法 輪 功
第二章
法輪功
ファールンゴン
法輪功
ファールンゴン
は
佛家
ぶっけ
法輪
ファールン
修煉
しゅうれん
大法
ダーファ
に
源
みなもと
を
発
はっ
する、
佛家
ぶっけ
気功
きこう
修煉
しゅうれん
の
特殊
とくしゅ
な
方法
ほうほう
ですが、
一般
いっぱん
の
佛家
ぶっけ
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
とは
異
こと
なる
独特
どくとく
なところがあります。
本功
ほんこう
法
ほう
は
本来
ほんらい
、きわめて
高
たか
い
心性
しんせい
を
持
も
つ
大根器
だいこんき
の
修煉
しゅうれん
者
しゃ
が
学
まな
ぶ、
特殊
とくしゅ
な
強化
きょうか
修煉
しゅうれん
でしたが、より
多
おお
くの
煉功
れんこう
者
しゃ
が
向上
こうじょう
できるように、そして
修煉
しゅうれん
に
志
こころざし
のある
多
おお
くの
方々
かたがた
の
要求
ようきゅう
を
満
み
たすために、
本功
ほんこう
法
ほう
の
中
なか
から
普及
ふきゅう
に
適
てき
した
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
を
整理
せいり
してここに
公開
こうかい
することにしました。それでも、それは
一般
いっぱん
の
功法
こうほう
で
学
まな
ぶものと
一般
いっぱん
功法
こうほう
の
次元
じげん
を
遙
はる
かに
超
こ
えています。
一、
法輪
ファールン
の
作用
さよう
法輪功
ファールンゴン
の
法輪
ファールン
は
宇宙
うちゅう
と
同
おな
じ
特性
とくせい
を
持
も
った
宇宙
うちゅう
の
縮図
しゅくず
です。
法輪功
ファールンゴン
を
修煉
しゅうれん
する
者
もの
は、
功能
こうのう
と
功力
こうりき
を
速
すみ
やかに
伸
の
ばすことができるばかりでなく、
非常
ひじょう
に
短
みじか
い
時間
じかん
内
ない
に
威力
いりょく
この
上
うえ
ない
法輪
ファールン
を
修煉
しゅうれん
して
得
え
ることができます。
法輪
ファールン
は
形成
けいせい
されれば、
一種
いっしゅ
の
霊性
れいせい
をもった
生命体
せいめいたい
の
存在
そんざい
となります。
普段
ふだん
は
煉功
れんこう
者
しゃ
の
下腹部
かふくぶ
で
自動的
じどうてき
に
回転
かいてん
してやまず、
絶
た
えず
宇宙
うちゅう
からエネルギーを
採
と
りこみ
演化
えんか
して、
最終的
さいしゅうてき
には
煉功
れんこう
者
しゃ
の
本体
ほんたい
のなかでそれを
功
こう
に
転化
てんか
させ、
法
ほう
が
人
ひと
を
煉
ね
る
効果
こうか
を
発揮
はっき
します。
言
い
い
換
か
えれば、
人
ひと
がいつも
煉功
れんこう
していなくても、
法輪
ファールン
が
絶
た
えず
人
ひと
を
煉
ね
っているということです。
法輪
ファールン
は
内
うち
に
向
む
かっては
自己
じこ
を
済度
さいど
し、
健康
けんこう
増進
ぞうしん
、
知恵
ちえ
の
開発
かいはつ
および
煉功
れんこう
者
しゃ
を
逸脱
いつだつ
から
守
まも
ってくれる
作
さく
用
よう
がありますし、
心性
しんせい
の
劣
おと
っている
人
ひと
から
妨
さまた
げを
受
う
けないよう
修煉
しゅうれん
者
しゃ
を
守
まも
ることもできます。
法輪
ファールン
は
外
そと
に
向
む
かっては
人
ひと
を
済度
さいど
し、
他人
たにん
の
病気
びょうき
を
治
なお
し
邪気
じゃき
を
祓
はら
い、あらゆる
異常
いじょう
な
状態
じょうたい
を
直
なお
すことができます。
法輪
ファールン
は
下腹部
かふくぶ
で
絶
た
えず
回転
かいてん
しており、
右回
みぎまわ
り(
時計回
とけいまわ
り)に
九
きゅう
回
かい
、
左回
ひだりまわ
り(
反
はん
時計回
とけいまわ
り)に
九
きゅう
回
かい
回転
かいてん
します。
右回
みぎまわ
りのときは、
宇宙
うちゅう
からエネルギーを
猛烈
もうれつ
に
吸収
きゅうしゅう
し、そのエネルギーは
非常
ひじょう
に
大
おお
きいものです。
功力
こうりき
の
増大
ぞうだい
に
従
したが
って
回転力
かいてんりょく
はますます
強
つよ
くなり、
人為的
じんいてき
に
気
き
をすくい
上
あ
げて
灌頂
かんじょう
してもこれには
遠
とお
く
及
およ
びません。
左回
ひだりまわ
りのときは、エネルギーを
放出
ほうしゅつ
して、
衆生
しゅじょう
を
普
あまね
く
済度
さいど
し、
正
ただ
しくない
状態
じょうたい
を
糾
ただ
しますので、
煉功
れんこう
者
しゃ
のまわりにいる
人
ひと
がみんなその
恩恵
おんけい
を
受
う
けます。
我
わ
が
国
くに
で
伝
つた
えられているあらゆる
功法
こうほう
の
中
なか
で、
法
ほう
が
人
ひと
を
煉
ね
ることのできる
功法
こうほう
は、
法輪功
ファールンゴン
のみです。
法輪
ファールン
は
最
もっと
も
貴重
きちょう
なものであり、
千金
せんきん
でもっても
替
か
え
難
がた
いものです。わたしの
師
し
は、
私
わたし
に
法輪
ファールン
を
伝
つた
えてくれたとき、この
法輪
ファールン
は
誰
だれ
にも
伝
つた
えてはならないものであり、
千年
せんねん
にわたって
道
どう
を
修
おさ
めている
人
ひと
でさえそれを
得
え
ようとしても
得
え
られないのだ、と
言
い
いました。われわれのこの
法門
ほうもん
は
非常
ひじょう
に
長
なが
い
年月
ねんげつ
を
経
へ
て、はじめて
一人
ひとり
の
人
ひと
に
伝
つた
えられるものであり、
数十年
すうじゅうねん
で
一人
ひとり
に
伝
つた
えるようなものとは
違
ちが
います。ですから
法輪
ファールン
はきわめて
貴重
きちょう
なのです。いま、われわれはそれを
取
と
り
出
だ
して
演化
えんか
しましたので、
本来
ほんらい
ほどの
大
おお
きな
威力
いりょく
はなくなりましたが、それでもやはりきわめて
貴重
きちょう
なものです。
修煉
しゅうれん
者
しゃ
がそれを
得
え
れば、
修煉
しゅうれん
の
半分
はんぶん
が
達成
たっせい
されたようなもので、あとは
自分
じぶん
の
心性
しんせい
を
向上
こうじょう
させさえすれば、
将来
しょうらい
かなり
高
たか
い
次元
じげん
があなたを
待
ま
っているのです。もちろん、
縁
えん
のない
人
ひと
は、
将来
しょうらい
修煉
しゅうれん
していけなくなりますので、
法輪
ファールン
も
存在
そんざい
しなくなります。
法輪功
ファールンゴン
は
佛家
ぶっけ
功
こう
ですが、
佛家
ぶっけ
の
範囲
はんい
を
完全
かんぜん
に
超
こ
えており、
宇宙
うちゅう
全体
ぜんたい
を
煉
ね
っています。
昔
むかし
、
佛家
ぶっけ
修煉
しゅうれん
では
佛家
ぶっけ
の
理
り
を、
道家
どうけ
修煉
しゅうれん
では
道家
どうけ
の
理
り
を
唱
とな
えましたが、
誰
だれ
も
根本
こんぽん
から
宇宙
うちゅう
を
完璧
かんぺき
に
説明
せつめい
できた
人
ひと
はいませんでした。
宇宙
うちゅう
も
人間
にんげん
と
同
おな
じように、
物質的
ぶっしつてき
に
構成
こうせい
されている
以外
いがい
に、その
特性
とくせい
の
存在
そんざい
をもっており、「
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
」という
三文字
さんもじ
にまとめることができます。
道家
どうけ
修煉
しゅうれん
は
主
しゅ
として「
真
しん
」を
悟
さと
り、
真実
しんじつ
のことを
話
はな
し、
真実
しんじつ
のことをし、
返本帰真
へんぽんきしん
して、
最終的
さいしゅうてき
に
真人
しんじん
になることを
目指
めざ
します。
佛家
ぶっけ
修煉
しゅうれん
は「
善
ぜん
」に
重点
じゅうてん
が
置
お
かれており、
衆生
しゅじょう
を
普
あまね
く
済度
さいど
するために、
大
おお
いなる
慈悲心
じひしん
を
生
う
み
出
だ
そうとします。われわれのこの
法門
ほうもん
は、「
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
」を
同時
どうじ
に
修
おさ
め、
宇宙
うちゅう
の
根本
こんぽん
特性
とくせい
から
修煉
しゅうれん
して、
最終的
さいしゅうてき
に
宇宙
うちゅう
との
同化
どうか
を
果
は
たします。
法輪功
ファールンゴン
は
性命双修
せいめいそうしゅう
の
功法
こうほう
であり、
功力
こうりき
と
心性
しんせい
の
上
うえ
で
一定
いってい
の
次元
じげん
に
達
たっ
すると、
世間
せけん
にいる
間
あいだ
にも
悟
さと
りを
開
ひら
く(
功
こう
を
開
ひら
く)
状態
じょうたい
に
到達
とうたつ
し、
修煉
しゅうれん
によって
不壊
ふえ
の
身体
からだ
を
得
え
るよう
求
もと
めています。
法輪功
ファールンゴン
はおおよそ
世間
せけん
法
ほう
と
出世間
しゅっせけん
法
ほう
など
多
おお
くの
次元
じげん
に
分
わ
かれていますが、
志
こころざし
のあるすべての
者
もの
が
修煉
しゅうれん
に
勤
つと
め、
絶
た
えず
心性
しんせい
を
高
たか
めていき、
圓満
えんまん
成就
じょうじゅ
できるよう
期待
きたい
しています。
二、
法輪
ファールン
の
形態
けいたい
構成
こうせい
法輪功
ファールンゴン
の
法輪
ファールン
は
霊性
れいせい
をもった、
回転
かいてん
している
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
体
たい
です。
法輪
ファールン
は
天体
てんたい
宇宙
うちゅう
全体
ぜんたい
の
運行
うんこう
規則
きそく
に
従
したが
って
回転
かいてん
しており、ある
意味
いみ
では、
宇宙
うちゅう
の
縮図
しゅくず
といえます。
法輪
ファールン
の
中央
ちゅうおう
は
佛家
ぶっけ
の「
卍
まんじ
」
符
ふ
で、
梵語
ぼんご
ではSrivatsa(シェリーバトゥサ)、「
吉祥
きっしょう
の
集
あつ
まるところ」(『
辞海
じかい
』)という
意味
いみ
であり、
法輪
ファールン
の
核心
かくしん
をなします。
色
いろ
は
黄金色
こがねいろ
に
近
ちか
く、その
地色
じいろ
は
非常
ひじょう
に
鮮
あざ
やかな
赤
あか
、
外
そと
の
輪
わ
の
地色
じいろ
はオレンジ
色
いろ
です。
四
よっ
つの
太極
たいきょく
と
四
よっ
つの
佛家
ぶっけ
法輪
ファールン
が、
交互
こうご
に
並
なら
んで、
八
やっ
つの
方位
ほうい
に
配置
はいち
されています。
赤
あか
と
黒
くろ
からなる
太極
たいきょく
は
道家
どうけ
のものであり、
赤
あか
と
青
あお
からなるのは
先天
せんてん
大道
だいどう
のものです。
四
よっ
つの
小
ちい
さな
法輪
ファールン
も
黄金色
こがねいろ
で、
法輪
ファールン
の
地色
じいろ
は、
赤
あか
、
橙
だいだい
、
黄
き
、
緑
みどり
、
青
あお
、
藍
あい
、
紫
むらさき
、と
周期的
しゅうきてき
に
変化
へんか
し、
色
いろ
が
非常
ひじょう
に
綺麗
きれい
です(
口絵
くちえ
参照
さんしょう
)。
中心
ちゅうしん
の「
卍
まんじ
」
符
ふ
と
太極
たいきょく
の
色
いろ
は
変
か
わりません。これらの
大小
だいしょう
の
法輪
ファールン
と「
卍
まんじ
」
符
ふ
はみな
自転
じてん
しています。
法輪
ファールン
の
根
ね
は
宇宙
うちゅう
におろされており、
宇宙
うちゅう
が
回
まわ
り、
各
かく
恒星
こうせい
系
けい
も
回
まわ
っているので、
法輪
ファールン
も
回
まわ
っています。
天目
てんもく
の
次元
じげん
の
低
ひく
い
人
ひと
には、
法輪
ファールン
が
扇風機
せんぷうき
のように
回転
かいてん
しているのが
見
み
えますが、
天目
てんもく
の
次元
じげん
の
高
たか
い
人
ひと
には、
法輪
ファールン
の
全景
ぜんけい
が
見
み
え、それは
非常
ひじょう
に
美
うつく
しく、
鮮
あざ
やかなものであり、
煉功
れんこう
者
しゃ
をして
修煉
しゅうれん
においていっそう
勇猛
ゆうもう
邁進
まいしん
させてくれます。
三、
法輪功
ファールンゴン
の
修煉
しゅうれん
の
特徴
とくちょう
(一)
法
ほう
が
人
ひと
を
煉
ね
る
法輪功
ファールンゴン
を
学
まな
ぶ
者
もの
は、
速
すみ
やかに
功力
こうりき
と
功能
こうのう
を
伸
の
ばすことができるばかりでなく、
修煉
しゅうれん
によって
法輪
ファールン
を
得
え
ることもできます。
法輪
ファールン
は
非常
ひじょう
に
短
みじか
い
時間
じかん
で
形成
けいせい
されますが、いったん
形成
けいせい
されると、その
威力
いりょく
はこの
上
うえ
なく
大
おお
きく、
煉功
れんこう
者
しゃ
を
逸脱
いつだつ
から
守
まも
るとともに、
本人
ほんにん
が
心性
しんせい
の
劣
おと
る
人
ひと
に
妨
さまた
げられないように
守
まも
ってくれます。
理論
りろん
の
上
うえ
でも
伝統的
でんとうてき
な
修煉
しゅうれん
法
ほう
とはまったく
異
こと
なっています。なぜなら
法輪
ファールン
は
形成
けいせい
されてから、
絶
た
えず
自転
じてん
を
続
つづ
ける、
霊性
れいせい
をもった
生命体
せいめいたい
の
存在
そんざい
であり、
普段
ふだん
は
煉功
れんこう
者
しゃ
の
下腹部
かふくぶ
に
絶
た
えずエネルギーを
蓄
たくわ
えているからです。
法輪
ファールン
は
回転
かいてん
によって
宇宙
うちゅう
からエネルギーを
採
と
りこみます。
自転
じてん
して
止
と
まらないからこそ、
法
ほう
が
人
ひと
を
煉
ね
る
目的
もくてき
を
達
たっ
することができるのです。すなわち
人
ひと
が
四六時中
しろくじちゅう
煉功
れんこう
していなくても、
法輪
ファールン
は
絶
た
えず
人
ひと
を
煉
ね
っているわけです。
当然
とうぜん
のことですが、
常人
じょうじん
は
昼間
ひるま
は
仕事
しごと
をしなければならず、
夜
よる
は
睡眠
すいみん
をとらなければなりませんので、
煉功
れんこう
時間
じかん
は
非常
ひじょう
に
限
かぎ
られています。
二十四時間
にじゅうよじかん
絶
た
えず
煉功
れんこう
していようとして、いわゆるつねに
練功
れんこう
のことを
考
かんが
えておくというやり
方
かた
ではいけません。あるいはほかのどんな
方法
ほうほう
を
取
と
り
入
い
れても、
本当
ほんとう
に
二十四時間
にじゅうよじかん
つねに
煉功
れんこう
しているという
目的
もくてき
を
達
たっ
することは
難
むずか
しいのです。しかし、われわれの
法輪
ファールン
は
絶
た
えず
回転
かいてん
しており、
宇宙
うちゅう
から
内
うち
に
向
む
かって
大量
たいりょう
の
気
き
(
初期
しょき
エネルギーの
存在
そんざい
形式
けいしき
)を
採
と
りこむ
一方
いっぽう
、
採
と
りこんだ
気
き
を
昼夜
ちゅうや
を
分
わ
かたず、つねに
法輪
ファールン
の
各
かく
方位
ほうい
に
蓄
たくわ
え
転化
てんか
させ、
気
き
をさらに
高次
こうじ
の
物質
ぶっしつ
に
変
か
え、
最終的
さいしゅうてき
に
修煉
しゅうれん
者
しゃ
の
身体
からだ
で「
功
こう
」に
転化
てんか
させます。
法
ほう
が
人
ひと
を
煉
ね
るというのはこのことを
言
い
うのです。
法輪功
ファールンゴン
の
修煉
しゅうれん
は
各
かく
流派
りゅうは
、
各
かく
門派
もんぱ
の
丹道
たんどう
気功
きこう
の
煉功
れんこう
学説
がくせつ
とまったく
異
こと
なっています。
法輪功
ファールンゴン
の
修煉
しゅうれん
における
最大
さいだい
の
特徴
とくちょう
は、
法輪
ファールン
を
修煉
しゅうれん
することであり、「
丹
たん
」の
道
みち
を
歩
あゆ
みません。
現在
げんざい
伝
つた
えられているどんな
流派
りゅうは
、どんな
門派
もんぱ
の
功法
こうほう
にせよ、
佛教
ぶっきょう
、
道教
どうきょう
の
各
かく
功
こう
派
は
にせよ、また
佛家
ぶっけ
、
道家
どうけ
、
民間
みんかん
のものに
関
かか
わらず、
多
おお
くの
旁門
ぼうもん
の
中
なか
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
にせよ、どれもこれも
丹道
たんどう
を
歩
あゆ
むものであり、
丹道
たんどう
気功
きこう
と
呼
よ
ばれます。
和尚
おしょう
、
尼僧
にそう
、
道士
どうし
の
修煉
しゅうれん
は、いずれも
丹道
たんどう
という
道
みち
を
歩
あゆ
んでいます。
死後
しご
火葬
かそう
すると、
舎利
しゃり
が
出
で
てきます。
現在
げんざい
の
科学
かがく
測定
そくてい
機器
きき
でもそれがどんな
物質
ぶっしつ
によって
構成
こうせい
されているのか
分
わ
かりませんが、
非常
ひじょう
に
硬
かた
くて、
綺麗
きれい
なものです。
実
じつ
はそれは
他
た
の
空間
くうかん
から
採集
さいしゅう
した
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
にほかならず、われわれのこの
空間
くうかん
のものではありません。それがつまり
丹
たん
です。
丹道
たんどう
気功
きこう
で
生存
せいぞん
中
ちゅう
に
悟
さと
りを
開
ひら
く
状態
じょうたい
に
達
たっ
するのは
非常
ひじょう
に
難
むずか
しいことです。
昔
むかし
、
多
おお
くの
丹道
たんどう
を
煉
ね
る
人
ひと
が
丹
たん
を
上
うえ
へ
引
ひ
き
上
あ
げようとして、
泥丸宮
でいがんきゅう
まで
上
あ
げるのですがそこで
詰
つ
まってしまい、
結局
けっきょく
息
いき
ができなくなって
死
し
んでしまいました。
人為的
じんいてき
にそれを
炸裂
さくれつ
させようとする
人
ひと
がいますが、
炸裂
さくれつ
させようがありません。こんな
例
れい
がありました。ある
人
ひと
のお
爺
じい
さんが
修煉
しゅうれん
して
成就
じょうじゅ
できなかったので、
死後
しご
丹
たん
をお
父
とう
さんに
吐
は
き
残
のこ
し、お
父
とう
さんも
成就
じょうじゅ
できなかったので、
死後
しご
その
人
ひと
に
吐
は
き
残
のこ
したのですが、
今
いま
に
至
いた
ってもその
人
ひと
は
相変
あいか
わらず
何者
なにもの
でもありません。とても
難
むずか
しいのです! もちろん、
良
よ
い
功法
こうほう
もたくさんあり、
本当
ほんとう
に
直伝
じきでん
を
得
え
れば
素晴
すば
らしいのですが、
上級
じょうきゅう
のものを
伝
つた
えてもらえない
恐
おそ
れがあります。
(二)
主
しゅ
意識
いしき
を
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
にはそれぞれ
主
しゅ
意識
いしき
があり、
普段
ふだん
何
なに
かをしたり、
物事
ものごと
を
考
かんが
えたりするときは、
主
しゅ
意識
いしき
を
働
はたら
かせています。
主
しゅ
意識
いしき
のほかに、
人
ひと
には
一
ひと
つないしいくつかの
副
ふく
意識
いしき
も
存在
そんざい
していますし、さらには
家族
かぞく
の
間
あいだ
で
先祖
せんぞ
から
伝
つた
わっている
信息
しんそく
もあります。
副
ふく
意識
いしき
は
主
しゅ
意識
いしき
と
同
おな
じ
名前
なまえ
をもっています。
副
ふく
意識
いしき
は
普通
ふつう
、
主
しゅ
意識
いしき
より
力
ちから
があり、
次元
じげん
が
高
たか
いので、
彼
かれ
自身
じしん
の
特定
とくてい
の
空間
くうかん
が
見
み
え、われわれの
常人
じょうじん
社会
しゃかい
に
惑
まど
わされません。
多
おお
くの
功法
こうほう
は
副
ふく
意識
いしき
を
修煉
しゅうれん
する
道
みち
を
歩
あゆ
んでおり、
肉体
にくたい
や
主
しゅ
意識
いしき
は
単
たん
なる
媒体
ばいたい
の
役割
やくわり
しか
果
は
たしていません。こういうことは、
煉功
れんこう
者
しゃ
には
普通
ふつう
分
わ
かっていないのに、
得意満面
とくいまんめん
にさえなっている
人
ひと
もいます。
人
ひと
は
社会
しゃかい
に
生活
せいかつ
しているため、
現実
げんじつ
のものを
捨
す
て
去
さ
るのは
非常
ひじょう
に
難
むずか
しいことです。とりわけその
人
ひと
が
執着
しゅうちゃく
しているものならなおさらです。ですから
多
おお
くの
功法
こうほう
は
入定
にゅうじょう
の
中
なか
で
演化
えんか
すること、
完全
かんぜん
に
入定
にゅうじょう
することを
強調
きょうちょう
していますが、
入定
にゅうじょう
の
中
なか
で
演化
えんか
するとき、その
人
ひと
の
副
ふく
意識
いしき
がその
社会
しゃかい
の
中
なか
で
演化
えんか
し、
演化
えんか
の
過程
かてい
で
向上
こうじょう
しているのです。そのうちあなたの
副
ふく
意識
いしき
が
修煉
しゅうれん
して
成就
じょうじゅ
し、
功
こう
を
携
たずさ
えて
行
おこな
ってしまえば、あなたの
主
しゅ
意識
いしき
と
本体
ほんたい
には
何
なに
も
残
のこ
りません。
一生
いっしょう
の
修煉
しゅうれん
が
無駄
むだ
になってしまいます。それは
大変
たいへん
惜
お
しいことです。
一部
いちぶ
の
著名
ちょめい
な
気功
きこう
師
し
は、さまざまなすごい
功能
こうのう
をもっており、
高
たか
い
名声
めいせい
を
得
え
ているのですが、その
功
こう
が
全然
ぜんぜん
自分
じぶん
の
身体
からだ
についていないことに
本人
ほんにん
は
分
わ
かっていないのです。
法輪功
ファールンゴン
は
主
しゅ
意識
いしき
に
焦点
しょうてん
を
定
さだ
めて
修煉
しゅうれん
しており、
功
こう
が
確実
かくじつ
に
本当
ほんとう
にあなたの
身体
からだ
につくように
求
もと
めています。もちろん
副
ふく
意識
いしき
もその
恩恵
おんけい
を
受
う
けるのですが、
彼
かれ
は
従属
じゅうぞく
しながら
向上
こうじょう
することになります。われわれのこの
功法
こうほう
は
何
なに
よりも
厳
きび
しく
心性
しんせい
を
求
もと
めています。
常人
じょうじん
社会
しゃかい
の
中
なか
で、
最
もっと
も
複雑
ふくざつ
な
条件
じょうけん
の
下
した
で
心性
しんせい
を
錬磨
れんま
することによって、
向上
こうじょう
することを
求
もと
めており、まるで
泥沼
どろぬま
から
咲
さ
き
出
で
た
蓮
はす
の
花
はな
のようです。だからこそ、あなたの
修煉
しゅうれん
の
成就
じょうじゅ
が
許
ゆる
されるのです。
法輪功
ファールンゴン
が
貴重
きちょう
なのはまさにこのためであり、あなた
自身
じしん
が
功
こう
を
得
え
るということが
貴重
きちょう
なのです。しかしこれは
非常
ひじょう
に
難
むずか
しいことです。その
難
むずか
しさはまさに、
最
もっと
も
複雑
ふくざつ
な
環境
かんきょう
の
中
なか
で
錬磨
れんま
する
道
みち
を
歩
あゆ
むことにあります。
煉功
れんこう
の
目的
もくてき
が
主
しゅ
意識
いしき
を
修煉
しゅうれん
することにある
以上
いじょう
、つねに
主
しゅ
意識
いしき
で
自分
じぶん
の
煉功
れんこう
を
支配
しはい
しなければなりません。
主
しゅ
意識
いしき
が
決定
けってい
権
けん
を
持
も
たなければならず、
副
ふく
意識
いしき
にそれを
譲
ゆず
り
渡
わた
してはならないのです。さもなければいつか、
副
ふく
意識
いしき
が
成就
じょうじゅ
して
去
さ
っていくとき、
功
こう
も
持
も
って
行
い
かれてしまい、
本体
ほんたい
と
主
しゅ
意識
いしき
に
何
なに
も
残
のこ
らなくなります。
高
たか
い
次元
じげん
を
目指
めざ
して
修煉
しゅうれん
しようとしているときに、
主
しゅ
意識
いしき
が
眠
ねむ
っているかのように
何
なに
も
知
し
らず、
何
なん
の
功
こう
を
煉
ね
っているのかも
分
わ
からないようではいけません。
必
かなら
ず
自分
じぶん
が
煉功
れんこう
し、
上
うえ
を
目指
めざ
して
修煉
しゅうれん
しており、
心性
しんせい
を
向上
こうじょう
させているということを
自覚
じかく
しておかなければなりません。そうしてこそはじめてあなたに
主導権
しゅどうけん
があり、
功
こう
を
得
え
ることができるのです。あなたがぼうっとしている
間
あいだ
に、やろうとしていたことがやり
遂
と
げられて、あなたにもどうしてそうなったのか
分
わ
からないときがありますが、
実
じつ
はそれは
副
ふく
意識
いしき
が
役割
やくわり
を
果
は
たし、
副
ふく
意識
いしき
が
指揮
しき
を
執
と
ったのです。もし
坐禅
ざぜん
の
途中
とちゅう
で
目
め
を
開
ひら
け
正面
しょうめん
を
見
み
たとき、
向
む
かいにもう
一人
ひとり
の
自分
じぶん
がいたとすれば、それはほかでもなくあなたの
副
ふく
意識
いしき
です。ところが、
北
きた
に
向
む
かって
坐禅
ざぜん
をしているのに、
突然
とつぜん
自分
じぶん
が
北
きた
にいるのに
気
き
づいたとします。どうして
出
で
てきたのだろうか、と
不思議
ふしぎ
に
思
おも
うでしょうが、それは
本当
ほんとう
のあなたが
出
で
てきたのであって、そこに
坐
すわ
っているのはあなたの
肉体
にくたい
と
副
ふく
意識
いしき
です。これは
区別
くべつ
できることです。
法輪功
ファールンゴン
を
修煉
しゅうれん
するのに、
我
われ
を
忘
わす
れてはいけません。
我
われ
を
忘
わす
れるのは、
法輪功
ファールンゴン
の
修煉
しゅうれん
大法
ダーファ
に
適
かな
いません。
煉功
れんこう
では、
必
かなら
ず
頭
あたま
がはっきりしていなければなりません。
煉功
れんこう
のとき
主
しゅ
意識
いしき
が
強
つよ
ければ、
逸脱
いつだつ
することがなく、たいていのものはあなたを
害
がい
することができません。
主
しゅ
意識
いしき
が
弱
よわ
ければ、
何
なに
かがつけこんでくることがあります。
(三)
煉功
れんこう
は
方位
ほうい
や
時間
じかん
を
問
と
わない
多
おお
くの
功法
こうほう
は、
煉功
れんこう
するのにどの
方向
ほうこう
を
向
む
いたらよいか、
何時
なんじ
に
煉功
れんこう
すればよいかにこだわりますが、われわれはまったくそういうことを
問
と
いません。
法輪功
ファールンゴン
は
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
し、
宇宙
うちゅう
演化
えんか
の
原理
げんり
にしたがって
修煉
しゅうれん
しているのですから、
方向
ほうこう
や
時間
じかん
を
問
と
わないのです。われわれは
法輪
ファールン
の
上
うえ
に
坐
すわ
って
煉功
れんこう
しているのに
等
ひと
しく、
全方位
ぜんほうい
的
てき
であり、つねに
回転
かいてん
しています。つまりわれわれの
法輪
ファールン
は
宇宙
うちゅう
と
歩調
ほちょう
を
同
おな
じくしているのです。
宇宙
うちゅう
も
銀河系
ぎんがけい
も
運動
うんどう
しており、
九
きゅう
大
だい
惑星
わくせい
も
太陽
たいよう
を
巡
めぐ
って
回転
かいてん
していますし、
地球
ちきゅう
自身
じしん
でさえも
自転
じてん
しているのですから、
東西
とうざい
南北
なんぼく
などどこにあるのでしょうか? われわれの
言
い
う
東西
とうざい
南北
なんぼく
は、
地球人
ちきゅうじん
が
地球
ちきゅう
の
角度
かくど
から
区分
くわ
けしたものです。ですからどの
方位
ほうい
に
立
た
って
煉功
れんこう
しても、
全方位
ぜんほうい
に
立
た
って
煉功
れんこう
していることになります。
子
ね
の
刻
こく
に
煉功
れんこう
するのがよいとか、
午
うま
の
刻
こく
に
煉功
れんこう
すればよいとか、あるいはこれこれの
時間
じかん
がよいとかと
言
い
う
人
ひと
がいますが、われわれはそういうことは
言
い
いません。なぜならあなたが
煉功
れんこう
をしていなくても
法輪
ファールン
があなたを
煉
ね
り、
四六時中
しろくじちゅう
あなたの
煉功
れんこう
を
手助
てだす
けしており、
法
ほう
が
人
ひと
を
煉
ね
っているのです。
丹道
たんどう
気功
きこう
では、
人
ひと
が
丹
たん
を
煉
ね
りますが、
法輪功
ファールンゴン
では
法
ほう
が
人
ひと
を
煉
ね
っています。
時間
じかん
に
余裕
よゆう
があれば
多
おお
めに
煉功
れんこう
すればいいし、なければ
煉功
れんこう
時間
じかん
を
減
へ
らしてもかまいません。
全
まった
く
自由
じゆう
です。
四、
性命双修
せいめいそうしゅう
法輪功
ファールンゴン
の
修煉
しゅうれん
では、
心性
しんせい
も
修
おさ
めるし
命
めい
も
修
おさ
めます。
煉功
れんこう
を
通
とお
してまず
本体
ほんたい
を
変
か
え、
本体
ほんたい
を
捨
す
てずに、
主
しゅ
意識
いしき
と
肉体
にくたい
が
一
ひと
つになって、
全体
ぜんたい
で
成就
じょうじゅ
することを
目指
めざ
します。
(一)
本体
ほんたい
を
変
か
える
人間
にんげん
の
身体
からだ
は
肉
にく
と
血液
けつえき
と
骨格
こっかく
からなっており、
異
こと
なる
分子
ぶんし
構造
こうぞう
と
成分
せいぶん
を
有
ゆう
しています。
煉功
れんこう
を
通
とお
して
身体
からだ
の
分子
ぶんし
成分
せいぶん
を
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
に
転化
てんか
しますが、そうすることによって
人体
じんたい
の
構成
こうせい
は
本来
ほんらい
の
物質
ぶっしつ
成分
せいぶん
ではなくなり、
本質的
ほんしつてき
な
変化
へんか
が
起
お
きます。しかし、
修煉
しゅうれん
者
しゃ
は
常人
じょうじん
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
しており、
人
ひと
の
群
むれ
の
中
なか
で
生活
せいかつ
しているのですから、
人類
じんるい
の
社会
しゃかい
状態
じょうたい
に
背
そむ
いてはいけません。ですからこのような
変化
へんか
は、その
人
ひと
本来
ほんらい
の
分子
ぶんし
構造
こうぞう
を
変
か
えるものではなく、
分子
ぶんし
の
配列
はいれつ
順序
じゅんじょ
はそのままで、
本来
ほんらい
の
分子
ぶんし
成分
せいぶん
のみを
変
か
えるのです。
人体
じんたい
の
肉
にく
は
相変
あいか
わらず
軟
やわ
らかく、
骨格
こっかく
は
依然
いぜん
硬
かた
く、
血液
けつえき
はもとどおり
流
なが
れており、ナイフで
切
き
りつければやはり
血
ち
が
出
で
ます。
中国
ちゅうごく
古代
こだい
の
五行
ごぎょう
説
せつ
によれば、
金
きん
・
木
もく
・
水
すい
・
火
か
・
土
ど
が
万物
ばんぶつ
を
構成
こうせい
しているのですが、
人体
じんたい
も
同
おな
じです。
煉功
れんこう
者
しゃ
に
本体
ほんたい
の
変化
へんか
が
起
お
き、
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
が
本来
ほんらい
の
分子
ぶんし
成分
せいぶん
に
取
と
って
代
か
わるようになれば、その
時点
じてん
で
人体
じんたい
は
本来
ほんらい
の
物質
ぶっしつ
構成
こうせい
ではなくなっています。いわゆる「
五行
ごぎょう
の
中
なか
に
居
い
ず」とはこのことです。
性命双修
せいめいそうしゅう
功法
こうほう
の
最大
さいだい
の
特徴
とくちょう
は、
人間
にんげん
の
生命
せいめい
の
進度
しんど
を
遅
おく
らせ、
老衰
ろうすい
を
遅
おく
らせることにあります。われわれ
法輪功
ファールンゴン
はまさにこのような
際立
きわだ
った
特徴
とくちょう
を
持
も
っています。
法輪功
ファールンゴン
は
次
つぎ
のような
道
みち
を
歩
あゆ
んでいます。つまり、
根本
こんぽん
から
人体
じんたい
の
分子
ぶんし
成分
せいぶん
を
変
か
え、
採
と
り
入
い
れた
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
を
一
ひと
つ
一
ひと
つの
細胞
さいぼう
の
中
なか
に
蓄
たくわ
えていくことによって、
最終的
さいしゅうてき
に
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
が
細胞
さいぼう
成分
せいぶん
に
取
と
って
代
か
わります。すると、
新陳代謝
しんちんたいしゃ
が
停止
ていし
し、その
人
ひと
は
五行
ごぎょう
を
抜
ぬ
け
出
だ
し、
他
た
の
空間
くうかん
の
物質
ぶっしつ
から
構成
こうせい
された
身体
からだ
になり、われわれの
空間
くうかん
時間
じかん
の
制約
せいやく
を
受
う
けなくなりますので、いつまでも
若々
わかわか
しさを
保
たも
つことができるようになるのです。
歴代
れきだい
の
高僧
こうそう
は
寿命
じゅみょう
が
非常
ひじょう
に
長
なが
いのですが、
今
いま
数百歳
すうひゃくさい
の
人
ひと
が
街
まち
を
歩
ある
いたとしても
誰
だれ
にも
気
き
づかれません。
非常
ひじょう
に
若々
わかわか
しく
見
み
えるし、
常人
じょうじん
と
同
おな
じ
身
み
なりをしていますので、
見
み
た
目
め
には
分
わ
からないのです。
人間
にんげん
の
寿命
じゅみょう
は、
本来
ほんらい
今
いま
のように
短
みじか
いはずはないのです。
科学
かがく
の
角度
かくど
から
言
い
って、
人間
にんげん
は
二百歳
にひゃくさい
あまりまでは
生
い
きられるはずです。
記録
きろく
によれば、イギリスにフィムカスという
人
ひと
がいて、
二百七歳
にひゃくななさい
まで
生
い
きました。
日本
にほん
には
満平
まんぺい
という
人
ひと
がいて、
二百四十二歳
にひゃくよんじゅうにさい
まで
生
い
きました。
我
わ
が
国
くに
では
唐
とう
の
時代
じだい
に、
恵昭
えしょう
という
和尚
おしょう
がいて、
二百九十
にひゃくきゅうじゅっ
歳
さい
まで
生
い
きました。
福建省
ふっけんしょう
永泰
えいたい
県
けん
の
県志
けんし
の
記載
きさい
によれば、
唐
とう
の
時代
じだい
の
僖宗
きそう
中和
ちゅうわ
元年
がんねん
(
紀元
きげん
八八一年
はっぴゃくはちじゅういちねん
)
生
う
まれの
陳俊
ちんしゅん
という
人
ひと
は、
元
げん
の
時代
じだい
の
泰定
たいてい
年間
ねんかん
、
紀元
きげん
一三二四年
せんさんびゃくにじゅうよねん
に
死去
しきょ
したので、
四百四十三歳
よんひゃくよんじゅうさんさい
まで
生
い
きたことになります。これらはいずれも
記録
きろく
があって
調
しら
べられるもので、おとぎ
話
ばなし
でも
何
なん
でもありません。われわれの
法輪功
ファールンゴン
学習者
がくしゅうしゃ
は
修煉
しゅうれん
によって、
顔
かお
の
皺
しわ
が
明
あき
らかに
減
へ
り、
顔色
かおいろ
がつやつやし、
身体
からだ
が
非常
ひじょう
に
軽
かろ
やかになり、
道
みち
を
歩
ある
いても
仕事
しごと
をしても
疲
つか
れを
感
かん
じなくなりました。これらは
普遍的
ふへんてき
に
見
み
られる
現象
げんしょう
です。わたし
自身
じしん
も
数十年
すうじゅうねん
修煉
しゅうれん
して
来
き
ましたが、
二十年
にじゅうねん
あなたの
容貌
ようぼう
があまり
変
か
わっていないと
言
い
われました。ほかでもなくこれが
原因
げんいん
です。われわれの
法輪功
ファールンゴン
は
命
めい
を
修
おさ
める
強烈
きょうれつ
なものを
持
も
っているため、
法輪功
ファールンゴン
の
修煉
しゅうれん
者
しゃ
は
年齢
ねんれい
から
見
み
て
常人
じょうじん
と
大
おお
きく
異
こと
なり、
見
み
た
目
め
には
実際
じっさい
の
年齢
ねんれい
と
一致
いっち
しません。つまり、
性命双修
せいめいそうしゅう
功法
こうほう
の
最大
さいだい
の
特徴
とくちょう
は
人間
にんげん
の
生命
せいめい
の
進度
しんど
を
遅
おく
らせ、
人間
にんげん
の
老衰
ろうすい
を
遅
おく
らせ、
寿命
じゅみょう
を
延
の
ばすことができることにあります。
(二)
法輪
ファールン
周天
しゅうてん
われわれの
人体
じんたい
は
一
ひと
つの
小宇宙
しょううちゅう
であり、
人体
じんたい
のエネルギーが
身体
からだ
を
一巡
ひとめぐ
りするのを、
小宇宙
しょううちゅう
循環
じゅんかん
、あるいは
周天
しゅうてん
循環
じゅんかん
と
言
い
います。
任
にん
、
督
とく
二脈
にみゃく
がつながるのは、
次元
じげん
から
言
い
えば、まだうわべだけの
周天
しゅうてん
であり、
命
めい
を
修
おさ
めるのには
役
やく
に
立
た
ちません。
本当
ほんとう
の
小
しょう
周天
しゅうてん
は、
泥丸宮
でいがんきゅう
から
丹田
たんでん
まで、
中
なか
で
循環
じゅんかん
しています。
中
なか
の
循環
じゅんかん
によって、
身体
からだ
を
率
ひき
いて
中
なか
から
外
そと
へと
広
ひろ
げていき、
百脈
ひゃくみゃく
を
開
ひら
かせます。われわれの
法輪功
ファールンゴン
は、
初
はじ
めから
百脈
ひゃくみゃく
を
開
ひら
かせるようにしているのです。
大
だい
周天
しゅうてん
とは
奇経
きけい
八脈
はちみゃく
の
運行
うんこう
のことで、
体中
からだじゅう
を
一回
ひとまわ
りします。もし
大
だい
周天
しゅうてん
が
通
とお
れば、その
煉功
れんこう
者
しゃ
が
舞
ま
い
上
あ
がる、という
状態
じょうたい
が
現
あらわ
れるのですが、『
丹経
たんけい
』に
書
か
かれている「
白日
はくじつ
飛昇
ひしょう
」とはこのことなのです。しかし
通常
つうじょう
は、
舞
ま
い
上
あ
がらないように、あなたの
身体
からだ
のある
部位
ぶい
に
鍵
かぎ
をかけます。しかし、
道
みち
を
歩
ある
くときは
非常
ひじょう
に
軽
かろ
やかで、
山登
やまのぼ
りをするときは
誰
だれ
かに
押
お
されているかのように
感
かん
じる、という
状態
じょうたい
がもたらされます。
大
だい
周天
しゅうてん
が
通
とお
るようになると、
人体
じんたい
の
内臓
ないぞう
各
かく
部位
ぶい
の
気
き
を
交換
こうかん
させることができる、という
功能
こうのう
も
身
み
に
付
つ
くようになります。
心臓
しんぞう
の
気
き
が
胃
い
に
移
うつ
り、
胃
い
の
気
き
が
腸
ちょう
に
移
うつ
り、……
功力
こうりき
の
増強
ぞうきょう
にしたがって、
体外
たいがい
にそれを
打
う
ち
放
はな
つと
運搬
うんぱん
功
こう
になります。このような
周天
しゅうてん
は
子午
しご
周天
しゅうてん
、あるいは
乾坤
けんこん
周天
しゅうてん
とも
呼
よ
ばれます。その
運行
うんこう
だけではまだ
身体
からだ
を
演化
えんか
するという
目的
もくてき
を
達成
たっせい
することができず、もう
一
ひと
つそれと
対応
たいおう
する
周天
しゅうてん
の
存在
そんざい
が
必要
ひつよう
とされます。それは
卯酉
ぼうゆう
周天
しゅうてん
と
呼
よ
ばれます。
卯酉
ぼうゆう
周天
しゅうてん
の
運行
うんこう
は、
会陰
えいん
または
百会穴
ひゃくえけつ
から
突
つ
き
出
で
て、
身体
からだ
の
陰陽
いんよう
両面
りょうめん
の
境目
さかいめ
、つまり
身体
からだ
の
側面
そくめん
を
走
はし
ります。
法輪功
ファールンゴン
の
周天
しゅうてん
運行
うんこう
は
一般
いっぱん
功法
こうほう
で
言
い
う
奇
き
経
けい
八脈
はちみゃく
の
運行
うんこう
よりずっと
大
おお
きく、
身
み
体全体
からだぜんたい
を
縦横
じゅうおう
して
交錯
こうさく
する
気脈
きみゃく
が
一斉
いっせい
に
運行
うんこう
しています。ですから、
身
み
体全体
からだぜんたい
が
一気
いっき
に
打
う
ち
通
とお
され、
打
う
ち
貫
ぬ
かれ、
一斉
いっせい
に
回転
かいてん
するよう
要求
ようきゅう
されます。われわれの
法輪功
ファールンゴン
はこれらのものを
自
みずか
ら
持
も
っており、
人為的
じんいてき
に
煉
ね
る
必要
ひつよう
がなく、
意
い
念
ねん
で
導
みちび
く
必要
ひつよう
もありません。もしあなたがそういうことをすれば、
間違
まちが
った
方向
ほうこう
にずれてしまうことになります。わたしが
講習会
こうしゅうかい
であなたの
体外
たいがい
に
気
き
機
き
を
植
う
え
付
つ
けましたが、それは
自動的
じどうてき
に
循環
じゅんかん
するものです。
気
き
機
き
とは
高
たか
い
次元
じげん
における
煉功
れんこう
に
特有
とくゆう
なものであり、われわれの
自動的
じどうてき
な
煉功
れんこう
の
一部
いちぶ
をなし、
法輪
ファールン
と
同
おな
じように
絶
た
えず
回転
かいてん
し、
身体
からだ
の
中
なか
の
気脈
きみゃく
を
率
ひき
いて
運行
うんこう
しています。あなたが
周天
しゅうてん
を
修煉
しゅうれん
したことがなくても、
実際
じっさい
に
気脈
きみゃく
がすでに
率
ひき
いられて、
縦横
じゅうおう
に
一緒
いっしょ
に
運行
うんこう
しています。われわれの
煉功
れんこう
の
動作
どうさ
は
体外
たいがい
の
気
き
機
き
を
強化
きょうか
するためです。
(三)
脈
みゃく
を
通
とお
す
脈
みゃく
を
通
とお
すのは、エネルギーを
運行
うんこう
させ、
細胞
さいぼう
の
分子
ぶんし
成分
せいぶん
を
変
か
え、
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
へ
転化
てんか
させるためです。
煉功
れんこう
しない
人
ひと
の
場合
ばあい
、
脈
みゃく
は
塞
ふさ
がっており、
中
なか
には
非常
ひじょう
に
細々
ほそぼそ
としたものもあります。
煉功
れんこう
者
しゃ
の
場合
ばあい
、
脈
みゃく
は
次第
しだい
に
明
あか
るくなり、
通
とお
らないところが
通
とお
るようになります。
煉功
れんこう
に
素養
そよう
のある
人
ひと
は、
脈
みゃく
が
広
ひろ
くなります。
高
たか
い
次元
じげん
の
修煉
しゅうれん
になると
脈
みゃく
はますます
広
ひろ
くなり、
人
ひと
によっては
手
て
の
指
ゆび
ほどになるのもあります。とはいえ、
脈
みゃく
が
通
とお
ること
自身
じしん
が
修煉
しゅうれん
の
到達
とうたつ
したレベルや
功
こう
の
高
たか
さを
示
しめ
すものではありません。
煉功
れんこう
によって
脈
みゃく
が
明
あか
るく
広
ひろ
くなり、
最終的
さいしゅうてき
に
脈
みゃく
という
脈
みゃく
が
一
ひと
つにつながるようになれば、その
人
ひと
には
脈
みゃく
もなければツボもなくなり、
言
い
い
換
か
えれば、
体中
からだじゅう
が
脈
みゃく
でありツボであるようになります。このような
状態
じょうたい
になっても、まだ
得道
とくどう
したとは
言
い
えません。それは
法輪功
ファールンゴン
の
修煉
しゅうれん
過程
かてい
における
一
ひと
つの
現
あらわ
れであり、ある
一
ひと
つの
次元
じげん
の
現
あらわ
れに
過
す
ぎません。ここまで
来
く
ると、
世間
せけん
法
ほう
修煉
しゅうれん
はすでに
終点
しゅうてん
に
達
たっ
したことになりますが、
同時
どうじ
に
外観
がいかん
にも
顕著
けんちょ
な
状態
じょうたい
――「
三花聚頂
さんかしゅうちょう
」が
現
あらわ
れてきます。
功
こう
はすでに
形状
けいじょう
としてみえるほど
物凄
ものすご
く
伸
の
びており、
功柱
こうちゅう
もかなり
高
たか
くなり、しかも
頭上
ずじょう
に
三輪
さんりん
の
花
はな
――
一輪
いちりん
は
蓮花
れんげ
に
似
に
ており、
一輪
いちりん
は
菊
きく
の
花
はな
に
似
に
ている――が
現
あらわ
れてきます。
三輪
さんりん
の
花
はな
は
自転
じてん
しますが、
自転
じてん
しながら
順番
じゅんばん
に
回転
かいてん
もします。どの
花
はな
にも
一本
いっぽん
の
天
てん
に
通
つう
じる
柱
はしら
があり、とてつもなく
高
たか
いのです。この
三本
さんぼん
の
柱
はしら
も
花
はな
に
従
したが
って
順番
じゅんばん
に
回転
かいてん
し、
自転
じてん
しますので、
頭
あたま
がずしりと
重
おも
い
感
かん
じがします。ただ、これでもまだ、
彼
かれ
は
世間
せけん
法
ほう
修煉
しゅうれん
の
中
なか
で、
最後
さいご
の
一歩
いっぽ
を
歩
あゆ
み
終
お
えたに
過
す
ぎません。
五、
意
い
念
ねん
法輪功
ファールンゴン
の
修煉
しゅうれん
は
意
い
念
ねん
を
用
もち
いません。
意
い
念
ねん
そのものは
何
なん
の
役
やく
にも
立
た
ちませんが、
指令
しれい
を
出
だ
すことができます。
本当
ほんとう
に
役
やく
に
立
た
つのは
功能
こうのう
であり、それは
霊体
れいたい
の
思惟
しい
能力
のうりょく
をもっており、
大脳
だいのう
信息
しんそく
の
指揮
しき
を
受
う
けます。しかし
多
おお
くの
人
ひと
、
特
とく
に
気功
きこう
界
かい
の
間
あいだ
ではさまざまな
説
せつ
があって、
意
い
念
ねん
そのものによってさまざまなことができると
思
おも
われています。
意
い
念
ねん
で
功能
こうのう
を
開
ひら
き、
意
い
念
ねん
で
天目
てんもく
を
開
ひら
き、
意
い
念
ねん
で
病気
びょうき
治療
ちりょう
をし、
意
い
念
ねん
で
運搬
うんぱん
するなどと
言
い
う
人
ひと
がいますが、それは
間違
まちが
っています。
常人
じょうじん
のいる
低
ひく
い
次元
じげん
では
意
い
念
ねん
が
感覚
かんかく
器官
きかん
と
四肢
しし
を
支配
しはい
していますが、
煉功
れんこう
者
しゃ
のいる
高
たか
い
次元
じげん
では、
意
い
念
ねん
が
昇華
しょうか
し、
功能
こうのう
を
操
あやつ
って
働
はたら
かすことができます。つまり
功能
こうのう
が
意
い
念
ねん
に
支配
しはい
されることになるのです。これが
意
い
念
ねん
についてのわれわれの
考
かんが
え
方
かた
です。
気功
きこう
師
し
が
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治療
ちりょう
するとき、
手
て
も
動
うご
かしていないのに
病気
びょうき
が
治
なお
ったのを
見
み
ると、
意
い
念
ねん
がその
病気
びょうき
を
治
なお
したと
思
おも
われがちですが、
実際
じっさい
は
彼
かれ
は
功能
こうのう
を
打
う
ち
放
はな
ち、それを
操
あやつ
って
病気
びょうき
治療
ちりょう
や
何
なに
かをさせているのです。
功能
こうのう
は
他
た
の
空間
くうかん
を
通
とお
るので、
常人
じょうじん
の
目
め
には
見
み
えず、
知
し
らない
者
もの
は
意
い
念
ねん
がやったと
思
おも
い
込
こ
むわけです。
意
い
念
ねん
で
病気
びょうき
治療
ちりょう
ができると
思
おも
って、
人
ひと
を
間違
まちが
った
方向
ほうこう
へ
導
みちび
いてしまう
人
ひと
がいますが、こういう
見方
みかた
は
正
ただ
さなければなりません。
人間
にんげん
の
思惟
しい
は
一種
いっしゅ
の
信息
しんそく
であり、エネルギーであり、
物質的
ぶっしつてき
存在
そんざい
の
一種
いっしゅ
の
形式
けいしき
です。
人間
にんげん
が
物事
ものごと
を
考
かんが
え、
思惟
しい
するとき、
大脳
だいのう
に
周波
しゅうは
が
生
しょう
じます。
呪文
じゅもん
を
唱
とな
えると
効
き
き
目
め
の
現
あらわ
れることがありますが、なぜでしょうか? それは
宇宙
うちゅう
にも
周波
しゅうは
の
振動
しんどう
があり、あなたの
唱
とな
えた
呪文
じゅもん
と
宇宙
うちゅう
の
周波
しゅうは
との
間
あいだ
に
共振
きょうしん
が
起
お
きて、
効
き
き
目
め
が
生
しょう
じるためです。もちろん
良性
りょうせい
の
信息
しんそく
であってはじめて
作用
さよう
します。なぜなら
宇宙
うちゅう
では
邪
よこしま
なものの
存在
そんざい
が
許
ゆる
されないからです。
意
い
念
ねん
は
特定
とくてい
の
思惟
しい
方式
ほうしき
でもあり、
高
たか
い
次元
じげん
の
大
だい
気功
きこう
師
し
の
法身
ほうしん
は
主体
しゅたい
の
思惟
しい
から
制御
せいぎょ
と
支配
しはい
を
受
う
けます。
法身
ほうしん
にも
自分
じぶん
の
思惟
しい
があり、
独自
どくじ
に
問題
もんだい
を
処理
しょり
し
仕事
しごと
をする
能力
のうりょく
をもっています。つまり、それは
完全
かんぜん
に
独立
どくりつ
した
自我
じが
なのです。
同時
どうじ
に、
法身
ほうしん
は
気功
きこう
師
し
の
主体
しゅたい
の
思惟
しい
を
察知
さっち
し、
主体
しゅたい
の
思惟
しい
に
従
したが
って
仕事
しごと
をすることもできます。たとえば
気功
きこう
師
し
がある
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
そうとすれば、
法身
ほうしん
はそこへ
行
い
きます。その
意
い
念
ねん
がなければ
法身
ほうしん
は
動
うご
かないのです。
非常
ひじょう
に
素晴
すば
らしいことを
目
め
にした
場合
ばあい
、
法身
ほうしん
は
自
みずか
ら
進
すす
んでそれを
行
おこな
います。まだ
悟
さと
りを
開
ひら
くまでには
至
いた
っていない
大
だい
気功
きこう
師
し
がおり、
自分
じぶん
ではまだ
分
わ
からないことがあるのですが、
法身
ほうしん
にはそれが
分
わ
かっているのです。
意
い
念
ねん
には
霊感
れいかん
という
意味合
いみあ
いもあります。
霊感
れいかん
は
人間
にんげん
の
主
しゅ
意識
いしき
から
出
で
たものではありません。
主
しゅ
意識
いしき
は
知識
ちしき
の
幅
はば
が
限
かぎ
られており、
社会
しゃかい
に
存在
そんざい
しない
物事
ものごと
を
行
おこな
うには、
主
しゅ
意識
いしき
だけではうまくいきません。
霊感
れいかん
は
副
ふく
意識
いしき
から
来
き
ています。
執筆
しっぴつ
や
科学
かがく
研究
けんきゅう
に
取
と
り
組
く
んでいて、どんなに
脳
のう
みそを
絞
しぼ
り
尽
つ
くしても
良
よ
い
考
かんが
えの
出
で
てこないとき、ひとまず
休憩
きゅうけい
して、
外
そと
を
一回
ひとまわ
りしているうちに
突然
とつぜん
、
無意識
むいしき
のうちに
霊感
れいかん
が
湧
わ
いてくる
人
ひと
がいます。その
勢
いきお
いでペンを
走
はし
らせると、ものが
書
か
けてしまうのです。これは
主
しゅ
意識
いしき
が
強
つよ
すぎると、
大脳
だいのう
が
支配
しはい
されて、
考
かんが
えを
絞
しぼ
り
出
だ
せないからです。ところが
主
しゅ
意識
いしき
が
緩
ゆる
むと、
副
ふく
意識
いしき
が
働
はたら
き
出
だ
して、
大脳
だいのう
をコントロールするようになります。
副
ふく
意識
いしき
が
他
た
の
空間
くうかん
のものなので、この
空間
くうかん
の
束縛
そくばく
を
受
う
けず、
新
あたら
しいものを
作
つく
り
出
だ
すことができます。しかし
副
ふく
意識
いしき
といえども、
常人
じょうじん
社会
しゃかい
の
状態
じょうたい
を
超越
ちょうえつ
し
妨害
ぼうがい
して、
社会
しゃかい
発展
はってん
の
進行
しんこう
を
妨
さまた
げてはなりません。
霊感
れいかん
は
二
ふた
つの
面
めん
からきています。
一
ひと
つは
副
ふく
意識
いしき
が
提供
ていきょう
するものです。
副
ふく
意識
いしき
は
世間
せけん
に
惑
まど
わされないので、
霊感
れいかん
を
生
う
み
出
だ
すことができるのです。もう
一
ひと
つは
高次元
こうじげん
の
高
たか
い
霊
れい
の
支配
しはい
、
指示
しじ
に
由来
ゆらい
します。
高
たか
い
霊
れい
から
指示
しじ
を
受
う
けているときは、
考
かんが
えが
開
ひら
かれて、
独創的
どくそうてき
なことを
成
な
し
遂
と
げることができます。
社会
しゃかい
全体
ぜんたい
と
宇宙
うちゅう
の
発展
はってん
にはそれ
自身
じしん
の
特定
とくてい
の
法則
ほうそく
があり、
偶然
ぐうぜん
なことは
何
なに
一
ひと
つないのです。
六、
法輪功
ファールンゴン
の
修煉
しゅうれん
次元
じげん
(一)
高
たか
い
次元
じげん
の
修煉
しゅうれん
法輪功
ファールンゴン
はきわめて
高
たか
い
次元
じげん
において
修煉
しゅうれん
しているので、
非常
ひじょう
に
速
はや
く
功
こう
が
伸
の
びます。
大道
だいどう
はいたって
簡単
かんたん
で
易
やさ
しいものです。マクロ
的
てき
に
見
み
れば
法輪功
ファールンゴン
の
動作
どうさ
は
少
すく
ないのですが、しかしそれは
身体
からだ
の
各
かく
方面
ほうめん
を
制御
せいぎょ
しており、
現
あらわ
れようとする
多
おお
くのものを
制御
せいぎょ
しています。
心性
しんせい
が
追
お
いついてくれば、
功
こう
は
飛躍的
ひやくてき
に
伸
の
びていきますので、
人為的
じんいてき
にあれこれと
苦労
くろう
したり、
鼎
かなえ
を
立
た
て
竈
かまど
を
設
もう
け、
薬
くすり
を
採集
さいしゅう
し、
丹
たん
を
煉
ね
るなどということをしなくてもかまいません。どれだけ
火
ひ
を
添
そ
えればよいかとか、どれだけ
薬
くすり
を
採集
さいしゅう
すればよいかとか
気
き
にする
必要
ひつよう
がないのです。
意
い
念
ねん
による
導引
どういん
は
非常
ひじょう
に
複雑
ふくざつ
であり、
間違
まちが
った
方向
ほうこう
へずれてしまいやすいものです。われわれはここで
皆
みな
さんに
最
もっと
も
便利
べんり
な、
最
もっと
も
良
よ
く、かつ
最
もっと
も
難
むずか
しい
法門
ほうもん
を
提供
ていきょう
しています。
煉功
れんこう
者
しゃ
の
身体
からだ
が
乳白体
にゅうはくたい
状態
じょうたい
に
達
たっ
するには、
他
た
の
功法
こうほう
では
十数年
じゅうすうねん
、
数十年
すうじゅうねん
ないしもっと
長
なが
い
時間
じかん
修行
しゅぎょう
しなければなりませんが、われわれはあなたを
一気
いっき
にそのレベルまで
押
お
し
上
あ
げていきます。あなたがまだ
感
かん
じないうちに、その
次元
じげん
は
通
とお
り
過
す
ぎてしまいます。ほんの
数
すう
時間
じかん
の
間
あいだ
のことであるかもしれません。ある
日
ひ
、あなたは
非常
ひじょう
に
敏感
びんかん
に
感
かん
じとれたかと
思
おも
うと、しばらくすると
敏感
びんかん
に
感
かん
じとれなくなることがあります。
実
じつ
はそれは
大
おお
きな
次元
じげん
を
一
ひと
つ
通
とお
り
過
す
ぎたということなのです。
(二)
功
こう
の
表現
ひょうげん
形式
けいしき
法輪功
ファールンゴン
の
学習者
がくしゅうしゃ
の
身体
からだ
は、
調整
ちょうせい
を
経
へ
れば
大法
ダーファー
修煉
しゅうれん
に
適
てき
する
状態
じょうたい
に
達
たっ
しますが、それがつまり「
乳白体
にゅうはくたい
」
状態
じょうたい
なのです。
調整
ちょうせい
を
受
う
けてこの
状態
じょうたい
に
達
たっ
して、はじめて
功
こう
が
現
あらわ
れてきます。
天目
てんもく
の
次元
じげん
の
高
たか
い
人
ひと
なら
見
み
えるのですが、
功
こう
が
一旦
いったん
煉功
れんこう
者
しゃ
の
表皮
ひょうひ
に
現
あらわ
れたのち、
身体
からだ
のなかに
入
はい
り、
再度
さいど
出
で
てきてはまた
入
はい
るというように
繰
く
り
返
かえ
しながら、
一
ひと
つ
一
ひと
つの
次元
じげん
を
通
とお
っていき、
時
とき
には
素速
すばや
く
通
とお
っていきます。これは
一回
いっかい
目
め
の
功
こう
です。
一回
いっかい
目
め
の
功
こう
が
出
で
た
後
あと
、
煉功
れんこう
者
しゃ
の
身体
からだ
はもはや
一般
いっぱん
の
身体
からだ
ではなくなります。
乳白体
にゅうはくたい
に
達
たっ
すれば、
今後
こんご
二度
にど
と
病気
びょうき
になることはありません。これ
以降
いこう
はたとえここかしこが
痛
いた
んだり、どこかの
具合
ぐあい
が
悪
わる
くなったりして、
病気
びょうき
のように
見
み
えても、それは
病気
びょうき
ではなく、
業力
ごうりき
が
作用
さよう
をしているのです。
二回
にかい
目
め
の
功
こう
が
出
で
たときには、この
霊体
れいたい
は
大
おお
きく
成長
せいちょう
しており、
動
うご
いたりおしゃべりしたりすることができるようになります。まばらに
出
で
てくるときもあれば、
隙間
すきま
なくぎっしりと
出
で
てくるときもあり、
互
たが
いにおしゃべりもします。この
霊体
れいたい
には
本体
ほんたい
を
変
か
えるためのエネルギーが
大量
たいりょう
に
蓄
たくわ
えられています。
法輪功
ファールンゴン
の
修煉
しゅうれん
が
非常
ひじょう
に
高
たか
い
次元
じげん
に
達
たっ
すれば、
体中
からだじゅう
に「
嬰孩
えいがい
」が
現
あらわ
れてくることがあります。
彼
かれ
らは
非常
ひじょう
に
腕白
わんぱく
で、
遊
あそ
び
好
ず
きですが
非常
ひじょう
に
善良
ぜんりょう
です。このほかにもう
一
ひと
つの
身体
からだ
、すなわち「
元嬰
げんえい
」を
修煉
しゅうれん
して
得
え
ることもできます。
元嬰
げんえい
は
蓮花台
れんげだい
に
坐
すわ
っており、とても
綺麗
きれい
です。
煉功
れんこう
によって
得
え
た
元嬰
げんえい
は、
人体
じんたい
の
陰陽
いんよう
の
和合
わごう
からなるもので、
男女
だんじょ
の
修煉
しゅうれん
者
しゃ
とも
修煉
しゅうれん
によって
元嬰
げんえい
を
得
え
ることができます。
元嬰
げんえい
は
初
はじ
めは
非常
ひじょう
に
小
ちい
さいのですが、
徐々
じょじょ
に
成長
せいちょう
して、
最終的
さいしゅうてき
には
煉功
れんこう
者
しゃ
と
同
おな
じ
大
おお
きさ、
同
おな
じ
姿
すがた
かたちになり、
修煉
しゅうれん
者
しゃ
の
身体
からだ
の
中
なか
にいます。
特異
とくい
功能
こうのう
のある
人
ひと
はその
人
ひと
を
見
み
て、
二
ふた
つの
身体
からだ
をもっていると
言
い
いますが、
実際
じっさい
はその
人
ひと
の
真身
しんしん
が
修煉
しゅうれん
によってできあがったのです。このほかに、
多
おお
くの
法身
ほうしん
も
修煉
しゅうれん
して
得
え
ることができます。
要
よう
するに、
宇宙
うちゅう
にある
功能
こうのう
は
法輪功
ファールンゴン
の
中
なか
に
全
すべ
てあり、
他
た
の
功法
こうほう
で
得
え
ることができる
功能
こうのう
は
全
すべ
て
法輪功
ファールンゴン
でも
得
え
られるということです。
(三)
出世間
しゅっせけん
法
ほう
修煉
しゅうれん
煉功
れんこう
者
しゃ
は
煉功
れんこう
を
通
とお
して
脈
みゃく
を
絶
た
えず
広
ひろ
げ、
一
ひと
つにつなげることができます。つまり
脈
みゃく
もなくツボもない
状態
じょうたい
まで
修煉
しゅうれん
することができるのです。
言
い
い
換
か
えれば、
体中
からだじゅう
が
脈
みゃく
でありツボであるようになります。しかし、これでもまだ
得道
とくどう
したとは
言
い
えません。それは
法輪功
ファールンゴン
の
修煉
しゅうれん
過程
かてい
における
一
ひと
つの
現
あらわ
れであり、ある
一
ひと
つの
次元
じげん
の
現
あらわ
れに
過
す
ぎません。ここまでくれば、
世間
せけん
法
ほう
修煉
しゅうれん
ではすでに
終点
しゅうてん
に
達
たっ
しており、
功
こう
も
形状
けいじょう
として
見
み
えるほど
物凄
ものすご
く
伸
の
び、
功柱
こうちゅう
もかなり
高
たか
くなり、しかも
頭上
ずじょう
に
三輪
さんりん
の
花
はな
が
現
あらわ
れてきます。ただこれでも、その
人
ひと
は
世間
せけん
法
ほう
の
中
なか
で
最後
さいご
の
一歩
いっぽ
を
歩
あゆ
み
終
お
えたに
過
す
ぎません。
さらに
一歩
いっぽ
前進
ぜんしん
したとき、
何
なに
もかも
無
な
くなり、
功
こう
を
全部
ぜんぶ
身体
からだ
の
中
なか
の
最
もっと
も
深
ふか
い
空間
くうかん
に
沈
しず
めますので、その
人
ひと
は「
浄白体
じょうはくたい
」
状態
じょうたい
に
入
はい
り、
身体
からだ
が
透明
とうめい
なものになります。そしてさらに
一歩
いっぽ
進
すす
めば、「
佛体
ぶったい
修煉
しゅうれん
」とも
言
い
う
出世間
しゅっせけん
法
ほう
の
修煉
しゅうれん
に
入
はい
ります。それから
出
で
てくる
功
こう
は
神通力
じんつうりき
の
類
たぐ
いのものになりますが、この
時
とき
になれば、その
人
ひと
の
威力
いりょく
は
無尽蔵
むじんぞう
で、とてつもなく
大
おお
きくなります。そしてさらに
高
たか
い
境地
きょうち
に
達
たっ
するといよいよ
大
だい
覚者
かくしゃ
になります。
全
すべ
てはあなたがいかに
心性
しんせい
を
修煉
しゅうれん
するかにかかっていますが、あなたの
修煉
しゅうれん
した
次元
じげん
まで
果位
かい
も
到達
とうたつ
します。
大
おお
きな
志
こころざし
をもつ
者
もの
は
正法
しょうぼう
を
修煉
しゅうれん
し、
正果
しょうか
を
得
え
れば、それは
圓満
えんまん
成就
じょうじゅ
にほかなりません。