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轉 法 輪

第五講


 

 法輪ファールンの図形


 法輪大法ファールンダーファーのマークは法輪ファールンです。功能のある人には法輪ファールンが回っているのが見えます。われわれの小さな法輪ファールンバッジも同じく回っています。われわれは真・善・忍という宇宙の特性に従って修煉を指導し、宇宙の演化する原理に従って修煉しているので、われわれの修煉する功はきわめて大きいものです。ある意味では、この法輪ファールン図形は宇宙の縮図と言えます。佛家では十方世界を一つの宇宙概念と見なしており、四方八方、八つの方位があり、さらに上下に一本の功柱が存在しています。それが見える人もいるかも知れません。したがって、上下を加えれば、ちょうど十方世界となります。それはこの宇宙を構成し、宇宙に対する佛家の概括的な見方を代表しています。
 もちろん、この宇宙にはわれわれのいる銀河系も含めて数え切れないほどの恒星系が存在しています。宇宙全体が運動しており、宇宙全体におけるすべての恒星系も運動しています。したがって、この図形の中の太極と小さな卍符まんじふも回転し、法輪ファールン全体も回転し、真ん中の大きな卍符も回転しています。ある意味で言えば、これはわれわれの銀河系を象徴しているもので、そして、われわれは佛家に属しているものなので、図形の真ん中が佛家の符号になっています。これは表面から見た場合のことです。それぞれの物質には、みな他の空間における存在形式を持っています。他の空間におけるその演化の過程と存在形式はきわめて豊富できわめて複雑なものです。この法輪ファールン図形は宇宙の縮図であり、他の各空間においても、その存在形式と演化の過程が存在しています。ですから、わたしはそれは一つの世界だと言います。
 法輪ファールンが時計回りに回転する時、宇宙の中のエネルギーを自動的に吸収することができ、逆時計回りに回転する時、エネルギーを放出することができます。ですから、内回り(時計回り)は自分自身を済度し、外回り(逆時計回り)は他人を済度するということが、われわれの功法の特徴です。「われわれは佛家なのに、どうして太極があるのか、太極は道家のものではないか?」と尋ねる人がいます。それは、われわれの煉っている功がきわめて大きいもので、宇宙全体を煉っているのに等しいからです。考えてみてください。この宇宙には佛家と道家があり、どちらを排除しても、完全な宇宙を構成することにはならず、完全な宇宙と言うことはできません。そのため、われわれの功法には道家的な部分もあります。「それなら、道家だけでなく、他にキリスト教や儒教などもあるのではないか」と尋ねる人がいます。実を言うと、儒教はきわめて高い次元まで修煉したあと、道家に帰属することになります。それに対し、西洋の多くの宗教は高い次元まで修煉したあと、佛家に帰属することになり、佛家の体系のものとなります。結局はこの二つの体系しかありません。
 それでは、なぜ太極図には上が赤で下が青のものと、上が赤で下が黒のものと二つずつあるのでしょうか? 一般には、太極が黒と白という二つの物質からなるとされており、言わば陰気と陽気なのです。これは、きわめて浅い次元の認識です。異なる空間にはそれぞれ異なる現われ方があります。最も高い次元に現われた太極がいまのような色なのです。われわれが一般に認識しているどうの色は、上が赤で下が黒です。例を挙げて説明すると、天目が開いた人は、肉眼で見て赤であったものが、一層だけ異なる空間で見ると緑になっており、黄金色こがねいろは他の空間で見れば紫になるということに気づきます。そこにこのような差があり、つまり異なる空間において色もさまざまに変わるということです。上が赤で下が青の太極は先天大道せんてんだいどうのもので、それには奇門修煉の法門も含まれています。四隅にある小さな卍符は佛家のもので、真ん中のそれと同じように、いずれも佛家のものです。この法輪ファールンは色が鮮やかなので、われわれはそれを法輪大法ファールンダーファーのマークとしました。
 われわれが天目からこの法輪ファールンを見る時、必ずしもこの色とは限らず、法輪ファールン地色じいろが変わることがあります。しかしその図案は変わることがありません。わたしがあなたの下腹部に植えつけた法輪ファールンが回転する時、天目から見れば、それは赤かも知れないし、紫かも知れないし、緑かも知れないし、あるいは無色かも知れません。赤、だいだい、黄、緑、青、あい、紫と、地色が絶えず変化しているので、あなたが見た色は別の色になるかも知れません。しかし、法輪ファールンの中の卍符や太極の色と図案は変わるものではありません。われわれはこの図案の地色が比較的綺麗だと思いましたので、それに決めました。功能のある人は、この空間を通して多くのものを見ることができます。
 「この卍符はヒトラーのものによく似ているではないか」と、言う人がいます。言っておきますが、この符号は本来思想的なものに結びつくようなものではありません。「もし、卍符のかどがこちらの方に向いていれば、ヒトラーのものになります」と、言う人がいます。問題はここにあるのではなく、この卍符はどちら側へも旋回しているのです。そして、この図案が人類社会で一般に認識されるようになったのは、二千五百年ほど前の釈迦牟尼の時代でした。それに対し、第二次世界大戦から今日までまだ数十年しか経っておらず、ヒトラーはただそれを盗用したに過ぎません。しかし、ヒトラーの色はわれわれのと違って黒で、しかも卍符の角が上に向いて立っています。あくまで法輪ファールンの表面形式についてお話ししましたが、法輪ファールンについての説明はこれぐらいにします。
 さて、この卍符を、われわれ佛家では何と見ているのでしょうか? 吉祥如意きっしょうにょいだと言う人がいますが、それは常人の解釈です。卍符は佛の次元を示すもので、佛の次元に到達しなければ、それを持つことができません。菩薩と羅漢はそれを持っていません。しかし、大菩薩、四大菩薩しだいぼさつはみなそれを持っています。われわれが見たところでは、それらの大菩薩は一般の佛の次元を遥かに超えており、中には如来よりも次元が高いものもあります。如来の次元を超えた佛は数え切れないほど多くいます。如来は卍符を一つしか持っていませんが、如来以上の次元に到達すれば、卍符が多くなります。如来より倍ぐらい高いのは、卍符を二つ持っています。それよりもっと高いのは、三つ、四つ、五つの卍符を持ちますが、多い場合は、身体中に卍符を持っています。頭や肩、膝などにも卍符が現われ、それが一杯になると、てのひらや指の腹、土踏まず、足指の腹などにも現われてきます。次元が絶えず向上していくにつれて、卍符がどんどん増えていきます。このように、卍符は佛の次元を示し、次元の高い佛ほど卍符を多く持っているのです。
 

 奇門功法


 佛家と道家の功法のほかに、もう一つ「奇門功法」というのがあります。彼らは「奇門修煉」と自称しています。一般常人の間では修煉功法について、中国の古代から現在に至るまで、佛家と道家の功法こそ正統な修煉方法だという認識を持っており、それを正法門しょうほうもん修煉と呼んでいます。これに対して奇門功法はこれまで世間に公開されたことがないために、その存在を知っている者が限られており、それも芸術作品でしか聞いたことがないというのがほとんどでした。
 奇門功法は実在しますか? 実在します。わたしが修煉していた時、とりわけ後半の数年間に、三人の高いレベルに達した奇門功法の人に会い、その一門の精華を教えてもらいました。きわめて独特で、素晴らしいものでした。その功法がきわめて独特なので、修煉して得たものは非常に変わっており、一般の人には理解されません。しかも、「ほとけあらず、どうにも非ず」という言い方をし、つまりほとけも修めなければ、どうも修めないというのです。佛も修めなければ道も修めないというから、人々はそれを傍門左道ぼうもんさどうと呼んでいますが、彼らは、自分では奇門功法と言っています。傍門左道という呼び方には、けなす意味がありますが、否定的な意味はなく、つまりそれを邪法と断じているわけではないことは間違いありません。字面じづらから理解しても、それは邪法の意味ではありません。昔から、佛家と道家の功法は正法門の修煉と見なされています。それに対して、この功法は人々によってまだよく認識されていない間、人々はそれを傍門すなわち正門せいもんのわきにある門と呼びました。つまり、正法門ではないと言います。それでは、左道とは何でしょうか? 「」は不器用の意味で、不器用などうだと言っているのです。中国の古語においては、「」が不器用の意味を表わすことがしばしばあります。傍門左道にはそのような意味があります。
 なぜ、それが邪法ではないと言えるのでしょうか? それは、この功法も厳しく心性を要求し、宇宙の特性に従って修煉し、この宇宙の特性、宇宙の規律に反しておらず、悪事も働かないからです。それを邪法とは言えません。佛家と道家が正法しょうぼうとされるのは、宇宙の特性が佛家と道家の修煉方法にかなったからではなく、佛家と道家の修煉方法が宇宙の特性にかなっているからです。奇門功法の修煉も、この宇宙の特性にかなっていれば邪法ではなく、同様に正法だと言わなければなりません。なぜなら、宇宙の特性こそ正邪と善悪を量る基準にほかならないからです。奇門功法が宇宙の特性に従って修煉するからには、それも正道しょうどうということになります。ただ奇門功法の要求と特徴が、佛家と道家のそれと違うだけです。奇門功法は広く弟子をとることをせず、伝授の範囲はきわめて限られています。道家は功法を伝授する場合、大勢の弟子を教えますが、本当に伝える弟子はただ一人しかいません。それに対し、佛家では広く衆生を済度することを重んじますので、誰でも修煉することができます。
 一方、奇門功法は伝承上、二人の弟子をとってはならず、相当長い時間をかけて一人の弟子だけを選定し、功法を教えることになっています。ですからこの法門のものは、昔から常人に見られてはいけないものとされています。気功ブームの最中に、わたしは、この功法においても少数の人が、世間に出て功を教えているのを見たことがあります。しかし、教えているうちに、彼らはだんだんうまくいかないことに気づきました。というのは、一部のことは教えてはならないと師によって禁じられているからです。功法を広げたければ、弟子を選ぶわけにはいかなくなります。学びに来る者は、心性の高さがまちまちです。いろんな考えをもって学びに来るので、どのような人間もいます。ですから、弟子を選んで功法を伝えるというわけにはいきません。こういうところからも分かるように、奇門功法はきわめて特殊なものであり、多くの危険を伴っているので、普及には向いていません。
 佛家では佛を修煉し、道家では真人を修煉しますが、奇門功法で修煉し成就したら何になるのか、と思う人がいるかも知れません。決まった宇宙、世界の範囲を持たない仙人になります。皆さんがご存じのように、如来佛、釈迦牟尼には娑婆しゃば世界があり、阿弥陀佛には極楽世界があり、薬師佛には瑠璃世界があるというように、それぞれの如来と大佛にはみな自分の世界があります。大覚者は誰もが自分の作った天国を持っており、その天国の中で、大勢の弟子が暮らしています。しかし、奇門功法の場合は、決まった宇宙範囲を持っていないために、あちらこちらをさすらう仙人になります。
 

 邪法を練る


 邪法を練るとは何のことでしょうか? それには次のような幾つかの形式があります。まず、もっぱら邪法を練る者がいます。どんな時代にもそれを教える者がいるからです。なぜそれを教えるかと言えば、その人が常人の中での名誉、利益、金儲けなどを追求し、そういうものにこだわっているからです。当然のことながら、このような人は心性が高くないので、功を得ることができません。彼は何を得るのでしょうか? 業力です。人間の業力が大きくなった時には、一種のエネルギーを形作ることもあります。しかし彼にはなんの次元もなく、煉功者に比べることはできません。とはいえ常人よりは力があって、常人を制約することができます。というのは、そういうものもエネルギーの現われですので、密度が高い時には、人体の功能を強化するという役割を果たすことができます。ですから、昔からそういうものを教える人がいます。「悪い事をしたり人を罵ったりすれば、功が伸びる」と本人が言いますが、それは功を伸ばすのではありません。悪いことをすると、黒い物質─業力を得るから、実際は黒い物質の密度を強化するに過ぎません。この業力によって、もともと身体に持っていたわずかな功能を強化して、小さな功能を生み出すことはできますが、大したことはできません。この人たちは、悪い事をすれば功が伸びる、と考えていますので、そういう言い方をするのです。
 また「どう一尺いっしゃく高ければ、魔は一丈いちじょう高くなる」と言う人がいます。それは常人の邪説で、どんな時になっても魔はどうより高くなることはありえません。人類の知っているこの宇宙は、数え切れない宇宙の中の小宇宙の一つに過ぎず、われわれはそれを宇宙と略称しています。この宇宙は、一定の久しい年代を経るたびに、宇宙的な大災難を起こします。この災難によって、宇宙の中のすべてのもの、天体も含めて、すべての生命が絶滅することになります。宇宙の運動には規律があり、われわれの今回の宇宙ではただ人類だけが悪くなったわけではありません。多くの生命体にはすでにある状況が見えていますが、現在のこの宇宙空間について言えば、遥か以前に大爆発が起きているのです。現在、天文学者にそれが見えないのは、現有する最大の望遠鏡で見ても、見える光景が十五万光年以前のことであるためです。現在の天体変化を見ようとするには、十五万光年後でなければなりません。それは気が遠くなるような先のことです。
 現在、宇宙全体にすでに非常に大きな変化が発生しています。このような変化が発生する度に、宇宙の中の生命は例外なく、完全に滅びる状態に瀕します。このようなことが発生する度に、宇宙の中にそれまで存在していた特性およびその中の物質は、すべて爆発によって一掃されなければなりません。ほとんどのものはその爆発で抹消まっしょうされますが、しかし毎回のように、生き残りがあります。新しい宇宙がきわめて、きわめて高い大覚者たちによって再建された時、その中には爆発から生き残った者がいます。大覚者たちは、自分自身の特性と基準に基づいて新しい宇宙を再建するので、前回の宇宙の特性との間に違いがあります。
 爆発から生き残った者は、前回の宇宙の特性と理に従ってこの宇宙の中で動きます。新しく作られた宇宙は、新しい宇宙の特性と理に従って運行します。そこで、爆発から生き残った者は宇宙の理を妨げる魔となります。しかし、彼らはそれほど悪いものでもありません。彼らは前回の宇宙の特性に従って動いているに過ぎません。これが人々の言う天魔なのです。しかし彼らは常人をおびやかすわけでもなく、人にはまったく危害を与えず、ただ自分の理に従って行動しているだけです。昔は、こういうことは常人に知らせてはいけなかったのです。わたしに言わせれば如来の次元より遥かに高い境地の佛はいくらでもいますので、そのような魔は物の数ではありません。佛たちと比べてみれば、ごく小さい存在に過ぎません。老、病、死も一種の魔ですが、それも宇宙の特性を守るためにあるものです。
 佛教では六道輪廻を説きますが、その中に修羅道しゅらどうのことが出てきます。そのほかでもない異なる空間にいる生物いきものですが、しかし人間の本性は備わっていません。大覚者から見ると、それはきわめて、きわめて低級、とりわけ無能なものですが、常人にとって、大変怖い存在です。それはある程度のエネルギーを持っており、常人をけものと見なしているので、好んで人間を食べます。ここ数年来、その生物も世に出てきて功を教えています。それは何ほどの者でもありません。それは人間らしい姿を持っているはずがあるでしょうか? それに学ぶと、あちらへ行って、それらの同類になるしかありません。恐ろしいことです。一部の人が練功する時、心が正しくないので、それの考え方にかなってしまい、するとそれが教えにやってきます。「一正が百邪を圧する」と言うように、求めさえしなければ、誰もあなたを動かすことができません。邪念を起こして、良くないものを追求すれば、それが助けに来て、あなたの修煉が魔道に入り込んでしまうという問題が起きます。
 もう一つは、無意識に邪法を練る場合があります。無意識に邪法を練るとはどういうことでしょうか? 無知の状況の下で、邪法を練っているということです。これはよく見られることで、そういった例はいくらでもあります。先日お話ししたように、多くの人は練功する時に、正しくない考えをもっています。站樁たんとうをする時、手足が震え出すほど疲れているにもかかわらず、頭の中は休んでおらず、さまざまなことを考えています。「物価が上がりそうだから、少し買いめしておかなくちゃ。練功が終わったらすぐ買いに行こう。値上がりしたら大変だから」とか、「勤め先では今住宅を割り当てているが、俺の分はあるのだろうか? 担当者は俺と仲が悪いのだ。あいつは絶対割り当ててくれない。もし住宅が割り当てられなければ、俺は絶対喧嘩してやる……」とか、ありとあらゆる事が浮かんで来て、考えれば考えるほど怒りがつのるばかりです。先日お話ししたように、家庭のことから国の政治にまで、気に入らなくなると、抑えきれずに怒りがこみ上げてきます。
 煉功するには、徳を重んじなければなりません。良いことを考えることができないにしても、悪いことは考えてはなりません。いちばん良いのは、何も考えないことです。というのは、低次元で煉功する時、基礎作りをしなければなりませんが、人間の意識活動が一定の役割を果たしているから、この基礎はきわめて重要な役割をにないます。考えてみてください。功の中に何かを加えてしまいますと、練功しても良いものが得られると思いますか? そんなものは黒いものにきまっているのではありませんか? どれだけ多くの人が、そのような意識を持って練功しているでしょうか。どうしてあなたは長く練功しても病気が治らないのですか? 一部の人は、練功場でそれほど悪いことは考えていないものの、功能を追求したり、あれこれと雑多なものを求めたりして、さまざまな心態と強い欲望をもって練功しています。その人たちは実際は無意識のうちに邪法を練っています。しかも、それは邪法だと忠告してあげても、「俺はあの大気功師に教わっているのだ」と言って機嫌を悪くします。しかし、その大気功師は徳を重んじるようにと教えたはずですが、果してその通りにしたでしょうか? 練功する時、良くない意念ばかり加えたなら、その練功から良いものが出て来るでしょうか? ここが問題です。これは無意識のうちに邪法を練る部類に入るもので、きわめて多く見られます。
 

 男女双修


 修煉界には男女双修という修煉方法があります。皆さんはチベット密教の修煉方法の中で、佛像の彫刻や画像の中で、男体なんたい女体にょたいいて修煉しているのをご覧になったことがあるかも知れません。男体は、時には佛の姿をしており、一糸いっしまとわぬ女性を抱いています。時には佛の変身した牛頭馬面ぎゅうとうばめんの金剛像の姿になっていることもありますが、それも一糸まとわぬ女性を抱いています。どうしてこのようなことがあるのでしょうか? まずこの問題から説明しましょう。この地球上で、儒教の影響を受けているのは中国だけではありません。数世紀前の古代では、人類全体の道徳的観念はほぼ同じでした。したがって、そのような修煉方法は、この地球固有のものではなく、他の星から伝えられてきたものです。しかし、この方法で修煉できることは確かです。この修煉方法が中国に伝えられた当時、男女双修と秘密の煉功という内容があったため、中国人に受け入れられませんでした。唐の会昌年間に漢民族地域の皇帝によって禁止されてしまいました。当時、この修煉方法は唐密と呼ばれ、漢民族の地域で伝播でんぱすることが禁じられました。しかし、それはチベットという特殊な環境、特殊な地域で伝えられてきました。では、どうしてそのような方法で修煉するのでしょうか? 男女双修の目的は、陰を採って陽を補い、陽を採って陰を補い、互いに補いながら修煉し、陰と陽の均衡きんこうに達するためです。
 周知のように、佛家だろうと、道家だろうと、とりわけ道家の陰陽学の説によれば、人体にはもともと陰と陽があります。人体に陰陽があるからこそ、さまざまな功能、元嬰、嬰孩、法身などの生命体を、修煉して得ることができます。陰と陽があるからこそ、さまざまな生命体を修煉して得ることができるのです。男身にせよ女身にせよ同じく丹田というところで生成できると言われていますが、この言い方はとても理にかなっています。道家ではよく上半身を陽、下半身を陰と見なしています。また、身体の背面を陽、前面を陰と見なしたり、身体の左側を陽、右側を陰と見なしたりすることもあります。中国では男は左、女は右という言い方がありますが、それもここから来たもので、理にかないます。人体にはもともと陰と陽があり、陰陽の相互作用によって、自ら陰と陽の均衡に達することができ、数々の生命体を生み出すことができるのです。
 したがってこの点からすると、男女双修の修煉方法を採らなくても、同様にきわめて高い次元まで修煉することができるということは、明らかです。男女双修の修煉方法を採った場合には、うまく制御できなければ、魔道に陥って邪法になりかねません。きわめて高い次元で、密教が男女双修の修煉方法を採り入れようとするためには、その和尚やラマ僧が、修煉を経てきわめて高い次元に到達した者でなければなりません。その時、彼は師の指導の下でこの修煉をするわけですが、心性がきわめて高いので、邪道に入らないように制御することができます。しかし、心性が低い者は、絶対にこの方法を採用してはなりません。採用すると、間違いなく邪法に入ってしまうことになります。なぜなら、その人の心性には限りがあり、常人の境地において、欲望が取り除かれておらず、色欲の心が取り除かれていません。心性の尺度がそれくらいしかないので、用いると、間違いなく邪道に入ってしまいます。ですから、勝手に低い次元で伝えると、邪法を伝えることになると言っているのです。
 近年、男女双修を伝える気功師も少なくありません。奇怪なことに、道家にも男女双修の修煉方法が現われました。それも現在ではなく、早くも唐の時代から始まっています。道家にどうして男女双修の修煉方法が現われたのでしょうか? 道家の太極学の説によれば、人体は小さな宇宙で、おのずから陰と陽があります。本当の正伝大法しょうでんたいほうはいずれも久しい年代を経て伝わってきたもので、勝手に改変を加え、勝手に何かを混入したりすると、その法門を乱すことになり、それによって修煉の圓満成就を妨げることになります。したがって、もともと男女双修の修煉方法を持たない功法の場合は、絶対にそれを修煉してはなりません。それを用いれば、歪みが生じ、問題が起こることになります。特にわれわれ法輪大法ファールンダーファーの法門には男女双修がないので、その方法は採りません。これがこの問題に対するわれわれの見解です。
 

 性命双修


 性命双修の問題はすでにお話ししました。性命双修とは、心性を修煉するほかに、同時にめいも修めるということ、つまり本体を変えるということです。本体を変える過程において、人間の細胞が次第に高エネルギーの物質によって取り替えられ、その際に老衰が緩和されることになります。身体が若者の方向に少しずつ逆戻りし、少しずつ転化され、最後には、その身体が高エネルギーの物質によって完全に取り替えられた時、この人の身体は完全に別の物質の身体に転化されます。その身体はお話ししたように、五行を抜け出た、五行の中にいないものとなりますので、不壊ふえの身体になります。
 寺院での修煉は、ただ心性を修めるだけで、手法を重視せずめいを修めることはしないで、涅槃を重んじます。釈迦牟尼の伝えた方法が涅槃です。実は、釈迦牟尼自身には奥深い大法たいほうがあり、本体を完全に高エネルギーの物質に転化して持っていくことができたのです。しかし、この修煉方法を残すために、彼は涅槃に入ったのです。釈迦牟尼はどうしてこのように教えたのでしょうか? それは最大限に人間の執着心を放棄させるためです。何もかも放棄して、最後には身体さえも放棄して、あらゆる心を全部無くしてしまうのです。このように、人々に最大限に放棄させるために、釈迦牟尼は涅槃の道を選びました。ですから歴代の和尚はみんな涅槃の道を歩みました。涅槃とは、和尚が死んだ後、肉身を捨てて、その元神が功を持って天国に上ったということです。
 道家はめいを修めることに重点を置いています。弟子を選び、衆生を広く済度することを説かず、相手にするのはきわめて良い人ばかりですので、道家は術類のものを重視し、いかにめいを修めるかを重視しています。しかし、佛家という特定の修煉方法、とりわけ佛教の修煉方法においては、それを重んじるわけにはいきません。かといって一切重んじないというわけではなく、一部の奥深い佛家の大法たいほうでも重んじることがあります。われわれの法門もそれを重んじています。われわれ法輪大法ファールンダーファーの法門では、本体も要るし、元嬰も要りますが、この二つには違いがあります。元嬰も高エネルギーの物質から構成された身体ですが、それはわれわれのこの空間で勝手に顕現するわけにはいきません。この空間で長期的に常人と同じ姿を保つためには、必ず本体が必要です。したがって、本体は転化された後、その細胞が高エネルギーの物質によって取り替えられたにもかかわらず、その分子の配列順序が変化していないために、見た目では常人の身体とほとんど同じです。しかし、やはり違いがあります。つまりその身体は他の空間に出入りすることができるのです。
 性命双修の功法では、見た目には実際の年齢とずいぶんかけ離れて見え、外見からは人に若い感じを与えます。先日、ある人から「先生、わたしは何才に見えますか?」と言われました。実際にはまもなく七十才になる女性でしたが、一見四十代ぐらいにしか見えません。しわがなく、顔がつやつやして白く、白に赤みがさしていましたので、どう見ても七十才近くには見えません。われわれ法輪大法ファールンダーファーを修煉する人にはこのようなことが現われるのです。これは冗談ですが、若い女性はどうしても美容に気を使い、肌の色をより白くつやのあるものにしようとしますが、実は、性命双修の功法を本当に修煉すれば、おのずとそうなりますので、手入れをする必要もないことを保証します。このことについては、これ以上例を挙げないことにします。以前は、さまざまな職業で年配の人が多かったので、みんながわたしのことを若者扱いしていました。今は嬉しいことに、どの職業でも若い人が多くなりました。実は、わたしはすでに四十三才です。そろそろ五十才に近づこうというのですから、もう若くはありません。
 

 法 身


 佛像にはなぜ一つの場があるのでしょうか? 多くの人はそれを解釈することができません。「佛像に場があるのは、和尚が佛像に向かって読経どきょうするためにできたものだ」、つまり和尚が佛像に向かって修煉することによって生じたものだ、と言う人がいます。しかし、和尚の修煉であろうと、他の誰かの修煉であろうと、そのエネルギーは不規則に散らされていき、一定の方向はとりませんから、佛堂全体の床、天井、壁などにも、全部均等な場があるはずです。どうして佛像の場だけが特に強いのでしょうか? 特に山奥やどこかの洞窟の中の佛像、あるいは岩に彫刻された佛像には、たいてい一つの場があります。その場はどうしてできたのでしょうか? 人々はあれこれと解釈しようと試みますが、いずれの解釈も意味をなしません。実は、佛像に場があるのは、その佛像に覚者の法身がいるからです。覚者の法身がそこにいるので、その佛像にエネルギーがあるわけです。
 釈迦牟尼にせよ、観音菩薩にせよ、もし歴史上確かにそういう人物がいたならば、考えてみてください、彼らが修煉していた時は、彼らも煉功者ではありませんでしたか? 人間が出世間法よりさらに高い一定の次元まで修煉した後、法身が生まれることになります。法身は人間の丹田という部位で生まれ、法と功から構成され、他の空間で現われるものです。法身はその本人のきわめて大きな威力を備えていますが、法身の意識と思想は主体によって制御されています。一方、法身自身は独立した、完全な、正真正銘の個体の生命でもありますので、自分自身で独立していかなることをもなし遂げることができます。法身のやることは人の主意識のやりたいこととまったく同じです。あることは、本人がやっても、法身がやっても、同じようにするのです。これがわれわれの言う法身です。わたしが何かをしようとする時、例えば、真に修煉する弟子のために身体を調整することなどは、みなわたしの法身が実際にやるのです。法身は常人の身体を持っておらず、他の空間で姿を現わしているからです。そして、その生命体は固定して変わらないものではなく、大きく変身したり小さく変身したりすることができます。大きく変身した時は、法身の頭の輪郭すら見えないほど大きいのですが、小さく変身した時は、細胞よりも小さいのです。
 

 開 眼かい げん


 工場で造りあげた佛像は一つの芸術品に過ぎません。開眼かいげんとは、すなわち佛の法身を一体、佛像にお招きして、それから佛像を常人の中での有形の身体としてまつるということです。煉功者に敬う心があれば、修煉する時、佛像上の法身が彼を見守ったり、身の安全を守ったりして、彼のために法を護持してくれます。これが開眼の本当の目的です。正式の開眼儀式に正念しょうねんを発するのでなければ、あるいはきわめて高い次元の大覚者、またはきわめて高い次元で修煉し、そういう力を備えた人でなければ、それを行なうことができません。
 寺院では佛像は開眼しなければならず、開眼していない佛像は御利益ごりやくがないと言います。現在、寺院に和尚はいますが、本当の大法師だいほうしはみな世の中にはいなくなりました。「文化大革命」の後、真の伝授を受けていない小僧たちが住職になり、多くのことについての伝承が途絶えてしまいました。和尚に「なぜ開眼するのですか?」と聞けば、「開眼すれば、佛像は御利益がある」と答えますが、しかし具体的にどのように御利益があるのかについては、はっきり答えられません。彼らはただ儀式を行なうだけです。佛像の中に一巻の小さな経文を入れて、紙で封をした後、それに向かって読経します。それが開眼だと言うのです。果してそれで開眼することができるのでしょうか? それは彼らがいかに読経するかによります。釈迦牟尼は正念を重んじています。自分が修煉しているその法門の世界を本当に震動させるほど、一心不乱に読経して、はじめて覚者を招くことができます。その覚者の法身の一つが佛像に降りてはじめて開眼する目的が達成されることになります。
 読経しながら、「開眼した後、いくらもらえるだろうか」と考える和尚もいれば、「誰それが俺にひどいことをした」と考える和尚もいます。彼らの間でも、互いに腹を探り合って暗闘しているのです。末法の時期の現在においては、このような現象を否認するわけにもいきません。ここで佛教を批判しているわけではありませんが、末法の時期に、一部の寺院が不浄であることは事実です。彼らが頭の中でそういうことを考え、そんな良くない念をもっているようでは、どうして覚者が来てくれるでしょうか? 開眼という目的が達成できるわけもありません。もっとも例外がないということではなく、わずかではありますが良い寺院と道観もあります。
 わたしはある都市で一人の和尚を見かけました。その手は真っ黒でした。経文を佛像に詰めた後、のりで封をし、口の中でぶつぶつとつぶやいただけで、開眼を済ましたというのです。つづいてもう一体の佛像を手に取って、またぶつぶつ呟きました。佛像を一体開眼するたびに、四十元取ります。今の和尚はこういうことさえも商品化してしまい、佛像の開眼で金儲けをしているのです。わたしが見ると、開眼なんかしていません。開眼できるわけもありません。今の和尚は驚いたことにこの程度のことをしているのです。わたしがほかにもう一つ見たものは何かと言いますと、ある寺院に、居士こじと思われる人がいて、佛像を開眼すると言って、一枚の鏡を持って太陽に向け、太陽の光を佛像の身体に反射させるだけで、開眼したと言うのです。ここまで馬鹿々々しい事が行なわれるようになっています! 佛教がここまで来てしまった現在、このような現象はごく普通に見られます。
 南京ナンキンで造られた銅の大佛像が、香港の大嶼山だいしょさんに立てられました。とても大きな佛像です。全世界からたくさんの和尚が来て、その佛像を開眼することになりました。その中の一人が、鏡を太陽に向けて、その光を佛像の顔に反射させるだけで開眼をしたと言うのです。あのように盛大な式典で、あのように厳かな場面で、こうした馬鹿げたことをするなど、わたしは本当に悲しく思いました! なるほど釈迦牟尼の言うように、末法の時期になると、和尚自身も済度し難いものですから、他人を済度することはさらに難しいことです。それに、多くの和尚は自分の立場から佛経ぶっきょうを解釈し、また「王母娘娘経ワンムニャンニャンきょう」のようなものさえ寺院の中に入り、佛教の経典にないものまで寺院に入りましたので、寺院の中は大変混乱して、乱脈をきわめています。言うまでもなく、本当に修煉する和尚もおり、立派な人もいます。開眼とは、実はほかでもなく覚者の法身を佛像にお招きすることで、法身が佛像に降りれば開眼したということになります。
 そういうことなので、開眼されていない佛像は祀ってはなりません。祀ったら、きわめて深刻な結果をもたらすことになります。どのような深刻な結果になるのでしょうか? 現在までに人体科学が発見したところによれば、人間の意念、大脳の思惟は一種の物質を生じさせることができます。きわめて高い次元から見れば、それは確かに物質の一種です。しかしこの物質は、現在までの研究で発見されているような脳波電流の形のものではなく、完全な大脳の形式をもったものです。普段、常人が物事を考える時に発した大脳形態のものは、エネルギーを持っていないために、発せられた後、間もなく散ってしまいます。しかし、煉功者のエネルギーはずっと長く保たれます。佛像は工場で造られた当初から思惟を持っているわけではありません。開眼されていない佛像を、寺院に持っていったからといって、開眼の目的が達成できるとは限りません。偽気功師や邪道の人に開眼を頼んだ場合、狐やイタチが佛像に乗り移ってしまうので、もっと危険です。
 さて、開眼されていない佛像を拝むことは、大変危険です。どれほど危険でしょうか? すでにお話ししたように、人類は今日のような段階まで来てしまって、すべてのものが退廃しており、社会全体、宇宙全体のすべての事が引きも切らずに退廃しています。常人の中のすべてはみな自分自身がもたらしたことです。正法しょうぼうを求め、正しい道を歩もうとしても、さまざまな方面から妨害されますので、難しく、佛に祈ろうとしても、どこに佛がおわしますか? 求めようとしても難しいのです。これが信じられなければ、明らかにしてあげましょう。開眼していない佛像を、最初に誰かが拝むと、大変なことになります。現在、佛を拝む人の中に、真に心の中で佛に祈って正果しょうかを得ようとする人がどれくらいいるでしょうか? このような人はあまりにも少ないのです。大多数の人は何のために佛を拝むのでしょうか? 厄払やくばらい、厄除やくよけ、金儲け、といったことを求めているのです。それらは佛教の経典にあるものでしょうか? そんなものはどこにもありません。
 金を求める人が佛を拝む場合、佛像に向かって、あるいは観音菩薩像または如来佛像に向かって「どうか、金儲けができますようによろしくお願いします」と言ったとします。するとそれによって一つの完全な意念が形成されます。その意念は佛像に向かって発せられたものですから、すぐにその佛像に乗り移ってしまうのです。他の空間にあるその身体は大きく変身したり、小さく変身したりすることができますので、佛像に乗り移れば、この佛像は一つの大脳を持つようになり、思惟を持つようになります。しかし、身体はありません。他の人も拝みに行きます。拝んでいるうちに、佛像に一定のエネルギーを与えてしまいます。特に煉功者の場合はいっそう危険で、拝むと次第にエネルギーを与えるので、やがてこの佛像が有形の身体を形成するようになります。ただし、この有形の身体は他の空間で形成されたのです。形成された後、それは他の空間にいて、宇宙の中の理を少し知っているので、人間の手助けを少しばかりすることができます。それで少しばかりの功を持つことができますが、しかし、人間を助けるには、条件と代償があります。他の空間では、それが思うままに動き、思うままに常人を操ることができます。この有形の身体は佛像の姿とそっくりなので、偽物の観音菩薩、偽物の如来佛を礼拝によって作ってしまったことになります。それは人間の礼拝によって作られたもので、佛像の姿とそっくりで、佛の姿をしています。偽物の佛、偽物の菩薩の思惟はきわめて悪質で、金を求めようとするものです。それは他の空間で生まれ、思惟を持ち、少しばかり理を知っているので、大した悪事はえて働こうとしないのですが、小さい悪事を行なうことがあります。人間を助ける時もあります。人間を助けなければ、まったくの邪道となり、抹殺されなければならないからです。どのように人間を助けるのでしょうか? ある人が「佛様、お願いします。どうか、助けてください。家族が病気になりました」と拝みました。よし、助けてあげよう、と請け合い、まず賽銭箱さいせんばこの中にお金を入れさせます。金が目当てです。賽銭箱の中にたくさんお金を入れれば、病気が早く治るようにしてくれます。それには一定のエネルギーがあって、他の空間で常人を制御することができるわけです。とりわけ功のある人が拝みに行ったら、もっと危険です。その煉功者は何を求めているのでしょうか? 金を求めているのです。考えてみてください。煉功者が金を求めて、何をするのでしょうか? 家族のために厄払いを求めたり、病を治すことを求めたりすることさえも、家族への情に対する執着なのです。他人の運命を左右しようとしても、人間にはそれぞれ定められた運命があります! もし「どうか金持ちになれますように」と言って拝むと、喜んで助けてくれます。あなたが金を求めれば求めるほどそれは喜びます。等価交換ですので、それもあなたから多くの物を取ることができるわけです。賽銭箱には、他の人が入れたお金がいくらでもあります。それはあなたにさせます。どのように得させるのでしょうか? 街に出かけて財布を拾ったとか、職場で奨励金をもらったとか、とにかく何とかしてあなたにお金を得させるのです。しかし、無条件であなたを助けるわけにはいかないでしょう? 「失わないものは得られず」と言われているように、それには功がないので、あなたから功を取ったり、あるいはあなたが修煉して得た丹を取ったりします。それはこういうものを欲しがるのです。
 これらの偽物の佛は、時には非常に危険な場合があります。天目が開いた多くの人は、佛が見えたと思い込んでいます。ある人が「今日は寺にたくさんの佛が来た」とか、「この佛は何々という名前で、たくさんの佛を連れてきた」とか、「昨日来た佛たちはこれこれの様子だった」とか、「今日来た佛はこれこれの様子だった」とか、「間もなく帰って行った」とか、「また来た」などと言っていましたが、それらは何でしょうか? ほかでもなくみなこの類いのものです。それらは本物の佛ではなく、偽物の佛です。この類いのものが相当多いのです。
 もし寺院の中にこのような情況が現われれば、なお危険です。和尚がそういう偽物の佛を拝むと、その和尚が制御されることになります。「わたしを拝んでいるだろう? はっきりと拝んでいるじゃないか! よし、修煉したいのか? ならば、わたしが面倒を見てあげよう。どのように修煉するかについてはわたしが教えてあげる」などと、それらが修煉の段取りを考えてくれます。そういう形で修煉して成就したら、あなたはどこへ行くでしょうか? それらが面倒を見た者は、上のどの法門にも受け入れてもらえません。それらが修煉の段取りを考えた以上、将来もそれらが面倒を見つづけることになります。それでは無駄に修煉したことになるではありませんか? ですから、現在の人類は、修煉して正果を得ようとしても難しいと言っているのです。この現象は、かなり普遍性のあるものです。多くの人が名山や大河で佛光を見たと言っていますが、それらはほとんどこの類いのものです。それらはエネルギーがあるので、顕現することができます。それに対し、本当の大覚者は軽々しく顕現することはしません。
 昔、地上佛ちじょうぶつ地上道ちじょうどうといわれるものは比較的少なかったのですが、しかし、今はとてもたくさんあります。それらが悪いことをした時、上の佛がそれらを撲滅しようとします。撲滅されそうになったら、それらは佛像に逃げ込んでしまいます。常人の理に、一般の大覚者はめったに干渉しません。次元の高い覚者ほど、常人の理を壊さず、まったく干渉しません。突然雷を落して、佛像を打ち砕いてしまうようなことをするわけにはいきません。そんなことはしません。ですから、佛像に逃げ込んでしまえば、それ以上は追及しません。このように、撲滅されそうになると、それらにはそれが分かるので逃げてしまいます。したがって、あなたが観音菩薩を見たとしても、それは果して観音菩薩でしょうか? あなたの見た佛は、佛なのでしょうか? 必ずしもそうとは言えないのです。
 多くの人がきっと「わが家の佛像はどうすればよいのだろうか?」ということに考え及んだでしょう。そして、わたしのことを思い出した人が多くいるかも知れません。学習者の修煉を助けるために、こうすればよいということを教えましょう。わたしの本(本の中にはわたしの写真があるから)あるいはわたしの写真を持って、手に佛像をささげ、大蓮花だいれんげ手印を結び、それからわたしに祈るように「先生、どうか開眼を宜しくお願いします」と言えばよいのです。三十秒くらいで問題は解決してしまいます。よく聞いてください。これは修煉者だけに限ります。親戚や友人のために開眼してあげようと思っても、全然効きません。わたしは修煉者の面倒しか見ません。「先生の写真を親戚や友人の家に置いて、魔除けに使いたい」と言う人がいます。わたしは常人のための魔除けではありません。それは師に対する最大の不敬です。
 地上佛や地上道については、もう一つの情況があります。中国の古代では、多くの人が、人が足を踏み入れない山奥で修煉していました。どうして今はいなくなったのでしょうか? 実はいなくなったのではなく、常人に分からないようにしているだけに過ぎず、少しも減っていません。これらの人はみな功能を持っています。ここ数年、これらの人がいなくなったわけではなく、みんな健在です。現在、世界中にまだ数千人いますが、わが国には比較的多く、ほとんどの人が名山や大河にいて、一部の高山こうざんにもいます。その人たちは功能で洞窟の入口を塞いでおり、彼らの存在は見えないのです。その人たちの修煉は比較的遅いもので、やり方はそれほど器用ではありません。彼らは修煉の核心をつかむことができません。それに対してわれわれの功法は人心を真っ直ぐに指し、宇宙の最高の特性に従って修煉し、宇宙の形式に従って修煉しているので、当然功が速やかに伸びます。修煉の法門はピラミッドの形をしており、真ん中だけが大道だいどうなのです。周辺の小道は、修煉しても心性が高くなるとは限りません。高い次元に到達しないうちに功を開くことがあるかも知れませんが、本当に修煉する大道と比べれば、ずいぶんかけ離れています。
 彼らも、弟子をとって伝承しています。彼らの法門は高さが限られており、心性の高さもその程度しかないので、その弟子たちはせいぜいその高さに向けてしか修煉できません。周辺の小道であればあるほど、こだわりが多く、修煉方法も複雑で、核心を掴んで修煉することができないのです。修煉というのは、主に心性を修煉することですが、彼らはまだこのことが分かっておらず、苦しみに耐えさえすれば修煉できると思い込んでいます。ですから、その人たちは、非常に長い年月をかけて、何百年、何千年修煉しても、ほんのわずかしか功が伸びません。実際のところ、彼らの功は、苦しみに耐えることによって得たものではありません。ではどのようにして修得したのでしょうか? 人間は若い頃には執着心が多く、もてあまします。しかし年をとり、月日が経つにつれて、前途に希望がなくなるので、その執着心もおのずと放棄するようになり、すり減って無くなってしまうものです。これと同じような方法をそれらの小道も採っているのです。彼らは、坐禅や定力、苦しみへの忍耐だけに頼って修煉していても功が伸びる、ということは分かります。しかし彼らは、自分の常人としての執着心がかなり長く苦しい年月の中で少しずつ削り取られたに過ぎないこと、それが次第に削り取られたことによってはじめて功が伸びたのだ、ということが分かりません。
 これに対して、われわれはねらいを定めて、本当にその心を指摘し、その心を取り除くわけですから、修煉がきわめて速いのです。わたしは各地で、そういう人によく会いました。いずれも長年修煉している者ばかりでした。彼らは「誰もわれわれがここにいることを知らない。われわれはあなたのやることには一切邪魔はしない」と言いました。これは良いほうです。
 良くない者もいます。良くない者は処理しなければなりません。例を一つ挙げましょう。わたしが初めて貴州きしゅうへ行って功を教えた時のことです。講習会の最中に、ある人が訪ねて来ました。「自分はなにがしという師の孫弟子だが、師は長年修煉しており、あなたに会いたがっている」と、言ってきたのです。見ると、その人は非常に良くない陰気を帯びており、顔色が非常に悪いのです。わたしは時間がないから会わないと断わりました。すると、その師である爺さんは機嫌が悪くなって、わたしの妨害をしはじめました。毎日のように妨害をしに来ました。わたしは人と闘うことが嫌いな上、彼とは闘うまでもありません。彼が良くないものを持ってきても、わたしはそれをきれいに片付けてから、説法を続けていました。
 昔、みんの時代に、ある修道者がいましたが、修道する時、蛇に取り付かれてしまいました。結局この修道者は成就できずに死にましたが、蛇が修道者の身体を占有し、修行して人間の姿を持つようになりました。この蛇が修行して得た人間の姿こそ、ほかでもない、あの時訪ねてきた人の師です。彼は本性が変わらないので、また大蛇に化けてわたしの妨害をしました。あまりにもひどすぎたので、わたしはそれを手に掴んで、「化功かこう」というきわめて強い功を使って、その下半身を溶かして水にしました。その上半身だけが逃げ帰りました。
 ある日、貴州の法輪大法ファールンダーファー勉強会の責任者が、「師が会いたい」ということで、彼の孫弟子に呼ばれて行きました。彼女が洞窟の中に入ってみると、洞窟の中は真っ暗で何も見えません。一つの影がそこに坐っており、目から緑の光を放っています。その影が目を開けると、洞窟の中が明るくなり、目を閉じると洞窟の中はまた真っ暗になります。彼は方言で「李洪志がまた来られるのか。この次はわれわれは誰もこの前のようなことをしない。わしが悪かった。李洪志は人を済度するために来られた方じゃ」と話しました。「どうしてお立ちになりませんか。足はどうなさいましたか?」と孫弟子が尋ねたら、「わしはもう立ち上がれない。足を怪我したのじゃ」と答えました。どうして怪我をしたのかと聞いたら、彼はわたしの妨害をした時の一部始終を話しました。一九九三年、北京での東方健康博覧会の時、彼はまた妨害をしに来ました。この人はたびたび悪いことをし、わたしが大法ダーファーを伝えるのを妨げるので、わたしはとうとう彼を徹底的に始末しました。その後、彼の姉妹、兄弟弟子たちがみな手を出そうとしましたが、その時、わたしが二言三言言ったら、全員震え上がりました。どういうことなのかが分かり、怖くなって、誰一人として手を出せる者はいませんでした。その人たちの中には、長年修行しているのに、まだまったくの常人である人もいます。これは開眼の話のついでに挙げた例です。
 

 祝由科しゅくゆうか


 祝由科しゅくゆうかとは何でしょうか? 修煉界では、功法を教えるにあたって、それを修煉の範疇内のものとして教えている人も多くいますが、実際は、これは修煉範疇内のものではありません。それは、秘訣や呪文や技の伝承です。おふだを書いたり、香をいたり、紙銭しせんを焼いたり、呪文を唱えたりするなどの形式をとり、それも病を治すことができますが、その治し方はとても独特なものです。一つ例を挙げましょう。誰かの顔に吹き出物ができたとします。筆に辰砂しんしゃを付けて地面に円を描き、円の中に一つの十字を書きます。患者をその円の中に立たせた後、呪文を唱え始めます。それから、筆に辰砂を付けて患者の顔に円を描きます。描きながら呪文を唱えます。しばらく描いてから、吹き出物に点を打つと、呪文も唱え終り、「治った」と言うのです。触ってみると、その吹き出物は確かに小さくなり、痛みも消え、効き目があります。このような小さな病は治せますが、大きな病気の場合は、効かなくなります。腕が痛い時はどのように治すのでしょうか? 口の中で呪文を唱えながら、あなたに腕を伸ばさせます。この手の合谷ごうこくというツボに息を一口吹いて、その息をもう一方の手の合谷から出るようにします。すると、確かに一そよぎの風を感じます。触ってみると、痛みがだいぶ和らいでいます。そのほか、紙を焼いたり、お札を書いたり張ったりするような形式もありますが、祝由科とは、このようなことをやるものです。
 道家の世間小道では、めいを修めることをせずに、をたてたり、風水を見たり、やくを払ったり、病気を治したり、といったことばかりをしています。世間小道ではよくそれらを用います。病気を治すことはできますが、用いた方法はあまり良くありません。それが何を利用して病気を治したかについては、ここでは話しませんが、きわめて低い、きわめて良くない信息をもっているので、大法ダーファーを修煉する人はそれを用いてはなりません。古代中国では、病気を治す方法を科目ごとに分類しました。例えば、接骨、針灸しんきゅう按摩あんま推拿すいな点穴てんけつ、気功治療、薬草治療などなど、多くの科目に分けています。それぞれの病気の治療方法を一つの科と呼びますが、この祝由科は第十三科に入れられているため、正式な名前は「祝由十三科」と言います。祝由科は修煉の範疇に属するものではありません。それは修煉して得た功ではなく、術類の一種です。