轉 法 輪


第八講

 

 辟 穀へき こく


 辟穀へきこくの問題に言及した人がいます。辟穀という現象は確かに存在し、修煉界にあるだけでなく、われわれ全人類社会の中で少なからぬ人にこのような現象が現われています。数年あるいは十数年にわたって飲食を断っている人がいますが、元気に生きています。辟穀はある次元の現われだと言う人もいれば、身体浄化の現われだと言う人もいます。さらにそれを高い次元における修煉過程だと言う人もいます。
 本当はすべて違います。ではそれはどういうことなのでしょうか? 辟穀は実際はわれわれが特定の環境の下で採用した特殊な修煉方法です。どういう特定の環境の下でそれを採用するのでしょうか? 中国の古代、特に宗教がいまだ創立されなかった時に、修煉者の多くはほとんど密修、独修というような方式を採用して、深山の中あるいは山の洞窟の中に入って、人の群れから遠く離れて修行していました。いったんこういうふうにすると、食料の調達という問題が起きます。もし辟穀の方法を採らなければ、とうてい修煉するどころではなく、中で餓え死にするか、かわき死にしてしまうかにきまっています。わたしは重慶じゅうけいから武漢へ説法に行く時、船に乗り長江ちょうこうを下って東へ向かいました。途中、三峡さんきょうの両側、山腹のところどころに洞窟があるのを見かけましたが、多くの名山にもこういうものがあります。むかし修煉の人は縄で這い上がり、中に入ってから縄を切って、洞窟の中で修煉しました。修煉が成就できなければ、中で死ぬしかないのです。水もなければ、食べ物もありません。このようなきわめて特殊な環境の下で特殊な修煉方法が採用されたわけです。
 多くの功法はこのようにして伝えられて来たので、辟穀をもっています。辟穀をもたない功法もたくさんあります。今日社会に伝わっている功法の大多数はこれをもっていません。煉功は専一を重んじるので、人為的に気の向くままに行動してはいけません。それが良いと思って、あなたも辟穀したくなったとしても、あなたは辟穀をして何をするのですか? すばらしいとか、珍しいと思っている人もいれば、あるいは自分の功夫が大したものだと思って見せびらかしたい者もおり、いろんな心理状態の人がいます。この方法を採用して修煉しても、自身のエネルギーを消耗して身体に補充をしなければならないので、得ることより失う方が多いのです。皆さんもご存じのように、特に宗教というものが確立してから、あなたが寺院に閉じこもって坐禅をしていても、お茶やご飯を供給してくれる人がいるので、この問題は起きません。特にわれわれは常人社会の中で修煉するので、あなたはまったくこの方法を採用する必要はありません。しかも、そもそもあなたの法門の中にそういったものがないのなら、あなたは勝手にしてはいけないのです。もしあなたがどうしても辟穀をしたいのなら、好きなように修煉すればよいのです。わたしの知っているところでは、師が高い次元の功を伝え、真に人を導こうとしている場合、その法門の中に辟穀があるケースが多く、そういう現象が現われることもあります。しかし、それは広く普及させることができないもので、弟子を連れて密かに修煉するか、単独で修煉する場合がほとんどです。
 現在、人に辟穀を説く気功師もいます。辟穀をしたのでしょうか? 結局は辟穀をしていません。誰が辟穀をしたのですか? わたしが見たところ、入院した者が少なくないし、生命の危険に直面した者も少なくありません。ではどうしてこのような状況が現われたのでしょうか? 辟穀ということは本当にあるのではないでしょうか? 確かにあります。しかし、われわれ常人社会のこの状態は、誰かに簡単に破壊されることを許さないもので、破壊されてはならないのです。国中でみんな練功して飲まざる食わざるになれば、いったい全体どれくらいの人数にのぼるかはさておいて、単に長春というところだけでも誰も飲み食いしなくなったら、わたしに言わせるとそれは手間が省けることでしょう! ご飯を作ることを気にする必要もありません。農民は野良仕事で苦労していますが、みんな食べなくなったら、その苦労が省けます。みんなが働くだけで、ご飯も食べないのですから。そんなことがあっていいのでしょうか? それは人類社会と言えるのでしょうか? 絶対に駄目です。このような事態が起きて広い範囲に常人社会をかき乱すことは、許されません。
 一部の気功師が辟穀を伝えた時、多くの危険が現われました。辟穀を求めることに執着している人がいますが、彼のその心は捨てられておらず、多くの常人としての心は捨てられていないため、美味しいものを見ていながら食べないと、無性に食べたくなります。その心が起きると、抑えきれなくなります。焦りだすと、物を食べたくなり、欲望が出ると食べたくなり、食べなければ飢餓感を覚えます。しかし、食べると吐き出すので、食べ物が喉を通りません。これが精神の緊張を引き起こして、すごく怖く感じます。多くの人が入院し、多くの人が生命の危険に直面したのは事実です。わたしのところへ来て、これらのめちゃくちゃなことの後片付けをしてほしいと頼んだ人もいましたが、わたしはこういうことにかかわりたくないのです。本当にむちゃなことをする気功師がいますが、誰が喜んでそういうひどいことの後片付けをしてあげようと思うでしょうか。
 その上、あなたが辟穀をして問題が生じても、それはあなた自身が求めたせいではないでしょうか? われわれはこれらの現象が存在していると言いますが、しかしそれは高次元に現われる状態でもなければ、何かの特殊な反映でもありません。それは特殊な状況の下で採用された煉功方式の一つに過ぎず、しかもそれは普及させることができるものではありません。辟穀を求める人が多くおり、しかもそれを辟穀や、半辟穀などとランクづけしたりしています。ある人は自分は水を飲むと言い、ある人は果物を食べると言いますが、それらはすべて偽辟穀であり、時間が長くなると、必ず全部駄目になります。真に修煉する人は、洞窟の中に閉じ籠って、飲み食いを断ちますので、それこそ本当の辟穀だと言えます。
 

 気を盗むこと


 気を盗むことと言うと、虎の話をするだけで顔色が変わるように、怖くて練功する気にならない人がいます。 修煉界の人が走火入魔とか、気を盗むとかのことを言いふらすので、人々は怖くて練功や気功に接触することもできなくなっています。 もしそんなことが言いふらされていなければ、もっと多くの人々が練功するかも知れません。 一部の心性が良くない気功師は、こういうことばかり教えており、修煉界をかき乱していますが、本当は彼らの言うほど怖いことではありません。 気のことを混元気とか、この気だあの気だとどんなに言ってみても、われわれに言わせれば、気は気にほかならないのです。 人体に気があるかぎり、その人は病気治療と健康保持という次元にいるのであって、まだ煉功者だとは言えません。 人に気があるかぎり、それは、その人の身体がまだ高度な浄化に達しておらず、病の気があることを物語っており、これは間違いのないところです。 気を盗む人も気の次元にいます。 われわれ煉功する人の誰が、そんなどろどろとした気を欲しがるでしょうか? 煉功しない人は身体の気が非常に濁っていますが、煉功してから清くなる可能性があります。 そうなった時病気のあるところに、密度のかなり高い黒色物質が現われてきます。 修煉し続けていって、真に病気を取り除くころになりますと、気が次第に微かな黄色になります。 さらに修煉し続けていけば、病気が本当に取り除かれ、気も無くなりますので、乳白体の状態に入ります。
 つまり気があるかぎり病があるということです。 われわれは煉功者で、煉功しているのに人の気をもらってどうしますか? 自分の身体を浄化しなければならないのに、どうしてその上にどろどろとした気が欲しいのですか! 絶対に欲しがってはいけません。 気を欲しがる人も、ほかならぬ気の次元にいます。 気の次元にいる以上、彼にはどれが良い気でどれが悪い気か見分けがつかず、そうする能力はありません。 あなたの身体の丹田にある「真気」を彼は動かすことができないのです。 その元の気は、かなり高い功夫を持つ人だけが動かすことができます。 身体のそのどろどろとした気を、彼に盗ませておけばよいので、何も大したことはありません。 わたしは煉功する時、気を注ぎたいとちょっと思うだけでも、すぐ腹が膨らんできます。
 道家では天字樁てんじとうに立つと言い、佛家では気をすくい上げて灌頂かんじょうすると言いますが、宇宙には気がいくらでもあり、あなたは終日、自分の中へ向かって注いでもよいのです。労宮穴ろうきゅうけつを開き、百会穴ひゃくえけつを開いて、中に注ぐといいのです。丹田を意守し、手で中へすくい上げて注げば、間もなくいっぱいになります。いっぱいふくらませて、さて何の役に立つのですか? 気をいっぱいためると、手の指の腹も張るし、身体中が張ると感じる人がいます。その前を通る人に、周辺に一つの場があることを感じさせます。あなたの功はすごいですねと褒められます。わたしに言わせると何でもないのです。どこに功があるというのですか? やはり気を練っているに過ぎず、気がいくら多くても功に代わることはできません。気を練る目的は、外の良い気で身体の中の気を取り替えることであり、身体を浄化させるためです。しかし気をためて何をするのですか? あなたがこの次元にとどまっており、本質の変化が起こっていないかぎり、それは功ではありません。いくら多く盗んでも、せいぜい大きな風船になるのが落ちで、何の役に立つというのですか? しかもそれは高エネルギー物質へ転化しているわけでもありません。ですからあなたは恐れる必要はありません。人が本当に気を盗みたければ盗ませればよいのです。
 皆さん考えてください。あなたの身体に気があるかぎり病があるのです。そこで人が気を盗む時、あなたの病気までも一緒に盗んで行くのではありませんか? 彼には全然それらを見分けることができません。気を欲しがる人も気という次元におり、何の力もないからです。功のある人に気は要らないのです。これは間違いありません。信じられなければ、われわれは試してみてもよいのです。本当に気を盗みたがる人がいるのなら、あなたはそこに立って彼に盗ませなさい。あなたが宇宙から中に注ぐことを思い浮かべている一方、彼は後ろで盗んでいるとします。なんと素晴らしいことではないでしょうか。身体の浄化を速めてくれますし、あなたが「衝灌チョングァン、衝灌」をすることも省けます。他人のものを盗んだのだから、彼にきざしたその心が悪いのです。結果的に良くないものをもらってしまったとしても、彼が徳を損なうことをしたのであり、あなたに徳を与えなければなりません。一方ではあなたの気をもらい、他方ではあなたに徳を与える、そういう対流ができてしまいます。気を盗む人はこれを知らないのです。知っていれば、とてもこんなことをする勇気はないはずです! 
 およそ気を盗む人は、顔色が青いのです。みなそうです。公園へ練功に行く多くの人は、病気を取り除くという目的をもっていて、そこにはどんな病気もあります。他の人は病気を治療する時、それを外へ排出しなければならないのですが、気を盗む人は排出しないばかりか、身体にいっぱい取り込んでいますので、どんな病の気ももっており、身体の中まで真っ黒になっています。彼はいつも徳を損なっているので、彼の外も真っ黒です。業力場が大きくなり、徳を多く損なったら、中も外も黒くなります。気を盗む人は、自分自身にこのような変化が起こっており、人に徳を与えるような馬鹿なことをしていると分かれば、そんなことをやるはずがないのです。
 気を非常に摩訶不思議なもののように言う人がいます。あなたがアメリカにいても、わたしが気を発するとあなたは受けとることができるとか、あなたが壁のむこうで待っていれば、わたしが気を発するとあなたは受けとることができるとか言うのです。非常に敏感な人もいますので、発せられた気を確かに受けとることができます。しかしその気は、この空間を通らずに別の空間を通っており、別の空間のそこには壁がないからです。なぜある気功師が平地で気を発しても、あなたにそれが感じられないのでしょうか? 別の空間のその場所に隔てがあるからです。したがって気というものは、われわれが言っているほど大きな貫通力があるわけではありません。
 真に役に立つのは、ほかでもない功です。煉功者が功を出せるようになった時、彼にはすでに気が無くなっています。高エネルギー物質を発しますが、天目で見れば一種の光です。それを他人の身体に向かって発したら、熱く感じられ、直接常人を制約できます。といっても病気を完全に治療する目標に達することはできず、抑制の作用しかありません。本当に病気を治すには功能の存在がなければならず、それぞれの病気に対してそれぞれの功能があります。超ミクロの世界において、功の一つ一つの微粒子は、あなた個人の姿かたちと同じです。それは人を識別できますし、みな霊性のある、高エネルギー物質ですので、他人が盗んでいったとしても、それはその他人のところに留まれるものでしょうか? 自分自身のものでなければ身につけようとしても駄目で、そのものもそこに留まるはずがありません。真に煉功する人は、功が出てからは師に見守られており、あちらで師はあなたが何をしているのかを見ています。人のものを盗むなど、その人の師も許すはずがありません。
 

 気を採ること


 気を盗むことと気を採ることはいずれも、われわれが高次元で功を伝える時に皆さんのために解決してあげなければならないような問題ではありません。修煉界のために良いことをし、修煉の本来の意義を明らかにしたいというのもわたしの目的の一つですので、従来誰も話したことのないこれらの良くない現象を明らかにしておきます。皆さんがそれを知っていれば、悪事ばかり働こうとする人もそうすることができなくなるし、気功の真相が分からない人もいつまでも怖いと思わなくてすむのです。
 宇宙の気はいくらでもあります。天陽てんようの気とか、地陰ちいんの気とか言う人がいます。あなたも宇宙の一分子ですので、思う存分採ればよいのです。しかし宇宙の気を採るのではなく、もっぱら植物の気を採ることを教える人がいて、経験談までまとめられています。ポプラの気は白く、松の気は黄色いとか、いかに採ればいいか、いつ採ればいいかなど。またこう言う人もいます。「家の前に木があったが、わたしが気を採ったので枯らしてしまった」。それが自慢になるのですか? それは悪いことをしているのではないでしょうか? 皆さんもご存じのように、われわれが真に修煉するためには、良性の信息を重んじ、宇宙の特性に同化することを重んじますので、善を大事にしなければならないのではありませんか? 宇宙の特性、真・善・忍に同化するには、その善を重んじなければなりません。悪いことばかりしていて、功が伸びるでしょうか? 病気を治せますか? それはわれわれ修煉者にはあるまじきことではありませんか? それも殺生で悪事であることに変わりはありません! 人はこう言うかも知れません。「あなたはますます不可思議なことを言うではないか。動物を殺すことは殺生だが、植物を枯らすことも殺生なのか」。実際そうなのです。佛教では六道輪廻を説きますが、六道輪廻の中で、あなたは植物になるかも知れません。佛教ではそう言うのです。われわれはここでそういうふうには言いません。しかしわれわれが皆さんに教えておきたいのは、木にも生命があること、それどころか生命があるばかりでなく、かなり高度な思惟活動も持っているということです。
 一例を挙げましょう。アメリカに電子の研究を専門にしている人がいて、人に嘘発見器の使い方を教えています。ある日、彼は思いつきで嘘発見器の両極を一本の牛舌蘭ぎゅうぜつらんの花につないで、それから花の根元に水をかけたところ、嘘発見器の電子ペンがすばやく曲線を描き出したのに気づきました。この曲線はちょうど人の大脳が、きわめて短い時間の間に興奮や喜びを覚えた時の曲線と同じなのです。植物になぜ感情があるのか! 彼は驚きました。彼は「植物にも感情があるぞ」と、街へ出て叫ぼうとさえ思いました。この一件に啓発されて、引き続き彼はこの方面の研究に手をつけ、たくさんの実験を行ないました。
 ある日、彼は二本の植物を一緒に並べて、彼の学生に一本の植物の前でもう一本の植物を踏みつけさせ、踏みつぶさせました。それからこのもう一本の植物を部屋の中に移し、嘘発見器につないで、彼の学生五人を外から順番に入らせました。さきに四人の学生が入って来ましたが、反応はありません。五番目の学生、つまり植物を踏みつけた学生が入ると、まだ近づいていないのに、電子ペンがすばやく曲線を描き出しました。それは人が恐怖を感じた時にしか見られないような曲線です。彼は非常に驚きました! このことはきわめて大きな問題を明らかにしてくれました。われわれは従来から人間は高級な生命体だと思い、人間は感覚器官の機能をもっているので識別ができ、大脳があるから分析ができると思ってきました。植物にはなぜ識別する能力があるのですか? それは感覚器官を持っているということではありませんか? 以前なら誰かが植物には感覚器官があり、思惟も感情もあり、人を識別できるなどと言えば、それは迷信だと決めつけられたに違いありません。それだけではなく、ある面で植物はわれわれ今日の人間を超えているようです。
 ある日、嘘発見器を一本の植物につないだ彼は、「さてどんな実験をやろうか? 火でその葉を焼いたら、どんな反応があるのか」と考えました。彼がこう考えただけで、まだ火をつけてはいません。それなのにその電子ペンが急速に振れだし、人間が「助けてくれ」と叫ぶ時にしか見られないような曲線を描き出しました。この超感功能は、昔は他心通と呼ばれ、人間の潜在能力で、本能でした。今日の人類にはそれらがみな退化してしまっているので、改めて修煉し、返本帰真して、先天的にあるはずの本性に戻って、はじめてそれらを持つことができます。しかし植物はそれをもっているのです。あなたが何を考えているか植物は知っています。不思議に聞こえるかも知れませんが、これは実際に行なわれた科学実験です。その人はいろいろな実験を行ない、遠隔操作の功能もやりました。彼の論文が発表されると、全世界の注目を集めました。
 各国の植物学者はみなこの方面の研究を展開しており、我が国でもやっていますので、これはもう迷信などではありません。わたしはそこで先日こんな話をしました。「今日われわれ人類に発生し、発明され、発見された多くのものは、われわれの今日の教科書を書き換えるのに十分なほどです」。しかし人々は、伝統的な観念の影響を受けて、それを認めようとせず、系統的にそれらを整理する人もいません。
 わたしは東北のある公園で松林が枯れているのを見ました。何を練っているのか分かりませんが、地面を転げ回る人々がいました。転げ回った後で、気を足で採ったり手で採ったりしましたが、松林はそれで間もなく黄色くなって、全部枯れてしまいました。これは良いことをしたのでしょうか、それとも悪いことをしたのでしょうか? われわれ煉功者の立場から見れば、それは殺生にほかなりません。あなたは、煉功者である以上、良い人でなければならないのですから、徐々に宇宙の特性に同化し、あなたのもっていた良くないものを捨て去るべきなのです。一方、常人の立場から見ても、それは良いこととは言えません。公共物を破壊し、緑を破壊し、生態バランスを破壊することなので、どの立場から言っても良いことではありません。宇宙に気はいくらでもありますから、あなたは思う存分採ればよいのです。エネルギーのかなり強い人は、一定の次元まで修練してから、ちょっと手を振るだけで、かなり広い範囲の植物の気を、いっぺんに採ってしまうことができます。しかしそれも気に過ぎず、いくら多く採ってもどうなるというものではありません。公園に行って、こればっかりやる人がいます。「わたしは練功する必要がない。歩きながらこうやって手で取り込むだけで、十分練功になるのだ。気を得ればそれでいい」と彼は言いますが、気のことを功だと勘違いしているのです。人が彼の近くに来ると、彼の身体から冷たいものを感じます。植物の気は陰性ではないでしょうか? 煉功者は陰陽のバランスを重んじますが、身体は松の匂いがぷんぷんするのに、本人は良く練っていると思い込んでいるのです。
 

 煉功するその人が功を得る


 煉功するその人が功を得るという問題はきわめて肝要な問題です。法輪大法ファルンダーファのどういうところがいいのかと聞かれましたが、わたしは「法輪大法ファルンダーファは功が人を煉ることができるので、煉功時間を短縮することができる。長期的に功に煉られるので、煉功する時間がない問題を解決できる」と答えました。それにわれわれのものは真の性命双修の功法であるので、われわれのこの物質身体がかなり大きく変わるのです。法輪大法ファルンダーファには最も大きな良さがもう一つありますが、これまでわたしはずっと話したことがありません。今日初めてそれを話します。それはかなり大きな歴史的な問題に絡んでおり、修煉界に与える影響も相当大きいので、これまでの歴史において誰もそれを明らかにする勇気がなかったばかりでなく、明らかにすることが許されなかったのです。しかしわたしはそれを話さないわけにはいかないのです。
 「李洪志大師だいしの言葉の一つ一つが天機であり、天機を漏らしているのだ」と言う弟子がいました。しかしわれわれは真に高い次元へ人を導き、つまり人を済度しているのです。皆さんに対して責任を負わなければならないうえに、しかもその責任を担うことができるのですから、天機を漏らすことにはなりません。これに対して、責任を負わずに勝手にしゃべるのは天機を漏らすことです。今日われわれはこの問題、つまり煉功者その人が功を得るということを明らかにします。わたしの見るところでは、現在のあらゆる功法は、歴代の佛家、道家および奇門功法も含めて、すべて人の副元神(副意識)を修煉しており、みな副元神が功を得ているのです。われわれがここで言う主元神は、ほかでもない自分の思惟のことです。自分が何を考えているのか、何をしているのか自分で分かっていなければならないのです。それがあなたの本当の自分自身なのです。ところが副元神が何をやるのかはあなたにはまったく分かりません。彼はあなたと同時に生まれ、同じ名前をもち、同じ身体を主宰し、姿かたちが同じですが、厳密に言えば、彼はあなた自身とは言えないのです。
 この宇宙には「失うものが得る。修煉するその人が功を得る」という理があります。歴代の功法は、煉功の時は何も考えない、恍惚こうこつとした状態に入り、それから何もかも分からなくなるぐらい深く入定するよう教えています。三時間の坐禅をあっという間のように感じる人がいます。他人は彼の定力に敬服しますが、本当のところ彼は修煉したのかどうか? 本人はまったく分からないのです。特に道家功法には「識神しきしん死して元神生ず」という言い方があります。その識神を、われわれは主元神と言い、その元神を、われわれは副元神と言います。あなたの識神が本当に死ねば、あなたも本当に死んでしまい、主元神が本当に無くなるのです。別の功法を練る人は「先生、わたしは練功する時、家族も分からなくなってしまいます」とわたしに言います。またある人はわたしにこう言います。「わたしは、他の人のように朝早く起き夜遅くまで練功などしません。家に帰って来てソファに横たわると、自分が練功へ出かけるので、わたしは横になっていて彼が練功するのを見ているのです」。わたしは悲しく思いますが、一方それは悲しいことでもありません! 
 彼らはなぜ副元神を済度するのでしょうか? 呂洞賓りょどうひんは、たとえ動物は済度しても人間は済度しない、と言ったことがあります。人間は本当にあまりにも悟りにくいものです。常人は常人社会に迷うので、現実の利益を前にすると、その心を捨て去ることができません。信じられないかも知れませんが、受講が終わってこの講堂を出たとたんに、直ちに常人に変わる人がいます。誰かが彼の気にさわるようなことを言ったり、彼の機嫌をちょっとでも損ねたりすると、絶対に承知しないのです。しばらくすれば自分が煉功者であることをきれいさっぱり忘れてしまいます。歴史上の多くの修道の人はみなこの点に気づいていますが、人間が済度し難いものだというのは、人間の主元神があまりにも頑迷だからです。悟性のすぐれた人は、ヒントを与えると直ちに分かりますが、どんなに教えても信じようとせず、ありえない話だと思う人もいます。われわれはどれほど彼に心性を修煉するよう教えてあげても、彼は常人の中に戻ると元の木阿弥になります。彼は常人の中での確実で実感できる、ちっぽけな利益を現実的だと思い、それを求めずにはいられません。そんな人は、「先生が説いた法は、聞いている時はなるほどと思いますが、実際はとても実行できません」と言うのです。人間の主元神はいちばん済度し難いのですが、副元神には別の空間の光景が見えます。ですから彼らは「なぜ、わたしがあなたの主元神を済度する必要があるのか。副元神もあなたなのだから、彼を済度すれば同じことではないか? どちらもあなたですから、どちらが得ても結局はあなたが得ることになるのではないか」と思うのです。
 わたしはその具体的な修煉方法を述べましょう。もし、人に遠隔透視の功能があれば、次のような光景が見えるかも知れません。坐禅する時、入定した瞬間に、突然ふわっとあなたの身体の中から、あなたと同じ容貌ようぼうのもう一人のあなたが出ていくのが見えます。しかしあなたの自我はどこにいるか分かりますか? そこに坐わっているのです。彼は出てから、師に連れられて師の演化したある空間の中で修煉しますが、それは過去の社会形式であるかも知れませんし、現在の社会形式であるかも知れません。あるいは別の空間の社会形式であるかも知れません。彼は毎日一、二時間、煉功を教えてもらい、多くの苦しみに耐え抜きました。煉功が終わって帰って来ると、あなたも出定しゅつじょうするのです。これらは見えるものです。
 もし見えなければなおさら悲しいことです。何も知らずに、わけの分からないうちに、二時間入定してそれから出定するのです。寝てしまう人もいます。二、三時間うとうとすれば煉功したつもりになりますが、完全に自分を他人に預けてしまいました。これはとぎれとぎれに煉功して完成することで、毎日これくらいの時間坐禅するのです。一回だけの連続で完成するのもあります。皆さんは達磨の面壁九年めんぺきくねんの話をお聞きになったことがあるかも知れませんが、昔は多くの僧が数十年も坐り続け、歴史上の記録によればいちばん長いのは九十年余りですが、もっと長いのもあり、まぶたにほこりが分厚くたまり、身体に草も生えてきましたのに、まだそこに坐っていたと言います。道家にもこれを重んじるものがあり、特に一部の奇門功法は寝ることを重んじ、ひとたび寝ると数十年も出定せず、目が覚めません。しかし、それではいったい誰が修煉したのでしょうか? 彼の副元神が出かけて修煉したのです。もし彼に見ることができれば、師が副元神を連れて修煉しているのが見えます。副元神もかなり大きな業力を背負っていることがあり、師は業力を全部滅してやる力がありません。それで彼に「君はここでしっかり煉功しなさい。わたしはちょっと出かけて、すぐ帰って来るから、待っていなさい」と言うのです。
 師は何が起きるか分かっていながら、そうしなければならないのです。するとそこへ魔が来て彼を脅かしたり、美女に化けて彼を誘惑するなど、あらゆることが起こります。しかし彼はさすがに心が動じません。副元神は真相が分かりますから、比較的修煉しやすいのです。この魔がかっとなって、恨みを晴らすために彼を殺そうと思い、また本当に彼を殺してしまうことさえあります。これで債務は全部返済されました。殺されてから、副元神は飄々ひょうひょうとして、煙のように出て来ます。もう一度生まれ変わって、非常に貧しい家に生み落とされます。小さい時から苦しい思いをさせられ、物心つく頃になると、師がやって来ました。もちろん彼には分かりません。師は功能で彼の蓄積されていた思惟を開いてやります。「この方は師ではないか?」と、たちどころに彼は思い出します。「今はもう大丈夫だ。修煉してもよい」と師は彼に告げます。こうして長い歳月を経て、師は伝えるべきものを彼に伝え終えるのです。
 伝え終えてから、師はさらに「君はたくさんの執着心を捨てなければならない。そのために行脚あんぎゃに出かけなさい」と彼に言います。行脚は非常に辛いことで、社会の中を放浪し、物乞いをしながら、いろいろな人に出会って、あざけられたり、罵られたり、いじめられたりして、どんなことにも遭遇する可能性があります。彼は自分が煉功者であることを常に心掛け、人との関係を正しく処理し、心性を守り、絶えず心性を向上させ、常人のいろいろな利益の誘惑にも心が動じません。長い歳月を経て、彼は行脚から帰って来ます。そこで師は言うのです。「君はすでに得道し、圓満になった。もう何もないので帰って後片付けをし、出発する用意をしなさい。何か用事が残っているなら、常人の中の用事を済ませておきなさい」。このようにして長い年月が過ぎ去ってから、副意識が帰って来ます。彼が帰って来ると、こっちの主元神も出定して、主意識は目が覚めるのです。
 ところが彼のほうは確かに修煉していなかったのです。副元神が修煉したのですから、副元神が功を得たわけです。しかし主元神も辛かったのです。なんといっても彼は青春をすべてじっと坐ることに費やしたので、常人の年月はすべて過ぎ去ってしまったのです。それではどうしたらいいのでしょうか? 彼は出定すると自分がもう功を身につけて、功能をもっていると感じますが、病気治療をはじめ、やりたいことがなんでもできるように、副元神が彼を満足させてやるのです。彼はなんといっても主元神なのですから、主元神は身体を主宰し、決定権を握っているのです。しかもこんなに長年にわたって彼はここに坐り、生涯のほとんどを費やしました。死後、副元神は離れて、それぞれがそれぞれの道を歩みます。佛教の言い方によれば、彼はやはり六道に入らなければなりません。ところが彼の身体から一人の大覚者が修煉をなし遂げたので、彼も大徳だいとくを積んだわけです。それではどうなりますか? 来世は高官になり、大金持ちになるかも知れません。せいぜいこれぐらいのところです。それでは無駄に修煉したことにならないでしょうか? 
 このことを明らかにするのは、さまざまの紆余曲折うよきょくせつを経てはじめて同意を得たのです。わたしは千古の謎、絶対に言ってはいけない秘密の中の秘密を明らかにしました。歴代の修煉におけるさまざまな修煉方法の根底を全部明らかにしたのです。わたしは歴史的な問題と深く絡んでいると言いましたね? それはほかでもないこれが原因です。考えてみてください。どの門派もこのように修煉しているのではないでしょうか? せっかく苦労して修煉したのにあなた自身が功を得られないのは、悲しいことではないでしょうか! それは誰のせいにすることができるのですか? 人間というものはこんなにも頑迷なので、どうしても悟らず、いくら手引きしてあげても駄目です。次元の高いことを言えば摩訶不思議なことだと思い、次元の低いことを言えば悟りません。わたしがこんなに言っても、まだわたしに病気治療を頼みたい人がいます。わたしはそういう人に対してはもう何も言えません。われわれは修煉を重んじるので、高い次元へ修煉する場合のみ面倒を見るのです。
 われわれのこの法門では、主意識が功を得るのです。ではあなたの主意識が功を得ようと言えば、主意識が功を得るものでしょうか? 誰がそれを許してくれるのですか? そうではないのです。それには前提条件がなくてはなりません。皆さんもご存じのように、われわれのこの法門は常人社会を避けて修煉しているものではなく、トラブルを避けたりトラブルから逃げたりもしません。常人のこの複雑な環境の中で、あなたはめています。それとはっきり分かっていながら利益の面において損を蒙り、また他人に利益を侵された時、あなたは他人のように争ったり闘ったりはしません。いろいろな心性の邪魔の中で、あなたは損を蒙っています。あなたはこのような厳しい環境の中で、意志を錬磨し、心性を向上させ、常人のいろいろな良くない思想に影響されながらも、そこから抜け出すことができるのです。
 皆さん考えてみてください。はっきり分かっていながら苦しみに耐えているのは、あなたではありませんか。犠牲を払うのはあなたの主元神ではありませんか。常人の中であなたが何かを失う時は、あなたははっきり分かっていながら失うのではないですか? ならばこの功はあなたが得るべきで、それは「失うものが得る」からです。ですからなぜわれわれのこの法門が、常人の複雑な環境から離れずに修煉を行なうかの理由はここにあります。われわれはなぜ常人の軋轢あつれきの中で修煉しなければならないのでしょうか? ほかでもなくわれわれ自分自身が功を得るためです。将来は寺院で修煉する専修の弟子も常人の中へ行って行脚しなければならないのです。
 「今は他の功法も常人の中で修練しているのではないか?」と言う人がいますが、しかしそれらはみな病気治療と健康保持を普及させるもので、真に高い次元へ修煉することに関しては、個人的に伝えているのを除いて、公にして伝えている人はいません。本当に弟子を取る人は、すでに弟子を連れて行って、密かなところで伝えているのです。長年の間、いったい誰が大勢の前でこれを話したことがあったでしょうか? 話す人はいなかったのです。われわれのこの法門でこうしてお話しできるのは、われわれがこのような修煉方法をとっているからであり、このように功を得るからです。同時に、われわれの一門で植えつけてあげた何千何万にとどまらないものは、全部あなたの主元神に与えるもので、本当にあなた自身に功を得させるのです。わたしは今まで誰もやったことのないことをなし遂げて、このうえない大きな門を開いたのです。わたしのこの話を聞いて直ちに分かった人もいますが、実際わたしは何も特別摩訶不思議なことを言っているわけではありません。一丈のものがあっても一尺としか言わないのがわたしのならわしです。それでもわたしが法螺ほらを吹いていると言われてもかまいません。実はこれでもほんの少ししか話しておらず、さらに奥深い大法ダーファは、次元があまりにもかけ離れているので、ほんの少しでもお話しするわけにはいかないのです。
 われわれのこの法門は、まさにこのように修煉し、あなた自身に本当に功を得させるもので、これは天地開闢かいびゃく以来始めてのことです。あなたは歴史を調べてみればすぐ分かることです。その優れた点は、まさにあなた自身が功を得ることにあります。しかし一方では、それは非常に難しいことでもあります。常人の複雑な環境の中で、人と人との心性の摩擦の中で、そこからあなたが抜け出るということは何よりも難しいのです。はっきり分かっていながら常人としての利益を失うという現実的な利害の前で、心が動じるかどうか、人と人との間で心を探り合いながら暗闘する中で、心が動じるかどうか、肉親や親友が苦痛に見舞われた時、心が動じるかどうか、そういう時にいかに対処するのかなど、まさにこういうところが難しいのです。煉功者となることはこんなにも難しいものです! ある人はわたしに「先生、常人の中で良い人になればそれで十分でしょう。いったい誰が修煉して本当に成就できるのですか?」と言いました。これを聞いてわたしは本当に悲しくなりました! 彼には何も言いませんでした。どんな心性もありうるので、彼なりに悟れるだけ悟れば、それでもよしとしなければなりません。悟る者が得るのです。
 老子はこう言いました。「どうどうとすべきはつねどうにあらず」。もし至るところにあってただ拾い上げるだけで修煉が成就できるものならば、そんなものは貴重ではなくなるのです。われわれの法門は、軋轢あつれきの中であなた自身に功を得させるのですから、最大限に常人に準じさせており、物質の面においてことさら何かを失わせることはありません。しかしあなたはこの物質環境の中で自らの心性を高めなければならないのです。ここがまさに便利なところですが、われわれの法門はいちばん便利で、常人の中で修煉ができるのですから、出家しなくてもよいのです。ところがいちばん難しいところもまさにここにあります。常人のこの最も複雑な環境の中で修煉するのですから。しかしいちばんの良さもまさにそこにあります。なぜならあなた自身に功を得させるからです。これがわれわれの一門のいちばん肝要なところで、今日わたしは皆さんにそれを明らかにしました。もちろん、主元神が功を得れば、副元神も功を得ます。なぜでしょうか? あなたの身体のあらゆる信息や、あらゆる霊体、あなたの細胞がみな功を伸ばすのですから、当然彼も功を伸ばします。しかしいつになっても、彼はあなたより高くなることはなく、あなたがしゅで、彼は護法の役割を果たすだけです。
 ここまで申し上げましたので、わたしはもう一言つけ加えたいと思います。われわれの修煉界では、高い次元へ修煉したいと熱心に思っている人が少なくありません。あちこちへ法を求めに出かけ、金をたくさん費やして至るところを回ってきたものの、結局求める名師に出会えていないのです。有名だからといって明白とは限りません。結局無駄足を踏んで、人力と財力を無駄にして、何も得られなかったのです。それに対して、われわれは今日こんなに素晴らしい功法をあなたのために持ち出し、しかもわたしがすでにそれをあなたの目の前に捧げて、あなたの家の玄関口まで送り届けているのです。あとはあなたが修煉できるかどうかにかかっています。できるなら修煉し続けてください。修煉できないというなら、今後二度と修煉のことなど考えない方がよいのです。魔があなたを騙す以外に誰も教えてくれる人はいませんので、これからは修煉をやめたほうがよいのです。わたしがあなたを済度することができないなら、誰もあなたを済度することはできません。実際のところ、いま正真正銘の正法しょうぼうの師を探すのは、天に登ることよりも難しく、構ってくれる人など全くいません。末法の時期には、かなり高い次元も末劫の中にあるので、常人など構うどころではないのです。このわれわれの法門は最も便利な法門であり、しかも宇宙の特性に従って直接修煉するので、人心を真っ直ぐに指し、最も速い近道で修煉できます。
 

 周 天


 道家では大、小周天を言いますが、これからは周天とは何かについてお話しします。われわれが一般に言う周天とは、にんとくの二脈をつながせることです。この周天はうわべだけの周天で、何にもならないものであり、単なる病気治療と健康保持のものに過ぎず、小周天と言います。このほかにもう一つの周天があり、それは小周天とも大周天とも言わず、禅定の中で修煉する周天形式の一つです。それは身体の中で、泥丸を一回りして下りて、身体の中を通って丹田まで一周して上がってくる、内在の循環で、真の禅定の中で修煉する周天です。この周天は形成されてからかなり強いエネルギーの流れを形成し、それから一脈が百脈を率い、他の脈をすべて開かせます。道家は周天を重んじますが、佛教は周天を重んじません。佛教は何を重んじるのでしょうか? 釈迦牟尼は彼の法を伝える時、功について語りませんでしたし、功を重んじませんでしたが、彼の功法にも彼独自の修煉演化の形式があります。佛教の脈はどういうふうに走っているのでしょうか? 百会穴という点をすっかり通じるようにしてから、螺旋式に頭のてっぺんから身体の下へ進み、最後にこの方法で百脈を開かせるのです。
 密教の中脈もこの目的です。中脈はないと言う人がいますが、それではなぜ密教は中脈を修煉によって出せるのでしょうか? 実は人間の身体のあらゆる脈を合わせると、一万にもとどまらず、血管のように縦横に交錯こうさくしており、血管よりも多いのです。内臓の隙間部分に血管はありませんが、脈はあります。頭のてっぺんから身体の各部分まで同様に縦横に交錯する脈絡みゃくらくがあり、それらを連接しますが、初めは真っ直ぐにはいかないかも知れませんが、連接して打ちきます。それからだんだんと広げていきますと、次第に一本の直脈ができあがります。この脈を軸として自転し、水平に回転する意念の中での幾つかのりんを動かしますが、目的はやはり身体のすべての脈を全部開かせることです。
 われわれ法輪大法ファルンダーファの修煉は一脈が百脈を率いるという形式を避けて、初めから百脈を同時に開かせ、百脈が同時に作動するようにします。われわれはいきなりかなり高い次元に立って修煉していますので、低いものを避けました。一脈が百脈を率いるというのですが、それを全部開かせようとするには、一生修煉しても無理な人がいますし、数十年修煉しなければならない人もいて、とても難しいことです。一世いっせだけでは成就できないと言っている功法も少なくありませんが、多くの奥深い大法たいほうの中で修煉する人は寿命を延長することができます。彼は、めいを修めることを重んじているのではないでしょうか? 寿命を延長して修煉できますが、修煉に非常に時間がかかります。
 小周天が基本的に病気治療と健康保持のものであるのに対して、大周天は功を煉ることなので、人が真に修煉することになるのです。道家が意味する大周天は、われわれのようにいきなり百脈を全部開かせることではありません。それは数本の脈の運行であり、手の三陰三陽、足の裏、両足からずっと髪の毛まで、身体全体を一通りめぐれば、これでいわゆる大周天循環になります。大周天は初めから真の煉功ですから、一部の気功師は大周天のことを伝えずに、病気治療と健康保持のものだけ伝えているのです。大周天について話す人もいますが、あなたに何も植えつけてくれないし、あなた自身も打ち貫くことができません。何も植えつけてもらわずに、自分の意念によって打ち貫こうとすることは、口で言うほど容易ではありません! 体操をやるかのように、それを打ち貫くことはできるでしょうか? 「修は己にありて、功は師にあり」なのですから、内在のこの「機制」を全部あなたに植えつけてあげて、はじめてこのような作用をするのです。
 道家は従来から人体を一つの小宇宙と見なしており、身体の中の大きさ、様相は宇宙のそれと同じだと考えています。これは不思議なことのように思われ、あまり容易に理解できないかも知れません。「宇宙はこんなに大きいのに、どうして人の身体と比べられるだろうか?」 われわれはこう答えます。現在の物理学は物質成分を研究して、分子、原子、電子、陽子、クォークからずっと中性微子まで至りましたが、さらに下へ行けばどれほどの大きさになるでしょうか? その段階になると顕微鏡ではもう見えなくなり、さらに下へ行くとその先にある極小きょくしょうの微粒子は何でしょうか? 分からないのです。実は現在の物理学が到達したこの認識は、宇宙の中のいちばん微小な微粒子と比べれば、あまりにもかけ離れているのです。人に肉身がない時、ものを見る人の目は拡大する働きをもつので、ミクロの世界が見えるのです。次元が高ければ高いほど、ミクロの世界で見えるものが大きくなります。
 釈迦牟尼はあのような次元において、三千大千世界の学説を説きました。つまりこの銀河系の中には、まだわれわれ人類のような肉身を持つ人が存在しているのです。また一粒の砂の中に三千大千世界が含まれている説も説きましたが、これは現代物理学の認識と合致するのです。電子が原子核をめぐって回転する形式は、地球が太陽をめぐって回転することと違うところがあるでしょうか? ですから釈迦牟尼はミクロの世界では、一粒の砂の中に三千大千世界があると言っており、それはあたかも一つの宇宙のように、その中に生命があり物質があります。もし本当なら、皆さん考えてください。ではその砂の中の世界の中にはまた砂がありますね? それではその砂の中の砂の中にはまた三千大千世界があるのではないでしょうか? ではその砂の中の砂の中の三千大千世界にはまた砂があるのではないでしょうか? 下へ追って行けば尽きることはありません。ですから如来という次元に達した釈迦牟尼はかえって次のような言葉を口にしました。「其の大は外無く、其の小は内無し」。大は、宇宙の果てが見えず、小は、その本源物質のいちばん微小のものが何か見えないということです。
 ある気功師は、毛穴の中に都市があり、中で汽車が走ったり、自動車が走ったりしている、と言いました。摩訶不思議に聞こえますが、われわれが科学の立場に立って本当に理解をし、研究をすれば、この言い方は別に不思議なものではないと分かります。先日わたしが天目を開くことを話した時、天目が開けば多くの人に次のような光景が現われるだろうと言いました。自らの額にある通路に沿って外へ走りますが、走っても走っても道が尽きないかのようです。毎日のように、煉功の時この道に沿って外へ走りますが、両側に山があり、水があり、走る時に町を通ることもあり、たくさんの人々にも出会います。本人はこれを幻覚だと思います。どういうことでしょうか? はっきりと見えているので、幻覚ではないのです。もし人間の身体がミクロの世界で本当にそんなに広大ならば、それは幻覚ではありません。道家の煉功は従来から人体を一つの宇宙だと見なしていますから、もし本当に一つの宇宙なら、額から松果体まで十万八千里どころではありません。外へ向かってどんどん走ってみてください。とてつもなく遠いものです。
 修煉過程において大周天を全部打ち貫けば、修煉者に一種の功能がもたらされることになります。どんな功能でしょうか? 皆さんもご存じのように、大周天は子午しご周天とも呼ばれ、乾坤けんこん運転とも呼ばれ、河車かしゃ運転とも呼ばれます。非常に低い次元においても大周天が運行すれば一つのエネルギー流が形成されますが、それは次第に密度を増大してさらに高い次元へ転化し、密度が非常に大きいエネルギー帯に変わります。このエネルギー帯は運行しており、運行する過程で、われわれが非常に低い次元から天目で見れば、それが身体の中の気の位置を換える働きをもっていることに気づきます。心臓の気が腸に移り、肝臓の気が胃に移った……ミクロの世界で見れば、それが運搬しているのはかなり大きなものだと分かりますが、もしこのエネルギー帯を体外に出せば、それが運搬功にほかなりません。功が非常に強い人は、非常に大きなものを運搬できます。つまり大運搬です。功の弱い人は、小さなものを運搬でき、それが小運搬です。これが運搬功の形式とその生成です。
 大周天は直接に煉功するのですから、それまでと違った状態と功の形式をもたらすことができますし、きわめて特殊な状態をもたらすこともできます。どんな状態でしょうか? 皆さんは古書の中でご覧になったかも知れませんが、例えば『神仙伝』あるいは『丹経たんけい』、『道蔵』、『性命圭旨』の中にみな「白日飛昇はくじつひしょう」という言葉が見られます。つまり真昼間に人が舞い上がるのです。皆さんにここではっきり教えますが、大周天が通ると人は飛ぶことができるのです。いたって簡単です。こんなに長年煉功がなされているので、大周天が通った人は少なくないだろうと思う人がいるでしょう。わたしに言わせれば、この程度に達することができた人は何万人いても不思議なことはありません。なぜなら大周天はなんといっても煉功の始まりだからです。
 それではなぜこれらの人が舞い上がるのを見かけないのでしょうか? 空を飛ぶのを見かけないではありませんか? 常人社会の状態は破壊されてはならないもので、その社会形態を勝手に破壊または改変してはいけないのです。人間はみんな空を飛んでいいものでしょうか? それは常人社会と言えるのでしょうか? これがその理由の主な一面ですが、もう一つは、常人の中で人間は人であるのが目的ではなく、返本帰真が目的なのですから、そこにやはり悟性の問題があるのです。多くの人が間違いなく飛べるのを見てその人も修煉しはじめるとなれば、悟性の問題が存在しなくなります。ですからあなたが修行しても、人に簡単に見られてはならず、人に示してはならないのです。他人はまだ修煉しなければならないのです。ですから大周天が通った後、あなたの手の指先、足の指先あるいはある箇所に鍵をかけさえすれば、あなたは舞い上がらなくなります。
 大周天がまもなく通ろうとする時、よく次のような状態が現われます。坐禅する時身体がいつも前へ傾く人がいます。背中が比較的よく通り、非常に軽くなったため前が重く感じられるからです。後ろへ傾く人がいますが、背中が重く、前が軽く感じられるからです。もしすべてにおいてよく通っていれば、揺すり上げられ、上へ引っ張られ、地面から浮き上がろうとする感覚を覚えるでしょう。いったん本当に浮き上がれるようになったら、今度はあなたに浮き上がらせないのです。といってもそれは絶対的ではありません。子供は執着心がなく、老人、特に年配の婦人には執着心がないので、この両端に功能が出やすく、保持しやすいのです。男性、特に若者は、いったん功能が現われると、誇示しようとする心理は避けられません。しかも彼はそれを常人の中での競争手段の一つとするかも知れません。それではそういうことの存在が許されないので、修煉して持つようになったものも鍵をかけてやらなければなりません。一ヵ所鍵をかけてしまうと、浮き上がれなくなります。絶対にこの状態を全然出現させないというわけでもなく、あなたにちょっと試させるかも知れません。人によっては保持していくことが許される人もいます。
 各地で講習会を行なった時、どこでもこういうことがありました。わたしが山東で講習会を行なった時、その中には済南さいなんの学習者も、北京の学習者もいましたが、ある人がこんなことを言いました。「先生、わたしはどうしたのでしょう。歩く時は地面を離れそうな気がし、家で寝ている時浮き上がり、布団を掛けたら布団まで浮き上がり、いつも風船のように浮き上がりそうです」。貴陽きようで講習会を行なった時、貴州の古い学習者で、おばあさんがいました。彼女の部屋にベッドが二つあって、それぞれ一つずつ両側の壁に寄せて置かれています。彼女がベッドに坐って坐禅をすると、自分が浮き上がった気がしたので、目を開いて見たら向こう側のベッドに飛んで行っていました。彼女が、戻らなくてはと思うと、またふわふわと戻って来ました。
 青島チンタオのある学習者は、昼休みの時部屋に人がいないので、ベッドの上で坐禅しました。彼が坐禅するとすぐに浮き上がり、一メートルあまりの高さまで激しく揺すり上げられました。上がっては落ち、音を立てて上下しているうち、布団も震動で床に落ちました。本人はちょっと興奮しましたが、一方では少し怖いとも思いました。揺れに揺れ、昼休み中ずっと揺れました。最後に始業ベルが鳴りましたので、心の中では、人に見られてはいけない、何をしているのかと思われるから、早く止まってくれと思いました。それで止まりました。これがなぜ年配の方が自制できるかの理由です。もし若者なら、始業ベルが鳴ると、「みな見てごらん、ぼく飛んでいるよ」と叫びたくなるでしょう。「ほらぼくの功はすごいだろう、ぼくは飛べるのだ」。自分の顕示心を容易に自制できないとはこういうことです。しかし彼が顕示しようと思うと、何もかもなくなってしまいます。こんなことの存在は許されないのです。こういうことはたくさんあり、どこの学習者にもあります。
 われわれは初めから百脈を全部開かせます。今日まで、われわれの八割、九割の人は身体が軽快な状態に達しており、病気がなくなりました。同時にこれまでお話ししてきたように、この講習会ではあなたをこのような状態に押しあげて、あなたの身体を完全に浄化させ、その上この講習会の間に功が出るようあなたの身体の中に多くのものを植えつけています。ですから、わたしはあなたを引っ張りあげたうえに、前へ押しているのに等しいことをしたと言えます。わたしは講習会で皆さんに法をずっと説き続けており、皆さんの心性も絶えず変化しています。われわれの多くはこの講堂を出たら、自分が別の人に生まれ変わったように感じられるに違いありません。あなたの世界観も間違いなく変わり、これからどんな人間になるべきかが分かり、いままでのように愚かに暮らすわけにはいかないと分かるに違いありません。絶対そうです。したがってわれわれの心性がすでに上がってきたと言えるのです。
 大周天のことですが、あなたを浮き上がらせはしませんが、あなたは身体が軽やかになり、風を切って歩くように感じることになるでしょう。以前はちょっと歩くと疲れましたが、今はいくら歩いても平気で、自転車に乗っても誰かに押されているかのように感じ、ビルの階段をいくら高くのぼっても疲れを感じません。絶対そうなります。この本を読んで独自に修煉する人も同様に、あるべき状態に達することができます。わたしは言いたくない話は無理に言わない人間ですが、わたしが口にすることは常に本当の話でなければなりません。特にこのような状況の下で、法を説いていながら本当のことを言わず、まゆつばものの話をし、目標や焦点も定めずに勝手にでたらめを言うとしたら、わたしは邪法を伝えることになってしまいます。わたしがこれを遂行するのも容易なことではありません。宇宙の中でみな見ていますので、あなたが間違った方向にずれてはいけないのです。
 一般の人は、このような周天が一つあるということを知ればもうこと足りると思いがちですが、実はそれではまだ駄目です。身体ができるだけ早く完全に高エネルギー物質によって取り替えられ、転化されるところまで達しようとするには、身体のあらゆる脈の走る方向を率いる、もう一つの周天形式の運行方向を必要とします。それは卯酉ぼうゆう周天と呼び、知っている人は非常に少ないかも知れません。書物によってはたまにこの名詞を挙げていることがありますが、これを解説する人はなく、教えてもくれません。秘中の秘ですから、すべて理論を巡って遠回りしています。われわれはここで全部明らかにします。百会穴から始まってもよく(会陰穴えいんけつから出てもよいが)、突き通してから陰陽両面の境目を走り、耳のふちから下りて、それから肩を通って下ります。手の指の隙間を一本ずつ走ります。それから身体の側面を走り、足の裏を通り、股下またしたの片側から上がって来ます。それからもう一方の片側から下りて、また足の裏を通って、身体の側面から上がって来ます。手の指の隙間を一本ずつ走り、一周して頭のてっぺんに到着する。これが卯酉周天です。他人ならばこれで一冊の本も書くでしょうが、わたしはたった二言三言でそれを明らかにしました。わたしはこれは天機というほどのものでもないと思いますが、しかし他の人はこれらのものはみなすこぶる貴重なものだと見なして、全然語ろうとせず、真に弟子に伝える場合にだけ卯酉周天のことを教えるのです。わたしはいまこれを明らかにしましたが、誰もそれを意念で導き、制御して修煉してはなりません。あなたがそうやればわれわれの法輪大法ファルンダーファではなくなります。本当に高い次元への修煉は無為であり、いかなる意念活動もありません。あなたにできあがったものを全部植えつけてあげるのです。これらはみな自動的に形成されたもので、これらの内在の機があなたを煉っており、時が到ればそれが自転を始めるのです。ある日あなたが煉功する時、頭が揺れ動くことになりますが、頭がこちらへ揺れ動けば、それはこちらに回ります。頭があちらへ揺れ動けば、あちらに回ります。両方向とも回るのです。
 大、小周天が通るようになってから、坐禅では頭がうなずくことがあります、これはエネルギーが通過する現象です。われわれが修煉している法輪ファルン周天法も同じで、われわれはこのように修煉するのですが、実はあなたが煉功していない時でもそれが自分で回っています。普段はずっといつまでも回っていますが、あなたが煉る時はこの機を強めるのです。われわれは法が人を煉ると言っているではありませんか? 普段あなたは周天がいつも循環していることに気がつくでしょう。あなたが煉功をしていなくても、外側に植えつけたこの層の気機は、ほかならぬ外在的な大脈たいみゃくで、あなたの身体を率いて煉っており、それはすべて自動的です。それは反転することもでき、正反両面とも回るので、いつでもあなたの脈を通しています。
 では周天を通す目的は何でしょうか? 周天を通すこと自体は煉功の目的ではありません。たとえ周天が通ったとしても、わたしに言わせれば何でもないことです。さらに修煉し続けなければなりません。目的は周天という形式を通じて一脈で百脈を率いて、身体中の脈、あらゆる脈を全部開かせることです。われわれはすでにこのことをやっているのです。つづけて修煉していけば、大周天を通る時、脈は修煉によって手の指ほどの太さになっており、中は非常に広いと感じる人もいます。エネルギーも非常に強くなっているので、エネルギー流が形成されてからそれはかなり広くなり、かなり明るくもなります。しかしこれもまだ大したことではありません。それではどの程度まで修煉しなければならないのでしょうか? 人の身体の百脈が次第に広がり、エネルギーがますます強くなり、ますます明るくなるようにしなければなりません。最後には万にのぼる脈を一面につないで、身体全体が一つにつながるような、脈も無くツボも無い境地に達する、これが脈を通すことのめざす最終的な目標です。その目的は人の身体をすべて高エネルギー物質に転化させることです。
 ここまで修煉した時、人の身体はほとんど高エネルギー物質に転化され、つまりすでに世間法修煉の最高次元まで修煉してきたのであり、人体の肉身はすでに最頂点にまで修煉したのです。ここに至った時、また彼にある種の状態がもたらされます。どういう状態なのでしょうか? 彼の功がすでにかなり豊富に出ています。常人の身体の修煉、つまり世間法修煉の過程において、人間のあらゆる超能力(潜在功能)、一切のものが全部出て来ましたが、しかし常人の中で修煉しているかぎり大部分は閉ざされているのです。そして彼の功柱はすでに相当高くなり、すべての功の形式は、みな強大な功によって相当強く加持されました。しかしそれはわれわれのこの現有の空間の中では役立ちますが、他の空間までは制約することができません。なぜならそれはただわれわれ常人の肉体から修煉してできた功能に過ぎないからです。とはいえ、もう相当豊富になっており、各空間の中で、異なる空間の中にいる身体のさまざまな存在形式において、みな相当大きな変化が起きました。その身体の持っているもの、各層の空間にいる身体それぞれが持っているものはみな相当豊富であり、恐ろしく見えるほどです。身体の至るところに眼があり、身体中の毛穴がみな眼である人もいますが、彼の空間場の範囲内のどこにでも眼があります。佛家功ですから、全身に菩薩、佛の姿かたちがある身体もあります。各種の功の形態はすでにきわめて豊富なレベルに達したばかりでなく、多くの生命体も現われて来ます。
 この段階に至った時、三花聚頂さんかしゅうちょうという状態が現われます。それは非常に顕著な状態であり、非常に目立ちますので、天目の次元が高くない人でも見ることができます。頭上に三輪の花があり、一輪は蓮花、しかしわれわれの物質空間の中の蓮の花ではなく、他の二輪も別の空間の花で、非常に美しいのです。三輪の花が順番に頭上で回転し、右回り、左回りするほか、三輪の花が自転することもできます。どの花にも一本の大きな柱があり、花の直径と同じ太さです。三本の大きな柱が天の上に直通していますが、それは功柱ではなく、こういう形をとっているだけです。非常に玄妙ですので、あなた自身も見たらびっくりします。この段階まで修煉すると、身体は白くて清らかで、皮膚のきめも細かくなります。この段階に至った時は、世間法修煉の最高形式に到達したことになります。しかしこれはまだ頂点に到達したのではなく、修煉をまだ続けなければならないし、さらに前へ進まなければならないのです。
 さらに前へ進めば、世間法と出世間法との間の過渡かと段階に入りますが、それは浄白体(晶白体しょうはくたいとも言う)状態と言います。身体が世間法の最高形式まで修煉したとしても、人の肉身が最高形式に転化されたのに過ぎません。真にその形式に入った時、身体全体が完全に高エネルギー物質で構成されるようになります。なぜ浄白体と言うのでしょうか? それがすでに絶対的な高度の純粋さに達したからです。天目で見れば、身体全体が透明で、透明なガラスのようになり、見た目には何もない、というような状態が現われることになります。はっきり言って、それはすでに佛体なのです。高エネルギー物質で構成された身体は、われわれ本来の身体とは、もう異なっています。この段階に至った時、身体に出現した一切の功能と術類のものはいっぺんに全部捨てなければなりません。それを非常に深い空間の中へ落としてしまうのです。用途はもうありません。これからもう再び使うこともありません。せいぜい将来あなたが成就し得道した日に、修煉の過程を振り返ってみる時に、それを取り出して見るぐらいです。その時二つのものだけが存在しています。功柱はまだあり、修煉した元嬰はもうかなり大きくなっています。ところがこの二つのものは非常に深い空間にいますから、普通の人は天目の次元が高くないので見ることができず、この人の身体が透明体であることしか見えないのです。
 浄白体の状態は過渡段階ですので、さらに修煉していけば、真に出世間法修煉に入ります。これは佛体修煉ともいいます。身体全体は功で構成されたもので、この時、人の心性はすでに安定しています。一から新たに修煉を始め、新たに功能が出始めますが、それはもう功能とは呼ばず、「佛法神通」と呼びます。それはあらゆる空間を制約できるもので、威力は尽きないのです。将来あなたが絶えず修煉するにつれて、さらに高い次元のものについては、自分がいかに修煉すべきかも、その修煉の存在形式も分かるようになります。
 

 歓喜心


 これからとりあげようとする問題も、歓喜心に属するものです。多くの人は長年の練功を経てきていますが、練功したことのない人もいます。ところが彼の一生の中に真理や、人生の真諦しんたいに対する追求があり、思索があります。そんな人はいったんわれわれの法輪大法ファルンダーファを学んだら、人生の中で知りたくても答えが得られなかったたくさんの問題がたちどころに分かるようになります。思想の昇華に伴って彼は非常に感激することになります。これは間違いのないところです。真に修煉する人は、大法ダーファの重みを知っているので、それを大切にすることが分かるに違いありません。しかし往々にして次のような問題が現われます。つまりこうして嬉しくなったがために、必要のない歓喜心が生じてきます。そのため彼は形の上でも、常人社会の人と人との付き合いの中でも、常人の社会環境の中でも、常軌じょうきいっすることになります。これではいけないとわたしは言っておきます。
 われわれのこの功法の大部分は常人社会の中で修煉するものなので、自分を常人社会から遊離ゆうりさせてはならず、醒めている中で修煉しなければならないのです。人と人との間は元通り正常な関係ですが、あなたの心性はいうまでもなくかなり高くなっています。心態も非常に正しく、いっそう自分の心性を高め、自分の次元を高め、悪いことをせず良いことをするように努めるのです。このようになっているだけです。言動や態度からまるで頭がおかしくなったような人もいますが、あたかも浮き世を見限ったかのように、言うことも人に理解されなくなります。法輪大法ファルンダーファを学んでから、この人はどうしてこのように変わったのか? 頭がおかしくなったようだ」と、人から言われます。実はそうではなく、彼が興奮しすぎて、理知を失い、常理に合わなくなったためなのです。皆さん考えてみてください。こういうふうになるのも良くないのです。あなたはまた別の極端に走ったのであり、これも執着心なのです。これも放棄して、みんなと同じように普通に常人の中で暮らし、修煉するべきです。常人の中で、みんながあなたのことを気が転倒したと思い、あなたを相手にせず、あなたから遠く離れてしまい、誰もあなたに心性を高める機会を提供せず、誰もあなたを正常人と見なさないならば、それはいけないことだとはっきり言っておきます! ですから皆さんはぜひともこの問題に注意し、くれぐれも自分をしっかり制御してください。
 われわれの功法は、普通の功法のように恍惚こうこつとしてふわふわし、気が転倒したりするようなことはありません。われわれの功法は醒めている中であなた自身を修煉させています。「先生、わたしは目を閉じるとふわふわします」と言う人がいつもいます。わたしはそうは思いません。あなたはすでに自分の主意識を放棄する習慣を身につけているから、目を閉じると自分の主意識が緩んで無くなってしまうのです。あなたはすでにこういう習慣になっているのです。ここに坐っているあなたはなぜ揺れ動かないのでしょうか? あなたは目を開けている状態から、軽く目を閉じたら揺れますか? 絶対に揺れません。あなたは気功をこういうふうにやるものだと思い込み、一種の概念を形成してしまったので、目を閉じるとあなたがいなくなり、どこへ行ったのかも分からないのです。われわれは、主意識は必ずはっきりしていなければならないと説いています。この功法はあなた自身を修煉するものであり、あなたは意識をしっかりもったままで向上すべきです。われわれにも静功がありますが、われわれの静功はどのように煉るのでしょうか? われわれは皆さんに、どんなに深く入定しても自分がここで煉功していることを知っていなければならないと求めており、何も分からないような状態に入ることは絶対に許さないのです。それでは具体的にどんな状態が現われるのでしょうか? そこに坐ると、自分が卵のからの中に坐っているかのような素晴らしさ、非常にいい気持ちを感じ、自分が煉功していると分かっていますが、全身が動けないかのように感じる、こういう状態が現われます。これらはみなわれわれの功法に必ず現われなければならない状態です。もう一つの状態があります。坐り続けていると、足が無くなったような気がしてきて足がどこに行ったのか分かりません。身体も、腕も、手も無くなり、頭だけが残っています。さらに修煉していけば頭も無くなったような気がして、ただ自分の思惟があるだけで、わずかな意念だけが自分が今ここで煉功していることを知っています。われわれはこの程度にまで達することができれば十分です。なぜでしょうか? このような状態の中で煉功すれば、身体が最も充分に変化を遂げる状態に達するので、いちばん良い状態なのです。ですからわれわれは、あなたにこのような状態で入静することを要求するのです。しかし眠ってしまったり、ぼんやりしたりしてはいけません。そうすれば良いものが他の人に煉られてもっていかれるかも知れないのです。
 われわれのすべての煉功者は、常人の中で異常な言動をしないようにくれぐれも注意してください。常人の中であなたが良い役割を果たさず、「法輪大法ファルンダーファを学んでからなぜこうなってしまったのか」と人に言われるようでは、法輪大法ファルンダーファの名声を汚すことに等しいのです。ぜひこのことに注意してください。修煉の他の方面と過程の中でも、歓喜心が生じないように気をつけてください。この心は非常に魔に利用されやすいのです。
 

 口を修める


 口を修めることは、昔から宗教においてもそう唱えてきました。しかしその場合の「口を修める」は、主として一部の専業修煉者─僧侶、道士が口を閉じて話さないことを意味しています。専業修煉者ですから、最大限に執着心を取り除こうとするのが目的です。念を起こせば業になると思われています。宗教の中では業を善業と悪業の二種に分けていますが、善業でも、悪業でも、佛家の空、道家の無をもって言えば、いずれもやるべきではありません。そこで彼らは、自分は何もしないと言うのです。事物の因縁関係、つまりそのことはいったい良いことなのか悪いことなのか、そこにどういう因縁関係があるのかを見通すことができないからです。そんなに高い次元に達していない一般の修煉者は、こういうものを見抜くことができないので、見た目では良いことでも、かかわると悪いことになるかも知れないのを恐れるのです。ですからできるかぎり無為を守り、何もしません。こうして再び業を造ることを避けるのです。業を造れば業を滅しなければならないし、苦しみを嘗めなければなりません。例えばわれわれ修煉者は、どの段階で功を開くかすでに決まっているのに、不必要に途中で何かを挟み込んでしまえば、修煉全体に困難をもたらすことになります。だからこそ無為を唱えるのです。
 佛家の言う「口を修める」は、つまるところ、人間は思想・意識の支配を受けて言葉を語るのですが、この思想・意識こそほかでもない有為ういなのだというのです。人が意識的に念を起こすとか、何かを言うとか、何かをやるとか、人の感覚器官、四肢ししを支配しようとするとか、そういうこと自体が常人の中では一種の執着となって現われるかも知れません。例えば、人と人との間にトラブルがあって、あなたが良いとか、彼が良くないとか、あなたは修煉が良くできたとか、彼は修煉が良くできていないとかして、これらのこと自体が摩擦です。一般的な例をあげてお話ししますが、わたしは何かをやりたいとか、今このことはどういうふうにやるべきだとか、こういうことでも無意識のうちに誰かを傷つけるかも知れません。人と人との間のトラブルは非常に複雑なので、知らないうちに業を造ってしまったかも知れません。だからこそ、絶対に口を閉じてものを言わないようにと唱えられてきたのです。昔から宗教では「口を修める」ことがきわめて重要視されています。宗教ではこう言っているのです。
 われわれ法輪大法ファルンダーファの修煉者のほとんどは常人の中で修煉していますので(専業修煉弟子を除いて)、常人社会で常人のように普通の生活を送り、社会と付き合うことが避けられません。みんな仕事があり、しかも仕事は立派にこなさなければなりません。話をするのが仕事の人もいますが、その場合には矛盾にならないでしょうか? 別に矛盾ではありません。どうして矛盾ではないのでしょうか? われわれの言う「口を修める」は、彼らのものとは全然違うのです。修煉の法門が違うので、要求も違います。われわれが口を開いてものを言う時には、煉功者の心性に基づいて言うので、人と人との間の和を損なうようなことを言わないし、良くないことを言わないのです。修煉者として法の基準に基づいて、自分自身がそれを言うべきかどうかを判断するのです。言うべきことは、法に照らして煉功者の心性基準に合致すれば問題はありません。しかもわれわれはまだ法を説き、法を宣伝しなければならないので、ものを言わないわけにはいかないのです。われわれが口を修めるようにと説くのは、次のような場合です。常人の中での捨て難い名利や、社会における修煉者の実際の仕事と関係ないことについて話したり、あるいは同門弟子の間で無駄話をしたりすること、あるいは執着心にそそのかされて自分を顕示すること、あるいは聞き伝えに過ぎないなんらかの噂を伝え広めること、あるいは社会のその他の話題に興奮を覚えたり、喜んで話したがったりすること、などです。これらはみな常人の執着心であるとわたしは思うのです。こうしたことに関して、われわれは口を修めるべきだとわたしは思います。これがわれわれの言う口を修めることです。昔、僧侶は念を起こすと業を造るというので、これらのことを非常に重く見ていました。ですから彼らは「しん」を重んじます。彼らの言う「しんを修める」とは、悪事を働かないこと、「を修める」とは、ものを言わないこと、「意を修める」とは、考えることすらしないことにほかなりません。昔、寺院における専業修煉はこれらのことに対して非常に厳しかったのです。われわれは煉功者の心性基準に基づいて自分を律し、何を言うべきで何を言うべきではないかをしっかり自制できればけっこうです。



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