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広州での説法 質疑応答

李 洪 志



 法輪大法の録音テープを複製してはならないことについて、少し話します。講習会でこれまで録音は許可しなかったのですが、私が本格的に法を伝え始めてから、録音を許可するようになりました。済南や大連、長春、合肥での幾つかの講習会の講義内容を一つにまとめて、現在既に第三冊目の本である『轉法輪』の印刷を開始しています。これこそ、我々の修煉を指導する最後の本です。私が正式に発行を認めた録音テープを除いて、他のテープの質と効果は見たところ、すべてそれらと比べられないと思います。更に、私の話はよく口語を使っていますが、完成する本は私の整理を経ているので、口語の多くは取り除いています。一部はやはり私の東北の方言を帯びていますが、理解の上で問題が生じやすいので、録音の講法資料から部分的に抽出して写し出さないでください。この本を出版した後は、我々の修煉の拠り処として定めます。間もなく出版できますので、皆さんは総会に連絡して注文してもかまいません。

弟子:既に佛門に帰依した人が、観音経と大悲呪(だいひじゅ)を毎日唱えることはできますか?

師:あなたが佛門に帰依したという話は漠然としています。我々も佛門ですが、あなたは佛教に帰依したと言うべきです。毎日、観音経や大悲呪を唱えることができるかといえば、観音経を唱えるにしても、大悲呪を唱えるにしても、実質宗教の修煉方法に基づいて修めることになります。これはやはり不二法門の問題であり、専一に修煉できるかどうかという問題です。勿論私は、あなたがその法門に帰依して修煉することに反対しません。あなたが修めたいなら存分に修めればよいのですが、ここでは皆さんに専一に修めてほしいのです。その心が捨てきれない人もいますが、その心を捨てきれなければ、ここで苦しく我慢しなくてもよいのです。あなたは心の中でいつも気をもんでいますが、自分で良いと思うものを修めればよいのです。しかし、私はあなたに責任を持たなければならないので、明白に話します。あなたに教えますが、現在の宗教界は浄土ではなく、和尚が自分を済度することさえも非常に難しいのです。真に修める人はとても少なく、勿論真に修める人はまだいますが、いなくなったらすべて駄目になってしまいます。何を修めるかは自分で決めればよいのですが、しかし同時に修めては絶対にいけません。

弟子:他の気功書や、他の気功師が書いた本を保存することができますか?

師:我々は既にこの問題について話したことがあります。どの法門を修め、どの道を選ぶかは自分で決めます。一部の気功師は本当に良い気功師であっても、気功を普及するために出てきて、彼自身は悪いものは持っていないにしても、彼はそれらのものを追い払う力はありません。そのため、彼の場は非常に乱れています。彼は誰をも師と称し、彼らの本の中の信息や、それらのものは非常に乱れているのです。一般的な常人社会のテキストや技術書などは問題ありません。ただし、それらの乱れたものや良くない本は保存することだけでなく、買うこともしてはならず、なおさら見てもいけません。人類社会の道徳に重大な影響を与えるからです。気功書は我々の法門のものでないかぎり、決して保存してはいけません。

弟子:道家が修めるのは副意識ですか、主意識ですか?

師:みな同じです。しかし、主意識を修める人が来た次元は極めて高く、あるいは彼の主意識が極めて特殊でなければ、こうして行なうことはできません。普遍的に伝わっている修煉法は、みな副意識を修煉しています。

弟子:今生の主意識が、来世で副意識になることはありますか?

師:何ともいえません。このような規定はありません。

弟子:両手で結印する時は、腹部との間に隙間を空けますか? 腹部に触れたら駄目でしょうか?

師:これはすべて昨日の講義で話しましたが、あなたはしっかり聞いていませんね。結印する時、手は身体に着け、わずかに触れます。第五式の功法、神通加持法で両手を結印する時、手は足の上に置いてもかまいません。そうしなければ、坐禅する時、両腕は何キロもあるので非常に重く、背筋がそれによって曲がってしまいます。結印する時の手は足の上に置き、重みを軽減させます。

弟子:佛展千手法の「弥勒伸腰」で、伸ばした後すぐに続けて「如来灌頂」になるのですか?

師:そうです。この二つの動作はつながっています。「弥勒伸腰」の後、掌を回して緩めますが、緩めることはつまり「如来灌頂」になります。ただし、灌頂するという意念はまったくありません。気を中へそそぎ込むという概念はなく、自動的な機制が作用を果たします。

弟子:元始天尊、釈迦牟尼佛が修めたのは主意識ですか、それとも副意識ですか?

師:このことに関しては、私は如何なる人、如何なる名前も指して言ってはいけないのです。皆さんに教えますが、昔から伝わってきたものの絶対多数、九十五パーセント以上の功法は、副意識が修煉しています。功法自身がそのように要求しているからです。これは天機なので、昔は決して話してはならないことでした。

弟子:旋機とは何でしょうか?

師:私が言うこの旋機は、昔の中国古代の修道の本に書かれた玄機、つまり玄妙の玄とは違うものです。我々のこの旋機は旋転の旋と機能の機であり、機制の機、機器の機でもあります。旋機とは、旋転する機制という意味です。天体から星まで、星からミクロの物質まで、すべては運動していますが、このような機制を我々は旋機と呼んでいます。

弟子:気功雑誌の表紙に先生の写真がありますが、それにも法身が存在していますか?

師:私の写真にはすべて存在しています。私の写真、私が書いた文章、あるいは印刷した本の中にもあり、印刷物も同じです。これは不思議なことではありません。

弟子:私の頭上に、いつもあるものが旋転していますが?

師:この類いの質問のメモを今後は私に渡さないでください。あなたの身体のあれこれの反応は、もしあなたが煉功者であれば、すべて良いことです。それが旋転していることや、法輪が回っていることもあなたは分かっていますが、私に言わせないと気が済まないのですか。様々な感覚をもう取り上げないでください。何千何万という感覚はあまりにも多いのです。すべて私に聞くなら、あなた自身が悟るものはなくなります。実はすべて良いことですが、今後またあなたは誰に聞きますか?

弟子:『法輪功(改訂版)』を学ぶ時、少し書き写しました。たくさんのページ数があるので、家においていれば、家族に勝手に取られると心配で、どうしたらよいでしょうか?

師:大丈夫です。まとめて保存しておくか、あるいは輔導站に渡して保管してもらい、将来、貧困地域の農民に送ります。

弟子:佛教と佛法、佛学の違いを教えてくださいませんか?

師:佛教の中の法は、佛法の中のほんのわずかな一部分にすぎず、佛法全体を代表することはできません。釈迦牟尼は、修煉方法には八万四千の法門があると言っていますが、佛教の中には十数の法門しかありません。天台宗、華厳宗、浄土宗、禅宗、密教など十数の法門しかありません。これほど厖大な佛法は、決して八万四千法門にとどまりません。現在の宗教がどうして佛法のすべてを概括することができるのでしょうか? それは佛法の中のほんの一部分にすぎません。それは佛法の中のわずかな一部分で、宗教を形成したため佛教と呼ばれるのです。佛学とは、常人の名詞と認識です。

弟子:静功を煉る時、なぜ入静できないのでしょうか?

師:静功を煉る時に入静できない原因は、私たちが常人社会の中で執着している多くのものが妨害しているからです。大法に対する認識が向上するにつれ、執着するものがますます淡泊になり、静功を煉る時、次第に入静できるようになります。あなたが今すべて放棄できたら、次元はとっくに向上し、修煉も相当に高くなったはずです。今少々の雑念があっても大丈夫です。あなたは複雑な常人社会で次第に心性を向上させ、常人が執着するものを放棄するにつれ、徐々に清浄になります。心性も執着心を放棄するとともに次第に向上して、次元も高まり、それは互いに助け合って成り立つものです。その時になれば、あなたは完全に入静することができます。

弟子:神通とは何でしょうか?

師:神通とは、佛家では人体の超常的な功能を神通と呼んでいます。最も低い次元において常人は超能力と呼んでいます。

弟子:加持とは何でしょうか?

師:加持は功を伸ばすことではありません。一塊の功を載せてあげてあなたを高めたり、また一塊の功を載せてあげたりして、あなたの功を高めさせるようなことではありません。功とは、自分の心を修めることによって得るもので、誰かがあなたに載せてあげるものではありません。あなたが信じられなければ、今すぐ私は一つの功柱をあなたに載せてあげ、あなたを一挙に出世間法のレベルに到達させることができます。しかしあなたがこの門を出るとすぐに落ちてしまいます。なぜならその功はあなたのものではなく、あなたの心性の基準がそこに達していないので、載せることはできないのです。というのも、ある特殊な空間の中に、心性の基準の尺度が同時に存在し、それに目盛りがあります。心性がそれほど高く到達しなければ、功柱もそこまで高く達することはできません。昔、功を発するとエネルギーを消耗して、実に惜しいと言う人がいますが、そのように理解してはいけません。なぜならあなたが功を発した時、一定のエネルギーを出して功柱が短くなりますが、あなたの心性の基準がそこにあるため、煉功中に苦を嘗めなくても功はすぐ元通りに補えます。あなたの心性や基準、果位がそこにあるためです。勿論、更に向上しようとするなら、心性を引き続き向上させて、はじめて功が高まります。さもなければ、何をしても無駄です。加持とは、身体を高度に浄化することで、功の中のものの演化を助けるだけです。

弟子:私の運命にたくさんのお金がありますが、これは功の向上とどんな関係があるのでしょうか?

師:何種類かの情況があります。自分の徳と交換することによって求めた福運もあれば、以前から積み重ねてきた人もあり、高い次元から持ってきた人もいます。様々な情況があるので、比較的複雑で、こういった問題を一律に見てはいけません。大きな徳を持っている人は欲しいものを何でも手に入れることができます。なぜなら徳は非常に大切なものだからです。確かにこのような情況です。この徳は功に転化でき、その人の修煉の次元の高低と、果位の大小を決めます。もし、常人社会で福の報いだけを求めるなら、これをもって他の人と金銭や財物に交換することができます。ある人は何をしてもたくさんのお金を儲けられますが、その人の徳が大きいからです。ある人は何をやっても儲からないのは、徳が少ないからかもしれませんが、絶対とは言えません。勿論、一部の人の情況は非常に複雑ですが、私は一般的な規律だけを話しています。徳の少ない人は物乞いをしても、ありつけないかもしれません。人から食べ物をもらう時も、あなたはその人に徳をあげて交換しなければならず、人にあげる徳がなければ、食べ物をもらうこともできないからです。交換は、宇宙の均衡を保つ「失わなければ得られず」という特性が作用を果たしているのです。

弟子:佛像が古くなったら、どのように処理すればよいでしょうか?

師:佛教には規定があるでしょう。保持したくなくなったら、寺院に持っていけばよいのです。

弟子:講義を聴いている時、なぜあれこれとくだらないことを思いめぐらすのでしょうか?

師:精神を集中して聴けばよいのです。主意識を強くしなければならず、実は思想業力が妨害しているのです。

弟子:まだ病気の治療ができますか?

師:もしあなたが病院の医師やマッサージ師であれば、私に言わせればあまり問題ありません。もしあなたが自分でこれをやろうとしたり、この関係の仕事をしたり、あるいは自分で開業するというなら、すべて常人の中のことです。しかし、もしあなたが功を用いて病気治療をしようと考えるなら、これは絶対にいけません! 私がここで伝えているのは、病気治療と健康保持というものではなく、真の修煉です。真の修煉は非常に厳粛な問題です。覚者になろうとするなら、厳しく自分を律することができなければ、そのような不甲斐なさであれば、どうして達成できるでしょうか? これは非常に厳粛なことです。本当に多くの苦を嘗めなければならず、腹を決め大法に従って修めなければなりません。本当に修煉しようと思うなら、こういったことに関わってはいけないと私は思います。

弟子:主意識は人の霊魂なのでしょうか?

師:霊魂という言い方は、非常に漠然としています。一方、人の身体はとても複雑なもので、それが何を指して言っているのかは、非常に不明瞭です。そこで、我々のところでは、昔のような言い方を根本から排除し、完全に現在の人体科学と結び付けて話しているので、非常に明快です。

弟子:時々、気が散りますが?

師:あなたが今、完全に入静に達することができないのは正常なことであり、それは次元が向上する具体的な現れです。もしあなたが本当に入静できるなら、あなたの次元はもう低くありません。

弟子:以前、他の功を学んだことがあります。その中の一部のもの、例えば呪文などですが、時折、脳裏に何げなくぱっと現れてきますが?

師:それをすべて取り除いてしまわなければなりません。これは思想の一般的な業とは違います。必ずそれを取り除かなければなりません。

弟子:どうして悪い思想を取り除くのは難しく、しかも時々それがかえって強くなったと感じるのですか?

師:あなたがそれを取り除こうとしているので、それがあなたの修煉を妨げ、それで反応が起きたのです。非常に強く反応する人もいますが、必ず主意識を強くもって、それを排除しなければなりません。あなたが分別できて考えが動揺しなくなったら、私の法身がそれをきれいに取り除いてあげます。

弟子:私は法輪大法を煉っている者ですが、妹は憑き物を祀っていますが?

師:法輪大法の学習者は何も恐れることはありません。常人でも常に良くないものに遭ったりします。しかしそれはあなたを傷つけたり、邪魔したりはできません。ただしあなたは心が動揺することなく、それらのものを排除しなければなりません。あなたが大法をしっかり修めるなら、私の法身がそれを処理してあげます。

弟子:天目が以前開いていましたが、その後見えなくなりましたが?

師:以前開いて、その後閉じてしまったのには、多くの原因があります。閉じられたものもあり、傷められたものもあります。ただし修煉しているうちにすべて修復しています。開く必要のある時にまた開くので、これを気にせず成り行きにまかせましょう。

弟子:神通加持法を長時間坐れないのですが、どうすればよいでしょうか?

師:要求は煉る時間が長ければ長いほどよいのです。第五式の功法は私が独修した時のもので、少しも変えずに皆さんに伝えました。主な目的は、あなたが高い次元で修煉する時、修める法があり、煉る功があるようにするためです。今あなたが煉るのは難度が高く、それほど長時間坐れません。あなたは時間の長さを調整し、神通加持にどのくらいの時間を使い、入定にどのくらい時間を使うのかを自分で決めてください。そうしてあなたが次第に向上していくにつれ、きっと長時間坐れるようになります。

弟子:とても残念ですが、私は外国に行くため、講習会の最終日に参加できませんが?

師:では今後、本を多く読むようにすれば問題ありません。独学しても圓満できますが、真剣に修煉するかどうかにかかっています。

弟子:どのような人が人の主元神を生むことができるのでしょうか?

師:こういった事に構ってどうするのですか? あなたの心は知識を求めるために使うのか、それとも修煉するために使うのですか? 実は私がすべて話しました。この厖大な宇宙の中の様々な物質が運動することによって、生命を生じさせることができます。人体においては、主元神と副元神に分かれていますが、どちらも生命ではありませんか?

弟子:先生が講義されている時、突然、頭頂にまげを束ね、背が高く、白髪の道士の姿で現れたのが見えましたが?

師:私は下りて来て、この事を行なうために非常に長い時間をかけて準備をし、佛、道、神になったことがあります。見えたなら、見えたまでのことです。

弟子:家で煉功すると、先祖は怖がりますか?

師:あなたは執着が多いですね。今、世にいる両親や子女の生命さえ左右できないのに、世にいない人のことを気にかけてどうするのですか? 正法の修行は誰に対しても良いものをもたらします。私のこの法門は最も便利な法門であり、常人の中で修煉するのです。私は度々強調してきましたが、修煉は厳粛な問題であり、あなたはこれもあれも気にかけ、こちらに対する情も断ち切れず、あちらに対する情も断ち切れません。昔、出家は何を意味していたのでしょうか? 今の和尚はなんとも言えませんが、昔の和尚は出家したら両親さえ認めず、完全に世間の縁と断絶し、名前まで新しく付けました。なぜ法名を付けるのでしょうか? 世の中の一切の欲望を完全に断ち切り、その人に対する如何なる気がかりな事をもなくさなければ、心を静かにして修めることができないからです。修煉というのは厳粛な事で、あなたはこれらのことを考えないで、ただ修煉していくことだけを考えればよいのです。ただし、家の中で先祖を祀ってはいけません。それはあなたに対しても死んだ人に対しても良いことです。人間と鬼が同じ家に住んではいけません。世間の縁は終ったからです。

弟子:法輪大法は、株の売買に対して影響がありますか?

師:(学習者は皆あなたを笑っています)。あなたは賭け事に執着しています。あなたに教えますが、賭け事に負けてビルから飛び降りる人もいます! 株を売買する時の心とはどんなものでしょうか。今の人は善し悪しの分別も付きません。私にマージャンをやってもいいですかと聞く人もいますが、それは賭け事で他人のお金を狙っているのではありませんか? それは賭け事ではありませんか? いずれにしても、私は皆さんにこう言いますが、ここでの講義は常人にいいかげんに聞かせているのではありません。我々は本当の修煉者に対して責任を負い、煉功者に聞かせているのです。もしあなたが社会でどんなことでもやるというなら、やりたいようにやればよいでしょう。それなら修煉する必要はありません。

弟子:私には七歳の息子がいますが、近ごろ、夢の中でいつも先生と一緒に煉功していて、昼間は先生自ら煉功しているのが見えると言っているのに、法輪大法を学びたがりません?

師:それなら、彼が学んだものは何か、見えたものが本物かどうか考えてみてください。正法が広く伝われば、魔は方法を考え尽くして破壊します。本人が修煉しなければ、それは問題があります。

弟子:速い時空の中では人の一生は既に終りましたが、現在、なぜ私たちは修煉を通じて運命まで変えることができるのですか?

師:あなたの主体の生命は終っていないので、それらの空間の時間を反転させることもできます。これは私が講義の中で話すつもりです。ここでついでに皆さんに一つのことを話しますが、人の運命は自分で変えることはできません。如何なる常人もあなたの運命を変えることは不可能で、覚者でさえ無条件にあなたの運命を変えてあげることはできません。人間は自分の生命を左右できず、なおさら他人の生命を左右することは不可能です。働いて大金を稼いで財を成し、家庭を整えて、家族に良い暮しをさせてから、修煉を始めると言う人がいます。これは全くおかしな話です! 人にはそれぞれ運命があるので、肉親であっても、あなたは他人の人生を変えられるはずがありますか? 更に言うと、難が何もかもなくなったら、あなたはどうやって修めますか? 家族にどれくらい大きな業力があるのか、あなたは知っていますか? 彼らがどのように一生を歩むべきか、あなたは左右できるのですか? 左右できません。これは信じられない、多くのお金を稼いで財を成したら、子供に相続させればと思う人がいるかもしれません。私はそうとは限らないと思いますが、天災、人災や火災で財を失くすかもしれません。その人にこのような福運があるかないかによります。このような福運がなければ、何も相続できません。つまりこのような意味です。人にはそれぞれ運命があるので、誰かが人の運命を変えることができるというわけではありません、これはいけません。

 それでは修煉者の一生なら、変えることはできますか? できます。二つの方法で変えることができます。人が修煉の道を歩めば、彼の一生を変えることができます。人が修煉したいと思うこと、これこそ佛性が現れてきたのであり、その人を無条件で助けることができます。しかし、その他の場合、勝手にやってはいけません。なぜなら、あなたの人生の中には修煉ということがないため、変えてあげるためには、それらをすべてご破算にして、按排し直さなければならないからです。これは変えられることです。もう一つの情況は、あまりにも常人のものに執着する人が、不正な手段によって、あるいは何らかの方法で人を害し、もしくは、あなたは人に害を与えることなく、自分の努力などを経て、何らかの事を行なって手に入れたかのように感じているかもしれません。実は、あなたが変えられるものはとても小さなものに限られており、あなたが努力して行なったことは、努力しなければならないことだったかもしれません。あなたがそのように行なわなければ、手に入れることができないので、そのように按排されたのです。しかし、確かに変えられる小さなことはありますが、大きな方向は変えられないものです。ほんの少しでも変えたら、業を造ることになるかもしれません。そうでなければ、人の善し悪しは見分けられません。あなたの運命の中にそのものが按排されていないのに、あなたがどうしても欲しいと思い、不正な手段で手に入れたなら、あなたが得たものは他人のものです。そうすれば、あなたは他人を害し、他人に借りを造ったことになり、すなわち業を造ってしまいます。つまりそういう意味なのです。現世で返せなければ、来世で返すことになります。

弟子:私は心性が低く、他の功を混ぜて練ったので、数日後、法輪がなくなりました。どうしたらいいでしょうか?

師:修煉は厳粛なことで、忠告を聞かずにどうしても他の功を混ぜて練る人がいます。結局、すべて台無しになりました。この法輪と我々のすべての機制は、相当久しい年代、相当長い歴史時期を経て、何代もの人によって形成されたものです! そのようなものは決して常人が形成したものではなく、相当に貴重なもので、数え切れないほどの大覚者がそれによって修煉し、成就しました。あなたは彼を壊してしまい、別の功法を混ぜて練れば、彼を台なしにしてしまいます。少し次元の高いことを教えますが、ある意味から言えば、法輪は一つの宇宙です。彼はあなた自身の生命、あなたの元神よりも何倍貴重なのか分かりません。あなたが勝手にそれを駄目にしてしまいました。皆さん考えてみてください。私はあなたを済度するために、こういうものを持ち出しました。学ぶことができるなら学び、学ばないなら仕方がありません。法輪を変形させた人に、私は安易に再び法輪を与えたりはしません。その人が再び学びたくて、一心に学ぼうとしても、またその人が本気で学びたいかどうか、続けられるかどうかを見なければなりません。本当に学ぶことができるなら、一式の機制を与えることができます。その人は煉ることによって、次第に法輪を形成することができます。

弟子:李先生がもし佛であるなら、すべての法はみな邪なものであると言ってはいけないのではありませんか?

師:学習者の皆さん、すべての法がみな邪なものであると私が言ったことがありますか?(ありません!) この人は憑き物に支配され、何を言っているのか分からなくなりました。主意識がはっきりしない人は済度できません。今は末法時期ですから、非常に乱れています。更に言うと、それらの乱れに乱れた邪道のものを法と称してよいのでしょうか? それらに何の法があるのでしょうか? 法はただ一つで、真・善・忍にほかなりません! 他の正法や正教は、すべて宇宙のそれぞれの次元で実証し悟った理なのです。

弟子:夢の中で心性を守れないのですが、どうしたらよいでしょうか?

師:それはあなた自身の心性が確固ではなく、自分に対する要求がまだ高くないからです。原因は、普段の法を学ぶ基礎がまだ固まっていないからです。真に修め、着実に修めるようにして、はじめてそれらの事を思想の中で重視するようになります。

弟子:講習会に参加したことのない人が、先生の本の要求通りに煉れば、法輪を形成することができますか?

師:皆さんはご存知ですが、私が伝えているのは修煉であり、高い次元の修煉です。決して病気治療や健康保持のものではないので、人に対する要求も高いのです。あなたが煉るとすぐに法輪が得られるわけではありません。あなたがどんなによく、どんなに長い時間をかけて煉っても、我々が要求している心性の基準に従って行なわず、自分に厳しく要求せず、徳を重んぜず、法を学ばなければ、何も得られず、何も形成できません。あなたが我々のこの法の要求に従って行なうなら、何でも得ることができます。独学しても得るべきものは、同じく得られます。得られないものは何もありません。本の中の字はすべて私の法身なので、自分で法輪を形成する必要もなく、あなたは自然に得ることができます。しかも私の法身はあなたを見守ることになります。

弟子:社会において、法輪大法の学習者の前で法輪大法を攻撃する人がいます。私たちはどのように法輪大法を守るべきでしょうか?

師:その人を相手にしなければよいのです。その人と争ったり闘ったりする必要もなく、彼が何を言っても相手にしなければよいのです。相手にせず、聞こうとしなければよいのです。

弟子:法輪大法の弟子は分娩室に入っても構わないでしょうか?

師:それは何の関係がありますか? 一部の質問は非常に幼稚なものです。大法を修煉すると、恐れるものは何もなく、一正が百邪を圧するのです。また、分娩室は邪なところではなく、実際子供にとっても良いことです。

弟子:気功師でなく作家が書いた気功書の中には、憑き物や邪なものがありますか?

師:皆さんにお教えします。彼が作家であれ、またはどのような人であれ、気功師ではなくても、彼らが書いた気功書は、やはり憑き物や邪なものに操られて書いたものです。彼の思想がどこからきたのか、彼は自分で考えたものだと思っています。一部の作家は気功に関する本を書きたいと思い、気功師の功がどこからきたのかを知らないので、偽気功師に尋ねると、やはりこういったものを招いてしまい、書いたものはすべてそれらのものです。今の社会はとても乱れていて、様々な偽気功があります。たとえ本の中に邪なものがなくても、気功師でもない人が書いたもので、修煉できるのでしょうか?

弟子:煉功以外に他の本を探して読んでいます。多くの法門を学びたいと思っているのではなく、主な目的は一部の名詞や専門用語が分からないので、多く読んで理解したいと思っているだけですが?

師:弁解しないでください。我々のところではあなたに責任をもちます。それらの法門が講じることはその法門のものであり、その法門の要素を帯びています。我々のところでそれを使うことができますか? 我々のところでどのように講じてどのように教えているかにかかわらず、その他の専門用語は、我々のこの一門の内涵ではありません。動作や魔が憑依する本のどの文字もそれらのものであり、読むとあなたの身体に入ります。修煉と佛学の知識について、私は歴史上一部の修煉者の物語を選んで出版する予定です。いずれも正しくて良いものなので、一般知識の書物として皆さんに認識してもらいます。

弟子:講習会で先生の解答を記録した紙は、どのように処理しますか?

師:保存しておきましょう。それから皆さんに教えますが、在席している一部の人は既に筆記することが習慣になっていますが、講義に集中できない人は、往々にして筆記する人です。その人の注意力を記録することに使えば、漏れなく記録することもできなければ、全部聞きとることもできません。ただ静かに聞いたほうがよいのです。あなたが全部筆記することはできないので記録に照らして行なうとき、その記録が不完全なので、断章取義の可能性があります。なぜならあなたは完全に記録できないからです。あなたが記録に照らして行なおうとすれば、場合によっては良くない効果をもたらすかもしれません。今話したことは講習会を開催して以来、たびたび起こることでした。以前は多くの人がこのようにしていました。これは常人の中の理論ではないので、そのようにすれば、往々にして良い効果を収められません。筆記すれば、漏れなく聞くことも記録することもできません。将来、我々が本にまとめたら、それを読めばよいのです。

弟子:煉功の効果は、気分と関係がありますか?

師:気分が良くない時は煉功してはいけません。特に怒っている時にはなおさらいけません。正法を修煉するには忍をしなければなりませんが、忍とは良くない気分が生じた後で忍をするのではなく、怒ってから忍をすることでもありません。あなたは良くない気分を抱いて、何を煉ろうとするのですか? 心の中で怒りや恨みを抱え、更に怒りによって生じた様々な心があれば、入静することができますか? 煉功して良い効果を収められますか? 法の要求に従って行なわなければ、正法の修煉ではなくなり邪法を練ることになります。この動作を煉れば、この法のものになるとは限りません。多くの師が人々に教えましたが、その人は師の要求する心性、道徳の基準通りに行なわなかったので、結局練りだしたものは邪なものばかりでした。その師が教えたものは良い功であっても、同じ功法でも同じものを煉り出すとは限らず、本当にその心性基準に従って行なわなければなりません。修煉というのは極めて厳粛な問題です。

弟子:古代と現代の医学書を見ると、法輪大法の修煉に影響がありますか?

師:これは何ら影響ありません。医学書を見るのはどんな影響もありません。ただ、今の医療気功の本は見てはいけません。

弟子:あるヨガの本は神の経典と言われ、本の中でこの神は宇宙のすべてを創造したと言っていますが?

師:こういったことを聞いてはいけません。何がヨガですか。末法時期はどこも浄土ではありません。

弟子:労働を通して得るものも、徳をもって交換してきたものですか?

師:払った代償の多さとも関係があります。一般的には労働自体は代償を払うことですが、得るものが払ったものより多ければ、徳をあげなければいけません。

弟子:心性だけを修めて、煉功しないなら?

師:それならば、あなたは単なる良い人にすぎず、修煉者ではありません。将来は良い人になることしかできず、来世に福報を得ます。

弟子:法輪を回すのは四回のみですが、なぜ九回回してはいけないのでしょうか?

師:四回回せば十分です。多く回すとあなたはきっとお腹が痛くて、お腹が張るでしょう。今功を学ぶ時は大丈夫ですが、できるようになってから正式に煉功する時、多く回したら駄目です。多く回すと、お腹が張るでしょう。

弟子:出産後一ヵ月以内で、煉功できますか?

師:勿論できます。これは問題なく、激しい運動はありません。

弟子:先生の講習会には参加したことがありませんが、第五式の功法が終った後、幾つか他の動作が現れますが?

師:それはすなわち、別のものが彼女を操っているのです。この問題は既に話したことがありますが、私が伝えたのはこの五式の功法だけです。彼女がとても素晴らしいと思って歓喜心が生じると、それに従って動き出します。あなたがそうしたくなければ動作はすぐ止まり、それもすぐにいなくなります。あなたがそれに従って動けば動くほど嬉しくなり、あれ、なんて素晴らしいと思ったら、それはあなたを操ることになります。しかし、それらのものは動作が簡単であっても、すべてあなたの身体を壊すものです。あなたがやり出した幾つかの動作ですが、すべてあなたの身体にあるものを破壊するものです。一瞬の間にあなたをだめにしてしまうかもしれません。

弟子:カトリック教を信仰しながら、また法輪大法を煉っていますが?

師:この問題を話すと、非常に高い話になります。東洋人として、私がここで皆さんに教えられるのは、あなたはひたすら修めれば良いということです。大法、正法に出会うのは容易いことではありません。これしかあなたに教えられません。今日の宗教が人を済度できるなら、私も大法を伝えに来ることはありませんでした。いずれにせよ皆さんは悟りましょう。現在の人間にはあまり高いことを言っても受け入れられません。

弟子:法輪大法を煉る若者に、異性に対する恋愛感情があるのは許されるでしょうか?

師:私は皆さんに話したのですが、この次元であなたに何もかも放棄させることはまったく不可能で、あなたもなし遂げることもできません。勿論一部の人はこういった事に淡泊になっていますが、しかし皆さんに教えますが、社会の中で修煉する人に、このようにすることを提唱しません。ただし、法輪大法では確かに専修する人がいますが、将来、我々が寺院を持てたら、彼らに修煉する場所を提供してあげることができます。多くの僧侶が法輪大法を修煉したら、寺院の中にいると、大きな困難に遭うかもしれないので、将来はこのような修煉場所を提供してあげます。しかし常人の中で修煉する人にとって、このようにすることを勧めません。みんなが法輪大法を修煉して結婚しなくなれば、子孫を残すこともできなくなり、人類は絶滅してしまうので、それではいけません。現段階では結婚して所帯を持つことは構いません。常人の中で修煉するには、最大限に常人のこの状態に符合しなければなりません。例を挙げて言うなら、あなたが結婚しなければ、あなたの両親は心配します。両親はあなたを理解できないし、他の人も理解できません。常人の状態に符合するのは、我々の修煉にとって良いことでもあります。なぜなら、最も複雑な環境こそ、高人が現れるからです。

弟子:大師、あなたの恋愛の過程をお話しいただけますか?

師:あなたは法を学びに来たのではありませんね。何をしに来たのですか? また何を知りたいと思っているのですか? 修煉はとても厳粛な事で、あなたはいまだに情に動かされ、これらに執着しています。差は何と大きいことでしょうか!

弟子:法輪大法を修めて成就したなら、他の世界へ行けますか?

師:行きたいところならどこへでも行けます。修煉が成就したらですよ。今はこのように質問していますが、将来本当に成就したその日、あなたはきっと穴があったら入りたくなります! あなたは自分の言っていることが何か分かっていません。あなたは今人間の考えなので、神の境地の思惟はありません。

弟子:静功を煉る時には清浄無為で、如何なる意念も持たないよう要求されますが、心性の面でも、このような心理状態に達しなければならないのでしょうか?

師:その通りです! しかし徐々になし遂げられることです。普段からこのことに注意しなければなりません。どの程度まで入静しても、自分がここに坐って、ここで煉功していることを分かっていなければならず、この僅かな意識を保たなければなりません。そうでなければ、朦朧として何もかも分からなくなり、修めているのはあなたではなくなってしまいます。

弟子:学校で、学生が大学の入学試験に合格しようと努力して学び、両親の期待に応えようとする行ないは真・善・忍に背きますか?

師:これは真・善・忍に背きません。どれが執着に属し、どれが属さないかは分別しにくいものです。皆さんに教えてもよいのですが、個人の目的の達成や、個人の嗜好や欲望を満足させるために行なったことは執着です。しかし公のため、大衆のため、他人のために行なったこと、あるいは努力して仕事や勉強をやり遂げることは当然すべきことです。皆さん考えてみてください。学生としてのあなたの本分は、勉強をきちんとこなすことです。なぜならあなたは学生だからです。そこで、私の目的は大学に受かることだと思う人がいます。勿論、勉強する目的は絶えず高い段階に、小学校、中学校、大学のように進むことで、いつまでも小学校に留まるわけにはいきません。確かにそうです。だとすれば、大学へ入学したいと思うことも間違いではありません。しかし、もしあなたがよく勉強せず、大学入学、大学入学と頭の中でいつも大学に行くことばかり考えていれば、私に言わせるとそれは執着です。では皆さん考えてみてください。別の角度から言うと、あなたが学生ならば、あなたの本分は勉強をきちんとして、両親や学校、先生の期待に背かないようにすることです。先生はあなたに授業をし、両親は学費を払ってあなたを学校へ行かせています。あなたが両親や学校の先生の期待に応えようと、自分で勉強をきちんとやったのなら、自然と大学に入学することになりませんか。あなたがいつも大学、大学と考えても、よく勉強しなかったなら大学へ入ることができますか? あなたは大学へ入ることばかりを考えない方がよいのです。考えても入学できなかったら、無駄になってしまいませんか? あなたは大学へ入ることを考えず、努力してよく勉強するだけでよいのです。あなたが勉強をきちんとやれば、大学への入学が実現するのではありませんか? 大学院へも進学できるのはありませんか? つまりこのような道理なのです。これらの事自体はとても簡単ですが、分別しにくいのです。また、科学研究者が研究を行なうことは執着と言えますか? あなたの研究成果やあなたが行なったことは公益事業であって、社会のため、人々のために奉仕することなので、これらの事を立派に行なうことは、あなたの本分です。一人の労働者としても、あなたがもらう賃金に申し訳が立つように、立派に行なわなければなりません。そうでしょう? 煉功者はどこでも良い人でなければならないからです。

弟子:煉功している時に、完全に無我の状態に入り、周囲の如何なる音も聞こえず、自分の身体が消えたかのような感じがしましたが?

師:この状態はとても良いことです。我々の煉功は入静することを要求し、二種類の状態が現れることがありますが、決して他の功法のように、そこに坐っていると何もかも分からなくなることはありません。他の功法の場合、何時間も煉功して出定すると、あれっと、そこに坐っていたのはただ十数分に過ぎないような感じがしますが、時計を見ると既に非常に長い時間が経過しています。彼は嬉しくてたまらず、自分は定力がとても高く、よく煉ったと思っています。他の法門の修煉者なら、みな彼はよく煉ったと言いますが、我々のところではとても悲しいことだと言います。とても悲しいことです! 皆さんはご存知ですが、我々の修煉は、あなた自身が真に自分を修煉しなければならず、本当にあなた自身に功を得させます。そのため、非常に深く入定した状態であっても、自分がそこで煉功していることが分かっていなければなりません。あなたにはきっと質問で言った状態が現れ、足や体、腕や手などがどこに行ったのか分からず、自分の頭さえもなくなってしまい、一つの意念だけがそこにあるかのようです。意念の中で、自分がそこで煉功していると分かっていますが、これはとても良い状態です。その他に、我々にはもう一つの状態があり、あたかも卵の殻の中に坐っているかのようで動けず、非常に美妙なのです。しかし自分ではそこで煉功していることが分かっています。このような状態が現れることもあります。

弟子:私は夜中に目が覚めた時、自分が法輪大法の動作を煉っていることに気付きました。法輪の回転や、エネルギー流を強く感じました。

師:もし本当に法輪大法の動作なら、とても素晴らしいことです。それはあなたの元神が煉っており、あなたの煉功を助けているのかもしれません。もし他の動作なら、きっと問題があります。

弟子:私は前の四式の功法を行なう時、体内である力によって身体が揺れるようになりますが?

師:多くの人はとても敏感です。あなたの身体の中で法輪が回る時、身体もそれに従って動きますが、あなたは揺れたりしないでください。敏感でない人は、回転する力が大きくても感じません。皆さんの状態は様々で同じではありません。

弟子:以前、私たちは密教を長年にわたって修煉していましたが、今既に功能が出ていて、大師の法身と通じ合うことができます。これらが本当のことなら法輪大法の修煉に対して、補助作用がありますか?

師:補助作用がないばかりか、如何なる補助作用もありません。密教は最も低い次元の宇宙にある如来の法理ですが、宇宙の法をどうして補助することができますか? 皆さんに言いますが、あなたが見たものは本物か偽物かもわかりません。たとえ見たのが本物であっても、私の法身と通じ合う程度に達するのは非常に難しく、法身があなたとこうして連絡することもないので、あなたが以前に学んでいたものが演化したもので、あなたを騙しているのです。だからこのようなことに注意しなければならず、功能で誰が高いかを見分けることができず、修煉者の果位の高低は心性によって表れるのです。

弟子:先生の大法に照らして日記を書き、自分の足りないところを反省してよいでしょうか?

師:私に言わせれば、それは書かなくてもよいと思います。どうしても書きたいのであれば書いても構いません。心でどこが間違っているか分かれば、次に注意して法を学び、自分が向上すればよいのです。

弟子:師父の著作を読む時、数行の文字が眩しく感じることがありますが、確認してみれば、それはちょうど自分が抱えている問題です。これは先生の法身が私に悟らせているのでしょうか?

師:これはみな大法の中で帯びる法力です。一つ一つの字はすべて佛、道、神の法身なのです。

弟子:一時期、何か間違ったことを行なったり言ったりすれば、必ず先生の法身から処罰を受けたのですが、また一時期、間違ったことを行なったり言ったりしても、先生の法身はまったく関わってこられないのですが?

師:私が関わっても、あなたが間違ったと知っても改めようとしないなら、いつまでもそのように悟らせるわけにはいきませんよ! 話を変えますが、多くの学習者は私の法身と通じあいたいと思っています。その目的は、何らかのことを尋ねたくて、修煉がどうなっているかを知りたいためです。皆さんに教えますが、皆さんが一心に修めさえすれば、知るべきことは必ず分かってきます。知るべきでないことなら、あなたが知るべき時になっていないだけです。日頃、本を多く読んで理解すれば、どんな問題も解決でき、すべて本の中にあります。認識できない問題があっても、疑問をもっていることにも、本当にこの法を学べば、どんな問題もなくなり、すべての問題はたちどころに解決されることに気付きます。

弟子:功を開いて悟りを開いたら、つまり正果を得ることができ、法輪世界へ行くことができますか?

師:悟りには漸悟と頓悟があります。最後になって本当に完全に悟りを開くことを圓満と言います。しかし三界内でしか修めることのできない人は、功を開いて悟りを開いても圓満とは言えず、正果を得ることもできません。私が言っているのは、それほど大きな努力を払うこともできず、それほど大きな決心をして修めることもできない人もいます。そうであれば、正果を得ることができず、法輪世界へ行くこともできません。三界内で悟りを開く人もいますが、その人はここまでしか修めることができないからです。大法を修める人はすべて法輪世界へ行くとは限りませんが、より高い果位で圓満した人にはより高い世界があります。

弟子:人がこの物質空間に堕ちて来たのは、情が生じたからですか?

師:すべてがそうではありません。上には情がなく、三界内だけに情があります。その人が堕ちて来たのは、上の基準に符合しなくなったためです。常人のこの空間において情は最も重いので、情は執着心が生じる根本です。

弟子:憑き物と元神はどのように区別しますか?

師:今のあなたには区別できません。いつもこういった事に関心を持たないでください。なぜなら、その憑き物はあなたの身体と同じ大きさで現れることがあり、あなた自身の以前の身体が現世に現れてくることもあるので、前世の身体か憑き物か、あなたははっきりと区別することができません。憑き物は身体の中にいる場合もあり、身体の外にいる場合もあります。頭の上でしゃがむものや肩の上でしゃがむもの、もしくは首の後ろにへばりついているものは、比較的判別しやすいのです。しかし身体の中に入ってしまったものは、あなたには見分けられません。大法を修める人には、憑き物のことはまったく存在しません。それは絶対に許されないことです。

弟子:お尋ねしますが、佛より上の者を何と称するのでしょうか?

師:何が佛より上の者ですか? それほど高いことは、一般の常人が永遠に知ることは許されません。私は佛家と道家について大まかに説いたことがありますが、彼らより上の者もやはり佛であり道です。あなたはそれを知識と見なしていれば、この門や講習会を出ると、何日かすると次第に何も思い出せなくなります。私が説いたことは、あなたは概略しか分からず、しかもあやふやで、はっきり説明できません。修煉できなければ、頭の中の記憶からそれは抹消されてしまいます。常人はこれらのことを知ることが許されないのです。

弟子:佛法の中で、情の本当の意味は何ですか?

師:情は宇宙大法、宇宙の特性の最も低い次元における一種の要素です。私はこれまでずっと、こういう根本的なことについて話したことはありません。佛教ではいつも執着心、あれこれの執着心を話しており、我々のところでも様々な執着心について言及しました。しかし、佛教では執着心の根本は何であるかについて語りませんでしたが、我々のところでは、それは情があるからだとはっきり説いています。勿論、修煉して正果を得ようとするなら、基本的に情を取り除かなければなりません。

弟子:煉功する時に舌は上あごに当てて橋渡しをする必要がありますが、入れ歯をしているので橋渡しをする術がありません。どうすればいいでしょうか?

師:入れ歯をつけていても影響しません。あなたの口の中にたとえ鉛の板を入れても構いません。功はそれを突き抜けるのです。構いません。我々は気を練るのではなくて、功を煉るのです。

弟子:先生の前世は誰ですか?

師:私は李洪志そのものです。決して釈迦牟尼佛ではありません。

弟子:以前、先生が講義の中で言及された法輪聖王は、釈迦牟尼が妙法蓮華経で述べた法輪聖王と同じ人でしょうか?

師:歴史上で釈迦牟尼佛は確かに法輪聖王について話しました。昔、釈迦牟尼佛は何度も法輪と法輪聖王のことについて話しましたが、後の人は釈迦牟尼佛の話した事を回想しているうちに、それを全面的に反映させることができなくなりました。そのため、後の人も釈迦牟尼佛の説いた本来の意味を理解できず、曲解することが生じました。その後、更に銀輪、鉄輪、銅輪などの言い方が現れましたが、どれも後の人がでっち上げたものです。釈迦牟尼佛が法輪を回すなどなどと伝わっていますが、釈迦牟尼佛自身が法輪を回すと言ったのではありません。釈迦牟尼佛が将来そのような事が起こることを知って、予見したのです。

弟子:夜間、神通加持法を煉る時、坐ったらすぐにうとうとして眠ってしまいますが?

師:これは絶対にいけません。必ずこの欠点を克服してください。そうでなければ、修煉するのはあなた自身ではなくなってしまいます。我々は修煉していることがはっきり分かっていなければなりません。坐るとすぐに眠くなるのは、実は煉功しておらず、ただ坐って眠っているだけです。これも妨害です。

弟子:極楽浄土の衆生には煩悩と魔難がないので、どうやって修めるのですか?

師:あなたに教えますが、煩悩がなければ、修煉することもできなくなります。そのため、極楽世界で修煉することはとても難しいのです。

弟子:先生の法身の法号は?

師:私の法身は、すなわち私であり、同一の体です。これは少し理解しにくいですが、如何なる法号もなく、つまり李洪志です。

弟子:修煉中の疑問を、修煉がよくできていると思う古い学習者と検討するのは?

師:学習者の間で互いに検討するのは問題ありません。とても良いことです。

弟子:仕事をする時、無意識のうちに前額の両眉の中間のところから、ピンク色の光や藍色の光、銀色の光が何度も放たれたのですが?

師:これはつまり天目が開く現象で、様々な現象がたくさんあります。このようなエネルギーの光が、どうして私たちの身体の中に存在するのかと私に聞く人がいました。昨日見た一つの質問にまだ答えていません。あなたに教えますが、見たその光は、天目の次元が高くない時の現れにすぎません。しかしその存在する物体は実在の物質です。あなたの天目の次元は高くないので、別の空間の生命体が光のように見えたのですが、そのエネルギーが強いからです。もしあなたの天目の次元が高ければ、あちらの物体は目で見るこちらの物体より、更にはっきり実在していることに気付くはずです。それゆえ昔の修煉者は、常人社会はまったく見せかけの幻だと言ったのです。

弟子:あなたはすべての執着心を取り除かなければならないと言いますが、しかしあなたが衆生を普く済度すること自体は、執着ではありませんか?

師:なんと愚かな人でしょう! 溺れて死にかけている人を見て、救ってあげることは執着と言えますか? 私はあなたを済度しに来たのであり、修煉しに来たのではなく、あなたはこの事をはっきりと分別しなければなりません。しかも私はもっと大きな事を行なっていますが、ただ人間世界で法を伝えているにすぎません。

弟子:衆生を普く済度して、苦難から解脱させるために、心に生じた慈悲は、情と言えますか?

師:あなたが今の基礎の上に立って話す慈悲は、実は情の作用です。慈悲は情ではありません! 常人には情があるものです。昇華して上がったあと情がない状況で、何が慈悲か、はじめて本当に理解することができます。

弟子:天目が比較的高い人が、いつも学習者の修煉がどこまで進んでいるのかを話していますが?

師:その人は法輪大法を破壊しています。皆さんに教えますが、どんな時でもこういったことを信じてはいけません。ある人がどのくらい高くまで煉ったとか、誰かにいいかげんに言うことは絶対に許されません。顕示心に駆られてこういった事を話したがる人がいますが、天目が開いても、あなたはその人がどこまで修煉したかが見えるとは限りません。極めて特別によく出来た人は本当に見えたとしても話しません。我々は互いに切磋琢磨するために、あなたのどこそこの功がどうなったとか、良いものを煉り出したなどを話しても構いません。しかし、あなたはどこまで煉ったとか、私はどこまで煉ったとか、彼はどこまで煉ったとかを言うならば、それは法を破壊しています。このような現象は、絶対に彼に見せることはありません。それは人の執着心を助長することではありませんか? 互いに顕示すればどのような現象も現われ得るのです。私はやはりこの言葉ですが、皆さんはどんな時でも、心性の修煉の高さをもって基準としなければなりません。心性が高くない人こそ、こういったことをするのです。心性が高くないのに功が高いはずがあるでしょうか? 功が高くなければ正確に見ることができるのでしょうか?

弟子:新しい学習者でも、講習会で師父から法輪や気機、法身を与えられ、いずれも極めて貴重なものです。「失わなければ得られず」の宇宙の理に従って言うならば、私たちはこれによって何らかの代償を払わなければならないのでしょうか?

師:法身はあなたを保護しますが、決してあなたに与えたのではありません。実際、私はあなたに法を得させ、修煉させ、返本帰真させるだけです。あなたの向上したい心だけがほしいのです。

弟子:密教の中の法輪と、先生が説いた法輪とは区別がありますか?

師:同じものではありません。あの法輪は意念であり、かつ人の意念によって制御するものです。私のものは本当のものであり、形、実体があります。

弟子:私は香港の天壇大佛を見学しましたが、今の社会で、どうしてこんなに大きな佛像を建てたのでしょうか?

師:それは常人がしたくてしたことです。現在の佛教では、より大きな寺院を建てたいと思う人がたくさんいます。それはみな常人のことです。

弟子:修煉して圓満成就すれば、上で先生にまた会えますか?

師:あなたが真に修めるなら、圓満成就しなくても私に会えます。圓満すれば、勿論会うことができます。

弟子:専修弟子とは何でしょうか? 真修弟子とは何でしょうか?

師:専修弟子とは寺院のような修煉形式で修めれば、つまり専修弟子です。真修弟子とは真に修める弟子のことです。

弟子:私は学生ですが、日頃、坐禅の姿勢で本を読んだり、宿題をしたりしていいでしょうか?

師:日頃、坐禅の姿勢で本を読んだり、宿題をしたりするなら、単に足を組む練習であり、煉功とは言えません。それでも良いところがあって、足を組む時間を延ばすことができますが、単に足を組む練習です。

弟子:三花聚頂の時の元嬰は、本人と同じ大きさでしょうか?

師:それは不可能なことです。三花聚頂の時の元嬰は一、二歳の子供のような大きさですが、それでもよく煉った人に限ります。数ヵ月の赤ちゃんぐらいの大きさの人もいます。

弟子:生命体が生まれた時、宇宙の特性と同じ、真・善・忍しかないはずですが、どうして先天の性格があるのですか?

師:性格というのは人の性格の問題です。せかせかして、せっかちな性格の人がいて、どんな事をするのも速いのです。ぐずぐずして、何をするにしてもとにかく遅い人もいます。性格は性格で、これは別の事です。なぜ本源物質が異なる物体を構成できるのでしょうか、木になったり、鉄になったりして、つまり同じ事です。しかし特性はすべて真・善・忍です。

弟子:先生が打たれた大手印は、説かれた法の意味と同じでしょうか?

師:それはより高いものになります。いずれにしても、人が法を得ることは容易なことではありません。この縁の由来も容易なことではないので、この機会を逃さないようにと皆さんに教えています。

弟子:人は修煉して、彼の元神を生んだ両親のいる次元を超えることができますか?

師:今、あなたは妄想をたくましくしないでください。皆さんに教えますが、今のあなたはどれほど低いのかさえ分からないのに、更にそんなに高いことを考えています。ある人がどれくらい高く修められるかは、その人の忍耐力とその人の身に付いている徳と業の物質の比率によります。つまりあなたの根基とあなた自身の忍耐力という要素が、あなたがどれくらい高く修められるかを決めるのです。それで、あなたがそれほど高く修めようとしても、それほどの強い忍耐力がなければ、その時になると、きっと気が狂ってしまいます。しかし絶対ということでもありません。ただ、今のあなたは人間の思惟なのです。

弟子:赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、有色、無色は異なる次元を代表していますが、どの方面から見分けられますか? 天目が開いていない場合、顔色から見分けられますか?

師:それは見分けられません。それは常人に見えるものではないので、人間の目では見分けられません。

弟子:以前、私はある功を学んで間違って横道にそれてしまったことがあるので、ある物体がずっと体内を動き回っています。今は法輪大法を修煉することを決心しました。しかし何かが妨害に来る夢を見るのですが?

師:あなたが何を修めたいか、何を煉りたいかは、あなたの心次第です。すべて自分の一存で決まります。大法を修めようとする心が確固としたものになれば、もう誰も妨害できず、もはや妨害することも許されなくなり、私も許しません。

弟子:元神の年齢が若かったら、高く修めることはできないのでしょうか?

師:元神が若いか老いているかに関係なく、それによって決まるものではありません。

弟子:大法を聞いた後で、修煉はとても差し迫っていることを知りました。どのようにすれば、勇猛邁進する大きな忍の心を増やすことができますか?

師:忍ができるかどうか、忍がどの程度までできるかは、すべてあなた次第です。忍の能力を増やす何の訓練法もありません。あなたが苦を嘗める中で耐える力によって決まります。心の中に法があり、慈悲を持って周囲の一切に対処すれば、どんな事に遭遇してもよく行なえるでしょう。

弟子:功身と法身にはどんな違いがありますか?

師:皆さんが功身を持つことはあり得ませんし、これからも持つことはありません。修煉が圓満してからは、法身しか持つことができません。宇宙の中の一切の生命は功身がありません。

弟子:様々な心を取り除く試練は世間法で一通り経験しますが、出世間法に達してから、各果位でまた一通り経験するのか、それともある果位の上中下の各層でそれぞれ一通り経験するのでしょうか?

師:修煉過程の中で、全体の道はすべて按排されており、悟りを開くまでの道はつまり一つの修煉過程です。その修煉過程の中であらゆる心を全部取り除かなければなりません。世間法の次元、出世間法の次元ということではなく、圓満成就するまで一括してそのように按排してあげています。

弟子:宇宙の中の成、住、壊とは、あらゆる悪いものを爆破させて、また新たに組み合わせるということでしょうか?

師:以前はそのようにして、悪いものを壊滅してまた造り直しました。人類は幾度も壊滅させられましたが、一部の人はこれを理解できません。あなたは常人の立場に立ってこれらの問題を考えてはいけません。先日、私はこんな道理を説きましたが、相当高い次元の佛道神から人を見れば、人間はあまりにも微小なものですが、更に高い次元の大覚者から見れば、如来さえもみな常人です。そして、もっともっと高い大覚者から見ると、人間はまるで細菌や微生物にも及ばないのです。人類の道徳が退廃し、地球が腐ったリンゴのようになってしまったら、それを捨てるのは、当たり前のことではありませんか? その境地にいなければ、これらのことは非常に認識しにくいのです。

弟子:真に修める弟子のために、どうか主元神を浄化してくださいませんか?

師:するべきことはすべてやりました。あなたには分からないことがあるので、むやみに考えないでください。将来、あなたたちは最も素晴らしいのです。

弟子:以前、観音像の前で線香を焚く占い法を使う人がいましたが、今、師父の法像で観音像を開眼させたので、まだこの占い法を使えますか?

師:あなたはその線香を焚く占い法を使って何をするのですか? それは常人のやり方ではありませんか? 修煉者として、何を占うのですか? あなたは何を知りたいのですか? 難があるかどうかを知りたいのですか? その難を避けたいのですが、避けてしまったらあなたは向上できなくなり、それでどうやって修めるのですか? または儲けられるかどうかを知りたいのですか? あなたがしっかり仕事をすれば、よくできたら事業が自然に大きくなり得るべきものは当然得られます。これらのことはすべて常人の事なので、大法を修める人がするべきではありません。勿論、小道をやる人なら使っても構いません。

弟子:専修弟子の修煉は寺院の中の和尚の修行と同じだと、先生はおっしゃいましたが、常人社会を離れたら、どのように心性を錬磨するのですか?

師:専修弟子がどのように修めるかは、この講習会で話していません。それは将来の事です。専修弟子でも常人の中に行かなければいけません。昔の和尚は行脚にでかけて、常人の中で物乞いをしながら、苦を嘗めて金銭や物を蓄えることも許されませんでした。常人の中で行脚することは、つまり常人の中で錬磨する良い機会なのです。

弟子:結跏趺坐を練習する時、足を組んでから、帯で固定して練習してもよろしいでしょうか?

師:このことに対して、特殊な要求はありません。自分の状態によって行ないましょう。

弟子:国は……?

師:国に関することや、常人の中の具体的なことについて、私は解釈しません。政治に関係する問題も私に聞かないでください。私たちは政治や国の法規に干渉しません。我々煉功者はどのように行ない、如何に無為になり、如何に行なうべきかについて、既に話しました。

弟子:人々がみな心法に従って律するなら、人類世界は佛家の浄土になることが可能ですか? 

師:人類の道徳水準がみな上昇すれば、それは可能なことです。可能というよりそれは必然的なことであり、今の状況から見ればそのようになります。しかし誰でも佛になることは不可能です。人の心性の高さは同じではなく、忍耐力の大きさも同じではないからです。人類社会は必ず存在していきます。なぜなら、それは大法は上から下までにおいて最も低い次元での体現なので、天国と同じようになるはずがありません。

弟子:煉功者がもし骨折したなら?

師:煉功しても三日坊主で、まともに煉ることも、心性の基準に基づいて自分に要求することもできない人がいます。そのような人は法輪大法の弟子とはいえず、どんな事でも起こり得るのです。その時にあなたは、法輪大法の弟子が骨折したと言います。しかしあなたに教えますが、真に修める人は普通、骨折するようなことはありません。ごく少数の人は、もし前世にそのような業の借りがあるなら何とも言えないので、注意しなければなりません。輔導員は新しい学習者に煉功を強要してはいけません。強要すれば問題が起きるので、それは私のやり方ではありません。大法は自分の心が変わることを講じています。強要すれば、強制することになるのではありませんか? この問題には特に注意してください。

弟子:新しい友人に法輪大法を紹介してから、自分の心性と身体の状態が悪くなったことに気付きました。それは人に法輪大法を話したせいですか?

師:それはあなた自身の感覚にすぎないでしょう。学びたい人は、あなたの話を聴いただけですぐ学びたくなりますが、あなたには状態が悪くなるなどのような感覚はありえません。それは身体を浄化している状態で、業を取り除いている現れです。

弟子:私は中学の教師です。生徒たちに法輪大法を教えたいと思うのですが、それが正しいかどうか分かりません。

師:それは勿論正しいことです。高く理解することはできなくても、身体を鍛練することができます。本当にこの法が理解でき、皆が善い人になろうとして、心が善に向かうなら、私に言わせれば、それは素晴らしいことではありませんか? もし彼らが高い次元へ修煉したいと思うなら、あなたは大きな功徳を積むことになります。

弟子:引越しの時に、不注意で先生の写真を擦っていためてしまいましたが?

師:故意ではないので、誰もあなたを咎めることはありません。

弟子:周りの人に煉功のことについて聞かれたら、皆に伝えて、教えてもよいでしょうか?

師:皆に学びたい願望があるなら、教えてあげましょう。相手が進んで聞いてきたのに、教えないわけはありません。それは法を広めることでもあります。

弟子:法輪大法について話したあと、固く信じていた私は何故か、法輪大法の功法の原理に疑問を抱くようになったのですが?

師:これには多方面にわたる原因があります。あなたの悟性の問題か思想業力の問題があり、また自分の理解が深くないので、相手に話しても、信じてもらえません。あなたは初心者なので、これらの原因があなたに対する妨害になるかもしれません。一般には、外部からの妨害は非常に少ないのですが、多くはあなたの思想業力と、あなた自身の大法に対する理解が浅いことによって、もたらされたのです。それに相手が信じないことで、あなたにこういった考えが生じることもあります。

弟子:冬に、神通加持法を煉った後で足を解いてから、身体がとても冷える感じがしたのですが、このような現象は正常でしょうか?

師:初期に煉功する時、一挙に高い境地に達することはありません。そこに坐っている時に身体が気持ち良く、ホカホカするというようなことは初期にはありません。煉功の初期段階には身体に業力があり、こういったものは黒くて冷たい性質なのです。煉功自体は業を消去するのですが、少し寒く感じるという現象が存在します。それに冬場なので、あなたの身体が一挙に変わることはなく、それは不可能なことです。今後は良くなっていきます。

弟子:以前、私は心性をよく守れませんでしたが、今から修めてもまだ間に合うでしょうか?

師:今は、多くの新しい学習者が修煉し始めたばかりではありませんか。ただし、着実に時間を切り詰めて努力しなければならず、年をとった人は特に注意すべきです。

弟子:人が困っているのを見て助けると、自分の業力が徳に転化するのか、それともその人の徳を取ることになるのでしょうか?

師:人が困っているのを見て助けるのは、善い行ないをすることでしょう。その人を助けて良い事をしている時、もしその事がとても困難であるなら、あなたは苦を嘗めるので、あなた自身の業力が転化されます。普通、自ら進んで人を助けるのは自分の意志によるものなので、徳の転化はありません。もしその事が一定の価値があるのなら、それは別の事になります。それから、いつも難に遭うことは、業を返しているのか、それとも何らかの因縁関係によるものかもしれません。修煉者にその因縁関係は見えないので、もしそのことばかりに心を使えば、きっと悪いことをすることになってしまいます。そのために、我々は煉功者に徳を守ることや無為を教えるのです。我々が説いたのは次のような意味もあります。常人は徳を積むことを言いますが、それは常人が常人の事をすることで、常人の次元の法によって制御されているからです。ところがあなたは修煉という次元の法によって制御されているので、それらのことに執着するのは正しくありません。

弟子:もし真に法輪大法を修めるなら、正果を得て圓満成就するまで、先生は難を按排してくださるのですか?

師:そうです。修煉過程において、誰もが難に遭わないといけません。その上、その難も自分が造った業なので、難の中から自分の心性を向上させるのです。様々な面倒な事に出遭う時、どのように対処しますか? 煉功者としてどのように振る舞いますか? 他の人と同じように対処してはいけません。圓満するまでの修煉の全過程で、そのような問題にぶつかることはあります。しかも、圓満に至るまで、あなたが法に対して確固としていられるかどうか、この方面の試練もあります。もし根本的にあなたが法に対して信じていないなら、他のことは話にもなりません。

弟子:中か下かの根基しか持たない人にとって、極楽世界と法輪世界のどちらがより簡単に修煉できますか? 宇宙の真ん中の大道に沿って修煉するのが速いか、それとも周辺の小道で修煉するのが速いのですか?

師:大法修煉を他のものと比較してはいけません。修煉の過程で、どのように修煉するかに関わらず、修煉の要求と基準は同じです。修煉によって達した高さはつまりあなたの次元なのです。宗教の中でそれを果位といい、つまりその高さの果位を得ることになります。

弟子:広州では多くの人が関羽を祀っていますが、先生の写真で関羽を開眼させてもよいでしょうか?

師:関羽は、歴史上佛教では彼を伽藍菩薩と称しますが、人々が拝んでできたものです。ではなぜ道家も関羽を祀るのでしょうか? それは彼の副元神が修めて成就したのです。また一部の商売人も関羽を財の神として祀っていますが、それはすべて人々が拝んでできたものや、憑依した動物ばかりです。私の法身で開眼してどうするのですか? 佛は決してあなたがお金を儲けるかどうかに関わりません。根基の良い人、あるいは修煉者が難に遭う時、佛や菩薩は助けてあげるかもしれません。それはあなたを常人という苦しい環境から救い出し解脱させるためであって、お金を儲けさせることではありません。もし人間にどんな病気もなく、どんな難もなく、快適で、神仙より心地よく暮らしているなら、あなたに修煉するように言っても、やろうとしないでしょう。そのために苦を嘗めたくないでしょう。ここで存分に楽に暮らしているのに、極楽世界なんていく必要があるのでしょうか。そんなことがありえますか。生々世々に造った業は返さなくてよいのですか? 業を返すのに、楽に暮らすことがありえるでしょうか? 実は、拝んでできたものや憑き物などのようなものは、決して無条件にあなたを助けることはありません。それは、あなたの身体から欲しい物を取ります。ですから、金を儲けることは決して良いことではありません。勿論、財の有無には複雑な原因があって、求めて得られるものではなく、自分の前世がもたらしたものなのです。

弟子:肉親の情や、愛情、友情は、慈悲心から生まれた愛との違いをどのように考えるべきでしょうか?

師:現在のあなたは、まだ人に情がない時の気持ちが分からないので、慈悲心が何かも分かりません。今あなたが想像した慈悲はやはり情から出ているものなので、本当の慈悲はあなたが感知することができません。人間の嫉妬心、歓喜心、闘争心、不服の心、恐怖心など、いずれにせよ、様々な欲望や執着を取り除かなければなりません。好きか嫌いか、何かのことをやりたいかやりたくないか、何かを食べたいか食べたくないか、何に対して嬉しいかどうか、このすべてはこの情から生じるのです。人間はこの情のために生きているのです。一方、情がなく生きている高級生命はどのような様子でしょうか? みな眉をつり上げて目を怒らしているのでしょうか? そうではありません。人がこの情を取り除いたら、慈悲心が生じてきます。大覚者はどうして人を済度できるのでしょうか? 彼には慈悲があり、衆生を哀れに思うからです。

弟子:足組みを練習するために、あお向けに寝ているとき、足を組んだままでよいでしょうか?

師:これには特に反対しません。足を抑えたり、または何らかの方法で足組みを練習したりしても構いませんが、皆もそうするように勧めるわけではありません。この方面の業力がある人、また修煉がなかなか向上できない人は、悟性が上がらず動作ばかりを煉っています。このような人たちは無理に重みをかけて抑えたり、あるいは何か強制的な方法で練習したりすれば、いきなりポキッと骨が折れるかもしれません。そうであれば法輪大法を煉るためにこうなってしまったと人に言われるので、我々に大きな損失をもたらすことになります。ですから、皆さんに同じようにすることを要求しません。人それぞれの情況は異なり、とても複雑だからです。

弟子:時に夢の中で見たことが現実になりました。これは……?

師:夢の中で見たことが、翌日あるいは数日後、その事が本当に起きました。また、何かを行なう時にまるで以前この事をしたことがあるように感じます。しかし記憶の中にそうしたことがないのに、感覚ではいつかそうしたことがあるようです。多くの人にはこのような感覚があります。あなたの前世、あるいはずっと昔にそのような事をしたことがあり、もしくは、あなたが前もって将来発生することの中に入って行ったのかもしれません。見えたのはつまりこれが原因です。

弟子:真と忍が矛盾する時があります。例えば、人が嘘を言ったのを聞いたら、真に基づいて指摘するのか、それとも忍をしますか?

師:やはり私が言ったように、煉功者として徳を守り、徳を失わないようにします。今の常人は既にこのようになり、平気で嘘をつきますが、それは常人のことなので、あなたがどうすることもできません。もし指摘して相手の痛いところを突いたら、その人は本当に歯ぎしりするほどあなたを恨みます。ですから、我々は如何に自分をしっかり修煉するかが、一番重要なことです。本当に重大な悪人や悪事、大事な原則的な問題に出遭ったら、例えば殺人や放火に遭ってもあなたが手をこまねいているなら、私に言わせると、それはあなたの心性が良くないのです。つまり、あなたがどのようにこれらの問題を見るかのことです。

弟子:法輪大法の学習者は、刮痧(カッサ)を学ぶことができますか?

師:法輪大法を修煉するあなたが、こういったものをやって何をするのですか? あなたが自分に刮痧をするのですか、それとも他の人に刮痧をしてあげるのですか? 皆さんに教えますが、それはまじないであって、以前中国の東北では、跳大神は、このようなことをやります。そのような人は、憑き物にとりつかれて妄りな挙動を行ない、彼らはこのようなことをするのです。

弟子:武術をやる人が同時に法輪大法を修煉すれば、破壊的な影響を受けるでしょうか?

師:受けません。純粋な武術なら受けません。しかし一部の道家の武術は内修のものを帯びているので、妨害を受けます。例えば、太極拳、形意、八卦の類いのものは、すると混ぜ入れてしまうので、してはいけません。それは気功に属するものなので、私があなたに植え付けたものが乱されることになります。勿論、どうしてもあなたに法輪大法を修煉させるということではないので、もしあなたが太極は良い、形意や八卦が良いと思うなら、してもかまいません。ただし私は一つの理を言っています。煉功や修煉は厳粛な問題であり、専一でなければなりません。

弟子:私が煉功している時、無意識のうちに、自分の身体のそばに自分と同じ形の影が煉功しているのが見えましたが?

師:一般的に、副元神は身体から離れて修煉することは許されず、いつもあなたと一緒にいて、あなたと同時に修めて煉るのです。勿論、絶対ということではなく、個別の情況もあります。あなたの身体を調整してあげている間に、彼が出てくることもあります。

弟子:講習会の二日目と三日目に、木の繊維のようなもの、またはぼろ布のようなものを吐き、次の数日間、咳と共に血を吐き続けましたが?

師:それは良いことでしょう。私が話したように、下痢をしたり、吐いたりする人もいます。いずれにしても、あなたの身体を内臓まで浄化してあげて、あなたははじめて本当に修煉できるようになるのです。浄化してあげなければこのような汚れた身体でいる限り、功が出ることはありえません。ですから、そのような現象は非常に良いことです。血の塊のようなもの、膿や血を帯びたものを排便する人もいます。皆さんに教えますが、人間は何でも食べ、どんな良くない事もするので、身体を目茶苦茶にしてしまったのです。いずれも、排出させ浄化してあげなければなりません。今後皆さんはしっかり修煉しましょう。多くの人は修煉しなければ、悪性の病気に罹ることになります。修煉してから身体を調整している時に、すべて排出することになります。

弟子:三花聚頂に達したら、生死から抜け出すことができるのでしょうか?

師:法輪大法で三花聚頂という次元まで修煉した時、世間法修煉の最高次元に入ったことになりますが、まだ三界を出ていません。更に修煉していけば、浄白体という状態に入ることになり、身体が完全に高エネルギー物質に取って代わります。その時になって、世間法と出世間法の過渡段階に入ることになりますが、多くの事はこの過渡段階でやってあげるのです。勿論、あなたは世間法修煉を出たら、はじめて本当に生死の輪廻から抜け出して三界を出ることになります。

弟子:坐禅している時、痛くて耐え難くなりますが、それ以上我慢して坐禅し続けるのは、執着心ではありませんか?

師:執着心ではありません。あなたが我慢している時、苦痛に耐えており償いをしています。それは執着心ではなく業を消去しています。昔、一部の人はそれが分からず、坐禅している時、足が辛くなったらすぐ崩し、身体を少しほぐしてから坐禅し直します。また辛くなったら、また足を崩して身体をほぐしてから煉功を続けます。彼はそのように煉ることがとても良いと思いますが、実は何の効果もありません。本当に坐禅して足が痛くなり、その痛さが激しくなった時、とても大きな業力が消去されていくのが見えます。消去された物質は消えてなくなるのではなく、白い物質に転化されます。あなたが苦しい目に遭って代償を払ったので、それを徳に転化することができるのです。坐禅する場合の痛みは通常、断続的に現れしばらく痛くて耐えきれないほど辛くても、それが過ぎると大分和らぐようになります。しばらくすると、また痛みが激しくなります。それは心性を修めることと関わっているので、心が辛くなります。「その筋骨を労せしめ、その心志を苦しめる」ので、坐禅する時にあなたの心が辛くてたまらなくなり足を崩してしまえば、それは忍ができていないのです。

弟子:先生の要求する通りに真剣に心性を修煉すれば、今生でも必ず出世間法を成就できますか?

師:誰がそのようにあなたに教えられるでしょうか? あなたはこのような決心がありますか? あなたの忍耐力や我慢できる程度は、あなたの一存で決められます。「師は入口まで導くが、修行は各自にあり」なのです。

弟子:昼間にはある方面の心性を守れたのですが、夢の中では守れませんでしたが?

師:昼間、はっきり分かっていながら心性を守ることは容易いことです。あなたが心性をしっかり修めているかどうか、しっかり守れるかどうかを確かめるために、睡眠中あるいは深く入定する中であなたを試練すれば、最もよく分かるのです。このような問題は誰にでも起こりますが、守れなかったなら、まだ堅実ではないということです。

弟子:憑き物がついている人が法輪大法を学びに来れば、憑き物は殺されるのでしょうか?

師:我々のこの法は、こういった動物に聞かせないので、それらはこの会場に入る勇気はありません。もし入って来たなら、ただちに処理されます。我々はいつも三日目に、学習者の身体を徹底的に浄化してあげています。

弟子:煉功の時に入静してから、何かの動物が自分に近づいたり、そばで様子を伺ったりするのが見えましたが?

師:それに構わないでください。もしそれがあなたに近づこうとしたら、先生の名を呼んでみてください。もしそれが好奇心のためにちょっと見てみたいのならば、気にかける必要はありません。あなたに近づくことは許されません。

弟子:第五式の功法の「柱状加持」を煉る時、両手の間にとても強い気流がありますが?

師:加持というのは、エネルギー団、つまり様々な功能を加持することです。その大多数は球状のもので、球状の功能であり、この類いの功能は最も多いのです。そのような功能は一万種にもとどまりません。掌を向き合わせるのは柱状の功能を加持するものです。打ち出したものは、レーザー光のようなもので、例えば掌手雷のようなものです。両手の間には非常に強烈な気流がありますが、敏感で感じる人もいれば、感じない人もいます。

弟子:先生が言われる副意識は、一般に言われる霊魂のことでしょうか?

師:過去の名詞をここで当てはめないでください。私は、現在の人体科学と現在のこの科学を結びつけて話しているので、最もわかりやすく説いています。三魂七魄やら、あるいはあれやこれやは、非常に曖昧なものです。あなたの五臓六腑はすべてあなた本人の姿かたちで、あなたの身体のすべての細胞もあなた自身の姿かたちです。あなたの功の微粒子も、すべてあなた自身の姿かたちです。いわゆる三魂七魄とは何を指しているのでしょうか。とても曖昧なものです。それに、あなたには主元神や副元神もいます。ここで話したことは決して迷信などではなく、現代科学でも、既にこの問題を認識しています。マウスの細胞組織を薄く切り、何らかの方法でその画像を伝送させ、千里以上も遠く離れたところでそれを受信したら、一つ一つの細胞の画像はマウスの姿かたちになっています。これは私が神秘めかして話しているのではなく、科学技術が今日まで発展してきて、迷信だと思われていた多くのものが、今はすべて科学によって実証されています。科学がそこまで発展しておらず、あるいは我々に認識されてもまだ広く知られていないものが、存在しないとは限りません。

弟子:先生の講義中、前方一面に黄色い菊の花が見えました。何かの意味を表しているのでしょうか?

師:あなたに見えたのは一塊一塊の黄色の光であり、菊の花ではありません。その黄色の光の中には奥妙なものがあり、この学習者の根基は非常に良いのです。

弟子:私は科学技術者ですが、縁あって先生が伝授される法輪大法を遠路はるばる聞きに来ました。数回の受講中に毎回先生の法身が見えてとても嬉しかったのですが、しばらくすると見えなくなりました。歓喜心のせいなのでしょうか?

師:そうではありません。多くの人はぼんやりとしているうちに何らかの景象が見えましたが、なぜまた見えなくなるのでしょうか? あなたに見えた時、意識の中で見えたと思ったので、注意してよく見てみようとすると、すぐに消えてしまうからです。あなたは注意して見てみようとすると、目を使ってしまいます。なぜなら、普段習慣的に、目でものを見ているからです。無意識のうちに天目でものを見る時は、目を開いていても閉じていても同じなのです。目を閉じて見ることに慣れた人もいれば、目を開いて見ることが習慣になった人もいます。あなたが注意深く見てみようと思うと、目を使ってしまいます。目を使えば視神経を通ってしまい、この通路を通らないので見えなくなります。つまり、あなたはまだうまく使えないからです。

弟子:異なる人は、異なる次元にまでしか修められないのでしょうか?

師:勿論、これは絶対というわけではありません。皆さんにお教えしましたが、それには忍の問題があるので、絶対というわけではありません。

弟子:海外の雑誌に先生の法輪大法を掲載し、宣伝してもよろしいでしょうか?

師:法輪大法を広めることは、私はここ数年来、進んで行なったことがありません。すべて学習者が進んで行なったのです。私たちには投稿する人すら非常に少なく、新聞に載ることもあまりなかったようです。我々の講習会がこんなに大きくなったのは、いずれも皆さんが身をもって受益し、法輪大法が素晴らしいと感じたからこそやって来たのです。今日一人が参加したら、次に家族全員が参加しに来て、その次には親戚友人までも連れて来るので、このように多くなったのです。皆さん自身が素晴らしいと感じるのは、私に言わせると、これは最も説得力があり、宣伝より良い効果を収められます。勿論、宣伝することも必要不可欠なことです。以前、私たちを助けてこの事を行なう人はあまりいませんでした。当然ですが、進んでやる人たちも我々学習者自身なので、その事をしてもよろしいです。

弟子:もし家に犬を飼っている場合、家で煉功することができますか?

師:こういったものは非常に霊気を得やすいのです。霊気を得ると、人を害するようになります。佛教には昔「殺さず、飼わず」という言葉がありました。このことを絶対視せず、適切に対処できれば大丈夫です。

弟子:この数日間、私はどこに行っても、法輪大法の音楽が聴こえる気がしますが?

師:それは天耳通といい、とても素晴らしいことです。天上もこの煉功音楽を聞いています。

弟子:資料集に線を引いたり、注釈を書いたりすることは駄目なのでしょうか?

師:私の書いたもの、あるいは私が話したものに、皆さんはそこに線を引かないでください。特に『轉法輪』という本は、多くの天目が開いた人が見ると、金色の光を放ち、どの字も私の法身であることが見えます。人には業力があり、修煉して世間法を出ていない弟子の身体はやはり清らかではなく、あなたが書いたものは真っ黒なものであり、なぜならあなたの身体がまだ高度な浄化に達していないからです。あなたが書いた一点一画はすべてあなた自身の姿かたちであり、同時に業力をも帯びています。

弟子:私は軍人です。時には一、二週間も出張して煉功ができません。法輪は回収されるのでしょうか?

師:そんなことはありません。それはあなたの仕事だからです。修煉とは、修は第一のことであり、最も重要なことです。法輪大法の修煉者が厳しく自分の心性を要求し、普段とてもよく行なっているのなら、仕事で一定期間外出しても、あなたの法輪や功は弱まらないばかりか、向上することさえもできるのです。なぜでしょうか? 私は話しましたが、本当にあなたの次元の高さを決める功は修によってできるもので、煉によってできるものではないからです。動作と手法によって煉っても、ただ既に持っているものを強化して加持するだけです。以前、多くの人が出張して半月後帰ってから、その功はかえって高くなりました。どこへ行っても良い人であり、常にこの法に従って自分に要求すれば問題ありません。帰ってから多く煉功して補えばよいのです。

弟子:戦争に行ったことのある人は、修煉ができますか?

師:ここで次のような問題を話してみましょう。昔、宗教の中では、殺生して特に人の命を殺めたら、修煉することは非常に難しいと言いました。戦争の時代を経てきた人や、戦場に行ったことのある人は、この問題にどのように対処しますか? 皆さんに教えますが、私が説いた人の執着心を取り除くこととは、すべて自分の主観的願望であり、私利私欲のため、常人社会で執着心のために行なった殺生を指します。一方、戦争のような情況は天象の変化、社会の変化がもたらしたことです。あなたはただ天象の変化、社会の変化という運動の中の一分子にすぎません。もしその分子としての作用がなければ、このような天象の変化も成り立ちません。ですから、この問題を分けて考えなければならず、これは別々の事です。

弟子:聞くところによると、神話小説『西遊記』は修煉の本だそうですが?

師:それは修煉の本ではなく、ただ生き生きとした修煉の過程を描いたものです。この物語は九×九、八十一の難を描き、つまり多くの魔難に遭遇しましたが、魔難の現れ方もそれぞれ違います。彼はそのような形の魔難の中で修煉してきましたが、最後の最後になっても、まだ一難が足りずだめだったので、やはりその一難を彼に嘗めさせなければなりません。つまりそのような趣旨でしょう。

弟子:男性が足を組む時、左足を先に組み、右足を後に組むのでしょうか?

師:男性が半跏趺坐をする時、左足が上にあり、右足が下になります。女性は右足が上で、左足が下です。結跏趺坐をするときは、外側から下の足を持ち上げれば、結跏趺坐になります。どうして男性は左足が上で、女性は右足が上なのでしょうか? 結印も同じです。男性は純陽の身体に属し、女性は純陰の身体に属するからです。煉功は陰陽のバランスを重んじるので、純陰あるいは純陽を抑制し、不足の陰あるいは陽を増強して、陰陽のバランスがとれるようにします。女性であれば、陽を強化して陰を抑制するので、そのような作用があります。

弟子:先生の講法の録音テープを聞いていますが、ある日の朝、私は目を閉じてベッドで横になっている時、そばで誰かが話しているのが聞こえました。すると私は急に全身が重くなり、身動きが取れないように感じました。それから、あごの骨が誰かに力強く押された感じがしました。すると、もともとぴったり閉じられなかった口が、自然に閉じられるようになりました。その後、周りの人からもあごの骨が低くなったと言われましたが?

師:それは数人の法身が、あなたの身体を調整してあげたのです。

弟子:鏡に向かって目を閉じて煉功している時、いつも無意識のうちに鏡の中に、白黒写真のネガと同じような自分の影が見えますが?

師:天目が開いたばかりの時、ものが白黒に見えるので、白いものが黒く見え、黒いものが白く見えます。

弟子:足を組んで静功を煉っている時、耐え難くても足を下ろしたくないので、その時先生の話を思い出すのは、意念を加えることになりますか?

師:それは意念を加えることではありません。先生の話を思い出すのは忍を増し、堅持しようとすることなので、それは意念などではなく、精進の現れです。

弟子:煉功場で、古い学習者が私の身体に何かが憑いていると言いましたが?

師:他人のでたらめな話を聞かないでください。多くの学習者は天目が開いた後、自分の心から幻覚が生じ、しかも、憑き物と前世から持って来た形象とを区別できません。それに、その形象はあなたの主元神とは限らず、副元神の形象かもしれないのですが、彼はこういうことをまったく見分けられません。一部の学習者のでたらめな話を聞かないでください。見分けられずでたらめに言うと、それこそ法を乱すことです。

弟子:解決できない難題にぶつかった際に、先生の写真を見ていると、先生の写真や法輪の周囲がきらめくことがあります。その時に、私はいつも涙が流れ、気持ちも晴れますが?

師:これは一つの現象です。真に修める弟子は、様々な現象に出会います。あなたに精進するようにと励ましているのです。

弟子:真・善・忍という基準を用いて、どの功法が正法なのか、邪法なのか見分けることはできるでしょうか?

師:それは勿論です。宇宙の特性は真・善・忍であり、我々の功に特有なものではありません。それは宇宙の特性なのです。我々は真・善・忍に従って修めているのです。真・善・忍の特性に符合しないものは、すべて邪なものです。

弟子:気機があるだけで、私は一生懸命修煉すれば、どのぐらいの時間をかければ、法輪を形成できるのでしょうか?

師:それはあなた自身が苦に耐えられるかどうか、修煉する決心を固めたかどうかによります。もしあなたが本当に決心して修煉し、以前の自分の間違いを真剣に反省して、以前より更によく行なうことができれば、もしかすると、あなたにまた法輪を与えるかもしれません。それもあり得ることです。つまり、こういった事は絶対的なことではありません。

弟子:修煉の道のりでたくさんの魔難に遭った人が、努力を通じて法輪大法を修煉することができますか?

師:縁があり法輪大法を修めたいと思うなら、誰でも修めにきてよいのです。しかし、修めたくなければ、無理強いして来させないようにと、私は強調します。その人に興味がなく、信じないのに、あなたがどうしても行きましょうと言って、無理に学ばせようとするなら、私に言わせると、これはいけません。

弟子:私には二十八年間、憑き物が憑いています。法輪大法を学んでから、今でもそれが離れませんが、どうすればよいでしょうか? 修煉して正果を得て成就できるでしょうか?

師:これほど長い間憑いていても、あなたは追い払おうとしません。法輪大法を学ぶ目的は、それを追い払うことですか? それを追い払うために法輪大法を学ぶのなら、それは求める心をもって学ぶことになります。この法を伝え出したのは、人に真に修煉をさせるためであり、身体を調整して病気を取り除いてあげる目的も、すべてあなたに修煉させるためです。もしあなたが病気を治すために来たのであれば、こういった事をしてあげるわけにはいきません。私が説いているのは一般の気功ではなく、更に高い次元のものです。どのように対処すべきか、自分で考えてみてください。トラブルがあるのは、多くの場合、自分に問題があるからです。二十八年どころか、二千八百年でさえも一瞬のことです。

弟子:普段は心性のことに対して耐え忍ぶことができるのに、夢の中ではどうして忍を守れないのでしょうか?

師:修煉がしっかりできていないからです。真に修煉するのは非常に厳粛なことです。常人の中でたいしたことがないと思って、いい加減にしていれば、夢の中できっと関を乗り越えられません。

弟子:周囲の同僚や友人に関心を寄せ自発的に助けることは、先生の言う無為と矛盾しているのでしょうか?

師:やはり私が言ったその言葉ですが、今、あなたにあらゆる有為の事を放棄させるのは不可能なことです。今のあなたはできるだけ自分で悟って、自分が思うように行なえば、次第に多くの事が放棄できるようになります。少しずつ進めばよいでしょう。周囲の人に法を得させようと助けることは、別のことです。

弟子:大法輪を回すとは、どんな意味でしょうか?

師:それはすなわち大きな法輪を回すということです。どれくらい大きいのでしょうか? いずれにしても相当に大きいのです。私がどれほどの大きさの天体の中で法を正すかによって、それほどの大きさの法輪を回すのです。

弟子:いわゆる陰陽の目で鬼が見えれば、その人は天目が開いているのでしょうか?

師:いずれにしても、皆さんに教えますが、常人に見えないものが見えれば、つまり天目で見たものなのです。当然、この天目の主通路はここにあるのですが、他に山根の部位で見る人も比較的多いのです。勿論、わずかの人は肉眼を通して見える人もいます。

弟子:私は坐禅する際に、時々上半身が後ろへ倒れ、坐っていられないほど両足が上へ上がりますが?

師:それは私が話したように、脈が通ることです。後ろへ倒れるのは、あなたの体の前面はよく通っていますが、背面がよく通っていないため、重く感じるからです。どちらもよく通るようになれば、体は浮き上がろうとして、舞い上がるような感じをもたらします。

弟子:煉功は専一でなければならない問題について、分からないことがあります。法輪大法を煉る人は、今までの生活の中の趣味をもつことができるでしょうか?

師:今のあなたはこのように行なってもよいのです。今すぐ七情六欲をすべて放棄することが、あなたはできますか? まったくできません。なぜなら、一部のものはあなたの観念の中で既に自然な状態として形成され、自分の良くない心理状態を察することができなくなっているからです。つまり皆さんは修煉の過程で厳しく自分に要求し、様々な執着心を次第に取り除き、徐々に向上してきた時、自分が出した質問を思い出すと、あなたはきっと恥ずかしくなるでしょう。

弟子:法輪大法は、異なる時期に人類に劫難がやってきた時、人類を救ったことがありますか?

師:私は次のように道理を話します。人類に危険な時期がくるにしても、あるいは劫難があるにしても、私はそれに言及していませんが、人類がこのように道徳が滑落してはいけないことに、我々は気付いています。滑落し続けることは確かに危険なのです。だからこそ、我々が今日行なっていることは、皆さん考えてみてください。高い次元へ向けて功を伝えることはすなわち、人を済度することなのです。人類を救って良いことをするとは、どんなことでしょうか? 私は自分の力でできる範囲のことをしています。あなたの聞くことは高すぎるので、はっきり教えることはできません。

弟子:忍とお人好しの違いはどこにありますか?

師:お人好しをどのように理解しますか? あなたはその基準をどのようにしていますか? 複雑な環境の中で、誰かを指摘するだけですぐに非難され、周囲が全部このような情況であれば、仕方がないと思い我慢すれば良いだろうと思うでしょう。常人として、自ら他人の非難を買いたくないなら、私から言えば、この人はあなたが言うようなお人好しとはちょっと違います。能力があっても手を出さない人が私に言わせれば、これこそお人好しだと私は思います。一方、我々が講じる忍というのは、自身の様々な欲望や執着を我慢し、不必要な煩悩を招かないようにすることで、これもまたお人好しと違います。

弟子:もし何か生命の危険に遭遇したなら?

師:あなたが本当に修煉する人なら、今後の修煉の道を按排する時、こういったものを按排することはありません。すべての事には因縁関係があり、偶然に存在するものではなく、あなたにそれを按排しなければ、遭遇することはありません。それはあなたの修煉と何か関係でもありますか? あなたの修煉と関係のないことを、我々はできるだけ按排しません。本当にあなたが殺されたら、まだ修煉できるのですか? ただし、修煉できない常人、あるいは努力しない人、三日坊主の人、それに法に従って自分に厳しく要求しない人、そのような人はまだ修煉者とは言えません。そうすると、常人が遭遇するはずのことに、彼も遭遇することになります。彼は常人なのです。

弟子:気持ちが落ち着かない時に、煉功できますか?

師:情緒が不安定な時、煉功してはならず、あなたも入静できません。ぷんぷん怒っていて、あなたは真・善・忍の忍ができていますか? できていないでしょう? それなのにあなたはそれを煉ってどうするのですか? そうではありませんか? 忍は怒ってから耐え忍ぶのではなく、まったく怒らないことです。

弟子:他人の思想が私の頭の中に入って来ることがあり、私は入静できず、ひどい時にはぐっすり眠れないのですが、これが良いことかどうか分かりませんが?

師:他人の思想を知ることができる功能があり、他心通とも言います。あなたが他人の考えが分かるのは本来良いことですが、自分をしっかり制御しなければなりません。今の人間の頭の中ではどんな悪い事でも考え、見知らぬ人でさえ、あなたに初めて会った時、あなたのことに関して良いことを考えません。そのため、あなたはできるだけそれらの事に関わらないようにしてください。例えば、私がここに坐って、こんなに口を酸っぱくして皆さんに話しても、会場ではどんな考え方もありますが、私はまったくそれを感じ取ろうとしません。

弟子:神通加持法を煉っている時、時々甘いものが口の中に落ちるのですが、何か分かりません?

師:それはあなたの周天が運行する時、脈から流れてきたものをあなたは感じたのです。すべての人がこのようではなく、それぞれの状態はみな同じではありません。

弟子:目を閉じて入静すると、夢と同じように大脳の中で比較的固定した景色や人物が現われ、古代のものがあったり現代のものがあったりしますが、それは幻覚ですか?

師:それは幻覚ではありません。ほかでもなく、あなたの天目が原因でもたらしたことです。

弟子:人の執着心とは、一種の習慣的な思惟のことですか?

師:一般の常人について言えば、それは既に当然のことになっています。口を開けばすぐ個人の利益を語り、頭が働けばやはり個人の利益を考えてしまい、これは既に当然なことになってしまったのです。しかしそれは先天的なものではなく、後天に形成されたものです。このような良くないものが多くなれば、次第に自分の考えが複雑になってしまいます。

弟子:以前、私は他の功法を練っていましたが、ある日『科学と気功』の雑誌を見ていた時、先生の写真が目に入ると、たちまち楽しい感覚が生まれ、突然ある種のものが百会穴から脳の中に入り、それで法輪大法を学ぶことに変えましたが?

師:それはあなたの根基がとても良く、大法を得る縁があったのです。あなたが好感を持ち、学びたいと思ったので、ただちにあなたを助けたのです。私の法輪はどこにでもあります。

弟子:法輪大法の書籍とカセットテープなどは、なぜ藍色を基調にするのですか?

師:これには特別な理由はありません。常人の目で宇宙を見ると、空は深い藍色で青々としているので、我々はその趣を使っています。もともと法輪大法は、宇宙の特性や宇宙の演化の原理に従って煉っており、これほど大きなものです。そこで、我々は宇宙の色を表現するためにこのようにしたのです。ただし絶対というわけではありません。この色は、この空間では人の肉眼で見るとこのようですが、他の空間では決してこうではありません。それに、他の色に変化したりもします。

弟子:私は神通加持法を煉る時、定印を結んでから、もう一度煉功を始める時の手印をする時もあれば、他の動作をする時もありますが?

師:これは正しくありません。あなたにもう一度手印を結ばせて、これは邪なものではないですよと認識させた上で、次にすぐさま邪なものを持ってくるのです。自分自身がはっきりと分かりながら修煉しなければならないと、皆さんはくれぐれも覚えておいてください。私はこの話を非常に重く言っています。私は非常に強い功を持ってあなたの頭の中に注ぎ込んでいますが、それでも駄目な人がいます。そのような人はなかなか歓喜心を放棄できません。何かの機がやってきて彼を誘導すれば、すぐ歓喜心が生じて嬉しくなり、それに従って練ってしまいます。それはあなたがはっきりと分かりながら練っているのですか? あなたは自ら煉ろうとしているのですか? あなたは誰のために煉っているのですか? 煉功するその人が功を得るという問題は、非常に厳粛な問題です!

弟子:先生が集団煉功を強調されるのは、邪なものや魔の妨害を避けるためでしょうか?

師:そうではありません。あなたには私の法身があり、法輪もあって、あなたを守ることができます。そのようになっています。集団煉功の目的は、皆さんが何かの問題にぶつかる時に、互いに切磋琢磨し探究して更に向上できるようにするためです。

弟子:私は普段家で煉功する時、心はわりに穏やかですが、時に良くない信息に心を妨害されることもあります。一年来、ずっと先生にお会いすることを待ち望んでいましたが……。先生、私には低い霊がついているのではないでしょうか?

師:法輪大法を煉っているのに、低い霊が憑くことがあり得るでしょうか? それは前世の縁がもたらしたものです。あなたが大法を学ばずに、私に会いたいとばかり考えるのはやはり執着なので、そのために一年以上引きのばされましたが、まだ悟れていません。

弟子:時々ベッドで横になっていると、突然全身が麻痺して、誰かに押さえられているかのように、手足の動きがとれませんが?

師:多くの人は煉功すると、手や身体が動けなくなるかのようなことが起こり得ます。このような現象はとても複雑で、良い現象です。煉功する時、このような状態が起こることがありますが、定功と呼ばれる功があり、自分でも感じられます。そのために、手足が突然動けなくなる感じがする人がいますが、これは一種の現象です。もう一つの現象は、あなたの主元神が身体から離れることです。それから、師父があなたの身体を調整してあげる時も、あなたを動けないように固定させるときもあります。

弟子:入静するため、先生の名を唱えていますが?

師:私は入静できない原因を話しました。名を唱えれば、少し良くなりますが、一念が万念に代わる作用しか果たせません。根本的に清静に達しようとするなら、執着心を取り除いて、はじめて達成することができます。

弟子:先生が説かれる真・善・忍の道理と、私たちカトリックの『聖書』の道理は根本的に同じですが、これは私が感じたことです。そのため、私はキリストを信奉しながら、法輪大法をやっていますが?

師:大法に対して認識の過程があるのは許されることです。今後、あなたが分かってからまた話しましょう。

弟子:煉功中に、何かが自分を傷つけるのが見えた時、先生の名を呼びますが?

師:そうです。そのようにすべきです。煉功中に何か恐ろしいことが現れた時は、私の名を呼んでよいのです。しかし、呼ばなくても傷つけられることはありません。名を呼ぶこと自体は、大法と師父に対して信じているかどうかの問題でもあります。実は法身がずっと見守っているのです。

弟子:今回、私は広州で法輪大法を学んで、帰ってから故郷の人を集めて一緒に学んでよいでしょうか?

師:勿論よろしいです。故郷の人を集めて学んでいいのです。もし学ぶ人が多くなり、しっかり学んでいたら皆さんをまとめて煉功点を作ってもいいのです。法を広めるのは、すなわち人を済度することです。

結びの言葉

 今日でこの法はすべて話し終えました。更に多く話すことができるでしょうか? 分けて話せば更に話すことができますし、私はここに坐って一年話しても話せますが、そうすることは我々の今後の修煉に対してあまり良くありません。多くのことは皆さんに悟ってもらうことで、具体的な問題を私も皆さんに話してはいけません。具体的な問題を皆さんにすべて話してしまったら、あなたは何を悟るのでしょうか? あなたは何をするのでしょうか? あなたが修煉する機会や環境、条件さえも無くなってしまいます。ですから、皆さんが具体的な問題にぶつかったら、どうやってうまく対処するかは、この法に照らして行なわなければなりません。皆さんに話すべきことは基本的にすべて話しましたが、他の講習会で録音した私の講義を参考にすることもできます。この十回の講義の期間に、私は皆さんにたくさんのことを話しました。この講習会で私が皆さんに責任を果たしたかどうかは、皆さんはきっと自覚しており、これらの事については私も話しません。我々の講習会は全体的に見ると、始終よく行なってきましたし、最後に圓満に終了しました。

 皆さんの中に遠路はるばる地方からやって来た人は三千人あまりにのぼります。最も遠いのは黒龍江省、新疆から四、五千キロ、八千里以上離れた人たちです。道は非常に遠く、皆さんはとても多くの苦を嘗めたと思います。お金の余裕がなく、毎日インスタントラーメンやビスケットだけを食べて済ませる人さえいます。何のためでしょうか? 皆さんがここに来たのは、この法を学び、この法を得るためです。そうではありませんか? ですから、皆さんもこの法はとても貴重であると分かっています。勿論、十回の講義の中で、私はできるだけ皆さんの要求を満足させて、できるだけ皆さんのために便宜をはかり、できるだけ多く話して、皆さんに理解できるように明確に分かりやすく話して、今後の修煉で皆さんが法に則って歩むことができるようにしたのです。つまり、十回の講義の中で、皆さんは私のやっていることを見ており、高い次元へ皆さんを導くことも、皆さんの身体を浄化することも、その目的は、皆さんが今後修煉できるようにするためです。そして、十回の講義が終わってから、皆さん自身の修煉を見ることになります。修めることができるかどうか、乗り越えて行けるかどうか、それはすべてあなた自身によります。しかし、私が思うには、皆さんはここに坐っているから、即ち縁がある人です。帰ってから頑張ってやってみて、その効果を見てください。続けられるなら続けて修めていきましょう。代償を払っただけ、その分得られることになります。これは間違いないことです。

 我々にはたくさんの経験があり、多くの学習者には多くの自らの修煉体験があり、これらは我々に多くの経験と様々な教訓を提供できると私は思います。要するに、今日ここに坐っている皆さんはこの八日間、十日間、あるいはもっと長い時間を無駄にしてはいけません。人間が真に何かを得ることは非常に難しいことで、せっかく得たのにそれを大事にしなければ、将来後悔しても仕方がありません。中国人には「この村を通り過ぎれば、この店に二度と出会えない」という言葉があります。そうではありませんか? この講習会を通して皆さんは既に分かったかもしれませんが、私のような講義をする和尚、または修道者は一人もいません。わが国において、本当に高い次元へ人を導き、本当に高い次元の法を説いているのは、私しかいません。しかも、全世界においても私しか行なっていません。いずれにしても、その目的はこういった歴史時期に、このような人心が非常に複雑な環境の中で皆さんに正法を得させ、本当に向上でき、真に修煉できるようにさせるためです。あなたはたとえ修煉しなくても、この講習会を受講してから、きっと良い人間になられると思います。私はそう信じています。

 多くの学習者は「先生、私はあなたの講義を聞いた後、自分の世界観も変わりました」と私に言いました。確かにその通りです。人々は今のような時流の中で、間違ったことを正しいこととし、悪いものを良いものとし、悪を善とし、そのような観念を既に形成してしまいました。人々が皆このような時流の中で執着を持って求める時、私がいきなりあなたの観念とまったく異なる認識を話したら、多くの新しい学習者は聞いてから、それが良いと分かっていても、すぐに理解できるとは限らず、はっきり説明できるとも限りません。今後、あなたは引き続き学び、煉功し、聞いていけば、次第に理解できて認識を深めることができるのです。そこで、私は皆さんがこの講義を受講した後、何もかも忘れてしまわないように、帰ってから本を多く読み、録音を多く聞いて、絶えず向上するよう希望しています。

 もうこれ以上多くは話したくありません。最後に、皆さんに一つの言葉を贈ります。今後の修煉の過程で、もしあなたがとても耐え難いと感じた時、行ない難いと感じた時、この言葉を思い出してください。どんな言葉でしょうか?つまり「行ない難きは行ないうる。忍び難きも忍びうる」ということです。皆さんが大法の中で修煉し功成って、圓満成就できるように希望します!