轉 法 輪
第九講
気功
きこう
とスポーツ
一般
いっぱん
の
次元
じげん
において、
気功
きこう
とスポーツの
鍛練
たんれん
との
間
あいだ
には
直接
ちょくせつ
関係
かんけい
があると
思
おも
われがちです。もちろん
低
ひく
い
次元
じげん
において、
健康
けんこう
な
身体
からだ
を
獲得
かくとく
しようとする
点
てん
に
関
かん
して、
気功
きこう
とスポーツの
鍛練
たんれん
は
一致
いっち
しています。しかしその
具体
ぐたい
的
てき
な
鍛練
たんれん
方法
ほうほう
や
手段
しゅだん
は、スポーツの
鍛練
たんれん
とは
大
おお
きく
異
こと
なります。スポーツの
鍛練
たんれん
は、
健康
けんこう
増進
ぞうしん
の
目的
もくてき
を
達成
たっせい
するために、
人
ひと
の
運動量
うんどうりょう
を
増
ふ
やし、
身体訓練
しんたいくんれん
を
強化
きょうか
しなければなりません。これに
対
たい
して
気功
きこう
の
修煉
しゅうれん
はそれとは
反対
はんたい
に、
人
ひと
を
動
うご
かさないのです。
動
うご
いても
緩
ゆる
やかに、ゆっくりと、まろやかに
動
うご
き、あるいはほとんど
動
うご
かずに
静止
せいし
しているのです。これはスポーツ
鍛練
たんれん
の
形
かたち
と
大
おお
いに
異
こと
なります。さらに
高
たか
い
次元
じげん
からいえば、
気功
きこう
は
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
ばかりでなく、もっと
高
たか
い
次元
じげん
のもの、もっと
深
ふか
い
内容
ないよう
をもっているのです。
気功
きこう
は
常人
じょうじん
の
次元
じげん
にみられるその
程度
ていど
のものだけでなく、
超常的
ちょうじょうてき
なものであり、しかも
異
こと
なる
次元
じげん
に
異
こと
なった
形
かたち
で
現
あら
われているので、
常人
じょうじん
のものを
遥
はる
かに
超
こ
えています。
鍛練
たんれん
の
本質
ほんしつ
から
見
み
ても、
両
りょう
者
しゃ
の
間
あいだ
の
違
ちが
いは
実
じつ
に
大
おお
きいのです。スポーツ
選手
せんしゅ
は
運動
うんどう
量
りょう
を
増強
ぞうきょう
するよう
求
もと
められています。
特
とく
に
現在
げんざい
の
選手
せんしゅ
は
自分
じぶん
の
身体
からだ
を
現代
げんだい
の
競技
きょうぎ
水準
すいじゅん
に
合
あ
わせ、その
水準
すいじゅん
に
到達
とうたつ
するために、コンディションを
常
つね
に
最高
さいこう
の
状態
じょうたい
に
維持
いじ
し
続
つづ
けなければなりません。この
目標
もくひょう
に
達
たっ
するためには、
運動
うんどう
量
りょう
を
増大
ぞうだい
して
身体
からだ
に
血液
けつえき
を
十分
じゅうぶん
に
循環
じゅんかん
させ、そうすることによって
新陳代謝
しんちんたいしゃ
の
能力
のうりょく
を
増強
ぞうきょう
し、
身体
からだ
を
常
つね
に
上向
うわむ
きの
状態
じょうたい
に
維持
いじ
していなければなりません。なぜ
新陳代謝
しんちんたいしゃ
の
能力
のうりょく
を
増強
ぞうきょう
しなければならないのでしょうか?
選手
せんしゅ
の
身体
からだ
は
常
つね
に
上向
うわむ
きのベスト・コンディションを
保
たも
っていなければならないからです。
人間
にんげん
の
身体
からだ
は
無数
むすう
の
細胞
さいぼう
組織
そしき
からなっており、これらの
細胞
さいぼう
はみな
次
つぎ
のような
過程
かてい
をたどっています。つまり
新
あら
たに
分裂
ぶんれつ
した
細胞
さいぼう
の
生命
せいめい
力
りょく
は
非常
ひじょう
に
強
つよ
く、
上向
うわむ
きの
状態
じょうたい
にあります。
極限
きょくげん
に
達
たっ
すると、それ
以上
いじょう
伸
の
びられないので、
下降
かこう
せざるを
得
え
ません。
極限
きょくげん
まで
下降
かこう
すると、それに
代
か
わる
新
あら
たな
細胞
さいぼう
が
現
あら
われてきます。
例
たと
えば
一日
いちにち
が
十二時
じゅうにじ
間
かん
だとして、
朝
あさ
六
ろく
時
じ
に
細胞
さいぼう
が
分裂
ぶんれつ
して
出
で
てきて、ずっと
上向
うわむ
きに
伸
の
び
続
つづ
けていきます。
八
はち
時
じ
、
九時
くじ
頃
ごろ
、あるいは
十
じゅう
時
じ
頃
ごろ
までは
全盛期
ぜんせいき
です。
十二時
じゅうにじ
になると、もうそれ
以上
いじょう
、
上昇
じょうしょう
するのは
無理
むり
で、
下
お
りはじめます。この
間
あいだ
でも
細胞
さいぼう
はまだ
半分
はんぶん
の
生命
せいめい
力
りょく
を
残
のこ
していますが、しかしこの
残
のこ
り
半分
はんぶん
の
生命
せいめい
力
りょく
が
選手
せんしゅ
として
求
もと
められるコンディションには
合
あ
わなくなっています。
ではどうすればよいでしょうか?
訓練
くんれん
を
強化
きょうか
し、
血液
けつえき
の
循環
じゅんかん
を
強
つよ
めることによって、
新
あら
たな
細胞
さいぼう
を
作
つく
り
出
だ
して
古
ふる
い
細胞
さいぼう
と
取
と
り
替
か
える、という
方法
ほうほう
をとるのです。つまり
細胞
さいぼう
の
全
ぜん
過程
かてい
がまだ
歩
あゆ
み
終
お
わっておらず、
生命
せいめい
の
過程
かてい
の
半
なか
ばまでしか
進
すす
んでいないのに、それを
排出
はいしゅつ
してしまいます。それによって
身体
からだ
は
常
つね
にたくましく、
上向
うわむ
きの
状態
じょうたい
が
保
たも
たれるわけです。しかし
人類
じんるい
の
細胞
さいぼう
は
限
かぎ
りなく
分裂
ぶんれつ
していくわけにはいかないもので、
細胞
さいぼう
の
分裂
ぶんれつ
回数
かいすう
には
限度
げんど
があります。
仮
かり
に
人間
にんげん
一生
いっしょう
の
間
あいだ
に
細胞
さいぼう
が
百回
ひゃっかい
分裂
ぶんれつ
できるとすれば、
実際
じっさい
は
百
ひゃく
万
まん
回
かい
にもとどまらないのですが、また
正常
せいじょう
な
人間
にんげん
がこの
百回
ひゃっかい
の
細胞
さいぼう
分裂
ぶんれつ
で
百
ひゃく
才
さい
まで
生
い
きられるとして、いま
各
かく
細胞
さいぼう
がそれぞれの
生命
せいめい
の
半分
はんぶん
しか
生
い
きていないということになると、その
人
ひと
は
五十
ごじゅう
年
ねん
しか
生
い
きられないことになります。しかしわれわれはどのスポーツ
選手
せんしゅ
についてもこんな
極端
きょくたん
なケースを
見
み
たことがありません。それは
現在
げんざい
のスポーツ
選手
せんしゅ
は、
三十才
さんじゅっさい
になるかならないうちに
引退
いんたい
させられるからです。
特
とく
に
昨今
さっこん
は
競技
きょうぎ
レベルも
高
たか
く、
選手
せんしゅ
の
入
い
れ
替
か
えも
激
はげ
しいので、
選手
せんしゅ
は
再
ふたた
び
普通
ふつう
の
生活
せいかつ
に
戻
もど
り、
一見
いっけん
したところではそれほど
大
おお
きな
影響
えいきょう
がないように
見
み
えます。
理論
りろん
から
言
い
うとその
実質
じっしつ
は、
身体
からだ
そのものは
健康
けんこう
な
有
ゆう
機体
きたい
を
保
たも
っていますが、
命
いのち
は
縮
ちぢ
められたということです。
外観
がいかん
から
見
み
て、
十
じゅう
代
だい
のスポーツ
選手
せんしゅ
が
二
に
十
じゅう
代
だい
、
二
に
十
じゅう
代
だい
の
人
ひと
が
三
さん
十
じゅう
代
だい
に
見
み
えることがよくあります。スポーツ
選手
せんしゅ
はとかく
早熟
そうじゅく
あるいは
老
ふ
けているという
印象
いんしょう
を
人
ひと
に
与
あた
えがちですが、
弁証法
べんしょうほう
的
てき
にみれば、プラスもありマイナスもあるということです。スポーツの
鍛練
たんれん
は
実際
じっさい
こういう
道
みち
をたどっているのです。
気功
きこう
の
修煉
しゅうれん
はスポーツの
鍛練
たんれん
とちょうど
反対
はんたい
で、
動作
どうさ
においては
猛烈
もうれつ
な
運動
うんどう
を
求
もと
めず、
動
うご
きがあっても
緩
ゆる
やかで、ゆっくりとした、まろやかなものです。
非常
ひじょう
に
緩慢
かんまん
で、ほとんど
動
うご
かずに
静止
せいし
することさえあります。
皆
みな
さんは
禅定
ぜんじょう
という
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
をご
存
ぞん
じでしょう。じっと
静止
せいし
したままで、
心拍
しんぱく
の
速度
そくど
も
緩
ゆる
やかになり、
血液
けつえき
循環
じゅんかん
などすべてが
緩
ゆる
やかになるのです。インドの
多
おお
くのヨーガ
師
し
は、
水
みず
の
中
なか
に
何
なん
日
にち
も
坐
すわ
り、
土
つち
の
中
なか
に
何
なん
日
にち
も
埋
う
もれて、
心拍
しんぱく
も
制御
せいぎょ
できるほど、
完全
かんぜん
に
自分
じぶん
を
静止
せいし
させることができます。
仮
かり
に
人間
にんげん
の
細胞
さいぼう
が
一日
いちにち
に
一回
いっかい
分裂
ぶんれつ
するとすれば、
修煉者
しゅうれんしゃ
は
人体
じんたい
の
細胞
さいぼう
を
二日
ふつか
に
一回
いっかい
、
一週間
いっしゅうかん
に
一回
いっかい
、
半月
はんつき
に
一回
いっかい
、あるいはもっと
長
なが
い
時間
じかん
に
一回
いっかい
分裂
ぶんれつ
させることができれば、すでに
生命
せいめい
を
延長
えんちょう
していることになります。これはまだ
心性
しんせい
のみを
修
おさ
め、
命
めい
を
修
おさ
めない
功法
こうほう
に
過
す
ぎないのですが、それでもここまで
到達
とうたつ
することができ、
自分
じぶん
の
生命
せいめい
を
延長
えんちょう
させることができるのです。「
人間
にんげん
の
生命
せいめい
、
人間
にんげん
の
一生
いっしょう
は
定
さだ
められているのではないか?
命
めい
を
修
おさ
めないのにどうして
長生
ながい
きできるだろうか?」と
思
おも
う
人
ひと
がいるかも
知
し
れません。その
通
とお
りです。
修煉者
しゅうれんしゃ
は
次元
じげん
が
三界
さんがい
を
突破
とっぱ
できれば
生命
せいめい
を
延長
えんちょう
できるわけで、ただし
外観
がいかん
は
非常
ひじょう
に
老
ふ
けてみえます。
真
しん
に
命
めい
を
修
おさ
める
功法
こうほう
では、
採集
さいしゅう
してきた
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
を
人体
じんたい
の
細胞
さいぼう
に
蓄
たくわ
え
続
つづ
け、その
密度
みつど
を
高
たか
め
続
つづ
けていきますと、それが
次第
しだい
に
常人
じょうじん
の
細胞
さいぼう
を
抑制
よくせい
できるようになり、
次第
しだい
に
常人
じょうじん
の
細胞
さいぼう
に
取
と
って
代
か
わることになります。その
時
とき
がくれば、
質
しつ
の
変化
へんか
が
起
お
こり、この
人
ひと
はいつまでも
若々
わかわか
しくみえるようになるのです。むろん
修煉
しゅうれん
の
過程
かてい
は
非常
ひじょう
にゆっくりとしたもので、かなり
大
おお
きな
犠牲
ぎせい
を
払
はら
わなければなりません。「
其
そ
の
筋骨
きんこつ
を
労
ろう
せしめ、
其
そ
の
心志
しんし
を
苦
くる
しめる」と
言
い
いますが、
修煉
しゅうれん
は
並大抵
なみたいてい
のことではありません。
人
ひと
と
人
ひと
との
間
あいだ
の
心性
しんせい
の
摩擦
まさつ
において、
心
こころ
が
動
どう
ぜずにいられるでしょうか?
個人
こじん
の
切実
せつじつ
な
利益
りえき
において
心
こころ
が
動
どう
ぜずにいられましょうか? これらを
実際
じっさい
に
実践
じっせん
するのは
非常
ひじょう
に
難
むずか
しく、ただ
単
たん
にこの
目的
もくてき
を
達
たっ
しようと
思
おも
えば
達
たっ
することができるような
性質
せいしつ
のものではありません。
人
ひと
の
心性
しんせい
、
人
ひと
の
徳
とく
がすべて
修煉
しゅうれん
によって
向上
こうじょう
してきて、はじめてこのような
目的
もくてき
を
達
たっ
することができるのです。
これまで
多
おお
くの
人
ひと
が
気功
きこう
と
一般
いっぱん
のスポーツ
鍛練
たんれん
を
混同
こんどう
してきましたが、
実際
じっさい
にはその
差異
さい
はあまりにも
大
おお
きく、そもそもまったく
別物
べつもの
なのです。ただ
単
たん
に
最低
さいてい
次元
じげん
で
気
き
を
練
ね
ることに
際
さい
して、すなわち
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
を
求
もと
め、
健康
けんこう
な
身体
からだ
を
得
え
ようとするという
点
てん
で、
最低
さいてい
次元
じげん
の
目的
もくてき
がスポーツ
鍛練
たんれん
と
共通性
きょうつうせい
を
持
も
っているに
過
す
ぎません。しかし
高
こう
次元
じげん
では、
全然
ぜんぜん
異
こと
なってきます。
気功
きこう
における
身体浄化
しんたいじょうか
には
目的
もくてき
があります。しかも
超常
ちょうじょう
の
理
り
で
煉功者
れんこうしゃ
を
律
りっ
しなければならないもので、
常人
じょうじん
の
理
り
で
律
りっ
するわけにはいかないのです。これに
対
たい
してスポーツ
鍛練
たんれん
は、
常人
じょうじん
の
中
なか
のことに
過
す
ぎません。
意
い
念
ねん
意念
いねん
、つまりわれわれ
人間
にんげん
の
思惟
しい
活動
かつどう
についてお
話
はな
しします。
修煉界
しゅうれんかい
は、
大脳
だいのう
における
人間
にんげん
の
意念
いねん
の
思惟
しい
活動
かつどう
をどう
見
み
ているのでしょうか?
人間
にんげん
の
思惟
しい
(
意念
いねん
)の
異
こと
なる
形式
けいしき
をどう
見
み
ているのでしょうか? それはどのように
現
あら
われているのでしょうか?
現代
げんだい
医学
いがく
では
人間
にんげん
の
大脳
だいのう
を
研究
けんきゅう
する
際
さい
に
解
と
けない
問題
もんだい
が
多
おお
くあります。それはわれわれの
身体
からだ
の
表面
ひょうめん
のものほど
簡単
かんたん
ではないからです。
深層
しんそう
においては、
異
こと
なる
空間
くうかん
に
異
こと
なる
形式
けいしき
があります。といっても
一部
いちぶ
の
気功
きこう
師
し
が
言
い
っているようなことでもありません。
一部
いちぶ
の
気功
きこう
師
し
は、
自分
じぶん
自身
じしん
でもどういうことなのか
分
わ
からないので、はっきり
説明
せつめい
することができません。
彼
かれ
らは
自分
じぶん
の
大脳
だいのう
が
働
はたら
き、
意念
いねん
が
生
しょう
じると、
何
なに
かをなし
遂
と
げることができると
思
おも
い
込
こ
んでいます。そこで
彼
かれ
の
思惟
しい
がそのことをしたとか、
彼
かれ
の
意念
いねん
がそれをなし
遂
と
げたとか
言
い
います。しかし
実際
じっさい
は、
彼
かれ
の
意念
いねん
がやったわけでは
全然
ぜんぜん
ありません。
まず
人間
にんげん
の
思惟
しい
の
由来
ゆらい
についてお
話
はな
ししましょう。
中国
ちゅうごく
古代
こだい
には「
心
こころ
が
想
おも
う」という
言
い
い
方
かた
があります。なぜ「
心
こころ
が
想
おも
う」と
言
い
うのでしょうか?
中国
ちゅうごく
古代
こだい
の
科学
かがく
は
人体
じんたい
、
生命
せいめい
、
宇宙
うちゅう
というようなものに
直接
ちょくせつ
焦点
しょうてん
を
合
あ
わせて
研究
けんきゅう
していたので、
非常
ひじょう
に
発達
はったつ
していました。
確
たし
かに
紛
まぎ
れもなく
心
こころ
が
想
おも
っていると
感
かん
じている
人
ひと
がいますが、
一方
いっぽう
大脳
だいのう
が
想
おも
っていると
感
かん
じている
人
ひと
もいます。なぜこういうことが
起
お
きるのでしょうか? 「
心
こころ
が
想
おも
う」という
言
い
い
方
かた
にもわけがあります。なぜなら、
常人
じょうじん
の
元神
げんしん
は
非常
ひじょう
に
小
ちい
さく、
人間
にんげん
の
大脳
だいのう
から
発
はっ
せられた
真
しん
の
信息
しんそく
は、
人間
にんげん
の
大脳
だいのう
そのものが
働
はたら
いて
大脳
だいのう
自身
じしん
から
発
はっ
せられたのではなく、
人間
にんげん
の
元神
げんしん
から
発
はっ
せられたのだ、とわれわれは
見
み
ています。
人間
にんげん
の
元神
げんしん
は、
泥丸宮
でいがんきゅう
にだけとどまっているわけではありません。
道家
どうけ
の
言
い
う
泥丸宮
でいがんきゅう
はわれわれ
現代
げんだい
医学
いがく
が
認識
にんしき
している
松果体
しょうかたい
にほかなりません。もし
元神
げんしん
が
泥丸宮
でいがんきゅう
にいれば、われわれは
確実
かくじつ
に「
大脳
だいのう
が
思考
しこう
しており、
信息
しんそく
を
発
はっ
信
しん
している」と
感
かん
じますが、もし
心
こころ
にいれば、
紛
まぎ
れもなく「
心
こころ
が
思考
しこう
している」と
感
かん
じることになります。
人体
じんたい
は
一
ひと
つの
小宇宙
しょううちゅう
ですので、
煉功者
れんこうしゃ
のたくさんの
生命体
せいめいたい
はみな
位置
いち
替
が
えをすることが
起
お
こりえます。もし
元神
げんしん
が
位置
いち
替
が
えをする
時
とき
に、お
腹
なか
に
行
い
けば、
確
たし
かにお
腹
なか
が
想
おも
っていると
感
かん
じるようになります。もし
元神
げんしん
がふくらはぎや
踵
かかと
に
行
い
けば、ふくらはぎや
踵
かかと
が
思考
しこう
していると
感
かん
じます。
不思議
ふしぎ
に
聞
き
こえますが、
間違
まちが
いなくこの
通
とお
りです。
修煉
しゅうれん
の
次元
じげん
があまり
高
たか
くない
時
とき
でも、このような
現象
げんしょう
の
存在
そんざい
が
感
かん
じられるはずです。もし
人間
にんげん
の
身体
からだ
に
元神
げんしん
がなければ、もしその
人
ひと
に
気性
きしょう
や
天性
てんせい
、
特性
とくせい
などがなければ、
単
たん
なる
一塊
ひとかたまり
の
肉
にく
に
過
す
ぎず、
完全
かんぜん
な、
独立
どくりつ
した
自我
じが
と
個性
こせい
をもった
人間
にんげん
ではありえません。それでは
人間
にんげん
の
大脳
だいのう
はどんな
役割
やくわり
を
果
は
たすのでしょうか? わたしに
言
い
わせれば、
人間
にんげん
の
大脳
だいのう
はわれわれのこの
物質
ぶっしつ
空間
くうかん
形式
けいしき
において、
単
たん
なる
加工
かこう
工場
こうじょう
に
過
す
ぎません。
本当
ほんとう
の
信息
しんそく
は
元神
げんしん
から
発
はっ
せられるものです。といっても
発
はっ
せられたのは
言語
げんご
ではなく、ある
種
しゅ
の
意味
いみ
をあらわす
宇宙
うちゅう
の
信息
しんそく
です。われわれの
大脳
だいのう
はこの
指令
しれい
を
受
う
け
取
と
ると、それをわれわれの
現在
げんざい
の
言語
げんご
をはじめ、さまざまな
表現
ひょうげん
形式
けいしき
に
加工
かこう
します。その
上
うえ
、われわれは
手振
てぶ
りや
目
め
つき、
身振
みぶ
りなどでそれを
表現
ひょうげん
しますが、
大脳
だいのう
はこういうことをやらせる
役割
やくわり
を
果
は
たしています。
本当
ほんとう
の
指令
しれい
、
本当
ほんとう
の
思惟
しい
は
人間
にんげん
の
元神
げんしん
から
発
はっ
せられるものです。それは
大脳
だいのう
の
直接
ちょくせつ
で
独自
どくじ
の
働
はたら
きだと
思
おも
われがちですが、
実
じつ
は
元神
げんしん
が
心
こころ
にいる
時
とき
もあり、
確
たし
かに「
心
こころ
が
想
おも
っている」と
感
かん
じている
人
ひと
もいるのです。
現在
げんざい
、
人体
じんたい
研究
けんきゅう
をやっている
人
ひと
は、
人間
にんげん
の
大脳
だいのう
から
発
はっ
せられるのは
電波
でんぱ
のような
形
かたち
のものだと
考
かんが
えています。
実際
じっさい
発
はっ
せられたのが
何
なん
であるかはともかくとして、
彼
かれ
らがそれを
物質
ぶっしつ
的
てき
存在
そんざい
のひとつと
認
みと
めていることからすると、
迷信
めいしん
ではないことになります。では
発
はっ
せられたものはどんな
役割
やくわり
を
果
は
たすのでしょうか?
気功
きこう
師
し
の
中
なか
には、わたしは
意念
いねん
でものを
運
はこ
ぶとか、
意念
いねん
で
天目
てんもく
を
開
ひら
かせてあげるとか、
意念
いねん
で
病気
びょうき
を
治
なお
してあげるとか
言
い
っている
者
もの
がいます。
実
じつ
は
一部
いちぶ
の
気功
きこう
師
し
は、どんな
功能
こうのう
を
持
も
っているのか
自分
じぶん
でも
全然
ぜんぜん
知
し
らないし、はっきり
分
わ
かっていません。
彼
かれ
らは
自分
じぶん
が
何事
なにごと
かをしようとする
時
とき
、ちょっと
想
おも
うだけでうまくいくらしいといった
程度
ていど
のことしか
知
し
らないのです。
実際
じっさい
には
彼
かれ
らの
意念
いねん
が
活動
かつどう
しており、
功能
こうのう
が
大脳
だいのう
の
意念
いねん
に
制御
せいぎょ
されて、
意念
いねん
の
指揮
しき
の
下
もと
で
具体
ぐたい
的
てき
なことをしているからであって、
意念
いねん
そのものは
別
べつ
に
何
なに
もできません。
煉功者
れんこうしゃ
が
具体
ぐたい
的
てき
に
何
なに
かをする
時
とき
は、
彼
かれ
らの
功能
こうのう
が
働
はたら
いているのです。
功能
こうのう
は、
人体
じんたい
の
潜在
せんざい
能力
のうりょく
です。われわれ
人類
じんるい
社会
しゃかい
の
発展
はってん
に
従
したが
って、
人間
にんげん
の
大脳
だいのう
思惟
しい
がますます
複雑
ふくざつ
になり、ますます
現実
げんじつ
を
重
おも
んじ、いわゆる
現代
げんだい
化
か
の
道具
どうぐ
にますます
依存
いぞん
するようになってきているので、
人間
にんげん
の
本能
ほんのう
はそのためますます
退化
たいか
しています。
道家
どうけ
は「
返本帰真
へんぽんきしん
」と
言
い
いますが、
修煉
しゅうれん
の
過程
かてい
において、あなたは「
真
しん
」を
求
もと
め、
最終
さいしゅう
的
てき
に
返本帰真
へんぽんきしん
して、あなたの
原始
げんし
の
本性
ほんしょう
に
戻
もど
って、はじめてこれらの
本能
ほんのう
を
現
あら
わすことができるのです。われわれはいま
超能力
ちょうのうりょく
と
言
い
いますが、
実
じつ
はみな
人間
にんげん
の
本能
ほんのう
にほかなりません。
人類
じんるい
社会
しゃかい
は
進歩
しんぽ
しているように
見
み
えますが、
実際
じっさい
は
後退
こうたい
しており、われわれの
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
からますます
遠
とお
ざかっています。
先日
せんじつ
わたしは
張果老
ちょうかろう
が
後
うし
ろ
向
む
きにロバに
乗
の
ることをお
話
はな
ししましたが、どんな
意味
いみ
なのか
分
わ
かってもらえなかったかも
知
し
れません。
彼
かれ
は
前
まえ
へ
進
すす
むことは
実
じつ
は
後退
こうたい
であり、
人間
にんげん
が
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
からますます
遠
とお
く
離
はな
れることに
気
き
づいたのです。
宇宙
うちゅう
の
演化
えんか
の
過程
かてい
において、
特
とく
にいま
商品
しょうひん
経済
けいざい
の
大波
おおなみ
に
巻
ま
き
込
こ
まれてから、
多
おお
くの
人
ひと
の
道徳
どうとく
がかなり
退廃
たいはい
してきて、
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
という
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
からますます
遠
とお
ざかっています。
常人
じょうじん
の
中
なか
で
時流
じりゅう
に
従
したが
ってきた
人々
ひとびと
には、
人類
じんるい
の
道徳
どうとく
がどれほど
退廃
たいはい
したのか、その
程度
ていど
を
感
かん
じとることができないので、
良
よ
いことだと
思
おも
っている
人
ひと
すらいます。
心性
しんせい
が
修煉
しゅうれん
によって
高
たか
まってきた
人
ひと
だけが、
後
うし
ろ
向
む
きに
振
ふ
り
返
かえ
ってみた
時
とき
、
人類
じんるい
の
道徳
どうとく
が
恐
おそ
ろしいほどにまで
退廃
たいはい
していることを
認識
にんしき
できるのです。
気功
きこう
師
し
のなかには、
功能
こうのう
を
開発
かいはつ
してやると
言
い
う
者
もの
がいます。どんな
功能
こうのう
を
開発
かいはつ
するというのでしょうか?
功能
こうのう
は、エネルギーがなければなんの
役
やく
にも
立
た
ちませんが、それが
出
で
ていないのにどうして
開発
かいはつ
できるというのでしょうか? その
人
ひと
の
功能
こうのう
がいまだその
人
ひと
自身
じしん
のエネルギーによって
加持
かじ
されて
形
かたち
をなしていない
時
とき
に、それをどうして
開発
かいはつ
できるというのでしょうか? まったくありえない
話
はなし
です。こういう
気功
きこう
師
し
の
言
い
う
功能
こうのう
を
開発
かいはつ
するというのは、あなた
自身
じしん
のうちにすでに
形作
かたちづく
られている
功能
こうのう
をあなたの
大脳
だいのう
と
結
むす
びつけ、あなたの
大脳
だいのう
の
意念
いねん
の
支配
しはい
下
か
で
働
はたら
くようにするということに
過
す
ぎません。
彼
かれ
はこれで
功能
こうのう
を
開発
かいはつ
したというのですが、
実
じつ
は
彼
かれ
はあなたの
功能
こうのう
をなにも
開発
かいはつ
してくれているわけではなく、せいぜい
今
いま
言
い
ったぐらいのことしかしてくれていないのです。
煉功者
れんこうしゃ
の
場合
ばあい
は、
意念
いねん
が
功能
こうのう
を
支配
しはい
して
働
はたら
かせます。
一方
いっぽう
、
常人
じょうじん
の
場合
ばあい
は、
意念
いねん
が
四肢
しし
や
感覚
かんかく
器官
きかん
を
支配
しはい
して
働
はたら
かせるのです。あたかも
工場
こうじょう
の
作業
さぎょう
本部
ほんぶ
や
工場
こうじょう
長
ちょう
室
しつ
から
指令
しれい
が
出
だ
されて、それぞれの
職場
しょくば
が
各々
おのおの
の
責務
せきむ
を
果
は
たし、また
軍隊
ぐんたい
の
指揮
しき
部門
ぶもん
でも、
司令
しれい
部
ぶ
が
命令
めいれい
を
出
だ
し、
部隊
ぶたい
全体
ぜんたい
が
各々
おのおの
の
任務
にんむ
を
遂行
すいこう
するようなものです。わたしはよそで
講習会
こうしゅうかい
を
開
ひら
く
時
とき
、
現地
げんち
の
気功
きこう
研究
けんきゅう
会
かい
の
責任
せきにん
者
しゃ
たちによくこのことを
話
はな
しますが、
彼
かれ
らは、「われわれがずっと
研究
けんきゅう
してきたのは、
人間
にんげん
の
思惟
しい
にどれだけ
大
おお
きな
潜在
せんざい
エネルギー、
潜在
せんざい
意識
いしき
があるのかということであった」といまさらのように
驚
おどろ
くのです。
実状
じつじょう
はそうではなく、
彼
かれ
らは
最初
さいしょ
から
間違
まちが
った
方向
ほうこう
へ
行
い
ったのです。わたしに
言
い
わせれば、
人体
じんたい
科学
かがく
をやろうとするには、
人間
にんげん
の
思惟
しい
を
変革
へんかく
しなければなりません。
常人
じょうじん
のような
推理
すいり
方法
ほうほう
や
物事
ものごと
の
認識
にんしき
方法
ほうほう
で、
超常的
ちょうじょうてき
なことを
理解
りかい
しようとしてはいけません。
意念
いねん
について
言
い
えば、ほかにも
幾
いく
つかの
意念
いねん
の
形式
けいしき
があります。
例
たと
えば
潜在
せんざい
意識
いしき
、
無意識
むいしき
、
霊感
れいかん
、
夢
ゆめ
を
見
み
ることなどを
挙
あ
げる
人
ひと
がいます。
夢
ゆめ
を
見
み
るということについては、どの
気功
きこう
師
し
も
説明
せつめい
しようとしません。あなたが
生
う
まれた
時
とき
、
宇宙
うちゅう
の
多
おお
くの
空間
くうかん
にも
同時
どうじ
に、あなたと
相互
そうご
補完
ほかん
的
てき
に
一体
いったい
をなし、
互
たが
いに
関係
かんけい
し、
思惟
しい
において
連帯
れんたい
関係
かんけい
にある、
同
おな
じあなたが
生
う
まれます。しかもあなたには
主元神
しゅげんしん
、
副元神
ふくげんしん
がいて、
体内
たいない
にその
他
ほか
いろいろな
生命体
せいめいたい
の
姿
すがた
かたちもあり、
一
ひと
つ
一
ひと
つの
細胞
さいぼう
や
五臓六腑
ごぞうろっぷ
がみなあなたの
姿
すがた
かたちをした
信息
しんそく
の
他
た
の
空間
くうかん
における
存在
そんざい
形式
けいしき
であるので、きわめて
複雑
ふくざつ
です。
夢
ゆめ
を
見
み
るとあれこれ
出
で
てきたりしますが、いったいどこから
来
き
たのでしょうか?
医学
いがく
ではわれわれの
大脳皮質
だいのうひしつ
に
変化
へんか
が
起
お
きていると
説明
せつめい
しています。それはこの
物質
ぶっしつ
形式
けいしき
に
現
あら
われた
反応
はんのう
ですが、
本当
ほんとう
は
他
た
の
空間
くうかん
の
信息
しんそく
の
作用
さよう
を
受
う
けたのです。ですから
夢
ゆめ
を
見
み
る
時
とき
あなたがぼんやりと
感
かん
じたものは、みなあなたと
関係
かんけい
のないもので、
気
き
にすることはありません。あなたと
直接
ちょくせつ
関係
かんけい
する
夢
ゆめ
が
一
ひと
つありますが、このような
夢
ゆめ
はいわゆる
夢
ゆめ
とは
言
い
えません。それは、あなたの
主
しゅ
意識
いしき
つまりあなたの
主元神
しゅげんしん
が、
夢
ゆめ
の
中
なか
で
自分
じぶん
の
家族
かぞく
が
現
あら
われたのを
見
み
たとか、あるいは
確
たし
かに
何
なに
かを
感
かん
じ、
何
なに
かを
見
み
、
何
なに
かをしたといった
場合
ばあい
です。その
場合
ばあい
は、あなたの
主元神
しゅげんしん
が
本当
ほんとう
に
他
た
の
空間
くうかん
で
何
なに
かをした、
何
なに
かを
見
み
てしかも
実行
じっこう
したということであり、
意識
いしき
が
紛
まぎ
れもなくはっきりしているように、そういうことも
確
たし
かに
実在
じつざい
しているのであって、ただ
他
た
の
物質
ぶっしつ
空間
くうかん
、
他
た
の
時空
じくう
でしてきただけなのです。それを
夢
ゆめ
と
言
い
えますか?
違
ちが
います。あなたのこちらの
物質
ぶっしつ
身体
しんたい
が
確
たし
かに
寝
ね
ているために、それを
夢
ゆめ
というしかありませんが、このような
夢
ゆめ
だけがあなたと
直接
ちょくせつ
関係
かんけい
があるのです。
人間
にんげん
の
霊感
れいかん
や
無意識
むいしき
、
潜在
せんざい
意識
いしき
といった
類
たぐ
いの
言葉
ことば
は、わたしに
言
い
わせれば、
科学
かがく
者
しゃ
が
作
つく
ったのではなく、
文人
ぶんじん
が
常人
じょうじん
の
中
なか
のある
種
しゅ
の
慣習
かんしゅう
的
てき
な
状態
じょうたい
に
基
もと
づいて
作
つく
ったものであり、
科学
かがく
的
てき
ではありません。
人々
ひとびと
の
言
い
う
潜在
せんざい
意識
いしき
とはいったい
何
なん
でしょうか?
人間
にんげん
のさまざまな
信息
しんそく
はあまりにも
複雑
ふくざつ
で、あるかないかの
微
かす
かな
記憶
きおく
のようなものですから、
非常
ひじょう
に
説明
せつめい
し
難
がた
く、
漠然
ばくぜん
としています。
無意識
むいしき
については、われわれは
解釈
かいしゃく
しやすいのです。
無意識
むいしき
の
状態
じょうたい
に
与
あた
えられた
定義
ていぎ
に
従
したが
うと、それは
通常
つうじょう
、
人
ひと
がわけが
分
わ
からない
状態
じょうたい
で
何
なに
かをしたことを
指
さ
します。そういう
場合
ばあい
人々
ひとびと
は、
無意識
むいしき
的
てき
にしたので、
意識
いしき
的
てき
にしたわけではないとよく
言
い
います。こういう
無意識
むいしき
は、ちょうどわれわれの
言
い
う
副意識
ふくいしき
と
同
おな
じです。
人
ひと
の
主
しゅ
意識
いしき
が
緩
ゆる
んで、
大脳
だいのう
への
制御
せいぎょ
を
停止
ていし
すると、
眠
ねむ
ってしまったかのようにぼうっとします。あるいは
夢
ゆめ
の
中
なか
や
意識
いしき
のない
状態
じょうたい
においても
副意識
ふくいしき
、つまり
副元神
ふくげんしん
に
主宰
しゅさい
されやすいのです。その
時
とき
は、
副意識
ふくいしき
が
何
なに
かをすることができます。つまりあなたがぼうっとした
状態
じょうたい
において
何
なに
かをするのです。しかし、こうしたことの
結果
けっか
は
普通
ふつう
あまり
悪
わる
いようにはならないもので、それは
副意識
ふくいしき
が
他
た
の
空間
くうかん
で
物事
ものごと
の
本質
ほんしつ
が
見
み
えるので、
常人
じょうじん
社会
しゃかい
に
惑
まど
わされることがないからです。ですから
副意識
ふくいしき
のやったことを
人
ひと
があとで
意識
いしき
が
戻
もど
ってから
見
み
ると、「どうしてこんな
始末
しまつ
になったのか、
意識
いしき
がはっきりしていたらこんなふうにするはずがなかったのに」と、
思
おも
ったりしますが、しかし、いまそれが
良
よ
くないように
見
み
えても、
十日後
とうかご
、
半月後
はんつきご
に
振
ふ
り
返
かえ
ってみると、「おや、なんとうまくやったことか! いったい
当時
とうじ
どういうふうにやったのか」などと、
思
おも
うようになります。こんなことがよくあります。
副意識
ふくいしき
はそれがその
当座
とうざ
どういう
結果
けっか
をもたらすにしろ、
将来
しょうらい
必
かなら
ずいい
結果
けっか
をもたらすのを
知
し
っているのです。
将来
しょうらい
に
影響
えいきょう
を
及
およ
ぼさないでその
場
ば
限
かぎ
りで
終
お
わることもありますが、そういう
場合
ばあい
副意識
ふくいしき
がそれを
実行
じっこう
すると、すぐその
場
ば
で
良
よ
い
結果
けっか
が
出
で
るようにうまく
処理
しょり
するのです。
もう
一
ひと
つの
形式
けいしき
があります。つまり
根基
こんき
の
良
よ
い
人
ひと
によくあることですが、
高
たか
い
次元
じげん
の
生命体
せいめいたい
の
影響
えいきょう
を
容易
ようい
に
受
う
けて
何
なに
かをすることがあるのです。もちろんそれはまた
別
べつ
の
事柄
ことがら
になりますので、ここでは
言
い
わないでおきましょう。ここでは
主
しゅ
としてわれわれ
人間
にんげん
自身
じしん
に
由来
ゆらい
する
意識
いしき
についてお
話
はな
しします。
霊
れい
感
かん
について
言
い
えば、これもまた
文人
ぶんじん
が
作
つく
った
言葉
ことば
です。
一般
いっぱん
の
人
ひと
は、
霊
れい
感
かん
は
人
ひと
の
一生
いっしょう
の
間
あいだ
に
蓄積
ちくせき
された
知識
ちしき
が、その
一瞬
いっしゅん
に
火花
ひばな
のようにほとばしったものだと
思
おも
います。わたしに
言
い
わせれば、
唯物
ゆいぶつ
主義
しゅぎ
の
観点
かんてん
に
従
したが
えば、
人類
じんるい
の
一生
いっしょう
の
間
あいだ
に
蓄積
ちくせき
された
知識
ちしき
が
多
おお
ければ
多
おお
いほど、
人
ひと
の
大脳
だいのう
はよく
働
はたら
きます。いざ
使
つか
おうとする
時
とき
になると、それらが
次
つぎ
から
次
つぎ
へと
現
あら
われてくるはずで、
霊
れい
感
かん
も
何
なに
もありえないのです。およそ
本当
ほんとう
に
霊
れい
感
かん
と
称
しょう
することができるもの、あるいはそういう
霊
れい
感
かん
がじっさい
湧
わ
いてきた
時
とき
は、
言
い
われているような
状態
じょうたい
ではありません。われわれが
頭脳
ずのう
を
使
つか
う
時
とき
、ずっと
使
つか
い
続
つづ
けていると、しまいには
知識
ちしき
が
枯渇
こかつ
したかのように
感
かん
じ、どうしても
絞
しぼ
り
出
だ
せないと
感
かん
じることがあります。
文章
ぶんしょう
を
書
か
いていて、ある
箇所
かしょ
でどうしても
書
か
き
進
すす
めなくなるとか、
作曲
さっきょく
する
時
とき
曲想
きょくそう
が
浮
う
かばなくなるとか、
科学
かがく
研究
けんきゅう
のプロジェクトが
途中
とちゅう
で
行
い
きづまるとか、こういう
時
とき
によく
疲
つか
れ
果
は
てて
青筋
あおすじ
を
立
た
て、タバコの
吸殻
すいがら
を
地面
じめん
にいっぱい
散
ち
らかし、
頭
あたま
が
痛
いた
いほどいらだっても、
何
なに
も
思
おも
い
浮
う
かびません。
最後
さいご
にどんな
状態
じょうたい
で
霊感
れいかん
が
来
く
るのでしょうか? へとへとになって、あきらめよう、
休
やす
むことにしよう、と
思
おも
った
時
とき
です。なぜなら
主
しゅ
意識
いしき
が
厳
きび
しく
大脳
だいのう
を
制御
せいぎょ
すればするほど、ほかの
生命
せいめい
が
入
はい
り
込
こ
めないのです。
休
やす
んで、
思考
しこう
が
緩
ゆる
み、
考
かんが
えるのを
中止
ちゅうし
すると、
無意識
むいしき
のうちに
思
おも
い
浮
う
かんできて、
脳
のう
から
出
で
てくるのです。
霊感
れいかん
とはたいていこういうふうに
湧
わ
いてくるものです。
ではどうしてこういう
時
とき
に
霊感
れいかん
が
湧
わ
いてくるのでしょうか?
人
ひと
の
大脳
だいのう
は
主
しゅ
意識
いしき
の
支配
しはい
を
受
う
けるもので、
脳
のう
を
使
つか
えば
使
つか
うほど、
主
しゅ
意識
いしき
の
支配
しはい
がきつくなり、
副意識
ふくいしき
の
入
はい
り
込
こ
む
余地
よち
がなくなります。
考
かんが
えすぎて
頭
あたま
が
痛
いた
い
時
とき
、
思
おも
い
浮
う
かばなくていらいらする
時
とき
、あの
副意識
ふくいしき
も
一緒
いっしょ
にいらいらして、
一緒
いっしょ
にさんざん
頭痛
ずつう
に
悩
なや
まされます。それは
副意識
ふくいしき
もまた
身体
からだ
の
一部
いちぶ
であり、
母胎
ぼたい
から
同時
どうじ
に
生
う
まれてきたもので、
身体
からだ
の
一部
いちぶ
を
主宰
しゅさい
しているためです。しかし
主
しゅ
意識
いしき
が
緩
ゆる
むと、
副意識
ふくいしき
は、
自分
じぶん
の
知
し
っていることを
大脳
だいのう
に
反映
はんえい
させることになります。
他
た
の
空間
くうかん
で
物事
ものごと
の
本質
ほんしつ
が
見
み
えているからです。こうして
意図
いと
したことがやり
遂
と
げられて、
文章
ぶんしょう
も
書
か
き
上
あ
げられ、
創作
そうさく
もできあがってきます。
「それならもっと
副意識
ふくいしき
を
活用
かつよう
してみよう」と
言
い
う
人
ひと
がいます。
先
さき
ほどまわってきた
質問
しつもん
の
紙
かみ
にも、どうすれば
副意識
ふくいしき
と
連絡
れんらく
がとれるのかと
書
か
いた
人
ひと
がいました。あなたには
連絡
れんらく
がとれません。なぜならあなたは
煉功
れんこう
を
始
はじ
めたばかりの
人
ひと
で、
何
なん
の
力
ちから
も
持
も
っていないからです。そのような
目的
もくてき
は
執着
しゅうちゃく
に
違
ちが
いないので、
連絡
れんらく
をとろうとしないほうがよいのです。「
副意識
ふくいしき
を
活用
かつよう
してより
多
おお
くの
価値
かち
を
創
つく
り
出
だ
し、
人類
じんるい
社会
しゃかい
の
発展
はってん
に
寄与
きよ
するというのもいけないのか?」と
考
かんが
える
人
ひと
がいるかも
知
し
れませんが、それはいけません! なぜならあなたの
副意識
ふくいしき
の
知
し
っていることも
限
かぎ
られているからです。
空間
くうかん
の
複雑
ふくざつ
さといい、
次元
じげん
の
多
おお
さといい、この
宇宙
うちゅう
の
構造
こうぞう
はきわめて
複雑
ふくざつ
なので、あなたの
副意識
ふくいしき
は
自分
じぶん
のいる
空間
くうかん
のことしか
知
し
り
得
え
ず、その
空間
くうかん
を
超
こ
えるものとなれば、
分
わ
からなくなります。それに
次元
じげん
の
異
こと
なる
空間
くうかん
が
縦
たて
にたくさんあり、
人類
じんるい
の
発展
はってん
は
高
たか
い
次元
じげん
の
生命体
せいめいたい
が
非常
ひじょう
に
高
たか
い
次元
じげん
にあってはじめて
支配
しはい
できるもので、
発展
はってん
の
規律
きりつ
に
従
したが
って
進
すす
んでいるのです。
われわれ
常人
じょうじん
社会
しゃかい
は
歴史
れきし
の
規律
きりつ
に
従
したが
って
発展
はってん
しています。あなたは、どのように
発展
はってん
しようとか、どんな
目標
もくひょう
に
達
たっ
しようとか
思
おも
います。しかしあの
高
たか
い
次元
じげん
の
生命体
せいめいたい
はそうは
考
かんが
えません。
古代
こだい
の
人
ひと
は
今日
こんにち
の
飛行機
ひこうき
、
汽車
きしゃ
、あるいは
自転車
じてんしゃ
に
考
かんが
え
及
およ
んではいなかったのでしょうか? わたしに
言
い
わせれば、
考
かんが
え
及
およ
んでいなかったとも
言
い
えません。
歴史
れきし
がその
過程
かてい
に
進
すす
んでいなかったので、
作
つく
ろうと
思
おも
っても
作
つく
り
出
だ
せないのです。
一見
いっけん
したところでは、つまり
常人
じょうじん
の
慣
な
れ
親
した
しんでいる
理論
りろん
や、
現在
げんざい
所有
しょゆう
している
人類
じんるい
の
知識
ちしき
の
視点
してん
から
見
み
れば、
人類
じんるい
の
科学
かがく
がまだそれ
相当
そうとう
のレベルに
達
たっ
していなかったため
作
つく
り
出
だ
せなかったように
見
み
えます。
実
じつ
は
人類
じんるい
の
科学
かがく
がどんなに
発展
はってん
していても、
歴史
れきし
の
段取
だんど
りに
従
したが
って
発展
はってん
しているのであって、
人為的
じんいてき
にある
目標
もくひょう
に
達
たっ
しようと
思
おも
っても
達
たっ
せないのです。もちろん
副意識
ふくいしき
がよく
働
はたら
く
人
ひと
もいます。
作家
さっか
の
中
なか
には、「
一日
いちにち
に
何
なん
万
まん
字
じ
書
か
いても
全然
ぜんぜん
疲
つか
れない。
書
か
こうと
思
おも
えばあっという
間
ま
に
書
か
けてしまい、
読
よ
む
人
ひと
もけっこういいといってくれる」と
言
い
う
人
ひと
もいます。どうしてこういうことがあるのでしょうか? これは
彼
かれ
の
主
しゅ
意識
いしき
、
副意識
ふくいしき
が
半々
はんはん
に
働
はたら
いた
結果
けっか
で、
彼
かれ
の
副意識
ふくいしき
も
半分
はんぶん
の
役割
やくわり
を
果
は
たしているのです。しかしみんながみんなこういうわけではなく、ほとんどの
副意識
ふくいしき
は
初
はじ
めからかかわろうとしないし、
働
はたら
かそうとすると、かえって
逆効果
ぎゃくこうか
です。
清浄心
しょうじょうしん
練功
れんこう
の
時
とき
に
入
にゅう
静
せい
できない
人
ひと
がけっこういます。あちこちの
気功師
きこうし
を
訪
たず
ねては、「
先生
せんせい
、わたしはどうして
練功
れんこう
の
時
とき
に
入
にゅう
静
せい
できないのでしょうか。
入
にゅう
静
せい
しようとするとあらゆることが
浮
う
かんできて、
妄想
もうそう
が
始
はじ
まるのですが」などと
聞
き
くのです。まるで
海
うみ
がひっくりかえったかのようになんでも
湧
わ
いてくるので、まったく
入
にゅう
静
せい
できません。なぜ
入
にゅう
静
せい
できないのでしょうか? そのあたりが
理解
りかい
できない
人
ひと
は、
何
なに
かコツがあるのではないかと
思
おも
い
込
こ
み、
入
にゅう
静
せい
できるいい
手
て
だてを
教
おし
えてほしい、と
有名
ゆうめい
な
師
し
を
訪
たず
ねまわります。わたしから
見
み
れば、これもまた
外
そと
に
向
む
かって
求
もと
めていることになります。
自分
じぶん
を
高
たか
めようとすれば、
内
うち
に
向
む
かって
探
さが
し、
自分
じぶん
の
心
こころ
を
修煉
しゅうれん
しなければなりません。そうしてはじめて
本当
ほんとう
に
向上
こうじょう
でき、
坐禅
ざぜん
の
時
とき
に
入
にゅう
静
せい
できるようになります。
入
にゅう
静
せい
できるのは
功
こう
にほかならず、
定力
じょうりき
の
深
ふか
さは
次元
じげん
の
現
あら
われです。
常人
じょうじん
は
簡単
かんたん
に
入
にゅう
静
せい
できますか? できるはずがありません。
根基
こんき
がよっぽどいい
人
ひと
を
除
のぞ
いてはできないのです。つまり、
入
にゅう
静
せい
できない
根本
こんぽん
的
てき
な
原因
げんいん
は、
方法
ほうほう
にあるわけではありません。
何
なに
か
奥
おく
の
手
て
があるわけではなく、その
人
ひと
の
考
かんが
えや
心
こころ
が
清浄
しょうじょう
でないからにほかなりません。
常人
じょうじん
社会
しゃかい
の
中
なか
で、
人
ひと
と
人
ひと
とのトラブル、
個人
こじん
の
利益
りえき
や
七情六欲
しちじょうろくよく
、さまざまな
欲望
よくぼう
への
執着
しゅうちゃく
のために、
人
ひと
と
争
あらそ
ったり
闘
たたか
ったりする、こういうことを
捨
す
てられなければ、こういうことに
対
たい
して
淡泊
たんぱく
になれなければ、
入
にゅう
静
せい
しようと
思
おも
うなど、とんでもないことです。「そんなことは
信
しん
じない。わたしはあれこれ
考
かんが
えたりせずに、
入
にゅう
静
せい
しなければならない」と、
練功
れんこう
する
時
とき
に
自分
じぶん
に
言
い
い
聞
き
かす
人
ひと
がいますが、そう
言
い
い
終
お
わらないうちに、またもやあれこれ
湧
わ
いてくるのです。
心
こころ
が
清浄
しょうじょう
でないので、
入
にゅう
静
せい
できないのです。
わたしの
言
い
ったことに
賛成
さんせい
しない
人
ひと
もいるかも
知
し
れません。
一部
いちぶ
の
気功
きこう
師
し
が、
守一
しゅいつ
とか、
観想
かんそう
とか、
丹田
たんでん
を
意守
いしゅ
するとか、
丹田
たんでん
を
内視
ないし
するとか、
佛号
ぶつごう
を
唱
とな
えるとかいう
方法
ほうほう
を
教
おし
えているではありませんか、と
言
い
うのです。これは
確
たし
かに
方法
ほうほう
の
一
ひと
つではあります。しかし
単
たん
なる
方法
ほうほう
というより、それは
功夫
こうふ
の
現
あら
われです。ということは、その
功夫
こうふ
はわれわれが
心性
しんせい
を
修煉
しゅうれん
し、
自分
じぶん
の
次元
じげん
を
高
たか
めることと
直接
ちょくせつ
かかわるわけですが、それでもこの
方法
ほうほう
によるだけで
入
にゅう
静
せい
できるものではありません。もしまだ
信
しん
じられなければ、さまざまな
欲望
よくぼう
や
執着心
しゅうちゃくしん
が
強
つよ
くて、
何
なに
も
捨
す
てられないままでも、
入
にゅう
静
せい
できるかどうか、
試
ため
してみてください。
佛号
ぶつごう
を
唱
とな
えればうまくいくという
人
ひと
がいますが、
佛
ほとけ
の
名前
なまえ
を
念
ねん
ずれば
入
にゅう
静
せい
できるとでも
思
おも
っているのでしょうか?
阿弥陀佛
あみだぶつ
の
法門
ほうもん
は
修煉
しゅうれん
しやすく、
佛
ほとけ
の
名前
なまえ
を
念
ねん
ずればいいのだと
言
い
う
人
ひと
がいますが、
試
ため
しに
念
ねん
じてみたらどうですか? わたしに
言
い
わせれば、あれは
功夫
こうふ
なのです。あなたは
容易
ようい
だと
言
い
うかも
知
し
れませんが、わたしは
容易
ようい
ではないと
言
い
います。どの
法門
ほうもん
も
容易
ようい
なものはありません。
皆
みな
さんがご
存
ぞん
じのように
釈迦牟尼
しゃかむに
は「
定
じょう
」を
説
と
きますが、「
定
じょう
」の
前
まえ
に
彼
かれ
は
何
なに
を
説
と
いたのでしょうか?
彼
かれ
は「
戒
かい
」を
説
と
いたのです。ありとあらゆる
欲望
よくぼう
や
嗜好
しこう
をすべて
戒
いまし
めて、
何
なに
もかも
無
な
くなれば、はじめて
定
じょう
に
至
いた
ることができます。そうではありませんか? それに「
定
じょう
」も
功夫
こうふ
なので、
一挙
いっきょ
に
完全
かんぜん
に「
戒
かい
」のレベルに
到達
とうたつ
できるはずもなく、
徐々
じょじょ
にあらゆる
良
よ
くないものを
戒
いまし
めていくうちに、
定力
じょうりき
もだんだん
深
ふか
まってくるのです。
人
ひと
が
佛
ほとけ
の
名前
なまえ
を
念
ねん
ずる
時
とき
、
心
こころ
には
何
なに
も
雑念
ざつねん
がなく、
大脳
だいのう
のその
他
ほか
の
部分
ぶぶん
が
全部
ぜんぶ
麻痺
まひ
して、
何
なに
もかも
分
わ
からなくなるまで、
一心不乱
いっしんふらん
に
念
ねん
じなければならず、そうすれば
一
いち
念
ねん
が
万
まん
念
ねん
に
代
か
わるので、「
阿弥陀佛
あみだぶつ
」の
一文字
ひともじ
一文字
ひともじ
が
目
め
の
前
まえ
に
現
あら
われてきます。これこそ
功夫
こうふ
ではありませんか?
初
はじ
めから
一挙
いっきょ
にここまで
到達
とうたつ
できますか?
到達
とうたつ
できません。
到達
とうたつ
できなければ、
入
にゅう
静
せい
できないはずです。
信
しん
じられなければ
試
ため
してみてください。
口
くち
では
一回
いっかい
一回
いっかい
念
ねん
じていますが、
心
こころ
の
中
なか
では
雑念
ざつねん
ばっかり、
職場
しょくば
の
上司
じょうし
はどうして
気
き
に
入
い
ってくれないのか、
今月
こんげつ
の
賞与
しょうよ
がこんなに
少
すく
ないのはなぜか
等々
などなど
、
考
かんが
えれば
考
かんが
えるほど
腹
はら
が
立
た
ち、むしゃくしゃしてきますが、それでも
口
くち
ではまだ
佛
ほとけ
の
名前
なまえ
を
念
ねん
じています。これで
煉功
れんこう
ができますか? これには
功夫
こうふ
がかかわっているのではありませんか?
心
こころ
が
清浄
しょうじょう
でないからではありませんか?
天目
てんもく
が
開
ひら
いた
人
ひと
は、
丹田
たんでん
を
内視
ないし
することができます。
人間
にんげん
の
下腹部
かふくぶ
に
集
あつ
まっている
丹
たん
、あのエネルギー
物質
ぶっしつ
は
純粋
じゅんすい
であればあるほど
明
あか
るく、
不純
ふじゅん
であればあるほど
暗
くら
くて
黒
くろ
いのです。
丹田
たんでん
を
内視
ないし
する
場合
ばあい
、あの
丹
たん
を
見
み
つめていれば
果
はた
して
入
にゅう
静
せい
できるのでしょうか?
入
にゅう
静
せい
できないのは
方法
ほうほう
そのものにあるのではなく、
人間
にんげん
の
考
かんが
え、
意念
いねん
が
清浄
しょうじょう
ではないからです。そこが
肝心
かんじん
なのです。
丹田
たんでん
を
内視
ないし
すると、
丹
たん
がぴかぴかと
光
ひか
っていてたいへん
結構
けっこう
です。だがしばらくすると
丹
たん
が
変
か
わって、
住宅
じゅうたく
に
化
ば
けたりします。「この
部屋
へや
は
息子
むすこ
の
結婚
けっこん
生活
せいかつ
用
よう
に、この
部屋
へや
は
娘
むすめ
に、われわれ
夫婦
ふうふ
はこの
部屋
へや
を
使
つか
い、
真
ま
ん
中
なか
は
客間
きゃくま
に
当
あ
てる、といったぐあいにいけば
申
もう
し
分
ぶん
がない! そういう
住宅
じゅうたく
はわたしのものにならないか? なんとかしてそれを
手
て
に
入
い
れなければならない。どうすればよいか?」と
思
おも
ったりします。こういうものに
執着
しゅうちゃく
していて、
入
にゅう
静
せい
できると
思
おも
われますか?
常人
じょうじん
社会
しゃかい
に
来
き
ている
間
あいだ
は、ちょうどホテルに
泊
と
まるようなもので、しばらく
滞在
たいざい
したら、たちまち
去
さ
っていくと
言
い
われます。ところがこんな
場所
ばしょ
に
未練
みれん
がありすぎて、
自分
じぶん
の
家
いえ
を
忘
わす
れてしまっている
人
ひと
がどうしてもいるものです。
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
するには、
心
こころ
に
向
む
かって、
内
うち
に
向
む
かって
修
おさ
め、
内
うち
に
向
む
かって
探
さが
さなければならず、
外
そと
に
向
む
かって
探
さが
してはいけません。
佛
ほとけ
が
心
こころ
の
中
なか
にいる、と
唱
とな
える
法門
ほうもん
もありますが、それも
言
い
い
得
え
ています。しかしこの
言葉
ことば
を
間違
まちが
って
理解
りかい
している
人
ひと
がいるようです。
佛
ほとけ
が
心
こころ
の
中
なか
にいると
聞
き
くと、まるで
自分
じぶん
自身
じしん
が
佛
ほとけ
であるか、あるいは
心
こころ
の
中
なか
に
佛
ほとけ
がいると
思
おも
い
込
こ
んでしまうのです。そういうふうに
理解
りかい
するのは
間違
まちが
っているとは
思
おも
いませんか? どうしてそういうふうに
理解
りかい
できるのでしょうか?
心
こころ
に
向
む
かって
修煉
しゅうれん
してはじめて
成就
じょうじゅ
できる、これこそその
言葉
ことば
のそもそもの
意味
いみ
で、そういう
道理
どうり
です。あなたの
身体
からだ
のどこに
佛
ほとけ
がいるのでしょうか?
修煉
しゅうれん
してはじめて
成就
じょうじゅ
できるのです。
入
にゅう
静
せい
できない
原因
げんいん
は、
思考
しこう
が
空
くう
になっておらず、
次元
じげん
がまだ
低
ひく
いからです。それは
浅
あさ
いところから
徐々
じょじょ
に
深
ふか
まっていくもので、
次元
じげん
の
向上
こうじょう
と
表裏一体
ひょうりいったい
となっているものです。
執着心
しゅうちゃくしん
を
捨
す
てれば、
次元
じげん
も
上
あ
がって、
定力
じょうりき
も
深
ふか
まってきます。
何
なに
かの
手段
しゅだん
や
方法
ほうほう
によって
入静
にゅうせい
しようとすれば、わたしに
言
い
わせれば、それは
外
そと
に
向
む
かって
求
もと
めることになります。そうすれば
煉功
れんこう
はかえって
間違
まちが
った
方向
ほうこう
へ
行
い
き、
邪道
じゃどう
に
入
はい
ってしまい、
外
そと
に
向
む
かって
求
もと
めるということになるのです。
特
とく
に
佛教
ぶっきょう
では、
外
そと
に
向
む
かって
求
もと
めれば、
魔道
まどう
に
入
はい
ると
言
い
われます。
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
は
心
こころ
を
修煉
しゅうれん
しなければならないもので、
心性
しんせい
が
高
たか
まった
時
とき
、
心
こころ
がはじめて
清浄
しょうじょう
、
無為
むい
に
達
たっ
することができます。
心性
しんせい
が
高
たか
まった
時
とき
、はじめてわれわれ
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
に
同化
どうか
し、
人間
にんげん
のあらゆる
欲望
よくぼう
や
執着心
しゅうちゃくしん
、
悪
あ
しきものを
捨
す
てることができ、はじめて
自分
じぶん
自身
じしん
の
良
よ
くないものを
放
ほう
り
出
だ
して
浮
う
かび
上
あ
がってくることができます。
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
の
制約
せいやく
を
受
う
けなくなれば、はじめて
徳
とく
という
物質
ぶっしつ
が
功
こう
に
転化
てんか
することができます。それは
相補
あいおぎな
って
起
お
こる
一体
いったい
関係
かんけい
にあるのではないでしょうか? これが
道理
どうり
なのです!
以上
いじょう
は、
自分
じぶん
を
煉功者
れんこうしゃ
として
律
りっ
することができないために
入静
にゅうせい
できない、
主観
しゅかん
的
てき
な
原因
げんいん
です。しかし
現在
げんざい
では、
客観
きゃっかん
的
てき
にも
高
たか
い
次元
じげん
への
修煉
しゅうれん
を
深刻
しんこく
に
妨
さまた
げ、
煉功者
れんこうしゃ
に
深刻
しんこく
な
影響
えいきょう
を
与
あた
える
原因
げんいん
があります。
皆
みな
さんもご
存
ぞん
じのように、
改革
かいかく
開放
かいほう
、
経済
けいざい
の
活性化
かっせいか
により、
政策
せいさく
も
緩
ゆる
みました。
多
おお
くの
新
あたら
しい
科学
かがく
技術
ぎじゅつ
が
取
と
り
入
い
れられ、
人々
ひとびと
の
暮
く
らしぶりも
良
よ
くなりました。
常人
じょうじん
はみなそれを
良
よ
いことだと
思
おも
っています。しかし
弁証法的
べんしょうほうてき
に
見
み
れば、
物事
ものごと
には
両面
りょうめん
があり、
改革
かいかく
開放
かいほう
とともに
色
いろ
とりどりの
良
よ
くないものも
入
はい
ってきてしまいました。
小説
しょうせつ
の
中
なか
にエロチックなものを
少
すこ
しでも
書
か
き
込
こ
まないと、まるでその
本
ほん
が
売
う
れないみたいにいわれ、
発行部数
はっこうぶすう
が
何
なに
よりも
問題
もんだい
とされています。
映画
えいが
やテレビにベッド・シーンがなければ
見
み
る
人
ひと
がいないかのようであり、
何
なに
よりも
観客
かんきゃく
動員
どういん
数
すう
や
視聴
しちょう
率
りつ
がまず
問
と
われているのです。
美術
びじゅつ
作品
さくひん
は、
本当
ほんとう
に
芸術
げいじゅつ
なのかどうか
疑
うたが
わしい、わけの
分
わ
からないことばかりやっています。
我
わ
が
中国
ちゅうごく
の
悠久
ゆうきゅう
の
民族
みんぞく
芸術
げいじゅつ
にはそういうものはなかったのです。われわれ
中華民族
ちゅうかみんぞく
の
伝統
でんとう
は
誰
だれ
かが
発明
はつめい
したり、
誰
だれ
かが
創造
そうぞう
したものではありません。
先史文化
せんしぶんか
についてお
話
はな
しした
時
とき
に
触
ふ
れたように、すべてのものにその
根源
こんげん
があります。
人類
じんるい
の
道徳
どうとく
基準
きじゅん
まで
歪
ゆが
められてしまい、
大
おお
きく
変化
へんか
し、
善悪
ぜんあく
を
量
はか
る
基準
きじゅん
まで
変
か
わってしまいましたが、それはあくまで
常人
じょうじん
の
中
なか
のことです。これに
対
たい
してこの
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
、
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
の
基準
きじゅん
は、
良
よ
い
人
ひと
悪
わる
い
人
ひと
を
量
はか
る
唯一
ゆいいつ
の
基準
きじゅん
で、
変
か
わるようなものではありません。
煉功者
れんこうしゃ
としてそこから
抜
ぬ
け
出
だ
そうとするには、この
基準
きじゅん
で
量
はか
らなければなりません。
常人
じょうじん
の
基準
きじゅん
で
量
はか
ってはいけません。こんなわけで、
客観
きゃっかん
的
てき
にも
以上
いじょう
のような
妨
さまた
げが
存在
そんざい
しています。いやそれどころか、
同性愛
どうせいあい
、
性
せい
の
解放
かいほう
、
麻薬
まやく
などとんでもないものが
乱
みだ
れに
乱
みだ
れて、
何
なん
でも
現
あら
われてきました。
人類
じんるい
社会
しゃかい
は
今日
こんにち
のようなところまで
来
き
てしまいましたが、
皆
みな
さん
考
かんが
えてみてください。このまま
進
すす
んでいくとどうなるのでしょうか? いつまでもこういう
状態
じょうたい
の
存続
そんぞく
が
許
ゆる
されると
思
おも
われますか?
人間
にんげん
が
治
おさ
めなければ
天
てん
が
治
おさ
めます。
人類
じんるい
はこのような
状態
じょうたい
に
陥
おちい
ると
決
き
まって
劫難
ごうなん
に
見舞
みま
われてきました。ここまでの
何
なん
回
かい
かの
講義
こうぎ
の
中
なか
で、わたしは
人類
じんるい
の
大劫難
だいごうなん
については
触
ふ
れていません。
宗教
しゅうきょう
がそれについて
話
はな
しており、
多
おお
くの
人
ひと
がこのホットな
話題
わだい
を
口
くち
にしています。
皆
みな
さんにはこう
申
もう
し
上
あ
げておきましょう。よく
考
かんが
えてみてください。われわれの
常人
じょうじん
社会
しゃかい
において、
人間
にんげん
の
道徳
どうとく
水準
すいじゅん
がここまで
変
か
わってしまいました!
人
ひと
と
人
ひと
との
間
あいだ
の
緊張
きんちょう
の
度合
どあ
いがここまできてしまったのです! これはきわめて
危険
きけん
な
境地
きょうち
としか
言
い
いようがないのではないでしょうか? だからこそ、この
客観
きゃっかん
的
てき
に
存在
そんざい
している
環境
かんきょう
も、
煉功者
れんこうしゃ
の
高
たか
い
次元
じげん
への
修煉
しゅうれん
を
深刻
しんこく
に
妨
さまた
げています。
裸体
らたい
画
が
が
大通
おおどお
りの
真
ま
ん
中
なか
、すぐそこに
掲
かか
げられており、
目
め
を
上
あ
げればすぐ
見
み
えるのです。
老子
ろうし
はこう
言
い
いました。「
上士
じょうし
、
道
どう
を
聞
き
けば、
勤
つと
めて
之
これ
を
行
おこ
なう」。
上士
じょうし
は
道
どう
を
聞
き
くと、やっとのことで
正法
しょうぼう
を
得
え
たので、
今日
きょう
からさっそく
修煉
しゅうれん
しないでさらにいつを
待
ま
とうとするのか、と
思
おも
うのです。
複雑
ふくざつ
な
環境
かんきょう
は、わたしは
逆
ぎゃく
に
良
よ
いことだと
思
おも
います。
複雑
ふくざつ
であればあるほど、その
中
なか
から
高人
こうじん
が
現
あら
われてくるのです。こういうところから
抜
ぬ
け
出
だ
せるようでしたら、その
人
ひと
の
修煉
しゅうれん
は
最
もっと
もしっかりしたものといえます。
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
を
決意
けつい
できた
人
ひと
なら、わたしはかえってそれが
良
よ
いことであると
言
い
います。トラブルがなければ、
心性
しんせい
を
高
たか
める
機会
きかい
を
与
あた
えられなければ、あなたは
向上
こうじょう
していけないものです。
和気藹々
わきあいあい
としていてどうして
修煉
しゅうれん
できるでしょうか? ところで
一般
いっぱん
の
修煉者
しゅうれんしゃ
の
場合
ばあい
、つまり「
中士
ちゅうし
、
道
どう
を
聞
き
く」に
属
ぞく
するもので、
別
べつ
に
修煉
しゅうれん
してもしなくてもいいという
人
ひと
の
場合
ばあい
は、
難
むずか
しいことになります。
人
ひと
によっては、この
場
ば
では
師
し
の
言
い
うことを
聞
き
いてなるほどと
思
おも
いますが、
常人
じょうじん
社会
しゃかい
に
戻
もど
ってしまうと、やはり
現実
げんじつ
的
てき
な
利益
りえき
こそ
確実
かくじつ
なものだと
思
おも
うようになります。
確
たし
かにそれは
確実
かくじつ
なものかも
知
し
れません。しかしあなたはもちろんのこと、
西側
にしがわ
先進
せんしん
国
こく
の
多
おお
くの
大金持
おおがねも
ち、
財産
ざいさん
家
か
でも、
死後
しご
は
何
なに
も
残
のこ
らないことを
嘆
なげ
くしかありません。
物質
ぶっしつ
的
てき
な
財産
ざいさん
は、
生
う
まれて
来
く
る
時
とき
に
持
も
って
来
こ
られるものでも、
死
し
ぬ
時
とき
に
持
も
って
行
い
けるものでもなく、とても
空
むな
しいものです。それに
対
たい
してなぜ
功
こう
は
実
じつ
に
貴重
きちょう
なのでしょうか? それは
直接
ちょくせつ
あなたの
元神
げんしん
の
身
み
についているので、
生
う
まれる
時
とき
に
持
も
って
来
こ
られるし、
死
し
ぬ
時
とき
に
持
も
って
行
い
けるからです。われわれは
元神
げんしん
が
不滅
ふめつ
だと
言
い
っていますが、これは
別
べつ
に
迷信
めいしん
でもなんでもありません。われわれのこの
物質
ぶっしつ
身体
しんたい
の
細胞
さいぼう
が
抜
ぬ
け
落
お
ちてからも、
他
た
の
物質
ぶっしつ
空間
くうかん
におけるさらに
小
ちい
さい
分子
ぶんし
成分
せいぶん
が
死滅
しめつ
したわけではなく、
殻
から
を
抜
ぬ
け
出
だ
したに
過
す
ぎません。
わたしが
先
さき
ほどからお
話
はな
ししてきたことは、みな
人
ひと
の
心性
しんせい
の
問題
もんだい
に
属
ぞく
します。
東方
とうほう
中国
ちゅうごく
という
土地
とち
は、
大徳
だいとく
の
士
し
の
現
あら
われるところである、と
釈迦牟尼
しゃかむに
は
話
はな
したことがあり、
達磨
だるま
も
話
はな
したことがあります。
我
わ
が
中国
ちゅうごく
歴代
れきだい
の
大勢
おおぜい
の
僧
そう
や
多
おお
くの
中国人
ちゅうごくじん
はこれを
誇
ほこ
りに
思
おも
っています。
高
たか
い
功
こう
を
修煉
しゅうれん
することができると
思
おも
い
込
こ
み、
多
おお
くの
人
ひと
は
喜
よろこ
んで、やはりわれわれ
中国人
ちゅうごくじん
だ、
中国
ちゅうごく
という
土地
とち
は
大根器
だいこんき
の
人
ひと
、
大徳
だいとく
の
士
し
が
現
あら
われるところだ、といい
気
き
になっています。
実
じつ
は
多
おお
くの
人
ひと
がそのわけ、つまり
中国
ちゅうごく
という
土地
とち
からどうして
大徳
だいとく
の
士
し
が
現
あら
われるのか、どうして
高
たか
い
功
こう
を
修煉
しゅうれん
できるのかを
知
し
りません。
多
おお
くの
人
ひと
は
高
たか
い
次元
じげん
にいる
人
ひと
の
言
い
った
言葉
ことば
の
本当
ほんとう
の
意味
いみ
を
知
し
らず、
高
たか
い
次元
じげん
、
高
たか
い
境地
きょうち
にいる
人
ひと
がどんな
境地
きょうち
にいるのか、
彼
かれ
の
思想
しそう
状態
じょうたい
がどんなところにあるのか、などについて
何
なに
も
知
し
らないのです。どういう
意味
いみ
なのかはともかくとして、
皆
みな
さん
考
かんが
えてみてください。われわれが
言
い
っているように、
最
もっと
も
複雑
ふくざつ
な
人間
にんげん
の
群
む
れ、
最
もっと
も
複雑
ふくざつ
な
環境
かんきょう
においてこそはじめて
高
たか
い
功
こう
を
修煉
しゅうれん
して
得
え
ることができるのです。こういうことなのです。
根
こん
基
き
根基
こんき
は、
他
た
の
空間
くうかん
における
人
ひと
の
身体
からだ
についている
徳
とく
という
物質
ぶっしつ
の
量
りょう
によって
決
き
められるものです。
徳
とく
が
少
すく
なければ
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
が
多
おお
く、
業力場
ごうりきば
が
大
おお
きくなりますが、その
場合
ばあい
は
根基
こんき
が
良
よ
くないことになります。
徳
とく
が
多
おお
ければ
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
が
多
おお
く、
業力場
ごうりきば
が
小
ちい
さくなりますが、その
場合
ばあい
は
根基
こんき
が
良
よ
いということになります。
人
ひと
の
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
と
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
という
二
ふた
つの
物質
ぶっしつ
は、
相互
そうご
に
転化
てんか
することができます。どう
転化
てんか
するのでしょうか?
良
よ
いことをすれば
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
が
生
う
まれるのですから、
人
ひと
が
苦
くる
しみに
耐
た
え、ひどい
目
め
に
遭
あ
わされ、
良
よ
い
行
おこ
ないをすることによって、
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
が
得
え
られるのです。それに
対
たい
して
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
は、
悪事
あくじ
を
働
はたら
き、
良
よ
くない
行
おこ
ないをすることによって
生
う
まれるのであり、それは
業力
ごうりき
です。
両者
りょうしゃ
ともそれぞれにこのような
転化
てんか
の
過程
かてい
がありますが、
同時
どうじ
に、
両者
りょうしゃ
とも
積
つ
み
重
かさ
ねという
一
いち
面
めん
をもっています。それらは
直接
ちょくせつ
元神
げんしん
についてまわるので、
一生涯
いっしょうがい
だけのものではなく、
悠久
ゆうきゅう
の
昔
むかし
から
積
つ
み
重
かさ
なってきたものです。ですから
業
ごう
を
積
つ
む、
徳
とく
を
積
つ
むと
言
い
いますが、
先祖
せんぞ
から
子孫
しそん
へ
積
つ
み
重
かさ
ねることもできます。わたしは、
中国
ちゅうごく
の
昔
むかし
の
人
ひと
あるいは
年配
ねんぱい
の
方
かた
が
言
い
う「
祖先
そせん
が
徳
とく
を
積
つ
む」あるいは「
徳
とく
を
積
つ
む」とか、「
徳
とく
を
欠
か
く」とかいう
言葉
ことば
を
時々
ときどき
思
おも
い
出
だ
しますが、なんとよく
言
い
い
得
え
たことでしょう、まったくその
通
とお
りです。
根基
こんき
が
良
よ
いかどうかは、その
人
ひと
の
悟性
ごせい
の
良
よ
し
悪
あ
しを
決
き
めます。
根基
こんき
の
良
よ
くない
人
ひと
は、
悟性
ごせい
まで
悪
わる
くなってしまうのです。なぜでしょうか?
根基
こんき
の
良
よ
い
人
ひと
には
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
が
多
おお
く、この
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
はわれわれの
宇宙
うちゅう
と
溶
と
け
合
あ
い、
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
の
特性
とくせい
と
隔
へだ
たりなく
溶
と
け
合
あ
えます。そこで
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
が
直接
ちょくせつ
あなたの
身体
からだ
に
反映
はんえい
し、
直接
ちょくせつ
あなたの
身体
からだ
と
通
かよ
い
合
あ
うようになります。これに
対
たい
してこの
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
はちょうどその
反対
はんたい
で、
良
よ
くない
行
おこ
ないをしたために
得
え
たものであり、われわれの
宇宙
うちゅう
特性
とくせい
と
相反
あいはん
し、われわれの
宇宙
うちゅう
特性
とくせい
とは
隔
へだ
たりをもっています。この
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
が
多
おお
くなれば、
人体
じんたい
の
周囲
しゅうい
に
一
ひと
つの
場
ば
が
形成
けいせい
され、
人
ひと
を
囲
かこ
んでしまいます。しかもこの
場
ば
は
大
おお
きければ
大
おお
きいほど
密度
みつど
も
高
たか
く
厚
あつ
くなり、その
人
ひと
の
悟性
ごせい
をますます
悪化
あっか
させることになります。なぜならその
人
ひと
が
宇宙
うちゅう
の
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
という
特性
とくせい
に
触
ふ
れることができなくなったのです。そもそもそれは
良
よ
くない
行
おこ
ないをしたため、
自
みずか
ら
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
を
作
つく
ってしまったからなのです。こういう
人
ひと
に
限
かぎ
ってふつう
修煉
しゅうれん
を
信
しん
じないもので、
悟性
ごせい
が
良
よ
くないだけに、ますます
業力
ごうりき
の
妨
さまた
げを
受
う
けることになります。そこで
苦
くる
しみを
嘗
な
めれば
嘗
な
めるほど、
信
しん
じなくなり、
修煉
しゅうれん
も
難
むずか
しくなるわけです。
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
の
多
おお
い
人
ひと
は
修煉
しゅうれん
はしやすいのです。なぜなら
修煉
しゅうれん
の
過程
かてい
において、
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
に
同化
どうか
し、
心性
しんせい
が
向
こう
上
じょう
しさえすれば、
徳
とく
がそのまま
直接
ちょくせつ
功
こう
に
転化
てんか
されるからです。これに
対
たい
して、
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
の
多
おお
い
人
ひと
は、ちょうど
工場
こうじょう
で
製品
せいひん
を
製造
せいぞう
する
時
とき
に、よけいな
手順
てじゅん
が
一
ひと
つ
増
ふ
えるようなものです。
他
ほか
の
人
ひと
を
既成
きせい
の
材料
ざいりょう
とすれば、
彼
かれ
は
生
なま
の
原料
げんりょう
で、あらためて
一通
ひととお
り
加工
かこう
しなければならず、そういう
過程
かてい
を
経
へ
なければならないのです。したがって
彼
かれ
はまず
苦
くる
しみに
耐
た
え、
業力
ごうりき
を
消
け
して、それを
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
に
転化
てんか
させなければなりません。まず
徳
とく
という
物質
ぶっしつ
を
形成
けいせい
してから、はじめて
高
たか
く
功
こう
を
伸
の
ばすことができるのです。しかし
普通
ふつう
こういう
人
ひと
は、もともと
悟性
ごせい
が
良
よ
くないので、さらに
多
おお
くの
苦痛
くつう
に
遭遇
そうぐう
すると、ますます
信
しん
じなくなり、
耐
た
えられなくなります。ですから
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
の
多
おお
い
人
ひと
は
修煉
しゅうれん
しにくいわけです。
昔
むかし
、
道家
どうけ
やあるいは
一人
ひとり
の
弟子
でし
しかとらない
法門
ほうもん
では、
弟子
でし
が
師
し
を
探
さが
すのではなく、
師
し
が
弟子
でし
を
探
さが
しました。その
場合
ばあい
決
き
め
手
て
となるのは、その
人
ひと
の
身体
からだ
に
持
も
っているこれらのものの
量
りょう
です。
根基
こんき
は
人
ひと
の
悟性
ごせい
を
決
き
めますが、
絶対
ぜったい
的
てき
なものではありません。
根基
こんき
が
良
よ
くない
人
ひと
でも、
家庭
かてい
環境
かんきょう
が
良
よ
く、まわりの
多
おお
くの
人
ひと
が
煉功
れんこう
しており、その
中
なか
には
宗教
しゅうきょう
の
居士
こじ
である
人
ひと
もおり、みな
修煉
しゅうれん
のことを
疑
うたが
いなく
信
しん
じています。こういう
環境
かんきょう
の
中
なか
では、
彼
かれ
も
影響
えいきょう
を
受
う
けて
信
しん
じるようになり、
悟性
ごせい
も
良
よ
くなります。ですから
根基
こんき
も
絶対
ぜったい
的
てき
なものではありません。
逆
ぎゃく
に
一部
いちぶ
の
人
ひと
は
根基
こんき
が
良
よ
いにもかかわらず、
現実
げんじつ
社会
しゃかい
のあの
程度
ていど
の
知識
ちしき
を
詰
つ
め
込
こ
まれて、
特
とく
に
数年
すうねん
前
まえ
まで
行
おこ
なわれていた
何
なん
でも
絶対
ぜったい
化
か
する
思想
しそう
教育
きょういく
方法
ほうほう
によって
視野
しや
が
非常
ひじょう
に
狭
せま
くなり、
自分
じぶん
の
知識
ちしき
の
守備
しゅび
範囲
はんい
を
超
こ
えたものは
一切
いっさい
信
しん
じないようになってしまっているので、
悟性
ごせい
を
甚
はなは
だしく
損
そこ
なわれていることもあります。
一
ひと
つ
例
れい
を
挙
あ
げましょう。わたしはある
講習会
こうしゅうかい
の
開講
かいこう
二日
ふつか
目
め
に、
天目
てんもく
を
開
ひら
くことについて
講義
こうぎ
しました。
参加
さんか
者
しゃ
の
一人
ひとり
に
根基
こんき
の
良
よ
い
人
ひと
がいました。そこでわたしは
一挙
いっきょ
に
彼
かれ
の
天目
てんもく
を
非常
ひじょう
に
高
たか
い
次元
じげん
にまで
開
ひら
いてあげました。すると
彼
かれ
に
他人
たにん
には
見
み
えない
多
おお
くの
光景
こうけい
が
見
み
えました。
彼
かれ
は
人
ひと
にこう
言
い
います。「わたしは
伝法場
でんぽうば
全体
ぜんたい
に
雪
ゆき
が
降
ふ
るように
法輪
ファールン
が
人々
ひとびと
の
身体
からだ
に
落
お
ちてきたのを
見
み
ました。わたしは
見
み
ました。
李
り
先生
せんせい
の
真
しん
の
身体
からだ
を、
李
り
先生
せんせい
の
光輪
こうりん
を、
法輪
ファールン
の
形
かたち
を、おびただしい
法身
ほうしん
を、
李
り
先生
せんせい
が
異
こと
なる
次元
じげん
で
説法
せっぽう
して、
法輪
ファールン
がいかに
学習者
がくしゅうしゃ
たちの
身体
からだ
を
調整
ちょうせい
していたかを、
李
り
先生
せんせい
が
講義
こうぎ
をする
時
とき
に、さまざまな
異
こと
なった
次元
じげん
においても
李
り
先生
せんせい
の
功身
こうしん
が
説法
せっぽう
しており、しかも
天女
てんにょ
が
花
はな
を
散
ち
らしていたのを」などなど。こんなに
美
うつく
しいものが
全部
ぜんぶ
見
み
えたからには、この
人
ひと
の
根基
こんき
はかなり
良
よ
いと
言
い
えます。しかし
彼
かれ
はあれこれ
言
い
ったあと、
最後
さいご
にこう
言
い
ったのです。「
自分
じぶん
はこんなものを
信
しん
じない」。
彼
かれ
が
信
しん
じないというものの
一部
いちぶ
は、
現代
げんだい
科学
かがく
によっても
実証
じっしょう
されており、またかなり
多
おお
くのものが
現代
げんだい
科学
かがく
で
解釈
かいしゃく
できます。そして
一部
いちぶ
のことについては、われわれはすでに
明
あき
らかにしました。
気功
きこう
が
認識
にんしき
しているものは
確
たし
かに
現代
げんだい
科学
かがく
の
認識
にんしき
を
超
こ
えているのであり、この
点
てん
は
間違
まちが
いありません。こうしてみれば、
根基
こんき
は
必
かなら
ずしも
悟性
ごせい
を
左右
さゆう
するものではありません。
悟
ご
「
悟
ご
」とは
何
なん
でしょうか? 「
悟
ご
」はもともと
宗教
しゅうきょう
から
来
き
た
名詞
めいし
です。
佛教
ぶっきょう
では
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
の
佛法
ぶっぽう
に
対
たい
する
理解
りかい
、
認識上
にんしきじょう
の
悟
ご
と、
最終
さいしゅう
的
てき
な
悟
ご
とを
意味
いみ
しており、
慧悟
けいご
を
意味
いみ
しています。しかし
今
いま
や
常人
じょうじん
の
間
あいだ
で
用
もち
いられるようになり、
上司
じょうし
が
何
なに
を
思
おも
っているのかをすぐ
捉
とら
え
理解
りかい
できて、
上司
じょうし
の
前
まえ
では
非常
ひじょう
に
要領
ようりょう
がよい、といった
頭
あたま
が
賢
かしこ
い
人
ひと
を
言
い
うのに
使
つか
うようになりました。
人々
ひとびと
はこれを
悟性
ごせい
が
良
よ
いと
言
い
い、このように
理解
りかい
している
場合
ばあい
が
往々
おうおう
にしてあります。しかし
常人
じょうじん
の
次元
じげん
を
超
こ
え、
少
すこ
し
高
たか
い
次元
じげん
に
立
た
って
見
み
ると、
常人
じょうじん
が
認識
にんしき
しているこのような
理
り
がほとんど
間
ま
違
ちが
っていることに
気
き
づきます。われわれの
言
い
う
悟
ご
は、こういう
悟
ご
と
全然
ぜんぜん
違
ちが
います。
利口
りこう
な
人
ひと
の
場合
ばあい
、
悟性
ごせい
がかえって
良
よ
くありません。
賢
かしこ
すぎる
人
ひと
は、
人
ひと
目
め
につくような
仕事
しごと
にたけているので、
上司
じょうし
、
上役
うわやく
から
褒
ほ
められます。しかし
実際
じっさい
の
仕事
しごと
は
他人
たにん
がやらなければならないのではないでしょうか? そこで
彼
かれ
は
人
ひと
に
借
か
りを
作
つく
ってしまいます。
利口
りこう
で、
要領
ようりょう
がいいので、たくさん
利益
りえき
を
手
て
に
入
い
れますが、
他
ほか
の
人
ひと
はそれだけ
多
おお
くの
不利益
ふりえき
を
蒙
こうむ
らなければなりません。
利口
りこう
なので、
損
そん
をするようなことはしませんし、
不利益
ふりえき
を
蒙
こうむ
ることもめったにありません。そこで
他
ほか
の
人
ひと
が
不利益
ふりえき
を
蒙
こうむ
る
羽目
はめ
になります。
現実
げんじつ
の
利益
りえき
を
重
おも
く
見
み
れば
見
み
るほど、
彼
かれ
の
心
こころ
はますます
狭
せま
くなり、
常人
じょうじん
の
物質
ぶっしつ
的
てき
利益
りえき
を
何
なに
よりも
大事
だいじ
だと
思
おも
えば
思
おも
うほど、
彼
かれ
は
自分
じぶん
こそ
現実
げんじつ
を
重視
じゅうし
する
人間
にんげん
だと
思
おも
い、ますます
損
そん
をしない
人間
にんげん
になります。
こういう
人
ひと
を
羨
うらや
ましがる
人
ひと
もいます!
羨
うらや
ましがらないほうがよいと
忠告
ちゅうこく
しておきましょう。あなた
方
がた
には
分
わ
かりませんが、
彼
かれ
にとっては
生
い
きていることがどんなに
疲
つか
れることでしょうか。
食事
しょくじ
もおいしくなければ、ぐっすり
眠
ねむ
ることもできず、
夢
ゆめ
の
中
なか
でさえ
自分
じぶん
の
利益
りえき
が
損
そん
を
蒙
こうむ
ることを
恐
おそ
れていなくてはなりません。
個人
こじん
の
利益
りえき
に
関
かん
しては、
彼
かれ
はどんな
些細
ささい
なことも
気
き
になるので、
生
い
きているのが
実
じつ
にたいへんです。
彼
かれ
は
一生
いっしょう
ただそのために
生
い
きています。われわれは、トラブルに
直面
ちょくめん
した
時
とき
、
一歩
いっぽ
引
ひ
き
下
さ
がれば
世界
せかい
が
広々
ひろびろ
と
開
ひら
けると
言
い
っています。
間違
まちが
いなく
違
ちが
った
世界
せかい
が
現
あら
われるのです。しかし
決
けっ
して
引
ひ
き
下
さ
がったり
譲
ゆず
ったりしない
彼
かれ
のような
人
ひと
は、いちばん
辛
つら
い
生
い
き
方
かた
をしているのです。ですから、あなたは
絶対
ぜったい
彼
かれ
に
学
まな
ばないようにしてください。
修煉界
しゅうれんかい
では、こういう
人
ひと
が
最
もっと
も
頑迷
がんめい
で、
物質
ぶっしつ
的
てき
利益
りえき
のために
常人
じょうじん
の
中
なか
にすっかり
溺
おぼ
れてしまっている、という
言
い
い
方
かた
をします。
彼
かれ
に
徳
とく
を
守
まも
らせようと
思
おも
っても、
無理
むり
な
話
はなし
です!
煉功
れんこう
を
勧
すす
めても、
信
しん
じてもらえません。「
煉功
れんこう
だって?
君
きみ
たち
煉功
れんこう
する
人
ひと
は、
他人
たにん
から
殴
なぐ
られても
殴
なぐ
り
返
かえ
さず、
罵
ののし
られてもやり
返
かえ
さず、
人
ひと
にいじめられても、
心
こころ
の
中
なか
でその
人
ひと
に
同
おな
じ
仕打
しう
ちを
返
かえ
そうと
思
おも
ってはならず、
逆
ぎゃく
にその
人
ひと
に
感謝
かんしゃ
しなければならない、なんてことを
言
い
っているが、
君
きみ
たちはみんな
阿Q
アキュー
だ! みんな
頭
あたま
がおかしいのだ!」と
言
い
うのです。こういう
人
ひと
には、
修煉
しゅうれん
を
理解
りかい
することは
不可能
ふかのう
です。
彼
かれ
は
逆
ぎゃく
に
君
きみ
こそ
不可思議
ふかしぎ
だ、
馬鹿
ばか
だと
言
い
います。こういう
人
ひと
は
実
じつ
に
済度
さいど
しにくいものです。
われわれの
言
い
う
悟
ご
は、このような
悟
ご
ではありません。まさにわれわれが
個人
こじん
の
利益
りえき
に
関
かん
しては
薄
うす
のろだと
言
い
われているように、われわれが
意味
いみ
しているのは、ほかならぬそういう
悟
ご
なのです。もちろん
本当
ほんとう
の
薄
うす
のろではなく、われわれはただ
現実
げんじつ
的
てき
利益
りえき
に
無頓着
むとんちゃく
でいるだけで、その
他
ほか
の
面
めん
ではいたって
頭
あたま
がいいのです。
科学
かがく
研究
けんきゅう
のプロジェクトをやっていても、
上司
じょうし
から
任務
にんむ
を
与
あた
えられて、
何
なに
かの
仕事
しごと
に
取
と
り
組
く
んでいても、われわれはいつでも
頭脳明晰
ずのうめいせき
で、
立派
りっぱ
に
仕事
しごと
をなし
遂
と
げます。ただわれわれの
個人
こじん
の
利益
りえき
に
関
かん
しては、
人
ひと
と
人
ひと
とのトラブルや
衝突
しょうとつ
においては、われわれは
無頓着
むとんちゃく
でいるだけです。
誰
だれ
があなたのことを
薄
うす
のろだと
言
い
えるのですか?
誰
だれ
もあなたを
薄
うす
のろとは
言
い
えません。
絶対
ぜったい
にそうです。
本当
ほんとう
の
薄
うす
のろのことですが、それについての
条理
じょうり
は
高
たか
い
次元
じげん
においてはまったく
逆転
ぎゃくてん
しています。
薄
うす
のろは
常人
じょうじん
の
中
なか
で
大
おお
きな
悪事
あくじ
を
働
はたら
くことがなく、
個人
こじん
の
利益
りえき
のために
争
あらそ
ったり
闘
たたか
ったりせず、
名
めい
も
求
もと
めず、
徳
とく
を
失
うしな
うこともありません。
逆
ぎゃく
に
他人
たにん
のほうがみな
彼
かれ
に
徳
とく
を
与
あた
えます。
彼
かれ
を
殴
なぐ
ったり、
罵
ののし
ったりする
時
とき
、みんな
彼
かれ
に
徳
とく
を
与
あた
えます。この
物質
ぶっしつ
こそきわめて
貴重
きちょう
なものです。われわれのこの
宇宙
うちゅう
には、「
失
うしな
わないものは
得
え
られず、
得
え
ようとすれば
失
うしな
わなければならぬ」という
理
り
があります。
人
ひと
は
薄
うす
のろを
見
み
かけると、「こののろま
野郎
やろう
」と
罵
ののし
ったりします。
口
くち
を
開
ひら
いて
罵
ののし
ったら、たちまち
一塊
ひとかたまり
の
徳
とく
が
相手
あいて
に
投
な
げ
渡
わた
されることになります。あなたが
得
とく
をして、
得
え
た
側
がわ
になったのですから、そこで、あなたが
失
うしな
わなければなりません。
人
ひと
が
寄
よ
ってきて、「こののろま
野郎
やろう
」と
一足
ひとあし
蹴
け
ったとします。
一塊
ひとかたまり
の
徳
とく
がまたもや
重々
おもおも
しく
投
な
げかけられてきます。いじめられても
蹴
け
られても
薄
うす
のろはただ
笑
わら
い、どうせ
徳
とく
をいただくのですから、
押
お
し
返
かえ
したりはしません。むしろ、どんどん
来
こ
いと
笑
わら
っているのです!
高
たか
い
次元
じげん
の
理
り
に
照
て
らしてみた
時
とき
、
皆
みな
さん
考
かんが
えてみてください。どちらが
賢
かしこ
いのですか?
彼
かれ
こそ
賢
かしこ
いのではありませんか?
彼
かれ
こそ
最
もっと
も
賢
かしこ
いもので、
徳
とく
をちっとも
失
うしな
ったりしません。
徳
とく
を
投
な
げかけられても
全然
ぜんぜん
押
お
し
返
かえ
したりしないで、
全部
ぜんぶ
いただいてしまい、にっこり
笑
わら
いながら
取
と
り
入
い
れるのです。この
世
よ
では
薄
うす
のろでも
来世
らいせ
では
薄
うす
のろではなくなります。
元神
げんしん
が
薄
うす
のろではないのです。
宗教
しゅうきょう
では、
人
ひと
の
徳
とく
が
多
おお
ければ、
来世
らいせ
では
高官
こうかん
になり、
大金持
おおがねも
ちになるといいますが、そういったことはすべてその
人
ひと
の
徳
とく
と
引
ひ
き
替
か
えに
得
え
るものです。
徳
とく
は
直接
ちょくせつ
功
こう
に
演化
えんか
することができる、とわれわれは
説
と
きます。どんなに
高
たか
くまで
修煉
しゅうれん
したにしても、みんなこの
徳
とく
が
演化
えんか
したものではないでしょうか?
徳
とく
は
直接
ちょくせつ
功
こう
に
演化
えんか
することができるのです。
人
ひと
の
次元
じげん
の
高低
こうてい
や
功力
こうりき
の
大小
だいしょう
を
決
き
める
功
こう
は、ほかでもなくこの
物質
ぶっしつ
が
演化
えんか
してできあがったのではないでしょうか? それはたいへん
貴重
きちょう
なものだと
思
おも
いませんか? それは
生
う
まれる
時
とき
について
来
き
ますし、
死
し
ぬ
時
とき
に
持
も
って
行
い
けます。
佛教
ぶっきょう
では、
修煉
しゅうれん
の
高
たか
さは、
果位
かい
に
現
あら
われるのだと
言
い
います。
代償
だいしょう
を
払
はら
えばその
分
ぶん
だけ
得
え
る、こういう
道理
どうり
です。
宗教
しゅうきょう
では、
徳
とく
があれば
来世
らいせ
高官
こうかん
になり、
大金持
おおがねも
ちになると
言
い
っています。
徳
とく
が
少
すく
なければ、
物乞
ものご
いをしてもご
飯
はん
にありつけません。なぜなら
交換
こうかん
しようにも
徳
とく
がないのです。
失
うしな
わなければ
得
え
られないのは
当然
とうぜん
です!
徳
とく
を
全然
ぜんぜん
もっていなければ、
形神
けいしん
全滅
ぜんめつ
するしかなく、
本当
ほんとう
に
死
し
んでしまうのです。
昔
むかし
一人
ひとり
の
気功
きこう
師
し
がいて、
世
よ
に
出
で
たばかりの
頃
ころ
は
次元
じげん
がかなり
高
たか
かったのですが、
後
のち
に
名利
みょうり
に
溺
おぼ
れてしまいました。
彼
かれ
の
師
し
はそこで
彼
かれ
の
副元神
ふくげんしん
をつれて
行
い
きました。
彼
かれ
の
場合
ばあい
は
副元神
ふくげんしん
が
修煉
しゅうれん
していたからです。その
人
ひと
は、
副元神
ふくげんしん
がいた
時
とき
には、
副元神
ふくげんしん
の
支配
しはい
を
受
う
けていたのでした。ひとつ
例
れい
を
挙
あ
げましょう。ある
日
ひ
勤
つと
め
先
さき
が
住宅
じゅうたく
を
配分
はいぶん
することになり、
上司
じょうし
が、
住宅
じゅうたく
事情
じじょう
の
困
こま
っている
人
ひと
はみんな
申
もう
し
出
で
て、
事情
じじょう
を
説明
せつめい
し、どうして
住宅
じゅうたく
が
必要
ひつよう
なのか
申
もう
し
立
た
てるようにと
言
い
いました。それぞれが
自分
じぶん
のことを
申
もう
し
立
た
てたのですが、その
人
ひと
は
黙
だま
って
何
なに
も
言
い
いません。しまいに
上司
じょうし
は、その
人
ひと
が
他
ほか
の
人
ひと
より
困
こま
っていることを
見抜
みぬ
いて、
住宅
じゅうたく
を
彼
かれ
にあてがうべきだと
言
い
いました。
他
ほか
の
人
ひと
は、「それはいけません。
彼
かれ
に
割
わ
り
当
あ
てるべきではなく、わたしがもらうべきです。わたしのほうがこれこれの
事情
じじょう
で
困
こま
っているのだから」と、
言
い
います。すると
彼
かれ
が「ではもっていきなさい」と、
言
い
ったというのです。
常人
じょうじん
から
見
み
れば、この
人
ひと
は
馬鹿
ばか
に
違
ちが
いありません。
彼
かれ
が
煉功者
れんこうしゃ
だと
知
し
っている
人
ひと
がいて、「
君
きみ
たち
煉功者
れんこうしゃ
は
何
なに
も
要
い
らないというのですが、では
要
い
るものは
何
なん
ですか?」と
彼
かれ
に
聞
き
きます。
彼
かれ
は「
他人
たにん
の
要
い
らないものが
要
い
る」と、
答
こた
えました。
実
じつ
のところ
彼
かれ
は
全然
ぜんぜん
馬鹿
ばか
などではなく、かなり
賢
かしこ
いのです。ただ
個人
こじん
の
現実的
げんじつてき
利益
りえき
については、こういうふうに
対処
たいしょ
するのであり、
自然
しぜん
に
任
まか
せることを
重
おも
んじるのです。
他人
たにん
はまた
聞
き
きます。「
現在
げんざい
の
人間
にんげん
に
要
い
らないものがあると
思
おも
いますか?」。
彼
かれ
が
答
こた
えて
言
い
うには、「
地面
じめん
に
転
ころ
がっている
石
いし
ころは
誰
だれ
も
要
い
らないので、わたしはその
石
いし
ころを
拾
ひろ
うことにします」。
常人
じょうじん
はこれを
不可思議
ふかしぎ
だと
思
おも
うでしょうが、
常人
じょうじん
は
煉功者
れんこうしゃ
を
理解
りかい
することができないもので、
理解
りかい
のしようがありません。
思想
しそう
の
境地
きょうち
があまりにも
違
ちが
いすぎ、
次元
じげん
があまりにもかけ
離
はな
れているのです。もちろんその
人
ひと
は、その
石
いし
ころを
拾
ひろ
いには
行
い
きませんが、
彼
かれ
は
常人
じょうじん
が
悟
さと
れない
理
り
を
言
い
い
表
あらわ
したのでした。つまり
自分
じぶん
は
常人
じょうじん
の
中
なか
のものを
求
もと
めない、ということです。その
石
いし
ころについて
言
い
いますと、
皆
みな
さんご
存
ぞん
じのように、
佛教
ぶっきょう
の
経典
きょうてん
に、
極楽世界
ごくらくせかい
の
木
き
も、
大地
だいち
も、
鳥
とり
も、
花
はな
も、
家
いえ
も、みんな
金
きん
でできていて、
佛
ほとけ
の
身体
からだ
でさえぴかぴかと
金色
こんじき
に
光
ひか
っているのだと
書
か
いてあります。そこへ
行
い
くと、
石
いし
ころが
一
ひと
つも
見
み
つかりません。お
金
かね
が
石
いし
ころだと
言
い
われています。
彼
かれ
は
別
べつ
に
石
いし
ころを
運
はこ
んで
行
い
くはずはありませんが、しかしこういう
常人
じょうじん
には
理解
りかい
できない
理
り
を
明
あき
らかにしました。「
常人
じょうじん
には
常人
じょうじん
の
求
もと
めるものがあり、われわれはそれを
求
もと
めない。
常人
じょうじん
にあるものはわれわれはありがたがらない。われわれのもっているものは、
常人
じょうじん
がほしくても
手
て
には
入
はい
らないものだ」と、
煉功者
れんこうしゃ
は
確
たし
かにこう
言
い
うのです。
実
じつ
は、われわれが
先
さき
ほどお
話
はな
しした
悟
ご
は、まだ
修煉
しゅうれん
過程
かてい
における
悟
ご
に
過
す
ぎず、それは
常人
じょうじん
の
中
なか
の
悟
ご
とちょうど
反対
はんたい
になっています。われわれの
本当
ほんとう
に
意味
いみ
する
悟
ご
は、
煉功
れんこう
過程
かてい
における
師
し
の
説
と
いた
法
ほう
、
道家
どうけ
の
師
し
が
説
と
いた
道
どう
、
修煉
しゅうれん
過程
かてい
において
自分
じぶん
が
出会
であ
った
魔難
まなん
を
理解
りかい
できるかどうか、
受
う
け
入
い
れられるかどうか、
自分
じぶん
が
修煉者
しゅうれんしゃ
だと
悟
さと
れるかどうか、
修煉
しゅうれん
過程
かてい
においてこの
法
ほう
に
従
したが
って
実行
じっこう
できるかどうか、ということです。どんなに
話
はな
してあげても
信
しん
じない
人
ひと
がいて、やはり
常人
じょうじん
の
中
なか
にいる
方
ほう
が
何
なに
かにつけて
実質
じっしつ
的
てき
だと
言
い
います。
固有
こゆう
の
観念
かんねん
を
抱
いだ
いて
放
はな
そうとしないので、
信
しん
じることができないのです。ある
人
ひと
の
場合
ばあい
は、
病気
びょうき
治療
ちりょう
のことばかりやりたがっているので、わたしが
気功
きこう
は
病気
びょうき
治療
ちりょう
のためのものでは
全然
ぜんぜん
ないと
言
い
ったら、
彼
かれ
は
反感
はんかん
を
覚
おぼ
えて、それから
何
なに
を
言
い
っても
信
しん
じようとしなくなったのです。
悟性
ごせい
がどうしても
上
あ
がって
来
こ
ない
人
ひと
がおり、わたしのこの
本
ほん
に
勝手
かって
に
線
せん
を
引
ひ
いたり
印
しるし
をつけたりします。われわれの
中
なか
の
天目
てんもく
が
開
ひら
いた
人
ひと
なら
見
み
えますが、この
本
ほん
は
色
いろ
鮮
あざ
やかで、
金色
こんじき
の
光
ひかり
を
放
はな
ち、どの
字
じ
もわたしの
法身
ほうしん
の
姿
すがた
かたちです。わたしがもし
嘘
うそ
を
言
い
っているなら
皆
みな
さんを
騙
だま
していることになりますが、あなたが
一筆
いっぴつ
でも
書
か
いたら
真
ま
っ
黒
くろ
になってしまいます。それでも
勝手
かって
に
書
か
く
勇気
ゆうき
が
本当
ほんとう
にあるとでも
言
い
うのですか? われわれはここで
何
なに
をしているのですか? あなたに
修煉
しゅうれん
を
教
おし
え、
上
うえ
へ
導
みちび
こうとしているのではないでしょうか? こういうことも
考
かんが
えなければなりません。この
本
ほん
はあなたの
修煉
しゅうれん
を
指導
しどう
することができるものです。これほど
貴重
きちょう
なものがほかにありますか?
佛
ほとけ
を
拝
おが
むことは
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
の
役
やく
に
立
た
ちますか? あなたは
非常
ひじょう
に
敬虔
けいけん
で、
佛像
ぶつぞう
に
触
さわ
らないように
気
き
をつけたり、
毎日
まいにち
線香
せんこう
を
立
た
てたりしているようですが、
本当
ほんとう
にあなたの
修煉
しゅうれん
を
指導
しどう
できるこの
大法
ダーファー
をそんなに
汚
けが
していいのですか。
人間
にんげん
の
悟性
ごせい
とは、
修煉
しゅうれん
過程
かてい
において
出現
しゅつげん
するあらゆる
次元
じげん
または
師
し
の
言
い
った
特定
とくてい
のもの、
特定
とくてい
の
法
ほう
に
対
たい
するあなたの
理解
りかい
の
程度
ていど
を
指
さ
しています。しかしこれはまだわれわれの
言
い
う
根本
こんぽん
的
てき
な
悟
ご
ではなく、われわれの
言
い
う
根本
こんぽん
的
てき
な
悟
ご
とは、
命
いのち
のあるかぎり、
修煉
しゅうれん
の
最初
さいしょ
から
絶
た
えず
上
うえ
へ
昇華
しょうか
し、
絶
た
えず
人間
にんげん
の
執着心
しゅうちゃくしん
、さまざまな
欲望
よくぼう
をなくし、
絶
た
えず
功
こう
を
伸
の
ばし、
修煉
しゅうれん
の
最後
さいご
の
一歩
いっぽ
まで
真
ま
っ
直
す
ぐに
進
すす
むことを
言
い
います。
徳
とく
という
物質
ぶっしつ
が
全部
ぜんぶ
功
こう
に
演化
えんか
されて、
師
し
が
段取
だんど
りをしてくれた
修煉
しゅうれん
の
道
みち
の
終点
しゅうてん
までやってくると、その
瞬間
しゅんかん
、
鎖
くさり
がぱっと
全部
ぜんぶ
炸裂
さくれつ
してしまいます。
天目
てんもく
がその
人
ひと
のいる
次元
じげん
の
最高
さいこう
点
てん
に
達
たっ
しましたので、
自分
じぶん
のいる
次元
じげん
の
各
かく
空間
くうかん
の
真相
しんそう
や、
各
かく
時空
じくう
のさまざまな
生命体
せいめいたい
の
存在
そんざい
形式
けいしき
、
各
かく
時空
じくう
における
物質
ぶっしつ
の
存在
そんざい
形式
けいしき
、
宇宙
うちゅう
の
真理
しんり
が
見
み
えてきます。
神通力
じんつうりき
が
大
おお
いに
顕
あらわ
れて、さまざまな
生命体
せいめいたい
と
通
かよ
い
合
あ
うことができます。ここまで
来
く
ると、それはもう
大覚者
だいかくしゃ
ではないでしょうか?
修煉
しゅうれん
して
悟
さと
った
人
ひと
ではないでしょうか?
古代
こだい
インド
語
ご
に
翻訳
ほんやく
すると、
佛
ほとけ
にほかなりません。
われわれの
言
い
うこの
悟
ご
、この
根本
こんぽん
的
てき
な
悟
ご
は、やはり
頓悟
とんご
の
形式
けいしき
に
属
ぞく
します。
頓悟
とんご
とは、この
世
よ
に
生命
せいめい
のあるうちは
鍵
かぎ
をかけられて
修煉
しゅうれん
することです。
自分
じぶん
がどれだけ
高
たか
い
功
こう
を
持
も
っているかを
知
し
らず、
自分
じぶん
が
修煉
しゅうれん
してできあがる
功
こう
がどんな
形態
けいたい
のものなのかも
知
し
らないので、
全然
ぜんぜん
何
なん
の
反応
はんのう
もありません。
自分
じぶん
の
身体
からだ
の
細胞
さいぼう
すらも
鍵
かぎ
をかけられて、
修煉
しゅうれん
してできあがった
功
こう
は
全部
ぜんぶ
閉
と
ざされて、
修煉
しゅうれん
の
最後
さいご
になってはじめて
開
ひら
かれます。これは
大根
だいこん
器
き
の
人
ひと
にしかできないことで、
修煉
しゅうれん
の
間
あいだ
はかなり
辛
つら
いものです。まず
良
よ
い
人
ひと
になろうとするところから
始
はじ
め、ひたすら
自分
じぶん
の
心性
しんせい
を
向上
こうじょう
させ、ひたすら
苦
くる
しみに
耐
た
え、ひたすら
上
うえ
へ
向
む
かって
修煉
しゅうれん
し、ひたすら
心性
しんせい
の
向上
こうじょう
を
求
もと
めますが、
自分
じぶん
の
功
こう
は
見
み
えません。こういう
人
ひと
は
最
もっと
も
修煉
しゅうれん
するのが
難
むずか
しいのです。
大根
だいこん
器
き
の
人
ひと
でなければなりません。
何年
なんねん
修煉
しゅうれん
しても
全然
ぜんぜん
何
なに
も
分
わ
からないのです。
もう
一
ひと
つの
悟
ご
は
漸悟
ぜんご
と
言
い
います。
初
はじ
めから
多
おお
くの
人
ひと
は
法輪
ファールン
が
回
まわ
っているのを
感
かん
じており、
同時
どうじ
にわたしは
皆
みな
さんの
天目
てんもく
を
開
ひら
かせています。
今
いま
はさまざまな
原因
げんいん
により
見
み
えない
人
ひと
も
将来
しょうらい
は
見
み
えるようになり、はっきり
見
み
えなかったのがはっきり
見
み
えるようになり、
使
つか
い
方
かた
が
分
わ
からなかったのが
分
わ
かるようになり、
次元
じげん
は
絶
た
えず
高
たか
まっています。
心性
しんせい
の
向上
こうじょう
と、さまざまな
執着心
しゅうちゃくしん
の
放棄
ほうき
に
従
したが
って、さまざまな
功能
こうのう
も
現
あら
われるようになります。
修煉
しゅうれん
過程
かてい
全体
ぜんたい
の
推移
すいい
、
身体
からだ
の
転化
てんか
過程
かてい
がすべて、あなた
自身
じしん
に
見
み
えて
感
かん
じとれる
状況
じょうきょう
の
下
もと
で、
変化
へんか
します。こうして
最後
さいご
のところまでやってきて、
宇宙
うちゅう
の
真理
しんり
を
完全
かんぜん
に
認識
にんしき
し、
次元
じげん
もあなたが
修煉
しゅうれん
して
到達
とうたつ
すべき
最高
さいこう
点
てん
に
達
たっ
します。
本体
ほんたい
の
変化
へんか
、
功能
こうのう
の
加持
かじ
がみな
一定
いってい
のレベルに
達
たっ
して、
徐々
じょじょ
にこの
目的
もくてき
にたどりつくのです。こういう
悟
ご
は
漸悟
ぜんご
に
属
ぞく
します。この
漸悟
ぜんご
という
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
もけっして
容易
ようい
ではありません。
功能
こうのう
を
持
も
ってしまいますと、
執着心
しゅうちゃくしん
をどうしても
捨
す
てられない
人
ひと
の
場合
ばあい
、ともすると
顕示
けんじ
したがり、
良
よ
くないことをするのに
走
はし
りやすいのです。こうなると
功
こう
が
堕
お
ちてしまい、
無駄
むだ
に
修煉
しゅうれん
したことになり、
最後
さいご
は
駄目
だめ
になってしまいます。
見
み
える
人
ひと
の
場合
ばあい
、
異
こと
なる
次元
じげん
のさまざまな
生命体
せいめいたい
の
顕現
けんげん
が
見
み
えてしまうと、
彼
かれ
らに
引
ひ
っ
張
ぱ
りまわされ、あれこれさせられるかも
知
し
れませんし、
彼
かれ
らがあなたを
弟子
でし
にして、
彼
かれ
らのものを
修煉
しゅうれん
させようとするかも
知
し
れません。しかし
彼
かれ
らはあなたに
正果
しょうか
を
得
え
させることはできません。なぜなら
彼
かれ
ら
自身
じしん
が
正果
しょうか
を
得
え
ていないのですから。
このほかに、
高次元空間
こうじげんくうかん
にいる
人
ひと
はみんな
神
かみ
で、とてつもなく
大
おお
きく
変身
へんしん
したり、
大
おお
いに
神通力
じんつうりき
を
見
み
せたりします。そこであなたは、
心
こころ
がちょっと
歪
ゆが
んだりした
時
とき
には、ふらふらと
彼
かれ
らについて
行
い
くことになりませんか? ついて
行
い
ってしまいますと、いっぺんに
修煉
しゅうれん
が
台
だい
なしになってしまいます。
彼
かれ
らがたとえ
本当
ほんとう
の
佛
ほとけ
、
本当
ほんとう
の
道
どう
であるにしても、あなたは
一
いち
から
修煉
しゅうれん
し
直
なお
さなければなりません。さまざまな
次元
じげん
の
天
てん
にいる
人
ひと
は、みな
神仙
しんせん
ではないでしょうか?
人
ひと
は
修煉
しゅうれん
してきわめて
高
たか
い
次元
じげん
に
達
たっ
し、
目的
もくてき
に
到達
とうたつ
した
時
とき
になって、はじめて
完全
かんぜん
に
抜
ぬ
け
出
だ
すことができます。
普通
ふつう
の
人
ひと
の
目
め
には、あの
神仙
しんせん
は
確
たし
かに
高
たか
くて
大
おお
きい、
力
ちから
もすごいものをもっていると
映
うつ
るかも
知
し
れません。しかし
彼
かれ
らが
必
かなら
ずしも
正果
しょうか
を
得
え
ているとは
限
かぎ
りません。さまざまな
信息
しんそく
に
妨
さまた
げられ、さまざまな
光景
こうけい
に
誘惑
ゆうわく
されている
時
とき
、あなたの
心
こころ
は
動
どう
じないでいられますか? そうなると
天目
てんもく
が
開
ひら
いたまま
修煉
しゅうれん
するのも
難
むずか
しく、
心性
しんせい
がいっそう
制御
せいぎょ
しにくいわけです。しかし
幸
さいわ
いにもわれわれは、
一部
いちぶ
の
人
ひと
には
途中
とちゅう
で
功能
こうのう
を
開
ひら
かせて、
漸悟
ぜんご
状態
じょうたい
に
入
はい
るようにしているのです。
天目
てんもく
は
一人
ひとり
一人
ひとり
に
開
ひら
かせますが、
多
おお
くの
人
ひと
については、
功能
こうのう
を
出現
しゅつげん
させないで、
心性
しんせい
が
徐々
じょじょ
に
徐々
じょじょ
にある
次元
じげん
にまで
高
たか
まってきて、
心
こころ
の
状態
じょうたい
が
安定
あんてい
し、
自分
じぶん
を
制御
せいぎょ
できるようになった
時
とき
に、いっぺんに
炸裂
さくれつ
するようにしてあげます。ある
次元
じげん
に
達
たっ
してから、あなたを
漸悟
ぜんご
の
状態
じょうたい
に
進
すす
ませて、その
時
とき
になれば
比較的
ひかくてき
制御
せいぎょ
しやすく、さまざまな
功
こう
も
現
あら
われたので、
自分
じぶん
で
上
うえ
をめざして
修煉
しゅうれん
すればよいのです。こうして
最後
さいご
になって
完全
かんぜん
に
開
ひら
かれます。われわれの
多
おお
くがこの
部類
ぶるい
に
属
ぞく
しますが、
修煉
しゅうれん
の
途中
とちゅう
でそれらが
現
あら
われるようにしてあげますので、あわてて
見
み
ようとしないようにしてください。
皆
みな
さんは
禅宗
ぜんしゅう
にも
頓
とん
、
漸
ぜん
の
分
わ
け
方
かた
があるのをお
聞
き
きになったことがあるかも
知
し
れません。
禅宗
ぜんしゅう
の
六
ろく
祖
そ
慧能
えのう
は
頓悟
とんご
を
唱
とな
え、
北派
ほくは
の
神秀
しんしゅう
は
漸悟
ぜんご
を
唱
とな
えていました。
彼
かれ
ら
両者
りょうしゃ
は
佛教
ぶっきょう
教義
きょうぎ
のうえで
非常
ひじょう
に
長
なが
い
間
あいだ
互
たが
いに
論争
ろんそう
していました。これは
歴史上
れきしじょう
の
事実
じじつ
ですが、わたしに
言
い
わせれば、
意義
いぎ
がありません。なぜかと
言
い
いますと、
彼
かれ
らが、
修煉
しゅうれん
過程
かてい
における
一
ひと
つの
理
り
に
対
たい
する
認識
にんしき
のことを
言
い
っているに
過
す
ぎないからです。この
理
り
は、たちどころに
認識
にんしき
する
人
ひと
もいれば、
徐々
じょじょ
に
悟
さと
り、
認識
にんしき
する
人
ひと
もいます。どう
悟
さと
ってもいいのではないでしょうか? いっぺんに
認識
にんしき
できれば、それに
越
こ
したことはありませんが、
徐々
じょじょ
に
悟
さと
ってもかまいません。どちらも
悟
さと
ったことになるのではないでしょうか? どちらも
悟
さと
りですから、どちらも
悪
わる
くありません。
大根
だいこん
器
き
の
人
ひと
大根器
だいこんき
の
人
ひと
とは
何
なん
でしょうか?
大根器
だいこんき
の
人
ひと
と、
根基
こんき
の
良
よ
し
悪
あ
しということとはまた
違
ちが
うのです。こういう
大根器
だいこんき
の
人
ひと
は
実
じつ
に
見出
みいだ
し
難
がた
いもので、かなり
長
なが
い
歴史
れきし
を
経
へ
てようやく
一人
ひとり
生
う
まれるか
生
う
まれないかです。
当然
とうぜん
のことながら、
大根器
だいこんき
の
人
ひと
はまず
非常
ひじょう
に
大
おお
きな
徳
とく
を
備
そな
えていなければならず、この
白
しろ
い
物質
ぶっしつ
の
場
ば
が
相当
そうとう
大
おお
きくなければなりません。これは
間違
まちが
いのないところです。
同時
どうじ
に
彼
かれ
は、
苦
く
の
中
なか
の
苦
く
に
耐
た
えられなければならず、
大
おお
きな
忍
にん
の
心
こころ
をもっていなければなりません。
捨
す
てることもでき、
徳
とく
を
守
まも
ることもでき、また
悟性
ごせい
が
良
よ
くなければならない、などなども
必要
ひつよう
です。
苦
く
の
中
なか
の
苦
く
とは
何
なん
でしょうか?
佛教
ぶっきょう
では
人間
にんげん
でいること
自体
じたい
が
苦
く
と
考
かんが
えており、
人間
にんげん
になった
以上
いじょう
苦
く
に
耐
た
えなければなりません。しかし
他
た
のどの
空間
くうかん
の
生命体
せいめいたい
もわれわれ
常人
じょうじん
のような
身体
からだ
がないので、
病気
びょうき
になることはなく、
生
しょう
、
老
ろう
、
病
びょう
、
死
し
の
問題
もんだい
が
存在
そんざい
しておらず、したがってこういう
苦痛
くつう
も
存在
そんざい
していないと
考
かんが
えられています。
他
た
の
空間
くうかん
の
人間
にんげん
は
漂
ただよ
い
浮
う
かび
上
あ
がることができ、
重
おも
さがないので、
非常
ひじょう
に
美
うつく
しくて
妙
たえ
なるものです。
常人
じょうじん
はほかならぬこの
身体
からだ
を
持
も
っているからこそ、さまざまな
問題
もんだい
を
抱
かか
え
込
こ
むようになったのです。
寒
さむ
くても
暑
あつ
くてもいけない、
喉
のど
が
渇
かわ
いてもお
腹
なか
が
空
す
いてもいけない、
疲
つか
れてもいけません。そして
生
しょう
、
老
ろう
、
病
びょう
、
死
し
のこともあり、いずれにしても
安
やす
らかになれません。
ある
新聞
しんぶん
の
記事
きじ
にこんなことが
書
か
いてありました。
唐山
とうざん
地震
じしん
の
時
とき
に
多
おお
くの
人
ひと
が
地震
じしん
で
亡
な
くなりましたが、
救急
きゅうきゅう
治療
ちりょう
で
蘇
よみがえ
った
人
ひと
もいます。こういう
人
ひと
を
対象
たいしょう
に
特殊
とくしゅ
な
社会
しゃかい
調査
ちょうさ
を
行
おこ
ない、「
死
し
にかかっていた
状態
じょうたい
でどんなことを
感
かん
じたのか」と、
尋
たず
ねたところ、
意外
いがい
にもこれらの
人
ひと
はみなある
特殊
とくしゅ
なことに
触
ふ
れ、しかもそれが
一致
いっち
していました。つまり
人
ひと
は
死
し
ぬ
瞬間
しゅんかん
には
怖
こわ
い
感覚
かんかく
がなくて、むしろ
逆
ぎゃく
に
解脱感
げだつかん
を
覚
おぼ
え、
潜在
せんざい
的
てき
な
興奮
こうふん
を
感
かん
じたというのです。
自分
じぶん
は
突然
とつぜん
身体
からだ
の
束縛
そくばく
から
解
と
き
放
はな
され、
軽
かろ
やかに、
非常
ひじょう
に
美妙
びみょう
な
感
かん
じで
漂
ただよ
い
出
だ
したという
人
ひと
もおり、
自分
じぶん
の
身体
からだ
が
見
み
えた
人
ひと
もいます。
他
た
の
空間
くうかん
の
生命体
せいめいたい
を
見
み
た
人
ひと
もいますし、どこそこに
行
い
って
来
き
たという
人
ひと
もいます。すべての
人
ひと
があの
瞬間
しゅんかん
に
解脱感
げだつかん
を
覚
おぼ
え
潜在
せんざい
的
てき
な
興奮
こうふん
を
感
かん
じ、
苦痛
くつう
の
感覚
かんかく
がなかったと
語
かた
っています。
言
い
い
換
か
えれば、われわれ
人間
にんげん
が
肉身
にくしん
を
持
も
っているかぎり、
苦
く
であるにもかかわらず、みんな
一様
いちよう
に
母胎
ぼたい
から
出
で
てきたものなので、それが
苦
く
だと
分
わ
からないだけです。
人間
にんげん
は
苦
く
の
中
なか
の
苦
く
に
耐
た
えなければならない、とわたしは
言
い
いました。
先日
せんじつ
わたしは、
人類
じんるい
のこの
時空
じくう
と、
他
ほか
のさらに
大
おお
きな
時空
じくう
・
空間
くうかん
との
概念
がいねん
が
違
ちが
うとお
話
はな
ししましたが、われわれのこちらの
一刻
いっこく
は
二
に
時間
じかん
ですが、
他
た
の
空間
くうかん
では
一
いち
年
ねん
になります。
人
ひと
がこんなに
辛
つら
い
環境
かんきょう
の
下
もと
でもなお
煉功
れんこう
しているのは、
他
た
の
空間
くうかん
からはえらいと
思
おも
われます。
人
ひと
に
求道
きゅうどう
の
心
こころ
が
芽生
めば
え、
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
い
立
た
つと、
本当
ほんとう
に
大
たい
したものだと
感心
かんしん
されます。こんなに
辛
つら
くても、その
人
ひと
の
本性
ほんしょう
は
失
うしな
われておらず、なおも
修煉
しゅうれん
して
元
もと
に
返
かえ
ろうとしているのですから。なぜ
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
を
無条件
むじょうけん
に
助
たす
けることができるのでしょうか? まさにこういうわけだからです。この
人
ひと
が
常人
じょうじん
の
空間
くうかん
で
一晩
ひとばん
坐禅
ざぜん
を
組
く
んだというと、あちらの
人
ひと
から
見
み
れば、「この
人
ひと
は
大
たい
したものだ。
彼
かれ
はそこで
六
ろく
年
ねん
も
坐
すわ
っているのだ」ということになります。なぜならわれわれの
一刻
いっこく
はあちらの
一
いち
年
ねん
なのですから。われわれ
人類
じんるい
はきわめて
特殊
とくしゅ
な
空間
くうかん
にいるのです。
苦
く
の
中
なか
の
苦
く
に
耐
た
えるとはどういうことでしょうか?
一
いち
例
れい
を
挙
あ
げましょう。ある
日
ひ
、ある
人
ひと
が
勤
つと
め
先
さき
に
出勤
しゅっきん
しました。
勤
つと
め
先
さき
は
景気
けいき
があまり
良
よ
くありません。
仕事
しごと
が
少
すく
ないのに
人
ひと
ばかり
溢
あふ
れるのはまずいので、
改革
かいかく
を
行
おこ
ない、
請負
うけおい
制
せい
を
取
と
り
入
い
れました。
余剰
よじょう
人員
じんいん
はやめなければならないことになります。
彼
かれ
もその
中
なか
の
一人
ひとり
で、
突然
とつぜん
仕事
しごと
を
失
うしな
いました。こういう
時
とき
、
人
ひと
はどんな
気持
きも
ちになるでしょうか? お
金
かね
の
出
で
どころがなくなり、どうやって
暮
く
らしていけるでしょうか? といっても
他
ほか
にこれといった
技能
ぎのう
ももっていません。
彼
かれ
はしょんぼりと
家
いえ
に
戻
もど
ってきました。
家
いえ
についたら、
高齢
こうれい
の
親
おや
が
倒
たお
れています。
病状
びょうじょう
がひどいので
慌
あわ
てふためき、いらいらしながら
急
いそ
いで
病院
びょういん
につれていこうとします。やっとのことで
金
かね
を
借
か
りて
病院
びょういん
に
行
い
きました。その
後
ご
、
親
おや
の
身
み
の
回
まわ
りのものを
用意
ようい
しようと
家
いえ
に
戻
もど
ってくると、
学校
がっこう
の
先生
せんせい
が
来
き
ています。「お
宅
たく
の
息子
むすこ
が
人
ひと
を
殴
なぐ
り、けがをさせたので、
早
はや
く
様子
ようす
を
見
み
に
行
い
ってほしい」とのこと。それも
片付
かたづ
けてやっと
家
いえ
に
戻
もど
り、
坐
すわ
りかけたかと
思
おも
うと、
電話
でんわ
のベルが
鳴
な
りました。
奥
おく
さんが
浮気
うわき
をしていると
聞
き
かされます。もちろん
皆
みな
さんは、こんなことに
出会
であ
うことはありません。
普通
ふつう
の
人
ひと
は、こんな
辛
つら
さには
耐
た
えられないものです。「もう
生
い
きていくのが
嫌
いや
だ。
縄
なわ
を
掛
か
けて
首
くび
を
吊
つ
り、
死
し
んでしまおう!
死
し
ねば
楽
らく
になるだろう!」と、
思
おも
うようになります。わたしが「
人間
にんげん
は
苦
く
の
中
なか
の
苦
く
に
耐
た
えられなければならない」と
言
い
ったのは、もちろん
必
かなら
ずしもこういう
形
かたち
とは
限
かぎ
りません。
人
ひと
と
人
ひと
とのいがみ
合
あ
いや、
心性
しんせい
の
摩擦
まさつ
や、
個人
こじん
の
利益
りえき
の
争
あらそ
いなども、こういうことに
比
くら
べればましだとは
言
い
えません。
多
おお
くの
人
ひと
は
意地
いじ
のために
生
い
きており、
悔
くや
しくて
耐
た
えられなくなると
首
くび
を
吊
つ
ってしまうことさえあります。だからこそわれわれは、こういう
複雑
ふくざつ
な
環境
かんきょう
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
しようとしており、
苦
く
の
中
なか
の
苦
く
に
耐
た
え、かつ
大
おお
きな
忍
にん
の
心
こころ
をもつように
修煉
しゅうれん
しなければならないのです。
大
おお
きな
忍
にん
の
心
こころ
とは
何
なん
でしょうか?
一人
ひとり
の
煉功者
れんこうしゃ
としては、まず
殴
なぐ
られても
殴
なぐ
り
返
かえ
さず、
罵
ののし
られてもやり
返
かえ
さないで、ひたすら
耐
た
えられるようでなければなりません。でなければどうして
煉功者
れんこうしゃ
と
言
い
えましょうか? 「そんな
忍
にん
は
実行
じっこう
するのが
難
むずか
しい。わたしはかんしゃく
持
も
ちだから」と
言
い
う
人
ひと
がいます。
自分
じぶん
でかんしゃく
持
も
ちだと
分
わ
かれば、
改
あらた
めればいいではありませんか。
煉功者
れんこうしゃ
は
絶対
ぜったい
に
耐
た
えられなければなりません。
子供
こども
をしつける
時
とき
にも、ひどく
怒
おこ
り、かんかんになる
人
ひと
がいますが、しつけはそこまでしなくてもいいはずで、
本気
ほんき
で
怒
おこ
ったりせず、
理性
りせい
的
てき
に
教育
きょういく
して、はじめて
本当
ほんとう
に
良
よ
い
子供
こども
を
育
そだ
てることができます。
小
ちい
さなことも
乗
の
り
越
こ
えられず、かんしゃくを
起
お
こしたりしていて、
功
こう
を
伸
の
ばせるとでも
思
おも
っているのですか。「
街
まち
を
歩
ある
いていて
不意
ふい
に
誰
だれ
かに
蹴
け
られた
時
とき
、まわりに
知
し
っている
人
ひと
がいなければ
我慢
がまん
できる」と
言
い
う
人
ひと
がいます。それではまだ
不十分
ふじゅうぶん
だ、とわたしは
言
い
いたいのです。あなたが
最
もっと
も
面子
メンツ
を
失
うしな
いたくない
人
ひと
の
前
まえ
で、
誰
だれ
かがあなたに
平手打
ひらてう
ちを
食
く
らわして、
恥
はじ
をかかすようなことが
将来
しょうらい
起
お
きるかも
知
し
れません。
果
はた
してあなたはそれにどう
対処
たいしょ
しますか。
果
はた
して
耐
た
えられるかどうか。
一応
いちおう
は
耐
た
えられたとしても、
内心
ないしん
では
落
お
ちつかないようでしたら、それでも
駄目
だめ
です。
皆
みな
さんもご
存
ぞん
じのように、
羅漢
らかん
の
次元
じげん
に
達
たっ
すると、どんなことに
遭遇
そうぐう
しても
心
こころ
にかけず、
常人
じょうじん
の
中
なか
のどんなことも
全然
ぜんぜん
気
き
にとめず、
常
つね
ににこにこしています。どんなに
大
おお
きな
損
そん
をしてもにこにこして
平然
へいぜん
と
笑
わら
っています。
本当
ほんとう
にそれができれば、あなたはもう
羅漢
らかん
の
初級
しょきゅう
果位
かい
に
達
たっ
していることになります。
「
忍
にん
の
心
こころ
でそこまでしなければいけないようでしたら、
常人
じょうじん
からあまりにもひ
弱
よわ
で
女々
めめ
しく、あまりにもいじめられやすい
奴
やつ
と
見
み
られるだろう」と、
言
い
う
人
ひと
がいます。わたしに
言
い
わせればそれはひ
弱
よわ
でも
女々
めめ
しくもありません。
皆
みな
さん
考
かんが
えてみてください。
常人
じょうじん
でも
年配
ねんぱい
の
人
ひと
、
教養
きょうよう
レベルの
高
たか
い
人
ひと
は、
品格
ひんかく
を
重
おも
んじ、
他人
たにん
と
同
おな
じように
争
あらそ
わないよう
心
こころ
がけています。ましてわれわれは
煉功者
れんこうしゃ
ですから、そういう
振舞
ふるま
いはどうして、
女々
めめ
しいと
言
い
えますか? わたしに
言
い
わせれば、それは
大
おお
きな
忍
にん
の
心
こころ
の
現
あら
われ、
強靭
きょうじん
な
意志
いし
の
現
あら
われで、
煉功者
れんこうしゃ
だけしかそういう
大
おお
きな
忍
にん
の
心
こころ
がもてません。「
匹夫
ひっぷ
が
辱
はずかし
められると、
剣
けん
を
抜
ぬ
いて
相
あい
闘
たたか
う」という
言葉
ことば
があります。
常人
じょうじん
にとっては
当然
とうぜん
のことで、
罵
ののし
られればやり
返
かえ
し、
殴
なぐ
られたら
殴
なぐ
り
返
かえ
します。そういう
人
ひと
は
常人
じょうじん
としか
言
い
いようがなく、どうして
煉功者
れんこうしゃ
と
言
い
えるでしょうか?
一人
ひとり
の
修煉者
しゅうれんしゃ
として、あなたがもし
強靭
きょうじん
な
意志
いし
をもたなければ、
自分
じぶん
を
制御
せいぎょ
できなくなり、ここまで
達
たっ
するのはなかなか
難
むずか
しいのです。
皆
みな
さんもご
存
ぞん
じのように、
古代
こだい
に
韓信
かんしん
という
人
ひと
がいました。
非常
ひじょう
に
才能
さいのう
のある
人
ひと
といわれて、
劉邦
りゅうほう
の
大将軍
だいしょうぐん
をつとめ、
国
くに
の
棟梁
とうりょう
でした。なぜ
彼
かれ
はあんな
大
おお
きなことができたのでしょうか?
実
じつ
はこの
韓信
かんしん
は
小
ちい
さい
時
とき
から
並
な
みの
人
ひと
ではありませんでした。
韓信
かんしん
が
股
また
くぐりで
辱
はずかし
められたという
典故
てんこ
があります。
韓信
かんしん
は
少年
しょうねん
時代
じだい
から
武術
ぶじゅつ
をたしなみ、
武術者
ぶじゅつしゃ
としていつも
剣
けん
をさげていました。ある
日
ひ
街
まち
を
歩
ある
いていると、ならず
者
もの
が
仁王立
におうだ
ちして
道
みち
をふさぎ、こう
言
い
います。「お
前
まえ
は
剣
けん
をさげているが
何
なに
をするのか。
人
ひと
を
殺
ころ
すだけの
勇気
ゆうき
があるのか。
殺
ころ
せるものなら、
俺
おれ
の
首
くび
を
切
き
り
落
お
としてみろ」。そう
言
い
いながら
首
くび
を
突
つ
き
出
だ
してきます。
韓信
かんしん
は、お
前
まえ
などの
首
くび
を
切
き
り
落
お
として
何
なに
になるものかと
思
おも
いました。
当時
とうじ
でも
人
ひと
を
殺
ころ
せば
通報
つうほう
されて、
命
いのち
で
償
つぐな
わなければならず、
勝手
かって
に
人
ひと
を
殺
ころ
すなどできません。ならず
者
もの
は
韓信
かんしん
に
殺
ころ
す
勇気
ゆうき
がないと
見
み
て、「
俺
おれ
を
殺
ころ
す
勇気
ゆうき
がなければ、
俺
おれ
の
股下
またした
をくぐって
行
い
け」と、
言
い
いました。
韓信
かんしん
は
本当
ほんとう
にその
股下
またした
をくぐりました。これは
韓信
かんしん
が
絶大
ぜつだい
な
忍
にん
の
心
こころ
をもっていることを
物語
ものがた
っており、
普通
ふつう
の
常人
じょうじん
とは
違
ちが
っていたからこそ、こんな
大
おお
きなことができたわけです。
意地
いじ
を
張
は
る、というのは
常人
じょうじん
のいう
言葉
ことば
で、この
意地
いじ
で
生
い
きていくというのは、
皆
みな
さん
考
かんが
えてごらんなさい、
実
じつ
に
大変
たいへん
ではありませんか?
辛
つら
いことではありませんか? そうする
価値
かち
がありますか?
韓信
かんしん
はなんといっても
常人
じょうじん
であるのに
対
たい
して、われわれは
修煉者
しゅうれんしゃ
で、われわれは
彼
かれ
よりもずっと
上
うえ
です。われわれの
目標
もくひょう
は、
常人
じょうじん
を
超
こ
える
次元
じげん
に
達
たっ
し、さらに
高
たか
い
次元
じげん
に
向
む
かって
邁進
まいしん
することです。そのようなことにわれわれが
遭遇
そうぐう
することはありませんが、しかし
修煉者
しゅうれんしゃ
も
常人
じょうじん
の
中
なか
で
屈辱
くつじょく
を
受
う
け、
辱
はずかし
められたりすることはあり、その
方
ほう
が
楽
らく
だとも
言
い
えません。
人
ひと
と
人
ひと
との
心性
しんせい
の
摩擦
まさつ
も、わたしに
言
い
わせれば、
決
けっ
してましだとは
言
い
えません。
勝
まさ
るとも
劣
おと
らず、やはりなかなか
難
むずか
しいことなのです。
ところで、
修煉者
しゅうれんしゃ
は、
捨
す
てることもできなければなりません。
常人
じょうじん
の
中
なか
のさまざまな
執着
しゅうちゃく
、さまざまな
欲望
よくぼう
を
捨
す
てなければならないのです。いっぺんにできなくても、
徐々
じょじょ
にできるようになるのです。
今日
きょう
いっぺんにできるようなら、あなたは
今日
きょう
にでも
佛
ほとけ
になります。もっとも
修煉
しゅうれん
は
徐々
じょじょ
にするものだとはいえ、だからといって
自分
じぶん
自身
じしん
を
緩
ゆる
めてはいけません。
先生
せんせい
が
修煉
しゅうれん
は
徐々
じょじょ
にするものだと
教
おし
えているから、ゆっくりやろう、などと
言
い
ってはいけません!
自分
じぶん
を
厳
きび
しく
律
りっ
するべきです。
佛法
ぶっぽう
修煉
しゅうれん
においては
勇猛
ゆうもう
邁進
まいしん
しなければなりません。
また
徳
とく
を
守
まも
ることができるというのも
大事
だいじ
であり、
心性
しんせい
を
守
まも
って、
妄
みだ
りに
行動
こうどう
しないようにしなければなりません。
何
なん
でも
気分
きぶん
次第
しだい
で
動
うご
いてはいけません。
自分
じぶん
の
心性
しんせい
を
守
まも
らなければなりません。
常人
じょうじん
の
間
あいだ
ではよく「
良
よ
い
行
おこ
ないをして
徳
とく
を
積
つ
む」という
言葉
ことば
が
聞
き
かれます。
煉功者
れんこうしゃ
は
徳
とく
を
積
つ
むことをめざすのではなく、
徳
とく
を
守
まも
ることを
重
おも
んじます。なぜ
徳
とく
を
守
まも
ることを
重
おも
んじるのでしょうか? われわれはこういう
状況
じょうきょう
を
見
み
ています。つまり、
徳
とく
を
積
つ
むというのは
常人
じょうじん
の
言
い
うことで、
徳
とく
を
積
つ
み、
善行
ぜんこう
を
重
かさ
ねれば、
来世
らいせ
は
良
よ
い
応報
おうほう
を
得
え
ると
考
かんが
えられているのです。しかし、われわれにとってはこういう
問題
もんだい
は
存在
そんざい
していません。
修煉
しゅうれん
して
成就
じょうじゅ
すれば、
来世
らいせ
ということがなくなるのです。われわれがここで
徳
とく
を
守
まも
ると
言
い
っているのは、もう
一
ひと
つの
意味
いみ
があります。つまりわれわれの
身体
からだ
についている
二
ふた
つの
物質
ぶっしつ
は、
一世一代
いっせいちだい
で
積
つ
み
重
かさ
ねられたものではなく、
悠久
ゆうきゅう
の
昔
むかし
から
伝
つた
えられてきたのです。たとえ
自転車
じてんしゃ
に
乗
の
って
町中
まちじゅう
を
走
はし
り
回
まわ
ってみても、
良
よ
い
行
おこ
ないをする
機会
きかい
に
出会
であ
えるとは
限
かぎ
らないのです。
毎日
まいにち
そんなことをしても
出会
であ
える
保証
ほしょう
はありません。
それにもう
一
ひと
つの
意味
いみ
があります。
徳
とく
を
積
つ
もうとすると、あなたから
見
み
て
良
よ
いと
思
おも
ったことでも、やってみると、
悪
わる
いことだったと
分
わ
かるかも
知
し
れません。
逆
ぎゃく
に
悪
わる
いことと
思
おも
っていたのに、かかわってみると、
良
よ
いことだったと
分
わ
かるかも
知
し
れません。なぜでしょうか? あなたにはその
中
なか
の
因縁
いんねん
関係
かんけい
が
見
み
えないからです。
法律
ほうりつ
は
常人
じょうじん
の
中
なか
のことを
相手
あいて
にしており、それはそれなりに
問題
もんだい
ありません。しかし
煉功者
れんこうしゃ
は
超常的
ちょうじょうてき
なので、
一人
ひとり
の
超常的
ちょうじょうてき
な
人間
にんげん
として、
超常的
ちょうじょうてき
な
理
り
で
自分
じぶん
を
律
りっ
しなければならず、
常人
じょうじん
の
理
り
で
量
はか
ってはいけないのです。その
因縁
いんねん
関係
かんけい
が
分
わ
からなければ、ものごとを
取
と
り
違
ちが
えてしまいやすいのです。ですからわれわれはむしろ
無為
むい
を
重
おも
んじます。したいことを
何
なん
でもするわけにはいかないのです。「わたしはどうしても
悪人
あくにん
の
取
と
り
締
し
まりをやりたい」と
言
い
う
人
ひと
がいます。そういう
人
ひと
はいっそのこと
警察官
けいさつかん
になればいいかも
知
し
れません。といっても、
殺人
さつじん
や
放火
ほうか
事件
じけん
に
出
で
遭
あ
っても
見
み
て
見
み
ぬふりをするようになどと
言
い
っているわけではありません。よくお
話
はな
ししているように、
人
ひと
と
人
ひと
との
間
あいだ
にトラブルが
起
お
きて、ある
人
ひと
が
他
ほか
の
人
ひと
を
蹴
け
ったり
殴
なぐ
ったりしている
場合
ばあい
でも、もしかすると
殴
なぐ
られた
人
ひと
が
殴
なぐ
った
人
ひと
に
借
か
りがあったからかも
知
し
れません。
二人
ふたり
の
間
あいだ
はそれで
帳消
ちょうけ
しになるでしょう。あなたが
入
はい
ると、それが
帳消
ちょうけ
しにならず、
次回
じかい
にまわされてまた
一
いち
からやり
直
なお
さなければなりません。つまり、あなたに
因縁
いんねん
関係
かんけい
が
見
み
えなければ、
間
ま
違
ちが
ったことをしやすいし、それによって
徳
とく
を
失
うしな
いやすいのだということです。
常人
じょうじん
が
常人
じょうじん
のことに
口
くち
を
出
だ
すのはかまいません。
彼
かれ
は
常人
じょうじん
の
理
り
で
量
はか
っているのです。あなたは
超常的
ちょうじょうてき
な
理
り
で
量
はか
らなければなりません。
殺人
さつじん
や
放火
ほうか
事件
じけん
を
見
み
て
見
み
ぬふりするのは、
心性
しんせい
の
問題
もんだい
です。そういうことをしながらどうして
自分
じぶん
が
良
よ
い
人
ひと
だと
主張
しゅちょう
することができるでしょうか?
殺人
さつじん
や
放火
ほうか
事件
じけん
にさえ
手
て
をこまねいているとすれば、どんなことならあなたが
手
て
をこまねかないのでしょうか? ただしかし、これらのことはわれわれ
修煉者
しゅうれんしゃ
とあまりかかわりがありません。そういうことを
段取
だんど
りしてあなたに
出会
であ
わせることはまずありません。われわれが
徳
とく
を
守
まも
ると
言
い
っているのはほかでもなく、あなたが
悪
わる
いことをしないようにするためです。あなたはある
種
しゅ
のことをちょっとでもすると
悪
わる
いことをしたことになるかも
知
し
れません。そうなれば、
徳
とく
を
失
うしな
わなければなりません。
徳
とく
を
失
うしな
うと、
次元
じげん
はどうやって
向上
こうじょう
していけますか? どうやって
最終
さいしゅう
目標
もくひょう
に
達
たっ
しますか? こういう
問題
もんだい
があるのです。このこと
以外
いがい
に、
悟性
ごせい
が
良
よ
いことも
大切
たいせつ
です。
根基
こんき
が
良
よ
ければ
悟性
ごせい
も
良
よ
い
可能
かのう
性
せい
がありますが、
環境
かんきょう
によって
影響
えいきょう
されることがあります。
わたしはこうもお
話
はな
ししました。われわれ
一人
ひとり
一人
ひとり
がみんな
内
うち
に
向
む
かって
修
おさ
め、
一人
ひとり
一人
ひとり
がみんな
自分
じぶん
の
心性
しんせい
から
探
さが
すようにし、うまくいかなかった
場合
ばあい
は、
自分
じぶん
に
原因
げんいん
を
探
さが
し、
次回
じかい
はうまくいくように
努力
どりょく
し、
何
なに
をしても
人
ひと
のことをまず
考
かんが
えるようにします。こうすれば、
人類
じんるい
社会
しゃかい
が
良
よ
くなり、
道徳
どうとく
も
回復
かいふく
し、
精神
せいしん
文明
ぶんめい
も
良
よ
くなり、
治安
ちあん
状況
じょうきょう
も
良
よ
くなるはずで、もしかすると
警察
けいさつ
も
要
い
らなくなるかも
知
し
れません。
人
ひと
に
管理
かんり
されるまでもなく、みんなが
自分
じぶん
自身
じしん
を
管理
かんり
して、
自分
じぶん
の
心
こころ
に
向
む
かって
探
さが
すようになれば、どんなに
良
よ
いでしょうか。
皆
みな
さんもご
承知
しょうち
の
通
とお
り、
現在
げんざい
では
法律
ほうりつ
が
徐々
じょじょ
に
健全
けんぜん
化
か
され、
徐々
じょじょ
に
完備
かんび
されてきています。それなのになぜまだ
悪
わる
いことをする
人
ひと
がいるのですか? なぜ
法
ほう
があるのに
従
したが
わないのですか? それはほかでもなく、
人
ひと
の
心
こころ
は
管理
かんり
できにくいもので、
人
ひと
に
見
み
られていないとつい
悪
わる
いことをしてしまうからです。もしみんなが
心
こころ
の
内
うち
に
向
む
かって
修
おさ
めれば、まったく
違
ちが
う
状況
じょうきょう
が
生
しょう
じてきて、あなたがいちいち
義憤
ぎふん
を
感
かん
じたりしなくてもよいようになるのです。
法
ほう
はここまでしかお
話
はな
しできません。さらに
高
たか
いものはあなたが
自分
じぶん
で
修煉
しゅうれん
して
会得
えとく
しなければなりません。
質問
しつもん
の
時間
じかん
に、ますます
具体
ぐたい
的
てき
なことを
尋
たず
ね、
生活上
せいかつじょう
の
問題
もんだい
さえわたしに
解決
かいけつ
を
求
もと
める
人
ひと
がいますが、それではあなた
自身
じしん
は
何
なに
を
修煉
しゅうれん
するのですか!
自分
じぶん
で
修煉
しゅうれん
し、
自分
じぶん
で
悟
さと
らなければなりません。わたしが
全部
ぜんぶ
言
い
ってしまえば、あなたの
修煉
しゅうれん
するものがなくなります。
幸
さいわ
いに
大法
ダーファー
はすでに
世
よ
に
公
おおやけ
にしましたので、
大法
ダーファー
に
基
もと
づいて
実行
じっこう
すればよいのです。
わたしが
法
ほう
を
伝
つた
える
時間
じかん
はそろそろ
終
お
わりに
近
ちか
いと
思
おも
いますので、
皆
みな
さんがこれからさらに
修煉
しゅうれん
するにあたって、
手引
てび
きとなる
法
ほう
を
持
も
つことができるように、
本当
ほんとう
のものを
皆
みな
さんのために
残
のこ
したいと
思
おも
います。
法
ほう
を
伝
つた
える
全
ぜん
過程
かてい
で、わたしは
皆
みな
さんに
対
たい
して、そして
同時
どうじ
に
社会
しゃかい
に
対
たい
して
責任
せきにん
をもつことを
常
つね
に
念頭
ねんとう
においてきました。
実際
じっさい
われわれはこの
原則
げんそく
に
基
もと
づいて
行
おこ
なっているのです。よくやったかどうかは
世論
よろん
が
決
き
めてくれますので、わたしは
言
い
わないことにします。わたしの
願望
がんぼう
は、もっと
多
おお
くの
人
ひと
が
受益
じゅえき
できるように、
真
しん
に
修煉
しゅうれん
したい
人
ひと
が
法
ほう
に
従
したが
って
向上
こうじょう
をめざして
修煉
しゅうれん
できるように、
大法
ダーファー
を
世
よ
に
公
おおやけ
にすることです。それに
法
ほう
を
伝
つた
えると
同時
どうじ
に、われわれは
人間
にんげん
としての
心構
こころがま
えについてもお
話
はな
ししましたが、
皆
みな
さんがこの
講習会
こうしゅうかい
を
終
お
えてから、たとえ
大法
ダーファー
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
できなくても、せめて
良
よ
い
人間
にんげん
になられるよう
希望
きぼう
しています。そうすればわれわれの
社会
しゃかい
に
対
たい
して
有益
ゆうえき
になりましょう。
実際
じっさい
あなたはもう
良
よ
い
人間
にんげん
とは
何
なに
かを
知
し
っており、
帰
かえ
ってからも、きっと
良
よ
い
人間
にんげん
になることができます。
法
ほう
を
伝
つた
えている
中
なか
で、うまくいかなかった
点
てん
もありますが、さまざまな
方面
ほうめん
からの
妨害
ぼうがい
もかなり
大
おお
きかったのです。
主催
しゅさい
者
しゃ
と
各界
かくかい
の
指導
しどう
者
しゃ
の
力強
ちからづよ
い
後援
こうえん
とスタッフの
皆
みな
さんの
努力
どりょく
のおかげで、われわれの
講習会
こうしゅうかい
は
圓満
えんまん
に
開催
かいさい
できました。
講習会
こうしゅうかい
においてわたしが
話
はな
したこれらのことはすべて、
皆
みな
さんが
高
たか
い
次元
じげん
をめざして
修煉
しゅうれん
することを
指導
しどう
するためのもので、
過去
かこ
の
説法
せっぽう
ではこういうことを
話
はな
した
人
ひと
はいませんでした。われわれの
言
い
っていることは
非常
ひじょう
に
明快
めいかい
であり、
現代
げんだい
科学
かがく
や
現代
げんだい
の
人体
じんたい
科学
かがく
とも
結
むす
びつけてお
話
はな
ししてきましたし、しかも
非常
ひじょう
に
高
たか
い
次元
じげん
のものです。それは
主
おも
に
皆
みな
さんのためで、あなたが
将来
しょうらい
本当
ほんとう
に
法
ほう
を
得
え
、
修煉
しゅうれん
して
向上
こうじょう
できるようにしてあげたい、というのがわたしの
出発
しゅっぱつ
点
てん
でした。われわれが
法
ほう
を
伝
つた
え、
功
こう
を
教
おし
えてきましたが、
多
おお
くの
人
ひと
は、
法
ほう
は
素晴
すば
らしいが
実行
じっこう
するのは
難
むずか
しいと
思
おも
っているようです。わたしは、
難
むずか
しいかどうかは
実
じつ
は
人
ひと
によると
思
おも
います。ごく
普通
ふつう
の
常人
じょうじん
で、
修煉
しゅうれん
したくない
人
ひと
にとっては、
修煉
しゅうれん
はとてつもなく
難
むずか
しく、
不思議
ふしぎ
なもので、
成就
じょうじゅ
などできないと
思
おも
うでしょう。
常人
じょうじん
で、
修煉
しゅうれん
したくない
人
ひと
なら、
非常
ひじょう
に
難
むずか
しいと
思
おも
うのです。
老子
ろうし
はこう
言
い
っています。「
上士
じょうし
、
道
どう
を
聞
き
けば、
勤
つと
めて
之
これ
を
行
おこ
なう。
中士
ちゅうし
、
道
どう
を
聞
き
けば、
存
あ
るが
若
ごと
く、
亡
な
きが
若
ごと
し。
下士
かし
、
道
どう
を
聞
き
けば、
大
おお
いに
之
これ
を
笑
わら
う。
笑
わら
わざれば、
以
も
って
道
どう
と
為
な
すに
足
た
らず」。
法
ほう
はわたしに
言
い
わせれば、
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
しようとする
人
ひと
にとって、
非常
ひじょう
に
易
やさ
しいもので、
高
たか
くて
届
とど
かないようなものではありません。
実際
じっさい
ここにいる
多
おお
くの
古
ふる
い
学習者
がくしゅうしゃ
や
今回
こんかい
は
来
こ
られなかった
古
ふる
い
学習者
がくしゅうしゃ
は、すでにかなり
高
たか
い
次元
じげん
まで
修煉
しゅうれん
しています。わたしがあなたにこれをお
話
はな
ししなかったのは、あなたに
執着心
しゅうちゃくしん
が
生
う
まれたり、いい
気
き
になったりして、それによって、あなたの
功力
こうりき
の
向上
こうじょう
が
影響
えいきょう
を
受
う
けるのを
心配
しんぱい
したからです。
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
を
決意
けつい
した
人
ひと
にとっては、もし
耐
た
えることができ、さまざまな
利益
りえき
を
前
まえ
にして
執着心
しゅうちゃくしん
を
捨
す
て
去
さ
ることができ、そういうものに
淡泊
たんぱく
になれたら、こういうことを
真
しん
に
実行
じっこう
できれば、
難
むずか
しいことは
何
なに
もありません。
難
むずか
しいと
言
い
う
人
ひと
は、こういうものを
捨
す
てられないからにほかなりません。
功法
こうほう
を
修煉
しゅうれん
すること
自体
じたい
はそれほど
難
むずか
しくなく、
次元
じげん
を
向上
こうじょう
させること
自体
じたい
には、それほど
難
むずか
しいところはありません。
人間
にんげん
の
心
こころ
を
捨
す
てられないから、
難
むずか
しいと
言
い
うのです。なぜなら
現実
げんじつ
の
利益
りえき
の
真
ま
っただ
中
なか
で、
心
こころ
を
捨
す
てることは
至難
しなん
だからです。
利益
りえき
がすぐここにある
時
とき
、
心
こころ
をどうして
捨
す
てられるでしょうか?
難
むずか
しいのは、
実際
じっさい
その
点
てん
にほかなりません。
人
ひと
と
人
ひと
との
間
あいだ
にトラブルが
起
お
きた
時
とき
、そこに
居合
いあ
わせたわれわれがどうしても
我慢
がまん
できず、
自分
じぶん
を
煉功者
れんこうしゃ
として
律
りっ
することすらできないようでは、
話
はなし
になりません。わたしがむかし
修煉
しゅうれん
していた
時
とき
、
多
おお
くの
高人
こうじん
がこんなことを
言
い
ってくれました。「
忍
しの
び
難
がた
きは
忍
しの
びうる。
行
おこ
ない
難
がた
きも
行
おこ
ないうる」。
実際
じっさい
その
通
とお
りです。
皆
みな
さんは
帰
かえ
ってからぜひ
試
ため
しにやってみてください。
本当
ほんとう
の
劫難
ごうなん
に
直面
ちょくめん
した
時
とき
、あるいは
関門
かんもん
を
乗
の
り
越
こ
える
時
とき
に、
試
ため
してみてください。
耐
た
え
難
がた
いものを
耐
た
えてみてください。
乗
の
り
越
こ
えられそうもないと
見
み
えても、
行
おこ
ない
難
がた
いと
言
い
われても、
本当
ほんとう
にできるかどうか
試
ため
しにやってみてください。もし
本当
ほんとう
にやり
遂
と
げられれば、きっと「
柳暗
リュウアン
花明
ファミン
又
ユウ
一村
イーチュウン
」というように、
眼前
がんぜん
に
新
あら
たな
世界
せかい
が
開
ひら
けることに
気
き
づくに
違
ちが
いありません!
あまりにも
多
おお
くのことをお
話
はな
ししてきました。あまり
多
おお
く
話
はな
しましたので、
皆
みな
さんは
覚
おぼ
えるのが
難
むずか
しいかも
知
し
れません。そこで
皆
みな
さんに
特
とく
に
一
ひと
つだけ
要望
ようぼう
があります。
皆
みな
さんがこれから
先
さき
の
修煉
しゅうれん
において、
自分
じぶん
を
煉功者
れんこうしゃ
としてあつかい、
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
し
続
つづ
けてほしいということです。
新
あたら
しい
学習者
がくしゅうしゃ
も
古
ふる
い
学習者
がくしゅうしゃ
も、
大法
ダーファー
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
し、みんな
功
こう
成
な
って
圓満成就
えんまんじょうじゅ
できるように
希望
きぼう
します!
皆
みな
さんは
帰
かえ
ってからも
時間
じかん
を
無駄
むだ
にせず、
着実
ちゃくじつ
に
修煉
しゅうれん
するよう
切
せつ
に
希望
きぼう
します。
『
轉法輪
ジュワンファールン
』は、
文章
ぶんしょう
の
表面
ひょうめん
上
じょう
においてきらびやかではありません。
甚
はなは
だしきに
至
いた
っては、
現代
げんだい
の
文法
ぶんぽう
に
符合
ふごう
しないこともあります。しかし、
私
わたし
がもし
現代
げんだい
的
てき
な
文法
ぶんぽう
でこの
大法
ダーファー
の
本
ほん
を
整理
せいり
したなら、
一
ひと
つの
重大
じゅうだい
な
問題
もんだい
が
現
あら
われます。
文章
ぶんしょう
の
言語
げんご
構造
こうぞう
は
規範
きはん
的
てき
で
美
うつく
しくても、さらに
深
ふか
く、さらに
高
たか
い
内涵
ないかん
がありえないのです。それと
言
い
うのも、
現代
げんだい
の
規範
きはん
的
てき
な
語彙
ごい
では、
大法
ダーファー
のさらに
高
たか
い
異
こと
なる
次元
じげん
での
指導
しどう
と
法
ほう
の
各
かく
次元
じげん
での
現
あら
われを
示
しめ
し、
学習者
がくしゅうしゃ
の
本体
ほんたい
と
功
こう
の
演化
えんか
ならびに
向上
こうじょう
のこの
種
しゅ
の
実質
じっしつ
的
てき
な
変化
へんか
をもたらす
術
すべ
が、まるでないからです。
李 洪 志
一九九六年一月五日