轉 法 輪
第三講
わたしは
学習者
がくしゅうしゃ
をすべて
弟子
でし
とする
皆
みな
さんはわたしがどんなことをしているのか、お
分
わ
かりでしょうか? わたしは、
独学
どくがく
で
真
しん
に
修煉
しゅうれん
する
者
もの
をも
含
ふく
めて、すべての
学習者
がくしゅうしゃ
を
弟子
でし
として
導
みちび
いています。
高
たか
い
次元
じげん
への
功
こう
を
伝
つた
えるには、このように
皆
みな
さんを
導
みちび
かなければなりません。さもないと、
無責任
むせきにん
で、でたらめなことをすることになります。われわれは
皆
みな
さんにこんなに
多
おお
くのものを
与
あた
えました。これほど
多
おお
くの
常人
じょうじん
の
知
し
るべからざる
理
り
を
教
おし
え、この
大法
ダーファー
を
伝
つた
えたばかりでなく、さらにたくさんのものをも
授
さづ
けることになっています。
身体
からだ
も
浄化
じょうか
してあげましたが、
他
ほか
にも
多
おお
くのことが
絡
から
んできます。ですからあなたを
弟子
でし
として
導
みちび
かなければ、
絶対
ぜったい
駄目
だめ
なのです。
勝手
かって
に
常人
じょうじん
にこんなに
多
おお
くの
天機
てんき
を
漏
も
らすことは
許
ゆる
されません。ただし、
今
いま
は
時代
じだい
も
変
か
わりましたので、
叩頭
こうとう
の
儀式
ぎしき
のような
形式
けいしき
はとりません。あんな
形式
けいしき
は
何
なん
の
役
やく
にも
立
た
たず、やりだすと
宗教
しゅうきょう
みたいなものになってしまうので、われわれはそんなことをしません。たとえ
弟子入
でしい
りの
儀式
ぎしき
をやっても、あなたがここから
離
はな
れればまた
元
もと
の
木阿弥
もくあみ
になり、
常人
じょうじん
の
中
なか
で
相
あい
も
変
か
わらぬ
行動
こうどう
をし、
名利
みょうり
のために
争
あらそ
ったり、
闘
たたか
ったりしたのでは、
何
なん
の
意味
いみ
があるでしょうか? もしかすると、わたしの
看板
かんばん
を
掲
かか
げて、
大法
ダーファー
の
名誉
めいよ
に
泥
どろ
を
塗
ぬ
るようなことさえやりかねません!
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
は、すべてあなたの
心
こころ
にかかっています。あなたが
修煉
しゅうれん
できさえすれば、
着実
ちゃくじつ
に
揺
ゆ
るぎなく
修煉
しゅうれん
していきさえすれば、われわれはあなたを
弟子
でし
として
導
みちび
きます。そういうふうに
扱
あつか
わなければいけないのです。
必
かなら
ずしも
本当
ほんとう
に
修煉者
しゅうれんしゃ
としての
自覚
じかく
をもって
修煉
しゅうれん
し
続
つづ
けていけない
人
ひと
もおり、
不可能
ふかのう
な
人
ひと
もいるでしょう。しかし
大勢
おおぜい
の
人
ひと
は
真
しん
に
修煉
しゅうれん
し
続
つづ
けていくに
違
ちが
いありません。あなたが
修煉
しゅうれん
を
続
つづ
けるかぎり、われわれはあなたを
弟子
でし
として
導
みちび
きます。
毎日
まいにち
幾
いく
つかの
動作
どうさ
を
行
おこ
なうだけで、
法輪大法
ファールンダーファー
の
弟子
でし
と
言
い
えるのでしょうか? そうとは
限
かぎ
りません。
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
えば、われわれの
言
い
う
心性
しんせい
基準
きじゅん
に
基
もと
づいて
自
みずか
らを
律
りっ
し、
本当
ほんとう
に
心性
しんせい
を
高
たか
めなければならず、それこそが
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
です。ただ
動作
どうさ
だけをやっても、
心性
しんせい
は
向上
こうじょう
せず、
一切
いっさい
を
加持
かじ
する
強
つよ
いエネルギーがなければ、それは
修煉
しゅうれん
とは
言
い
えず、われわれもあなたを
法輪大法
ファールンダーファー
の
弟子
でし
として
認
みと
めるわけにはいきません。
毎日
まいにち
煉功
れんこう
をしていても、
法輪大法
ファールンダーファー
の
要求
ようきゅう
に
従
したが
わず、
心性
しんせい
を
向上
こうじょう
させず、
常人
じょうじん
の
中
なか
で
元通
もとどお
りに
振舞
ふるま
っていては、そのうちに、なにか
厄介
やっかい
なことに
遭
あ
うかも
知
し
れません。もしかすると、あなたは
法輪大法
ファールンダーファー
をやっているからおかしくなったと
言
い
いだすかも
知
し
れません。そういうことはいずれも
起
お
こりうるのです。ですから、
皆
みな
さんのやることがわれわれの
心性
しんせい
基準
きじゅん
の
要求
ようきゅう
を
満
み
たしてこそ、はじめて
本当
ほんとう
の
修煉者
しゅうれんしゃ
であると
言
い
えます。
皆
みな
さんにはっきりお
話
はな
ししたのですから、
今後
こんご
、
師
し
を
拝
おが
むとかいう
形式
けいしき
をやりたいなどと
言
い
わないでください。
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
さえすれば、あなたに
対
たい
してふさわしい
扱
あつか
いをします。わたしの
法身
ほうしん
は
数
かぞ
え
切
き
れないほど
多
おお
いので、ここにいるこれぐらいの
学習者
がくしゅうしゃ
はもとより、もっと
多
おお
くてもわたしは
面倒
めんどう
を
見
み
ることができます。
佛家
ぶっけ
功
こう
と
佛教
ぶっきょう
佛家
ぶっけ
功
こう
は
佛教
ぶっきょう
ではありません。この
点
てん
を
皆
みな
さんのためにはっきりさせる
必要
ひつよう
があります。
実
じつ
は、
道家
どうけ
功
こう
も
道教
どうきょう
ではありません。このあたりのことをいつまでたっても
分
わ
からない
人
ひと
がいます。
一部
いちぶ
の
寺
てら
の
和尚
おしょう
や
居士
こじ
は、
佛教
ぶっきょう
のことについてなら
自分
じぶん
がよく
知
し
っていると
思
おも
い、われわれの
学習者
がくしゅうしゃ
の
間
あいだ
で、
佛教
ぶっきょう
について
盛
さか
んに
宣伝
せんでん
しています。そのようなことはやめるように
忠告
ちゅうこく
します。なぜなら、それは
同
おな
じ
法門
ほうもん
ではないからです。
宗教
しゅうきょう
には
宗教
しゅうきょう
の
形式
けいしき
があり、わたしがここで
伝
つた
えているのは
我
わ
が
法門
ほうもん
の
修煉
しゅうれん
法
ほう
の
一部
いちぶ
です。
法輪大法
ファールンダーファー
の
専修
せんしゅう
弟子
でし
以外
いがい
は
宗教
しゅうきょう
という
形式
けいしき
を
取
と
りませんから、
末法
まっぽう
の
時期
じき
にある
佛教
ぶっきょう
とは
違
ちが
うのです。
佛教
ぶっきょう
の
法
ほう
は、
佛法
ぶっぽう
の
中
なか
のわずかな
一部
いちぶ
に
過
す
ぎず、まだまだたくさんの
奥深
おくぶか
い
大法
たいほう
があり、それぞれの
各
かく
次元
じげん
にはさらに
異
こと
なる
法
ほう
があります。
釈迦牟尼
しゃかむに
は
修煉
しゅうれん
には
八万四千
はちまんよんせん
の
法門
ほうもん
があると
言
い
っています。
佛教
ぶっきょう
の
法門
ほうもん
は
限
かぎ
られており、
天台宗
てんだいしゅう
、
華厳宗
けごんしゅう
、
禅宗
ぜんしゅう
、
浄土宗
じょうどしゅう
、
密教
みっきょう
など、
数
かぞ
えられるほどの
法門
ほうもん
しかなく、
端数
はすう
にも
及
およ
びません! ですから、それは
佛法
ぶっぽう
のすべてを
概括
がいかつ
することはできず、
佛法
ぶっぽう
のほんのわずかな
一
いち
部分
ぶぶん
に
過
す
ぎません。
法輪大法
ファールンダーファー
も
八万四千
はちまんよんせん
法門
ほうもん
の
中
なか
の
一
ひと
つで、
原始
げんし
佛教
ぶっきょう
および
末法
まっぽう
の
時期
じき
の
佛教
ぶっきょう
とは
関係
かんけい
がなく、
今日
こんにち
の
宗教
しゅうきょう
とも
無関係
むかんけい
です。
佛教
ぶっきょう
は、
二
に
千
せん
五
ご
百
ひゃく
年
ねん
前
まえ
に、
古代
こだい
インドで
釈迦牟尼
しゃかむに
によって
創立
そうりつ
されたものです。
当時
とうじ
、
釈迦牟尼
しゃかむに
は
功
こう
を
開
ひら
き
悟
さと
りを
開
ひら
いた
後
あと
、
記憶
きおく
にある、
以前
いぜん
の
自分
じぶん
が
修煉
しゅうれん
したものを
思
おも
い
出
だ
し、それを
世
よ
に
伝
つた
えて、
人
ひと
を
済度
さいど
しました。
彼
かれ
の
法門
ほうもん
は、
幾
いく
万
まん
巻
かん
の
経典
きょうてん
が
出
だ
されていても、
実
じつ
は
三
さん
文字
もじ
にまとめられます。
彼
かれ
の
法門
ほうもん
の
特徴
とくちょう
は、「
戒
かい
・
定
じょう
・
慧
え
」と
言
い
います。
戒
かい
とは、
常人
じょうじん
の
中
なか
の
一切
いっさい
の
欲望
よくぼう
を
戒
いまし
めること、
強制的
きょうせいてき
に
利益
りえき
に
対
たい
する
追求心
ついきゅうしん
を
失
うしな
わせ、
俗世間
ぞくせけん
のすべてのものを
一切
いっさい
断
た
ち
切
き
らせるなどの
意味
いみ
です。そうすれば、
心
こころ
が
空
くう
になり、
何
なに
も
考
かんが
えなくなるので、
定
じょう
になります。これらは
互
たが
いに
助
たす
けあって
成
な
り
立
た
つものです。
定
じょう
に
至
いた
れば、
坐禅
ざぜん
を
組
く
んで
着実
ちゃくじつ
に
修煉
しゅうれん
をし、
定力
じょうりき
によって
上
うえ
へと
修煉
しゅうれん
します。それはこの
法門
ほうもん
における
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
の
部分
ぶぶん
です。それは
手法
しゅほう
を
重
おも
んぜず、
自分
じぶん
の
本体
ほんたい
を
変
か
えようともしません。ただ
次元
じげん
に
相応
そうおう
する
功
こう
を
修
おさ
めるだけなので、ひたすら
心性
しんせい
の
修煉
しゅうれん
をします。
命
めい
を
修
おさ
めないため、
功
こう
の
演化
えんか
を
問題
もんだい
にしません。
同時
どうじ
に
定
じょう
の
中
なか
で
定力
じょうりき
を
強
つよ
め、
坐禅
ざぜん
の
中
なか
で
苦
くる
しみに
耐
た
えることによって、
自分
じぶん
の
業
ごう
を
滅
めっ
するわけです。
慧
え
とは
悟
さと
りを
開
ひら
き、
大智大慧
だいちだいえ
となることです。
宇宙
うちゅう
の
真理
しんり
が
見
み
え、
宇宙
うちゅう
の
各
かく
空間
くうかん
の
真相
しんそう
も
見
み
え、
大
おお
いに
神通力
じんつうりき
を
顕
あらわ
します。
慧
え
を
開
ひら
く、
悟
さと
りを
開
ひら
くことは、
功
こう
を
開
ひら
くとも
呼
よ
ばれます。
釈迦牟尼
しゃかむに
がこの
法門
ほうもん
を
創立
そうりつ
した
当時
とうじ
、インドでは
八
やっ
つの
宗教
しゅうきょう
が
同時
どうじ
に
伝
つた
わっていました。
中
なか
でも
根
ね
が
深
ふか
く
勢力
せいりょく
の
大
おお
きかったのはバラモン
教
きょう
でした。
釈迦牟尼
しゃかむに
は
在世中
ざいせちゅう
、ずっと
他
た
の
宗教
しゅうきょう
とイデオロギーの
面
めん
で
闘
たたか
っていました。
釈迦牟尼
しゃかむに
が
伝
つた
えたのは
正法
しょうぼう
なので、
法
ほう
を
伝
つた
えていく
中
なか
で、
彼
かれ
の
伝
つた
える
佛法
ぶっぽう
はどんどん
盛
さか
んになりました。
一方
いっぽう
、
他
た
の
宗教
しゅうきょう
はますます
衰
おとろ
え、あの
根
ね
が
深
ふか
く
勢力
せいりょく
の
大
おお
きいバラモン
教
きょう
でさえ
滅亡
めつぼう
に
瀕
ひん
する
状態
じょうたい
にありました。しかし、
釈迦牟尼
しゃかむに
が
涅槃
ねはん
に
入
はい
った
後
あと
、
他
た
の
宗教
しゅうきょう
がまた
復興
ふっこう
し、
特
とく
にバラモン
教
きょう
は
再
ふたた
び
盛
さか
んになりました。それに
対
たい
し、
佛教
ぶっきょう
はどうなったのでしょうか?
一部
いちぶ
の
僧侶
そうりょ
はそれぞれの
次元
じげん
で
功
こう
を
開
ひら
き、
悟
さと
りを
開
ひら
きましたが、いずれも
次元
じげん
が
低
ひく
かったのです。
釈迦牟尼
しゃかむに
は
如来
にょらい
の
次元
じげん
に
達
たっ
しましたが、
多
おお
くの
僧侶
そうりょ
はそこまで
達
たっ
しませんでした。
佛法
ぶっぽう
も
次元
じげん
が
違
ちが
えば、
違
ちが
った
現
あら
われ
方
かた
をしますが、
次元
じげん
が
高
たか
いほど
真理
しんり
に
近
ちか
く、
低
ひく
いほど
真理
しんり
から
遠
とお
いのです。だからこそ
低
ひく
い
次元
じげん
で
功
こう
を
開
ひら
き、
悟
さと
りを
開
ひら
いた
僧侶
そうりょ
たちは、
自分
じぶん
のいる
次元
じげん
で
見
み
えた
宇宙
うちゅう
の
様子
ようす
や
分
わ
かったこと、
悟
さと
った
理
り
だけから、
釈迦牟尼
しゃかむに
の
述
の
べたことを
解釈
かいしゃく
していました。つまり
彼
かれ
らは、
釈迦牟尼
しゃかむに
の
伝
つた
えた
法
ほう
をあれやこれや
勝手
かって
に
解釈
かいしゃく
していたのです。
中
なか
には
自分
じぶん
の
悟
さと
ったものを
釈迦牟尼
しゃかむに
の
言
い
ったこととして
伝
つた
える
者
もの
もいて、
釈迦牟尼
しゃかむに
元来
がんらい
の
言葉
ことば
を
語
かた
らなくなりました。こうして
佛法
ぶっぽう
の
姿
すがた
はすっかり
変
か
わって、
釈迦牟尼
しゃかむに
が
伝
つた
えた
法
ほう
とはまったく
違
ちが
うものになってしまったので、ついに
佛教
ぶっきょう
の
中
なか
の
佛法
ぶっぽう
がインドから
姿
すがた
を
消
け
しました。これは
重大
じゅうだい
な
歴史
れきし
的
てき
教訓
きょうくん
で、それ
以降
いこう
インドではかえって、
佛教
ぶっきょう
がなくなってしまいました。なくなる
前
まえ
に、
佛教
ぶっきょう
は
度重
たびかさ
なる
改良
かいりょう
を
経
へ
て、
最後
さいご
にはバラモン
教
きょう
のものと
合
あ
わさり、インドでヒンズー
教
きょう
と
呼
よ
ぶ
今日
こんにち
の
宗教
しゅうきょう
になったわけです。
佛
ほとけ
に
仕
つか
えることはせず、
他
ほか
のものに
仕
つか
えるようになり、
釈迦牟尼
しゃかむに
のことも
信奉
しんぽう
しなくなりました。こういう
状況
じょうきょう
になったわけです。
佛教
ぶっきょう
は
発展
はってん
の
過程
かてい
で、
何
なん
度
ど
か
大
おお
きな
改良
かいりょう
がありました。
一
ひと
つは
釈迦牟尼
しゃかむに
が
世
よ
を
去
さ
ってから
間
ま
もなく、ある
者
もの
たちが
釈迦牟尼
しゃかむに
の
説
と
いた
高
こう
次元
じげん
の
理
り
に
基
もと
づいて、
大乗
だいじょう
佛教
ぶっきょう
を
創立
そうりつ
しました。その
一方
いっぽう
で、
釈迦牟尼
しゃかむに
が
公
おおやけ
に
説
と
いた
法
ほう
は
普通
ふつう
の
人
ひと
に
聞
き
かせるもので、
己
おの
れの
解脱
げだつ
と
羅漢
らかん
の
果位
かい
に
達
たっ
するためのものであると
考
かんが
え、
衆生
しゅじょう
済度
さいど
を
唱
とな
えないものを、
小乗
しょうじょう
佛教
ぶっきょう
と
呼
よ
びました。
東南
とうなん
アジア
諸国
しょこく
の
和尚
おしょう
は
原始
げんし
的
てき
な
釈迦牟尼
しゃかむに
時代
じだい
の
修煉
しゅうれん
法
ほう
を
保
たも
っており、
漢
かん
民族
みんぞく
の
地域
ちいき
ではそれを
小乗
しょうじょう
佛教
ぶっきょう
と
呼
よ
んでいます。もちろん
彼
かれ
ら
自身
じしん
は
認
みと
めておらず、
自分
じぶん
たちこそ
釈迦牟尼
しゃかむに
の
本来
ほんらい
のものを
受
う
け
継
つ
いでいると
考
かんが
えています。
実際
じっさい
その
通
とお
りで、
彼
かれ
らは
基本
きほん
的
てき
に
釈迦牟尼
しゃかむに
時代
じだい
の
修煉
しゅうれん
法
ほう
を
受
う
け
継
つ
いでいるのです。
改良
かいりょう
後
ご
の
大乗
だいじょう
佛教
ぶっきょう
は、
中国
ちゅうごく
に
入
はい
って、
中国
ちゅうごく
に
定着
ていちゃく
しましたが、それが
今
いま
中国
ちゅうごく
に
伝
つた
わっている
佛教
ぶっきょう
です。
実際
じっさい
それは
釈迦牟尼
しゃかむに
時代
じだい
の
佛教
ぶっきょう
とは
似
に
ても
似
に
つかないものとなっており、
服装
ふくそう
から、
悟
さと
りに
至
いた
る
状態
じょうたい
、
修煉
しゅうれん
の
過程
かてい
まですべて
変
か
わっています。
原始
げんし
佛教
ぶっきょう
は
釈迦牟尼
しゃかむに
だけを
本尊
ほんぞん
として
仕
つか
えていましたが、
現在
げんざい
の
佛教
ぶっきょう
には
多
おお
くの
佛
ほとけ
、
大
だい
菩薩
ぼさつ
などが
現
あら
われ、しかも、
多佛
たぶつ
信仰
しんこう
となっています。
多
おお
くの
如来佛
にょらいぶつ
に
対
たい
する
信仰
しんこう
が
現
あら
われましたので、
一種
いっしゅ
の
多佛
たぶつ
の
佛教
ぶっきょう
となっています。
例
たと
えば、
阿弥陀佛
あみだぶつ
をはじめ、
薬師佛
やくしぶつ
、
大日如来
だいにちにょらい
などなど、それに
多
おお
くの
大
だい
菩薩
ぼさつ
も
現
あら
われています。そうなると
佛教
ぶっきょう
は、
釈迦牟尼
しゃかむに
が
創立
そうりつ
した
当初
とうしょ
の
時
とき
とはまったく
違
ちが
うものとなってしまいました。
この
間
あいだ
に
他
た
の
改良
かいりょう
もあり、
竜樹
りゅうじゅ
菩薩
ぼさつ
が
秘密
ひみつ
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
を
世
よ
に
伝
つた
えました。それはインドからアフガニスタンを
経由
けいゆ
して、
中国
ちゅうごく
の
新疆
しんきょう
に
入
はい
り、
漢
かん
民族
みんぞく
の
地域
ちいき
に
伝
つた
わってきました。
時
とき
はちょうど、
唐
とう
の
時代
じだい
に
当
あ
たりますので、
唐密
とうみつ
と
呼
よ
ばれました。
中国
ちゅうごく
は
儒教
じゅきょう
の
影響
えいきょう
が
大
おお
きいので、
道徳
どうとく
観
かん
は
他
た
の
民族
みんぞく
と
違
ちが
います。その
密教
みっきょう
修煉
しゅうれん
法
ほう
の
中
なか
に
男女
だんじょ
双修
そうしゅう
のものがあり、
当時
とうじ
の
社会
しゃかい
に
受
う
け
入
い
れられなかったので、
唐
とう
の
会昌
かいしょう
年間
ねんかん
に
佛教
ぶっきょう
を
滅
ほろ
ぼす
時
とき
、それは
取
と
り
除
のぞ
かれ、
唐密
とうみつ
は
漢
かん
民族
みんぞく
の
地域
ちいき
から
消
き
えたわけです。
今
いま
、
日本
にほん
に
東密
とうみつ
があり、
当時
とうじ
中国
ちゅうごく
から
学
まな
んでいったものですが、
灌頂
かんじょう
を
受
う
けていませんでした。
密教
みっきょう
によれば、
灌頂
かんじょう
を
受
う
けずに、
密教
みっきょう
のものを
学
まな
んだら、
法
ほう
を
盗
ぬす
む
行為
こうい
と
見
み
なされますので、
親授
しんじゅ
とは
認
みと
められません。もう
一
ひと
つのルート、インドからネパールを
経由
けいゆ
して、チベットに
伝
つた
わったものは、チベット
密教
みっきょう
と
呼
よ
ばれ、
今日
こんにち
まで
伝
つた
わっています。
佛教
ぶっきょう
は
大体
だいたい
このような
状況
じょうきょう
です。わたしはきわめて
簡単
かんたん
に、その
発展
はってん
変化
へんか
の
過程
かてい
を
概括
がいかつ
してお
話
はな
ししました。
佛教
ぶっきょう
が
発展
はってん
する
過程
かてい
において、
達磨
だるま
が
創立
そうりつ
した
禅宗
ぜんしゅう
、さらに
浄土宗
じょうどしゅう
、
華厳宗
けごんしゅう
なども
現
あら
われましたが、いずれも
釈迦牟尼
しゃかむに
が
当時
とうじ
説
と
いたものから
悟
さと
りを
得
え
て
創
つく
ったもので、
改良
かいりょう
された
佛教
ぶっきょう
に
属
ぞく
します。
佛教
ぶっきょう
にはこれら
十
じゅう
数
すう
種
しゅ
の
法門
ほうもん
がありますが、いずれも
宗教
しゅうきょう
形式
けいしき
をとっているので、みんな
佛教
ぶっきょう
に
属
ぞく
しています。
今世紀
こんせいき
に
生
う
まれた
宗教
しゅうきょう
、いや
今世紀
こんせいき
にとどまらず
数世紀
すうせいき
前
まえ
から
世界
せかい
各地
かくち
で
現
あら
われたたくさんの
新
しん
宗教
しゅうきょう
、それらのほとんどは
偽物
にせもの
です。
大覚者
だいかくしゃ
たちが
人
ひと
を
済度
さいど
する
時
とき
、みな
自分
じぶん
の
天国
てんごく
を
持
も
っています。
釈迦牟尼
しゃかむに
、
阿弥陀佛
あみだぶつ
、
大日如来
だいにちにょらい
などの
如来佛
にょらいぶつ
は、いずれも
自分
じぶん
の
主宰
しゅさい
している
世界
せかい
があり、そこへ
人
ひと
を
済度
さいど
しています。われわれの
銀河系
ぎんがけい
には、そのような
世界
せかい
が
百
ひゃく
以上
いじょう
あり、われわれ
法輪大法
ファールンダーファー
にも
法輪
ファールン
世界
せかい
があります。
偽
にせ
の
法門
ほうもん
は、
人
ひと
をどこへ
済度
さいど
しようというのでしょうか?
彼
かれ
らが
伝授
でんじゅ
したのは
法
ほう
ではないので、
人
ひと
を
済度
さいど
できません。もちろん、
一部
いちぶ
の
者
もの
が
宗教
しゅうきょう
を
創立
そうりつ
した
当初
とうしょ
の
目的
もくてき
は、
正教
せいきょう
を
破壊
はかい
する
魔
ま
となりたいわけではありませんでした。
彼
かれ
らは、それぞれの
次元
じげん
で
功
こう
を
開
ひら
き
悟
さと
りを
開
ひら
いて、
多少
たしょう
の
理
り
が
見
み
えましたが、
人
ひと
を
済度
さいど
する
覚者
かくしゃ
にはほど
遠
とお
く、
非常
ひじょう
に
低
ひく
いものでした。
彼
かれ
らは
一部
いちぶ
の
理
り
が
分
わ
かり、
常人
じょうじん
の
中
なか
の
一部
いちぶ
のことが
間違
まちが
っているのに
気
き
づき、どうやって
良
よ
いことをするかを
人々
ひとびと
に
教
おし
えたりもして、
初
はじ
めのころは
他
ほか
の
宗教
しゅうきょう
に
反対
はんたい
するようなこともしませんでした。やがて
人々
ひとびと
が
彼
かれ
らを
信奉
しんぽう
するようになり、
彼
かれ
らの
話
はなし
に
道理
どうり
があると
思
おも
い、ますます
彼
かれ
らを
信
しん
じるようになって、
結局
けっきょく
人々
ひとびと
は
彼
かれ
らを
崇拝
すうはい
するようになり、
宗教
しゅうきょう
を
崇拝
すうはい
しなくなってしまいました。
彼
かれ
らには
名利
みょうり
心
しん
が
芽生
めば
え、
人々
ひとびと
に
自分
じぶん
を
何
なに
かに
祭
まつ
りあげさせ、それ
以降
いこう
新
あたら
しい
宗教
しゅうきょう
をこしらえました。
皆
みな
さんに
言
い
っておきますが、それらはすべて
邪教
じゃきょう
で、たとえ
人
ひと
に
害
がい
が
無
な
くても
邪教
じゃきょう
です。なぜなら、
人々
ひとびと
が
正教
せいきょう
を
信仰
しんこう
することを
妨害
ぼうがい
しているからです。
正教
せいきょう
は
人
ひと
を
済度
さいど
するものですが、それらにはできないのです。
時間
じかん
が
経
た
つにつれて、それどころか
密
ひそ
かに
悪事
あくじ
を
働
はたら
き
始
はじ
めます。
最近
さいきん
こういった
類
たぐ
いのものの
多
おお
くが
中国
ちゅうごく
にも
入
はい
ってきています。いわゆる「
観音
かんのん
法門
ほうもん
」というのはその
一
ひと
つです。ですから
皆
みな
さんは、こういうものに
十分
じゅうぶん
注意
ちゅうい
してください。
東
ひがし
アジアのある
国
くに
には
二
に
千
せん
あまりもの
宗教
しゅうきょう
があると
言
い
われ、
東南
とうなん
アジアや
西側
にしがわ
諸国
しょこく
には、どんなものへの
信仰
しんこう
もあり、ある
国
くに
には
公然
こうぜん
と
巫教
ふきょう
があります。これらはすべて
末法
まっぽう
の
時期
じき
に
現
あら
われた
魔
ま
です。
末法
まっぽう
の
時期
じき
とは
佛教
ぶっきょう
だけを
指
さ
しているのではなく、かなり
高
たか
い
次元
じげん
から
下
した
までの
多
おお
くの
空間
くうかん
が
堕落
だらく
していることを
指
さ
しています。
末法
まっぽう
とは、
佛教
ぶっきょう
の
末法
まっぽう
のみならず、
人類
じんるい
社会
しゃかい
が
道徳
どうとく
を
維持
いじ
するための
心
こころ
の
法
ほう
の
規制
きせい
を
失
うしな
ったことを
言
い
うのです。
修煉
しゅうれん
は
専一
せんいつ
でなければならない
われわれは、
修煉
しゅうれん
は
専一
せんいつ
でなければならないと
言
い
っていますが、どんな
方法
ほうほう
で
修煉
しゅうれん
するにしても、
他
ほか
のものを
混
ま
ぜて、いい
加減
かげん
に
修
おさ
めてはいけません。
佛教
ぶっきょう
の
修行
しゅぎょう
をしながら、
法輪大法
ファールンダーファー
の
修煉
しゅうれん
をする
居士
こじ
がいます。
忠告
ちゅうこく
しますが、あなたは
最終
さいしゅう
的
てき
に
何
なに
も
得
え
られないのであって、
誰
だれ
も
与
あた
えてくれるはずがありません。われわれはどちらも
佛家
ぶっけ
ではありますが、ここに
心性
しんせい
の
問題
もんだい
と
専一
せんいつ
の
問題
もんだい
があります。あなたは
身体
からだ
を
一
ひと
つしか
持
も
っていないのに、その
身体
からだ
から、どの
門
もん
の
功
こう
を
生
う
み
出
だ
すのですか? どうやって
演化
えんか
してあげたらいいのですか? あなたはどこへ
行
い
こうとするのですか? その
法門
ほうもん
を
修煉
しゅうれん
していれば、そこへ
行
い
くことになります。
浄土宗
じょうどしゅう
で
修煉
しゅうれん
すれば、
阿弥陀佛
あみだぶつ
の
極楽
ごくらく
世界
せかい
へ
行
い
き、
薬師佛
やくしぶつ
のものを
修煉
しゅうれん
すれば、
瑠璃
るり
世界
せかい
へ
行
い
くことになります。
宗教
しゅうきょう
ではこのように
言
い
うのであって、
不二法門
ふじほうもん
と
言
い
っています。
われわれはここで
煉功
れんこう
について
語
かた
っていますが、
功
こう
の
演化
えんか
の
全
ぜん
過程
かてい
は、
間違
まちが
いなく
自分
じぶん
の
修煉
しゅうれん
する
法門
ほうもん
に
従
したが
って
進
すす
むものです。あなたはいったいどこへ
行
い
こうとするのですか? あなたが
二股
ふたまた
かけているなら、
何
なに
も
得
え
られません。
煉功
れんこう
と、
寺院
じいん
での
佛道
ぶつどう
修行
しゅぎょう
との
間
あいだ
を
混合
こんごう
してはいけないだけではなく、
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
、
気功
きこう
と
気功
きこう
、
宗教
しゅうきょう
と
宗教
しゅうきょう
の
間
あいだ
も
混
ま
ぜるわけにはいきません。
同一
どういつ
宗教
しゅうきょう
の
中
なか
でも、
違
ちが
う
法門
ほうもん
のものを
混
ま
ぜて
修煉
しゅうれん
してはいけません。
一
ひと
つの
法門
ほうもん
を
選
えら
んで
修
おさ
めなければなりません。
浄土
じょうど
の
修煉
しゅうれん
をするのであれば、
浄土
じょうど
の、
密教
みっきょう
の
修煉
しゅうれん
をするのであれば、
密教
みっきょう
の、
禅宗
ぜんしゅう
の
修煉
しゅうれん
をするのであれば、
禅宗
ぜんしゅう
のものでなければいけません。
二股
ふたまた
かけて、あれもこれも
修煉
しゅうれん
しようとすれば、
何
なに
も
得
え
られません。つまり、
佛教
ぶっきょう
の
中
なか
でさえ、
不二法門
ふじほうもん
のことを
重
おも
んじなければならず、
混
ま
ぜ
合
あ
わせて
修煉
しゅうれん
することは
許
ゆる
されません。それらも
煉功
れんこう
であり、
修煉
しゅうれん
であるので、その
功
こう
が
生成
せいせい
する
過程
かてい
はそれ
自身
じしん
の
法門
ほうもん
の
修煉
しゅうれん
、
演化
えんか
の
過程
かてい
に
従
したが
って
進
すす
んでいます。
他
た
の
空間
くうかん
にも
功
こう
が
演化
えんか
する
過程
かてい
があり、それもきわめて
複雑
ふくざつ
で
玄妙
げんみょう
な
過程
かてい
であり、やはり
勝手
かって
に
別
べつ
のものを
混
ま
ぜて
修
おさ
めてはいけないのです。
佛家
ぶっけ
の
功
こう
を
修煉
しゅうれん
しているのだと
聞
き
いて、すぐにわれわれの
学習者
がくしゅうしゃ
を
寺
てら
へ
連
つ
れて
行
い
って、
帰依
きえ
させようとする
居士
こじ
もいます。
注意
ちゅうい
しておきますが、ここにいる
学習者
がくしゅうしゃ
は
誰
だれ
もこのようなことをしないでください。われわれの
大法
ダーファー
を
破壊
はかい
するだけではなく、
佛教
ぶっきょう
の
戒律
かいりつ
をも
破壊
はかい
することになり、
同時
どうじ
に、
学習者
がくしゅうしゃ
を
妨害
ぼうがい
して
何
なに
も
得
え
られないようにするので、
許
ゆる
されないことです。
修煉
しゅうれん
は
厳粛
げんしゅく
なことで、
一
ひと
つに
専念
せんねん
しなければなりません。われわれが
常人
じょうじん
の
中
なか
で
伝
つた
えているものは
宗教
しゅうきょう
ではありませんが、
修煉
しゅうれん
の
目標
もくひょう
は
一致
いっち
しており、いずれも
功
こう
を
開
ひら
き、
悟
さと
りを
開
ひら
き、
圓満
えんまん
成就
じょうじゅ
するという
目的
もくてき
を
達成
たっせい
しようとするものです。
釈迦牟尼
しゃかむに
は、
末法
まっぽう
の
時期
じき
に
至
いた
ると、
寺院
じいん
の
僧侶
そうりょ
たちも
自分
じぶん
自身
じしん
さえ
済度
さいど
できなくなると
言
い
っていましたが、まして
居士
こじ
など、なおさら
構
かま
ってくれる
者
もの
もいません。あなたがある
師
し
に
弟子
でし
入
い
りしたつもりでも、その
師
し
も
修煉者
しゅうれんしゃ
に
過
す
ぎず、
着実
ちゃくじつ
に
修煉
しゅうれん
しなければ
彼
かれ
も
駄目
だめ
なのです。
心
こころ
を
修
おさ
めなければ
誰
だれ
も
成就
じょうじゅ
できるはずがありません。
帰依
きえ
は
常人
じょうじん
の
中
なか
の
形式
けいしき
であり、
帰依
きえ
したからといって
佛家
ぶっけ
の
者
もの
になったと
言
い
うのですか?
佛
ほとけ
が
面倒
めんどう
を
見
み
てくれるとでも
言
い
うのですか? とんでもありません。
毎日
まいにち
頭
あたま
を
地
ち
につけて
血
ち
が
出
で
るほど
拝
おが
んでも、
線香
せんこう
を
束
たば
にして
燃
も
やしても、
何
なん
の
役
やく
にも
立
た
ちません。
自分
じぶん
の
心
こころ
を
着実
ちゃくじつ
に
修
おさ
めなければ
何
なん
にもなりません。
末法
まっぽう
の
時期
じき
になって、
宇宙
うちゅう
はすでに
大
おお
きく
変
か
わっており、
宗教
しゅうきょう
や
信仰
しんこう
の
世界
せかい
まで
堕落
だらく
してしまって、
功能
こうのう
のある(
和尚
おしょう
を
含
ふく
む)
者
もの
も、このことに
気
き
づいています。
今
いま
のところ、
全
ぜん
世界
せかい
で
正法
しょうぼう
を
公
おおやけ
に
伝
つた
えている
人
ひと
はわたし
一人
ひとり
しかいません。わたしは
前人
ぜんじん
の
誰
だれ
もがしたことのないことをしており、しかもこの
末法
まっぽう
の
時期
じき
に、こんなに
大
おお
きな
門
もん
を
開
ひら
きました。
実
じつ
に
千年
せんねん
に
一
いち
度
ど
、いや
万年
まんねん
に
一
いち
度
ど
出会
であ
えるかどうかの
機会
きかい
ですが、しかし、
済度
さいど
できるかどうか、つまり
修煉
しゅうれん
できるかどうかは
本人
ほんにん
次第
しだい
です。わたしは
厖大
ぼうだい
な
宇宙
うちゅう
の
理
り
を
話
はな
しているのです。
別
べつ
にどうしてもこの
法輪大法
ファールンダーファー
を
学
まな
べと
言
い
っているわけではなく、わたしは
一
ひと
つの
理
り
をお
話
はな
ししているのです。
修煉
しゅうれん
しようとすれば、
一
ひと
つに
専念
せんねん
しなければなりません。でなければ、
修煉
しゅうれん
できるはずがありません。もちろん、
修煉
しゅうれん
したくないなら、われわれも
面倒
めんどう
を
見
み
ません。
法
ほう
は
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
に
聞
き
かせるものですから、
必
かなら
ず
一
ひと
つに
専念
せんねん
しなければならず、
他
た
の
功法
こうほう
の
意念
いねん
さえも
混
ま
ぜてはなりません。わたしはここで
意念
いねん
活動
かつどう
というものを
言
い
いません。
法輪大法
ファールンダーファー
にはいかなる
意念
いねん
活動
かつどう
もないので、
皆
みな
さんもその
中
なか
に
意念
いねん
にまつわるものを
加
くわ
えないでください。この
点
てん
には
必
かなら
ず
注意
ちゅうい
していただきたいのです。
佛家
ぶっけ
は
空
くう
を
唱
とな
え、
道家
どうけ
は
無
む
を
唱
とな
えていますが、
基本
きほん
的
てき
に
意念
いねん
活動
かつどう
はありません。
ある
日
ひ
、わたしは
自分
じぶん
の
思惟
しい
を
四
し
、
五人
ごにん
のきわめて
高
たか
い
次元
じげん
にいる
大覚者
だいかくしゃ
、
大道
だいどう
とつないだことがあります。その
次元
じげん
の
高
たか
さと
言
い
えば、
常人
じょうじん
から
見
み
れば
信
しん
じられないほど
高
たか
いのです。
彼
かれ
らはわたしが
何
なに
を
考
かんが
えているのかを
知
し
りたがっています。わたしは
長年
ながねん
の
修煉
しゅうれん
を
経
へ
ており、わたしが
何
なに
を
考
かんが
えているのか
他人
たにん
には
分
わ
かるはずがありません。
他人
たにん
の
功能
こうのう
は
全然
ぜんぜん
わたしの
中
なか
に
入
はい
って
来
く
ることができません。
誰
だれ
もわたしを
知
し
ることができず、わたしが
何
なに
を
考
かんが
えているのかを
知
し
るすべもありません。
彼
かれ
らはわたしの
思惟
しい
活動
かつどう
を
知
し
りたがって、わたしの
了承
りょうしょう
を
得
え
た
上
うえ
で、しばらくの
間
あいだ
、わたしの
考
かんが
えとつないだわけです。つながれると、わたしの
方
ほう
がちょっと
耐
た
えられなくなりました。なぜなら、わたしの
次元
じげん
がどんなに
高
たか
くても、あるいはどんなに
低
ひく
くても、わたしは
常人
じょうじん
の
中
なか
に
身
み
を
置
お
いており、
人
ひと
を
済度
さいど
するという
有為
うい
のことをしており、
心
こころ
は
人
ひと
を
済度
さいど
することにあります。しかし、
彼
かれ
らの
心
こころ
はどれほど
静
しず
かでしょうか?
恐
おそ
ろしいほど
静
しず
かでした。
一人
ひとり
であそこまで
静
しず
かになるならまだしも、
四
し
、
五人
ごにん
が
一緒
いっしょ
に
坐
すわ
っていて、いずれもあのように
静
しず
かで、まるで
一溜
ひとた
まりの
静止
せいし
している
水
みず
のように
何
なに
もありません。わたしは
彼
かれ
らの
心
こころ
を
感
かん
じ
取
と
ろうと
思
おも
っても
何
なに
も
感
かん
じ
取
と
ることができませんでした。あの
数日間
すうじつかん
はわたしは
本当
ほんとう
に
辛
つら
く
感
かん
じ、
言
い
い
知
し
れぬ
気持
きも
ちを
覚
おぼ
えました。それは
普通
ふつう
の
人
ひと
には
想像
そうぞう
もできないし、
感
かん
じ
取
と
ることもできないもので、
完全
かんぜん
に「
無為
むい
」で、「
空
くう
」でした。
高
たか
い
次元
じげん
での
修煉
しゅうれん
には、
何
なん
の
意念
いねん
活動
かつどう
もないものです。それは
常人
じょうじん
の
中
なか
での
基礎
きそ
作
づく
りの
段階
だんかい
で、すでにその
基礎
きそ
ができているからです。
高
たか
い
次元
じげん
で
修煉
しゅうれん
するようになると、
特
とく
にわれわれの
功法
こうほう
では、すべて
自動的
じどうてき
に、
完全
かんぜん
に
自動的
じどうてき
に
修煉
しゅうれん
が
進
すす
むことになります。
自分
じぶん
の
心性
しんせい
を
向上
こうじょう
させさえすれば、
功
こう
が
伸
の
びますので、
手法
しゅほう
すらいらなくなるのです。われわれの
動作
どうさ
は
自動的
じどうてき
な
機
き
制
せい
を
強化
きょうか
するためのものです。
禅定
ぜんじょう
の
中
なか
で、いつもじっと
坐禅
ざぜん
して
動
うご
かないのはなぜでしょうか? まったくの
無為
むい
だからです。
道家
どうけ
の
場合
ばあい
、あれやこれやの
手法
しゅほう
を
重
おも
んじ、
意念
いねん
活動
かつどう
や、
意念
いねん
による
導引
どういん
などを
言
い
っていますが、
少
すこ
しでも
気
き
の
次元
じげん
から
抜
ぬ
け
出
だ
すと、
何
なに
もかもなくなり、あれこれの
意念
いねん
のことをまったく
問題
もんだい
にしません。
他
ほか
の
気功
きこう
を
習
なら
ったことのある
人
ひと
はどうしても
呼吸
こきゅう
法
ほう
とか
意念
いねん
などにこだわります。わたしは
大学
だいがく
程度
ていど
のものを
教
おし
えてあげたのに、どういうふうに
導引
どういん
すればよいかとか、どういうふうに
意念
いねん
活動
かつどう
をすればよいかとか、いつも
小学生
しょうがくせい
程度
ていど
の
質問
しつもん
をしてきます。
彼
かれ
らはすでにそのようなやり
方
かた
に
慣
な
れているので、
気功
きこう
はこういうものだと
思
おも
い
込
こ
んでいますが、
本当
ほんとう
はそうではありません。
功能
こうのう
と
功力
こうりき
多
おお
くの
人
ひと
は
気功
きこう
の
中
なか
の
用語
ようご
をはっきりとは
知
し
らず、また
一部
いちぶ
の
者
もの
はいつも
混同
こんどう
して
使
つか
っています。
功能
こうのう
のことを
功力
こうりき
と
言
い
ったり、また、
功力
こうりき
のことを
功能
こうのう
と
言
い
ったりしています。
自分
じぶん
の
心性
しんせい
によって
修
おさ
めて
得
え
た
功
こう
は、
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
に
同化
どうか
し、
自分
じぶん
の
徳
とく
によって
演化
えんか
したものです。それは、
人
ひと
の
次元
じげん
の
高
たか
さ、
功力
こうりき
の
大
おお
きさ、
果位
かい
の
高
たか
さを
決
き
める、
最
もっと
も
肝心
かんじん
な
功
こう
です。
修煉
しゅうれん
の
過程
かてい
で
人
ひと
にどんな
状態
じょうたい
が
現
あら
われるでしょうか?
特異
とくい
功能
こうのう
が
現
あら
われてきます。われわれはそれを
略
りゃく
して
功能
こうのう
と
呼
よ
んでいます。
今
いま
お
話
はな
しした、
次元
じげん
を
向上
こうじょう
させる
功
こう
のことを
功力
こうりき
と
言
い
います。
次元
じげん
が
高
たか
いほど
功力
こうりき
が
大
おお
きく、
功能
こうのう
が
強
つよ
いわけです。
功能
こうのう
は
修煉
しゅうれん
過程
かてい
の
副産物
ふくさんぶつ
で、
次元
じげん
を
代表
だいひょう
せず、
次元
じげん
の
高
たか
さや、
功力
こうりき
の
大
おお
きさを
代表
だいひょう
していません。たくさん
出
で
る
人
ひと
もいれば、あまり
出
で
ない
人
ひと
もいます。それに、
功能
こうのう
は
修煉
しゅうれん
の
主
おも
な
目的
もくてき
として
求
もと
めて
得
え
られるようなものでもありません。
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
しようと
決
き
めた
時
とき
、はじめて
功能
こうのう
が
現
あら
われることがありますが、
功能
こうのう
を
主
おも
な
目的
もくてき
として
修
おさ
めてはいけません。こういうものを
煉
ね
って、
何
なに
をするつもりですか? やはり
常人
じょうじん
の
中
なか
で
使
つか
ってみたいと
思
おも
うのですか?
常人
じょうじん
の
中
なか
で
勝手
かって
に
使
つか
うことは
絶対
ぜったい
に
許
ゆる
されません。ですから、
功能
こうのう
は
求
もと
めれば
求
もと
めるほど
出
で
て
来
き
ません。なぜならあなたが
求
もと
めており、
求
もと
めることそれ
自体
じたい
が
執着心
しゅうちゃくしん
で、
修煉
しゅうれん
とは、ほかでもないその
執着心
しゅうちゃくしん
を
取
と
り
除
のぞ
こうとすることだからです。
多
おお
くの
者
もの
はかなり
高
たか
い
境地
きょうち
まで
修煉
しゅうれん
しましたが、
功能
こうのう
を
持
も
っていません。それは
師
し
が、
自分
じぶん
をうまく
制御
せいぎょ
できないために
悪
わる
いことをしてしまうことを
心配
しんぱい
して、それに
鍵
かぎ
をかけており、
神通力
じんつうりき
を
振
ふ
るうのを
抑
おさ
えているからです。このような
人
ひと
は
結構
けっこう
多
おお
いのです。
功能
こうのう
というものは
人
ひと
の
意識
いしき
によって
支配
しはい
されるのです。
寝
ね
ている
時
とき
は
自分
じぶん
をうまく
制御
せいぎょ
できないかも
知
し
れませんので、もしかして
夢
ゆめ
を
見
み
れば、
翌朝
よくあさ
天地
てんち
がひっくり
返
かえ
っているかも
知
し
れません。しかしこれは
許
ゆる
されません。
常人
じょうじん
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
をしているので、
大
おお
きい
功能
こうのう
を
持
も
っている
場合
ばあい
は、たいてい
用
もち
いることを
許
ゆる
されず、ほとんど
鍵
かぎ
をかけられています。でも、それは
絶対
ぜったい
的
てき
ではありません。しっかり
修煉
しゅうれん
していて、うまく
自分
じぶん
を
制御
せいぎょ
できる
者
もの
には、ある
程度
ていど
の
功能
こうのう
を
持
も
つことが
許
ゆる
されます。こういう
人
ひと
に
功能
こうのう
を
見
み
せてくれと
頼
たの
んでも、
絶対
ぜったい
見
み
せないもので、こんな
人
ひと
は
自分
じぶん
をしっかり
制御
せいぎょ
できるのです。
返修
へんしゅう
と
借功
しゃっこう
煉功
れんこう
した
経験
けいけん
のない
人
ひと
もおり、あるいはどこかの
気功
きこう
講習会
こうしゅうかい
でちょっと
習
なら
ったとしても、それもしょせん
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
の
類
たぐ
いで、
修煉
しゅうれん
と
言
い
えるようなものではありません。つまり、これらの
人々
ひとびと
は
本物
ほんもの
の
伝授
でんじゅ
を
受
う
けたことがないのに、ある
時
とき
突然
とつぜん
一夜
いちや
のうちに
功
こう
がやってくることがあります。その
功
こう
がどこから
来
き
たのか、いくつのパターンがあるかについてお
話
はな
しします。
その
一
ひと
つは、
返修
へんしゅう
です。
返修
へんしゅう
とは
何
なん
でしょうか?
一部
いちぶ
の
年配者
ねんぱいしゃ
が
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
っても、
初
はじ
めから
修煉
しゅうれん
するにはもう
時間
じかん
が
足
た
りません。
気功
きこう
ブームの
中
なか
でこうした
人
ひと
たちも
修煉
しゅうれん
しようとし、
気功
きこう
が
他人
たにん
に
良
よ
いことをしてあげられると
同時
どうじ
に
自分
じぶん
も
高
たか
められることが
分
わ
かり、
向上
こうじょう
したい、
修煉
しゅうれん
したいという
願望
がんぼう
をもっていました。ところが、
数年前
すうねんまえ
の
気功
きこう
ブームの
時
とき
、
気功
きこう
師
し
たちはほとんど
気功
きこう
を
普及
ふきゅう
させるだけで、
本当
ほんとう
に
高
たか
い
次元
じげん
のことを
伝
つた
える
人
ひと
がいませんでした。
今日
こんにち
に
至
いた
っても、
真
しん
に
公
おおやけ
に
高
こう
次元
じげん
のものを
伝
つた
えているのはわたし
一人
ひとり
しかおらず、
他
ほか
には
誰
だれ
もいません。
返修
へんしゅう
する
者
もの
はたいてい
五十才
ごじゅっさい
以上
いじょう
で、
年
とし
を
取
と
っていますが、
根基
こんき
が
非常
ひじょう
に
優
すぐ
れており、
身
み
に
付
つ
いているものは
良
よ
いので、いずれも
人
ひと
が
弟子
でし
として、
教
おし
えを
受
う
け
継
つ
がせたい
人
ひと
ばかりです。しかし、これらの
人
ひと
は
年
とし
も
取
と
っているので、
修煉
しゅうれん
しようとしても
容易
ようい
なことではありません! どこへ
師
し
を
探
さが
しに
行
い
けばよいでしょうか? しかし、
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
い、その
心
こころ
が
動
うご
いただけで、まるで
黄金
おうごん
のようにきらきらと
光
ひか
って、
十方
じっぽう
世界
せかい
を
震
ふる
わせます。
人々
ひとびと
が
佛性
ぶっしょう
、
佛性
ぶっしょう
と
言
い
いますが、これこそその
佛性
ぶっしょう
が
現
あら
われたのです。
高
たか
い
次元
じげん
から
見
み
れば、
人間
にんげん
の
生命
せいめい
は
人間
にんげん
になるためのものではありません。
人間
にんげん
の
生命
せいめい
は
宇宙
うちゅう
空間
くうかん
で
生
う
まれたので、
宇宙
うちゅう
の
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
という
特性
とくせい
に
同化
どうか
しており、
本性
ほんしょう
はもともと
善良
ぜんりょう
なのです。しかし、
生命体
せいめいたい
が
多
おお
くなってから、ある
社会
しゃかい
関係
かんけい
が
生
しょう
じ、
中
なか
の
一部
いちぶ
の
者
もの
が
利己
りこ
的
てき
になり、あるいは
駄目
だめ
になり、
高
たか
い
次元
じげん
にいられなくなったため、
下
した
の
次元
じげん
へ
堕
お
ちていきます。その
次元
じげん
でも、また
駄目
だめ
になったため、さらに
下
した
へ、
下
した
へと
堕
お
ち、
最後
さいご
には
常人
じょうじん
という
次元
じげん
にまで
堕
お
ちてきたのです。この
次元
じげん
まで
堕
お
ちたら、
本当
ほんとう
は
完全
かんぜん
に
消滅
しょうめつ
されるはずでしたが、
大覚者
だいかくしゃ
たちは
慈悲
じひ
心
しん
により、この
最
もっと
も
苦
くる
しい
環境
かんきょう
の
中
なか
でもう
一度
いちど
人間
にんげん
に
機会
きかい
を
与
あた
えることにしたので、このような
空間
くうかん
を
造
つく
ったのです。
他
た
の
空間
くうかん
にいる
人
ひと
はみなこのような
身体
からだ
を
持
も
っておらず、
彼
かれ
らは
空
そら
を
飛
と
んだり、
大
おお
きくなったり、
小
ちい
さくなったりすることができます。ところが、この
空間
くうかん
ではわれわれの
肉身
にくしん
という
身体
からだ
を
人間
にんげん
に
与
あた
えられました。この
身体
からだ
を
持
も
っているから、
寒
さむ
くても
駄目
だめ
、
暑
あつ
くても
駄目
だめ
、
疲
つか
れても、お
腹
なか
が
空
す
いても
駄目
だめ
で、とにかく
辛
つら
いのです。
病気
びょうき
に
罹
かか
ったら
苦
くる
しいし、
生老病死
しょうろうびょうし
もあります。それはほかでもなくこの
苦
くる
しみの
中
なか
で
業
ごう
を
返
かえ
させるために、
上
うえ
へ
戻
もど
れるかどうかを
見
み
るために、もう
一度
いちど
あなたに
機会
きかい
を
与
あた
えました。というわけで、
人間
にんげん
は
迷
まよ
いの
中
なか
に
堕
お
ちて
来
き
たのです。この
中
なか
に
堕
お
ちてから、
他
た
の
空間
くうかん
や
物質
ぶっしつ
の
真相
しんそう
が
見
み
えないように、この
目
め
が
造
つく
られました。もし
戻
もど
ることができるとすれば、
最
もっと
も
苦
くる
しいことが、すなわち
最
もっと
も
貴
とうと
いことになります。
迷
まよ
いのまっただ
中
なか
で、
悟
さと
りに
頼
たよ
って
元
もと
へ
戻
もど
るよう
修煉
しゅうれん
することは
実
じつ
に
苦
くる
しみが
多
おお
いのですが、
戻
もど
ることもそれだけ
速
はや
いのです。もしさらに
悪
わる
くなれば、
生命
せいめい
が
壊滅
かいめつ
されてしまいます。したがって、
彼
かれ
らから
見
み
れば、
人間
にんげん
の
生命
せいめい
は
人間
にんげん
になるためのものではなく、
返本帰真
へんぽんきしん
して、
元
もと
に
戻
もど
るためのものです。
常人
じょうじん
はそれを
悟
さと
ることができません。
常人
じょうじん
は、
常人
じょうじん
社会
しゃかい
において
常人
じょうじん
にほかならず、いかに
発展
はってん
しようとか、いかに
良
よ
い
暮
く
らしをしようとかばかり
考
かんが
えます。
贅沢
ぜいたく
な
生活
せいかつ
をするほど、
私心
ししん
が
強
つよ
くなり、ますます
多
おお
く
占有
せんゆう
しようとし、ますます
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
に
背
そむ
き、
滅亡
めつぼう
に
向
む
かうのです。
高
こう
次元
じげん
から
見
み
れば、あなたが
前
まえ
へ
進
すす
んでいると
思
おも
うことが
実際
じっさい
は
後退
こうたい
しているということになります。
人類
じんるい
は
発展
はってん
しており、
科学
かがく
は
進歩
しんぽ
していると
思
おも
われていますが、
実
じつ
は
宇宙
うちゅう
の
規律
きりつ
に
従
したが
って
進
すす
んでいるに
過
す
ぎません。
八仙人
はっせんにん
の
中
なか
の
張果老
ちょうかろう
がなぜ
後
うし
ろ
向
む
きにロバに
乗
の
るのか、そのわけを
知
し
っている
者
もの
はわずかです。
彼
かれ
は、
前
まえ
へ
進
すす
むことは
後退
こうたい
することだと
気
き
づいて、
後
うし
ろ
向
む
きに
乗
の
っていたのです。ですから、
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
う
者
もの
がいれば、
覚者
かくしゃ
たちはその
心
こころ
を
非常
ひじょう
に
貴重
きちょう
なものと
見
み
て、
無条件
むじょうけん
でその
人
ひと
を
助
たす
けます。
今
いま
ここにいる
学習者
がくしゅうしゃ
が
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
うのであれば、わたしは
無条件
むじょうけん
で
助
たす
けてあげますが、それと
同
おな
じです。しかし、
常人
じょうじん
として、
病気
びょうき
の
治療
ちりょう
を
求
もと
めたり、あれや、これやと
求
もと
めるのなら、
助
たす
けてあげるわけにはいきません。なぜでしょうか? あなたが
常人
じょうじん
のままでいいと
思
おも
っているからです。
常人
じょうじん
なら
生老病死
しょうろうびょうし
は
付
つ
きもので、そうあるべきなのです。すべてに
因縁
いんねん
関係
かんけい
があり、
乱
みだ
してはいけないのです。
人間
にんげん
の
生命
せいめい
の
中
なか
にはもともと
修煉
しゅうれん
は
入
はい
っていませんが、
今
いま
やあなたは
修煉
しゅうれん
しようとするのですから、あなたのために
今後
こんご
歩
あゆ
む
道
みち
を
改
あらた
めて
段取
だんど
りしてあげなければならず、あなたの
身体
からだ
を
調整
ちょうせい
してあげてもいいのです。
修煉
しゅうれん
したい、という
人
ひと
の
願望
がんぼう
がひとたび
現
あら
われると、それを
見
み
た
覚者
かくしゃ
たちはこの
上
うえ
なく
貴重
きちょう
だと
思
おも
います。しかしどうやって
助
たす
けてあげたらいいでしょうか?
世
よ
の
中
なか
のどこに
教
おし
えてくれる
師
し
がいるでしょうか? それに
五十
ごじゅう
も
過
す
ぎてしまっています。
大覚者
だいかくしゃ
たちは
教
おし
えるわけにはいきません。なぜなら
彼
かれ
が
顕現
けんげん
して、
説法
せっぽう
し
功
こう
を
教
おし
えると、
天機
てんき
を
漏
も
らすことになり、
彼
かれ
自身
じしん
も
堕
お
ちてしまう
羽目
はめ
になるからです。
人間
にんげん
は、
自分
じぶん
自身
じしん
が
悪
わる
いことをしたため
迷
まよ
いの
中
なか
に
堕
お
ちてきた
以上
いじょう
、
迷
まよ
いの
中
なか
で
悟
さと
りながら
修煉
しゅうれん
しなければいけないのですから、
覚者
かくしゃ
は
教
おし
えてはならないのです。
佛
ほとけ
が
姿
すがた
を
現
あら
わして
説法
せっぽう
し、
功
こう
を
教
おし
えてくれるのを
見
み
れば、
極悪
ごくあく
非道
ひどう
の
連中
れんちゅう
も
習
なら
いに
来
き
て、
誰
だれ
でも
信
しん
じるようになるようでは、
何
なに
を
悟
さと
ればよいのでしょうか?
悟
さと
りという
問題
もんだい
も
存在
そんざい
しなくなります。
人間
にんげん
は
自分
じぶん
のせいで
迷
まよ
いの
中
なか
に
堕
お
ち、
消滅
しょうめつ
されるべきものでした。
元
もと
へ
戻
もど
る
機会
きかい
を
一度
いちど
与
あた
えられて、
戻
もど
ることができれば
戻
もど
りますが、
戻
もど
れなければ、
引
ひ
き
続
つづ
き
輪廻
りんね
するか、
消滅
しょうめつ
されるしかありません。
道
みち
は
自分
じぶん
で
歩
あゆ
むものですが、あなたが
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
ったのを
見
み
たらどうしてあげればよいでしょうか? ある
方法
ほうほう
が
考
かんが
え
出
だ
されました。
当時
とうじ
、
気功
きこう
がブームで、それも
天象
てんしょう
の
変化
へんか
の
一
ひと
つですが、その
天象
てんしょう
に
合
あ
わせるために、
大覚者
だいかくしゃ
がその
人
ひと
の
心性
しんせい
の
達
たっ
した
位置
いち
からその
人
ひと
に
功
こう
を
与
あた
え、
身体
からだ
に
軟
やわ
らかい
管
くだ
のようなものを
取
と
り
付
つ
け、
水道
すいどう
の
蛇口
じゃぐち
のように
栓
せん
を
開
ひら
くと
功
こう
が
出
で
てくるようにするのです。
功
こう
を
出
だ
そうと
思
おも
えば
功
こう
が
出
で
てきますし、
出
だ
さない
時
とき
は、
彼
かれ
自身
じしん
に
功
こう
があるわけではありません。こういう
状態
じょうたい
を
返修
へんしゅう
と
言
い
って、
上
うえ
から
下
した
へと
圓満
えんまん
成就
じょうじゅ
をめざして
修煉
しゅうれん
することです。
普通
ふつう
の
修煉
しゅうれん
は、
下
した
から
上
うえ
へ、
功
こう
を
開
ひら
き
圓満
えんまん
成就
じょうじゅ
するまで
修煉
しゅうれん
しますが、
返修
へんしゅう
というのは、
年
とし
を
取
と
っていて、
下
した
から
修煉
しゅうれん
するのではもう
間
ま
に
合
あ
わない
場合
ばあい
に、
上
うえ
から
修煉
しゅうれん
すればかえって
速
はや
くなるということです。それも
当時
とうじ
現
あら
われた
現象
げんしょう
でした。このような
人
ひと
は、
心性
しんせい
が
高
たか
くなければ
駄目
だめ
です。
彼
かれ
の
心性
しんせい
の
位置
いち
に、あれほど
大
おお
きなエネルギーを
与
あた
えてあげるのは、
何
なん
のためでしょうか?
一
ひと
つは
当時
とうじ
の
天象
てんしょう
に
合
あ
わせるためです。その
人
ひと
は
良
よ
いことをする
時
とき
に、
苦
くる
しみに
耐
た
えることを
経験
けいけん
できます。なぜなら
常人
じょうじん
を
相手
あいて
にする
以上
いじょう
、さまざまな
常人
じょうじん
の
心
こころ
が
妨害
ぼうがい
してくるからです。
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
してあげても、
本人
ほんにん
はまったく
理解
りかい
しない
場合
ばあい
もあります。
病気
びょうき
の
治療
ちりょう
をする
時
とき
、どれだけ
悪
わる
いものを
取
と
り
除
のぞ
き、どこまで
治
なお
してあげたのか、すぐにははっきりした
変化
へんか
が
現
あら
われないこともあります。それで、その
人
ひと
は
機嫌
きげん
が
悪
わる
く、
感謝
かんしゃ
するどころか、
騙
だま
されたと
罵
ののし
るかも
知
し
れません! こういうことに
直面
ちょくめん
して、どう
対処
たいしょ
するか、といった
環境
かんきょう
の
中
なか
で、あなたの
心
こころ
は
磨
みが
かれていくのです。
功
こう
を
与
あた
える
目的
もくてき
は、
修煉
しゅうれん
させ
向上
こうじょう
させるためであり、
良
よ
いことをすると
同時
どうじ
に、
自分
じぶん
の
功能
こうのう
を
開発
かいはつ
し、
功
こう
を
伸
の
ばさせるものですが、この
道理
どうり
を
知
し
らない
人
ひと
がいます。
前
まえ
にもお
話
はな
ししたように、
説法
せっぽう
してあげるわけにはいかないのです。
悟
さと
れればそれでいいのですが、
悟
さと
りの
問題
もんだい
なので、
悟
さと
らなければ
仕方
しかた
がありません。
一部
いちぶ
の
人
ひと
は
功
こう
が
現
あら
われた
時
とき
、ある
晩
ばん
寝
ね
ていると、
突然
とつぜん
布団
ふとん
も
掛
か
けていられないほど
熱
あつ
くてたまらなくなり、
朝
あさ
起
お
きたら、
手
て
が
触
ふ
れるところすべて
帯電
たいでん
するようなので、
自分
じぶん
に
功
こう
が
出
で
てきたと
分
わ
かりました。
他人
たにん
の
身体
からだ
の
痛
いた
いところに
触
ふ
れると、すぐに
効
き
き
目
め
が
出
で
ました。
功
こう
が
現
あら
われたと
分
わ
かって、
気功師
きこうし
の
看板
かんばん
を
掲
かか
げ、
自分
じぶん
に
気功師
きこうし
の
肩書
かたが
きを
付
つ
けて、
気功師
きこうし
をやり
始
はじ
めます。そういう
人
ひと
は
良
よ
い
人
ひと
なので、
最初
さいしょ
のころは、
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
して、お
金
かね
を
渡
わた
されても
贈
おく
り
物
もの
を
渡
わた
されても、
受
う
け
取
と
らないかも
知
し
れません。しかし、このような
返修
へんしゅう
の
者
もの
は
心性
しんせい
の
修煉
しゅうれん
を
真
しん
に
経
へ
ていないため、
自分
じぶん
の
心性
しんせい
を
制御
せいぎょ
することが
難
むずか
しいのです。
常人
じょうじん
という「
染
そ
め
物
もの
がめ」での
汚染
おせん
に
抵抗
ていこう
しきれず、だんだんとちょっとした
記念
きねん
品
ひん
を
受
う
け
取
と
るようになり、そのうち
大
おお
きな
物
もの
までもらうようになり、しまいにはくれるものが
少
すく
ないと
承知
しょうち
しなくなります。
最後
さいご
にはとうとう「
物
もの
をたくさんもらっても
仕方
しかた
がないから、
金
かね
をくれ!」と
言
い
い
出
だ
し、その
上
うえ
、
金
かね
が
少
すく
なければ
機嫌
きげん
が
悪
わる
くなります。
本物
ほんもの
の
気功師
きこうし
のことまで
認
みと
めなくなり、
耳
みみ
に
入
はい
ってくるのは、
自分
じぶん
がどれほどすごいかを
褒
ほ
めてくれる
言葉
ことば
ばかりです。ちょっとでも
批判
ひはん
の
言葉
ことば
を
聞
き
くとご
機嫌
きげん
斜
なな
めになり、
名利
みょうり
心
しん
も
高
たか
ぶり、
自分
じぶん
が
誰
だれ
よりも
偉
えら
く、
大
たい
したものだと
思
おも
い
込
こ
みます。この
功
こう
を
与
あた
えられたのは、
自分
じぶん
を
気功師
きこうし
にして、
大金
たいきん
を
儲
もう
けさせてくれるためだったのだと
勘違
かんちが
いしますが、
本当
ほんとう
は
彼
かれ
に
修煉
しゅうれん
させるためだったのです。
名利
みょうり
心
しん
が
生
しょう
じますと、
実際
じっさい
には、
彼
かれ
の
心性
しんせい
も
堕
お
ちてきてしまいます。
お
話
はな
ししたように、
心性
しんせい
の
高
たか
さが
功
こう
の
高
たか
さです。
堕
お
ちてきたら、
功
こう
もそれに
相応
そうおう
して
減
へ
らされます。
心性
しんせい
の
高
たか
さが
功
こう
の
高
たか
さなので、
功
こう
は
心性
しんせい
に
合
あ
わせて
与
あた
えられるものです。
名利
みょうり
心
しん
が
重
おも
いほど、
常人
じょうじん
の
中
なか
で
激
はげ
しく
堕
お
ちていきますので、
功
こう
もそれにつれて
堕
お
ちていきます。
最後
さいご
に
完全
かんぜん
に
堕
お
ちてしまった
時
とき
は、
功
こう
も
与
あた
えられないので、
何
なん
の
功
こう
も
出
で
なくなります。
数年
すうねん
前
まえ
にはこのような
人
ひと
がけっこう
多
おお
く、
五十
ごじゅう
代
だい
の
女性
じょせい
によく
見
み
られました。あるお
婆
ばあ
さんなどは、
練功
れんこう
はしていますが、
別
べつ
に
直伝
じきでん
を
受
う
けたわけでもなく、どこかの
気功
きこう
講習会
こうしゅうかい
で
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
のための
動作
どうさ
を
習
なら
っただけで、ある
日
ひ
突然
とつぜん
功
こう
が
現
あら
われてきました。ところが
心性
しんせい
が
悪
わる
くなり、
名利
みょうり
心
しん
が
生
しょう
じると
堕
お
ちてしまいますので、その
結果
けっか
、
今
いま
は
何者
なにもの
でもなく、
功
こう
もなくなりました。このように
返修
へんしゅう
から
堕
お
ちてしまった
者
もの
は
非常
ひじょう
に
多
おお
く、
残
のこ
っている
者
もの
は
何人
なんにん
もいません。なぜでしょうか?
彼女
かのじょ
たちは、それが
修煉
しゅうれん
のために
与
あた
えられたものとは
知
し
らず、
常人
じょうじん
の
中
なか
で
財
ざい
をなすとか、
有名
ゆうめい
になるとか、
気功師
きこうし
になるために
授
さず
かったものだと
思
おも
い
込
こ
んでいたのですが、
本当
ほんとう
は
修煉
しゅうれん
のために
与
あた
えられたものだったのです。
では、
借功
しゃっこう
とは
何
なん
でしょうか? これには
年齢
ねんれい
の
制限
せいげん
はありませんが、
一
ひと
つだけ、
心性
しんせい
が
特別
とくべつ
に
良
よ
い
人
ひと
でなければならないという
条件
じょうけん
が
付
つ
いています。その
人
ひと
は
気功
きこう
で
修煉
しゅうれん
できることが
分
わ
かり、
修煉
しゅうれん
しようとします。
修煉
しゅうれん
しようとする
願望
がんぼう
はもっていますが、どこで
師
し
を
求
もと
めたらよいのでしょうか?
数年
すうねん
前
まえ
、
確
たし
かに
本当
ほんとう
の
気功
きこう
師
し
たちが
世
よ
に
出
で
て、
気功
きこう
を
教
おし
えていましたが、
彼
かれ
らが
伝
つた
えたのは、いずれも
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
のためのもので、
誰
だれ
も
高
こう
次元
じげん
のものを
伝
つた
えておらず、
教
おし
えようともしません。
借功
しゃっこう
のことに
言及
げんきゅう
したので、もう
一
ひと
つのことにも
触
ふ
れておきます。
人
ひと
には
自分
じぶん
の
主元神
しゅげんしん
(
主
しゅ
意識
いしき
)の
他
ほか
に、
副元神
ふくげんしん
(
副意識
ふくいしき
)もあります。
人
ひと
によっては、
副元神
ふくげんしん
を
一
ひと
つ、
二
ふた
つ、
三
みっ
つ、
四
よっ
つも
持
も
っていて、
五
いつ
つある
人
ひと
もいます。その
副元神
ふくげんしん
は
本人
ほんにん
の
性別
せいべつ
と
必
かなら
ずしも
同
おな
じとは
限
かぎ
りません。
男
おとこ
もいれば、
女
おんな
もいて、みんな
違
ちが
います。
実
じつ
は
主元神
しゅげんしん
も
肉身
にくしん
と
同
おな
じとは
限
かぎ
りません。この
頃
ごろ
、
男性
だんせい
でありながら
元神
げんしん
が
女性
じょせい
であり、
女性
じょせい
でありながら
元神
げんしん
が
男性
だんせい
であるケースがきわめて
多
おお
く、ちょうどいま
道家
どうけ
の
言
い
う
陰陽
いんよう
反転
はんてん
、
陰盛陽衰
いんせいようすい
という
天象
てんしょう
に
合致
がっち
しているのです。
人間
にんげん
の
副元神
ふくげんしん
は
多
おお
くの
場合
ばあい
、
主元神
しゅげんしん
より
次元
じげん
が
高
たか
く、
特
とく
に
一部
いちぶ
の
者
もの
の
副元神
ふくげんしん
はきわめて
高
たか
いところから
来
き
ています。
副元神
ふくげんしん
は
憑
つ
き
物
もの
とは
違
ちが
って、あなたと
同時
どうじ
に
母胎
ぼたい
から
生
う
まれ、
同
おな
じ
名前
なまえ
をもち、あなたの
身体
からだ
の
一部
いちぶ
をなしているのです。
普段
ふだん
、
何
なに
かを
考
かんが
えたり、
何
なに
かをする
時
とき
は、
主元神
しゅげんしん
の
一存
いちぞん
で
決
き
めます。
副元神
ふくげんしん
の
主
おも
な
役割
やくわり
は、
悪
わる
いことをしないように
主元神
しゅげんしん
を
制御
せいぎょ
することです。しかし、
主元神
しゅげんしん
がどうしても
執着
しゅうちゃく
する
時
とき
は、
副元神
ふくげんしん
もお
手上
てあ
げです。
副元神
ふくげんしん
は
常人
じょうじん
社会
しゃかい
に
惑
まど
わされませんが、
主元神
しゅげんしん
は
常人
じょうじん
社会
しゃかい
に
惑
まど
わされやすいのです。
一部
いちぶ
の
副元神
ふくげんしん
は
次元
じげん
がかなり
高
たか
く、
正果
しょうか
を
得
え
るまであとわずかなところまで
行
い
っていたかも
知
し
れません。
副元神
ふくげんしん
が
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
っても、
主元神
しゅげんしん
が
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
わなければどうにもなりません。そこである
日
ひ
、
気功
きこう
ブームの
中
なか
で、
主元神
しゅげんしん
も
気功
きこう
を
習
なら
い、
高次元
こうじげん
をめざして
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
いました。もちろん、その
考
かんが
えは
素朴
そぼく
で、
名利
みょうり
を
追求
ついきゅう
するつもりはありません。
副元神
ふくげんしん
は、「こっちが
修煉
しゅうれん
したくても、こっちの
一存
いちぞん
で
決
き
められないが、そっちが
修煉
しゅうれん
したいと
言
い
うなら、ちょうどこっちの
心
こころ
にかなう」と
喜
よろこ
びました。しかし、どこに
師
し
を
求
もと
めればよいのでしょうか?
副元神
ふくげんしん
はなかなか
力
ちから
があるもので、
身体
からだ
から
離脱
りだつ
して、
前世
ぜんせ
で
知
し
り
合
あ
った
大覚者
だいかくしゃ
のところへ
行
い
きます。
一部
いちぶ
の
副元神
ふくげんしん
は
次元
じげん
が
高
たか
いので、
身体
からだ
から
脱
ぬ
け
出
だ
すことができます。そこへ
行
い
って、
修煉
しゅうれん
したいので
功
こう
を
借
か
りたいと
申
もう
し
出
で
ますと、
大覚者
だいかくしゃ
はこの
人
ひと
も
立派
りっぱ
なものだと
思
おも
い、
修煉
しゅうれん
だから
当然
とうぜん
助
たす
けてあげることになります。こうして
副元神
ふくげんしん
は
功
こう
を
借
か
りてきました。
一般
いっぱん
的
てき
に、このような
功
こう
には、
放射
ほうしゃ
力
りょく
があり、
管
くだ
を
通
とお
って
送
おく
られてきます。
形
かたち
になっている
功
こう
をそのまま
借
か
りてくる
場合
ばあい
もありますが、
形
かたち
になっているものには、たいてい
功能
こうのう
が
伴
ともな
っています。
そうなれば、その
人
ひと
には
同時
どうじ
に
功能
こうのう
も
伴
ともな
っているかも
知
し
れません。この
人
ひと
も
先
さき
ほどお
話
はな
ししたように、
夜
よる
寝
ね
ていると、
熱
あつ
くてたまらず、
翌朝
よくあさ
目
め
が
覚
さ
めると、
功
こう
が
現
あら
われました。どこを
触
さわ
っても
帯電
たいでん
しますし、
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
すことができるようになりましたので、
本人
ほんにん
も
功
こう
が
現
あら
われたことに
気
き
づきます。どこから
来
き
たのかは、
本人
ほんにん
には
分
わ
かりません。おそらく
宇宙
うちゅう
空間
くうかん
から
来
き
ているのだろうとは
知
し
っていますが、
具体
ぐたい
的
てき
にどのように
来
き
たのかは
分
わ
かりません。
副元神
ふくげんしん
も
教
おし
えてくれません。それは
副元神
ふくげんしん
の
修煉
しゅうれん
ですので、
本人
ほんにん
には
功
こう
が
出
で
てきたことしか
分
わ
からないのです。
借功
しゃっこう
の
場合
ばあい
、たいてい
年齢
ねんれい
の
制限
せいげん
がなく、
若者
わかもの
に
多
おお
く
見
み
られます。
数年
すうねん
前
まえ
にも、
二
に
十
じゅう
代
だい
、
三
さん
十
じゅう
代
だい
、
四
よん
十
じゅう
代
だい
各年齢層
かくねんれいそう
の
者
もの
に
見
み
られ、
年配
ねんぱい
の
人
ひと
もいました。
若者
わかもの
が
自分
じぶん
を
制御
せいぎょ
するのは、なおさら
難
むずか
しいことです。
日頃
ひごろ
はなかなか
良
よ
い
人
ひと
で、
常人
じょうじん
社会
しゃかい
で
大
たい
した
能力
のうりょく
を
持
も
たない
時
とき
は、
名利
みょうり
心
しん
にも
淡泊
たんぱく
でした。いったんまわりから
抜
ぬ
きん
出
で
ると、
名利
みょうり
に
惑
まど
わされやすいのです。
彼
かれ
は、
人生
じんせい
のこれからの
道
みち
のりが
長
なが
いから、
何
なん
らかの
常人
じょうじん
の
目標
もくひょう
に
達
たっ
するためにまだ
頑張
がんば
らないといけないと
考
かんが
えています。ですから、いったん
功能
こうのう
が
現
あら
われて
力
ちから
がつくと、
常人
じょうじん
社会
しゃかい
では
往々
おうおう
にしてそれを、
個人
こじん
の
目標
もくひょう
を
追求
ついきゅう
する
手段
しゅだん
とします。それではいけません。そういうふうに
使
つか
うことは
許
ゆる
されず、
使
つか
えば
使
つか
うほど
功
こう
が
減
へ
り、
最後
さいご
にはすっかりなくなってしまいます。このような
人
ひと
で
堕
お
ちてしまったのはさらに
多
おお
く、
今
いま
は
一人
ひとり
も
残
のこ
っていません。
以上
いじょう
お
話
はな
しした
二
ふた
つの
状況
じょうきょう
は、いずれも
心性
しんせい
が
比較的
ひかくてき
良
よ
い
人
ひと
に
功
こう
が
現
あら
われた
事例
じれい
ですが、どちらも
自分
じぶん
の
修煉
しゅうれん
によって
得
え
たものではなく、
覚者
かくしゃ
から
借
か
りたもので、
功
こう
そのものは
良
よ
いものです。
憑
つ
き
物
もの
多
おお
くの
人
ひと
は
修煉界
しゅうれんかい
で、
狐
きつね
やイタチ、ハリネズミ、
蛇
へび
などの
動物
どうぶつ
が
人間
にんげん
に
憑依
ひょうい
する
話
はなし
を
聞
き
いたことがあると
思
おも
います。いったい
何
なん
のことでしょうか?
練功
れんこう
して
超
ちょう
能力
のうりょく
を
開発
かいはつ
すると
言
い
っている
人
ひと
がいますが、
実
じつ
は
超
ちょう
能力
のうりょく
は
開発
かいはつ
するものではなく、それはほかならぬ
人間
にんげん
の
本能
ほんのう
です。しかし
人類
じんるい
社会
しゃかい
の
発展
はってん
につれて、
人間
にんげん
はますますこの
物質
ぶっしつ
空間
くうかん
の
有形
ゆうけい
のものを
重視
じゅうし
し、ますます
現代
げんだい
化
か
された
道具
どうぐ
に
依存
いぞん
するようになりました。ですから
人類
じんるい
の
本能
ほんのう
は
退化
たいか
する
一方
いっぽう
で、
最後
さいご
にはこの
本能
ほんのう
が
完全
かんぜん
に
消
き
えてしまったのです。
功能
こうのう
を
得
え
ようとするには、
修煉
しゅうれん
を
通
とお
して、
返本
へんぽん
帰
き
真
しん
し、それを
修煉
しゅうれん
によって
取
と
り
戻
もど
さなければなりません。しかし、
動物
どうぶつ
などはそのような
複雑
ふくざつ
な
考
かんが
え
方
かた
がないため、
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
と
相
あい
通
つう
じており、
生
う
まれつきの
本能
ほんのう
を
持
も
っています。
動物
どうぶつ
も
修煉
しゅうれん
できるとか、
狐
きつね
には
練丹
れんたん
術
じゅつ
が
分
わ
かるとか、
蛇
へび
などが
修煉
しゅうれん
法
ほう
を
知
し
っているとか
言
い
う
人
ひと
がいます。それらが
修煉
しゅうれん
法
ほう
を
知
し
っているのではなく、
初
はじ
めは
修練
しゅうれん
などまったく
分
わ
からずに、
生
う
まれつきの
本能
ほんのう
を
持
も
っているだけでした。ある
特定
とくてい
の
条件
じょうけん
、
環境
かんきょう
の
下
もと
で
時間
じかん
が
経
た
つと
効能
こうのう
が
出
で
てくるかも
知
し
れないので、その
結果
けっか
功
こう
を
得
え
ることができ、さらに
功能
こうのう
も
現
あら
われるのです。
こうして、それらのものは
力量
りきりょう
を
持
も
ち、
昔
むかし
の
言
い
い
方
かた
で
言
い
うと、
霊気
れいき
を
得
え
て、
力量
りきりょう
を
持
も
つようになったわけです。
常人
じょうじん
の
目
め
には、
動物
どうぶつ
がいかにも
強
つよ
く、
簡単
かんたん
に
人間
にんげん
を
左右
さゆう
することができるように
映
うつ
っていますが、
実
じつ
は
大
たい
したものではありません。
本当
ほんとう
の
修煉者
しゅうれんしゃ
の
前
まえ
では、それらは
何
なに
ものでもありません。
一千年
いっせんねん
かそこら
修練
しゅうれん
したとしても、
小指
こゆび
の
先
さき
の
一
ひと
ひねりにも
耐
た
えられません。
動物
どうぶつ
はこのような
生
う
まれつきの
本能
ほんのう
があるから、
確
たし
かに
力
ちから
を
持
も
つことができます。しかし
宇宙
うちゅう
には、
動物
どうぶつ
が
修煉
しゅうれん
して
成就
じょうじゅ
することが
許
ゆる
されないという
理
り
も
存在
そんざい
しています。ですから、
古
ふる
い
書物
しょもつ
には、
何百年
なんびゃくねん
に
一
いち
度
ど
、あるいは
大小
だいしょう
の
災厄
さいやく
ごとにそれらのものを
殺
ころ
すことが
書
か
かれています。
動物
どうぶつ
も
一定
いってい
期間
きかん
経過
けいか
して、
功
こう
が
伸
の
びれば、
落雷
らくらい
などでそれらを
殺
ころ
さなければならず、その
修煉
しゅうれん
を
許
ゆる
しません。
動物
どうぶつ
は
人間
にんげん
の
本性
ほんしょう
を
持
も
たないので、
人間
にんげん
のように
修煉
しゅうれん
してはならないのです。
人間
にんげん
の
本性
ほんしょう
を
持
も
たないために、
修煉
しゅうれん
して
成就
じょうじゅ
すれば
魔物
まもの
になるにきまっているからです。ですから、
修煉
しゅうれん
して
成就
じょうじゅ
することは
許
ゆる
されず、
天罰
てんばつ
を
招
まね
いてしまうのです。
動物
どうぶつ
もそれを
知
し
っています。ところが、
人類
じんるい
社会
しゃかい
は
今
いま
ひどく
退廃
たいはい
しており、
一部
いちぶ
の
人
ひと
は
悪事
あくじ
をやりつくしています。このような
状態
じょうたい
になった
時
とき
こそ、
人類
じんるい
社会
しゃかい
は
危険
きけん
に
晒
さら
されているのではありませんか?
物事
ものごと
は、
極
きわ
まれば
必
かなら
ず
逆
ぎゃく
の
方向
ほうこう
へ
転化
てんか
します!
人類
じんるい
社会
しゃかい
の
先史
せんし
時代
じだい
の
異
こと
なる
周期
しゅうき
における
壊滅
かいめつ
は、いずれも
人類
じんるい
の
道徳
どうとく
がきわめて
退廃
たいはい
した
時
とき
に
起
お
きたのです。
今
いま
われわれ
人類
じんるい
が
住
す
む
空間
くうかん
と
他
た
の
多
おお
くの
空間
くうかん
はみなきわめて
危険
きけん
な
境地
きょうち
にあり、この
次元
じげん
における
他
た
の
空間
くうかん
も
同
おな
じですから、それらも
速
はや
く
逃
に
げ
出
だ
そう、
高
たか
い
次元
じげん
へ
上
あ
がろうとしています。
次元
じげん
が
上
あ
がれば
難
なん
から
逃
のが
れられると
思
おも
われていますが、それは
言
い
っているほど
簡単
かんたん
なことでしょうか? それらが
修煉
しゅうれん
するには、
人体
じんたい
が
必要
ひつよう
です。そこで
練功
れんこう
する
人
ひと
が
憑
つ
き
物
もの
に
取
と
り
付
つ
かれるということが
現
あら
われており、これがその
原因
げんいん
の
一
ひと
つとなっているのです。
「あれほど
数多
かずおお
くの
大覚者
だいかくしゃ
、
功
こう
の
高
たか
い
師
し
が、なぜ
手
て
をこまねいているのだろうか?」と
思
おも
う
人
ひと
もいるでしょうが、この
宇宙
うちゅう
には、
自分
じぶん
の
求
もと
めたもの、
自分
じぶん
の
欲
ほ
しがるものに、
他人
たにん
は
干渉
かんしょう
しないという
理
り
があります。われわれはここで、
皆
みな
さんに
正
ただ
しい
道
みち
を
歩
あゆ
むよう
教
おし
え、
同時
どうじ
に
法
ほう
も
分
わ
かりやすく
説
と
き
聞
き
かせ、
悟
さと
るように
導
みちび
いていますが、
実行
じっこう
するかどうかはあなた
自身
じしん
の
問題
もんだい
です。「
師
し
は
入口
いりぐち
まで
導
みちび
くが、
修行
しゅぎょう
は
各自
かくじ
にあり」と
言
い
われているように、
誰
だれ
も
修煉
しゅうれん
を
強要
きょうよう
しませんし、
無理
むり
にやらせることはありません。
修煉
しゅうれん
するかどうかはあなた
個人
こじん
の
問題
もんだい
で、つまり、あなたがどの
道
みち
を
歩
あゆ
むか、
何
なに
を
求
もと
めるか、
何
なに
を
欲
ほ
しがるかについては、
誰
だれ
も
干渉
かんしょう
する
人
ひと
はおらず、ただ
善
ぜん
をなすように
勧
すす
めることしかできません。
一部
いちぶ
の
者
もの
は
練功
れんこう
しているように
見
み
えても、
実際
じっさい
のところは、すべて
憑
つ
き
物
もの
に
功
こう
を
取
と
られています。どうして
憑
つ
き
物
もの
を
招
まね
いてしまったのでしょうか?
全国
ぜんこく
各地
かくち
の
練功
れんこう
する
者
もの
の
中
なか
に、
取
と
り
付
つ
かれている
人
ひと
がどれほどいるのでしょうか?
明
あき
らかにすれば、
多
おお
くの
人
ひと
が
怖
こわ
くて
練功
れんこう
しなくなるかも
知
し
れません。
恐
おそ
ろしいほどの
数
かず
です! なぜこのような
状態
じょうたい
になっているのでしょうか? これらのものが
社会
しゃかい
を
撹乱
かくらん
していますが、なぜこんなに
凄
すさ
まじいところまで
至
いた
ったのでしょうか? それもすべて
人類
じんるい
が
自分
じぶん
で
撒
ま
いた
種
たね
です。
人類
じんるい
が
堕落
だらく
しているから、
至
いた
るところに
魔
ま
が
現
あら
われています。
特
とく
に
偽
にせ
気功
きこう
師
し
の
身体
からだ
はみな
憑
つ
き
物
もの
に
取
と
り
付
つ
かれているので、
彼
かれ
らは
功
こう
を
伝
つた
える
時
とき
、ほかならぬそれを
伝
つた
えているのです。
人類
じんるい
史上
しじょう
において、
動物
どうぶつ
が
人
ひと
の
身体
からだ
に
取
と
り
付
つ
くことは
許
ゆる
されたことなどありません。ですから
取
と
り
付
つ
くとそれを
殺
ころ
さなければならず、
誰
だれ
が
見
み
かけても
許
ゆる
さなかったのです。しかし、
今日
こんにち
の
社会
しゃかい
ではそれを
求
もと
める
者
もの
もいれば、それを
欲
ほ
しがったり、
祀
まつ
ったりする
者
もの
もいます。こんなものは
確
たし
かに
求
もと
めた
覚
おぼ
えがない! と
思
おも
う
人
ひと
がいるかも
知
し
れませんが、それを
求
もと
めていなくても、
功能
こうのう
を
求
もと
めていたかも
知
し
れません。
正法
しょうぼう
修煉
しゅうれん
の
覚者
かくしゃ
が
与
あた
えてくれるでしょうか?
求
もと
めることは
常人
じょうじん
の
執着心
しゅうちゃくしん
で、
取
と
り
除
のぞ
くべきものです。では、
誰
だれ
が
与
あた
えることができますか?
他
た
の
空間
くうかん
の
魔
ま
や、
各種
かくしゅ
の
動物
どうぶつ
だけが
与
あた
えることができます。
結局
けっきょく
それらを
求
もと
めたことになるのではありませんか? そこでそれがやって
来
き
たのです。
正
ただ
しい
考
かんが
えをもって
練功
れんこう
している
者
もの
はどれぐらいいるのでしょうか?
煉功
れんこう
するには
徳
とく
を
重
おも
んじなければならず、
良
よ
いことをし、
善
ぜん
をなさなければなりません。いつでも、どんな
所
ところ
でも、そのように
自己
じこ
を
律
りっ
しなければいけません。
公園
こうえん
で
練功
れんこう
するにしても、
家
いえ
で
練功
れんこう
するにしても、そのように
考
かんが
えている
者
もの
は
何人
なんにん
いるのでしょうか?
一部
いちぶ
の
人
ひと
は
何
なん
の
功
こう
をやっているのか
分
わ
かりませんが、
身体
からだ
をゆらゆらと
動
うご
かしながら、
口
くち
では「ねえ! うちの
嫁
よめ
はわたしにちっとも
親孝行
おやこうこう
しないのよ」とか、「うちの
姑
しゅうとめ
はなんて
意地悪
いじわる
なんでしょう!」とか
言
い
っています。
職場
しょくば
から
国
くに
の
政治
せいじ
まで、
何
なん
でもおしゃべりする
人
ひと
もいて、
自分
じぶん
の
気
き
にそぐわないことになると、
腹
はら
が
立
た
って
仕方
しかた
がないのです。これを
煉功
れんこう
と
言
い
えるのですか? またある
者
もの
は
站樁
たんとう
をしている
時
とき
、
足
あし
ががたがたと
震
ふる
えるほど
疲
つか
れたにもかかわらず、
頭
あたま
はちっとも
休
やす
んでいません。「
今
いま
は
物
もの
がずいぶん
高
たか
くなって、
物価
ぶっか
は
上
あ
がる
一方
いっぽう
で、
会社
かいしゃ
は
給料
きゅうりょう
も
払
はら
えなくなっている。どうして
僕
ぼく
には
功能
こうのう
が
現
あら
われてこないのだろうか?
何
なに
か
功能
こうのう
が
出
で
てきたら、
僕
ぼく
も
気功師
きこうし
になって、
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
してお
金
かね
を
稼
かせ
ぎ、
金
かね
持
も
ちになるのに」といった
具合
ぐあい
です。
他
ほか
の
人
ひと
に
功能
こうのう
が
現
あら
われたのを
見
み
れば、いっそう
焦
あせ
って、ひたすら
功能
こうのう
を
追求
ついきゅう
し、
天目
てんもく
を
求
もと
め、
病気
びょうき
治療
ちりょう
の
技
わざ
を
求
もと
めます。よく
考
かんが
えてください。それは
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
の
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
とどれほどかけ
離
はな
れていることでしょう! まったく
背反
はいはん
しています。
厳
きび
しく
言
い
うと、その
人
ひと
は
邪法
じゃほう
を
練
ね
っています! しかし
彼
かれ
は
意識
いしき
的
てき
にやっているのではありません。
彼
かれ
がこのように
思
おも
えば
思
おも
うほど、
発
はっ
せられる
意念
いねん
はますます
悪
わる
くなるのです。
彼
かれ
は
法
ほう
を
得
え
ておらず、
徳
とく
を
重
おも
んじることを
知
し
らないので、
動作
どうさ
を
通
とお
して
功
こう
を
得
え
ることができると
思
おも
い、
欲
ほ
しいものをなんでも
追求
ついきゅう
して
手
て
に
入
い
れることができると
思
おも
っています。
彼
かれ
はそう
信
しん
じきっているのです。
自分
じぶん
の
考
かんが
えが
正
ただ
しくないからこそ、
良
よ
くないものを
招
まね
いてしまいます。するとそれらの
動物
どうぶつ
はそれを
見逃
みのが
しません。「よし、この
人
ひと
は
練功
れんこう
して
金儲
かねもう
けしようと
思
おも
っている。あの
人
ひと
は
有名
ゆうめい
になろうとして
功能
こうのう
を
欲
ほ
しがっている。よーし、この
人
ひと
の
身体
からだ
は
悪
わる
くない。
身
み
に
付
つ
いているものもけっこういいが、
功能
こうのう
を
求
もと
めるとは
考
かんが
え
方
かた
が
悪
わる
い! もしかすると、
彼
かれ
に
師
し
が
付
つ
いているかも
知
し
れないが、
師
し
がいても
怖
こわ
くない」。その
動物
どうぶつ
は、
人
ひと
が
功能
こうのう
を
追求
ついきゅう
すればするほど
正法
しょうぼう
修煉
しゅうれん
の
師
し
はなおさらそれを
与
あた
えないということを
知
し
っています。それこそまさに
執着心
しゅうちゃくしん
であり、
取
と
り
除
のぞ
かなければならないものなのです。その
考
かんが
えがあるかぎり、
功能
こうのう
は
与
あた
えられないので、その
人
ひと
もますます
悟
さと
りから
遠
とお
く、
求
もと
めれば
求
もと
めるほど
考
かんが
え
方
かた
が
悪
わる
くなります。
最後
さいご
に
師
し
は、この
人
ひと
はもう
駄目
だめ
だと
嘆
なげ
き、
見放
みはな
してしまいます。
師
し
が
付
つ
いていない
人
ひと
もいますが、
通
とお
りすがりの
覚者
かくしゃ
がちょっと
面倒
めんどう
を
見
み
たりするかも
知
し
れません。
各
かく
空間
くうかん
に
覚者
かくしゃ
がたくさんいるのですが、ある
覚者
かくしゃ
がその
人
ひと
を
一日
いちにち
観察
かんさつ
してみて、
駄目
だめ
だと
分
わ
かって、
去
さ
っていきます。
翌日
よくじつ
、
別
べつ
の
覚者
かくしゃ
がやってきてちょっと
見
み
て、
駄目
だめ
だと
分
わ
かり、また
去
さ
っていきます。
その
人
ひと
に
師
し
が
付
つ
いていようと、
通
とお
りすがりの
師
し
がいようと、
彼
かれ
の
求
もと
めているようなものを
師
し
が
与
あた
えてくれるはずがないことを、
動物
どうぶつ
は
知
し
っています。
動物
どうぶつ
には
大覚者
だいかくしゃ
のいる
空間
くうかん
が
見
み
えないので、
怖
こわ
いと
思
おも
わず、
隙
すき
に
付
つ
け
入
い
るのです。われわれの
宇宙
うちゅう
には、
自分
じぶん
の
追求
ついきゅう
しているもの、
欲
ほ
しがっているものについては、
他人
たにん
はふつう
干渉
かんしょう
することができないという
理
り
があるので、
動物
どうぶつ
はまさにこの
隙
すき
に
付
つ
け
入
い
ったのです。「
彼
かれ
が
求
もと
めているのだから、
与
あた
えてやり、
助
たす
けてやることは
間違
まちが
っていないだろう?」 そして
動物
どうぶつ
はそれを
与
あた
えてくれます。
最初
さいしょ
は、まともに
取
と
り
付
つ
く
勇気
ゆうき
がなく、まず
少
すこ
しの
功
こう
を
与
あた
えて
試
ため
してみます。すると、その
人
ひと
はある
日
ひ
突然
とつぜん
、
本当
ほんとう
に
求
もと
めていた
功
こう
が
出
で
てきて、
病気
びょうき
の
治療
ちりょう
もできるようになったのです。
動物
どうぶつ
はそれを
見
み
て、
演奏
えんそう
する
楽曲
がっきょく
の
前奏
ぜんそう
がうまくいったので、しめたと
思
おも
い、「
彼
かれ
が
望
のぞ
んでいるからいっそのこと
乗
の
り
移
うつ
ってやろう。
取
と
り
付
つ
けば、
思
おも
う
存分
ぞんぶん
たくさん
与
あた
えてやれる。
天目
てんもく
も
開
ひら
きたいだろう?
今度
こんど
は
何
なに
もかも
与
あた
えてやる」というわけで、ついに
取
と
り
付
つ
いてしまうのです。
彼
かれ
の
心
こころ
がちょうどこれらのものを
求
もと
めているところに、
天目
てんもく
が
開
ひら
き、
功
こう
も
出
だ
すことができ、さらにちょっとした
功能
こうのう
も
付
つ
いています。ついに
追求
ついきゅう
したものを
手
て
に
入
い
れて、
修得
しゅうとく
したと
思
おも
い、
嬉
うれ
しくてたまりません。
実際
じっさい
には、
彼
かれ
は
何
なに
も
修得
しゅうとく
していません。
人
ひと
の
身体
からだ
を
透視
とうし
できて、
人
ひと
の
身体
からだ
のどこに
病気
びょうき
があるか
見
み
えるようになった、と
本人
ほんにん
は
思
おも
います。
実際
じっさい
は
彼
かれ
の
天目
てんもく
はまったく
開
ひら
いておらず、
彼
かれ
の
脳
のう
は
動物
どうぶつ
に
制御
せいぎょ
されて、
動物
どうぶつ
が
自分
じぶん
の
目
め
で
見
み
たものを
彼
かれ
の
大脳
だいのう
に
映
うつ
し
出
だ
して
見
み
せているだけなのに、
自分
じぶん
の
天目
てんもく
が
開
ひら
いたと
勘違
かんちが
いしています。
功
こう
を
発
はっ
したいなら
発
はっ
してみなさい。
手
て
を
伸
の
ばして
功
こう
を
発
はっ
しようとした
途端
とたん
に、その
動物
どうぶつ
も
後
うし
ろから
手
て
を
伸
の
ばしてきます。
功
こう
を
発
はっ
する
時
とき
に、その
蛇
へび
が
舌
した
を
伸
の
ばして、
病
や
んでいるところ、
腫瘍
しゅよう
のところを
舐
な
めたりするのです。こういう
類
たぐ
いのことがかなり
多
おお
いのです。それらの
人
ひと
の
憑
つ
き
物
もの
はすべて
自分
じぶん
自身
じしん
が
求
もと
めてきたものです。
金
かね
持
も
ちになりたい、
有名
ゆうめい
になりたいと
追求
ついきゅう
していたら、まさに、その
功能
こうのう
が
現
あら
われたし、
病気
びょうき
の
治療
ちりょう
もでき、
天目
てんもく
も
見
み
えるようになったし、なんと
嬉
うれ
しいことでしょう。それを
見
み
た
動物
どうぶつ
は、「
儲
もう
けたいと
思
おも
っているのではないか? よし、
儲
もう
けさせてやろう」と
手
て
ぐすねを
引
ひ
きます。
常人
じょうじん
の
脳
のう
を
制御
せいぎょ
することはいとも
簡単
かんたん
なことです。
憑
つ
き
物
もの
はたくさんの
患者
かんじゃ
を
制御
せいぎょ
して、
彼
かれ
のところへ
治療
ちりょう
に
来
こ
させることができ、どんどん
来
こ
させます。すごいことに、その
人
ひと
がこちらで
病気
びょうき
治療
ちりょう
をしていると
同時
どうじ
に、あちらでは、
憑
つ
き
物
もの
は
新聞
しんぶん
記者
きしゃ
を
操
あやつ
って
新聞
しんぶん
で
宣伝
せんでん
させます。
常人
じょうじん
を
制御
せいぎょ
してこれをやっているので、
患者
かんじゃ
の
払
はら
う
謝礼
しゃれい
が
少
すく
なければ
許
ゆる
さず、
頭痛
ずつう
を
起
お
こさせたりして、とにかく、たくさん
払
はら
わせます。これで、
名利
みょうり
ともに
得
え
て、
金
かね
も
儲
もう
かったし、
有名
ゆうめい
にもなったし、
気功師
きこうし
にもなれたのです。たいていの
場合
ばあい
、そのような
人
ひと
たちは
心性
しんせい
を
重
おも
んじないので、
何
なん
でも
憚
はばか
らずに
言
い
います。
天帝
てんてい
が
一番
いちばん
なら、
俺様
おれさま
が
二
に
番目
ばんめ
だぞとか、
自分
じぶん
は
西王母
せいおうぼ
や
玉皇大帝
ぎょくこうたいてい
が
下界
げかい
に
降
お
りてきた
者
もの
だとか、
自分
じぶん
が
佛
ほとけ
だとさえ
憚
はばか
らずに
言
い
い
出
だ
します。まともに
心性
しんせい
の
修煉
しゅうれん
をしたことがなく、
練功
れんこう
する
時
とき
もひたすら
功能
こうのう
を
求
もと
めてきたために、
結果
けっか
として、
動物
どうぶつ
の
憑
つ
き
物
もの
を
招
まね
いてしまったのです。
とにかく
儲
もう
かって、
有名
ゆうめい
になれたら、それでいいではないかと
思
おも
う
人
ひと
が
少
すく
なくありません。
皆
みな
さんに
教
おし
えますが、
実際
じっさい
にはその
憑
つ
き
物
もの
には
目的
もくてき
があり、
理由
りゆう
もなく
与
あた
えてくれるわけではありません。この
宇宙
うちゅう
には、「
失
うしな
わないものは
得
え
られず」という
理
り
があります。その
憑
つ
き
物
もの
は
何
なに
を
得
え
るのでしょうか?
先
さき
ほどもこのことについてお
話
はな
ししたではありませんか?
憑
つ
き
物
もの
はあなたの
身体
からだ
から
精華
せいか
を
取
と
って、
人
ひと
の
形
かたち
を
修得
しゅうとく
しようとしているので、
人
ひと
の
身体
からだ
から
精華
せいか
を
採集
さいしゅう
するのです。ところが、
人体
じんたい
の
精華
せいか
は
一
ひと
つしかなく、
修煉
しゅうれん
しようとするなら、それ
一
ひと
つしかありません。
憑
つ
き
物
もの
に
取
と
られたら、あなたは
修煉
しゅうれん
をあきらめるしかありません。いまさら
何
なに
をもって
修煉
しゅうれん
すると
言
い
うのでしょうか?
何
なに
もかもなくなったのですから、
修煉
しゅうれん
などできるはずがありません。「わたしは
別
べつ
に
修煉
しゅうれん
などしたくない。
金儲
かねもう
けだけがしたい。
金
かね
さえあればいい、
後
あと
は
知
し
らん!」と、こう
言
い
う
人
ひと
もいるかも
知
し
れません。あなたは
金儲
かねもう
けをしたいと
思
おも
っていても、わたしがそのわけを
教
おし
えてあげると、もうあなたはそう
思
おも
わなくなるに
違
ちが
いありません。なぜでしょうか?
憑
つ
き
物
もの
が
早
はや
くあなたの
身体
からだ
から
離
はな
れて
行
い
ったとしても、あなたは
身体中
からだじゅう
の
力
ちから
が
抜
ぬ
け、これから
一生涯
いっしょうがい
ずっとこのままです。なぜなら
精華
せいか
を
取
と
られすぎたからです。もし、なかなか
離
はな
れて
行
い
かなければ、あなたは
植物
しょくぶつ
人間
にんげん
になります。
残
のこ
りの
人生
じんせい
は
息
いき
をするのが
精一杯
せいいっぱい
で、
寝
ね
たきりになります。
金
かね
があっても
使
つか
えますか?
有名
ゆうめい
になってもそれを
楽
たの
しむことができますか? まったく
恐
おそ
ろしいことではありませんか?
このような
事例
じれい
は
今
いま
の
練功
れんこう
者
しゃ
の
中
なか
でよく
見
み
られ、きわめて
多
おお
いのです。
憑
つ
き
物
もの
は
取
と
りつくばかりでなく、
人
ひと
の
元神
げんしん
まで
殺
ころ
して、
泥丸宮
でいがんきゅう
に
潜
もぐ
り
込
こ
んで、そこに
居坐
いすわ
ってしまいます。
見
み
た
目
め
では、
人間
にんげん
に
見
み
えますが、
実際
じっさい
は
人間
にんげん
ではなくなっています。いまやこういう
事
こと
さえ
起
お
きているのです。
人類
じんるい
の
道徳
どうとく
水準
すいじゅん
が
変
か
わったので、
悪事
あくじ
を
働
はたら
いている
者
もの
に、それは
悪
わる
いことですよと
忠告
ちゅうこく
してあげても、
信
しん
じようともしません。
彼
かれ
らにとっては、
金
かね
を
儲
もう
けることや、
金銭
きんせん
を
求
もと
めること、
金
かね
持
も
ちになることは
至極
しごく
当然
とうぜん
で、
正
ただ
しいことなので、
人
ひと
を
傷
きず
つけても、
他人
たにん
の
利益
りえき
に
手
て
を
出
だ
しても、
金
かね
儲
もう
けのためなら、どんなことでもどんな
悪事
あくじ
でも
憚
はばか
らずにやるのです。
憑
つ
き
物
もの
も
失
うしな
わなければ
得
え
られないのですから、
理由
りゆう
もなくあなたに
与
あた
えるはずがあるでしょうか?
憑
つ
き
物
もの
はあなたの
身体
からだ
にあるものを
欲
ほ
しがっているのです。もちろんお
話
はな
ししたように、
人
ひと
は
自分
じぶん
の
考
かんが
え
方
かた
が
間違
まちが
って、
心
こころ
が
正
ただ
しくないから、
厄介
やっかい
なことを
招
まね
いたのです。
われわれは
法輪大法
ファールンダーファー
を
伝
つた
えています。この
法門
ほうもん
を
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
は、
心性
しんせい
をしっかりと
制御
せいぎょ
さえできれば、
一正
いっせい
が
百邪
ひゃくじゃ
を
圧
あっ
することができるので、
何
なん
の
問題
もんだい
も
起
お
こりません。しかし、
心性
しんせい
をしっかりと
制御
せいぎょ
できず、あれもこれも
追求
ついきゅう
していては、
必
かなら
ず
厄介
やっかい
なことを
招
まね
くに
違
ちが
いありません。これまで
学
まな
んだものをどうしても
捨
す
てられない
人
ひと
もいますが、
煉功
れんこう
は
一
ひと
つに
専念
せんねん
しなければならず、
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
は
一
ひと
つに
専念
せんねん
しなければできません。
一部
いちぶ
の
気功師
きこうし
は
本
ほん
も
出
だ
していますが、しかしその
本
ほん
の
中
なか
には
何
なん
でもあり、
彼
かれ
が
練
ね
っているものと
同
おな
じく、
蛇
へび
やら、
狐
きつね
やらイタチなどがすべて
入
はい
っています。その
本
ほん
を
読
よ
むと、それらのものが
文字
もじ
の
中
なか
から
飛
と
び
出
だ
してきます。お
話
はな
ししたように、
偽
にせ
気功師
きこうし
は
本物
ほんもの
の
気功師
きこうし
より
何
なん
倍
ばい
も
多
おお
く、あなたには
識別
しきべつ
が
難
むずか
しいので、
皆
みな
さんはくれぐれもしっかりしてください。わたしはここで
是
ぜ
が
非
ひ
でも
法輪大法
ファールンダーファー
を
学
まな
べと
言
い
っているわけではありません。どの
法門
ほうもん
を
修煉
しゅうれん
しても
結構
けっこう
です。しかし、
昔
むかし
からこんな
言
い
い
方
かた
があります。「
千年
せんねん
、
正法
しょうぼう
を
得
え
ざるも、
一日
いちじつ
、
野狐禅
やこぜん
を
修
しゅう
するなかれ」。ですから、しっかりと
自分
じぶん
を
制御
せいぎょ
して、
本当
ほんとう
に
正法
しょうぼう
を
修煉
しゅうれん
してください。
他
ほか
のものをいっさい
混
ま
ぜ
入
い
れてはならず、
意念
いねん
さえも
加
くわ
えてはいけません。
一部
いちぶ
の
者
もの
の
法輪
ファールン
が
変形
へんけい
してしまっていますが、なぜ
変形
へんけい
したのでしょうか? 「
別
べつ
に
他
ほか
の
功
こう
を
練
ね
ったことはないのですが」と
本人
ほんにん
は
言
い
います。しかしこの
人
ひと
は
練功
れんこう
すると、
意念
いねん
ではいつも
元
もと
のものを
中
なか
に
加
くわ
えていたのですから、それでは
入
い
れてしまったことになるではありませんか?
憑
つ
き
物
もの
のことについては、これぐらいにしておきましょう。
宇宙
うちゅう
語
ご
宇宙
うちゅう
語
ご
とは
何
なん
でしょうか? ある
人
ひと
は
突然
とつぜん
わけの
分
わ
からない
言葉
ことば
をぺらぺら、ぺらぺらとしゃべりだし、
何
なに
を
言
い
っているか
本人
ほんにん
にも
分
わ
かりません。
他心通
たしんつう
の
功能
こうのう
を
持
も
つ
者
もの
なら、だいたいの
意味
いみ
が
分
わ
かりますが、
具体的
ぐたいてき
に
何
なに
を
言
い
っているかは
分
わ
かりません。しかも
何種類
なんしゅるい
もの
言葉
ことば
をしゃべれる
人
ひと
もいます。これは
大
たい
したものだ、すごい
能力
のうりょく
だ、
功能
こうのう
だと
思
おも
っている
人
ひと
もいますが、それは
功能
こうのう
でもなく、
修煉者
しゅうれんしゃ
の
能力
のうりょく
でもなく、あなたの
次元
じげん
を
代表
だいひょう
するものでもありません。それはどういうことでしょうか? それはあなたの
思惟
しい
が
外来
がいらい
のある
霊体
れいたい
に
支配
しはい
されているということです。あなたは
悪
わる
くないと
思
おも
い、
喜
よろこ
んで
受
う
け
入
い
れ、
嬉
うれ
しく
思
おも
いますが、
喜
よろこ
べば
喜
よろこ
ぶほど、その
支配
しはい
もますます
強固
きょうこ
になります。
本当
ほんとう
の
修煉者
しゅうれんしゃ
として、そんなものに
支配
しはい
されていいのですか? それに、そういうものの
次元
じげん
はとても
低
ひく
いので、
真
しん
に
修煉
しゅうれん
する
者
もの
は、こんな
厄介
やっかい
なものを
招
まね
かないようにすべきです。
人間
にんげん
は
最
もっと
も
貴
とうと
いもので、
万物
ばんぶつ
の
霊長
れいちょう
です。どうしてこんなものに
支配
しはい
されてよいというのでしょうか? あなたが
自分
じぶん
の
身体
からだ
も
放棄
ほうき
してしまうとは、なんと
悲
かな
しいことでしょう! それらのものは
人
ひと
の
身体
からだ
に
取
と
り
付
つ
くものもあれば、
取
と
り
付
つ
かないものもあり、ちょっと
人
ひと
と
距離
きょり
を
置
お
いていますが、あなたを
操
あやつ
り、
支配
しはい
しているのです。あなたが
話
はな
したければ、すぐにぺらぺらとしゃべらせてくれます。
人
ひと
に
移
うつ
すこともでき、
習
なら
いたい
者
もの
が、
大胆
だいたん
に
口
くち
を
開
あ
ければ、
話
はな
せるようになります。
実際
じっさい
はこの
類
たぐ
いのしろものも、
群
む
れをなしているので、しゃべろうとすると、そこからすぐ
一匹
いっぴき
が
取
と
り
付
つ
いてきて、しゃべらせてくれます。
なぜこのような
情況
じょうきょう
が
現
あら
われたのでしょうか? これもお
話
はな
ししたように、それらのものも
自分
じぶん
の
次元
じげん
を
高
たか
めようとしているのですが、あちらでは
苦
くる
しみがないので
修煉
しゅうれん
ができず、
向上
こうじょう
することができません。それで、
思
おも
い
付
つ
いたのは
人
ひと
に
何
なに
か
良
よ
いことをすることですが、どうやればいいのか
分
わ
かりません。でも
自分
じぶん
が
出
だ
したエネルギーは、
患者
かんじゃ
にちょっとした
効
き
き
目
め
があり、
一
いち
時
じ
の
苦痛
くつう
を
和
やわ
らげることができることを
知
し
っています。
完治
かんち
はできませんが、
人
ひと
の
口
くち
を
借
か
りてそのエネルギーを
出
だ
せば、このような
役割
やくわり
を
果
は
たせることは
知
し
っています。それだけのことです。これを
天
てん
の
言葉
ことば
だとか、
佛
ほとけ
の
言葉
ことば
だと
言
い
う
人
ひと
もいますが、そんな
言
い
い
方
かた
は
佛
ほとけ
に
対
たい
する
誹謗
ひぼう
中傷
ちゅうしょう
です。まったくのでたらめだと
言
い
っておきます!
皆
みな
さんご
存
ぞん
じのように、
佛
ほとけ
はめったに
口
くち
を
開
ひら
きません。もしわれわれのこの
空間
くうかん
で
口
くち
を
開
ひら
けば、
人類
じんるい
に
地震
じしん
を
起
お
こしてしまい、
轟々
ごうごう
と
鳴
な
って
大変
たいへん
なことになります! 「わたしの
天目
てんもく
が
見
み
たのだ、
佛
ほとけ
がわたしに
声
こえ
を
掛
か
けてくれたのだ」と
言
い
う
人
ひと
がいます。それはあなたに
声
こえ
を
掛
か
けているのではありません。わたしの
法身
ほうしん
が
見
み
えた
人
ひと
も
同様
どうよう
で、あなたに
話
はな
しかけているわけではなく、
彼
かれ
の
発
はっ
した
意念
いねん
が
立体
りったい
音声
おんせい
を
帯
お
びているので、
話
はな
しているように
聞
き
こえたのです。
彼
かれ
は
普段
ふだん
自分
じぶん
の
空間
くうかん
で
話
はなし
をすることができますが、こちらに
伝
つた
わってきた
場合
ばあい
、
何
なに
を
話
はな
しているかはっきり
聞
き
こえません。
二
ふた
つの
空間
くうかん
の
時空
じくう
概念
がいねん
が
違
ちが
うからです。われわれの
空間
くうかん
の
一刻
いっこく
、つまり
二
に
時間
じかん
は、あの
大
おお
きな
空間
くうかん
の
中
なか
では
一
いち
年
ねん
に
当
あ
たり、かえってあちらの
時間
じかん
より
遅
おそ
いわけです。
昔
むかし
の
言葉
ことば
に「
天上
てんじょう
はやっと
一日
いちにち
なのに、
地上
ちじょう
はすでに
千年
せんねん
」というのがありますが、それは、
空間
くうかん
、
時間
じかん
の
概念
がいねん
がない
単元
たんげん
世界
せかい
のことを
指
さ
し、つまり、
大覚者
だいかくしゃ
がいる
世界
せかい
で、
例
たと
えば
極楽
ごくらく
世界
せかい
、
瑠璃
るり
世界
せかい
、
法輪
ファールン
世界
せかい
、
蓮花
れんげ
世界
せかい
などのようなところです。しかし、あの
大
おお
きな
空間
くうかん
の
時間
じかん
はかえって
速
はや
く
進
すす
みます。
仮
かり
に
彼
かれ
らのしゃべっている
言葉
ことば
を
受信
じゅしん
できて、
聞
き
き
取
と
れたとしても、
一部
いちぶ
の
人
ひと
は
天耳通
てんじつう
の
功能
こうのう
があって、
耳
みみ
が
開
ひら
いたので
聞
き
こえますが、はっきりとは
聞
き
き
取
と
れません。
何
なに
を
聞
き
いても、まるで
小鳥
ことり
の
囀
さえず
りのように
聞
き
こえ、レコードを
速
はや
く
回転
かいてん
させた
時
とき
の
音
おと
のようで、はっきり
聞
き
き
取
と
れないのです。もちろん、
音楽
おんがく
が
聞
き
こえ、
話
はなし
が
聞
き
こえる
者
もの
もいます。それは
必
かなら
ずある
種
しゅ
の
功能
こうのう
を
媒体
ばいたい
として、その
時間
じかん
の
差
さ
を
消
け
してあなたの
耳
みみ
に
伝
つた
わって、はじめてはっきり
聞
き
き
取
と
れるのです。つまりそういうことです。
佛
ほとけ
の
言葉
ことば
だという
人
ひと
がいますが、まったく
違
ちが
います。
覚者
かくしゃ
たちが
出会
であ
うと、
互
たが
いににこりと
笑
わら
うだけですべて
分
わ
かり
合
あ
えます。これは
無声
むせい
の
思惟
しい
伝達
でんたつ
ですが、
受信
じゅしん
したのは
立体
りったい
音声
おんせい
を
帯
お
びたものなのです。
二人
ふたり
がにこりと
笑
わら
った
瞬間
しゅんかん
に
意見
いけん
交換
こうかん
がなし
遂
と
げられたのです。この
方法
ほうほう
だけではなく、
他
た
の
方法
ほうほう
を
使
つか
う
時
とき
もあります。
皆
みな
さんもご
存
ぞん
じのように、チベット
密教
みっきょう
のラマ
僧
そう
たちは「
手印
しゅいん
」を
結
むす
びますが、ラマ
僧
そう
にそれは
何
なん
の
意味
いみ
かと
聞
き
くと、「
無上
むじょう
のヨガ」と
答
こた
え、
具体
ぐたい
的
てき
な
意味
いみ
は
彼
かれ
らにも
分
わ
かりません。
実
じつ
は
手印
しゅいん
は
大覚者
だいかくしゃ
の
言葉
ことば
なのです。
人
ひと
が
多
おお
い
時
とき
は「
大手印
だいしゅいん
」を
行
おこ
ない、さまざまな
大手印
だいしゅいん
があり、
非常
ひじょう
に
綺麗
きれい
です。
人
ひと
が
少
すく
ない
時
とき
は「
小手印
しょうしゅいん
」を
行
おこ
ない、さまざまな
小手印
しょうしゅいん
もとても
綺麗
きれい
で、
非常
ひじょう
に
複雑
ふくざつ
かつ
非常
ひじょう
に
豊富
ほうふ
です。それは
言語
げんご
だからです。これまで、それらはすべて
天機
てんき
でしたが、われわれはそれをすべて
明
あき
らかにしました。チベットで
使
つか
われている
手印
しゅいん
は
単
たん
なる
煉功
れんこう
用
よう
のいくつかの
動作
どうさ
で、それを
整理
せいり
し
系統
けいとう
化
か
したものです。それは
煉功
れんこう
する
際
さい
の
単一
たんいつ
言語
げんご
に
過
す
ぎず、しかも
煉功
れんこう
の
形
かたち
も
数
すう
種
しゅ
しかありません。
本当
ほんとう
の
手印
しゅいん
は
相当
そうとう
複雑
ふくざつ
なものです。
師
し
は
学習者
がくしゅうしゃ
に
何
なに
を
与
あた
えたのか
一部
いちぶ
の
人
ひと
は、わたしに
会
あ
うとわたしの
手
て
をつかんで、
握手
あくしゅ
をするとなかなか
離
はな
してくれません。
他
ほか
の
人
ひと
もそれを
見
み
て、
握手
あくしゅ
を
求
もと
めてきます。わたしには
彼
かれ
らが
何
なに
を
考
かんが
えているのかが
分
わ
かります。
師
し
と
握手
あくしゅ
ができて
嬉
うれ
しく
思
おも
う
人
ひと
もいれば、
何
なに
か
信息
しんそく
が
欲
ほ
しくて、
握
にぎ
って
離
はな
さない
人
ひと
もいます。
皆
みな
さんに
言
い
っておきますが、
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
はあなた
個人
こじん
のことですから、ここでは
病気
びょうき
治療
ちりょう
や
健康
けんこう
保持
ほじ
のようなことはいたしません。
信息
しんそく
を
与
あた
えて、
病気
びょうき
を
治
なお
すようなことはしません。あなたの
病気
びょうき
はわたしが
直接
ちょくせつ
取
と
り
除
のぞ
いてあげますが、
煉功
れんこう
場
ば
ではわたしの
法身
ほうしん
がしてあげます。
本
ほん
を
読
よ
んで
独学
どくがく
している
人
ひと
にも、わたしの
法身
ほうしん
がするのです。わたしの
手
て
を
触
さわ
ったぐらいで、
功
こう
が
伸
の
びるとでも
思
おも
っているのですか? そんな
馬鹿
ばか
な
話
はなし
があるでしょうか?
功
こう
は
自分
じぶん
の
心性
しんせい
によって
修
おさ
めるもので、
着実
ちゃくじつ
に
修煉
しゅうれん
しなければ、
功
こう
が
伸
の
びるはずはありません。なぜなら
心性
しんせい
の
基準
きじゅん
がそこにあるからです。あなたの
功
こう
が
伸
の
びる
時
とき
、
次元
じげん
の
高
たか
い
人
ひと
から
見
み
れば、あの
執着心
しゅうちゃくしん
、あの
物質
ぶっしつ
が
消
き
えると、
頭上
ずじょう
に
尺度
しゃくど
が
現
あら
われるのが
見
み
えます。
尺度
しゃくど
は
功柱
こうちゅう
に
似
に
たようなもので、
尺度
しゃくど
の
高
たか
さが
功柱
こうちゅう
の
高
たか
さで、それはあなたの
修煉
しゅうれん
して
得
え
た
功
こう
を
代表
だいひょう
し、あなたの
心性
しんせい
の
高
たか
さも
代表
だいひょう
しています。
他人
たにん
がいくら
載
の
せてあげても
駄目
だめ
で、たとえほんのわずか
載
の
せようとしてもすべて
落
お
ちてしまいます。わたしは
直
ただ
ちにあなたを
三花聚頂
さんかしゅうちょう
に
到達
とうたつ
させることができますが、ここを
離
はな
れた
途端
とたん
にすぐ
落
お
ちてしまいます。それはあなたのものではなく、あなたが
修煉
しゅうれん
して
得
え
たものではないので、
載
の
せてもだめです。あなたの
心性
しんせい
の
基準
きじゅん
がそこまで
達
たっ
していないのですから、
誰
だれ
がつけ
加
くわ
えようとしても
駄目
だめ
です。それはまったく
自分
じぶん
の
修煉
しゅうれん
によるもので、
心
こころ
の
修煉
しゅうれん
にかかっています。
着実
ちゃくじつ
に
功
こう
を
伸
の
ばし、
絶
た
えず
自分
じぶん
を
向上
こうじょう
させ、
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
に
同化
どうか
してこそ、はじめて
上
あ
がって
来
こ
られるのです。サインして
欲
ほ
しいと
頼
たの
んでくる
人
ひと
がいますが、わたしはしたくありません。
先生
せんせい
がサインしてくれたのよと
人
ひと
に
見
み
せたり、
先生
せんせい
の
信息
しんそく
の
保護
ほご
を
欲
ほ
しがったりする
人
ひと
がいます。それこそ
執着心
しゅうちゃくしん
ではありませんか?
修煉
しゅうれん
は
自分
じぶん
次第
しだい
なので、
信息
しんそく
などにこだわって
何
なに
になるのですか?
高
こう
次元
じげん
における
修煉
しゅうれん
では、そんなものを
重
おも
んじることができますか? それが
何
なん
だというのですか? そんなものは
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
の
段階
だんかい
のものに
過
す
ぎません。
あなたが
自分
じぶん
で
修煉
しゅうれん
して
得
え
た
功
こう
は、ミクロの
世界
せかい
では、その
功
こう
の
微粒子
びりゅうし
の
様子
ようす
があなたの
姿
すがた
かたちとそっくりです。
世間法
せけんほう
から
出
で
るときになると、
佛体
ぶったい
として
修煉
しゅうれん
することになります。その
時
とき
、
功
こう
はすべて
佛
ほとけ
の
姿
すがた
かたちをしており、
蓮
はす
の
花
はな
の
上
うえ
に
坐
すわ
って、とても
綺麗
きれい
です。
微粒子
びりゅうし
の
一
ひと
つ
一
ひと
つがみなそうなっています。
一方
いっぽう
、
動物
どうぶつ
の
功
こう
は、みな
小
ちい
さな
狐
きつね
や
蛇
へび
の
姿
すがた
かたちばかり、
超
ちょう
ミクロの
世界
せかい
でどの
微粒子
びりゅうし
もみなそうです。それから
信息
しんそく
めいたものを、お
茶
ちゃ
に
混
ま
ぜて
飲
の
ませるなどというしろものもありますが、どのみちそれも
功
こう
だというわけです。
常人
じょうじん
は、
一
いち
時
じ
的
てき
に
苦痛
くつう
を
取
と
り
除
のぞ
き、
病気
びょうき
を
先送
さきおく
りしてしばらく
抑
おさ
えておきさえすればよいのです。
常人
じょうじん
は
常人
じょうじん
にほかならず、
自分
じぶん
の
身体
からだ
をいくら
壊
こわ
しても、われわれとは
関係
かんけい
ありません。われわれは
煉功者
れんこうしゃ
ですから、このことをお
教
おし
えしました。
今後
こんご
、そのようなことを
絶対
ぜったい
しないでください。
信息
しんそく
やら
何
なに
やらいかがわしいものを
絶対
ぜったい
に
求
もと
めないでください。
一部
いちぶ
の
気功師
きこうし
は、
自分
じぶん
が
信息
しんそく
を
発
はっ
するから、
全国
ぜんこく
各地
かくち
で
受
う
け
取
と
るようにとか
言
い
っていますが、
何
なに
を
受
う
け
取
と
るのですか?
言
い
っておきますが、そういうものは
大
たい
して
役
やく
に
立
た
ちません。たとえよいところがあるとしても、せいぜい
病気
びょうき
治療
ちりょう
や
健康
けんこう
保持
ほじ
程度
ていど
のものを
手
て
に
入
い
れるに
過
す
ぎません。これに
対
たい
してわれわれ
煉功者
れんこうしゃ
の
場合
ばあい
、
功
こう
は
自分
じぶん
の
修煉
しゅうれん
によって
得
え
るものなので、
他人
たにん
が
発
はっ
したいわゆる
信息
しんそく
という
功
こう
は、
次元
じげん
の
向上
こうじょう
には
役
やく
に
立
た
たず、
常人
じょうじん
の
病気
びょうき
を
治
なお
すぐらいしかできません。
必
かなら
ずや
心
こころ
を
正
ただ
しくもってください。
修煉
しゅうれん
というものは
誰
だれ
も
代
か
わってあげられず、あなた
自身
じしん
が
着実
ちゃくじつ
に
修煉
しゅうれん
して、はじめて
次元
じげん
を
向上
こうじょう
させることができるのです。
それではわたしは
皆
みな
さんにいったい
何
なに
を
与
あた
えるのでしょうか?
皆
みな
さんの
中
なか
には
煉功
れんこう
したことのない
人
ひと
が
多
おお
く、
身体
からだ
に
病気
びょうき
を
持
も
っている
人
ひと
がいます。
多
おお
くの
人
ひと
が
長年
ながねん
練功
れんこう
していますが、
依然
いぜん
として
気
き
のレベルから
抜
ぬ
け
出
だ
せず、
功
こう
も
持
も
っていません。もちろん
一部
いちぶ
の
人
ひと
が
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治
なお
していますが、どうして
治
なお
せるのか
分
わ
かりますか?
先
さき
ほど
憑
つ
き
物
もの
の
問題
もんだい
についてお
話
はな
しした
時
とき
、わたしはすでに
本当
ほんとう
に
大法
ダーファー
を
修煉
しゅうれん
できる
人
ひと
の
身体
からだ
に
取
と
り
付
つ
いている
憑
つ
き
物
もの
を、どんなものであれ、
身体
からだ
の
中
なか
から
外
そと
まであらゆる
良
よ
くないものを
全部
ぜんぶ
取
と
り
除
のぞ
いたのです。
真
しん
に
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
う
独学
どくがく
の
人
ひと
にも、この
大法
ダーファー
の
本
ほん
を
読
よ
んでいる
時
とき
に、
同
おな
じように
身体
からだ
をきれいに
浄化
じょうか
してあげます。そればかりではなく、あなたの
家庭
かてい
の
環境
かんきょう
も
片付
かたづ
けなければなりません。これまで
祀
まつ
っていた
狐
きつね
、イタチなどの
位牌
いはい
は、
早
はや
く
捨
す
ててください。すでに
浄
きよ
めてあげましたので、
存在
そんざい
しなくなりました。あなたは
修煉
しゅうれん
しようとしているのですから、われわれは
最
もっと
も
入
はい
りやすい
門
もん
を
開
ひら
き、こういったことをしてあげます。しかし
真
しん
の
修煉者
しゅうれんしゃ
に
限
かぎ
ります。
言
い
うまでもありませんが、
修煉
しゅうれん
するつもりのない
者
もの
や、
今
いま
になってもまだ
分
わ
かっていない
者
もの
の
面倒
めんどう
はわれわれは
見
み
ません。われわれが
面倒
めんどう
を
見
み
るのは
本当
ほんとう
の
修煉者
しゅうれんしゃ
だけです。
それからこのような
人
ひと
もいます。
以前
いぜん
身体
からだ
に
憑
つ
き
物
もの
があると
人
ひと
に
言
い
われ、
自分
じぶん
自身
じしん
もあるように
感
かん
じましたが、
取
と
り
除
のぞ
いてあげてからも、
気病
きや
みが
消
き
えず、いつも
以前
いぜん
の
状態
じょうたい
がまだ
残
のこ
っていると
疑
うたが
っているのです。これはすでに
執着心
しゅうちゃくしん
になっており、
疑心
ぎしん
と
言
い
います。
時間
じかん
が
経
た
つにつれて、また
呼
よ
び
戻
もど
してしまう
恐
おそ
れがあります。あなた
自身
じしん
がその
心
こころ
を
捨
す
てなければなりません。もう
何
なに
も
残
のこ
っていないからです。
一部
いちぶ
の
人
ひと
たちについては、われわれが
以前
いぜん
講習会
こうしゅうかい
を
開
ひら
いた
時
とき
にすでに
処理
しょり
し、わたしはすでにそれをやりました。あらゆる
憑
つ
き
物
もの
を
取
と
り
除
のぞ
いてしまったのです。
道家
どうけ
は
低
ひく
い
次元
じげん
で
煉功
れんこう
する
時
とき
、
基礎
きそ
作
づく
りをし、
周天
しゅうてん
を
形成
けいせい
し、
丹田
たんでん
の
田
でん
も
作
つく
らなければならず、その
他
ほか
にもいろいろなものを
作
つく
る
必要
ひつよう
があります。われわれはここで
皆
みな
さんに「
法輪
ファールン
」をはじめ「
気機
きき
」や、
修煉
しゅうれん
に
必要
ひつよう
なすべての「
機
き
制
せい
」を
植
う
えつけ、
幾
いく
万
まん
以上
いじょう
にも
及
およ
ぶものを、
種
たね
のように
蒔
ま
いてあげるのです。あなたの
病気
びょうき
を
取
と
り
除
のぞ
いてから、やるべきことをやり、
与
あた
えるべきものを
全部
ぜんぶ
あなたに
与
あた
えて、これであなたはやっとこの
法門
ほうもん
で
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
ができるようになります。さもなければ、
何
なに
も
与
あた
えなければ、それはただの
病気
びょうき
治療
ちりょう
になります。ずばり
言
い
いますと、
心性
しんせい
の
修煉
しゅうれん
を
重
おも
んじない
人
ひと
は、むしろ
体操
たいそう
をやったほうがましだと
思
おも
います。
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
となると、わたしはあなたに
責任
せきにん
をもたなければなりません。
独学
どくがく
で
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
も
同
おな
じように
得
え
られますが、ただし
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
している
者
もの
でなければなりません。われわれはこれらのものを
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
に
与
あた
えます。すでにお
話
はな
ししたように
皆
みな
さんを
本当
ほんとう
に
弟子
でし
として
導
みちび
かなければいけないのです。そのうえ
皆
みな
さんは、
高次元
こうじげん
の
法
ほう
を
必
かなら
ず
徹底的
てっていてき
に
学
まな
んで、どのように
修煉
しゅうれん
するか
分
わ
かるようにならなくてはいけません。
五
ご
通
とお
りの
功法
こうほう
を
一
いち
度
ど
に
習得
しゅうとく
して、
全部
ぜんぶ
覚
おぼ
えなければなりません。
将来
しょうらい
あなたはきわめて
高
たか
い
次元
じげん
、あなたが
思
おも
ってみたこともない
高
たか
い
次元
じげん
に
達
たっ
することができ、
間違
まちが
いなく、
正果
しょうか
が
得
え
られるのです。この
法
ほう
は
各
かく
次元
じげん
のことを
結
むす
び
合
あ
わせて
説
と
いているので、
修煉
しゅうれん
を
続
つづ
けるかぎり、
今後
こんご
異
こと
なる
次元
じげん
で
修煉
しゅうれん
するにあたって、それはいずれも
指導
しどう
作用
さよう
があることに
気
き
づくでしょう。
修煉者
しゅうれんしゃ
として、
今後
こんご
の
人生
じんせい
の
道
みち
は
変
か
わるはずです。わたしの
法身
ほうしん
が
改
あらた
めて
段取
だんど
りしてあげなければなりません。どのように
段取
だんど
りをするのでしょうか? これからの
人生
じんせい
は、
果
はた
して
後
あと
どれぐらい
残
のこ
っているのでしょうか?
本人
ほんにん
にも
分
わ
かりません。ある
人
ひと
は、
半年
はんとし
か
一
いち
年
ねん
くらいして、
数年間
すうねんかん
治
なお
らない
重病
じゅうびょう
に
罹
かか
ることになっているかも
知
し
れません。ある
人
ひと
は、
脳血栓
のうけっせん
やその
他
ほか
の
病気
びょうき
に
罹
かか
って、まったく
動
うご
けなくなるかも
知
し
れません。では
今後
こんご
の
人生
じんせい
においてどうやって
修煉
しゅうれん
するのでしょうか? われわれはそれらのことをすべて
取
と
り
除
のぞ
き、そういうことが
起
お
こらないようにします。
断
ことわ
っておきますが、
本当
ほんとう
の
修煉者
しゅうれんしゃ
にしかこれをしてあげられません。
常人
じょうじん
に
対
たい
して
勝手
かって
にしてはいけないので、そんなことをすれば、
悪
わる
いことをするのと
同
おな
じです。
常人
じょうじん
の
生老病死
しょうろうびょうし
にはすべて
因縁
いんねん
関係
かんけい
があり、
勝手
かって
にそれを
壊
こわ
してはならないのです。
われわれは
修煉者
しゅうれんしゃ
を
最
もっと
も
大切
たいせつ
な
者
もの
と
見
み
ていますので、
修煉者
しゅうれんしゃ
にだけ
変
か
えてあげるのです。どういうふうに
変
か
えるのでしょうか?
師
し
の
威徳
いとく
が
高
たか
ければ、つまり
師
し
の
功力
こうりき
が
強
つよ
ければ、
業
ごう
を
滅
めっ
することができます。
師
し
の
功
こう
が
高
たか
ければ、たくさん
滅
めっ
することができますが、
師
し
の
功
こう
が
低
ひく
ければ、
滅
めっ
する
業
ごう
も
少
すく
ないのです。
例
れい
を
挙
あ
げて
説明
せつめい
してみましょう。まずあなたの
今後
こんご
の
人生
じんせい
にあるさまざまな
業
ごう
を
全部
ぜんぶ
集
あつ
めて、その
一部分
いちぶぶん
、
半分
はんぶん
を
滅
めっ
してあげましょう。
残
のこ
りが
半分
はんぶん
となってもまだ
山
やま
より
高
たか
く、あなた
自身
じしん
の
力
ちから
では
乗
の
り
越
こ
えられません。どうすればよいのでしょうか?
将来
しょうらい
あなたが
得道
とくどう
した
時
とき
、
多
おお
くの
者
もの
がその
恩恵
おんけい
を
受
う
けることになるかも
知
し
れません。ですから
多
おお
くの
人
ひと
がその
一部
いちぶ
を
代
か
わりに
負担
ふたん
してくれるのです。もちろん、
彼
かれ
らにとっては
大
たい
したことではありません。さらに、あなたが
修煉
しゅうれん
によって
作
つく
り
出
だ
した
多
おお
くの
生命体
せいめいたい
も、
主元神
しゅげんしん
、
副元神
ふくげんしん
以外
いがい
の
多
おお
くのあなたも、みな
一部
いちぶ
を
負担
ふたん
してくれるのです。あなた
自身
じしん
が
劫難
ごうなん
を
乗
の
り
越
こ
えなければならない
時
とき
には、もうさほど
残
のこ
っていません。さほど
残
のこ
っていないと
言
い
っても、やはりかなり
大
おお
きいので、あなたはやはりまだ
乗
の
り
越
こ
えられません。どうすればよいのでしょうか? つまりそれを
無数
むすう
の
部分
ぶぶん
に
分
わ
けて、あなたの
修煉
しゅうれん
の
各
かく
次元
じげん
に
割
わ
り
当
あ
て、それを
利用
りよう
してあなたの
心性
しんせい
を
高
たか
め、
業力
ごうりき
を
転化
てんか
させ、
功
こう
を
伸
の
ばすことにするのです。
また、
一人
ひとり
の
人間
にんげん
が
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
うことは
決
けっ
して
容易
ようい
なことではありません。お
話
はな
ししたように、それはきわめて
厳粛
げんしゅく
なことであって、
常人
じょうじん
の
域
いき
を
超
こ
えており、
常人
じょうじん
のいかなることよりも
難
むずか
しいのです。それならばそれは
超常的
ちょうじょうてき
なことではありませんか? だからこそ
常人
じょうじん
のあらゆる
事
こと
よりも、あなたへの
要求
ようきゅう
が
厳
きび
しいのです。
人間
にんげん
には
元神
げんしん
があり、
元神
げんしん
は
不滅
ふめつ
です。もし
元神
げんしん
が
不滅
ふめつ
なら、よく
考
かんが
えてみてください。あなたの
元神
げんしん
は、その
前世
ぜんせ
の
社会
しゃかい
活動
かつどう
の
中
なか
で、
悪
わる
いことをしませんでしたか? した
可能
かのう
性
せい
が
十分
じゅうぶん
あります。
殺生
せっしょう
したことがあるとか、
誰
だれ
かに
借
か
りがあるとか、
人
ひと
をいじめたり、
傷
きず
つけたりするようなことをしたことがあるかも
知
し
れません。そうであれば、あなたがここで
修煉
しゅうれん
すれば、あちらにいる
相手
あいて
にははっきり
見
み
えます。
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
くらいのことなら、
返済
へんさい
を
先送
さきおく
りして、
今
いま
返
かえ
さなければ
将来
しょうらい
返
かえ
すことになり、しかも
将来
しょうらい
はたくさん
返
かえ
すことになるのが
分
わ
かっているので、しばらくの
間
あいだ
返
かえ
さなくても
彼
かれ
らは
何
なに
も
言
い
いません。
ところが、あなたが
修煉
しゅうれん
するとなれば、
彼
かれ
らは
承知
しょうち
しません。「お
前
まえ
が
修煉
しゅうれん
すると、お
前
まえ
は
行
い
ってしまい、しかも
功
こう
が
伸
の
びるのだから、こっちは
手
て
が
届
とど
かなくなり、お
前
まえ
をつかまえられなくなる」と、
承知
しょうち
しません。あらゆる
手段
しゅだん
を
考
かんが
えてあなたを
妨害
ぼうがい
します。
修煉
しゅうれん
させないようにいろんな
手
て
を
尽
つ
くして
妨害
ぼうがい
し、あなたを
本当
ほんとう
に
殺
ころ
しに
来
く
ることさえありえます。もちろん、
坐禅
ざぜん
しているうちに、
頭
あたま
を
吹
ふ
き
飛
と
ばされるなどということはありえません。
常人
じょうじん
社会
しゃかい
の
状態
じょうたい
に
合
あ
わなければならないからです。
外出中
がいしゅつちゅう
に
交通
こうつう
事故
じこ
に
遭
あ
ったり、ビルから
転落
てんらく
したり、あるいは
他
ほか
の
危険
きけん
に
出
で
遭
あ
ったり、などといったことが
起
お
きます。
非常
ひじょう
に
危
あぶ
ないのです。
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
は、あなたが
想像
そうぞう
しているほど
容易
ようい
なことではないのです。
修煉
しゅうれん
したければ、
修煉
しゅうれん
して
上
あ
がっていけるのだと
思
おも
いますか?
真
しん
に
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
えば、
直
ただ
ちに
生命
せいめい
の
危険
きけん
に
晒
さら
され、こういった
問題
もんだい
に
引
ひ
きずりこまれます。
多
おお
くの
気功
きこう
師
し
が
高
たか
い
次元
じげん
への
功
こう
を
教
おし
える
勇気
ゆうき
を
持
も
っていません。なぜでしょうか? ほかでもない、
彼
かれ
にはこれが
手
て
に
負
お
えず、とてもあなたを
守
まも
りきれないからです。
昔
むかし
は、
道
どう
を
伝
つた
える
者
もの
の
多
おお
くが、
一人
ひとり
の
弟子
でし
にしか
教
おし
えることができませんでした。
一人
ひとり
くらいならなんとか
守
まも
ることができるからです。このような
広範囲
こうはんい
のことは、
一般
いっぱん
の
人
ひと
にはする
勇気
ゆうき
がありません。しかし、すでに
皆
みな
さんにお
話
はな
ししましたが、わたしにはできます。なぜならわたしは
無数
むすう
の
法身
ほうしん
を
持
も
っており、それらはわたしと
同
おな
じように
非常
ひじょう
に
大
おお
きな
神通力
じんつうりき
と
法力
ほうりき
を
備
そな
えており、
大
おお
きな
神通力
じんつうりき
と
大
おお
きな
法力
ほうりき
を
発揮
はっき
することができるからです。しかも、われわれが
今日
こんにち
やっているこのことは、
見
み
た
目
め
ほど
簡単
かんたん
ではなく、またわたしは
決
けっ
して
一時
いちじ
の
思
おも
いつきでやっているわけでもありません。
皆
みな
さんにお
教
おし
えしてもよいのですが、たくさんの
大覚者
だいかくしゃ
はみなこのことに
注目
ちゅうもく
しており、われわれが
末法
まっぽう
の
時期
じき
に
正法
しょうぼう
を
伝
つた
えるのもこれが
最後
さいご
です。われわれのやっているこのことには、
間違
まちが
いが
許
ゆる
されません。
本当
ほんとう
に
正道
しょうどう
によって
修煉
しゅうれん
すれば、
誰
だれ
もあなたを
勝手
かって
に
傷
きず
つけたりすることはできません。それにわたしの
法身
ほうしん
に
守
まも
られているので、
何
なん
の
危険
きけん
も
起
お
こらないのです。
借
か
りがあれば、
返
かえ
さなければいけないのですから、
修煉
しゅうれん
の
途中
とちゅう
で
危険
きけん
に
出会
であ
うことはあります。しかし、そういうことが
起
お
こった
時
とき
でも、あなたを
恐怖
きょうふ
に
陥
おとしい
れ、あるいは
本当
ほんとう
の
危険
きけん
に
遭遇
そうぐう
させるようなことはありません。
例
れい
を
二
に
、
三
さん
挙
あ
げましょう。これは
北京
ぺきん
で
講習会
こうしゅうかい
を
開催
かいさい
した
時
とき
のことです。ある
学習者
がくしゅうしゃ
が
自転車
じてんしゃ
で
道路
どうろ
を
横断
おうだん
して、
街角
まちかど
に
来
き
た
時
とき
、
急
きゅう
カーブしてきた
高
こう
級
きゅう
乗用車
じょうようしゃ
にはねられました。この
学習者
がくしゅうしゃ
は
女性
じょせい
で、
五十才
ごじゅっさい
あまりです。
乗用車
じょうようしゃ
にドンとぶつけられて、
彼女
かのじょ
の
頭
あたま
は
車
くるま
に
当
あ
たって
大
おお
きな
音
おと
がしました。その
時
とき
この
学習者
がくしゅうしゃ
はまだ
自転車
じてんしゃ
に
跨
またが
ったままで、
頭
あたま
を
打
う
ちましたが、
痛
いた
くないばかりか、
出血
しゅっけつ
もなく、
腫
は
れたりもしませんでした。
運転手
うんてんしゅ
は
慌
あわ
てて
飛
と
び
降
お
りて、「
怪我
けが
はありませんか?
病院
びょういん
に
行
い
きましょう」と
聞
き
きましたが、
彼女
かのじょ
は
大丈夫
だいじょうぶ
だと
答
こた
えました。もちろん、この
学習者
がくしゅうしゃ
は
心性
しんせい
が
高
たか
いので、
人
ひと
に
言
い
い
掛
がか
りをつけるようなことなどしません。
彼女
かのじょ
は
大丈夫
だいじょうぶ
と
言
い
いましたが、
乗用車
じょうようしゃ
の
方
ほう
は
大
おお
きく
凹
へこ
んでしまいました。
この
類
たぐ
いの
事
こと
はすべて
命
いのち
を
取
と
りにきた
例
れい
ですが、
本当
ほんとう
に
危険
きけん
に
至
いた
るようなことはありません。この
前
まえ
吉林
きつりん
大学
だいがく
で
講習会
こうしゅうかい
を
開
ひら
いた
時
とき
も、ある
学習者
がくしゅうしゃ
が
大学
だいがく
の
正門
せいもん
を
出
で
て、
自転車
じてんしゃ
を
押
お
して
道
みち
の
真
ま
ん
中
なか
に
行
い
ったら、
二
に
台
だい
の
車
くるま
がいきなり
彼
かれ
を
挟
はさ
み、
今
いま
にもはねられそうになりましたが、
彼
かれ
はちっとも
怖
こわ
いと
思
おも
いませんでした。こういうことに
遭遇
そうぐう
した
時
とき
、ふつう
誰
だれ
も
怖
こわ
く
思
おも
うことはありません。その
瞬間
しゅんかん
に、
車
くるま
が
止
と
まり、
何事
なにごと
も
起
お
こらなかったのです。
北京
ぺきん
ではこんなこともありました。
冬
ふゆ
は
日
ひ
が
暮
く
れるのが
早
はや
いので、みんな
早
はや
く
寝
ね
ます。
街
まち
には
人影
ひとかげ
がなく、
静
しず
まりかえっていました。ある
学習者
がくしゅうしゃ
が
自転車
じてんしゃ
で
帰宅
きたく
を
急
いそ
いでいました。
前方
ぜんぽう
にはジープがたった
一
いち
台
だい
走
はし
っていましたが、
急
きゅう
に
止
と
まりました。
彼
かれ
は
気
き
づかずに、
相変
あいかわ
らず
下
した
を
向
む
いて
漕
こ
いでいました。ところがそのジープは
突然
とつぜん
猛
もう
スピードでバックし
始
はじ
めました。それも
命
いのち
を
取
と
りに
来
き
たもので、この
二
ふた
つの
力
ちから
が
合
あ
わさって、あわや
衝突
しょうとつ
しようとする
時
とき
、ある
力
ちから
が
急
きゅう
にこの
人
ひと
の
自転車
じてんしゃ
を
五十
ごじゅう
センチほど
後方
こうほう
へ
引
ひ
っ
張
ぱ
り、ジープの
運転手
うんてんしゅ
も
後
うし
ろの
人影
ひとかげ
に
気
き
づいたらしく、
自転車
じてんしゃ
の
車輪
しゃりん
にぶつかるぎりぎりのところで
急
きゅう
ブレーキをかけました。そしてその
時
とき
彼
かれ
は
全然
ぜんぜん
怖
こわ
くなかったというのです。このような
状況
じょうきょう
に
遭
あ
う
人
ひと
はみな
怖
こわ
いとは
思
おも
いませんが、
後
あと
になって
怖
こわ
くなるかも
知
し
れません。
彼
かれ
がその
瞬間
しゅんかん
まず
思
おも
ったのは、
誰
だれ
が
自分
じぶん
を
引
ひ
っ
張
ぱ
ってくれたのか、その
人
ひと
にお
礼
れい
を
言
い
わなければならないということでした。しかし、
振
ふ
り
返
かえ
ってお
礼
れい
を
言
い
おうとして、ふと
見
み
ると
街
まち
はシーンとしていて、
誰
だれ
ひとりいませんでした。
師
し
が
守
まも
ってくれているのだ! と
彼
かれ
にはすぐ
分
わ
かりました。
長春
ちょうしゅん
での
話
はなし
もあります。ある
学習者
がくしゅうしゃ
の
家
いえ
の
近
ちか
くにビルの
建築
けんちく
現場
げんば
がありました。
昨今
さっこん
のビルはかなり
高
たか
く
建
た
てるもので、
足場
あしば
が
直径
ちょっけい
六
ろく
センチ、
長
なが
さ
四
よん
メートルの
鉄
てつ
パイプで
組
く
み
立
た
てられていました。
彼
かれ
が
家
いえ
から
出
で
て、しばらく
歩
ある
くと、
一本
いっぽん
の
鉄
てつ
パイプが
上
うえ
からまっすぐ
彼
かれ
の
頭
あたま
めがけて
落
お
ちてきました。
街
まち
の
人
ひと
はみな
立
た
ちすくみ
凍
こお
りついたようになってしまいました。
彼
かれ
は
誰
だれ
かに
頭
あたま
を
叩
たた
かれたと
思
おも
い、「
誰
だれ
だ、ぼくを
叩
たた
くのは?」と
言
い
いながら
振
ふ
り
返
かえ
ったところ、
頭上
ずじょう
に
大
おお
きな
法輪
ファールン
が
回転
かいてん
しているのが
見
み
えました。
鉄
てつ
パイプも
頭
あたま
から
滑
すべ
り
落
お
ちました。
滑
すべ
り
落
お
ちてそのまま
地面
じめん
に
突
つ
き
刺
さ
さって
倒
たお
れませんでした。もし、それが
人間
にんげん
の
身体
からだ
に
突
つ
き
刺
さ
さったら、
考
かんが
えてもごらんなさい、あれだけの
重
おも
さがあるので、
飴
あめ
玉
だま
の
串刺
くしざ
しのようにぐさりと
突
つ
き
抜
ぬ
けるにきまっています。なんと
危険
きけん
なことではありませんか!
このような
例
れい
は
数
かぞ
え
切
き
れないほど
多
おお
いのですが、いずれも
危険
きけん
に
至
いた
るようなことはありません。
誰
だれ
でもこんなことに
遭遇
そうぐう
するとは
限
かぎ
りませんが、
一部
いちぶ
の
者
もの
は
遭遇
そうぐう
することがありえます。
遭遇
そうぐう
しても、しなくても、いかなる
危険
きけん
もないことをわたしが
保証
ほしょう
します。しかし
一部
いちぶ
の
学習者
がくしゅうしゃ
は
心性
しんせい
の
求
もと
めるところに
従
したが
わずに、
動作
どうさ
だけをやっていて、
心性
しんせい
を
修
おさ
めようとしないので、
煉功者
れんこうしゃ
とは
言
い
えません。
師
し
が
皆
みな
さんに
何
なに
を
与
あた
えるのかと
言
い
えば、わたしは
以上
いじょう
のものを
皆
みな
さんに
与
あた
えます。わたしの
法身
ほうしん
は、
皆
みな
さんが
自分
じぶん
で
自分
じぶん
を
守
まも
ることができるようになるまで、ずっと
守
まも
ります。その
時
とき
は、あなたがついに
世間法
せけんほう
の
修煉
しゅうれん
を
出
で
て、
得道
とくどう
した
時
とき
です。しかし、
必
かなら
ず
自分
じぶん
のことを
本当
ほんとう
の
修煉者
しゅうれんしゃ
として
自覚
じかく
して、はじめてそこに
到達
とうたつ
できるのです。わたしの
本
ほん
を
手
て
にして、
街
まち
を
歩
ある
きながら、「
李
り
先生
せんせい
が
守
まも
ってくれているから、
車
くるま
なんか
怖
こわ
くない!」と
叫
さけ
ぶ
者
もの
もいますが、それは
大法
ダーファー
を
破壊
はかい
しているので、このような
人
ひと
を
守
まも
るはずがありません。
実際
じっさい
、
真
しん
に
修
おさ
める
弟子
でし
はこんなことをするはずもありません。
エネルギー
場
ば
煉功
れんこう
する
時
とき
に、まわりに
一
ひと
つの
場
ば
が
出来
でき
ますが、それは
何
なん
の
場
ば
でしょうか?
気
き
の
場
ば
、
磁場
じば
、
電場
でんば
といろいろな
言
い
い
方
かた
があります。
実
じつ
は
何
なん
と
呼
よ
んでも
正
ただ
しくありません。なぜならその
場
ば
に
含
ふく
まれる
物質
ぶっしつ
は
非常
ひじょう
に
豊富
ほうふ
だからです。
宇宙
うちゅう
のあらゆる
空間
くうかん
を
構成
こうせい
する
物質
ぶっしつ
が、ほとんど
全部
ぜんぶ
この
功
こう
の
中
なか
に
含
ふく
まれています。それをエネルギー
場
ば
と
呼
よ
んだほうが
適当
てきとう
かも
知
し
れないので、
通常
つうじょう
われわれはエネルギー
場
ば
と
呼
よ
んでいます。
この
場
ば
はどんな
作用
さよう
をしているのでしょうか?
皆
みな
さんがご
存
ぞん
じのように、
正法
しょうぼう
の
修煉
しゅうれん
をしている
者
もの
には
次
つぎ
のような
感覚
かんかく
があります。つまり、
正法
しょうぼう
を
修煉
しゅうれん
してきたので、
慈悲
じひ
を
重
おも
んじ、
宇宙
うちゅう
の
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
という
特性
とくせい
と
同化
どうか
しているため、
学習者
がくしゅうしゃ
はこの
場
ば
に
坐
すわ
るとみんな
感
かん
じることですが、
頭
あたま
に
邪念
じゃねん
が
浮
う
かぶこともなく、タバコを
吸
す
うことすら
思
おも
い
浮
う
かばず、
和
なご
やかな
雰囲気
ふんいき
に
包
つつ
まれて、とても
心地
ここち
良
よ
く
感
かん
じます。それはほかでもなく
正法
しょうぼう
修煉者
しゅうれんしゃ
の
持
も
っているエネルギーが、この
場
ば
の
範囲
はんい
内
ない
で
作用
さよう
しているのです。この
講習会
こうしゅうかい
が
終
お
わると、
大
だい
部分
ぶぶん
の
学習者
がくしゅうしゃ
は
功
こう
を
持
も
つようになり、
本当
ほんとう
に
功
こう
が
出
で
るわけです。なぜならわたしが
伝
つた
えているのは
正法
しょうぼう
修煉
しゅうれん
のもので、あなた
自身
じしん
もその
心性
しんせい
基準
きじゅん
に
基
もと
づいて
自分
じぶん
を
律
りっ
するからです。
煉功
れんこう
を
続
つづ
けて、われわれの
心性
しんせい
の
要求
ようきゅう
に
基
もと
づいて
修煉
しゅうれん
すれば、だんだんと、あなたのエネルギーも
強
つよ
くなるはずです。
われわれは
自分
じぶん
と
他人
たにん
を
済度
さいど
し、
衆生
しゅじょう
を
済度
さいど
することを
言
い
っていますので、
法輪
ファールン
が
時計
とけい
回
まわ
りに
回転
かいてん
すると
自分
じぶん
を
済度
さいど
し、
逆
ぎゃく
時計
とけい
回
まわ
りに
回転
かいてん
すると、
人
ひと
を
済度
さいど
します。
逆
ぎゃく
時計
とけい
回
まわ
りの
時
とき
、
法輪
ファールン
はエネルギーを
放出
ほうしゅつ
するので、
他人
たにん
にその
恩恵
おんけい
を
与
あた
えます。そうすれば、あなたのエネルギー
場
ば
がカバーする
範囲
はんい
内
ない
にいる
者
もの
はみな
恵
めぐ
みを
受
う
け、
気持
きも
ちが
良
よ
いと
感
かん
じるでしょう。あなたが
街
まち
を
歩
ある
く
時
とき
も、
職場
しょくば
や
家庭
かてい
にいる
時
とき
も
同
おな
じ
役割
やくわり
を
果
は
たすことができます。あなたの
場
ば
の
範囲
はんい
内
ない
にいる
者
もの
に、あなた
自身
じしん
は
知
し
らないうちに
身体
からだ
を
調整
ちょうせい
してあげているかも
知
し
れません。この
場
ば
は
一切
いっさい
の
間違
まちが
った
状態
じょうたい
を
正
ただ
すことができるからです。
人間
にんげん
の
身体
からだ
は
病気
びょうき
があるべきものではなく、
病気
びょうき
があるのは
間違
まちが
った
状態
じょうたい
にあるからで、このエネルギー
場
ば
はその
間違
まちが
った
状態
じょうたい
を
正
ただ
すことができます。
悪
わる
い
心
こころ
の
持
も
ち
主
ぬし
が
歪
ゆが
んだことを
考
かんが
える
時
とき
、あなたの
場
ば
の
強烈
きょうれつ
な
作用
さよう
を
受
う
けて、その
考
かんが
えを
変
か
え、
悪
わる
いことを
考
かんが
えなくなるかも
知
し
れません。
人
ひと
を
罵
ののし
ろうと
思
おも
う
者
もの
も、
急
きゅう
に
考
かんが
えを
変
か
えて、やめたりします。ただ
正法
しょうぼう
修煉
しゅうれん
のエネルギー
場
ば
だけが、このような
役割
やくわり
を
果
は
たすことができます。ですから
佛教
ぶっきょう
には
昔
むかし
から、「
佛光
ぶっこう
が
普
あまね
く
照
て
らせば、
礼儀
れいぎ
が
圓明
えんめい
となる」という
言葉
ことば
がありますが、そういうことを
言
い
っているのです。
法輪大法
ファールンダーファー
の
学習者
がくしゅうしゃ
はいかに
功
こう
を
伝
つた
えるか
多
おお
くの
学習者
がくしゅうしゃ
は
家
いえ
に
帰
かえ
ってから、この
功法
こうほう
が
素晴
すば
らしいと
思
おも
い、
自分
じぶん
の
親戚
しんせき
や
友人
ゆうじん
などに
伝
つた
えようと
思
おも
います。
結構
けっこう
です。
誰
だれ
が
伝
つた
えてもかまいませんし、
誰
だれ
に
伝
つた
えてもかまいません。しかし
一
ひと
つだけ、
皆
みな
さんに
断
ことわ
っておきたいことがあります。われわれが
皆
みな
さんに
与
あた
えた
多
おお
くのものは、
計
はか
り
知
し
れない
価値
かち
があります。なぜ
皆
みな
さんに
与
あた
えたのでしょうか?
修煉
しゅうれん
してもらうためです。
修煉
しゅうれん
するからこそ、これらのものを
与
あた
えることができるのです。つまり、これから
皆
みな
さんが
功
こう
を
伝
つた
える
時
とき
、それによって
名誉
めいよ
や
利益
りえき
を
求
もと
めてはいけません。したがってわたしのように
講習会
こうしゅうかい
を
開
ひら
いて
受講
じゅこう
料
りょう
を
取
と
ってはいけません。われわれは
本
ほん
や
資料
しりょう
を
印刷
いんさつ
するために、またあちこちに
功
こう
を
伝
つた
えに
行
い
くために、
費用
ひよう
を
必要
ひつよう
とします。われわれの
受講
じゅこう
料
りょう
は、
全国
ぜんこく
でいちばん
安
やす
いのです。
一方
いっぽう
、
皆
みな
さんに
与
あた
えるものはいちばん
多
おお
く、われわれは
本当
ほんとう
に
高
たか
い
次元
じげん
へ
人
ひと
を
導
みちび
いているのです。その
点
てん
については
皆
みな
さんも
実感
じっかん
していると
思
おも
います。
法輪大法
ファールンダーファー
の
学習者
がくしゅうしゃ
として、
将来
しょうらい
功
こう
を
伝
つた
える
時
とき
、
次
つぎ
の
二
に
点
てん
を
守
まも
って
下
くだ
さい。
第一
だいいち
に、
受講
じゅこう
料
りょう
を
取
と
ってはいけないことです。われわれがたくさんのものを
与
あた
えたのは、あなたを
金
かね
持
も
ち、
有名人
ゆうめいじん
に
仕立
した
てるためではなく、あなたを
済度
さいど
するため、
修煉
しゅうれん
させるためなのです。もし、
受講
じゅこう
料
りょう
を
取
と
ったら、わたしの
法身
ほうしん
がこれまであなたに
与
あた
えたすべてのものを
回収
かいしゅう
してしまいますので、あなたも
法輪大法
ファールンダーファー
の
人
ひと
ではなくなり、あなたの
伝
つた
えるものも
法輪大法
ファールンダーファー
ではありません。
皆
みな
さんは
功
こう
を
伝
つた
える
時
とき
、
名利
みょうり
を
求
もと
めず、
無償
むしょう
で
人々
ひとびと
に
奉仕
ほうし
することです。
全国
ぜんこく
各地
かくち
の
学習者
がくしゅうしゃ
はみなこのようにしていますし、
各地
かくち
で
指導
しどう
にあたる
人
ひと
たちもみなこのように
自
みずか
ら
模範
もはん
を
示
しめ
しています。われわれの
功
こう
を
学
まな
びたければ、
来
き
てください。われわれはあなたに
責任
せきにん
を
負
お
い、
一文
いちもん
も
取
と
りません。
第
だい
二
に
に、
大法
ダーファー
に
自分
じぶん
のものを
混入
こんにゅう
してはいけないことです。つまり、
功
こう
を
伝
つた
えるにあたって、あなたの
天目
てんもく
が
開
ひら
いたにせよ、
何
なに
かが
見
み
えたにせよ、あるいは
何
なに
か
功能
こうのう
が
現
あら
われたにせよ、
自分
じぶん
に
見
み
えたもので
法輪大法
ファールンダーファー
を
解釈
かいしゃく
したりしてはいけません。あなたがその
次元
じげん
で
見
み
たわずかなものは、われわれの
法
ほう
の
真
しん
の
内容
ないよう
とは
程遠
ほどとお
いのです。ですから、
今後
こんご
功
こう
を
伝
つた
える
時
とき
、くれぐれもこのことに
注意
ちゅうい
してください。そうしなければ、
法輪大法
ファールンダーファー
の
本来
ほんらい
のものが
伝
つた
わることを
保証
ほしょう
できません。
また、わたしと
同
おな
じ
形
かたち
で
功
こう
を
伝
つた
えてはいけません。わたしのように
講演
こうえん
会
かい
のような
形
かたち
で
説法
せっぽう
してはいけません。あなたには
法
ほう
は
説
と
けません。わたしは
高
たか
い
次元
じげん
のものを
結
むす
びつけて
話
はな
しており、
意義
いぎ
が
大変
たいへん
深
ふか
いのです。
皆
みな
さんは
異
こと
なる
次元
じげん
で
修煉
しゅうれん
していますが、
将来
しょうらい
次元
じげん
が
向上
こうじょう
してから、この
録音
ろくおん
を
聞
き
いても、さらに
向上
こうじょう
することができます。
繰
く
り
返
かえ
し
聞
き
けば、いつも
新
あたら
しい
理解
りかい
、
新
あたら
しい
収穫
しゅうかく
があり、
本
ほん
を
読
よ
めばなおさらそうです。わたしの
講義
こうぎ
は、
非常
ひじょう
に
高
たか
くて
奥深
おくぶか
いものを
結
むす
びつけて
話
はな
しているので、あなたにはこの
法
ほう
を
説
と
くことができません。そして、わたしの
言葉
ことば
をあなたの
言葉
ことば
として
語
かた
ることは
許
ゆる
されません。さもなければ、
法
ほう
を
盗
ぬす
む
行為
こうい
となります。わたしの
言葉
ことば
をそのまま
述
の
べて、
先生
せんせい
がこう
話
はな
していたとか、
本
ほん
にはこう
書
か
いてあるとか、を
付
つ
け
加
くわ
えて
言
い
うべきです。なぜなら、そのように
話
はな
せば、
大法
ダーファー
の
力
ちから
を
帯
お
びるようになるからです。
自分
じぶん
の
知
し
っていることを
法輪大法
ファールンダーファー
として
伝
つた
えてはいけません。さもなければ、あなたの
伝
つた
えるものは
法輪大法
ファールンダーファー
でなくなり、
法輪大法
ファールンダーファー
を
破壊
はかい
することになるのです。あなたの
理解
りかい
や
考
かんが
えに
基
もと
づいて
伝
つた
えるものは、
法
ほう
ではなく、
人
ひと
を
済度
さいど
することができず、
何
なん
の
効果
こうか
もありません。ですから、
誰
だれ
もこの
法
ほう
を
説
と
けるはずがありません。
皆
みな
さんが
功
こう
を
伝
つた
える
方法
ほうほう
は、
煉功
れんこう
場
ば
や
功
こう
を
伝
つた
える
場
ば
で、
学習者
がくしゅうしゃ
にわたしの
録音
ろくおん
を
聞
き
かせ、ビデオを
見
み
せ、それから
指導
しどう
にあたる
人
ひと
たちが
煉功
れんこう
の
指導
しどう
をします。また、
座談会
ざだんかい
の
形
かたち
で、
互
たが
いに
交流
こうりゅう
したり、
体験
たいけん
談
だん
を
話
はな
したりしてもよいのです。このようにすることは
望
のぞ
ましいことです。もう
一
ひと
つは、
法輪大法
ファールンダーファー
を
広
ひろ
める
学習者
がくしゅうしゃ
(
弟子
でし
)のことを、
先生
せんせい
とか
大師
だいし
とかと
呼
よ
んではいけません。
大法
ダーファー
の
師
し
は
一人
ひとり
しかいません。
入門
にゅうもん
した
者
もの
は
早
はや
い
遅
おそ
いにかかわらず、
全員
ぜんいん
弟子
でし
です。
皆
みな
さんは
功
こう
を
伝
つた
える
時
とき
、「
先生
せんせい
は
法輪
ファールン
を
植
う
えつけることができるし、
人
ひと
のために
身体
からだ
を
調整
ちょうせい
してくれるが、わたしたちにはそんなことはできない」と
思
おも
う
人
ひと
がいるかも
知
し
れません。その
点
てん
は
大丈夫
だいじょうぶ
です。
皆
みな
さんにお
話
はな
ししたように、すべての
学習者
がくしゅうしゃ
にわたしの
法身
ほうしん
が
付
つ
いており、しかも
一
ひと
つにとどまらないので、わたしの
法身
ほうしん
がそれらのことをすることになります。
人
ひと
に
教
おし
える
時
とき
、もしその
人
ひと
に
縁
えん
があれば、
直
ただ
ちに
法輪
ファールン
が
得
え
られます。
縁
えん
が
薄
うす
ければ、
身体
からだ
の
調整
ちょうせい
を
経
へ
て、
煉功
れんこう
するようになってから、そのうち
得
え
られますので、わたしの
法身
ほうしん
が
彼
かれ
のために
身体
からだ
の
調整
ちょうせい
をします。そればかりではなく、わたしの
本
ほん
を
読
よ
んだり、わたしのビデオを
見
み
たり、あるいはわたしの
録音
ろくおん
を
聞
き
いて、
法
ほう
を
学
まな
び、
功
こう
を
学
まな
び、
自分
じぶん
を
真
しん
の
煉功者
れんこうしゃ
と
自覚
じかく
すれば、
同様
どうよう
に
得
え
るべきものが
得
え
られます。
学習者
がくしゅうしゃ
が
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治療
ちりょう
することを
許
ゆる
しません。
法輪大法
ファールンダーファー
の
学習者
がくしゅうしゃ
が、
人
ひと
の
病気
びょうき
を
治療
ちりょう
することを
絶対
ぜったい
禁止
きんし
します。われわれは、
皆
みな
さんが
執着心
しゅうちゃくしん
を
起
お
こしたり、
自分
じぶん
の
身体
からだ
を
壊
こわ
したりしないように、
上
うえ
をめざして
修煉
しゅうれん
するよう
教
おし
えています。われわれの
煉功場
れんこうば
は
他
ほか
のいかなる
功法
こうほう
の
練功場
れんこうば
よりも
素晴
すば
らしく、われわれの
場
ば
は、そこへ
行
い
って
煉功
れんこう
さえすれば、
病気
びょうき
治療
ちりょう
よりずっと
効
き
き
目
め
があります。わたしの
法身
ほうしん
がまわりを
囲
かこ
んで
坐
すわ
り、
煉功
れんこう
場
ば
の
上空
じょうくう
には
覆
おお
いがあり、その
上
うえ
に
大
おお
きな
法輪
ファールン
があって、「
大法身
だいほうしん
」が
覆
おお
いの
上
うえ
から
煉功
れんこう
場
ば
を
見守
みまも
っています。その
場
ば
は、
並大抵
なみたいてい
の
場
ば
ではなく、
普通
ふつう
の
練功
れんこう
の
場
ば
とは
違
ちが
い、
修煉
しゅうれん
の
場
ば
なのです。
功能
こうのう
を
持
も
つ
多
おお
くの
人
ひと
はみな、
赤
あか
い
光
ひかり
に
包
つつ
まれて、
一
いち
面
めん
真
ま
っ
赤
か
になっている
法輪大法
ファールンダーファー
のこの
場
ば
を
見
み
たことがあります。
わたしの
法身
ほうしん
は
直接
ちょくせつ
法輪
ファールン
を
植
う
えつけることもできます。しかしわれわれは
執着心
しゅうちゃくしん
を
助長
じょちょう
しません。あなたが
人
ひと
に
動作
どうさ
を
教
おし
える
時
とき
、その
人
ひと
が
突然
とつぜん
「わたしにも
法輪
ファールン
があった」と
言
い
えば、あなたは
自分
じぶん
が
植
う
えつけたと
思
おも
うかも
知
し
れませんが、それは
違
ちが
います。
皆
みな
さんにこのことを
話
はな
しているのは、その
執着心
しゅうちゃくしん
を
起
お
こさせないためです。
実
じつ
はすべてわたしの
法身
ほうしん
がやっているのです。
法輪大法
ファールンダーファー
の
弟子
でし
は
以上
いじょう
のように
功
こう
を
伝
つた
えるものです。
法輪大法
ファールンダーファー
の
功法
こうほう
を
改
かい
ざんしようとする
者
もの
がいれば、
彼
かれ
が
大法
ダーファー
を
破壊
はかい
し、この
法門
ほうもん
を
破壊
はかい
する
者
もの
にほかなりません。
功法
こうほう
を
囃
はや
し
唄
うた
に
直
なお
す
者
もの
がいますが、
絶対
ぜったい
許
ゆる
されません。
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
法
ほう
はみな
先史
せんし
時代
じだい
から
残
のこ
ったもので、
大昔
おおむかし
から
伝
つた
わってきたものです。
数
かぞ
え
切
き
れないほどの
大覚者
だいかくしゃ
がそれによって
修煉
しゅうれん
し、
成就
じょうじゅ
しました。
誰
だれ
一人
ひとり
としてそれを
変
か
えようとする
者
もの
はいませんでした。これもこの
末法
まっぽう
の
時期
じき
にしか
見
み
られないことです。
歴史
れきし
上
じょう
こんなことはありえないことでした。
皆
みな
さんはぜひともこの
点
てん
に
注意
ちゅうい
してください。