法 輪 功
第一章
概
がい
論
ろん
気功
きこう
は
我
わ
が
国
くに
において、
太古
たいこ
の
昔
むかし
からの
悠久
ゆうきゅう
の
歴史
れきし
があり、そのため、
我
わ
が
国
くに
の
人々
ひとびと
は
気功
きこう
を
修煉
しゅうれん
するのに、とりわけ
恵
めぐ
まれた
環境
かんきょう
にあります。
正法
しょうぼう
修煉
しゅうれん
として、
佛
ぶつ
・
道
どう
二大
にだい
系統
けいとう
の
気功
きこう
は、すでに
多
おお
くの
秘伝
ひでん
大法
たいほう
を
世
よ
に
公開
こうかい
しました。
道家
どうけ
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
は
非常
ひじょう
に
独特
どくとく
ですが、
佛家
ぶっけ
にも
独自
どくじ
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
があります。
法輪功
ファールンゴン
はほかでもなく
佛家
ぶっけ
気功
きこう
の
高
たか
い
次元
じげん
における
修煉
しゅうれん
大法
ダーファ
です。
講習会
こうしゅうかい
では、わたしはまず
皆
みな
さんの
身体
からだ
を、
高
たか
い
次元
じげん
を
目指
めざ
して
修煉
しゅうれん
できるような
状態
じょうたい
に
調整
ちょうせい
してあげます。それから
皆
みな
さんの
身体
からだ
に
法輪
ファールン
と
気
き
機
き
を
植
う
え
付
つ
け、そのうえで
皆
みな
さんに
功法
こうほう
を
教
おし
えします。この
他
ほか
に、わたしには
皆
みな
さんを
守
まも
る
法身
ほうしん
もあります。しかし、
功
こう
を
伸
の
ばす
目的
もくてき
を
達成
たっせい
するには、それでもまだ
足
た
りません。
皆
みな
さんには
高
たか
い
次元
じげん
における
修煉
しゅうれん
の
道理
どうり
をも
理解
りかい
してもらわなければなりません。それが
本書
ほんしょ
が
語
かた
ろうとする
内容
ないよう
なのです。
わたしは
高
たか
い
次元
じげん
で
功
こう
を
講義
こうぎ
しますので、どの
脈
みゃく
、どのツボ、どの
経絡
けいらく
を
修煉
しゅうれん
するのかは
語
かた
りません。わたしが
述
の
べようとするのは
修煉
しゅうれん
大法
ダーファー
のことで、
本当
ほんとう
に
高
たか
い
次元
じげん
を
目指
めざ
して
修煉
しゅうれん
する
大法
ダーファー
のことです。
初
はじ
めは
摩訶不思議
まかふしぎ
のように
聞
き
こえるかもしれませんが、
気功
きこう
修煉
しゅうれん
に
志
こころざし
のある
人
ひと
は、
注意深
ちゅういぶか
く
悟
さと
ろうとさえすれば、あらゆる
奥義
おうぎ
がおのずと
見
み
えてくるのです。
一、
気功
きこう
の
源流
げんりゅう
われわれが
現在
げんざい
気功
きこう
と
言
い
っているものは、そもそも
気功
きこう
とは
呼
よ
びませんでした。それは
中国
ちゅうごく
古代人
こだいじん
の
単独
たんどく
修煉
しゅうれん
、または
宗教
しゅうきょう
の
修煉
しゅうれん
に
由来
ゆらい
しています。『
丹経
たんけい
』や『
道蔵
どうぞう
』、『
大蔵経
だいぞうきょう
』を
全
すべ
てつぶさに
調
しら
べてみても、「
気功
きこう
」という
二文字
ふたもじ
は
見
み
あたりません。
現在
げんざい
の
人類
じんるい
文明
ぶんめい
は
現
げん
段階
だんかい
の
発展
はってん
してきた
過程
かてい
において、
原始
げんし
宗教
しゅうきょう
の
時期
じき
を
経
へ
ました。
宗教
しゅうきょう
が
生
う
まれる
前
まえ
に、
気功
きこう
はすでに
存在
そんざい
していましたが、
宗教
しゅうきょう
が
現
あらわ
れてから、それはある
程度
ていど
の
宗教
しゅうきょう
色
しょく
を
帯
お
びるようになりました。それの
本来
ほんらい
の
名前
なまえ
は
修佛大法
しゅうぶつたいほう
や
修道大法
しゅうどうたいほう
でした。その
他
ほか
にも、
九転金丹術
きゅうてんきんたんじゅつ
、
羅漢法
らかんほう
、
金剛禅
こんごうぜん
などの
類
たぐ
いの
名前
なまえ
も
持
も
っていました。われわれが
現在
げんざい
それを「
気功
きこう
」と
呼
よ
んでいるのは、
現代人
げんだいじん
の
意識
いしき
によりよく
合
あ
わせるためであり、
社会
しゃかい
で
普及
ふきゅう
しやすいようにするためであって、
実際
じっさい
はそれは、
我
わ
が
中国
ちゅうごく
における
正真
しょうしん
正銘
しょうめい
の
人体
じんたい
修煉
しゅうれん
のものなのです。
気功
きこう
は
今期
こんき
の
人類
じんるい
文明
ぶんめい
が
発明
はつめい
したものではなく、かなり
悠久
ゆうきゅう
の
歴史
れきし
を
持
も
っています。では
気功
きこう
はいつ
頃
ごろ
生
う
まれたのでしょうか?
気功
きこう
はすでに
三千年
さんぜんねん
の
歴史
れきし
を
有
ゆう
し、
唐
とう
の
時代
じだい
には
最盛期
さいせいき
に
達
たっ
していたと
言
い
う
人
ひと
もいれば、
五千
ごせん
年
ねん
の
歴史
れきし
を
持
も
ち、
中華
ちゅうか
民族
みんぞく
の
文化
ぶんか
と
同
おな
じように
悠久
ゆうきゅう
だと
言
い
う
人
ひと
もいます。あるいは、
出土
しゅつど
した
文物
ぶんぶつ
から
見
み
て、
七千
ななせん
年
ねん
の
歴史
れきし
を
持
も
っていると
言
い
う
人
ひと
もいますが、
実
じつ
は
気功
きこう
は
現代
げんだい
人類
じんるい
が
発明
はつめい
したものではなく、
先史
せんし
文化
ぶんか
なのです。
功能
こうのう
を
持
も
つ
人
ひと
が
調
しら
べたところによれば、われわれが
暮
く
らしているこの
宇宙
うちゅう
は
九
きゅう
回
かい
の
爆発
ばくはつ
を
経
へ
た
後
あと
にできあがったものだといいます。われわれがいるこの
天体
てんたい
はすでに
度重
たびかさ
なる
壊滅
かいめつ
に
見舞
みま
われてきました。
天体
てんたい
が
新
あら
たに
組
く
み
合
あ
わされてから、
人類
じんるい
も
新
あら
たに
発生
はっせい
するようになります。
今
いま
、われわれはすでに、
現代
げんだい
文明
ぶんめい
を
超
こ
える
多
おお
くのものを
発見
はっけん
しています。ダーウィンの
進化論
しんかろん
に
従
したが
えば、
人類
じんるい
は
猿
さる
から
進化
しんか
してきたので、
文明
ぶんめい
はたかだか
一万
いちまん
年
ねん
を
超
こ
えていないはずです。ところが、
出土
しゅつど
した
文物
ぶんぶつ
から、ヨーロッパのアルプス
山脈
さんみゃく
の
洞窟
どうくつ
で、
二十五万
にじゅうごまん
年
ねん
前
まえ
の
壁画
へきが
が
見
み
つかりました。その
芸術的
げいじゅつてき
鑑賞
かんしょう
価値
かち
の
高
たか
さは、
現代人
げんだいじん
も
及
およ
ばないものです。また、ペルー
国立
こくりつ
大学
だいがく
の
博物館
はくぶつかん
にひとつの
大
おお
きな
石
いし
があり、その
石
いし
には、
望遠鏡
ぼうえんきょう
を
手
て
にして
天体
てんたい
を
観察
かんさつ
する
人
ひと
が
刻
きざ
まれています。この
彫刻
ちょうこく
は
三万
さんまん
年
ねん
も
前
まえ
のものです。
皆
みな
さんもご
存
ぞん
じのように、ガリレオが
一六〇九
せんろっぴゃくきゅう
年
ねん
に
三十倍
さんじゅうさんばい
の
天体
てんたい
望遠鏡
ぼうえんきょう
を
発明
はつめい
してから
今日
こんにち
まで、せいぜい
三百
さんびゃく
年
ねん
余
あま
りの
歴史
れきし
しかないのに、
三万
さんまん
年
ねん
も
前
まえ
にどうして
望遠鏡
ぼうえんきょう
などありえたのでしょうか? インドには、
鉄
てつ
の
純度
じゅんど
が
九十九
きゅうじゅうきゅう
パーセント
以上
いじょう
に
達
たっ
している
鉄
てつ
の
棒
ぼう
があります。
現在
げんざい
の
冶金
やきん
技術
ぎじゅつ
をもってしてもこれほど
純度
じゅんど
の
高
たか
い
鉄
てつ
を
精錬
せいれん
することはできません。そのレベルはすでに
現在
げんざい
の
技術
ぎじゅつ
水準
すいじゅん
を
上回
うわまわ
っていました。
誰
だれ
がこのような
文明
ぶんめい
を
創
つく
り
出
だ
したのでしょうか?
人類
じんるい
はその
頃
ころ
はもしかするとまだ
微生物
びせいぶつ
に
過
す
ぎなかったのに、どうしてこのようなものを
作
つく
り
出
だ
すことができたのでしょうか? これらのものの
発見
はっけん
は、
世界
せかい
各国
かっこく
の
科学者
かがくしゃ
の
注目
ちゅうもく
を
集
あつ
めました。ただ、
解釈
かいしゃく
のしようがないので、「
先史
せんし
文化
ぶんか
」と
呼
よ
ばれることになりました。
それぞれの
時期
じき
の
科学
かがく
水準
すいじゅん
はいずれも
異
こと
なっていました。われわれ
現代
げんだい
人類
じんるい
の
水準
すいじゅん
を
上回
うわまわ
る、
相当
そうとう
高
たか
い
時期
じき
もありましたが、その
文明
ぶんめい
は
壊滅
かいめつ
しました。わたしが、
気功
きこう
はわれわれ
現代人
げんだいじん
の
発明
はつめい
でも、
現代人
げんだいじん
が
作
つく
り
出
だ
したものでもなく、
現代人
げんだいじん
がそれを
発見
はっけん
し
改善
かいぜん
したに
過
す
ぎず、
本来
ほんらい
は
先史
せんし
文化
ぶんか
だ、と
言
い
っているのはそのためです。
気功
きこう
は
我
わ
が
国
くに
独特
どくとく
のものではなく、
外国
がいこく
にもあります。しかし
彼
かれ
らはそれを
気功
きこう
とは
言
い
わず、アメリカやイギリスなどの
西洋
せいよう
諸国
しょこく
では
魔術
まじゅつ
と
呼
よ
んでいます。アメリカに、
実際
じっさい
は
超能力
ちょうのうりょく
のマスターである
魔術
まじゅつ
師
し
がいて、
万里
ばんり
の
長城
ちょうじょう
の
壁
かべ
を
通
とお
り
抜
ぬ
けるパフォーマンスを
披露
ひろう
しました。
通
とお
り
抜
ぬ
ける
時
とき
、
彼
かれ
は
白
しろ
い
布
ぬの
をかぶり、
自分
じぶん
を
壁
かべ
にくっつけるようにしてから
通
とお
り
抜
ぬ
けたのです。どうして
彼
かれ
はこんなことをしなければならなかったのでしょうか? こうすれば、
魔術
まじゅつ
に
見
み
えるからです。
彼
かれ
はそうせざるを
得
え
ませんでした。
彼
かれ
はわれわれ
中国
ちゅうごく
にレベルの
高
たか
い
人
ひと
がたくさんいるのを
知
し
っており、
妨
さまた
げられるのを
恐
おそ
れたので、
自分
じぶん
を
隠
かく
してから
入
はい
らなければなりませんでした。
出
で
てくるときは、
片
かた
手
て
を
伸
の
ばして、
布
ぬの
を
突
つ
き
上
あ
げてから
出
で
てきたのです。「
玄人
くろうと
は
肝所
かんどころ
を
見
み
、
素人
しろうと
はうわべを
見
み
る」、こうすれば
観衆
かんしゅう
は
彼
かれ
が
魔術
まじゅつ
をやっていると
思
おも
うのです。
彼
かれ
らがこれらの
功能
こうのう
を
魔術
まじゅつ
と
呼
よ
ぶのは、それを
用
もち
いて
身体
からだ
を
修煉
しゅうれん
するのではなく、
舞台
ぶたい
でパフォーマンスをやって
人
ひと
を
驚
おどろ
かせ
喜
よろこ
ばせるからです。したがって、
低
ひく
い
次元
じげん
から
言
い
えば、
気功
きこう
は
人間
にんげん
の
身体
からだ
の
状態
じょうたい
を
変
か
え、
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
増進
ぞうしん
の
目的
もくてき
を
達
たっ
しますが、
高
たか
い
次元
じげん
から
言
い
えば、
気功
きこう
は
本体
ほんたい
を
修煉
しゅうれん
することを
意味
いみ
するのです。
二、
気
き
と
功
こう
われわれが
現在
げんざい
「
気
き
」と
呼
よ
んでいるものを、
古代人
こだいじん
は「
炁
チー
」と
称
しょう
していました。
本質
ほんしつ
は
同
おな
じで、いずれも
宇宙
うちゅう
の
気
き
を
指
さ
し、
宇宙
うちゅう
の
中
なか
の
姿
すがた
かたちのない
物質
ぶっしつ
を
指
さ
しています。それは
空気
くうき
の
気
き
を
意味
いみ
しているのではありません。
人体
じんたい
は
修煉
しゅうれん
を
通
とお
して、この
物質
ぶっしつ
のエネルギーを
活
い
かせば、
人体
じんたい
の
状況
じょうきょう
を
変
か
え、
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
増進
ぞうしん
に
至
いた
らすことができます。しかし、
気
き
は
気
き
にほかならず、あなたに
気
き
があれば、ほかの
人
ひと
にも
気
き
があり、
気
き
と
気
き
の
間
あいだ
に
制約
せいやく
作用
さよう
はありません。
気
き
で
病気
びょうき
治療
ちりょう
ができる、あるいは
誰
だれ
それに
向
む
かって
気
き
を
発
はっ
して、その
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
すと
言
い
う
人
ひと
がいますが、これらの
言
い
い
方
かた
はきわめて
非科学的
ひかがくてき
です。なぜなら
気
き
はまったく
病気
びょうき
の
治療
ちりょう
に
役
やく
に
立
た
たないからです。
煉功
れんこう
者
しゃ
の
身体
からだ
にまだ
気
き
がある
間
あいだ
は、その
人
ひと
の
身体
からだ
はまだ
乳白体
にゅうはくたい
になっておらず、まだ
病気
びょうき
があるということを
意味
いみ
します。
煉功
れんこう
の
高
たか
い
次元
じげん
に
達
たっ
する
人
ひと
から
発
はっ
せられるのは、
気
き
ではなく、
高
こう
エネルギーの
固
かた
まりであり、
光
ひかり
のかたちで
現
あらわ
れる
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
であり、
粒子
りゅうし
は
非常
ひじょう
に
細
こま
かく、
密度
みつど
が
非常
ひじょう
に
高
たか
いものです。これが
功
こう
で、この
時
とき
になってはじめて
常人
じょうじん
に
制約
せいやく
作用
さよう
を
持
も
つことができ、
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治療
ちりょう
することができるようになります。「
佛光
ぶっこう
が
普
あまね
く
照
て
らし、
礼儀
れいぎ
が
圓明
えんめい
となる」という
言葉
ことば
がありますが、
正法
しょうぼう
修煉
しゅうれん
者
しゃ
の
場合
ばあい
は、
身体
からだ
に
持
も
つエネルギーがきわめて
大
おお
きいので、
彼
かれ
の
通過
つうか
するところ、
彼
かれ
のエネルギーの
届
とど
く
範囲
はんい
内
ない
で、
一切
いっさい
の
不正常
ふせいじょう
な
状態
じょうたい
を
正常
せいじょう
な
状態
じょうたい
に
正
ただ
すことができる、ということを
意味
いみ
しています。たとえば
人
ひと
の
身体
からだ
に
病気
びょうき
があるというのは、
身体
からだ
に
不正常
ふせいじょう
な
状態
じょうたい
があるということであり、その
状態
じょうたい
を
正
ただ
せば、
病気
びょうき
も
消
き
えることになります。
分
わ
かりやすく
言
い
えば、
功
こう
とはエネルギーのことです。
功
こう
は
物質
ぶっしつ
性
せい
を
持
も
っており、
煉功
れんこう
者
しゃ
は
修煉
しゅうれん
を
通
とお
して、その
客観的
きゃっかんてき
な
存在
そんざい
を
実際
じっさい
に
体感
たいかん
することができます。
三、
功力
こうりき
と
功能
こうのう
(一)
功力
こうりき
は
心性
しんせい
の
修煉
しゅうれん
によって
得
え
るものである
本当
ほんとう
に
人間
にんげん
の
功力
こうりき
の
次元
じげん
を
決
き
める
功
こう
は「
煉
れん
」によって
得
え
るものではなく、「
徳
とく
」という
物質
ぶっしつ
から
転化
てんか
され、
心性
しんせい
を
修
おさ
めることによって
得
え
られるものです。この
転化
てんか
の
過程
かてい
は
常人
じょうじん
が
想像
そうぞう
するような「
鼎
かなえ
を
立
た
て
竈
かまど
を
設
もう
け、
薬
くすり
を
採集
さいしゅう
し、
丹
たん
を
煉
ね
る」ことによって
得
え
られるものでもありません。われわれの
言
い
う
功
こう
は、
体外
たいがい
で
生
う
まれ、
人体
じんたい
の
下半身
かはんしん
から
始
はじ
まって、
心性
しんせい
の
向上
こうじょう
に
従
したが
って
螺旋
らせん
状
じょう
に
伸
の
びていくもので、
完全
かんぜん
に
体外
たいがい
で
形成
けいせい
され、それから
頭
あたま
のてっぺんで
功柱
こうちゅう
をなすものです。
功柱
こうちゅう
の
高
たか
さがその
人
ひと
の
功
こう
の
高
たか
さを
決
き
めます。
功柱
こうちゅう
は
非常
ひじょう
に
見
み
えにくい
空間
くうかん
にあるものなので、
一般
いっぱん
の
人
ひと
には
簡単
かんたん
には
見
み
えません。
功能
こうのう
は
功力
こうりき
によって
加持
かじ
されるものであり、
功力
こうりき
が
高
たか
く、
次元
じげん
が
高
たか
い
人
ひと
なら
功能
こうのう
も
大
おお
きく、
使
つか
い
勝手
がって
も
自由自在
じゆうじざい
、
功力
こうりき
の
低
ひく
い
人
ひと
なら
功能
こうのう
も
小
ちい
さく、
使
つか
い
勝手
がって
も
思
おも
う
通
とお
りにいかず、あるいはまったく
使
つか
えないことすらあります。
功能
こうのう
自体
じたい
はその
人
ひと
の
功力
こうりき
の
大
おお
きさや
次元
じげん
の
高
たか
さを
表
あらわ
すものではありません。
人
ひと
の
次元
じげん
の
高
たか
さを
決
き
めるのは
功力
こうりき
であって
功能
こうのう
ではないのです。「
鍵
かぎ
を
掛
か
けられて」
修煉
しゅうれん
している
人
ひと
もおり、
功力
こうりき
が
非常
ひじょう
に
高
たか
くても、
功能
こうのう
は
必
かなら
ずしもそれほど
持
も
っているとは
限
かぎ
りません。
功力
こうりき
は
決定的
けっていてき
な
役割
やくわり
を
果
は
たすものであって、
心性
しんせい
の
修煉
しゅうれん
によって
得
え
られるものですが、これこそがもっとも
肝要
かんよう
なものなのです。
(二)
功能
こうのう
は
煉功
れんこう
者
しゃ
の
求
もと
めるものではない
すべての
煉功
れんこう
者
しゃ
は
功能
こうのう
に
関心
かんしん
を
寄
よ
せており、
神通力
じんつうりき
は
社会
しゃかい
で
非常
ひじょう
に
誘惑力
ゆうわくりょく
がありますので、
多
おお
くの
人
ひと
は
何
なん
らかの
功能
こうのう
を
身
み
につけたがります。しかし、
心性
しんせい
が
良
よ
くなければ、こうした
功能
こうのう
は
身
み
に
付
つ
くわけがありません。
一部
いちぶ
の
功能
こうのう
、たとえば
天目
てんもく
が
開
ひら
く、
天耳
てんじ
が
通
つう
じる、テレパシーが
使
つか
える、
予測
よそく
する、などの
功能
こうのう
は、
常人
じょうじん
でも
持
も
ちうるものです。しかしこれらの
功能
こうのう
は
人
ひと
によって
異
こと
なり、
漸悟
ぜんご
状態
じょうたい
にいる
間
あいだ
はすべて
所持
しょじ
することはありえません。
一部
いちぶ
の
功能
こうのう
は
常人
じょうじん
が
持
も
ちえないものであり、たとえば
現実
げんじつ
空間
くうかん
の
物体
ぶったい
を
別
べつ
の
種類
しゅるい
の
物体
ぶったい
に
転換
てんかん
させるなどは、
常人
じょうじん
にできないことです。
大
だい
功能
こうのう
は、
修煉
しゅうれん
によって
後天的
こうてんてき
に
得
え
られるものです。
法輪功
ファールンゴン
は
宇宙
うちゅう
の
原理
げんり
に
従
したが
って
演化
えんか
してきたものなので、
宇宙
うちゅう
に
存在
そんざい
する
功能
こうのう
は
法輪功
ファールンゴン
にすべて
備
そな
わっており、
煉功
れんこう
者
しゃ
がいかに
修煉
しゅうれん
するかにかかっています。
何
なん
らかの
功能
こうのう
を
身
み
につけたいと
思
おも
うことは、
間違
まちが
っているとは
言
い
えません。しかし、
過度
かど
に
追求
ついきゅう
しすぎると、
普通
ふつう
の
考
かんが
え
方
かた
ではなくなり、
良
よ
くない
結果
けっか
を
招
まね
きかねません。
低
ひく
い
次元
じげん
で
功能
こうのう
を
得
え
てもあまり
用
もち
いるところがありません。しょせんそれを
披露
ひろう
し、
常人
じょうじん
の
前
まえ
で
腕
うで
をひけらかして、
常人
じょうじん
の
中
なか
の
強者
きょうしゃ
になりたがるだけです。もしそうならば、まさに
心性
しんせい
が
高
たか
くないということですので、
当然
とうぜん
功能
こうのう
を
与
あた
えてあげるわけにはいきません。
一部
いちぶ
の
功能
こうのう
は、もし
心性
しんせい
の
良
よ
くない
人
ひと
に
与
あた
えれば、
悪事
あくじ
を
働
はたら
くのに
用
もち
いられてしまいます。
心性
しんせい
がしっかりしていなければ、
悪事
あくじ
を
働
はたら
かないという
保証
ほしょう
がないからです。
一方
いっぽう
、およそパフォーマンス
用
よう
に
表
おもて
に
出
だ
せる
功能
こうのう
は、どれも
人類
じんるい
社会
しゃかい
を
変
か
えるのに
用
もち
いることができず、
正常
せいじょう
な
社会
しゃかい
生活
せいかつ
を
変
か
えることができません。
本当
ほんとう
の
高
たか
い
功能
こうのう
は、
影響
えいきょう
と
危険
きけん
が
大
おお
きいので、パフォーマンスに
用
もち
いてはいけません。
建物
たてもの
をパフォーマンスで
倒
たお
してはならないのと
同
おな
じです。
特別
とくべつ
大
おお
きな
功能
こうのう
に
関
かん
しては、
特殊
とくしゅ
な
使命
しめい
を
負
お
っている
人
ひと
なら
使
つか
わせてもらえますが、さもなければ
使用
しよう
することが
許
ゆる
されず、
表
おもて
に
出
だ
せるわけもありません。
師
し
によって
制御
せいぎょ
されているからです。
しかし
常人
じょうじん
のなかに、
是
ぜ
が
非
ひ
でも
気功
きこう
師
し
に
腕
うで
を
披露
ひろう
させ、
強引
ごういん
に
実演
じつえん
させる
人
ひと
がどうしてもいます。
功能
こうのう
のある
人
ひと
は
皆
みな
、
功能
こうのう
を
見
み
せびらかそうとはしません。それは
公
おおやけ
に
持
も
ち
出
だ
してはならないものであり、
公
おおやけ
に
持
も
ち
出
だ
すと
社会
しゃかい
全体
ぜんたい
の
状態
じょうたい
に
影響
えいきょう
を
及
およ
ぼしかねないものだからです。
本当
ほんとう
の
大徳
だいとく
の
人
ひと
の
場合
ばあい
、
彼
かれ
の
功能
こうのう
は
公
おおやけ
に
持
も
ち
出
だ
すことが
許
ゆる
されません。
嫌々
いやいや
ながら
実演
じつえん
させられて、
家
いえ
に
戻
もど
ると
泣
な
かんばかりに
悔
くや
しがる
気功
きこう
師
し
がいます。
彼
かれ
らに
実演
じつえん
を
強要
きょうよう
しないでいただきたいのです!
彼
かれ
らにとってそういうものを
持
も
ち
出
だ
すのは
非常
ひじょう
に
辛
つら
いことなのです。ある
時
とき
、ある
学習者
がくしゅうしゃ
が
雑誌
ざっし
を
持
も
ってきたのですが、それを
読
よ
んでわたしは
非常
ひじょう
に
反感
はんかん
を
覚
おぼ
えました。それにはおおよそこんなことが
書
か
いてありました。
国際
こくさい
気功
きこう
会議
かいぎ
を
開催
かいさい
するので、
功能
こうのう
のある
者
もの
は
試合
しあい
に
参加
さんか
してほしい。
功能
こうのう
の
強
つよ
い
者
もの
を
募
つの
る、と
言
い
うのです。それを
見
み
てから、わたしは
何日
なんにち
も
気分
きぶん
がよくありませんでした。そういうものは
試合
しあい
に
用
もち
いてはいけないもので、
用
もち
いると
必
かなら
ず
後悔
こうかい
することになります。
常人
じょうじん
というものは、
世間
せけん
の
現実
げんじつ
のものを
重
おも
んじますが、
気功
きこう
師
し
は
自重
じちょう
しなければなりません。
功能
こうのう
を
求
もと
める
目的
もくてき
は
何
なん
でしょうか?
煉功
れんこう
者
しゃ
の
思想
しそう
境地
きょうち
と
煉功
れんこう
者
しゃ
が
何
なに
を
追求
ついきゅう
しているかがそこに
表
あらわ
れています。
心
こころ
のなかで
求
もと
めるものが
不純
ふじゅん
であったり、
危
あや
ういものであったりすると、
高
たか
い
功能
こうのう
を
得
え
ることはありえません。それにはわけがあります。つまりまだ
悟
さと
りを
開
ひら
かないうちは、あなたに
見
み
えた
物事
ものごと
の
善
よ
し
悪
あ
しは、
世間
せけん
の
法
ほう
の
善悪
ぜんあく
の
基準
きじゅん
に
基
もと
づいているものであって、
物事
ものごと
の
真相
しんそう
も
因縁
いんねん
関係
かんけい
もあなたには
見
み
えません。
人
ひと
と
人
ひと
との
間
あいだ
の
喧嘩
けんか
やいじめには、
必
かなら
ず
因縁
いんねん
関係
かんけい
があるのですが、それが
見
み
えなければ、あなたはかえって
相手
あいて
にとってありがた
迷惑
めいわく
なことをしてしまうことになります。
常人
じょうじん
の
間
あいだ
のいざこざや
善
よ
し
悪
あ
しは、
世間
せけん
の
法
ほう
に
任
まか
せればよいのであって、
煉功
れんこう
者
しゃ
が
口
くち
を
出
だ
すものではありません。
悟
さと
りを
開
ひら
く
前
まえ
に、あなたに
見
み
えた
物事
ものごと
の
真相
しんそう
は
必
かなら
ずしも
見
み
えたとおりのものとは
限
かぎ
りません。
誰
だれ
かが
誰
だれ
かを
一発
いっぱつ
殴
なぐ
った
場合
ばあい
は、もしかすると
彼
かれ
らの
間
あいだ
で「
業
ごう
」を
清算
せいさん
しているのかもしれません。ですからあなたが
口
くち
を
出
だ
すと、
彼
かれ
らの
間
あいだ
の「
業
ごう
」の
清算
せいさん
を
邪魔
じゃま
してしまうことになるかもしれません。「
業
ごう
」は、
身体
からだ
のまわりにある
黒
くろ
いもので、
別
べつ
の
空間
くうかん
の
物質的
ぶっしつてき
存在
そんざい
です。それは
病気
びょうき
や
災
わざわ
いに
転化
てんか
されることがあります。
功能
こうのう
は
誰
だれ
にでもあります。
問題
もんだい
は
絶
た
え
間
ま
ない
修煉
しゅうれん
によってそれを
開発
かいはつ
し、
強化
きょうか
することです。
煉功
れんこう
者
しゃ
として、もし
功能
こうのう
ばかり
求
もと
めるならば、それは
近視眼的
きんしがんてき
で、
思想
しそう
が
不純
ふじゅん
ということになります。
功能
こうのう
を
求
もと
めれば、それがどんな
目的
もくてき
であれ、そのなかに
必
かなら
ず
私心
ししん
が
含
ふく
まれており、
間違
まちが
いなく
煉功
れんこう
を
妨
さまた
げます。そうなれば
結局
けっきょく
、
功能
こうのう
が
得
え
られないことになります。
(三)
功力
こうりき
の
制御
せいぎょ
煉功
れんこう
者
しゃ
のなかに、それほど
煉功
れんこう
もしていないのに、
本当
ほんとう
に
効
き
くかどうか
確
たし
かめたいがために、
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
そうとする
人
ひと
がいます。
功力
こうりき
の
高
たか
くない
人
ひと
の
場合
ばあい
は、
手
て
を
出
だ
してちょっとやってみただけで、
患者
かんじゃ
の
体内
たいない
のおびただしい
黒
くろ
い
気
き
や
病
やまい
の
気
き
、
濁
にご
った
気
き
を
自
みずか
らの
身体
からだ
に
取
と
り
込
こ
んでしまいます。あなたには
病
やまい
の
気
き
を
防御
ぼうぎょ
する
能力
のうりょく
はなく、
身体
からだ
に
防御
ぼうぎょ
の
覆
おお
いができているわけでもないので、
患者
かんじゃ
と
一
ひと
つの
場
ば
を
形成
けいせい
してしまいます。
功力
こうりき
が
高
たか
くなければ
防御
ぼうぎょ
することができず、
自分
じぶん
が
非常
ひじょう
に
辛
つら
い
思
おも
いをします。もし
見守
みまも
ってくれる
人
ひと
がいなければ、
時間
じかん
が
経
た
つと、
体中
からだじゅう
病気
びょうき
だらけになってしまいます。つまり、
功力
こうりき
の
高
たか
くない
人
ひと
は、
他人
たにん
のために
病気
びょうき
治療
ちりょう
を
行
おこな
ってはいけません。すでに
功能
こうのう
を
備
そな
え、
一定
いってい
の
功力
こうりき
を
持
も
っていてはじめて、
気功
きこう
で
病気
びょうき
治療
ちりょう
をすることができるのです。
一部
いちぶ
の
人
ひと
は
功能
こうのう
を
備
そな
え、
病気
びょうき
治療
ちりょう
をすることができますが、
非常
ひじょう
に
低
ひく
い
次元
じげん
にいる
間
あいだ
は、
実際
じっさい
は
蓄
たくわ
えていた
功力
こうりき
で、
自分
じぶん
自身
じしん
のエネルギーで
病気
びょうき
治療
ちりょう
を
行
おこな
っているのです。なぜなら
功
こう
はエネルギーであり、
霊体
れいたい
にほかならず、ちょっとやそっとで
蓄
たくわ
えられるものではないからです。この
功
こう
を
体外
たいがい
に
出
だ
すということは、
自分
じぶん
を
消耗
しょうもう
していることにほかなりません。
体外
たいがい
に
功
こう
を
発
はっ
するにつれて、あなたの
頭上
ずじょう
の
功柱
こうちゅう
の
高
たか
さが
縮
ちぢ
み、
消耗
しょうもう
されていきますので、これは
非常
ひじょう
に
割
わり
の
合
あ
わないことです。ですからわたしは、
功力
こうりき
が
高
たか
くないときに
人
ひと
のために
病気
びょうき
治療
ちりょう
をすることをお
勧
すす
めしません。あなたがたとえどんなに
腕
うで
が
良
よ
いとしても、
自分
じぶん
自身
じしん
のエネルギーを
消耗
しょうもう
しているに
過
す
ぎません。
功力
こうりき
が
一定
いってい
のレベルに
達
たっ
すると、さまざまな
功能
こうのう
が
現
あらわ
れてきますが、これらの
功能
こうのう
を
如何
いか
に
用
もち
いればよいかについては、
非常
ひじょう
に
慎重
しんちょう
を
要
よう
することです。たとえば
天目
てんもく
が
開
ひら
いた
場合
ばあい
は、
見
み
ないわけにもいきませんし、ずっと
用
もち
いなければ、
閉
と
じてしまいかねません。ただ、
見
み
るにしてもしょっちゅう
見
み
てはいけません。
過度
かど
に
見
み
るとエネルギーもそれだけ
多
おお
く
漏
も
れてしまいます。それでは、
皆
みな
さんに
永遠
えいえん
に
用
もち
いないようにと
言
い
っているのかというと、もちろんそうではありません。もし
永遠
えいえん
に
用
もち
いないのであれば
何
なん
のために
修煉
しゅうれん
するのでしょうか?
問題
もんだい
はどんなときに
用
もち
いるかにあります。
修煉
しゅうれん
が
一定
いってい
のレベルに
達
たっ
し、
自分
じぶん
で
補
おぎな
う
能力
のうりょく
が
備
そな
わったときには、
用
もち
いても
大丈夫
だいじょうぶ
です。
法輪功
ファールンゴン
では
修煉
しゅうれん
が
一定
いってい
のレベルに
達
たっ
すれば、
放出
ほうしゅつ
された
功
こう
の
分
ぶん
だけ、
法輪
ファールン
が
自動的
じどうてき
に
演化
えんか
してそれを
補
おぎな
い、
自動的
じどうてき
に
煉功
れんこう
者
しゃ
の
功力
こうりき
の
水準
すいじゅん
を
保
たも
ってくれるので、
一時
いっとき
たりとも
減
へ
ることはありません。これが
法輪功
ファールンゴン
の
特徴
とくちょう
です。このときになってはじめて、
功能
こうのう
を
用
もち
いることができます。
四、
天目
てんもく
(一)
天目
てんもく
を
開
ひら
く
天目
てんもく
の
主要
しゅよう
通路
つうろ
は、
額
ひたい
の
真
ま
ん
中
なか
と
山根
さんこん
との
間
あいだ
にあります。
常人
じょうじん
が
肉眼
にくがん
で
物
もの
を
見
み
るのは、カメラの
原理
げんり
と
同
おな
じで、
距離
きょり
の
遠近
えんきん
と
光線
こうせん
の
強弱
きょうじゃく
によって、ガラス
体
たい
あるいは
瞳孔
どうこう
の
大
おお
きさを
調節
ちょうせつ
し、
神経
しんけい
細胞
さいぼう
を
通
とお
して
画像
がぞう
を
大脳
だいのう
後半
こうはん
部
ぶ
の
松果体
しょうかたい
に
送
おく
り、そこで
顕現
けんげん
させます。
特異
とくい
功能
こうのう
による
透視
とうし
というのは、
松果体
しょうかたい
が
天目
てんもく
を
通
つう
じて
直接
ちょくせつ
外
そと
を
見
み
るようにすることです。
一般
いっぱん
の
人
ひと
は
天目
てんもく
が
開
ひら
いておらず、
主要
しゅよう
通路
つうろ
上
じょう
の
隙間
すきま
は
非常
ひじょう
に
狭
せま
くて
黒
くろ
く、
中
なか
に
霊気
れいき
もなく、
光
ひかり
もありません。
人
ひと
によっては
塞
ふさ
がっているため
見
み
えない
場合
ばあい
もあります。
われわれの
言
い
う「
天目
てんもく
を
開
ひら
く」とは、
一
ひと
つには、
外力
がいりょく
あるいは
自分
じぶん
の
修煉
しゅうれん
によって
通路
つうろ
を
開
ひら
かせることです。
通路
つうろ
の
形
かたち
は
一人一人
ひとりひとり
異
こと
なり、
楕円形
だえんけい
であったり、
円形
えんけい
、
菱形
ひしがた
、
三角形
さんかくけい
であったりしますが、
修煉
しゅうれん
が
進
すす
むにつれて
丸
まる
くなります。
二
ふた
つには、
師
し
が
目
め
を
与
あた
えてくれることです。
自分
じぶん
で
修煉
しゅうれん
する
場合
ばあい
は
自分
じぶん
でその
目
め
を
修煉
しゅうれん
しなければなりません。
三
みっ
つには、
天目
てんもく
の
部位
ぶい
に
精華
せいか
の
気
き
がなければならないことです。
通常
つうじょう
われわれは
両目
りょうめ
で
物
もの
を
見
み
ていますが、まさにこの
両目
りょうめ
がわれわれの
他
た
の
空間
くうかん
への
通路
つうろ
を
遮断
しゃだん
しています。それは
障壁
しょうへき
となって、われわれがこの
物質
ぶっしつ
空間
くうかん
の
物
もの
しか
見
み
えないようにしています。
天目
てんもく
を
開
ひら
くというのは、この
両目
りょうめ
を
避
さ
けて
見
み
ることにほかなりません。
非常
ひじょう
に
高
たか
い
次元
じげん
に
到達
とうたつ
すれば、
修煉
しゅうれん
によって
真眼
しんがん
を
得
え
ることができますが、そうなれば
天目
てんもく
の
真眼
しんがん
あるいは
山根
さんこん
のあたりの
真眼
しんがん
で
見
み
ることができるようになります。
佛家
ぶっけ
の
言
い
い
方
かた
に
従
したが
えば、どの
毛穴
けあな
も
目
め
であり、
全身
ぜんしん
が
目
め
ですし、
道家
どうけ
の
言
い
い
方
かた
に
従
したが
えば、どのツボも
目
め
だということになります。しかし
主要
しゅよう
通路
つうろ
は
天目
てんもく
にあり、まずそれを
開
ひら
かなければなりません。
講習会
こうしゅうかい
で、わたしは
全員
ぜんいん
に
天目
てんもく
を
開
ひら
くためのものを
授
さず
けました。
一人一人
ひとりひとり
の
身体
からだ
の
素質
そしつ
が
異
こと
なるため、
現
あらわ
れる
効果
こうか
も
違
ちが
います。
深
ふか
い
井戸
いど
のような
真
ま
っ
暗
くら
なトンネルを
見
み
た
人
ひと
がいますが、それは
天目
てんもく
の
通路
つうろ
が
黒
くろ
いということです。
白
しろ
い
通路
つうろ
を
見
み
た
人
ひと
がいますが、もしその
先
さき
に
物
もの
が
見
み
えた
場合
ばあい
は、いよいよ
開
ひら
かれようとしているということです。
何
なに
かが
回転
かいてん
しているのを
見
み
た
人
ひと
がいますが、それはほかでもなく
師
し
が
授
さず
けてくれた
天目
てんもく
を
開
ひら
くためのものであり、
天目
てんもく
が
開削
かいさく
され
貫通
かんつう
すれば、それで
見
み
ることができるようになるのです。また、
天目
てんもく
を
通
とお
して
大
おお
きな
目
め
が
見
み
え、それを
佛眼
ぶつげん
だと
思
おも
った
人
ひと
がいますが、
実際
じっさい
は
自分
じぶん
自身
じしん
の
目
め
なのです。これは
普通
ふつう
、
先天
せんてん
の
根基
こんき
が
比較的
ひかくてき
良
よ
い
人
ひと
の
場合
ばあい
です。
われわれの
統計
とうけい
によれば、どの
講習会
こうしゅうかい
でも
天目
てんもく
が
開
ひら
いた
人
ひと
は
半数
はんすう
以上
いじょう
に
上
のぼ
ります。
天目
てんもく
が
開
ひら
いたあと、
心性
しんせい
の
高
たか
くない
人
ひと
がそれを
使
つか
って
悪
わる
いことをしかねない、という
問題
もんだい
が
起
お
きてきます。ですからこれを
防
ふせ
ぐために、わたしは
皆
みな
さんの
天目
てんもく
を
直接
ちょくせつ
慧眼
えげん
通
つう
の
次元
じげん
まで
開
ひら
かせています。つまり
高
たか
い
次元
じげん
まで
開
ひら
かせて、
直接
ちょくせつ
他
た
の
空間
くうかん
の
様相
ようそう
や、
煉功
れんこう
中
ちゅう
に
現
あらわ
れてくるものが
見
み
えるようにしてあげるのです。そうすれば
皆
みな
さんはそれを
信
しん
じて、
煉功
れんこう
への
自信
じしん
を
強
つよ
めるようになります。
煉功
れんこう
を
始
はじ
めたばかりの
人
ひと
は、
心性
しんせい
がまだ
常人
じょうじん
を
超
こ
える
高
たか
さまで
至
いた
っていないため、いったん
常人
じょうじん
を
超
こ
えるものを
手
て
にすると、
良
よ
くないことをしかねません。たとえば
冗談
じょうだん
ですが、もしあなたが
町
まち
を
歩
ある
いていて
宝
たから
くじを
見
み
かけたとしたら、
一等
いっとう
賞
しょう
はあなたにとられてしまうかもしれません。たとえばこういうことが
起
お
こりうるのですが、こんなことは
許
ゆる
されません。もう
一
ひと
つの
理由
りゆう
として、われわれはここで
広範囲
こうはんい
にわたって
天目
てんもく
を
開
ひら
かせているのですが、もし
低
ひく
い
次元
じげん
に
開
ひら
かせてしまえば、
考
かんが
えてごらんなさい、
誰
だれ
でも
人体
じんたい
を
透視
とうし
でき、
壁
かべ
を
隔
へだ
てて
物
もの
を
見
み
ることができるようになります。そのようなものを
人類
じんるい
社会
しゃかい
といえるでしょうか? そんなことをすれば、
常人
じょうじん
社会
しゃかい
の
状態
じょうたい
を
甚
はなは
だしく
混乱
こんらん
させることになりますので、
許
ゆる
されません。しかもそれでは
煉功
れんこう
者
しゃ
にとってためになるところがなく、
煉功
れんこう
者
しゃ
の
執着心
しゅうちゃくしん
を
助長
じょちょう
するだけです。ですから
低
ひく
い
次元
じげん
に
開
ひら
かせずに、
直接
ちょくせつ
高
たか
い
次元
じげん
まで
開
ひら
かせてあげるのです。
(二)
天目
てんもく
の
次元
じげん
天目
てんもく
にはさまざまな
次元
じげん
があります。
次元
じげん
が
違
ちが
えば、
見
み
える
空間
くうかん
も
異
こと
なります。
佛教
ぶっきょう
の
言
い
い
方
かた
に
従
したが
えば、「
五通
ごつう
」、つまり「
肉眼
にくげん
通
つう
」、「
天眼通
てんげんつう
」、「
慧眼
えげん
通
つう
」、「
法眼
ほうげん
通
つう
」、「
佛眼
ぶつげん
通
つう
」があり、どの
次元
じげん
にもさらに、
上
じょう
、
中
ちゅう
、
下
げ
の
区別
くべつ
があります。
天眼通
てんげんつう
以下
いか
の
次元
じげん
では、われわれのこの
物質
ぶっしつ
世界
せかい
しか
見
み
えません。
慧眼
えげん
通
つう
以上
いじょう
の
次元
じげん
に
達
たっ
してはじめて、
他
た
の
空間
くうかん
が
見
み
えます。
透視
とうし
功能
こうのう
を
持
も
ち、CTスキャンよりもきれいに、しかも
非常
ひじょう
に
正確
せいかく
に
見
み
ることのできる
人
ひと
がいますが、その
人
ひと
に
見
み
えたのは、
相変
あいか
わらずわれわれのこの
物質
ぶっしつ
世界
せかい
なのです。つまり、われわれが
存在
そんざい
するこの
空間
くうかん
を
超
こ
えてはおらず、
天目
てんもく
の
高
たか
い
次元
じげん
だとは
言
い
えません。
人
ひと
の
天目
てんもく
の
次元
じげん
の
高
たか
さは、その
人
ひと
の
持
も
っている
精華
せいか
の
気
き
の
量
りょう
と
主要
しゅよう
通路
つうろ
の
広
ひろ
さ、
明
あか
るさおよび
通路
つうろ
の
塞
ふさ
がりぐあいによって
決
き
まります。
天目
てんもく
がきれいに
開
ひら
くかどうかは、
内部
ないぶ
の
精華
せいか
の
気
き
が
肝心
かんじん
な
要素
ようそ
となります。
六歳
ろくさい
以下
いか
の
子供
こども
にとって、
天目
てんもく
を
開
ひら
くのはいたって
簡単
かんたん
なことで、わたしが
何
なに
もせずとも、
一言
ひとこと
言
い
えば
開
ひら
きます。
子供
こども
は
先天的
せんてんてき
に
物質
ぶっしつ
世界
せかい
の
良
よ
くない
影響
えいきょう
をほとんど
受
う
けておらず、
自分
じぶん
でも
何
なに
も
悪
わる
いことをしていないため、その
先天
せんてん
の
精華
せいか
の
気
き
が
非常
ひじょう
によく
保存
ほぞん
されているからです。
六歳
ろくさい
以上
いじょう
の
子供
こども
になりますと、
天目
てんもく
がだんだん
開
ひら
きにくくなります。
年齢
ねんれい
の
伸
の
びとともに、
外界
がいかい
の
影響
えいきょう
も
多
おお
く
受
う
けるようになったからです。とりわけ
良
よ
くない
後天
こうてん
の
教育
きょういく
や
放縦
ほうじゅう
などはいずれもその
人
ひと
の
精華
せいか
の
気
き
を
散逸
さんいつ
させることになり、ある
程度
ていど
に
達
たっ
すると、
散逸
さんいつ
し
尽
つ
くすかもしれません。
精華
せいか
の
気
き
が
散逸
さんいつ
し
尽
つ
くした
人
ひと
は、
後天
こうてん
の
煉功
れんこう
によって
徐々
じょじょ
にそれらを
補
おぎな
うことができますが、
非常
ひじょう
に
長
なが
い
時間
じかん
がかかり、たいへん
苦労
くろう
することになります。このように、
精華
せいか
の
気
き
はきわめて
貴重
きちょう
なものなのです。
わたしは
人
ひと
の
天目
てんもく
を
天眼通
てんげんつう
の
次元
じげん
に
開
ひら
かせるのに
反対
はんたい
です。なぜなら、
煉功
れんこう
者
しゃ
の
功力
こうりき
が
大
おお
きくないときは、
透視
とうし
をするのに
必要
ひつよう
なエネルギーが
煉功
れんこう
の
間
あいだ
に
蓄
たくわ
えたエネルギーより
多
おお
いからです。
霊気
れいき
が
散逸
さんいつ
しすぎると、
天目
てんもく
が
再
ふたた
び
閉
と
じてしまいかねません。いったん
閉
と
じると
再
ふたた
び
開
ひら
くのが
難
むずか
しくなります。ですからわたしは
普通
ふつう
、
人
ひと
の
天目
てんもく
を
慧眼
えげん
通
つう
の
次元
じげん
まで
開
ひら
かせるのです。きれいに
見
み
えるかどうかは
別
べつ
として、ともかく
修煉
しゅうれん
者
しゃ
は
他
た
の
空間
くうかん
のものが
見
み
えるようになります。
先天的
せんてんてき
な
条件
じょうけん
によって、とてもきれいに
見
み
える
人
ひと
もいれば、ちらちらとしか
見
み
えない
人
ひと
もおり、はっきり
見
み
えない
人
ひと
もいますが、
少
すく
なくとも
光
ひかり
が
見
み
えるようにはしてあげられます。こうすれば、
煉功
れんこう
者
しゃ
は
高
たか
い
次元
じげん
へ
向
む
けて
進
すす
みやすくなります。もし、きれいに
見
み
えなければ
煉功
れんこう
を
通
とお
して
後天的
こうてんてき
に
補
おぎな
っていけばよいのです。
精華
せいか
の
気
き
が
足
た
りない
人
ひと
の
場合
ばあい
、
天目
てんもく
で
見
み
た
光景
こうけい
は
白黒
しろくろ
であるのに
対
たい
して、
精華
せいか
の
気
き
の
比較的
ひかくてき
多
おお
い
人
ひと
の
場合
ばあい
は、
天目
てんもく
で
見
み
た
光景
こうけい
はカラーであり、
見
み
えた
光景
こうけい
もいっそう
鮮明
せんめい
になります。
精華
せいか
の
気
き
が
多
おお
ければ
多
おお
いほど、
鮮明
せんめい
度
ど
が
高
たか
まります。しかし、
人
ひと
によってそれぞれ
違
ちが
います。
天目
てんもく
が
生
う
まれつき
開
ひら
いている
人
ひと
もいれば、
固
かた
く
塞
ふさ
がっている
人
ひと
もいます。
天目
てんもく
が
開
ひら
くときの
光景
こうけい
は、あたかも
花
はな
が
咲
さ
くように、
一重
ひとえ
ずつ
開
ひら
くのです。
坐禅
ざぜん
をしているとき、まず
天目
てんもく
に
光
ひかり
の
束
たば
があるのに
気
き
がつきます。
初
はじ
めはあまり
明
あか
るくありませんが、その
後
あと
次第
しだい
に
赤
あか
くなります。
天目
てんもく
が
固
かた
く
閉
と
ざされている
人
ひと
の
場合
ばあい
は、
開
ひら
く
際
さい
に
激
はげ
しい
反応
はんのう
が
起
お
きることがあります。
主要
しゅよう
通路
つうろ
と
山根
さんこん
のあたりの
筋肉
きんにく
がぎゅっと
収縮
しゅうしゅく
し、まるでそこの
肉
にく
が
一
ひと
つに
固
かた
まって
中
なか
へ
押
お
し
入
い
ろうとしているかのようです。それからこめかみと
額
ひたい
が
張
は
り、
痛
いた
み
出
だ
すのですが、これらはいずれも
天目
てんもく
を
開
ひら
くときの
反応
はんのう
です。
天目
てんもく
が
容易
ようい
に
開
ひら
く
人
ひと
は、
偶然
ぐうぜん
に
何
なに
かが
見
み
えることがあります。
講習会
こうしゅうかい
で
無意識
むいしき
のうちにわたしの
法身
ほうしん
を
見
み
た
人
ひと
がいますが、
意識的
いしきてき
に
見
み
ようとすると
消
き
えてしまいます。
実
じつ
はそれは
目
め
で
見
み
たからです。
目
め
を
閉
と
じているときに
何
なに
かが
見
み
えた
場合
ばあい
は、そのままの
状態
じょうたい
を
保
たも
っていてください。
次第
しだい
にきれいに
見
み
えるようになります。ところが、はっきり
見
み
ようと
意識
いしき
してしまえば、
目
め
を
働
はたら
かせ、
視神経
ししんけい
を
通
とお
したことになりますので、
見
み
えなくなってしまいます。
天目
てんもく
の
次元
じげん
が
違
ちが
えば
見
み
える
空間
くうかん
も
異
こと
なるのですが、この
道理
どうり
を
理解
りかい
していない
科学
かがく
研究
けんきゅう
機関
きかん
があるため、
一部
いちぶ
の
気功
きこう
テストが
予期
よき
された
効
こう
果
か
を
得
え
られず、さらには
逆
ぎゃく
の
結果
けっか
を
招
まね
いてしまうこともあります。たとえばある
機関
きかん
が
特異
とくい
功能
こうのう
を
測定
そくてい
する
方法
ほうほう
を
考案
こうあん
して、
密封
みっぷう
した
箱
はこ
の
中
なか
に
何
なに
が
入
はい
っているのか
気功
きこう
師
し
に
当
あ
ててもらったのですが、
気功
きこう
師
し
の
天目
てんもく
の
次元
じげん
が
異
こと
なっていたため、
結果
けっか
もまちまちでした。そこで、テストをした
人
ひと
は、
天目
てんもく
なんて
嘘
うそ
で、
人
ひと
を
騙
だま
すものだと
思
おも
い
込
こ
みました。このようなテストでは、
往々
おうおう
にして
天目
てんもく
の
次元
じげん
の
低
ひく
い
人
ひと
が
透視
とうし
で
良
よ
い
結果
けっか
を
出
だ
せます。なぜならその
人
ひと
の
天目
てんもく
は
天眼通
てんげんつう
の
次元
じげん
にとどまっており、
物質
ぶっしつ
空間
くうかん
の
物事
ものごと
を
見
み
ることにしか
向
む
いていないからです。それで
天目
てんもく
の
分
わ
からない
人
ひと
は、その
人
ひと
の
功能
こうのう
が
最高
さいこう
だと
思
おも
ってしまいます。どんな
物体
ぶったい
でも、それが
有機物
ゆうきぶつ
であれ
無機物
むきぶつ
であれ、
異
こと
なる
空間
くうかん
では
異
こと
なる
様相
ようそう
を
呈
てい
するのです。たとえば
一
ひと
つのコップでも、それが
作
つく
り
出
だ
されたときに、すでに
一体
いったい
の
霊体
れいたい
が
他
た
の
空間
くうかん
に
同時
どうじ
に
存在
そんざい
しています。しかもこの
霊体
れいたい
はそこに
現
あらわ
れる
以前
いぜん
は
別
べつ
のものだった
可能性
かのうせい
もあります。
天目
てんもく
のもっとも
低
ひく
い
次元
じげん
で
見
み
えるのはコップですが、
一
ひと
つ
上
うえ
の
次元
じげん
で
見
み
えるのは
他
た
の
空間
くうかん
のその
霊体
れいたい
であり、さらに
高
たか
い
次元
じげん
から
見
み
えるのはその
霊体
れいたい
より
以前
いぜん
の
物質
ぶっしつ
形式
けいしき
です。
(三)
遠隔
えんかく
透視
とうし
天目
てんもく
が
開
ひら
いたあと、
遠隔
えんかく
透視
とうし
ができるようになる
人
ひと
がおり、
千里
せんり
隔
へだ
たった
遙
はる
か
遠
とお
い
空間
くうかん
の
物
もの
が
見
み
えるのです。
人
ひと
はそれぞれ
自分
じぶん
の
占
し
める
空間
くうかん
があり、その
空間
くうかん
においてその
人
ひと
は
宇宙
うちゅう
のような
大
おお
きさをしています。そしてその
特定
とくてい
の
空間
くうかん
では、その
人
ひと
の
額
ひたい
にわれわれのこの
空間
くうかん
では
見
み
えない
一枚
いちまい
の
鏡
かがみ
があります。この
鏡
かがみ
は
誰
だれ
でも
持
も
っているのですが、ただ
煉功
れんこう
しない
人
ひと
の
場合
ばあい
、
裏返
うらがえ
しになっています。ところが、
煉功
れんこう
する
人
ひと
の
場合
ばあい
はこの
鏡
かがみ
が
次第
しだい
に
表
おもて
向
む
きになり、
彼
かれ
が
見
み
ようとする
物
もの
を
照
て
らし
出
だ
すことができます。その
人
ひと
の
特定
とくてい
の
空間
くうかん
では、その
人
ひと
はかなり
大
おお
きいのです。
体
からだ
が
大
おお
きければ、この
鏡
かがみ
も
非常
ひじょう
に
大
おお
きく、
見
み
たい
物
もの
を
何
なん
でも
照
て
らし
出
だ
せます。しかし
照
て
らし
出
だ
せてもまだ
見
み
えません。
画像
がぞう
は
鏡
かがみ
にしばしとどまります。
鏡
かがみ
は
回転
かいてん
するので、
照
て
らし
出
だ
した
物体
ぶったい
をちらっと
見
み
せては
裏返
うらがえ
し、そしてまたすばやく
裏返
うらがえ
すというように、
繰
く
り
返
かえ
し
反転
はんてん
します。
映画
えいが
のフィルムは
一秒
いちびょう
二十四
にじゅうよん
コマで
連続
れんぞく
した
動作
どうさ
を
映
うつ
し
出
だ
せますが、
鏡
かがみ
の
反転
はんてん
の
速度
そくど
はそれよりも
速
はや
いので、
見
み
た
目
め
ではつながっており、
非常
ひじょう
にきれいに
見
み
えます。これが
遠隔
えんかく
透視
とうし
です。
遠隔
えんかく
透視
とうし
の
道理
どうり
はこんなにも
簡単
かんたん
なものなのです。これらはみな
秘密
ひみつ
の
中
なか
の
秘密
ひみつ
ですが、わたしは
二言
ふたこと
三言
みこと
でそれを
明
あき
らかにしました。
(四)
空間
くうかん
空間
くうかん
は、われわれには
非常
ひじょう
に
複雑
ふくざつ
なものに
映
うつ
ります。われわれ
人類
じんるい
は
人類
じんるい
が
現在
げんざい
存在
そんざい
する
空間
くうかん
しか
知
し
らず、その
他
ほか
の
空間
くうかん
についてはまだ
探
さぐ
り
出
だ
す
手
て
だてがありませんが、われわれ
気功
きこう
師
し
はすでに
数十
すうじゅう
次元
じげん
もの
空間
くうかん
を
見
み
ました。
理論
りろん
の
上
うえ
でもそれを
説明
せつめい
できます。しかし
科学
かがく
ではまだそれを
証明
しょうめい
することができません。
一部
いちぶ
のものはあなたがその
存在
そんざい
を
認
みと
めなくても、すでにまぎれもなくわれわれの
空間
くうかん
に
反映
はんえい
されてきました。たとえば、
世界
せかい
にバミューダ
群島
ぐんとう
というところがあり、
魔
ま
の
三角
さんかく
地帯
ちたい
と
呼
よ
ばれています。
船
ふね
がそこへ
行
い
くと
行方不明
ゆくえふめい
になり、
飛行機
ひこうき
がそこへ
行
い
くと
消
き
えてしまいますが、
数
すう
年
ねん
後
ご
再
ふたた
び
現
あらわ
れてきます。
誰
だれ
もその
原因
げんいん
を
説明
せつめい
できませんし、
現
げん
人類
じんるい
の
思考
しこう
論理
ろんり
を
超
こ
えることもできません。
実
じつ
はそれはほかでもなく
他
た
の
空間
くうかん
への
通路
つうろ
なのです。そこにはわれわれの
門
もん
のようなきちんとした
門
もん
があるわけではなく、
陰陽
いんよう
がくいちがえばそういう
状態
じょうたい
になるのです。ですから、ちょうど
陰陽
いんよう
のくいちがいにより
門
もん
が
間違
まちが
って
開
ひら
いているときに
船
ふね
が
出
で
くわしてしまえば、
簡単
かんたん
に
入
はい
ってしまいます。
人間
にんげん
はこの
空間
くうかん
の
差
さ
を
感
かん
じられないので、
一瞬
いっしゅん
のうちに
入
はい
ってしまうのです。それとわれわれの
時空
じくう
との
差
さ
は、
距離
きょり
で
表
あらわ
すことができません。
十万
じゅうまん
八千里
はっせんり
のような
距離
きょり
は、そこではほんのわずかなもので、
同
おな
じ
時間
じかん
、
同
おな
じ
空間
くうかん
に
存在
そんざい
しています。
船
ふね
が
入
はい
ってしばらくゆらゆらすると、
陰陽
いんよう
のくいちがいによりまた
出
で
てきます。しかしこの
世
よ
ではすでに
数十年
すうじゅうねん
が
過
す
ぎ
去
さ
っています。
二
ふた
つの
空間
くうかん
の
時間
じかん
が
異
こと
なるからです。どの
空間
くうかん
にもさらに
単元
たんげん
世界
せかい
があります。あたかもわれわれの
描
えが
く
原子
げんし
の
構造図
こうぞうず
のように、
一
ひと
つの
球
たま
に
一本
いっぽん
の
連結
れんけつ
線
せん
があり、どこまでも
球
たま
がつながり、どこにも
連結
れんけつ
線
せん
がありますので、きわめて
複雑
ふくざつ
です。
第
だい
二次
にじ
世界
せかい
大戦
たいせん
の
四年
よねん
前
まえ
に、イギリス
空軍
くうぐん
のあるパイロットが
任務
にんむ
遂行
すいこう
中
ちゅう
に、
暴風雨
ぼうふうう
に
出会
であ
いましたが、
日頃
ひごろ
の
経験
けいけん
に
頼
たよ
って
廃棄
はいき
された
空港
くうこう
を
見
み
つけました。
空港
くうこう
が
目
め
の
前
まえ
に
現
あらわ
れたとき、
突然
とつぜん
、
空一面
そらいちめん
雲
くも
ひとつないというまったく
違
ちが
う
光景
こうけい
が
現
あらわ
れ、まるで
別
べつ
の
世界
せかい
から
抜
ぬ
け
出
だ
してきたかのようでした。
空港
くうこう
にある
飛行機
ひこうき
はすでに
黄色
きいろ
に
塗
ぬ
り
上
あ
げられ、
地面
じめん
では
人々
ひとびと
が
忙
いそが
しく
動
うご
き
回
まわ
っていました。
彼
かれ
は
非常
ひじょう
に
不思議
ふしぎ
に
思
おも
いました!
着陸
ちゃくりく
してからも
誰
だれ
もかまってくれる
人
ひと
がいないし、
管制塔
かんせいとう
も
彼
かれ
と
交信
こうしん
しようとしません。
空
そら
も
晴
は
れてきたのでさあ
帰
かえ
ろうかと、
彼
かれ
はまた
飛
と
び
立
た
ちました。
空港
くうこう
を
飛
と
び
去
さ
って、
先
さき
ほど
空港
くうこう
が
見
み
えたあたりに
来
く
ると、またもや
暴風雨
ぼうふうう
の
中
なか
に
飛
と
び
込
こ
みましたが、
結局
けっきょく
なんとか
帰
かえ
ることができました。
彼
かれ
は
一部始終
いちぶしじゅう
を
報告
ほうこく
し、
飛行
ひこう
記録
きろく
も
書
か
きましたが、
上司
じょうし
は
信
しん
じてくれません。
四年
よねん
後
ご
、
第二次
だいにじ
世界
せかい
大戦
たいせん
が
勃発
ぼっぱつ
し、
彼
かれ
はその
廃棄
はいき
された
空港
くうこう
へ
配置
はいち
転換
てんかん
されたのですが、たちまち
四年
よねん
前
まえ
の
光景
こうけい
が
思
おも
い
出
だ
され、
目
め
の
前
まえ
のとそっくりだったということに
気
き
がつきました。われわれ
気功
きこう
師
し
にはこれがどういうことなのかよく
分
わ
かります。
彼
かれ
は
四年
よねん
後
ご
のことを
先
さき
んじて
一通
ひととお
りしてきたにほかなりません。
時間
じかん
に
先
さき
んじてそこへ
行
い
って
一幕
ひとまく
を
演
えん
じてきたわけで、
第一
だいいち
幕
まく
がまだ
始
はじ
まらないうちに
先
さき
に
一幕
ひとまく
を
演
えん
じてきて、それから
戻
もど
って
順番
じゅんばん
通
どお
りに
演
えん
じるわけです。
五、
気功
きこう
治療
ちりょう
と
病院
びょういん
治療
ちりょう
理論
りろん
から
言
い
って、
気功
きこう
治療
ちりょう
と
病院
びょういん
治療
ちりょう
とはまったく
違
ちが
います。
西洋
せいよう
医
い
が
病気
びょうき
を
治療
ちりょう
する
際
さい
に
用
もち
いるのは、
化学
かがく
検査
けんさ
であれレントゲン
検査
けんさ
であれ、
常人
じょうじん
社会
しゃかい
の
手法
しゅほう
ですので、この
空間
くうかん
における
病
やまい
の
様相
ようそう
しか
観察
かんさつ
することができず、
他
た
の
空間
くうかん
の
信息
しんそく
を
見
み
ることも、
発病
はつびょう
の
原因
げんいん
の
所在
しょざい
を
見
み
ることもできません。もしその
病気
びょうき
が
比較的
ひかくてき
軽
かる
ければ、
薬物
やくぶつ
で
病原
びょうげん
(
西洋
せいよう
医
い
で
言
い
う
病毒
びょうどく
、
気功
きこう
で
言
い
う
業
ごう
)を
殺
ころ
したり
追
お
い
払
はら
ったりできます。しかし、
病気
びょうき
が
重
おも
い
場合
ばあい
、
薬物
やくぶつ
が
役
やく
に
立
た
たなくなり、
薬物
やくぶつ
の
量
りょう
を
増
ふ
やせば
患者
かんじゃ
が
耐
た
えられなくなります。なぜなら
病気
びょうき
というのは、
全部
ぜんぶ
が
全部
ぜんぶ
世間
せけん
法
ほう
の
枠
わく
にとどまっているものではなく、
一部
いちぶ
の
病気
びょうき
はかなり
重
おも
く、
世間
せけん
法
ほう
の
範囲
はんい
を
超
こ
えており、
病院
びょういん
では
治療
ちりょう
できないからです。
漢方
かんぽう
は、
我
わ
が
国
くに
伝統
でんとう
の
医学
いがく
であり、
人体
じんたい
の
修煉
しゅうれん
や
特異
とくい
功能
こうのう
と
一体
いったい
となっています。
古代
こだい
では
人体
じんたい
の
修煉
しゅうれん
を
非常
ひじょう
に
重視
じゅうし
し、
儒家
じゅか
をはじめ
道家
どうけ
、
佛家
ぶっけ
、さらには
儒学
じゅがく
生
せい
までも
坐禅
ざぜん
を
重
おも
んじていました。
坐禅
ざぜん
は
一種
いっしゅ
の
功夫
こうふ
であり、
煉功
れんこう
をしていなくても、
時間
じかん
が
経
た
つうちに、
功
こう
と
功能
こうのう
をもつようになります。
漢方
かんぽう
の
鍼灸
しんきゅう
はなぜ
人体
じんたい
の
経絡
けいらく
についてあれほどはっきり
分
わ
かっているのでしょうか? ツボとツボがなぜ
横
よこ
につながらないのか? なぜ
交錯
こうさく
してつながらないのか? なぜ
縦
たて
につながっているのか? どうしてあんなに
正確
せいかく
に
描
えが
かれているのでしょうか?
現代
げんだい
の
特異
とくい
功能
こうのう
をもつ
者
もの
が
目
め
で
見
み
たものと
漢方
かんぽう
が
描
えが
いたものとは
一致
いっち
していますが、それは
古代
こだい
の
名医
めいい
がたいてい
特異
とくい
功能
こうのう
をもっていたからです。
我
わ
が
国
くに
の
歴史
れきし
上
じょう
における
李時珍
りじちん
をはじめ、
孫思邈
そんしばく
、
扁鵲
へんじゃく
、
華佗
かだ
などは、
実
じつ
はみんな
特異
とくい
功能
こうのう
をもつ
気功
きこう
大師
だいし
でした。
漢方
かんぽう
は
今日
こんにち
まで
伝
つた
えられてくる
間
あいだ
に、
功能
こうのう
の
部分
ぶぶん
を
失
うしな
い、
手法
しゅほう
のみが
残
のこ
りました。
昔
むかし
、
漢方
かんぽう
は
目
め
(
特異
とくい
功能
こうのう
を
含
ふく
む)で
診察
しんさつ
を
行
おこ
なっていましたが、その
後
ご
、
脈
みゃく
を
見
み
る
方法
ほうほう
が
考案
こうあん
されました。もし
漢方
かんぽう
の
治療
ちりょう
方法
ほうほう
に
特異
とくい
功能
こうのう
の
方法
ほうほう
が
加
くわ
われば、あと
何年
なんねん
経
た
とうと
西洋
せいよう
の
医学
いがく
は
中国
ちゅうごく
の
漢方
かんぽう
に
追
お
いつけません。
気功
きこう
による
治療
ちりょう
とは、
根本
こんぽん
から
発病
はつびょう
の
原因
げんいん
を
取
と
り
除
のぞ
くことです。わたしに
言
い
わせれば、
病気
びょうき
とは
一種
いっしゅ
の「
業
ごう
」であり、それを
治療
ちりょう
するのは、
業
ごう
を
消
け
す
手助
てだす
けをすることにほかなりません。
病気
びょうき
の
治療
ちりょう
に
際
さい
して
黒
くろ
い
気
き
を
追
お
い
出
だ
すことを
重
おも
んじる
気功
きこう
師
し
がおり、
気
き
の
排出
はいしゅつ
と
補給
ほきゅう
により、ごく
浅
あさ
い
次元
じげん
では
黒
くろ
い
気
き
を
追
お
い
出
だ
すことができたとしても、
彼
かれ
には
黒
くろ
い
気
き
を
生
う
み
出
だ
す
根本的
こんぽんてき
な
原因
げんいん
が
分
わ
かりません。ですから
黒
くろ
い
気
き
が
再
ふたた
び
戻
もど
り、
病気
びょうき
が
再発
さいはつ
します。
実
じつ
は、
黒
くろ
い
気
き
が
発病
はつびょう
の
原因
げんいん
ではなく、
黒
くろ
い
気
き
がその
人
ひと
に
苦痛
くつう
を
与
あた
えているだけです。その
人
ひと
に
発病
はつびょう
させている
根本的
こんぽんてき
な
原因
げんいん
は、
他
た
の
空間
くうかん
に
霊体
れいたい
があるからです。
多
おお
くの
気功
きこう
師
し
はこのことが
分
わ
かりません。その
霊体
れいたい
が
非常
ひじょう
に
手強
てごわ
いものなので、
普通
ふつう
それにはさわれませんし、さわる
勇気
ゆうき
もありません。
法輪功
ファールンゴン
は
病気
びょうき
を
治療
ちりょう
するとき、その
霊体
れいたい
に
照準
しょうじゅん
を
定
さだ
めて、
発病
はつびょう
の
根本
こんぽん
原因
げんいん
となるものを
取
と
り
除
のぞ
き、しかも
病気
びょうき
のあった
部位
ぶい
に
覆
おお
いをかけ、
病
やまい
が
再
ふたた
び
侵入
しんにゅう
しないようにするのです。
気功
きこう
は
病気
びょうき
を
治療
ちりょう
することができます。しかし、
常人
じょうじん
社会
しゃかい
の
状態
じょうたい
を
撹乱
かくらん
するわけにはいきません。もし
広範囲
こうはんい
にわたってそれを
用
もち
いれば、
常人
じょうじん
社会
しゃかい
の
状態
じょうたい
を
撹乱
かくらん
することになります。そんなことは
許
ゆる
されませんし、
良
よ
い
効果
こうか
も
得
え
られません。
皆
みな
さんが
知
し
っているように、およそ
気功
きこう
診療所
しんりょうしょ
や、
気功
きこう
病院
びょういん
、
気功
きこう
リハビリセンターを
開設
かいせつ
する
場合
ばあい
、
開設
かいせつ
されるまでは
治療
ちりょう
効果
こうか
がけっこう
悪
わる
くないかもしれませんが、いったん
開業
かいぎょう
して
病気
びょうき
治療
ちりょう
を
始
はじ
めると、
効果
こうか
ががたっと
落
お
ちてしまいます。つまり、
超常
ちょうじょう
の
法
ほう
で
常人
じょうじん
社会
しゃかい
の
職能
しょくのう
を
代行
だいこう
することは
許
ゆる
されないということです。そういうことをすれば、
間違
まちが
いなく
常人
じょうじん
社会
しゃかい
の
法
ほう
と
同
おな
じ
低
ひく
さになりさがります。
特異
とくい
功能
こうのう
で
人体
じんたい
を
透視
とうし
する
場合
ばあい
、スライスするように、
一
ひと
つ
一
ひと
つの
断面
だんめん
を
見
み
ることができ、
軟体
なんたい
組織
そしき
や
身体
からだ
のいかなる
部位
ぶい
をも
見
み
ることができます。
現在
げんざい
のCTスキャンは、はっきり
見
み
ることができますが、しかしそれはなんといっても
機械
きかい
を
使
つか
っており、
非常
ひじょう
に
時間
じかん
がかかります。
多
おお
くのフィルムを
使
つか
いますし、
時間
じかん
もお
金
かね
もかかります。
人間
にんげん
の
特異
とくい
功能
こうのう
はそれに
比
くら
べて
便利
べんり
であり、
正確
せいかく
です。
気功
きこう
師
し
は
目
め
を
閉
と
じてちらっと
見
み
ただけで、
患者
かんじゃ
のいかなる
部位
ぶい
をも
直接
ちょくせつ
見
み
ることができます。これは、
現代
げんだい
の
科学技術
かがくぎじゅつ
よりも
進
すす
んだ
高度
こうど
な
科学技術
かがくぎじゅつ
だといえませんか? しかし、
実
じつ
は
中国
ちゅうごく
の
古代
こだい
ですでにこのような
水準
すいじゅん
に
達
たっ
していました。つまり、これは
古代
こだい
からあった
高度
こうど
な
科学技術
かがくぎじゅつ
なのです。
華佗
かだ
は
曹操
そうそう
の
頭
あたま
のなかに
腫瘍
しゅよう
があるのが
見
み
えて、
手術
しゅじゅつ
をしてあげようとしました。
曹操
そうそう
はそれを
受
う
け
入
い
れることができず、
自分
じぶん
を
殺害
さつがい
しようとしているのだと
思
おも
いこみ、
華佗
かだ
を
捕
つか
まえましたが、
結局
けっきょく
曹操
そうそう
は
脳
のう
の
腫瘍
しゅよう
で
亡
な
くなりました。
歴史
れきし
上
じょう
の
多
おお
くの
偉大
いだい
な
漢方医
かんぽうい
にはみな
特異
とくい
功
こう
能
のう
がありましたが、
現代
げんだい
社会
しゃかい
では
人々
ひとびと
が
過度
かど
に
現実
げんじつ
のものを
求
もと
めているために、
古
ふる
い
伝統
でんとう
が
忘却
ぼうきゃく
されているだけです。
われわれの
高
たか
い
次元
じげん
における
気功
きこう
修煉
しゅうれん
は、
伝統的
でんとうてき
なものを
改
あらた
めて
認識
にんしき
し、
再
ふたた
び
人類
じんるい
社会
しゃかい
に
幸福
こうふく
をもたらすように、
実践
じっせん
においてそれを
継承
けいしょう
し、
広
ひろ
めていこうとすることです。
六、
佛家
ぶっけ
気功
きこう
と
佛教
ぶっきょう
われわれが
佛家
ぶっけ
気功
きこう
と
言
い
うと、
多
おお
くの
人
ひと
がすぐに、
佛家
ぶっけ
が
佛道
ぶつどう
を
修
おさ
めるものだというように
連想
れんそう
し、
佛教
ぶっきょう
の
中
なか
のことを
思
おも
い
浮
う
かべます。しかし、ここではっきり
断
ことわ
っておきますが、
法輪功
ファールンゴン
は
佛家
ぶっけ
気功
きこう
であり、
正伝
しょうでん
大法
ダーファ
であって、
佛教
ぶっきょう
とはかかわりがありません。
佛家
ぶっけ
気功
きこう
は
佛家
ぶっけ
気功
きこう
であり、
佛教
ぶっきょう
は
佛教
ぶっきょう
です。
修煉
しゅうれん
の
目的
もくてき
は
同
おな
じですが、
歩
あゆ
む
道
みち
は
違
ちが
いますし、
同
おな
じ
法門
ほうもん
ではなく、
要求
ようきゅう
も
異
こと
なります。ここで「
佛
ほとけ
」という
字
じ
に
触
ふ
れておきましょう。
高
たか
い
次元
じげん
で
功
こう
を
説
と
くときに
再
ふたた
びこれに
触
ふ
れることになるのですが、それ
自身
じしん
には
何
なに
も
迷信的
めいしんてき
な
色彩
しきさい
はありません。「
佛
ほとけ
」と
聞
き
けば
大騒
おおさわ
ぎし、あなたが
迷信
めいしん
を
宣伝
せんでん
していると
責
せ
める
人
ひと
がいますが、そんなことはありません。「
佛
フォー
」はもともと
梵語
ぼんご
で、インドから
伝
つた
わってきたものであり、「
佛陀
フォートゥー
」(Buddha)という
音訳
おんやく
の
二文字
ふたもじ
でしたが、「
陀
た
」が
省略
しょうりゃく
されて、「
佛
ぶつ
」になりました。
中国語
ちゅうごくご
に
翻訳
ほんやく
すれば、「
覚者
かくしゃ
」、すなわち
悟
さと
りを
開
ひら
いた
人
ひと
ということになります(『
辞海
じかい
』)。
(一)
佛家
ぶっけ
気功
きこう
現在
げんざい
伝
つた
えられている
佛家
ぶっけ
気功
きこう
は、
二種類
にしゅるい
あります。
一
ひと
つは
佛教
ぶっきょう
から
分離
ぶんり
したもので、
数千年
すうせんねん
の
発展
はってん
の
過程
かてい
で、
多
おお
くの
高僧
こうそう
を
輩出
はいしゅつ
しました。
彼
かれ
らは、
修煉
しゅうれん
によって
非常
ひじょう
に
高
たか
い
次元
じげん
まで
達
たっ
したときに、
師
し
からなんらかのものを
授
さず
かって、さらに
高
たか
い
次元
じげん
の
直伝
じきでん
を
得
え
ます。これらのものは
昔
むかし
、
佛教
ぶっきょう
の
中
なか
では
一人
ひとり
にしか
伝
つた
えませんでした。
高僧
こうそう
がいよいよこの
世
よ
を
去
さ
ろうとするときになって、はじめて
一人
ひとり
の
弟子
でし
に
伝
つた
えるものであり、それは
佛教
ぶっきょう
の
理論
りろん
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
し、
全体
ぜんたい
の
向上
こうじょう
を
目指
めざ
すものです。たしかにこのような
気功
きこう
は、
佛教
ぶっきょう
と
密接
みっせつ
なつながりがあるように
見
み
えます。その
後
ご
、たとえば「
文化大革命
ぶんかだいかくめい
」のときに、
僧侶
そうりょ
たちが
寺
てら
から
追
お
い
出
だ
されたので、これらの
功法
こうほう
は
民間
みんかん
に
落
お
ち、
民間
みんかん
で
大
おお
いに
発展
はってん
しました。
もう
一
ひと
つも
佛家
ぶっけ
気功
きこう
ですが、この
佛家
ぶっけ
気功
きこう
は
歴代
れきだい
において、
佛教
ぶっきょう
とかかわりをもったことがなく、ずっと
民間
みんかん
あるいは
山奥
やまおく
で
静
しず
かに
修煉
しゅうれん
していました。このような
功法
こうほう
には
独特
どくとく
なところがあって、いずれも
良
よ
い
弟子
でし
、
本当
ほんとう
に
高
たか
い
次元
じげん
へ
修煉
しゅうれん
できる
大徳
だいとく
をもった
人
ひと
を
選
えら
ぶのが
条件
じょうけん
となっています。このような
人
ひと
は、
長
なが
い
間
あいだ
に
一人
ひとり
しか
現
あらわ
れません。この
功法
こうほう
は
公
おおやけ
にされてはならないものであって、
心性
しんせい
に
対
たい
する
要求
ようきゅう
が
高
たか
く、
功
こう
の
伸
の
びもきわめて
速
はや
いのです。このような
功法
こうほう
は
数多
かずおお
くあります。これは
道家
どうけ
も
同
おな
じであり、
同
おな
じく
道家
どうけ
功
こう
でありながら、
昆侖
こんろん
派
は
、
峨嵋
がび
派
は
、
武当
ぶとう
派
は
などなどの
区別
くべつ
があります。どの
派
は
にもさらに
違
ちが
う
法門
ほうもん
があり、どの
門
もん
の
功法
こうほう
も
大
おお
きく
異
こと
なっており、
混同
こんどう
して
修煉
しゅうれん
してはいけません。
(二)
佛教
ぶっきょう
佛教
ぶっきょう
は
二千年
にせんねん
あまり
前
まえ
に、
釈迦牟尼
しゃかむに
がインドに
本来
ほんらい
あった
修煉
しゅうれん
の
基礎
きそ
をふまえて
自
みずか
ら
証悟
しょうご
した、
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
です。それを
概括
がいかつ
すれば、「
戒
かい
・
定
じょう
・
慧
え
」の
三文字
さんもじ
にまとめることができます。「
戒
かい
」は「
定
じょう
」のためにあります。
佛教
ぶっきょう
は
煉功
れんこう
を
唱
とな
えませんが、
実際
じっさい
は
煉功
れんこう
しており、「
定
じょう
」になってそこに
坐
すわ
ればすなわち
煉功
れんこう
です。なぜなら
人間
にんげん
が
静
せい
の
状態
じょうたい
に
入
はい
り、
入定
にゅうじょう
すれば、
宇宙
うちゅう
のエネルギーが
彼
かれ
の
身体
からだ
に
集
あつ
まり、
煉功
れんこう
の
役割
やくわり
を
果
は
たすことになるからです。
佛教
ぶっきょう
の「
戒
かい
」は、
常人
じょうじん
のもつ
欲望
よくぼう
を
断
た
ち、
常人
じょうじん
が
執着
しゅうちゃく
するあらゆるものを
捨
す
て
去
さ
ることであり、それによって
清静
せいせい
無為
むい
の
状態
じょうたい
に
達
たっ
すれば、「
定
じょう
」に
入
はい
ることができます。そして、「
定
じょう
」のなかで
絶
た
えず
次元
じげん
を
高
たか
めていくと、
悟
さと
りを
開
ひら
き、
慧
え
を
開
ひら
き、
宇宙
うちゅう
を
認識
にんしき
して、
宇宙
うちゅう
の
真相
しんそう
を
見
み
ることになります。
釈迦牟尼
しゃかむに
は
伝法
でんぽう
を
始
はじ
めた
頃
ころ
、
一日
いちにち
に
三
みっ
つのことしかしませんでした。
説法
せっぽう
し(
主
おも
に
羅漢
らかん
法
ほう
を
伝
つた
えた)、
弟子
でし
に
法
ほう
を
聞
き
かせること。
鉢
はち
(お
椀
わん
)を
持
も
ってお
布施
ふせ
を
乞
こ
う(
乞食
こじき
をする)こと。そして
坐禅
ざぜん
して
実際
じっさい
に
修行
しゅぎょう
することの
三
みっ
つです。
釈迦牟尼
しゃかむに
がこの
世
よ
を
去
さ
ったあと、バラモン
教
きょう
と
佛教
ぶっきょう
の
闘
たたか
いが
起
お
こり、
結局
けっきょく
二
ふた
つの
宗教
しゅうきょう
が
一
ひと
つにまとまって、ヒンズー
教
きょう
となりました。ですから、
現在
げんざい
のインドには
佛教
ぶっきょう
がありません。その
後
ご
の
発展
はってん
と
変遷
へんせん
の
中
なか
で、
大乗
だいじょう
佛教
ぶっきょう
が
現
あらわ
れました。
中国
ちゅうごく
内地
ないち
に
伝
つた
わった
現在
げんざい
の
佛教
ぶっきょう
がそれです。
大乗
だいじょう
佛教
ぶっきょう
は
釈迦牟尼
しゃかむに
のみを
始祖
しそ
として
信仰
しんこう
するのではなく、
多佛
たぶつ
信仰
しんこう
であり、
多
おお
くの
如来
にょらい
や
阿弥陀佛
あみだぶつ
、
薬師佛
やくしぶつ
などを
信仰
しんこう
します。
戒律
かいりつ
も
増
ふ
え、
修煉
しゅうれん
の
目標
もくひょう
も
高
たか
くなりました。
当時
とうじ
、
釈迦牟尼
しゃかむに
が
個別
こべつ
の
弟子
でし
の
間
あいだ
に
菩薩
ぼさつ
法
ほう
を
伝
つた
えたことがありますが、
後
のち
にそれらのものが
整理
せいり
され、
今日
こんにち
のような
菩薩
ぼさつ
界
かい
を
修
おさ
める
大乗
だいじょう
佛教
ぶっきょう
に
発展
はってん
しました。
現在
げんざい
の
東南
とうなん
アジアあたりでは、
依然
いぜん
小乗
しょうじょう
佛教
ぶっきょう
の
伝統
でんとう
が
守
まも
られており、
神通力
じんつうりき
によって
法事
ほうじ
を
行
おこな
っています。
佛教
ぶっきょう
の
変遷
へんせん
の
過程
かてい
で、
一
ひと
つの
流派
りゅうは
が
我
わ
が
国
くに
のチベットに
伝
つた
わり、
藏密
ぞうみつ
と
称
しょう
されるようになりました。また、
新疆
しんきょう
を
経
へ
て
漢民族
かんみんぞく
の
地域
ちいき
に
伝
つた
わった
流派
りゅうは
があり、
唐密
とうみつ
(
会昌
かいしょう
年間
ねんかん
「
滅佛
めつぶつ
」の
後
あと
に
消失
しょうしつ
した)と
称
しょう
されています。いま
一
ひと
つの
流派
りゅうは
は、インドで
形成
けいせい
された
瑜珈
ヨガ
功
こう
です。
佛教
ぶっきょう
では、
煉功
れんこう
を
唱
とな
えず、
気功
きこう
もやりませんが、これは
佛教
ぶっきょう
の
伝統的
でんとうてき
な
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
を
守
まも
るためであり、
佛教
ぶっきょう
が
広
ひろ
まって
二千年
にせんねん
以上
いじょう
経
た
っても
衰
おとろ
えない
重要
じゅうよう
な
要因
よういん
でもあります。
外来
がいらい
のものを
受
う
け
入
い
れなかったからこそ、それ
自身
じしん
の
伝統
でんとう
を
守
まも
りやすかったのです。
佛教
ぶっきょう
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
も
完全
かんぜん
に
同
おな
じではありません。
小乗
しょうじょう
佛教
ぶっきょう
が
自分
じぶん
自身
じしん
の
済度
さいど
、
自分
じぶん
自身
じしん
の
修煉
しゅうれん
に
重
おも
きを
置
お
いているのに
対
たい
して、
大乗
だいじょう
佛教
ぶっきょう
は
自分
じぶん
を
済度
さいど
し、
他人
たにん
も
済度
さいど
し、
衆生
しゅじょう
を
普
あまね
く
済度
さいど
するよう
発展
はってん
してきました。
七、
正法
しょうぼう
と
邪法
じゃほう
(一)
旁門左道
ぼうもんさどう
旁門左道
ぼうもんさどう
は
奇門
きもん
修煉
しゅうれん
とも
言
い
います。
宗教
しゅうきょう
が
現
あらわ
れる
以前
いぜん
に、
各
かく
気功
きこう
はすでに
存在
そんざい
していました。
宗教
しゅうきょう
以外
いがい
の
功法
こうほう
も
民間
みんかん
で
多
おお
く
伝
つた
わっていますが、それらのほとんどは
整
ととの
った
修煉
しゅうれん
体系
たいけい
を
成
な
しておらず、
整
ととの
った
理論
りろん
ももっていません。それに
対
たい
して
奇門
きもん
修煉
しゅうれん
法
ほう
には、
系統的
けいとうてき
で
完璧
かんぺき
な
特殊
とくしゅ
強化
きょうか
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
があり、
同
おな
じく
民間
みんかん
で
伝承
でんしょう
されています。この
類
たぐ
いの
功法
こうほう
は
通常
つうじょう
、
旁門左道
ぼうもんさどう
と
呼
よ
ばれます。どうして
旁門左道
ぼうもんさどう
と
呼
よ
ばれるのでしょうか?
字面
じづら
から
見
み
て、
旁門
ぼうもん
とは
別
べつ
に
開
ひら
かれた
門
もん
、
左道
さどう
とは
不器用
ぶきよう
という
意味
いみ
です。
佛
ぶつ
、
道
どう
両家
りょうけ
の
修煉
しゅうれん
法
ほう
が
正法
しょうぼう
で、その
他
ほか
の
功法
こうほう
はみな
旁門左道
ぼうもんさどう
、あるいは
邪法
じゃほう
と
思
おも
われていますが、
実
じつ
はそうではありません。
旁門左道
ぼうもんさどう
は
歴代
れきだい
、ずっと
密
ひそ
かに
修煉
しゅうれん
され、
個別
こべつ
に
伝承
でんしょう
されており、
人
ひと
に
見
み
せてはいけないものなのです。ですから、たとえ
公
おおやけ
にされても、
人々
ひとびと
はそれをあまり
理解
りかい
できません。
彼
かれ
ら
自身
じしん
もその
功法
こうほう
を「
佛
ほとけ
に
非
あら
ず
道
どう
に
非
あら
ず」と
称
しょう
しています。その
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
には
心性
しんせい
に
対
たい
する
厳
きび
しい
要求
ようきゅう
があり、
修煉
しゅうれん
は
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
に
従
したが
って
行
おこな
われており、
善
ぜん
を
行
おこな
うことや
心性
しんせい
を
守
まも
ることを
重
おも
んじます。その
中
なか
の
優
すぐ
れた
人
ひと
は、みな
奥
おく
の
手
て
をもっており、
独特
どくとく
の
技能
ぎのう
にはすごいものがあります。わたしは
奇門
きもん
の
優
すぐ
れた
人
ひと
三人
さんにん
に
出会
であ
い、いくつかのものを
伝授
でんじゅ
してもらいましたが、
佛
ぶつ
、
道
どう
両家
りょうけ
のどちらにも
見
み
られないものでした。これらのものは
修煉
しゅうれん
の
過程
かてい
においていずれもかなり
難
むずか
しく、
修煉
しゅうれん
して
得
え
た
功
こう
も
非常
ひじょう
に
独特
どくとく
なものです。それに
対
たい
して、
現在
げんざい
伝
つた
わっている
一部
いちぶ
のいわゆる
佛
ぶつ
、
道
どう
両家
りょうけ
の
功法
こうほう
の
中
なか
には、
心性
しんせい
への
厳
きび
しい
要求
ようきゅう
をもたないものがあり、そのために
高
たか
くへは
修煉
しゅうれん
できません。ですから
各家
かくか
の
功法
こうほう
に
対
たい
しては、
弁証
べんしょう
的
てき
に
見
み
なければなりません。
(二)
武術
ぶじゅつ
気功
きこう
武術
ぶじゅつ
気功
きこう
は
長
なが
い
歴史
れきし
のなかで
形成
けいせい
されたもので、
整
ととの
った
理論
りろん
体系
たいけい
や
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
があり、
独自
どくじ
の
体系
たいけい
を
成
な
しています。しかし
厳密
げんみつ
に
言
い
えば、それは
内修
ないしゅう
功法
こうほう
の
最
もっと
も
低
ひく
い
次元
じげん
に
顕現
けんげん
した
功能
こうのう
の
現
あらわ
れです。
武術
ぶじゅつ
修煉
しゅうれん
に
現
あらわ
れた
功能
こうのう
は、
内修
ないしゅう
功法
こうほう
の
中
なか
でみな
現
あらわ
れるのです。
武術
ぶじゅつ
気功
きこう
の
修煉
しゅうれん
は、
気
き
を
練
ね
るところから
始
はじ
まります。たとえば
石
いし
を
割
わ
るとき、
初
はじ
めは
腕
うで
を
振
ふ
り
回
まわ
して
気
き
を
巡
めぐ
らせますが、
時間
じかん
が
経
た
てば、
気
き
が
質的
しつてき
変化
へんか
を
起
お
こして、ある
種
しゅ
の
光
ひかり
のようなエネルギーの
塊
かたまり
を
形成
けいせい
します。この
程度
ていど
に
達
たっ
すれば、
功
こう
は
役
やく
に
立
た
つようになります。なぜなら
功
こう
は
高次
こうじ
物質
ぶっしつ
であり、
霊性
れいせい
を
帯
お
びているからです。それは
大脳
だいのう
思惟
しい
の
制御
せいぎょ
を
受
う
けますが、
他
た
の
空間
くうかん
に
存在
そんざい
しています。
攻撃
こうげき
のとき、
気
き
を
巡
めぐ
らせるまでもなく、
思
おも
っただけで
功
こう
がやってきます。
修煉
しゅうれん
するにつれて、
功
こう
はますます
強化
きょうか
され、
粒子
りゅうし
が
細
こま
かくなり、エネルギーが
増大
ぞうだい
して、「
鉄砂掌
てっさしょう
」、「
朱砂掌
しゅさしょう
」のような
功夫
こうふ
が
現
あらわ
れるようになります。
映画
えいが
やテレビ、
雑誌
ざっし
では、
近年
きんねん
「
金鐘罩
きんしょうとう
」、「
鉄布衫
てっぷさん
」の
技能
ぎのう
が
現
あらわ
れましたが、それは
武術
ぶじゅつ
と
内修
ないしゅう
功法
こうほう
を
同時
どうじ
に
修
おさ
めた
結果
けっか
であり、
内外
ないがい
兼修
けんしゅう
によって
得
え
られたものです。
内修
ないしゅう
をするには、
徳
とく
を
重
おも
んじなければならず、
心性
しんせい
を
修
おさ
めなければなりません。
理論
りろん
から
言
い
えば、その
功夫
こうふ
が
一定
いってい
のレベルに
達
たっ
すると、
功
こう
が
体内
たいない
から
発
はっ
せられ、
体外
たいがい
に
打
う
ち
放
はな
たれますが、
密度
みつど
が
高
たか
いので、
防護
ぼうご
の
覆
おお
いができあがります。
理論的
りろんてき
に
言
い
って、
武術
ぶじゅつ
気功
きこう
とわれわれの
内修
ないしゅう
功法
こうほう
との
最大
さいだい
の
違
ちが
いは、
武術
ぶじゅつ
は
激
はげ
しい
運動
うんどう
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
しており、
入静
にゅうせい
が
取
と
り
入
い
れられていないということです。
入静
にゅうせい
しなければ、
気
き
が
皮膚
ひふ
の
下
した
を
走
はし
り、
筋肉
きんにく
を
貫
つらぬ
きますが、
丹田
たんでん
に
入
はい
らないので、
命
めい
を
修
おさ
めませんし、
修
おさ
めることもできません。
(三)
返修
へんしゅう
と
借功
しゃっこう
気功
きこう
をやったことがないのに、
一夜
いちや
のうちに
功
こう
を
得
え
る
人
ひと
がいます。その
人
ひと
はエネルギーがけっこう
大
おお
きく、
他人
たにん
の
病気
びょうき
も
治
なお
すことができますので、
人々
ひとびと
から
気功
きこう
師
し
とも
呼
よ
ばれ、
人
ひと
に
教
おし
えたりもしています。
中
なか
には
功法
こうほう
を
習
なら
ったことさえない
人
ひと
もいますし、いくつかの
動作
どうさ
を
習
なら
っただけなのに、それをちょっとアレンジしてすぐ
他
ほか
の
人
ひと
に
教
おし
える
人
ひと
もいます。このような
人
ひと
は、
気功
きこう
師
し
と
称
しょう
する
資格
しかく
がなく、
他人
たにん
に
伝承
でんしょう
するものを
何
なに
ももっていません。
彼
かれ
らの
教
おし
えているものは、
実際
じっさい
に
高
たか
い
次元
じげん
を
目指
めざ
して
修煉
しゅうれん
することができないもので、せいぜい
健康
けんこう
増進
ぞうしん
と
病気
びょうき
治療
ちりょう
ぐらいのものに
過
す
ぎません。このような
功
こう
はどのようにして
湧
わ
いてきたのでしょうか? まず「
返修
へんしゅう
」についてお
話
はな
しします。
返修
へんしゅう
は、
心性
しんせい
がきわめて
高
たか
く、
非常
ひじょう
に
良
よ
い
人
ひと
に
見
み
られます。
普通
ふつう
は
年
とし
をとっており、
五十歳
ごじゅっさい
以上
いじょう
で、
一
いち
から
修煉
しゅうれん
させるにはもう
間
ま
に
合
あ
わず、
性命双修
せいめいそうしゅう
の
立派
りっぱ
な
師
し
に
出会
であ
うこともなかなか
容易
ようい
ではありません。そこで、その
人
ひと
が
煉功
れんこう
しようと
思
おも
いたったとき、
上師
じょうし
が
彼
かれ
の
心性
しんせい
の
基礎
きそ
に、かなり
大
おお
きなエネルギーを
加
くわ
え、
上
うえ
から
下
した
へと
逆方向
ぎゃくほうこう
に
修煉
しゅうれん
させます。これでずいぶん
速
はや
くなります。
上師
じょうし
は
空中
くうちゅう
で
演化
えんか
して、
体外
たいがい
から
絶
た
えずその
人
ひと
にエネルギーを
注
そそ
ぎます。
特
とく
にその
人
ひと
が
病気
びょうき
治療
ちりょう
を
行
おこな
ったり、
大勢
おおぜい
集
あつ
めて
何
なに
かしたりする
場合
ばあい
、
上師
じょうし
からエネルギーがパイプを
流
なが
れるように
送
おく
られてくるのですが、
時々
ときどき
自分
じぶん
でもそれがどこから
来
き
たのか
分
わ
かりません。これが
返修
へんしゅう
です。
もう
一
ひと
つ「
借功
しゃっこう
」というのがあります。
借功
しゃっこう
は
年齢
ねんれい
に
制限
せいげん
がありません。
人間
にんげん
は
主
しゅ
意識
いしき
のほかに、
副
ふく
意識
いしき
もあり、
普通
ふつう
は、
副
ふく
意識
いしき
のほうが
主
しゅ
意識
いしき
より
次元
じげん
が
高
たか
いのです。
副
ふく
意識
いしき
の
次元
じげん
がかなり
高
たか
く、
覚者
かくしゃ
と
交流
こうりゅう
できる
人
ひと
もいますが、このような
人
ひと
が
煉功
れんこう
しようとすると、
副
ふく
意識
いしき
も
次元
じげん
を
高
たか
めようと
思
おも
うので、すぐさま
大
だい
覚者
かくしゃ
と
連絡
れんらく
をとって
功
こう
を
借
か
りてきます。
功
こう
を
貸
か
してもらったら、やはり
一夜
いちや
のうちに
功
こう
が
湧
わ
いてきます。
功
こう
を
得
え
てからは
同
おな
じく
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
すことができますし、
患者
かんじゃ
の
苦痛
くつう
を
解
と
いてあげることもできます。このような
人
ひと
は
通常
つうじょう
、
大勢
おおぜい
の
人
ひと
を
集
あつ
めて
治療
ちりょう
活動
かつどう
を
行
おこな
いますが、
個別
こべつ
にエネルギーを
授
さず
けたり、
手法
しゅほう
を
教
おし
えたりすることもできます。
普通
ふつう
、こういう
人
ひと
は、
初
はじ
めはけっこう
立派
りっぱ
です。ただ、
功
こう
を
身
み
につけると、
名声
めいせい
が
広
ひろ
がり、
名利
みょうり
とも
手
て
に
入
はい
るようになります。そして
名利
みょうり
が
頭
あたま
の
中
なか
で
大
おお
きな
比重
ひじゅう
を
占
し
め、
煉功
れんこう
を
超
こ
えるようになりますと、それ
以降
いこう
功
こう
が
堕
お
ちはじめ、
功
こう
がますます
減
へ
り、しまいには
何
なに
も
残
のこ
らなくなります。
(四)
宇宙
うちゅう
語
ご
突然
とつぜん
ある
種
しゅ
の
言語
げんご
をしゃべり
出
だ
す
人
ひと
がいます。けっこう
流暢
りゅうちょう
に
操
あやつ
るのですが、それは
人類
じんるい
社会
しゃかい
の
言語
げんご
ではありません。どんな
言語
げんご
でしょうか? それは
宇宙
うちゅう
語
ご
と
言
い
います。
宇宙
うちゅう
語
ご
とはいっても、あまり
高
たか
くはない
生命体
せいめいたい
の
言語
げんご
のひとつに
過
す
ぎません。
目下
もっか
国内
こくない
で
気功
きこう
をやる
人
ひと
のなかに、このような
状況
じょうきょう
が
少
すく
なからず
現
あらわ
れており、いくつもの
違
ちが
う
言語
げんご
を
操
あやつ
ることができる
人
ひと
もいます。もちろん、われわれ
人類
じんるい
社会
しゃかい
の
言語
げんご
もかなり
複雑
ふくざつ
で、
一千種類
いっせんしゅるい
以上
いじょう
あります。
宇宙
うちゅう
語
ご
は
功能
こうのう
と
言
い
えるのでしょうか? わたしはそうではないと
思
おも
います。それは
自分
じぶん
自身
じしん
の
功能
こうのう
でもなければ、
外
そと
から
与
あた
えられた
功能
こうのう
でもなく、
外来
がいらい
の
生命
せいめい
によって
制御
せいぎょ
されているものです。その
生命体
せいめいたい
は
比較的
ひかくてき
次元
じげん
の
高
たか
いところ、
少
すく
なくともわれわれ
人類
じんるい
より
少
すこ
し
高
たか
いところから
来
き
ており、ほかでもなくその
生命体
せいめいたい
がしゃべっているのです。
宇宙
うちゅう
語
ご
を
口
くち
にする
人間
にんげん
は
単
たん
に
媒介
ばいかい
の
役割
やくわり
を
果
は
たしているに
過
す
ぎません。ほとんどの
人
ひと
は、
何
なに
をしゃべっているのか
自分
じぶん
でも
分
わ
からず、「
他心
たしん
通
つう
」を
備
そな
えた
人
ひと
だけが、おおよその
意味
いみ
を
感
かん
じ
取
と
ることができます。
功能
こうのう
ではないのに、
多
おお
くの
人
ひと
が
言
い
うものだから、いい
気
き
になって
大
たい
したものだとうぬぼれ、
功能
こうのう
だと
思
おも
い
込
こ
んでしまいます。
実際
じっさい
は、
天目
てんもく
の
次元
じげん
の
高
たか
い
人
ひと
には
見
み
えるのですが、その
人
ひと
の
斜
なな
め
上
うえ
の
方
ほう
におしゃべりをしている
生命体
せいめいたい
がいて、
人
ひと
の
口
くち
を
借
か
りて
話
はな
しているのです。
その
生命体
せいめいたい
が
人
ひと
に
宇宙
うちゅう
語
ご
を
教
おし
え、
同時
どうじ
に
功
こう
も
一部
いちぶ
伝
つた
えますが、しかしその
人
ひと
はそれ
以降
いこう
それに
牛耳
ぎゅうじ
られてしまうことになるので、これは
正法
しょうぼう
ではありません。その
生命体
せいめいたい
はいくらか
高
たか
い
次元
じげん
の
空間
くうかん
にいるとはいえ、
正法
しょうぼう
修煉
しゅうれん
ではないので、いかに
修煉
しゅうれん
者
しゃ
に
健康
けんこう
増進
ぞうしん
と
病気
びょうき
治療
ちりょう
のことを
教
おし
えていいかが
分
わ
かりません。ですからこのような
方法
ほうほう
を
用
もち
いて、おしゃべりをすることによってエネルギーを
放出
ほうしゅつ
するのです。このエネルギーは
散
ち
って
放射
ほうしゃ
されるので、
力
ちから
が
弱
よわ
く、
一部
いちぶ
の
軽
かる
い
病気
びょうき
にはある
程度
ていど
効
き
きますが、
重
おも
い
病気
びょうき
には
役
やく
に
立
た
ちません。
佛教
ぶっきょう
では
天上
てんじょう
の
人間
にんげん
は
苦労
くろう
がなく、トラブルもないと
言
い
われます。そのために
修煉
しゅうれん
ができず、
試練
しれん
を
与
あた
えてもらえず、
次元
じげん
を
向上
こうじょう
させることができないので、そこでなんとかして
人間
にんげん
の
健康
けんこう
増進
ぞうしん
と
病気
びょうき
治療
ちりょう
に
手
て
を
貸
か
すことによって、
自分
じぶん
をいくらか
高
たか
めようとするのです。これが
宇宙
うちゅう
語
ご
です。
宇宙
うちゅう
語
ご
は
功能
こうのう
ではなく、
気功
きこう
でもありません。
(五)
信息
しんそく
憑
つ
き
物
もの
信息
しんそく
憑
つ
き
物
もの
のなかで、
危害
きがい
が
大
おお
きいのは
低
ひく
い
霊体
れいたい
の
憑
つ
き
物
もの
であり、これらはいずれも
邪法
じゃほう
を
修練
しゅうれん
したことによって
招
まね
いたものです。
人間
にんげん
に
害
がい
を
与
あた
えること
甚
はなは
だしく、
取
と
り
憑
つ
かれた
人
ひと
の
結末
けつまつ
は
非常
ひじょう
に
恐
おそ
ろしいものです。
練功
れんこう
もそれほどしていないのに、
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
し、
金儲
かねもう
けをしようとばかり
考
かんが
え、そういうことが
頭
あたま
から
離
はな
れない
人
ひと
がいます。もともとその
人
ひと
はけっこう
立派
りっぱ
な
人
ひと
であり、ひょっとしたらすでに
師
し
が
面倒
めんどう
を
見
み
てくれているのかもしれません。しかし
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
そうとか、
金儲
かねもう
けをしようとかを
考
かんが
え
出
だ
すととんでもないことになり、
自分
じぶん
でそういうものを
招
まね
いてしまうのです。そういうものはわれわれの
物質
ぶっしつ
空間
くうかん
にいませんが、まぎれもなく
存在
そんざい
しています。
この
練功
れんこう
者
しゃ
は
突然
とつぜん
、
天目
てんもく
が
開
ひら
いた、
功
こう
が
身
み
についたと
思
おも
い
込
こ
みますが、
実
じつ
は
憑
つ
き
物
もの
が
彼
かれ
の
大脳
だいのう
をコントロールしているのであり、
憑
つ
き
物
もの
が
見
み
た
映像
えいぞう
が
彼
かれ
の
大脳
だいのう
に
反映
はんえい
されているのです。
自分
じぶん
の
天目
てんもく
が
開
ひら
いたと
思
おも
い
込
こ
みますが、
実
じつ
は
全然
ぜんぜん
開
ひら
いていないのです。
憑
つ
き
物
もの
がどうして
彼
かれ
に
功
こう
を
与
あた
えようとしたのでしょうか? どうして
彼
かれ
を
助
たす
けようとしたのでしょうか? われわれのこの
宇宙
うちゅう
では、
動物
どうぶつ
が
修煉
しゅうれん
して
得道
とくどう
することは
許
ゆる
されないからです。
動物
どうぶつ
は
心性
しんせい
を
重
おも
んぜず、
向上
こうじょう
できないので、
正法
しょうぼう
を
得
え
ることが
許
ゆる
されないのです。そこで
動物
どうぶつ
が
人間
にんげん
の
身体
からだ
に
取
と
り
憑
つ
いて、
人体
じんたい
の
精華
せいか
を
得
え
ようとするわけです。
宇宙
うちゅう
にはもう
一
ひと
つ、「
失
うしな
わないものは
得
え
られず」という
理
り
があります。
憑
つ
き
物
もの
があなたの
名利心
みょうりしん
を
満
み
たしてくれ、あなたに
金儲
かねもう
けさせ、あなたを
有名
ゆうめい
にしてくれます。しかしただでは
助
たす
けてくれるわけがなく、
憑
つ
き
物
もの
も
何
なに
かを
得
え
ようとしており、あなたの
精華
せいか
を
得
え
ようとしているのです。
憑
つ
き
物
もの
があなたから
離
はな
れたとき、あなたにはもう
何
なに
も
残
のこ
っておらず、
衰弱
すいじゃく
しきって、あるいは
植物
しょくぶつ
人間
にんげん
になってしまうかもしれません! これは
心性
しんせい
が
正
ただ
しくないために
招
まね
いたものです。
一正
いっせい
が
百邪
ひゃくじゃ
を
圧
あっ
する、と
言
い
われるように、あなたの
心性
しんせい
に
少
すこ
しの
歪
ゆが
みもなければ、
邪
じゃ
を
招
まね
くことはありえません。つまり、でたらめなものは
一切
いっさい
もらわず、
正々堂々
せいせいどうどう
とした
煉功
れんこう
者
しゃ
になるように、ひたすら
正法
しょうぼう
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
しなければならないということです。
(六)
正
ただ
しい
功法
こうほう
でも
邪法
じゃほう
を
練
ね
ることがある
習
なら
っているのは
正法
しょうぼう
であるとはいえ、
自分
じぶん
を
厳
きび
しく
律
りっ
することができず、
心性
しんせい
を
重
おも
んじようとしないで、
練功
れんこう
するときに
良
よ
くないことを
考
かんが
える
人
ひと
がいますが、これでは
無意識
むいしき
に
邪法
じゃほう
をやっていることになります。たとえば
站樁
たんとう
功
こう
をやっているにせよ、
坐禅
ざぜん
をしているにせよ、たしかに
練功
れんこう
はしてはいますが、
実際
じっさい
は、
頭
あたま
のなかではお
金
かね
のことや、
名利
みょうり
のことや、
誰
だれ
それがわたしをいじめたので、
功
こう
を
身
み
につけたら
懲
こ
らしめてやろうとか
考
かんが
えています。あるいはあれやこれやの
功能
こうのう
を
欲
ほ
しがったりして、
良
よ
くないものを
功
こう
に
加
くわ
えてしまいますので、
実際
じっさい
には
邪法
じゃほう
をやっていることになります。これは
非常
ひじょう
に
危険
きけん
なことです。
良
よ
くないもの、たとえば
低
ひく
い
次元
じげん
の
霊体
れいたい
のようなものを
招
まね
いてしまう
可能性
かのうせい
があるのですが、
招
まね
いてしまっても
気
き
がつかないかもしれません。
執着心
しゅうちゃくしん
を
強
つよ
くもったまま、
求
もと
める
心
こころ
を
抱
いだ
いて
道
どう
を
学
まな
んだりしてはいけません。
心
こころ
が
歪
ゆが
んでいれば、
師
し
もあなたを
守
まも
るすべがないのです。つまり、
煉功
れんこう
者
しゃ
としては
必
かなら
ず
厳
きび
しく
心性
しんせい
を
守
まも
り、
心
こころ
を
正
ただ
しく
持
も
ち、
何
なに
も
求
もと
めないようにしなければなりません。さもなければ
問題
もんだい
が
起
お
きるかもしれません。