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北京法輪大法輔導員会議での提案

李 洪 志

一九九四年十二月十七日



 皆さんがはっきり見えるように、私は立って話をします。

 長い間皆さんと会っていませんでした。功を伝えることに関するたくさんの事を処理する必要があり、これらはすべて常人があまり知らず、あまり理解できないことばかりなので、講習会の開催を一時停止することにしました。この時間を利用してこれらの問題を処理しており、現在ほぼ終わりの段階に来ています。本来なら処理し終わってから、これらの事を片付けてから、私は新たに今後の功を伝える事を按排するつもりでした。しかし、今度広州で開かれる講習会は、当時慌てて決めた事で、新聞にも報道され、広告も出しており、しかもすでに多くの人から受講料を受け取りました。やむを得ず、私は手がけている仕事を中断して出かけてきました。つまり広州の講習会の前に、まず北京に来て少し準備の仕事を行います。それでこの機会を借りて皆さんと会うことができました。皆さんと会えて私は非常に嬉しく思います。

 以前私はこのように言ったことがあります。つまり現在の人々の道徳水準はかなり低下しており、各業種の中で浄土を見つけるのは非常に難しくなっています。しかし私はここに来て、我々のこの非常に和やかな場を見ました。法輪大法のこの所は、浄土であると私は胸を張って言えます。(拍手) 同時に、私は皆さんのとても喜ばしい修煉成果も見ました。皆さんは皆向上を求め善に向かう心を持っているので、非常に喜ばしいことです。ここの雰囲気と我々の心の状態は一致しています。ですから、法を学ぶことは無駄にならず、皆一定の成果が得られました。私もこの大法を無駄に伝えておらず、これは私にとって非常に喜ばしいことです。私が当初北京で法を説き、功を伝えに来たばかりの時、第一回の講習会は今と同じぐらいの参加者しかいませんでした。しかし、今日まで僅か二年間経過しました。私が実際には正式にこの法を伝えてから一年しか経っていません。最初はとても低い気功の形式で法を伝えていたのです。我々は今日になって、ただ北京のこの所だけでも、輔導員はすでにこんなに多くの人数になりました。これはこの大法がすでにより多くの善良な人々に認識されていることを物語っており、この法の中で向上ができ、自らを修煉でき、これは非常に喜ばしいことです。現在、法輪大法を修煉している人がどれくらいいるのかを具体的に統計しようとしても、なかなか難しいのです。人から人へ伝えており、数え切れないほどです。ある地方では一つの県あるいは一つの市に一人か二人しか学んでいませんでしたが、現在千人にも達しました。たくさんの地区もこのような形勢であり、発展は非常に良いのです。

 なぜこのようにできるのでしょうか? 私が言ったように、法輪大法は人の心性を修煉し、人の道徳水準を高めるよう要求しているからです。修煉して、なぜ功が伸びないのか根本原因も示しました。この問題をはっきり示したので、つまり我々は根本の問題を示しました。以前、私は言ったことがありますが、修煉体験談の中で「先生のこの法が伝え出されてから、我々の社会の精神文明に対してとても有益です」と私に言った人がいます。もちろん私はすでに話しましたが、主な目的はこのことではなく、私はこの法を人々に残し、法を伝え出してもっと多くの人々に受益させ、本当に向上できるようにさせたいのです。我々の佛家の言葉で言えば、つまり本当に昇華して圓満になるということです。しかし、これによって必然的にこのような結果をもたらし、人々の道徳水準を向上させることができます。なぜなら、我々のこの功法の要求は、根本的な問題を指摘し、人に心性の修煉を重視するよう求めているからです。多くの僧侶、専修の道士を含む多くの人も同じく、彼らはすでに如何に向上できるのかが分からなくなり、彼らはただ形式上のものを重視し、実質のものを重視していません。

 人の心性が昇華できなければ、向上することはありえません。なぜなら心性を高めずに昇華して向上することを宇宙の特性は許さないのです。もし人がこのような程度に達することができれば、つまり異なる程度に向上することができれば、私に言わせればこの人は圓満になれなくても、社会に対して有益なのです。人はすべてを知りながら悪事をするはずがなく、悪事をすれば自分にどのような良くない結果をもたらすかを知っているからです。こうして社会の精神文明、人類の道徳水準の向上に対して、ある程度の効果があり、これは間違いのないことです。我々がこの功を伝えるには、人に責任を持ち、社会に責任を持つことを念頭におき、我々もこのようにできています。一般の民衆の間でも、修煉者の中でも生じた影響は比較的良いのです。我々もずっとこの法の要求を厳守してこのように行なっており、我々のこの功法はずれもなく、ずっとこのような純潔で、純正な修煉状態を保持できています。

 現在のこの形勢によれば、将来この功はもっと広く伝えられるようになると思います。近いうち、来年になると思いますが、国外で功を伝えることは多くなるかもしれません。我々の国内で影響を生じただけでなく、実は国外での影響もかなり大きいのです。国外から帰って来た人が私に話したことですが、彼らは米国のある料理屋で食事をした時、そこに法輪功を紹介するものが掛けてあるのを見ました。彼は不思議に思って店の人に事情を聞いたと言います。これは我々が知らない、まだ把握していない情況です。発展の勢いはやはり非常に速いかもしれません。根本原因は、我々が人の心性の向上を重視しているので、社会に対しても、異なる階層の人、異なる考え方の人に対しても、皆法輪大法を受け入れることができます。これは私が先ほど言ったことで、ただ簡単に述べただけです。つまり法輪大法は現在このような発展情況になっています。

 これは輔導員の会議ですから、私はこの方面のことを話しました。各地の法輪大法の発展情況から見れば、皆異なる長所があり、様々な経験も得られ、大法の学習に対して、修煉の中で様々なよい経験も得られています。この間に私はずっと長春の家にいたので、長春の情況を比較的多く把握しています。例えば、今長春では法を学ぶブームが引き起こされていますが、どのような法を学ぶブームでしょうか? 今他の地区では、動作を煉ることを非常に重要なこととしています。もちろんそれは非常に重要なことで、性命双修の功法なので、当然欠かせないことです。しかし長春では、この法をもっと重要な位置に置いて学んでいます。ですから毎日煉功し終えてから、そこに坐り本を読み、法を学んでいます。一段落学び終えると皆で一緒に討論します。その後、彼らは本を暗記するように進みました。大法はこれほど素晴らしいもので(もちろんこれは学習者が言った言葉で、私が言ったのではありません)、以前多くの経書は明確に説いておらず、すべて曖昧に語っているのに、人々は皆それを暗記しようと考えました。もちろん他の理由も言いましたが、私はただその意味を述べており、つまり、こんなに良いものを我々はなぜ暗記しないのでしょうか? いつでも我々が常人の中で良い人になり、向上できるよう要求されており、暗記できればもっといいのではありませんか? そうすればいつでも対照できるようになるからと、彼らはそう思いました。こうして本を暗記するブームを引き起こしました。

 現在長春では本を暗記している人は一万人以上います。彼らは今法を学ぶ時どんな状況になったのでしょうか? つまりそこに坐って学び始めると、本も要らず、初めから本を暗誦し始めます。前の人が暗誦し終えたら、次の人は少しの間違いもなく、一字も間違えずに暗誦し続けます。あなたが一段落を暗誦し、彼が次の一段落を暗誦し、このように続けます。その後また本を写すことまで進みました。もし一字でも写し間違えたら、初めからやり直し、全部改めて写します。目的は何でしょうか? 即ち法に対する理解と認識を深めるためです。こうすれば学習者の向上に対してとても効果的なのです。なぜなら、彼はすでに思想の中に深い印象があったので、行動の中で何かをする時、いつも煉功者の基準で自分を要求することができるから、確かに違うのです。

 以前、私はこのように我々の学習者に要求しませんでした。先ほど話しましたが、各地もそれぞれ良い経験を得ています。私も長春輔導站に、あなたたちの経験を全国へ広めるべきだと言いました。これらの学習者はこのように法を学んでから向上はかなり速くなり、次元の向上も非常に速くて、それは必然の結果です。我々の多くは皆煉功者で、在席の皆さんは輔導員なので、私は深いことを話しても、問題はありません。私の本の中の一文字一文字は、浅い次元において見れば一つの法輪であり、深い次元において見ればそれは私の法身であり、偏旁部首でさえ単独の法身です。あなたの口を通して読み出した時、それも違うのです。多くの人はすでにかなり高い功を修煉して出しており、読み出した字もすべて形象があるのです。口から出たものは皆法輪です。つまりこの本は一般の本ではなく、もちろん次元が足りない者はそのような効果が得られないのです。本を読み、法を学ぶことも向上しているのです。我々は心性の修煉を重要視しており、理性から法を認識することも向上なのです。

 我々の功法は性命双修であり、動作そのものは主に本体を変えることで、つまり我々の肉身と各空間に存在しているその物質身体の変化形式を変えることです。主にこの意義です。まだ一部の術類のものがあります。本当に向上しようとすれば、私に言わせればそれは法において向上しなければなりません。もし心性が向上できず、法において向上を得ることができなければ、他のことはすべて机上の空論になります。なぜこう言うのですか? あなたは次元が上がらず、心性が向上できず、次元の高さを決める功が無いからです。心性の修煉がなければ功が得られず、このエネルギーの加持がなければ、あなたが自分の本体を変えようとしても、どのように変えるのですか? それは最も重要なものを欠いているのです。このエネルギーの加持がなければ、あなたは何も変えられません。ですから法を学ぶことは極めて重要なのです。私が思うには、修煉者は多く本を読むべきで、きっと皆さんの向上を大いに促進することができます。(差し挟む言葉:先生、大変お疲れさまです。お坐りになってお話し下さい。たくさんお話を頂きたいと思います) 私にもっと多く話させたいようですね。(熱烈な拍手)

 先ほど、主に法輪大法の発展の形勢を話しました。「法輪功」という名前は我々が初期に北京で功を伝えた時の呼び方です。私はすでに話したように、気功は現代人が作り出した呼び名であり、実際には、気功とは即ち一種の修煉です。常人の中で普及しているのは、気功の最低形式上のものにしか過ぎません。ただ人体を変え煉功に向かって進むことができるように、初期段階に過ぎないものが伝え出されましたが、実はそれは即ち修煉です。我々の功法は直接高い次元で伝えたのです。近年来、気功が普及する過程で、人々に気功を初歩的に認識させるための基礎をすでに築いたので、それらのものを再び説明する必要がなくなったのです。我々は初めから高い次元で修煉という問題を話したので、これからこれを気功、気功と呼ばないようにしましょう。

 我々のこの法輪功は、まだ認識されていない時に、あなたがこのように呼んでも構いません。しかし私が思うには、我々の功法は本来法輪修煉法、法輪修煉であり、あるいは法輪修煉大法と呼ぶべきです。ここで話していることは、つまりこの功法の呼び名の問題です。私はもう一つの問題を思いつきました。つまり我々の多くの学習者は、黙々と善い事を行なっており、社会においても、他の環境の中、職場においても、たくさんの善いことを行い、名も残さず報いも求めず、このような事例はたくさんあります。このことは私も知っています。あなたが言わなくても私も知っています。我々が名を残さないことは、素晴らしいことです。しかし、皆さん考えてみてください。この功法は伝え出されてから、現在社会においてすでに人の心を善へ向かわせ、道徳水準を向上させるという現象が現れました。この状況が現れたことには、法輪大法の影響も大きな作用があったと私は思います。ですから私は、一部の人は善いことを行なった時、人に名前を聞かれても、返事もせず、名を残さず報いを求めず、功徳を積むことですから、私が思うには、あなたは返事すべきです。あなたは、私は法輪功を修煉している者、あるいは私は法輪大法の修煉者だと言うべきです。こうすれば、社会に対しても、我々の大法を広めることに対しても良い影響があるからです。人々が皆正法を求めに来られるならば、これは良いことではありませんか? これは良いことだと私は思います。我々のこのような影響のため、全国各地で功を学ぶ人はすでに相当多くなり、その影響もすでにかなり大きくなりました。現在社会において誰かが少し善いことをしたら、人々は皆不思議に思います。一部の人は、どうして今になってまだ雷鋒が現れたのか、この人は本当に素晴らしい人間だと思っています! 我々ははっきり彼らに教えたほうが良いでしょう。

 最近の一時期に、また幾らかの問題があります。例えば一部の学習者は修煉中にたくさんの問題にぶつかり、なかなか解決できず、なぜこうなるのか? これは何の意味なのか、というような問題です。在席の輔導員でも、あなたはもし信じなければ、私がここであなたに質疑をさせるならば、あなたはやはり多くの講習会で学習者たちが出したことがある質問を提出するでしょう。なぜこうなるのでしょうか? やはり先ほど私が話したように、法に対する認識がまだ深くないからです。私は異なる次元のものを結び付けて説いたのです。ある人は一回本を読み終えたら、彼は非常に良いと感じますが、引き続き読んでいけば、また新しい会得があります。更に読み続けていけば、また新しい会得があり、字の意味も変わったように感じます。多くの人はこのような感覚がありました。本の中で私が異なる次元のものを結び付けて説いているので、あなたの昇華につれて異なる認識が得られます。これが即ち法です。あなたが本当に法をしっかり学んで、法を以て対照することができれば、どんな問題でも容易に解決できるはずです。きっとこうなります。修煉の問題でさえあれば、すべて解決することができると私は思います。

 かつて、済南の講習会で私は最も詳しく説きました。多くの問題をすべて解き明かしました。ごくわずかの問題はあまり細かく話しませんでしたが、意味は全部触れました。信じがたいかもしれませんが、皆さんが本当に入念に学ぶことができる時、どんな問題でも解答を得ることができます。ここが辛い、そこが辛いと言っている人がいるように、たくさんの問題がありますが、多くの人は考えもしませんが、もしあなたが辛くなければ、私はあなたに構っていないことになります。あなたが修煉したければ、いつも言っている言葉で言えば、そんな容易いことではないのです。はっきり言えば、人は皆業力をもっているのに、償わなくて済むのですか? あなたの業力を一気に消去してあげて、すぐ佛に成就させればいいのでしょうか、あなたを特別に扱うべきでしょうか? 私はただこの意味を言っているだけです。だれでも修煉を経てはじめて向上できるのではありませんか? その修煉過程は即ち業を消すことで、つまり苦を嘗めることです。あなたが苦を嘗めなければその業は消去することができません。ですから身体の苦痛は必ずしも悪い事とは限りません。生活の中でぶつかった厄介なことでも、必ずしも悪い事ではありません。あなたは耐えて乗り越えましたが、なぜだか分からなかったかもしれません。

 一つの例を挙げて言えば、過去佛教の中で言われたことですが、修煉するには、たくさんの苦を嘗めなければなりません。あなたはまだ分かりませんが、これくらいの苦を嘗めるだけで何だというのですか? 師父はすでにあなたを見守っており、たくさんの業を消去してあげました。生々世々で悪い事をしたことのない人がいますか? 私に言わせれば今日の人は、ここにまで至り、殺生したことがなく、大きな業を造ったことがない人は非常に捜しにくくなりました。歴史を遡れば、その時、あなたがもっと悪い事をした時、他の人はどんなに大きな難を引き受けたのでしょうか? それなのに、あなたは今日これくらいの難を受けるだけで、もう耐えられなくなりました。もちろん道理ではこのように言いましたが、多くの人は見えないはずです。修煉のことを話しているので、つまり悟性の問題を説いているのです。あなたには見えないので、それは当然の事です。あなたに全部見えたのなら、悪い事をすることはなく、修煉の問題も存在しなくなるのです。ですから人がここまで落ちてきたら、あなたに見させないことになっています。迷いの中に落ちて修煉するのです。

 もう一つの問題があり、ここまで話が及びましたので、ついでに話します。我々の多くの人は天目が開きましたが、異なる次元で天目が開いたのです。しかしそれほど高い次元に達しておらず、見えたものは物事の本質ではなく、それの因縁関係が見えません。こうすれば、一つの問題をもたらすことになります。つまり彼は勝手に話すかもしれません。彼が勝手に話すと、重大な結果をもたらすことになります。ある人は、私の修煉はどうしてこの程度なのか、どうしてこうなったのかと言います。実は、彼が見たのは正確ではありません。一つ例を挙げましょう。天目が開いた多くの人は、あなたには憑き物がある、彼には憑き物がある、皆憑き物があると言っています。私は随分前にすでに言ったことがあります。法輪大法の学習者、本当に修煉している人には憑き物はないのです。私は全部片付けてあげました。それなのに、なぜ一部の人は動物の形象が見えたり、このような形象が見えたり、あのような形象が見えたりするのでしょうか? 皆さんに教えますが、実は我々の多くの人は主元神、副元神と憑き物の存在形式を見分けることができません。彼に見えたものはあなたの副元神の前世、あるいはあなたの主元神の前世であるに過ぎず、このような情況に過ぎません。あなたがこのようにでたらめを言うと、他人に心理的な恐怖をもたらすことになるのではありませんか? あなたは誰それには憑き物があると言いますが、実はそれは全く憑き物などではありません。

 過去、佛教の中で六道輪廻を説いたことがあります。佛教にはこのような話がありました。つまり、人から人に転生した例は非常に少なく、動物から人に転生した場合が比較的多いのです。もちろん、このような情況であるかどうかは別にして、佛教の中でこう説いていますが、私はただ一つの例を挙げて、その意味を言っただけです。皆さんも悲観しないでください。生々世々の中で何であったのかを知る必要があるでしょうか? 今日は輔導員の会なので、講習会に参加したことがない人は、もし信じられなければ物語として聴いても結構です。昔の話によれば、人は向こうから転生して来た時、皆動物になりたいのです。動物は複雑な社会関係がなく、気楽に生きられます。動物になりたくても容易なことではないようで、比べれば人になるのは割合容易です。人になれば苦を舐めなければなりません。即ちこういう意味です。人は苦しいからこそ、修煉できます。他のものは修煉できないのです。修煉して上がったとしても邪法なので、高くまで修煉することは許されません。ですから天目が開いた人は、今後くれぐれもこの問題に注意して、でたらめに言ってはならず、あなたは正確に見えません。その他に、一部の事はあなたが感じ取ることができますが、感じ取ったその信号はどこからきたのでしょうか? 魔があなたに伝えたのかもしれません。ですから決してこれらの事に執着してはいけません。

 天目が開いた人が高く、次元が高いと見てはいけません。これらを決めるのは天目の開いた次元に関わらず、人の修煉の次元に応じて開くのではありません。あなたは開いていなくても、あなたは彼よりずっと高いかもしれません。これはごく普通のことで、この現象は個別のことではありません。人の修煉がよくできているかどうかは、その人の心性の高さ、法に対する理解の程度を見るのです。先生がいなくなったら、あるいは先生が功を伝え終えて皆が先生に会えなくなったらどうしましょうか、と言う人がいます。ある人はそれでは修められなくなると言いました。修められないはずはありません。皆さん考えてみてください、私は何のためにこの法を伝えたのでしょうか? 釈迦牟尼は在世中、文字を残しておらず、残したのは後人が記憶した断片的な釈迦牟尼の話したことだけで、系統的なものではありません。皆さんが見た経書は即ちこのようなものです。その時は人々にこの程度のものしか知られてはならなかったからです。わざとこのようにしたのです。その中には釈迦牟尼がまだ説いていない一部のものが混雑しています。今日我々のこの法は比較的明らかに説きました。釈迦牟尼は当時戒律しか残しておらず、釈迦牟尼は在世中文字を残しませんでした。釈迦牟尼は晩年、修煉の過程において、人々が修煉できるように、修煉して上がれるように、多くの戒律を制定しました。しかし我々には今日このようなものはありません。実際は釈迦牟尼が残した最も重要なものは戒律にほかなりません。

 我々は何かを戒める必要はなく、あなたに何をさせるかを規定する必要もありません。なぜでしょうか? 我々は今日法を残しており、この法はあなたに如何にすべきかを教えることができるからです。ですから私が言ったのは、私がいなくなっても、あなたは私に会えなくなっても、「法を師とする」ようにすべきで、しっかりこの法を学ぶべきです。あなたが成就できるかどうか、やり遂げられるかどうかは、すべてこの法にかかっています。もし李洪志が今日ある学習者を特に良いと思って、あなたを特別に扱い、功を与え、上がらせようとするならば、皆さん考えてみてください。このような事をしたら、私が法を破壊しているのに等しいのではありませんか? ですから皆さんは誰であっても必ずしっかり修煉しなければならず、みな修める必要があり、着実に修めなければなりません。もちろん、一部の人は法輪大法に特別な貢献をしましたが、それも修めていることであり、ただ修煉の形式が違うだけで、別の修煉方法なのです。こんなに多く話しましたが、要するに皆さんに真剣に法を学ばせ、真剣に修煉させるためなのです。

 私が将来国内で功を伝える機会はもう多くないでしょう。ですから肝心なことは皆さんが如何にこの法をよく会得するかの問題です。法は皆さんに残しており、実は私の目的は即ちこの法を皆さんに残したいのです。私がずっと誰かが修めるのを見ていても、私があなたの前にいても、あなたが私の言った通りやらなければ、それは何の意味もないのではありませんか? 何にも役に立ちません。私は、私の法身があなたを見守る事ができると言いましたが、実は私は更に高い状況、更に大きなことをまだ言っていません。人には皆別の空間の身体があり、人はある程度のエネルギーが備わったら、その身体はかなり大きくなります。私が別の空間で修煉した身体はすでに相当大きくなりました。どれほど大きいのでしょうか? ある人は私に、先生がアメリカに行かれたら、私はどのように煉功するのでしょうか、先生は私を見守ることができますかと聞きました。私はあなたを見守る法身がいると答えました。実はまだ別の一層の意味があり、私の法身はあなたを見守るだけではなく、相当大きな空間範囲、一定の宇宙空間範囲はまだ私のお腹の範囲を超えていないのです! あなたはどこに行っても、常に私のところにいるのではありませんか! そういうわけなので、あなたはただ修煉に専念すればよいのです。

 もちろんまだ一部の魔の存在があります。なぜこれらの魔の存在があるのですか? 私は言いましたが、最近いくつかの問題を処理しました。その中にはこれらの事が含まれています。皆さん考えてみてください。全国各地あるいはどこかの煉功場でもよくこのような情況が現れており、法を破壊しています。私を罵る人がいれば、法輪大法はこんなに悪いと言う人もいて、我々の修煉をひどく妨害しています。しかし皆さん考えてみてください、これは良い事ではありませんか? あなたの修煉の全過程においてずっと法に対する根本的な認識の問題、あなたに確固たる信念があるかどうかの問題が存在しています。ずっとあなたの修煉の最後の一歩までも、まだあなたにとって法に対して確固たる信念があるかどうかの試練があります。この根本的な問題を解決しなければ、他の問題には話が及びません。まったく語る必要がないのです。そうではありませんか? あなたが法に対して確固たる信念を持っていなければ、法に従って行なうはずがありますか? そうであれば、他の事はすべて動揺するのではありませんか? 彼はこのすべてがみな偽りのものだと思うかもしれません。故にその全過程にこのような問題が存在しています。ですからこのような魔の形式が存在して我々を妨害するのです。もしこのような魔がなければどうなるのでしょうか? この法輪大法の中にこれらの破壊がなければ、これらのものの妨害がなければ、それはあまりにも修めやすく、どのように人が向上する過程を確認できるのかと言う人もいます。少しの辛さがあり、身体に苦しさがあって、普段出遭うそれぐらいの厄介なことだけであれば、それでは漏れがあるのではありませんか? あなたが法に対して確固たる信念があるかどうかをどのようにして試しますか? 人が修煉するには各面においてすべて向上しなければなりません。動揺する心も一種の安定していない執着であり、執着心です。

 ここでついでに私はもう一つの問題を提起し、もう一つの事を話します。ここまで話が及んだので、皆さんがもう少し多く話してもらいたいと、私はそう感じています。私が講習会を開いた時に話した一つの問題、つまり業力に関する問題です。悪いことをしたら業力を得、良い事をしたら徳を積み、徳を得ることができます。私は後期の数回の講習会で、人には一種の思想業力が生じることがあると言いましたが、詳しく話しませんでした。ただおおまかに業力の存在について話しただけで、思想業力について詳しく話しませんでした。それではこの種の業力はどのような悪い作用をするのでしょうか? 皆さんはすべて輔導員なので、将来このような情況に遇ったら皆さんに説明できるようにしましょう。一部の新しい学習者は煉功する時、先生を罵り、法輪大法を罵り、思想が安定しません。

 なぜこの情況が現れるのでしょうか? しかも罵った汚い言葉は非常に多く、普段思いつかない汚い言葉も口から出てきます。甚だしきに至っては口から出なくても思想の中でそれを思い出すのです。多くの人はこのような過程を経験し、特に煉功の初期にこの問題が現れやすいのです。真に修煉し始めれば、多くの人はこの問題に遇うはずです。そのため、「私はどうして先生を罵るのでしょうか?」と思う人がいます。その思想は「この法は偽りのものだ、彼に従って学んではいけない」という考えを生じさせます。思想が安定しない人は、この考えについていき、信じなくなり修煉をやめてしまいます。すでに話しましたが、この功法での修煉は人の主意識を修煉しており、あなた自身が自分を主導できなければ、誰もあなたを済度することができません。なぜ我々は精神病患者を講習会に参加させないと強調したのでしょうか? つまり彼自身は自分を主導できず、自分を管理できないからです。そうであれば、我々は誰を済度するのでしょうか? あなた自身を済度するのではありませんか? だから我々はこの問題を強調したのです。

 一部の人は分別することができます。ある人は「私はなぜ先生を罵るのか? 私はなぜ法を罵るのか? それを制御しなければいけない」と思うようになりますが、長い間に精神が緊張状態に陥り、自分ではなかなか制御できません。しかし私の法身は全部知っており、あなたにこんなに固い信念があるのを見て、あなたを助けてこの思想業力を消去してあげます。実はすべてその思想業力が悪い作用をしているのです。あなたは昔人を罵ったことがあり、その良くない思想が皆湧き出てくるのです。なぜこの情況が現れるのでしょうか? 皆さん考えてみてください、我々が煉功するのは業を消去することです。別の空間のすべての物質は皆生きているのです。私は以前このことを話したことがあり、講習会で話したことがあります。その業力も生きているのです。あなたが業を消滅しようとしますが、消滅されるとそれは死んでしまい、無くなってしまいます。それではそれが承知しますか? あなたはそれを殺そうとしていますが、それは承知するでしょうか? それは生き物なので、あなたに修煉させないようにします。修煉させないのは、それが生きていたいからです。あなたにそれを消去させないように、それがあなたの頭の中に汚い言葉を反映し、法輪大法を信じさせないようにします。ひいては私を罵り、どんな言葉でも思いつくのです。一部の人は分別がつかなくなり、誰かが自分にヒントを与えているのではないか、あるいは自分が本当に分かるようになったと思い、分別がつかず、そのままついていってしまい、駄目になり、誰も彼を済度できなくなりました。実はこの思想業力が阻害の作用をしているのです。

 それは一つの段階で、非常に短い段階です。あなたの信念が固くなってきたら、それを消去でき、この業力を消去することができます。今まで講習会の時、詳しくこれを話しませんでしたが、最近多くの人が私にこの情況を訴えました。皆さんは心配しないでください、あなたが私を罵っても、法輪大法を罵っても、それはあなた自身が罵っているのではありません。きちんと分別しなければなりません。主意識がしっかりしていなければ、それで駄目になってしまい、誰もあなたを済度することはできなくなります。多くの地区にこの現象が現れ、ある人は「私はどうして先生に申し訳ないことをするのか? 私はなぜ先生を罵るのか?」と思い、長春のある学習者は「私はどうして先生を罵り、大法を罵るのか?」と言って、私の写真の前で「先生、私はもう煉功できなくなりました。煉功したら思想の中で先生を罵り始めるので、もう修煉できません。誠に申し訳ございません」と言いました。法輪大法に触れるとすぐ罵りはじめ、本を手にとるとすぐ罵り始めます。最後に「こんなに良い先生なのに、こんなに良い法なのに、私はたいへん申し訳ないことをしました」と言いました。もちろんこの学習者は思想の中では、はっきりしており、しっかり分かっているので先生に申し訳ないと自覚しています。後に彼は煉功の時、この事を輔導員に話し、輔導員はすぐ総輔導站に報告しました。皆さんはこの情況に対して、これは魔の妨害だと説明しました。実はこの種の業力自身も魔の一種の形式なのです。彼が煉功して魔を招かないうちに、皆で彼を囲んで煉功し、一緒に本を読んでみました。すると、彼の頭はすっきりしました。実際はこれで彼を助けて業を滅したのです。

 もちろん、私の本にはこのような作用があります。あなたは信じないかもしれませんが、例えばある人が病気にかかったら、もちろん私は病気にかかったという言葉を使いたくはありませんが、実はその病気、その細菌とウイルスのような微生物など、すべては業力がこの空間の身体に現れたのです。だから私の本を読めばそれを消去することができます。本を読む時に打ち出したのはすべて功であり、すべて法なので、業を消去する作用を果たすことができます。彼は頭がすっきりしたと感じ、とても良かったと思いましたが、帰ったら彼は元の状態に戻りました。なぜ元の状態に戻ったのでしょうか? 実は彼の思想業力がわりと大きいので、この段階において他の人より多く償わなければならないからです。しかし彼は道理が分かったので、ずっと耐えてきました。暫く時間が経ってから、私の法身は彼を助けて業を消去し、残っている業が消去されて、彼もはっきり目覚めました。現在は非常に良い状態になり、何の問題もありません。このような問題が現れたら、皆さんはそれを精神的な問題、あるいは憑き物だと見なさないでください。そのような状況ではありません。

 最後に私は少し希望を出したいと思います。皆さんの時間を更に多く使いたくありません。これは輔導員の会議ですから、皆さんは輔導站でまだ他の用事があるはずです。皆さんが今後学法のブームを一つ引き起こすように希望しています。毎日の煉功を学法よりも重要だと思ってはいけません。毎日の煉功は続けなければなりませんが、毎日の学法も同様に続けなければなりません。本当にこの法をよく理解できてはじめてあなたは修煉を指導することができます。何でも先生に聞きたい、何かあったらいつも先生の答えを待つ人がいますが、実は法の中には何でもあり、学びさえすれば何でも解答を得られます。もちろんあなたが法を信じず、動揺するならば、私に言わせれば、それは即ち悟性の問題です。その他に、ここに在席する皆さんはすべて輔導員であり、輔導員の仕事を担当しています。もちろん、皆さんはすべて無償で務めています。我々は皆さんに対してどうすべきか、如何にすべきかを強制的に要求することはありません。もちろん我々は輔導員に真剣に責任を果たすことを要求しており、煉功は専一でなければならず、これは揺るぎないことです。我々は行政手段で誰かを制約する必要はなく、我々にはその権力もありません。修煉は自分自身のことです。我々は皆さんをまとめること、皆さんのぶつかった問題を解決できるように手伝うことを担当しているにすぎません。

 それでは輔導員としては法に対する認識において一般の学習者より少し高くあるべきなので、多く法を学ばなければなりません。一部の学習者からの質問に解答できなければ、これも問題だと私は思います。あなたは学歴がなくてもかまいません。皆さんをまとめて法を学ぶ時、本を読む時、認識を交流する時、即ちあなたの向上を促進しています。私が長春にいた時、彼らが輔導員の会議を開いた時に、私はこう話しました。つまり、我々の今日のこの修煉形式、常人社会の中で修煉するこれらの人は常人と同じようですが、実質的には我々は煉功者なので、常人とは違います。それでは一人の輔導員として、皆さん考えてみてください、あなたが皆さんをまとめて煉功する時、あなたの責任は何ですか? もし専門に修煉するならば、それは即ちお寺の方丈、住職です。皆さん考えてみてください、我々はこの仕事をしっかり行なうべきではありませんか? 一人の修煉者として、あなたは修煉しなければならず、同時に皆さんの修煉を手伝わなければなりません。皆さんに対して特別に高く要求しているわけではありませんが、実際はこうなっています。皆さんはぜひとも率先して模範となるような作用を発揮し、学習者をまとめ、この法輪大法をよりよく発展させて輝かせ、人類に福をもたらすようにしなければなりません。これは我々が最低次元において話していますが、実際こういうことです。

 もう一つの情況があり、私は今思いつきましたが、先ほど皆さんに対して幾つかの要求を提出しました。その他に一部の人は仕事に専念せず、社会の仕事に何も構わなくなり、ただ劫難が来るのを待っています。更にこの劫難はいつ始まるのか、と私に尋ねる人もいます。私は講習会においてこの問題を話したことがあります。何の劫難ですか? 皆さん考えてみてください、その劫難は誰に向けて来るのですか? 善い人は劫難と関係なく、本当に劫難があるとしても、善い人はみな残されるのです。それは悪い人を淘汰するためのものです。ですから、あなたは修煉者として向上しているのに、それらのことに構う必要がありますか? この難にしても、あの難にしても、あなたには関係ありません。これは本当に劫難がある場合の話です。しかし、今日私ははっきり皆さんに教えますが、この劫難はすでに存在しなくなりました。以前、地球の爆発や、衛星との衝突、大洪水などを言われていましたが、皆さんご存知ですか、この難は次から次へと続くように設定されていましたが、異なる次元で設定された難はみな過ぎ去りました。彗星は木星にぶつかることになり、地球にぶつかりませんでした。あの洪水もすでに過ぎ去りました。去年の洪水はかなり大きかったのですが、それは世界的範囲のことで、すでにかなり弱くなり、それほど弱くなったものもすでに過ぎ去りました。多くの事はすでに過ぎ去り、つまりそのような難は存在しなくなりました。我々はあいまいに言う必要はありませんが、唯一存在するのは将来一部の人が淘汰されるかもしれず、それらのとても良くない人は、ある種の強い疾病の中で淘汰されるかもしれません。これは可能性があることです。ですから、一部の人はよくこのような話題を持ち出しますが、あなたはそのようなことを考えなくてもよいのです。その災難はすでに存在しなくなりました。如何に修煉するか、如何に自分を高めるか、これこそ肝要な問題です。

 私の話はここまでにしましょう。引き続いて会議を進行しましょう。(熱烈な拍手)

 法輪大法北京輔導総站による録音