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法 輪 功

第一章 概がい 論ろん



 気功きこうは我わが国くににおいて、太古たいこの昔むかしからの悠久ゆうきゅうの歴史れきしがあり、そのため、我わが国くにの人々ひとびとは気功きこうを修煉しゅうれんするのに、とりわけ恵めぐまれた環境かんきょうにあります。正法しょうぼう修煉しゅうれんとして、佛ぶつ・道どう二大にだい系統けいとうの気功きこうは、すでに多おおくの秘伝ひでん大法たいほうを世よに公開こうかいしました。道家どうけの修煉しゅうれん方法ほうほうは非常ひじょうに独特どくとくですが、佛家ぶっけにも独自どくじの修煉しゅうれん方法ほうほうがあります。法輪功ファールンゴンはほかでもなく佛家ぶっけ気功きこうの高たかい次元じげんにおける修煉しゅうれん大法ダーファです。講習会こうしゅうかいでは、わたしはまず皆みなさんの身体からだを、高たかい次元じげんを目指めざして修煉しゅうれんできるような状態じょうたいに調整ちょうせいしてあげます。それから皆みなさんの身体からだに法輪ファールンと気き機きを植うえ付つけ、そのうえで皆みなさんに功法こうほうを教おしえします。この他ほかに、わたしには皆みなさんを守まもる法身ほうしんもあります。しかし、功こうを伸のばす目的もくてきを達成たっせいするには、それでもまだ足たりません。皆みなさんには高たかい次元じげんにおける修煉しゅうれんの道理どうりをも理解りかいしてもらわなければなりません。それが本書ほんしょが語かたろうとする内容ないようなのです。
 わたしは高たかい次元じげんで功こうを講義こうぎしますので、どの脈みゃく、どのツボ、どの経絡けいらくを修煉しゅうれんするのかは語かたりません。わたしが述のべようとするのは修煉しゅうれん大法ダーファーのことで、本当ほんとうに高たかい次元じげんを目指めざして修煉しゅうれんする大法ダーファーのことです。初はじめは摩訶不思議まかふしぎのように聞きこえるかもしれませんが、気功きこう修煉しゅうれんに志こころざしのある人ひとは、注意深ちゅういぶかく悟さとろうとさえすれば、あらゆる奥義おうぎがおのずと見みえてくるのです。

 一、気功きこうの源流げんりゅう


 われわれが現在げんざい気功きこうと言いっているものは、そもそも気功きこうとは呼よびませんでした。それは中国ちゅうごく古代人こだいじんの単独たんどく修煉しゅうれん、または宗教しゅうきょうの修煉しゅうれんに由来ゆらいしています。『丹経たんけい』や『道蔵どうぞう』、『大蔵経だいぞうきょう』を全すべてつぶさに調しらべてみても、「気功きこう」という二文字ふたもじは見みあたりません。現在げんざいの人類じんるい文明ぶんめいは現げん段階だんかいの発展はってんしてきた過程かていにおいて、原始げんし宗教しゅうきょうの時期じきを経へました。宗教しゅうきょうが生うまれる前まえに、気功きこうはすでに存在そんざいしていましたが、宗教しゅうきょうが現あらわれてから、それはある程度ていどの宗教しゅうきょう色しょくを帯おびるようになりました。それの本来ほんらいの名前なまえは修佛大法しゅうぶつたいほうや修道大法しゅうどうたいほうでした。その他ほかにも、九転金丹術きゅうてんきんたんじゅつ、羅漢法らかんほう、金剛禅こんごうぜんなどの類たぐいの名前なまえも持もっていました。われわれが現在げんざいそれを「気功きこう」と呼よんでいるのは、現代人げんだいじんの意識いしきによりよく合あわせるためであり、社会しゃかいで普及ふきゅうしやすいようにするためであって、実際じっさいはそれは、我わが中国ちゅうごくにおける正真しょうしん正銘しょうめいの人体じんたい修煉しゅうれんのものなのです。
 気功きこうは今期こんきの人類じんるい文明ぶんめいが発明はつめいしたものではなく、かなり悠久ゆうきゅうの歴史れきしを持もっています。では気功きこうはいつ頃ごろ生うまれたのでしょうか? 気功きこうはすでに三千年さんぜんねんの歴史れきしを有ゆうし、唐とうの時代じだいには最盛期さいせいきに達たっしていたと言いう人ひともいれば、五千ごせん年ねんの歴史れきしを持もち、中華ちゅうか民族みんぞくの文化ぶんかと同おなじように悠久ゆうきゅうだと言いう人ひともいます。あるいは、出土しゅつどした文物ぶんぶつから見みて、七千ななせん年ねんの歴史れきしを持もっていると言いう人ひともいますが、実じつは気功きこうは現代げんだい人類じんるいが発明はつめいしたものではなく、先史せんし文化ぶんかなのです。功能こうのうを持もつ人ひとが調しらべたところによれば、われわれが暮くらしているこの宇宙うちゅうは九きゅう回かいの爆発ばくはつを経へた後あとにできあがったものだといいます。われわれがいるこの天体てんたいはすでに度重たびかさなる壊滅かいめつに見舞みまわれてきました。天体てんたいが新あらたに組くみ合あわされてから、人類じんるいも新あらたに発生はっせいするようになります。今いま、われわれはすでに、現代げんだい文明ぶんめいを超こえる多おおくのものを発見はっけんしています。ダーウィンの進化論しんかろんに従したがえば、人類じんるいは猿さるから進化しんかしてきたので、文明ぶんめいはたかだか一万いちまん年ねんを超こえていないはずです。ところが、出土しゅつどした文物ぶんぶつから、ヨーロッパのアルプス山脈さんみゃくの洞窟どうくつで、二十五万にじゅうごまん年ねん前まえの壁画へきがが見みつかりました。その芸術的げいじゅつてき鑑賞かんしょう価値かちの高たかさは、現代人げんだいじんも及およばないものです。また、ペルー国立こくりつ大学だいがくの博物館はくぶつかんにひとつの大おおきな石いしがあり、その石いしには、望遠鏡ぼうえんきょうを手てにして天体てんたいを観察かんさつする人ひとが刻きざまれています。この彫刻ちょうこくは三万さんまん年ねんも前まえのものです。皆みなさんもご存ぞんじのように、ガリレオが一六〇九せんろっぴゃくきゅう年ねんに三十倍さんじゅうさんばいの天体てんたい望遠鏡ぼうえんきょうを発明はつめいしてから今日こんにちまで、せいぜい三百さんびゃく年ねん余あまりの歴史れきししかないのに、三万さんまん年ねんも前まえにどうして望遠鏡ぼうえんきょうなどありえたのでしょうか? インドには、鉄てつの純度じゅんどが九十九きゅうじゅうきゅうパーセント以上いじょうに達たっしている鉄てつの棒ぼうがあります。現在げんざいの冶金やきん技術ぎじゅつをもってしてもこれほど純度じゅんどの高たかい鉄てつを精錬せいれんすることはできません。そのレベルはすでに現在げんざいの技術ぎじゅつ水準すいじゅんを上回うわまわっていました。誰だれがこのような文明ぶんめいを創つくり出だしたのでしょうか? 人類じんるいはその頃ころはもしかするとまだ微生物びせいぶつに過すぎなかったのに、どうしてこのようなものを作つくり出だすことができたのでしょうか? これらのものの発見はっけんは、世界せかい各国かっこくの科学者かがくしゃの注目ちゅうもくを集あつめました。ただ、解釈かいしゃくのしようがないので、「先史せんし文化ぶんか」と呼よばれることになりました。
 それぞれの時期じきの科学かがく水準すいじゅんはいずれも異ことなっていました。われわれ現代げんだい人類じんるいの水準すいじゅんを上回うわまわる、相当そうとう高たかい時期じきもありましたが、その文明ぶんめいは壊滅かいめつしました。わたしが、気功きこうはわれわれ現代人げんだいじんの発明はつめいでも、現代人げんだいじんが作つくり出だしたものでもなく、現代人げんだいじんがそれを発見はっけんし改善かいぜんしたに過すぎず、本来ほんらいは先史せんし文化ぶんかだ、と言いっているのはそのためです。
 気功きこうは我わが国くに独特どくとくのものではなく、外国がいこくにもあります。しかし彼かれらはそれを気功きこうとは言いわず、アメリカやイギリスなどの西洋せいよう諸国しょこくでは魔術まじゅつと呼よんでいます。アメリカに、実際じっさいは超能力ちょうのうりょくのマスターである魔術まじゅつ師しがいて、万里ばんりの長城ちょうじょうの壁かべを通とおり抜ぬけるパフォーマンスを披露ひろうしました。通とおり抜ぬける時とき、彼かれは白しろい布ぬのをかぶり、自分じぶんを壁かべにくっつけるようにしてから通とおり抜ぬけたのです。どうして彼かれはこんなことをしなければならなかったのでしょうか? こうすれば、魔術まじゅつに見みえるからです。彼かれはそうせざるを得えませんでした。彼かれはわれわれ中国ちゅうごくにレベルの高たかい人ひとがたくさんいるのを知しっており、妨さまたげられるのを恐おそれたので、自分じぶんを隠かくしてから入はいらなければなりませんでした。出でてくるときは、片かた手てを伸のばして、布ぬのを突つき上あげてから出でてきたのです。「玄人くろうとは肝所かんどころを見み、素人しろうとはうわべを見みる」、こうすれば観衆かんしゅうは彼かれが魔術まじゅつをやっていると思おもうのです。彼かれらがこれらの功能こうのうを魔術まじゅつと呼よぶのは、それを用もちいて身体からだを修煉しゅうれんするのではなく、舞台ぶたいでパフォーマンスをやって人ひとを驚おどろかせ喜よろこばせるからです。したがって、低ひくい次元じげんから言いえば、気功きこうは人間にんげんの身体からだの状態じょうたいを変かえ、病気びょうき治療ちりょうと健康けんこう増進ぞうしんの目的もくてきを達たっしますが、高たかい次元じげんから言いえば、気功きこうは本体ほんたいを修煉しゅうれんすることを意味いみするのです。

 二、気きと功こう


 われわれが現在げんざい「気き」と呼よんでいるものを、古代人こだいじんは「炁チー」と称しょうしていました。本質ほんしつは同おなじで、いずれも宇宙うちゅうの気きを指さし、宇宙うちゅうの中なかの姿すがたかたちのない物質ぶっしつを指さしています。それは空気くうきの気きを意味いみしているのではありません。人体じんたいは修煉しゅうれんを通とおして、この物質ぶっしつのエネルギーを活いかせば、人体じんたいの状況じょうきょうを変かえ、病気びょうき治療ちりょうと健康けんこう増進ぞうしんに至いたらすことができます。しかし、気きは気きにほかならず、あなたに気きがあれば、ほかの人ひとにも気きがあり、気きと気きの間あいだに制約せいやく作用さようはありません。気きで病気びょうき治療ちりょうができる、あるいは誰だれそれに向むかって気きを発はっして、その人ひとの病気びょうきを治なおすと言いう人ひとがいますが、これらの言いい方かたはきわめて非科学的ひかがくてきです。なぜなら気きはまったく病気びょうきの治療ちりょうに役やくに立たたないからです。煉功れんこう者しゃの身体からだにまだ気きがある間あいだは、その人ひとの身体からだはまだ乳白体にゅうはくたいになっておらず、まだ病気びょうきがあるということを意味いみします。
 煉功れんこうの高たかい次元じげんに達たっする人ひとから発はっせられるのは、気きではなく、高こうエネルギーの固かたまりであり、光ひかりのかたちで現あらわれる高こうエネルギー物質ぶっしつであり、粒子りゅうしは非常ひじょうに細こまかく、密度みつどが非常ひじょうに高たかいものです。これが功こうで、この時ときになってはじめて常人じょうじんに制約せいやく作用さようを持もつことができ、人ひとの病気びょうきを治療ちりょうすることができるようになります。「佛光ぶっこうが普あまねく照てらし、礼儀れいぎが圓明えんめいとなる」という言葉ことばがありますが、正法しょうぼう修煉しゅうれん者しゃの場合ばあいは、身体からだに持もつエネルギーがきわめて大おおきいので、彼かれの通過つうかするところ、彼かれのエネルギーの届とどく範囲はんい内ないで、一切いっさいの不正常ふせいじょうな状態じょうたいを正常せいじょうな状態じょうたいに正ただすことができる、ということを意味いみしています。たとえば人ひとの身体からだに病気びょうきがあるというのは、身体からだに不正常ふせいじょうな状態じょうたいがあるということであり、その状態じょうたいを正ただせば、病気びょうきも消きえることになります。分わかりやすく言いえば、功こうとはエネルギーのことです。功こうは物質ぶっしつ性せいを持もっており、煉功れんこう者しゃは修煉しゅうれんを通とおして、その客観的きゃっかんてきな存在そんざいを実際じっさいに体感たいかんすることができます。
 

 三、功力こうりきと功能こうのう


(一) 功力こうりきは心性しんせいの修煉しゅうれんによって得えるものである
 本当ほんとうに人間にんげんの功力こうりきの次元じげんを決きめる功こうは「煉れん」によって得えるものではなく、「徳とく」という物質ぶっしつから転化てんかされ、心性しんせいを修おさめることによって得えられるものです。この転化てんかの過程かていは常人じょうじんが想像そうぞうするような「鼎かなえを立たて竈かまどを設もうけ、薬くすりを採集さいしゅうし、丹たんを煉ねる」ことによって得えられるものでもありません。われわれの言いう功こうは、体外たいがいで生うまれ、人体じんたいの下半身かはんしんから始はじまって、心性しんせいの向上こうじょうに従したがって螺旋らせん状じょうに伸のびていくもので、完全かんぜんに体外たいがいで形成けいせいされ、それから頭あたまのてっぺんで功柱こうちゅうをなすものです。功柱こうちゅうの高たかさがその人ひとの功こうの高たかさを決きめます。功柱こうちゅうは非常ひじょうに見みえにくい空間くうかんにあるものなので、一般いっぱんの人ひとには簡単かんたんには見みえません。
 功能こうのうは功力こうりきによって加持かじされるものであり、功力こうりきが高たかく、次元じげんが高たかい人ひとなら功能こうのうも大おおきく、使つかい勝手がっても自由自在じゆうじざい、功力こうりきの低ひくい人ひとなら功能こうのうも小ちいさく、使つかい勝手がっても思おもう通とおりにいかず、あるいはまったく使つかえないことすらあります。功能こうのう自体じたいはその人ひとの功力こうりきの大おおきさや次元じげんの高たかさを表あらわすものではありません。人ひとの次元じげんの高たかさを決きめるのは功力こうりきであって功能こうのうではないのです。「鍵かぎを掛かけられて」修煉しゅうれんしている人ひともおり、功力こうりきが非常ひじょうに高たかくても、功能こうのうは必かならずしもそれほど持もっているとは限かぎりません。功力こうりきは決定的けっていてきな役割やくわりを果はたすものであって、心性しんせいの修煉しゅうれんによって得えられるものですが、これこそがもっとも肝要かんようなものなのです。
 
(二) 功能こうのうは煉功れんこう者しゃの求もとめるものではない
 すべての煉功れんこう者しゃは功能こうのうに関心かんしんを寄よせており、神通力じんつうりきは社会しゃかいで非常ひじょうに誘惑力ゆうわくりょくがありますので、多おおくの人ひとは何なんらかの功能こうのうを身みにつけたがります。しかし、心性しんせいが良よくなければ、こうした功能こうのうは身みに付つくわけがありません。
 一部いちぶの功能こうのう、たとえば天目てんもくが開ひらく、天耳てんじが通つうじる、テレパシーが使つかえる、予測よそくする、などの功能こうのうは、常人じょうじんでも持もちうるものです。しかしこれらの功能こうのうは人ひとによって異ことなり、漸悟ぜんご状態じょうたいにいる間あいだはすべて所持しょじすることはありえません。一部いちぶの功能こうのうは常人じょうじんが持もちえないものであり、たとえば現実げんじつ空間くうかんの物体ぶったいを別べつの種類しゅるいの物体ぶったいに転換てんかんさせるなどは、常人じょうじんにできないことです。大だい功能こうのうは、修煉しゅうれんによって後天的こうてんてきに得えられるものです。法輪功ファールンゴンは宇宙うちゅうの原理げんりに従したがって演化えんかしてきたものなので、宇宙うちゅうに存在そんざいする功能こうのうは法輪功ファールンゴンにすべて備そなわっており、煉功れんこう者しゃがいかに修煉しゅうれんするかにかかっています。何なんらかの功能こうのうを身みにつけたいと思おもうことは、間違まちがっているとは言いえません。しかし、過度かどに追求ついきゅうしすぎると、普通ふつうの考かんがえ方かたではなくなり、良よくない結果けっかを招まねきかねません。低ひくい次元じげんで功能こうのうを得えてもあまり用もちいるところがありません。しょせんそれを披露ひろうし、常人じょうじんの前まえで腕うでをひけらかして、常人じょうじんの中なかの強者きょうしゃになりたがるだけです。もしそうならば、まさに心性しんせいが高たかくないということですので、当然とうぜん功能こうのうを与あたえてあげるわけにはいきません。一部いちぶの功能こうのうは、もし心性しんせいの良よくない人ひとに与あたえれば、悪事あくじを働はたらくのに用もちいられてしまいます。心性しんせいがしっかりしていなければ、悪事あくじを働はたらかないという保証ほしょうがないからです。
 一方いっぽう、およそパフォーマンス用ように表おもてに出だせる功能こうのうは、どれも人類じんるい社会しゃかいを変かえるのに用もちいることができず、正常せいじょうな社会しゃかい生活せいかつを変かえることができません。本当ほんとうの高たかい功能こうのうは、影響えいきょうと危険きけんが大おおきいので、パフォーマンスに用もちいてはいけません。建物たてものをパフォーマンスで倒たおしてはならないのと同おなじです。特別とくべつ大おおきな功能こうのうに関かんしては、特殊とくしゅな使命しめいを負おっている人ひとなら使つかわせてもらえますが、さもなければ使用しようすることが許ゆるされず、表おもてに出だせるわけもありません。師しによって制御せいぎょされているからです。
 しかし常人じょうじんのなかに、是ぜが非ひでも気功きこう師しに腕うでを披露ひろうさせ、強引ごういんに実演じつえんさせる人ひとがどうしてもいます。功能こうのうのある人ひとは皆みな、功能こうのうを見みせびらかそうとはしません。それは公おおやけに持もち出だしてはならないものであり、公おおやけに持もち出だすと社会しゃかい全体ぜんたいの状態じょうたいに影響えいきょうを及およぼしかねないものだからです。本当ほんとうの大徳だいとくの人ひとの場合ばあい、彼かれの功能こうのうは公おおやけに持もち出だすことが許ゆるされません。嫌々いやいやながら実演じつえんさせられて、家いえに戻もどると泣なかんばかりに悔くやしがる気功きこう師しがいます。彼かれらに実演じつえんを強要きょうようしないでいただきたいのです! 彼かれらにとってそういうものを持もち出だすのは非常ひじょうに辛つらいことなのです。ある時とき、ある学習者がくしゅうしゃが雑誌ざっしを持もってきたのですが、それを読よんでわたしは非常ひじょうに反感はんかんを覚おぼえました。それにはおおよそこんなことが書かいてありました。国際こくさい気功きこう会議かいぎを開催かいさいするので、功能こうのうのある者ものは試合しあいに参加さんかしてほしい。功能こうのうの強つよい者ものを募つのる、と言いうのです。それを見みてから、わたしは何日なんにちも気分きぶんがよくありませんでした。そういうものは試合しあいに用もちいてはいけないもので、用もちいると必かならず後悔こうかいすることになります。常人じょうじんというものは、世間せけんの現実げんじつのものを重おもんじますが、気功きこう師しは自重じちょうしなければなりません。
 功能こうのうを求もとめる目的もくてきは何なんでしょうか? 煉功れんこう者しゃの思想しそう境地きょうちと煉功れんこう者しゃが何なにを追求ついきゅうしているかがそこに表あらわれています。心こころのなかで求もとめるものが不純ふじゅんであったり、危あやういものであったりすると、高たかい功能こうのうを得えることはありえません。それにはわけがあります。つまりまだ悟さとりを開ひらかないうちは、あなたに見みえた物事ものごとの善よし悪あしは、世間せけんの法ほうの善悪ぜんあくの基準きじゅんに基もとづいているものであって、物事ものごとの真相しんそうも因縁いんねん関係かんけいもあなたには見みえません。人ひとと人ひととの間あいだの喧嘩けんかやいじめには、必かならず因縁いんねん関係かんけいがあるのですが、それが見みえなければ、あなたはかえって相手あいてにとってありがた迷惑めいわくなことをしてしまうことになります。常人じょうじんの間あいだのいざこざや善よし悪あしは、世間せけんの法ほうに任まかせればよいのであって、煉功れんこう者しゃが口くちを出だすものではありません。悟さとりを開ひらく前まえに、あなたに見みえた物事ものごとの真相しんそうは必かならずしも見みえたとおりのものとは限かぎりません。誰だれかが誰だれかを一発いっぱつ殴なぐった場合ばあいは、もしかすると彼かれらの間あいだで「業ごう」を清算せいさんしているのかもしれません。ですからあなたが口くちを出だすと、彼かれらの間あいだの「業ごう」の清算せいさんを邪魔じゃましてしまうことになるかもしれません。「業ごう」は、身体からだのまわりにある黒くろいもので、別べつの空間くうかんの物質的ぶっしつてき存在そんざいです。それは病気びょうきや災わざわいに転化てんかされることがあります。
 功能こうのうは誰だれにでもあります。問題もんだいは絶たえ間まない修煉しゅうれんによってそれを開発かいはつし、強化きょうかすることです。煉功れんこう者しゃとして、もし功能こうのうばかり求もとめるならば、それは近視眼的きんしがんてきで、思想しそうが不純ふじゅんということになります。功能こうのうを求もとめれば、それがどんな目的もくてきであれ、そのなかに必かならず私心ししんが含ふくまれており、間違まちがいなく煉功れんこうを妨さまたげます。そうなれば結局けっきょく、功能こうのうが得えられないことになります。
 
(三) 功力こうりきの制御せいぎょ
 煉功れんこう者しゃのなかに、それほど煉功れんこうもしていないのに、本当ほんとうに効きくかどうか確たしかめたいがために、人ひとの病気びょうきを治なおそうとする人ひとがいます。功力こうりきの高たかくない人ひとの場合ばあいは、手てを出だしてちょっとやってみただけで、患者かんじゃの体内たいないのおびただしい黒くろい気きや病やまいの気き、濁にごった気きを自みずからの身体からだに取とり込こんでしまいます。あなたには病やまいの気きを防御ぼうぎょする能力のうりょくはなく、身体からだに防御ぼうぎょの覆おおいができているわけでもないので、患者かんじゃと一ひとつの場ばを形成けいせいしてしまいます。功力こうりきが高たかくなければ防御ぼうぎょすることができず、自分じぶんが非常ひじょうに辛つらい思おもいをします。もし見守みまもってくれる人ひとがいなければ、時間じかんが経たつと、体中からだじゅう病気びょうきだらけになってしまいます。つまり、功力こうりきの高たかくない人ひとは、他人たにんのために病気びょうき治療ちりょうを行おこなってはいけません。すでに功能こうのうを備そなえ、一定いっていの功力こうりきを持もっていてはじめて、気功きこうで病気びょうき治療ちりょうをすることができるのです。一部いちぶの人ひとは功能こうのうを備そなえ、病気びょうき治療ちりょうをすることができますが、非常ひじょうに低ひくい次元じげんにいる間あいだは、実際じっさいは蓄たくわえていた功力こうりきで、自分じぶん自身じしんのエネルギーで病気びょうき治療ちりょうを行おこなっているのです。なぜなら功こうはエネルギーであり、霊体れいたいにほかならず、ちょっとやそっとで蓄たくわえられるものではないからです。この功こうを体外たいがいに出だすということは、自分じぶんを消耗しょうもうしていることにほかなりません。体外たいがいに功こうを発はっするにつれて、あなたの頭上ずじょうの功柱こうちゅうの高たかさが縮ちぢみ、消耗しょうもうされていきますので、これは非常ひじょうに割わりの合あわないことです。ですからわたしは、功力こうりきが高たかくないときに人ひとのために病気びょうき治療ちりょうをすることをお勧すすめしません。あなたがたとえどんなに腕うでが良よいとしても、自分じぶん自身じしんのエネルギーを消耗しょうもうしているに過すぎません。
 功力こうりきが一定いっていのレベルに達たっすると、さまざまな功能こうのうが現あらわれてきますが、これらの功能こうのうを如何いかに用もちいればよいかについては、非常ひじょうに慎重しんちょうを要ようすることです。たとえば天目てんもくが開ひらいた場合ばあいは、見みないわけにもいきませんし、ずっと用もちいなければ、閉とじてしまいかねません。ただ、見みるにしてもしょっちゅう見みてはいけません。過度かどに見みるとエネルギーもそれだけ多おおく漏もれてしまいます。それでは、皆みなさんに永遠えいえんに用もちいないようにと言いっているのかというと、もちろんそうではありません。もし永遠えいえんに用もちいないのであれば何なんのために修煉しゅうれんするのでしょうか? 問題もんだいはどんなときに用もちいるかにあります。修煉しゅうれんが一定いっていのレベルに達たっし、自分じぶんで補おぎなう能力のうりょくが備そなわったときには、用もちいても大丈夫だいじょうぶです。法輪功ファールンゴンでは修煉しゅうれんが一定いっていのレベルに達たっすれば、放出ほうしゅつされた功こうの分ぶんだけ、法輪ファールンが自動的じどうてきに演化えんかしてそれを補おぎない、自動的じどうてきに煉功れんこう者しゃの功力こうりきの水準すいじゅんを保たもってくれるので、一時いっときたりとも減へることはありません。これが法輪功ファールンゴンの特徴とくちょうです。このときになってはじめて、功能こうのうを用もちいることができます。
 

 四、天目てんもく


(一)天目てんもくを開ひらく
 天目てんもくの主要しゅよう通路つうろは、額ひたいの真まん中なかと山根さんこんとの間あいだにあります。常人じょうじんが肉眼にくがんで物ものを見みるのは、カメラの原理げんりと同おなじで、距離きょりの遠近えんきんと光線こうせんの強弱きょうじゃくによって、ガラス体たいあるいは瞳孔どうこうの大おおきさを調節ちょうせつし、神経しんけい細胞さいぼうを通とおして画像がぞうを大脳だいのう後半こうはん部ぶの松果体しょうかたいに送おくり、そこで顕現けんげんさせます。特異とくい功能こうのうによる透視とうしというのは、松果体しょうかたいが天目てんもくを通つうじて直接ちょくせつ外そとを見みるようにすることです。一般いっぱんの人ひとは天目てんもくが開ひらいておらず、主要しゅよう通路つうろ上じょうの隙間すきまは非常ひじょうに狭せまくて黒くろく、中なかに霊気れいきもなく、光ひかりもありません。人ひとによっては塞ふさがっているため見みえない場合ばあいもあります。
 われわれの言いう「天目てんもくを開ひらく」とは、一ひとつには、外力がいりょくあるいは自分じぶんの修煉しゅうれんによって通路つうろを開ひらかせることです。通路つうろの形かたちは一人一人ひとりひとり異ことなり、楕円形だえんけいであったり、円形えんけい、菱形ひしがた、三角形さんかくけいであったりしますが、修煉しゅうれんが進すすむにつれて丸まるくなります。二ふたつには、師しが目めを与あたえてくれることです。自分じぶんで修煉しゅうれんする場合ばあいは自分じぶんでその目めを修煉しゅうれんしなければなりません。三みっつには、天目てんもくの部位ぶいに精華せいかの気きがなければならないことです。
 通常つうじょうわれわれは両目りょうめで物ものを見みていますが、まさにこの両目りょうめがわれわれの他たの空間くうかんへの通路つうろを遮断しゃだんしています。それは障壁しょうへきとなって、われわれがこの物質ぶっしつ空間くうかんの物ものしか見みえないようにしています。天目てんもくを開ひらくというのは、この両目りょうめを避さけて見みることにほかなりません。非常ひじょうに高たかい次元じげんに到達とうたつすれば、修煉しゅうれんによって真眼しんがんを得えることができますが、そうなれば天目てんもくの真眼しんがんあるいは山根さんこんのあたりの真眼しんがんで見みることができるようになります。佛家ぶっけの言いい方かたに従したがえば、どの毛穴けあなも目めであり、全身ぜんしんが目めですし、道家どうけの言いい方かたに従したがえば、どのツボも目めだということになります。しかし主要しゅよう通路つうろは天目てんもくにあり、まずそれを開ひらかなければなりません。講習会こうしゅうかいで、わたしは全員ぜんいんに天目てんもくを開ひらくためのものを授さずけました。一人一人ひとりひとりの身体からだの素質そしつが異ことなるため、現あらわれる効果こうかも違ちがいます。深ふかい井戸いどのような真まっ暗くらなトンネルを見みた人ひとがいますが、それは天目てんもくの通路つうろが黒くろいということです。白しろい通路つうろを見みた人ひとがいますが、もしその先さきに物ものが見みえた場合ばあいは、いよいよ開ひらかれようとしているということです。何なにかが回転かいてんしているのを見みた人ひとがいますが、それはほかでもなく師しが授さずけてくれた天目てんもくを開ひらくためのものであり、天目てんもくが開削かいさくされ貫通かんつうすれば、それで見みることができるようになるのです。また、天目てんもくを通とおして大おおきな目めが見みえ、それを佛眼ぶつげんだと思おもった人ひとがいますが、実際じっさいは自分じぶん自身じしんの目めなのです。これは普通ふつう、先天せんてんの根基こんきが比較的ひかくてき良よい人ひとの場合ばあいです。
 われわれの統計とうけいによれば、どの講習会こうしゅうかいでも天目てんもくが開ひらいた人ひとは半数はんすう以上いじょうに上のぼります。天目てんもくが開ひらいたあと、心性しんせいの高たかくない人ひとがそれを使つかって悪わるいことをしかねない、という問題もんだいが起おきてきます。ですからこれを防ふせぐために、わたしは皆みなさんの天目てんもくを直接ちょくせつ慧眼えげん通つうの次元じげんまで開ひらかせています。つまり高たかい次元じげんまで開ひらかせて、直接ちょくせつ他たの空間くうかんの様相ようそうや、煉功れんこう中ちゅうに現あらわれてくるものが見みえるようにしてあげるのです。そうすれば皆みなさんはそれを信しんじて、煉功れんこうへの自信じしんを強つよめるようになります。煉功れんこうを始はじめたばかりの人ひとは、心性しんせいがまだ常人じょうじんを超こえる高たかさまで至いたっていないため、いったん常人じょうじんを超こえるものを手てにすると、良よくないことをしかねません。たとえば冗談じょうだんですが、もしあなたが町まちを歩あるいていて宝たからくじを見みかけたとしたら、一等いっとう賞しょうはあなたにとられてしまうかもしれません。たとえばこういうことが起おこりうるのですが、こんなことは許ゆるされません。もう一ひとつの理由りゆうとして、われわれはここで広範囲こうはんいにわたって天目てんもくを開ひらかせているのですが、もし低ひくい次元じげんに開ひらかせてしまえば、考かんがえてごらんなさい、誰だれでも人体じんたいを透視とうしでき、壁かべを隔へだてて物ものを見みることができるようになります。そのようなものを人類じんるい社会しゃかいといえるでしょうか? そんなことをすれば、常人じょうじん社会しゃかいの状態じょうたいを甚はなはだしく混乱こんらんさせることになりますので、許ゆるされません。しかもそれでは煉功れんこう者しゃにとってためになるところがなく、煉功れんこう者しゃの執着心しゅうちゃくしんを助長じょちょうするだけです。ですから低ひくい次元じげんに開ひらかせずに、直接ちょくせつ高たかい次元じげんまで開ひらかせてあげるのです。
 
(二)天目てんもくの次元じげん
 天目てんもくにはさまざまな次元じげんがあります。次元じげんが違ちがえば、見みえる空間くうかんも異ことなります。佛教ぶっきょうの言いい方かたに従したがえば、「五通ごつう」、つまり「肉眼にくげん通つう」、「天眼通てんげんつう」、「慧眼えげん通つう」、「法眼ほうげん通つう」、「佛眼ぶつげん通つう」があり、どの次元じげんにもさらに、上じょう、中ちゅう、下げの区別くべつがあります。天眼通てんげんつう以下いかの次元じげんでは、われわれのこの物質ぶっしつ世界せかいしか見みえません。慧眼えげん通つう以上いじょうの次元じげんに達たっしてはじめて、他たの空間くうかんが見みえます。透視とうし功能こうのうを持もち、CTスキャンよりもきれいに、しかも非常ひじょうに正確せいかくに見みることのできる人ひとがいますが、その人ひとに見みえたのは、相変あいかわらずわれわれのこの物質ぶっしつ世界せかいなのです。つまり、われわれが存在そんざいするこの空間くうかんを超こえてはおらず、天目てんもくの高たかい次元じげんだとは言いえません。
 人ひとの天目てんもくの次元じげんの高たかさは、その人ひとの持もっている精華せいかの気きの量りょうと主要しゅよう通路つうろの広ひろさ、明あかるさおよび通路つうろの塞ふさがりぐあいによって決きまります。天目てんもくがきれいに開ひらくかどうかは、内部ないぶの精華せいかの気きが肝心かんじんな要素ようそとなります。六歳ろくさい以下いかの子供こどもにとって、天目てんもくを開ひらくのはいたって簡単かんたんなことで、わたしが何なにもせずとも、一言ひとこと言いえば開ひらきます。子供こどもは先天的せんてんてきに物質ぶっしつ世界せかいの良よくない影響えいきょうをほとんど受うけておらず、自分じぶんでも何なにも悪わるいことをしていないため、その先天せんてんの精華せいかの気きが非常ひじょうによく保存ほぞんされているからです。六歳ろくさい以上いじょうの子供こどもになりますと、天目てんもくがだんだん開ひらきにくくなります。年齢ねんれいの伸のびとともに、外界がいかいの影響えいきょうも多おおく受うけるようになったからです。とりわけ良よくない後天こうてんの教育きょういくや放縦ほうじゅうなどはいずれもその人ひとの精華せいかの気きを散逸さんいつさせることになり、ある程度ていどに達たっすると、散逸さんいつし尽つくすかもしれません。精華せいかの気きが散逸さんいつし尽つくした人ひとは、後天こうてんの煉功れんこうによって徐々じょじょにそれらを補おぎなうことができますが、非常ひじょうに長ながい時間じかんがかかり、たいへん苦労くろうすることになります。このように、精華せいかの気きはきわめて貴重きちょうなものなのです。
 わたしは人ひとの天目てんもくを天眼通てんげんつうの次元じげんに開ひらかせるのに反対はんたいです。なぜなら、煉功れんこう者しゃの功力こうりきが大おおきくないときは、透視とうしをするのに必要ひつようなエネルギーが煉功れんこうの間あいだに蓄たくわえたエネルギーより多おおいからです。霊気れいきが散逸さんいつしすぎると、天目てんもくが再ふたたび閉とじてしまいかねません。いったん閉とじると再ふたたび開ひらくのが難むずかしくなります。ですからわたしは普通ふつう、人ひとの天目てんもくを慧眼えげん通つうの次元じげんまで開ひらかせるのです。きれいに見みえるかどうかは別べつとして、ともかく修煉しゅうれん者しゃは他たの空間くうかんのものが見みえるようになります。先天的せんてんてきな条件じょうけんによって、とてもきれいに見みえる人ひともいれば、ちらちらとしか見みえない人ひともおり、はっきり見みえない人ひともいますが、少すくなくとも光ひかりが見みえるようにはしてあげられます。こうすれば、煉功れんこう者しゃは高たかい次元じげんへ向むけて進すすみやすくなります。もし、きれいに見みえなければ煉功れんこうを通とおして後天的こうてんてきに補おぎなっていけばよいのです。
 精華せいかの気きが足たりない人ひとの場合ばあい、天目てんもくで見みた光景こうけいは白黒しろくろであるのに対たいして、精華せいかの気きの比較的ひかくてき多おおい人ひとの場合ばあいは、天目てんもくで見みた光景こうけいはカラーであり、見みえた光景こうけいもいっそう鮮明せんめいになります。精華せいかの気きが多おおければ多おおいほど、鮮明せんめい度どが高たかまります。しかし、人ひとによってそれぞれ違ちがいます。天目てんもくが生うまれつき開ひらいている人ひともいれば、固かたく塞ふさがっている人ひともいます。天目てんもくが開ひらくときの光景こうけいは、あたかも花はなが咲さくように、一重ひとえずつ開ひらくのです。坐禅ざぜんをしているとき、まず天目てんもくに光ひかりの束たばがあるのに気きがつきます。初はじめはあまり明あかるくありませんが、その後あと次第しだいに赤あかくなります。天目てんもくが固かたく閉とざされている人ひとの場合ばあいは、開ひらく際さいに激はげしい反応はんのうが起おきることがあります。主要しゅよう通路つうろと山根さんこんのあたりの筋肉きんにくがぎゅっと収縮しゅうしゅくし、まるでそこの肉にくが一ひとつに固かたまって中なかへ押おし入いろうとしているかのようです。それからこめかみと額ひたいが張はり、痛いたみ出だすのですが、これらはいずれも天目てんもくを開ひらくときの反応はんのうです。天目てんもくが容易よういに開ひらく人ひとは、偶然ぐうぜんに何なにかが見みえることがあります。講習会こうしゅうかいで無意識むいしきのうちにわたしの法身ほうしんを見みた人ひとがいますが、意識的いしきてきに見みようとすると消きえてしまいます。実じつはそれは目めで見みたからです。目めを閉とじているときに何なにかが見みえた場合ばあいは、そのままの状態じょうたいを保たもっていてください。次第しだいにきれいに見みえるようになります。ところが、はっきり見みようと意識いしきしてしまえば、目めを働はたらかせ、視神経ししんけいを通とおしたことになりますので、見みえなくなってしまいます。
 天目てんもくの次元じげんが違ちがえば見みえる空間くうかんも異ことなるのですが、この道理どうりを理解りかいしていない科学かがく研究けんきゅう機関きかんがあるため、一部いちぶの気功きこうテストが予期よきされた効こう果かを得えられず、さらには逆ぎゃくの結果けっかを招まねいてしまうこともあります。たとえばある機関きかんが特異とくい功能こうのうを測定そくていする方法ほうほうを考案こうあんして、密封みっぷうした箱はこの中なかに何なにが入はいっているのか気功きこう師しに当あててもらったのですが、気功きこう師しの天目てんもくの次元じげんが異ことなっていたため、結果けっかもまちまちでした。そこで、テストをした人ひとは、天目てんもくなんて嘘うそで、人ひとを騙だますものだと思おもい込こみました。このようなテストでは、往々おうおうにして天目てんもくの次元じげんの低ひくい人ひとが透視とうしで良よい結果けっかを出だせます。なぜならその人ひとの天目てんもくは天眼通てんげんつうの次元じげんにとどまっており、物質ぶっしつ空間くうかんの物事ものごとを見みることにしか向むいていないからです。それで天目てんもくの分わからない人ひとは、その人ひとの功能こうのうが最高さいこうだと思おもってしまいます。どんな物体ぶったいでも、それが有機物ゆうきぶつであれ無機物むきぶつであれ、異ことなる空間くうかんでは異ことなる様相ようそうを呈ていするのです。たとえば一ひとつのコップでも、それが作つくり出だされたときに、すでに一体いったいの霊体れいたいが他たの空間くうかんに同時どうじに存在そんざいしています。しかもこの霊体れいたいはそこに現あらわれる以前いぜんは別べつのものだった可能性かのうせいもあります。天目てんもくのもっとも低ひくい次元じげんで見みえるのはコップですが、一ひとつ上うえの次元じげんで見みえるのは他たの空間くうかんのその霊体れいたいであり、さらに高たかい次元じげんから見みえるのはその霊体れいたいより以前いぜんの物質ぶっしつ形式けいしきです。
 
(三) 遠隔えんかく透視とうし
 天目てんもくが開ひらいたあと、遠隔えんかく透視とうしができるようになる人ひとがおり、千里せんり隔へだたった遙はるか遠とおい空間くうかんの物ものが見みえるのです。人ひとはそれぞれ自分じぶんの占しめる空間くうかんがあり、その空間くうかんにおいてその人ひとは宇宙うちゅうのような大おおきさをしています。そしてその特定とくていの空間くうかんでは、その人ひとの額ひたいにわれわれのこの空間くうかんでは見みえない一枚いちまいの鏡かがみがあります。この鏡かがみは誰だれでも持もっているのですが、ただ煉功れんこうしない人ひとの場合ばあい、裏返うらがえしになっています。ところが、煉功れんこうする人ひとの場合ばあいはこの鏡かがみが次第しだいに表おもて向むきになり、彼かれが見みようとする物ものを照てらし出だすことができます。その人ひとの特定とくていの空間くうかんでは、その人ひとはかなり大おおきいのです。体からだが大おおきければ、この鏡かがみも非常ひじょうに大おおきく、見みたい物ものを何なんでも照てらし出だせます。しかし照てらし出だせてもまだ見みえません。画像がぞうは鏡かがみにしばしとどまります。鏡かがみは回転かいてんするので、照てらし出だした物体ぶったいをちらっと見みせては裏返うらがえし、そしてまたすばやく裏返うらがえすというように、繰くり返かえし反転はんてんします。映画えいがのフィルムは一秒いちびょう二十四にじゅうよんコマで連続れんぞくした動作どうさを映うつし出だせますが、鏡かがみの反転はんてんの速度そくどはそれよりも速はやいので、見みた目めではつながっており、非常ひじょうにきれいに見みえます。これが遠隔えんかく透視とうしです。遠隔えんかく透視とうしの道理どうりはこんなにも簡単かんたんなものなのです。これらはみな秘密ひみつの中なかの秘密ひみつですが、わたしは二言ふたこと三言みことでそれを明あきらかにしました。
 
(四)空間くうかん
 空間くうかんは、われわれには非常ひじょうに複雑ふくざつなものに映うつります。われわれ人類じんるいは人類じんるいが現在げんざい存在そんざいする空間くうかんしか知しらず、その他ほかの空間くうかんについてはまだ探さぐり出だす手てだてがありませんが、われわれ気功きこう師しはすでに数十すうじゅう次元じげんもの空間くうかんを見みました。理論りろんの上うえでもそれを説明せつめいできます。しかし科学かがくではまだそれを証明しょうめいすることができません。一部いちぶのものはあなたがその存在そんざいを認みとめなくても、すでにまぎれもなくわれわれの空間くうかんに反映はんえいされてきました。たとえば、世界せかいにバミューダ群島ぐんとうというところがあり、魔まの三角さんかく地帯ちたいと呼よばれています。船ふねがそこへ行いくと行方不明ゆくえふめいになり、飛行機ひこうきがそこへ行いくと消きえてしまいますが、数すう年ねん後ご再ふたたび現あらわれてきます。誰だれもその原因げんいんを説明せつめいできませんし、現げん人類じんるいの思考しこう論理ろんりを超こえることもできません。実じつはそれはほかでもなく他たの空間くうかんへの通路つうろなのです。そこにはわれわれの門もんのようなきちんとした門もんがあるわけではなく、陰陽いんようがくいちがえばそういう状態じょうたいになるのです。ですから、ちょうど陰陽いんようのくいちがいにより門もんが間違まちがって開ひらいているときに船ふねが出でくわしてしまえば、簡単かんたんに入はいってしまいます。人間にんげんはこの空間くうかんの差さを感かんじられないので、一瞬いっしゅんのうちに入はいってしまうのです。それとわれわれの時空じくうとの差さは、距離きょりで表あらわすことができません。十万じゅうまん八千里はっせんりのような距離きょりは、そこではほんのわずかなもので、同おなじ時間じかん、同おなじ空間くうかんに存在そんざいしています。船ふねが入はいってしばらくゆらゆらすると、陰陽いんようのくいちがいによりまた出でてきます。しかしこの世よではすでに数十年すうじゅうねんが過すぎ去さっています。二ふたつの空間くうかんの時間じかんが異ことなるからです。どの空間くうかんにもさらに単元たんげん世界せかいがあります。あたかもわれわれの描えがく原子げんしの構造図こうぞうずのように、一ひとつの球たまに一本いっぽんの連結れんけつ線せんがあり、どこまでも球たまがつながり、どこにも連結れんけつ線せんがありますので、きわめて複雑ふくざつです。
 第だい二次にじ世界せかい大戦たいせんの四年よねん前まえに、イギリス空軍くうぐんのあるパイロットが任務にんむ遂行すいこう中ちゅうに、暴風雨ぼうふううに出会であいましたが、日頃ひごろの経験けいけんに頼たよって廃棄はいきされた空港くうこうを見みつけました。空港くうこうが目めの前まえに現あらわれたとき、突然とつぜん、空一面そらいちめん雲くもひとつないというまったく違ちがう光景こうけいが現あらわれ、まるで別べつの世界せかいから抜ぬけ出だしてきたかのようでした。空港くうこうにある飛行機ひこうきはすでに黄色きいろに塗ぬり上あげられ、地面じめんでは人々ひとびとが忙いそがしく動うごき回まわっていました。彼かれは非常ひじょうに不思議ふしぎに思おもいました! 着陸ちゃくりくしてからも誰だれもかまってくれる人ひとがいないし、管制塔かんせいとうも彼かれと交信こうしんしようとしません。空そらも晴はれてきたのでさあ帰かえろうかと、彼かれはまた飛とび立たちました。空港くうこうを飛とび去さって、先さきほど空港くうこうが見みえたあたりに来くると、またもや暴風雨ぼうふううの中なかに飛とび込こみましたが、結局けっきょくなんとか帰かえることができました。彼かれは一部始終いちぶしじゅうを報告ほうこくし、飛行ひこう記録きろくも書かきましたが、上司じょうしは信しんじてくれません。四年よねん後ご、第二次だいにじ世界せかい大戦たいせんが勃発ぼっぱつし、彼かれはその廃棄はいきされた空港くうこうへ配置はいち転換てんかんされたのですが、たちまち四年よねん前まえの光景こうけいが思おもい出だされ、目めの前まえのとそっくりだったということに気きがつきました。われわれ気功きこう師しにはこれがどういうことなのかよく分わかります。彼かれは四年よねん後ごのことを先さきんじて一通ひととおりしてきたにほかなりません。時間じかんに先さきんじてそこへ行いって一幕ひとまくを演えんじてきたわけで、第一だいいち幕まくがまだ始はじまらないうちに先さきに一幕ひとまくを演えんじてきて、それから戻もどって順番じゅんばん通どおりに演えんじるわけです。
 

 五、気功きこう治療ちりょうと病院びょういん治療ちりょう


 理論りろんから言いって、気功きこう治療ちりょうと病院びょういん治療ちりょうとはまったく違ちがいます。西洋せいよう医いが病気びょうきを治療ちりょうする際さいに用もちいるのは、化学かがく検査けんさであれレントゲン検査けんさであれ、常人じょうじん社会しゃかいの手法しゅほうですので、この空間くうかんにおける病やまいの様相ようそうしか観察かんさつすることができず、他たの空間くうかんの信息しんそくを見みることも、発病はつびょうの原因げんいんの所在しょざいを見みることもできません。もしその病気びょうきが比較的ひかくてき軽かるければ、薬物やくぶつで病原びょうげん(西洋せいよう医いで言いう病毒びょうどく、気功きこうで言いう業ごう)を殺ころしたり追おい払はらったりできます。しかし、病気びょうきが重おもい場合ばあい、薬物やくぶつが役やくに立たたなくなり、薬物やくぶつの量りょうを増ふやせば患者かんじゃが耐たえられなくなります。なぜなら病気びょうきというのは、全部ぜんぶが全部ぜんぶ世間せけん法ほうの枠わくにとどまっているものではなく、一部いちぶの病気びょうきはかなり重おもく、世間せけん法ほうの範囲はんいを超こえており、病院びょういんでは治療ちりょうできないからです。
 漢方かんぽうは、我わが国くに伝統でんとうの医学いがくであり、人体じんたいの修煉しゅうれんや特異とくい功能こうのうと一体いったいとなっています。古代こだいでは人体じんたいの修煉しゅうれんを非常ひじょうに重視じゅうしし、儒家じゅかをはじめ道家どうけ、佛家ぶっけ、さらには儒学じゅがく生せいまでも坐禅ざぜんを重おもんじていました。坐禅ざぜんは一種いっしゅの功夫こうふであり、煉功れんこうをしていなくても、時間じかんが経たつうちに、功こうと功能こうのうをもつようになります。漢方かんぽうの鍼灸しんきゅうはなぜ人体じんたいの経絡けいらくについてあれほどはっきり分わかっているのでしょうか? ツボとツボがなぜ横よこにつながらないのか? なぜ交錯こうさくしてつながらないのか? なぜ縦たてにつながっているのか? どうしてあんなに正確せいかくに描えがかれているのでしょうか? 現代げんだいの特異とくい功能こうのうをもつ者ものが目めで見みたものと漢方かんぽうが描えがいたものとは一致いっちしていますが、それは古代こだいの名医めいいがたいてい特異とくい功能こうのうをもっていたからです。我わが国くにの歴史れきし上じょうにおける李時珍りじちんをはじめ、孫思邈そんしばく、扁鵲へんじゃく、華佗かだなどは、実じつはみんな特異とくい功能こうのうをもつ気功きこう大師だいしでした。漢方かんぽうは今日こんにちまで伝つたえられてくる間あいだに、功能こうのうの部分ぶぶんを失うしない、手法しゅほうのみが残のこりました。昔むかし、漢方かんぽうは目め(特異とくい功能こうのうを含ふくむ)で診察しんさつを行おこなっていましたが、その後ご、脈みゃくを見みる方法ほうほうが考案こうあんされました。もし漢方かんぽうの治療ちりょう方法ほうほうに特異とくい功能こうのうの方法ほうほうが加くわわれば、あと何年なんねん経たとうと西洋せいようの医学いがくは中国ちゅうごくの漢方かんぽうに追おいつけません。
 気功きこうによる治療ちりょうとは、根本こんぽんから発病はつびょうの原因げんいんを取とり除のぞくことです。わたしに言いわせれば、病気びょうきとは一種いっしゅの「業ごう」であり、それを治療ちりょうするのは、業ごうを消けす手助てだすけをすることにほかなりません。病気びょうきの治療ちりょうに際さいして黒くろい気きを追おい出だすことを重おもんじる気功きこう師しがおり、気きの排出はいしゅつと補給ほきゅうにより、ごく浅あさい次元じげんでは黒くろい気きを追おい出だすことができたとしても、彼かれには黒くろい気きを生うみ出だす根本的こんぽんてきな原因げんいんが分わかりません。ですから黒くろい気きが再ふたたび戻もどり、病気びょうきが再発さいはつします。実じつは、黒くろい気きが発病はつびょうの原因げんいんではなく、黒くろい気きがその人ひとに苦痛くつうを与あたえているだけです。その人ひとに発病はつびょうさせている根本的こんぽんてきな原因げんいんは、他たの空間くうかんに霊体れいたいがあるからです。多おおくの気功きこう師しはこのことが分わかりません。その霊体れいたいが非常ひじょうに手強てごわいものなので、普通ふつうそれにはさわれませんし、さわる勇気ゆうきもありません。法輪功ファールンゴンは病気びょうきを治療ちりょうするとき、その霊体れいたいに照準しょうじゅんを定さだめて、発病はつびょうの根本こんぽん原因げんいんとなるものを取とり除のぞき、しかも病気びょうきのあった部位ぶいに覆おおいをかけ、病やまいが再ふたたび侵入しんにゅうしないようにするのです。
 気功きこうは病気びょうきを治療ちりょうすることができます。しかし、常人じょうじん社会しゃかいの状態じょうたいを撹乱かくらんするわけにはいきません。もし広範囲こうはんいにわたってそれを用もちいれば、常人じょうじん社会しゃかいの状態じょうたいを撹乱かくらんすることになります。そんなことは許ゆるされませんし、良よい効果こうかも得えられません。皆みなさんが知しっているように、およそ気功きこう診療所しんりょうしょや、気功きこう病院びょういん、気功きこうリハビリセンターを開設かいせつする場合ばあい、開設かいせつされるまでは治療ちりょう効果こうかがけっこう悪わるくないかもしれませんが、いったん開業かいぎょうして病気びょうき治療ちりょうを始はじめると、効果こうかががたっと落おちてしまいます。つまり、超常ちょうじょうの法ほうで常人じょうじん社会しゃかいの職能しょくのうを代行だいこうすることは許ゆるされないということです。そういうことをすれば、間違まちがいなく常人じょうじん社会しゃかいの法ほうと同おなじ低ひくさになりさがります。
 特異とくい功能こうのうで人体じんたいを透視とうしする場合ばあい、スライスするように、一ひとつ一ひとつの断面だんめんを見みることができ、軟体なんたい組織そしきや身体からだのいかなる部位ぶいをも見みることができます。現在げんざいのCTスキャンは、はっきり見みることができますが、しかしそれはなんといっても機械きかいを使つかっており、非常ひじょうに時間じかんがかかります。多おおくのフィルムを使つかいますし、時間じかんもお金かねもかかります。人間にんげんの特異とくい功能こうのうはそれに比くらべて便利べんりであり、正確せいかくです。気功きこう師しは目めを閉とじてちらっと見みただけで、患者かんじゃのいかなる部位ぶいをも直接ちょくせつ見みることができます。これは、現代げんだいの科学技術かがくぎじゅつよりも進すすんだ高度こうどな科学技術かがくぎじゅつだといえませんか? しかし、実じつは中国ちゅうごくの古代こだいですでにこのような水準すいじゅんに達たっしていました。つまり、これは古代こだいからあった高度こうどな科学技術かがくぎじゅつなのです。華佗かだは曹操そうそうの頭あたまのなかに腫瘍しゅようがあるのが見みえて、手術しゅじゅつをしてあげようとしました。曹操そうそうはそれを受うけ入いれることができず、自分じぶんを殺害さつがいしようとしているのだと思おもいこみ、華佗かだを捕つかまえましたが、結局けっきょく曹操そうそうは脳のうの腫瘍しゅようで亡なくなりました。歴史れきし上じょうの多おおくの偉大いだいな漢方医かんぽういにはみな特異とくい功こう能のうがありましたが、現代げんだい社会しゃかいでは人々ひとびとが過度かどに現実げんじつのものを求もとめているために、古ふるい伝統でんとうが忘却ぼうきゃくされているだけです。
 われわれの高たかい次元じげんにおける気功きこう修煉しゅうれんは、伝統的でんとうてきなものを改あらためて認識にんしきし、再ふたたび人類じんるい社会しゃかいに幸福こうふくをもたらすように、実践じっせんにおいてそれを継承けいしょうし、広ひろめていこうとすることです。
 

 六、佛家ぶっけ気功きこうと佛教ぶっきょう


 われわれが佛家ぶっけ気功きこうと言いうと、多おおくの人ひとがすぐに、佛家ぶっけが佛道ぶつどうを修おさめるものだというように連想れんそうし、佛教ぶっきょうの中なかのことを思おもい浮うかべます。しかし、ここではっきり断ことわっておきますが、法輪功ファールンゴンは佛家ぶっけ気功きこうであり、正伝しょうでん大法ダーファであって、佛教ぶっきょうとはかかわりがありません。佛家ぶっけ気功きこうは佛家ぶっけ気功きこうであり、佛教ぶっきょうは佛教ぶっきょうです。修煉しゅうれんの目的もくてきは同おなじですが、歩あゆむ道みちは違ちがいますし、同おなじ法門ほうもんではなく、要求ようきゅうも異ことなります。ここで「佛ほとけ」という字じに触ふれておきましょう。高たかい次元じげんで功こうを説とくときに再ふたたびこれに触ふれることになるのですが、それ自身じしんには何なにも迷信的めいしんてきな色彩しきさいはありません。「佛ほとけ」と聞きけば大騒おおさわぎし、あなたが迷信めいしんを宣伝せんでんしていると責せめる人ひとがいますが、そんなことはありません。「佛フォー」はもともと梵語ぼんごで、インドから伝つたわってきたものであり、「佛陀フォートゥー」(Buddha)という音訳おんやくの二文字ふたもじでしたが、「陀た」が省略しょうりゃくされて、「佛ぶつ」になりました。中国語ちゅうごくごに翻訳ほんやくすれば、「覚者かくしゃ」、すなわち悟さとりを開ひらいた人ひとということになります(『辞海じかい』)。
 
(一)佛家ぶっけ気功きこう
 現在げんざい伝つたえられている佛家ぶっけ気功きこうは、二種類にしゅるいあります。一ひとつは佛教ぶっきょうから分離ぶんりしたもので、数千年すうせんねんの発展はってんの過程かていで、多おおくの高僧こうそうを輩出はいしゅつしました。彼かれらは、修煉しゅうれんによって非常ひじょうに高たかい次元じげんまで達たっしたときに、師しからなんらかのものを授さずかって、さらに高たかい次元じげんの直伝じきでんを得えます。これらのものは昔むかし、佛教ぶっきょうの中なかでは一人ひとりにしか伝つたえませんでした。高僧こうそうがいよいよこの世よを去さろうとするときになって、はじめて一人ひとりの弟子でしに伝つたえるものであり、それは佛教ぶっきょうの理論りろんに従したがって修煉しゅうれんし、全体ぜんたいの向上こうじょうを目指めざすものです。たしかにこのような気功きこうは、佛教ぶっきょうと密接みっせつなつながりがあるように見みえます。その後ご、たとえば「文化大革命ぶんかだいかくめい」のときに、僧侶そうりょたちが寺てらから追おい出だされたので、これらの功法こうほうは民間みんかんに落おち、民間みんかんで大おおいに発展はってんしました。
 もう一ひとつも佛家ぶっけ気功きこうですが、この佛家ぶっけ気功きこうは歴代れきだいにおいて、佛教ぶっきょうとかかわりをもったことがなく、ずっと民間みんかんあるいは山奥やまおくで静しずかに修煉しゅうれんしていました。このような功法こうほうには独特どくとくなところがあって、いずれも良よい弟子でし、本当ほんとうに高たかい次元じげんへ修煉しゅうれんできる大徳だいとくをもった人ひとを選えらぶのが条件じょうけんとなっています。このような人ひとは、長ながい間あいだに一人ひとりしか現あらわれません。この功法こうほうは公おおやけにされてはならないものであって、心性しんせいに対たいする要求ようきゅうが高たかく、功こうの伸のびもきわめて速はやいのです。このような功法こうほうは数多かずおおくあります。これは道家どうけも同おなじであり、同おなじく道家どうけ功こうでありながら、昆侖こんろん派は、峨嵋がび派は、武当ぶとう派はなどなどの区別くべつがあります。どの派はにもさらに違ちがう法門ほうもんがあり、どの門もんの功法こうほうも大おおきく異ことなっており、混同こんどうして修煉しゅうれんしてはいけません。
 
(二)佛教ぶっきょう
 佛教ぶっきょうは二千年にせんねんあまり前まえに、釈迦牟尼しゃかむにがインドに本来ほんらいあった修煉しゅうれんの基礎きそをふまえて自みずから証悟しょうごした、修煉しゅうれん方法ほうほうです。それを概括がいかつすれば、「戒かい・定じょう・慧え」の三文字さんもじにまとめることができます。「戒かい」は「定じょう」のためにあります。佛教ぶっきょうは煉功れんこうを唱となえませんが、実際じっさいは煉功れんこうしており、「定じょう」になってそこに坐すわればすなわち煉功れんこうです。なぜなら人間にんげんが静せいの状態じょうたいに入はいり、入定にゅうじょうすれば、宇宙うちゅうのエネルギーが彼かれの身体からだに集あつまり、煉功れんこうの役割やくわりを果はたすことになるからです。佛教ぶっきょうの「戒かい」は、常人じょうじんのもつ欲望よくぼうを断たち、常人じょうじんが執着しゅうちゃくするあらゆるものを捨すて去さることであり、それによって清静せいせい無為むいの状態じょうたいに達たっすれば、「定じょう」に入はいることができます。そして、「定じょう」のなかで絶たえず次元じげんを高たかめていくと、悟さとりを開ひらき、慧えを開ひらき、宇宙うちゅうを認識にんしきして、宇宙うちゅうの真相しんそうを見みることになります。
 釈迦牟尼しゃかむには伝法でんぽうを始はじめた頃ころ、一日いちにちに三みっつのことしかしませんでした。説法せっぽうし(主おもに羅漢らかん法ほうを伝つたえた)、弟子でしに法ほうを聞きかせること。鉢はち(お椀わん)を持もってお布施ふせを乞こう(乞食こじきをする)こと。そして坐禅ざぜんして実際じっさいに修行しゅぎょうすることの三みっつです。釈迦牟尼しゃかむにがこの世よを去さったあと、バラモン教きょうと佛教ぶっきょうの闘たたかいが起おこり、結局けっきょく二ふたつの宗教しゅうきょうが一ひとつにまとまって、ヒンズー教きょうとなりました。ですから、現在げんざいのインドには佛教ぶっきょうがありません。その後ごの発展はってんと変遷へんせんの中なかで、大乗だいじょう佛教ぶっきょうが現あらわれました。中国ちゅうごく内地ないちに伝つたわった現在げんざいの佛教ぶっきょうがそれです。大乗だいじょう佛教ぶっきょうは釈迦牟尼しゃかむにのみを始祖しそとして信仰しんこうするのではなく、多佛たぶつ信仰しんこうであり、多おおくの如来にょらいや阿弥陀佛あみだぶつ、薬師佛やくしぶつなどを信仰しんこうします。戒律かいりつも増ふえ、修煉しゅうれんの目標もくひょうも高たかくなりました。当時とうじ、釈迦牟尼しゃかむにが個別こべつの弟子でしの間あいだに菩薩ぼさつ法ほうを伝つたえたことがありますが、後のちにそれらのものが整理せいりされ、今日こんにちのような菩薩ぼさつ界かいを修おさめる大乗だいじょう佛教ぶっきょうに発展はってんしました。現在げんざいの東南とうなんアジアあたりでは、依然いぜん小乗しょうじょう佛教ぶっきょうの伝統でんとうが守まもられており、神通力じんつうりきによって法事ほうじを行おこなっています。佛教ぶっきょうの変遷へんせんの過程かていで、一ひとつの流派りゅうはが我わが国くにのチベットに伝つたわり、藏密ぞうみつと称しょうされるようになりました。また、新疆しんきょうを経へて漢民族かんみんぞくの地域ちいきに伝つたわった流派りゅうはがあり、唐密とうみつ(会昌かいしょう年間ねんかん「滅佛めつぶつ」の後あとに消失しょうしつした)と称しょうされています。いま一ひとつの流派りゅうはは、インドで形成けいせいされた瑜珈ヨガ功こうです。
 佛教ぶっきょうでは、煉功れんこうを唱となえず、気功きこうもやりませんが、これは佛教ぶっきょうの伝統的でんとうてきな修煉しゅうれん方法ほうほうを守まもるためであり、佛教ぶっきょうが広ひろまって二千年にせんねん以上いじょう経たっても衰おとろえない重要じゅうような要因よういんでもあります。外来がいらいのものを受うけ入いれなかったからこそ、それ自身じしんの伝統でんとうを守まもりやすかったのです。佛教ぶっきょうの修煉しゅうれん方法ほうほうも完全かんぜんに同おなじではありません。小乗しょうじょう佛教ぶっきょうが自分じぶん自身じしんの済度さいど、自分じぶん自身じしんの修煉しゅうれんに重おもきを置おいているのに対たいして、大乗だいじょう佛教ぶっきょうは自分じぶんを済度さいどし、他人たにんも済度さいどし、衆生しゅじょうを普あまねく済度さいどするよう発展はってんしてきました。
 

 七、正法しょうぼうと邪法じゃほう


(一) 旁門左道ぼうもんさどう
 旁門左道ぼうもんさどうは奇門きもん修煉しゅうれんとも言いいます。宗教しゅうきょうが現あらわれる以前いぜんに、各かく気功きこうはすでに存在そんざいしていました。宗教しゅうきょう以外いがいの功法こうほうも民間みんかんで多おおく伝つたわっていますが、それらのほとんどは整ととのった修煉しゅうれん体系たいけいを成なしておらず、整ととのった理論りろんももっていません。それに対たいして奇門きもん修煉しゅうれん法ほうには、系統的けいとうてきで完璧かんぺきな特殊とくしゅ強化きょうか修煉しゅうれん方法ほうほうがあり、同おなじく民間みんかんで伝承でんしょうされています。この類たぐいの功法こうほうは通常つうじょう、旁門左道ぼうもんさどうと呼よばれます。どうして旁門左道ぼうもんさどうと呼よばれるのでしょうか? 字面じづらから見みて、旁門ぼうもんとは別べつに開ひらかれた門もん、左道さどうとは不器用ぶきようという意味いみです。佛ぶつ、道どう両家りょうけの修煉しゅうれん法ほうが正法しょうぼうで、その他ほかの功法こうほうはみな旁門左道ぼうもんさどう、あるいは邪法じゃほうと思おもわれていますが、実じつはそうではありません。旁門左道ぼうもんさどうは歴代れきだい、ずっと密ひそかに修煉しゅうれんされ、個別こべつに伝承でんしょうされており、人ひとに見みせてはいけないものなのです。ですから、たとえ公おおやけにされても、人々ひとびとはそれをあまり理解りかいできません。彼かれら自身じしんもその功法こうほうを「佛ほとけに非あらず道どうに非あらず」と称しょうしています。その修煉しゅうれん方法ほうほうには心性しんせいに対たいする厳きびしい要求ようきゅうがあり、修煉しゅうれんは宇宙うちゅうの特性とくせいに従したがって行おこなわれており、善ぜんを行おこなうことや心性しんせいを守まもることを重おもんじます。その中なかの優すぐれた人ひとは、みな奥おくの手てをもっており、独特どくとくの技能ぎのうにはすごいものがあります。わたしは奇門きもんの優すぐれた人ひと三人さんにんに出会であい、いくつかのものを伝授でんじゅしてもらいましたが、佛ぶつ、道どう両家りょうけのどちらにも見みられないものでした。これらのものは修煉しゅうれんの過程かていにおいていずれもかなり難むずかしく、修煉しゅうれんして得えた功こうも非常ひじょうに独特どくとくなものです。それに対たいして、現在げんざい伝つたわっている一部いちぶのいわゆる佛ぶつ、道どう両家りょうけの功法こうほうの中なかには、心性しんせいへの厳きびしい要求ようきゅうをもたないものがあり、そのために高たかくへは修煉しゅうれんできません。ですから各家かくかの功法こうほうに対たいしては、弁証べんしょう的てきに見みなければなりません。
 
(二) 武術ぶじゅつ気功きこう
 武術ぶじゅつ気功きこうは長ながい歴史れきしのなかで形成けいせいされたもので、整ととのった理論りろん体系たいけいや修煉しゅうれん方法ほうほうがあり、独自どくじの体系たいけいを成なしています。しかし厳密げんみつに言いえば、それは内修ないしゅう功法こうほうの最もっとも低ひくい次元じげんに顕現けんげんした功能こうのうの現あらわれです。武術ぶじゅつ修煉しゅうれんに現あらわれた功能こうのうは、内修ないしゅう功法こうほうの中なかでみな現あらわれるのです。武術ぶじゅつ気功きこうの修煉しゅうれんは、気きを練ねるところから始はじまります。たとえば石いしを割わるとき、初はじめは腕うでを振ふり回まわして気きを巡めぐらせますが、時間じかんが経たてば、気きが質的しつてき変化へんかを起おこして、ある種しゅの光ひかりのようなエネルギーの塊かたまりを形成けいせいします。この程度ていどに達たっすれば、功こうは役やくに立たつようになります。なぜなら功こうは高次こうじ物質ぶっしつであり、霊性れいせいを帯おびているからです。それは大脳だいのう思惟しいの制御せいぎょを受うけますが、他たの空間くうかんに存在そんざいしています。攻撃こうげきのとき、気きを巡めぐらせるまでもなく、思おもっただけで功こうがやってきます。修煉しゅうれんするにつれて、功こうはますます強化きょうかされ、粒子りゅうしが細こまかくなり、エネルギーが増大ぞうだいして、「鉄砂掌てっさしょう」、「朱砂掌しゅさしょう」のような功夫こうふが現あらわれるようになります。映画えいがやテレビ、雑誌ざっしでは、近年きんねん「金鐘罩きんしょうとう」、「鉄布衫てっぷさん」の技能ぎのうが現あらわれましたが、それは武術ぶじゅつと内修ないしゅう功法こうほうを同時どうじに修おさめた結果けっかであり、内外ないがい兼修けんしゅうによって得えられたものです。内修ないしゅうをするには、徳とくを重おもんじなければならず、心性しんせいを修おさめなければなりません。理論りろんから言いえば、その功夫こうふが一定いっていのレベルに達たっすると、功こうが体内たいないから発はっせられ、体外たいがいに打うち放はなたれますが、密度みつどが高たかいので、防護ぼうごの覆おおいができあがります。理論的りろんてきに言いって、武術ぶじゅつ気功きこうとわれわれの内修ないしゅう功法こうほうとの最大さいだいの違ちがいは、武術ぶじゅつは激はげしい運動うんどうの中なかで修煉しゅうれんしており、入静にゅうせいが取とり入いれられていないということです。入静にゅうせいしなければ、気きが皮膚ひふの下したを走はしり、筋肉きんにくを貫つらぬきますが、丹田たんでんに入はいらないので、命めいを修おさめませんし、修おさめることもできません。
 
(三) 返修へんしゅうと借功しゃっこう
 気功きこうをやったことがないのに、一夜いちやのうちに功こうを得える人ひとがいます。その人ひとはエネルギーがけっこう大おおきく、他人たにんの病気びょうきも治なおすことができますので、人々ひとびとから気功きこう師しとも呼よばれ、人ひとに教おしえたりもしています。中なかには功法こうほうを習ならったことさえない人ひともいますし、いくつかの動作どうさを習ならっただけなのに、それをちょっとアレンジしてすぐ他ほかの人ひとに教おしえる人ひともいます。このような人ひとは、気功きこう師しと称しょうする資格しかくがなく、他人たにんに伝承でんしょうするものを何なにももっていません。彼かれらの教おしえているものは、実際じっさいに高たかい次元じげんを目指めざして修煉しゅうれんすることができないもので、せいぜい健康けんこう増進ぞうしんと病気びょうき治療ちりょうぐらいのものに過すぎません。このような功こうはどのようにして湧わいてきたのでしょうか? まず「返修へんしゅう」についてお話はなしします。返修へんしゅうは、心性しんせいがきわめて高たかく、非常ひじょうに良よい人ひとに見みられます。普通ふつうは年としをとっており、五十歳ごじゅっさい以上いじょうで、一いちから修煉しゅうれんさせるにはもう間まに合あわず、性命双修せいめいそうしゅうの立派りっぱな師しに出会であうこともなかなか容易よういではありません。そこで、その人ひとが煉功れんこうしようと思おもいたったとき、上師じょうしが彼かれの心性しんせいの基礎きそに、かなり大おおきなエネルギーを加くわえ、上うえから下したへと逆方向ぎゃくほうこうに修煉しゅうれんさせます。これでずいぶん速はやくなります。上師じょうしは空中くうちゅうで演化えんかして、体外たいがいから絶たえずその人ひとにエネルギーを注そそぎます。特とくにその人ひとが病気びょうき治療ちりょうを行おこなったり、大勢おおぜい集あつめて何なにかしたりする場合ばあい、上師じょうしからエネルギーがパイプを流ながれるように送おくられてくるのですが、時々ときどき自分じぶんでもそれがどこから来きたのか分わかりません。これが返修へんしゅうです。
 もう一ひとつ「借功しゃっこう」というのがあります。借功しゃっこうは年齢ねんれいに制限せいげんがありません。人間にんげんは主しゅ意識いしきのほかに、副ふく意識いしきもあり、普通ふつうは、副ふく意識いしきのほうが主しゅ意識いしきより次元じげんが高たかいのです。副ふく意識いしきの次元じげんがかなり高たかく、覚者かくしゃと交流こうりゅうできる人ひともいますが、このような人ひとが煉功れんこうしようとすると、副ふく意識いしきも次元じげんを高たかめようと思おもうので、すぐさま大だい覚者かくしゃと連絡れんらくをとって功こうを借かりてきます。功こうを貸かしてもらったら、やはり一夜いちやのうちに功こうが湧わいてきます。功こうを得えてからは同おなじく人ひとの病気びょうきを治なおすことができますし、患者かんじゃの苦痛くつうを解といてあげることもできます。このような人ひとは通常つうじょう、大勢おおぜいの人ひとを集あつめて治療ちりょう活動かつどうを行おこないますが、個別こべつにエネルギーを授さずけたり、手法しゅほうを教おしえたりすることもできます。
 普通ふつう、こういう人ひとは、初はじめはけっこう立派りっぱです。ただ、功こうを身みにつけると、名声めいせいが広ひろがり、名利みょうりとも手てに入はいるようになります。そして名利みょうりが頭あたまの中なかで大おおきな比重ひじゅうを占しめ、煉功れんこうを超こえるようになりますと、それ以降いこう功こうが堕おちはじめ、功こうがますます減へり、しまいには何なにも残のこらなくなります。
 
(四) 宇宙うちゅう語ご
 突然とつぜんある種しゅの言語げんごをしゃべり出だす人ひとがいます。けっこう流暢りゅうちょうに操あやつるのですが、それは人類じんるい社会しゃかいの言語げんごではありません。どんな言語げんごでしょうか? それは宇宙うちゅう語ごと言いいます。宇宙うちゅう語ごとはいっても、あまり高たかくはない生命体せいめいたいの言語げんごのひとつに過すぎません。目下もっか国内こくないで気功きこうをやる人ひとのなかに、このような状況じょうきょうが少すくなからず現あらわれており、いくつもの違ちがう言語げんごを操あやつることができる人ひともいます。もちろん、われわれ人類じんるい社会しゃかいの言語げんごもかなり複雑ふくざつで、一千種類いっせんしゅるい以上いじょうあります。宇宙うちゅう語ごは功能こうのうと言いえるのでしょうか? わたしはそうではないと思おもいます。それは自分じぶん自身じしんの功能こうのうでもなければ、外そとから与あたえられた功能こうのうでもなく、外来がいらいの生命せいめいによって制御せいぎょされているものです。その生命体せいめいたいは比較的ひかくてき次元じげんの高たかいところ、少すくなくともわれわれ人類じんるいより少すこし高たかいところから来きており、ほかでもなくその生命体せいめいたいがしゃべっているのです。宇宙うちゅう語ごを口くちにする人間にんげんは単たんに媒介ばいかいの役割やくわりを果はたしているに過すぎません。ほとんどの人ひとは、何なにをしゃべっているのか自分じぶんでも分わからず、「他心たしん通つう」を備そなえた人ひとだけが、おおよその意味いみを感かんじ取とることができます。功能こうのうではないのに、多おおくの人ひとが言いうものだから、いい気きになって大たいしたものだとうぬぼれ、功能こうのうだと思おもい込こんでしまいます。実際じっさいは、天目てんもくの次元じげんの高たかい人ひとには見みえるのですが、その人ひとの斜ななめ上うえの方ほうにおしゃべりをしている生命体せいめいたいがいて、人ひとの口くちを借かりて話はなしているのです。
 その生命体せいめいたいが人ひとに宇宙うちゅう語ごを教おしえ、同時どうじに功こうも一部いちぶ伝つたえますが、しかしその人ひとはそれ以降いこうそれに牛耳ぎゅうじられてしまうことになるので、これは正法しょうぼうではありません。その生命体せいめいたいはいくらか高たかい次元じげんの空間くうかんにいるとはいえ、正法しょうぼう修煉しゅうれんではないので、いかに修煉しゅうれん者しゃに健康けんこう増進ぞうしんと病気びょうき治療ちりょうのことを教おしえていいかが分わかりません。ですからこのような方法ほうほうを用もちいて、おしゃべりをすることによってエネルギーを放出ほうしゅつするのです。このエネルギーは散ちって放射ほうしゃされるので、力ちからが弱よわく、一部いちぶの軽かるい病気びょうきにはある程度ていど効ききますが、重おもい病気びょうきには役やくに立たちません。佛教ぶっきょうでは天上てんじょうの人間にんげんは苦労くろうがなく、トラブルもないと言いわれます。そのために修煉しゅうれんができず、試練しれんを与あたえてもらえず、次元じげんを向上こうじょうさせることができないので、そこでなんとかして人間にんげんの健康けんこう増進ぞうしんと病気びょうき治療ちりょうに手てを貸かすことによって、自分じぶんをいくらか高たかめようとするのです。これが宇宙うちゅう語ごです。宇宙うちゅう語ごは功能こうのうではなく、気功きこうでもありません。
 
(五) 信息しんそく憑つき物もの
 信息しんそく憑つき物もののなかで、危害きがいが大おおきいのは低ひくい霊体れいたいの憑つき物ものであり、これらはいずれも邪法じゃほうを修練しゅうれんしたことによって招まねいたものです。人間にんげんに害がいを与あたえること甚はなはだしく、取とり憑つかれた人ひとの結末けつまつは非常ひじょうに恐おそろしいものです。練功れんこうもそれほどしていないのに、人ひとの病気びょうきを治なおし、金儲かねもうけをしようとばかり考かんがえ、そういうことが頭あたまから離はなれない人ひとがいます。もともとその人ひとはけっこう立派りっぱな人ひとであり、ひょっとしたらすでに師しが面倒めんどうを見みてくれているのかもしれません。しかし人ひとの病気びょうきを治なおそうとか、金儲かねもうけをしようとかを考かんがえ出だすととんでもないことになり、自分じぶんでそういうものを招まねいてしまうのです。そういうものはわれわれの物質ぶっしつ空間くうかんにいませんが、まぎれもなく存在そんざいしています。
 この練功れんこう者しゃは突然とつぜん、天目てんもくが開ひらいた、功こうが身みについたと思おもい込こみますが、実じつは憑つき物ものが彼かれの大脳だいのうをコントロールしているのであり、憑つき物ものが見みた映像えいぞうが彼かれの大脳だいのうに反映はんえいされているのです。自分じぶんの天目てんもくが開ひらいたと思おもい込こみますが、実じつは全然ぜんぜん開ひらいていないのです。憑つき物ものがどうして彼かれに功こうを与あたえようとしたのでしょうか? どうして彼かれを助たすけようとしたのでしょうか? われわれのこの宇宙うちゅうでは、動物どうぶつが修煉しゅうれんして得道とくどうすることは許ゆるされないからです。動物どうぶつは心性しんせいを重おもんぜず、向上こうじょうできないので、正法しょうぼうを得えることが許ゆるされないのです。そこで動物どうぶつが人間にんげんの身体からだに取とり憑ついて、人体じんたいの精華せいかを得えようとするわけです。宇宙うちゅうにはもう一ひとつ、「失うしなわないものは得えられず」という理りがあります。憑つき物ものがあなたの名利心みょうりしんを満みたしてくれ、あなたに金儲かねもうけさせ、あなたを有名ゆうめいにしてくれます。しかしただでは助たすけてくれるわけがなく、憑つき物ものも何なにかを得えようとしており、あなたの精華せいかを得えようとしているのです。憑つき物ものがあなたから離はなれたとき、あなたにはもう何なにも残のこっておらず、衰弱すいじゃくしきって、あるいは植物しょくぶつ人間にんげんになってしまうかもしれません! これは心性しんせいが正ただしくないために招まねいたものです。一正いっせいが百邪ひゃくじゃを圧あっする、と言いわれるように、あなたの心性しんせいに少すこしの歪ゆがみもなければ、邪じゃを招まねくことはありえません。つまり、でたらめなものは一切いっさいもらわず、正々堂々せいせいどうどうとした煉功れんこう者しゃになるように、ひたすら正法しょうぼうに従したがって修煉しゅうれんしなければならないということです。
 
(六) 正ただしい功法こうほうでも邪法じゃほうを練ねることがある
 習ならっているのは正法しょうぼうであるとはいえ、自分じぶんを厳きびしく律りっすることができず、心性しんせいを重おもんじようとしないで、練功れんこうするときに良よくないことを考かんがえる人ひとがいますが、これでは無意識むいしきに邪法じゃほうをやっていることになります。たとえば站樁たんとう功こうをやっているにせよ、坐禅ざぜんをしているにせよ、たしかに練功れんこうはしてはいますが、実際じっさいは、頭あたまのなかではお金かねのことや、名利みょうりのことや、誰だれそれがわたしをいじめたので、功こうを身みにつけたら懲こらしめてやろうとか考かんがえています。あるいはあれやこれやの功能こうのうを欲ほしがったりして、良よくないものを功こうに加くわえてしまいますので、実際じっさいには邪法じゃほうをやっていることになります。これは非常ひじょうに危険きけんなことです。良よくないもの、たとえば低ひくい次元じげんの霊体れいたいのようなものを招まねいてしまう可能性かのうせいがあるのですが、招まねいてしまっても気きがつかないかもしれません。執着心しゅうちゃくしんを強つよくもったまま、求もとめる心こころを抱いだいて道どうを学まなんだりしてはいけません。心こころが歪ゆがんでいれば、師しもあなたを守まもるすべがないのです。つまり、煉功れんこう者しゃとしては必かならず厳きびしく心性しんせいを守まもり、心こころを正ただしく持もち、何なにも求もとめないようにしなければなりません。さもなければ問題もんだいが起おきるかもしれません。