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轉 法 輪

第五講


 

 法輪ファールンの図形ずけい


 法輪大法ファールンダーファーのマークは法輪ファールンです。功能こうのうのある人ひとには法輪ファールンが回まわっているのが見みえます。われわれの小ちいさな法輪ファールンバッジも同おなじく回まわっています。われわれは真しん・善ぜん・忍にんという宇宙うちゅうの特性とくせいに従したがって修煉しゅうれんを指導しどうし、宇宙うちゅうの演化えんかする原理げんりに従したがって修煉しゅうれんしているので、われわれの修煉しゅうれんする功こうはきわめて大おおきいものです。ある意味いみでは、この法輪ファールン図形ずけいは宇宙うちゅうの縮図しゅくずと言いえます。佛家ぶっけでは十方じっぽう世界せかいを一ひとつの宇宙うちゅう概念がいねんと見みなしており、四方八方しほうはっぽう、八やっつの方位ほういがあり、さらに上下じょうげに一本いっぽんの功柱こうちゅうが存在そんざいしています。それが見みえる人ひともいるかも知しれません。したがって、上下じょうげを加くわえれば、ちょうど十方じっぽう世界せかいとなります。それはこの宇宙うちゅうを構成こうせいし、宇宙うちゅうに対たいする佛家ぶっけの概括がいかつ的てきな見方みかたを代表だいひょうしています。
 もちろん、この宇宙うちゅうにはわれわれのいる銀河系ぎんがけいも含ふくめて数かぞえ切きれないほどの恒星こうせい系けいが存在そんざいしています。宇宙うちゅう全体ぜんたいが運動うんどうしており、宇宙うちゅう全体ぜんたいにおけるすべての恒星こうせい系けいも運動うんどうしています。したがって、この図形ずけいの中なかの太極たいきょくと小ちいさな卍符まんじふも回転かいてんし、法輪ファールン全体ぜんたいも回転かいてんし、真まん中なかの大おおきな卍まんじ符ふも回転かいてんしています。ある意味いみで言いえば、これはわれわれの銀河系ぎんがけいを象徴しょうちょうしているもので、そして、われわれは佛家ぶっけに属ぞくしているものなので、図形ずけいの真まん中なかが佛家ぶっけの符号ふごうになっています。これは表面ひょうめんから見みた場合ばあいのことです。それぞれの物質ぶっしつには、みな他たの空間くうかんにおける存在そんざい形式けいしきを持もっています。他たの空間くうかんにおけるその演化えんかの過程かていと存在そんざい形式けいしきはきわめて豊富ほうふできわめて複雑ふくざつなものです。この法輪ファールン図形ずけいは宇宙うちゅうの縮図しゅくずであり、他たの各かく空間くうかんにおいても、その存在そんざい形式けいしきと演化えんかの過程かていが存在そんざいしています。ですから、わたしはそれは一ひとつの世界せかいだと言いいます。
 法輪ファールンが時計とけい回まわりに回転かいてんする時とき、宇宙うちゅうの中なかのエネルギーを自動的じどうてきに吸収きゅうしゅうすることができ、逆ぎゃく時計とけい回まわりに回転かいてんする時とき、エネルギーを放出ほうしゅつすることができます。ですから、内回うちまわり(時計とけい回まわり)は自分じぶん自身じしんを済度さいどし、外回そとまわり(逆ぎゃく時計とけい回まわり)は他人たにんを済度さいどするということが、われわれの功法こうほうの特徴とくちょうです。「われわれは佛家ぶっけなのに、どうして太極たいきょくがあるのか、太極たいきょくは道家どうけのものではないか?」と尋たずねる人ひとがいます。それは、われわれの煉ねっている功こうがきわめて大おおきいもので、宇宙うちゅう全体ぜんたいを煉ねっているのに等ひとしいからです。考かんがえてみてください。この宇宙うちゅうには佛家ぶっけと道家どうけがあり、どちらを排除はいじょしても、完全かんぜんな宇宙うちゅうを構成こうせいすることにはならず、完全かんぜんな宇宙うちゅうと言いうことはできません。そのため、われわれの功法こうほうには道家どうけ的てきな部分ぶぶんもあります。「それなら、道家どうけだけでなく、他ほかにキリスト教きょうや儒教じゅきょうなどもあるのではないか」と尋たずねる人ひとがいます。実じつを言いうと、儒教じゅきょうはきわめて高たかい次元じげんまで修煉しゅうれんしたあと、道家どうけに帰属きぞくすることになります。それに対たいし、西洋せいようの多おおくの宗教しゅうきょうは高たかい次元じげんまで修煉しゅうれんしたあと、佛家ぶっけに帰属きぞくすることになり、佛家ぶっけの体系たいけいのものとなります。結局けっきょくはこの二ふたつの体系たいけいしかありません。
 それでは、なぜ太極たいきょく図ずには上うえが赤あかで下したが青あおのものと、上うえが赤あかで下したが黒くろのものと二ふたつずつあるのでしょうか? 一般いっぱんには、太極たいきょくが黒くろと白しろという二ふたつの物質ぶっしつからなるとされており、言いわば陰気いんきと陽気ようきなのです。これは、きわめて浅あさい次元じげんの認識にんしきです。異ことなる空間くうかんにはそれぞれ異ことなる現あらわれ方かたがあります。最もっとも高たかい次元じげんに現あらわれた太極たいきょくがいまのような色いろなのです。われわれが一般いっぱんに認識にんしきしている道どうの色いろは、上うえが赤あかで下したが黒くろです。例れいを挙あげて説明せつめいすると、天目てんもくが開ひらいた人ひとは、肉眼にくがんで見みて赤あかであったものが、一層いっそうだけ異ことなる空間くうかんで見みると緑みどりになっており、黄金色こがねいろは他たの空間くうかんで見みれば紫むらさきになるということに気きづきます。そこにこのような差さがあり、つまり異ことなる空間くうかんにおいて色いろもさまざまに変かわるということです。上うえが赤あかで下したが青あおの太極たいきょくは先天大道せんてんだいどうのもので、それには奇門きもん修煉しゅうれんの法門ほうもんも含ふくまれています。四隅よすみにある小ちいさな卍まんじ符ふは佛家ぶっけのもので、真まん中なかのそれと同おなじように、いずれも佛家ぶっけのものです。この法輪ファールンは色いろが鮮あざやかなので、われわれはそれを法輪大法ファールンダーファーのマークとしました。
 われわれが天目てんもくからこの法輪ファールンを見みる時とき、必かならずしもこの色いろとは限かぎらず、法輪ファールンの地色じいろが変かわることがあります。しかしその図案ずあんは変かわることがありません。わたしがあなたの下腹部かふくぶに植うえつけた法輪ファールンが回転かいてんする時とき、天目てんもくから見みれば、それは赤あかかも知しれないし、紫むらさきかも知しれないし、緑みどりかも知しれないし、あるいは無色むしょくかも知しれません。赤あか、橙だいだい、黄き、緑みどり、青あお、藍あい、紫むらさきと、地色じいろが絶たえず変化へんかしているので、あなたが見みた色いろは別べつの色いろになるかも知しれません。しかし、法輪ファールンの中なかの卍まんじ符ふや太極たいきょくの色いろと図案ずあんは変かわるものではありません。われわれはこの図案ずあんの地色じいろが比較的ひかくてき綺麗きれいだと思おもいましたので、それに決きめました。功能こうのうのある人ひとは、この空間くうかんを通とおして多おおくのものを見みることができます。
 「この卍まんじ符ふはヒトラーのものによく似にているではないか」と、言いう人ひとがいます。言いっておきますが、この符号ふごうは本来ほんらい思想しそう的てきなものに結むすびつくようなものではありません。「もし、卍まんじ符ふの角かどがこちらの方ほうに向むいていれば、ヒトラーのものになります」と、言いう人ひとがいます。問題もんだいはここにあるのではなく、この卍まんじ符ふはどちら側がわへも旋回せんかいしているのです。そして、この図案ずあんが人類じんるい社会しゃかいで一般いっぱんに認識にんしきされるようになったのは、二に千せん五ご百ひゃく年ねんほど前まえの釈迦牟尼しゃかむにの時代じだいでした。それに対たいし、第だい二に次じ世界せかい大戦たいせんから今日こんにちまでまだ数すう十じゅう年ねんしか経たっておらず、ヒトラーはただそれを盗用とうようしたに過すぎません。しかし、ヒトラーの色いろはわれわれのと違ちがって黒くろで、しかも卍まんじ符ふの角かどが上うえに向むいて立たっています。あくまで法輪ファールンの表面ひょうめん形式けいしきについてお話はなししましたが、法輪ファールンについての説明せつめいはこれぐらいにします。
 さて、この卍まんじ符ふを、われわれ佛家ぶっけでは何なんと見みているのでしょうか? 吉祥如意きっしょうにょいだと言いう人ひとがいますが、それは常人じょうじんの解釈かいしゃくです。卍まんじ符ふは佛ほとけの次元じげんを示しめすもので、佛ほとけの次元じげんに到達とうたつしなければ、それを持もつことができません。菩薩ぼさつと羅漢らかんはそれを持もっていません。しかし、大だい菩薩ぼさつ、四大菩薩しだいぼさつはみなそれを持もっています。われわれが見みたところでは、それらの大だい菩薩ぼさつは一般いっぱんの佛ほとけの次元じげんを遥はるかに超こえており、中なかには如来にょらいよりも次元じげんが高たかいものもあります。如来にょらいの次元じげんを超こえた佛ほとけは数かぞえ切きれないほど多おおくいます。如来にょらいは卍まんじ符ふを一ひとつしか持もっていませんが、如来にょらい以上いじょうの次元じげんに到達とうたつすれば、卍まんじ符ふが多おおくなります。如来にょらいより倍ばいぐらい高たかいのは、卍まんじ符ふを二ふたつ持もっています。それよりもっと高たかいのは、三みっつ、四よっつ、五いつつの卍まんじ符ふを持もちますが、多おおい場合ばあいは、身体中からだじゅうに卍まんじ符ふを持もっています。頭あたまや肩かた、膝ひざなどにも卍まんじ符ふが現あらわれ、それが一杯いっぱいになると、掌てのひらや指ゆびの腹はら、土踏つちふまず、足あし指ゆびの腹はらなどにも現あらわれてきます。次元じげんが絶たえず向上こうじょうしていくにつれて、卍まんじ符ふがどんどん増ふえていきます。このように、卍まんじ符ふは佛ほとけの次元じげんを示しめし、次元じげんの高たかい佛ほとけほど卍まんじ符ふを多おおく持もっているのです。
 

 奇き門もん功法こうほう


 佛家ぶっけと道家どうけの功法こうほうのほかに、もう一ひとつ、奇門きもん功法こうほうというのがあります。彼かれらは奇門きもん修煉しゅうれんと自称じしょうしています。一般いっぱん常人じょうじんの間あいだでは修煉しゅうれん功法こうほうについて、中国ちゅうごくの古代こだいから現在げんざいに至いたるまで、佛家ぶっけと道家どうけの功法こうほうこそ正統せいとうな修煉しゅうれん方法ほうほうだという認識にんしきを持もっており、それを正法門しょうほうもん修煉しゅうれんと呼よんでいます。これに対たいして奇き門もん功法こうほうはこれまで世間せけんに公開こうかいされたことがないために、その存在そんざいを知しっている者ものが限かぎられており、それも芸術げいじゅつ作品さくひんでしか聞きいたことがないというのがほとんどでした。
 奇き門もん功法こうほうは実在じつざいしますか? 実在じつざいします。わたしが修煉しゅうれんしていた時とき、とりわけ後半こうはんの数すう年間ねんかんに、三人さんにんの高たかいレベルに達たっした奇き門もん功法こうほうの人ひとに会あい、その一門いちもんの精華せいかを教おしえてもらいました。きわめて独特どくとくで、素晴すばらしいものでした。その功法こうほうがきわめて独特どくとくなので、修煉しゅうれんして得えたものは非常ひじょうに変かわっており、一般いっぱんの人ひとには理解りかいされません。しかも、「佛ほとけに非あらず、道どうにも非あらず」という言いい方かたをし、つまり佛ほとけも修おさめなければ、道どうも修おさめないというのです。佛ほとけも修おさめなければ道どうも修おさめないというから、人々ひとびとはそれを傍門左道ぼうもんさどうと呼よんでいますが、彼かれらは、自分じぶんでは奇き門もん功法こうほうと言いっています。傍門左道ぼうもんさどうという呼よび方かたには、貶けなす意味いみがありますが、否定ひてい的てきな意味いみはなく、つまりそれを邪法じゃほうと断だんじているわけではないことは間違まちがいありません。字面じづらから理解りかいしても、それは邪法じゃほうの意味いみではありません。昔むかしから、佛家ぶっけと道家どうけの功法こうほうは正法門しょうほうもんの修煉しゅうれんと見みなされています。それに対たいして、この功法こうほうは人々ひとびとによってまだよく認識にんしきされていない間あいだ、人々ひとびとはそれを傍門ぼうもんすなわち正門せいもんのわきにある門もんと呼よびました。つまり、正法門しょうほうもんではないと言いいます。それでは、左道さどうとは何なんでしょうか? 「左さ」は不器用ぶきようの意味いみで、不器用ぶきような道どうだと言いっているのです。中国ちゅうごくの古語こごにおいては、「左さ」が不器用ぶきようの意味いみを表あらわすことがしばしばあります。傍門左道ぼうもんさどうにはそのような意味いみがあります。
 なぜ、それが邪法じゃほうではないと言いえるのでしょうか? それは、この功法こうほうも厳きびしく心性しんせいを要求ようきゅうし、宇宙うちゅうの特性とくせいに従したがって修煉しゅうれんし、この宇宙うちゅうの特性とくせい、宇宙うちゅうの規律きりつに反はんしておらず、悪事あくじも働はたらかないからです。それを邪法じゃほうとは言いえません。佛家ぶっけと道家どうけが正法しょうぼうとされるのは、宇宙うちゅうの特性とくせいが佛家ぶっけと道家どうけの修煉しゅうれん方法ほうほうにかなったからではなく、佛家ぶっけと道家どうけの修煉しゅうれん方法ほうほうが宇宙うちゅうの特性とくせいにかなっているからです。奇き門もん功法こうほうの修煉しゅうれんも、この宇宙うちゅうの特性とくせいにかなっていれば邪法じゃほうではなく、同様どうように正法しょうぼうだと言いわなければなりません。なぜなら、宇宙うちゅうの特性とくせいこそ正邪せいじゃと善悪ぜんあくを量はかる基準きじゅんにほかならないからです。奇き門もん功法こうほうが宇宙うちゅうの特性とくせいに従したがって修煉しゅうれんするからには、それも正道しょうどうということになります。ただ奇き門もん功法こうほうの要求ようきゅうと特徴とくちょうが、佛家ぶっけと道家どうけのそれと違ちがうだけです。奇き門もん功法こうほうは広ひろく弟子でしをとることをせず、伝授でんじゅの範囲はんいはきわめて限かぎられています。道家どうけは功法こうほうを伝授でんじゅする場合ばあい、大勢おおぜいの弟子でしを教おしえますが、本当ほんとうに伝つたえる弟子でしはただ一人ひとりしかいません。それに対たいし、佛家ぶっけでは広ひろく衆生しゅじょうを済度さいどすることを重おもんじますので、誰だれでも修煉しゅうれんすることができます。
 一方いっぽう、奇き門もん功法こうほうは伝承上でんしょうじょう、二人ふたりの弟子でしをとってはならず、相当そうとう長ながい時間じかんをかけて一人ひとりの弟子でしだけを選定せんていし、功法こうほうを教おしえることになっています。ですからこの法ほう門もんのものは、昔むかしから常人じょうじんに見みられてはいけないものとされています。気き功こうブームの最中さいちゅうに、わたしは、この功法こうほうにおいても少数しょうすうの人ひとが、世間せけんに出でて功こうを教おしえているのを見みたことがあります。しかし、教おしえているうちに、彼かれらはだんだんうまくいかないことに気きづきました。というのは、一部いちぶのことは教おしえてはならないと師しによって禁きんじられているからです。功法こうほうを広ひろげたければ、弟子でしを選えらぶわけにはいかなくなります。学まなびに来くる者ものは、心性しんせいの高たかさがまちまちです。いろんな考かんがえをもって学まなびに来くるので、どのような人間にんげんもいます。ですから、弟子でしを選えらんで功法こうほうを伝つたえるというわけにはいきません。こういうところからも分わかるように、奇き門もん功法こうほうはきわめて特殊とくしゅなものであり、多おおくの危険きけんを伴ともなっているので、普及ふきゅうには向むいていません。
 佛家ぶっけでは佛ほとけを修煉しゅうれんし、道家どうけでは真人しんじんを修煉しゅうれんしますが、奇き門もん功法こうほうで修煉しゅうれんし成就じょうじゅしたら何なんになるのか、と思おもう人ひとがいるかも知しれません。決きまった宇宙うちゅう、世界せかいの範囲はんいを持もたない仙人せんにんになります。皆みなさんがご存ぞんじのように、如来佛にょらいぶつ、釈迦牟尼しゃかむにには娑婆しゃば世界せかいがあり、阿弥陀佛あみだぶつには極楽ごくらく世界せかいがあり、薬師佛やくしぶつには瑠璃るり世界せかいがあるというように、それぞれの如来にょらいと大佛だいぶつにはみな自分じぶんの世界せかいがあります。大覚者だいかくしゃは誰だれもが自分じぶんの作つくった天国てんごくを持もっており、その天国てんごくの中なかで、大勢おおぜいの弟子でしが暮くらしています。しかし、奇き門もん功法こうほうの場合ばあいは、決きまった宇宙うちゅう範囲はんいを持もっていないために、あちらこちらをさすらう仙人せんにんになります。
 

 邪法じゃほうを練ねる


 邪法じゃほうを練ねるとは何なんのことでしょうか? それには次つぎのような幾いくつかの形式けいしきがあります。まず、もっぱら邪法じゃほうを練ねる者ものがいます。どんな時代じだいにもそれを教おしえる者ものがいるからです。なぜそれを教おしえるかと言いえば、その人ひとが常人じょうじんの中なかでの名誉めいよ、利益りえき、金儲かねもうけなどを追求ついきゅうし、そういうものにこだわっているからです。当然とうぜんのことながら、このような人ひとは心性しんせいが高たかくないので、功こうを得えることができません。彼かれは何なにを得えるのでしょうか? 業力ごうりきです。人間にんげんの業力ごうりきが大おおきくなった時ときには、一種いっしゅのエネルギーを形作かたちづくることもあります。しかし彼かれにはなんの次元じげんもなく、煉功者れんこうしゃに比くらべることはできません。とはいえ常人じょうじんよりは力ちからがあって、常人じょうじんを制約せいやくすることができます。というのは、そういうものもエネルギーの現あらわれですので、密度みつどが高たかい時ときには、人体じんたいの功能こうのうを強化きょうかするという役割やくわりを果はたすことができます。ですから、昔むかしからそういうものを教おしえる人ひとがいます。「悪わるい事ことをしたり人ひとを罵ののしったりすれば、功こうが伸のびる」と本人ほんにんが言いいますが、それは功こうを伸のばすのではありません。悪わるいことをすると、黒くろい物質ぶっしつ──業力ごうりきを得えるから、実際じっさいは黒くろい物質ぶっしつの密度みつどを強化きょうかするに過すぎません。この業力ごうりきによって、もともと身体からだに持もっていたわずかな功能こうのうを強化きょうかして、小ちいさな功能こうのうを生うみ出だすことはできますが、大たいしたことはできません。この人ひとたちは、悪わるい事ことをすれば功こうが伸のびる、と考かんがえていますので、そういう言いい方かたをするのです。
 また「道どうが一尺いっしゃく高たかければ、魔まは一丈いちじょう高たかくなる」と言いう人ひとがいます。それは常人じょうじんの邪説じゃせつで、どんな時ときになっても魔まは道どうより高たかくなることはありえません。人類じんるいの知しっているこの宇宙うちゅうは、数かぞえ切きれない宇宙うちゅうの中なかの小宇宙しょううちゅうの一ひとつに過すぎず、われわれはそれを宇宙うちゅうと略称りゃくしょうしています。この宇宙うちゅうは、一定いっていの久ひさしい年代ねんだいを経へるたびに、宇宙うちゅう的てきな大だい災難さいなんを起おこします。この災難さいなんによって、宇宙うちゅうの中なかのすべてのもの、天体てんたいも含ふくめて、すべての生命せいめいが絶滅ぜつめつすることになります。宇宙うちゅうの運動うんどうには規律きりつがあり、われわれの今回こんかいの宇宙うちゅうではただ人類じんるいだけが悪わるくなったわけではありません。多おおくの生命体せいめいたいにはすでにある状況じょうきょうが見みえていますが、現在げんざいのこの宇宙うちゅう空間くうかんについて言いえば、遥はるか以前いぜんに大だい爆発ばくはつが起おきているのです。現在げんざい、天文学てんもんがく者しゃにそれが見みえないのは、現有げんゆうする最大さいだいの望遠鏡ぼうえんきょうで見みても、見みえる光景こうけいが十じゅう五ご万まん光年こうねん以前いぜんのことであるためです。現在げんざいの天体てんたい変化へんかを見みようとするには、十じゅう五ご万まん光年こうねん後ごでなければなりません。それは気きが遠とおくなるような先さきのことです。
 現在げんざい、宇宙うちゅう全体ぜんたいにすでに非常ひじょうに大おおきな変化へんかが発生はっせいしています。このような変化へんかが発生はっせいする度たびに、宇宙うちゅうの中なかの生命せいめいは例外れいがいなく、完全かんぜんに滅ほろびる状態じょうたいに瀕ひんします。このようなことが発生はっせいする度たびに、宇宙うちゅうの中なかにそれまで存在そんざいしていた特性とくせいおよびその中なかの物質ぶっしつは、すべて爆発ばくはつによって一掃いっそうされなければなりません。ほとんどのものはその爆発ばくはつで抹消まっしょうされますが、しかし毎回まいかいのように、生いき残のこりがあります。新あたらしい宇宙うちゅうがきわめて、きわめて高たかい大覚者だいかくしゃたちによって再建さいけんされた時とき、その中なかには爆発ばくはつから生いき残のこった者ものがいます。大覚者だいかくしゃたちは、自分じぶん自身じしんの特性とくせいと基準きじゅんに基もとづいて新あたらしい宇宙うちゅうを再建さいけんするので、前回ぜんかいの宇宙うちゅうの特性とくせいとの間あいだに違ちがいがあります。
 爆発ばくはつから生いき残のこった者ものは、前回ぜんかいの宇宙うちゅうの特性とくせいと理りに従したがってこの宇宙うちゅうの中なかで動うごきます。新あたらしく作つくられた宇宙うちゅうは、新あたらしい宇宙うちゅうの特性とくせいと理りに従したがって運行うんこうします。そこで、爆発ばくはつから生いき残のこった者ものは宇宙うちゅうの理りを妨さまたげる魔まとなります。しかし、彼かれらはそれほど悪わるいものでもありません。彼かれらは前回ぜんかいの宇宙うちゅうの特性とくせいに従したがって動うごいているに過すぎません。これが人々ひとびとの言いう天魔てんまなのです。しかし彼かれらは常人じょうじんを脅おびやかすわけでもなく、人ひとにはまったく危害きがいを与あたえず、ただ自分じぶんの理りに従したがって行動こうどうしているだけです。昔むかしは、こういうことは常人じょうじんに知しらせてはいけなかったのです。わたしに言いわせれば如来にょらいの次元じげんより遥はるかに高たかい境地きょうちの佛ほとけはいくらでもいますので、そのような魔まは物ものの数かずではありません。佛ほとけたちと比くらべてみれば、ごく小ちいさい存在そんざいに過すぎません。老ろう、病びょう、死しも一種いっしゅの魔まですが、それも宇宙うちゅうの特性とくせいを守まもるためにあるものです。
 佛教ぶっきょうでは六道ろくどう輪廻りんねを説ときますが、その中なかに修羅道しゅらどうのことが出でてきます。そのほかでもない異ことなる空間くうかんにいる生いき物ものですが、しかし人間にんげんの本性ほんしょうは備そなわっていません。大覚者だいかくしゃから見みると、それはきわめて、きわめて低級ていきゅう、とりわけ無能むのうなものですが、常人じょうじんにとって、大変たいへん怖こわい存在そんざいです。それはある程度ていどのエネルギーを持もっており、常人じょうじんを獣けものと見みなしているので、好このんで人間にんげんを食たべます。ここ数年来すうねんらい、その生いき物ものも世よに出でてきて功こうを教おしえています。それは何なにほどの者ものでもありません。それは人間にんげんらしい姿すがたを持もっているはずがあるでしょうか? それに学まなぶと、あちらへ行いって、それらの同類どうるいになるしかありません。恐おそろしいことです。一部いちぶの人ひとが練功れんこうする時とき、心こころが正ただしくないので、それの考かんがえ方かたにかなってしまい、するとそれが教おしえにやってきます。「一正いっせいが百邪ひゃくじゃを圧あっする」と言いうように、求もとめさえしなければ、誰だれもあなたを動うごかすことができません。邪念じゃねんを起おこして、良よくないものを追求ついきゅうすれば、それが助たすけに来きて、あなたの修煉しゅうれんが魔道まどうに入はいり込こんでしまうという問題もんだいが起おきます。
 もう一ひとつは、無意識むいしきに邪法じゃほうを練ねる場合ばあいがあります。無意識むいしきに邪法じゃほうを練ねるとはどういうことでしょうか? 無知むちの状況じょうきょうの下もとで、邪法じゃほうを練ねっているということです。これはよく見みられることで、そういった例れいはいくらでもあります。先日せんじつお話はなししたように、多おおくの人ひとは練功れんこうする時ときに、正ただしくない考かんがえをもっています。站樁たんとうをする時とき、手足てあしが震ふるえ出だすほど疲つかれているにもかかわらず、頭あたまの中なかは休やすんでおらず、さまざまなことを考かんがえています。「物価ぶっかが上あがりそうだから、少すこし買かい溜だめしておかなくちゃ。練功れんこうが終おわったらすぐ買かいに行いこう。値上ねあがりしたら大変たいへんだから」とか、「勤つとめ先さきでは今いま住宅じゅうたくを割わり当あてているが、俺おれの分ぶんはあるのだろうか? 担当者たんとうしゃは俺おれと仲なかが悪わるいのだ。あいつは絶対ぜったい割わり当あててくれない。もし住宅じゅうたくが割わり当あてられなければ、俺おれは絶対ぜったい喧嘩けんかしてやる……」とか、ありとあらゆる事ことが浮うかんで来きて、考かんがえれば考かんがえるほど怒いかりがつのるばかりです。先日せんじつお話はなししたように、家庭かていのことから国くにの政治せいじにまで、気きに入いらなくなると、抑おさえきれずに怒いかりがこみ上あげてきます。
 煉功れんこうするには、徳とくを重おもんじなければなりません。良よいことを考かんがえることができないにしても、悪わるいことは考かんがえてはなりません。いちばん良よいのは、何なにも考かんがえないことです。というのは、低てい次元じげんで煉功れんこうする時とき、基礎きそ作づくりをしなければなりませんが、人間にんげんの意識いしき活動かつどうが一定いっていの役割やくわりを果はたしているから、この基礎きそはきわめて重要じゅうような役割やくわりを担にないます。考かんがえてみてください。功こうの中なかに何なにかを加くわえてしまいますと、練功れんこうしても良よいものが得えられると思おもいますか? そんなものは黒くろいものにきまっているのではありませんか? どれだけ多おおくの人ひとが、そのような意識いしきを持もって練功れんこうしているでしょうか。どうしてあなたは長ながく練功れんこうしても病気びょうきが治なおらないのですか? 一部いちぶの人ひとは、練功場れんこうばでそれほど悪わるいことは考かんがえていないものの、功能こうのうを追求ついきゅうしたり、あれこれと雑多ざったなものを求もとめたりして、さまざまな心態しんたいと強つよい欲望よくぼうをもって練功れんこうしています。その人ひとたちは実際じっさいは無意識むいしきのうちに邪法じゃほうを練ねっています。しかも、それは邪法じゃほうだと忠告ちゅうこくしてあげても、「俺おれはあの大だい気功師きこうしに教おそわっているのだ」と言いって機嫌きげんを悪わるくします。しかし、その大だい気功師きこうしは徳とくを重おもんじるようにと教おしえたはずですが、果はたしてその通とおりにしたでしょうか? 練功れんこうする時とき、良よくない意念いねんばかり加くわえたなら、その練功れんこうから良よいものが出でて来くるでしょうか? ここが問題もんだいです。これは無意識むいしきのうちに邪法じゃほうを練ねる部類ぶるいに入はいるもので、きわめて多おおく見みられます。
 

 男女だんじょ双修そうしゅう


 修煉界しゅうれんかいには男女だんじょ双修そうしゅうという修煉しゅうれん方法ほうほうがあります。皆みなさんはチベット密教みっきょうの修煉しゅうれん方法ほうほうの中なかで、佛像ぶつぞうの彫刻ちょうこくや画像がぞうの中なかで、男体なんたいが女体にょたいを抱だいて修煉しゅうれんしているのをご覧らんになったことがあるかも知しれません。男体なんたいは、時ときには佛ほとけの姿すがたをしており、一糸いっしまとわぬ女性じょせいを抱だいています。時ときには佛ほとけの変身へんしんした牛頭馬面ぎゅうとうばめんの金剛こんごう像ぞうの姿すがたになっていることもありますが、それも一糸いっしまとわぬ女性じょせいを抱だいています。どうしてこのようなことがあるのでしょうか? まずこの問題もんだいから説明せつめいしましょう。この地球ちきゅう上じょうで、儒教じゅきょうの影響えいきょうを受うけているのは中国ちゅうごくだけではありません。数世紀すうせいき前まえの古代こだいでは、人類じんるい全体ぜんたいの道徳どうとく的てき観念かんねんはほぼ同おなじでした。したがって、そのような修煉しゅうれん方法ほうほうは、この地球ちきゅう固有こゆうのものではなく、他たの星ほしから伝つたえられてきたものです。しかし、この方法ほうほうで修煉しゅうれんできることは確たしかです。この修煉しゅうれん方法ほうほうが中国ちゅうごくに伝つたえられた当時とうじ、男女だんじょ双修そうしゅうと秘密ひみつの煉功れんこうという内容ないようがあったため、中国人ちゅうごくじんに受うけ入いれられませんでした。唐とうの会昌かいしょう年間ねんかんに漢かん民族みんぞく地域ちいきの皇帝こうていによって禁止きんしされてしまいました。当時とうじ、この修煉しゅうれん方法ほうほうは唐密とうみつと呼よばれ、漢かん民族みんぞくの地域ちいきで伝播でんぱすることが禁きんじられました。しかし、それはチベットという特殊とくしゅな環境かんきょう、特殊とくしゅな地域ちいきで伝つたえられてきました。では、どうしてそのような方法ほうほうで修煉しゅうれんするのでしょうか? 男女だんじょ双修そうしゅうの目的もくてきは、陰いんを採とって陽ようを補おぎない、陽ようを採とって陰いんを補おぎない、互たがいに補おぎないながら修煉しゅうれんし、陰いんと陽ようの均衡きんこうに達たっするためです。
 周知しゅうちのように、佛家ぶっけだろうと、道家どうけだろうと、とりわけ道家どうけの陰陽学いんようがくの説せつによれば、人体じんたいにはもともと陰いんと陽ようがあります。人体じんたいに陰陽いんようがあるからこそ、さまざまな功能こうのう、元嬰げんえい、嬰孩えいがい、法身ほうしんなどの生命体せいめいたいを、修煉しゅうれんして得えることができます。陰いんと陽ようがあるからこそ、さまざまな生命体せいめいたいを修煉しゅうれんして得えることができるのです。男身だんしんにせよ女身じょしんにせよ同おなじく丹田たんでんというところで生成せいせいできると言いわれていますが、この言いい方かたはとても理りにかなっています。道家どうけではよく上半身じょうはんしんを陽よう、下半身かはんしんを陰いんと見みなしています。また、身体からだの背面はいめんを陽よう、前面ぜんめんを陰いんと見みなしたり、身体からだの左側ひだりがわを陽よう、右側みぎがわを陰いんと見みなしたりすることもあります。中国ちゅうごくでは男おとこは左ひだり、女おんなは右みぎという言いい方かたがありますが、それもここから来きたもので、理りにかないます。人体じんたいにはもともと陰いんと陽ようがあり、陰陽いんようの相互そうご作用さようによって、自みずから陰いんと陽ようの均衡きんこうに達たっすることができ、数々かずかずの生命体せいめいたいを生うみ出だすことができるのです。
 したがってこの点てんからすると、男女だんじょ双修そうしゅうの修煉しゅうれん方法ほうほうを採とらなくても、同様どうようにきわめて高たかい次元じげんまで修煉しゅうれんすることができるということは、明あきらかです。男女だんじょ双修そうしゅうの修煉しゅうれん方法ほうほうを採とった場合ばあいには、うまく制御せいぎょできなければ、魔道まどうに陥おちいって邪法じゃほうになりかねません。きわめて高たかい次元じげんで、密教みっきょうが男女だんじょ双修そうしゅうの修煉しゅうれん方法ほうほうを採とり入いれようとするためには、その和尚おしょうやラマ僧そうが、修煉しゅうれんを経へてきわめて高たかい次元じげんに到達とうたつした者ものでなければなりません。その時とき、彼かれは師しの指導しどうの下もとでこの修煉しゅうれんをするわけですが、心性しんせいがきわめて高たかいので、邪道じゃどうに入はいらないように制御せいぎょすることができます。しかし、心性しんせいが低ひくい者ものは、絶対ぜったいにこの方法ほうほうを採用さいようしてはなりません。採用さいようすると、間違まちがいなく邪法じゃほうに入はいってしまうことになります。なぜなら、その人ひとの心性しんせいには限かぎりがあり、常人じょうじんの境地きょうちにおいて、欲望よくぼうが取とり除のぞかれておらず、色欲しきよくの心こころが取とり除のぞかれていません。心性しんせいの尺度しゃくどがそれくらいしかないので、用もちいると、間違まちがいなく邪道じゃどうに入はいってしまいます。ですから、勝手かってに低ひくい次元じげんで伝つたえると、邪法じゃほうを伝つたえることになると言いっているのです。
 近年きんねん、男女だんじょ双修そうしゅうを伝つたえる気功きこう師しも少すくなくありません。奇怪きかいなことに、道家どうけにも男女だんじょ双修そうしゅうの修煉しゅうれん方法ほうほうが現あらわれました。それも現在げんざいではなく、早はやくも唐とうの時代じだいから始はじまっています。道家どうけにどうして男女だんじょ双修そうしゅうの修煉しゅうれん方法ほうほうが現あらわれたのでしょうか? 道家どうけの太極たいきょく学がくの説せつによれば、人体じんたいは小ちいさな宇宙うちゅうで、おのずから陰いんと陽ようがあります。本当ほんとうの正伝大法しょうでんたいほうはいずれも久ひさしい年代ねんだいを経へて伝つたわってきたもので、勝手かってに改変かいへんを加くわえ、勝手かってに何なにかを混入こんにゅうしたりすると、その法門ほうもんを乱みだすことになり、それによって修煉しゅうれんの圓満えんまん成就じょうじゅを妨さまたげることになります。したがって、もともと男女だんじょ双修そうしゅうの修煉しゅうれん方法ほうほうを持もたない功法こうほうの場合ばあいは、絶対ぜったいにそれを修煉しゅうれんしてはなりません。それを用もちいれば、歪ゆがみが生しょうじ、問題もんだいが起おこることになります。特とくにわれわれ法輪大法ファールンダーファーの法門ほうもんには男女だんじょ双修そうしゅうがないので、その方法ほうほうは採とりません。これがこの問題もんだいに対たいするわれわれの見解けんかいです。
 

 性命せいめい双修そうしゅう


 性命せいめい双修そうしゅうの問題もんだいはすでにお話はなししました。性命せいめい双修そうしゅうとは、心性しんせいを修煉しゅうれんするほかに、同時どうじに命めいも修おさめるということ、つまり本体ほんたいを変かえるということです。本体ほんたいを変かえる過程かていにおいて、人間にんげんの細胞さいぼうが次第しだいに高こうエネルギーの物質ぶっしつによって取とり替かえられ、その際さいに老衰ろうすいが緩和かんわされることになります。身体からだが若者わかものの方向ほうこうに少すこしずつ逆戻ぎゃくもどりし、少すこしずつ転化てんかされ、最後さいごには、その身体からだが高こうエネルギーの物質ぶっしつによって完全かんぜんに取とり替かえられた時とき、この人ひとの身体からだは完全かんぜんに別べつの物質ぶっしつの身体からだに転化てんかされます。その身体からだはお話はなししたように、五行ごぎょうを抜ぬけ出でた、五行ごぎょうの中なかにいないものとなりますので、不壊ふえの身体からだになります。
 寺院じいんでの修煉しゅうれんは、ただ心性しんせいを修おさめるだけで、手法しゅほうを重視じゅうしせず命めいを修おさめることはしないで、涅槃ねはんを重おもんじます。釈迦牟尼しゃかむにの伝つたえた方法ほうほうが涅槃ねはんです。実じつは、釈迦牟尼しゃかむに自身じしんには奥深おくぶかい大法たいほうがあり、本体ほんたいを完全かんぜんに高こうエネルギーの物質ぶっしつに転化てんかして持もっていくことができたのです。しかし、この修煉しゅうれん方法ほうほうを残のこすために、彼かれは涅槃ねはんに入はいったのです。釈迦牟尼しゃかむにはどうしてこのように教おしえたのでしょうか? それは最大限さいだいげんに人間にんげんの執着心しゅうちゃくしんを放棄ほうきさせるためです。何なにもかも放棄ほうきして、最後さいごには身体からださえも放棄ほうきして、あらゆる心こころを全部ぜんぶ無なくしてしまうのです。このように、人々ひとびとに最大限さいだいげんに放棄ほうきさせるために、釈迦牟尼しゃかむには涅槃ねはんの道みちを選えらびました。ですから歴代れきだいの和尚おしょうはみんな涅槃ねはんの道みちを歩あゆみました。涅槃ねはんとは、和尚おしょうが死しんだ後あと、肉身にくしんを捨すてて、その元神げんしんが功こうを持もって天国てんごくに上のぼったということです。
 道家どうけは命めいを修おさめることに重点じゅうてんを置おいています。弟子でしを選えらび、衆生しゅじょうを広ひろく済度さいどすることを説とかず、相手あいてにするのはきわめて良よい人ひとばかりですので、道家どうけは術じゅつ類るいのものを重視じゅうしし、いかに命めいを修おさめるかを重視じゅうししています。しかし、佛家ぶっけという特定とくていの修煉しゅうれん方法ほうほう、とりわけ佛教ぶっきょうの修煉しゅうれん方法ほうほうにおいては、それを重おもんじるわけにはいきません。かといって一切いっさい重おもんじないというわけではなく、一部いちぶの奥深おくぶかい佛家ぶっけの大法たいほうでも重おもんじることがあります。われわれの法門ほうもんもそれを重おもんじています。われわれ法輪大法ファールンダーファーの法門ほうもんでは、本体ほんたいも要いるし、元嬰げんえいも要いりますが、この二ふたつには違ちがいがあります。元嬰げんえいも高こうエネルギーの物質ぶっしつから構成こうせいされた身体からだですが、それはわれわれのこの空間くうかんで勝手かってに顕現けんげんするわけにはいきません。この空間くうかんで長期的ちょうきてきに常人じょうじんと同おなじ姿すがたを保たもつためには、必かならず本体ほんたいが必要ひつようです。したがって、本体ほんたいは転化てんかされた後あと、その細胞さいぼうが高こうエネルギーの物質ぶっしつによって取とり替かえられたにもかかわらず、その分子ぶんしの配列はいれつ順序じゅんじょが変化へんかしていないために、見みた目めでは常人じょうじんの身体からだとほとんど同おなじです。しかし、やはり違ちがいがあります。つまりその身体からだは他たの空間くうかんに出入でいりすることができるのです。
 性命せいめい双修そうしゅうの功法こうほうでは、見みた目めには実際じっさいの年齢ねんれいとずいぶんかけ離はなれて見みえ、外見がいけんからは人ひとに若わかい感かんじを与あたえます。先日せんじつ、ある人ひとから「先生せんせい、わたしは何なん才さいに見みえますか?」と言いわれました。実際じっさいにはまもなく七十才ななじゅっさいになる女性じょせいでしたが、一見いっけん四よん十じゅう代だいぐらいにしか見みえません。皺しわがなく、顔かおがつやつやして白しろく、白しろに赤あかみがさしていましたので、どう見みても七十才ななじゅっさい近ちかくには見みえません。われわれ法輪大法ファールンダーファーを修煉しゅうれんする人ひとにはこのようなことが現あらわれるのです。これは冗談じょうだんですが、若わかい女性じょせいはどうしても美容びように気きを使つかい、肌はだの色いろをより白しろくつやのあるものにしようとしますが、実じつは、性命せいめい双修そうしゅうの功法こうほうを本当ほんとうに修煉しゅうれんすれば、おのずとそうなりますので、手入ていれをする必要ひつようもないことを保証ほしょうします。このことについては、これ以上いじょう例れいを挙あげないことにします。以前いぜんは、さまざまな職業しょくぎょうで年配ねんぱいの人ひとが多おおかったので、みんながわたしのことを若者わかもの扱あつかいしていました。今いまは嬉うれしいことに、どの職業しょくぎょうでも若わかい人ひとが多おおくなりました。実じつは、わたしはすでに四十三才よんじゅうさんさいです。そろそろ五十才ごじゅっさいに近ちかづこうというのですから、もう若わかくはありません。
 

 法ほう 身しん


 佛像ぶつぞうにはなぜ一ひとつの場ばがあるのでしょうか? 多おおくの人ひとはそれを解釈かいしゃくすることができません。「佛像ぶつぞうに場ばがあるのは、和尚おしょうが佛像ぶつぞうに向むかって読経どきょうするためにできたものだ」、つまり和尚おしょうが佛像ぶつぞうに向むかって修煉しゅうれんすることによって生しょうじたものだ、と言いう人ひとがいます。しかし、和尚おしょうの修煉しゅうれんであろうと、他ほかの誰だれかの修煉しゅうれんであろうと、そのエネルギーは不規則ふきそくに散ちらされていき、一定いっていの方向ほうこうはとりませんから、佛堂ぶつどう全体ぜんたいの床ゆか、天井てんじょう、壁かべなどにも、全部ぜんぶ均等きんとうな場ばがあるはずです。どうして佛像ぶつぞうの場ばだけが特とくに強つよいのでしょうか? 特とくに山奥やまおくやどこかの洞窟どうくつの中なかの佛像ぶつぞう、あるいは岩いわに彫刻ちょうこくされた佛像ぶつぞうには、たいてい一ひとつの場ばがあります。その場ばはどうしてできたのでしょうか? 人々ひとびとはあれこれと解釈かいしゃくしようと試こころみますが、いずれの解釈かいしゃくも意味いみをなしません。実じつは、佛像ぶつぞうに場ばがあるのは、その佛像ぶつぞうに覚者かくしゃの法身ほうしんがいるからです。覚者かくしゃの法身ほうしんがそこにいるので、その佛像ぶつぞうにエネルギーがあるわけです。
 釈迦牟尼しゃかむににせよ、観音かんのん菩薩ぼさつにせよ、もし歴史れきし上じょう確たしかにそういう人物じんぶつがいたならば、考かんがえてみてください、彼かれらが修煉しゅうれんしていた時ときは、彼かれらも煉功者れんこうしゃではありませんでしたか? 人間にんげんが出世間しゅっせけん法ほうよりさらに高たかい一定いっていの次元じげんまで修煉しゅうれんした後あと、法身ほうしんが生うまれることになります。法身ほうしんは人間にんげんの丹田たんでんという部位ぶいで生うまれ、法ほうと功こうから構成こうせいされ、他たの空間くうかんで現あらわれるものです。法身ほうしんはその本人ほんにんのきわめて大おおきな威力いりょくを備そなえていますが、法身ほうしんの意識いしきと思想しそうは主体しゅたいによって制御せいぎょされています。一方いっぽう、法身ほうしん自身じしんは独立どくりつした、完全かんぜんな、正真正銘しょうしんしょうめいの個体こたいの生命せいめいでもありますので、自分じぶん自身じしんで独立どくりつしていかなることをもなし遂とげることができます。法身ほうしんのやることは人ひとの主しゅ意識いしきのやりたいこととまったく同おなじです。あることは、本人ほんにんがやっても、法身ほうしんがやっても、同おなじようにするのです。これがわれわれの言いう法身ほうしんです。わたしが何なにかをしようとする時とき、例たとえば、真しんに修煉しゅうれんする弟子でしのために身体からだを調整ちょうせいすることなどは、みなわたしの法身ほうしんが実際じっさいにやるのです。法身ほうしんは常人じょうじんの身体からだを持もっておらず、他たの空間くうかんで姿すがたを現あらわしているからです。そして、その生命体せいめいたいは固定こていして変かわらないものではなく、大おおきく変身へんしんしたり小ちいさく変身へんしんしたりすることができます。大おおきく変身へんしんした時ときは、法身ほうしんの頭あたまの輪郭りんかくすら見みえないほど大おおきいのですが、小ちいさく変身へんしんした時ときは、細胞さいぼうよりも小ちいさいのです。
 

 開 眼かい げん


 工場こうじょうで造つくりあげた佛像ぶつぞうは一ひとつの芸術げいじゅつ品ひんに過すぎません。開眼かいげんとは、すなわち佛ほとけの法身ほうしんを一体いったい、佛像ぶつぞうにお招まねきして、それから佛像ぶつぞうを常人じょうじんの中なかでの有形ゆうけいの身体からだとして祀まつるということです。煉功者れんこうしゃに敬うやまう心こころがあれば、修煉しゅうれんする時とき、佛像ぶつぞう上じょうの法身ほうしんが彼かれを見守みまもったり、身みの安全あんぜんを守まもったりして、彼かれのために法ほうを護持ごじしてくれます。これが開眼かいげんの本当ほんとうの目的もくてきです。正式せいしきの開眼かいげん儀式ぎしきに正念しょうねんを発はっするのでなければ、あるいはきわめて高たかい次元じげんの大覚者だいかくしゃ、またはきわめて高たかい次元じげんで修煉しゅうれんし、そういう力ちからを備そなえた人ひとでなければ、それを行おこなうことができません。
 寺院じいんでは佛像ぶつぞうは開眼かいげんしなければならず、開眼かいげんしていない佛像ぶつぞうは御利益ごりやくがないと言いいます。現在げんざい、寺院じいんに和尚おしょうはいますが、本当ほんとうの大法師だいほうしはみな世よの中なかにはいなくなりました。「文化ぶんか大だい革命かくめい」の後あと、真しんの伝授でんじゅを受うけていない小僧こぞうたちが住職じゅうしょくになり、多おおくのことについての伝承でんしょうが途絶とだえてしまいました。和尚おしょうに「なぜ開眼かいげんするのですか?」と聞きけば、「開眼かいげんすれば、佛像ぶつぞうは御利益ごりやくがある」と答こたえますが、しかし具体ぐたい的てきにどのように御利益ごりやくがあるのかについては、はっきり答こたえられません。彼かれらはただ儀式ぎしきを行おこなうだけです。佛像ぶつぞうの中なかに一巻いっかんの小ちいさな経文きょうもんを入いれて、紙かみで封ふうをした後あと、それに向むかって読経どきょうします。それが開眼かいげんだと言いうのです。果はたしてそれで開眼かいげんすることができるのでしょうか? それは彼かれらがいかに読経どきょうするかによります。釈迦牟尼しゃかむには正念しょうねんを重おもんじています。自分じぶんが修煉しゅうれんしているその法門ほうもんの世界せかいを本当ほんとうに震動しんどうさせるほど、一心不乱いっしんふらんに読経どきょうして、はじめて覚者かくしゃを招まねくことができます。その覚者かくしゃの法身ほうしんの一ひとつが佛像ぶつぞうに降おりてはじめて開眼かいげんする目的もくてきが達成たっせいされることになります。
 読経どきょうしながら、「開眼かいげんした後あと、いくらもらえるだろうか」と考かんがえる和尚おしょうもいれば、「誰だれそれが俺おれにひどいことをした」と考かんがえる和尚おしょうもいます。彼かれらの間あいだでも、互たがいに腹はらを探さぐり合あって暗闘あんとうしているのです。末法まっぽうの時期じきの現在げんざいにおいては、このような現象げんしょうを否認ひにんするわけにもいきません。ここで佛教ぶっきょうを批判ひはんしているわけではありませんが、末法まっぽうの時期じきに、一部いちぶの寺院じいんが不浄ふじょうであることは事実じじつです。彼かれらが頭あたまの中なかでそういうことを考かんがえ、そんな良よくない念ねんをもっているようでは、どうして覚者かくしゃが来きてくれるでしょうか? 開眼かいげんという目的もくてきが達成たっせいできるわけもありません。もっとも例外れいがいがないということではなく、わずかではありますが良よい寺院じいんと道観どうかんもあります。
 わたしはある都市としで一人ひとりの和尚おしょうを見みかけました。その手ては真まっ黒くろでした。経文きょうもんを佛像ぶつぞうに詰つめた後あと、糊のりで封ふうをし、口くちの中なかでぶつぶつと呟つぶやいただけで、開眼かいげんを済すましたというのです。つづいてもう一体いったいの佛像ぶつぞうを手てに取とって、またぶつぶつ呟つぶやきました。佛像ぶつぞうを一体いったい開眼かいげんするたびに、四十元よんじゅうげん取とります。今いまの和尚おしょうはこういうことさえも商品しょうひん化かしてしまい、佛像ぶつぞうの開眼かいげんで金儲かねもうけをしているのです。わたしが見みると、開眼かいげんなんかしていません。開眼かいげんできるわけもありません。今いまの和尚おしょうは驚おどろいたことにこの程度ていどのことをしているのです。わたしがほかにもう一ひとつ見みたものは何なにかと言いいますと、ある寺院じいんに、居士こじと思おもわれる人ひとがいて、佛像ぶつぞうを開眼かいげんすると言いって、一枚いちまいの鏡かがみを持もって太陽たいように向むけ、太陽たいようの光ひかりを佛像ぶつぞうの身体からだに反射はんしゃさせるだけで、開眼かいげんしたと言いうのです。ここまで馬鹿々々ばかばかしい事ことが行おこなわれるようになっています! 佛教ぶっきょうがここまで来きてしまった現在げんざい、このような現象げんしょうはごく普通ふつうに見みられます。
 南京ナンキンで造つくられた銅どうの大佛だいぶつ像ぞうが、香港ほんこんの大嶼山だいしょさんに立たてられました。とても大おおきな佛像ぶつぞうです。全ぜん世界せかいからたくさんの和尚おしょうが来きて、その佛像ぶつぞうを開眼かいげんすることになりました。その中なかの一人ひとりが、鏡かがみを太陽たいように向むけて、その光ひかりを佛像ぶつぞうの顔かおに反射はんしゃさせるだけで開眼かいげんをしたと言いうのです。あのように盛大せいだいな式典しきてんで、あのように厳おごそかな場面ばめんで、こうした馬鹿ばかげたことをするなど、わたしは本当ほんとうに悲かなしく思おもいました! なるほど釈迦牟尼しゃかむにの言いうように、末法まっぽうの時期じきになると、和尚おしょう自身じしんも済度さいどし難がたいものですから、他人たにんを済度さいどすることはさらに難むずかしいことです。それに、多おおくの和尚おしょうは自分じぶんの立場たちばから佛経ぶっきょうを解釈かいしゃくし、また王母娘娘経ワンムニャンニャンきょうのようなものさえ寺院じいんの中なかに入はいり、佛教ぶっきょうの経典きょうてんにないものまで寺院じいんに入はいりましたので、寺院じいんの中なかは大変たいへん混乱こんらんして、乱脈らんみゃくをきわめています。言いうまでもなく、本当ほんとうに修煉しゅうれんする和尚おしょうもおり、立派りっぱな人ひともいます。開眼かいげんとは、実じつはほかでもなく覚者かくしゃの法身ほうしんを佛像ぶつぞうにお招まねきすることで、法身ほうしんが佛像ぶつぞうに降おりれば開眼かいげんしたということになります。
 そういうことなので、開眼かいげんされていない佛像ぶつぞうは祀まつってはなりません。祀まつったら、きわめて深刻しんこくな結果けっかをもたらすことになります。どのような深刻しんこくな結果けっかになるのでしょうか? 現在げんざいまでに人体じんたい科学かがくが発見はっけんしたところによれば、人間にんげんの意念いねん、大脳だいのうの思惟しいは一種いっしゅの物質ぶっしつを生しょうじさせることができます。きわめて高たかい次元じげんから見みれば、それは確たしかに物質ぶっしつの一種いっしゅです。しかしこの物質ぶっしつは、現在げんざいまでの研究けんきゅうで発見はっけんされているような脳波のうは電流でんりゅうの形かたちのものではなく、完全かんぜんな大脳だいのうの形式けいしきをもったものです。普段ふだん、常人じょうじんが物事ものごとを考かんがえる時ときに発はっした大脳だいのう形態けいたいのものは、エネルギーを持もっていないために、発はっせられた後あと、間まもなく散ちってしまいます。しかし、煉功者れんこうしゃのエネルギーはずっと長ながく保たもたれます。佛像ぶつぞうは工場こうじょうで造つくられた当初とうしょから思惟しいを持もっているわけではありません。開眼かいげんされていない佛像ぶつぞうを、寺院じいんに持もっていったからといって、開眼かいげんの目的もくてきが達成たっせいできるとは限かぎりません。偽にせ気功師きこうしや邪道じゃどうの人ひとに開眼かいげんを頼たのんだ場合ばあい、狐きつねやイタチが佛像ぶつぞうに乗のり移うつってしまうので、もっと危険きけんです。
 さて、開眼かいげんされていない佛像ぶつぞうを拝おがむことは、大変たいへん危険きけんです。どれほど危険きけんでしょうか? すでにお話はなししたように、人類じんるいは今日こんにちのような段階だんかいまで来きてしまって、すべてのものが退廃たいはいしており、社会しゃかい全体ぜんたい、宇宙うちゅう全体ぜんたいのすべての事ことが引ひきも切きらずに退廃たいはいしています。常人じょうじんの中なかのすべてはみな自分じぶん自身じしんがもたらしたことです。正法しょうぼうを求もとめ、正ただしい道みちを歩あゆもうとしても、さまざまな方面ほうめんから妨害ぼうがいされますので、難むずかしく、佛ほとけに祈いのろうとしても、どこに佛ほとけがおわしますか? 求もとめようとしても難むずかしいのです。これが信しんじられなければ、明あきらかにしてあげましょう。開眼かいげんしていない佛像ぶつぞうを、最初さいしょに誰だれかが拝おがむと、大変たいへんなことになります。現在げんざい、佛ほとけを拝おがむ人ひとの中なかに、真しんに心こころの中なかで佛ほとけに祈いのって正果しょうかを得えようとする人ひとがどれくらいいるでしょうか? このような人ひとはあまりにも少すくないのです。大だい多数たすうの人ひとは何なんのために佛ほとけを拝おがむのでしょうか? 厄払やくばらい、厄除やくよけ、金儲かねもうけ、といったことを求もとめているのです。それらは佛教ぶっきょうの経典きょうてんにあるものでしょうか? そんなものはどこにもありません。
 金かねを求もとめる人ひとが佛ほとけを拝おがむ場合ばあい、佛像ぶつぞうに向むかって、あるいは観音かんのん菩薩ぼさつ像ぞうまたは如来にょらい佛像ぶつぞうに向むかって「どうか、金儲かねもうけができますようによろしくお願ねがいします」と言いったとします。するとそれによって一ひとつの完全かんぜんな意念いねんが形成けいせいされます。その意念いねんは佛像ぶつぞうに向むかって発はっせられたものですから、すぐにその佛像ぶつぞうに乗のり移うつってしまうのです。他たの空間くうかんにあるその身体からだは大おおきく変身へんしんしたり、小ちいさく変身へんしんしたりすることができますので、佛像ぶつぞうに乗のり移うつれば、この佛像ぶつぞうは一ひとつの大脳だいのうを持もつようになり、思惟しいを持もつようになります。しかし、身体からだはありません。他ほかの人ひとも拝おがみに行いきます。拝おがんでいるうちに、佛像ぶつぞうに一定いっていのエネルギーを与あたえてしまいます。特とくに煉功者れんこうしゃの場合ばあいはいっそう危険きけんで、拝おがむと次第しだいにエネルギーを与あたえるので、やがてこの佛像ぶつぞうが有形ゆうけいの身体からだを形成けいせいするようになります。ただし、この有形ゆうけいの身体からだは他たの空間くうかんで形成けいせいされたのです。形成けいせいされた後あと、それは他たの空間くうかんにいて、宇宙うちゅうの中なかの理りを少すこし知しっているので、人間にんげんの手助てだすけを少すこしばかりすることができます。それで少すこしばかりの功こうを持もつことができますが、しかし、人間にんげんを助たすけるには、条件じょうけんと代償だいしょうがあります。他たの空間くうかんでは、それが思おもうままに動うごき、思おもうままに常人じょうじんを操あやつることができます。この有形ゆうけいの身体からだは佛像ぶつぞうの姿すがたとそっくりなので、偽物にせものの観音かんのん菩薩ぼさつ、偽物にせものの如来佛にょらいぶつを礼拝らいはいによって作つくってしまったことになります。それは人間にんげんの礼拝らいはいによって作つくられたもので、佛像ぶつぞうの姿すがたとそっくりで、佛ほとけの姿すがたをしています。偽物にせものの佛ほとけ、偽物にせものの菩薩ぼさつの思惟しいはきわめて悪質あくしつで、金かねを求もとめようとするものです。それは他たの空間くうかんで生うまれ、思惟しいを持もち、少すこしばかり理りを知しっているので、大たいした悪事あくじは敢あえて働はたらこうとしないのですが、小ちいさい悪事あくじを行おこなうことがあります。人間にんげんを助たすける時ときもあります。人間にんげんを助たすけなければ、まったくの邪道じゃどうとなり、抹殺まっさつされなければならないからです。どのように人間にんげんを助たすけるのでしょうか? ある人ひとが「佛ほとけ様さま、お願ねがいします。どうか、助たすけてください。家族かぞくが病気びょうきになりました」と拝おがみました。よし、助たすけてあげよう、と請うけ合あい、まず賽銭箱さいせんばこの中なかにお金かねを入いれさせます。金かねが目当めあてです。賽銭さいせん箱ばこの中なかにたくさんお金かねを入いれれば、病気びょうきが早はやく治なおるようにしてくれます。それには一定いっていのエネルギーがあって、他たの空間くうかんで常人じょうじんを制御せいぎょすることができるわけです。とりわけ功こうのある人ひとが拝おがみに行いったら、もっと危険きけんです。その煉功者れんこうしゃは何なにを求もとめているのでしょうか? 金かねを求もとめているのです。考かんがえてみてください。煉功者れんこうしゃが金かねを求もとめて、何なにをするのでしょうか? 家族かぞくのために厄払やくばらいを求もとめたり、病やまいを治なおすことを求もとめたりすることさえも、家族かぞくへの情じょうに対たいする執着しゅうちゃくなのです。他人たにんの運命うんめいを左右さゆうしようとしても、人間にんげんにはそれぞれ定さだめられた運命うんめいがあります! もし「どうか金かね持もちになれますように」と言いって拝おがむと、喜よろこんで助たすけてくれます。あなたが金かねを求もとめれば求もとめるほどそれは喜よろこびます。等価とうか交換こうかんですので、それもあなたから多おおくの物ものを取とることができるわけです。賽銭さいせん箱ばこには、他ほかの人ひとが入いれたお金かねがいくらでもあります。それはあなたに得えさせます。どのように得えさせるのでしょうか? 街まちに出でかけて財布さいふを拾ひろったとか、職場しょくばで奨励金しょうれいきんをもらったとか、とにかく何なんとかしてあなたにお金かねを得えさせるのです。しかし、無条件むじょうけんであなたを助たすけるわけにはいかないでしょう? 「失うしなわないものは得えられず」と言いわれているように、それには功こうがないので、あなたから功こうを取とったり、あるいはあなたが修煉しゅうれんして得えた丹たんを取とったりします。それはこういうものを欲ほしがるのです。
 これらの偽物にせものの佛ほとけは、時ときには非常ひじょうに危険きけんな場合ばあいがあります。天目てんもくが開ひらいた多おおくの人ひとは、佛ほとけが見みえたと思おもい込こんでいます。ある人ひとが「今日きょうは寺てらにたくさんの佛ほとけが来きた」とか、「この佛ほとけは何々なになにという名前なまえで、たくさんの佛ほとけを連つれてきた」とか、「昨日きのう来きた佛ほとけたちはこれこれの様子ようすだった」とか、「今日きょう来きた佛ほとけはこれこれの様子ようすだった」とか、「間まもなく帰かえって行いった」とか、「また来きた」などと言いっていましたが、それらは何なんでしょうか? ほかでもなくみなこの類たぐいのものです。それらは本物ほんものの佛ほとけではなく、偽物にせものの佛ほとけです。この類たぐいのものが相当そうとう多おおいのです。
 もし寺院じいんの中なかにこのような情況じょうきょうが現あらわれれば、なお危険きけんです。和尚おしょうがそういう偽物にせものの佛ほとけを拝おがむと、その和尚おしょうが制御せいぎょされることになります。「わたしを拝おがんでいるだろう? はっきりと拝おがんでいるじゃないか! よし、修煉しゅうれんしたいのか? ならば、わたしが面倒めんどうを見みてあげよう。どのように修煉しゅうれんするかについてはわたしが教おしえてあげる」などと、それらが修煉しゅうれんの段取だんどりを考かんがえてくれます。そういう形かたちで修煉しゅうれんして成就じょうじゅしたら、あなたはどこへ行いくでしょうか? それらが面倒めんどうを見みた者ものは、上うえのどの法門ほうもんにも受うけ入いれてもらえません。それらが修煉しゅうれんの段取だんどりを考かんがえた以上いじょう、将来しょうらいもそれらが面倒めんどうを見みつづけることになります。それでは無駄むだに修煉しゅうれんしたことになるではありませんか? ですから、現在げんざいの人類じんるいは、修煉しゅうれんして正果しょうかを得えようとしても難むずかしいと言いっているのです。この現象げんしょうは、かなり普遍ふへん性せいのあるものです。多おおくの人ひとが名山めいざんや大河たいがで佛光ぶっこうを見みたと言いっていますが、それらはほとんどこの類たぐいのものです。それらはエネルギーがあるので、顕現けんげんすることができます。それに対たいし、本当ほんとうの大覚者だいかくしゃは軽々かるがるしく顕現けんげんすることはしません。
 昔むかし、地上佛ちじょうぶつ、地上道ちじょうどうといわれるものは比較的ひかくてき少すくなかったのですが、しかし、今いまはとてもたくさんあります。それらが悪わるいことをした時とき、上うえの佛ほとけがそれらを撲滅ぼくめつしようとします。撲滅ぼくめつされそうになったら、それらは佛像ぶつぞうに逃にげ込こんでしまいます。常人じょうじんの理りに、一般いっぱんの大覚者だいかくしゃはめったに干渉かんしょうしません。次元じげんの高たかい覚者かくしゃほど、常人じょうじんの理りを壊こわさず、まったく干渉かんしょうしません。突然とつぜん雷かみなりを落おとして、佛像ぶつぞうを打うち砕くだいてしまうようなことをするわけにはいきません。そんなことはしません。ですから、佛像ぶつぞうに逃にげ込こんでしまえば、それ以上いじょうは追及ついきゅうしません。このように、撲滅ぼくめつされそうになると、それらにはそれが分わかるので逃にげてしまいます。したがって、あなたが観音かんのん菩薩ぼさつを見みたとしても、それは果はたして観音かんのん菩薩ぼさつでしょうか? あなたの見みた佛ほとけは、佛ほとけなのでしょうか? 必かならずしもそうとは言いえないのです。
 多おおくの人ひとがきっと「わが家やの佛像ぶつぞうはどうすればよいのだろうか?」ということに考かんがえ及およんだでしょう。そして、わたしのことを思おもい出だした人ひとが多おおくいるかも知しれません。学習者がくしゅうしゃの修煉しゅうれんを助たすけるために、こうすればよいということを教おしえましょう。わたしの本ほん(本ほんの中なかにはわたしの写真しゃしんがあるから)あるいはわたしの写真しゃしんを持もって、手てに佛像ぶつぞうを捧ささげ、大蓮花だいれんげ手印しゅいんを結むすび、それからわたしに祈いのるように「先生せんせい、どうか開眼かいげんを宜よろしくお願ねがいします」と言いえばよいのです。三十秒さんじゅうびょうくらいで問題もんだいは解決かいけつしてしまいます。よく聞きいてください。これは修煉者しゅうれんしゃだけに限かぎります。親戚しんせきや友人ゆうじんのために開眼かいげんしてあげようと思おもっても、全然ぜんぜん効ききません。わたしは修煉者しゅうれんしゃの面倒めんどうしか見みません。「先生せんせいの写真しゃしんを親戚しんせきや友人ゆうじんの家いえに置おいて、魔除まよけに使つかいたい」と言いう人ひとがいます。わたしは常人じょうじんのための魔除まよけではありません。それは師しに対たいする最大さいだいの不敬ふけいです。
 地上佛ちじょうぶつや地上道ちじょうどうについては、もう一ひとつの情況じょうきょうがあります。中国ちゅうごくの古代こだいでは、多おおくの人ひとが、人ひとが足あしを踏ふみ入いれない山奥やまおくで修煉しゅうれんしていました。どうして今いまはいなくなったのでしょうか? 実じつはいなくなったのではなく、常人じょうじんに分わからないようにしているだけに過すぎず、少すこしも減へっていません。これらの人ひとはみな功能こうのうを持もっています。ここ数年すうねん、これらの人ひとがいなくなったわけではなく、みんな健在けんざいです。現在げんざい、世界中せかいじゅうにまだ数すう千人せんにんいますが、わが国くにには比較的ひかくてき多おおく、ほとんどの人ひとが名山めいざんや大河たいがにいて、一部いちぶの高山こうざんにもいます。その人ひとたちは功能こうのうで洞窟どうくつの入口いりぐちを塞ふさいでおり、彼かれらの存在そんざいは見みえないのです。その人ひとたちの修煉しゅうれんは比較的ひかくてき遅おそいもので、やり方かたはそれほど器用きようではありません。彼かれらは修煉しゅうれんの核心かくしんを掴つかむことができません。それに対たいしてわれわれの功法こうほうは人心じんしんを真まっ直すぐに指さし、宇宙うちゅうの最高さいこうの特性とくせいに従したがって修煉しゅうれんし、宇宙うちゅうの形式けいしきに従したがって修煉しゅうれんしているので、当然とうぜん功こうが速すみやかに伸のびます。修煉しゅうれんの法門ほうもんはピラミッドの形かたちをしており、真まん中なかだけが大道だいどうなのです。周辺しゅうへんの小道しょうどうは、修煉しゅうれんしても心性しんせいが高たかくなるとは限かぎりません。高たかい次元じげんに到達とうたつしないうちに功こうを開ひらくことがあるかも知しれませんが、本当ほんとうに修煉しゅうれんする大道だいどうと比くらべれば、ずいぶんかけ離はなれています。
 彼かれらも、弟子でしをとって伝承でんしょうしています。彼かれらの法門ほうもんは高たかさが限かぎられており、心性しんせいの高たかさもその程度ていどしかないので、その弟子でしたちはせいぜいその高たかさに向むけてしか修煉しゅうれんできません。周辺しゅうへんの小道しょうどうであればあるほど、こだわりが多おおく、修煉しゅうれん方法ほうほうも複雑ふくざつで、核心かくしんを掴つかんで修煉しゅうれんすることができないのです。修煉しゅうれんというのは、主おもに心性しんせいを修煉しゅうれんすることですが、彼かれらはまだこのことが分わかっておらず、苦くるしみに耐たえさえすれば修煉しゅうれんできると思おもい込こんでいます。ですから、その人ひとたちは、非常ひじょうに長ながい年月ねんげつをかけて、何百年なんびゃくねん、何千年なんぜんねん修煉しゅうれんしても、ほんのわずかしか功こうが伸のびません。実際じっさいのところ、彼かれらの功こうは、苦くるしみに耐たえることによって得えたものではありません。ではどのようにして修得しゅうとくしたのでしょうか? 人間にんげんは若わかい頃ころには執着心しゅうちゃくしんが多おおく、もてあまします。しかし年としを取とり、月日つきひが経たつにつれて、前途ぜんとに希望きぼうがなくなるので、その執着心しゅうちゃくしんもおのずと放棄ほうきするようになり、すり減へって無なくなってしまうものです。これと同おなじような方法ほうほうをそれらの小道しょうどうも採とっているのです。彼かれらは、坐禅ざぜんや定力じょうりき、苦くるしみへの忍耐にんたいだけに頼たよって修煉しゅうれんしていても功こうが伸のびる、ということは分わかります。しかし彼かれらは、自分じぶんの常人じょうじんとしての執着心しゅうちゃくしんがかなり長ながく苦くるしい年月ねんげつの中なかで少すこしずつ削けずり取とられたに過すぎないこと、それが次第しだいに削けずり取とられたことによってはじめて功こうが伸のびたのだ、ということが分わかりません。
 これに対たいして、われわれはねらいを定さだめて、本当ほんとうにその心こころを指摘してきし、その心こころを取とり除のぞくわけですから、修煉しゅうれんがきわめて速はやいのです。わたしは各地かくちで、そういう人ひとによく会あいました。いずれも長年ながねん修煉しゅうれんしている者ものばかりでした。彼かれらは「誰だれもわれわれがここにいることを知しらない。われわれはあなたのやることには一切いっさい邪魔じゃまはしない」と言いいました。これは良よいほうです。
 良よくない者ものもいます。良よくない者ものは処理しょりしなければなりません。例れいを一ひとつ挙あげましょう。わたしが初はじめて貴州きしゅうへ行いって功こうを教おしえた時ときのことです。講習会こうしゅうかいの最中さいちゅうに、ある人ひとが訪たずねて来きました。「自分じぶんはなにがしという師しの孫弟子まごでしだが、師しは長年ながねん修煉しゅうれんしており、あなたに会あいたがっている」と、言いってきたのです。見みると、その人ひとは非常ひじょうに良よくない陰気いんきを帯おびており、顔色かおいろが非常ひじょうに悪わるいのです。わたしは時間じかんがないから会あわないと断ことわりました。すると、その師しである爺じいさんは機嫌きげんが悪わるくなって、わたしの妨害ぼうがいをしはじめました。毎日まいにちのように妨害ぼうがいをしに来きました。わたしは人ひとと闘たたかうことが嫌きらいな上うえ、彼かれとは闘たたかうまでもありません。彼かれが良よくないものを持もってきても、わたしはそれをきれいに片付かたづけてから、説法せっぽうを続つづけていました。
 昔むかし、明みんの時代じだいに、ある修道者しゅうどうしゃがいましたが、修道しゅうどうする時とき、蛇へびに取とり付つかれてしまいました。結局けっきょくこの修道者しゅうどうしゃは成就じょうじゅできずに死しにましたが、蛇へびが修道者しゅうどうしゃの身体からだを占有せんゆうし、修行しゅぎょうして人間にんげんの姿すがたを持もつようになりました。この蛇へびが修行しゅぎょうして得えた人間にんげんの姿すがたこそ、ほかでもない、あの時とき訪たずねてきた人ひとの師しです。彼かれは本性ほんしょうが変かわらないので、また大蛇だいじゃに化ばけてわたしの妨害ぼうがいをしました。あまりにもひどすぎたので、わたしはそれを手てに掴つかんで、化功かこうという、きわめて強つよい功こうを使つかって、その下半身かはんしんを溶とかして水みずにしました。その上半身じょうはんしんだけが逃にげ帰かえりました。
 ある日ひ、貴き州しゅうの法輪大法ファールンダーファー勉強べんきょう会かいの責任せきにん者しゃが、「師しが会あいたい」ということで、彼かれの孫弟子まごでしに呼よばれて行いきました。彼女かのじょが洞窟どうくつの中なかに入はいってみると、洞窟どうくつの中なかは真まっ暗くらで何なにも見みえません。一ひとつの影かげがそこに坐すわっており、目めから緑みどりの光ひかりを放はなっています。その影かげが目めを開あけると、洞窟どうくつの中なかが明あかるくなり、目めを閉とじると洞窟どうくつの中なかはまた真まっ暗くらになります。彼かれは方言ほうげんで「李洪志りこうしがまた来こられるのか。この次つぎはわれわれは誰だれもこの前まえのようなことをしない。わしが悪わるかった。李洪志りこうしは人ひとを済度さいどするために来こられた方かたじゃ」と話はなしました。「どうしてお立たちになりませんか。足あしはどうなさいましたか?」と孫弟子まごでしが尋たずねたら、「わしはもう立たち上あがれない。足あしを怪我けがしたのじゃ」と答こたえました。どうして怪我けがをしたのかと聞きいたら、彼かれはわたしの妨害ぼうがいをした時ときの一部始終いちぶしじゅうを話はなしました。一九九三年せんきゅうひゃくきゅうじゅうさんねん、北京ぺきんでの東方とうほう健康けんこう博覧はくらん会かいの時とき、彼かれはまた妨害ぼうがいをしに来きました。この人ひとはたびたび悪わるいことをし、わたしが大法ダーファーを伝つたえるのを妨さまたげるので、わたしはとうとう彼かれを徹底的てっていてきに始末しまつしました。その後ご、彼かれの姉妹しまい、兄弟きょうだい弟子でしたちがみな手てを出だそうとしましたが、その時とき、わたしが二言三言ふたことみこと言いったら、全員ぜんいん震ふるえ上あがりました。どういうことなのかが分わかり、怖こわくなって、誰だれ一人ひとりとして手てを出だせる者ものはいませんでした。その人ひとたちの中なかには、長年ながねん修行しゅぎょうしているのに、まだまったくの常人じょうじんである人ひともいます。これは開眼かいげんの話はなしのついでに挙あげた例れいです。
 

 祝由科しゅくゆうか


 祝由科しゅくゆうかとは何なんでしょうか? 修煉界しゅうれんかいでは、功法こうほうを教おしえるにあたって、それを修煉しゅうれんの範疇はんちゅう内ないのものとして教おしえている人ひとも多おおくいますが、実際じっさいは、これは修煉しゅうれん範疇はんちゅう内ないのものではありません。それは、秘訣ひけつや呪文じゅもんや技わざの伝承でんしょうです。お札ふだを書かいたり、香こうを焚たいたり、紙銭しせんを焼やいたり、呪文じゅもんを唱となえたりするなどの形式けいしきをとり、それも病やまいを治なおすことができますが、その治なおし方かたはとても独特どくとくなものです。一ひとつ例れいを挙あげましょう。誰だれかの顔かおに吹ふき出物でものができたとします。筆ふでに辰砂しんしゃを付つけて地面じめんに円えんを描えがき、円えんの中なかに一ひとつの十字じゅうじを書かきます。患者かんじゃをその円えんの中なかに立たたせた後あと、呪文じゅもんを唱となえ始はじめます。それから、筆ふでに辰砂しんしゃを付つけて患者かんじゃの顔かおに円えんを描えがきます。描えがきながら呪文じゅもんを唱となえます。しばらく描えがいてから、吹ふき出物でものに点てんを打うつと、呪文じゅもんも唱となえ終おわり、「治なおった」と言いうのです。触さわってみると、その吹ふき出物でものは確たしかに小ちいさくなり、痛いたみも消きえ、効きき目めがあります。このような小ちいさな病やまいは治なおせますが、大おおきな病気びょうきの場合ばあいは、効きかなくなります。腕うでが痛いたい時ときはどのように治なおすのでしょうか? 口くちの中なかで呪文じゅもんを唱となえながら、あなたに腕うでを伸のばさせます。この手ての合谷ごうこくというツボに息いきを一ひと口くち吹ふいて、その息いきをもう一方いっぽうの手ての合谷ごうこくから出でるようにします。すると、確たしかに一ひとそよぎの風かぜを感かんじます。触さわってみると、痛いたみがだいぶ和やわらいでいます。そのほか、紙かみを焼やいたり、お札ふだを書かいたり張はったりするような形式けいしきもありますが、祝由科しゅくゆうかとは、このようなことをやるものです。
 道家どうけの世間せけん小道しょうどうでは、命めいを修おさめることをせずに、卦けをたてたり、風水ふうすいを見みたり、厄やくを払はらったり、病気びょうきを治なおしたり、といったことばかりをしています。世間せけん小道しょうどうではよくそれらを用もちいます。病気びょうきを治なおすことはできますが、用もちいた方法ほうほうはあまり良よくありません。それが何なにを利用りようして病気びょうきを治なおしたかについては、ここでは話はなしませんが、きわめて低ひくい、きわめて良よくない信息しんそくをもっているので、大法ダーファーを修煉しゅうれんする人ひとはそれを用もちいてはなりません。古代こだい中国ちゅうごくでは、病気びょうきを治なおす方法ほうほうを科目かもくごとに分類ぶんるいしました。例たとえば、接骨せっこつ、針灸しんきゅう、按摩あんま、推拿すいな、点穴てんけつ、気功きこう治療ちりょう、薬草やくそう治療ちりょうなどなど、多おおくの科目かもくに分わけています。それぞれの病気びょうきの治療ちりょう方法ほうほうを一ひとつの科かと呼よびますが、この祝由科しゅくゆうかは第十三科だいじゅうさんかに入いれられているため、正式せいしきな名前なまえは「祝由十三科しゅくゆうじゅうさんか」と言いいます。祝由科しゅくゆうかは修煉しゅうれんの範疇はんちゅうに属ぞくするものではありません。それは修煉しゅうれんして得えた功こうではなく、術じゅつ類るいの一種いっしゅです。