轉 法 輪
第五講
法輪
ファールン
の
図形
ずけい
法輪大法
ファールンダーファー
のマークは
法輪
ファールン
です。
功能
こうのう
のある
人
ひと
には
法輪
ファールン
が
回
まわ
っているのが
見
み
えます。われわれの
小
ちい
さな
法輪
ファールン
バッジも
同
おな
じく
回
まわ
っています。われわれは
真
しん
・
善
ぜん
・
忍
にん
という
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
を
指導
しどう
し、
宇宙
うちゅう
の
演化
えんか
する
原理
げんり
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
しているので、われわれの
修煉
しゅうれん
する
功
こう
はきわめて
大
おお
きいものです。ある
意味
いみ
では、この
法輪
ファールン
図形
ずけい
は
宇宙
うちゅう
の
縮図
しゅくず
と
言
い
えます。
佛家
ぶっけ
では
十方
じっぽう
世界
せかい
を
一
ひと
つの
宇宙
うちゅう
概念
がいねん
と
見
み
なしており、
四方八方
しほうはっぽう
、
八
やっ
つの
方位
ほうい
があり、さらに
上下
じょうげ
に
一本
いっぽん
の
功柱
こうちゅう
が
存在
そんざい
しています。それが
見
み
える
人
ひと
もいるかも
知
し
れません。したがって、
上下
じょうげ
を
加
くわ
えれば、ちょうど
十方
じっぽう
世界
せかい
となります。それはこの
宇宙
うちゅう
を
構成
こうせい
し、
宇宙
うちゅう
に
対
たい
する
佛家
ぶっけ
の
概括
がいかつ
的
てき
な
見方
みかた
を
代表
だいひょう
しています。
もちろん、この
宇宙
うちゅう
にはわれわれのいる
銀河系
ぎんがけい
も
含
ふく
めて
数
かぞ
え
切
き
れないほどの
恒星
こうせい
系
けい
が
存在
そんざい
しています。
宇宙
うちゅう
全体
ぜんたい
が
運動
うんどう
しており、
宇宙
うちゅう
全体
ぜんたい
におけるすべての
恒星
こうせい
系
けい
も
運動
うんどう
しています。したがって、この
図形
ずけい
の
中
なか
の
太極
たいきょく
と
小
ちい
さな
卍符
まんじふ
も
回転
かいてん
し、
法輪
ファールン
全体
ぜんたい
も
回転
かいてん
し、
真
ま
ん
中
なか
の
大
おお
きな
卍
まんじ
符
ふ
も
回転
かいてん
しています。ある
意味
いみ
で
言
い
えば、これはわれわれの
銀河系
ぎんがけい
を
象徴
しょうちょう
しているもので、そして、われわれは
佛家
ぶっけ
に
属
ぞく
しているものなので、
図形
ずけい
の
真
ま
ん
中
なか
が
佛家
ぶっけ
の
符号
ふごう
になっています。これは
表面
ひょうめん
から
見
み
た
場合
ばあい
のことです。それぞれの
物質
ぶっしつ
には、みな
他
た
の
空間
くうかん
における
存在
そんざい
形式
けいしき
を
持
も
っています。
他
た
の
空間
くうかん
におけるその
演化
えんか
の
過程
かてい
と
存在
そんざい
形式
けいしき
はきわめて
豊富
ほうふ
できわめて
複雑
ふくざつ
なものです。この
法輪
ファールン
図形
ずけい
は
宇宙
うちゅう
の
縮図
しゅくず
であり、
他
た
の
各
かく
空間
くうかん
においても、その
存在
そんざい
形式
けいしき
と
演化
えんか
の
過程
かてい
が
存在
そんざい
しています。ですから、わたしはそれは
一
ひと
つの
世界
せかい
だと
言
い
います。
法輪
ファールン
が
時計
とけい
回
まわ
りに
回転
かいてん
する
時
とき
、
宇宙
うちゅう
の
中
なか
のエネルギーを
自動的
じどうてき
に
吸収
きゅうしゅう
することができ、
逆
ぎゃく
時計
とけい
回
まわ
りに
回転
かいてん
する
時
とき
、エネルギーを
放出
ほうしゅつ
することができます。ですから、
内回
うちまわ
り(
時計
とけい
回
まわ
り)は
自分
じぶん
自身
じしん
を
済度
さいど
し、
外回
そとまわ
り(
逆
ぎゃく
時計
とけい
回
まわ
り)は
他人
たにん
を
済度
さいど
するということが、われわれの
功法
こうほう
の
特徴
とくちょう
です。「われわれは
佛家
ぶっけ
なのに、どうして
太極
たいきょく
があるのか、
太極
たいきょく
は
道家
どうけ
のものではないか?」と
尋
たず
ねる
人
ひと
がいます。それは、われわれの
煉
ね
っている
功
こう
がきわめて
大
おお
きいもので、
宇宙
うちゅう
全体
ぜんたい
を
煉
ね
っているのに
等
ひと
しいからです。
考
かんが
えてみてください。この
宇宙
うちゅう
には
佛家
ぶっけ
と
道家
どうけ
があり、どちらを
排除
はいじょ
しても、
完全
かんぜん
な
宇宙
うちゅう
を
構成
こうせい
することにはならず、
完全
かんぜん
な
宇宙
うちゅう
と
言
い
うことはできません。そのため、われわれの
功法
こうほう
には
道家
どうけ
的
てき
な
部分
ぶぶん
もあります。「それなら、
道家
どうけ
だけでなく、
他
ほか
にキリスト
教
きょう
や
儒教
じゅきょう
などもあるのではないか」と
尋
たず
ねる
人
ひと
がいます。
実
じつ
を
言
い
うと、
儒教
じゅきょう
はきわめて
高
たか
い
次元
じげん
まで
修煉
しゅうれん
したあと、
道家
どうけ
に
帰属
きぞく
することになります。それに
対
たい
し、
西洋
せいよう
の
多
おお
くの
宗教
しゅうきょう
は
高
たか
い
次元
じげん
まで
修煉
しゅうれん
したあと、
佛家
ぶっけ
に
帰属
きぞく
することになり、
佛家
ぶっけ
の
体系
たいけい
のものとなります。
結局
けっきょく
はこの
二
ふた
つの
体系
たいけい
しかありません。
それでは、なぜ
太極
たいきょく
図
ず
には
上
うえ
が
赤
あか
で
下
した
が
青
あお
のものと、
上
うえ
が
赤
あか
で
下
した
が
黒
くろ
のものと
二
ふた
つずつあるのでしょうか?
一般
いっぱん
には、
太極
たいきょく
が
黒
くろ
と
白
しろ
という
二
ふた
つの
物質
ぶっしつ
からなるとされており、
言
い
わば
陰気
いんき
と
陽気
ようき
なのです。これは、きわめて
浅
あさ
い
次元
じげん
の
認識
にんしき
です。
異
こと
なる
空間
くうかん
にはそれぞれ
異
こと
なる
現
あら
われ
方
かた
があります。
最
もっと
も
高
たか
い
次元
じげん
に
現
あら
われた
太極
たいきょく
がいまのような
色
いろ
なのです。われわれが
一般
いっぱん
に
認識
にんしき
している
道
どう
の
色
いろ
は、
上
うえ
が
赤
あか
で
下
した
が
黒
くろ
です。
例
れい
を
挙
あ
げて
説明
せつめい
すると、
天目
てんもく
が
開
ひら
いた
人
ひと
は、
肉眼
にくがん
で
見
み
て
赤
あか
であったものが、
一層
いっそう
だけ
異
こと
なる
空間
くうかん
で
見
み
ると
緑
みどり
になっており、
黄金色
こがねいろ
は
他
た
の
空間
くうかん
で
見
み
れば
紫
むらさき
になるということに
気
き
づきます。そこにこのような
差
さ
があり、つまり
異
こと
なる
空間
くうかん
において
色
いろ
もさまざまに
変
か
わるということです。
上
うえ
が
赤
あか
で
下
した
が
青
あお
の
太極
たいきょく
は
先天大道
せんてんだいどう
のもので、それには
奇門
きもん
修煉
しゅうれん
の
法門
ほうもん
も
含
ふく
まれています。
四隅
よすみ
にある
小
ちい
さな
卍
まんじ
符
ふ
は
佛家
ぶっけ
のもので、
真
ま
ん
中
なか
のそれと
同
おな
じように、いずれも
佛家
ぶっけ
のものです。この
法輪
ファールン
は
色
いろ
が
鮮
あざ
やかなので、われわれはそれを
法輪大法
ファールンダーファー
のマークとしました。
われわれが
天目
てんもく
からこの
法輪
ファールン
を
見
み
る
時
とき
、
必
かなら
ずしもこの
色
いろ
とは
限
かぎ
らず、
法輪
ファールン
の
地色
じいろ
が
変
か
わることがあります。しかしその
図案
ずあん
は
変
か
わることがありません。わたしがあなたの
下腹部
かふくぶ
に
植
う
えつけた
法輪
ファールン
が
回転
かいてん
する
時
とき
、
天目
てんもく
から
見
み
れば、それは
赤
あか
かも
知
し
れないし、
紫
むらさき
かも
知
し
れないし、
緑
みどり
かも
知
し
れないし、あるいは
無色
むしょく
かも
知
し
れません。
赤
あか
、
橙
だいだい
、
黄
き
、
緑
みどり
、
青
あお
、
藍
あい
、
紫
むらさき
と、
地色
じいろ
が
絶
た
えず
変化
へんか
しているので、あなたが
見
み
た
色
いろ
は
別
べつ
の
色
いろ
になるかも
知
し
れません。しかし、
法輪
ファールン
の
中
なか
の
卍
まんじ
符
ふ
や
太極
たいきょく
の
色
いろ
と
図案
ずあん
は
変
か
わるものではありません。われわれはこの
図案
ずあん
の
地色
じいろ
が
比較的
ひかくてき
綺麗
きれい
だと
思
おも
いましたので、それに
決
き
めました。
功能
こうのう
のある
人
ひと
は、この
空間
くうかん
を
通
とお
して
多
おお
くのものを
見
み
ることができます。
「この
卍
まんじ
符
ふ
はヒトラーのものによく
似
に
ているではないか」と、
言
い
う
人
ひと
がいます。
言
い
っておきますが、この
符号
ふごう
は
本来
ほんらい
思想
しそう
的
てき
なものに
結
むす
びつくようなものではありません。「もし、
卍
まんじ
符
ふ
の
角
かど
がこちらの
方
ほう
に
向
む
いていれば、ヒトラーのものになります」と、
言
い
う
人
ひと
がいます。
問題
もんだい
はここにあるのではなく、この
卍
まんじ
符
ふ
はどちら
側
がわ
へも
旋回
せんかい
しているのです。そして、この
図案
ずあん
が
人類
じんるい
社会
しゃかい
で
一般
いっぱん
に
認識
にんしき
されるようになったのは、
二
に
千
せん
五
ご
百
ひゃく
年
ねん
ほど
前
まえ
の
釈迦牟尼
しゃかむに
の
時代
じだい
でした。それに
対
たい
し、
第
だい
二
に
次
じ
世界
せかい
大戦
たいせん
から
今日
こんにち
までまだ
数
すう
十
じゅう
年
ねん
しか
経
た
っておらず、ヒトラーはただそれを
盗用
とうよう
したに
過
す
ぎません。しかし、ヒトラーの
色
いろ
はわれわれのと
違
ちが
って
黒
くろ
で、しかも
卍
まんじ
符
ふ
の
角
かど
が
上
うえ
に
向
む
いて
立
た
っています。あくまで
法輪
ファールン
の
表面
ひょうめん
形式
けいしき
についてお
話
はな
ししましたが、
法輪
ファールン
についての
説明
せつめい
はこれぐらいにします。
さて、この
卍
まんじ
符
ふ
を、われわれ
佛家
ぶっけ
では
何
なん
と
見
み
ているのでしょうか?
吉祥如意
きっしょうにょい
だと
言
い
う
人
ひと
がいますが、それは
常人
じょうじん
の
解釈
かいしゃく
です。
卍
まんじ
符
ふ
は
佛
ほとけ
の
次元
じげん
を
示
しめ
すもので、
佛
ほとけ
の
次元
じげん
に
到達
とうたつ
しなければ、それを
持
も
つことができません。
菩薩
ぼさつ
と
羅漢
らかん
はそれを
持
も
っていません。しかし、
大
だい
菩薩
ぼさつ
、
四大菩薩
しだいぼさつ
はみなそれを
持
も
っています。われわれが
見
み
たところでは、それらの
大
だい
菩薩
ぼさつ
は
一般
いっぱん
の
佛
ほとけ
の
次元
じげん
を
遥
はる
かに
超
こ
えており、
中
なか
には
如来
にょらい
よりも
次元
じげん
が
高
たか
いものもあります。
如来
にょらい
の
次元
じげん
を
超
こ
えた
佛
ほとけ
は
数
かぞ
え
切
き
れないほど
多
おお
くいます。
如来
にょらい
は
卍
まんじ
符
ふ
を
一
ひと
つしか
持
も
っていませんが、
如来
にょらい
以上
いじょう
の
次元
じげん
に
到達
とうたつ
すれば、
卍
まんじ
符
ふ
が
多
おお
くなります。
如来
にょらい
より
倍
ばい
ぐらい
高
たか
いのは、
卍
まんじ
符
ふ
を
二
ふた
つ
持
も
っています。それよりもっと
高
たか
いのは、
三
みっ
つ、
四
よっ
つ、
五
いつ
つの
卍
まんじ
符
ふ
を
持
も
ちますが、
多
おお
い
場合
ばあい
は、
身体中
からだじゅう
に
卍
まんじ
符
ふ
を
持
も
っています。
頭
あたま
や
肩
かた
、
膝
ひざ
などにも
卍
まんじ
符
ふ
が
現
あら
われ、それが
一杯
いっぱい
になると、
掌
てのひら
や
指
ゆび
の
腹
はら
、
土踏
つちふ
まず、
足
あし
指
ゆび
の
腹
はら
などにも
現
あら
われてきます。
次元
じげん
が
絶
た
えず
向上
こうじょう
していくにつれて、
卍
まんじ
符
ふ
がどんどん
増
ふ
えていきます。このように、
卍
まんじ
符
ふ
は
佛
ほとけ
の
次元
じげん
を
示
しめ
し、
次元
じげん
の
高
たか
い
佛
ほとけ
ほど
卍
まんじ
符
ふ
を
多
おお
く
持
も
っているのです。
奇
き
門
もん
功法
こうほう
佛家
ぶっけ
と
道家
どうけ
の
功法
こうほう
のほかに、もう
一
ひと
つ「
奇門
きもん
功法
こうほう
」というのがあります。
彼
かれ
らは「
奇門
きもん
修煉
しゅうれん
」と
自称
じしょう
しています。
一般
いっぱん
常人
じょうじん
の
間
あいだ
では
修煉
しゅうれん
功法
こうほう
について、
中国
ちゅうごく
の
古代
こだい
から
現在
げんざい
に
至
いた
るまで、
佛家
ぶっけ
と
道家
どうけ
の
功法
こうほう
こそ
正統
せいとう
な
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
だという
認識
にんしき
を
持
も
っており、それを
正法門
しょうほうもん
修煉
しゅうれん
と
呼
よ
んでいます。これに
対
たい
して
奇
き
門
もん
功法
こうほう
はこれまで
世間
せけん
に
公開
こうかい
されたことがないために、その
存在
そんざい
を
知
し
っている
者
もの
が
限
かぎ
られており、それも
芸術
げいじゅつ
作品
さくひん
でしか
聞
き
いたことがないというのがほとんどでした。
奇
き
門
もん
功法
こうほう
は
実在
じつざい
しますか?
実在
じつざい
します。わたしが
修煉
しゅうれん
していた
時
とき
、とりわけ
後半
こうはん
の
数
すう
年間
ねんかん
に、
三人
さんにん
の
高
たか
いレベルに
達
たっ
した
奇
き
門
もん
功法
こうほう
の
人
ひと
に
会
あ
い、その
一門
いちもん
の
精華
せいか
を
教
おし
えてもらいました。きわめて
独特
どくとく
で、
素晴
すば
らしいものでした。その
功法
こうほう
がきわめて
独特
どくとく
なので、
修煉
しゅうれん
して
得
え
たものは
非常
ひじょう
に
変
か
わっており、
一般
いっぱん
の
人
ひと
には
理解
りかい
されません。しかも、「
佛
ほとけ
に
非
あら
ず、
道
どう
にも
非
あら
ず」という
言
い
い
方
かた
をし、つまり
佛
ほとけ
も
修
おさ
めなければ、
道
どう
も
修
おさ
めないというのです。
佛
ほとけ
も
修
おさ
めなければ
道
どう
も
修
おさ
めないというから、
人々
ひとびと
はそれを
傍門左道
ぼうもんさどう
と
呼
よ
んでいますが、
彼
かれ
らは、
自分
じぶん
では
奇
き
門
もん
功法
こうほう
と
言
い
っています。
傍門左道
ぼうもんさどう
という
呼
よ
び
方
かた
には、
貶
けな
す
意味
いみ
がありますが、
否定
ひてい
的
てき
な
意味
いみ
はなく、つまりそれを
邪法
じゃほう
と
断
だん
じているわけではないことは
間違
まちが
いありません。
字面
じづら
から
理解
りかい
しても、それは
邪法
じゃほう
の
意味
いみ
ではありません。
昔
むかし
から、
佛家
ぶっけ
と
道家
どうけ
の
功法
こうほう
は
正法門
しょうほうもん
の
修煉
しゅうれん
と
見
み
なされています。それに
対
たい
して、この
功法
こうほう
は
人々
ひとびと
によってまだよく
認識
にんしき
されていない
間
あいだ
、
人々
ひとびと
はそれを
傍門
ぼうもん
すなわち
正門
せいもん
のわきにある
門
もん
と
呼
よ
びました。つまり、
正法門
しょうほうもん
ではないと
言
い
います。それでは、
左道
さどう
とは
何
なん
でしょうか? 「
左
さ
」は
不器用
ぶきよう
の
意味
いみ
で、
不器用
ぶきよう
な
道
どう
だと
言
い
っているのです。
中国
ちゅうごく
の
古語
こご
においては、「
左
さ
」が
不器用
ぶきよう
の
意味
いみ
を
表
あら
わすことがしばしばあります。
傍門左道
ぼうもんさどう
にはそのような
意味
いみ
があります。
なぜ、それが
邪法
じゃほう
ではないと
言
い
えるのでしょうか? それは、この
功法
こうほう
も
厳
きび
しく
心性
しんせい
を
要求
ようきゅう
し、
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
し、この
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
、
宇宙
うちゅう
の
規律
きりつ
に
反
はん
しておらず、
悪事
あくじ
も
働
はたら
かないからです。それを
邪法
じゃほう
とは
言
い
えません。
佛家
ぶっけ
と
道家
どうけ
が
正法
しょうぼう
とされるのは、
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
が
佛家
ぶっけ
と
道家
どうけ
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
にかなったからではなく、
佛家
ぶっけ
と
道家
どうけ
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
が
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
にかなっているからです。
奇
き
門
もん
功法
こうほう
の
修煉
しゅうれん
も、この
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
にかなっていれば
邪法
じゃほう
ではなく、
同様
どうよう
に
正法
しょうぼう
だと
言
い
わなければなりません。なぜなら、
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
こそ
正邪
せいじゃ
と
善悪
ぜんあく
を
量
はか
る
基準
きじゅん
にほかならないからです。
奇
き
門
もん
功法
こうほう
が
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
するからには、それも
正道
しょうどう
ということになります。ただ
奇
き
門
もん
功法
こうほう
の
要求
ようきゅう
と
特徴
とくちょう
が、
佛家
ぶっけ
と
道家
どうけ
のそれと
違
ちが
うだけです。
奇
き
門
もん
功法
こうほう
は
広
ひろ
く
弟子
でし
をとることをせず、
伝授
でんじゅ
の
範囲
はんい
はきわめて
限
かぎ
られています。
道家
どうけ
は
功法
こうほう
を
伝授
でんじゅ
する
場合
ばあい
、
大勢
おおぜい
の
弟子
でし
を
教
おし
えますが、
本当
ほんとう
に
伝
つた
える
弟子
でし
はただ
一人
ひとり
しかいません。それに
対
たい
し、
佛家
ぶっけ
では
広
ひろ
く
衆生
しゅじょう
を
済度
さいど
することを
重
おも
んじますので、
誰
だれ
でも
修煉
しゅうれん
することができます。
一方
いっぽう
、
奇
き
門
もん
功法
こうほう
は
伝承上
でんしょうじょう
、
二人
ふたり
の
弟子
でし
をとってはならず、
相当
そうとう
長
なが
い
時間
じかん
をかけて
一人
ひとり
の
弟子
でし
だけを
選定
せんてい
し、
功法
こうほう
を
教
おし
えることになっています。ですからこの
法
ほう
門
もん
のものは、
昔
むかし
から
常人
じょうじん
に
見
み
られてはいけないものとされています。
気
き
功
こう
ブームの
最中
さいちゅう
に、わたしは、この
功法
こうほう
においても
少数
しょうすう
の
人
ひと
が、
世間
せけん
に
出
で
て
功
こう
を
教
おし
えているのを
見
み
たことがあります。しかし、
教
おし
えているうちに、
彼
かれ
らはだんだんうまくいかないことに
気
き
づきました。というのは、
一部
いちぶ
のことは
教
おし
えてはならないと
師
し
によって
禁
きん
じられているからです。
功法
こうほう
を
広
ひろ
げたければ、
弟子
でし
を
選
えら
ぶわけにはいかなくなります。
学
まな
びに
来
く
る
者
もの
は、
心性
しんせい
の
高
たか
さがまちまちです。いろんな
考
かんが
えをもって
学
まな
びに
来
く
るので、どのような
人間
にんげん
もいます。ですから、
弟子
でし
を
選
えら
んで
功法
こうほう
を
伝
つた
えるというわけにはいきません。こういうところからも
分
わ
かるように、
奇
き
門
もん
功法
こうほう
はきわめて
特殊
とくしゅ
なものであり、
多
おお
くの
危険
きけん
を
伴
ともな
っているので、
普及
ふきゅう
には
向
む
いていません。
佛家
ぶっけ
では
佛
ほとけ
を
修煉
しゅうれん
し、
道家
どうけ
では
真人
しんじん
を
修煉
しゅうれん
しますが、
奇
き
門
もん
功法
こうほう
で
修煉
しゅうれん
し
成就
じょうじゅ
したら
何
なん
になるのか、と
思
おも
う
人
ひと
がいるかも
知
し
れません。
決
き
まった
宇宙
うちゅう
、
世界
せかい
の
範囲
はんい
を
持
も
たない
仙人
せんにん
になります。
皆
みな
さんがご
存
ぞん
じのように、
如来佛
にょらいぶつ
、
釈迦牟尼
しゃかむに
には
娑婆
しゃば
世界
せかい
があり、
阿弥陀佛
あみだぶつ
には
極楽
ごくらく
世界
せかい
があり、
薬師佛
やくしぶつ
には
瑠璃
るり
世界
せかい
があるというように、それぞれの
如来
にょらい
と
大佛
だいぶつ
にはみな
自分
じぶん
の
世界
せかい
があります。
大覚者
だいかくしゃ
は
誰
だれ
もが
自分
じぶん
の
作
つく
った
天国
てんごく
を
持
も
っており、その
天国
てんごく
の
中
なか
で、
大勢
おおぜい
の
弟子
でし
が
暮
く
らしています。しかし、
奇
き
門
もん
功法
こうほう
の
場合
ばあい
は、
決
き
まった
宇宙
うちゅう
範囲
はんい
を
持
も
っていないために、あちらこちらをさすらう
仙人
せんにん
になります。
邪法
じゃほう
を
練
ね
る
邪法
じゃほう
を
練
ね
るとは
何
なん
のことでしょうか? それには
次
つぎ
のような
幾
いく
つかの
形式
けいしき
があります。まず、もっぱら
邪法
じゃほう
を
練
ね
る
者
もの
がいます。どんな
時代
じだい
にもそれを
教
おし
える
者
もの
がいるからです。なぜそれを
教
おし
えるかと
言
い
えば、その
人
ひと
が
常人
じょうじん
の
中
なか
での
名誉
めいよ
、
利益
りえき
、
金儲
かねもう
けなどを
追求
ついきゅう
し、そういうものにこだわっているからです。
当然
とうぜん
のことながら、このような
人
ひと
は
心性
しんせい
が
高
たか
くないので、
功
こう
を
得
え
ることができません。
彼
かれ
は
何
なに
を
得
え
るのでしょうか?
業力
ごうりき
です。
人間
にんげん
の
業力
ごうりき
が
大
おお
きくなった
時
とき
には、
一種
いっしゅ
のエネルギーを
形作
かたちづく
ることもあります。しかし
彼
かれ
にはなんの
次元
じげん
もなく、
煉功者
れんこうしゃ
に
比
くら
べることはできません。とはいえ
常人
じょうじん
よりは
力
ちから
があって、
常人
じょうじん
を
制約
せいやく
することができます。というのは、そういうものもエネルギーの
現
あら
われですので、
密度
みつど
が
高
たか
い
時
とき
には、
人体
じんたい
の
功能
こうのう
を
強化
きょうか
するという
役割
やくわり
を
果
は
たすことができます。ですから、
昔
むかし
からそういうものを
教
おし
える
人
ひと
がいます。「
悪
わる
い
事
こと
をしたり
人
ひと
を
罵
ののし
ったりすれば、
功
こう
が
伸
の
びる」と
本人
ほんにん
が
言
い
いますが、それは
功
こう
を
伸
の
ばすのではありません。
悪
わる
いことをすると、
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
─
業力
ごうりき
を
得
え
るから、
実際
じっさい
は
黒
くろ
い
物質
ぶっしつ
の
密度
みつど
を
強化
きょうか
するに
過
す
ぎません。この
業力
ごうりき
によって、もともと
身体
からだ
に
持
も
っていたわずかな
功能
こうのう
を
強化
きょうか
して、
小
ちい
さな
功能
こうのう
を
生
う
み
出
だ
すことはできますが、
大
たい
したことはできません。この
人
ひと
たちは、
悪
わる
い
事
こと
をすれば
功
こう
が
伸
の
びる、と
考
かんが
えていますので、そういう
言
い
い
方
かた
をするのです。
また「
道
どう
が
一尺
いっしゃく
高
たか
ければ、
魔
ま
は
一丈
いちじょう
高
たか
くなる」と
言
い
う
人
ひと
がいます。それは
常人
じょうじん
の
邪説
じゃせつ
で、どんな
時
とき
になっても
魔
ま
は
道
どう
より
高
たか
くなることはありえません。
人類
じんるい
の
知
し
っているこの
宇宙
うちゅう
は、
数
かぞ
え
切
き
れない
宇宙
うちゅう
の
中
なか
の
小宇宙
しょううちゅう
の
一
ひと
つに
過
す
ぎず、われわれはそれを
宇宙
うちゅう
と
略称
りゃくしょう
しています。この
宇宙
うちゅう
は、
一定
いってい
の
久
ひさ
しい
年代
ねんだい
を
経
へ
るたびに、
宇宙
うちゅう
的
てき
な
大
だい
災難
さいなん
を
起
お
こします。この
災難
さいなん
によって、
宇宙
うちゅう
の
中
なか
のすべてのもの、
天体
てんたい
も
含
ふく
めて、すべての
生命
せいめい
が
絶滅
ぜつめつ
することになります。
宇宙
うちゅう
の
運動
うんどう
には
規律
きりつ
があり、われわれの
今回
こんかい
の
宇宙
うちゅう
ではただ
人類
じんるい
だけが
悪
わる
くなったわけではありません。
多
おお
くの
生命体
せいめいたい
にはすでにある
状況
じょうきょう
が
見
み
えていますが、
現在
げんざい
のこの
宇宙
うちゅう
空間
くうかん
について
言
い
えば、
遥
はる
か
以前
いぜん
に
大
だい
爆発
ばくはつ
が
起
お
きているのです。
現在
げんざい
、
天文学
てんもんがく
者
しゃ
にそれが
見
み
えないのは、
現有
げんゆう
する
最大
さいだい
の
望遠鏡
ぼうえんきょう
で
見
み
ても、
見
み
える
光景
こうけい
が
十
じゅう
五
ご
万
まん
光年
こうねん
以前
いぜん
のことであるためです。
現在
げんざい
の
天体
てんたい
変化
へんか
を
見
み
ようとするには、
十
じゅう
五
ご
万
まん
光年
こうねん
後
ご
でなければなりません。それは
気
き
が
遠
とお
くなるような
先
さき
のことです。
現在
げんざい
、
宇宙
うちゅう
全体
ぜんたい
にすでに
非常
ひじょう
に
大
おお
きな
変化
へんか
が
発生
はっせい
しています。このような
変化
へんか
が
発生
はっせい
する
度
たび
に、
宇宙
うちゅう
の
中
なか
の
生命
せいめい
は
例外
れいがい
なく、
完全
かんぜん
に
滅
ほろ
びる
状態
じょうたい
に
瀕
ひん
します。このようなことが
発生
はっせい
する
度
たび
に、
宇宙
うちゅう
の
中
なか
にそれまで
存在
そんざい
していた
特性
とくせい
およびその
中
なか
の
物質
ぶっしつ
は、すべて
爆発
ばくはつ
によって
一掃
いっそう
されなければなりません。ほとんどのものはその
爆発
ばくはつ
で
抹消
まっしょう
されますが、しかし
毎回
まいかい
のように、
生
い
き
残
のこ
りがあります。
新
あたら
しい
宇宙
うちゅう
がきわめて、きわめて
高
たか
い
大覚者
だいかくしゃ
たちによって
再建
さいけん
された
時
とき
、その
中
なか
には
爆発
ばくはつ
から
生
い
き
残
のこ
った
者
もの
がいます。
大覚者
だいかくしゃ
たちは、
自分
じぶん
自身
じしん
の
特性
とくせい
と
基準
きじゅん
に
基
もと
づいて
新
あたら
しい
宇宙
うちゅう
を
再建
さいけん
するので、
前回
ぜんかい
の
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
との
間
あいだ
に
違
ちが
いがあります。
爆発
ばくはつ
から
生
い
き
残
のこ
った
者
もの
は、
前回
ぜんかい
の
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
と
理
り
に
従
したが
ってこの
宇宙
うちゅう
の
中
なか
で
動
うご
きます。
新
あたら
しく
作
つく
られた
宇宙
うちゅう
は、
新
あたら
しい
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
と
理
り
に
従
したが
って
運行
うんこう
します。そこで、
爆発
ばくはつ
から
生
い
き
残
のこ
った
者
もの
は
宇宙
うちゅう
の
理
り
を
妨
さまた
げる
魔
ま
となります。しかし、
彼
かれ
らはそれほど
悪
わる
いものでもありません。
彼
かれ
らは
前回
ぜんかい
の
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
に
従
したが
って
動
うご
いているに
過
す
ぎません。これが
人々
ひとびと
の
言
い
う
天魔
てんま
なのです。しかし
彼
かれ
らは
常人
じょうじん
を
脅
おびや
かすわけでもなく、
人
ひと
にはまったく
危害
きがい
を
与
あた
えず、ただ
自分
じぶん
の
理
り
に
従
したが
って
行動
こうどう
しているだけです。
昔
むかし
は、こういうことは
常人
じょうじん
に
知
し
らせてはいけなかったのです。わたしに
言
い
わせれば
如来
にょらい
の
次元
じげん
より
遥
はる
かに
高
たか
い
境地
きょうち
の
佛
ほとけ
はいくらでもいますので、そのような
魔
ま
は
物
もの
の
数
かず
ではありません。
佛
ほとけ
たちと
比
くら
べてみれば、ごく
小
ちい
さい
存在
そんざい
に
過
す
ぎません。
老
ろう
、
病
びょう
、
死
し
も
一種
いっしゅ
の
魔
ま
ですが、それも
宇宙
うちゅう
の
特性
とくせい
を
守
まも
るためにあるものです。
佛教
ぶっきょう
では
六道
ろくどう
輪廻
りんね
を
説
と
きますが、その
中
なか
に
修羅道
しゅらどう
のことが
出
で
てきます。そのほかでもない
異
こと
なる
空間
くうかん
にいる
生物
いきもの
ですが、しかし
人間
にんげん
の
本性
ほんしょう
は
備
そな
わっていません。
大覚者
だいかくしゃ
から
見
み
ると、それはきわめて、きわめて
低級
ていきゅう
、とりわけ
無能
むのう
なものですが、
常人
じょうじん
にとって、
大変
たいへん
怖
こわ
い
存在
そんざい
です。それはある
程度
ていど
のエネルギーを
持
も
っており、
常人
じょうじん
を
獣
けもの
と
見
み
なしているので、
好
この
んで
人間
にんげん
を
食
た
べます。ここ
数年来
すうねんらい
、その
生物
せいぶつ
も
世
よ
に
出
で
てきて
功
こう
を
教
おし
えています。それは
何
なに
ほどの
者
もの
でもありません。それは
人間
にんげん
らしい
姿
すがた
を
持
も
っているはずがあるでしょうか? それに
学
まな
ぶと、あちらへ
行
い
って、それらの
同類
どうるい
になるしかありません。
恐
おそ
ろしいことです。
一部
いちぶ
の
人
ひと
が
練功
れんこう
する
時
とき
、
心
こころ
が
正
ただ
しくないので、それの
考
かんが
え
方
かた
にかなってしまい、するとそれが
教
おし
えにやってきます。「
一正
いっせい
が
百邪
ひゃくじゃ
を
圧
あっ
する」と
言
い
うように、
求
もと
めさえしなければ、
誰
だれ
もあなたを
動
うご
かすことができません。
邪念
じゃねん
を
起
お
こして、
良
よ
くないものを
追求
ついきゅう
すれば、それが
助
たす
けに
来
き
て、あなたの
修煉
しゅうれん
が
魔道
まどう
に
入
はい
り
込
こ
んでしまうという
問題
もんだい
が
起
お
きます。
もう
一
ひと
つは、
無意識
むいしき
に
邪法
じゃほう
を
練
ね
る
場合
ばあい
があります。
無意識
むいしき
に
邪法
じゃほう
を
練
ね
るとはどういうことでしょうか?
無知
むち
の
状況
じょうきょう
の
下
もと
で、
邪法
じゃほう
を
練
ね
っているということです。これはよく
見
み
られることで、そういった
例
れい
はいくらでもあります。
先日
せんじつ
お
話
はな
ししたように、
多
おお
くの
人
ひと
は
練功
れんこう
する
時
とき
に、
正
ただ
しくない
考
かんが
えをもっています。
站樁
たんとう
をする
時
とき
、
手足
てあし
が
震
ふる
え
出
だ
すほど
疲
つか
れているにもかかわらず、
頭
あたま
の
中
なか
は
休
やす
んでおらず、さまざまなことを
考
かんが
えています。「
物価
ぶっか
が
上
あ
がりそうだから、
少
すこ
し
買
か
い
溜
だ
めしておかなくちゃ。
練功
れんこう
が
終
お
わったらすぐ
買
か
いに
行
い
こう。
値上
ねあ
がりしたら
大変
たいへん
だから」とか、「
勤
つと
め
先
さき
では
今
いま
住宅
じゅうたく
を
割
わ
り
当
あ
てているが、
俺
おれ
の
分
ぶん
はあるのだろうか?
担当者
たんとうしゃ
は
俺
おれ
と
仲
なか
が
悪
わる
いのだ。あいつは
絶対
ぜったい
割
わ
り
当
あ
ててくれない。もし
住宅
じゅうたく
が
割
わ
り
当
あ
てられなければ、
俺
おれ
は
絶対
ぜったい
喧嘩
けんか
してやる……」とか、ありとあらゆる
事
こと
が
浮
う
かんで
来
き
て、
考
かんが
えれば
考
かんが
えるほど
怒
いか
りがつのるばかりです。
先日
せんじつ
お
話
はな
ししたように、
家庭
かてい
のことから
国
くに
の
政治
せいじ
にまで、
気
き
に
入
い
らなくなると、
抑
おさ
えきれずに
怒
いか
りがこみ
上
あ
げてきます。
煉功
れんこう
するには、
徳
とく
を
重
おも
んじなければなりません。
良
よ
いことを
考
かんが
えることができないにしても、
悪
わる
いことは
考
かんが
えてはなりません。いちばん
良
よ
いのは、
何
なに
も
考
かんが
えないことです。というのは、
低
てい
次元
じげん
で
煉功
れんこう
する
時
とき
、
基礎
きそ
作
づく
りをしなければなりませんが、
人間
にんげん
の
意識
いしき
活動
かつどう
が
一定
いってい
の
役割
やくわり
を
果
は
たしているから、この
基礎
きそ
はきわめて
重要
じゅうよう
な
役割
やくわり
を
担
にな
います。
考
かんが
えてみてください。
功
こう
の
中
なか
に
何
なに
かを
加
くわ
えてしまいますと、
練功
れんこう
しても
良
よ
いものが
得
え
られると
思
おも
いますか? そんなものは
黒
くろ
いものにきまっているのではありませんか? どれだけ
多
おお
くの
人
ひと
が、そのような
意識
いしき
を
持
も
って
練功
れんこう
しているでしょうか。どうしてあなたは
長
なが
く
練功
れんこう
しても
病気
びょうき
が
治
なお
らないのですか?
一部
いちぶ
の
人
ひと
は、
練功場
れんこうば
でそれほど
悪
わる
いことは
考
かんが
えていないものの、
功能
こうのう
を
追求
ついきゅう
したり、あれこれと
雑多
ざった
なものを
求
もと
めたりして、さまざまな
心態
しんたい
と
強
つよ
い
欲望
よくぼう
をもって
練功
れんこう
しています。その
人
ひと
たちは
実際
じっさい
は
無意識
むいしき
のうちに
邪法
じゃほう
を
練
ね
っています。しかも、それは
邪法
じゃほう
だと
忠告
ちゅうこく
してあげても、「
俺
おれ
はあの
大
だい
気功師
きこうし
に
教
おそ
わっているのだ」と
言
い
って
機嫌
きげん
を
悪
わる
くします。しかし、その
大
だい
気功師
きこうし
は
徳
とく
を
重
おも
んじるようにと
教
おし
えたはずですが、
果
はた
してその
通
とお
りにしたでしょうか?
練功
れんこう
する
時
とき
、
良
よ
くない
意念
いねん
ばかり
加
くわ
えたなら、その
練功
れんこう
から
良
よ
いものが
出
で
て
来
く
るでしょうか? ここが
問題
もんだい
です。これは
無意識
むいしき
のうちに
邪法
じゃほう
を
練
ね
る
部類
ぶるい
に
入
はい
るもので、きわめて
多
おお
く
見
み
られます。
男女
だんじょ
双修
そうしゅう
修煉界
しゅうれんかい
には
男女
だんじょ
双修
そうしゅう
という
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
があります。
皆
みな
さんはチベット
密教
みっきょう
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
の
中
なか
で、
佛像
ぶつぞう
の
彫刻
ちょうこく
や
画像
がぞう
の
中
なか
で、
男体
なんたい
が
女体
にょたい
を
抱
だ
いて
修煉
しゅうれん
しているのをご
覧
らん
になったことがあるかも
知
し
れません。
男体
なんたい
は、
時
とき
には
佛
ほとけ
の
姿
すがた
をしており、
一糸
いっし
まとわぬ
女性
じょせい
を
抱
だ
いています。
時
とき
には
佛
ほとけ
の
変身
へんしん
した
牛頭馬面
ぎゅうとうばめん
の
金剛
こんごう
像
ぞう
の
姿
すがた
になっていることもありますが、それも
一糸
いっし
まとわぬ
女性
じょせい
を
抱
だ
いています。どうしてこのようなことがあるのでしょうか? まずこの
問題
もんだい
から
説明
せつめい
しましょう。この
地球
ちきゅう
上
じょう
で、
儒教
じゅきょう
の
影響
えいきょう
を
受
う
けているのは
中国
ちゅうごく
だけではありません。
数世紀
すうせいき
前
まえ
の
古代
こだい
では、
人類
じんるい
全体
ぜんたい
の
道徳
どうとく
的
てき
観念
かんねん
はほぼ
同
おな
じでした。したがって、そのような
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
は、この
地球
ちきゅう
固有
こゆう
のものではなく、
他
た
の
星
ほし
から
伝
つた
えられてきたものです。しかし、この
方法
ほうほう
で
修煉
しゅうれん
できることは
確
たし
かです。この
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
が
中国
ちゅうごく
に
伝
つた
えられた
当時
とうじ
、
男女
だんじょ
双修
そうしゅう
と
秘密
ひみつ
の
煉功
れんこう
という
内容
ないよう
があったため、
中国人
ちゅうごくじん
に
受
う
け
入
い
れられませんでした。
唐
とう
の
会昌
かいしょう
年間
ねんかん
に
漢
かん
民族
みんぞく
地域
ちいき
の
皇帝
こうてい
によって
禁止
きんし
されてしまいました。
当時
とうじ
、この
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
は
唐密
とうみつ
と
呼
よ
ばれ、
漢
かん
民族
みんぞく
の
地域
ちいき
で
伝播
でんぱ
することが
禁
きん
じられました。しかし、それはチベットという
特殊
とくしゅ
な
環境
かんきょう
、
特殊
とくしゅ
な
地域
ちいき
で
伝
つた
えられてきました。では、どうしてそのような
方法
ほうほう
で
修煉
しゅうれん
するのでしょうか?
男女
だんじょ
双修
そうしゅう
の
目的
もくてき
は、
陰
いん
を
採
と
って
陽
よう
を
補
おぎな
い、
陽
よう
を
採
と
って
陰
いん
を
補
おぎな
い、
互
たが
いに
補
おぎな
いながら
修煉
しゅうれん
し、
陰
いん
と
陽
よう
の
均衡
きんこう
に
達
たっ
するためです。
周知
しゅうち
のように、
佛家
ぶっけ
だろうと、
道家
どうけ
だろうと、とりわけ
道家
どうけ
の
陰陽学
いんようがく
の
説
せつ
によれば、
人体
じんたい
にはもともと
陰
いん
と
陽
よう
があります。
人体
じんたい
に
陰陽
いんよう
があるからこそ、さまざまな
功能
こうのう
、
元嬰
げんえい
、
嬰孩
えいがい
、
法身
ほうしん
などの
生命体
せいめいたい
を、
修煉
しゅうれん
して
得
え
ることができます。
陰
いん
と
陽
よう
があるからこそ、さまざまな
生命体
せいめいたい
を
修煉
しゅうれん
して
得
え
ることができるのです。
男身
だんしん
にせよ
女身
じょしん
にせよ
同
おな
じく
丹田
たんでん
というところで
生成
せいせい
できると
言
い
われていますが、この
言
い
い
方
かた
はとても
理
り
にかなっています。
道家
どうけ
ではよく
上半身
じょうはんしん
を
陽
よう
、
下半身
かはんしん
を
陰
いん
と
見
み
なしています。また、
身体
からだ
の
背面
はいめん
を
陽
よう
、
前面
ぜんめん
を
陰
いん
と
見
み
なしたり、
身体
からだ
の
左側
ひだりがわ
を
陽
よう
、
右側
みぎがわ
を
陰
いん
と
見
み
なしたりすることもあります。
中国
ちゅうごく
では
男
おとこ
は
左
ひだり
、
女
おんな
は
右
みぎ
という
言
い
い
方
かた
がありますが、それもここから
来
き
たもので、
理
り
にかないます。
人体
じんたい
にはもともと
陰
いん
と
陽
よう
があり、
陰陽
いんよう
の
相互
そうご
作用
さよう
によって、
自
みずか
ら
陰
いん
と
陽
よう
の
均衡
きんこう
に
達
たっ
することができ、
数々
かずかず
の
生命体
せいめいたい
を
生
う
み
出
だ
すことができるのです。
したがってこの
点
てん
からすると、
男女
だんじょ
双修
そうしゅう
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
を
採
と
らなくても、
同様
どうよう
にきわめて
高
たか
い
次元
じげん
まで
修煉
しゅうれん
することができるということは、
明
あき
らかです。
男女
だんじょ
双修
そうしゅう
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
を
採
と
った
場合
ばあい
には、うまく
制御
せいぎょ
できなければ、
魔道
まどう
に
陥
おちい
って
邪法
じゃほう
になりかねません。きわめて
高
たか
い
次元
じげん
で、
密教
みっきょう
が
男女
だんじょ
双修
そうしゅう
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
を
採
と
り
入
い
れようとするためには、その
和尚
おしょう
やラマ
僧
そう
が、
修煉
しゅうれん
を
経
へ
てきわめて
高
たか
い
次元
じげん
に
到達
とうたつ
した
者
もの
でなければなりません。その
時
とき
、
彼
かれ
は
師
し
の
指導
しどう
の
下
もと
でこの
修煉
しゅうれん
をするわけですが、
心性
しんせい
がきわめて
高
たか
いので、
邪道
じゃどう
に
入
はい
らないように
制御
せいぎょ
することができます。しかし、
心性
しんせい
が
低
ひく
い
者
もの
は、
絶対
ぜったい
にこの
方法
ほうほう
を
採用
さいよう
してはなりません。
採用
さいよう
すると、
間違
まちが
いなく
邪法
じゃほう
に
入
はい
ってしまうことになります。なぜなら、その
人
ひと
の
心性
しんせい
には
限
かぎ
りがあり、
常人
じょうじん
の
境地
きょうち
において、
欲望
よくぼう
が
取
と
り
除
のぞ
かれておらず、
色欲
しきよく
の
心
こころ
が
取
と
り
除
のぞ
かれていません。
心性
しんせい
の
尺度
しゃくど
がそれくらいしかないので、
用
もち
いると、
間違
まちが
いなく
邪道
じゃどう
に
入
はい
ってしまいます。ですから、
勝手
かって
に
低
ひく
い
次元
じげん
で
伝
つた
えると、
邪法
じゃほう
を
伝
つた
えることになると
言
い
っているのです。
近年
きんねん
、
男女
だんじょ
双修
そうしゅう
を
伝
つた
える
気功
きこう
師
し
も
少
すく
なくありません。
奇怪
きかい
なことに、
道家
どうけ
にも
男女
だんじょ
双修
そうしゅう
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
が
現
あら
われました。それも
現在
げんざい
ではなく、
早
はや
くも
唐
とう
の
時代
じだい
から
始
はじ
まっています。
道家
どうけ
にどうして
男女
だんじょ
双修
そうしゅう
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
が
現
あら
われたのでしょうか?
道家
どうけ
の
太極
たいきょく
学
がく
の
説
せつ
によれば、
人体
じんたい
は
小
ちい
さな
宇宙
うちゅう
で、おのずから
陰
いん
と
陽
よう
があります。
本当
ほんとう
の
正伝大法
しょうでんたいほう
はいずれも
久
ひさ
しい
年代
ねんだい
を
経
へ
て
伝
つた
わってきたもので、
勝手
かって
に
改変
かいへん
を
加
くわ
え、
勝手
かって
に
何
なに
かを
混入
こんにゅう
したりすると、その
法門
ほうもん
を
乱
みだ
すことになり、それによって
修煉
しゅうれん
の
圓満
えんまん
成就
じょうじゅ
を
妨
さまた
げることになります。したがって、もともと
男女
だんじょ
双修
そうしゅう
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
を
持
も
たない
功法
こうほう
の
場合
ばあい
は、
絶対
ぜったい
にそれを
修煉
しゅうれん
してはなりません。それを
用
もち
いれば、
歪
ゆが
みが
生
しょう
じ、
問題
もんだい
が
起
お
こることになります。
特
とく
にわれわれ
法輪大法
ファールンダーファー
の
法門
ほうもん
には
男女
だんじょ
双修
そうしゅう
がないので、その
方法
ほうほう
は
採
と
りません。これがこの
問題
もんだい
に
対
たい
するわれわれの
見解
けんかい
です。
性命
せいめい
双修
そうしゅう
性命
せいめい
双修
そうしゅう
の
問題
もんだい
はすでにお
話
はな
ししました。
性命
せいめい
双修
そうしゅう
とは、
心性
しんせい
を
修煉
しゅうれん
するほかに、
同時
どうじ
に
命
めい
も
修
おさ
めるということ、つまり
本体
ほんたい
を
変
か
えるということです。
本体
ほんたい
を
変
か
える
過程
かてい
において、
人間
にんげん
の
細胞
さいぼう
が
次第
しだい
に
高
こう
エネルギーの
物質
ぶっしつ
によって
取
と
り
替
か
えられ、その
際
さい
に
老衰
ろうすい
が
緩和
かんわ
されることになります。
身体
からだ
が
若者
わかもの
の
方向
ほうこう
に
少
すこ
しずつ
逆戻
ぎゃくもど
りし、
少
すこ
しずつ
転化
てんか
され、
最後
さいご
には、その
身体
からだ
が
高
こう
エネルギーの
物質
ぶっしつ
によって
完全
かんぜん
に
取
と
り
替
か
えられた
時
とき
、この
人
ひと
の
身体
からだ
は
完全
かんぜん
に
別
べつ
の
物質
ぶっしつ
の
身体
からだ
に
転化
てんか
されます。その
身体
からだ
はお
話
はな
ししたように、
五行
ごぎょう
を
抜
ぬ
け
出
で
た、
五行
ごぎょう
の
中
なか
にいないものとなりますので、
不壊
ふえ
の
身体
からだ
になります。
寺院
じいん
での
修煉
しゅうれん
は、ただ
心性
しんせい
を
修
おさ
めるだけで、
手法
しゅほう
を
重視
じゅうし
せず
命
めい
を
修
おさ
めることはしないで、
涅槃
ねはん
を
重
おも
んじます。
釈迦牟尼
しゃかむに
の
伝
つた
えた
方法
ほうほう
が
涅槃
ねはん
です。
実
じつ
は、
釈迦牟尼
しゃかむに
自身
じしん
には
奥深
おくぶか
い
大法
たいほう
があり、
本体
ほんたい
を
完全
かんぜん
に
高
こう
エネルギーの
物質
ぶっしつ
に
転化
てんか
して
持
も
っていくことができたのです。しかし、この
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
を
残
のこ
すために、
彼
かれ
は
涅槃
ねはん
に
入
はい
ったのです。
釈迦牟尼
しゃかむに
はどうしてこのように
教
おし
えたのでしょうか? それは
最大限
さいだいげん
に
人間
にんげん
の
執着心
しゅうちゃくしん
を
放棄
ほうき
させるためです。
何
なに
もかも
放棄
ほうき
して、
最後
さいご
には
身体
からだ
さえも
放棄
ほうき
して、あらゆる
心
こころ
を
全部
ぜんぶ
無
な
くしてしまうのです。このように、
人々
ひとびと
に
最大限
さいだいげん
に
放棄
ほうき
させるために、
釈迦牟尼
しゃかむに
は
涅槃
ねはん
の
道
みち
を
選
えら
びました。ですから
歴代
れきだい
の
和尚
おしょう
はみんな
涅槃
ねはん
の
道
みち
を
歩
あゆ
みました。
涅槃
ねはん
とは、
和尚
おしょう
が
死
し
んだ
後
あと
、
肉身
にくしん
を
捨
す
てて、その
元神
げんしん
が
功
こう
を
持
も
って
天国
てんごく
に
上
のぼ
ったということです。
道家
どうけ
は
命
めい
を
修
おさ
めることに
重点
じゅうてん
を
置
お
いています。
弟子
でし
を
選
えら
び、
衆生
しゅじょう
を
広
ひろ
く
済度
さいど
することを
説
と
かず、
相手
あいて
にするのはきわめて
良
よ
い
人
ひと
ばかりですので、
道家
どうけ
は
術
じゅつ
類
るい
のものを
重視
じゅうし
し、いかに
命
めい
を
修
おさ
めるかを
重視
じゅうし
しています。しかし、
佛家
ぶっけ
という
特定
とくてい
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
、とりわけ
佛教
ぶっきょう
の
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
においては、それを
重
おも
んじるわけにはいきません。かといって
一切
いっさい
重
おも
んじないというわけではなく、
一部
いちぶ
の
奥深
おくぶか
い
佛家
ぶっけ
の
大法
たいほう
でも
重
おも
んじることがあります。われわれの
法門
ほうもん
もそれを
重
おも
んじています。われわれ
法輪大法
ファールンダーファー
の
法門
ほうもん
では、
本体
ほんたい
も
要
い
るし、
元嬰
げんえい
も
要
い
りますが、この
二
ふた
つには
違
ちが
いがあります。
元嬰
げんえい
も
高
こう
エネルギーの
物質
ぶっしつ
から
構成
こうせい
された
身体
からだ
ですが、それはわれわれのこの
空間
くうかん
で
勝手
かって
に
顕現
けんげん
するわけにはいきません。この
空間
くうかん
で
長期的
ちょうきてき
に
常人
じょうじん
と
同
おな
じ
姿
すがた
を
保
たも
つためには、
必
かなら
ず
本体
ほんたい
が
必要
ひつよう
です。したがって、
本体
ほんたい
は
転化
てんか
された
後
あと
、その
細胞
さいぼう
が
高
こう
エネルギーの
物質
ぶっしつ
によって
取
と
り
替
か
えられたにもかかわらず、その
分子
ぶんし
の
配列
はいれつ
順序
じゅんじょ
が
変化
へんか
していないために、
見
み
た
目
め
では
常人
じょうじん
の
身体
からだ
とほとんど
同
おな
じです。しかし、やはり
違
ちが
いがあります。つまりその
身体
からだ
は
他
た
の
空間
くうかん
に
出入
でい
りすることができるのです。
性命
せいめい
双修
そうしゅう
の
功法
こうほう
では、
見
み
た
目
め
には
実際
じっさい
の
年齢
ねんれい
とずいぶんかけ
離
はな
れて
見
み
え、
外見
がいけん
からは
人
ひと
に
若
わか
い
感
かん
じを
与
あた
えます。
先日
せんじつ
、ある
人
ひと
から「
先生
せんせい
、わたしは
何
なん
才
さい
に
見
み
えますか?」と
言
い
われました。
実際
じっさい
にはまもなく
七十才
ななじゅっさい
になる
女性
じょせい
でしたが、
一見
いっけん
四
よん
十
じゅう
代
だい
ぐらいにしか
見
み
えません。
皺
しわ
がなく、
顔
かお
がつやつやして
白
しろ
く、
白
しろ
に
赤
あか
みがさしていましたので、どう
見
み
ても
七十才
ななじゅっさい
近
ちか
くには
見
み
えません。われわれ
法輪大法
ファールンダーファー
を
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
にはこのようなことが
現
あら
われるのです。これは
冗談
じょうだん
ですが、
若
わか
い
女性
じょせい
はどうしても
美容
びよう
に
気
き
を
使
つか
い、
肌
はだ
の
色
いろ
をより
白
しろ
くつやのあるものにしようとしますが、
実
じつ
は、
性命
せいめい
双修
そうしゅう
の
功法
こうほう
を
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
すれば、おのずとそうなりますので、
手入
てい
れをする
必要
ひつよう
もないことを
保証
ほしょう
します。このことについては、これ
以上
いじょう
例
れい
を
挙
あ
げないことにします。
以前
いぜん
は、さまざまな
職業
しょくぎょう
で
年配
ねんぱい
の
人
ひと
が
多
おお
かったので、みんながわたしのことを
若者
わかもの
扱
あつか
いしていました。
今
いま
は
嬉
うれ
しいことに、どの
職業
しょくぎょう
でも
若
わか
い
人
ひと
が
多
おお
くなりました。
実
じつ
は、わたしはすでに
四十三才
よんじゅうさんさい
です。そろそろ
五十才
ごじゅっさい
に
近
ちか
づこうというのですから、もう
若
わか
くはありません。
法
ほう
身
しん
佛像
ぶつぞう
にはなぜ
一
ひと
つの
場
ば
があるのでしょうか?
多
おお
くの
人
ひと
はそれを
解釈
かいしゃく
することができません。「
佛像
ぶつぞう
に
場
ば
があるのは、
和尚
おしょう
が
佛像
ぶつぞう
に
向
む
かって
読経
どきょう
するためにできたものだ」、つまり
和尚
おしょう
が
佛像
ぶつぞう
に
向
む
かって
修煉
しゅうれん
することによって
生
しょう
じたものだ、と
言
い
う
人
ひと
がいます。しかし、
和尚
おしょう
の
修煉
しゅうれん
であろうと、
他
ほか
の
誰
だれ
かの
修煉
しゅうれん
であろうと、そのエネルギーは
不規則
ふきそく
に
散
ち
らされていき、
一定
いってい
の
方向
ほうこう
はとりませんから、
佛堂
ぶつどう
全体
ぜんたい
の
床
ゆか
、
天井
てんじょう
、
壁
かべ
などにも、
全部
ぜんぶ
均等
きんとう
な
場
ば
があるはずです。どうして
佛像
ぶつぞう
の
場
ば
だけが
特
とく
に
強
つよ
いのでしょうか?
特
とく
に
山奥
やまおく
やどこかの
洞窟
どうくつ
の
中
なか
の
佛像
ぶつぞう
、あるいは
岩
いわ
に
彫刻
ちょうこく
された
佛像
ぶつぞう
には、たいてい
一
ひと
つの
場
ば
があります。その
場
ば
はどうしてできたのでしょうか?
人々
ひとびと
はあれこれと
解釈
かいしゃく
しようと
試
こころ
みますが、いずれの
解釈
かいしゃく
も
意味
いみ
をなしません。
実
じつ
は、
佛像
ぶつぞう
に
場
ば
があるのは、その
佛像
ぶつぞう
に
覚者
かくしゃ
の
法身
ほうしん
がいるからです。
覚者
かくしゃ
の
法身
ほうしん
がそこにいるので、その
佛像
ぶつぞう
にエネルギーがあるわけです。
釈迦牟尼
しゃかむに
にせよ、
観音
かんのん
菩薩
ぼさつ
にせよ、もし
歴史
れきし
上
じょう
確
たし
かにそういう
人物
じんぶつ
がいたならば、
考
かんが
えてみてください、
彼
かれ
らが
修煉
しゅうれん
していた
時
とき
は、
彼
かれ
らも
煉功者
れんこうしゃ
ではありませんでしたか?
人間
にんげん
が
出世間
しゅっせけん
法
ほう
よりさらに
高
たか
い
一定
いってい
の
次元
じげん
まで
修煉
しゅうれん
した
後
あと
、
法身
ほうしん
が
生
う
まれることになります。
法身
ほうしん
は
人間
にんげん
の
丹田
たんでん
という
部位
ぶい
で
生
う
まれ、
法
ほう
と
功
こう
から
構成
こうせい
され、
他
た
の
空間
くうかん
で
現
あら
われるものです。
法身
ほうしん
はその
本人
ほんにん
のきわめて
大
おお
きな
威力
いりょく
を
備
そな
えていますが、
法身
ほうしん
の
意識
いしき
と
思想
しそう
は
主体
しゅたい
によって
制御
せいぎょ
されています。
一方
いっぽう
、
法身
ほうしん
自身
じしん
は
独立
どくりつ
した、
完全
かんぜん
な、
正真正銘
しょうしんしょうめい
の
個体
こたい
の
生命
せいめい
でもありますので、
自分
じぶん
自身
じしん
で
独立
どくりつ
していかなることをもなし
遂
と
げることができます。
法身
ほうしん
のやることは
人
ひと
の
主
しゅ
意識
いしき
のやりたいこととまったく
同
おな
じです。あることは、
本人
ほんにん
がやっても、
法身
ほうしん
がやっても、
同
おな
じようにするのです。これがわれわれの
言
い
う
法身
ほうしん
です。わたしが
何
なに
かをしようとする
時
とき
、
例
たと
えば、
真
しん
に
修煉
しゅうれん
する
弟子
でし
のために
身体
からだ
を
調整
ちょうせい
することなどは、みなわたしの
法身
ほうしん
が
実際
じっさい
にやるのです。
法身
ほうしん
は
常人
じょうじん
の
身体
からだ
を
持
も
っておらず、
他
た
の
空間
くうかん
で
姿
すがた
を
現
あら
わしているからです。そして、その
生命体
せいめいたい
は
固定
こてい
して
変
か
わらないものではなく、
大
おお
きく
変身
へんしん
したり
小
ちい
さく
変身
へんしん
したりすることができます。
大
おお
きく
変身
へんしん
した
時
とき
は、
法身
ほうしん
の
頭
あたま
の
輪郭
りんかく
すら
見
み
えないほど
大
おお
きいのですが、
小
ちい
さく
変身
へんしん
した
時
とき
は、
細胞
さいぼう
よりも
小
ちい
さいのです。
開 眼
かい げん
工場
こうじょう
で
造
つく
りあげた
佛像
ぶつぞう
は
一
ひと
つの
芸術
げいじゅつ
品
ひん
に
過
す
ぎません。
開眼
かいげん
とは、すなわち
佛
ほとけ
の
法身
ほうしん
を
一体
いったい
、
佛像
ぶつぞう
にお
招
まね
きして、それから
佛像
ぶつぞう
を
常人
じょうじん
の
中
なか
での
有形
ゆうけい
の
身体
からだ
として
祀
まつ
るということです。
煉功者
れんこうしゃ
に
敬
うやま
う
心
こころ
があれば、
修煉
しゅうれん
する
時
とき
、
佛像
ぶつぞう
上
じょう
の
法身
ほうしん
が
彼
かれ
を
見守
みまも
ったり、
身
み
の
安全
あんぜん
を
守
まも
ったりして、
彼
かれ
のために
法
ほう
を
護持
ごじ
してくれます。これが
開眼
かいげん
の
本当
ほんとう
の
目的
もくてき
です。
正式
せいしき
の
開眼
かいげん
儀式
ぎしき
に
正念
しょうねん
を
発
はっ
するのでなければ、あるいはきわめて
高
たか
い
次元
じげん
の
大覚者
だいかくしゃ
、またはきわめて
高
たか
い
次元
じげん
で
修煉
しゅうれん
し、そういう
力
ちから
を
備
そな
えた
人
ひと
でなければ、それを
行
おこ
なうことができません。
寺院
じいん
では
佛像
ぶつぞう
は
開眼
かいげん
しなければならず、
開眼
かいげん
していない
佛像
ぶつぞう
は
御利益
ごりやく
がないと
言
い
います。
現在
げんざい
、
寺院
じいん
に
和尚
おしょう
はいますが、
本当
ほんとう
の
大法師
だいほうし
はみな
世
よ
の
中
なか
にはいなくなりました。「
文化
ぶんか
大
だい
革命
かくめい
」の
後
あと
、
真
しん
の
伝授
でんじゅ
を
受
う
けていない
小僧
こぞう
たちが
住職
じゅうしょく
になり、
多
おお
くのことについての
伝承
でんしょう
が
途絶
とだ
えてしまいました。
和尚
おしょう
に「なぜ
開眼
かいげん
するのですか?」と
聞
き
けば、「
開眼
かいげん
すれば、
佛像
ぶつぞう
は
御利益
ごりやく
がある」と
答
こた
えますが、しかし
具体
ぐたい
的
てき
にどのように
御利益
ごりやく
があるのかについては、はっきり
答
こた
えられません。
彼
かれ
らはただ
儀式
ぎしき
を
行
おこ
なうだけです。
佛像
ぶつぞう
の
中
なか
に
一巻
いっかん
の
小
ちい
さな
経文
きょうもん
を
入
い
れて、
紙
かみ
で
封
ふう
をした
後
あと
、それに
向
む
かって
読経
どきょう
します。それが
開眼
かいげん
だと
言
い
うのです。
果
はた
してそれで
開眼
かいげん
することができるのでしょうか? それは
彼
かれ
らがいかに
読経
どきょう
するかによります。
釈迦牟尼
しゃかむに
は
正念
しょうねん
を
重
おも
んじています。
自分
じぶん
が
修煉
しゅうれん
しているその
法門
ほうもん
の
世界
せかい
を
本当
ほんとう
に
震動
しんどう
させるほど、
一心不乱
いっしんふらん
に
読経
どきょう
して、はじめて
覚者
かくしゃ
を
招
まね
くことができます。その
覚者
かくしゃ
の
法身
ほうしん
の
一
ひと
つが
佛像
ぶつぞう
に
降
お
りてはじめて
開眼
かいげん
する
目的
もくてき
が
達成
たっせい
されることになります。
読経
どきょう
しながら、「
開眼
かいげん
した
後
あと
、いくらもらえるだろうか」と
考
かんが
える
和尚
おしょう
もいれば、「
誰
だれ
それが
俺
おれ
にひどいことをした」と
考
かんが
える
和尚
おしょう
もいます。
彼
かれ
らの
間
あいだ
でも、
互
たが
いに
腹
はら
を
探
さぐ
り
合
あ
って
暗闘
あんとう
しているのです。
末法
まっぽう
の
時期
じき
の
現在
げんざい
においては、このような
現象
げんしょう
を
否認
ひにん
するわけにもいきません。ここで
佛教
ぶっきょう
を
批判
ひはん
しているわけではありませんが、
末法
まっぽう
の
時期
じき
に、
一部
いちぶ
の
寺院
じいん
が
不浄
ふじょう
であることは
事実
じじつ
です。
彼
かれ
らが
頭
あたま
の
中
なか
でそういうことを
考
かんが
え、そんな
良
よ
くない
念
ねん
をもっているようでは、どうして
覚者
かくしゃ
が
来
き
てくれるでしょうか?
開眼
かいげん
という
目的
もくてき
が
達成
たっせい
できるわけもありません。もっとも
例外
れいがい
がないということではなく、わずかではありますが
良
よ
い
寺院
じいん
と
道観
どうかん
もあります。
わたしはある
都市
とし
で
一人
ひとり
の
和尚
おしょう
を
見
み
かけました。その
手
て
は
真
ま
っ
黒
くろ
でした。
経文
きょうもん
を
佛像
ぶつぞう
に
詰
つ
めた
後
あと
、
糊
のり
で
封
ふう
をし、
口
くち
の
中
なか
でぶつぶつと
呟
つぶや
いただけで、
開眼
かいげん
を
済
す
ましたというのです。つづいてもう
一体
いったい
の
佛像
ぶつぞう
を
手
て
に
取
と
って、またぶつぶつ
呟
つぶや
きました。
佛像
ぶつぞう
を
一体
いったい
開眼
かいげん
するたびに、
四十元
よんじゅうげん
取
と
ります。
今
いま
の
和尚
おしょう
はこういうことさえも
商品
しょうひん
化
か
してしまい、
佛像
ぶつぞう
の
開眼
かいげん
で
金儲
かねもう
けをしているのです。わたしが
見
み
ると、
開眼
かいげん
なんかしていません。
開眼
かいげん
できるわけもありません。
今
いま
の
和尚
おしょう
は
驚
おどろ
いたことにこの
程度
ていど
のことをしているのです。わたしがほかにもう
一
ひと
つ
見
み
たものは
何
なに
かと
言
い
いますと、ある
寺院
じいん
に、
居士
こじ
と
思
おも
われる
人
ひと
がいて、
佛像
ぶつぞう
を
開眼
かいげん
すると
言
い
って、
一枚
いちまい
の
鏡
かがみ
を
持
も
って
太陽
たいよう
に
向
む
け、
太陽
たいよう
の
光
ひかり
を
佛像
ぶつぞう
の
身体
からだ
に
反射
はんしゃ
させるだけで、
開眼
かいげん
したと
言
い
うのです。ここまで
馬鹿々々
ばかばか
しい
事
こと
が
行
おこ
なわれるようになっています!
佛教
ぶっきょう
がここまで
来
き
てしまった
現在
げんざい
、このような
現象
げんしょう
はごく
普通
ふつう
に
見
み
られます。
南京
ナンキン
で
造
つく
られた
銅
どう
の
大佛
だいぶつ
像
ぞう
が、
香港
ほんこん
の
大嶼山
だいしょさん
に
立
た
てられました。とても
大
おお
きな
佛像
ぶつぞう
です。
全
ぜん
世界
せかい
からたくさんの
和尚
おしょう
が
来
き
て、その
佛像
ぶつぞう
を
開眼
かいげん
することになりました。その
中
なか
の
一人
ひとり
が、
鏡
かがみ
を
太陽
たいよう
に
向
む
けて、その
光
ひかり
を
佛像
ぶつぞう
の
顔
かお
に
反射
はんしゃ
させるだけで
開眼
かいげん
をしたと
言
い
うのです。あのように
盛大
せいだい
な
式典
しきてん
で、あのように
厳
おごそ
かな
場面
ばめん
で、こうした
馬鹿
ばか
げたことをするなど、わたしは
本当
ほんとう
に
悲
かな
しく
思
おも
いました! なるほど
釈迦牟尼
しゃかむに
の
言
い
うように、
末法
まっぽう
の
時期
じき
になると、
和尚
おしょう
自身
じしん
も
済度
さいど
し
難
がた
いものですから、
他人
たにん
を
済度
さいど
することはさらに
難
むずか
しいことです。それに、
多
おお
くの
和尚
おしょう
は
自分
じぶん
の
立場
たちば
から
佛経
ぶっきょう
を
解釈
かいしゃく
し、また「
王母娘娘経
ワンムニャンニャンきょう
」のようなものさえ
寺院
じいん
の
中
なか
に
入
はい
り、
佛教
ぶっきょう
の
経典
きょうてん
にないものまで
寺院
じいん
に
入
はい
りましたので、
寺院
じいん
の
中
なか
は
大変
たいへん
混乱
こんらん
して、
乱脈
らんみゃく
をきわめています。
言
い
うまでもなく、
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
する
和尚
おしょう
もおり、
立派
りっぱ
な
人
ひと
もいます。
開眼
かいげん
とは、
実
じつ
はほかでもなく
覚者
かくしゃ
の
法身
ほうしん
を
佛像
ぶつぞう
にお
招
まね
きすることで、
法身
ほうしん
が
佛像
ぶつぞう
に
降
お
りれば
開眼
かいげん
したということになります。
そういうことなので、
開眼
かいげん
されていない
佛像
ぶつぞう
は
祀
まつ
ってはなりません。
祀
まつ
ったら、きわめて
深刻
しんこく
な
結果
けっか
をもたらすことになります。どのような
深刻
しんこく
な
結果
けっか
になるのでしょうか?
現在
げんざい
までに
人体
じんたい
科学
かがく
が
発見
はっけん
したところによれば、
人間
にんげん
の
意念
いねん
、
大脳
だいのう
の
思惟
しい
は
一種
いっしゅ
の
物質
ぶっしつ
を
生
しょう
じさせることができます。きわめて
高
たか
い
次元
じげん
から
見
み
れば、それは
確
たし
かに
物質
ぶっしつ
の
一種
いっしゅ
です。しかしこの
物質
ぶっしつ
は、
現在
げんざい
までの
研究
けんきゅう
で
発見
はっけん
されているような
脳波
のうは
電流
でんりゅう
の
形
かたち
のものではなく、
完全
かんぜん
な
大脳
だいのう
の
形式
けいしき
をもったものです。
普段
ふだん
、
常人
じょうじん
が
物事
ものごと
を
考
かんが
える
時
とき
に
発
はっ
した
大脳
だいのう
形態
けいたい
のものは、エネルギーを
持
も
っていないために、
発
はっ
せられた
後
あと
、
間
ま
もなく
散
ち
ってしまいます。しかし、
煉功者
れんこうしゃ
のエネルギーはずっと
長
なが
く
保
たも
たれます。
佛像
ぶつぞう
は
工場
こうじょう
で
造
つく
られた
当初
とうしょ
から
思惟
しい
を
持
も
っているわけではありません。
開眼
かいげん
されていない
佛像
ぶつぞう
を、
寺院
じいん
に
持
も
っていったからといって、
開眼
かいげん
の
目的
もくてき
が
達成
たっせい
できるとは
限
かぎ
りません。
偽
にせ
気功師
きこうし
や
邪道
じゃどう
の
人
ひと
に
開眼
かいげん
を
頼
たの
んだ
場合
ばあい
、
狐
きつね
やイタチが
佛像
ぶつぞう
に
乗
の
り
移
うつ
ってしまうので、もっと
危険
きけん
です。
さて、
開眼
かいげん
されていない
佛像
ぶつぞう
を
拝
おが
むことは、
大変
たいへん
危険
きけん
です。どれほど
危険
きけん
でしょうか? すでにお
話
はな
ししたように、
人類
じんるい
は
今日
こんにち
のような
段階
だんかい
まで
来
き
てしまって、すべてのものが
退廃
たいはい
しており、
社会
しゃかい
全体
ぜんたい
、
宇宙
うちゅう
全体
ぜんたい
のすべての
事
こと
が
引
ひ
きも
切
き
らずに
退廃
たいはい
しています。
常人
じょうじん
の
中
なか
のすべてはみな
自分
じぶん
自身
じしん
がもたらしたことです。
正法
しょうぼう
を
求
もと
め、
正
ただ
しい
道
みち
を
歩
あゆ
もうとしても、さまざまな
方面
ほうめん
から
妨害
ぼうがい
されますので、
難
むずか
しく、
佛
ほとけ
に
祈
いの
ろうとしても、どこに
佛
ほとけ
がおわしますか?
求
もと
めようとしても
難
むずか
しいのです。これが
信
しん
じられなければ、
明
あき
らかにしてあげましょう。
開眼
かいげん
していない
佛像
ぶつぞう
を、
最初
さいしょ
に
誰
だれ
かが
拝
おが
むと、
大変
たいへん
なことになります。
現在
げんざい
、
佛
ほとけ
を
拝
おが
む
人
ひと
の
中
なか
に、
真
しん
に
心
こころ
の
中
なか
で
佛
ほとけ
に
祈
いの
って
正果
しょうか
を
得
え
ようとする
人
ひと
がどれくらいいるでしょうか? このような
人
ひと
はあまりにも
少
すく
ないのです。
大
だい
多数
たすう
の
人
ひと
は
何
なん
のために
佛
ほとけ
を
拝
おが
むのでしょうか?
厄払
やくばら
い、
厄除
やくよ
け、
金儲
かねもう
け、といったことを
求
もと
めているのです。それらは
佛教
ぶっきょう
の
経典
きょうてん
にあるものでしょうか? そんなものはどこにもありません。
金
かね
を
求
もと
める
人
ひと
が
佛
ほとけ
を
拝
おが
む
場合
ばあい
、
佛像
ぶつぞう
に
向
む
かって、あるいは
観音
かんのん
菩薩
ぼさつ
像
ぞう
または
如来
にょらい
佛像
ぶつぞう
に
向
む
かって「どうか、
金儲
かねもう
けができますようによろしくお
願
ねが
いします」と
言
い
ったとします。するとそれによって
一
ひと
つの
完全
かんぜん
な
意念
いねん
が
形成
けいせい
されます。その
意念
いねん
は
佛像
ぶつぞう
に
向
む
かって
発
はっ
せられたものですから、すぐにその
佛像
ぶつぞう
に
乗
の
り
移
うつ
ってしまうのです。
他
た
の
空間
くうかん
にあるその
身体
からだ
は
大
おお
きく
変身
へんしん
したり、
小
ちい
さく
変身
へんしん
したりすることができますので、
佛像
ぶつぞう
に
乗
の
り
移
うつ
れば、この
佛像
ぶつぞう
は
一
ひと
つの
大脳
だいのう
を
持
も
つようになり、
思惟
しい
を
持
も
つようになります。しかし、
身体
からだ
はありません。
他
ほか
の
人
ひと
も
拝
おが
みに
行
い
きます。
拝
おが
んでいるうちに、
佛像
ぶつぞう
に
一定
いってい
のエネルギーを
与
あた
えてしまいます。
特
とく
に
煉功者
れんこうしゃ
の
場合
ばあい
はいっそう
危険
きけん
で、
拝
おが
むと
次第
しだい
にエネルギーを
与
あた
えるので、やがてこの
佛像
ぶつぞう
が
有形
ゆうけい
の
身体
からだ
を
形成
けいせい
するようになります。ただし、この
有形
ゆうけい
の
身体
からだ
は
他
た
の
空間
くうかん
で
形成
けいせい
されたのです。
形成
けいせい
された
後
あと
、それは
他
た
の
空間
くうかん
にいて、
宇宙
うちゅう
の
中
なか
の
理
り
を
少
すこ
し
知
し
っているので、
人間
にんげん
の
手助
てだす
けを
少
すこ
しばかりすることができます。それで
少
すこ
しばかりの
功
こう
を
持
も
つことができますが、しかし、
人間
にんげん
を
助
たす
けるには、
条件
じょうけん
と
代償
だいしょう
があります。
他
た
の
空間
くうかん
では、それが
思
おも
うままに
動
うご
き、
思
おも
うままに
常人
じょうじん
を
操
あやつ
ることができます。この
有形
ゆうけい
の
身体
からだ
は
佛像
ぶつぞう
の
姿
すがた
とそっくりなので、
偽物
にせもの
の
観音
かんのん
菩薩
ぼさつ
、
偽物
にせもの
の
如来佛
にょらいぶつ
を
礼拝
らいはい
によって
作
つく
ってしまったことになります。それは
人間
にんげん
の
礼拝
らいはい
によって
作
つく
られたもので、
佛像
ぶつぞう
の
姿
すがた
とそっくりで、
佛
ほとけ
の
姿
すがた
をしています。
偽物
にせもの
の
佛
ほとけ
、
偽物
にせもの
の
菩薩
ぼさつ
の
思惟
しい
はきわめて
悪質
あくしつ
で、
金
かね
を
求
もと
めようとするものです。それは
他
た
の
空間
くうかん
で
生
う
まれ、
思惟
しい
を
持
も
ち、
少
すこ
しばかり
理
り
を
知
し
っているので、
大
たい
した
悪事
あくじ
は
敢
あ
えて
働
はたら
こうとしないのですが、
小
ちい
さい
悪事
あくじ
を
行
おこ
なうことがあります。
人間
にんげん
を
助
たす
ける
時
とき
もあります。
人間
にんげん
を
助
たす
けなければ、まったくの
邪道
じゃどう
となり、
抹殺
まっさつ
されなければならないからです。どのように
人間
にんげん
を
助
たす
けるのでしょうか? ある
人
ひと
が「
佛
ほとけ
様
さま
、お
願
ねが
いします。どうか、
助
たす
けてください。
家族
かぞく
が
病気
びょうき
になりました」と
拝
おが
みました。よし、
助
たす
けてあげよう、と
請
う
け
合
あ
い、まず
賽銭箱
さいせんばこ
の
中
なか
にお
金
かね
を
入
い
れさせます。
金
かね
が
目当
めあ
てです。
賽銭
さいせん
箱
ばこ
の
中
なか
にたくさんお
金
かね
を
入
い
れれば、
病気
びょうき
が
早
はや
く
治
なお
るようにしてくれます。それには
一定
いってい
のエネルギーがあって、
他
た
の
空間
くうかん
で
常人
じょうじん
を
制御
せいぎょ
することができるわけです。とりわけ
功
こう
のある
人
ひと
が
拝
おが
みに
行
い
ったら、もっと
危険
きけん
です。その
煉功者
れんこうしゃ
は
何
なに
を
求
もと
めているのでしょうか?
金
かね
を
求
もと
めているのです。
考
かんが
えてみてください。
煉功者
れんこうしゃ
が
金
かね
を
求
もと
めて、
何
なに
をするのでしょうか?
家族
かぞく
のために
厄払
やくばら
いを
求
もと
めたり、
病
やまい
を
治
なお
すことを
求
もと
めたりすることさえも、
家族
かぞく
への
情
じょう
に
対
たい
する
執着
しゅうちゃく
なのです。
他人
たにん
の
運命
うんめい
を
左右
さゆう
しようとしても、
人間
にんげん
にはそれぞれ
定
さだ
められた
運命
うんめい
があります! もし「どうか
金
かね
持
も
ちになれますように」と
言
い
って
拝
おが
むと、
喜
よろこ
んで
助
たす
けてくれます。あなたが
金
かね
を
求
もと
めれば
求
もと
めるほどそれは
喜
よろこ
びます。
等価
とうか
交換
こうかん
ですので、それもあなたから
多
おお
くの
物
もの
を
取
と
ることができるわけです。
賽銭
さいせん
箱
ばこ
には、
他
ほか
の
人
ひと
が
入
い
れたお
金
かね
がいくらでもあります。それはあなたに
得
え
させます。どのように
得
え
させるのでしょうか?
街
まち
に
出
で
かけて
財布
さいふ
を
拾
ひろ
ったとか、
職場
しょくば
で
奨励金
しょうれいきん
をもらったとか、とにかく
何
なん
とかしてあなたにお
金
かね
を
得
え
させるのです。しかし、
無条件
むじょうけん
であなたを
助
たす
けるわけにはいかないでしょう? 「
失
うしな
わないものは
得
え
られず」と
言
い
われているように、それには
功
こう
がないので、あなたから
功
こう
を
取
と
ったり、あるいはあなたが
修煉
しゅうれん
して
得
え
た
丹
たん
を
取
と
ったりします。それはこういうものを
欲
ほ
しがるのです。
これらの
偽物
にせもの
の
佛
ほとけ
は、
時
とき
には
非常
ひじょう
に
危険
きけん
な
場合
ばあい
があります。
天目
てんもく
が
開
ひら
いた
多
おお
くの
人
ひと
は、
佛
ほとけ
が
見
み
えたと
思
おも
い
込
こ
んでいます。ある
人
ひと
が「
今日
きょう
は
寺
てら
にたくさんの
佛
ほとけ
が
来
き
た」とか、「この
佛
ほとけ
は
何々
なになに
という
名前
なまえ
で、たくさんの
佛
ほとけ
を
連
つ
れてきた」とか、「
昨日
きのう
来
き
た
佛
ほとけ
たちはこれこれの
様子
ようす
だった」とか、「
今日
きょう
来
き
た
佛
ほとけ
はこれこれの
様子
ようす
だった」とか、「
間
ま
もなく
帰
かえ
って
行
い
った」とか、「また
来
き
た」などと
言
い
っていましたが、それらは
何
なん
でしょうか? ほかでもなくみなこの
類
たぐ
いのものです。それらは
本物
ほんもの
の
佛
ほとけ
ではなく、
偽物
にせもの
の
佛
ほとけ
です。この
類
たぐ
いのものが
相当
そうとう
多
おお
いのです。
もし
寺院
じいん
の
中
なか
にこのような
情況
じょうきょう
が
現
あら
われれば、なお
危険
きけん
です。
和尚
おしょう
がそういう
偽物
にせもの
の
佛
ほとけ
を
拝
おが
むと、その
和尚
おしょう
が
制御
せいぎょ
されることになります。「わたしを
拝
おが
んでいるだろう? はっきりと
拝
おが
んでいるじゃないか! よし、
修煉
しゅうれん
したいのか? ならば、わたしが
面倒
めんどう
を
見
み
てあげよう。どのように
修煉
しゅうれん
するかについてはわたしが
教
おし
えてあげる」などと、それらが
修煉
しゅうれん
の
段取
だんど
りを
考
かんが
えてくれます。そういう
形
かたち
で
修煉
しゅうれん
して
成就
じょうじゅ
したら、あなたはどこへ
行
い
くでしょうか? それらが
面倒
めんどう
を
見
み
た
者
もの
は、
上
うえ
のどの
法門
ほうもん
にも
受
う
け
入
い
れてもらえません。それらが
修煉
しゅうれん
の
段取
だんど
りを
考
かんが
えた
以上
いじょう
、
将来
しょうらい
もそれらが
面倒
めんどう
を
見
み
つづけることになります。それでは
無駄
むだ
に
修煉
しゅうれん
したことになるではありませんか? ですから、
現在
げんざい
の
人類
じんるい
は、
修煉
しゅうれん
して
正果
しょうか
を
得
え
ようとしても
難
むずか
しいと
言
い
っているのです。この
現象
げんしょう
は、かなり
普遍
ふへん
性
せい
のあるものです。
多
おお
くの
人
ひと
が
名山
めいざん
や
大河
たいが
で
佛光
ぶっこう
を
見
み
たと
言
い
っていますが、それらはほとんどこの
類
たぐ
いのものです。それらはエネルギーがあるので、
顕現
けんげん
することができます。それに
対
たい
し、
本当
ほんとう
の
大覚者
だいかくしゃ
は
軽々
かるがる
しく
顕現
けんげん
することはしません。
昔
むかし
、
地上佛
ちじょうぶつ
、
地上道
ちじょうどう
といわれるものは
比較的
ひかくてき
少
すく
なかったのですが、しかし、
今
いま
はとてもたくさんあります。それらが
悪
わる
いことをした
時
とき
、
上
うえ
の
佛
ほとけ
がそれらを
撲滅
ぼくめつ
しようとします。
撲滅
ぼくめつ
されそうになったら、それらは
佛像
ぶつぞう
に
逃
に
げ
込
こ
んでしまいます。
常人
じょうじん
の
理
り
に、
一般
いっぱん
の
大覚者
だいかくしゃ
はめったに
干渉
かんしょう
しません。
次元
じげん
の
高
たか
い
覚者
かくしゃ
ほど、
常人
じょうじん
の
理
り
を
壊
こわ
さず、まったく
干渉
かんしょう
しません。
突然
とつぜん
雷
かみなり
を
落
おと
して、
佛像
ぶつぞう
を
打
う
ち
砕
くだ
いてしまうようなことをするわけにはいきません。そんなことはしません。ですから、
佛像
ぶつぞう
に
逃
に
げ
込
こ
んでしまえば、それ
以上
いじょう
は
追及
ついきゅう
しません。このように、
撲滅
ぼくめつ
されそうになると、それらにはそれが
分
わ
かるので
逃
に
げてしまいます。したがって、あなたが
観音
かんのん
菩薩
ぼさつ
を
見
み
たとしても、それは
果
はた
して
観音
かんのん
菩薩
ぼさつ
でしょうか? あなたの
見
み
た
佛
ほとけ
は、
佛
ほとけ
なのでしょうか?
必
かなら
ずしもそうとは
言
い
えないのです。
多
おお
くの
人
ひと
がきっと「わが
家
や
の
佛像
ぶつぞう
はどうすればよいのだろうか?」ということに
考
かんが
え
及
およ
んだでしょう。そして、わたしのことを
思
おも
い
出
だ
した
人
ひと
が
多
おお
くいるかも
知
し
れません。
学習者
がくしゅうしゃ
の
修煉
しゅうれん
を
助
たす
けるために、こうすればよいということを
教
おし
えましょう。わたしの
本
ほん
(
本
ほん
の
中
なか
にはわたしの
写真
しゃしん
があるから)あるいはわたしの
写真
しゃしん
を
持
も
って、
手
て
に
佛像
ぶつぞう
を
捧
ささ
げ、
大蓮花
だいれんげ
手印
しゅいん
を
結
むす
び、それからわたしに
祈
いの
るように「
先生
せんせい
、どうか
開眼
かいげん
を
宜
よろ
しくお
願
ねが
いします」と
言
い
えばよいのです。
三十秒
さんじゅうびょう
くらいで
問題
もんだい
は
解決
かいけつ
してしまいます。よく
聞
き
いてください。これは
修煉者
しゅうれんしゃ
だけに
限
かぎ
ります。
親戚
しんせき
や
友人
ゆうじん
のために
開眼
かいげん
してあげようと
思
おも
っても、
全然
ぜんぜん
効
き
きません。わたしは
修煉者
しゅうれんしゃ
の
面倒
めんどう
しか
見
み
ません。「
先生
せんせい
の
写真
しゃしん
を
親戚
しんせき
や
友人
ゆうじん
の
家
いえ
に
置
お
いて、
魔除
まよ
けに
使
つか
いたい」と
言
い
う
人
ひと
がいます。わたしは
常人
じょうじん
のための
魔除
まよ
けではありません。それは
師
し
に
対
たい
する
最大
さいだい
の
不敬
ふけい
です。
地上佛
ちじょうぶつ
や
地上道
ちじょうどう
については、もう
一
ひと
つの
情況
じょうきょう
があります。
中国
ちゅうごく
の
古代
こだい
では、
多
おお
くの
人
ひと
が、
人
ひと
が
足
あし
を
踏
ふ
み
入
い
れない
山奥
やまおく
で
修煉
しゅうれん
していました。どうして
今
いま
はいなくなったのでしょうか?
実
じつ
はいなくなったのではなく、
常人
じょうじん
に
分
わ
からないようにしているだけに
過
す
ぎず、
少
すこ
しも
減
へ
っていません。これらの
人
ひと
はみな
功能
こうのう
を
持
も
っています。ここ
数年
すうねん
、これらの
人
ひと
がいなくなったわけではなく、みんな
健在
けんざい
です。
現在
げんざい
、
世界中
せかいじゅう
にまだ
数
すう
千人
せんにん
いますが、わが
国
くに
には
比較的
ひかくてき
多
おお
く、ほとんどの
人
ひと
が
名山
めいざん
や
大河
たいが
にいて、
一部
いちぶ
の
高山
こうざん
にもいます。その
人
ひと
たちは
功能
こうのう
で
洞窟
どうくつ
の
入口
いりぐち
を
塞
ふさ
いでおり、
彼
かれ
らの
存在
そんざい
は
見
み
えないのです。その
人
ひと
たちの
修煉
しゅうれん
は
比較的
ひかくてき
遅
おそ
いもので、やり
方
かた
はそれほど
器用
きよう
ではありません。
彼
かれ
らは
修煉
しゅうれん
の
核心
かくしん
を
掴
つか
むことができません。それに
対
たい
してわれわれの
功法
こうほう
は
人心
じんしん
を
真
ま
っ
直
す
ぐに
指
さ
し、
宇宙
うちゅう
の
最高
さいこう
の
特性
とくせい
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
し、
宇宙
うちゅう
の
形式
けいしき
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
しているので、
当然
とうぜん
功
こう
が
速
すみ
やかに
伸
の
びます。
修煉
しゅうれん
の
法門
ほうもん
はピラミッドの
形
かたち
をしており、
真
ま
ん
中
なか
だけが
大道
だいどう
なのです。
周辺
しゅうへん
の
小道
しょうどう
は、
修煉
しゅうれん
しても
心性
しんせい
が
高
たか
くなるとは
限
かぎ
りません。
高
たか
い
次元
じげん
に
到達
とうたつ
しないうちに
功
こう
を
開
ひら
くことがあるかも
知
し
れませんが、
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
する
大道
だいどう
と
比
くら
べれば、ずいぶんかけ
離
はな
れています。
彼
かれ
らも、
弟子
でし
をとって
伝承
でんしょう
しています。
彼
かれ
らの
法門
ほうもん
は
高
たか
さが
限
かぎ
られており、
心性
しんせい
の
高
たか
さもその
程度
ていど
しかないので、その
弟子
でし
たちはせいぜいその
高
たか
さに
向
む
けてしか
修煉
しゅうれん
できません。
周辺
しゅうへん
の
小道
しょうどう
であればあるほど、こだわりが
多
おお
く、
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
も
複雑
ふくざつ
で、
核心
かくしん
を
掴
つか
んで
修煉
しゅうれん
することができないのです。
修煉
しゅうれん
というのは、
主
おも
に
心性
しんせい
を
修煉
しゅうれん
することですが、
彼
かれ
らはまだこのことが
分
わ
かっておらず、
苦
くる
しみに
耐
た
えさえすれば
修煉
しゅうれん
できると
思
おも
い
込
こ
んでいます。ですから、その
人
ひと
たちは、
非常
ひじょう
に
長
なが
い
年月
ねんげつ
をかけて、
何百年
なんびゃくねん
、
何千年
なんぜんねん
修煉
しゅうれん
しても、ほんのわずかしか
功
こう
が
伸
の
びません。
実際
じっさい
のところ、
彼
かれ
らの
功
こう
は、
苦
くる
しみに
耐
た
えることによって
得
え
たものではありません。ではどのようにして
修得
しゅうとく
したのでしょうか?
人間
にんげん
は
若
わか
い
頃
ころ
には
執着心
しゅうちゃくしん
が
多
おお
く、もてあまします。しかし
年
とし
をとり、
月日
つきひ
が
経
た
つにつれて、
前途
ぜんと
に
希望
きぼう
がなくなるので、その
執着心
しゅうちゃくしん
もおのずと
放棄
ほうき
するようになり、すり
減
へ
って
無
な
くなってしまうものです。これと
同
おな
じような
方法
ほうほう
をそれらの
小道
しょうどう
も
採
と
っているのです。
彼
かれ
らは、
坐禅
ざぜん
や
定力
じょうりき
、
苦
くる
しみへの
忍耐
にんたい
だけに
頼
たよ
って
修煉
しゅうれん
していても
功
こう
が
伸
の
びる、ということは
分
わ
かります。しかし
彼
かれ
らは、
自分
じぶん
の
常人
じょうじん
としての
執着心
しゅうちゃくしん
がかなり
長
なが
く
苦
くる
しい
年月
ねんげつ
の
中
なか
で
少
すこ
しずつ
削
けず
り
取
と
られたに
過
す
ぎないこと、それが
次第
しだい
に
削
けず
り
取
と
られたことによってはじめて
功
こう
が
伸
の
びたのだ、ということが
分
わ
かりません。
これに
対
たい
して、われわれはねらいを
定
さだ
めて、
本当
ほんとう
にその
心
こころ
を
指摘
してき
し、その
心
こころ
を
取
と
り
除
のぞ
くわけですから、
修煉
しゅうれん
がきわめて
速
はや
いのです。わたしは
各地
かくち
で、そういう
人
ひと
によく
会
あ
いました。いずれも
長年
ながねん
修煉
しゅうれん
している
者
もの
ばかりでした。
彼
かれ
らは「
誰
だれ
もわれわれがここにいることを
知
し
らない。われわれはあなたのやることには
一切
いっさい
邪魔
じゃま
はしない」と
言
い
いました。これは
良
よ
いほうです。
良
よ
くない
者
もの
もいます。
良
よ
くない
者
もの
は
処理
しょり
しなければなりません。
例
れい
を
一
ひと
つ
挙
あ
げましょう。わたしが
初
はじ
めて
貴州
きしゅう
へ
行
い
って
功
こう
を
教
おし
えた
時
とき
のことです。
講習会
こうしゅうかい
の
最中
さいちゅう
に、ある
人
ひと
が
訪
たず
ねて
来
き
ました。「
自分
じぶん
はなにがしという
師
し
の
孫弟子
まごでし
だが、
師
し
は
長年
ながねん
修煉
しゅうれん
しており、あなたに
会
あ
いたがっている」と、
言
い
ってきたのです。
見
み
ると、その
人
ひと
は
非常
ひじょう
に
良
よ
くない
陰気
いんき
を
帯
お
びており、
顔色
かおいろ
が
非常
ひじょう
に
悪
わる
いのです。わたしは
時間
じかん
がないから
会
あ
わないと
断
こと
わりました。すると、その
師
し
である
爺
じい
さんは
機嫌
きげん
が
悪
わる
くなって、わたしの
妨害
ぼうがい
をしはじめました。
毎日
まいにち
のように
妨害
ぼうがい
をしに
来
き
ました。わたしは
人
ひと
と
闘
たたか
うことが
嫌
きら
いな
上
うえ
、
彼
かれ
とは
闘
たたか
うまでもありません。
彼
かれ
が
良
よ
くないものを
持
も
ってきても、わたしはそれをきれいに
片付
かたづ
けてから、
説法
せっぽう
を
続
つづ
けていました。
昔
むかし
、
明
みん
の
時代
じだい
に、ある
修道者
しゅうどうしゃ
がいましたが、
修道
しゅうどう
する
時
とき
、
蛇
へび
に
取
と
り
付
つ
かれてしまいました。
結局
けっきょく
この
修道者
しゅうどうしゃ
は
成就
じょうじゅ
できずに
死
し
にましたが、
蛇
へび
が
修道者
しゅうどうしゃ
の
身体
からだ
を
占有
せんゆう
し、
修行
しゅぎょう
して
人間
にんげん
の
姿
すがた
を
持
も
つようになりました。この
蛇
へび
が
修行
しゅぎょう
して
得
え
た
人間
にんげん
の
姿
すがた
こそ、ほかでもない、あの
時
とき
訪
たず
ねてきた
人
ひと
の
師
し
です。
彼
かれ
は
本性
ほんしょう
が
変
か
わらないので、また
大蛇
だいじゃ
に
化
ば
けてわたしの
妨害
ぼうがい
をしました。あまりにもひどすぎたので、わたしはそれを
手
て
に
掴
つか
んで、「
化功
かこう
」というきわめて
強
つよ
い
功
こう
を
使
つか
って、その
下半身
かはんしん
を
溶
と
かして
水
みず
にしました。その
上半身
じょうはんしん
だけが
逃
に
げ
帰
かえ
りました。
ある
日
ひ
、
貴
き
州
しゅう
の
法輪大法
ファールンダーファー
勉強
べんきょう
会
かい
の
責任
せきにん
者
しゃ
が、「
師
し
が
会
あ
いたい」ということで、
彼
かれ
の
孫弟子
まごでし
に
呼
よ
ばれて
行
い
きました。
彼女
かのじょ
が
洞窟
どうくつ
の
中
なか
に
入
はい
ってみると、
洞窟
どうくつ
の
中
なか
は
真
ま
っ
暗
くら
で
何
なに
も
見
み
えません。
一
ひと
つの
影
かげ
がそこに
坐
すわ
っており、
目
め
から
緑
みどり
の
光
ひかり
を
放
はな
っています。その
影
かげ
が
目
め
を
開
あ
けると、
洞窟
どうくつ
の
中
なか
が
明
あか
るくなり、
目
め
を
閉
と
じると
洞窟
どうくつ
の
中
なか
はまた
真
ま
っ
暗
くら
になります。
彼
かれ
は
方言
ほうげん
で「
李洪志
りこうし
がまた
来
こ
られるのか。この
次
つぎ
はわれわれは
誰
だれ
もこの
前
まえ
のようなことをしない。わしが
悪
わる
かった。
李洪志
りこうし
は
人
ひと
を
済度
さいど
するために
来
こ
られた
方
かた
じゃ」と
話
はな
しました。「どうしてお
立
た
ちになりませんか。
足
あし
はどうなさいましたか?」と
孫弟子
まごでし
が
尋
たず
ねたら、「わしはもう
立
た
ち
上
あ
がれない。
足
あし
を
怪我
けが
したのじゃ」と
答
こた
えました。どうして
怪我
けが
をしたのかと
聞
き
いたら、
彼
かれ
はわたしの
妨害
ぼうがい
をした
時
とき
の
一部始終
いちぶしじゅう
を
話
はな
しました。
一九九三年
せんきゅうひゃくきゅうじゅうさんねん
、
北京
ぺきん
での
東方
とうほう
健康
けんこう
博覧
はくらん
会
かい
の
時
とき
、
彼
かれ
はまた
妨害
ぼうがい
をしに
来
き
ました。この
人
ひと
はたびたび
悪
わる
いことをし、わたしが
大法
ダーファー
を
伝
つた
えるのを
妨
さまた
げるので、わたしはとうとう
彼
かれ
を
徹底的
てっていてき
に
始末
しまつ
しました。その
後
ご
、
彼
かれ
の
姉妹
しまい
、
兄弟
きょうだい
弟子
でし
たちがみな
手
て
を
出
だ
そうとしましたが、その
時
とき
、わたしが
二言三言
ふたことみこと
言
い
ったら、
全員
ぜんいん
震
ふる
え
上
あ
がりました。どういうことなのかが
分
わ
かり、
怖
こわ
くなって、
誰
だれ
一人
ひとり
として
手
て
を
出
だ
せる
者
もの
はいませんでした。その
人
ひと
たちの
中
なか
には、
長年
ながねん
修行
しゅぎょう
しているのに、まだまったくの
常人
じょうじん
である
人
ひと
もいます。これは
開眼
かいげん
の
話
はなし
のついでに
挙
あ
げた
例
れい
です。
祝由科
しゅくゆうか
祝由科
しゅくゆうか
とは
何
なん
でしょうか?
修煉界
しゅうれんかい
では、
功法
こうほう
を
教
おし
えるにあたって、それを
修煉
しゅうれん
の
範疇
はんちゅう
内
ない
のものとして
教
おし
えている
人
ひと
も
多
おお
くいますが、
実際
じっさい
は、これは
修煉
しゅうれん
範疇
はんちゅう
内
ない
のものではありません。それは、
秘訣
ひけつ
や
呪文
じゅもん
や
技
わざ
の
伝承
でんしょう
です。お
札
ふだ
を
書
か
いたり、
香
こう
を
焚
た
いたり、
紙銭
しせん
を
焼
や
いたり、
呪文
じゅもん
を
唱
とな
えたりするなどの
形式
けいしき
をとり、それも
病
やまい
を
治
なお
すことができますが、その
治
なお
し
方
かた
はとても
独特
どくとく
なものです。
一
ひと
つ
例
れい
を
挙
あ
げましょう。
誰
だれ
かの
顔
かお
に
吹
ふ
き
出物
でもの
ができたとします。
筆
ふで
に
辰砂
しんしゃ
を
付
つ
けて
地面
じめん
に
円
えん
を
描
えが
き、
円
えん
の
中
なか
に
一
ひと
つの
十字
じゅうじ
を
書
か
きます。
患者
かんじゃ
をその
円
えん
の
中
なか
に
立
た
たせた
後
あと
、
呪文
じゅもん
を
唱
とな
え
始
はじ
めます。それから、
筆
ふで
に
辰砂
しんしゃ
を
付
つ
けて
患者
かんじゃ
の
顔
かお
に
円
えん
を
描
えが
きます。
描
えが
きながら
呪文
じゅもん
を
唱
とな
えます。しばらく
描
えが
いてから、
吹
ふ
き
出物
でもの
に
点
てん
を
打
う
つと、
呪文
じゅもん
も
唱
とな
え
終
おわ
り、「
治
なお
った」と
言
い
うのです。
触
さわ
ってみると、その
吹
ふ
き
出物
でもの
は
確
たし
かに
小
ちい
さくなり、
痛
いた
みも
消
き
え、
効
き
き
目
め
があります。このような
小
ちい
さな
病
やまい
は
治
なお
せますが、
大
おお
きな
病気
びょうき
の
場合
ばあい
は、
効
き
かなくなります。
腕
うで
が
痛
いた
い
時
とき
はどのように
治
なお
すのでしょうか?
口
くち
の
中
なか
で
呪文
じゅもん
を
唱
とな
えながら、あなたに
腕
うで
を
伸
の
ばさせます。この
手
て
の
合谷
ごうこく
というツボに
息
いき
を
一
ひと
口
くち
吹
ふ
いて、その
息
いき
をもう
一方
いっぽう
の
手
て
の
合谷
ごうこく
から
出
で
るようにします。すると、
確
たし
かに
一
ひと
そよぎの
風
かぜ
を
感
かん
じます。
触
さわ
ってみると、
痛
いた
みがだいぶ
和
やわ
らいでいます。そのほか、
紙
かみ
を
焼
や
いたり、お
札
ふだ
を
書
か
いたり
張
は
ったりするような
形式
けいしき
もありますが、
祝由科
しゅくゆうか
とは、このようなことをやるものです。
道家
どうけ
の
世間
せけん
小道
しょうどう
では、
命
めい
を
修
おさ
めることをせずに、
卦
け
をたてたり、
風水
ふうすい
を
見
み
たり、
厄
やく
を
払
はら
ったり、
病気
びょうき
を
治
なお
したり、といったことばかりをしています。
世間
せけん
小道
しょうどう
ではよくそれらを
用
もち
います。
病気
びょうき
を
治
なお
すことはできますが、
用
もち
いた
方法
ほうほう
はあまり
良
よ
くありません。それが
何
なに
を
利用
りよう
して
病気
びょうき
を
治
なお
したかについては、ここでは
話
はな
しませんが、きわめて
低
ひく
い、きわめて
良
よ
くない
信息
しんそく
をもっているので、
大法
ダーファー
を
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
はそれを
用
もち
いてはなりません。
古代
こだい
中国
ちゅうごく
では、
病気
びょうき
を
治
なお
す
方法
ほうほう
を
科目
かもく
ごとに
分類
ぶんるい
しました。
例
たと
えば、
接骨
せっこつ
、
針灸
しんきゅう
、
按摩
あんま
、
推拿
すいな
、
点穴
てんけつ
、
気功
きこう
治療
ちりょう
、
薬草
やくそう
治療
ちりょう
などなど、
多
おお
くの
科目
かもく
に
分
わ
けています。それぞれの
病気
びょうき
の
治療
ちりょう
方法
ほうほう
を
一
ひと
つの
科
か
と
呼
よ
びますが、この
祝由科
しゅくゆうか
は
第十三科
だいじゅうさんか
に
入
い
れられているため、
正式
せいしき
な
名前
なまえ
は「
祝由十三科
しゅくゆうじゅうさんか
」と
言
い
います。
祝由科
しゅくゆうか
は
修煉
しゅうれん
の
範疇
はんちゅう
に
属
ぞく
するものではありません。それは
修煉
しゅうれん
して
得
え
た
功
こう
ではなく、
術
じゅつ
類
るい
の
一種
いっしゅ
です。