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精 進 要 旨



論 語



 大法は創世主の智慧です。大法は天地を開闢し、宇宙を造化する根本であり、中に含まれるものは極めて洪大かつ細微で、異なる天体の次元にそれぞれの現われがあります。天体の最もミクロなところから最もミクロな粒子が生じるところまで、一層一層の粒子は計り知れないほどあり、小さいものから大きいものまで、そして表層の人類が知っている原子、分子、星、星系からさらに大きいものに至るまで、大きさの異なる粒子は大きさの異なる生命と、宇宙天体に遍く広がる大きさの異なる世界を構成しました。異なる次元の粒子の本体にいる生命にとって、この次元の粒子より大きい粒子は彼らの天空にある星であり、どの次元も同じです。宇宙の各次元の生命にとって、それは尽きることはないのです。大法はほかにも時間、空間、多くの生命の種類と万事万物を造りあげ、含まれないものはなく、漏れるものはありません。これは大法の真、善、忍という特性の異なる次元での具体的な現われなのです。
 人類の宇宙、生命を探求する手段がいくら発達しても、次元の低い宇宙で人類が存在している空間の一部を洞察しているに過ぎません。先史の人類に幾度となく現われた文明の中で、いずれもほかの星を探求したことがありますが、いくら高く遠くまで到達しても、人類が存在する空間から離れてはいません。人類は、永遠に真に宇宙の真実の現われを認識することができないのです。人類が、宇宙、時空、人体の謎を解き明かしたいと想うならば、正法の中で修煉し、正覚を得て、生命の次元を高めるしかありません。修煉によって道徳性も高められ、真の善悪、良し悪しの分別がつき、人類の次元から抜け出すと同時に、やっと真実の宇宙及び異なる次元、異なる空間の生命を見たり、それらに接触したりすることができるのです。
 人類の探求は技術競争のためであり、生存条件を改変することを口実にしていますが、多くは神に対する排除、人類の道徳をもって自らを律することへの放縦が根底にあるため、以前、人類に現われた文明は幾度となく壊滅させられました。探求も物質世界の中に限られており、一つの物事が認識されてからそれを研究するという方法を採っています。しかし、人類の空間で触れることも見ることもできなくても、客観的に存在し、確実に人類の現実の中に反映されてきた現象に対して、精神、信仰、神の言葉、神の奇跡を含めて、神を排除しているがゆえに従来から触れる勇気はありません。
 もし、人類が道徳に基づき人間の品行、観念を高めることができれば、人類社会の文明は末長く続きます。神の奇跡も人類社会で再び現われるのです。過去の人類社会にも幾度となく、人が神とともにあった文化が現われ、人類の生命と宇宙に対する本当の認識を高めました。人類は、大法のこの世での現われに対して、然るべき敬虔と尊重を体現することができれば、人々、民族、或いは国家に幸福や栄光をもたらすことでしょう。天体、宇宙、生命、万事万物が宇宙大法によって切り開かれたため、生命が大法から背離すれば、それは本当の堕落となります。世の人は、大法と一致することができれば本当の良い人であり、同時に善報、福寿を得ることができます。修煉者として、大法と同化することができれば、あなたは得道した者、即ち神となるのです。

李 洪 志
二〇一五年五月二十四日

 
 
 
 

富ありて徳もある


 
 古人曰く、金銭は身体の外にあるものです。人々はみな知っていますが、人々はこれを求めています。壮年者は欲を満たすため、女性は見栄えのため、年配者は老後の心配をなくすため、知識のある者は名声のため、役人はこのために仕事に尽力する、等々、ゆえにこれを求めています。
 甚だしい者はこのために争闘して、強者は危険に走り、怒りの収まらない者はそのために犯行を行ない、嫉妬する者はこのために怒って死にます。民を富ますことは統治者と高官にとっての道であり、金銭を尊ぶのは下の下のふるまいです。富があって徳がなければ衆生に害を及ぼし、富があって徳があるならば、すべての人が望むことです。ですから、富があるのであれば、徳について講じなければなりません。
 徳は生前に積むものであって、国王、大臣、富豪、貴い身分になることは、すべて徳から生じているのです。徳がなければ得られず、徳を失えばすべてを失います。ですから、権力や財を求める者は必ず先にその徳を積まなければならないのですが、苦を嘗めて善を行なえば、多くの徳を積むことができるのです。このため、必ず因果関係があるということを知り、これをはっきりと理解するならば、官僚と一般大衆は自制することができ、天下は富んでいながら平穏となります。

李 洪 志
一九九五年一月二十七日

 
 
 
 

博 大


 
 法輪大法の法理はいかなる人の修煉に対しても、宗教信仰をも含めて、すべてに指導作用があります。これは宇宙の理で、従来、講じられたことのない真の法なのです。過去、人間が宇宙の理(佛法)を知ることは許されませんでしたが、それは常人社会の古今のあらゆる学術と倫理を超越しているのです。これまで宗教の中で伝えられたもの、人々が感じたものは単なるうわべのものであって、現象に過ぎません。その博大で奥深い内涵は、修煉者だけが真に修める異なる次元の中で体験して悟ることができ、目の前に現れてくるもので、そうして初めて真に法とは何かが分かるのです。

李 洪 志
一九九五年二月六日

 
 
 
 

真 修


 
 真に修める弟子よ、わたしがあなたに教えたものは佛を修め、道を修めるための法なのです。皆さんは常人の中の利益が損なわれたことによって、わたしに苦を訴えており、自らの常人の中での執着心を放下できないことに苦悩しているのではありません。これが修煉なのでしょうか? 常人の心を放下できるかどうか、これは真に常人を超えることに向かっていくための至難の関なのです。真に修める弟子であれば誰でも超えなければならないもので、これは修煉者と常人の境界線です。
 実は、皆さんは常人の中にある名、利、情が傷ついて苦悩を感じているとき、すでに常人の執着心を放下できずにいるのです。皆さん、必ず覚えておいてください! 修煉そのものが苦しいわけではありません。肝心なのは常人の執着を放下できないからです。あなたたちの名、利、情を放下しようとするときこそ、苦しいと感じるのです。
 皆さんが神聖で清らかで、しかも、この上なく美しく素晴らしい世界から落ちてきたのは、皆さんがその次元の中で執着の心を持つようになったからです。それに比べて最も汚れた世界の中に落ちた後、皆さんは速く元へ戻るよう修めることなく、かえってまた汚れた世界の中の汚い物をつかんで放さず、甚だしきに至っては、少しでも失えば苦しみに耐えられません。皆さん、ご存知ですか? 佛は皆さんを済度するため、かつて常人の中で物乞いをしていたのです。わたしは今日、門を大きく開いて大法を伝え、皆さんを済度しています。わたしは無数の苦難を嘗めても苦しく感じたことなどないのに、皆さんはまだ何が放下できないのでしょうか? あなたは心の中で放下できないものを天国へ持っていけるのでしょうか? 

李 洪 志
一九九五年五月二十二日

 
 
 
 

明 智


 
 わたしが一部の学習者に、思想が過激になることは一種の思想業が作用しているのだと教えたとき、今では多くの学習者が自分の日頃の一切の良くない念をすべて思想業だと言っています。これは間違っています。あなた自身に何の良くない念もなければ、あなたはまだ何を修めるのですか?! それほど純潔であれば、あなたはすでに佛ではありませんか? これは一種の誤った認識です。自らの思想に汚い念が激しく反映されたり、先生を罵るとか、大法を罵るとか、人を罵る等々、排除も抑えることもできなければ、これこそが思想業力なのです。ただ、弱いものもいくらかはありますが、普通の正常な思想の念とは違うのです。必ず、明確にすべきです。

李 洪 志
一九九五年五月二十三日

 
 
 
 


 
 人の世は渾沌として、玉石混淆しています。如来が世に下る時、必ず密やかにやって来るのです。法を伝える時には、必ず邪な法門の邪魔があります。道と魔は同時に伝わり、同じ世にあって、真であるか偽であるか、悟りが大事なのです。何をもって見分けるのでしょうか、必ず上士がいます。縁あって悟ることのできる人がいれば、相継いでやって来て、道に入り法を得ます。正邪を識別して、真の経を得て、その身を軽くし、その智慧を豊かにし、その心を充たして、法船に乗って悠々としています。善きかな! 力を奮って精進し、圓満成就に至るのです。
 混みいった世にあって悟り難い人は、金銭のために生き、権力のために死に、わずかな利益のために喜んだり、憂えたりして、苦しみ相争い、一生、業を造っています。その人がもし、その法を聴けば必ずこれを笑って、迷信の二文字を口にして、心の中では必ず理解し難くて信じ難いのですが、これらの人は下士であり、済度し難いのです。業が大きくなり、すでにその身を封じ、その智を閉じ、本性はありません。

李 洪 志
一九九五年六月十四日

 
 
 
 

何のために見えないのか


 
 見ることができれば信じ、見ることができなければ信じない、これはすなわち下士の見識です。人は迷いの中にあって、多くの業を造っており、本性が惑わされてしまい、どうして見ることができるでしょうか。悟りが先にあって見えるのは後のことで、心を修めて業を取り去り、本性が現れて初めて見ることができるのです。しかしながら、上士は見てもよく、見なくてもよく、悟りによって圓満成就します。人々に見える人もいれば見えない人もいるのは、次元が定めていることで、根基がもたらしたことです。修める人の多くが見えないのは見ることを求めているからで、これは執着ですから、これを取り去らなければ見えません。多くは業力が阻んでいること、あるいは環境が適していないこと、あるいは修煉する方法によって決まってくることで、様々な原因がありますが、人によって違います。見える人も、見えてもはっきりと見ることができず、はっきりとしないからこそ、道を悟りうるのです。自らその場に立ち臨み、はっきりとしないところがないようであれば、この人は功が開いているのであって、さらに修めることはできず、その悟りはありません。

李 洪 志
一九九五年六月十六日

 
 
 
 

法を学ぶ


 
 知識人が大法を学ぶにあたっては、ある最も突出した問題に注意すべきです。つまり、普通の常人が理論的な著作を学習する方法で学んで、即応する名人語録を選んで、自らの行動に照らし合わせるように学んでいて、これは修煉者の向上を阻害しているのです。また一部の者は、大法に非常に深い内涵があり、異なる次元の修煉を指導できるレベルの高いものが含まれていると聞いて、一字一字を詮索していましたが、結局、何も見つかりませんでした。これらの長期にわたる政治的理論の学習で身についた習慣も、修煉に影響する要素であり、法を曲解しています。
 皆さんは、法を学ぶ時にどうしても問題を解決しなければならないという考えを抱いて即応性のある部分を探して学んではなりません。実は、これも一種の形を変えた執着なのです(トラブルがあって解決を急ぐことは含まない)。大法をよく学ぶには、いかなる目的も抱かずに学ぶことこそ正しいのです。『轉法輪』を一遍読み終えるたびに少しでも分かるようになったら、すでに高まっています。一遍読み終えるたびに、ただ一つの問題が分かっただけでも、それも真に向上しています。
 実は、修煉の中で、取りもなおさず少しずつ知らぬ間に修めて向上してきているのです。覚えておくべきことは、求めずともおのずから得る、ということです。

李 洪 志
一九九五年九月九日

 
 
 

いかに輔導するか


 
 各地の多くの輔導員は大法に対してかなり高い認識があって、身をもって模範を示し、煉功点をよく取りまとめています。しかし、行ないに足りないところのある輔導員もいて、主に仕事のやり方に問題が現れています。たとえば、学習者を輔導員に服従させるため、目的は仕事を行ないやすくするところにありますが、煉功点で命令式の方法で仕事を行なっています。これではいけません。法を学ぶことは自由意志でなければいけないのです。もし、学ぶ人が心からしたくないのであれば、いかなる問題も解決することはできませんし、しかもトラブルが生じます。もし、改めなければ、トラブルを激化させ、その結果、法を学ぶことを大きく破壊してしまうのです。
 さらに甚だしい者は、皆を信服させ、服従させるために、いつも何かの噂話を広めたり、人騒がせなもので自らの声望を高めようとしていたり、または一人よがりに行ないます。いずれもこのようにしてはいけません。わたしたちの輔導員は自発的に無償で皆さんのために奉仕するもので、師父ではありません。この種の執着心ですら、あってはならないのです。
 それでは、わたしたちはどうすれば輔導の仕事を正しく行なえるのでしょうか? まず自らを学習者の中に置いて、学習者の上にいるという心を持ってはなりません。仕事をして分からないことがあれば謙虚に皆さんと共に検討をします。誤ったことをしてしまえば、誠心誠意、「わたしも皆さんと同じ修煉者です。仕事の中で誤ちを犯すのはまぬがれ難いことで、わたしはこのことで過ちを犯しました。それでは、正しいやり方に従って行ないましょう」と学習者に言えばいいのです。皆と一緒に仕事をうまくやりたいという誠意があれば、結果はどうなるのでしょうか? 誰もあなたを何者でもないとは言いませんし、かえってあなたのことを、法をしっかり学んでいて大らかな人だと思うでしょう。実際、大法があって、人々も学んでいます。輔導員の一挙一動が良いかどうかを学習者はみな大法に基づいて量り、はっきりと見分けることができるのです。いったん自らを持ちあげる念が生じれば、学習者はあなたの心性に問題があると思ってしまうので、謙虚でいてはじめて、よく行なうことができるのです。声望は法をしっかり学んだことによって築かれるものです。一修煉者に過ちがないということが、どうしてありえるでしょうか?

李 洪 志
一九九五年九月十日

 
 
 
 


 
 宇宙の浩大さ、天体の洪大さは、人が探知できるものではありません。物質のミクロ的なところは人が探り見て推し量れるものではありません。人体の奥深さは人が知っている表面的な知識ほど浅くはないのです。生命の厖大さと複雑さは、いつまでも人類の永久の謎です。

李 洪 志
一九九五年九月二十四日

 
 
 
 

境 界


 
 悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います。善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています。

李 洪 志
一九九五年九月二十五日

 
 
 
 

空とは何か


 
 空とは何でしょうか。執着がまったくないことが真の空であって、物質の空ではありません。 しかし、禅宗はすでに末法の時期にあって伝えるものがなくなっています。法が乱れた末世にあって、学ぶ人は、その空の理を固くつかみ、気が触れて、哲理の根本を悟っているかのようです。 祖である達磨自身が、ただ六代の法があるだけで、その後には伝えるものがないと言っています。なぜ、このことを悟らないのでしょうか。もし、すべてが空で、法はなく、佛はなく、像はなく、我はなく、存在はないと言うならば、達磨はどういったものなのでしょうか? 法がないのであれば、禅宗の空の理とは、どういったものなのでしょうか? もし佛がなく、像がないのであれば、釈迦牟尼はどういった人だと言うのでしょうか? あなたに名前がなく、像がなく、我がなく、存在がなく、すべてが空であるならば、ご飯を食べ、水を飲むのはなぜでしょうか? 服を着るのはなぜでしょうか? その目を掘り取ってはどうでしょうか? あなたのその常人の七情六欲はまたどのようにして執着するのでしょうか。如来の講じる空は、実に常人の心がまったくない、という意味であって、一つも漏れがないことが空の絶対的な真理なのです。宇宙はもとより物質によって存在し、形成され、維持されていますが、どうして空になりうるのですか。如来の伝える法でなければ必ず短命となり、理は途絶えて存在することはありません。羅漢の法は佛法ではないのです! 悟りなさい! 悟りなさい!

李 洪 志
一九九五年九月二十八日

 
 
 
 

堅 定


 
 師がいれば信念が満ち、師がいなければ修める興味がありませんが、師のために修めて、興味のために来ているようで、これは中士にとっての大きな弊害です。 釈迦、イエス、老子、孔子が去って二千年余、その弟子は師がいなくて修められないとはまったく感じてはいません。修めることは自身のことで、代われる人はなく、師となる人は表面ではただ、その法理を教えるだけです。 心を修め、欲を断ち、智慧を明らかにして惑わされないようにするのは、自らに対して責任を負うことです。興味のために来る者は、心が必ずしっかりしていないのであって、世俗に入れば、間違いなくその根本を忘れてしまいます。 その念を固く守らなければ、一生、何も得られないのです。いつまた機縁が結ばれるか分からず、難しいことです!

李 洪 志
一九九五年十月六日

 
 
 
 

佛教の論述は佛法の最も弱小な一部分である


 
 衆生よ! 佛教を用いて真・善・忍の大法を量ってはならず、それは量りえないことです。このように言うのも、人々がみな、いつも佛教の経書を法と呼んでいるからです。実は、天体は甚だ大きく、佛陀の宇宙に対する認識を超えているのです。道家の太極も低い次元で宇宙を理解しているだけで、常人のこの次元に至れば、もはや実質的な法はなく、ただ、宇宙のへりで人に修煉させることのできるわずかな現象があるだけです。常人は最も低い次元の人であり、人間には真の佛法を知らせることはできません。しかし、聖人が説いた「佛を敬えば修煉する機縁の因果の種を植えつけることができ、修煉する人はまじないを唱えれば、高級生命の保護を得ることができ、戒律を守れば修煉者の基準に達することができる」ということを人々は耳にしています。歴史上ずっと、覚者の説いた話はすなわち佛法ではないか、と研究する人がいます。如来佛が説いた話は佛性の体現であり、法の現れとも言えますが、宇宙の実質的な法ではありません。なぜなら、今まで人間が佛法の真実の体現を知ることは絶対に許されなかったからです。佛法とは何かは、高い次元まで修煉して初めて悟れるものなので、人間には真の修煉の実質をなおさら知らせはしないのです。法輪大法は宇宙の特性(佛法)を万古より初めて人間に残し、人間に天に登る梯子を与えたに等しいのであって、どうして過去の佛教のものを用いて宇宙の大法を量ることができるのでしょうか?

李 洪 志
一九九五年十月八日

 
 
 
 

智とは何か


 
 人類社会の中の有名人、学者、各種の専門家について、人々は非常に偉大だと思っていますが、実のところ彼らは常人ですから、いずれも、ちっぽけなものに過ぎません。彼らの知識もただ常人社会の現代科学が認識したわずかなものに過ぎないのです。厖大な宇宙の最もマクロから最もミクロに至るまで、人類社会はちょうど最も真ん中、最も外側の層、最も表面にあります。生命も最も低い存在形式なので、物質と精神に対する認識もとても少なく、浅はかで哀れなものです。全人類の知識を身に付けたにしても、やはり常人に過ぎません。

李 洪 志
一九九五年十月九日

 
 
 
 

仕事ではなく修煉である


 
 わたしの輔導站に対する要求に基づいて行なうことができるかどうか、これはとても重要な原則です! 将来の法の伝播の形に関わることなのです。長期にわたって官界で染まった習慣をなぜ放下できないのでしょうか? 何らかの文書を発行するとか、徹底的に実行するとか、認識を高めるなど、常人社会の行政部門の仕事の方法と態度をもって輔導站に対処してはなりません。大法の修煉者には、修煉の心性と果位の次元を高めることしかないのです。ときに会議を開く時も、常人の職場のようなやり方を採っています。たとえば、どこそこの幹部に話してもらったり、どこそこのお偉方に総括してもらったりしているのです。現代社会の腐敗した風習、官僚的な手順は、国ですら改革をしようとしています。一人の修煉者として、すでに末法時期にあって人類の各方面まで駄目になっていることを知りながら、なぜ修煉に最もふさわしくない仕事のやり方を放下できないのでしょうか? わたしたちは決して社会の行政機構や企業のようになってはいけません。
 これまで一部の定年退職者はすることがなく、法輪大法は悪くないと思い、仕事に関わりたいと申し出て、暇で耐え難いむなしさを埋めようとしました。これではもちろんいけません! 法輪大法は修煉であって、仕事ではありません。わたしたちのすべてのスタッフはまず、心性が高く着実に修める人であり、心性を修煉する模範であって、常人式の指導者は必要ありません。

李 洪 志
一九九五年十月十二日

 
 
 
 

退職した後に修煉する


 
 講義も受けたことがあって、根基も悪くはない一部の学習者が、仕事が忙しいので修煉をやめましたが、とても残念です! もし、一般の常人ならば、わたしはこれ以上何も言いませんし、その人の好きなようにさせますが、この人たちには望みがあるのです。人類の道徳は一瀉千里ですべり落ちつつありますが、常人はみな波に従い、流れに身をまかせており、道から遠く離れれば離れるほど、元へ戻るための修煉が難しくなります。実際、修煉とは人の心を修めることであり、特に複雑な職場の環境にあっては、まさに心性を高める良い機会なのです。いったん退職すれば、修煉の最も良い環境を失うことになるのではありませんか? 何のトラブルもなくなれば、まだ何を修煉するのでしょうか? どのようにして向上するのでしょうか? 人間の生命には限りがあり、往々にして、よく計画を立てていますが、自らの将来に残された時間がまだ間に合うかどうか、あなたに分かるのでしょうか? 修煉は子供のたわむれ事ではなく、常人のいかなることよりも厳粛で、思うようにはならないものです。いったん機会を失ってしまえば、六道で輪廻して、いつ再び人身を得るのですか! 機縁は一度しかなく、放下できない夢幻が過ぎ去ってから、初めて何を失ったかを知るのです。

李 洪 志
一九九五年十月十三日

 
 
 
 

法 正


 
 人に徳がなければ、天災、人災が起こります。地に徳がなければ、万物が凋落します。天に道がなければ、地は裂け天は崩れ、蒼穹はすべて空になります。法が正しければ、乾坤は正しくなり、生気があふれて、天地は固まり、法は長く存在します。

李 洪 志
一九九五年十一月十二日

 
 
 
 

聖 者


 
 その人は世間と天上において天命を授かり、厚徳を具え、その心を善なるものにし、大志を懐きながら細かいことに配慮し、多くの法理をもって謎を解き明かすことができ、世を済い人を済度し、功はおのずから豊かになります。

李 洪 志
一九九五年十一月十七日

 
 
 
 

師を拝む


 
 大法は洪く伝わり、聞いた人はこれを尋ね、得た人はこれを喜び、修める人は日をもって多くなり、その数は計ることができません。しかし、自分で学ぶ人の多くには師を拝むという念があって、師の顔を見ることができなければ真伝を得ることが難しいという憂いがありますが、実は、法を深く学んでいないからです。わたしが洪く伝えているということは、つまり、普く済度していることなのです。学ぶ人はすなわち、わたしの弟子となり、古い作法を踏襲せず、表面的なことを捨てて人の心だけを見ているのですが、しっかりと修めなければ師を拝んで何になるのでしょうか? しっかりと修める人は求めることに執着することなく自然と得ており、一切の功、一切の法はすべて本の中にあり、大法を通読すれば、おのずと得るのです。学ぶ人は自然と変化して、繰り返し通読すれば、すでに道の中にいます。師の法身は必ず静かに護り、ずっと続けていけば、いつの日か必ず正果が得られるのです。

李 洪 志
一九九五年十二月八日

 
 
 
 

明 示


 
 目下のところ、ある非常に突出した問題があります。つまり、一部の学習者は元神が体を離れたとき、ある次元の空間を見たり、触れたりして、すべてが真実の存在で本当に素晴らしいと思ったため、戻りたくなくなり、その結果、肉身が死亡し、その境地に留まって戻れなくなってしまったのです。しかし、みな三界を出てはいません。以前、わたしはすでにこの問題について説いたことがありますが、修煉の中、どの次元にも名残り惜しむことなく、全過程を修め終えてから初めて圓満成就できるのです。ですから、皆さんは元神が出た後、いかに良い所を見たにしても戻らなければいけません。
 一部の学習者には、もう一つの誤った認識がありますが、つまり法輪大法を修煉すると、保険をかけているかのように肉身が死ぬことはなくなると思っています。わたしたちは性命双修の功法であって、修煉者は修めながら生命を延長することができますが、一部の人は世間法での修煉で精進しておらず、いつも同じ次元の中で徘徊してしまいます。大いに苦労して一つの次元を高めたのち、結局またもや、その次元の中で徘徊しているのです。修煉は厳粛なことであり、定められた寿命で死なないことはなかなか保証できません。しかし、世間法を出たあとの修煉にはこの問題は存在していないのですが、世間法での情況は比較的複雑なのです。

李 洪 志
一九九五年十二月二十一日

 
 
 
 

誰のために修めるのか


 
 メディアを利用して気功を批判する人がいると、学習者の中で一部の人はすぐ動揺して修煉をやめてしまい、メディアを利用した人が佛法より高明であるかのようで、他人のために修煉しているようです。また、圧力の前で恐れて修煉をやめた人もいますが、このような人は正果を得ることができるのでしょうか? 肝心なときに、佛まで裏切ってしまうのでありませんか? 恐れる心は執着ではありませんか? 修煉とは、まさに大波で土砂を洗い流すことで、残ったものこそ、金なのです。
 実は、人類社会には古から現在まで、相生相克という理が存在しているため、良いものがあれば悪いものがあり、正のものがあれば邪なものがあり、善のものがあれば悪のものがあって、人間がいれば鬼がいて、佛がいれば魔がいます。人類社会はさらにこのようになっていて、正のものがあれば反のものがあり、提唱するものがいれば反対するものがいて、信じるものがいれば信じないものがいて、良い人がいれば悪い人がいて、公の心のものがいれば私心のものがいて、人のために己を捨てるものがいれば、己のために手段を選ばないものがいますが、これは過去の理です。そのため、一人の人間、一つの団体から、一つの国に至るまで、良いことを成し遂げたいのであれば、同程度の悪の抵抗力が現れるはずで、成功してから初めて得難いと感じ、初めて大切にするのです。これまでの人類の発展とは、ずっとこのようなものでした(相生相克の理は以後、変化が生じます)。
 他の面から言えば、修煉とは常人を超越するものですが、気功に対する批判は、誰であろうと、それは常人の認識ではありませんか? その人に佛法と修煉を否定する資格があるのでしょうか? 人類のいかなる組織が神佛を超えることができるのでしょうか? 気功を批判する者に佛を指図する能力はあるのでしょうか? その人が佛は良くないと言えば、佛は良くなくなるのでしょうか? その人が佛はいないと言えば、佛は存在しなくなるのでしょうか? 「文化大革命」のときの法難は天象の変化が引き起こしたもので、佛道神もみな天意に従って行なっていました。法難は人間の難、宗教の難であって、佛の難ではありません。
 宗教が破壊された最大の原因は、人間の心が駄目になったからです。佛を拝むのは佛を修めるためではなく、佛に求め、お金を儲け、災難を消し、世継ぎを生むことを加護してもらうためで、思うがままに生活したいためなのです。人々は前世にみな多くの業を造っているのに、どうして思うがままにできるでしょうか? どうして悪事を働いてきたのに業を返さなくてよいのでしょうか? 魔は人の心が正しくないのを見て、次々と洞から出てきて世間を乱しています。神佛は人の心が正しくないのを見て、次々と位を離れ、廟を捨て去りました。廟の中に、財を求め、利を求める人によって、多くの狐、イタチ、ハリネズミ、蛇が連れ込まれましたが、このような廟を壊さず、そのままにしておいてもよいのでしょうか? 罪は世人にあります。佛が人間に罰を与えないのは、人間がみな愚見の中にあって、すでに自らを害し、しかも自ら大きな業を造っており、間もなく大きな災難が人間を待ちかまえているからです。それでもまだ、懲罰する必要がありますか? 実際のところ、人間は悪事を働けば、みな将来いつか応報に遭うのですが、ただ人間は悟らず、信じることなく、事が起きれば偶然だと思ってしまいます。
 いかなる人、またいかなる社会の勢力であっても、あなたは修煉するなと言われて修めなくなったのであれば、あなたはそうした者のために修めているというのでしょうか? それらがあなたに正果を与えられるのでしょうか? 心がそれらに傾いてしまうのは、迷信ではありませんか? 実は、これこそ愚昧なのです。ましてや、わたしたちは気功ではなく、佛法の修煉なのです! いかなる圧力であっても、佛法に対して根本から確固としているかどうかを試しているのではないのですか? 根本から法に対して確固としていないのであれば、何を言おうと無意味なことです。

李 洪 志
一九九五年十二月二十一日

 
 
 
 

佛法の用語


 
 一部の学習者は昔、佛教の居士でしたが、佛経の中の用語に対する印象が強く、これらの学習者は、わたしの話の中に佛教と同じ言葉があるのを見て、佛教用語と同じ意味だと思ってしまいました。実のところ、完全に同じではないのです。一部の中国の佛教用語は、中国語の語彙であって、佛教にしか使われない専門用語ではありません。
 肝心なことは、これらの学習者がどうしても佛教のものを放下できずにいることです。その原因は、頭の中で佛教の印象がいまだに作用していることを意識しておらず、不二法門に対する認識が不足しているからです。実のところ、その同じだという認識こそが邪魔をしているのではありませんか? もし、わたしの話を曲解してしまえば、あなたは佛教を修めることになってしまうのではありませんか? 

李 洪 志
一九九五年十二月二十一日

 
 
 
 

内を修めて外を安定させる


 
 人が徳を重んじなければ、天下は大いに乱れて治まらず、人々は近い敵となって生きていても楽しむことがありません。 生きていても楽しむことがなければ、生死を恐れなくなります。 老子曰く、「民衆が死を恐れなければ、なぜ死をもって恐れさせるのか?」 これは大きな脅威の到来です。天下太平は民衆の願いで、この時にもし法令の増加をもって安定を求めるならば、逆効果です。 この憂いを解決しようとするならば、必ず天下において徳を修めて、初めて根本を治めることができるのです。 高官がもし、自身の利益を計らなければ、国は腐敗しません。民衆がもし、身を修め徳を養うことを重んじ、官僚と民衆はおのずからその心を戒めるならば、国全体が安定し、民心が得られ、政権は安定し、しかも外敵はおのずから恐れ、天下太平となります。これは聖人の為すことです。

李 洪 志
一九九六年一月五日

 
 
 
 

さらに執着を取り除く


 
 弟子たちよ! 師父が焦っても仕方がないのです! 皆さんはなぜ、どうしてもその常人の心を放下できないのでしょうか? さらに前へ一歩、進もうとしないのでしょうか? わたしたち学習者、われわれ仕事をする人たちを含めて、大法の仕事のためであっても皆さんは互いに嫉妬しあっていますが、あなたはそれで佛になれるのでしょうか? わたしが緩やかな管理をおこなっているのは、あなたがその常人を放下できず、それによって仕事をする際に不平不満を感じているからです。大法は全宇宙のものであって、誰か微々たる個人のものではなく、仕事を誰が行なおうとも大法を広めているのです。あなたがしたとか、わたしがしたと言う必要があるのでしょうか? 皆さんはこの心を取り除かないまま天国へ持っていって佛と争うのでしょうか? 誰も大法を独占することはできません。その不平不満な心を取り除いてください! 心中穏やかではないとき、それは執着心によって引き起こされたのではないでしょうか? わたしたちの学習者は、自分はその中にはいないと思わないでください! わたしはみな自らを省みるように望んでいます。なぜなら皆さんはみな修煉者だからです。わたし、李洪志だけが違います。わたしがなぜ、末劫の時にこれほど大きな法を伝えているのか、皆さん、考えてみてください。もしも、わたしがその真相を明らかにしてしまえば、邪法を伝えていることになります。なぜなら法を学ぶ人は必ずそのために法を学びに来るので、これは求めて法を学んでいることになります。人を済度するには、正であって初めて皆さんの執着心を取り除くことができるのです。執着心を取り除かなければ修煉が成就することはできないと皆分かっているのに、なぜあえてもう少し放下して、さらに一歩進もうとしないのでしょうか? 実は、わたしが大法を伝えたことには必ず言い難い理由があるのですが、真相が現れれば、後悔してももう遅いのです。わたしは一部の人の心を見たのですが、あなたに直接教えることはできません。師父が指摘すれば、あなたはその言葉を覚えて、一生執着してしまうからです。わたしは一人の弟子も台なしにしたくないのです。人を済度することは非常に難しいことで、悟ることはさらに難しく、特に、皆それぞれ自分をその中に置いて悟ってみなければなりません。皆、大法は素晴らしいと分かっているのに、なぜ放下できないのでしょうか?

李 洪 志
一九九六年一月六日

 
 
 
 

実証する


 
 佛法は人を済度することができますが、人を済度するために佛法が生じたのではありません。佛法は宇宙、生命、科学の謎を明らかにすることができ、人類がもう一度、正確な科学の道を歩むようにすることができますが、佛法は人類の科学を指導するために造られたものではないのです。
 佛法は宇宙の特性であり、物質の本源を造る要素であって、宇宙が生じる原因の所在です。
 そうであるならば、佛法の中で智を開く専門家、学者が将来多くなりますが、彼らは新しい人類の各領域の開拓者となるのです。ところが、佛法はあなたを開拓者にするために、あなたに智慧を与えたのではなく、あなたが修煉者であるから得たのです。つまり、あなたはまず修煉者であって、そして専門家なのです。そうであるならば、修煉者として一切の有利な条件を利用して、大法を広め、大法が正しいもので、真の科学であり、説教と唯心論ではない、ということを実証しなければなりません。これはすべての修煉者が自らの任務とすべきことです。この洪大な佛法がなければ、宇宙のマクロからミクロまで含む、さらには常人社会の一切の知識に至るまで、すべてはないのです。

李 洪 志
一九九六年一月八日

 
 
 
 

修める者はおのずとその中にいる


 
 修煉者として、常人の中で遭遇した一切の苦悩は、みな関を乗り越えることであり、遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです。

李 洪 志
一九九六年一月十四日

 
 
 
 

忍とは何か


 
 忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです。

李 洪 志
一九九六年一月二十一日

 
 
 
 

迷信とは何か


 
 現代の中国人はこの迷信の二文字を口にすると、本当に顔色まで変わるほどになっていますが、それというのも、多くの人は信じない事をことごとく迷信と言っているからです。実際、迷信の二文字は「文化大革命」の時、極「左」の衣を着せられ、当時の民族文化に対する最も破壊力のある言葉、最も恐ろしいレッテルだったのです。ですから、それらの浅はかで頑固な人たちの最も無責任な口癖ともなったのです。甚だしいことに、それらのいわゆる唯物主義者と自称する人は、自分の知識以外のものや、科学がまだ認識していないものをことごとく迷信だと言っています。この理論に従って物事を認識するならば、人類は進歩しなくなり、科学も発展しなくなります。なぜなら、科学の新しい発展と発見はみな、前人がまだ認識できていなかったものだからです。ならば、これらの人々は自ら唯心論を実践しているのではないでしょうか? 人間がいったん何かを信じてしまえば、それ自体、夢中になっていることではないでしょうか? それでは人々が現代科学、現代医学を信じることは迷信ではありませんか? 人々の偶像に対する崇拝は迷信ではありませんか? 実のところ、迷信の二文字はごく普通の言葉なのです。いったん人々が夢中になって真理を含む何かを信じると、それはすなわち迷信であって、けなす意味はありません。ただ、それらの下心のある者が他人を攻撃するとき、この言葉にいわゆる封建的な内涵を持たせて、人心を惑わす力を持つ言葉にしてしまい、正しく判断できない人が同調するよう、より強くあおってしまったのです。
 実は、そのいわゆる迷信という二文字は本来、このように用いられるべきものではなく、押し付けられた内涵も存在していません。迷信という二文字の言っていることは、悪いことではないのです。軍人が規律を迷信しなければ、戦闘力はありません。学生が学校と先生を迷信しなければ、知識を得られません。子供が自分の親を迷信しなければ、しつけることはできません。人々が自分の仕事を迷信しなければ、仕事をきちんとこなすことができません。人類に信仰がなければ道徳の規範はなくなり、それによって人心に善なる念がなくなり、邪念に占拠されます。この時の人類は道徳が急速に下落し、邪念の作用で周囲の人は、みな近い敵となり、私欲を満足させるためにあらゆる悪事をし尽くします。迷信の二文字にいわゆる否定的な意味を持たせたそれらの悪人は、自らの目的は達したものの、人間の本性から、人類を破壊してしまったのかもしれません。

李 洪 志
一九九六年一月二十二日
一九九六年八月二十九日修正

 
 
 
 

病 業


 
 功を学び始めた頃の新しい学習者や、身体がすでに調整された古くからの学習者が、なぜ修煉中に重病にかかったかのように、身体が辛くなるのでしょうか? しかも、なぜ時間がしばらく経つたびに現れるのでしょうか? わたしが法を説く中で皆さんに教えたように、それは業を消すことであって、あなたが一世一世で積んだ業力を消すと同時に、人の悟性を高めることでもあります。しかも、学習者が大法を確固として信じているかどうかを試しており、世間法の修煉から出るまでずっと続きますが、大まかに言えばこういうことなのです。
 実は、人間は一世一世で、どれくらいの世があったか知れないのです。各世にかなり多くの業力を積み重ねていて、死後、転生した時には、一部分の病業が身体のミクロの世界に押し込まれています。転生のとき、新しい表面的な物質の肉身に病業はありませんが(ただ、業が大きい場合は例外もあります)、前の一世で押し込まれたものが外へ逆戻りして、表面の肉体に戻った時、人間は病にかかってしまうのです。しかし、病気になったときには、往々にして表面的な物質世界の外因条件の触発があります。このように、わたしたちの表面的な物質世界の客観的法則に符合し、つまり世間の理に符合してしまい、常人は病の由来の真相を知る術もなく、迷わされて悟らなくなりました。ところが、人間は病にかかると薬を飲んだり、各種の方法で治療をしていますが、実質上は病を再び身体の中に押し込んでいます。このように前の一世に悪事を働いたため造った病業を返すことができずに、この一世で再びいくらかの良くないことをすることによって他人を傷つけ、そのため、また新たな病業が現れ、各種の病にかかるのです。しかし、人間は薬を飲んだり各種の治療法を採っても、病をまたもや身体の中に押し込んでしまいます。手術も表面的な物質空間の肉を取り除いただけで、別の空間にある病業はまったく動かされていないのです。現代の医学技術ではまったく動かすことができません。再び発病すれば、再び治療し、死後、再び転生して、病業があれば再び身体に押し込んで、繰り返して、一世一世にどれほどの病業が人間の身体に残ったのか知れません。ですから、わたしは今の人間はみな、業に業を積み重ねている、と言っているのですが、病業のほかにもまだ別の業力もあります。そのため、人間は生活の中に苦があり、難があり、トラブルがあるのです。ただ幸福を求めるだけで業を返さずにいることは、どうしてありえますか? この時になると、人間はいつでもどこでも業に浸かっているほど業が大きく、いつどこにでも気に入らないことがあって、ちょっと出かけると良くないことがあなたを待っているのです。ところが、人々はトラブルがあると忍ばず、以前、借りた業を返しているとも知らずに、「お前が俺に辛く当たるなら、俺はお前にもっと激しく当たってやる」と言うのです。これでは業を返していない上、さらに新たな業力を造ってしまいます。そのため、社会の気風は日増しに悪くなって、人々はみな近い敵となっています。「今の人はどうなってしまったのか? 今の社会はどうなってしまったのか? 」と理解に苦しむ人もたくさんいます。人類がこのようになっていけば、危険極まりないのです! 
 そこでわたしたち修煉者は、師父が消してくれた業のほかに、自分でも一部を返さなければならないため、身体が辛く、病気のような感じがありますが、修煉とはまさに人の生命の本源からあなたをきれいにしてあげることです。木の年輪のように各層にみな病業があるので、中心からあなたの身体をきれいにしてあげなければいけないのです。いっぺんにすべて押し出せば、人間は耐えられず、生命の危険があります。ですから、しばらくして一つか二つを押し出すことしかできないのです。こうすれば人間は耐えられるだけでなく、苦しむ過程で業を返済することもできます。しかし、これはわたしがあなたのために業を消したのち、あなた自身で耐えるよう残しておいた、ごくわずかなものに過ぎません。ずっと続けて修煉して、世間法の最も高い形式、浄白体状態になると完全に押し出しは終わります。ただ、病業が極めて少ない人もいますし、その他、特殊な情況もあります。出世間法の修煉とは、つまり、最も清純な羅漢体の修煉で、もはや病業はありません。ところが、世間法の修煉を出ても圓満成就しておらず、まださらに高い次元に向かって修めている場合、その人にはまだ苦があり、難があり、次元を高めるために関に遭遇することがあります。しかし、すべては人と人、人と事との心性上のトラブル、そして執着心を再び取り除くことであり、身体の病業はなくなっています。
 病業を消し去るこの種のことを常人のために勝手に行なえる者は誰もいません。修煉しない常人に対しては、まったく不可能なことで、医療に頼るしかなく、勝手に常人のために行なうことは天理を破壊することです。つまり、悪事を働いても業を返さなくてもよく、借りがあっても返さない、ということになります。ですから、それは絶対にいけないことで、天理にも許されないことです! 一般の気功治療も、同様に身体に押し込んでいくのですが、人間は業力があまりにも大きくなった時、そしてまだ悪事を働いている人は、消滅される恐れがあって、死亡したとき形神全滅となり、完全に存在しなくなります。大覚者は人のために病を治し、徹底的にその病の業力の根源を消すことができますが、すべて目的があって行なっているのであって、主に人を済度するためなのです。

李 洪 志
一九九六年三月十日

 
 
 
 

修める者の忌


 
 名声に執着するならば、有為の邪法で、もし世間に名を売っているのであれば、必ず口では善いことを言っていても、心は魔であって、大勢の人を惑わし、法を乱します。
 金銭に執着するならば、財を求めて偽って修め、教を壊し、法を壊し、一生を空しく過ごして、佛を修めてはいないのです。
 色欲に執着するならば、悪い人にほかならず、口で経文を念じていても、品のない目で互いを見ていて、道から遠くかけ離れているのですが、これは邪悪な常人です。
 親族の情に執着するならば、必ずそのために疲れ、まとわり付かれ、魔がさし、情の糸をつかんで一生をかき乱されるのですが、年を取って、悔いてももう遅いのです。

李 洪 志
一九九六年四月十五日

 
 
 
 

圓 容


 
 (一)
 
 人には異なる仕事の環境に、異なる殺生の問題が存在しています。生命の均衡にも異なる現れ方があります。修煉者としては、まず一切の執着を放下すべきであり、常人の社会状態に符合することは、その次元での法の現れを守ることでもあります。人類の仕事を行なう人がまったくいなくなれば、この次元の法は存在しなくなります。
 
 (二)
 
 生命は法の中で自然に存亡し、宇宙には成、住、壊があり、人間には生、老、病、死があります。生命の均衡には同様に、非自然的な存亡もあります。忍の中には捨があり、捨て尽くすことこそ、漏らすことの無いさらに高い法理なのです。

李 洪 志
一九九六年四月十九日

 
 
 
 

漏れるところなし


 
 忍の中に捨があり、捨てることができることは、修煉の昇華です。法には異なる次元がありますが、修煉者の法に対する認識も、自らが修めて達した次元での認識であって、それぞれの修煉者の法に対する理解が異なっているのは、それぞれの人がいる次元が異なっているからです。
 異なる次元の修煉者に対して、法には異なる次元の要求があります。捨てるということは常人の心に執着しないことの体現です。もし、本当に平然として捨てることができ、心が動じない人であれば、実はすでにその次元にいるのです。しかし、修煉とは向上のために修煉しているのであって、あなたはすでにこの執着を捨てられたというのなら、なぜ、執着を恐れること自体も捨てないのでしょうか? 漏れることなく捨てることは、さらに高い次元の捨ではありませんか? しかし、修煉者や常人が根本的な捨もできないのに、さらにこの理に言及したならば、それは執着心を放下したくないために、口実を探して法を乱しているに過ぎないのです。

李 洪 志
一九九六年四月二十六日

 
 
 
 

修煉と仕事


 
 わたしたち法輪大法の弟子は、寺院の中で専修する人を除いて、絶対多数が常人社会の中で修煉しています。大法を学び、修煉することを通じて、皆さんは名、利を淡泊にみることができるようになりました。しかし、法に対して深く理解していないため、ある問題が現れたのです。つまり、ごく一部の弟子は常人の中の仕事を辞め、上役に抜擢されてもそれを辞退し、仕事と生活に多くの不必要な妨害をもたらし、直接修煉に影響を及ぼしました。また一部の実直に商売をする人は、金銭に対して淡白になったと同時に、商売が他人を傷つけ、自分の修煉に影響すると考えて、それもやめてしまったのです。
 実のところ、大法の内涵は非常に深く、常人の心を放下するということは、常人の仕事を放下するという意味ではありません。名、利を放下するということは、常人社会を離れることではないのです。わたしは幾度となく言っていますが、常人社会の中で修煉する人は、常人社会の状態に符合するべきです。
 他の方面から見れば、常人社会の上役の仕事が、もしみなわたしたちのような個人の名、利を放下できる人によって担われるならば、人民にどれほどの利益をもたらすでしょうか? もし、欲深い人であるならば、社会に何をもたらすのでしょうか? 商売を営む人が大法を修める人であるなら、社会の気風はどのようになるのでしょうか? 
 宇宙の大法(佛法)は最も高い次元から最も低い次元まで貫通しており、完全で整っているもので、分かっていなければならないことは常人社会もその次元の法によって構成されています! 誰もが大法を学んで、誰もが社会の仕事をしなくなれば、常人社会は存在しなくなり、この次元の法は存在しなくなります。常人社会も佛法の最も低い次元での体現であって、佛法のこの次元における生命と物質の存在形式でもあるのです。

李 洪 志
一九九六年四月二十六日

 
 
 
 

糾 正


 
 今現在、各地で研究会から出されている、
  大法を精読して
  心性を真に修め
  動作を一所懸命に煉る
   ……等を
 法やわたしの話として伝え、学んでいます。実は、これはわたしの話ではなく、さらに深い内涵もなく、ましてや法でもありません。精読の意味は、わたしの法を学ぶことへの要求とは、かなり大きな差異があります。実は、本を読むことについて、わたしは九十五年九月九日に書いた『法を学ぶ』の中で、すでに明確に説いており、しかも、精読の意味が「法を学ぶ」ことへの大きな妨げとなっているので、今後、必ずこの問題の重大性に注意しなければいけません。わたしはすでにインドで佛教の伝承が途絶えたことの原因と教訓を説きましたが、今後もし注意しなければ、法を乱す始まりとなります。次のことに注意してください。問題が現れたならば、責任を追及するのではなく、自分がどのように行なったかを見るべきです。誰が書いたのかも追及することなく、教訓をくみ取って、今後注意することです。

李 洪 志
一九九六年四月二十八日

 
 
 
 

金 剛


 
 大法を千古不変とするには、まだ一つの問題が存在しているようです。つまり、顕示心と新奇をてらう心理のため、機会があれば大法を妨害する学習者がいつもいて、ときには非常に深刻なものとなっています。たとえば、ここしばらくの間、わたしがある学習者だけに動作の要領を教えたとずっと言っている人がいます(実は、学習者がわたしに尋ねたとき、動作を直しただけなのです)。そのため、わたしが数年来、各地で伝えた煉功の動作を否定しています。わたし自身がまだ健在で、煉功を教えるビデオテープがまだあるという情況の下で、公然と大法の動作を変えてしまいました。煉功のテープに従って行なうのではなく、自分に従うべきだと学習者に教え、先生は功が高いので学習者とは違うなどと言って、まず自分の情況に基づいて行ない、その後に少しずつ直していく、等々と学習者に教えていました。
 わたしは煉功を教えるにあたっては、すべてを一度に教えます。その目的はまさに学習者がでたらめに改めるのを案じるところにあります。機制がいったん形成されると、もはやまったく改めることができないのです。このことは大したことがないように見えますが、実は、法を重大に乱すことの始まりです。また、移行の動作を独立した動作として、学習者に統一して行なわせている人がいますが、これは新奇をてらっているのです。今では、各地ですでにかなり大きな影響を及ぼしています。弟子たちよ! わたしの煉功を教えるビデオテープがまだあるというのに、なぜ軽々と従ってしまったのですか?! 大法は厳粛な宇宙大法であり、それを少しでも乱したなら、その罪はどれほど大きいのでしょう。修煉者として正々堂々と修め、大所に着眼すべきです。各人の動作がみな同じで、少しの違いもないことなど、どうしてありえますか? これらの瑣末なことに心を遣わないようにしましょう。動作は圓満成就するための形式で、もちろん重要ではありますが、牛の角先にもぐり込むようなことをしないで、心性に多く磨きをかけるべきです。実は、大法に対する攪乱の多くは、わたしたちの内部から生じています。外来の要素は個別の人を乱すだけで、法を変えることはできません。現在であろうと将来であろうと、わたしたちの法を乱す者は内部の弟子でしかありえないのです。くれぐれも注意してください! わたしたちの法は金剛不動のものです。誰であっても、いかなる口実、いかなる原因、いかなる情況であっても、わたしたちが圓満成就に至るための動作を少しでも変えてはいけません。さもなければ、動機の良し悪しを問わず、すべて法を乱すことになるのです。

李 洪 志
一九九六年五月十一日

 
 
 
 

たわむれ言を語らない


 
 最近、このような言い方があります。つまり、皆さんが大法を広めるとき、一部の縁のある人が法を得て、修煉の道を歩むように導いたので、自分は人を済度したと言うのです。曰く、「わたしは今日、何人を済度した、あなたは何人を済度した」等々です。実は、人を済度するのは法であって、このことをするのは師父のみです。皆さんはただ縁のある人が法を得るよう導いただけで、真に済度されるかどうかは、その人が圓満成就するまで修められるかどうかによって決まるのです。ぜひ、次のことに注意してください。有意にせよ、無意にせよ、話を大げさに語ると佛も驚いてしまいます。自らの修煉に障碍をもたらしてはいけません。この面でも口を修めるべきなのです。皆さんは分かるよう望んでいます。

李 洪 志
一九九六年五月二十一日

 
 
 
 

目覚めよ


 
 大法を学んで着実に修める時間は限られており、多くの学習者は時間を無駄にせず、精進してやまないのですが、一部の学習者は時間を大切にすることを知らずに、考えを無駄なことに使っています。『轉法輪』という大法の本が印刷されてから、多くの人はわたしの説法の録音をそれと比べ合わせては、研究会が先生の話を変更したと言っています。また一部の人は、この本は誰それが手伝って書いたのだと言って、それによって大法を破壊しています。ここで皆さんに言っておきますが、大法はわたし、李洪志のもので、皆さんに伝え、皆さんを済度しているのですが、大法はわたし、李洪志の口から説かれたものです。しかも、わたしは法を説く時、いかなる原稿や資料も用いません。毎日、学習者に何を説くかということを書いた紙しかなく、その紙には非常に簡単で、他人が見ても分からない幾つかの問題しかありません。わたしは毎回、説法する時に異なった角度に立ち、そして学習者の受け入れ能力をみて説いているので、毎回法を説くときに、同じ問題を違う角度から説いています。しかも、この法は宇宙の特性で、偉大なる佛法の真実の体現です。わたしは修煉して悟りを開いた後、わたし自身が先天から持っているものを思い出し、そして常人の言葉でそれを説き、皆さんに、さらには天上に伝えて、法で乾坤を正しているのです。学ぶ人が修煉しやすいように、わたしは学習者を指名して、わたしの講義内容を録音から元の話を少しも変えずに書き起こさせ、わたしはそれをもらって修正しました。わたしがもう一度修正しやすくするため、学習者がわたしの修正したものを清書し、またはコンピュータで入力しただけのことです。『轉法輪』について言えば、わたし自身が三回、修正したのちに最終稿として出版したのです。
 この大法の内涵を、ほかの人は一筆も修正していませんが、誰がまだ修正することができるのでしょうか? 録音と違いがあることには原因が三つあります。一、わたしは修煉しやすくするため、数回の説法をひとまとめにして修正したのです。二、わたしは法を説く時、学習者の受け入れ能力の違いや、当時の情況と環境に基づいて説いているため、整理して本にするには言語構造を少し変えなければなりません。三、修める人が講義と本を学ぶときには違いがあるため、調整しないといけませんが、やはり、わたしが法を説く時の状態と口語体をそのままにしました。『轉法輪(巻二)』と『法輪大法義解』も同様にすべてわたしが自ら修正して出版したものです。『轉法輪(巻二)』はわたしが異なった次元での考え方を用いて書いたため、文法が違い、分からないと思う人がいますが、これらはそもそも常人のものではないのです! 実は、『巻二』は後世の人に、この時の人類の腐敗の程度を知らせるためのもので、それによって歴史上、人に深刻な教訓を残しておくのです。そして『法輪功』は改訂版を含めて、最初に気功という形で人々に認識してもらうための過程のものに過ぎません。
 法を乱すことには多くの形があって、その中でも内部の弟子が無意識に行なう破壊は最も気づきにくいものです。釈教の末法はこのように始まったのですが、教訓は深刻なものです。
 弟子たちはぜひ、覚えておいてください。あらゆる法輪大法の経書はみな、わたしが説いた法で、みなわたしが自ら修正して整理したものです。今後、いかなる人であっても、わたしの説法の録音の中から文字材料を抜粋したり、整理してはいけません。たとえいかなる口実があろうとも、すべて法を乱すもので、いわゆる話し言葉と書き言葉との違いを比べ合わす、等々も含みます。
 天体の変化、人類の発展はすべて偶然ではなく、人類社会の動向は歴史の按排で、天象の働きに従って現れたものです。将来、全世界でさらに多くの人が大法を学ぶようになりますが、これは人間が突然、思い立ってしたいと思うだけで出来ることではありません。これほど由々しき一大事が歴史上、各方面の按排なしにありえるでしょうか? 実は、わたしが行なった一切のことはすべて遥か昔にすでに按排したことであり、法を得る人を含めてみな偶然ではないのですが、その現れは常人の形式と同じです。実のところ、わたしのこの世での何人かの師父がわたしに伝えたものも、数世の前にわたしが意図して彼らに得させたもので、縁が熟したときに再びわたしに伝えるよう按排し、それによってわたしが法のすべてを悟るようにしたのです。ですから皆さんに、はっきりと伝えましょう。この法は人類という次元が学んでいるだけではなく、さらに高い次元もみな学んでいるのですが、大きな天体の範囲が宇宙の特性から外れたため、法を正すのです。人類は厖大な宇宙の中では何者でもなく、地球も一粒の宇宙の塵埃であるに過ぎません。人間が高級生命に重視されたいのであれば、修めるしかありません! 同じように、高級生命になってください! 

李 洪 志
一九九六年五月二十七日

 
 
 
 

法 定


 
 この二年来、学習者の修煉にいくらかの問題が現れ、わたしもずっと学習者の修煉の情況を観察しています。現れた問題を適時正すため、わたしは常に目的をもって幾つかの短文(学習者たちが経文と呼んでいる)を書いて、皆さんの修煉を指導しているのです。目的は、後人にしっかりとした、健全で、正確な大法を修煉する道を残すところにあります。千秋万代にあっても、わたしが自ら皆さんに残したこの道に沿って修めて、初めて圓満成就することができるのです。
 ところが最近、わたしは香港のある煉功点である資料を目にしたのですが、それはほかのところから伝わってきたものでした。中の二つは、わたしが発表する予定のない短文であり、これは甚だしく意識的に大法を破壊しています! 録音から勝手に整理することも間違っています! わたしは『目覚めよ』という短文ですでに明確にしたように、いかなる人が、いかなる口実をもってしても、わたしが説法した録音を書き下ろしてはなりません。このようにすれば法を破壊することになるのです。同時に、わたしは説法の時に皆さんが取った個人的な記録を持ち出して伝えてはならないと、再三、強調しましたが、皆さんはなぜ、やはりこのようなことをするのでしょうか? どのような心が作用して書いたのでしょうか? 皆さんに教えますが、わたしが正式に出版した数冊の本と、研究会が配布したわたしが署名した日付のある短文を除いて、無断で整理したものはすべて法を乱すものです。修めるということはあなた自身のことで、何を求めるかはあなた自身が決めることですが、常人には、みな魔性と佛性があって、考えにずれが生じれば、魔性がただちに作用するのです。さらに皆さんに教えますが、外部の人は永遠に法を破壊することができず、法を破壊する者は内部の学習者でしかありえません。覚えておいてください! 
 わたし、李洪志が歩んだ一歩一歩はみな、後世に大法を伝えるために定めた不変不壊の形式であって、これほど大きな法は一時期、盛んになってすぐ終わるものではなく、万世永遠に少しの狂いも生じてはならないのです。自ら大法を護ることは、同様に、永遠に大法弟子の責任です。なぜなら、それは宇宙の衆生のものであって、その中にはあなたも含まれているからです。

李 洪 志
一九九六年六月十一日

 
 
 
 

修煉と責任を負うこと


 
 精進して着実に修めることは、一日も早く圓満成就するためであって、修煉者とは、すなわち常人の執着心を取り除く人のことです。弟子たちよ、あなたたちは自分が何をしているのかを、はっきりと分かっていなければいけないのです! 
 各地の輔導站、総站と学会は大法のために責任を負うため、すべての輔導員と分站の責任者を更迭する権限を持っていますので、ときに、異なる情況によって責任者を更迭することがあります。責任者はまず修煉者で、修煉のために来たのであって、責任者になるために来たわけではないのです。ですから、昇格されることも、降格されることもできるようにならなくてはいけません。責任者に昇格されることは修煉のためで、責任者にならなくても同様に修煉をします。降格された人が心の中で不平不満に思っているのであれば、それはまさに執着心が作用しているのではないでしょうか? これはちょうどその心を取り除く良い機会ではないでしょうか? それでも、やはり心を放下できないのであれば、まさに降格されたことは正しかった、ということを物語っているのです。責任者になることに執着すること自体、修煉の目的が不純であるので、弟子の皆さんに注意しておきます! あなたたちはこの心を取り除かなければ、圓満成就することはできないのです。

李 洪 志
一九九六年六月十二日

 
 
 
 

手で書き写した経文の扱い


 
 今、大法を学ぶ人がますます多くなり、毎週、倍増していますが、出版部門で出版した本が足りなくて、供給が需要に応じきれないため、一部の地区や農村では本を買うことができません。ある学習者が、手で書き写した大法の本をどう扱うべきですか、とわたしに聞きました。皆さんに教えますが、さしあたっては、皆さんが大法を学ぶ時に手で書き写した『轉法輪』や他の経文を、農村へ功を伝え、法を伝えに行く人に持たせて農民にあげてもよいのです。同時に、彼らの経済的な負担を軽減できます。その場合、学習者が手で書き写した本は字が読みやすく、教養レベルの高くない農民が読んでも分かるようにしなければいけません。しかも、手で書き写した本は、印刷した本と同様に、法の威力があるのです。

李 洪 志
一九九六年六月二十六日

 
 
 
 

法 会


 
 弟子たちが修煉の中での感想と体験をお互いに語り合うことはとても必要なことです。意識的に自分を誇示することでないかぎり、互いに促進し合い、共に向上するのであれば問題ありません。大法を広く伝えることを推しすすめるため、各地で何度か修煉体験交流会を行ないましたが、行ない方と内容からみれば、みなとても良く、健全なものでした。ただし、学習者の発表した原稿は、輔導站が審査して決めなければならず、修煉とは無関係な政治的な問題や、修煉と社会を間違った方向へ導くような問題が生じてはいけません。同時に、人々が常人の理論を学ぶときに染まった、見栄えばかり立派で内容が伴わないという気風をも避けなければいけません。自己顕示する心理をもって、上へ報告するような文章を集めて、発表させてはならないのです。
 省、市というレベルの総站が主催した大型の修煉体験交流会は、全国規模のものにしてはなりません。全国ないし世界規模のものは大法研究会が行なうものです。頻繁に行なってもいけません。年に一回行なう程度でよいでしょう(特殊な情況は除きます)。形式的なものになったり、互いに見栄をはり競り合ってはならず、真に修煉を促進することのできる荘厳な法会になるよう行なうべきです。

李 洪 志
一九九六年六月二十六日

 
 
 
 

大法石家荘総站への手紙


 
 大法石家荘総站:
 皆さんの体験交流会が阻まれたことを、わたしはすでに知っていますが、原因は三つあります。皆さん自身もきっと今回の教訓について総括することでしょう。実は今回、直接、北京ひいては全国の大法の活動に影響を及ぼし、大法の今後の正常な活動に対して、ある程度のマイナス作用がありました。皆さんもきっとそれを認識し、今後はより良く行なうことができるでしょう。
 また、学習者個人のために開いた報告会のことについて、少しお話しましょう。わずかな功能のある学習者のことは、科学の見地から大法の科学性を証明することを通して、科学技術界、学術界に大法を認識してもらうためのものです。学習者の中で宣伝するためのものではないので、このようにして何のメリットもありませんし、新しい学習者や法をしっかり学んでいない弟子の執着心を引き起こすことしかできません。よく学んだ弟子は、これらの講演を聴かなくても、相変わらず大法を堅く修めることでしょう。
 さらに重要なことは、わたしが二年間、法を伝え、弟子たちに着実に修めるための二年間を与えましたが、弟子たちがその実修の二年間の中で、わたしは実修とは無関係ないかなる活動も、学習者のためにすでに按排した一歩一歩、順序立てた向上の過程を妨害しないようにしてきました。もし講演が科学界、学術界に対して大法の科学性を証明するためのものではなく、時間に限りのある修煉弟子に講じるものならば、皆さん、考えてみてください。学習者に対して、これより大きな妨害があるでしょうか? 学習者を妨害しないよう、わたしまで学習者に会わないようにしているのです。学習者はわたしに会うと、少なくとも数日間は心が落ち着かなくなるので、学習者のために、わたしが法身に按排させた順序を乱してしまうのです。このことをわたしは研究会と話したことがありますが、その学習者には、はっきりと伝えていないかも知れません。事は過ぎましたが、皆さんは責任を追及しないようにしましょう。主な原因は、あなたたちが認識していなかったからに過ぎないと思います。しかし、今後は注意してください。わたしたちが今日行なった一切のことも、すべて千秋万代にわたって大法が伝わるための基礎を築いており、完全で、正確で、間違いのない修煉の形式を残しているのです! 今日、このことを指摘したのは、批判しているのではなく、修煉の形式を修正して、後世の人に残すためなのです。

李 洪 志
一九九六年六月二十六日

 
 
 
 

正 性


 
 大法を深く着実に修めるにつれて、多くの弟子は相次いで悟りを開き、漸悟の状態に入って、他の空間の真実の、壮麗で、殊勝で美妙な景象が見えるようになりました。悟りを開く過程にある弟子は感極まって、わたしの法身を第二の師父と呼んだり、わたしの法身を真の独立した師父と思ったりしていますが、これは間違った認識です。法身はあらゆるところに存在するわたしの智慧の形象の現れで、独立した生命体ではありません。また法輪を「法輪師父」と呼んでいる弟子もいますが、これは大きな間違いです。法輪もわたしの法力の特徴と大法の智慧のもう一種の体現の形式で、言葉にできないほど玄妙なものですが、法輪は宇宙のマクロからミクロに至る一切の物質の法性の体現であって、独立した生命体でもありません。
 弟子たちはぜひ、覚えておいてください。わたしの法身、法輪が、皆さんのために非常に玄妙で殊勝なことをしたのを見て、常人の心でそれを認識してわたしの法身、法輪にへつらわないようにしてください。その心は、あまりにも低い悟性と心性が乱雑に混じっていることの現れです。実は、一切の表現の形式も、わたしが洪大な法力で法を正し、人を済度することの具体的な体現なのです。

李 洪 志
一九九六年七月二日

 
 
 
 

善を説く


 
 善は宇宙の特性の異なった次元、異なった空間での現れで、大覚者たちの基本的な本性でもあります。ですから、修煉者は必ず善を修めて、真・善・忍の宇宙の特性に同化しなければいけません。厖大な天体は宇宙の真・善・忍の特性からなっていますが、大法が伝え出されたことは、宇宙の生命に与えた先天的な歴史的特性の再現なのです。大法は圓容しており、真・善・忍の三文字を分けても、同様に、真・善・忍の特性を充分そなえています。なぜなら物質はミクロの物質から構成されたもので、しかも、ミクロの物質はまた、さらにミクロの物質から構成されており、ずっと尽きるところまで至るからです。ですから、真も、真・善・忍から構成され、善も、真・善・忍から構成され、忍も同様に、真・善・忍から構成されているのです。道家は真を修めていますが、これも、真・善・忍を修めているのではありませんか。佛家は善を修めていますが、これも、真・善・忍を修めているのではありませんか。実は、ただ表面の形式が違うだけなのです。
 善だけについて言えば、善が常人社会の中に反映されると、一部の常人社会に執着する常人は、ある常人の社会問題を提起することでしょう。曰く、「もし、人々がみな大法を学んで、みな善を重んじるならば、それでは外からの侵略があって、戦争が起き、わたしたちを攻撃したらどうするのか? 」と。実は、わたしは『轉法輪』の中ですでに説いているのですが、人類社会の発展は、天象の演化に従って出現したものです。それでは、人類の戦争とは偶然に存在するものでしょうか? 業力が大きい地区、人心が悪くなった地区はどうしても安定しません。もし、ある民族が本当に善良であるならば、業力は必ず小さく、戦争も決して起こらないのです。なぜなら大法の原則が許さず、宇宙の特性が一切を制約しているからです。人間は善良な民族が侵略されることを心配する必要はありませんが、それは宇宙の特性─大法が天体全体に及んでおり、マクロからミクロまで存在しないところはないからです。わたしが今日伝えた大法は東洋人に伝えているだけでなく、同時に、西洋人にも伝えているのですが、彼らの善良な人も済度され、次の歴史の新しい紀元に入るべき民族で、みな法を得て、全体的に向上するのです。これは一民族の問題ではありません。人類の道徳水準も人類の本性に立ち返るのです。

李 洪 志
一九九六年七月二十日

 
 
 
 

正性についての注釈


 
 わたしが「法身と法輪は独立した生命体ではありません」と言った後、これは『轉法輪』の中で説かれている、「法身の意識と思想は主体によって制御されています。一方、法身自身は独立した、完全な、正真正銘の個体の生命でもあります」ということと矛盾しているのではないでしょうか? と、ある学習者が質問をしました。これは法をよく理解していないと思います。法身を完全な独立した生命と同じような概念で認識してはいけません。なぜなら法身は取りも直さず、主尊の形象と思想の法力、そして智慧の意のままの表現だからです。主尊の意向に従って、独立していかなることをも成す能力があります。ですから、学習者はあとの一文に注目しただけで、前の「法身の意識と思想は主体によって制御されています」という文に注意しなかったのです。したがって、法身には独立した完全な主尊の形象だけではなく、主尊の性格の特徴も備わり、しかも、主尊が考える一切のことを独立して完成することができます。ところが、一般の生命は誰にも制御されてはいません。人々が見た法身は、完全で独立した正真正銘の個体の生命でもありますが、実は、はっきり言えば、わたしの法身とはすなわち、わたしなのです。

李 洪 志
一九九六年七月二十一日

 
 
 
 

佛性と魔性


 
 非常に次元の高い、非常にミクロ的な宇宙空間に、二種類の異なった物質が存在しています。これも真・善・忍という最高の宇宙特性が、宇宙の一定の空間と次元に体現する二種類の物質の存在形式なのです。上から下へ、ミクロからマクロに至る、一定の空間まで貫いています。下へ行けば行くほど、異なる次元の法の現れの状態によって、この二種類の性質の物質はその現れがますます異なり、差異もますます大きくなります。それによって、道家の説いた陰陽と太極の理が生じました。さらに下へ行くと、この二種類の性質の異なる物質はますます対立して、それにより相生相克の理が形成されたのです。
 相生相克が存在するようになると、善と悪、正と邪、良いものと悪いものが現れました。そのため、生命の現れとして、佛がいれば魔もいて、人がいれば鬼もいるのです。常人社会の中では、さらに突出して複雑になり、良い人がいれば悪い人もいて、公のためのものがいれば私のためのものもいて、度量が大きいものがいれば心の狭いものもいます。修煉に関して言えば、信じるものがいれば信じないものもいて、悟れるものがいれば悟れないものもいて、支持するものがいれば反対するものもいる、これが人類社会です。もし、みな修めることができ、みな悟ることができ、みな信じるならば、人類社会は神の社会となってしまいます。人類社会は人類という社会であって、存在しなければならないものであり、人類社会は永遠に存在しつづけるのです。ですから、反対する人がいるのは正常なことで、逆に、反対する人がいなければ、それこそ異常です。鬼がいなければ人間はどのようにして人間に転生するのでしょうか。魔が存在しなければ佛を修めることもできなくなり、苦しさがなければ喜びも存在しえないのです。
 まさに相生相克の理があるからこそ、人々が何かを成し遂げたいときに困難があり、苦しみを伴う努力によって困難を克服し、そうして行ないたいことを成し遂げ初めて得たことはたやすくないと感じ、得たものを大切にして、幸福を感じるのです。そうでなければ相生相克の理はなく、どんなことでも行なえばすぐにできるのであれば、あなたは生きていても楽しみがなく、幸福感がなく、勝利のあとの喜びがないと感じるのです。
 宇宙の中のいかなる物質や生命においても、ミクロ的な粒子が、さらに大きな粒子を構成していて、それによって表面の物体を組み合わせています。この性質の異なる二種類の物質が貫いている範囲内では、一切の物質、一切の生命にみな同様に、二つの性質が存在しているのです。たとえば鋼鉄はとても硬いものですが、土の中に埋めれば錆びて酸化します。陶磁器は土の中に埋めても酸化することはありませんが、大変もろくて打つと割れてしまいます。人間も同じで、人間には佛性があると同時に、魔性もあります。人間が道徳の規範と制約のないときに行なったことは魔性であり、佛を修めることは、つまりあなたの魔性を取り除き、佛性を充実させることなのです。
 人間の佛性とは善であり、慈悲として現れ、何かをするときにまず人に配慮し、苦痛に耐えられることとして現れるものです。人の魔性とは悪であり、殺生、盗み、利己、邪念、悪事をそそのかすこと、デマの煽動、嫉妬、悪らつなこと、発狂、怠惰、乱倫等々として現れるのです。
 宇宙のある一定の次元の中の、この二種類の異なる性質の物質は、宇宙の特性である真・善・忍の異なる次元での異なった現れによって、同時に、異なる次元で異なった表現形式があります。下へ行くほど対立が目立ち、それによって善悪の区別があり、善のものはますます善に、悪のものはますます悪となるのです。一つの物体にあるこの二種類の性質も、非常に複雑で多くの変化があります。これこそ佛が説いた、万物に佛性ありということなのですが、実は、同様に魔性もあるのです。
 しかし、宇宙は真・善・忍を特性としているもので、常人社会も同じです。わたしがお話ししたこの二種類の物質も、上から下まで、ミクロからマクロに至るまで、そして人類社会に至るまで、数え切れないほど存在していますが、生命と物質の中に反映されると、二つの性質を生みだす二種類の物質にすぎないのです。上から下まで、人類社会まで至る生命と物質は、様々な無数のマクロからミクロに至る物質によって構成されているのです。
 人類が人間の道徳の規範を守らなければ─社会は大乱となって治まらず、天災と人災が起こります。修煉者が修めて魔性を取り除かなければ─功は大きく乱れて得ることができず、または魔道に入るのです。

李 洪 志
一九九六年八月二十六日

 
 
 
 

白日の下にさらけ出す


 
 目下のところ、大勢の学習者が圓満成就、もしくはまもなく圓満成就しますが、人間が修めて圓満成就するとは何と厳粛なことでしょう。世間でこれよりさらに殊勝で、さらに壮麗で、さらに偉大なことはありません。こうである以上、修煉の過程で一人一人の修煉者に対して厳格に要求しなければなりません。しかも、各次元の向上も確実に基準に達しなければいけないのです。全体の情況から見ると、大法の修煉弟子は合格しています。ただし、様々な執着心を取り除いていない、うわべだけの人もいて、表面上は大法は素晴らしいと言っていますが、実質は修めていません。特に、みな大法は素晴らしいと言い、社会の上層部から一般庶民までもが、みな大法は素晴らしいと言い、ある政府も素晴らしいと言い、みなもそれに従って素晴らしいと言っていますが、それでは誰が本音を語っているのでしょうか? 誰が同調しているのでしょうか? 誰が口では素晴らしいと言いながら、実質的に破壊しているのでしょうか? わたしたちが常人社会の形勢を変化させ、形勢が逆転した情況の下で、誰がまだ大法は素晴らしいと言うか、誰の心態が変化したのかを見れば、たちどころに、すべてがはっきりと現れてくるのではありませんか? 
 『光明日報』の事件以降、現在に至っても、大法弟子はみな何らかの役割を演じています。確固として着実に修める人もいれば、大法の名誉のため、直言する手紙を出す人、無責任な報道に不公平を訴える人もいます。しかし、困難な形勢の下で、内に向かって修めることなく、分裂する人もおり、当面の形勢をさらに複雑にしています。自らの名利が損なわれるのを恐れて、修煉をやめた人もいます。大法の安定をかえりみず不実な噂をまき散らす人もいて、法を乱す要素を重くしました。また、各地の一部の責任者は、長期にわたる政治闘争の中で染まった社会の動きを見る良くない習慣によって大法の形勢を分析して、各地区の孤立した問題を一緒に関連づけ、何らかの社会の動向が現れたものと思って、それを意識的に学習者に伝えています。様々な原因で引き起こされた事件とはいえ、これより大法を深刻に破壊することがあるでしょうか? さらに甚だしい者は、魔性を持ってデマを飛ばし、紛糾を引き起こしており、乱れれば乱れるほど喜んでいるのです。
 大法は宇宙のもので、常人社会の中まで貫いています。これほど大きな法が伝え出された以上、あらゆる一切にまで按排がないということがありえるでしょうか? 起きた出来事は大法弟子の心性を試しているのではありませんか? 修めるとは、どういうことなのでしょうか? あなたも、私も、皆も、素晴らしいと言うならば、人の心を見分けることはできるでしょうか? 肝心なときにこそ、人の心がどのように動くのかを見るのです。一部の心を取り除かなければ、佛までをも裏切ってしまいますが、これが小さな問題だと言えますか? 恐れている人がいますが、何を恐れているのでしょうか? 弟子たちよ! ある人が羅漢まで成就した時、心の中に恐れの念が生じて落ちてしまった、というわたしの説いた話を聞いたことがあるのではありませんか? いかなる常人の心であろうと、すべて取り除かなければなりません! 「何を恐れるのか、頭が落ちても身体はまだ坐禅している」と言った弟子がいますが、比べてみれば、修煉がどのようになっているかは一目瞭然です。当然のことながら、一部の責任者が大法の安全のために心配していますが、これは別のことです。
 わたしたちはそれらの精進していない弟子に自らの不足を認識させ、それらのうわべだけの者を表に現れるようにさせ、違った形で破壊する者をさらけ出し、真に修煉する弟子を圓満成就させているのです。

李 洪 志
一九九六年八月二十八日

 
 
 
 

修煉は政治ではない


 
 一部の学習者は、社会や政治に対して不満を持っており、この強烈な執着心を抱いて放さず、そのためにわたしたちの大法を学んで、大法を利用して政治に関わることまで企んでいます。これは佛を冒涜し、法を冒涜する汚れた心理による行為です。この心を無くさなければ、絶対に圓満成就することはできません。
 わたしは説法の中で再三、強調しているのですが、常人社会の形式は、それがいかなる社会や政治であろうとも、すべて定めがあって、天によって定められているのです。修煉者は人間の余計なことにかまう必要はなく、政治闘争に加わることは、なおさらしてはいけません。社会がわたしたちをどう扱っているかといったことは、修煉者の心を試しているのではありませんか? わたしたちが政治に関わったと言ってはいけません。
 わたしたちの大法の修煉形式とは、ほかでもなくこのようなもので、いかなる国内外の政治勢力にも頼ってはいけません。それらの勢力を有する人は、修煉者でない限り、わたしたちの大法のいかなる名誉ある、そして実質的な責任者にも、決してなってはいけないのです。
 弟子たちよ、皆さんは真に修めているということをしっかりと覚えておいてください! 皆さんは常人の名、利、情を放下した人ですが、社会の制度がどうであるかなど、皆さんの修煉と何の関わりがあるでしょうか? 執着が一つも漏れることなく無くなるまで修めて、初めて圓満成就できるのです! 修煉者は本職の仕事をきちんとこなすこと以外、政治、政権などに興味を持つことはありません。そうでなければ、決してわたしの弟子ではないのです。
 わたしたちは、修煉者が法を得て正果を得るようにすることができるだけではなく、社会の人心を善に向かわせることもできるので、人類社会の安定に対して有益なのです。しかし、大法は人類社会のために伝えたものではありません。皆さんが修煉して圓満成就できるようにするためなのです。

李 洪 志
一九九六年九月三日

 
 
 
 

責任者も修煉者である


 
 わたしたちの各地の輔導站の責任者はみな、大法のために苦労をいとわず、不満を持つことなく仕事をすることができますが、多くの輔導站の責任者は、責任者同士の関係をうまく扱うことができず、仕事に協力しなくなり、人々の大法に対するイメージを大きく損なっています。仕事の能力が足りないのではないかと、わたしに話した人がいますが、それは常人の言い方です、とわたしは言いました。根本的な原因は、あなた方、責任者、副責任者も修煉者で、同様に放下できない執着心があり、皆さんのその心を取り除く環境がなければならないからです。責任者同士の間にトラブルが現れたとき、往々にして皆さんはみな、「仕事に協力してくれない」等々と、大法の仕事を口実にして、トラブルを棚上げし、この良い機会を利用して内に向かって探して、向上するようにしていません。あなたの心が取り除かれず、向上できなければ、次回にトラブルがまた生じますが、これでは本当に大法の仕事を妨害してしまいます。皆さんは分かっているでしょうか? あなた方、責任者同士のトラブルは、わたしがあなたを向上させるために按排したものですが、あなたはかえって大法の仕事をもって、あなたが向上すべきときに向上できないでいる心を覆い隠しています。トラブルが大きくなって、関を乗り越えられなくなったとき、また心の中でわたしに苦を訴えていますが、その時、わたしがどのように考えているのか、分かっているでしょうか? 責任者になったあなたは、大法の仕事のためだと言って、心性を高めなくても圓満成就できるというわけではないのです。学習者でさえ、いかなるトラブルの中でも、それが心性を高めているのだと認識できるのに、責任者がなぜできないのでしょうか? トラブルがやって来たとき、あなたを向上させるため、あなたの心に触れなければ同様にいけません。大法の仕事もあなたの心性を向上させる良い機会なのです! 
 わたしがなぜ、あなた方のためにこの文章を書いたのかというと、あなた方の一挙一動、一言一行が直接に学習者に影響を及ぼすからです。自らをよく修めることができれば、その地区で法をよく広めることができ、学習者たちも、よりよく修めることができるのです。さもなければ、法を破壊してしまいます。皆さんは常人という次元にいる大法の精英なので、わたしはただ皆さんに仕事をさせるだけで、皆さんを圓満成就させないわけにはいかないのです。

李 洪 志
一九九六年九月三日

 
 
 
 

修煉とは何か


 
 修煉というと、多くの人は、いくらかの動作を練り、坐禅をして、まじないの文句を少し学ぶことがすなわち修煉で、神になり、佛になり、道を得ることができると思っています。実は、これは修煉ではなく、世間的な技能を鍛錬しているだけのことです。
 宗教の中では修めることを重視していて、修行と呼んでいますが、これはまた別の極端に走ってしまいました。出家人は努めて経書を読み、読んだ経書の量を圓満成就の方法と見なしています。実は、釈迦牟尼佛、イエス、老子を含めて、在世のときには経書はまったくなく、着実に修めることだけだったのですが、師尊が説いた話は修煉を指導するために説かれたものだったのです。後人が彼らの説いた話を思いだして本にし、経書と名づけ、次第に佛学、法学を研究するようになりました。師尊たちの在世時のように、真に着実に修めて、彼らの説いた法を着実に修めるための指導とするのではなく、宗教の経典、学問を勉強することを修煉としたのです。
 これは歴史的な教訓です。法輪大法を修煉する弟子は、常人や出家人の学問として法を研究するだけで着実に修めないということを決してしてはならないと、ぜひ覚えておいてください。わたしはなぜ皆さんに『轉法輪』を学ばせ、読ませ、覚えさせているのでしょうか? 目的は皆さんの修煉を指導するところにあるのです! 動作を練るだけで法を学ばない者に至っては、決して大法の弟子ではありません。法を学び心を修め、圓満成就の手段─煉功を加えて、確実に本質から自分を改め、心性を高め、次元を向上させることこそ、真の修煉なのです。

李 洪 志
一九九六年九月六日

 
 
 
 

大法は金剛にして永遠に純潔である


 
 宗教と政治は合一してはならないもので、その首領は必ず世間の俗事に気を取られてしまいます。口では、人心を善に向かわせる、浄土へ回帰させると言っていますが、心は必ず邪悪にして偽りの善で、求めるものは必ず名と利なのです。権力とは世人の求めるもので、名とは圓満成就できない大きな障害であり、しばらくすれば、その人は必ず邪教の首領となります。宗教の目的は人間を善に向かわせ、最後に天国の世界へと回帰させるところにあるため、説いた法理は必ず人類社会の理よりも高いのです。もし、それが世間の政治に用いられるのであれば、すなわち最も深刻に天の法を破壊することになります。神佛がどうして人間の執着心に振りまわされ、常人社会の汚れた政治と権力の闘争に加わることなどありうるのでしょうか? これは人間が魔性に動かされたときの行為です。このような宗教はきっと政府に利用され、暴力に加わり、宗教戦争を引き起こし、それによって邪教となって人類に危害をもたらします。
 「全民宗教」もしてはいけません。一、宗教の教義を変えてしまい、常人社会の理論となりがちです。二、政治の道具となって、佛法のイメージを破壊しがちです。三、宗教の首領は政治屋となって、宗教を末法へと向かわせ、それによって邪教となる恐れがあります。
 法輪大法は宗教ではありませんが、将来の人は宗教と思うようになります。世人に伝える目的は、修煉のためであって、宗教を行うためではありません。大法を学ぶ人がたくさんいてもよいのですが、国民がすなわち信奉者となり、すべての人が画一的な修煉の活動に参加するようにしてはならないのです。大法の修煉は永遠に自由であって、いかなる人をも無理強いして修煉に参加させてはいけません。
 歴史の将来にあっては、いかなる時期であっても、いかなる政治にも絶対に利用されてはならないのです。大法は人心を善に向かわせることができ、それによって社会を安定させることができますが、大法は決して常人社会のこれらのことを護るために伝えたものではありません。弟子たちは、くれぐれも覚えておいてください。将来、いかなる大きな政治と権勢の圧力があっても、政治と権勢に利用されてはいけません。
 永遠に政治に加わることなく、国事に干渉することなく、真に修めて善に向かい、大法の純潔さが変わらないよう保持することで、金剛不壊となって、永遠に存在するのです。

李 洪 志
一九九六年九月七日

 
 
 
 

再認識


 
 佛性と魔性の問題について、わたしがした説明ほど明白なものはありません。実は、皆さんが乗り越える関はほかでもなく、皆さんの魔性を取り去っているのです! しかし、皆さんはその都度各種の口実をもって、あるいは大法をもってそれを覆い隠し、心性を向上させることができず、機会をその度に逸しています。
 皆さん、ご存知ですか? あなたが修煉者でありさえすれば、いかなる環境、いかなる状況下でも、遭遇したいかなる厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法の仕事のためであっても、皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させ、それを取り去っているのです。皆さんの向上こそが、最も重要だからです。
 真にこのように向上することができるのであれば、皆さんが純粋で浄らかな心の状態の下で行なうことこそ、最も良いことで、最も神聖なのです。

李 洪 志
一九九六年九月九日

 
 
 
 

警告の言葉


 
 わたしが大法を伝えてすでに四年経ちましたが、一部分の学習者は心性、境地の向上がとても遅く、まだ感覚からわたしと大法を認識するに留まっていて、いつも身体の変化と功能の体現から、わたしに対して恩を感じていますが、これは常人の認識です。皆さんは人間の状態を変えようとせず、理性からも大法を真に認識するまで昇華しようとしなければ、機会を失うことになります。皆さんは、常人として百年千年来、骨の髄までしみ込むように形成された人間の理を変えなければ、人間としての表面の殻を取り除くことはできず、圓満成就できません。いつもわたしが皆さんのために業を消しているばかりで、皆さんが真に法の上で向上するのではなく、人間の認識、人間の観念から抜け出さないようではいけません。わたしと大法に対する皆さんの考え、認識、感謝の仕方はみな常人の考えの現れです。しかし、わたしはまさに皆さんに常人から抜けだすことを教えているのです! 理性から真に大法を認識してください。
 修煉の中で、皆さんは自ら真に着実に向上することによって、内面に巨大にして本質的な変化を生じさせているのではなく、わたしの力に頼り、外在する強大な要素を頼りにしています。これでは永遠にあなたの人間としての本質を佛性に変化させることはできません。もしも、みな一人一人が心から法を認識することができれば、それこそが威力無辺の法の体現であり─強大なる佛法のこの世での再現なのです! 

李 洪 志
一九九六年九月十日

 
 
 
 

大法を盗んではならない


 
 弟子たちよ! 大法を人間に伝えたことがすでに人間に対する最大の慈悲であると、わたしは再三、説いています。これは億万年もの間、かつてなかったことです! しかし、どうしても大法を大切にしない人がいます。また一部の人は法や動作を改め、彼自身のものや、彼らの民族、彼らの国家の何かにしようとしています。考えてみてください! 皆さんがそれを良いと思うのは、自らが執着している利益のため、あるいは自らの民族のどうのこうのといったことのため等々ですが、これは常人の認識です。もし、常人社会の何らかのものに対するのであればかまいませんが、これは常人のものではないのです! あなた方の民族をどうこうするために伝えたものではありません。これは宇宙の大法であって、佛法の根本です! 人間に伝えたのは人間が済度されるようにするためですが、あなたがこれほど大きな法を改ざんするとは……? ほんの少しでも変えたなら、すでにこの上なく大きな過ちとなってしまいます。皆さんはくれぐれも常人社会のことに執着して邪念を起こすことがないようにしてください! これは危険極まりないことです! 
 皆さん、ご存知ですか? この数年の間に突然死亡した学習者がいましたが、その中の一部は、このように行なったからです。師父が皆さんのために何かを行なうと思わないでください。知っておくべきことは、各次元に無数の護法の神がいて、彼らの職責はほかでもなく、法を護ることなのです! しかも、魔もあなたを放ってはおかないのです! 過去世に造った業力は正法を修めたため免れることはできましたが、いったん常人まで落ちてしまったならば、誰もあなたを護らなくなり、魔もあなたの命を取るのです! 他の佛、道、神に護ってもらうよう求めても、効果はありません。彼らは法を乱す人を護るはずがないのです。しかも、業力もあなたの身体に戻ってきます。
 人間の修煉はとても難しいことですが、落ちるのはとてもたやすく、一つの関を乗り越えられなかったり、強すぎる常人の執着を放下できなければ、逆の方向へ行ってしまうかもしれません。歴史の教訓は数多くありますが、落ちてしまったときに後悔しても、もう遅いのです。

李 洪 志
一九九六年九月二十二日バンコクにて

 
 
 
 

悟りを開くとは何か


 
 悟りを開くことは慧悟とも言い、わたしたちの大法では、功を開くと言っています。つまり、人がすでに修煉して圓満成就し、あらゆる修煉の過程を終えて、まもなく天国の世界へ行くということです。
 それでは、悟りを開いたあとの覚者とは、いかなる状態なのでしょうか? 修めて佛となった人はすなわち、すでに佛であり、修めて菩薩となった人はすなわち、すでに菩薩で、修めて羅漢となった人はすなわち、すでに羅漢なのです。また、道を修めた人はすなわち、すでに道となっていて、修めて神となった人はすなわち、すでに神です。一部の覚者は圓満成就した後、まだ常人社会で何らかのことを行ない、何らかの願を果たす必要があるので、常人の中でもうしばらく生活をしなければなりません。しかし、この常人の中での生活は彼らにとって非常に難しいのです。彼らと常人との思想境地はあまりにもかけ離れているので、常人の考えている一切が強烈な執着で、利己的で汚く、人を密かにあざむく等々の邪念であると、彼らには全部はっきり分かっているのです。しかも同時に、千万人の考えを細微に至るまで知ることができます。その上、常人社会のいたる所に業力と病毒があって、さらには人間の知らない多くの良くないものが空気中に散りただよっているのが、彼らには全部はっきりと見えるのです。現在の末劫の時期にある人類社会は業力が非常に大きく、人間は呼吸しているときにも大量の業と病毒、そして毒気を吸い込んでいます。この常人世界は彼らにとって、実にとどまり難いところなのです。
 それでは彼らはまた、どのような様子なのでしょうか? これもこのことに執着している学習者が憶測していることです。この人は悟りを開いたのではないか、あの人は圓満成就したように見える、というような憶測をしないでください。早く圓満成就するよう、精進して着実に修めることに専念してください。どうして、ほかの人を見る必要があるのでしょうか? 実は、往々にしてそれらの悟りを開いた人は、みな自らを顕すことなく静かに着実に修めている弟子で、年齢も様々ですが、見た目には普通の人と変わるところはなくあまり目立たない人かも知れません。彼らは一切の神通、変化が充分に具わってはいるものの、人間が低級な小さな生物のようなもので、それには使う価値がない、と気づいています。しかも、人々が彼らの能力を見たなら、またしても各種の低級な認識が生じ、人間の歓喜心をもって、それに執着して対処します。ですから、覚者たちにとって実に耐えがたいことです。常人には佛法神通の真に偉大なる内涵と意義をなかなか理解することができません。
 現在、一部の詮索好きで精進に身が入らない学習者があちこちで誰が悟りを開いたかを探ったりしています。皆さん、考えてみてください。悟りを開いた覚者は、すでに佛となって、佛の一切を充分に具えているのですから、安易に人に知られることなどありえるでしょうか? 人間にどうして佛を知ることができるでしょうか? 皆さんが彼らをあちこち探しているときの執着心、負けず嫌いの心、顕示心、詮索好きの心、好奇心、種々雑多に入りまじった求める心は、同時に、学習者が落ち着いて修煉することをも妨害しています。これに対して、彼らがどのように感じているのか、皆さんはご存知ですか? 彼らにとっては、目的を持っている人間たちの心の一挙一念が、とても耐え難いものです! 
 今の一部の学習者は、かなり高い次元から法を得に来た人であるため、とても速く悟りを開きます。わたしが言った、学習者に二年の修煉の時間を与えるということは、これらの弟子のことを指しているのです。とは言っても、わたしたちの大法のあらゆる弟子が着実に修めている中で、確かに次元の向上が非常に速くて、もうすぐ悟りを開く人もたくさんいます。これは昔の修煉者には想像もつかないことでした。ですから、皆さんには心を落ち着かせ、絶えず精進して、たゆむことなく続けることができるよう期待しています。圓満成就した人が一人出るたびに、わたしはその人を迎えて送り出します。

李 洪 志
一九九六年九月二十六日

 
 
 
 

再び人類を造る


 
 人間が考えている現実とは、歴史の発展に対する人々の愚かな認識と実証科学によってもたらされた虚像に過ぎません。宇宙の偉大な現実の真実の体現ではないのです。真の現実は必ず新しい科学、新しい認識をもたらしてくれるに違いありません。宇宙の法理は人間の中で、間もなく再現されることでしょう。
 人間の利己心や貪欲、愚昧、無知が人間の善良な本性と入りまじって、無知に造っている、間もなく自らに振りかかろうとしている一切のことが社会をひどく蝕んでいます。世界中に様々な社会問題が噴出して、いたる所に危機が潜んでいるにも関わらず、人類は己の本性から原因を求めることを知りません。道徳が退廃した後の恐ろしい人心こそが社会問題の悪の根源だと分からずに、いつも愚かしく社会の表面的な現象から活路を見いだそうとしているのです。このようにすると、人類が自らのために作り出したいわゆる活路というものが、かえって人類自体を閉じ込めてしまいます。そのため、ますます活路を断たれ、それによって引き起こされた新しい問題がますます深刻になりますが、これは人間には到底、思いもつかなかったことです。このように、ようやく少しばかりの空間を見出しては、すぐに新たな措置を取ることで、残されたこの少しばかりの空間を、またもや塞いでしまいました。長く繰り返すうちに、飽和状態となり、何の活路も見出せなくなり、閉じ込められたもの以外の真相が見えなくなったのです。人間が自らのために作り出した一切が振りかかり始めています。これはまさに宇宙の、生命に対する最終的な淘汰の方式なのです。
 主佛の慈悲は洪大なるもので、すでに佛法を人類に残しましたが、宇宙は人類にもう一度機会を与え、偉大なる佛法は宇宙の真の現実をこの世で再現させ、一切の汚れと愚見を一掃し、人類の言葉で再び、きらめく輝きを造ります。大切にしてください! 佛法はすでに皆さんの目の前にあるのです。

李 洪 志
一九九六年九月二十八日

 
 
 
 

変 異


 
 宗教関係者の不正行為は純潔な誓いを完全に破って、神の嘱託を何の価値もないものにしてしまい、人類と神を驚愕させました! 善良な人たちは、ひたすら彼らを自分が救われるかどうかの唯一の頼りとして見てきましたが、失望で人々はますます宗教を信じなくなり、ついには神に対して信じる心を完全に失って、憚ることなく、あらゆる悪事をし尽くしています。今日に至って、人々は完全に魔性が大いに発散した、変異した人間に変わってしまったので、神々は人間に対して完全に期待を失いました。これはすなわち、なぜ神が人を見放したのかということの主な原因の一つなのです。

李 洪 志
一九九六年十月十日

 
 
 
 
 

佛性に漏れなし


 
 わたしは法の中で幾度となく説いたことがありますが、釈教の経書と末法の出現は、主に一部の人が自分の話、自分の認識を佛法の中に混ぜ入れたことによって引き起こされたことです。これは歴史上、最大の教訓です。ところが、どうしても常人の心を取り除くことができず、弁才、文才を顕示する心に執着する魔性に利用されて、知らぬ間に佛法を破壊している弟子がいるのです。
 近頃、学習者が修煉の中で認識を高めたのちに体験を話す際、以前の自分の不足を語ることを「汚水を捨てる」ことだと言った人がいますが、完全に修煉の内涵を変えてしまいました。修煉とは神聖なるもので、これは常人の反省と懺悔のようなことではないのです。弟子たちよ! 皆さんは勝手に何らかの言葉を持ってきて、それを皆で用い、皆で語ってはなりません。これこそ、大法の中に人間のものを加えていることではないのですか? 去年、北京の輔導站が言いだした四つの言葉について、わたしはわざわざ、そのために『糾正』という文章を書いたのですが、この問題を重視すべきです。むろん、ほかにも伝えられているでたらめな言葉があります。皆さん、考えてみてください。今日一つ言葉を加え、明日一つ言葉を加えて、時間が長くたてば、次の世代の弟子は、誰が言ったことかをはっきり弁別できなくなるため、徐々に大法を変えてしまうのです。
 皆さんが分かっていなければならないことは、わたしが皆さんのために残した修煉の形式を変えてはならない、ということです。わたしがしないことは、皆さんもしないでください。わたしが用いないことは、皆さんも用いないでください。わたしが修煉の中で話したように、皆さんも話してください。注意してください! 知らぬ間に佛法を変えることは、同様に佛法を破壊することなのです! 
 さらに皆さんに教えますと、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私のためを根本としたものだったのですが、今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです。それゆえに皆さんは、今後何かを行ない、何かを口にするときにも、ほかの人のため、ひいては後世の人のために考えなければなりません! 大法が永遠に変らないようにするために考えなければならないのです!

李 洪 志
一九九七年二月十三日

 
 
 
 

はっきりと目覚めよ


 
 各地の輔導站の責任者の仕事のやり方について、少し言わなければならない時がきました。研究会からの指示を執行することは正しいものの、その方法を考えなければいけません。わたしがいつも言っているように、ある人が他人のためだけを思って、しかも、自己の目的と認識を少しも抱かなければ、語る話は相手に涙を流させるのです。わたしは皆さんに大法を教えただけではなく、わたしの行ない方をも皆さんのために残していますが、仕事のときの口調、善の心、それに加えて、道理で人の心を変えることはできても、命令では永遠にできないのです! ほかの人は、心の中では不服で、ただ表面的に服従しているだけであれば、見られていないときに、相も変わらず自分の思うがままに行動するのです。
 大法のいかなる仕事も、人に法を得させ、弟子を向上させるためであり、この二つを除けば、何の意味もありません。ですから、すべての活動は現地と学習者の情況によって行なうべきで、絶対化してはいけません。大法を学ぶことさえ自由意志に基づくもので、何らかの活動をするときには、なおさら、そうしなければならないのです! 実は、責任者とはまず、率先して法を勉強する人であって、自らが法をよく学ばなければ仕事をうまくこなすことができません。各地の輔導站が行なった体験交流会は、決して反省会になってはいけません。大法の修煉の体験を語るという、これほど厳粛なる「法会」が、社会の暗黒な面を暴露する展示会となっては決していけませんし、学習者に常人だったときの欠点や誤りを強制的に話させることは、なおさらしてはなりません。さもないと重大な負の影響をもたらし、大法の名誉を傷つけてしまうことになります。皆さんは何をすべきで、何をすべきではないかを、はっきり分かっていなければいけません。これは厳粛な修煉なのです! 体験交流会は学習者の向上と大法を伝え広めることを目的とするもので、学習者が以前どれほど悪かったかを宣伝するためのものではありません。それは大法の修煉について語ることで、汚水を捨てることではないのです! 皆さんが大法のために行なった仕事は決して皆さん自身の修煉と無関係ではなく、仕事のあらゆるところに皆さんの心性を高める要素が含まれています。皆さんは仕事をするだけではなく、圓満成就もしなければならないのです。皆さんの中の一部の人が、あまり本を読むことなく、法を勉強することなく、わたしが皆さんのために書いた経文と呼ばれる幾つかの文章に基づいて自分と照らし合わせることもしていないということが、わたしには分かっています。経文とは何でしょうか? つまり、常に読む文章ですが、皆さんは読んでいるでしょうか? 法を多く学べば、仕事がうまくいかないことはありません。皆さんの不足を指摘したのは、大法をさらに健全に発展させ、問題を少なくするためです。実のところ、大法も皆さんの経験を豊かにし、大法の精英を造り出しているのです。

李 洪 志
一九九七年六月十三日香港にて

 
 
 
 

永遠に覚える


 
 大法学会:
 弟子が勝手に伝えている、いかなるものでも、わたしが公に発表したものでなければ、その場でただちに廃棄してください。たとえば、承徳から伝わってきた、わたしの何らかの説法、北京の学習者が話した功能の話、大連輔導站の責任者の話と貴州輔導站の責任者が話した洞窟のこととその他の話、各地の責任者の話と学習者がわたしに会って話したあれこれの話、さらには大法研究会の責任者の話等々、また、自分でまとめた、わたしの説法・録音・ビデオ等々は、ことごとく、すべてその場でただちに廃棄してください。いかなる口実があろうとも、保存してはいけません。大法を護るとはどういうことなのか、これこそが大法を徹底的に護ることで、弟子がわたしの言ったとおりに行動できるかどうか、わたしの弟子であるかどうかを量っているのです! もう一度、言っておきますが、釈迦牟尼佛の説いた法はこのように破壊されたのであって、これは歴史上の教訓なのです。今後、誰であろうとも、いかなる大法の各地の責任者や弟子の語った話であろうとも、録音、録画をしてはいけません。文字に整理したり伝えて読むことは、なおさらしてはいけません。これは誰それといった個人の問題ではなく、誰かを指摘しているわけでもなく、大法を修正しているのです。大法の学習者が法を学ぶ交流会、ならびに各地の輔導站が大法研究会の承認を得て行なった活動以外、大法の中で流布している、いかなる大法のものでないものもみな大法を破壊するもので、このことを覚えておいてください! 

李 洪 志
一九九七年六月十八日

 
 
 
 

猛撃一掌


 
 大法は、より多くの人の修煉に便宜を図るため、今のところは、主に常人社会の中で修めており、仕事やその他、常人の環境の中で錬磨する、という形を取っていて、ただ出家人だけが行脚をするのです。ところが、今、一部の人は大法弟子という看板を掲げて全国いたる所を勝手に回っていて、何の理由もなく学習者の家に住み着き、食べたり、飲んだり、物を取ったりねだったりして、ほらを吹いて詐欺を働き、学習者の善良な一面を利用して、大法の隙につけ入っています。しかし、わたしたち学習者がなぜ、これをはっきりと見分けることができないのでしょうか? 修煉とは、すなわち自らを修めることですが、どうしてこの人たちが自宅で落ち着いて着実に修めないのかを考えてみてください。環境が悪ければ修煉にさらに良いのに、なぜ、これらの人はわたしの話を聞かずに全国を勝手に回っているのでしょう。なぜ、学習者の物を食べたり、取ったり、ねだったりしながら、かえって学習者に心を放下しなさいと言っているのでしょうか、これはわたしがその人に教えたことですか? さらに、甚だしい者は学習者の家に何ヵ月も住み込んでいますが、これは憚ることなく学習者の修煉を妨害し、破壊しているのではありませんか? これらの人は、だまして食べたり、取ったりした物をそのまま賠償しなければならないとわたしは思います。さもなければ、大法が容認しません。今後、再びこのような情況があれば、常人の詐欺師として扱い、警察に通報してもよいのです。なぜなら、その人は決してわたしたちの学習者ではないからです。
 また、幾つかの地区では説法団などを勝手に組織して、各地へ行き、学習者の中でほらを吹いて詐欺を働き、また個人を招いて講演させることで学習者の修煉を破壊、妨害している人もいます。この人たちは法を伝え広めているかのように見えても、実質上は、彼ら自身を宣伝しています。学習者はみな、わたしの法身の按排によって系統的に修めているのですが、ただ一部の学習者が悟らず、または感じていないだけのことです。ならば、彼らは学習者を妨害しているのではありませんか! 特に、法を勉強してまだ日の浅い学習者は、それを見分けにくいのです。また、何千人もの会で何らかの講演をした人がいますが、話しているのはみな、その人自身のことで、ひいては大法の何らかの言葉に対して定義を下したり、大法を解釈していて、その身体は学習者たちに向かって黒い業力と執着の物質を発しています。わたしが『轉法輪』の中で、こうしたことはしてはならないと明確に言っているのに、皆さんは、どうして考えないのでしょうか。特に、これらを主催したり、招聘した責任者は、大法弟子にある程度の目に見えない障害をもたらしたかも知れないので、今となってはもう大法弟子の責任者として、ふさわしくはありません。わたしの話を聞かず、大法の要求に従って行なわない人がわたしの弟子でありえますか? これは大法と対立することをしているのではありませんか? これが破壊でなければ何でしょうか? 弟子たちよ! いつもわたしがこれらのことを指摘して初めて認識するようではいけません。実は、すべては法の中にあります。なぜ、本をよく読まないのでしょうか? ここであなたたちにみな心を放下して、皆さんが経文と呼んでいる、わたしの書いた『精進要旨』を十回読むことを勧めます。心が静かでなければ法を学んでも意味はないので、心を静かにしてから学んでください。
 われわれの一部の地区の責任者は本も読まず、法も学ぶことなく、しかも、法を読むとすぐに頭痛がすると言っています。これは明らかに魔に妨害されているのに、自分自身、魔の支配から抜け出したくない、ということではないのですか? この問題は新しい学習者でさえ認識できることなのに、このような人がまだ大法の責任者を続けられるでしょうか? こういった人は、わたしが思うに、自ら進んで一般の学習者となり、心を静かにして、しばらくの間、着実に修める方が大法にとっても、本人にとっても良いのです。ある人はまた、わたしが彼女を注意した手紙を反対の意味に理解して、悟らずその手紙をコピーし、ばらまき宣伝して、先生までわたしに手紙をくださったなどと言っています。また、一部の人は学習者を自分の言うことに従わせるため、話をするとき、常に、「わたしが李先生を代表して」などと言っています。誰もわたしを代表することはできません。皆さんの語った話がわたしの話となりうるのでしょうか? わたしが説く話は法ですが、皆さんが語ることは法ですか? 弟子たちよ! あなたにはまずしばらくの間、一般の学習者となって、はっきりと目覚めてから、再び仕事にたずさわるよう勧めます。責任者が常人の中でどれほど多くの仕事をしたとしても、すべて自ら進んで大法のために仕事をしていることで、仕事の成功は常人の中での現れ方に過ぎないものです。人に法を得るようにさせることと大法の広まりは、大法そのものの威力と法身の具体的な按排によるものです。わたしの法身がこれらのことを成さなければ、大法を広めるどころか、責任者自身も保障され難いのですから、いかなる場合でも、自分がいかに偉いかなどと思わないでください。大法には名も利も官もなく、ただ、修煉あるのみです。

李 洪 志
一九九七年六月十八日

 
 
 
 

量る基準を再び論じる


 
 最近、新しい学習者が非常に多く、大法の要求に対して、まだ深く理解していないのですが、特に、一部の地区は大法の責任者でさえ新しい学習者であるため、皆さんが短期間で法を深く理解できるようになり、すべての行ない方が大法に符合することが求められます。同時に、各地区の総站は人を選ぶときに気をつけなければならず、学習者を率いて、でたらめなことをする人をただちに換えて、法をしっかり学んでいる弟子を責任者にしてください。
 最近、いわゆる天目の開いた人に学習者の修煉の情況を見てもらう輔導站がありますが、実のところ、これらの人に見えたものはみな偽りの現象です。人を量る基準は弟子の心性を見ることだと、わたしはずいぶん前から言っています。しかも、いかなる人であれ、悟りを開くことなく、圓満成就していない人には、わたしの弟子の本当の修煉の情況を決してはっきりと見せないのです。それらの見える人は、低い次元で彼の次元に顕現してあげた現象が見えただけで、さらに高い次元になると、彼には見えなくなります。もし、責任者がその人を利用して学習者を見れば、その人に顕示心が生じて、しかもその人の魔性の一面も妨害、破壊の働きをするので、見たものがその心に従って変化してしまうのです。その人が大法弟子を見ること自体がすでに間違っており、見るように仕向けた責任者もわたしの話に基づいて行なっていません。なぜ学習者の修煉がいかなるものであるかを量るとき、その人の心性だけを見るという師父の話を聞かないのでしょうか? 皆さん、ご存知ですか? すべての空間は同時に、同じ所に存在しているため、いかなる空間の生物もみな、人体と重なる可能性があり、あたかも憑き物のようですが、同じ空間にはいないので、人間とは関わりがないのです。いわゆる天目の開いた人に、この複雑な情況が分かるのでしょうか? 
 さらには口を開けば、この人に憑き物がいる、あの人に憑き物がいると言う人がいますが、皆さんに言っておきますが、これはその話をした当人に問題があるから生じたことです。
 宇宙の空間はとても複雑で、わたしがここまで説いても、今はただ人類の言葉で言い尽くしただけのことで、多くの情況は人類の言葉では表現のしようもありません。圓満成就した弟子でさえ、その人の得た果位で実証し悟ったことしかはっきり見えないのに、ましてや修煉中の人は、なおさらではないでしょうか? 

李 洪 志
一九九七年六月十八日

 
 
 
 
 

定 論


 
 大法弟子の皆さん、くれぐれも覚えておいてください。将来のいつであろうと、どこであろうと、誰であろうと、いかなる口実であろうと、大法を部、派、門、宗などに分けるような行為はすべて法を乱すものです。わたしが教えていないことは、皆さんは永遠にしてはいけません。顕示心にさらに歓喜心が加わると、魔の心に最も利用されやすいのです。皆さんが大法の中で何かを悟っても、すべては無辺の法理がある次元で存在する法理のわずかなものに過ぎず、それに基づいて法や法のある一部分、さらにはある一文に対して、決して定義を下してはならないのです。もし、皆の前で話をすれば、話した瞬間に罪業となり、ひどい場合、その罪は山のごとく、天のごとく重いのですが、どのようにして修めるのでしょうか? もし、大法を改ざんして、別のものを作りだす者がいれば、その罪は限りなく重く、その生命が悪業を償うとき、一層一層の次元で滅し尽くされる苦痛は、永遠に尽きることがありません。
 大法は乾坤を正すことができ、当然、邪を鎮め、乱を滅し、圓容して、不敗の法力があります。実は、このような教訓はすでに多くあったのですが、このように法を乱す場合、神が来て法を護ります。衆生が大法を大切にすることは、すなわち自らの生命を大切にし、衆生に慈悲深くしているのです。大法は不変不動で、代々途切れることなく、長く世にあって、天地は永遠に固まります。

李 洪 志
一九九七年七月一日

 
 
 
 

時間との対話


 
 師: あなたが見たところでは、わたしの弟子にはまだ、どのような問題がありますか? 
 神: あなたの弟子は二つの部分に分けられます。
 師: 二つの部分とはどのようなものでしょう? 
 神: 一部分はあなたの要求に基づいて法の中にあって精進できますが、この部分は比較的良いのです。一部分は人間のものを抱いて放さず、精進できていません。
 師: その通りです。わたしにも分かっています。
 神: あなたが法を理解するための過程を彼らに与えたため、いろいろな目的を持ってやって来た人がいますが、法を学んでから、大部分の人は当初の法を学ぶ目的を変えることができました。
 師: 一部分はまだ変わっていません。
 神: しかし、時間が長くかかり過ぎました。
 師: その通りです! 
 神: わたしが思うに、神になれない人にこれ以上、時間を与える必要はなく、実はその人は人間でしかありません。
 師: (独り言)世間にあって、彼らは本当に深く迷ってしまったので、結局、そうなるしかないのですが、恐ろしいことは、最終的には人間にさえなれないということです! 
 神: 実は、新しい世界で人間になるのも良いことで、歴史に淘汰された宇宙にいた無数の高次元の生命と比べて、すでにこの上なく幸運なのです。
 師: わたしは、やはりもう少し待ってみたいと思います。人類を破壊するさらにミクロ的な物質をきれいに片づけてから、その後、どうなるかを見て決めたいと思うのです。彼らはなんといっても法を得に来ているのです。
 神: 今、このような人々について言えば、彼らは人生の目標を見つけることができないため、法を学びに来たのですが、この変えたくない認識を抱いているのです。
 師: そうした人は新しい学習者に比較的多いのです。
 神: 彼らの中には、彼ら自身が良いと思う法の一面を求めに来た人がいますが、かえって彼ら自身は、法のすべてを認識できなくしている他の一面を放下できずにいます。
 師: そうした人は古くからの弟子の中にもいます。しかも、最もよく見られることは、彼らはいつも人間と比べ、彼ら自身の過去と比べていますが、各次元での法の要求に基づいて自らを量ることができていないのです。
 神: これらの問題はすでに非常に深刻になっていますが、彼らが相手のどうこうを見るときの目で、逆に自らを見ることができれば、と思います。
 師: 彼らをしっかりと目覚めさせなければならないときが来たので、彼らの環境を真に修煉できる環境に変え、真の神になるようにしてあげなければならないのです。
 

李 洪 志
一九九七年七月三日

 
 
 
 

道 法


 
 長きにわたって大法の中にいる衆生、特に弟子には、心性を向上させることにおいてずっと法に対して異なる次元での誤解があります。魔難がやってくるとき、本性の一面から認識することができず、完全に人間の一面から理解しているため、魔はこれを利用して尽きることのない妨害と破壊を行ない、学習者は長期にわたり魔難に陥っています。本当のところ、これは人間の一面の法に対する認識不足から起こったことで、人為的に皆さんの神の一面を抑制し、つまり皆さんが修めてできあがったその部分を抑制し、法を正すのを阻んでいるのです。修めてまだできあがっていない一面が、どうして主思想を抑制し、すでに法を得た一面を抑制することができるものでしょうか? 人為的に魔を助長し、それが法の隙につけ入っているのです。弟子として、魔難がやってくるときに、本当に平然として動ぜず、または異なる次元のあなたに対する異なった要求に符合するよう心を放下することができれば、充分に関を乗り越えます。それでも魔難が尽きることなく長引くのであれば、もし、心性または行動にその他の問題がないのであれば、きっと邪悪な魔が皆さんの放任している隙につけ入っているに違いありません。修煉者は、なんといっても常人ではないのですが、ならば、本性の一面は、なぜ法を正さないのでしょうか? 
 師父が今日になって、ようやくこの法を説いた理由は二つあります。一つ目は皆さんのこの方面での問題が目立っているからです。二つ目は法に対する認識が深まり、安易に法を理解しなくなったからです。
 皆さんは、「自然」というものは存在せず、「必然」には原因がある、ということをはっきり認識しなければいけません。実際のところ、「自然」とは宇宙について、生命について、物質の現象について、常人が解釈できないために無責任に自説を正当化するためのもので、彼らも「自然」そのものが何であるかが分からないのです。こうした意識の影響によって、すべての魔難が必然的で、このようなものだと皆さんが思ってしまったために、いかんともし難い消極的な状態が生じています。ですから、皆さんの人間としての一面は、はっきりと分かっていなければならないのです。さらに重要なことは、法を得たその一面は、はっきりと分かっていなければならない、ということです。
 注意してください。わたしは皆さんに人為的に何かをするようにと言っているわけではなく、皆さんに法理を理解してほしいと思っているだけであり、この面についてはっきりと認識しなければいけません。実は、大法は人間を済度するだけではなく、各界の衆生に説くものでもあり、目覚めて悟った本性は、自らいかに振舞うかを知っているはずです。皆さんの人間としてのこの一面を大切にしているのは、皆さんが法の中で悟りを高めることができるようにするためです。大法は衆生を圓容していますが、衆生も大法を圓容しています。わたしが皆さんに法の荘厳さ、神聖さを教えた目的は、皆さんの法に対する困惑、誤解を取り除くためなのです。

李 洪 志
一九九七年七月五日

 
 
 
 

常人の心を放下して着実に修め続ける


 
 大法が広まるにつれて、大法を認識できる人がますます多くなっているので、わたしたちはある問題に注意しなければいけません。つまり、常人の階級の観念を大法に持ち込んではならない、ということです。新しい学習者も古くからの学習者も、この問題に気を付けなければいけません。法を学びに来た人はいくら学問があっても、商売がどれほど繁盛していても、官職がどれほど高くても、いかなる特殊技能があっても、何らかの功能を持っていても、みな、必ず着実に修めなければいけません。修煉とは殊勝で、厳粛なるものであって、あなたたちのその特殊な常人の心を放下できるかどうかは、皆さんにとって乗り越え難くても、必ず乗り越えなければならない一つの大きな関なのです。いずれにしても、着実に修める弟子として、必ずこの執着を放下しなければいけません。なぜなら、この心を放下しなければ、決して圓満成就することはできないからです。
 古くからの弟子もこの問題に注意してください。法を学ぶ人が多くなってきたなら、新しい学習者が着実に修めるよう導くことをさらに重視すると同時に、自己を緩めず、条件が備わっているのであれば、法を学び煉功する時間を増やしてもよいのです。大法の伝統を保ち、大法の修煉の原則を護り、着実に修め堅持することは、一人一人の大法弟子に対する長期に渡る試練なのです。

李 洪 志
一九九七年七月三十一日

 
 
 
 

取 中


 
 大法弟子の修煉の中での紆余曲折を少なくするため、普遍性を有する、あるいは重大な問題が現れてくる度に、わたしは文章を書いて適時に指摘し、弟子に認識させ、大法がこうむる損失を少なくするようにしています。それというのも、道を正しく歩めるかどうかは、弟子が正しく修めているかどうかを見るだけではなく、大法全体の形式が正しいかどうかも鍵となるからです。そのため、師としては現れてきたずれを常に修正しなければいけないのです。
 弟子たちの認識上の差異から、一部の弟子はいつも一つの極端からもう一つの極端へと転じ、わたしの書いた法を見るたびに過激に行動してしまい、さらに新たな問題を引き起こしています。わたしが皆さんに人間の認識を改めるように教えたのは、人間が大法を認識しているという状態を固守するようにと言っているのではなく、理智なく常軌を逸してしまうということでもなく、皆さんにはっきりと大法を認識してもらうためです。

李 洪 志
一九九七年八月三日

 
 
 
 

法は人の心を正す


 
 大法を修煉する弟子が増えるにつれて、大法を知りたいと思う人も、ますます多くなりました。ただ、その中の一部の人は修煉しに来たのではなく、人類社会の行く手に活路がなくなっているのを見て、大法の中に打開策を求めているのです。これによって学習者に不純な人がいて、また同時に、大法が他の面から妨害を受けています。たとえば、大法からいくらかの啓示を受けたため、社会での奉仕活動のようなものを行ない始めた人がいます。このような大法に由来しつつも大法を実証することのできない法を盗む行為は、他の面で大法を相殺しているのです。実際のところ、いかなる運動もみな、人の心を本質から変えることはできないもので、こうした現象も長くは続かず、やがて人もうわべだけのものとなって、あとになってかえって解決し難い良くない現象が現れてきます。大法は決してこういうものになってはいけません。
 目下のところ、ラジオ、テレビ、新聞などのメディアで伝えられている良い人と良い事の多くはみな、わたしたちの大法学習者が大法を修煉したことによって、心性が向上したのちに成したことです。しかし報道の中で、これらの人は何かの模範であるとか、何かの中核的人物のため成したことだとして、大法を修煉したことで成したことだということを完全に消し去ってしまいました。その主な原因は、弟子自らが作ったものです。修煉とは偉大にして殊勝なものですが、なぜ取材をする人に、それは大法を修めたため成したことだと正々堂々と言えないのでしょうか? もし、報道した人が大法を取り上げたくないのであれば、わたしたちは、大法を盗みながらも大法を実証しないいかなる形式のためにも、体裁よく繕ってはなりません。わたしたちはみな良い人として行動していて、社会にとって、人類にとって有益なものなのに、なぜ、公正で合法的な環境を手にしてはいけないのでしょうか? 大法は皆さんを圓容していますが、皆さんも大法を圓容しているのだ、ということを弟子の皆さんは覚えておいてください。

李 洪 志
一九九七年八月十七日

 
 
 
 

出家弟子としての原則


 
 近年、一部の宗教の出家弟子が大法を修煉していますが、彼らを速く向上させるには、長期にわたって近代の宗教の中で染まった良くない習慣を放下しなければいけません。この点において、常人の中にあって大法を修めている弟子も、彼らのこれらのものを助長してはなりません。釈迦牟尼佛の残した出家人の修煉方法は大変良かったものの、近代の出家人がそれを変えてしまったのですが、それは多くの出家人が金銭に対する心を放下できなかったからです。しかもそのために、たとえば寺を建てるとか、佛像を建てるとか、経書を印刷するとか、寺院の維持費、等々の理由を作って言い訳をしていました。これらはすべて修煉ではなく、みな有為のことで、着実に修めることとは別のことで、決してそれで圓満成就することはできません。
 大法を修めるには必ず、お金のため、物のためといった心を放下しなければいけないのですが、そうでなければ、どうして大法弟子の基準に符合することができるのでしょうか? さらに、出家弟子は特別な事情で外出する場合以外は、車に乗ったり、飛行機や船に乗ったりしてはならないもので、すべて行脚しなければいけません。苦を嘗めて初めて業を返すことができるのですが、お腹が空いたならば、鉢で布施を乞い(食べ物しかもらってはいけません。決してお金や物をもらってはいけないのです)、夜は各地の大法弟子の家に泊まってもよいのですが、長く泊まってはいけません。必ず自らに厳しく要求しなければならないのです! そうでなければ、わたしの弟子ではありません。なぜなら出家人の修煉状態は在家弟子とは異なっており、社会もあなたたちを常人とは見なしていないからです。できるだけ早く出家弟子を圓満成就させるには、世間にあって自らを錬磨し、決して享楽をむさぼってはなりませんし、いかなる理由をもってしても名利を図ってはならないのです。お金をもらって家に仕送りするなどのことは、なおさらしてはいけないことです。世俗の念を断つことができなければ、出家しないでください。昔は出家に対して厳しい要求があったのですが、大法の出家弟子は、さらに厳しく自らに要求しなければならないのです。すでに出家した以上、なぜ、世俗の念を放下できないのでしょうか? 
 弟子たちよ! 世間のものを捨て尽くすのは、在家弟子にとって少しずつ取り除いていく執着ですが、出家弟子にとっては、まずしなければならないことで、出家の基準でもあるのです。

李 洪 志
一九九七年十月十六日

 
 
 
 

環 境


 
 わたしが大法弟子に残した修煉の形式は、弟子たちが真に向上できるための保障です。たとえば、わたしは皆さんに公園に集まって集団で煉功することで一つの環境を形成するよう教えていますが、この環境は人間の表面を変える最も良い方法なのです。大法弟子がこの環境の中で形成した高い境地での行為は、その一言一行を含めて、人に自分の足りないところを認識させ、ほかの人との差を気づかせ、人を感動させ、人間の行為を熔煉させ、人間を早く向上させることができます。ですから、新しい学習者や独学の弟子は、必ず煉功点に行って煉功してください。現在、中国国内の煉功点では、およそ四千万人以上が毎日、集団で煉功していて、さらには、あまり煉功点に行っていない古くからの弟子も数千万人います(古くからの弟子にとっては正常なことで、これは修煉の状態がもたらしたことです)。しかし、新しい弟子は決してこの環境を失ってはいけません。なぜなら皆さんが社会で接しているのはみな常人、しかも、人類の道徳が急速に低下してからの常人で、この染物がめは人にその流れに身をゆだねさせることしかできないからです。
 また、大法を学び始めたばかりの多くの人が家で人目を避けて煉功していて、人に知られるのを恐れて、恥ずかしいと思っています。では皆さん、考えてみてください。これはどういう心なのでしょうか。一般的にいう恐れとは一つの執着であり、修煉の過程で修めて取り除かなければならないものですが、あなたは大法を学んでいることを、ほかの人に知られるのを恐れているのですか? 修煉とは非常に厳粛なことであり、自分自身でどのように自らと法に対処するべきなのでしょうか? また、職場で上司の立場にある人の中に、恥ずかしいと思って外に煉功に行きたがらない人がいますが、これくらいの情も捨てられずに、どのようにして修めるのですか? 実は、あなたが煉功点へ行っても人に知られるとは限りません。ほぼ、すべての上司が学んでいる職場もありますが、相手が学んでいるとはお互いにみな、知らないのです。環境は皆さんが自ら創りだすもので、それが向上の鍵でもあります。わたしが見たところ、皆さんは往々にして、法を学んで煉功しているときには心理状態がとても良いのですが、いったん仕事に接し、人に接すると、常人と同じになってしまって、ときには常人にも及ばないほどです。これがどうして大法を修めている弟子の行為なのでしょうか? 
 わたしは皆さんを弟子として扱おうとしていますが、皆さんが自ら弟子になりたくないのであれば、どうするのですか? 修煉の中で捨てなければならない一つ一つの心は、みな一つの壁であり、そこに横たわっていて、あなたの修煉の道をさえぎっています。法そのものに対して、まだ確固としていなければ、修めることはできないのです。常人の中での職位をあまり重く見ないでください。大法を学んでいることが人に理解されないのではないかと思わないでください。皆さん、考えてみてください。人類は自らが猿から進化してきたという説でさえ、最も正しい学説と認めているのに、これほど偉大な宇宙の大法に対して、皆さんはかえって正確な位置を与えることを恥ずかしく思っているのです。これこそは人間の本当の恥なのです。

李 洪 志
一九九七年十月十七日

 
 
 
 

根を掘る


 
 最近、気功に反対することを利用して、名を売ろうとする文筆業のならず者や科学界のならず者、気功界のならず者が幾度となくトラブルを起こし、世間が乱れれば乱れるほどに喜んでいます。全国各地の一部の新聞、ラジオ局、テレビ局は、直接これらのマスコミを用いて、わたしたちの大法を破壊し、大衆の中で極めて悪い影響を及ぼしました。これは無視することのできない人為的に大法を破壊する行為です。こうした極めて特殊な情況下で、北京の大法弟子は、ある特殊な行ない方で、それらの人に大法を破壊する行為をやめさせようとしたのですが、実のところ、間違いではありません。これはただ、極限的な情況の下で行なわれたことです(その他の地区は真似してはいけません)。ただし、事実を把握していない無責任なマスコミに、学習者が自発的にわたしたちの実情を説明しに行ったのであって、これも間違いとは言えません。
 わたしが皆さんに言っておきたいことは、このこと自体が正しいかどうかではなく、このようなことを通して、まだ根本から常人の観念を変えず、人間が人間を護るという観念で物事を認識している人をさらけ出しているのだ、と指摘したいということです。大法は絶対、政治に参与しないとわたしは言いましたが、今回の出来事自体は、その人たちにわたしたちの実情を理解してもらい、わたしたちを正しく認識してもらって、わたしたちを政治に巻き込ませないようにすることが目的です。別の角度から言えば、大法は人心を善に向かわせ、社会を安定させることができます。ただし大法は決してそうしたことのために伝えたものではなく、修煉のために伝えたものだということを、皆さんは明確にしておかなければなりません。
 大法は最も低い人類に、この次元での生存方式を切り開きました。ですからこの次元にいる人間の生存方式の中の各種の人間の行為には、集団で誰かに事実を伝えること、等々も含まれるのですが、それは法が最も低い次元にいる人類に与えた、無数の生存方式の中の一つではありませんか? ただ、人間が何かをするときには善、悪が同時に存在しているため、闘争があり、政治があるのです。大法弟子は極めて特殊な情況下で法の最も低い次元におけるこの方式を採用し、しかも、完全に善なる一面を用いています。これは人類という次元で法を圓容する行為ではありませんか? ただ、極めて特殊な極限的情況ではないかぎり、この方式は採らないのです。
 わたしには以前から分かっていることですが、一部の人は心が大法を護るところにあるのではなく、人類社会の何らかのものを護るところにあります。あなたがもし常人であるならば、わたしは反対しませんし、人類社会を守る良い人になることはもちろん良いことです。しかし、あなたは今や修煉者で、どういう基点に立って大法に対処しているのか、これは根本的な問題で、まさに、わたしが皆さんに指摘しておきたい問題でもあるのです。皆さんの修煉の中で、わたしはあらゆる方法で皆さんのすべての心をさらけ出し、根元からそれを掘り出して取り除きます。
 皆さんがいつもわたしに引っ張られては向上し、皆さん自身で動こうとしないようではいけません。法を明確に説いてから、初めて動き、はっきりと説かなければ動かない、または逆の方向へ動いてしまいますが、わたしはこうした行為を修煉と認めることはできません。肝心なときに、わたしは皆さんを人間と決別させようとしているのに、皆さんはかえってわたしについて来ようとせず、一回一回の機会はいずれも二度と訪れないのです。修煉は厳粛なもので、差はますます大きくなっています。修煉の中にいかなる人間のものを加えても、極めて危険なのです。実は、良い人間になることもよいのですが、ただ、皆さんがはっきりと分かっておかなければならないことは、道は皆さん自身で選ぶ、ということです。
 今回の出来事を通じて、弟子の中を走りまわって破壊の作用を及ぼした人も見られました。彼らは正しく考え、善意で輔導站に自らの認識を示すのではなく、学習者の間に噂をまき散らしたり、挑発したり、派閥を作るといった、常人の最も良くない手段を採っています。さらに、甚だしい者は理性を失って学習者を追い払おうとしました。追い払われる学習者の中には、あなたより何倍よく修めたか分からないほどの人もいます。あなたたちは考えたことがあるでしょうか? あなたたちはなぜ、このように理性を失って、憤りのあまり行動したのでしょうか? このような心が、いまだあなたに自らのその強烈な執着を認識させることができないのでしょうか? 皆さんに教えますが、この法は想像できないほど大きく、皆さんはその法理を永遠にすべて知り、理解することはできないのです。
 わたしは形式を重んじることなく、各種の形式を利用して皆さんの深く隠された心をさらけ出し、それを捨てさせます。

李 洪 志
一九九八年七月六日

 
 
 
 

誰のために存在するのか


 
 人間が最も放下し難いものは観念であり、甚だしい者は、偽りの理のために命を投げ出しても変えようとしませんが、この観念自体は後天的に形成されたものです。人は自ら考えることもせず、それどころか、惜しむことなくすべてを投げ出しても、疑問を感じないその考えを自らの考えと思い込み、真理を目にしても排斥してしまいます。実のところ、人間は先天の純真さ以外、一切の観念はみな、後天的に形成されたもので、自分ではないのです。
 もし、この後天的な観念が強くなってしまうと、この観念が逆に、人間の本当の考えと行ないを支配するようになりますが、この時、人はそれを自分の考えだと思ってしまいます。ほぼ、すべての現代人がこのようになっているのです。
 ある生命がもし、関係している重大な問題に対して、本当にいかなる観念も抱くことなく物事を判断できるならば、その人は真に自らを司ることができます。このような明晰とした考えは智慧であり、一般人のいわゆる聡明さとは異なるものです。もし、そのようにできなければ、その人は後天的な観念や外来の思想に支配され、甚だしい場合、一生そのために奮闘しますが、年老いた時になると、かえって自分が一生何をしていたのかさえ、分かりません。一生、何も得られなかったのですが、後天的に形成された観念の支配の下、数え切れない過ちを犯してしまいます。そのため、自らの来世は自らが犯した過ちによって業力を返すようになるのです。
 人間が衝動的になるときに、人間の考えと情緒を支配しているものは理性ではなく、感情なのです。科学を信仰したり、宗教を信仰したり、思想を信仰する等々、各種の観念が佛法の真理から衝撃を受けたとき、同様に衝動的になるため、人間性の悪の一面が主導的になります。それによって、自らは後天的な観念に支配され、ますます理性を失い、盲従して断言したり、物事を複雑にしてしまい、甚だしい場合には、縁ある人もこれにより機縁を失い、自らの行為が永遠の深い後悔をもたらしてしまいます。

李 洪 志
一九九八年七月十一日

 
 
 
 

法の中に溶け込む


 
 現在、大法の学習者がますます多くなっていて、しかも、あとになって入ってきた人は、感性の上での認識において、より優れている傾向があります。当初、社会にあったような極左思想による障碍はなく、観念において認識する過程もなく、集まって法を学ぶ時に議論に多くの時間を費やす必要もなくなっています。ですから、多くの時間を法を学ぶことに使うべきで、できるだけ早く向上し、頭の中に入れたものが多ければ多いほど、変化も早いのです。
 以前、わたしはどういう人が良い人か、どういう人が悪い人か、ということについて話をしたことがあります。この人が悪いことをしたから悪い人で、良いことをしたから良い人だ、というわけではありません。頭の中に悪い考えがいっぱいに詰まっていても、ただ、それを表にあらわさなかったり、あるいは、うまく隠して上手にごまかす人がいますが、この人はむしろ、本当の悪い人です。それに対して、本来悪くはなく、たまたま誤ったことをした人がいます。この人は必ずしも悪い人であるとは限らないのです。それでは、どのようにして良い人と悪い人を理解すればよいのでしょうか? 
 人間はまるで一つの容器のようなもので、何かを入れればそれになるのです。人が目や耳を通して見たり聞いたりしているものは、みな、文芸作品の中の暴力、色情、互いに腹を探って排斥し合うことや現実社会での利益の争い、拝金主義とその他の魔性の現れ、等々です。頭に入れられているものはみなこのようなものであれば、その人の表れがどのようになっていようと、本当の悪い人なのです。人間の行為は考えによって支配されているので、頭の中がこのようなものでいっぱいになっている人は、どのようなことをするのでしょうか? ただ人々は程度の違いこそあれ、みな多かれ少なかれ思想が汚染されているので、現れてくる問題を察知できなくなっています。なぜなら社会の不正な動向がそれぞれの領域に反映され、知らず知らずのうちに人を変え、人類に害毒をもたらしており、今なお、たくさんのいわゆる伝統に反し、正統に反し、道徳に反した観念をもつ魔性の人類を造り出しているからです。これこそは真に憂慮すべきことです! 社会の経済が発展しても、これらの人たちによって破壊されてしまいます。なぜなら彼らには人としての考えがないからです。
 それとは逆に、数千、数百年、伝わってきた善良な伝統的思想を受け継いだ、正統な人間としての行動と規範を信奉している人は、入れたものがみな良いものであれば、それではこのような人の行動は、どのようになるのでしょうか? この人が表そうが表すまいが、本当の良い人なのです。
 学習者としては、頭に詰め込まれたものがすべて大法であれば、この人はまさに、真の修煉者です。ですから、法を学ぶことについて、はっきりとした認識を持たなければならないのです。本を多く読み、本を多く学ぶことは真に向上するための鍵なのです。さらに、はっきり言えば、大法さえ読んでいればあなたは変わっており、大法さえ読んでいればあなたは向上しているのです。大法の無辺の内涵に、補助的な手段である煉功を加えれば、皆さんを圓満成就させることができます。グループで読んでも、一人で読んでも同様です。
 古の人が語った、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉があります。現在の人類に、その意味が本当に分かる人はもはやほとんどいません。皆さんはお分かりですか? ある人の考えに法がすでに詰め込まれているのであれば、法が詰め込まれたその部分は、法に同化したのではありませんか? 道を聞いた人が死んだあと、その部分はどこへ行くのでしょうか? 法を多く学び、執着心を多く取り除いて、人間の各種の観念を放下するようにと、皆さんに言っているのは、皆さんに持って行かせるものがただ一部分だけではなく、圓満成就してほしいからなのです。

李 洪 志
一九九八年八月三日

 
 
 
 

佛法と佛教


 
 佛と言えば、多くの人はすぐに佛教を連想します。実は、佛教は佛法の人間世界での現れ方の一つに過ぎないもので、佛法には世間における他の現れ方もあります。つまり、佛教は佛法のすべてを代表することはできない、ということです。
 佛教について言うと、すべてがみな、釈迦牟尼佛の伝えたものというわけでもありません。世間には他の佛教もあって、釈迦牟尼佛を教主としないものや、さらには釈迦牟尼佛とはまるで無関係なものさえあります。たとえば、チベット佛教の黄教では、彼らが祀っているものは大日如来で、しかも、黄教は釈迦牟尼佛を大日如来の法身佛の一つであると言っています。さらにチベット佛教の白教では、祀っているものはミラレパで、釈迦牟尼佛とはまるで無関係であり、釈教のことには言及してもいません。当時、信者たちは、釈迦牟尼佛の名前すら知らず、釈迦牟尼佛が誰であるかも、まるで知らなかったのです。チベットに伝わる佛教の他の教派の釈迦牟尼佛に対する認識もそれぞれ異なっています。小乗佛教では、彼らこそ釈迦牟尼佛の正統なものを受け継いだ佛教だとずっと思っているのですが、それは彼らが確かに形式上、釈迦牟尼佛時代の修煉形式を受け継いでいて、元の戒律や服装を守り、しかも、釈迦牟尼佛ただ一人を祀っているからです。一方、中国漢民族地域の佛教は、改良を経たのちに中国に伝わったもので、修煉形式も完全に異なり、多佛の信仰となっていて、釈迦牟尼佛一人だけではなくなっています。戒律も倍増し、同時に、古代漢民族にあった民間の宗教儀式を取り入れて、法事でも木魚、ドラや鐘、太鼓等の中国の楽器を用いて、服装も中国の昔の人の民族衣装を着るよう改め、大乗佛教と改称しています。これは当初の釈迦牟尼の佛教とはすでに大きく異なり、そのため当時、小乗佛教は大乗佛教を釈教として認めていなかったのです。
 これが佛教から見た佛法と佛教の関係です。それでは、歴史の話に少し触れましょう。西洋社会では、出土した古代ギリシャ文化の中からも卍の字の図形が発見されています。実は、大洪水以前の上古の時代には、彼らも佛を信奉していたのです。大洪水の際、西アジアとヒマラヤ山脈の西南一帯に住んでいた古代ギリシャ人、つまり、現在の白人系のインド人が生き残ったのですが、当時はバラモンと呼ばれていました。実は、バラモン教が最初に信奉していたのは佛で、上古時代のギリシャ人が信奉していた佛を継承していて、当時、彼らは佛を神と呼んでいたのです。おおよそ千年を経て、バラモン教には現代の佛教である大乗佛教の改良や、チベット佛教の改良、そして日本の佛教の改良、等々のような改良が始まりました。千年以上経過した後、古代インドになると、バラモン教は末法の時期に入り、人々は佛以外の乱雑な信仰を始めるようになりました。この時、バラモンの中に佛を信じる人はいなくなり、信じているものはすべて魔で、殺生して生けにえを捧げる、といった状況が現れました。釈迦牟尼佛が世に現れた時には、バラモン教はまったくの邪教となっていたのです。これは佛がどのようになったかと言っているのではなく、宗教が邪なものに変わってしまったということです。古代のインドが残した文物の中には、早期のバラモン教が残した洞窟内の彫像などを見つけることもできますが、彫刻された神の像は、みな佛の姿をしています。このことは、わたしたち漢民族の地域における佛教の佛像彫刻にも見られます。たとえば、幾つかの大石窟の中には二佛が対座している像などがあります。佛は依然として佛であって、宗教が邪なものに変わってしまったのです。宗教は神佛を代表することなどできないもので、人の心が悪くなって宗教を変異させてしまったのです。
 この一切が次のことを物語っています。つまり、佛法は永久に変わらないものであり、佛法とは宇宙の特性で、偉大なる佛法が佛を造ったのであって、釈迦牟尼佛が佛法を造ったわけではなく、釈迦牟尼佛が佛法を悟り、自らの果位を悟ったのだ、ということです。
 わたしはさらに、今期の人類の文明についても話してみましょう。皆さん、ご存知ですか。道は神の一種であり、佛も神の一種です。エホバ、キリスト、聖母マリアも神の一種ですが、その修煉の目標と、悟った宇宙の大法への認識が異なるため、得た果位やその外形が異なっているのです。厖大な天体は佛法が造ったのであって、それらの佛、道、神が造ったのではありません。これは人間が知ることのできることではありますが、人間にはまだ分かっていないことがどれほどあるのか分からないのです! 釈迦牟尼佛は、如来佛だけでガンジス川の砂粒と同じくらい多い、と説いたのではありませんか? これらの佛が説く法は、釈迦牟尼佛の説くものと同じでありえるでしょうか? 彼らが世間に法を伝えようとするならば、釈迦牟尼佛が以前に説いたものと一字も違わず、同一であるなどということがありえるでしょうか? 当時、釈迦牟尼が現れる以前に法を伝えていた六佛の説いたものは、釈迦牟尼佛の説いた法なのでしょうか? では、佛教の中で説かれている未来佛の弥勒佛が世間に来て説く法は、釈迦牟尼佛の話と重複することがありえるでしょうか? 佛教が今の有様になっているのを見て、わたしはとても胸が痛んでいます。宗教そのものを愚かに信じ込むことが真に修めることではないのです。偽君子、宗教のならず者は、修煉の場と出家人をひどく腐敗堕落させています。言ってみれば、これは不思議なことではなく、実は、釈迦牟尼佛が以前から末法時期の状態を説いているのですが、現代の佛教と後期のバラモン教に、どれほどの違いがあるのでしょうか? 
 今、わたしは再び世間に来て法を伝え、しかも直接、宇宙の根本の大法を伝えています。一部の人たちはあえて認めようとはしませんが、それは修煉のためではなく、宗教そのものを守ろうとするため、そして常人の感情の働きかけがあるためで、彼らは宗教を佛と同じように考えているのです。また、佛教の中での自らの権威に衝撃を受けたことで、常人の心が動き反対している人もいますが、この執着はまだ小さなものだと言えますか? 他にそれらの下心のある人は、佛法と佛さえ罵り、すでに地獄の鬼になっていて、ただ、この世での寿命がまだ尽きていないだけなのです。彼らはずっと自らを何かの宗教学者と気取っていますが、佛法について彼らは本当にどれだけのことを知っているのでしょう! 往々にして、人々が佛と言えば、彼らはすぐ佛教のことを思い浮かべ、佛家と言えば、彼らの門家の佛教のことを言っていると感じ、人々が佛法と言えば、彼の知るそれらのことを言っていると思ってしまいます。全世界に長期間、深山にこもって修煉している人が多くいますが、彼らも異なった佛家の修煉法に従って修めていて、数千年来、ずっと伝承しているのであって、釈教とは何の関係もないのです。こうした名詞の概念も知らぬ宗教のならず者に、法輪大法を非難する資格があるのでしょうか? イエスの出現はユダヤ教を怒らせ、二千五百年前の釈迦牟尼佛の出現はバラモン教を怒らせました。歴史上の正しい教訓は永遠に人々を戒められないもので、かえって人間はいつも自らの利益のために反面の教訓を引用し、戒めとしています。宇宙には成、住、壊という規律があるため、すべてが恒久に変わらないのではなく、異なる時期に必ず法を伝え、人を済度する佛が世に下って来ますが、歴史はこのように発展しているので、未来の人類は同様に佛法を聞くことができるのです。

李 洪 志
一九九八年十二月十七日

 
 
 
 

北京の古い学習者へ


 
 北京の古い学習者:
 登録の申請について、私の考えを述べたいと思います。国家体育総局に私たちの態度をはっきり述べていいと思いますが、まず以下のことをはっきり説明すべきです。
 一、 私たちは健康保持のための気功ではなく、修煉なのです。しかし、私たちは修煉者の病気を取り除き、健康にすることができます。
 二、 私たちは組織形態がなく、大道無形の道を歩んでいます。財物を蓄えることなく、幹部も肩書きもありません。もし、各地で原則を守らずに登録を行い、肩書きを与えたり、規程を作ったり、それらの健康保持のための気功または偽気功の活動に参加しているならば、それは絶対にいけません。
 三、 国家体育総局に、当時私が気功科学研究会を脱退した目的は、それらのいわゆる気功と一緒にされたくないためであるということを説明するのが良いと思います。それらのいわゆる気功は金を騙し取るためで、健康保持を謳っている気功も金が目当てです。気功師の評定などを行なっていますが、それは数十年修めてなれるものであり、評定によって決められるものではありません。このようなものを評定するのは無責任なことで、社会に有害なことであり、人間の各種の良くない心を助長してしまいます。私たちはまさに人間のこれらの執着心を取り除くためで、決して彼らと混同してはいけません。
 もし独立して登録することができれば、それは最も良いことであり、北京で統一して国に対して登録の申請を行なえばよいのです。各地は単独で登録したり申請したりしないでください。もし、独立して登録することができなければ、今までのように人々は自発的に法を勉強し、煉功し、組織を持たずに自由意志に基づいて朝の煉功に参加し、その特徴と純潔さを保ちます。

李 洪 志
一九九八年十二月二十五日

 
 
 
 

大法山東輔導站へ


 
 大法山東輔導站:
 慶雲の学習者が廟を建てることについて、これは大法が行なうことではなく、大法の修煉と関係はなく、このことに気を取られないように学習者にはっきり説明すべきです。出家人が廟を建てることはその個人の行為であり、出家人のことです。当時、出家人として大法を学ぶことについて、師である私は弟子の住居のことを考慮し、このことを気にかけたことがあります。現在の状況に関して言えば、人々の心が揺れ動いてしまい、心を静めて法を学ぶことができなくなり、一部の地方の学習者は落ち着いて家で法を学ばず、慶雲に行って彼女たちの仲間入りをしてしまい、このことはすでに学習者の修煉をひどく妨害しています。在家の弟子も廟を建てることに気を取られてしまい、ほかの学習者がこれら大法に符合しない行為を指摘したときに、かえって師父がかつてここに来たことがあるなどの話をもって、彼女たちの執着心を隠しています。一部の行為はすでに学習者の正常な修煉をひどく妨害しており、ひいては大法の形式と対立していても、まだ頑迷で悟ろうとしません。学習者にすべての心を放下し、法を学び、各地の学習者に全員地元に戻るように伝えてください。
 どこにいても、大法の修煉方式は変えてはいけないものです。出家人でなければ、出家人についてあちこちに行ってはならず、各地の学習者の間を歩き回って、さらに廟を建てる名目で学習者からお金を取ることはなおさらいけません。学習者が廟を建てるためにお金を寄付することは、彼らの修煉のためになるとは思いません。それどころか、修煉と向上にまったく関係なく、一部の生活が貧しい学習者にとって、かえって余計な負担となり、それによって修煉を妨害してしまいます。個人が何をしたいのかについて私は関わりませんが、これは私が皆さんに指示したことではなく、修煉とは関係ありません。弟子たちよ、なぜその有為の心を放下できないのでしょうか? 
 実は、彼女たちが間違って行なったとき、私はずっと彼女たちを悟らせていますが、彼女たちは行なおうとしていることに執着する心をもって覆い隠しているだけで、間違いを正視したくなく、その勇気もありません。法を学ぶときにも執着の心を抱いて、執着して行なおうとする事に有利な話を選んで読んでいて、その執着のために根拠を探しています。これは法を学ぶとは言えず、修煉とはなおさら言えません。以前、私は何度も、各地を勝手に歩き回らず、落ち着いて修煉するようにと話したことがあり、各地の学習者の中で法などを説いてはいけないとも話しました。彼女たちの行為は各地で大きな影響を与え、私はずっと彼女たちを観察していて、彼女たちに自ら悟る機会を与えていますが、彼女たちは私が与えた機会を次々と押しのけてしまい、次々と大法に相反することを行ない、自ら着実に修めることができないうえ、学習者をも妨害しています。機会は一回一回失ってしまいましたが、しっかりしましょう! 私は彼女たちが今後選ぶ道を見ています……。問題があったときに内に向けて探すことは、大法弟子と常人との根本的な違いなのです。

李 洪 志
一九九九年三月三日

 
 
 
 

大法は利用されてはならない


 
 大法はすべての衆生を救い済度することができますが、その偉大なる事実を前にして、三界に潜り込み、三界内で大法を破壊している、それらのいわゆる高次元の生命ですら、これを否定しなくなりました。そのため、ある問題がもたらされ、常人の中に現れてきました。たとえば、元々、大法に反対していたり、大法を信じていなかった人までもが大法を学び、修煉しに来ました。大法はすべての衆生を済度することができ、いかなる人が学びに来てもわたしは反対しません。わたしは大法をほかでもなく、衆生に伝えているからです。肝心なことは、それらの人が心の中でわたしを彼(彼女)らの真の師父と見なさず、大法を学ぶ目的は、大法を利用して彼(彼女)らの心の中の放下できないもの、宗教の何らかのもの、あるいは彼(彼女)らの心の中の神を守るためです。これは法を盗む行為です。大法を利用しようと思うこと自体、容赦できない罪なのです。しかし、彼らの中の一部の人は、人間のこの一面の考えがそれほどはっきりしているわけではないので、わたしはずっと彼(彼女)らを観察しています。それというのも、どのような理由で大法に入ってきたかに関わらず、わたしは彼(彼女)らにとって、これは一つの得難い機会だと思っているからです。寛大に対処しているのですが、なんといっても、彼(彼女)らは大法が広く伝えられている時に生まれ、しかも、人間の身体を持っています。わたしはずっと彼(彼女)らが目覚めて悟るのを待っているのです。
 実際のところ、確かにこのように大法に入ってきた一部の人は、徹底的に元の考えを改め、確固として大法を着実に修める弟子となりました。しかし一方では、確かに考えを改めようとしない一部分の人もいて、彼(彼女)らは長期にわたって大法の中でいい加減に過ごしています。大法の世間での安定のため、彼(彼女)らにこれ以上、続けさせるわけにはいきません。そうなれば、彼(彼女)らは本当に機会を失ってしまうことになります。すでにお話ししたことですが、表面的な変化は、他の人に見せるものであって、あなたが済度されうるかどうかは、自らの心の変化と昇華によるもので、それが変わらないかぎりは向上できませんし、何も得られません。実は、『轉法輪』を読んだことで、人体の表面に少しばかりの福分を得た以外、何も得られなかったのです。このような良くない心を抱いたままで、何が得られるでしょうか? 人間よ! 考えてみなさい! 何を信じるべきなのでしょうか、何を信じるべきではないのでしょうか、何のために修煉するのでしょうか? 誰のために修煉するのでしょうか? 生命は誰のために存在するのでしょうか? わたしは、あなた方がこの利害関係を正しく扱うことができると信じています。さもなければ、あなた方が失ってしまうものは、永遠に二度と現れては来ません。大法が人類の前に現れる時に、あなた方が失ったものは、これらだけに留まらないのです。

李 洪 志
一九九九年三月十六日

 
 
 
 

堅 実


 
 佛法の修煉は偉大なるものであり、同時に、厳粛なものでもあります。弟子たちよ、皆さんはただ、この世に真と偽があることだけを分かっていますが、神をも含む他の空間の生命が次元の違いにより分かっていることや分かっている真理も異なっており、宇宙の中での差異はとても大きく、特に法を正す真相をよく分かっていない情況下で重大な妨害と抵触を起こしており、いろいろな形で学習者と接触して破壊を行なっていることを分かっていません。そのため、低い次元で天目が開いた学習者は、大法に対して疑問と困惑を生じてしまいます。これらの三界内の生命(いわゆる神)と、高次元空間で法を正すことから逃避して逃げ込んできた各種のいわゆる高い次元の生命は、彼(それ)らの多くが法を正す真相が分からず、法を正すこと自体に抵抗しているのです。彼(それ)らは学習者に自らの観念による認識を示したり教えたり、または学習者に何らかのものを伝授する方式で、学習者の大法に対する正しい信念と揺るぎない心を破壊しています。実のところ、みな次元の非常に低いものと、人をだます虚言ばかりなのですが、これも神なので、表れはまた、非常に温和で善良のようであり、これによって大法に対する認識が足りない一部の学習者に疑問が生じてしまいました。そのため、大法を学ばなくなった人もいれば、甚だしきに至っては、反対の方向に走る人もいます。現在、この問題は非常に深刻化しています。このため、これらの人にとっては、その境遇も非常に哀れむべきもので、同時に、彼らが失ったものは永遠に二度と得ることのできないものなのですが、これは彼らの生命の中の大きな劫難でもあります。
 わたしは『精進要旨』と『轉法輪』の中で、不二法門のことと、天目が開いたらどのように修めるのか、という問題について、すでに皆さんに説きました。それらの偽善的な、いわゆる高次元の生命が皆さんに説く何らかの話を聞いて、どうしてすぐ自分を見失ってしまうのでしょうか? 彼(それ)らは皆さんを圓満成就させることができるのでしょうか? なぜ、大法を学ぶ前に彼(それ)らは、かまってくれなかったのに、大法を学んでから、彼(それ)らはこれほど関心を寄せてきたのかと、皆さんはどうして考えてみないのでしょうか? 修煉は厳粛であり、大法の一切の法理をわたしはすでに皆さんに説いているのです。この一切は、皆さんが個人修煉の中で歩む道であり、乗り越えるべき関なのです。乗り越えてこられなかったのは皆さん自身によるもので、わたしはずっと皆さんが悟って戻ってくるための機会を与えていたのです。大法のためにわたしはこれ以上待つことができず、仕方なくこの文章を書きました。わたしには皆さんがこの文章を読んだら、きっと目覚めると分かっていますが、ただし、それは皆さんが修めて乗り越えてきたものではありません。ほかの人はなぜ、妨害されなかったのでしょうか? 法を正すことが三界の外から始まり、三界内にいる、いわゆる神には見えないため、あえて大法を破壊することをしたのだと、わたしは説いたことがあります。法を正すことが三界、そして人間界に突入する時、彼(それ)らには、もう逃げ場はなくなります。しかし、彼(それ)らのしでかしたことはすべて記録されているため、同時に、彼(それ)ら自身で、将来の自らの位置を決めることにもなるのです。次元が下がる者もいれば、人間になる者もいて、地獄の鬼になる者がいれば、しでかした一切を償う中、ほぼ休まず繰り返される消滅の中で滅し尽くされる者もいます。なぜなら、それは彼(それ)らの最も真実な心性の現れによって得た位置だからです。上の生命も、このように大法の中で再び自らの位置を決めているので、これらのものと世間の常人は、なおさらのことではないでしょうか? 法を正す中、向上する者がいれば下がる者もいて、壊滅される者もいますが、神にしても人間や鬼にしても、生存から全滅までの異なる境地にある、すべての位置に新たに配置されています。人間である皆さんを大切にしているのは、皆さんが修煉できるからで、皆さんにこれほど高い法理を説いているのです。皆さんを大切にしているのは、皆さんが大法の中で修めて正法正覚の真に偉大なる覚者になることができるからです。

李 洪 志
一九九九年三月十六日

 
 
 
 

魔性を一掃しよう


 
 米国西部地区大法交流会の後、一部の執着心を抱いて法を聞いた人は、修煉がもうすぐ終わってしまうと言い、さらには先生が一部の人を連れていってしまうと言っています。これは大法を深刻に破壊する行為で、魔性が大いにさらけ出たものです。わたしがいつ、そんなことを言ったのでしょうか。それとも、あなたが執着心を抱きながら、みだりに悟ったことなのでしょうか。あなたはどうして自分が圓満成就できると分かるのでしょうか? あなたは自分自身の執着に対してさえ放下できないのに、なぜ、圓満成就できるのでしょうか? 大法は厳粛なものであり、なぜ、邪教と同じようなやり方ができるのでしょう。あなたにまだ何らかの魔性があるならば、放り出してください。なぜ、大法と対立する立場へと行かずにはいられないのでしょうか。あなたがまだわたしの弟子であるならば、ただちに魔に利用された口を閉じなさい。
 弟子たちよ、修煉は厳粛で、神聖なものであって、同時に、わたしたちの修煉は社会に責任を負い、人に責任を負い、自らにも責任を負わなければならないのだと、わたしは再三説いています。なぜ、正々堂々と常人社会に符合しながら修煉できないのでしょうか! もう時間がないとか、自分はそろそろ死後の準備をするとか、先生が誰それを連れて行こうとしている、等々とほかの人に言った人たちは、ただちに自らが及ぼした影響を挽回するよう提案します。直接的であろうと間接的であろうと、一言であっても魔に利用されてはなりません。わたしたちの圓満成就の形は、必ず正々堂々としたものなのです。

李 洪 志
一九九九年三月三十日