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法 輪 功

第三章 心性しんせいを修煉しゅうれんする



 法輪功ファールンゴン修煉しゅうれん者しゃは、心性しんせいの修煉しゅうれんを第一だいいちとして、心性しんせいが功こうを伸のばす鍵かぎだということをはっきり認識にんしきしなければなりません。これは煉功れんこうが高たかい次元じげんに達たっしたときの理りなのです。厳密げんみつに言いえば、次元じげんを決定けっていする功力こうりきは、「煉れん」によって得えられるのではなく、心性しんせいを修おさめることによって得えられるのです。心性しんせいを向上こうじょうさせるのは、言いうのは簡単かんたんですが、実行じっこうするのはとてもとても難むずかしいことです。修煉しゅうれん者しゃはきわめて大おおきな犠牲ぎせいを払はらい、悟性ごせいを高たかめ、苦くの中なかの苦くを嘗なめ、忍しのび難がたいことを忍しのぶ、などなどができなければなりません。なぜ一部いちぶの煉功れんこう者しゃは長年ながねん煉功れんこうしても功こうが伸のびないのでしょうか? その根本的こんぽんてきな原因げんいんは、一ひとつは心性しんせいを重おもんじないこと、もう一ひとつは高たかい次元じげんの正法しょうぼうを得えていないことにあります。このことははっきり指摘してきしておかなければなりません。多おおくの師しは功こうを教おしえるときに心性しんせいも説ときますが、それこそが本当ほんとうに功こうを教おしえるということです。動作どうさや手法しゅほうだけ教おしえて心性しんせいを説とかないのは、実質的じっしつてきに邪法じゃほうを教おしえているのに等ひとしいのです。したがって、煉功れんこう者しゃは心性しんせいを向上こうじょうさせることにおいてしっかり努力どりょくしなければなりません。そうしてはじめてさらに高たかい次元じげんの修煉しゅうれんに入はいることができるのです。

 一、心性しんせいの内涵ないかん


 法輪功ファールンゴンでいう心性しんせいは、「徳とく」でもって包含ほうがんしきれないものであり、それは「徳とく」のカバーする範囲はんいよりずっと広ひろく、「徳とく」を含ふくむさまざまな内容ないようを内うちにもっています。「徳とく」に現あらわれる一人ひとりの人間にんげんの心性しんせいはその現あらわれの一ひとつに過すぎず、単純たんじゅんに「徳とく」でもって心性しんせいの中味なかみを理解りかいしようとするのは不十分ふじゅうぶんです。心性しんせいは「得とく」と「棄き」という二ふたつのことにいかに対処たいしょするかという問題もんだいを含ふくんでいます。「得とく」とは、宇宙うちゅうの特性とくせいとの同化どうかを得えることです。宇宙うちゅう特有とくゆうの性質せいしつを構成こうせいしているのは、「真しん・善ぜん・忍にん」であり、一人ひとりの煉功れんこう者しゃと宇宙うちゅうとの同化どうかはまさに個人こじんの「徳とく」に現あらわれます。「棄き」とは、貪婪どんらん・利り・色いろ・欲よく・殺ころし・殴なぐり・盗ぬすみ・強奪ごうだつ・詐欺さぎ・嫉妬しっとなどなどのような良よくない考かんがえや行為こういを放棄ほうきすることです。高たかい次元じげんへ修煉しゅうれんしようとするには、さらに欲望よくぼうに対たいする人間にんげん本来ほんらいの追求ついきゅうを放棄ほうきしなければなりません。つまりあらゆる執着心しゅうちゃくしんを放棄ほうきし、個人こじんにまつわるあらゆる名みょう、利りに対たいして無頓着むとんちゃくにならなければなりません。
 人間にんげんの肉体にくたいと天性てんせいが人間にんげんを人間にんげんたらしめています。宇宙うちゅうも同おなじく物質ぶっしつとしての性質せいしつ以外いがいに、「真しん・善ぜん・忍にん」という特性とくせいを同時どうじにもっています。どの空気くうきの微粒子びりゅうしの中なかにもこのような特性とくせいが存在そんざいしています。常人じょうじん社会しゃかいでは、良よいことをすれば誉ほめられ、悪わるいことをすれば懲罰ちょうばつされるという形かたちで現あらわれますが、高たかい次元じげんでは功能こうのう態たいとして現あらわれます。このような特性とくせいに適かなうのは良よい人ひと、背そむくのは悪わるい人ひとであり、それに合致がっちし、同化どうかした人ひとは得道とくどうした者ものになります。ですから煉功れんこう者しゃはきわめて高たかい心性しんせいでもってこの特性とくせいに同化どうかして、はじめて高たかい次元じげんを目指めざして修煉しゅうれんすることができます。
 良よい人ひとになるのは比較的ひかくてき容易よういですが、心性しんせいを修煉しゅうれんしようとするのはそれほど容易よういではありません。その心こころを正ただそうとするには、まずその意いを誠まことにすることを、修煉しゅうれん者しゃは覚悟かくごしなければなりません。人間にんげんはこの世界せかいに生いきており、社会しゃかいは複雑ふくざつなので、あなたが善ぜんを行おこなおうとすれば、あなたに善ぜんを行おこなわせない人ひとがいます。あなたが他人たにんを侵害しんがいしなくても、他人たにんがさまざまな原因げんいんであなたを傷きずつけます。ここには非ひ自然的しぜんてきな原因げんいんによるものもありますが、なぜなのかについてあなたは悟さとれるのでしょうか? あなたはどう対処たいしょするのでしょうか? 世間せけんのあらゆるいさかいやトラブルが、いつでもあなたの心性しんせいを測はかっています。いわれもない屈辱くつじょくを前まえにして、あなたの切実せつじつな利益りえきが損害そんがいを被こうむったとき、金銭きんせんの前まえで、女色じょしょくの前まえで、権力けんりょく闘争とうそうの最中さいちゅうに、足あしを引ひっ張ぱり合あう嫉妬しっとの中なかで、さまざまな社会的しゃかいてきないざこざや家庭かてい内ないのトラブル及および有形ゆうけい無形むけいの苦痛くつうの中なかで、あなたはいつでも厳きびしい心性しんせいの要求ようきゅうに従したがって自己じこを制御せいぎょすることができるのでしょうか? もちろん、あなたが何なんでもうまく乗のり越こえられれば、あなたはすでに覚者かくしゃです。煉功れんこう者しゃはなんといってもたいてい常人じょうじんから始はじまったものであり、心性しんせいも徐々じょじょに修煉しゅうれんして向上こうじょうしていくものです。修煉しゅうれんに志こころざしのある者ものは大おおきな苦くに耐たえ、大おおきな困難こんなんを乗のり越こえる決意けついをもっていれば、最終的さいしゅうてきに正果しょうかを得えるに違ちがいありません。修煉しゅうれん者しゃの皆みなさんが厳きびしく心性しんせいを守まもり、一日いちにちも早はやく功力こうりきを高たかめるよう切せつに望のぞみます!
 

 二、失しつと得とく


 気功きこう界かいでも宗教しゅうきょう界かいでも失しつと得とくのことを問題もんだいにします。一部いちぶの人ひとは、失しつとは喜捨きしゃのことで、良よいことをし、困こまっている人ひとを助たすけることだと思おもい、得とくとは功こうを得えることだと思おもっています。お寺てらの僧侶そうりょもそういうことを言いい、喜捨きしゃを求もとめます。これでは失しつをあまりにも狭せまくとらえすぎています。われわれの言いう失しつは広義こうぎのことで、非常ひじょうに大おおきなものです。われわれが失うしなおうとするのは常人じょうじんの心こころであり、執着しゅうちゃくして放はなさない心こころですが、本当ほんとうにあなたが重要じゅうようだと思おもうもの、放棄ほうきできないと思おもうものを棄すてることができれば、それは本当ほんとうの失しつになります。人助ひとだすけをして、慈悲心じひしんをちょっと示しめすのは、失しつのわずかな一部いちぶに過すぎません。
 常人じょうじんとしては、有名ゆうめいになり、利益りえきを得えて、暮くらしを良よくし、快適かいてきにし、金儲かねもうけをしようとしますが、それは常人じょうじんの目標もくひょうです。これに対たいしてわれわれ煉功れんこう者しゃは違ちがいます。われわれが得えるのは功こうであって、そういうものではありません。われわれは個人こじんの利益りえきを少すこしばかり放棄ほうきして、それに対たいして淡泊たんぱくでいられるようにと言いっているのであって、本当ほんとうにあなたに何なにかを失うしなわせようとするわけではありません。われわれは常人じょうじん社会しゃかいの中なかで修煉しゅうれんしているので、常人じょうじんと同おなじようにしなければならず、肝心かんじんなのはその心こころを放下ほうげすることであり、本当ほんとうにあなたに何なにかを失うしなわせようとするものではありません。あなたに属ぞくするものなら失うしなうことはありませんが、あなたに属ぞくしないものは手てに入いれようとしても得えられませんし、もし手てに入いれても人ひとに返かえさなければなりません。得とくがあれば必かならず失しつもあります。もちろん、一気いっきに非常ひじょうに高たかいところまで到達とうたつすることは不可能ふかのうであり、一夜いちやのうちに覚者かくしゃになろうとしてもできるわけがありません。少すこしずつ修煉しゅうれんし、一歩いっぽずつ向上こうじょうしていくなら可能かのうであり、失うしなえばその分ぶんだけあなたは得えるのです。利害りがい関係かんけいにおいてつねに無頓着むとんちゃくでいられて、得とくが少すくなくても心こころは安やすらかです。物質ぶっしつにおいて、損そんをするかもしれませんが、徳とくにおいて、功こうにおいて多おおく得えることができます。これはそういう道理どうりであり、あなたにわざと名誉めいよや利益りえきで交換こうかんさせようとしているわけではありません。このことはさらに悟性ごせいによって体得たいとくしなければなりません。
 ある大だい道どうを修おさめる人ひとはかつてこう言いいました。「他人たにんが欲ほしがるものはわたしは要いらない。他人たにんが持もっているものはわたしは持もっていない。しかしわたしが持もっているものは、他人たにんにはない。他人たにんが要いらないものをわたしは要いる」、と。常人じょうじんは、地面じめんに転ころがっている石いしころ以外いがい、何なんでも欲ほしがり、満足まんぞくする時ときがなかなかありません。そこでこの修道しゅうどう者しゃは、わたしはその石いしころを拾ひろうことにしよう、と言いっています。俗ぞくに、物ものは稀まれなものを貴とうとしとし、少すくないものを奇きとする、と言いいますが、石いしころはこの空間くうかんでは価値かちがありませんが、ほかの空間くうかんに行いけば最もっとも価値かちのあるものになります。この言葉ことばには常人じょうじんでは語かたり得えない哲理てつりが道破どうはされています。修煉しゅうれんして成就じょうじゅした多おおくの高人こうじんはいずれも無一物むいちもつですが、彼かれらにとって、放棄ほうきできない個人こじんのものは何一なにひとつありません。
 煉功れんこうという道みちは最もっとも正ただしいものであり、煉功れんこう者しゃこそが最もっとも賢かしこい者ものです。常人じょうじんが争あらそおうとする物もの、得えようとする利益りえきは一時的いちじてきなもので、たとえ争あらそいによって得えたとしても、拾ひろってきたとしても、あるいは何なにかの利益りえきを得えたとしても、それでどうなるというのですか? 常人じょうじんの言葉ことばに、生うまれてくるときに持もって来こられず、死しぬときにも持もっていけない、というのがあります。来くるときは裸はだか、去さるときも裸はだか、骨ほねまで灰はいに焼やかれてしまいます。どんなにたいへんな金持かねもちになったとしても、赫々かっかくとした高官こうかんになったとしても、あなたは何なにも持もっていくことができません。しかし、功こうは持もっていけます。なぜならそれはあなたの主しゅ意識いしきに付ついているからです。言いっておきますが、功こうは容易たやすく手てに入はいるものではありません。それはあまりにも貴重きちょうで得難えがたいので、千金せんきんでもっても替かえ難がたいものです。あなたの功こうが非常ひじょうに高たかく伸のびたとき、もしある日ひあなたが煉功れんこうをやめようとしたら、悪わるいことさえしなければ、あなたの功こうがあなたの欲ほしいありとあらゆる物質的ぶっしつてきなものに転化てんかされるので、何なんでも手てに入いれることができます。ただし、世間せけんで得えたもの以外いがいに、修煉しゅうれん者しゃが得えるものをあなたは二度にどと得えられなくなります。
 一部いちぶの人ひとはなんらかの個人こじんの利益りえきのために、本来ほんらい自分じぶんに属ぞくさないものを、不正ふせいな手段しゅだんを使つかって手てに入いれて、本人ほんにんが得とくしたと思おもい込こんでいますが、実際じっさいのところ彼かれが手てに入いれた利益りえきは徳とくでもって人ひとと交換こうかんしてきたものであり、ただ本人ほんにんがそれを知しらないだけです。煉功れんこう者しゃなら功こうを減へらされますが、煉功れんこうしていない者ものなら寿命じゅみょうを減へらされるか、他ほかのものを減へらされます。要ようするに、この債務さいむは清算せいさんされなければなりません。これは天てんの理りです。いつも人ひとをいじめたり、口汚くちぎたなく人ひとをののしり傷きずつけたりする人ひとがいますが、こういうことをする度たびに、彼かれはそれ相応そうおうの徳とくを相手あいてに投なげ渡わたし、徳とくでもって人ひとを侮辱ぶじょくする代償だいしょうを払はらっています。
 善人ぜんにんは損そんをする、と考かんがえる人ひとがいます。常人じょうじんから見みればその人ひとは損そんをしているように見みえても、常人じょうじんでは得えられないものをその人ひとは手てに入いれています。それはほかでもなく「徳とく」──白しろい物質ぶっしつであり、きわめて貴重きちょうなものです。徳とくがなければ功こうはない、これは絶対ぜったいの真理しんりです。なぜ多おおくの人ひとは煉功れんこうしても功こうが伸のびないのでしょうか? それは徳とくを修煉しゅうれんしていないからです。多おおくの人ひとはみな徳とくを説といており、みな徳とくを求もとめるようにと言いっていますが、彼かれらは徳とくが実際じっさいに功こうに転化てんかされる道理どうりを明あきらかにしていないため、個々ここの人ひとが自分じぶんで悟さとるしかありません。万巻ばんかんの大藏経だいぞうきょう、釈迦牟尼しゃかむにの在世ざいせい中ちゅうにおける四十年よんじゅうねん以上いじょうの説法せっぽうは、いずれも徳とくのみを語かたっています。中国ちゅうごく古代こだいの修道しゅうどうの書しょはみな徳とくのみを語かたっており、老子ろうしが書かいた五千言ごせんげんの『道徳経どうとくきょう』も徳とくのことしか語かたっていません。にもかかわらずどうしても悟さとらない人ひとがいます。
 失しつについてですが、得とくがあれば失しつがあります。本当ほんとうに修煉しゅうれんしようと決きめたとたん、何なんらかの魔ま難なんにさいなまれることがあります。日常にちじょう生活せいかつにおいては、まず身体からだが辛つらい目めに遭あい、ここかしこに調子ちょうしが悪わるいと感かんじることがありますが、病気びょうきではありません。それから社会しゃかいや家庭かてい、勤つとめ先さきなどでも見みられますが、突如とつじょとして、利益りえきのためにトラブルが起おこったり、感情かんじょうの摩擦まさつが生しょうじたりすることがあります。それはあなたの心性しんせいを高たかめるためです。これらの出来事できごとは往々おうおうにして突然とつぜんやってくるもので、見みた目めにはとても激はげしいように見みえます。もしあなたが非常ひじょうに面倒めんどうなことに遭遇そうぐうして、それによってあなたがさんざんな目めに遭あったり、恥はじをさらしたり、面子めんつを失うしなったりした場合ばあい、あなたはどう対処たいしょしますか? あなたが平然へいぜんとしていられたとします。そのようにできれば、あなたの心性しんせいはこの一難いちなんで高たかめられ、あなたの功こうもその分ぶんだけ伸のびたことになります。少すこしでも乗のり越こえられれば、その分ぶんだけ得えることになります。代価だいかを払はらえば、その代価だいか分ぶんだけ得えることになります。人ひとは難なんの最中さいちゅうにいるとき、往々おうおうにして悟さとることができないかもしれませんが、しかし悟さとらなければなりません。常人じょうじんと混同こんどうしてはならず、トラブルが起おきたとき、淡々たんたんとしていられなければなりません。われわれは常人じょうじんの中なかで修煉しゅうれんしているので、心性しんせいも常人じょうじんの中なかで錬磨れんましなければなりません。何回なんかいかつまずき転ころんでいるうちに、その中なかから教訓きょうくんを学まなびます。何なんの面倒めんどうなことにも遭遇そうぐうせず、心地ここちよく功こうを伸のばそうとしても、それは不可能ふかのうです。
 

 三、「真しん・善ぜん・忍にん」を同時どうじに修おさめる


 われわれのこの法門ほうもんでは、「真しん・善ぜん・忍にん」を同時どうじに修おさめます。「真しん」とはすなわち真実しんじつなことを話はなし、真実しんじつなことをし、返本帰真へんぽんきしんして、最終的さいしゅうてきに真人しんじんになるということです。「善ぜん」とはすなわち慈悲心じひしんを生うみ出だし、善ぜんを行おこない人ひとを済度さいどすることです。とりわけ「忍にん」ができなければならないことが強調きょうちょうされます。「忍にん」ができてはじめて、修煉しゅうれんして大徳だいとくの士しになれます。「忍にん」は非常ひじょうに強つよいものであり、「真しん」と「善ぜん」を超こえています。修煉しゅうれんの全ぜん過程かていを通とおしてあなたは忍耐にんたいしなければならず、心性しんせいを守まもって、妄みだりに行動こうどうしてはなりません。
 何なにかがあったときに「忍にん」は容易よういなことではありません。「殴なぐられても殴なぐり返かえさず、罵ののしられてもやり返かえさず、親戚しんせき友人ゆうじんの前まえで面子めんつを失うしないかねない状況じょうきょうでもひたすら我慢がまんするなど、まるで『阿あQ』になってしまうのではないか?!」と言いう人ひとがいます。わたしに言いわせれば、あなたはあらゆる面めんで何なんら異常いじょうもなく、知能ちのうでも他人たにんに比くらべてちっとも劣おとっておらず、ただ個人こじんの利益りえきに無頓着むとんちゃくでいるだけですから、誰だれもあなたのことを薄うすのろなどと言いいません。「忍にん」ができるというのは、軟弱なんじゃく無能むのうでもなければ、「阿あQ」でもなく、意志いしが強つよいことの現あらわれであり、教養きょうようが高たかいことの現あらわれです。中国ちゅうごく歴史れきし上じょうの人物じんぶつで韓信かんしんという人ひとが、かつて股またくぐりで屈辱くつじょくを受うけましたが、それがまさに大おおきな「忍にん」です。古代こだいに、「匹夫ひっぷが辱はずかしめられると、剣けんを抜ぬいて立たち上あがる」という言葉ことばがあります。一人ひとりの常人じょうじんとしては、侮辱ぶじょくを受うけたとき、剣けんを抜ぬいて立たち上あがり、口くちを開ひらいて人ひとを罵ののしり、拳骨げんこつを振ふり挙あげて人ひとを殴なぐることになりかねません。人間にんげんとしてこの世よにやってくるのは容易よういなことではないのに、意地いじのために生いきている人ひとがおり、それはあまりにもそうするに値あたいしないばかりでなく、あまりにも疲つかれます。中国語ちゅうごくごに、「一歩いっぽ引ひき下さがれば、世界せかいが広々ひろびろと開ひらける」という言葉ことばがあります。面倒めんどうなことに遭遇そうぐうして一歩いっぽ引ひき下さがったときに、あなたはまったく違ちがう世界せかいを目めにするでしょう。
 煉功れんこう者しゃとして、あなたといざこざがあった人ひと、目めの前まえであなたを辱はずかしめた人ひとに対たいして、あなたは「忍にん」をしなければならず、淡々たんたんとしていなければならないばかりでなく、その人ひとに感謝かんしゃしなければなりません。もしその人ひとがあなたにいざこざを起おこさなければ、あなたはどうして心性しんせいを高たかめることができるのでしょうか。辛つらい目めに遭あったときに黒くろい物質ぶっしつを白しろい物質ぶっしつに転化てんかさせることができるのでしょうか。どうやって功こうを伸のばすのでしょうか? 人ひとは劫難ごうなんの中なかにあるときは非常ひじょうに辛つらいものです。しかしこの時ときこそ自制じせいしなければなりません。なぜなら功力こうりきが伸のびるに従したがって、劫難ごうなんというのも絶たえず増大ぞうだいするものであり、あなたの心性しんせいが向上こうじょうするかどうか量はかられるからです。初はじめはあなたの気きにさわるようなことをし、あなたをかんかんに怒おこらせるので、それによってあなたはいたたまれないほどいらいらし、肝臓かんぞうが痛いたみ出だし、胃いが痛いたみ出だすかもしれませんが、それでもあなたは爆発ばくはつせずに、耐たえることができたとします。それは大変たいへんけっこうなことで、あなたが「忍にん」を始はじめたのです。意識的いしきてきに「忍にん」を実行じっこうしたのです。少すこしずつ絶たえず心性しんせいを向上こうじょうさせていくに従したがって、あなたは本当ほんとうにそういうことに対たいして平然へいぜんとしていられるようになりますが、そうなればさらに大おおきな向上こうじょうになります。常人じょうじんはわずかな摩擦まさつやささいなことを一大事いちだいじと見みて、意地いじのために生いきているので、「忍にん」ができず、追おいつめられれば何なんでもやってしまいかねません。しかし修煉しゅうれん者しゃとしては、他ほかの人ひとにとってはとてつもなく大おおきいと思おもわれることを、あなたはごくごく小ちいさいことだと見みなします。あなたの目標もくひょうはとても永久とわなるものであり、遠大えんだいであり、あなたが宇宙うちゅうと齢よわいを等ひとしくしようとしているからです。振ふり返かえって見みれば、そういうものはあってもなくてもよいものであり、大おおきく考かんがえれば、そういうものはみな放下ほうげできるものなのです。
 

 四、嫉妬心しっとしんを取とり去さる


 嫉妬心しっとしんは修煉しゅうれんにとってきわめて大おおきな障害しょうがいであり、煉功れんこう者しゃへの影響えいきょうが非常ひじょうに大おおきく、煉功れんこう者しゃの功力こうりきに直接ちょくせつ影響えいきょうを与あたえ、修煉しゅうれん仲間なかまを傷きずつけ、上うえを目指めざして修煉しゅうれんすることを甚はなはだしく妨さまたげるものです。修煉しゅうれん者しゃとしては百ひゃくパーセントそれを取とり去さらなければなりません。煉功れんこうして一定いっていの次元じげんに達たっした人ひとがいますが、嫉妬心しっとしんをなかなか取とり去さることができず、しかも取とり去さらなければますます強つよくなる一方いっぽうです。このような反作用はんさようは、その人ひとのすでに高たかめられた他ほかの心性しんせいをも脆弱ぜいじゃくにしてしまいます。どうして嫉妬心しっとしんをわざわざ取とり上あげて問題もんだいにしなければならないのでしょうか? それは嫉妬心しっとしんが中国人ちゅうごくじんの間あいだで最もっとも激はげしく、突出とっしゅつしており、人々ひとびとの心こころの中なかで最もっとも大おおきな比重ひじゅうを占しめていながら、多おおくの人ひとに意識いしきされていないからです。嫉妬心しっとしんは東洋とうよう特有とくゆうのものであり、東洋とうよう嫉妬しっとまたはアジア嫉妬しっとと呼よばれています。中国人ちゅうごくじんは非常ひじょうに内向的ないこうてきで、控ひかえ目めであり、軽々かるがるしく表おもてに露あらわさないので、嫉妬心しっとしんが生しょうじやすいのです。物事ものごとにはみな二ふたつの側面そくめんがあり、内向的ないこうてきな性格せいかくには良よい面めんもあれば、悪わるい面めんもあります。一方いっぽう、西洋人せいようじんは比較的ひかくてき外向的がいこうてきです。たとえば、子供こどもが学校がっこうで百点ひゃくてんとったら、喜よろこび勇いさんで家いえへ走はしって帰かえりながら、「ぼく、百点ひゃくてんとったぞ、……」と叫さけびます。隣近所となりきんじょの人ひともドアを開ひらけ、窓まどをあけて、「トム、おめでとう!」とお祝いわいをし、喜よろこびを分わかち合あいますが、中国ちゅうごくであれば、皆みなさん考かんがえてみてごらんなさい。それを聞きくとすぐに反感はんかんを覚おぼえ、「百点ひゃくてんをとったぐらいで何なにを偉えらそうに、何なにを見みせびらかしているんだ!」というように全然ぜんぜん違ちがう反応はんのうが返かえってきます。そこには嫉妬心しっとしんが働はたらいています。
 嫉妬心しっとしんのある人ひとは人ひとを軽蔑けいべつし、他人たにんが自分じぶんを上回うわまわるのが我慢がまんなりません。他人たにんが自分じぶんよりできるのを見みると、心こころのバランスを失うしない、耐たえられなくなり、認みとめようとしません。昇給しょうきゅうは等ひとしく、ボーナスは同額どうがくでなければならず、天てんが崩くずれるほど悪わるい出来事できごとがあれば、みんなで責任せきにん分担ぶんたんします。他人たにんの稼かせぎが多おおければ妬ねたんでしまうし、いずれにせよ人ひとが自分じぶんを上回うわまわるのを許ゆるせません。科学かがく研究けんきゅうで成果せいかを上あげても、嫉妬しっとを恐おそれて、奨励金しょうれいきんをもらいに行いく勇気ゆうきのない人ひとがいますし、嫉妬しっととからかいを恐おそれて、何なにか受賞じゅしょうしても黙だまって人ひとに言いえない人ひとがいるほどです。他ほかの気功きこう師しが講習会こうしゅうかいを行おこなっているのを見みて認みとめようとせず、道場破どうじょうやぶりに行いく人ひとがいますが、それはまさに心性しんせいの問題もんだいです。一緒いっしょに煉功れんこうしている仲間なかまのなかに、煉功れんこうの日ひが浅あさいのに功能こうのうが出でた人ひとがいたとしましょう。すると、「なんだそれは、俺おれは何年なんねんも煉功れんこうしており、修了しゅうりょう証書しょうしょも山やまほど持もっている。俺おれに功能こうのうが出でていないのに彼かれに出でるはずなんてありえない」と言いって、嫉妬心しっとしんをむき出だしにする人ひとがいます。煉功れんこうとは内うちに向むかって、自分じぶん自身じしんの修煉しゅうれんに勤つとめ、自分じぶん自身じしんから原因げんいんを探さがすことです。自分じぶんに足たりないところがあれば、自分じぶんで向上こうじょうさせ、内うちに向むかって努力どりょくすべきなのです。外そとにばかり目めを向むけていると、人ひとが修煉しゅうれんをやり遂とげ、向上こうじょうしていったのに、あなただけが向上こうじょうできずじまいになってしまいます。それでは何なんにもならないのではありませんか? 修煉しゅうれんとは自分じぶんを修煉しゅうれんすることなのです!
 嫉妬心しっとしんのために、たとえば耳障みみざわりなことを言いって、他人たにんの心こころを乱みだし入静にゅうせいを妨さまたげるなど、修煉しゅうれん仲間なかまに害がいを与あたえることがあります。一定いっていの功能こうのうをもつようになってからは、嫉妬心しっとしんのために、功能こうのうを用もちいて修煉しゅうれん仲間なかまに害がいを与あたえることがあります。たとえば、修煉しゅうれんにかなり素養そようのある人ひとが坐禅ざぜんを組くんで煉功れんこうしていたとしましょう。その人ひとは身体からだに功こうがついているから、山やまのようにどっしり坐すわっていました。そこへ二ふたつの物体ぶったいが漂ただよってきました。そのうちの一人ひとりはかつて僧侶そうりょだったもので、嫉妬心しっとしんのために修煉しゅうれんが成就じょうじゅできませんでした。一定いっていの功力こうりきはあるものの、修煉しゅうれんは成就じょうじゅできなかったのです。二人ふたりがその坐禅ざぜんを組くんでいる人ひとのところへやってきたとき、一人ひとりが、「だれだれがここで修煉しゅうれんしているので、道みちを変かえよう」と言いいました。するともう一人ひとりが、「昔むかしわしは掌てのひらを一振ふりして泰山たいざんの一角いっかくを切きり落おとしたことがあるんだ」と言いいながら、煉功れんこう者しゃに向むかって、掌てのひらを振ふり下おろそうとしました。しかし、振ふり上あげた手ては下おろせませんでした。なぜなら正法しょうぼうを修煉しゅうれんしている煉功れんこう者しゃは、防護ぼうごの覆おおいに守まもられており、切きりつけようと思おもっても切きりつけられないからです。ところでその人ひとは正法しょうぼう修煉しゅうれん者しゃを傷きずつけようとする深刻しんこくな問題もんだいを起おこしたので、懲罰ちょうばつを受うけました。嫉妬心しっとしんのある人ひとは、自分じぶんを害がいするばかりでなく人ひとをも害がいしてしまいます。
 

 五、執着心しゅうちゃくしんを取とり去さる


 執着心しゅうちゃくしんとは、煉功れんこう者しゃがある物事ものごと、ある目標もくひょうにこだわって、それを過度かどに追求ついきゅうし、超脱ちょうだつできず、甚はなはだしきに至いたってはそれに頑かたくなに固執こしつし、人ひとの忠告ちゅうこくを聞きき入いれようとしないことを指さします。世間せけんで功能こうのうを得えようと求もとめる人ひとがいますが、これは必然的ひつぜんてきに高たかい次元じげんを目指めざす修煉しゅうれんに影響えいきょうを与あたえることになります。このような気持きもちは強つよければ強つよいほど、容易よういに棄すてられなくなり、心こころがますます均衡きんこうを失うしない不安定ふあんていに陥おちいり、しまいには、自分じぶんが何なにも得えていないと思おもい込こみ、あるいは習ならったものに対たいしてすら疑うたがいを持もつようになります。執着心しゅうちゃくしんは人ひとの欲望よくぼうからきており、目標もくひょうまたは目的もくてきがいかにもせせこましく、細こまかくて具体的ぐたいてきであるのが特徴とくちょうですが、本人ほんにんは往々おうおうにして気きづきません。常人じょうじんの執着心しゅうちゃくしんはさまざまですが、あるものを追求ついきゅうして目的もくてきを達たっするために、常人じょうじんは手段しゅだんを選えらばずそれを手てに入いれようとしかねません。これに対たいして、煉功れんこう者しゃとしての執着心しゅうちゃくしんは違ちがった表あらわれ方かたをします。たとえばある種しゅの功能こうのうを追求ついきゅうし、ある種しゅの光景こうけいに夢中むちゅうになり、ある種しゅの顕現けんげんに熱中ねっちゅうする、などなど。煉功れんこう者しゃとしては、どんなものであれ、求もとめてはならず、こういうものは取とり去さらなければなりません。道家どうけでは「無む」を唱となえ、佛家ぶっけでは「空くう」や「空門くうもんに入はいる」ことを唱となえますが、われわれは最終的さいしゅうてきに「空無くうむ」の境地きょうちに達たっし、一切いっさいの執着心しゅうちゃくしんを取とり去さり、あなたの放下ほうげできないあらゆるものを放下ほうげしなければなりません。たとえば、功能こうのうへの追求ついきゅうですが、求もとめるのはそれを使つかおうとしているからにほかなりません。それは実際じっさいにわれわれの宇宙うちゅうの特性とくせいに背そむきますので、結局けっきょくやはり心性しんせいの問題もんだいです。得えようとする以上いじょう、人ひとの前まえでひけらかし、見みせびらかそうとするに決きまっています。そういうものは人ひとに見みせびらかすようなものではありません。たとえ非常ひじょうに純粋じゅんすいな目的もくてきで、つまり良よいことをしようとしてそれを用もちいるにしても、その良よいはずのこともあなたがやり出だすと必かならずしも良よいことにはなりません。常人じょうじんのことを超常ちょうじょう的てきな方法ほうほうで干渉かんしょうしようとすれば、必かならずしも良よいことにはなりません。わたしが講習会こうしゅうかいで七十ななじゅうパーセントの人ひとの天目てんもくが開ひらいたと言いったのを聞きいて、「なぜ自分じぶんは何なにも感かんじていないのか?」と、思索しさくを巡めぐらす人ひとがいます。帰かえってから煉功れんこうするとき、天目てんもくのことにばかり神経しんけいを注そそぎ、頭痛ずつうがするほど考かんがえ込こみますが、結局けっきょく相変あいかわらず何なにも見みえません。これがまさに執着心しゅうちゃくしんです。人ひとはそれぞれ体質たいしつが異ことなり、根基こんきも違ちがいますので、天目てんもくが同時どうじに見みえることはありえませんし、同おなじ次元じげんに到達とうたつすることもありえません。見みえる人ひとがおり、見みえない人ひともおり、どちらも正常せいじょうなのです。
 執着心しゅうちゃくしんは、煉功れんこう者しゃをして功力こうりきが停滞ていたいし、徘徊はいかいする状態じょうたいに陥おちいらせ、さらに深刻しんこくな場合ばあいは煉功れんこう者しゃを邪道じゃどうに導みちびいてしまいかねません。とりわけ一部いちぶの功能こうのうは、心性しんせいが良よくなければそれを用もちいて悪事あくじを働はたらくことがあり得えるのです。心性しんせいがしっかりしていないために功能こうのうを用もちいて悪事あくじを働はたらく例れいもあります。某地ぼうちのある男子だんし学生がくせいに思惟しい制御せいぎょ功能こうのうが現あらわれました。この功能こうのうを使つかえば、自分じぶんの思惟しいでもって他人たにんの思惟しい活動かつどうを支配しはいすることができるので、彼かれはそれを用もちいて悪わるいことをしました。一部いちぶの人ひとは、煉功れんこうの時ときに現あらわれた何なんらかの光景こうけいをどうしてもはっきり見みようとし、それを突つき止とめようとしますが、これも執着心しゅうちゃくしんです。また一部いちぶの人ひとは、ある嗜好しこうに溺おぼれ病やみつきになって、なかなかそれをやめることができないのですが、それも執着心しゅうちゃくしんです。根基こんきが違ちがい、目的もくてきが違ちがうので、最もっとも高たかい境地きょうちに達たっするために煉功れんこうしている人ひともいれば、何なにかを得えようとして煉功れんこうしている人ひともいます。後者こうしゃの考かんがえ方かたの場合ばあいは、必然的ひつぜんてきに煉功れんこうの目的もくてきを狭せばめてしまいます。このような執着心しゅうちゃくしんが取とり去さられなければ、たとえ煉功れんこうしていても功こうが伸のびることはありません。したがって、煉功れんこう者しゃは一切いっさいの物質的ぶっしつてき利益りえきに完全かんぜんに無頓着むとんちゃくになっていなければならず、いかなる追求ついきゅうも持もたずに、すべて自然しぜんの成なり行ゆきに任まかせるようにしなければなりません。こうすれば執着心しゅうちゃくしんが再ふたたび現あらわれるのを免まぬがれることができます。すべては煉功れんこう者しゃの心性しんせいにかかっています。心性しんせいが根本こんぽんから高たかめられず、何なんらかの執着心しゅうちゃくしんを持もっていたのでは修煉しゅうれんは成就じょうじゅできません。
 

 六、業力ごうりき


(一)業力ごうりきの由来ゆらい
 業力ごうりきは徳とくと相反あいはんする黒くろい物質ぶっしつです。佛教ぶっきょうではそれを悪業あくごうと言いいますが、われわれはここで業力ごうりきと言いいます。ですから悪事あくじを働はたらくことは、業力ごうりきを造つくることだと言いわれます。業ごうあるいは業力ごうりきは、本人ほんにんがこの世よあるいは前世ぜんせで犯おかした間違まちがいに由来ゆらいしているのですが、たとえば殺生せっしょうをしたとか、誰だれかをいじめたとか、誰だれかの利益りえきを奪うばったとか、陰かげで誰だれかを非難ひなんしたとか、誰だれかに冷つめたくしたとかなどなど、いずれも業力ごうりきを作つくり出だすことになります。一部いちぶの業力ごうりきは先祖せんぞや親戚しんせき友人ゆうじんから移うつってきたものもあります。人ひとは拳骨げんこつを振ふり挙あげて他人たにんを殴なぐるとき、それと同時どうじに、白しろい物質ぶっしつを相手あいてに投なげ渡わたし、自分じぶんの身体からだのその部分ぶぶんは黒くろい物質ぶっしつに取とって代かわられてしまいます。殺生せっしょうは最大さいだいの悪行あくぎょうで、悪事あくじを働はたらくことであり、非常ひじょうに重おもい業力ごうりきを造つくり出だしてしまいます。業力ごうりきは人ひとを病気びょうきに至いたらしめる重要じゅうような原因げんいんです。もちろん業力ごうりきは必かならずしも病気びょうきとして現あらわれてくるとは限かぎらず、厄介やっかいなことに遭遇そうぐうするなどということもあり得えますが、いずれも業力ごうりきが作用さようしています。ですから修煉しゅうれん者しゃは決けっして良よくないことをしてはなりません。あらゆる良よくない行為こういがみな良よくない信息しんそくを作つくり出だし、あなたの煉功れんこうに深刻しんこくな影響えいきょうを与あたえてしまうからです。
 植物しょくぶつの気きを採とるよう主張しゅちょうする人ひとがおり、功こうを教おしえるときも植物しょくぶつの気きの採とり方かたを教おしえています。どんな樹きが良よいとか、どんな樹きの気きが何色なにいろをしているとか、興味津々きょうみしんしんに話はなしています。中国ちゅうごくの東北とうほくのある公園こうえんで、何なんの功こうをやっているのか分わかりませんが、何人なんにんかの人ひとが地面じめんを転ころげ回まわり、起おきあがっては松まつの木きの周まわりをぐるぐる回まわって、松まつの木きの気きを採とるものですから、わずか半年はんとしであたり一面いちめんの松まつの木きを枯かれさせてしまいました。これは業ごうを造つくる行為こういであり、殺生せっしょうでもあります! 国土こくどの緑化りょっかや生態せいたい均衡きんこうの維持いじから言いっても、高たかい次元じげんから言いっても、植物しょくぶつの気きを採とるのは良よくないことです。浩瀚こうかんたる宇宙うちゅうは果はてしなく広ひろがっており、どこにでも好すきなだけ採とれる気きがあるのですから、そこから思おもう存分ぞんぶん採とればよいのに、どうしてよりによって植物しょくぶつをいじめるのでしょうか? 煉功れんこう者しゃとして、あなたの慈悲心じひしんはどこにいったのでしょうか? 
 万物ばんぶつにはみな霊れいがあります。現代げんだい科学かがくは植物しょくぶつに生命せいめいがあるばかりでなく、霊性れいせいもあり、思惟しいや感情かんじょうもあり、さらには超ちょう感覚かんかく功能こうのうもあることを認識にんしきしています。あなたの天目てんもくが法眼ほうげん通つうに達たっすると、世界せかいがまるっきり違ちがう様相ようそうを呈ていしているのに気きづくでしょう。外そとに出でかけると、石いしころも、壁かべも、樹きも、みなあなたに話はなしかけてきます。いかなる物体ぶったいにも生命体せいめいたいが存在そんざいしており、その物体ぶったいが形成けいせいされるとき、すでに一個いっこの生命体せいめいたいが入はいっているのです。有機ゆうき物質ぶっしつと無機むき物質ぶっしつはわれわれ地球人ちきゅうじんが区分くわけしているものです。寺てらの人ひとは茶碗ちゃわんが割われても非常ひじょうに気きの毒どくに思おもいます。なぜならいったん壊こわされると、その生命体せいめいたいが解放かいほうされ出でてくることになりますが、生命せいめいの過程かていを歩あゆみ終おえていないため、行いくところがなくなるからです。ですから自分じぶんを殺ころした人ひとを憎にくみ、憎にくめば憎にくむほどその人ひとの業力ごうりきも大おおきくなります。「気功きこう師し」と称しょうする人ひとのなかに狩かりをする人ひとがいますが、慈悲心じひしんはどこへいったのでしょうか? 佛道ぶつどう両家りょうけはいずれも天てんの理りに背そむいて物事ものごとを行おこなったりしません。そんなことをするのは殺生せっしょうにほかなりません。
 鶏にわとりを殺ころしたり、魚さかなを殺ころしたり、釣つりをしたりなど、過去かこにたくさんの業ごうを造つくったので、煉功れんこうできないのではないかと言いう人ひとがいますが、そうではありません。それは無知むちの時ときにやったことなので、さらに大おおきな業力ごうりきを造つくることはありません。これから二度にどとこういうことをしなければいいのです。ただ、今後こんごこういうことをすると、分わかっていながらわざと罪つみを犯おかすことになるので、いけません。一部いちぶの学習者がくしゅうしゃはまさにこういう業力ごうりきを持もっています。あなたが講習会こうしゅうかいに参加さんかしたのはまさに、縁えんがあったからであり、上うえを目指めざして修煉しゅうれんできるのです。蠅はえや蚊かが部屋へやに入はいってきたら殺ころすかどうか? 皆みなさんは現在げんざいこの次元じげんで殺ころしても間違まちがいではありません。追おい払はらえなければ殺ころしてしまえばいいのです。ものは死しぬべき時ときには、自おのずと死しぬのです。釈迦牟尼しゃかむには在世ざいせい中ちゅう、湯浴ゆあみをしようと思おもって、弟子でしに浴槽よくそうの掃除そうじをさせようとしたことがあります。ところが弟子でしは浴槽よくそうに虫むしがいるのを見みて、どうしたらいいかと聞ききに戻もどってきました。釈迦牟尼しゃかむには今いま一度いちど、「お前まえに掃除そうじさせるのは浴槽よくそうなのだ」と、言いいました。弟子でしは悟さとり、浴槽よくそうをきれいに掃除そうじしました。一部いちぶのことはあまり重おもく見み過すぎてはいけません。われわれはあなたに何事なにごとにもびくびくするような人ひとになってほしいとは望のぞんでいません。複雑ふくざつな環境かんきょうの中なかに身みを置おきながら、ミスを犯おかしてはいけないと、四六時中しろくじちゅう神経しんけいを高度こうどに緊張きんちょうさせるのも、わたしに言いわせれば、いけません。これも一種いっしゅの執着心しゅうちゃくしんになります。恐おそれること自体じたいが執着しゅうちゃくです。
 われわれが慈悲心じひしんを持もち、如何いかなることに対たいしても慈悲じひの心こころを抱いだいていれば、それほど簡単かんたんに問題もんだいが起おきることはありません。個人こじんの利益りえきに対たいして淡々たんたんとしていて、心根こころねが善良ぜんりょうであれば、そこから制約せいやくを受うけるので、何事なにごとをするにしても、悪わるいことをしでかすことはありません。信しんじられないのならやってみてください。いつも怒おこりっぽい態度たいどで、いつも争あらそい闘たたかおうとしていれば、良よいことでもあなたの前まえでは悪わるくなってしまいます。理りを握にぎってしまうと譲ゆずることを知しらない人ひとをよく見みかけますが、そういう人ひとは理りを握にぎると、人ひとを懲こらしめるものをつかんだかのようになります。それからあることが気きにくわないからといって、もめごとを引ひき起おこしてはいけません。あなたが気きにくわないことが必かならずしも間違まちがっているとは限かぎりません。煉功れんこう者しゃとして絶たえず次元じげんを高たかめているとき、あなたの一言ひとこと一言ひとことにはエネルギーがあって常人じょうじんを制約せいやくすることができるので、無分別むふんべつに言いってはいけません。特とくにあなたに真相しんそうが見みえないとき、因縁いんねん関係かんけいが見みえないときは、悪わるいことをしてしまいやすいし、業ごうを造つくりやすいのです。
 
(二)業ごうを消けす
 世間せけんの理りと天上てんじょうの理りは同おなじであり、他人たにんに借かりがあれば、返かえさなければなりません。たとえ常人じょうじんでも人ひとへの借かりは返かえさなければならないのです。一生いっしょうの間あいだにあなたが遭遇そうぐうする難なんや劫ごうはいずれも業力ごうりきから生うまれたものなので、あなたはそれを返かえさなければなりません。本当ほんとうに修煉しゅうれんする人ひとにとって、あなたの人生じんせいの道みちはこれから変かわります。あなたの修煉しゅうれんに適てきする道みちを改あらためて段取だんどりしてあげなければなりません。師しがあなたの業力ごうりきの一部いちぶを減へらしてくれますが、残のこりはみなあなたの心性しんせいを高たかめるためのものですので、あなたが自分じぶんで煉功れんこうと心性しんせいの修煉しゅうれんを通とおしてそれを返却へんきゃくし償つぐなえばよいのです。今後こんごあなた方がたが遭遇そうぐうするあらゆる問題もんだいは決けっして偶然ぐうぜんなものではないので、心こころの準備じゅんびをしておいていただきたいのです。難なんに遭遇そうぐうさせたり、常人じょうじんが放下ほうげできないありとあらゆるものを放下ほうげさせたりなど、あなたはあれこれと面倒めんどうなことに出会であい、家庭かていをはじめ社会しゃかいのあらゆる面めんから問題もんだいが現あらわれてきます。突然とつぜん何なにか災難さいなんに見舞みまわれたり、本来ほんらい相手あいてに非ひがあるのに、理不尽りふじんなことにあなたが責せめられ、濡ぬれ衣ぎぬを着きせられたりするようなことまで起おきてくる、などなどです。煉功れんこう者しゃは病気びょうきになるはずがないのですが、突然とつぜん重おもい病気びょうきに見舞みまわれることがあります。病気びょうきの勢いきおいがすさまじく、ひどくさいなまれるものですから、病院びょういんで検査けんさを受うけるのですが、何なんの異常いじょうも見みつかりません。ところがそのうちどういう訳わけか、治療ちりょうも受うけていないのに病気びょうきが治なおってしまいます。実じつは、あなたのある種しゅの借かりがこういう形かたちで返かえされたわけです。もしかすると、いつかあなたの配偶者はいぐうしゃが何なんのいわれもなくあなたに八やつ当あたりし、かんしゃくを起おこし、どうでもよいことで大喧嘩おおげんかしてくるかもしれませんが、あとから考かんがえてもどういう訳わけなのか自分じぶんでもよく分わからないことがあります。煉功れんこう者しゃとしてあなたは、どうしてそのようなことが起おこったのかについて、はっきり分わからなければなりません。ほかでもなくあのものがやってきて、あなたに業ごうの償つぐないをさせようとしているのです。その時とき、あなたはしっかり自分じぶんを制御せいぎょし、心性しんせいを守まもって、事ことをうまく解消かいしょうさせなければなりませんし、それがあなたの業ごうの消去しょうきょに手てを貸かしてくれたことをありがたく思おもい、それに対たいして感謝かんしゃしなければなりません。
 坐禅ざぜんの時間じかんが長ながければ脚あしが痛いたくなりますが、気絶きぜつするほど痛いたくなる人ひともいます。天目てんもくの次元じげんの高たかい人ひとには見みえるのですが、非常ひじょうに痛いたいとき、煉功れんこう者しゃの身体からだの内外ないがいで、黒々くろぐろとした大おおきな塊かたまりが消きえていきます。坐禅ざぜんの痛いたさは一頻ひとしきり一頻ひとしきりの痛いたさで、しかも心こころがえぐられる思おもいがします。悟性ごせいのある人ひとは、何なにが何なんでも脚あしを崩くずさずに耐たえますが、そうすれば黒くろいものが消けされて白しろいものへと転化てんかされ、功こうに転化てんかされるのです。煉功れんこう者しゃの業力ごうりきは坐禅ざぜんと煉功れんこうで完全かんぜんに消けされるわけではなく、そのほかにも心性しんせいや悟性ごせいを高たかめ、魔ま難なんに耐たえなければなりません。肝心かんじんなのは、われわれは善良ぜんりょうな人ひとでいることです。われわれの法輪功ファールンゴンでは善ぜんの心こころがとても早はやく表あらわれてくるので、多おおくの煉功れんこう者しゃは煉功れんこうの時とき坐禅ざぜんをはじめると、いわれもなく涙なみだが湧わき、何なにを考かんがえても悲かなしく思おもわれ、誰だれを見みても気きの毒どくに思おもいますが、それはほかでもなく慈悲心じひしんが生うまれてきたのであり、あなたの天性てんせいや本当ほんとうの自我じがが宇宙うちゅうの特性とくせいである「真しん・善ぜん・忍にん」と通つうじ始はじめているのです。あなたに善ぜんの心こころが表あらわれれば、あなたのなす事ことも善ぜんになります。あなたの内心ないしんから外在的がいざいてき顕現けんげんまで、きわめて善良ぜんりょうなのが一目ひとめで分わかります。その時ときになれば、誰だれもあなたをいじめたりしなくなります。本当ほんとうにあなたをいじめる人ひとがいても、あなたの大だい慈悲心じひしんが作用さようして、相手あいてに仕返しかえしをしません。それも一種いっしゅの力ちからであり、あなたが常人じょうじんに陥おちいらないように助たすけてくれているのです。
 あなたが劫難ごうなんに遭遇そうぐうしたとき、その慈悲心じひしんがこの難関なんかんを乗のり越こえるのに力ちからを貸かしてくれますし、同時どうじにわたしの法身ほうしんもあなたを見守みまもり、あなたの生命せいめいを守まもってあげますが、難なんは必かならず通とおらなければなりません。たとえばわたしが太原たいげんで講習こうしゅう会かいを開ひらいたときのことですが、ある老夫婦ろうふうふがわたしの講習会こうしゅうかいに参加さんかしに来くる途中とちゅう急いそいで道路どうろを渡わたろうとして、道路どうろの真まん中なかへ来きたとき、一台いちだいの車くるまが飛とぶように走はしってきて、いきなりお婆ばあさんを引ひっかけ、十数じゅうすうメートル引ひきずってから、道路どうろに振ふり落おとしました。車くるまは二十数にじゅうすうメートル先さきでようやく止とまり、運転手うんてんしゅが車くるまから飛とび降おりてきて失礼しつれいなことを言いいました。車くるまに乗のっていた人ひとも聞きき苦ぐるしいことを口くちにしました。しかしお婆ばあさんは何なにも言いわずに、わたしの言いったことを思おもい出だして、立たち上あがると、「大丈夫だいじょうぶ、何なんでもありませんよ、どこも怪我けがしていませんよ」と言いいながら、お爺じいさんを引ひっ張ぱって会場かいじょうへと入はいって行いきました。その時とき、彼女かのじょがもし「ここも駄目だめ、そこも駄目だめだわ、病院びょういんへつれて行いってほしい」とでも言いったら、それこそ本当ほんとうに駄目だめになってしまいますが、彼女かのじょはそうしませんでした。お婆ばあさんはわたしに、「先生せんせい、どういうことなのか分わかっています。これは業ごうを消けしてくださっているのですね!」と、言いいました。大おおきな難なんがひとつ解消かいしょうされ、大おおきな業力ごうりきが一塊ひとかたまり取とり除のぞかれたのです。このことから彼女かのじょの心性しんせい、悟性ごせいがとても良よいということが分わかります。あのお年としで、あのスピードの車くるまにあれだけ引ひきずられて地面じめんにあんなにたたき付つけられたにもかかわらず、立たち上あがりました。心こころがきわめて正ただしいのです。
 劫難ごうなんが来きたとき、見みた目めにはとてつもなく大おおきく、あたかもどう考かんがえても脱ぬけ出だす道みちがないように思おもわれる時ときがあります。ところが何日なんにちかどたばたしているうちに、突然とつぜん、道みちが見みえてきて、一瞬いっしゅんのうちに事情じじょうががらりと変かわったりすることがあるかもしれません。実じつはわれわれの心性しんせいが向上こうじょうし、あのものが自然しぜんに消きえたためです。
 思想しそうの境地きょうちを高たかめようとすれば、世間せけんのさまざまな魔ま難なんによる試練しれんを乗のり越こえなければなりません。この過程かていにおいて、あなたの心性しんせいが本当ほんとうに向上こうじょうし、安定あんていしてきて、業ごうも消けされれば、魔ま難なんを乗のり越こえたということですので、功こうも伸のびます。もし心性しんせいの試練しれんにおいて、心性しんせいを守まもることができず、間違まちがったことをしたとしても、落おち込こんだりせずに、積極的せっきょくてきに教訓きょうくんを汲くみ取とり、足たりないところを見みつけ、「真しん・善ぜん・忍にん」に照てらして努力どりょくしてください。心性しんせいを測はかる次つぎの難題なんだいがもしかすると踵きびすを接せっしてやってくるかもしれません。功力こうりきの向上こうじょうにつれて、心性しんせいを試ためす魔ま難なんはますます激はげしく、ますます突然とつぜんにやってくるかもしれません。関門かんもんをひとつ乗のり越こえるたびに功力こうりきが少すこしだけ伸のびますが、乗のり越こえられなければ功こうもとどまります。小ちいさい試練しれんでは、少すこしだけ伸のび、大おおきい試練しれんなら大おおきく伸のびます。煉功れんこう者しゃは一人一人ひとりひとり大おおきな苦くるしみに耐たえる用意ようい、大おおきな困難こんなんを迎むかえる決意けついと気力きりょくを持もってください。代価だいかを支払しはらわなければ、本当ほんとうの功こうを得えることはできません。代価だいかも支払しはらわず、苦くるしみを嘗なめることもせず心地ここちよく功こうを得えようとしても、それはあり得えない話はなしです。心性しんせいが根本こんぽんから良よくならず、如何いかなるものであれ個人こじんの執着心しゅうちゃくしんを持もったままでは修煉しゅうれんして大だい覚者かくしゃになれるはずがありません。
 

 七、魔まを招まねく


 魔まを招まねくとは、煉功れんこう者しゃの煉功れんこうの過程かていにおいて現あらわれる煉功れんこうを妨さまたげる現象げんしょうや光景こうけいを指さしており、それらは煉功れんこう者しゃが高たかい次元じげんを目指めざして修煉しゅうれんするのを阻はばもうとするものであり、魔まが債務さいむの取とり立たてに来きたものとも言いえます。
 功法こうほうの修煉しゅうれんが高たかい次元じげんに達たっすると、必然的ひつぜんてきに魔まを招まねく問題もんだいに遭遇そうぐうします。人間にんげんの一生いっしょうやその先祖せんぞは多おおかれ少すくなかれ何なんらかの悪わるいことをしており、これらの悪わるいことを業力ごうりきと言いいます。人ひとの根基こんきが良よいかどうかは、彼かれの持もっている業力ごうりきの量りょうによって決定けっていされますが、たとえ非常ひじょうに良よい人ひとであっても、業力ごうりきがないはずはありません。修煉しゅうれんしていないので、分わからないだけです。もしあなたが単たんに病気びょうき治療ちりょうと健康けんこう増進ぞうしんのためにやっているのなら、あなたを相手あいてにする魔まはいません。いったんあなたが高たかい次元じげんを目指めざして修煉しゅうれんしようとすれば、魔まはあなたに干渉かんしょうしてきます。魔まはありとあらゆる方法ほうほうであなたを妨害ぼうがいすることができますが、目的もくてきは、高たかい次元じげんへの修煉しゅうれんを妨さまたげ、修煉しゅうれんを成就じょうじゅさせないことです。魔まの現あらわれ方かたはさまざまですが、日常にちじょう生活せいかつ上じょうの現象げんしょうとして現あらわれてくるのもあれば、他たの空間くうかんから来きた信息しんそくの形かたちで妨害ぼうがいするのもあり、坐禅ざぜんをすれば何なにかが邪魔じゃましに来きて、入静にゅうせいさせてくれず、高たかい次元じげんへの修煉しゅうれんをさせてくれません。時ときにあなたは、坐禅ざぜんをすればうとうと居眠いねむりしたり、あるいは次々つぎつぎと雑念ざつねんが浮うかぶなど、煉功れんこう状態じょうたいになかなか入はいれません。時ときにはあなたが、煉功れんこうし始はじめたかと思おもうと、もともとまわりが非常ひじょうに静しずかだったのに、突然とつぜん足音あしおとをはじめ、門もんをバタンと閉しめる音おと、車くるまのクラクション、電話でんわのベルなど、さまざまな騒音そうおんが起おこり、入静にゅうせいさせてくれません。
 もう一ひとつは色魔しきまです。煉功れんこう者しゃが坐禅ざぜん中ちゅうあるいは夢ゆめの中なかで、目めの前まえに美男子びだんしあるいは美女びじょが現あらわれ、あなたを誘惑ゆうわくし、刺激的しげきてきなしぐさで美うつくしい異性いせいに弱よわいあなたの心こころをくすぐります。一度いちどでも乗のり越こえることができなければ、どんどんエスカレートして、高たかい次元じげんを目指めざして修煉しゅうれんする心こころを棄すてるまで、あなたを誘惑ゆうわくしに来きます。この関門かんもんはなかなか乗のり越こえるのが難むずかしく、これで挫折ざせつした煉功れんこう者しゃは少すくなからずいました。皆みなさんには心こころの準備じゅんびをしておいてほしいのです。もし心性しんせいをしっかり守まもれず、一回いっかい乗のり越こえられなかったら、そこから真剣しんけんに教訓きょうくんを汲くみ取とらなければなりません。あなたが心性しんせいを本当ほんとうに守まもれて、その執着心しゅうちゃくしんを完全かんぜんに取とり除のぞくまで、それは繰くり返かえし誘惑ゆうわくに来くるものです。これは大おおきな関門かんもんなので、乗のり越こえなければなりません。さもなければ得道とくどうすることはできず、修煉しゅうれんして成就じょうじゅすることもできません。
 魔まのもう一ひとつの形かたちは、煉功れんこう中ちゅうあるいは睡眠すいみん中ちゅう、突然とつぜんおぞましい顔かおが見みえることがあります。いかにも憎々にくにくしげに、まぎれもなく目めの前まえにいて、刀かたなを持もって人殺ひとごろしをしようとしているように見みえますが、しかしそれは脅おどしに過すぎません。たとえ本当ほんとうに切きりつけようとしても切きりつけることはできません。師しが煉功れんこう者しゃの体外たいがいに防御ぼうぎょの覆おおいをかけてくれているので、刃物はものも届とどかないのです。人ひとを脅おどすのは煉功れんこうをやめさせようとするためです。これらのことは、あるひとつの次元じげん、ひとつの段階だんかいの現あらわれに過すぎないので、数日すうじつ、一週間いっしゅうかんあるいは数すう週間しゅうかんですぐに通過つうかすることができます。心性しんせいがどれほど高たかいか、こういうことをどう受うけ止とめるかが問とわれるのです。
 

 八、根基こんきと悟性ごせい


 根基こんきとはその人ひとの先天せんてんから携たずさえてきた白しろい物質ぶっしつ、すなわち徳とくという有形ゆうけいの物質ぶっしつのことを指さしており、多おおく携たずさえていれば根基こんきが自おのずと良よいのです。根基こんきの良よい人ひとは返本帰真へんぽんきしんしやすく、道どうを悟さとりやすいのです。彼かれの頭あたまの中なかには妨さまたげるものがなく、気功きこうを学まなぶと聞きけば、修煉しゅうれんのことを聞きけば、興味きょうみを持もち、学まなぼうとしますので、宇宙うちゅうと通つうじあうことができます。老子ろうしが言いったように、「上士じょうし、道どうを聞きけば、勤つとめて之これを行おこなう。中士ちゅうし、道どうを聞きけば、存あるが若ごとく、亡なきが若ごとし。下士かし、道どうを聞きけば、大おおいに之これを笑わらう。笑わらわざれば、以もって道どうと為なすに足たらず」。返本帰真へんぽんきしんしやすく、すぐ道どうを悟さとる人ひとは、「上士じょうし」に属ぞくするものです。反対はんたいに、黒くろい物質ぶっしつの多おおい人ひと、根基こんきが劣おとっている人ひとは、良よいものに接せっすることができないように、身体からだのまわりに障壁しょうへきのようなものができてしまいます。良よいものに接せっしたとしても、それを信しんじないようにその人ひとを阻はばみますが、実じつはこれはほかでもない業ごうが作用さようしているのです。
 根基こんきの問題もんだいを取とり上あげれば、必然的ひつぜんてきに悟性ごせいの問題もんだいに触ふれなければなりません。悟ごとは賢かしこいことだと思おもい込こんでいる人ひとがいます。常人じょうじんが言いう賢かしこい、ずる賢がしこいというのは、われわれの言いう修煉しゅうれんからあまりにもかけ離はなれています。このような賢かしこい人ひとは往々おうおうにして悟さとりを開ひらきにくいものであり、彼かれらは現実げんじつの物質ぶっしつ世界せかいのみを重視じゅうしし、如何いかなる損そんもしようとせず、如何いかなるメリットも手放てばなそうとしません。とりわけ一部いちぶの人ひとは、自分じぶんに学問がくもんがあり、知識ちしきがあり、賢かしこいとうぬぼれて、修煉しゅうれんのことを荒唐無稽こうとうむけいな話はなしだと見みています。煉功れんこうして心性しんせいを修煉しゅうれんすることは、彼かれらにとって摩訶不思議まかふしぎなことであり、彼かれらは煉功れんこう者しゃがみな薄うすのろだ、迷信めいしんをやっているのだと思おもっています。われわれの言いう「悟ご」は、賢かしこいことを意味いみしているのではなく、人間性にんげんせいが返本帰真へんぽんきしんして、良よい人ひとになり、宇宙うちゅうの特性とくせいに合致がっちすることを指さしています。根基こんきはその人ひとの悟性ごせいを決定けっていづけるので、根基こんきが良よければ、悟性ごせいも良よいはずです。ただ根基こんきが悟性ごせいを決きめるのですが、悟性ごせいが完全かんぜんに根基こんきの制約せいやくを受うけるわけでもありません。根基こんきがいくら良よくても、理解りかい力りょくが劣おとり、悟さとれなければいけません。根基こんきがあまり良よくなくても、悟性ごせいが良よい人ひともいますが、上うえを目指めざして修煉しゅうれんするのに何なんら問題もんだいはありません。われわれは衆生しゅじょうを普あまねく済度さいどするから、悟性ごせいを問といますが、根基こんきは問題もんだいにしません。良よくないものを少すくなからず持もっていても、上うえを目指めざして修煉しゅうれんする決意けついさえあればよく、この一念いちねんが出でればそれはまさに正念しょうねんです。この一念いちねんさえを持もっていれば、他人たにんに比くらべせいぜい多おおめに代価だいかを払はらうだけで、最終的さいしゅうてきに修煉しゅうれんして成就じょうじゅすることができるのです。
 煉功れんこう者しゃの身体からだはすでに浄化じょうかされており、功こうが出でてからは身体からだに病気びょうきがあるはずがありません。なぜなら体内たいないの高こうエネルギー物質ぶっしつはすでに黒くろい物質ぶっしつの存在そんざいを許ゆるさないからです。しかしそれを信しんじない人ひとがおり、自分じぶんに病気びょうきがあるとばかり思おもい込こみ、「どうしてわたしはこんなに辛つらいのか!」と言いいます。あなたは功こうを得えており、あんなに素晴すばらしいものを得えたのに、辛つらくないはずがありますか? 修煉しゅうれんですから、それ相応そうおうの代価だいかを払はらわなければなりません。本当ほんとうのところそれは表面ひょうめん上じょうのものに過すぎず、あなたの身体からだには何なんの影響えいきょうもありません。病気びょうきのように見みえていても、全然ぜんぜん病気びょうきではありません。あとはあなたがいかに悟さとるかにかかります。煉功れんこう者しゃは苦くの中なかの苦くに耐たえることができなければならないばかりでなく、悟性ごせいも良よくなければなりません。面倒めんどうなことに遭遇そうぐうしても、悟さとろうとしない人ひとがいます。わたしがここで高たかい次元じげんのことや、いかに高たかい基準きじゅんで自己じこを律りっするべきかについて話はなしているのに、そういう人ひとは相変あいかわらず自分じぶんを常人じょうじんと混同こんどうしており、甚はなはだしきに至いたっては、自分じぶんを本当ほんとうの煉功れんこう者しゃの状態じょうたいに置おいて煉功れんこうすることができず、自分じぶんが高たかい次元じげんに身みを置おけることすら信しんじようとしません。
 高たかい次元じげんで言いう悟ごとは、悟さとりを開ひらくことを指さします。悟ごには、頓悟とんごと漸悟ぜんごとがあります。頓悟とんごとは、修煉しゅうれんの全ぜん過程かていを通とおして何なにもかも鍵かぎを掛かけられて修煉しゅうれんしていることを指さします。修煉しゅうれんの全ぜん過程かていを歩あゆみ終おえ、心性しんせいが向上こうじょうし、最後さいごの一瞬いっしゅんになって、功能こうのうが炸裂さくれつして出でてきます。天目てんもくが一瞬いっしゅんのうちに高たかい次元じげんまで開ひらき、思惟しいが他たの空間くうかんの高次こうじ生命せいめいに接触せっしょくして、一度いちどに宇宙うちゅうの各かく空間くうかん、各かく単元たんげん世界せかいの真相しんそうが見みえます。その上うえ彼かれらと意志いし疎通そつうができ、大おおきな神通力じんつうりきを発揮はっきすることができるようになります。頓悟とんごの道みちはもっとも難むずかしく、歴代れきだいにおいて根基こんきの相当そうとう高たかい人ひとを弟子でしに選えり抜ぬき、代々だいだい一人ひとりにしか伝つたえませんでした。普通ふつうの人ひとではとうてい耐たえられるものではありません! わたしはこの頓悟とんごの道みちを歩あゆんできたのです。
 わたしがいま皆みなさんに伝つたえるのは、漸悟ぜんごに属ぞくするものです。それは修煉しゅうれんの過程かていにおいて、現あらわれるべき功こう能のうがあればその功能こうのうが現あらわれるようになっているものです。とはいえ功能こうのうが現あらわれたからといって、絶対ぜったいに使つかわせてくれるとは限かぎりません。あなたの心性しんせいがまだ一定いっていの次元じげんまで高たかまっておらず、自分じぶんを制御せいぎょすることができず、悪わるいことをする恐おそれがあるときは、功能こうのうはしばらくの間あいだ使つかわせてくれません。しかし最終的さいしゅうてきにはあなたに与あたえるものです。修煉しゅうれんを通とおして、次元じげんが徐々じょじょに高たかまり、徐々じょじょに宇宙うちゅうの真理しんりを認識にんしきしていって、頓悟とんごと同おなじように、最終的さいしゅうてきに圓満えんまん成就じょうじゅに達たっすることができます。漸悟ぜんごという道みちは比較的ひかくてき歩あゆみやすく、危険性きけんせいはありません。難むずかしいのは、修煉しゅうれんの過程かていがすべてあなたに見みえていることであり、あなたはより一層いっそう厳きびしく自分じぶんを律りっしなければなりません。
 

 九、清浄心しょうじょうしん


 煉功れんこうの時ときに入静にゅうせいできないため、入静にゅうせいの方法ほうほうを探さがし回まわっている人ひとがいます。「先生せんせい、わたしは煉功れんこうの時ときどうして入静にゅうせいできないのですか。何なにか方法ほうほうを教おしえてください。どんな手法しゅほうを用もちいれば、坐禅ざぜんの時とき入静にゅうせいできるようになるのでしょうか」と、わたしに尋たずねてくる人ひとがいます。わたしに言いわせればあなたは入静にゅうせいできるはずがありません! たとえ神仙しんせんがあなたに方法ほうほうを教おしえてもあなたは入静にゅうせいできません。なぜでしょうか? あなた自身じしんの心こころが静しずかで清きよらかではないからです。人間にんげんはこの社会しゃかいに生いきており、七情六欲しちじょうろくよくをはじめ、さまざまな個人こじんの利益りえきや、自分じぶん自身じしんのこと親戚しんせき友人ゆうじんのことまであなたの心こころに引ひっ掛かかっています。頭あたまの中なかでそれらの占しめる比重ひじゅうがあまりにも大おおきく、相当そうとう重要じゅうような位置いちに置おかれているのですから、坐禅ざぜんの時ときにどうして入静にゅうせいできるでしょうか? 人為的じんいてきにそれらを抑おさえつけようとしても、それらが勝手かってに飛とび出だしてきます。
 佛教ぶっきょうの修行しゅぎょう方法ほうほうでは、「戒かい・定じょう・慧え」が重おもんじられます。「戒かい」とは、執着しゅうちゃくするものを放棄ほうきすることです。佛ほとけの名号みょうごうを念ねんじる人ひとがいますが、それは自分じぶんの思惟しいが、一念いちねんで万まん念ねんに追おい払はらうような状態じょうたいになるまで、一心不乱いっしんふらんに念ねんじなければなりません。しかしそれも一種いっしゅの功夫こうふであって、方法ほうほうではありません。信しんじられなければ念ねんじてみてください。口くちで佛ほとけの名号みょうごうを念ねんじていながら、頭あたまの中なかではまったく違ちがうものがかき乱みだれるに違ちがいありません。昔むかしチベットの僧侶そうりょは佛ほとけの名前なまえを一日いちにち数十万回すうじゅうまんかい、一週間いっしゅうかん念ねんじなければなりませんでした。頭あたまがぼうっとして麻痺まひし、しまいには頭あたまの中なかに何なにもなくなります。つまり一念いちねんで万まん念ねんを追おい払はらったのです。それは一種いっしゅの功夫こうふであって、あなたには無理むりかもしれません。「丹田たんでんを意守いしゅする」とか、数かずを数かぞえるとか、目めで何なにかをじっと見みつめるとかいった方法ほうほうを教おしえる功法こうほうもありますが、実じつのところ、これらはどれもあなたを完全かんぜんに入静にゅうせいさせることができません。煉功れんこう者しゃは静しずかで清きよらかな心こころを持もたなければならず、個人こじんの利益りえきを棄すてて、貪欲どんよくの心こころを放下ほうげしなければなりません。
 実じつは、入静にゅうせいできるかどうか、入定にゅうじょうできるかどうかは、その人ひとの功夫こうふの高たかさ、次元じげんの高たかさを示しめしています。坐禅ざぜんするやいなや入静にゅうせいできるのは、次元じげんの現あらわれです。しばらく入静にゅうせいできなくても、構かまいません。修煉しゅうれんの過程かていで徐々じょじょにできるようにしていけばよいのです。心性しんせいは徐々じょじょに高たかまり、功こうは徐々じょじょに伸のびるものです。個人こじんの切実せつじつな利益りえきと欲望よくぼうに淡々たんたんとしていられなければ、功こうは伸のびるはずがありません。
 煉功れんこう者しゃはいつ如何いかなる時ときでも高たかい基準きじゅんで自己じこを律りっしなければなりません。社会しゃかいのあらゆる複雑ふくざつな現象げんしょうやさまざまな低俗ていぞくで不健全ふけんぜんなもの、七情六欲しちじょうろくよくにまつわるものが、いつでも煉功れんこう者しゃを妨害ぼうがいしています。テレビや映画えいが、小説しょうせつの中なかで宣伝せんでんしているのは、常人じょうじんの中なかの強つよい人ひとになり、一層いっそう現実的げんじつてきな常人じょうじんになることです。これらから超脱ちょうだつすることができなければ、あなたは煉功れんこう者しゃの心性しんせい、心境しんきょうとの差さもますます広ひろがり、あなたの得える功こうもますます少すくなくなります。煉功れんこう者しゃは低俗ていぞくで不健全ふけんぜんなものになるべく少すくなくあるいはまったく接触せっしょくしないようにすべきで、視みて見みぬ、聴きいて聞きかぬように、他人たにんに動うごかされず、心こころを動うごかされないようにしなければなりません。わたしがよく言いうことですが、常人じょうじんの心こころはわたしを動うごかすことができません。わたしを誉ほめてくれる人ひとがいても、わたしはそのために喜よろこぶこともなく、わたしを罵ののしる人ひとがいても、わたしはそのために怒いかることもありません。人間にんげん同士どうし、常人じょうじん同士どうしのどんなにひどい心性しんせいの妨害ぼうがいもわたしには作用さようしません。煉功れんこう者しゃはあらゆる利益りえきに無頓着むとんちゃくで、何なにもかも気きに掛かけないようにしなければなりません。そうなれば、あなたの悟道ごどうの心こころが成熟せいじゅくしたことになります。名利みょうりを強しいて求もとめる心こころがなければ、名利みょうりや地位ちいをどうでもよいものと見みることができれば、あなたは煩悩ぼんのうにさいなまれることも、立腹りっぷくすることもなく、永遠えいえんに心こころが穏おだやかな状態じょうたいでいることができます。何なんでも放下ほうげできれば、自おのずと清静せいせいになります。
 わたしは大法ダーファを皆みなさんに伝つたえました。五式ごしきの功法こうほうも皆みなさんに教おしえ、皆みなさんの身体からだを浄化じょうかし、皆みなさんの身体からだに「法輪ファールン」や「気き機き」を植うえ付つけ、その上うえわたしの法身ほうしんも皆みなさんを守まもってあげることになっています。皆みなさんに与あたえるべきものは全すべて与あたえました。講習会こうしゅうかいの間あいだは、わたしが主役しゅやくですが、これからは皆みなさん次第しだいです。師しは門もんまで導みちびきますが、修行しゅぎょうは各自かくじにかかっています。皆みなさんは大法ダーファを隅々すみずみまで理解りかいし、丹誠たんせいを込こめて悟さとり、いつ如何いかなる時ときでも心性しんせいを守まもり、着実ちゃくじつに修煉しゅうれんに勤つとめ、苦くの中なかの苦くに耐たえ、忍しのび難がたいことを忍しのぶことができれば、きっと修煉しゅうれんして成就じょうじゅすることができるものと思おもいます。
 
 
功こうを修しゅうするに路みち有あり、心こころが徑みちとなり
大法ダーファーに辺はてし無なく、苦くが舟ふねと作なる