめいそうしゅうの功法こうほうなので、煉功れんこうするのに動作どうさが必要ひつようです。動作どうさは、一ひとつは功能こうのうを加持かじする働はたらきをもちます。加持かじとは何なんでしょうか? それは強つよい功力こうりきで功能こうのうを強化きょうかして、ますます強つよくさせることです。もう一ひとつは、身体からだの中なかにたくさんの生命体せいめいたいを演化えんかさせなければならないことです。高たかい次元じげんの修煉しゅうれんになりますと、道家どうけでは元嬰出世げんえいしゅっせを重おもんじ、佛家ぶっけでは「金剛こんごう不壊ふえの体からだ」を重おもんじますが、このほかに、さまざまな術じゅつ類るいのものも演化えんかさせなければなりません。これらのものはすべて手法しゅほうを通つうじて煉ねりますが、動作どうさはそれらを煉ねるためのものです。完全かんぜんな性命せいめい双そう修しゅうの功法こうほうには、修しゅうも必要ひつようとし、煉れんも必要ひつようとします。皆みなさんは、功こうがいかにしてできあがるのかについてお分わかりになったと思おもいますが、真しんに次元じげんの高低こうていを決定けっていづける功こうは、煉功れんこうによって得えるものではまったくなく、修煉しゅうれんによって得えるものです。修煉しゅうれんする過程かていで、常人じょうじんの中なかで自分じぶんの心性しんせいを高たかめ、宇宙うちゅうの特性とくせいに同化どうかすれば、宇宙うちゅうの特性とくせいがあなたを制約せいやくしなくなるのですから、あなたが昇華しょうかして向上こうじょうできるのです。そこで徳とくが功こうに演化えんかしはじめますが、心性しんせいの基準きじゅんが高たかくなるにつれて功こうも伸のびてきます。それらはこのような関係かんけいにあります。
 われわれのこの功法こうほうは、真しんに性命せいめい双そう修しゅうの功法こうほうであり、修煉しゅうれんによって得えた功こうは、身体からだの一ひとつ一ひとつの細胞さいぼうの中なかに蓄たくわえられ、きわめて微視びし的てき状態じょうたいで存在そんざいしている物質ぶっしつの本源ほんげんである微粒子びりゅうし成分せいぶんにまで、その高こうエネルギー物質ぶっしつの功こうが蓄たくわえられることになります。功力こうりきが高たかまるにつれて、その密度みつどが高たかくなり、威力いりょくもますます大おおきくなります。この高こうエネルギー物質ぶっしつは霊的れいてきなもので、身体からだの一ひとつ一ひとつの細胞さいぼうや生命せいめいの本源ほんげんにまで蓄たくわえられるので、時間じかんが経たつにつれて、だんだん身体からだの細胞さいぼうと同おなじ形態けいたいとなり、分子ぶんしの配列はいれつ順序じゅんじょとも同おなじになり、さらにすべての原子核げんしかくの形態けいたいとも同おなじになります。しかし、本質ほんしつはすっかり変かわり、もはや元もとの肉体にくたい細胞さいぼうで構成こうせいされたあの身体からだではなくなります。それならあなたは五行ごぎょうの中なかにいないのではないでしょうか? もちろん、修煉しゅうれんはまだ終おわったわけではなく、あなたは依然いぜんとして常人じょうじんの中なかで修煉しゅうれんしていますので、見みた目めには常人じょうじんと同おなじように見みえます。唯一ゆいいつの区別くべつは同おなじ年齢ねんれいの人ひとと比くらべてあなたがかなり若わかく見みえることです。言いうまでもなく、まずは、病気びょうきを含ふくめて、皆みなさんの身体からだのあらゆる良よくないものを取とり除のぞいてあげなければなりません。しかし、ここでは病気びょうき治療ちりょうはしません。われわれは身体からだを浄きよめてあげるので、言葉ことばも病気びょうき治療ちりょうと言いわず、身体しんたい浄化じょうかと言いいます。真しんの修煉者しゅうれんしゃのために身体からだを浄化じょうかしてあげるのです。病気びょうき治療ちりょうが目的もくてきで来きている人ひともいますが、われわれは重病じゅうびょう患者かんじゃを講習会こうしゅうかいに入いれないことにしています。なぜかというと、そういう人ひとは病気びょうき治療ちりょうの心こころを捨すてることは難むずかしく、自分じぶんに病気びょうきがあるという考かんがえを捨すてられないからです。重病じゅうびょうを患わずらってとても苦くるしい時ときに、そういうものを捨すてられますか? そういう人ひとは修煉しゅうれんできそうもありません。たびたび強調きょうちょうしているように、われわれは重病じゅうびょう患者かんじゃを受うけ入いれません。ここでやっているのは修煉しゅうれんで、彼かれらの考かんがえていることとずいぶんかけ離はなれています。病気びょうき治療ちりょうなら他ほかの気功きこう師しに頼たのめばいいわけです。もちろん、多おおくの学習者がくしゅうしゃにも病気びょうきがあるでしょうが、しかし皆みなさんは真しんに修煉しゅうれんする人ひとなので、われわれはこのことをしてあげられるのです。
 法輪大法ファールンダーファーの学習者がくしゅうしゃは、一定いってい期間きかんの修煉しゅうれんを経へると、表おもてに現あらわれる大おおきな変化へんかとして、肌はだのきめが細こまかくなり、色いろも白しろくなり赤あかみがさしてきます。年配ねんぱい者しゃは、皺しわが減へり、ほとんど消きえてしまう人ひともいます。これはよく見みられる現象げんしょうです。わたしはここで摩訶不思議まかふしぎなことを言いっているわけではなく、ここに集あつまっている古ふるい学習者がくしゅうしゃはこのことをよく知しっているはずです。また、年配ねんぱいの女性じょせいには再ふたたび生理せいりが来くる人ひともいます。性命せいめい双そう修しゅうの功法こうほうには、経血けいけつの気きで命めいを修おさめる必要ひつようがあるからです。生理せいりが来きても、量りょうはあまり多おおくなく、今いまの段階だんかいでは間まに合あう程度ていどで結構けっこうです。これもよく見みられる現象げんしょうの一ひとつです。さもなければ、それを欠かいていては、どうやって命めいを修おさめることができますか? 男性だんせいも同おなじく、年寄としよりも、若者わかものも身体からだが軽かるくなることを覚おぼえるに違ちがいありません。真しんに修煉しゅうれんする人ひとはこういった変化へんかを感かんじることができるはずです。
 われわれのこの功法こうほうは、動物どうぶつの真似まねなどをしている多おおくの功法こうほうとは違ちがって、ずいぶん大おおきなものを修煉しゅうれんしています。この功法こうほうによって修煉しゅうれんするものはあまりにも大おおきいのです。釈迦牟尼しゃかむにや老子ろうしが当時とうじ説といた理りは、すべてこの銀河系ぎんがけいの範囲はんい内ないの理りでした。われわれ法輪大法ファールンダーファーは何なにを修煉しゅうれんしているのでしょうか? われわれは、宇宙うちゅうの演化えんかの原理げんりに従したがって修煉しゅうれんし、宇宙うちゅうの最高さいこう特性とくせい──真しん・善ぜん・忍にんという基準きじゅんに基もとづいて自みずからの修煉しゅうれんを指導しどうしているのです。われわれはこれほど大おおきなものを修煉しゅうれんしているのであり、宇宙うちゅうを修煉しゅうれんしていることに等ひとしいのです。
 法輪大法ファールンダーファーには、もう一ひとつきわめて特殊とくしゅで、どの功法こうほうとも異ことなる、最大さいだいの特徴とくちょうがあります。今いま、社会しゃかいで流行りゅうこうしている気功きこうのほとんどが丹たんの道みちを歩あゆみ、丹たんを煉ねるものです。丹たんを煉ねる気功きこうによって常人じょうじんの中なかで功こうを開ひらき、悟さとりを開ひらこうとするのは、とても難むずかしいことです。法輪大法ファールンダーファーは丹たんの道みちを歩あゆまず、下腹部かふくぶのところで一ひとつの法輪ファールンを修煉しゅうれんしますが、講習会こうしゅうかいでわたしが自みずから皆みなさんにそれを植うえつけてあげます。法輪大法ファールンダーファーを説ときながら、皆みなさんに次々つぎつぎと法輪ファールンを植うえつけますが、感かんじる人ひともいれば、感かんじない人ひともおり、大だい多数たすうの人ひとは実感じっかんできるでしょう。人ひとそれぞれ身体からだの素質そしつが違ちがうからです。われわれは法輪ファールンを煉ねるのであって、丹たんを煉ねるものではありません。法輪ファールンは宇宙うちゅうの縮図しゅくずで、宇宙うちゅうのすべての功能こうのうを備そなえており、自動的じどうてきに運行うんこうし、回転かいてんすることができます。あなたの下腹部かふくぶのところでいつまでも回転かいてんし続つづけていくもので、いったん植うえつけてあげると、もう止とまらずに、どこまでも回転かいてんしていきます。法輪ファールンは時計とけい回まわりに回転かいてんする間あいだ、自動的じどうてきに宇宙うちゅうからエネルギーを吸収きゅうしゅうし、しかも自みずからエネルギーを演化えんかして、身体からだのあらゆる部分ぶぶんに演化えんかに必要ひつようなエネルギーを送おくります。法輪ファールンが逆ぎゃく時計とけい回まわりに回転かいてんする時ときは、エネルギーを放出ほうしゅつすることになり、廃棄はいき物質ぶっしつを体外たいがいに出だして、身体からだの周囲しゅういで散逸さんいつさせます。法輪ファールンがエネルギーを放出ほうしゅつする時ときは、非常ひじょうに遠とおいところまで届とどきますが、同時どうじに再ふたたび新あたらしいエネルギーを取とり入いれます。放出ほうしゅつされたエネルギーによって、まわりにいる人々ひとびとも恩恵おんけいを受うけることがあります。佛家ぶっけは、己おのれを済度さいどするとともに人ひとを済度さいどし、衆生しゅじょうを済度さいどすることを重おもんじ、自分じぶんが修煉しゅうれんするだけでなく、衆生しゅじょうも済度さいどしなければなりません。そこで他ほかの人ひとにも恩恵おんけいを与あたえ、知しらないうちに、他人たにんの身体からだを調整ちょうせいし、病気びょうきを治なおしてしまうことがあります。もちろん、エネルギーが失うしなわれることはありません。常つねに止とまることなく回転かいてんしていますから、法輪ファールンが時計とけい回まわりに回転かいてんすると、おのずとエネルギーを回収かいしゅうします。
 なぜこの法輪ファールンがいつでも止とまることなく回転かいてんできるのか、と思おもう人ひとがいます。また、「それがなぜ回転かいてんできるのか、その原理げんりは何なにか?」とわたしに質問しつもんした人ひともいます。エネルギーがたくさん集あつまると丹たんを形成けいせいするということは理解りかいできても、法輪ファールンの回転かいてんは不思議ふしぎに思おもうようです。例れいを挙あげて説明せつめいしましょう。宇宙うちゅうは運動うんどうしており、宇宙うちゅうにあるすべての銀河系ぎんがけい、恒星こうせい系けいも運動うんどうし、九きゅう個この惑星わくせいが太陽たいようのまわりを回転かいてんし、地球ちきゅうも自転じてんしています。皆みなさんよく考かんがえてみてください。誰だれがそれらを回まわるようにしているのでしょうか? 誰だれがそれらに力ちからを与あたえたのでしょうか? 常人じょうじんの概念がいねんでそれを考かんがえてはいけません。それはそのような旋機せんきになっているからです。法輪ファールンも同おなじで、回転かいてんするようにできているのです。それは、常人じょうじんが普通ふつうの生活せいかつ状態じょうたいを保たもったまま煉功れんこうする問題もんだいを解決かいけつし、煉功れんこうの時間じかんを増ふやしてくれました。どうやって増ふやしたのでしょうか? 法輪ファールンが止とまることなく回転かいてんし、絶たえず宇宙うちゅうからエネルギーを吸収きゅうしゅうし、エネルギーを演化えんかしているからです。出勤しゅっきんしている間あいだでも、法輪ファールンはあなたを煉ねっています。当然とうぜん、法輪ファールンだけではなく、ほかにもあなたの身体からだに数かず多おおくの機能きのう、機き制せいを植うえつけてあげますが、それらは、すべて法輪ファールンと連動れんどうして自動的じどうてきに回転かいてんし、自動的じどうてきに演化えんかしています。したがって、この功こうは完全かんぜんに人ひとを自動的じどうてきに演化えんかしますので、「功こうが人ひとを煉ねる」あるいは「法ほうが人ひとを煉ねる」ということになります。つまり、あなたが煉功れんこうしていない間あいだも、功こうがあなたを煉ねっています。あなたが煉功れんこうしている時ときも功こうがあなたを煉ねっています。食事しょくじしている時とき、寝ねている時とき、出勤しゅっきんしている時とき、功こうは常つねにあなたの身体からだを演化えんかしています。それなら、何のために煉功れんこうするのでしょうか? それは法輪ファールンを加持かじし、植うえつけてあげたあらゆる機能きのうや気機ききを加持かじするためです。高たかい次元じげんで修煉しゅうれんする時ときは、すべて無為むいで、動作どうさも気機ききに導みちびかれるがままに動うごき、意念いねんによる導引どういんは一切いっさいなく、呼吸こきゅう法ほうなども問題もんだいにしません。
 われわれは煉功れんこうの時間じかんや場所ばしょにもこだわりません。「いつ煉功れんこうするのがいいのか? 子ねの刻こくか、辰たつの刻こくか、それとも午うまの刻こくか?」と尋たずねる人ひとがいます。われわれは時間じかんのことも言いいません。子ねの刻こくに煉功れんこうしなかったとしても功こうがあなたを煉ねっており、辰たつの刻こくに煉功れんこうしなかったとしても、功こうはやはりあなたを煉ねっています。あなたが寝ねている間あいだも、功こうがあなたを煉ねっており、歩あるいている時ときも功こうがあなたを煉ねっています。仕事しごとをしている間あいだも、功こうはやはりあなたを煉ねっています。こうなれば煉功れんこうの時間じかんは大幅おおはばに短縮たんしゅくされるのではありませんか? われわれの多おおくは、本当ほんとうに得道とくどうしたいという心こころをもっています。それはもちろん修煉しゅうれんの目的もくてきで、修煉しゅうれんの最終さいしゅう目的もくてきはほかでもなく、得道とくどうして圓満えんまん成就じょうじゅすることです。しかし、一部いちぶの人ひとは残のこりの人生じんせいが短みじかく、時間じかんが足たりないかも知しれないという問題もんだいがあります。法輪大法ファールンダーファーならば、この問題もんだいを解決かいけつし、煉功れんこうの期間きかんを短縮たんしゅくすることができます。性命せいめい双そう修しゅうの功法こうほうでもありますので、絶たえず煉功れんこうすれば、絶たえず延長えんちょうされます。修煉しゅうれんすればするだけ延のびるので、根基こんきが良よいのにすでに年としを取とってしまった人ひとも、これで煉功れんこうの時間じかんは足たりるようになります。しかし、ここに基準きじゅんが一ひとつあります。定さだめられた天寿てんじゅを越こえた、延長えんちょうされた生命せいめいは、すべて煉功れんこうするために与あたえられたものであり、間違まちがった考かんがえが浮うかんだだけで命いのちの危険きけんを招まねくことがあります。というのは、あなたの生命せいめいの過程かていはとっくに終おわっているからです。世間法せけんほうの修煉しゅうれんを終おえて、この制御せいぎょを受うけなくなれば話はなしは別べつです。その時ときになれば、まったく別べつの状態じょうたいになるのです。
 煉功れんこうの時ときに向むく方角ほうがくや、煉功れんこうを終了しゅうりょうする時ときの動作どうさにもこだわりません。法輪ファールンが絶たえず回転かいてんしており、それを止とめることはできないからです。電話でんわが鳴なり、来訪者らいほうしゃが来くれば、直ただちに応対おうたいに行いけばよく、煉功れんこうを終了しゅうりょうさせる動作どうさをしなくてもかまいません。応対おうたいに行いっている間あいだ、法輪ファールンがすぐ時計とけい回まわりに回転かいてんして、あっという間まに体外たいがいに出だしたエネルギーを回収かいしゅうしてきます。人為じんい的てきに気きをもち上あげて灌頂かんじょうをいくらしても、気きは散ちってしまいますが、法輪ファールンは霊的れいてきなものなので、何なにをどうすればいいかを知しっています。方角ほうがくにこだわらないというのは、宇宙うちゅう全体ぜんたいが運動うんどうし、銀河系ぎんがけいが運行うんこうし、九きゅう個この惑星わくせいが太陽たいようのまわりを回転かいてんし、地球ちきゅうが自転じてんもしているからです。われわれは宇宙うちゅうの大おおきな理りに従したがって修煉しゅうれんするのですから、どこに東西とうざい南北なんぼくがあるというのですか? ありません。どの方位ほういに向むかって煉功れんこうしても全ぜん方位ほういに向むかって煉功れんこうしていることになります。どの方向ほうこうに向むかって煉功れんこうしても同時どうじに東西とうざい南北なんぼくに向むかって煉功れんこうしていることになります。法輪大法ファールンダーファーには、間違まちがった方向ほうこうへずれることから学習者がくしゅうしゃを守まもる力ちからがあります。どのように守まもるのでしょうか? あなたが真しんの修煉者しゅうれんしゃであれば、われわれの法輪ファールンが守まもってくれます。わたしは根ねを宇宙うちゅうに下おろしているので、あなたを動うごかせる人ひとがいれば、このわたしをも動うごかすことができることになり、はっきり言いって、その人ひとはこの宇宙うちゅうを動うごかすことができることになります。わたしの話はなしは信しんじ難がたいように聞きこえるかも知しれませんが、これから学まなび続つづけていけば、あなたも分わかるようになるはずです。ほかにもありますが、程度ていどが高たかすぎるものは、お話はなしするわけにはいきません。浅あさいものから深ふかいものへと、系統けいとう的てきに高たかい次元じげんの法ほうを述のべていきたいと思おもいます。しかし、あなた自身じしんの心性しんせいが歪ゆがんでいてはいけません。求もとめようとすれば、問題もんだいが起おこるかも知しれません。わたしは多おおくの古ふるい学習者がくしゅうしゃの法輪ファールンがすでに変形へんけいしてしまったことに気きづいています。なぜでしょうか? 他ほかのものを混まぜて練功れんこうし、他人たにんのものを取とり入いれたからです。ではどうして法輪ファールンが守まもってくれなかったのでしょうか?  あなたに与あたえられたからには、法輪ファールンはあなたのもので、あなたの意志いしの支配しはいを受うけます。あなたが欲ほしがるなら、誰だれもそれに干渉かんしょうできません。これはこの宇宙うちゅうの理りです。あなたが修煉しゅうれんをやめようと思おもえば、誰だれも強制きょうせい的てきに修煉しゅうれんさせるわけにはいかず、強制きょうせいすれば、悪わるいことをすることになります。あなたの心こころをむりやり変かえることのできる人ひとなどいるでしょうか? 自分じぶんで自分じぶんを律りっしなければなりません。各かく流派りゅうはの良よいものを取とるといって、誰だれのものであろうとなんでもかんでも取とり入いれて、今日きょうはこの気功きこう、明日あすはあの気功きこうをやり、病気びょうきを取とり除のぞこうとしても、果はたして病気びょうきは取とり除のぞかれたでしょうか? 取とり除のぞかれてはおらず、ただ先送さきおくりされただけです。高こう次元じげんでの修煉しゅうれんは一ひとつに専念せんねんすることが大事だいじで、一ひとつの法門ほうもんに専念せんねんしなければなりません。ある法門ほうもんを修煉しゅうれんする以上いじょう、ひたすらにその法門ほうもんに専念せんねんしなければなりません。その法門ほうもんで功こうを開ひらき、悟さとりを開ひらいてはじめて他たの功法こうほうを修おさめることができますが、それはまったく違ちがったものになります。なぜなら、完璧かんぺきな修煉しゅうれん法ほうは、相当そうとう長ながい年月としつきを経へて伝つたわってきたもので、いずれもかなり複雑ふくざつな演化えんかの過程かていがあるからです。自分じぶんの感覚かんかくを頼たよりに練功れんこうしている人ひともいますが、あなたの感覚かんかくはなにほどのものですか? なにものでもありません。本当ほんとうの演化えんかの過程かていは他たの空間くうかんで行おこなわれており、きわめて複雑ふくざつで微妙びみょうであり、ちょっとしたずれも許ゆるされず、精密せいみつ機器ききに他ほかの部品ぶひんを一ひとつでも付つけ加くわえると直ただちに故障こしょうしてしまうのと同おなじです。各かく空間くうかんにおけるあなたの身体からだはみな変化へんかしており、非常ひじょうに微妙びみょうですので、ほんの少すこしでもずれがあってはいけません。前まえにお話はなししたように、「修しゅうは己おのれにありて、功こうは師しにあり」なのです。勝手かってに人ひとのものを取とり入いれると、違ちがう信息しんそくが混入こんにゅうして来くるので、この法門ほうもんのものを妨害ぼうがいしてしまうことになり、あなたが間違まちがった方向ほうこうへ行いってしまうかも知しれません。しかも、それが常人じょうじん社会しゃかいにも反映はんえいされ、常人じょうじんとしての生活せいかつの中なかに煩わずらわしいことが起おこることもあります。それはあなた自身じしんが求もとめたものなので、他ほかの人ひとは干渉かんしょうしてはいけないことになっています。それには悟性ごせいの問題もんだいがかかわっています。それだけではなく、あなたが混まぜ入いれたものによって功こうが乱みだされ、そのためにあなたはもう修煉しゅうれんできなくなる、というような問題もんだいが起おきてきます。わたしは皆みなさんにどうしても法輪大法ファールンダーファーを学まなばなければいけないと言いっているわけではなく、法輪大法ファールンダーファーを学まなばなくても、他ほかの功法こうほうで、真しんの伝授でんじゅを得えられればわたしも賛成さんせいします。しかし、一ひとつ言いっておきますが、本当ほんとうに高たかい次元じげんをめざして修煉しゅうれんしたいのなら、必かならず一ひとつに専念せんねんしなければなりません。もう一ひとつはっきり言いっておかなければならないことは、今いまこのように真しんに高たかい次元じげんへの功こうを伝つたえているのは、他ほかに誰だれもいない、ということです。わたしが何なにをしてあげたのか、皆みなさんはそのうちきっとお分わかりになると思おもいますが、あなたの悟性ごせいがあまり低ひくくないことを希望きぼうします。多おおくの人ひとが高たかい次元じげんへ修煉しゅうれんしようと思おもい立たちますが、今いまこの修煉しゅうれん法ほうが目めの前まえに置おかれていながら、あなたはまだ気きづいていないかも知しれません。師しを求もとめてあちらこちらへと出でかけ、いくらお金かねを使つかっても、探さがし当あてられないものを、いま目めの前まえに届とどけてあげましたのに、まだ分わからないかも知しれません! これは悟さとるか悟さとらないかの問題もんだいで、つまり、済度さいどできるかできないかの問題もんだいなのです。