轉 法 輪
第四講
失
しつ
と
得
とく
修煉界
しゅうれんかい
では、
失
しつ
と
得
とく
の
関係
かんけい
についてよく
議論
ぎろん
されており、
常人
じょうじん
の
間
あいだ
でも
議論
ぎろん
されています。しかし、
煉功者
れんこうしゃ
としては、どのように
失
しつ
と
得
とく
に
対処
たいしょ
すればよいでしょうか? それは
常人
じょうじん
の
場合
ばあい
とは
違
ちが
います。
常人
じょうじん
が
得
え
ようとしているものは
個人
こじん
の
利益
りえき
で、どうすれば
暮
くら
しが
良
よ
くなるか、どうすれば
楽
らく
に
暮
くら
せるかということです。
煉功者
れんこうしゃ
はそれと
正反対
せいはんたい
に、
常人
じょうじん
の
得
え
ようとするものは
求
もと
めようとしません。そのかわり、
常人
じょうじん
は
修煉
しゅうれん
しないかぎり、われわれの
得
え
るものを
得
え
ようとしても
得
え
られません。
われわれが
言
い
っている「
失
しつ
」とは、
狭
せま
い
範囲
はんい
に
限
かぎ
られたものではありません。
失
しつ
といえば、すぐに
金銭
きんせん
や
財産
ざいさん
の
喜捨
きしゃ
、
例
たと
えば
困
こま
った
人
ひと
を
援助
えんじょ
したり、
街
まち
で
物乞
ものご
いに
物
もの
を
与
あた
えたりするようなことが
連想
れんそう
されますが、これも
確
たし
かに
放棄
ほうき
の
一
ひと
つで、
失
しつ
の
内
うち
に
入
はい
ることは
間違
まちが
いありません。しかし、それはあくまでも
金銭
きんせん
や
物質
ぶっしつ
的
てき
なものにあまりこだわらないというだけのことです。
財産
ざいさん
を
放棄
ほうき
することは
失
しつ
の
中
なか
の
一
いち
面
めん
であり、それも
比較的
ひかくてき
重要
じゅうよう
な
一
いち
面
めん
であることは
言
い
うまでもありません。しかし、われわれの
言
い
う
失
しつ
は、
決
けっ
してこのような
狭
せま
い
範囲
はんい
のものではありません。われわれが
修煉
しゅうれん
するにあたって、
煉功者
れんこうしゃ
として
放棄
ほうき
しなければならない
心
こころ
があまりにも
多
おお
いのです。
顕示
けんじ
心
しん
や
嫉妬
しっと
心
しん
、
闘争心
とうそうしん
、
歓喜
かんき
心
しん
など、
多
おお
くのさまざまな
執着心
しゅうちゃくしん
がありますが、それらはみな
放棄
ほうき
しなければなりません。したがって、われわれの
言
い
う
失
しつ
は、より
広義
こうぎ
なものであり、それは
修煉
しゅうれん
する
全
ぜん
過程
かてい
において、
常人
じょうじん
のもっているあらゆる
執着心
しゅうちゃくしん
とあらゆる
欲望
よくぼう
を
放棄
ほうき
しなければならない、ということを
意味
いみ
します。
でも
自分
じぶん
たちは
常人
じょうじん
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
する
者
もの
なのだから、
何
なに
もかもすべて
放棄
ほうき
してしまうと、
和尚
おしょう
になってしまうのではないか?
尼僧
にそう
になってしまうのではないか?
全部
ぜんぶ
放棄
ほうき
することなどとても
考
かんが
えられないという
人
ひと
がいるかも
知
し
れません。われわれの
法門
ほうもん
では、
常人
じょうじん
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
する
部分
ぶぶん
があって、
常人
じょうじん
社会
しゃかい
に
身
み
を
置
お
きながら
修煉
しゅうれん
し、
最大限
さいだいげん
に
常人
じょうじん
と
一致
いっち
を
保
たも
つよう
求
もと
めているのであって、
物質
ぶっしつ
的
てき
利益
りえき
において
本当
ほんとう
に
何
なに
かを
失
うしな
わせるのではありません。どんなに
地位
ちい
の
高
たか
い
官職
かんしょく
に
就
つ
いても、いくら
大金持
おおがねも
ちになったとしても、いっこうに
構
かま
いません。
最
もっと
も
大切
たいせつ
なのは、それらのことに
対
たい
する
執着心
しゅうちゃくしん
を
放棄
ほうき
することができるかどうかということです。
われわれの
法門
ほうもん
は、
人心
じんしん
を
真
ま
っ
直
す
ぐに
指
さ
すもので、
個人
こじん
の
利益
りえき
や
対人
たいじん
関係
かんけい
の
軋轢
あつれき
において、それらのことを
気
き
にかけないでいられるかどうかが
肝要
かんよう
です。
寺院
じいん
や
深山
しんざん
で
修煉
しゅうれん
する
場合
ばあい
は、
完全
かんぜん
に
常人
じょうじん
の
社会
しゃかい
と
断絶
だんぜつ
させ、
強制
きょうせい
的
てき
に
常人
じょうじん
の
心
こころ
を
放棄
ほうき
させ、
物質
ぶっしつ
的
てき
利益
りえき
が
得
え
られない
状況
じょうきょう
に
身
み
を
投
とう
じさせて、
失
うしな
わせるのです。それに
対
たい
し、
常人
じょうじん
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
には、このような
方法
ほうほう
をとらず、
常人
じょうじん
の
生活
せいかつ
環境
かんきょう
のまっただ
中
なか
にいながら、それらのことに
淡々
たんたん
としていられるよう
求
もと
めます。
言
い
うまでもなく、これは
大変
たいへん
難
むずか
しいことですが、われわれの
法門
ほうもん
の
最
もっと
も
重要
じゅうよう
なことでもあります。ですから、われわれの
言
い
う
失
しつ
は、より
広
ひろ
い
意味
いみ
のもので、
狭
せま
い
意味
いみ
のものではありません。
良
よ
いことをする、
例
たと
えば、
金銭
きんせん
や
財産
ざいさん
を
喜捨
きしゃ
することについてですが、
現在
げんざい
、
街
まち
をうろうろする
物乞
ものご
いの
中
なか
にはプロの
物乞
ものご
いもおり、あなたよりも
金
かね
を
持
も
っているかも
知
し
れません。ですから、
瑣末
さまつ
なことではなく、
大
おお
きなところに
目
め
を
向
む
けなければならず、
修煉
しゅうれん
は、
堂々
どうどう
と
大
おお
きいところに
着眼
ちゃくがん
して
修煉
しゅうれん
しなければなりません。われわれが
失
うしな
うにあたって
本当
ほんとう
に
失
うしな
うべきものは、
良
よ
くないものしかありません。
人間
にんげん
は、
自分
じぶん
が
追求
ついきゅう
しているものはすべて
良
よ
いものだ、と
思
おも
い
込
こ
みがちです。しかし、
高次元
こうじげん
から
見
み
れば、それらはみな
常人
じょうじん
におけるささやかな
既得権益
きとくけんえき
を
満足
まんぞく
させるためのものに
過
す
ぎません。
宗教
しゅうきょう
では、あなたがどんなに
金
かね
持
も
ちになっても、どれほど
高
たか
い
地位
ちい
の
官職
かんしょく
に
就
つ
いても、たかが
数
すう
十
じゅう
年
ねん
のものだと
言
い
っています。それらは
生
う
まれる
時
とき
に
持
も
ってくることのできるものでもなければ、
死
し
ぬ
時
とき
に
持
も
っていくことのできるものでもありません。なぜこの
功
こう
は、こんなに
貴重
きちょう
なものとされるのでしょうか? それは
功
こう
が
直接
ちょくせつ
元神
げんしん
の
身体
からだ
にできるものなので、
生
う
まれる
時
とき
に
持
も
ってくることができるだけでなく、
死
し
ぬ
時
とき
に
持
も
っていくこともできるからです。しかも、それは
直接
ちょくせつ
あなたの
果位
かい
を
決
き
めるものです。だからこそ
容易
ようい
に
修煉
しゅうれん
できるものではありません。
良
よ
くないものを
捨
す
てることによってはじめて
返本帰真
へんぽんきしん
を
実現
じつげん
することができます。それでは、
何
なに
を
得
え
るのでしょうか? それは
次元
じげん
の
向上
こうじょう
と、
最後
さいご
には
正果
しょうか
を
得
え
、
功
こう
成
な
って
圓満成就
えんまんじょうじゅ
に
達
たっ
することにほかならず、
根本
こんぽん
的
てき
な
問題
もんだい
を
解決
かいけつ
するということです。もっとも、
常人
じょうじん
のもっているさまざまな
欲望
よくぼう
を
捨
す
てて、
真
しん
の
修煉者
しゅうれんしゃ
の
基準
きじゅん
に
達
たっ
することは、
一挙
いっきょ
にというわけにはいかず、
徐々
じょじょ
に
努力
どりょく
しなければなりません。しかし、わたしが「
徐々
じょじょ
に」と
言
い
ったからといって、
先生
せんせい
がそう
言
い
うのだから、
徐々
じょじょ
に
修煉
しゅうれん
すればよいのだと
考
かんが
えてはなりません!
徐々
じょじょ
に
向上
こうじょう
することは
許
ゆる
しますが、あなた
自身
じしん
は
自
みずか
らを
厳
きび
しく
律
りっ
しなければなりません。もし
今日中
きょうじゅう
にいっぺんに
達成
たっせい
できれば、
今日
きょう
にでも
佛
ほとけ
になれるのですが、それは
現実
げんじつ
的
てき
ではありません。あなたは
徐々
じょじょ
にそこに
到達
とうたつ
していくでしょう。
われわれが
失
うしな
うものは、
実際
じっさい
に
悪
わる
いものにほかなりません。それは
何
なん
でしょうか? それはほかならぬ
業力
ごうりき
なのです。この
業力
ごうりき
は
人間
にんげん
のさまざまな
執着心
しゅうちゃくしん
と
一体
いったい
関係
かんけい
にあります。
例
たと
えば、
常人
じょうじん
はさまざまな
良
よ
くない
心
こころ
をもち、
個人
こじん
の
利益
りえき
のためにいろいろ
悪
わる
いことをし、そこで
業力
ごうりき
という
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
を
得
え
ることになります。これはわれわれ
自身
じしん
の
心
こころ
と
直接
ちょくせつ
に
関係
かんけい
していることなので、
良
よ
くないものを
取
と
り
除
のぞ
こうと
思
おも
えば、まずあなたのこの
心
こころ
を
是正
ぜせい
しなければならないのです。
業力
ごうりき
の
転化
てんか
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
と
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
の
間
あいだ
には、
相互
そうご
に
転化
てんか
するという
過程
かてい
があります。
人
ひと
と
人
ひと
との
間
あいだ
にトラブルが
起
お
きると、そこに
転化
てんか
する
過程
かてい
があります。
良
よ
いことをすれば、
徳
とく
という
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
を
得
え
ることになり、
悪
わる
いことをすると
業力
ごうりき
という
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
を
得
え
ることになります。さらにまた
継承
けいしょう
するという
過程
かてい
もあります。「それは
前
ぜん
半生
はんせい
で
何
なに
か
悪
わる
いことをしたためではないだろうか?」と
言
い
う
人
ひと
がいますが、
必
かなら
ずしもそうとは
限
かぎ
りません。なぜかと
言
い
えば、
人間
にんげん
の
持
も
っている
業力
ごうりき
は
決
けっ
して
一世一代
いっせいちだい
で
積
つ
み
重
かさ
なったものではありません。
修煉界
しゅうれんかい
では、
元神
げんしん
は
不滅
ふめつ
だと
考
かんが
えています。もし
元神
げんしん
が
不滅
ふめつ
なものならば、その
人
ひと
にはその
人
ひと
の
前世
ぜんせ
での
社会
しゃかい
活動
かつどう
があるかも
知
し
れません。そして、その
人
ひと
は
前世
ぜんせ
の
社会
しゃかい
生活
せいかつ
の
中
なか
で、
誰
だれ
かに
借
か
りがあったかも
知
し
れません。あるいは
誰
だれ
かをいじめたことがあるかも
知
し
れません。あるいはその
他
ほか
の
悪
わる
いこと、
例
たと
えば
殺生
せっしょう
などをしていたかも
知
し
れません。とすれば、それらによって、
業力
ごうりき
を
造
つく
ってしまうことがあります。これらのものは、
他
た
の
空間
くうかん
において
次
つぎ
から
次
つぎ
へと
蓄積
ちくせき
され、いつまでも
身
み
に
付
つ
いて
存続
そんぞく
していくものです。
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
の
場合
ばあい
もまったく
同
おな
じで、しかも
由来
ゆらい
はこれ
一
ひと
つに
限
かぎ
りません。その
他
ほか
に、もう
一
ひと
つの
情況
じょうきょう
があります。つまり、
家族
かぞく
の
間
あいだ
や
先祖
せんぞ
からも
蓄積
ちくせき
されてくることがあるということです。
昔
むかし
から
年寄
としよ
りの
方
かた
たちは、
徳
とく
を
積
つ
もう、
徳
とく
を
積
つ
もうとか、
先祖
せんぞ
がよく
徳
とく
を
積
つ
んでくれたとか、あの
人
ひと
は
徳
とく
を
失
うしな
っているとか、
徳
とく
を
損
そこ
なっているとかということをよく
言
い
いますが、まったくその
通
とお
りです。しかし、
現在
げんざい
の
常人
じょうじん
は、すでにこれらの
言葉
ことば
には
耳
みみ
を
貸
か
そうとしません。
若
わか
い
人
ひと
たちに、それは
不徳
ふとく
なことだ、そんなことをすると
徳
とく
を
損
そこ
なうんだよ、と
諭
さと
してあげても、まったく
聞
き
く
耳
みみ
を
持
も
たないでしょう。
実
じつ
を
言
い
うと、それにはきわめて
深
ふか
い
意味
いみ
があります。それは
近代
きんだい
人
じん
の
思想
しそう
と
精神
せいしん
の
基準
きじゅん
となるものであるのみならず、
真
しん
の
物質
ぶっしつ
的
てき
存在
そんざい
でもあります。
人間
にんげん
の
身体
からだ
にはこの
二
ふた
つの
物質
ぶっしつ
のいずれもが
宿
やど
っています。
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
が
多
おお
ければ、
高
たか
い
次元
じげん
へ
修煉
しゅうれん
することができなくなるのではないか、と
言
い
う
人
ひと
がいます。
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
の
多
おお
い
人
ひと
は、
悟性
ごせい
に
影響
えいきょう
があるということは
言
い
えます。なぜかと
言
い
えば、
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
は
身体
からだ
のまわりに
一
ひと
つの
場
ば
を
形成
けいせい
し、あなたをその
真
ま
ん
中
なか
に
囲
かこ
み、
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
という
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
と
切
き
り
離
はな
してしまうので、このような
人
ひと
はそれによって
悟性
ごせい
が
悪
わる
くなっているかも
知
し
れません。
彼
かれ
らは
気功
きこう
や
修煉
しゅうれん
の
話
はなし
を
聞
き
くと、すべて
迷信
めいしん
だとして、まったく
信
しん
じようとせず、
馬鹿
ばか
げた
話
はなし
だと
思
おも
うのです。
全部
ぜんぶ
が
全部
ぜんぶ
そうとは
限
かぎ
らないにしても、よくあることです。それでは、この
人
ひと
たちは
修煉
しゅうれん
しようとしても
無理
むり
であり、
高
たか
い
次元
じげん
の
功
こう
を
得
え
ることができないのでしょうか? そうでもありません。
大法
ダーファー
は
無辺
むへん
であり、すべてが
心
こころ
の
修煉
しゅうれん
にかかっています。「
師
し
は
入口
いりぐち
まで
導
みちび
くが、
修行
しゅぎょう
は
各自
かくじ
にあり」と
言
い
われているように、すべてあなた
自身
じしん
がどのように
修煉
しゅうれん
するかによります。
修煉
しゅうれん
できるかできないかということは、あなた
自身
じしん
が
忍耐
にんたい
することができるかどうか、
代償
だいしょう
を
支払
しはら
うことができるかどうか、
苦
くる
しみに
耐
た
えられるかどうかによって
決
き
まります。いかなる
困難
こんなん
にも
阻
はば
まれないほどの
固
かた
い
決意
けつい
をもっていれば、
何
なん
の
問題
もんだい
もないでしょう。
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
の
多
おお
い
人
ひと
は
往々
おうおう
にして
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
の
多
おお
い
人
ひと
と
比
くら
べて、より
多
おお
くの
苦労
くろう
をしなければなりません。なぜなら、
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
は
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
という
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
にそのまま
同化
どうか
しているので、
心性
しんせい
さえ
向上
こうじょう
すれば、トラブルの
中
なか
で
自分
じぶん
を
高
たか
めることさえできれば、
功
こう
が
速
すみ
やかに
伸
の
びるからです。
徳
とく
の
多
おお
い
人
ひと
は
悟性
ごせい
が
優
すぐ
れていて、
苦痛
くつう
に
耐
た
えることもできます。「
其
そ
の
筋骨
きんこつ
を
労
ろう
せしめ、
其
そ
の
心志
しんし
を
苦
くる
しめる」と
言
い
われていますが、たとえ
肉体
にくたい
的
てき
な
苦痛
くつう
より
精神
せいしん
的
てき
な
苦痛
くつう
のほうが
少
すく
ない
場合
ばあい
であっても、
功
こう
を
伸
の
ばすことができます。しかし、
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
の
多
おお
い
人
ひと
はそう
簡単
かんたん
にはいかず、まず
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
を
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
に
転化
てんか
させる
過程
かてい
を
経
へ
なければならず、その
過程
かてい
はまたきわめて
辛
つら
いものです。したがって
悟性
ごせい
の
優
すぐ
れない
人
ひと
は
往々
おうおう
にして、より
多
おお
くの
苦痛
くつう
に
耐
た
えなければならず、
業力
ごうりき
が
大
おお
きければ
悟性
ごせい
が
優
すぐ
れないのですから、
修煉
しゅうれん
がいよいよ
難
むずか
しくなります。
そのような
人
ひと
はどういうふうに
修煉
しゅうれん
しているのか、
具体
ぐたい
例
れい
を
挙
あ
げて
説明
せつめい
しましょう。
禅定
ぜんじょう
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
するには、
足
あし
を
組
く
んで
長時間
ちょうじかん
坐禅
ざぜん
を
続
つづ
けなければなりません。
足
あし
を
組
く
んで
坐禅
ざぜん
していると、
足
あし
が
痛
いた
み
痺
しび
れてきます。
時間
じかん
が
長
なが
くなると、
心
こころ
が
乱
みだ
れ
始
はじ
め、しかも
次第
しだい
に
激
はげ
しくなっていきます。「
其
そ
の
筋骨
きんこつ
を
労
ろう
せしめ、
其
そ
の
心志
しんし
を
苦
くる
しめる」と
言
い
われているように、
肉体
にくたい
が
痛
いた
ければ、
心
こころ
も
乱
みだ
れます。
坐禅
ざぜん
をする
時
とき
、
痛
いた
みだすとすぐ
足
あし
を
崩
くず
してやめようとする
人
ひと
がいます。そして、
坐禅
ざぜん
の
時間
じかん
が
少
すこ
しでも
長
なが
くなると、
耐
た
えられない
人
ひと
もいます。しかし、
足
あし
を
崩
くず
すと、せっかくの
煉功
れんこう
が
無駄
むだ
になってしまいます。
坐禅
ざぜん
をして
足
あし
が
痛
いた
くなれば、しばらく
足
あし
を
動
うご
かし、また
足
あし
を
組
く
み
直
なお
して
坐禅
ざぜん
をする、そんなやり
方
かた
では、
何
なん
の
効果
こうか
もありません。なぜかと
言
い
えば、
足
あし
に
痛
いた
みを
感
かん
じる
時
とき
、われわれは、
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
が
彼
かれ
の
足
あし
を
攻
せ
めているのが
見
み
えます。その
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
はすなわち
業力
ごうりき
なのです。
苦痛
くつう
に
耐
た
えていれば、
業
ごう
を
消
け
して
徳
とく
に
転化
てんか
させることができます。
足
あし
が
痛
いた
くなることはすなわち
業力
ごうりき
が
消去
しょうきょ
され
始
はじ
めているということです。
業力
ごうりき
が
足
あし
の
方
ほう
に
押
お
し
寄
よ
せれば
押
お
し
寄
よ
せるほど、
足
あし
の
痛
いた
みがひどくなります。ですから、
足
あし
が
痛
いた
くなることにはそれなりの
理由
りゆう
があるわけです。
坐禅
ざぜん
する
場合
ばあい
の
足
あし
の
痛
いた
みは
通常
つうじょう
、
断続
だんぞく
的
てき
な
痛
いた
みで、
耐
た
えきれないほど
辛
つら
くても、それが
過
す
ぎるとだいぶ
苦痛
くつう
が
和
やわ
らぐようになります。しばらくすると、また
痛
いた
みが
激
はげ
しくなります。たいていそうなるのです。
業力
ごうりき
は
一塊
ひとかたまり
ずつ
消去
しょうきょ
していくものですので、
一塊
ひとかたまり
の
業力
ごうりき
が
消去
しょうきょ
されると、
足
あし
の
痛
いた
みがその
分
ぶん
和
やわ
らいで
楽
らく
になります。しばらくして、また
一塊
ひとかたまり
の
業力
ごうりき
がやってきて、
再
ふたた
び
痛
いた
みだします。
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
は
消去
しょうきょ
された
後
あと
、
散
ち
らばって
消
き
えてしまうというわけではありません。この
物質
ぶっしつ
も
不滅
ふめつ
のもので、
消去
しょうきょ
された
後
あと
、
直接
ちょくせつ
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
に
転化
てんか
します。この
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
はすなわち
徳
とく
です。どうしてこのように
転化
てんか
することができるのでしょうか? それは
本人
ほんにん
が
辛
つら
いことに
耐
た
えて
自
みずか
ら
代償
だいしょう
を
支払
しはら
い、
苦痛
くつう
を
耐
た
え
抜
ぬ
くことができたからです。
徳
とく
は
自分
じぶん
が
苦痛
くつう
に
耐
た
えて、
良
よ
いことをすることによって
得
え
たものです。そのため、
坐禅
ざぜん
をする
時
とき
には
以上
いじょう
のようなことが
現
あら
われてきます。ですから、
足
あし
が
痛
いた
くなるとすぐ
崩
くず
し、
少
すこ
し
動
うご
かしてからまた
坐禅
ざぜん
をやり
直
なお
すような
人
ひと
の
場合
ばあい
は、
何
なん
の
効果
こうか
もないと
言
い
っています。
站樁
たんとう
をする
時
とき
、
腕
うで
が
疲
つか
れてくると、
我慢
がまん
できなくなって、
下
お
ろしてしまう
人
ひと
がいますが、それでは
全然
ぜんぜん
効果
こうか
がありません。これぐらいの
苦痛
くつう
が
何
なん
だというのですか? もし
人
ひと
がこのように
腕
うで
を
上
あ
げるだけで
修煉
しゅうれん
が
成就
じょうじゅ
できるならば、
修煉
しゅうれん
はあまりにも
易
やさ
しすぎるものになります。
以上
いじょう
は、
人
ひと
びとが
禅定
ぜんじょう
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
する
時
とき
に
現
あら
われることについてです。
これも
部分
ぶぶん
的
てき
には
役
やく
に
立
た
ちますが、われわれの
法門
ほうもん
では、これを
主
おも
な
方法
ほうほう
とはしません。われわれは
基本
きほん
的
てき
に、
人
ひと
と
人
ひと
との
間
あいだ
の
心性
しんせい
の
摩擦
まさつ
の
中
なか
で
業力
ごうりき
を
転化
てんか
させるのであって、
普通
ふつう
そうやって
転化
てんか
を
実現
じつげん
するのです。
人間
にんげん
がトラブルの
中
なか
、または
人間
にんげん
同士
どうし
の
摩擦
まさつ
の
中
なか
に
身
み
を
置
お
かされた
時
とき
の
苦痛
くつう
は、
肉体
にくたい
的
てき
な
苦痛
くつう
よりも
辛
つら
いものです。わたしに
言
い
わせれば、
肉体
にくたい
の
苦痛
くつう
は
最
もっと
も
耐
た
えやすく、じっと
我慢
がまん
すれば、
何
なん
とか
耐
た
え
抜
ぬ
くことができます。しかし、
人
ひと
と
人
ひと
とがいがみ
合
あ
う
時
とき
の
心
こころ
は、
最
もっと
も
制御
せいぎょ
しにくいものです。
一
ひと
つ
例
れい
を
挙
あ
げてみましょう。ある
人
ひと
が
職場
しょくば
に
行
い
ったら、
同僚
どうりょう
の
二人
ふたり
がそこで
自分
じぶん
の
悪口
わるぐち
を
言
い
っているのが
聞
き
こえました。あまりにもひどいことを
言
い
われたので、ついかっとなりました。しかし、すでにお
話
はな
ししたように、
煉功者
れんこうしゃ
としては、
殴
なぐ
られても
殴
なぐ
り
返
かえ
さず、
罵
ののし
られてもやり
返
かえ
さないで、
常
つね
に
高
たか
い
基準
きじゅん
で
自分
じぶん
を
律
りっ
しなければなりません。そこで、
彼
かれ
は「
煉功者
れんこうしゃ
は
常人
じょうじん
と
違
ちが
って、
広
ひろ
い
心
こころ
をもたなければならない」という
先生
せんせい
の
教
おし
えを
思
おも
い
出
だ
し、その
二人
ふたり
と
口論
こうろん
をしませんでした。しかし、
往々
おうおう
にしてトラブルが
発生
はっせい
する
時
とき
、それが
人
ひと
の
心
こころ
の
奥深
おくぶか
いところを
刺
さ
すような
激
はげ
しいものでないと
効果
こうか
が
上
あ
がらず、
向上
こうじょう
につながりません。というわけで、
彼
かれ
はやはり
気
き
になってたまらず、どうしても
後
うし
ろを
振
ふ
り
向
む
いて、その
二人
ふたり
の
様子
ようす
を
覗
のぞ
いてしまうかも
知
し
れません。
振
ふ
り
返
かえ
って
見
み
たら、
二人
ふたり
はちょうど
憎々
にくにく
しげに、
調子
ちょうし
に
乗
の
って
悪口
わるぐち
を
言
い
っているではありませんか。そこで、
彼
かれ
もついに
我慢
がまん
できなくなり、かっとなって
相手
あいて
と
喧嘩
けんか
してしまう
可能
かのう
性
せい
もあります。このように、
人
ひと
と
人
ひと
との
間
あいだ
にトラブルが
発生
はっせい
した
時
とき
に、
穏
おだ
やかな
心
こころ
を
保
たも
つことは
大変
たいへん
難
むずか
しいものです。もしすべてを
坐禅
ざぜん
で
解決
かいけつ
することができれば、その
方
ほう
がむしろ
易
やさ
しいかも
知
し
れません。しかし、いつもそううまくはいかないものです。
したがって、
今後
こんご
煉功
れんこう
する
際
さい
、さまざまな
魔難
まなん
に
遭
あ
うでしょう。それらの
魔難
まなん
がなければ、
修煉
しゅうれん
がどうやってできるでしょうか?
誰
だれ
もが
和気
わき
藹々
あいあい
としており、
利益
りえき
についての
衝突
しょうとつ
や
心
こころ
が
乱
みだ
されることもなく、ただそこに
坐
すわ
っているだけで、
心性
しんせい
が
高
たか
まることになるでしょうか? そんなことはまずありえません。
人間
にんげん
は
実践
じっせん
の
中
なか
で
本当
ほんとう
に
自分
じぶん
を
錬磨
れんま
しないかぎり、
向上
こうじょう
することはありえません。「どうして
煉功
れんこう
すると、
次々
つぎつぎ
と
厄介
やっかい
なことにぶつかるのでしょうか? しかも
常人
じょうじん
の
中
なか
の
厄介
やっかい
なこととあまり
変
か
わりがありません」と
言
い
う
人
ひと
がいます。あなたは
常人
じょうじん
の
中
なか
に
身
み
を
置
お
いて
修煉
しゅうれん
するのだから、
突然
とつぜん
あなたを
逆
さか
さ
吊
づ
りにして
空中
くうちゅう
に
引
ひ
き
上
あ
げ、
宙
ちゅう
にぶらさげたまま
苦労
くろう
をさせるわけにはいきません。
今日
きょう
、
誰
だれ
かがあなたの
気
き
に
障
さわ
るようなことを
言
い
ったとか、
誰
だれ
かがあなたを
怒
おこ
らせたとか、
誰
だれ
かが
失礼
しつれい
なことをしたとか、あるいは
誰
だれ
かがあなたに
不遜
ふそん
なことを
言
い
ったなど、いずれも
常人
じょうじん
の
中
なか
でよく
起
お
きる
状態
じょうたい
ですが、そこであなたがどう
対処
たいしょ
するかが
問題
もんだい
なのです。
さて、どうしてこういうことにぶつかるのでしょうか? それらはみな
自分
じぶん
自身
じしん
の
業力
ごうりき
によるものです。われわれはすでに
数
かぞ
え
切
き
れないほど
多
おお
くの
業力
ごうりき
を
消
け
してあげました。
残
のこ
ったわずかなものは、あなたの
心性
しんせい
を
高
たか
め、
人心
じんしん
を
錬磨
れんま
し、さまざまな
執着心
しゅうちゃくしん
を
取
と
り
除
のぞ
くために、「
魔難
まなん
」として
各
かく
次元
じげん
に
割
わ
り
当
あ
てました。それらの
難
なん
はもとよりあなた
自身
じしん
が
持
も
っているもので、われわれはあなたの
心性
しんせい
を
高
たか
めるためにそれらを
利用
りよう
するのですが、いずれも
乗
の
り
越
こ
えられるようにしてあります。あなたが
心性
しんせい
を
向上
こうじょう
させさえすれば、
必
かなら
ず
乗
の
り
越
こ
えられるものです。それを
乗
の
り
越
こ
えようとする
気
き
がなければ
話
はなし
は
別
べつ
ですが、
乗
の
り
越
こ
えようと
思
おも
えば、
乗
の
り
越
こ
えることができるのです。したがって
今後
こんご
、
何
なに
かトラブルに
遭遇
そうぐう
した
時
とき
は、それを
偶然
ぐうぜん
なことだと
考
かんが
えてはなりません。なぜなら、トラブルは
突然
とつぜん
現
あら
われるかも
知
し
れませんが、
決
けっ
して
偶然
ぐうぜん
なものではなく、みなあなたの
心性
しんせい
を
高
たか
めるためのものなのです。あなたが
平素
へいそ
から
煉功者
れんこうしゃ
として
自覚
じかく
してさえいれば、それに
正
ただ
しく
対処
たいしょ
することができるでしょう。
言
い
うまでもなく、
難
なん
やトラブルが
起
お
きる
時
とき
、あらかじめあなたに
知
し
らせることはありません。
何
なに
もかもあなたに
知
し
らせたら、
何
なに
を
修煉
しゅうれん
するというのですか?
効果
こうか
もなくなります。それはいつも
突然
とつぜん
に
現
あら
われるからこそ、
心性
しんせい
の
試練
しれん
となって、
本当
ほんとう
に
人間
にんげん
の
心性
しんせい
を
高
たか
めることができます。そして、その
時
とき
こそ、
心性
しんせい
を
守
まも
れるかどうかを
見
み
て
取
と
ることができるのです。ですから、トラブルが
起
お
きるのは、
偶然
ぐうぜん
ではありません。
修煉
しゅうれん
する
全
ぜん
過程
かてい
において、
業力
ごうりき
を
転化
てんか
させる
中
なか
で、このようなことが
起
お
きるのです。それは
一般
いっぱん
の
人
ひと
が
想像
そうぞう
している「
其
そ
の
筋骨
きんこつ
を
労
ろう
せしめる」ことより
遥
はる
かに
難
むずか
しいことです。
煉功
れんこう
する
時
とき
、
時間
じかん
が
長
なが
くなると
腕
うで
も
足
あし
も
疲
つか
れますが、それだけで
功
こう
が
伸
の
びるのでしょうか?
数
すう
時間
じかん
余計
よけい
に
煉功
れんこう
するだけで
果
はた
して
功
こう
が
伸
の
びるものでしょうか? それは
本体
ほんたい
を
転化
てんか
させるのに
効果
こうか
があるだけで、しかもそれでも、エネルギーによる
加持
かじ
がなければなりませんので、
次元
じげん
を
向上
こうじょう
させるうえでは
役
やく
に
立
た
ちません。ですから、「
其
そ
の
心志
しんし
を
苦
くる
しめる」ことこそ
本当
ほんとう
に
次元
じげん
を
向上
こうじょう
させるための
鍵
かぎ
です。もし「
其
そ
の
筋骨
きんこつ
を
労
ろう
せしめる」ことだけで
次元
じげん
を
向上
こうじょう
させられるのでしたら、
中国
ちゅうごく
の
農民
のうみん
たちはこの
上
うえ
なく
辛
つら
い
思
おも
いをしているのですから、みんな
大
だい
気功師
きこうし
になっているはずではありませんか? あなたがいくら
筋骨
きんこつ
を
労
ろう
しても、
彼
かれ
らには
及
およ
びません。
農民
のうみん
は、
毎日
まいにち
激
はげ
しく
照
て
りつける
太陽
たいよう
の
真下
ました
で
野良
のら
仕事
しごと
をしており、
大変
たいへん
辛
つら
くて
苦労
くろう
が
多
おお
く、とても
生
なま
やさしいものではありません。ですからわれわれが
言
い
っているように、
本当
ほんとう
に
向上
こうじょう
しようとすれば、
自分
じぶん
の
心性
しんせい
を
確実
かくじつ
に
高
たか
めなければならず、そうしてはじめて
向上
こうじょう
できるのです。
業力
ごうりき
を
転化
てんか
させるにあたっては、しっかり
自分
じぶん
を
制御
せいぎょ
し、
常人
じょうじん
のように
正
ただ
しく
対処
たいしょ
できないことによる
失敗
しっぱい
を
避
さ
けるために、
平素
へいそ
から
慈悲
じひ
の
心
こころ
と、
穏
おだ
やかな
心理
しんり
状態
じょうたい
を
保
たも
たなければなりません。そうすれば、
何
なに
か
問題
もんだい
が
突然
とつぜん
現
あら
われた
時
とき
に、それに
正
ただ
しく
対処
たいしょ
することができます。
平素
へいそ
から
慈悲
じひ
の
心
こころ
を
保
たも
っていれば、
問題
もんだい
が
突然
とつぜん
現
あら
われても、たいてい
一息
ひといき
おいて
考
かんが
える
余裕
よゆう
があります。
心
こころ
の
中
なか
でいつも
人
ひと
とあれこれ
争
あらそ
うことばかり
考
かんが
えているのであれば、
問題
もんだい
が
起
お
きると、
必
かなら
ず
相手
あいて
と
真
ま
っ
向
こう
からやり
合
あ
うに
違
ちが
いありません。ですから、
何
なに
かトラブルに
遭
あ
った
時
とき
こそ、
自分
じぶん
自身
じしん
の
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
を
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
に、つまり
徳
とく
に
転化
てんか
させる
時
とき
だ、とわたしは
言
い
うのです。
人類
じんるい
はここまで
来
き
てしまい、ほとんど
誰
だれ
もが
業
ごう
に
業
ごう
を
積
つ
み
重
かさ
ねてきました。ですから、みんな
相当
そうとう
な
業力
ごうりき
を
持
も
っているわけです。したがって、
業力
ごうりき
を
転化
てんか
させることについていえば、
功
こう
が
伸
の
び、
心性
しんせい
が
高
たか
まると
同時
どうじ
に、
業力
ごうりき
も
消去
しょうきょ
されて
転化
てんか
することがよくあります。
何
なに
かトラブルに
遭
あ
った
時
とき
、それはよく
人
ひと
と
人
ひと
との
間
あいだ
の
心性
しんせい
の
摩擦
まさつ
として
現
あら
われますが、それに
耐
た
えることができれば、
業力
ごうりき
も
消去
しょうきょ
され、
心性
しんせい
も
高
たか
まり、
功
こう
も
伸
の
びます。それらは
一
ひと
つに
熔
と
け
合
あ
うのです。
昔
むかし
の
人間
にんげん
は
徳
とく
が
多
おお
く、もとから
心性
しんせい
が
高
たか
いために、ちょっと
苦痛
くつう
に
耐
た
えればすぐ
功
こう
が
伸
の
びたものでした。ところが、
現在
げんざい
の
人間
にんげん
はそれと
違
ちが
って、ちょっとした
苦難
くなん
に
遭
あ
うとすぐ
修煉
しゅうれん
をあきらめたくなります。そればかりでなく、
悟
さと
りがますます
悪
わる
くなる
一方
いっぽう
なので、
修煉
しゅうれん
がいっそう
難
むずか
しくなります。
修煉
しゅうれん
するにあたって、
具体
ぐたい
的
てき
なトラブルに
対処
たいしょ
する
時
とき
、
誰
だれ
かに
辛
つら
く
当
あ
たられたりした
場合
ばあい
は、たいてい
次
つぎ
の
二
ふた
つの
状況
じょうきょう
が
考
かんが
えられます。
一
ひと
つはおそらく
前世
ぜんせ
にその
人
ひと
に
対
たい
して
何
なに
か
悪
わる
いことをしたのかも
知
し
れません。あなたは、「どうしてわたしにこんなひどいことをするのだろう?」と
言
い
って
心
こころ
のバランスをくずすかも
知
し
れませんが、しかし、あなたはなぜ
前世
ぜんせ
でその
人
ひと
にあんなことをしたのですか? 「あの
時
とき
のことは
知
し
らない。
現世
げんせ
は
前世
ぜんせ
と
関係
かんけい
ない」とあなたは
言
い
うかも
知
し
れませんが、そういうわけにはいきません。もう
一
ひと
つは、トラブルの
中
なか
に
業力
ごうりき
転化
てんか
の
問題
もんだい
が
絡
から
んでいるので、
具体
ぐたい
的
てき
に
対処
たいしょ
する
時
とき
、われわれは
大
おお
らかな
態度
たいど
を
保
たも
たなければならず、
常人
じょうじん
と
同
おな
じようにしてはなりません。
勤務
きんむ
先
さき
やその
他
ほか
の
仕事
しごと
環境
かんきょう
でのトラブルも
同様
どうよう
で、
個人
こじん
経営
けいえい
者
しゃ
の
場合
ばあい
も
例外
れいがい
ではなく、やはり
対人
たいじん
関係
かんけい
が
存在
そんざい
しており、
少
すく
なくとも
隣
とな
り
近所
きんじょ
との
関係
かんけい
があるので、
社会
しゃかい
と
接触
せっしょく
しないわけにはいかないはずです。
社会
しゃかい
のつき
合
あ
いにおいても、さまざまなトラブルに
遭
あ
うことが
考
かんが
えられます。
常人
じょうじん
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
は、どれだけ
大金持
おおがねも
ちになっても、どれだけ
地位
ちい
の
高
たか
い
官職
かんしょく
に
就
つ
いても、
個人
こじん
経営
けいえい
で
会社
かいしゃ
を
興
おこ
してどんな
商売
しょうばい
をするにしても、
心
こころ
を
正
ただ
しく
保
たも
ち、
公平
こうへい
かつ
良心的
りょうしんてき
に
取引
とりひき
しさえすれば、
何
なん
ら
問題
もんだい
はありません。
人類
じんるい
社会
しゃかい
においてさまざまな
職業
しょくぎょう
があるのは
当
あた
り
前
まえ
ですから、
人間
にんげん
の
心
こころ
が
歪
ゆが
むことこそが
問題
もんだい
で、どの
職業
しょくぎょう
に
就
つ
くかが
問題
もんだい
なのではありません。
昔
むかし
から「
商
あきな
いをする
者
もの
は、
十人中九人
じゅうにんちゅうきゅうにん
がずるい」という
言
い
い
方
かた
がありますが、それは
常人
じょうじん
の
言
い
い
方
かた
です。わたしに
言
い
わせれば、それは
人間
にんげん
の
心
こころ
の
問題
もんだい
です。
心
こころ
を
正
ただ
しくもち、
公平
こうへい
に
取引
とりひき
をすれば、
多
おお
く
働
はたら
くだけ
多
おお
く
稼
かせ
ぐのは
当然
とうぜん
のことです。「
失
うしな
わないものは
得
え
られず」と
言
い
われているように、それは
常人
じょうじん
社会
しゃかい
のあなたの
働
はたら
きに
対
たい
する
当然
とうぜん
の
報酬
ほうしゅう
です。いかなる
階層
かいそう
においても、
良
よ
い
人間
にんげん
になることができますが、
階層
かいそう
が
違
ちが
えば、
違
ちが
ったトラブルがあります。
高
たか
い
階層
かいそう
には
高
たか
い
階層
かいそう
のトラブルの
形式
けいしき
がありますが、しかしどこでも
正
ただ
しくトラブルに
対処
たいしょ
することができます。どの
階層
かいそう
でも、
良
よ
い
人間
にんげん
を
目指
めざ
しさえすれば、あらゆる
欲望
よくぼう
や
執着心
しゅうちゃくしん
を
捨
す
て
去
さ
ることができます。どんな
階層
かいそう
においても
良
よ
い
人間
にんげん
になることができ、
誰
だれ
でも
自分
じぶん
のいる
階層
かいそう
で
修煉
しゅうれん
することができます。
現在
げんざい
、
中国
ちゅうごく
では
国営
こくえい
企業
きぎょう
であろうと、
他
た
の
企業
きぎょう
であろうと、
対人
たいじん
関係
かんけい
におけるトラブルはきわめて
特異
とくい
な
様相
ようそう
を
呈
てい
しています。それは
他
ほか
の
国
くに
や
昔
むかし
の
中国
ちゅうごく
ではかつて
見
み
られない
現象
げんしょう
で、
利益
りえき
をめぐるトラブルがきわめて
激
はげ
しく、いがみ
合
あ
ったり、わずかな
利益
りえき
のために
争
あらそ
ったりして、そういう
時
とき
の
考
かんが
え
方
かた
と
用
もち
いる
手段
しゅだん
がきわめて
悪質
あくしつ
なものとなっていて、
今
いま
や
良
よ
い
人間
にんげん
になるのも
大変
たいへん
難
むずか
しいことです。
例
たと
えば、ある
人
ひと
が
職場
しょくば
に
出勤
しゅっきん
したら、まわりの
雰囲気
ふんいき
がどうもおかしいということに
気
き
づきました。
後
あと
になって
人
ひと
から、「
誰
だれ
それが
君
きみ
の
悪口
わるぐち
を
言
い
っている。
上司
じょうし
に
告
つ
げ
口
ぐち
をして、
君
きみ
のことをさんざん
言
い
い
触
ふ
らしたりしている。
君
きみ
は
鼻
はな
つまみ
者
もの
にされたんだよ」と
聞
き
かされました。まわりからは
異様
いよう
な
目
め
で
見
み
られています。
普通
ふつう
の
人
ひと
なら、それを
我慢
がまん
することができるでしょうか? 「こんなひどい
目
め
に
遭
あ
わされて、
耐
た
えられるものでしょうか! やられたら
絶対
ぜったい
にやり
返
かえ
してやる!
奴
やつ
に
後
うし
ろ
盾
だて
がいるなら、こっちにも
後
うし
ろ
盾
だて
がいる。
徹底的
てっていてき
にやろうぜ」となりかねません。
常人
じょうじん
の
中
なか
でこのようにすると、
常人
じょうじん
からは
強
つよ
い
人
ひと
だと
褒
ほ
められるかも
知
し
れません。しかし、
煉功者
れんこうしゃ
としてはそれは
最低
さいてい
だと
言
い
わなければなりません。
常人
じょうじん
と
同
おな
じように
争
あらそ
ったり
闘
たたか
ったりすると、あなたはただの
常人
じょうじん
になります。もし
相手
あいて
よりも
激
はげ
しく
争
あらそ
ったり
闘
たたか
ったりすれば、あなたは
相手
あいて
の
常人
じょうじん
にも
及
およ
びません。
われわれはどのようにこの
問題
もんだい
に
対処
たいしょ
すべきでしょうか? このようなトラブルに
遭遇
そうぐう
した
時
とき
、まず
冷静
れいせい
な
態度
たいど
でいなければならず、
相手
あいて
と
同
おな
じような
対処
たいしょ
の
仕方
しかた
をしてはなりません。もちろん、
善意
ぜんい
をもって
説明
せつめい
し、
事実
じじつ
をはっきりさせるのは
構
かま
いませんが、しかし、あまりこだわりすぎてもいけません。われわれはこのような
厄介
やっかい
なことにぶつかった
時
とき
、
他
ほか
の
人
ひと
と
同
おな
じように
争
あらそ
ったり
闘
たたか
ったりしてはなりません。
相手
あいて
がやったらこちらもやるというのでは、ただの
常人
じょうじん
になってしまうではありませんか? あなたは
相手
あいて
と
同
おな
じように
争
あらそ
ったり
闘
たたか
ったりしないだけでなく、
心
こころ
の
中
なか
で
相手
あいて
のことを
憎
にく
んでもいけません。
本当
ほんとう
に
相手
あいて
のことを
憎
にく
んではなりません。
相手
あいて
のことを
憎
にく
むと、
腹
はら
が
立
た
ったことになるではありませんか? それでは
忍
にん
を
守
まも
れなかったことになります。われわれは
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
を
重
おも
んじますが、そんなことをすれば
善
ぜん
のかけらもなくなります。ですから、
相手
あいて
と
同
おな
じようにしてはいけません。あなたは
相手
あいて
の
中傷
ちゅうしょう
によって、
職場
しょくば
で
面目
めんぼく
まるつぶれになったとしても、
相手
あいて
のことを
本当
ほんとう
に
怒
おこ
ってはいけません。それだけでなく、
心
こころ
の
中
なか
で
相手
あいて
に
対
たい
して
本当
ほんとう
に
感謝
かんしゃ
しなければなりません。「それでは、まるで
阿Q
あきゅう
ではないか?」と、
常人
じょうじん
ならそう
思
おも
うかも
知
し
れません。ところが、そういうことではないのです。
考
かんが
えてみてください。
皆
みな
さんは
煉功者
れんこうしゃ
なのですから、
高
たか
い
基準
きじゅん
であなたを
律
りっ
しなければならないでしょう?
常人
じょうじん
の
理
り
で
律
りっ
するわけにはいかないでしょう? あなたは
修煉者
しゅうれんしゃ
ですから、
得
え
たものは
高次元
こうじげん
のものではないでしょうか? したがって、
高次元
こうじげん
の
理
り
であなたを
律
りっ
しなければなりません。
相手
あいて
と
同
おな
じようにすれば、
相手
あいて
と
同
おな
じようになってしまうではありませんか? それでは、どうして
相手
あいて
に
感謝
かんしゃ
しなければならないのでしょうか?
考
かんが
えてみてください。あなたが
得
え
たものは
何
なん
ですか? この
宇宙
うちゅう
には「
失
うしな
わないものは
得
え
られず、
得
え
ようとすれば
失
うしな
わなければならぬ」という
理
り
があります。
相手
あいて
が
常人
じょうじん
の
中
なか
であなたに
大変
たいへん
辛
つら
い
思
おも
いをさせたので、
彼
かれ
はひとまずは
得
え
る
側
がわ
だと
言
い
えます。しかしその
相手
あいて
があなたに
与
あた
えた
苦痛
くつう
が
大
おお
きければ
大
おお
きいほど、
騒
さわ
ぎが
大
おお
きければ
大
おお
きいほど、あなたの
忍耐
にんたい
するところも
大
おお
きくなり、
相手
あいて
の
失
うしな
う
徳
とく
も
多
おお
くなります。それらの
徳
とく
は
全部
ぜんぶ
そのままあなたのものになります。しかもその
時
とき
、あなたは
耐
た
え
忍
しの
んでいる
間
あいだ
、それを
気
き
にかけずに
淡々
たんたん
と
受
う
け
止
と
めていられたかも
知
し
れません。
この
宇宙
うちゅう
にはもう
一
ひと
つの
理
り
、すなわち
大
おお
きな
苦痛
くつう
に
耐
た
えれば、
自
みずか
らの
業力
ごうりき
もおのずと
徳
とく
に
転化
てんか
される、ということがあります。あなたが
代償
だいしょう
を
支払
しはら
ったので、
苦痛
くつう
に
耐
た
えた
分
ぶん
だけ、
転化
てんか
が
行
おこ
なわれ、
徳
とく
になります。
煉功者
れんこうしゃ
として
求
もと
めようとしているのはまさにこの
徳
とく
ではありませんか? このように、
業力
ごうりき
を
転化
てんか
させることもできましたので、あなたは
二
ふた
つのものを
得
え
ました。もし、
相手
あいて
がそのような
環境
かんきょう
を
作
つく
ってくれなければ、あなたはどうやって
心性
しんせい
を
高
たか
めることができるでしょうか? みんなが
和気藹々
わきあいあい
で、そこに
坐
すわ
っているだけで、
功
こう
が
伸
の
びるなどということがありえますか?
相手
あいて
がそのようなトラブルを
仕掛
しか
けたからこそ、
心性
しんせい
を
高
たか
める
機会
きかい
が
生
う
まれ、そのおかげで、
心性
しんせい
を
高
たか
めることができて、
本当
ほんとう
に
心性
しんせい
が
高
たか
まってきたのではありませんか?
三
みっ
つ
得
え
ました。そしてあなたは
煉功者
れんこうしゃ
なので、
心性
しんせい
が
高
たか
まれば
功
こう
も
伸
の
びるのではありませんか? これで
一挙
いっきょ
四
よん
得
とく
となりました。あなたが
相手
あいて
に
感謝
かんしゃ
するのは
当
あ
たり
前
まえ
ではありませんか? あなたは
本当
ほんとう
に
心
こころ
から
相手
あいて
に
感謝
かんしゃ
しなければなりません。
本当
ほんとう
にそうなのです。
もちろん、
相手
あいて
が
善意
ぜんい
でそうしたわけではありません。さもなければ、あなたに
徳
とく
を
与
あた
えることはないでしょう。それにしても、
相手
あいて
が
心性
しんせい
を
高
たか
める
機会
きかい
を
提供
ていきょう
してくれたことは
事実
じじつ
です。つまり、われわれは
必
かなら
ず
心性
しんせい
の
修煉
しゅうれん
を
重視
じゅうし
しなければなりません。
心性
しんせい
を
修煉
しゅうれん
すると
同時
どうじ
に
業力
ごうりき
を
滅
めっ
してそれを
徳
とく
に
転化
てんか
させることができます。こうしてはじめて
次元
じげん
を
向上
こうじょう
させることができるので、
両
りょう
者
しゃ
は
表裏一体
ひょうりいったい
の
関係
かんけい
をなしています。
高
たか
い
次元
じげん
から
見
み
れば、この
理
り
も
変
か
わります。しかし、
常人
じょうじん
にはそのことが
分
わ
かりません。
高
たか
い
次元
じげん
からこの
理
り
を
見
み
れば、まるっきり
違
ちが
います。
常人
じょうじん
社会
しゃかい
で
正
ただ
しいと
思
おも
われた
理
り
は、
本当
ほんとう
に
正
ただ
しいというわけではありません。
高
たか
い
次元
じげん
から
見
み
て
正
ただ
しいと
思
おも
うことこそ、
本当
ほんとう
に
正
ただ
しいことなのです。こんなことはよくあります。
理
り
は
皆
みな
さんに
説明
せつめい
し
尽
つ
くしました。
明確
めいかく
な
理
り
が
目
め
の
前
まえ
にあるのですから、
今後
こんご
、
皆
みな
さんが
修煉
しゅうれん
する
際
さい
、
煉功者
れんこうしゃ
として
自覚
じかく
し、
着実
ちゃくじつ
に
修煉
しゅうれん
することを
期待
きたい
したいと
思
おも
います。
一部
いちぶ
の
人
ひと
は、
常人
じょうじん
の
中
なか
にいるので、
常人
じょうじん
社会
しゃかい
の
目
め
に
見
み
える
物質
ぶっしつ
的
てき
な
利益
りえき
こそ
確
たし
かなものだと
考
かんが
えています。
常人
じょうじん
社会
しゃかい
の
流
なが
れの
中
なか
において、
彼
かれ
らはまだ
高
たか
い
基準
きじゅん
で
自分
じぶん
を
律
りっ
することができません。
常人
じょうじん
社会
しゃかい
において
良
よ
い
人間
にんげん
になるためには、
手本
てほん
として
英雄
えいゆう
や
模範
もはん
人物
じんぶつ
がいますが、それは
常人
じょうじん
のための
手本
てほん
に
過
す
ぎません。それに
対
たい
し、
修煉者
しゅうれんしゃ
になるためには、すべて
自分
じぶん
の
心
こころ
の
修煉
しゅうれん
にかかっており、すべて
自分
じぶん
の
悟
さと
りにかかっているので、
手本
てほん
などはありません。
幸
さいわ
いなことに、
今日
きょう
わたしが
大法
ダーファー
を
明
あき
らかにしました。
昔
むかし
は、
修煉
しゅうれん
しようとしても、
教
おし
えてくれる
人
ひと
がいませんでした。
大法
ダーファー
の
教
おし
えに
従
したが
って
修煉
しゅうれん
すれば、うまくいくでしょう。
修煉
しゅうれん
することができるかどうか、
修煉
しゅうれん
がうまくいくかどうか、どの
次元
じげん
まで
突破
とっぱ
することができるかは、すべて
本人
ほんにん
次第
しだい
です。
もちろん、
業力
ごうりき
の
転化
てんか
形式
けいしき
は、
上
うえ
に
述
の
べたようなものとは
限
かぎ
らず、
他
た
の
方面
ほうめん
において
現
あら
われることもあります。
社会
しゃかい
や
家庭
かてい
などどこにでも
現
あら
われる
可能
かのう
性
せい
があります。
街
まち
を
歩
ある
いていても、あるいはその
他
ほか
の
社会
しゃかい
環境
かんきょう
においても、
面倒
めんどう
なことに
遭遇
そうぐう
する
可能
かのう
性
せい
もあります。
常人
じょうじん
の
中
なか
で
捨
す
てられないような
心
こころ
を、
全部
ぜんぶ
あなたに
捨
す
てさせなければなりません。どんな
執着心
しゅうちゃくしん
であれ、それを
持
も
っているかぎり、さまざまな
環境
かんきょう
の
中
なか
でそれを
少
すこ
しずつ
削
けず
り
落
お
とさなければなりません。さまざまな
失敗
しっぱい
を
経験
けいけん
させ、
失敗
しっぱい
の
中
なか
で
悟
さと
らせることこそ
修煉
しゅうれん
なのです。
比較的
ひかくてき
典型的
てんけいてき
なケースとして
次
つぎ
のような
場合
ばあい
もあります。
多
おお
くの
人
ひと
は
修煉
しゅうれん
するにあたって、
煉功
れんこう
する
度
たび
に
配偶
はいぐう
者
しゃ
の
機嫌
きげん
が
悪
わる
くなるという
経験
けいけん
を
持
も
っています。
煉功
れんこう
すると
決
き
まって
喧嘩
けんか
を
売
う
られます。
他
ほか
の
事
こと
なら、あなたが
何
なに
をしようと、
相手
あいて
は
一向
いっこう
に
干渉
かんしょう
しようとしません。マージャンで
時間
じかん
を
無駄
むだ
にした
時
とき
には、
相手
あいて
が
不
ふ
機嫌
きげん
になることもありますが、あなたが
煉功
れんこう
した
時
とき
のそれとは
比
くら
べものになりません。
煉功
れんこう
しても
別
べつ
に
相手
あいて
に
迷惑
めいわく
をかけたというわけでもありませんし、
身体
からだ
を
鍛
きた
えることは
相手
あいて
には
何
なん
ら
不都合
ふつごう
なこともなく、
良
よ
いことなのに、しかし、あなたが
煉功
れんこう
すると、
相手
あいて
は
物
もの
を
投
な
げたりして
喧嘩
けんか
を
売
う
ってきます。
中
なか
には、
煉功
れんこう
することが
原因
げんいん
で
離婚
りこん
しそうになる
夫婦
ふうふ
もいます。しかし、なぜそのようなことが
起
お
きるのでしょうか?
多
おお
くの
人
ひと
たちはこのことを
考
かんが
えてもみないのです。あとで
相手
あいて
に、「わたしが
煉功
れんこう
するぐらいでなぜあんなにかんかんになって
怒
おこ
るのか?」と
聞
き
いてみても、
答
こた
えられません。「そうですね。あんなに
怒
おこ
ってはいけないのに、しかし、その
時
とき
はついかんかんに
怒
おこ
りました」と、
本人
ほんにん
もなぜだか
分
わ
からぬしまつです。それはどういうことだったのでしょうか?
実
じつ
は、
煉功
れんこう
する
時
とき
、
業力
ごうりき
が
転化
てんか
されなければなりません。「
失
うしな
わないものは
得
え
られず」、しかも
失
うしな
っていくものは
悪
わる
いものなので、あなたはその
代償
だいしょう
を
支払
しはら
わなければなりません。
あなたが
家
いえ
に
帰
かえ
ってくると、
奥様
おくさま
やご
主人
しゅじん
がいきなりすごい
剣幕
けんまく
で
罵声
ばせい
を
浴
あ
びせてくるかも
知
し
れません。それに
耐
た
え
切
き
ることができれば、この
日
ひ
の
煉功
れんこう
を
無駄
むだ
にしなかったことになります。
煉功
れんこう
するには
徳
とく
を
重
おも
んじなければならないということを
心得
こころえ
ていて、
平素
へいそ
は
奥様
おくさま
やご
主人
しゅじん
と
睦
むつま
じく
暮
くら
していますが、「いつもは
家
いえ
のことは
何
なに
もかもわたしの
一存
いちぞん
で
決
き
めていたのに、
今日
きょう
はまさにわたしを
抑
おさ
えつけようとしている」と
思
おも
って、つい
抑
おさ
え
切
き
れず、
喧嘩
けんか
をしてしまった
人
ひと
がいます。そうすると、その
日
ひ
の
煉功
れんこう
はまた
無駄
むだ
になってしまいます。なぜかと
言
い
えば、あなたの
身体
からだ
に
業力
ごうりき
があり、
相手
あいて
が
消去
しょうきょ
するのに
手
て
を
貸
か
してくれたのに、あなたは
喧嘩
けんか
を
買
か
ってしまって、それを
拒否
きょひ
したので、
消去
しょうきょ
されませんでした。このようなことはきわめて
多
おお
く
見
み
られますが、
多
おお
くの
人
ひと
がそのようなことを
経験
けいけん
しているのにもかかわらず、その
理由
りゆう
を
考
かんが
えてもみませんでした。
他
ほか
のことに
関
かん
しては、
奥様
おくさま
やご
主人
しゅじん
がそれほど
干渉
かんしょう
しませんが、
本来
ほんらい
良
よ
いことなのに、
相手
あいて
は
許
ゆる
してくれようとしません。
実
じつ
は、
本人
ほんにん
自身
じしん
はそうとは
知
し
りませんが、あなたの
業
ごう
の
消去
しょうきょ
に
手
て
を
貸
か
してくれたのです。
相手
あいて
は
表向
おもてむ
きあなたと
喧嘩
けんか
しているような
振
ふ
りをして、
内心
ないしん
ではあなたを
思
おも
いやっているというわけではありません。
本当
ほんとう
に
心
こころ
から
腹
はら
が
立
た
っていたのです。なぜなら
業力
ごうりき
が
誰
だれ
かのところに
落
お
ちていれば、その
人
ひと
は
必
かなら
ず
辛
つら
い
思
おも
いをするからです。これは
間違
まちが
いないところです。
心性
しんせい
を
向上
こうじょう
させる
以前
いぜん
は
多
おお
くの
人
ひと
が、
心性
しんせい
を
守
まも
り
切
き
れないためにさまざまな
問題
もんだい
が
起
お
き、ある
次元
じげん
まで
修煉
しゅうれん
が
進
すす
んだのに、それ
以上
いじょう
向上
こうじょう
することがなかなかできませんでした。ある
人
ひと
はもとから
心性
しんせい
が
高
たか
いので、
煉功
れんこう
しつづけていると、そのうち
天目
てんもく
がぱっと
開
ひら
いて、ある
程度
ていど
高
たか
い
境地
きょうち
に
到達
とうたつ
しました。この
人
ひと
は
根基
こんき
が
比較的
ひかくてき
よく、
心性
しんせい
がきわめて
高
たか
いので、
功
こう
の
伸
の
びも
速
はや
いのです。
彼
かれ
の
心性
しんせい
の
位置
いち
に
功
こう
が
到達
とうたつ
した
後
あと
、その
功
こう
をさらに
伸
の
ばそうとする
時
とき
には、
人
ひと
との
軋轢
あつれき
やトラブルも
際
きわ
立
だ
ってきますので、さらに
心性
しんせい
を
高
たか
めていかなければなりません。
特
とく
に
根基
こんき
の
良
よ
い
人
ひと
の
場合
ばあい
は、
自分
じぶん
の
功
こう
が
調子
ちょうし
よく
伸
の
びていて、
煉功
れんこう
が
順調
じゅんちょう
に
進
すす
んでいたのに、どういうわけで、
突然
とつぜん
厄介
やっかい
なことがこんなに
多
おお
くなってきたのだろうか、と
思
おも
うことがあります。まわりの
人
ひと
に
親切
しんせつ
にしてもらえなくなったし、
上司
じょうし
から
嫌
きら
われるようになったし、
家族
かぞく
との
関係
かんけい
も
悪化
あっか
してしまった。どうして
突然
とつぜん
こんなに
多
おお
くの
面倒
めんどう
なことが
出
で
てくるのだろうか?
彼
かれ
はまだ
悟
さと
ろうとしません。この
人
ひと
は
根基
こんき
が
良
よ
いために、ある
次元
じげん
に
到達
とうたつ
すると、このような
状態
じょうたい
が
現
あら
われました。しかしこれは、どうして
修煉者
しゅうれんしゃ
が
最終
さいしゅう
的
てき
に
圓満
えんまん
成就
じょうじゅ
する
時
とき
の
基準
きじゅん
と
言
い
えるのでしょうか? もっと
高
たか
い
次元
じげん
に
向
む
けて
修煉
しゅうれん
するには、まだまだ
先
さき
が
遠
とお
いのです!
引
ひ
き
続
つづ
き
自分
じぶん
を
高
たか
めなければなりません。このような
状態
じょうたい
に
到達
とうたつ
したのは、みな
自分
じぶん
自身
じしん
の
根基
こんき
のおかげでしたが、それ
以上
いじょう
向上
こうじょう
しようとすれば、
基準
きじゅん
もさらに
上
あ
げなければなりません。
ある
程度
ていど
お
金
かね
を
稼
かせ
ぎ、
家族
かぞく
が
安心
あんしん
して
暮
くら
せるようにしてから、
何
なに
もかも
打
う
ち
捨
す
てて
修行
しゅぎょう
を
始
はじ
めたいと
言
い
う
人
ひと
がいますが、わたしに
言
い
わせれば、そのような
考
かんが
え
方
かた
は
妄想
もうそう
です。あなたは
他人
たにん
の
生活
せいかつ
に
干渉
かんしょう
し、
他人
たにん
の
運命
うんめい
を
左右
さゆう
することができるはずがありません。
妻
つま
や
子供
こども
、
親
おや
、
兄弟
きょうだい
などのような
家族
かぞく
の
人
ひと
たちの
運命
うんめい
も
含
ふく
めて、
他人
たにん
の
運命
うんめい
があなたの
思
おも
い
通
どお
りになることがありえるでしょうか? それに、
後顧
こうこ
の
憂
うれ
いもなくなり、
厄介
やっかい
なことも
全部
ぜんぶ
なくなれば、
何
なに
をもって
修煉
しゅうれん
するのでしょうか?
気分
きぶん
よく
楽
らく
に
煉功
れんこう
しようとでも
考
かんが
えているのですか? そんなことがありえますか? それは
常人
じょうじん
の
立場
たちば
で
考
かんが
えたことに
過
す
ぎません。
修煉
しゅうれん
は、
魔難
まなん
の
中
なか
でこそしなければなりません。
七情六欲
しちじょうろくよく
を
放棄
ほうき
することができるかどうか、それらに
対
たい
して
淡々
たんたん
としていられるかどうかが
問題
もんだい
です。どうしてもそれらのものに
執着
しゅうちゃく
するのであれば、
修煉
しゅうれん
を
成就
じょうじゅ
することはできません。すべてのことには
因縁
いんねん
関係
かんけい
があります。
人間
にんげん
はどうして
人間
にんげん
でありうるのでしょうか? それは
人間
にんげん
には
情
じょう
があり、
人間
にんげん
は
情
じょう
のために
生
い
きているからです。
肉親
にくしん
同士
どうし
の
情
じょう
、
男女
だんじょ
の
情
じょう
、
親
おや
の
情
じょう
、
感情
かんじょう
、
友情
ゆうじょう
など、
何
なに
をするにしても
情
じょう
が
重
おも
んじられ、
情
じょう
を
切
き
り
離
はな
しては
何
なに
ごともできません。やる
気
き
があるかどうか、
気分
きぶん
が
良
よ
いかどうか、
愛
あい
しているのかそれとも
憎
にく
んでいるのか、とにかく
人類
じんるい
社会
しゃかい
のすべてのことが
情
じょう
から
出
で
ています。この
情
じょう
を
断
た
ち
切
き
らなければ、
修煉
しゅうれん
することはできません。
情
じょう
から
抜
ぬ
け
出
だ
すことができれば、
誰
だれ
もあなたを
動揺
どうよう
させることができず、
常人
じょうじん
の
心
こころ
があなたを
動
うご
かすことは
不可能
ふかのう
となります。それに
取
と
って
代
か
わるものは
慈悲
じひ
の
心
こころ
であり、より
高尚
こうしょう
なものです。もっとも、これをいっぺんに
断
た
ち
切
き
るのは
容易
ようい
なことではありません。
修煉
しゅうれん
は
長
なが
い
道
みち
のりで、
徐々
じょじょ
に
自分
じぶん
の
執着心
しゅうちゃくしん
を
切
き
り
捨
す
てていく
過程
かてい
です。とはいえ、
自分
じぶん
自身
じしん
を
厳
きび
しく
律
りっ
しなければなりません。
われわれ
煉功者
れんこうしゃ
においては、トラブルが
突然
とつぜん
現
あら
われることがあります。その
時
とき
、どのように
対処
たいしょ
すればよいでしょうか?
平素
へいそ
から
慈悲
じひ
に
満
み
ちた、
和
なご
やかな
心
こころ
を
保
たも
っていれば、
問題
もんだい
が
起
お
きた
時
とき
には、
一息
ひといき
おいて
余裕
よゆう
をもって、
適切
てきせつ
にその
問題
もんだい
に
対処
たいしょ
することができるのです。
日頃
ひごろ
いつも
慈悲
じひ
の
心
こころ
を
保
たも
ち、
善
ぜん
をもって
人
ひと
に
接
せっ
し、
何
なに
かをする
時
とき
にはいつも
他人
たにん
のことを
考
かんが
え、
問題
もんだい
が
起
お
きた
時
とき
はいつも
他人
たにん
がそれに
耐
た
えられるかどうか、
他人
たにん
を
傷
きず
つけることはないかを
考
かんが
えていれば、
何
なん
の
問題
もんだい
も
起
お
こりません。したがって、
煉功
れんこう
にあたっては、
高
たか
い、もっと
高
たか
い
基準
きじゅん
で
自分
じぶん
を
律
りっ
しなければなりません。
往々
おうおう
にして
悟
さと
らない
人
ひと
がいます。ある
人
ひと
は
天目
てんもく
が
開
ひら
いて
佛
ほとけ
が
見
み
えました。
家
いえ
に
帰
かえ
ると、
佛像
ぶつぞう
の
前
まえ
で
手
て
を
合
あ
わせて「どうしてわたしを
助
たす
けてくださらないのですか? どうか、この
問題
もんだい
を
解決
かいけつ
してください!」と
拝
おが
みます。
佛
ほとけ
はいうまでもなく
助
たす
けてくれません。その
難
なん
は、まさに
佛
ほとけ
があなたの
心性
しんせい
を
高
たか
めるために
設
もう
けたもので、トラブルの
中
なか
で
向上
こうじょう
させるためです。ですから、
佛
ほとけ
がその
問題
もんだい
を
解決
かいけつ
してくれると
思
おも
いますか?
絶対
ぜったい
に
解決
かいけつ
してくれるわけがありません。
解決
かいけつ
してくれたら、あなたはどうやって
功
こう
を
伸
の
ばし、どうやって
心性
しんせい
と
次元
じげん
を
向上
こうじょう
させることができるでしょうか? あなたの
功
こう
を
伸
の
ばさせることこそ
最
もっと
も
大切
たいせつ
なことです。
大覚者
だいかくしゃ
たちから
見
み
れば、
人間
にんげん
になることは
目的
もくてき
ではありません。
人間
にんげん
の
生命
せいめい
は
人間
にんげん
になるためのものではなく、
元
もと
に
返
かえ
るためのものです。
人間
にんげん
はさまざまな
苦
くる
しみに
耐
た
えていますが、
大覚者
だいかくしゃ
はその
苦
くる
しみが
多
おお
ければ
多
おお
いほど
良
よ
く、
債務
さいむ
が
早
はや
く
返済
へんさい
できるものと
考
かんが
えています。それを
悟
さと
らない
人
ひと
は、
佛
ほとけ
を
拝
おが
んでも
効果
こうか
がないとみて、「どうして
助
たす
けてくださらないのですか? わたしは
毎日
まいにち
これだけ
線香
せんこう
を
立
た
てて
拝
おが
んでいるのに」と
言
い
って、
佛
ほとけ
を
恨
うら
み
始
はじ
めました。なかにはそれが
原因
げんいん
で
佛像
ぶつぞう
を
壊
こわ
し、その
日
ひ
から
佛
ほとけ
を
罵
ののし
るようになった
人
ひと
もいます。
一度
いちど
罵
ののし
ると、
心性
しんせい
が
堕
お
ち、
功
こう
もなくなってしまいます。
何
なに
もかもなくなったことを
知
し
った
彼
かれ
は、いっそう
佛
ほとけ
を
憎
にく
むようになり、
佛
ほとけ
にひどい
目
め
に
遭
あ
わされたと
思
おも
い
込
こ
んでしまいます。
彼
かれ
は
常人
じょうじん
の
理
り
で
佛
ほとけ
の
心性
しんせい
を
測
はか
ろうとしますが、
測
はか
れるはずがあるでしょうか?
常人
じょうじん
の
基準
きじゅん
で
高
こう
次元
じげん
のことを
判断
はんだん
しようとしますが、そんなことができるでしょうか? こうして、
生活
せいかつ
の
中
なか
の
辛
つら
さを
自分
じぶん
に
対
たい
する
不公平
ふこうへい
だと
思
おも
い
込
こ
むことが
原因
げんいん
で、
多
おお
くの
人
ひと
が
見
み
る
見
み
るうちに
堕
お
ちていってしまうのです。このようなことはしばしばあります。
数年
すうねん
前
まえ
、
多
おお
くの
有名
ゆうめい
な
大
だい
気功
きこう
師
し
が
堕
お
ちて
行
い
きました。もちろん
本当
ほんとう
の
気功
きこう
師
し
はみんな
自分
じぶん
に
与
あた
えられた
歴史
れきし
的
てき
使命
しめい
をやり
遂
と
げた
後
あと
、
帰
かえ
って
行
い
きました。
誤
あやま
って
常人
じょうじん
の
中
なか
に
溺
おぼ
れ、
心性
しんせい
も
低下
ていか
した
人
ひと
だけが
現在
げんざい
依然
いぜん
として
活動
かつどう
を
続
つづ
けていますが、すでに
功
こう
はなくなってしまっています。かつて
名声
めいせい
が
比較的
ひかくてき
高
たか
かった
一部
いちぶ
の
気功師
きこうし
が
依然
いぜん
として
社会
しゃかい
で
活動
かつどう
を
続
つづ
けていますが、その
人
ひと
たちの
師
し
は
彼
かれ
らが
常人
じょうじん
社会
しゃかい
に
溺
おぼ
れ、
名誉
めいよ
と
利益
りえき
に
溺
おぼ
れて、もう
自
みずか
ら
抜
ぬ
け
出
だ
すことができず、すでに
救
すく
いようがないのを
見
み
ると、
彼
かれ
らの
副元神
ふくげんしん
を
連
つ
れて
行
い
ってしまいました。
功
こう
はすべて
副元神
ふくげんしん
の
身体
からだ
に
付
つ
いています。このようなケースはきわめて
多
おお
いのです。
われわれの
法門
ほうもん
では、そのようなことは
比較的
ひかくてき
稀
ま
れです。あるにしても、それほど
目立
めだ
つものではありません。そのかわり、
心性
しんせい
の
向上
こうじょう
に
関
かん
する
突出
とっしゅつ
した
例
れい
はきわめて
多
おお
くあります。
例
たと
えば、
山東
さんとう
省
しょう
某
ぼう
市
し
のメリヤス
工場
こうじょう
で
働
はたら
くある
学習者
がくしゅうしゃ
は、
法輪大法
ファールンダーファー
を
学
まな
んでから、
同僚
どうりょう
たちにもそれを
教
おし
えました。それによって、この
工場
こうじょう
の
人々
ひとびと
の
心掛
こころが
けが
大
おお
きく
変
か
わりました。
以前
いぜん
、
従業
じゅうぎょう
員
いん
たちが
工場
こうじょう
からタオルの
端切
はぎ
れを
家
いえ
に
持
も
ち
帰
かえ
ることがしばしばあり、みんなやっていました。しかし
功
こう
を
学
まな
んでから、
彼
かれ
はタオルの
端切
はぎ
れを
家
いえ
に
持
も
ち
帰
かえ
ることをやめただけでなく、それまで
家
いえ
に
持
も
ち
帰
かえ
った
分
ぶん
も
工場
こうじょう
に
返
かえ
しました。それを
見
み
ると、
誰
だれ
もやらなくなり、なかには
以前
いぜん
に
持
も
ち
帰
かえ
ったものもすべて
工場
こうじょう
に
返
かえ
した
人
ひと
もいて、
工場
こうじょう
全体
ぜんたい
にこのような
様相
ようそう
が
現
あら
われました。
また、
某
ぼう
市
し
の
法輪大法
ファールンダーファー
勉強
べんきょう
会
かい
の
責任
せきにん
者
しゃ
が、
大法
ダーファー
学習者
がくしゅうしゃ
たちの
煉功
れんこう
状況
じょうきょう
を
調
しら
べるために
某
ぼう
工場
こうじょう
に
行
い
った
時
とき
のことです。
工場
こうじょう
長
ちょう
がわざわざ
会
あ
ってくれました。「これらの
従業
じゅうぎょう
員
いん
は
法輪大法
ファールンダーファー
を
学
まな
んでから、
早
はや
く
出勤
しゅっきん
し
遅
おそ
く
退勤
たいきん
するようになり、コツコツと
働
はたら
き、
上司
じょうし
から
与
あた
えられた
仕事
しごと
は
何
なん
でも
文句
もんく
無
な
しに
受
う
け
入
い
れ、
利益
りえき
をめぐって
争
あらそ
うこともなくなりました。
彼
かれ
らがこのようにしていると、
工場
こうじょう
全体
ぜんたい
の
心掛
こころが
けも
一変
いっぺん
し、
工場
こうじょう
の
収益
しゅうえき
状況
じょうきょう
も
好転
こうてん
しました。あなた
方
がた
の
功
こう
は
本当
ほんとう
にすごいものですね、
先生
せんせい
はいついらっしゃいますか。わたしも
参加
さんか
したい」と、
話
はな
したそうです。われわれが
法輪大法
ファールンダーファー
を
修煉
しゅうれん
する
主
おも
な
目的
もくてき
は
高
こう
次元
じげん
に
人
ひと
を
導
みちび
くことであり、
別
べつ
にこのようなことをしようとは
思
おも
っていません。しかし、これは
社会
しゃかい
の
精神
せいしん
文明
ぶんめい
を
促進
そくしん
する
上
うえ
で
大
おお
きな
役割
やくわり
を
果
はた
すことができます。もし、
誰
だれ
でも
内
うち
に
向
む
かって
探
さが
し、
誰
だれ
でも
自分
じぶん
がどうすべきかを
考
かんが
えるようになれば、
社会
しゃかい
が
安定
あんてい
するようになり、
人類
じんるい
の
道徳
どうとく
基準
きじゅん
が
回復
かいふく
するに
違
ちが
いありません。
わたしが
太原
たいげん
市
し
で
説法
せっぽう
した
時
とき
、
学習者
がくしゅうしゃ
で
五十
ごじゅう
代
だい
の
夫婦
ふうふ
が
二人
ふたり
連
づ
れで
受講
じゅこう
に
来
き
ました。
二人
ふたり
が
道路
どうろ
を
渡
わた
る
時
とき
、
一
いち
台
だい
の
車
くるま
が
猛
もう
スピードで
走
はし
ってきて、バックミラーが
奥
おく
さんの
服
ふく
を
引
ひ
っ
掛
か
けました。
彼女
かのじょ
はそのまま
十
じゅう
メートル
以上
いじょう
引
ひ
きずられたあと、ぱっと
路上
ろじょう
に
放
ほう
り
出
だ
されました。
車
くるま
は
二
に
十
じゅう
メートル
先
さき
にやっと
止
と
まりました。
運転手
うんてんしゅ
が
車
くるま
を
飛
と
び
降
お
りて、「なぜ
車
くるま
を
見
み
ないで
道路
どうろ
を
渡
わた
るんだ」と、
不愉快
ふゆかい
そうに
文句
もんく
を
言
い
います。
今
いま
の
人間
にんげん
は
何
なに
かトラブルが
起
お
きた
時
とき
に、まず
責任
せきにん
を
人
ひと
に
転嫁
てんか
し、
人
ひと
のせいにします。けれど
車内
しゃない
に
同乗
どうじょう
していた
人
ひと
が「
怪我
けが
はありませんか、
病院
びょういん
へ
連
つ
れて
行
い
きましょう」と
言
い
ったので、
運転手
うんてんしゅ
もやっと
我
われ
に
返
かえ
り、「
奥
おく
さん、
大丈夫
だいじょうぶ
ですか?
怪我
けが
はしていませんか?
病院
びょういん
で
診
み
てもらいましょう」と、
慌
あわ
てて
言
い
いました。しかし、ゆっくり
地面
じめん
から
立
た
ち
上
あ
がったその
学習者
がくしゅうしゃ
は、「
大丈夫
だいじょうぶ
です。
行
い
ってください」と
言
い
って、
身体
からだ
に
付
つ
いた
土
つち
をはたいてご
主人
しゅじん
と
一緒
いっしょ
にそこを
去
さ
りました。
講習会
こうしゅうかい
で
彼女
かのじょ
からその
話
はなし
を
聞
き
いて、わたしもたいへん
嬉
うれ
しく
思
おも
いました。われわれ
学習者
がくしゅうしゃ
の
心性
しんせい
は
確
たし
かに
高
たか
まってきました。
彼女
かのじょ
は「
先生
せんせい
、わたしは
今
いま
法輪大法
ファールンダーファー
を
学
まな
んでいます。もし
法輪大法
ファールンダーファー
を
学
まな
んでいなければ、わたしは、
今日
きょう
のことにこんなふうに
対処
たいしょ
することができなかったに
違
ちが
いありません」と、わたしに
言
い
いました。
考
かんが
えてみてください。
彼女
かのじょ
はすでに
定年
ていねん
退職
たいしょく
しており、
物価
ぶっか
がいまこんなに
高
たか
くなっているのに、
手当
てあて
や
福祉
ふくし
などの
待遇
たいぐう
は
全部
ぜんぶ
無
な
くなっています。
五十才
ごじゅっさい
を
過
す
ぎた
女性
じょせい
が、あれほど
車
くるま
に
引
ひ
きずられたあと
路上
ろじょう
に
放
ほう
り
出
だ
されたのです。どこか
怪我
けが
をしていないかですって?
身体中
からだじゅう
怪我
けが
だらけです!
路上
ろじょう
に
倒
たお
れたまま、
起
お
き
上
あ
がろうともしません。
病
びょう
院
いん
へ
行
い
こうって?
行
い
きますとも。
入院
にゅういん
したら、そのまま
病
びょう
院
いん
に
住
す
み
着
つ
いて
退院
たいいん
しようともしない。
常人
じょうじん
ならこのようにしかねないところです。しかし、
彼女
かのじょ
は
煉功者
れんこうしゃ
だから、そのようにはしませんでした。
物事
ものごと
の
善
よ
し
悪
あ
しは
人間
にんげん
の
一念
いちねん
によるものであり、その
一念
いちねん
の
違
ちが
いによって
異
こと
なる
結果
けっか
がもたらされることがある、とわれわれは
言
い
います。もうお
年
とし
も
若
わか
くないので、
常人
じょうじん
なら
怪我
けが
をしないはずがありませんね? しかし、
彼女
かのじょ
はかすり
傷
きず
さえ
負
お
っていませんでした。
物事
ものごと
の
善
よ
し
悪
あ
しは
人間
にんげん
の
一念
いちねん
によるものだと
今
いま
申
もう
しましたが、もし
彼女
かのじょ
が
路上
ろじょう
に
倒
たお
れたまま、「もう
駄目
だめ
です。ここも
駄目
だめ
、そこも
駄目
だめ
だわ」と
言
い
ったならば、それで
本当
ほんとう
にあちこち
骨折
こっせつ
して、
半身不随
はんしんふずい
になっていたかも
知
し
れません。いくらお
金
かね
をもらったとしても、
後半生
こうはんせい
は
病床
びょうしょう
での
寝
ね
たきり
生活
せいかつ
では、
気持
きも
ちよくしていられるでしょうか? まわりで
見
み
ていた
人
ひと
は、「このおばさん、どうして
運転手
うんてんしゅ
から
金
かね
をゆすらなかったのだろう?
金
かね
をもらったらよかったのに」と、
不思議
ふしぎ
に
思
おも
えて
仕方
しかた
がないようでした。
現在
げんざい
の
人間
にんげん
は、
道徳
どうとく
水準
すいじゅん
がこんなに
歪
ゆが
んでいるのです。
運転手
うんてんしゅ
がスピード
違反
いはん
をしたことは
確
たし
かです。しかし、
彼
かれ
もわざと
人
ひと
にぶつけたわけではありません。
彼
かれ
は
不注意
ふちゅうい
で
事故
じこ
を
起
おこ
してしまったのではありませんか? しかし、
現在
げんざい
の
人間
にんげん
は、
当事者
とうじしゃ
から
金
かね
をゆすらなければ、まわりで
見
み
ている
人
ひと
さえ
心
こころ
のバランスが
取
と
れなくなるのです。わたしに
言
い
わせれば、
現在
げんざい
の
人間
にんげん
は、
物事
ものごと
の
善
よ
し
悪
あ
しの
分別
ふんべつ
もつかなくなっています。それは
悪
わる
いことですよと
注意
ちゅうい
しても、
信
しん
じようとしない
人
ひと
がいます。
人間
にんげん
の
道徳
どうとく
水準
すいじゅん
まで
変
か
わってしまったため、
一部
いちぶ
の
人
ひと
は
利益
りえき
に
目
め
がくらみ、
金
かね
さえ
手
て
に
入
い
れることができれば、どんなことでもやってしまいます。「
自分
じぶん
のために
計
はか
らぬ
者
もの
は、
天地
てんち
の
罰
ばつ
を
受
う
ける」という
言葉
ことば
が、すでに
座右
ざゆう
の
銘
めい
となってしまったのです!
北京
ぺきん
のある
学習者
がくしゅうしゃ
が、
夕食
ゆうしょく
の
後
あと
、
子供
こども
を
連
つ
れて
前門
ぜんもん
大通
おおどお
りをぶらぶらしていると、そこで
景品
けいひん
くじを
宣伝
せんでん
する
車
くるま
を
見
み
かけました。
子供
こども
は
面白
おもしろ
がって、「
買
か
って、
買
か
って」と
言
い
い
出
だ
したので、
彼
かれ
は
子供
こども
に
一元
いちげん
を
渡
わた
しました。
引
ひ
いてみたら、なんと
二
に
等
とう
賞
しょう
に
当
あ
たって、
賞品
しょうひん
は
子供
こども
用
よう
の
高級自転車
こうきゅうじてんしゃ
でした。
子供
こども
は
嬉
うれ
しくてたまらない
様子
ようす
でしたが、
彼
かれ
は「しまった」と、
頭
あたま
から
冷
ひ
や
汗
あせ
をかきました。「ぼくは
煉功者
れんこうしゃ
なのだ。こんな
物
もの
を
求
もと
めてはならない。このような
不義
ふぎ
の
財
ざい
をもらうと、どれだけ
徳
とく
を
失
うしな
うことになるだろうか?」 そう
考
かんが
えた
彼
かれ
は、
子供
こども
に
向
む
かって「それをもらうのをやめよう。
欲
ほ
しいならパパが
買
か
ってあげるから」と
言
い
いました。
子供
こども
は
機嫌
きげん
が
悪
わる
くなりました。「
買
か
ってと
頼
たの
んでも、
買
か
ってくれなかったじゃないの。
自分
じぶん
で
当
あ
てたのに、もらっちゃいけないなんて」と
子供
こども
は
泣
な
き
叫
さけ
び、ちっとも
親
おや
の
言
い
うことを
聞
き
こうとしません。
仕方
しかた
がないので、
自転車
じてんしゃ
を
家
いえ
に
持
も
ち
帰
かえ
りました。
家
いえ
に
帰
かえ
った
後
あと
、
彼
かれ
は
考
かんが
えれば
考
かんが
えるほどまずいと
思
おも
い、いっそのこと
代金
だいきん
を
払
はら
おうと
思
おも
いました。しかし、「
抽選
ちゅうせん
はすでに
終
お
わった。
代金
だいきん
を
払
はら
えば、それが
彼
かれ
らに
山分
やまわ
けされるのではないか?」と
考
かんが
え
直
なお
して、
自転車
じてんしゃ
の
代金
だいきん
を
自分
じぶん
の
職場
しょくば
に
寄付
きふ
することにしました。
幸
さいわ
いなことに、
彼
かれ
の
職場
しょくば
には、
法輪大法
ファールンダーファー
の
学習者
がくしゅうしゃ
が
多
おお
くいました。
上司
じょうし
も
彼
かれ
のやり
方
かた
に
理解
りかい
を
示
しめ
してくれました。
普通
ふつう
の
職場
しょくば
ならば、「わたしは
煉功者
れんこうしゃ
だ。くじで
自転車
じてんしゃ
が
当
あ
たったが、その
代金
だいきん
を
職場
しょくば
に
寄付
きふ
したい」と
申
もう
し
出
で
たら、
上司
じょうし
から
頭
あたま
がおかしいのではないかと
思
おも
われるかも
知
し
れません。
他
ほか
の
人
ひと
たちも「この
人
ひと
は
煉功
れんこう
でおかしくなって、
走火入魔
そうかにゅうま
になったのではないか?」などとあれこれ
言
い
うでしょう。お
話
はな
ししたように、
道徳
どうとく
水準
すいじゅん
が
歪
ゆが
んできています。
五十
ごじゅう
年代
ねんだい
、
六
ろく
十
じゅう
年代
ねんだい
の
頃
ころ
、このようなことはごく
普通
ふつう
であり、
当
あ
たり
前
まえ
のことであって、
誰
だれ
も
不思議
ふしぎ
に
思
おも
う
人
ひと
などいませんでした。
人類
じんるい
の
道徳
どうとく
水準
すいじゅん
がどんなに
変化
へんか
しても、この
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
である
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
は
永遠
えいえん
に
変
か
わらないものです。
善人
ぜんにん
だと
言
い
われた
人
ひと
は
本当
ほんとう
の
善人
ぜんにん
とは
限
かぎ
らないし、
悪人
あくにん
だと
言
い
われた
人
ひと
でも
必
かなら
ずしも
本当
ほんとう
の
悪人
あくにん
とは
限
かぎ
りません。なぜなら、
現在
げんざい
では
善悪
ぜんあく
を
見分
みわ
ける
基準
きじゅん
まで
歪
ゆが
んでいます。
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
にかなった
人
ひと
だけが
善人
ぜんにん
なのです。それが
善人
ぜんにん
と
悪人
あくにん
を
見分
みわ
けるための
唯一
ゆいいつ
の
基準
きじゅん
であり、この
基準
きじゅん
は
宇宙
うちゅう
の
中
なか
で
認
みと
められています。
人類
じんるい
社会
しゃかい
はこんなに
大
おお
きく
変化
へんか
し、
人類
じんるい
の
道徳
どうとく
水準
すいじゅん
が
大幅
おおはば
に
退廃
たいはい
し、
世相
せそう
が
日増
ひま
しに
悪化
あっか
して、
人々
ひとびと
は
私利
しり
私欲
しよく
のみを
計
はか
ろうとするようになっていても、
宇宙
うちゅう
は
人類
じんるい
の
変化
へんか
に
従
したが
って
変化
へんか
するものではありません。
修煉者
しゅうれんしゃ
としては、
常人
じょうじん
の
基準
きじゅん
で
自分
じぶん
を
律
りっ
してはなりません。
常人
じょうじん
が
正
ただ
しいと
言
い
っているからといって、それに
従
したが
うわけにはいきません。
常人
じょうじん
が
良
よ
いと
言
い
っていることは、
必
かなら
ずしも
良
よ
いとは
限
かぎ
らないし、
常人
じょうじん
が
悪
わる
いと
言
い
っていることも
本当
ほんとう
に
悪
わる
いとは
限
かぎ
りません。
道徳
どうとく
基準
きじゅん
が
歪
ゆが
んでいる
現在
げんざい
、
悪
わる
いことをしている
人
ひと
に「あなたは
悪
わる
いことをしていますよ」と
注意
ちゅうい
しても、
当人
とうにん
はそれを
信
しん
じようとしません!
修煉者
しゅうれんしゃ
としては、
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
を
用
もち
いて
量
はか
るべきで、そうしてはじめて
真
しん
の
善悪
ぜんあく
が
何
なに
かを
見分
みわ
けることができます。
灌 頂
かん じょう
修煉界
しゅうれんかい
には
灌頂
かんじょう
ということがあります。
灌頂
かんじょう
とは
佛家
ぶっけ
密教
みっきょう
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
における
宗教
しゅうきょう
儀式
ぎしき
の
一
ひと
つです。その
目的
もくてき
は、
灌頂
かんじょう
を
受
う
けた
人
ひと
を
当法門
とうほうもん
の
本当
ほんとう
の
弟子
でし
として
認
みと
め、
他
た
の
法門
ほうもん
に
入
はい
らせないことです。ところが、
現在
げんざい
では
奇怪
きかい
なことに、
練功
れんこう
するのにもそのような
宗教
しゅうきょう
儀式
ぎしき
が
導入
どうにゅう
されており、
密教
みっきょう
のみにとどまらず、
道家
どうけ
の
功法
こうほう
においても
灌頂
かんじょう
が
行
おこ
なわれています。すでにお
話
はな
ししたように、
世
よ
の
中
なか
で
密教
みっきょう
の
看板
かんばん
を
掲
かか
げて、
密教
みっきょう
の
功法
こうほう
を
伝
つた
える
者
もの
はみな
偽物
にせもの
です。なぜかと
言
い
えば、
唐密
とうみつ
は
我
わ
が
国
くに
において
姿
すがた
を
消
け
してからすでに
千年
せんねん
以上
いじょう
も
経
た
っており、まったく
存在
そんざい
していないからです。
一方
いっぽう
、チベットの
密教
みっきょう
は
言語上
げんごじょう
の
制約
せいやく
で、
最初
さいしょ
から
漢
かん
民族
みんぞく
の
地域
ちいき
において
完全
かんぜん
な
形
かたち
で
伝
つた
えられることはありませんでした。
特
とく
にそれは
密教
みっきょう
だから
必
かなら
ず
寺院
じいん
の
中
なか
で
秘密
ひみつ
に
修煉
しゅうれん
しなければならず、しかも
必
かなら
ず
師
し
から
秘伝
ひでん
を
受
う
けて、
師
し
の
指導
しどう
の
下
もと
で
秘密
ひみつ
に
修煉
しゅうれん
しなければなりません。それができなければ、
絶対
ぜったい
に
教
おし
えてはならないということになっているのです。
将来
しょうらい
気功
きこう
師
し
になり
有名人
ゆうめいじん
になって、
金儲
かねもう
けがしたいという
目的
もくてき
でチベットへ
行
い
き、チベットの
密教
みっきょう
を
学
まな
びたいという
人
ひと
が
多
おお
くいます。よく
考
かんが
えてみてください。
真
しん
の
教
おし
えを
得
え
た
活
い
き
佛
ぼとけ
やラマ
僧
そう
はみな
非常
ひじょう
に
強
つよ
い
功能
こうのう
を
持
も
っています。
気功
きこう
を
学
まな
びに
来
き
た
人
ひと
が
頭
あたま
の
中
なか
で
何
なに
を
考
かんが
えているか、その
人
ひと
が
何
なん
のために
来
き
たのかは、
一目
ひとめ
見
み
れば、「この
人
ひと
はうちのものを
学
まな
んで、
気功師
きこうし
になって
金
かね
持
も
ちになり
有名人
ゆうめいじん
になろうとしており、この
法門
ほうもん
の
佛道
ぶつどう
修行
しゅぎょう
の
方法
ほうほう
を
破壊
はかい
しに
来
き
たのだ」とすぐ
分
わ
かります。こんなに
厳粛
げんしゅく
な
佛
ほとけ
を
修
おさ
める
法門
ほうもん
が、
気功師
きこうし
になって
名声
めいせい
や
利益
りえき
を
追求
ついきゅう
するなどという
目的
もくてき
のために、
勝手
かって
に
壊
こわ
されてよいものだろうか?
君
きみ
の
動機
どうき
はいったい
何
なん
ですか? というわけで、
彼
かれ
に
絶対
ぜったい
に
教
おし
えるはずがありませんので、こういう
人
ひと
が
真
しん
の
伝
つた
えを
得
え
ることはありません。もっとも、
寺院
じいん
の
数
かず
が
多
おお
いので、
表面
ひょうめん
的
てき
なものなら
少
すこ
しは
教
おし
えてもらえるかも
知
し
れません。もし
心
こころ
が
歪
ゆが
み、
気功師
きこうし
になって
悪事
あくじ
を
働
はたら
こうとすれば、
憑
つ
き
物
もの
を
招
まね
くことがあります。
憑依
ひょうい
した
動物
どうぶつ
にも
功
こう
がありますが、それはチベットの
密教
みっきょう
ではありません。
本当
ほんとう
にチベットへ
法
ほう
を
求
もと
めに
行
い
く
人
ひと
は、
向
む
こうへ
行
い
ったら、そのまま
住
す
み
着
つ
いて
帰
かえ
らないでしょう。このような
人
ひと
が
本当
ほんとう
の
修煉者
しゅうれんしゃ
なのです。
奇怪
きかい
なことに、
現在
げんざい
、
多
おお
くの
道家
どうけ
功法
こうほう
においても
灌頂
かんじょう
が
行
おこ
なわれています。
道家
どうけ
は
経絡
けいらく
を
重視
じゅうし
するのに、どうして
灌頂
かんじょう
など
行
おこ
なうのですか? わたしは
南方
なんぽう
で
功
こう
を
伝
つた
えたことがありますが、わたしの
知
し
っているかぎりでは、とりわけ
広東
カントン
において、それが
結構
けっこう
多
おお
いようです。
十
じゅう
数種類
すうしゅるい
の
目茶苦茶
めちゃくちゃ
な
功法
こうほう
で
灌頂
かんじょう
を
教
おし
えています。
何
なに
をねらっているのでしょうか?
灌頂
かんじょう
が
行
おこ
なわれた
後
あと
、あなたはその
弟子
でし
となり、それ
以後
いこう
は、
他
た
の
功
こう
を
学
まな
んではならないということです。もし
他
た
の
功
こう
を
学
まな
ぶと、
懲罰
ちょうばつ
を
受
う
けることになります。
彼
かれ
らがやっているのはこういうことです。それは
邪道
じゃどう
ではありませんか?
彼
かれ
らが
教
おし
えているのは
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
のためのものであり、
大衆
たいしゅう
がそれを
学
まな
ぶのも
健康
けんこう
な
身体
からだ
を
得
え
たいからに
過
す
ぎません。それではどうしてこんなことをやるのでしょうか? この
功
こう
をやれば、
他
た
の
功
こう
を
練
ね
ってはならないと
言
い
う
人
ひと
がいますが、ではその
功
こう
で
人
ひと
を
済度
さいど
して
圓満
えんまん
成就
じょうじゅ
させることができるのでしょうか? ただ
人
ひと
を
誤
あやま
らせるだけではないでしょうか! ところが、このようにする
人
ひと
は
案外
あんがい
多
おお
いのです。
道家
どうけ
はこれをやらないものだったのに、
灌頂
かんじょう
などをやりだしました。
最
もっと
も
盛
さか
んに
灌頂
かんじょう
を
行
おこ
なっているあの
気功師
きこうし
の
功柱
こうちゅう
がどれぐらい
高
たか
いかと
言
い
えば、わたしの
見
み
たところでは、せいぜい
建物
たてもの
の
二
に
、
三
さん
階
かい
ぐらいの
高
たか
さしかありません。きわめて
有名
ゆうめい
な
気功
きこう
師
し
でしたが、その
功
こう
は
気
き
の
毒
どく
なほど
堕
お
ちています。
何百
なんびゃく
ないし
千人
せんにん
以上
いじょう
の
人
ひと
が
並
なら
んでいて、
彼
かれ
はその
人
ひと
たちに
灌頂
かんじょう
を
行
おこ
なうというのです。
彼
かれ
の
功
こう
は
限
かぎ
られたものであり、それ
以上
いじょう
高
たか
くなることはありえません。あっという
間
ま
に
減
へ
ってしまい、
無
な
くなってしまったのに、
彼
かれ
は
何
なに
をもって
人
ひと
に
灌頂
かんじょう
を
行
おこ
なうのでしょうか。
人
ひと
を
騙
だま
しているだけではありませんか?
他
た
の
空間
くうかん
で
見
み
れば、
本当
ほんとう
に
灌頂
かんじょう
が
行
おこ
なわれた
後
あと
では、
人間
にんげん
の
骨
ほね
が
頭
あたま
から
足
あし
まで
玉
ぎょく
のように
白
しろ
くなります。つまり、
功
こう
や
高
こう
エネルギーの
物質
ぶっしつ
を
用
もち
いて、
頭
あたま
から
足
あし
まで
身体
からだ
全体
ぜんたい
を
浄化
じょうか
するということです。あの
気功師
きこうし
にこれができるでしょうか? できるわけがありません。では
何
なん
のためにやっているのでしょうか? もちろん、それは
宗教
しゅうきょう
をやっているとは
限
かぎ
りません。ねらいは、
彼
かれ
の
功
こう
を
学
まな
べば
彼
かれ
の
門人
もんじん
となり、
彼
かれ
の
講習会
こうしゅうかい
に
出席
しゅっせき
して
彼
かれ
のものを
学
まな
ばなければならない、ということにあります。あなたからお
金
かね
を
取
と
りたい、というのがねらいです。もし、
誰
だれ
も
彼
かれ
のものを
学
まな
ばなければ、お
金
かね
を
稼
かせ
ぐことはできなくなるでしょう。
法輪大法
ファールンダーファー
の
弟子
でし
は、
他
た
の
佛家法門
ぶっけほうもん
の
弟子
でし
と
同
おな
じように、
師
し
が
何
なん
度
ど
も
灌頂
かんじょう
をしてあげているのです。しかし、あなたにはそれが
分
わ
からないようにしています。もっとも
功能
こうのう
のある
人
ひと
には
分
わ
かるかも
知
し
れず、
敏感
びんかん
な
人
ひと
はそれを
感
かん
じ
取
と
れるかも
知
し
れません。
寝
ね
ている
時
とき
、あるいは
何
なに
かをしている
時
とき
に、
突然
とつぜん
、
一陣
いちじん
の
熱
あつ
い
流
なが
れが
頭
あたま
のてっぺんから
下
した
へと
全身
ぜんしん
を
駆
か
け
抜
ぬ
けていくことがあります。
灌頂
かんじょう
を
行
おこ
なう
目的
もくてき
は、
高
たか
い
功
こう
を
加
くわ
えてあげることではありません。
功
こう
は
自分
じぶん
で
修煉
しゅうれん
して
得
え
るものです。
灌頂
かんじょう
はそれを
加持
かじ
する
方法
ほうほう
の
一
ひと
つであり、
身体
からだ
を
浄化
じょうか
し、いっそう
浄
きよ
めるためのものです。
灌頂
かんじょう
は
何回
なんかい
も
繰
く
り
返
かえ
して
行
おこ
ない、
各段階
かくだんかい
においてあなたの
身体
からだ
を
整理
せいり
し、
浄化
じょうか
しなければなりません。「
修
しゅう
は
己
おのれ
にありて、
功
こう
は
師
し
にあり」と
言
い
われているように、われわれは
灌頂
かんじょう
という
形式
けいしき
をことさら
言
い
わないことにしています。
また、
弟子入
でしい
りの
儀式
ぎしき
をやる
人
ひと
がいます。
話
はなし
がこのことに
及
およ
びましたので、ついでに
言
い
っておきたいのですが、
多
おお
くの
人
ひと
がわたしに
弟子入
でしい
りしようとしています。われわれの
現在
げんざい
のこの
時代
じだい
は
封建
ほうけん
社会
しゃかい
の
中国
ちゅうごく
とは
違
ちが
います。ひざまずいて
叩頭
こうとう
の
礼
れい
をしたら、それで
弟子
でし
入
い
りしたことになるのでしょうか? われわれはそのような
形式
けいしき
的
てき
なことはやりません。
叩頭
こうとう
して
佛
ほとけ
を
拝
おが
み、
線香
せんこう
を
立
た
てて、
敬虔
けいけん
な
心
こころ
をもちさえすれば
功
こう
が
伸
の
びる、と
考
かんが
えている
人
ひと
が
少
すく
なくありませんが、それはおかしい
考
かんが
え
方
かた
です。
本当
ほんとう
の
煉功
れんこう
とは
自分
じぶん
自身
じしん
で
修
おさ
めることであり、いかなるものに
頼
たの
み
求
もと
めても
役立
やくだ
ちません。
佛
ほとけ
を
拝
おが
んだり、
線香
せんこう
を
立
た
てたりしなくても、
本当
ほんとう
に
修煉者
しゅうれんしゃ
の
基準
きじゅん
に
基
もと
づいて
修煉
しゅうれん
しさえすれば、
佛
ほとけ
はそれを
見
み
ただけで
喜
よろこ
ばれます。それに
対
たい
し、
悪事
あくじ
ばかりを
働
はたら
いている
者
もの
が
線香
せんこう
を
立
た
てながら
拝
おが
む
姿
すがた
を
見
み
ると、それだけで
佛
ほとけ
は
気持
きも
ちが
辛
つら
くなるのです。これが
道理
どうり
というものではありませんか?
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
は
自分
じぶん
自身
じしん
に
頼
たよ
らなければなりません。
今日
きょう
、
叩頭
こうとう
して
弟子入
でしい
りをしたのに、そこを
離
はな
れるやいなや、
元
もと
の
木阿弥
もくあみ
になってしまう、というのでは
何
なん
になるというのですか? したがって、われわれはそのような
形式
けいしき
的
てき
なことは
全
まった
くやりません。もしかすると、あなたがそうすることによって、わたしの
名誉
めいよ
が
汚
けが
されるかも
知
し
れません!
わたしは
皆
みな
さんにこんなにたくさんのものを
与
あた
えました。すべての
人
ひと
が
着実
ちゃくじつ
に
修煉
しゅうれん
に
励
はげ
み、
大法
ダーファー
に
従
したが
って
自分
じぶん
を
厳格
げんかく
に
律
りっ
しさえすれば、わたしはみんな
弟子
でし
として
導
みちび
きます。
法輪大法
ファールンダーファー
を
修煉
しゅうれん
するかぎり、あなたを
弟子
でし
として
扱
あつか
います。あなたが
修煉
しゅうれん
しないのであれば、われわれもどうすることもできません。
修煉
しゅうれん
をやめて、
名
な
ばかりを
残
のこ
しても
何
なん
の
役
やく
に
立
た
つというのですか?
一期生
いっきせい
とか、
二期生
にきせい
とかいって、この
動作
どうさ
を
煉
ね
るだけでわれわれの
弟子
でし
になれるとでも
思
おも
いますか?
実際
じっさい
にわれわれの
心性
しんせい
の
基準
きじゅん
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
して、はじめて
健康
けんこう
な
身体
からだ
を
得
え
ることができ、はじめて
本当
ほんとう
に
高
こう
次元
じげん
に
向上
こうじょう
することができるのです。したがって、われわれはこのような
形式
けいしき
はとらず、
修煉
しゅうれん
しさえすれば、あなたはわれわれの
一門
いちもん
の
中
なか
の
人
ひと
となるのです。わたしの
法身
ほうしん
は
何
なん
でも
知
し
っています。あなたが
何
なに
を
考
かんが
えているかも
全部
ぜんぶ
知
し
っています。そして、わたしの
法身
ほうしん
は
何
なん
でもできます。あなたが
修煉
しゅうれん
しなければ、
何
なに
も
面倒
めんどう
を
見
み
ませんが、
修煉
しゅうれん
すれば、
最後
さいご
まで
助
たす
けてあげます。
練功
れんこう
している
者
もの
がまだ
師
し
に
会
あ
ったことがないので、ある
方向
ほうこう
に
向
む
かって
叩頭
こうとう
して
拝
おが
んだ
上
うえ
で、
数
すう
百
ひゃく
元
げん
の
金
かね
を
払
はら
えば、それで
結構
けっこう
だという
功法
こうほう
があります。それこそまさに「
自
みずか
らを
欺
あざむ
き、
人
ひと
をも
欺
あざむ
く」ということではありませんか? しかし、
当人
とうにん
は
大
だい
満足
まんぞく
なのです。それ
以来
いらい
、その
功
こう
とその
師
し
のことを
擁護
ようご
するようになり、そして、
他
た
の
功
こう
を
学
まな
んではならないと
他
ほか
の
人
ひと
にも
教
おし
えます。
本当
ほんとう
におかしな
話
はなし
です。また、
頭
あたま
を
撫
な
でるといったおまじないをやっている
人
ひと
もいますが、
彼
かれ
が
頭
あたま
を
撫
な
でると
何
なん
の
効
き
き
目
め
があるのかはまったく
分
わ
かりません。
密教
みっきょう
の
看板
かんばん
を
掲
かか
げて
功
こう
を
伝
つた
える
者
もの
が
偽物
にせもの
であるだけでなく、
佛教
ぶっきょう
の
法門
ほうもん
の
名義
めいぎ
で
功
こう
を
伝
つた
える
者
もの
もみな
偽物
にせもの
なのです。
皆
みな
さん
考
かんが
えてみてください。
佛教
ぶっきょう
の
数
すう
千
せん
年来
ねんらい
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
には、
決
き
まった
形式
けいしき
があります。
誰
だれ
かがそれに
改変
かいへん
を
加
くわ
えたとすれば、それはまだ
佛教
ぶっきょう
であると
言
い
えるでしょうか?
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
は
厳
おごそ
かに
佛
ほとけ
を
修
おさ
めるためのものであり、しかもきわめて
玄妙
げんみょう
なものなので、
少
すこ
しでも
改変
かいへん
を
加
くわ
えると、
直
ただ
ちに
混乱
こんらん
してしまいます。なぜかと
言
い
えば、
功
こう
の
演化
えんか
する
過程
かてい
がきわめて
複雑
ふくざつ
であるのに
対
たい
して、
人間
にんげん
の
感覚
かんかく
はまったく
頼
たよ
りにならないものなので、
感覚
かんかく
に
頼
たよ
って
修煉
しゅうれん
するわけにはいきません。
和尚
おしょう
の
宗教
しゅうきょう
形式
けいしき
そのものが
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
であるがために、それに
改変
かいへん
を
加
くわ
えるとその
一門
いちもん
のものではなくなります。どの
法門
ほうもん
も
大覚者
だいかくしゃ
によって
主宰
しゅさい
され、どの
法門
ほうもん
からも
多
おお
くの
大覚者
だいかくしゃ
が
修煉
しゅうれん
して
成就
じょうじゅ
していきましたが、
誰
だれ
一人
ひとり
として
勝手
かって
にその
一門
いちもん
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
に
改変
かいへん
を
加
くわ
えようとする
人
ひと
はいませんでした。それなのに、
取
と
るに
足
た
らない
一介
いっかい
の
気功師
きこうし
が、
主
しゅ
を
欺
あざむ
いて
佛
ほとけ
を
修
おさ
める
法門
ほうもん
を
変
か
えようとするなど、
彼
かれ
は
果
はた
してどんな
威徳
いとく
を
持
も
っているというのですか? もし
本当
ほんとう
に
改変
かいへん
を
加
くわ
えたとしたら、それはまだその
法門
ほうもん
のものと
言
い
えますか?
偽物
にせもの
の
気功
きこう
は
見分
みわ
けることができるのです。
玄関
げんかん
設位
せつい
「
玄関
げんかん
設位
せつい
」は、また「
玄関
げんかん
一竅
いっきょう
」とも
言
い
います。『
丹経
たんけい
』、『
道蔵
どうぞう
』、『
性命圭旨
せいめいけいし
』の
中
なか
に、この
言葉
ことば
を
見
み
つけることができます。それでは、それはどういうことでしょうか?
多
おお
くの
気功
きこう
師
し
ははっきり
説明
せつめい
することができません。なぜかと
言
い
えば、
一般
いっぱん
の
気功
きこう
師
し
のいる
次元
じげん
では、
絶対
ぜったい
にそれが
見
み
えないし、
見
み
ることも
許
ゆる
されないからです。
修煉者
しゅうれんしゃ
がそれを
見
み
ようとすれば、
慧眼通
えげんつう
の
上層
じょうそう
以上
いじょう
に
達
たっ
することが
必要
ひつよう
です。
一般
いっぱん
の
気功
きこう
師
し
はこの
次元
じげん
に
到達
とうたつ
することができないので、それが
見
み
えるはずはありません。
修煉界
しゅうれんかい
ではこれまでずっと、「
玄関
げんかん
とは
何
なに
か? その
一竅
いっきょう
はどこにあるのか? それはどのように
設位
せつい
するのか?」などについて、
議論
ぎろん
してきました。『
丹経
たんけい
』、『
道蔵
どうぞう
』、『
性命圭旨
せいめいけいし
』を
読
よ
めば
分
わ
かるように、それらの
本
ほん
はいずれも
理論
りろん
をめぐって
述
の
べており、
実質
じっしつ
的
てき
なものについてはまったく
教
おし
えてくれません。
長々
ながなが
と
説明
せつめい
したあげく、
結局
けっきょく
は
人
ひと
を
煙
けむ
に
巻
ま
くだけで、はっきり
説明
せつめい
することができません。なぜなら、
実質
じっしつ
的
てき
なものは
常人
じょうじん
に
知
し
らせてはならないからです。
ついでに、
皆
みな
さんは
法輪大法
ファールンダーファー
の
弟子
でし
ですから
忠告
ちゅうこく
しておきますが、
絶対
ぜったい
にくだらない
気功
きこう
書
しょ
を
読
よ
まないようにしてください。これは
上
うえ
で
挙
あ
げた
古書
こしょ
ではなく、
現代
げんだい
人
じん
の
書
か
いた
偽
いつわ
りの
気功
きこう
書
しょ
のことを
言
い
っているのです。めくってみてもいけません。あなたの
頭
あたま
の
中
なか
でほんのわずかでも、「おや、この
言
い
い
方
かた
には
一理
いちり
がある」と
思
おも
えば、その
途端
とたん
に
本
ほん
の
中
なか
から
憑
つ
き
物
もの
が
飛
と
び
出
だ
して、あなたの
身体
からだ
に
取
と
り
付
つ
いてきます。
憑
つ
き
物
もの
が
指図
さしず
をして、
人間
にんげん
の
名利
みょうり
を
求
もと
める
心
こころ
を
利用
りよう
して
書
か
かせたものも
少
すく
なくありません。こうした
偽
いつわ
りの
気功書
きこうしょ
はやたらに
多
おお
く、
憑
つ
き
物
もの
とか、くだらないものについて
無責任
むせきにん
に
書
か
く
人
ひと
も
多
おお
くいます。
先
さき
ほど
触
ふ
れた
古書
こしょ
、またはその
他
ほか
の
関係
かんけい
する
古
ふる
い
本
ほん
でも、
基本的
きほんてき
には
読
よ
まない
方
ほう
がよいのです。
一
ひと
つに
専念
せんねん
すべきであり、
心
こころ
を
乱
みだ
してはいけないからです。
ところで、わたしは
中国
ちゅうごく
気功
きこう
協会
きょうかい
の
責任
せきにん
者
しゃ
から
次
つぎ
のような
話
はなし
を
聞
き
いて、おかしくてたまりませんでした。
北京
ぺきん
のある
人
ひと
がよく
気功
きこう
講座
こうざ
を
受講
じゅこう
していました。あちこちで
受講
じゅこう
して、
長
なが
く
聞
き
いているうちに、
気功
きこう
とはこんな
程度
ていど
のものなのだと
彼
かれ
は
思
おも
いました。なぜかと
言
い
うと、
同
おな
じ
次元
じげん
にいる
人
ひと
は
同
おな
じことしか
語
かた
れないからです。
彼
かれ
は
偽
にせ
気功
きこう
師
し
と
同
おな
じように、
気功
きこう
の
内容
ないよう
はその
程度
ていど
のものか! よしそれなら
自分
じぶん
も、と
気功
きこう
の
本
ほん
を
書
か
こうとしたのです。
皆
みな
さん
考
かんが
えてみてください。
煉功
れんこう
もしない
人
ひと
が
気功
きこう
の
本
ほん
を
書
か
いているのです。
現在
げんざい
の
気功書
きこうしょ
はほとんど
互
たが
いに
写
うつ
し
合
あ
っています。その
人
ひと
はあれこれ
書
か
いて、
玄関
げんかん
のところまで
書
か
いてくると、
筆
ふで
が
進
すす
まなくなりました。
玄関
げんかん
のことを
知
し
っている
人
ひと
がいるでしょうか?
本物
ほんもの
の
気功
きこう
師
し
でも、はっきりそれが
分
わ
かる
人
ひと
は
限
かぎ
られています。そこで、
彼
かれ
はある
偽
にせ
気功
きこう
師
し
に
尋
たず
ねました。
彼
かれ
はもとより
気功
きこう
が
分
わ
からないので、
相手
あいて
が
偽
にせ
気功
きこう
師
し
だと
分
わ
かるはずがありません。その
偽
にせ
気功
きこう
師
し
のほうにしても、もし
彼
かれ
の
質問
しつもん
に
答
こた
えられなければ、
偽物
にせもの
だということがばれてしまうではありませんか? そこでその
偽
にせ
気功
きこう
師
し
は
大胆
だいたん
にも、
玄関
げんかん
一竅
いっきょう
は
性器
せいき
の
先端
せんたん
部
ぶ
にあるという、でたらめの
嘘
うそ
を
付
つ
きました。
噴
ふ
き
出
だ
してしまうような
話
はなし
ですが、
笑
わら
い
事
ごと
にしてはいけないのは、その
本
ほん
がすでに
出版
しゅっぱん
されていることです。
気功
きこう
書
しょ
はこれほど
馬鹿
ばか
げたものになっているのです。ですからそんなものを
読
よ
んでも
役
やく
に
立
た
ちません。
読
よ
む
人
ひと
に
害
がい
を
与
あた
えるだけです。
さて
玄関
げんかん
設位
せつい
とは
何
なん
でしょうか?
世間法
せけんほう
の
修煉
しゅうれん
において、
中以上
ちゅういじょう
のレベルに
達
たっ
した
時
とき
、つまり、
世間法
せけんほう
の
高
たか
いレベルで
修煉
しゅうれん
する
時
とき
、
人間
にんげん
の
身体
からだ
に「
元嬰
げんえい
」が
生
う
まれてきます。
元嬰
げんえい
はわれわれの
言
い
う「
嬰孩
えいがい
」とは
違
ちが
います。
嬰孩
えいがい
はきわめて
小
ちい
さく、
腕白
わんぱく
でじっとしていられません。それに
対
たい
し、
元嬰
げんえい
は
動
うご
かないものであり、
元
げん
神
しん
が
指図
さしず
しないかぎり、
両手
りょうて
で
印
いん
を
結
むす
び、
結跏趺坐
けっかふざ
で
蓮花
れんげ
座
ざ
の
上
うえ
にじっと
坐
すわ
っていて
動
うご
こうとしません。
元嬰
げんえい
は
丹田
たんでん
に
生
う
まれ、
超
ちょう
ミクロの
世界
せかい
では、
針
はり
先
さき
よりも
小
ちい
さい
時
とき
からその
存在
そんざい
が
見
み
えます。
ついでに
説明
せつめい
しておきたいことがあります。
本当
ほんとう
の
丹田
たんでん
は
一
ひと
つしかなく、
人間
にんげん
の
下腹部
かふくぶ
に
位置
いち
しています。
人間
にんげん
の
体内
たいない
で、
会陰
えいん
のツボより
上
うえ
、
下腹部
かふくぶ
の
下
した
にあるのがその
田
でん
です。
多
おお
くの
功
こう
、
多
おお
くの
功能
こうのう
、
多
おお
くの
術
じゅつ
類
るい
のもの、
法身
ほうしん
、
元嬰
げんえい
、
嬰孩
えいがい
など、
数々
かずかず
の
生命体
せいめいたい
は、いずれもこの
田
でん
に
生
う
まれるものです。
昔
むかし
、
一部
いちぶ
の
修道者
しゅうどうしゃ
は「
上丹田
じょうたんでん
」、「
中丹田
ちゅうたんでん
」、「
下丹田
かたんでん
」があると
主張
しゅちょう
していましたが、それは
間違
まちが
っています。
中
なか
には、それは
自分
じぶん
の
師
し
たちが
数
すう
代
だい
にわたって
伝
つた
えてきたもので、
本
ほん
の
中
なか
にもそのように
書
か
いてある、と
言
い
う
人
ひと
もいます。しかし、
取
と
るに
足
た
らないものは
古代
こだい
から
存在
そんざい
しており、
長年
ながねん
伝承
でんしょう
してきたからといって、
必
かなら
ずしも
正
ただ
しいものとは
限
かぎ
りません。
世間小道
せけんしょうどう
は、
昔
むかし
から
常人
じょうじん
の
間
あいだ
で
伝承
でんしょう
されてはいるものの、それによって
修煉
しゅうれん
することはできず、なんの
価値
かち
もありません。
上丹田
じょうたんでん
、
中丹田
ちゅうたんでん
、
下丹田
かたんでん
を
主張
しゅちょう
する
人
ひと
は、
丹
たん
のできる
場所
ばしょ
であればみんな
丹田
たんでん
だと
考
かんが
えています。それは
笑
わら
い
話
ばなし
にもなりません。
人間
にんげん
の
意念
いねん
が
一ヵ所
いっかしょ
に
長
なが
く
集中
しゅうちゅう
していれば、エネルギーがそこに
固
かた
まって、
丹
たん
ができるようになります。
信
しん
じられなければ、
腕
うで
に
意念
いねん
を
集中
しゅうちゅう
させてみてください。そのまま
集中
しゅうちゅう
していれば、
時間
じかん
が
経
た
つと、
腕
うで
に
丹
たん
ができます。これを
見
み
て、
丹田
たんでん
はいたるところにあると
言
い
う
人
ひと
がいますが、なおさらおかしいことです。その
考
かんが
え
方
かた
によれば、
丹
たん
ができたのだから、そこが
丹田
たんでん
だというわけです。しかし、それは
丹
たん
ではありますが、
田
でん
ではありません。もし、いたるところに「
丹
たん
」ができる、または「
上丹
じょうたん
、
中丹
ちゅうたん
、
下丹
かたん
」と
言
い
うならば、それはそれで
構
かま
いませんが、しかし、
実際
じっさい
に
数
かぞ
え
切
き
れないほどの
法
ほう
を
生
う
み
出
だ
すことのできる
田
でん
は
一
ひと
つしかありません。
人間
にんげん
の
下腹部
かふくぶ
のあたりの
田
でん
がそれです。したがって、
上丹田
じょうたんでん
、
中丹田
ちゅうたんでん
、
下丹田
かたんでん
のような
言
い
い
方
かた
は
間違
まちが
っています。
人間
にんげん
の
意念
いねん
が
長
なが
く
一ヵ所
いっかしょ
に
集中
しゅうちゅう
すれば、そこにおのずと
丹
たん
を
結
むす
ぶようになるのです。
元嬰
げんえい
は
下腹部
かふくぶ
にあるこの
丹田
たんでん
に
生
う
まれ、
徐々
じょじょ
に
大
おお
きくなります。ピンポン
玉
だま
ほどの
大
おお
きさに
成長
せいちょう
した
時
とき
、
身体
からだ
の
輪郭
りんかく
がはっきり
見
み
えるようになり、
目
め
や
鼻
はな
も
備
そな
わるようになります。ピンポン
玉
だま
の
大
おお
きさになると
彼
かれ
の
側
そば
には、
真
ま
ん
丸
まる
くて
小
ちい
さな
気泡
きほう
が
生
う
まれてきます。
生
う
まれてからは
元嬰
げんえい
と
一緒
いっしょ
に
成長
せいちょう
していきます。
元嬰
げんえい
が
四寸
よんすん
くらいの
身長
しんちょう
に
成長
せいちょう
した
時
とき
、
蓮
はす
の
花
はな
びらが
一枚
いちまい
現
あら
われてきます。
元嬰
げんえい
が
五
ご
、
六寸
ろくすん
くらいの
身長
しんちょう
に
成長
せいちょう
した
時
とき
、
蓮
はす
の
花
はな
びらがほとんどできあがり、
一重
ひとえ
の
蓮
はす
の
花
はな
が
現
あら
われてきます。
金色
こんじき
に
輝
かがや
く
元嬰
げんえい
が
金色
こんじき
の
蓮花
れんげ
座
ざ
に
坐
すわ
って、とても
綺麗
きれい
です。これがすなわち「
金剛不壊
こんごうふえ
の
体
からだ
」であり、
佛家
ぶっけ
では「
佛体
ぶったい
」と
言
い
い、
道家
どうけ
では「
元嬰
げんえい
」と
言
い
います。
われわれの
法門
ほうもん
では、
二
ふた
つの
身体
からだ
を
同時
どうじ
に
修煉
しゅうれん
し、
本体
ほんたい
も
転化
てんか
させなければなりません。
皆
みな
さんもご
存
ぞん
じのように、
佛体
ぶったい
は
常人
じょうじん
の
間
あいだ
で
顕現
けんげん
するわけにはいかないものです。せいぜいのところ、
形態
けいたい
を
現
あら
わすだけで、
常人
じょうじん
の
目
め
にはその
光
ひかり
の
影
かげ
が
見
み
えます。それに
対
たい
して、この
身体
からだ
が
転化
てんか
された
後
あと
、
常人
じょうじん
の
中
なか
にいる
時
とき
は、
常人
じょうじん
と
同
おな
じような
姿
すがた
をしており、
常人
じょうじん
の
目
め
ではそれを
見抜
みぬ
くことができません。それは
同時
どうじ
に
他
た
の
空間
くうかん
に
出入
でい
りすることができます。
元嬰
げんえい
が
四
し
、
五
ご
寸
すん
くらいの
高
たか
さに
成長
せいちょう
した
時
とき
、
気泡
きほう
もそれぐらいの
大
おお
きさになり、まるで
風船
ふうせん
のようで
透明
とうめい
感
かん
があります。
元嬰
げんえい
は
相
あい
変
かわ
らずそこに
結跏趺坐
けっかふざ
をしたままで、じっとして
動
うご
きません。
気泡
きほう
はそれぐらいの
大
おお
きさになると、
丹田
たんでん
を
離
はな
れていくことになります。すでに
成長
せいちょう
したので、
瓜
うり
が
熟
じゅく
して
蔓
つる
から
離
はな
れるように、
上昇
じょうしょう
するようになります。
上昇
じょうしょう
の
過程
かてい
はきわめて
緩
ゆる
やかなものではありますが、
毎日
まいにち
それが
移動
いどう
しているのが
見
み
えます。
徐々
じょじょ
に、ゆっくりと
上
うえ
の
方
ほう
へ
移動
いどう
して
上昇
じょうしょう
していきます。
念入
ねんい
りに
体験
たいけん
し
観察
かんさつ
すれば、その
存在
そんざい
に
気
き
づくことができます。
気泡
きほう
が
人間
にんげん
の
膻中
だんちゅう
というツボまで
上昇
じょうしょう
してくると、そこにしばらく
留
とど
まります。なぜなら
人体
じんたい
の
精華
せいか
の
多
おお
くが(
心臓
しんぞう
もここにあります)、この
気泡
きほう
の
中
なか
で
一式
いっしき
形成
けいせい
され、
精華
せいか
で
気泡
きほう
を
充
み
たさなければならないからです。やがて
気泡
きほう
は、また
続
つづ
けて
上昇
じょうしょう
します。それが
首
くび
を
通過
つうか
する
時
とき
は、
息詰
いきづ
まるような
感
かん
じがし、
血管
けっかん
が
締
し
め
付
つ
けられ
詰
つ
まったような
感
かん
じになって
辛
つら
い
思
おも
いをしますが、
一日
いちにち
か
二日
ふつか
ぐらいで
治
なお
ります。この
後
あと
、
頭
あたま
のてっぺんに
到達
とうたつ
します。われわれは
通常
つうじょう
これを「
泥丸
でいがん
に
上
あ
がる」と
言
い
っています。
泥丸
でいがん
に
到達
とうたつ
したと
言
い
いますが、
実
じつ
はそれが
大脳
だいのう
と
同
おな
じ
大
おお
きさなので、この
時
とき
、
頭
あたま
が
張
は
るような
感
かん
じがします。
泥丸
でいがん
は
人間
にんげん
の
生命
せいめい
にとってきわめて
大切
たいせつ
な
場所
ばしょ
なので、これも
気泡
きほう
の
中
なか
で
精華
せいか
を
作
つく
らなければなりません。その
後
ご
、
気泡
きほう
は
天目
てんもく
の
通路
つうろ
から
外
そと
へ
突
つ
き
出
で
てきますが、その
時
とき
は
大変
たいへん
辛
つら
いのです。
気泡
きほう
が
完全
かんぜん
に
突
つ
き
出
で
てくるまで、
天目
てんもく
が
張
は
って
痛
いた
くてたまらないし、
太陽
たいよう
というツボも
破裂
はれつ
しそうな
感
かん
じがして、
目
め
が
落
お
ち
窪
くぼ
んでしまいます。
突
つ
き
出
で
てきた
後
あと
、
額
ひたい
の
前
まえ
にぶらさがりますが、これが
玄関
げんかん
設位
せつい
なのです。
天目
てんもく
が
開
ひら
いた
人
ひと
でも、この
時
とき
になると
見
み
えなくなります。なぜなら、
佛道両家
ぶつどうりょうけ
の
修煉
しゅうれん
においては、
玄関
げんかん
の
中
なか
のものを
早
はや
く
生成
せいせい
させるために、
門
もん
を
閉
と
じてしまうからです。
表
おもて
には
観音開
かんのんびら
きの
大
おお
きな
門
もん
があり、
裏
うら
にも
観音開
かんのんびら
きの
門
もん
がありますが、いずれも
閉
と
じてしまいます。
北京
ぺきん
の
天安門
てんあんもん
と
同
おな
じように、
両
りょう
側
がわ
に
観音開
かんのんびら
きの
門
もん
がそれぞれ
二
ふた
つずつあります。それを
一日
いちにち
も
早
はや
く
形成
けいせい
させ
充実
じゅうじつ
させるために、きわめて
特殊
とくしゅ
な
場合
ばあい
でないかぎり、それらの
門
もん
は
開
ひら
かないことになっています。というわけで、
天目
てんもく
が
見
み
える
人
ひと
でもこの
時
とき
になると
見
み
えなくなり、
見
み
せてもらえなくなるのです。ところで、なぜそこにぶらさがるのでしょうか? われわれの
身体
からだ
の
百脈
ひゃくみゃく
がその
場所
ばしょ
で
交差
こうさ
していますので、そうすれば、
百脈
ひゃくみゃく
は
全部
ぜんぶ
玄関
げんかん
を
通
とお
って
一
ひと
回
まわ
りをしてから
出
で
ていかなければなりません。
目的
もくてき
は、
玄関
げんかん
の
中
なか
でもう
少
すこ
し
基礎
きそ
作
づく
りをして
一式
いっしき
のものを
生成
せいせい
させるためです。
人体
じんたい
そのものが
一
ひと
つの
小
ちい
さな
宇宙
うちゅう
であり、それは
小
ちい
さな
世界
せかい
を
形成
けいせい
することになるので、
人体
じんたい
の
精華
せいか
は
漏
も
れなくその
中
なか
で
生成
せいせい
させなければなりません。ただし、それはただ
一式
いっしき
の
設備
せつび
を
形成
けいせい
するだけにとどまり、まだ
完全
かんぜん
にそれを
運用
うんよう
することはできません。
奇
き
門
もん
功法
こうほう
で
修煉
しゅうれん
する
場合
ばあい
、
玄関
げんかん
は
開
ひら
くようになっています。その
玄関
げんかん
は
外
そと
に
突
つ
き
出
で
てきた
時
とき
、
筒
つつ
状
じょう
の
形
かたち
をしていますが、そのうち
徐々
じょじょ
に
丸
まる
くなっていきます。ですから、
両
りょう
側
がわ
の
門
もん
は
開
ひら
いているのです。
奇
き
門
もん
功法
こうほう
で
修煉
しゅうれん
しているのは
佛
ほとけ
でもなければ
道
どう
でもないので、
自分
じぶん
で
自分
じぶん
を
守
まも
ります。
佛道
ぶつどう
両家
りょうけ
では
師
し
がいくらでもおり、みんなが
守
まも
ってくれます。
自分
じぶん
で
見
み
る
必要
ひつよう
はなく、
問題
もんだい
が
出
で
る
恐
おそ
れもありません。しかし、
奇
き
門
もん
功法
こうほう
の
場合
ばあい
は、そういうわけにはいきません。
彼
かれ
らは
自分
じぶん
で
自分
じぶん
を
守
まも
らなければなりませんので、
見
み
える
状態
じょうたい
を
保
たも
つ
必要
ひつよう
があるわけです。ただし、その
時
とき
、
天目
てんもく
でものを
見
み
ると、まるで
望遠鏡
ぼうえんきょう
の
筒
つつ
を
通
とお
して
見
み
ているのと
同
おな
じような
感
かん
じがします。
一式
いっしき
のものが
全部
ぜんぶ
生成
せいせい
された
後
あと
、
約
やく
一ヵ月
いっかげつ
ほどすると、
玄関
げんかん
は
頭
あたま
の
中
なか
に
戻
もど
っていきます。
頭
あたま
の
中
なか
に
戻
もど
った
後
あと
は、
玄関
げんかん
換位
かんい
と
言
い
います。
戻
もど
る
時
とき
も、
頭
あたま
が
張
は
りつめるような
感
かん
じがして
大変
たいへん
辛
つら
いのです。
今度
こんど
は
玉枕
ぎょくちん
というツボから
突
つ
き
出
で
てくることになります。
突
つ
き
出
で
てくる
時
とき
、
頭
あたま
が
割
わ
れんばかりの
感
かん
じで、その
辛
つら
さは
並大抵
なみたいてい
のものではありません。ぱっと
外
そと
に
出
で
てしまうと、
直
ただ
ちに
楽
らく
になります。
出
で
てきたあと、それはきわめて
深
ふか
い
空間
くうかん
にぶらさがり、きわめて
深
ふか
い
空間
くうかん
にいるその
身体
しんたい
形式
けいしき
に
存在
そんざい
するのです。ですから、
寝
ね
る
時
とき
に
当
あ
たるようなことはありません。しかし、
玄関
げんかん
が
初
はじ
めて
設位
せつい
する
時
とき
は、
目
め
の
前
まえ
にそれを
感
かん
じることができます。それが
他
た
の
空間
くうかん
に
存在
そんざい
しているにもかかわらず、
目
め
の
前
まえ
がいつもぼんやりしていて、
何
なに
かによって
遮
さえぎ
られているかのようでちょっと
辛
つら
いものです。
玉枕
ぎょくちん
というツボは
大変
たいへん
重要
じゅうよう
な
関所
せきしょ
なので、
後
うし
ろでやはり
一式
いっしき
のものを
作
つく
ったあと、また
戻
もど
っていきます。このように、
玄関
げんかん
一竅
いっきょう
とは
実
じつ
は「
一竅
いっきょう
」、つまり
一
ひと
つのツボではなく、
何
なん
回
かい
もその
位置
いち
が
変
か
わります。
玄関
げんかん
は
泥丸
でいがん
に
戻
もど
った
後
あと
、
降
お
りはじめ、
身体
からだ
の
中
なか
を
降下
こうか
し、
命門
めいもん
というツボまで
降
お
りてきます。
命門
めいもん
というツボで、また
外
そと
に
突
つ
き
出
で
てくることになります。
人
ひと
の
命門
めいもん
はきわめて
肝心
かんじん
かつ
主要
しゅよう
なツボです。
道家
どうけ
はこのようなツボのことを
竅
きょう
と
言
い
い、われわれはそれを
関
かん
と
言
い
っています。
主要
しゅよう
な
関所
せきしょ
なので、まるで
鉄
てつ
の
門
もん
のようで、
幾重
いくえ
にも
重
かさ
なっている
鉄
てつ
の
門
もん
みたいなものです。
皆
みな
さんがご
存
ぞん
じのように、
身体
からだ
は
幾重
いくえ
にも
重
かさ
なったものです。
肉体
にくたい
の
細胞
さいぼう
はその
一重
ひとえ
の
層
そう
であり、その
中
なか
の
分子
ぶんし
はもう
一重
ひとえ
の
層
そう
であり、
原子
げんし
、
陽子
ようし
、
電子
でんし
、さらに
無限
むげん
に
小
ちい
さく、
小
ちい
さく、
小
ちい
さくなっていきますと、ごく
小
ちい
さな
微粒子
びりゅうし
にまで
至
いた
るのですが、どの
一
ひと
つの
面
めん
においても
門
もん
が
設
もう
けられています。だからこそ、おびただしい
功能
こうのう
、おびただしい
術
じゅつ
類
るい
のものは、いずれもその
一
ひと
つ
一
ひと
つの
門
もん
の
中
なか
に
閉
と
じ
込
こ
められているのです。
他
た
の
功法
こうほう
で
丹
たん
を
煉
ね
る
場合
ばあい
、
丹
たん
が
爆発
ばくはつ
する
時
とき
、まず
命門
めいもん
を
爆発
ばくはつ
によって
破
やぶ
らなければなりません。
命門
めいもん
を
破
やぶ
らなければ、
功能
こうのう
が
放出
ほうしゅつ
できません。このように
玄関
げんかん
は
命門
めいもん
というツボで
一式
いっしき
のものを
生成
せいせい
した
後
あと
、また、
戻
もど
っていきます。
戻
もど
ってから、
下腹部
かふくぶ
に
帰
かえ
る
途
と
につきます。これを
玄関
げんかん
帰位
きい
と
言
い
います。
帰
き
位
い
した
後
あと
、
元
もと
の
位置
いち
に
戻
もど
るというわけではありません。その
時
とき
、
元嬰
げんえい
はかなり
大
おお
きく
成長
せいちょう
しています。
気泡
きほう
は
元嬰
げんえい
を
包
つつ
むようにして
覆
おお
い
被
かぶ
さり、
元嬰
げんえい
の
成長
せいちょう
に
合
あ
わせて
気泡
きほう
も
成長
せいちょう
していきます。
道家
どうけ
では
元嬰
げんえい
が
六
ろく
、
七才
ななさい
くらいの
子供
こども
のように
成長
せいちょう
した
時
とき
、
身体
からだ
から
離脱
りだつ
させます。それを
元嬰出世
げんえいしゅっせ
と
言
い
います。
人間
にんげん
の
元神
げんしん
に
支配
しはい
されて、
彼
かれ
は
外
そと
に
出
で
て
活動
かつどう
することができるようになります。
人間
にんげん
の
身体
からだ
はそこでじっとしていて
動
うご
かないのですが、
元神
げんしん
が
出
で
てきます。
佛家
ぶっけ
では
通常
つうじょう
、
元嬰
げんえい
が
修煉
しゅうれん
して
本人
ほんにん
と
同
おな
じくらいの
大
おお
きさになった
時
とき
、
危険
きけん
がなくなるとされています。
通常
つうじょう
、その
時
とき
、
人体
じんたい
から
離
はな
れることが
許
ゆる
され、
体
からだ
から
抜
ぬ
け
出
だ
してくることができます。この
時
とき
、
元嬰
げんえい
は
本人
ほんにん
と
同
おな
じくらいの
大
おお
きさになっていますので、
覆
おお
いも
大
おお
きくなります。
覆
おお
いは
体外
たいがい
にはみ
出
で
るほど
大
おお
きくなりましたが、それがすなわち
玄関
げんかん
です。
元嬰
げんえい
がこんなに
大
おお
きく
成長
せいちょう
したのですから、
覆
おお
いも
当然
とうぜん
体外
たいがい
にはみ
出
で
てくるわけです。
皆
みな
さんは
寺
てら
の
佛像
ぶつぞう
を
見
み
たことがあるでしょう。
佛像
ぶつぞう
は
必
かなら
ず
輪
わ
の
中
なか
にいます。
特
とく
に
絵画
かいが
において、
佛像
ぶつぞう
のまわりに
必
かなら
ず
輪
わ
があって、
輪
わ
の
中
なか
に
佛
ほとけ
が
坐
すわ
っています。このような
佛像
ぶつぞう
はきわめて
多
おお
く、
特
とく
に
古
ふる
い
寺院
じいん
の
絵画
かいが
の
佛像
ぶつぞう
はみなそうです。しかし、どうして
輪
わ
の
中
なか
に
坐
すわ
っているのか、
誰
だれ
もそれをはっきり
説明
せつめい
できません。
実
じつ
を
言
い
うと、それはほかならぬ
玄関
げんかん
なのです。ただ、この
時
とき
、それはすでに
玄関
げんかん
とは
言
い
わず、
世界
せかい
と
呼
よ
ばれるようになりました。かといってまだ
名実
めいじつ
ともに「
世界
せかい
」とは
言
い
えません。それはただ
一式
いっしき
の
設備
せつび
を
持
も
っているだけに
過
す
ぎません。あたかも
工場
こうじょう
に
設備
せつび
があるだけで、まだ
生産
せいさん
する
能力
のうりょく
がないのと
同
おな
じで、エネルギーや
原料
げんりょう
があってはじめて
生産
せいさん
することができます。
数年
すうねん
ほど
前
まえ
に、
多
おお
くの
修煉者
しゅうれんしゃ
が「わたしの
功
こう
は
菩薩
ぼさつ
よりも
高
たか
い」、「わたしの
功
こう
は
佛
ほとけ
よりも
高
たか
い」と
話
はな
していました。それを
聞
き
いた
人
ひと
は、どうもあやしげな
話
はなし
だと
思
おも
ったかも
知
し
れませんが、
実際
じっさい
のところ、
功
こう
は
確
たし
かにこの
世間
せけん
においてきわめて
高
たか
くまで
修煉
しゅうれん
しなければなりません。
別
べつ
に
何
なに
もあやしげなことではないのです。
それでは、どうして
佛
ほとけ
よりも
高
たか
く
修煉
しゅうれん
することができるというような
情況
じょうきょう
が
出現
しゅつげん
するのでしょうか?
表面
ひょうめん
的
てき
に
理解
りかい
してはなりません。その
人
ひと
の
功
こう
は
確
たし
かに
高
たか
いのです。きわめて
高
たか
い
次元
じげん
まで
修煉
しゅうれん
して、
功
こう
を
開
ひら
き
悟
さと
りを
開
ひら
くようになった
時
とき
、
功
こう
がきわめて
高
たか
いことは
確
たし
かです。しかし、
功
こう
を
開
ひら
き
悟
さと
りを
開
ひら
く
直前
ちょくぜん
の
瞬間
しゅんかん
になって、その
人
ひと
の
功
こう
の
八
はち
割
わり
がその
人
ひと
の
心性
しんせい
の
基準
きじゅん
と
共
とも
にもぎ
取
と
られてしまいます。そのエネルギーを
用
もち
いてその
人
ひと
自身
じしん
の
世界
せかい
を
充実
じゅうじつ
させるのです。
皆
みな
さんもご
存
ぞん
じのように、
修煉者
しゅうれんしゃ
の
功
こう
、
特
とく
にその
人
ひと
の
心性
しんせい
の
基準
きじゅん
も
加
くわ
えたものは、その
人
ひと
が
一生
いっしょう
において
数
かぞ
え
切
き
れないほどの
苦痛
くつう
に
耐
た
えて、きわめて
困難
こんなん
な
環境
かんきょう
の
中
なか
で
試練
しれん
を
受
う
け、
修煉
しゅうれん
することによってできあがってきたものなので、この
上
うえ
なく
貴重
きちょう
なものです。これほど
貴重
きちょう
なものの
八
はち
割
わり
も
出
だ
して
自
みずか
らの
世界
せかい
を
充実
じゅうじつ
させるのですから、
将来
しょうらい
修煉
しゅうれん
を
成就
じょうじゅ
した
時
とき
、
欲
ほ
しいものは
何
なん
でも
手
て
に
入
はい
り、やりたいことは
何
なん
でもやれるようになります。
彼
かれ
の
世界
せかい
の
中
なか
には
何
なん
でもあります。それは
彼
かれ
の
威徳
いとく
であり、
苦
くる
しみを
嘗
な
めつくして
得
え
たものです。
彼
かれ
のこのようなエネルギーは、いかなるものにも
任意
にんい
に
変化
へんか
することができます。ですから
佛
ほとけ
にとって、
欲
ほ
しいもの、
食
た
べたいもの、
遊
あそ
びたいものは
何
なん
でもあります。それは
当人
とうにん
が
自分
じぶん
で
修煉
しゅうれん
してできたものであり、すなわち
佛位
ぶつい
と
言
い
われるものです。これがなければ、
修煉
しゅうれん
は
成就
じょうじゅ
できません。この
時
とき
になれば、それを
自分
じぶん
の
世界
せかい
と
言
い
うことができます。
当人
とうにん
は
残
のこ
りの
二
に
割
わり
の
功
こう
を
持
も
って、
圓満
えんまん
成就
じょうじゅ
して
得道
とくどう
するのです。
二
に
割
わり
しか
功
こう
が
残
のこ
っていないのにもかかわらず、
身体
からだ
に
鍵
かぎ
がかかっておらず、あるいは
身体
からだ
を
持
も
たなくなり、あるいは
身体
からだ
を
持
も
っていても、それはすでに
高
こう
エネルギーの
物質
ぶっしつ
によって
転化
てんか
されています。この
時
とき
、
彼
かれ
は
神通力
じんつうりき
を
大
おお
いに
顕
あらわ
し、この
上
うえ
ない
威力
いりょく
を
発揮
はっき
します。それに
対
たい
し、
常人
じょうじん
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
している
間
あいだ
は、
通常
つうじょう
鍵
かぎ
がかかっているので、それほど
大
たい
した
力
ちから
はなく、
功
こう
がどんなに
高
たか
くても
制限
せいげん
が
加
くわ
えられていたのです。しかし、この
時
とき
になると、まったく
違
ちが
います。