轉 法 輪
第六講
走火入魔
そうかにゅうま
修煉界
しゅうれんかい
には、
走火入魔
そうかにゅうま
という
言
い
い
方
かた
があり、
大衆
たいしゅう
に
与
あた
える
影響
えいきょう
も
非常
ひじょう
に
大
おお
きなものがあります。
特
とく
に、
一部
いちぶ
の
人
ひと
に
大袈裟
おおげさ
に
取
と
り
上
あ
げられたので、
人々
ひとびと
は
怖
こわ
くなって
煉功
れんこう
できなくなっています。
気功
きこう
をやると
走火入魔
そうかにゅうま
になってしまうかも
知
し
れないと
聞
き
かされ、
怖
こわ
くなって
煉功
れんこう
を
敬遠
けいえん
してしまいます。
実
じつ
は
皆
みな
さんにはっきり
言
い
っておきますが、
走火入魔
そうかにゅうま
など
根
ね
も
葉
は
もないことです。
一部
いちぶ
の
人
ひと
は、
自分
じぶん
自身
じしん
の
心
こころ
が
正
ただ
しくないため、
憑
つ
き
物
もの
を
招
まね
いてしまいました。
自分
じぶん
の
主
しゅ
意識
いしき
が
自分
じぶん
自身
じしん
を
制御
せいぎょ
できなくなったのに、それが
功
こう
だと
思
おも
い
込
こ
んでいます。
身体
からだ
が
憑
つ
き
物
もの
によって
操
あやつ
られているので、
錯乱
さくらん
状態
じょうたい
になり、
喚
わめ
いたり
叫
さけ
んだりします。
周囲
しゅうい
の
人
ひと
はそれを
見
み
て、
煉功
れんこう
をやればこんなふうになるのか、と
怖
こわ
くてやる
気
き
になれません。
多
おお
くの
人
ひと
はそれが
功
こう
だと
思
おも
っているようですが、それが
煉功
れんこう
などと
言
い
えるのでしょうか? それは
最
もっと
も
最
もっと
も
低
ひく
い、
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
の
状態
じょうたい
に
過
す
ぎません。
一方
いっぽう
、それはまたとても
危
あぶ
ないものでもあります。もしあなたがその
状態
じょうたい
に
慣
な
れ、いつまでも
主
しゅ
意識
いしき
が
自分
じぶん
自身
じしん
を
制御
せいぎょ
できなければ、
自分
じぶん
の
身体
からだ
が
副意識
ふくいしき
、あるいは
他
た
の
空間
くうかん
からの
信息
しんそく
や
憑
つ
き
物
もの
の
類
たぐ
いによって
支配
しはい
され、
危険
きけん
な
行動
こうどう
をしかねないばかりでなく、
修煉界
しゅうれんかい
に
与
あた
えるダメージも
計
はか
り
知
し
れません。こういうことは
人間
にんげん
の
心
こころ
の
歪
ゆが
みや、
自己
じこ
顕示
けんじ
に
執着
しゅうちゃく
することから
生
う
まれたもので、
走火入魔
そうかにゅうま
などではありません。
一部
いちぶ
のいわゆる
気
き
功
こう
師
し
という
人
ひと
たちも、どういうわけか、
走火入魔
そうかにゅうま
のことを
口
くち
にします。
本当
ほんとう
のところ、
煉功
れんこう
をして
走火入魔
そうかにゅうま
になることはありません。
多
おお
くの
人
ひと
は
芸術
げいじゅつ
作品
さくひん
か
何
なに
かの
武侠
ぶきょう
小説
しょうせつ
の
中
なか
でこの
言葉
ことば
を
知
し
っているかも
知
し
れませんが、
古文書
こもんじょ
や
修煉
しゅうれん
の
本
ほん
のどこを
見
み
ても、そんなことは
書
か
かれていません。
走火入魔
そうかにゅうま
などどうしてありえますか? そんなことは
起
お
こるわけがありません。
一般
いっぱん
の
人
ひと
が
走火入魔
そうかにゅうま
と
見
み
ているものには、
幾
いく
つかの
形
かたち
がありますが、
先
さき
ほどお
話
はな
ししたのもその
一
ひと
つで、
自分
じぶん
の
心
こころ
が
正
ただ
しくなく、いわゆる
気功
きこう
態
たい
を
求
もと
めたり、
自己
じこ
顕示
けんじ
をしようとしたりする、さまざまな
心理
しんり
状態
じょうたい
があるため、
憑
つ
き
物
もの
を
招
まね
いてしまったのです。
一部
いちぶ
の
人
ひと
は
直接
ちょくせつ
功能
こうのう
を
求
もと
め、あるいは
偽物
にせもの
の
気功
きこう
を
習
なら
ってしまったため、
気功
きこう
を
練習
れんしゅう
すると、いつも
何
なに
もかも
分
わ
からなくなるまで
自分
じぶん
の
主
しゅ
意識
いしき
を
緩
ゆる
め、
身体
からだ
を
人
ひと
に
預
あず
けてしまい、
副意識
ふくいしき
あるいは
他
ほか
からの
信息
しんそく
に
身体
からだ
を
牛耳
ぎゅうじ
られてしまって、
錯乱
さくらん
状態
じょうたい
に
陥
おちい
り、わけの
分
わ
からない
行動
こうどう
をします。「ビルから
飛
と
び
降
お
りろ」と
言
い
われれば、
飛
と
び
降
お
りるし、「
水
みず
に
飛
と
び
込
こ
め」と
言
い
われれば、
飛
と
び
込
こ
んでしまうのです。
生
い
きつづける
意志
いし
がないかのように、
自分
じぶん
の
身体
からだ
まで
人
ひと
に
預
あず
けてしまいます。それは
走火入魔
そうかにゅうま
ではなく、
練功
れんこう
において
誤
あやま
って
邪道
じゃどう
に
入
はい
ってしまったのであり、
最初
さいしょ
から
意識
いしき
的
てき
にそうしたからそうなったのです。
多
おお
くの
人
ひと
は、
煉功
れんこう
とは
身体
からだ
をゆらゆらさせることぐらいに
勘違
かんちが
いしていますが、
本当
ほんとう
のところ、そんな
状態
じょうたい
で
本当
ほんとう
に
煉功
れんこう
したら、
深刻
しんこく
な
結果
けっか
を
招
まね
いてしまいます。それは
煉功
れんこう
ではなく、
常人
じょうじん
の
執着心
しゅうちゃくしん
と
求
もと
める
心
こころ
がもたらしたものです。
もう
一
ひと
つの
状態
じょうたい
は、
煉功
れんこう
する
時
とき
、
気
き
がどこかで
塞
ふさ
がって
行
い
き
詰
づ
まったり、
頭
あたま
のてっぺんにとどまってしまったりすると、
人
ひと
は
怖
こわ
くなってしまいます。
人間
にんげん
の
身体
からだ
は
一
ひと
つの
小宇宙
しょううちゅう
ですので、
特
とく
に
道家
どうけ
の
功法
こうほう
では、
関
かん
を
通過
つうか
する
時
とき
に、そういう
厄介
やっかい
なことが
起
お
こるものです。うまく
通過
つうか
できなければ、
気
き
がそこにとどまってしまいます。
頭
あたま
のてっぺんだけではなく、
他
ほか
の
場所
ばしょ
でも
同
おな
じように
起
お
こりますが、
最
もっと
も
敏感
びんかん
な
場所
ばしょ
は
頭
あたま
のてっぺんです。
頭
あたま
のてっぺんまで
上
あ
がってきた
気
き
が、
下
お
りようとしても
関
かん
を
通過
つうか
できない
時
とき
は、
頭
あたま
が
重
おも
く
感
かん
じられたり、
割
わ
れそうに
感
かん
じたり、まるで
厚
あつ
い
気
き
の
帽子
ぼうし
でもかぶっているかのような
感
かん
じがしたりするのです。しかし、
気
き
というものは
何
なん
の
制約
せいやく
力
りょく
もなく、
人
ひと
に
面倒
めんどう
なことをもたらすはずがないので、
病気
びょうき
などを
引
ひ
き
起
お
こすことはありえません。
気功
きこう
の
真相
しんそう
を
知
し
らない
者
もの
が、
神秘
しんぴ
めかしてでたらめにしゃべったため、たいへんな
混乱
こんらん
を
招
まね
いてしまいました。
気
き
が
頭
あたま
のてっぺんにとどまり、
下
お
りられなければ、
走火入魔
そうかにゅうま
に
陥
おちい
るのではないか、おかしくなるのではないかと
思
おも
い、その
結果
けっか
、
多
おお
くの
人
ひと
が
恐怖
きょうふ
を
覚
おぼ
えてしまっています。
気
き
が
頭
あたま
のてっぺんにのぼって
下
お
りないのは、
一定
いってい
期間
きかん
の
状態
じょうたい
に
過
す
ぎません。
中
なか
には
長
なが
い
間
あいだ
、
半年
はんとし
経
た
っても
下
お
りない
人
ひと
もいますが、そんな
時
とき
、
本物
ほんもの
の
気
き
功
こう
師
し
に
頼
たの
めば、
気
き
は
下
お
ろしてもらえるものです。とすれば、
煉功
れんこう
の
時
とき
、
関
かん
を
通過
つうか
できず
気
き
を
下
お
ろせない
場合
ばあい
、いまの
次元
じげん
にとどまりすぎているのではないか、もっと
心性
しんせい
を
向上
こうじょう
させるべきではないか、と
心性
しんせい
から
原因
げんいん
を
探
さが
すべきです!
心性
しんせい
が
本当
ほんとう
に
向上
こうじょう
すれば、
気
き
は
自然
しぜん
に
下
お
りてくるはずです。あなたは
功
こう
の
変化
へんか
にばかり
夢中
むちゅう
になって、
心性
しんせい
の
変化
へんか
を
重
おも
んじないかも
知
し
れませんが、
心性
しんせい
の
向上
こうじょう
がなければ、
全体
ぜんたい
的
てき
な
変化
へんか
はありえません。
気
き
が
本当
ほんとう
に
身体
からだ
のどこかに
詰
つ
まっていても、
大
たい
したことは
何
なに
も
起
お
こりません。たいていの
場合
ばあい
は、
自分
じぶん
が
気
き
にしているせいで、あるいはまた、
気
き
が
頭
あたま
のてっぺんに
塞
ふさ
がっていれば、おかしくなるとか
言
い
う
偽
にせ
気
き
功
こう
師
し
の
話
はなし
を
信
しん
じるから、
怖
こわ
くなってしまうのです。しかし、
怖
こわ
いと
思
おも
うこと
自体
じたい
が、
本当
ほんとう
に
面倒
めんどう
なことを
招
まね
いてしまうかも
知
し
れません。なぜかと
言
い
いますと、
怖
こわ
くなれば
恐怖心
きょうふしん
が
生
う
まれますが、それはほかでもない
執着心
しゅうちゃくしん
ではないでしょうか?
執着心
しゅうちゃくしん
が
現
あら
われれば、それを
取
と
り
除
のぞ
かなければならないのではないでしょうか?
怖
こわ
くなればなるほど、
本当
ほんとう
に
病気
びょうき
にかかったような
気
き
がしますが、その
心
こころ
こそ
取
と
り
除
のぞ
かなければならないものです。そこから
教訓
きょうくん
を
学
まな
ぶことによって、あなたは
恐怖心
きょうふしん
を
根絶
こんぜつ
し、
高
たか
まってくるのです。
煉功者
れんこうしゃ
はこれからの
修煉
しゅうれん
においても、
決
けっ
して
楽
らく
ではありません。
多
おお
くの
功
こう
が
身体
からだ
に
現
あら
われてきますが、いずれも
強烈
きょうれつ
なもので、しかも
身体
からだ
の
中
なか
を
動
うご
き
回
まわ
りますので、あれこれ
具合
ぐあい
が
悪
わる
いと
感
かん
じるかも
知
し
れません。
具合
ぐあい
が
悪
わる
いと
感
かん
じるのは、
常
つね
に
病気
びょうき
にかかるのを
恐
おそ
れているせいです。
本当
ほんとう
のところは、
身体
からだ
の
中
なか
にそれほど
強烈
きょうれつ
なものまで
現
あら
われてきたのであって、
現
あら
われたものはみな
功
こう
や、
功能
こうのう
ばかりで、さらに
多
おお
くの
生命体
せいめいたい
もあります。それらのものが
動
うご
き
出
だ
すと、
身体
からだ
が
痒
かゆ
くなったり、
痛
いた
くなったり、
辛
つら
く
感
かん
じたりするのです。その
上
うえ
、
末梢
まっしょう
神経
しんけい
の
感覚
かんかく
も
敏感
びんかん
で、いろいろな
状態
じょうたい
が
現
あら
われてきます。
身体
からだ
が
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
によって
取
と
り
替
か
えられるまでは、ずっとそういう
状態
じょうたい
が
続
つづ
きますが、それはもともと
良
よ
いことです。しかし、
修煉者
しゅうれんしゃ
でありながら、いつまでも
自分
じぶん
を
常人
じょうじん
と
見
み
なし、いつも
病気
びょうき
ではないかと
気
き
になっているようでは、どうやって
修煉
しゅうれん
できるのでしょうか?
煉功
れんこう
の
中
なか
で
劫難
ごうなん
がやってきたのに、
相変
あいか
わらず
自分
じぶん
を
常人
じょうじん
と
見
み
なしているようでは、その
時点
じてん
で
心性
しんせい
が
常人
じょうじん
に
堕
お
ちたと
言
い
えます。
少
すく
なくともこの
問題
もんだい
に
関
かん
しては、
常人
じょうじん
の
次元
じげん
に
堕
お
ちてしまったのです。
真
しん
の
煉功者
れんこうしゃ
としては、
高
たか
い
次元
じげん
に
立
た
って
物事
ものごと
を
考
かんが
えなければならず、
常人
じょうじん
の
考
かんが
え
方
かた
で
物事
ものごと
を
考
かんが
えてはいけません。
病気
びょうき
だと
思
おも
えば、
本当
ほんとう
に
病気
びょうき
を
招
まね
いてしまうかも
知
し
れません。なぜなら、
病気
びょうき
だと
思
おも
った
時
とき
、あなたの
心性
しんせい
は
常人
じょうじん
と
同
おな
じ
高
たか
さになったからです。
煉功
れんこう
と
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
の
場合
ばあい
、
特
とく
に
先程
さきほど
述
の
べた
状態
じょうたい
では、
病気
びょうき
に
至
いた
ることはありません。
皆
みな
さんもご
存
ぞん
じのように、
本当
ほんとう
に
病気
びょうき
になった
時
とき
でも、
七分
しちぶ
は
精神
せいしん
的
てき
要素
ようそ
によるもので、
三分
さんぶ
が
病気
びょうき
です。たいていの
場合
ばあい
は、
精神
せいしん
的
てき
に
先
さき
に
参
まい
って、
重圧
じゅうあつ
を
背負
せお
ってしまうために、
病状
びょうじょう
が
急激
きゅうげき
に
悪化
あっか
してしまうのです。こういうことはよくあります。
例
れい
を
一
ひと
つ
挙
あ
げましょう。
昔
むかし
、ある
人
ひと
がベッドに
縛
しば
り
付
つ
けられて、
腕
うで
を
持
も
ち
上
あ
げられ、
血
ち
を
流
なが
してやると
脅
おど
かされました。それから
彼
かれ
に
目隠
めかく
しをして、
腕
うで
にちょっと
傷
きず
をつけて(
実際
じっさい
は
血
ち
が
全然
ぜんぜん
出
で
ていない)、そして
蛇口
じゃぐち
をひねり、
水
みず
の
滴
したた
る
音
おと
を
聞
き
かせますが、
本人
ほんにん
は、
自分
じぶん
の
血
ち
が
流
なが
れているように
錯覚
さっかく
し、しばらくすると
死
し
んでしまいました。
本当
ほんとう
は、
血
ち
など
流
なが
しておらず、
水道
すいどう
の
水
みず
を
流
なが
しただけですが、
精神
せいしん
的
てき
な
原因
げんいん
がその
人
ひと
を
死
し
なせたのです。ですから、あなたがいつも
病気
びょうき
のことを
気
き
にしていれば、
本当
ほんとう
に
病気
びょうき
を
招
まね
いてしまうかも
知
し
れません。なぜなら
心性
しんせい
が
常人
じょうじん
の
次元
じげん
に
堕
お
ちてしまったからで、
常人
じょうじん
なら、
病気
びょうき
になるのは
当然
とうぜん
のことです。
煉功者
れんこうしゃ
としてあなたがいつも
病気
びょうき
のことが
頭
あたま
から
離
はな
れなければ、それは、
求
もと
めること、
病気
びょうき
を
求
もと
めることにほかならず、そうなると
病気
びょうき
が
本当
ほんとう
に
身体
からだ
の
中
なか
に
侵入
しんにゅう
してきます。
煉功者
れんこうしゃ
としては
心性
しんせい
が
高
たか
くなければなりません。いつも
病気
びょうき
ではないかと
怯
おび
える
必要
ひつよう
はありません。
病気
びょうき
を
恐
おそ
れるのも
執着心
しゅうちゃくしん
で、
同
おな
じように
修煉者
しゅうれんしゃ
に
面倒
めんどう
なことをもたらします。
修煉
しゅうれん
においては、
業
ごう
を
消去
しょうきょ
しなければなりません。
業
ごう
を
消去
しょうきょ
するには
苦痛
くつう
を
伴
ともな
いますので、
心地
ここち
よく
功
こう
が
伸
の
びることはありえません! さもなければ、
修煉者
しゅうれんしゃ
の
執着心
しゅうちゃくしん
をどうやって
取
と
り
除
のぞ
けるでしょうか?
佛教
ぶっきょう
の
物語
ものがたり
を
一
ひと
つお
話
はな
ししましょう。
昔
むかし
、ある
人
ひと
が
一生懸命
いっしょうけんめい
修煉
しゅうれん
して、やっと
羅漢
らかん
になれるところまで
成就
じょうじゅ
しました。もうすぐ
正果
しょうか
を
得
え
て、
羅漢
らかん
になれるのだと
思
おも
うと、これを
喜
よろこ
ばずにいられるでしょうか? やっと
三界
さんがい
から
抜
ぬ
けられるのです! しかし、
喜
よろこ
ぶこともまた
執着心
しゅうちゃくしん
で、
歓喜心
かんきしん
なのです。
羅漢
らかん
は
無為
むい
であるべきで、
心
こころ
が
動
どう
じてはいけません。
結局
けっきょく
その
人
ひと
は
堕
お
ちてしまい、それまでの
修煉
しゅうれん
が
無駄
むだ
になってしまいました。
無駄
むだ
になったからやり
直
なお
すしかないので、
一
いち
から
修煉
しゅうれん
し
直
なお
し、ずいぶん
苦労
くろう
をして、また
上
あ
がってきました。ところがその
人
ひと
は、
今度
こんど
は
心
こころ
の
中
なか
で「
喜
よろこ
んではいけない。
喜
よろこ
ぶとまた
堕
お
ちてしまうから」と
言
い
って、
怯
おび
えました。
怯
おび
えた
途端
とたん
、また
堕
お
ちてしまったのです。
怯
おび
えるのも
執着心
しゅうちゃくしん
の
一
ひと
つです。
それから、
精神病
せいしんびょう
にかかった
人
ひと
のことも、よく
走火入魔
そうかにゅうま
だと
言
い
います。わたしに
精神病
せいしんびょう
を
治
なお
してほしいと
期待
きたい
している
人
ひと
がいます! わたしに
言
い
わせれば、
精神病
せいしんびょう
は
病気
びょうき
ではありません。それに、わたしにはそんなことをする
暇
ひま
もありません。どうしてでしょうか?
精神病
せいしんびょう
患者
かんじゃ
には
病毒
びょうどく
がなく、
身体
からだ
に
病変
びょうへん
が
起
お
こっているわけでもなく、
潰瘍
かいよう
もありません。わたしに
言
い
わせれば、それは
病気
びょうき
ではないのです。
精神病
せいしんびょう
とは、
人
ひと
の
主
しゅ
意識
いしき
が
弱
よわ
すぎることです。どれほど
弱
よわ
いのでしょうか?
自分
じぶん
自身
じしん
を
制御
せいぎょ
できない
人
ひと
がいますが、
精神病
せいしんびょう
患者
かんじゃ
の
主元神
しゅげんしん
がほかでもないその
状態
じょうたい
にあるのです。
自分
じぶん
の
身体
からだ
を
制御
せいぎょ
する
意志
いし
すらなく、いつももうろうとしていて、
元気
げんき
が
出
で
ません。そうなると、
副意識
ふくいしき
や
他
た
の
空間
くうかん
からの
信息
しんそく
がすぐ
邪魔
じゃま
に
入
はい
ろうとします。
各
かく
空間
くうかん
にはさまざまな
次元
じげん
があり、さまざまな
信息
しんそく
が
主元神
しゅげんしん
の
邪魔
じゃま
をしようとします。まして、
主元神
しゅげんしん
が
前世
ぜんせ
に
悪
わる
いことをしているかも
知
し
れないような
場合
ばあい
には、
債権
さいけん
者
しゃ
が
彼
かれ
の
命
いのち
をねらいに
来
く
ることもあります。どんなことでも
起
お
こりうるのです。
精神病
せいしんびょう
とはこのようなことです。どうやったら
治
なお
してあげられるでしょうか? わたしに
言
い
わせれば、
本当
ほんとう
の
精神病
せいしんびょう
はこのようにして
生
しょう
じるのです。それでは、どうしたらよいでしょうか?
元気
げんき
を
出
だ
すようにと
言
い
い
聞
き
かせるのも
一
ひと
つですが、それは
非常
ひじょう
に
難
むずか
しいことです。
精神病
せいしんびょう
院
いん
の
医師
いし
が
電気
でんき
棒
ぼう
を
手
て
にして、ちょっと
振
ふ
って
見
み
せただけで、
患者
かんじゃ
は
怖
こわ
くなり、でたらめを
一言
ひとこと
も
言
い
わなくなります。それはどういうわけかと
言
い
いますと、その
時
とき
、
感電
かんでん
を
恐
おそ
れている
主元神
しゅげんしん
が
元気
げんき
を
取
と
り
戻
もど
したからです。
修煉
しゅうれん
の
門
もん
に
入
はい
った
人
ひと
の
多
おお
くは、
喜
よろこ
んで
修煉
しゅうれん
を
続
つづ
けていこうとするものです。
佛性
ぶっしょう
は
誰
だれ
もが
持
も
っているし、
修道
しゅうどう
する
気持
きも
ちも
誰
だれ
にでもあります。ですから、いったん
功
こう
を
学
まな
んだら、
一生
いっしょう
修煉
しゅうれん
し
続
つづ
ける
人
ひと
が
多
おお
いのです。
高
たか
い
次元
じげん
へ
修煉
しゅうれん
できるかどうか、
法
ほう
が
得
え
られるかどうかは
別
べつ
にして、とにかく
求道
きゅうどう
の
気持
きも
ちがあって、
修煉
しゅうれん
しようとするのです。まわりの
人
ひと
は
彼
かれ
が
練功
れんこう
していることを
知
し
っており、
職場
しょくば
の
人
ひと
たちも、
町内
ちょうない
の
人
ひと
たちも、
隣
となり
近所
きんじょ
の
人
ひと
たちもみな
知
し
っています。ところが、
考
かんが
えてみてください。
数年
すうねん
前
まえ
までは、
誰
だれ
が
真
しん
の
修煉
しゅうれん
をしていたでしょうか?
誰
だれ
もしていませんでした。
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
して、はじめて
人生
じんせい
の
道
みち
が
変
か
わります。ただの
常人
じょうじん
で、
単
たん
に
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
の
目的
もくてき
で
練功
れんこう
しただけなら、
誰
だれ
が
彼
かれ
の
人生
じんせい
の
道
みち
を
変
か
えてくれますか?
常人
じょうじん
であれば、その
人
ひと
がいつ
病気
びょうき
になり、いつ
面倒
めんどう
な
事
こと
に
巻
ま
き
込
こ
まれ、いつ
精神病
せいしんびょう
にかかり、あるいは
死
し
んでしまうかは、みな
定
さだ
められています。
常人
じょうじん
の
一生
いっしょう
はそんなものです。
人
ひと
によっては、はた
目
め
には
公園
こうえん
で
練功
れんこう
しているように
見
み
えても、
実際
じっさい
のところは
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
しているとは
限
かぎ
りません。
高
たか
い
次元
じげん
をめざして
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
っても、
正法
しょうぼう
を
得
え
られなければ
無理
むり
なことです。ただ
単
たん
に
高
たか
い
次元
じげん
をめざして
修煉
しゅうれん
しようという
気持
きも
ちがあるだけなら、まだ
低
ひく
い
次元
じげん
で
病気
びょうき
治療
ちりょう
と
健康
けんこう
保持
ほじ
をやっているだけの
練功者
れんこうしゃ
に
過
す
ぎません。こういう
人
ひと
の
人生
じんせい
の
道
みち
を
変
か
えてあげようとする
者
もの
など
誰
だれ
もいないので、
病気
びょうき
になるのは
当然
とうぜん
のことです。また
徳
とく
を
重
おも
んじなければ、
病気
びょうき
も
治
なお
りません。ただ
練功
れんこう
しているからといって、どんな
病気
びょうき
にもかからないなどというわけではありません。
人
ひと
は
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
をし、
心性
しんせい
を
重
おも
んじ、
真
しん
に
修煉
しゅうれん
して、はじめて
病気
びょうき
を
取
と
り
除
のぞ
くことができるのです。
煉功
れんこう
は
体操
たいそう
と
違
ちが
って、
常人
じょうじん
のものを
超
こ
えているので、もっと
高
たか
い
次元
じげん
の
理
り
と
基準
きじゅん
をもって
煉功者
れんこうしゃ
を
律
りっ
しなければなりません。そこまで
実行
じっこう
できてはじめて
目標
もくひょう
に
到達
とうたつ
することができます。しかし、
多
おお
くの
人
ひと
はそのことさえ
実行
じっこう
しておらず、
依然
いぜん
常人
じょうじん
にとどまっているので、
病気
びょうき
になるべき
時
とき
になれば
避
さ
けられません。ある
日
ひ
、
突然
とつぜん
、
脳血栓
のうけっせん
で
倒
たお
れたり、あれこれの
病気
びょうき
にかかったり、あるいは
急
きゅう
に
精神病
せいしんびょう
になるかも
知
し
れません。まわりの
人
ひと
はみなその
人
ひと
が
練功
れんこう
をやっていることを
知
し
っているので、
精神病
せいしんびょう
にでもなろうものなら、
練功
れんこう
などやったから
走火入魔
そうかにゅうま
になったとすぐ
非難
ひなん
され、レッテルを
貼
は
られてしまいます。よく
考
かんが
えてみてください。そういうやり
方
かた
は
正
ただ
しいのでしょうか?
部外
ぶがい
者
しゃ
はもちろんのこと、われわれの
内部
ないぶ
の
者
もの
、
多
おお
くの
煉功者
れんこうしゃ
でさえも、その
本当
ほんとう
のわけをほとんど
知
し
らないのです。もし、その
人
ひと
が
自分
じぶん
の
家
いえ
で
精神病
せいしんびょう
にかかったらまだしもですが、それでもまわりの
人
ひと
は、
練功
れんこう
をやったのでこうなったのだ、と
決
き
めつけるでしょう。もし、その
人
ひと
がたまたま
練功場
れんこうば
で
精神病
せいしんびょう
になったりしたら、それは
大変
たいへん
なことになります。すぐにレッテルを
貼
は
られてしまい、
剥
は
がそうと
思
おも
っても
剥
は
がせないでしょう。
練功
れんこう
をやって
走火入魔
そうかにゅうま
になったと、
新聞
しんぶん
にも
載
の
せられてしまいます。
一部
いちぶ
の
人
ひと
は
事実
じじつ
を
無視
むし
して、
気功
きこう
を
批判
ひはん
しています。「ほら、さっきまで
元気
げんき
に
練功
れんこう
をやっていたのに、あっという
間
ま
にこうなってしまった」と
言
い
うのです。
常人
じょうじん
としては、
起
お
こるべきことは
必
かなら
ず
起
お
こります。
他
ほか
の
病気
びょうき
にかかったり、
面倒
めんどう
なことに
遭
あ
ったりするかも
知
し
れません。それらのことも
一律
いちりつ
に
練功
れんこう
のせいにするのは、
理不尽
りふじん
ではありませんか?
医者
いしゃ
になったからといって、
一生
いっしょう
病気
びょうき
にかかることはない、などのような
言
い
い
方
かた
をしています。
物事
ものごと
をそんなふうに
考
かんが
えていいのですか?
このように、
多
おお
くの
人
ひと
は
気功
きこう
の
真相
しんそう
も、その
中
なか
の
理
り
も
知
し
らないのに、でたらめを
言
い
っています。そして、
一
いち
度
ど
何
なに
か
問題
もんだい
が
起
お
これば、あらゆるレッテルを
気功
きこう
に
貼
は
ろうとします。
気功
きこう
が
社会
しゃかい
に
普及
ふきゅう
してからまだ
日
ひ
が
浅
あさ
いのですが、
多
おお
くの
人
ひと
は
固定
こてい
観念
かんねん
にしがみつき、どうしてもそれを
認
みと
めようとせず、
気功
きこう
を
中傷
ちゅうしょう
したり、
排斥
はいせき
しようとしたりしています。どういう
心理
しんり
状態
じょうたい
なのか
知
し
りませんが、
気功
きこう
のことを
毛嫌
けぎら
いして、まるで
気功
きこう
がその
人
ひと
にとって
何
なに
か
不都合
ふつごう
でもあるかのように、
気功
きこう
といえばすぐ
唯心
ゆいしん
的
てき
だと
決
き
めつけたりします。
気功
きこう
は
科学
かがく
、もっと
高
たか
いレベルの
科学
かがく
です。
固定
こてい
観念
かんねん
にとらわれた、
視野
しや
の
狭
せま
い
人
ひと
たちに、それが
分
わ
からないだけです。
そのほかにもう
一
ひと
つ、
修煉界
しゅうれんかい
で「
気功
きこう
態
たい
」と
呼
よ
ぶ
現象
げんしょう
があります。
気功
きこう
態
たい
の
人
ひと
は
精神
せいしん
がもうろうとしていますが、
走火入魔
そうかにゅうま
ではなく、
非常
ひじょう
に
理性
りせい
的
てき
です。まず
気功
きこう
態
たい
とは
何
なに
かについて
説明
せつめい
しましょう。みなさんご
存
ぞん
じのように、
煉功
れんこう
には、
根基
こんき
のことが
問
と
われます。
世界
せかい
のどの
国
くに
にも
宗教
しゅうきょう
を
信仰
しんこう
する
人
ひと
がいて、
中国
ちゅうごく
には
何千年
なんぜんねん
の
間
あいだ
ずっと
佛教
ぶっきょう
や
道教
どうきょう
の
信仰
しんこう
があり、
善
ぜん
には
善
ぜん
の
報
むく
いがあり、
悪
あく
には
悪
あく
の
報
むく
いがあると
信
しん
じられています。もちろん、
信
しん
じない
人
ひと
もいます。
特
とく
に「
文化
ぶんか
大
だい
革命
かくめい
」の
間
あいだ
、それらのものはすべて
迷信
めいしん
だと
言
い
って
批判
ひはん
されていました。
一部
いちぶ
の
人
ひと
は、
自分
じぶん
に
理解
りかい
できないもの、
本
ほん
で
習
なら
ったことのないもの、
現代
げんだい
科学
かがく
で
解明
かいめい
されていないもの、あるいはまだ
認識
にんしき
されていないものを、
一様
いちよう
に
迷信
めいしん
だと
決
き
めつけてしまいます。このような
人
ひと
は
数年
すうねん
前
まえ
まで
非常
ひじょう
に
多
おお
かったのですが、
今
いま
ではわりに
少
すく
なくなっています。その
人
ひと
たちが
認
みと
めようと
認
みと
めまいと、
一部
いちぶ
の
現象
げんしょう
がすでにわれわれのこの
空間
くうかん
に
紛
まぎ
れもなく
現
あら
われているからです。
敢
あ
えて
直視
ちょくし
しようとしない
人
ひと
がいても、それはすでに
多
おお
くの
人々
ひとびと
によって
明
あき
らかにされており、
人々
ひとびと
はいろいろと
聞
き
いたり
見
み
たりして、
煉功
れんこう
についての
様子
ようす
が
多少
たしょう
分
わ
かるようになりました。
気功
きこう
と
聞
き
くと、すぐ
内心
ないしん
で
嘲笑
ちょうしょう
し、
迷信
めいしん
だ、
馬鹿
ばか
げていると
思
おも
うような、
頑
かたく
なな
人
ひと
がいます。あなたが
気功
きこう
のさまざまな
現象
げんしょう
を
聞
き
かせると、あなたのことを、なんて
愚
おろ
かな
者
もの
だとさげすむのです。このような
人
ひと
はもとより
頑固
がんこ
ですが、
根基
こんき
が
良
よ
くないとは
限
かぎ
りません。
根基
こんき
が
良
よ
ければ、
煉功
れんこう
しようと
思
おも
い
立
た
つと、
天目
てんもく
が
高
たか
い
次元
じげん
まで
開
ひら
き、
功能
こうのう
も
持
も
つようになるかも
知
し
れません。
彼
かれ
は
気功
きこう
を
信
しん
じませんが、
病気
びょうき
にならないという
保証
ほしょう
はどこにもありません。
病気
びょうき
にかかったら、
彼
かれ
は
病院
びょういん
へ
行
い
くでしょう。
西洋
せいよう
医学
いがく
で
治
なお
らなければ、
漢方
かんぽう
に
行
い
きます。
漢方
かんぽう
でも
駄目
だめ
で、
民間
みんかん
の
秘伝
ひでん
の
治療
ちりょう
法
ほう
も
試
ため
しつくしたあげく、
最後
さいご
にふと
気功
きこう
を
思
おも
い
出
だ
すかも
知
し
れません。
運試
うんだめ
しに
一
いち
度
ど
気功
きこう
の
世話
せわ
になってみようと
思
おも
って、いやいやながらやってきます。
根基
こんき
がかなり
良
よ
いので、
気功
きこう
を
始
はじ
めたら
速
すみ
やかに
向上
こうじょう
します。そこで、どこかの
師
し
がこの
人
ひと
のことが
気
き
に
入
い
り、
別
べつ
の
空間
くうかん
にいる
高
たか
い
次元
じげん
の
生命体
せいめいたい
がちょっと
手
て
を
貸
か
してくれます。するとその
人
ひと
は
直
ただ
ちに
天目
てんもく
が
開
ひら
き、あるいは
半
なか
ば
悟
さと
りの
状態
じょうたい
に
達
たっ
するかも
知
し
れません。
天目
てんもく
が
高
たか
い
次元
じげん
まで
開
ひら
き、
急
きゅう
に
宇宙
うちゅう
の
一部
いちぶ
の
真相
しんそう
が
見
み
えるようになり、
功能
こうのう
まで
持
も
つようになります。そういうことを
見
み
てしまって、その
人
ひと
の
頭
あたま
がそれを
受
う
け
入
い
れられると
思
おも
いますか? その
人
ひと
はどんな
心理
しんり
状態
じょうたい
に
陥
おちい
ると
思
おも
いますか? これまで
迷信
めいしん
だ、
絶対
ぜったい
に
不可能
ふかのう
だと
思
おも
っていたこと、
人
ひと
が
口
くち
にするだけで
馬鹿
ばか
にしていたことが、
今
いま
紛
まぎ
れもなく
目
め
の
前
まえ
に
現
あら
われており、
紛
まぎ
れもなく
体験
たいけん
してしまいました。そこで、
頭
あたま
が
受
う
け
入
い
れず、
精神
せいしん
的
てき
なストレスが
過度
かど
に
大
おお
きくなり、
自分
じぶん
の
言
い
うことも
人
ひと
に
分
わ
かってもらえなくなります。
思考
しこう
の
論理性
ろんりせい
は
失
うしな
われていませんが、ただ
両方
りょうほう
の
関係
かんけい
を
正
ただ
しく
対処
たいしょ
できないだけです。
彼
かれ
は
人類
じんるい
のやっていることが
間違
まちが
っており、あちらでのやり
方
かた
がたいてい
正
ただ
しいということに
気
き
づきました。かといって、あちらの
理
り
に
従
したが
って
行動
こうどう
すれば、まわりの
人
ひと
から
間違
まちが
っていると
言
い
われます。
人々
ひとびと
は
理解
りかい
できないので、
彼
かれ
のことを
練功
れんこう
をやっているがために
走火入魔
そうかにゅうま
になったと
決
き
め
付
つ
けるのです。
実
じつ
は
走火入魔
そうかにゅうま
などではありません。われわれのほとんどの
人
ひと
には、
煉功
れんこう
する
時
とき
にこういう
現象
げんしょう
は
現
あら
われません。
一部
いちぶ
の
頑
かたく
なな
人
ひと
にしか、このような
気功
きこう
態
たい
は
現
あら
われません。ここにいる
皆
みな
さんの
中
なか
に、
天目
てんもく
が
開
ひら
いた
人
ひと
が
大勢
おおぜい
いますが、
別
べつ
の
空間
くうかん
のものが
確実
かくじつ
に
見
み
えても、まったく
驚
おどろ
くことがなく、
素晴
すば
らしいと
思
おも
っており、
大脳
だいのう
もショックなどを
受
う
けたりせず、
気功
きこう
態
たい
が
現
あら
われることもありません。
気功
きこう
態
たい
が
現
あら
われた
場合
ばあい
、
人
ひと
はきわめて
理性的
りせいてき
で、
言
い
うことは
哲理
てつり
に
富
と
み、
論理性
ろんりせい
があります。しかし、
彼
かれ
の
言
い
うことはなかなか
常人
じょうじん
に
信
しん
じてもらえません。
彼
かれ
は
突如
とつじょ
として、
亡
な
くなった
誰
だれ
それに
会
あ
ったとか、その
人
ひと
は
彼
かれ
に
何
なに
を
言
い
ったとか、
言
い
いますが、
常人
じょうじん
にそんな
話
はなし
が
信
しん
じられますか? そのうち
彼
かれ
も、そんなことは
心
こころ
の
中
なか
にしまっておくべきで、しゃべってはいけないと
分
わ
かるようになります。こうして
両方
りょうほう
の
関係
かんけい
をうまく
対処
たいしょ
できるようになれば、
良
よ
くなります。たいていの
場合
ばあい
、このような
人
ひと
には
功能
こうのう
が
伴
ともな
っていますが、これも
走火入魔
そうかにゅうま
ではありません。
ほかに「
真瘋
しんぷう
」というのもありますが、めったに
見
み
られないことです。ここで
言
い
う「
真瘋
しんぷう
」の「
真
しん
」は、
真
しん
に
気
き
が
狂
くる
った
意味
いみ
での
真
しん
ではなく、「
真
しん
を
修
おさ
める」ための「
真
しん
」という
意味
いみ
です。さて、どのように「
真瘋
しんぷう
」するのでしょうか?
実際
じっさい
は
修煉者
しゅうれんしゃ
の
中
なか
に
十万人
じゅうまんにん
に
一人
ひとり
いるかいないかなので、きわめて
珍
めずら
しいことです。ですから
普遍
ふへん
性
せい
がなく、
社会
しゃかい
的
てき
な
影響
えいきょう
もありません。
「
真瘋
しんぷう
」には
普通
ふつう
、
前提
ぜんてい
条件
じょうけん
が
一
ひと
つあります。それは
根基
こんき
がきわめて
良
よ
く、しかもかなり
年
とし
を
取
と
った
人
ひと
でなければならないということです。
年
とし
を
取
と
っていると、
修煉
しゅうれん
しようと
思
おも
っても、もう
間
ま
に
合
あ
いません。
根基
こんき
のきわめて
良
よ
い
人
ひと
は、
多
おお
くの
場合
ばあい
何
なに
かの
使命
しめい
を
持
も
って
高
たか
い
次元
じげん
からやってきた
者
もの
です。この
常人
じょうじん
社会
しゃかい
にやってくることは
誰
だれ
もが
怖
こわ
がります。
一度
いちど
頭
あたま
が
白紙
はくし
状態
じょうたい
にされると、
何
なに
もかも
分
わ
からなくなります。
常人
じょうじん
の
社会
しゃかい
環境
かんきょう
に
来
く
れば、まわりからの
影響
えいきょう
で、
名誉
めいよ
や
利益
りえき
を
重
おも
んじるようになり、しまいにはどんどん
堕
お
ちて
行
い
き、
永遠
えいえん
に
戻
もど
って
行
い
けなくなります。ですから、
誰
だれ
もが
怖
こわ
がって、
来
く
る
勇気
ゆうき
がないのです。しかし、やってきた
者
もの
がいます。
来
き
てから
常人
じょうじん
の
中
なか
で
本当
ほんとう
に
駄目
だめ
になりました。
一生
いっしょう
の
間
あいだ
に
少
すく
なからぬ
悪
わる
いことをしたため、
本当
ほんとう
に
下
した
へ
堕
お
ちてしまいそうになりました。
人
ひと
が
生
い
きている
間
あいだ
に、
個人
こじん
の
利益
りえき
のために
争
あらそ
えば、
多
おお
くの
悪
わる
いことをし、たくさんの
借
か
りをつくることになります。それで
堕
お
ちてしまいそうになりますが、しかし、
彼
かれ
は
果位
かい
を
持
も
っている
者
もの
なので、
師
し
はそうさせるわけにはいきません! どうすればよいのでしょうか?
師
し
も
焦
あせ
りますが、
彼
かれ
に
修煉
しゅうれん
させる
方法
ほうほう
が
見
み
つかりません。あのような
時勢
じせい
では、どこに
師
し
を
探
さが
しに
行
い
けばよいのでしょうか? その
人
ひと
は
元
もと
に
戻
もど
るために
修煉
しゅうれん
しなければなりません。しかしそれはそんなに
容易
ようい
なことでしょうか? それに
年
とし
もとっていますので、
今
いま
さら
修煉
しゅうれん
しようとしても
間
ま
に
合
あ
いません。しかもどこに
性命
せいめい
双修
そうしゅう
の
功法
こうほう
があるのでしょうか?
本人
ほんにん
の
根基
こんき
がきわめて
良
よ
く、しかもそのようなきわめて
特殊
とくしゅ
な
状況
じょうきょう
のもとではじめて
取
と
る
方法
ほうほう
ですが、その
人
ひと
を
瘋癲
ふうてん
にするのです。つまり、
本人
ほんにん
の
力
ちから
ではもう
絶対
ぜったい
に
元
もと
に
戻
もど
れない、
望
のぞ
みがなくなった
状況
じょうきょう
のもとでは、
彼
かれ
の
頭
あたま
の
機能
きのう
を
一部
いちぶ
閉鎖
へいさ
してしまい、
彼
かれ
を
瘋癲
ふうてん
にするという
方法
ほうほう
を
取
と
るのです。
例
たと
えば、
人間
にんげん
は
寒
さむ
さに
弱
よわ
く、
汚
きたな
いものを
嫌
きら
いますが、
脳
のう
の
機能
きのう
の
中
なか
の
寒
さむ
さを
感
かん
じとる
部分
ぶぶん
や、
汚
きたな
いものを
識別
しきべつ
する
部分
ぶぶん
を
停止
ていし
させてしまいます。このように
一部
いちぶ
の
機能
きのう
を
停止
ていし
させると、その
人
ひと
は
精神
せいしん
に
異常
いじょう
が
見
み
られ、
本当
ほんとう
に
瘋癲
ふうてん
になります。しかし、
多
おお
くの
場合
ばあい
、このような
人
ひと
は
悪
わる
いことをしません。
人
ひと
を
罵
ののし
ったり
殴
なぐ
ったりすることをしないばかりでなく、かえって
良
よ
いことをしたりします。しかし、
自分
じぶん
にはむごいことをします。
寒
さむ
さを
感
かん
じないため、
冬
ふゆ
でも
裸足
はだし
で
雪
ゆき
の
中
なか
を
走
はし
ったりします。
単衣
ひとえ
をまとい、
切
き
れた
足
あし
の
大
おお
きな
傷口
きずぐち
から
血
ち
が
流
なが
れ
出
で
ているのに
平然
へいぜん
としています。また、
汚
きたな
いということを
知
し
らないため、
平気
へいき
で
便
べん
を
食
た
べ、
尿
にょう
も
飲
の
みます。
以前
いぜん
こういう
人
ひと
を
一人
ひとり
知
し
っていましたが、カチカチに
凍
こお
った
馬糞
ばふん
をも
美味
おい
しそうに
食
た
べ、
常人
じょうじん
が
覚
さ
めた
状態
じょうたい
では
耐
た
えられないような
苦
くる
しみを
嘗
な
めていました。
考
かんが
えてみてください。
気
き
が
狂
くる
ってしまうと、どれだけ
辛
つら
い
体験
たいけん
をするのでしょう。
当然
とうぜん
のことですが、そのような
人
ひと
は、たいてい
功能
こうのう
を
持
も
っており、
普通
ふつう
年配
ねんぱい
の
女性
じょせい
に
多
おお
く
見
み
られます。
昔
むかし
、
年配
ねんぱい
の
女性
じょせい
の
多
おお
くが
纏足
てんそく
をしていましたが、にもかかわらず
高
たか
さ
二
に
メートルもある
塀
へい
を
一飛
ひとっと
びで
越
こ
えてしまいます。
家族
かぞく
の
人
ひと
は、
狂
くる
った
彼女
かのじょ
に
走
はし
り
回
まわ
られたら
困
こま
ると
部屋
へや
に
鍵
かぎ
をかけますが、
家族
かぞく
の
人
ひと
がいなくなると、
彼女
かのじょ
は
錠
じょう
を
指
ゆび
さすだけではずし、またもや
外
そと
へ
飛
と
び
出
だ
します。
今度
こんど
は、
鎖
くさり
で
縛
しば
りつけますが、
家族
かぞく
の
人
ひと
がいなくなった
途端
とたん
、
彼女
かのじょ
がちょっと
身体
からだ
を
揺
ゆ
すると、
鎖
くさり
もはずれてしまいます。
止
と
めようとしても
止
と
められないので、
彼女
かのじょ
はさまざまな
辛
つら
い
体験
たいけん
をします。
耐
た
え
難
がた
い
苦
くる
しみを
嘗
な
めつくし、しかも
猛烈
もうれつ
な
勢
いきお
いでそれをやっていますので、
彼女
かのじょ
はそれまでの
借
か
りをあっという
間
ま
に
返済
へんさい
してしまいます。
長
なが
くて
三
さん
年
ねん
、
普通
ふつう
は
一
いち
、
二
に
年
ねん
で
終
お
わりますが、その
苦
くる
しみというのはたいへんなものです。それが
過
す
ぎれば、
覚
さ
めてきますが、
彼女
かのじょ
の
修煉
しゅうれん
もそれで
終了
しゅうりょう
したので、すぐに
功
こう
を
開
ひら
き、さまざまな
神通力
じんつうりき
が
現
あら
われてきます。これはきわめて、きわめて
稀
まれ
なことで、
昔
むかし
は
確
たし
かにありましたが、ありふれた
根基
こんき
の
持
も
ち
主
ぬし
にはそんなことをさせられません。
皆
みな
さんもご
存
ぞん
じのように、
気
き
のふれた
坊主
ぼうず
や
気
き
がふれた
道士
どうし
は
昔
むかし
は
確
たし
かにいましたし、そういう
話
はなし
は、
昔
むかし
の
書物
しょもつ
にも
見
み
られます。
例
たと
えば、
気
き
のふれた
坊主
ぼうず
が
箒
ほうき
で
秦檜
しんかい
を
掃
はら
う
物語
ものがたり
や
気
き
がふれた
道士
どうし
の
話
はなし
など、そういう
伝説
でんせつ
がたくさん
残
のこ
っています。
われわれに
言
い
わせると、
走火入魔
そうかにゅうま
は、まったくありえないことです。もし、
誰
だれ
かが
本当
ほんとう
に「
火
ひ
を
走
はし
らせる」ことができれば、それは
大
たい
したものです。
口
くち
を
開
ひら
けば
火
ひ
を
吹
ふ
き
出
だ
し、
手
て
を
動
うご
かせば
火
ひ
を
出
だ
し、タバコを
吸
す
おうと
思
おも
えば、
指
ゆび
で
火
ひ
をつけることができます。わたしに
言
い
わせれば、それは
功能
こうのう
なのです!
煉功
れんこう
して
魔
ま
を
招
まね
く
煉功
れんこう
して
魔
ま
を
招
まね
くとはどういうことでしょうか? それはつまり
煉功
れんこう
する
時
とき
に、よく
妨害
ぼうがい
されるということです。
煉功
れんこう
するのに、なぜ
魔
ま
を
招
まね
くことがあるのでしょうか?
人間
にんげん
の
修煉
しゅうれん
は
実
じつ
に
難
むずか
しいもので、
本当
ほんとう
の
修煉
しゅうれん
は、わたしの
法身
ほうしん
の
守
まも
りがなければ、とてもできないことです。
外出
がいしゅつ
すると、もしかして
命
いのち
にかかわることに
出
で
遭
あ
うかも
知
し
れません。
人間
にんげん
の
元神
げんしん
は
不滅
ふめつ
なのですから、あなたは
前世
ぜんせ
の
社会
しゃかい
活動
かつどう
で
誰
だれ
かに
借
か
りがあったり、
誰
だれ
かをいじめたり、
何
なに
か
悪
わる
いことをしたりしていたかも
知
し
れないため、
当
とう
の
相手
あいて
があなたに
返済
へんさい
を
求
もと
めてくることになります。
佛教
ぶっきょう
では、
人間
にんげん
が
生
い
きていることは
絶
た
え
間
ま
なく
連続
れんぞく
する
業
ごう
の
報
むく
いを
受
う
けていることにほかならないと
言
い
っています。つまり、
人
ひと
に
借
か
りが
出来
でき
たら、
返済
へんさい
を
求
もと
められますが、
返
かえ
しすぎたら、
今度
こんど
は
相手
あいて
があなたに
返
かえ
します。
子
こ
が
親不孝
おやふこう
をすれば、やがては
立場
たちば
が
逆転
ぎゃくてん
されます。このように、
業
ごう
はぐるぐるめぐります。ところが、われわれは
確
たし
かに、
煉功
れんこう
を
妨害
ぼうがい
している
魔
ま
がいるのを
見
み
ています。これにはみな
因縁
いんねん
関係
かんけい
が
潜
ひそ
んでいるのであり、
理由
りゆう
もなく
妨害
ぼうがい
することが
許
ゆる
されるはずはありません。
煉功
れんこう
して
魔
ま
を
招
まね
く
形
かたち
の
最
もっと
もよく
見
み
られるのは、
次
つぎ
のような
場合
ばあい
です。
煉功
れんこう
しない
時
とき
には、まわりの
環境
かんきょう
もわりと
静
しず
かです。
功
こう
を
学
まな
んだらどうしてもやりたくなるものです。しかしそこで
坐禅
ざぜん
を
始
はじ
めると、
急
きゅう
に
外
そと
が
騒々
そうぞう
しくなってきます。
車
くるま
のクラクションが
鳴
な
り、
廊下
ろうか
からは
足音
あしおと
、しゃべる
声
こえ
、ドアをバタンと
閉
し
める
音
おと
、それから
外
そと
でラジオも
鳴
な
り
始
はじ
め、こうして
静
しず
けさが
突然
とつぜん
破
やぶ
られてしまいます。このように、
煉功
れんこう
しない
間
あいだ
は、まわりの
環境
かんきょう
もいいのですが、
煉功
れんこう
し
始
はじ
めると、
直
ただ
ちにそんな
有様
ありさま
になります。
多
おお
くの
人
ひと
は、そのわけを
深
ふか
く
考
かんが
えずに、ただ
不思議
ふしぎ
に
思
おも
い、
煉功
れんこう
できないのを
悔
くや
しく
思
おも
います。その「
不思議
ふしぎ
」という
思
おも
いに
阻
はば
まれますが、
実
じつ
はそれが
魔
ま
の
妨害
ぼうがい
にほかならず、あなたを
邪魔
じゃま
するように
人
ひと
に
指図
さしず
しているのです。これは
最
もっと
も
単純
たんじゅん
な
形
かたち
で、
修煉
しゅうれん
させないことが
目的
もくてき
です。あなたは
煉功
れんこう
して
得道
とくどう
し、
多
おお
くの
借
か
りを
踏
ふ
み
倒
たお
すつもりですか?
魔
ま
はそれでは
承知
しょうち
しません。だから
修煉
しゅうれん
させるはずがありません。しかし、これもある
次元
じげん
での
出来事
できごと
に
過
す
ぎず、ある
時期
じき
を
過
す
ぎれば、こういう
現象
げんしょう
の
存在
そんざい
は
許
ゆる
されなくなります。つまりその
債務
さいむ
返済
へんさい
を
乗
の
り
越
こ
えれば、それ
以上
いじょう
の
邪魔
じゃま
は
許
ゆる
されないということです。なぜならわれわれ
法輪大法
ファールンダーファー
の
修煉
しゅうれん
は、
向上
こうじょう
が
速
はや
く、
次元
じげん
の
突破
とっぱ
も
速
はや
いからです。
魔
ま
の
妨害
ぼうがい
にはもう
一
ひと
つの
形
かたち
があります。
皆
みな
さんもご
存
ぞん
じのように、
煉功
れんこう
すれば、
天目
てんもく
が
開
ひら
きます。
天目
てんもく
が
開
ひら
いてから
家
いえ
で
煉功
れんこう
すると、
恐
おそ
ろしい
光景
こうけい
、
怖
こわ
い
顔
かお
が
見
み
える
人
ひと
がいます。
中
なか
には、
長
なが
い
髪
かみ
を
振
ふ
り
乱
みだ
しているものもあれば、あなたと
決闘
けっとう
しようとするのもあり、あれこれ
変
へん
なことをしてくるものすらあり、
大変
たいへん
恐
おそ
ろしいものです。
時
とき
には、
煉功
れんこう
をしていて
気
き
づいてみたら、
窓
まど
の
外
そと
にそういうものがいっぱい
腹
はら
ばいになっていることがあり、とても
怖
こわ
いものです。どうしてこういうことが
起
お
きるのでしょうか? それらはすべて
魔
ま
の
妨害
ぼうがい
する
形
かたち
です。しかし、われわれ
法輪大法
ファールンダーファー
の
法門
ほうもん
ではこんなことはめったに
見
み
られません。せいぜい
百人
ひゃくにん
に
一人
ひとり
ぐらいで、ほとんどの
人
ひと
はこのようなことに
遭
あ
うことはありません。われわれの
煉功
れんこう
にプラスにならないので、こういう
形
かたち
での
妨害
ぼうがい
を
許
ゆる
さないのです。
一般
いっぱん
功法
こうほう
による
修煉
しゅうれん
の
場合
ばあい
、こういうことは
最
もっと
もよく
見
み
られ、しかもかなり
長
なが
いこと
続
つづ
きます。それが
原因
げんいん
で、
恐怖
きょうふ
のあまり、なかなか
煉功
れんこう
できない
人
ひと
もいます。
夜
よる
の
煉功
れんこう
は
普通
ふつう
静
しず
かな
所
ところ
を
選
えら
びますが、
目
め
の
前
まえ
にだしぬけに
人間
にんげん
とも
幽霊
ゆうれい
ともつかぬ
得体
えたい
の
知
し
れないものが
現
あら
われてくるので、
怖
こわ
くなって、
修煉
しゅうれん
をやめてしまいます。われわれ
法輪大法
ファールンダーファー
の
中
なか
に
普通
ふつう
そんなことはないのですが、
一部
いちぶ
の
人
ひと
は
非常
ひじょう
に
特殊
とくしゅ
な
事情
じじょう
があるので、ごく
稀
まれ
な
例外
れいがい
もあります。
もう
一
ひと
つ、
内外兼修
ないがいけんしゅう
の
功法
こうほう
を
煉
ね
る
場合
ばあい
、つまり
武術
ぶじゅつ
をやると
同時
どうじ
に、
内面
ないめん
も
修
おさ
めますが、このような
功法
こうほう
は
道家
どうけ
に
多
おお
く
見
み
られます。この
種
しゅ
の
功法
こうほう
を
学
まな
ぶと、よくある
種
しゅ
の
魔
ま
に
遭
あ
います。
普通
ふつう
の
功法
こうほう
では
遭
あ
うことがなく、
内外兼修
ないがいけんしゅう
の
功法
こうほう
や
武術
ぶじゅつ
をやる
功法
こうほう
に
限
かぎ
って
遭遇
そうぐう
することがあります。それは
人
ひと
に
武術
ぶじゅつ
の
試合
しあい
を
挑
いど
まれることです。
世界中
せかいじゅう
に
修道者
しゅうどうしゃ
が
大勢
おおぜい
いて、
武術
ぶじゅつ
をやり、
内外
ないがい
兼修
けんしゅう
をやっている
人
ひと
も
少
すく
なくありません。
武術
ぶじゅつ
をやる
人
ひと
も
功
こう
が
伸
の
びることがあります。なぜでしょうか?
彼
かれ
らが
他
た
の
心
こころ
、
例
たと
えば
名誉
めいよ
、
利益
りえき
などを
求
もと
める
心
こころ
を
捨
す
て
去
さ
れば、
功
こう
が
伸
の
びることがあります。しかし、
彼
かれ
らの
場合
ばあい
は
闘争心
とうそうしん
がなかなか
捨
す
てられず、
長
なが
く
持
も
ち
続
つづ
けますので、こんなことが
時々
ときどき
起
お
きるのです。
一定
いってい
の
次元
じげん
に
達
たっ
しても、まだ
起
お
きることがあります。
坐禅
ざぜん
をして
恍惚
こうこつ
とした
状態
じょうたい
に
入
はい
ると、
誰
だれ
それが
煉功
れんこう
していると
分
わ
かるので、
元
げん
神
しん
が
身体
からだ
を
離
はな
れて、その
人
ひと
のところへ
行
い
って
武術
ぶじゅつ
の
試合
しあい
を
挑
いど
み、
競
きそ
い
合
あ
い、
闘
たたか
い
合
あ
うのです。
他
た
の
空間
くうかん
にもこんなことが
起
お
き、やはり
闘
たたか
いを
求
もと
め、
殴
なぐ
り
合
あ
いを
挑
いど
んでくる
人
ひと
がいます。それに
応
おう
じなければ、
殺
ころ
されるので、
激
はげ
しく
闘
たたか
い
合
あ
うのです。
寝
ね
ようと
思
おも
うと、
試合
しあい
を
挑
いど
んできますので、
一晩中
ひとばんじゅう
休
やす
むことができません。
実
じつ
は、その
時
とき
こそ
彼
かれ
の
闘争心
とうそうしん
を
取
と
り
除
のぞ
く
時
とき
で、それを
捨
す
てないかぎり、ずっとこんな
状態
じょうたい
が
続
つづ
き、
何
なん
年
ねん
経
た
ってもその
次元
じげん
から
抜
ぬ
け
出
だ
せません。とうとう
煉功
れんこう
もできなくなり、この
物質
ぶっしつ
的
てき
な
身体
からだ
も
耐
た
えられなくなります。
精力
せいりょく
の
消耗
しょうもう
があまりにも
大
おお
きいので、
下手
へた
をすると
廃人
はいじん
になるかも
知
し
れません。
内外兼修
ないがいけんしゅう
の
功法
こうほう
では、こういう
情況
じょうきょう
に
遭遇
そうぐう
することがあり、しかもかなり
普遍
ふへん
的
てき
に
見
み
られます。われわれの
内修功法
ないしゅうこうほう
には、このような
情況
じょうきょう
はなく、
現
あら
われるのを
許
ゆる
しません。
以上
いじょう
お
話
はな
しした
幾
いく
つかの
形
かたち
はいずれもよく
見
み
られるものです。
もう
一
ひと
つの、
魔
ま
が
妨害
ぼうがい
する
形
かたち
は、
誰
だれ
でも
遭
あ
うもので、われわれの
法門
ほうもん
においても
同
おな
じく
誰
だれ
でも
遭
あ
うことがあります。それはつまり
色魔
しきま
に
遭
あ
うことです。これは
非常
ひじょう
に
重大
じゅうだい
なことです。
常人
じょうじん
社会
しゃかい
では、
夫婦
ふうふ
生活
せいかつ
があり、それがあってはじめて
人類
じんるい
社会
しゃかい
が
子孫
しそん
を
残
のこ
すことができます。
人類
じんるい
はそうして
発展
はってん
してきましたし、
人類
じんるい
社会
しゃかい
には、
情
じょう
というものがありますので、そういうことは
常人
じょうじん
にとって
至極
しごく
当然
とうぜん
のことです。なぜなら、
人間
にんげん
には
情
じょう
があります。
怒
おこ
ることも、
喜
よろこ
ぶことも、
愛
あい
することも、
恨
うら
むことも、
喜
よろこ
んで
何
なに
かをするのも、
嫌
いや
でしたくないのも、ある
人
ひと
について
好
こう
印象
いんしょう
をもち、
悪
あく
印象
いんしょう
をもつのも、
何
なに
かをやりたいと
思
おも
い、やりたくないと
思
おも
うのも、すべてが
情
じょう
によるもので、
常人
じょうじん
とは
情
じょう
のために
生
い
きているものです。しかし、
煉功者
れんこうしゃ
として、
超常的
ちょうじょうてき
な
人間
にんげん
としては、その
理
り
で
量
はか
るわけにはいかず、そこから
抜
ぬ
け
出
だ
さなければなりません。したがって、
情
じょう
から
派生
はせい
した
数々
かずかず
の
執着心
しゅうちゃくしん
に、われわれは
淡泊
たんぱく
であるべきで、
最後
さいご
には
完全
かんぜん
にそれを
捨
す
てなければなりません。
欲
よく
も
色
いろ
もみな
人間
にんげん
の
執着心
しゅうちゃくしん
で、それらはみな
取
と
り
除
のぞ
かなければなりません。
われわれの
法門
ほうもん
では、
常人
じょうじん
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
に
対
たい
して、
和尚
おしょう
と
尼僧
にそう
になるように
要求
ようきゅう
しているわけではなく、
若者
わかもの
たちはこれからやはり
所帯
しょたい
を
持
も
たなければなりません。それでは、どうやってこの
問題
もんだい
に
対処
たいしょ
したらよいのでしょうか?
前
まえ
にお
話
はな
ししたように、われわれの
法門
ほうもん
は
人心
じんしん
を
真
ま
っ
直
す
ぐに
指
さ
すもので、
物質
ぶっしつ
や
利益
りえき
の
面
めん
であなたに
本当
ほんとう
に
何
なに
かを
失
うしな
わせようとするのではありません。まったく
逆
ぎゃく
に、
常人
じょうじん
の
物質
ぶっしつ
や
利益
りえき
のただ
中
なか
で、あなたの
心性
しんせい
を
錬磨
れんま
し、ほかでもないあなたの
心性
しんせい
を
本当
ほんとう
に
向上
こうじょう
させようとするのです。その
心
こころ
さえ
捨
す
て
去
さ
ることができれば、
何
なに
もかも
放棄
ほうき
できますので、
物質
ぶっしつ
的
てき
利益
りえき
を
捨
す
てろと
言
い
われれば、
当然
とうぜん
捨
す
てられます。その
心
こころ
を
捨
す
て
去
さ
ることができなければ、
何
なに
も
捨
す
てられません。
修煉
しゅうれん
の
本当
ほんとう
の
目的
もくてき
は、その
心
こころ
を
修煉
しゅうれん
することです。
寺院
じいん
で
修煉
しゅうれん
する
場合
ばあい
、
強制
きょうせい
的
てき
にそれらのものを
放棄
ほうき
させるのも、その
心
こころ
を
取
と
り
除
のぞ
くためです。
完全
かんぜん
に
断
た
ち
切
き
り、
考
かんが
えないように
強制
きょうせい
するのは、
寺院
じいん
のやり
方
かた
です。しかし、われわれはそのような
修煉
しゅうれん
法
ほう
を
採
と
らずに、
物質
ぶっしつ
的
てき
利益
りえき
を
目
め
の
前
まえ
にして、
淡々
たんたん
としていられるよう
要求
ようきゅう
しますので、われわれの
法門
ほうもん
で
修煉
しゅうれん
して
得
え
たものは
最
もっと
もしっかりしています。みんな
和尚
おしょう
や
尼僧
にそう
になれと
言
い
っているわけではありません。われわれは
常人
じょうじん
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
しているので、
将来
しょうらい
われわれの
功法
こうほう
はますます
広
ひろ
がっていきますが、もし、
法輪大法
ファールンダーファー
を
修煉
しゅうれん
する
者
もの
は
誰
だれ
もが
出家
しゅっけ
していない
和尚
おしょう
になる、みんなこうなってしまうようではいけません。われわれの
煉功
れんこう
では、
次
つぎ
のように
要求
ようきゅう
しています。あなたが
煉功
れんこう
していても、あなたの
配偶
はいぐう
者
しゃ
は
煉功
れんこう
していないという
場合
ばあい
、
煉功
れんこう
が
原因
げんいん
で
離婚
りこん
してしまってはいけません。つまり
常人
じょうじん
がそのことを
大事
だいじ
に
見
み
ているのと
違
ちが
って、われわれはそのことに
恬淡
てんたん
としていればよいのです。
特
とく
に、
今
いま
の
世
よ
の
中
なか
では
性
せい
の
解放
かいほう
などが
唱
とな
えられ、ポルノが
人間
にんげん
に
悪
わる
い
影響
えいきょう
を
与
あた
えています。それを
大事
だいじ
に
思
おも
っている
人
ひと
もいますが、われわれは
煉功者
れんこうしゃ
としてそれに
対
たい
して
淡泊
たんぱく
でなければなりません。
高
たか
い
次元
じげん
から
見
み
れば、
常人
じょうじん
は
社会
しゃかい
の
中
なか
で、まるで
泥
どろ
んこ
遊
あそ
びをしているようなもので、
汚
きたな
さも
知
し
らずに
地面
じめん
で
泥
どろ
まみれに
遊
あそ
んでいるのです。あなたはそのことで
家庭
かてい
を
壊
こわ
してはいけませんので、
今
いま
の
段階
だんかい
ではそれに
淡泊
たんぱく
でいて、
正常
せいじょう
で
睦
むつ
まじい
夫婦
ふうふ
生活
せいかつ
を
保
たも
っていればよいのです。
将来
しょうらい
、
一定
いってい
の
次元
じげん
に
達
たっ
したら、その
次元
じげん
での
状態
じょうたい
がありますが、
今
いま
はこういう
状態
じょうたい
ですので、あなたにこういうふうにするよう
要求
ようきゅう
します。ただし、いま
社会
しゃかい
に
見
み
られるようなあんな
状態
じょうたい
になってはいけません。それはとんでもないことです!
この
中
なか
にはもう
一
ひと
つの
問題
もんだい
があります。ご
存
ぞん
じのように、
煉功者
れんこうしゃ
の
身体
からだ
はエネルギーを
持
も
っています。
今
いま
ここにいる
八
はち
割
わり
、
九
きゅう
割
わり
の
人
ひと
は
講習会
こうしゅうかい
から
帰
かえ
りますと、
病気
びょうき
が
治
なお
るばかりでなく、
功
こう
も
持
も
つようになります。ですからあなたの
身体
からだ
に
強
つよ
いエネルギーを
持
も
つようになるのです。しかしあなたの
所持
しょじ
する
功
こう
は、あなたの
今
いま
の
心性
しんせい
と
正比例
せいひれい
をなすものではありません。
急
きゅう
に
引
ひ
っ
張
ぱ
ってあげましたので、あなたは
一時的
いちじてき
に
功
こう
が
伸
の
びましたが、
今
いま
はあなたの
心性
しんせい
を
向上
こうじょう
させているところです。そのうちあなたは
次第
しだい
に
追
お
いついて
来
き
て、
間違
まちが
いなくこの
期間中
きかんちゅう
に
追
お
いついてきます。われわれはこのことを
先
さき
にしてあげましたので、あなたもある
程度
ていど
のエネルギーを
持
も
っているわけです。
正法
しょうぼう
を
修煉
しゅうれん
して
得
え
たエネルギーは
純正
じゅんせい
かつ
慈悲
じひ
に
満
み
ちたものですので、
皆
みな
さんはここに
坐
すわ
っている
間
あいだ
、
和
なご
やかで
慈悲
じひ
に
満
み
ちた
場
ば
と
感
かん
じているでしょう。わたしはこのように
修煉
しゅうれん
してきたので、このようなものを
持
も
っています。
皆
みな
さんはここに
坐
すわ
っている
間
あいだ
、
和
なご
やかな
雰囲気
ふんいき
に
包
つつ
まれていますので、
邪念
じゃねん
が
生
しょう
じることもなく、タバコを
吸
す
うことさえ
思
おも
いつきません。これからあなたも
大法
ダーファー
の
要求
ようきゅう
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
すれば、
修煉
しゅうれん
して
得
え
た
功
こう
もこれと
同
おな
じものになります。あなたの
功力
こうりき
が
絶
た
えず
増強
ぞうきょう
するにつれて、あなたの
身体
からだ
に
所持
しょじ
する
功
こう
から
発散
はっさん
するエネルギーもかなり
強
つよ
くなります。たとえそれほど
強
つよ
くなくても、
一般
いっぱん
の
人
ひと
があなたの
場
ば
の
中
なか
に
入
はい
ると、あるいはあなた
自身
じしん
は
家
いえ
にいながらにして、
他人
たにん
を
制約
せいやく
することができます。
家族
かぞく
のみんなもあなたの
制約
せいやく
を
受
う
けるかも
知
し
れません。なぜかと
言
い
いますと、あなたが
念
ねん
を
起
お
こすまでもなく、この
場
ば
は
純正
じゅんせい
で、
和
なご
やかで、
慈悲
じひ
に
満
み
ちた
正念
しょうねん
の
場
ば
ですので、この
場
ば
にいれば、
人々
ひとびと
は
悪
わる
いことを
考
かんが
えたり、
良
よ
くないことをしたりすることが
容易
ようい
にできません。この
場
ば
はそのような
作用
さよう
があるのです。
先日
せんじつ
、わたしは「
佛光
ぶっこう
が
普
あまね
く
照
て
らせば、
礼儀
れいぎ
が
圓
えん
明
めい
となる」ということをお
話
はな
ししましたが、それはつまり、われわれの
身体
からだ
から
発散
はっさん
されたエネルギーが、あらゆる
間違
まちが
った
状態
じょうたい
を
正
ただ
すことができるということです。したがって、この
場
ば
の
働
はたら
きの
下
もと
で、あなたがそういうことを
考
かんが
えないかぎり、
知
し
らずしらずのうちにあなたの
配偶
はいぐう
者
しゃ
も
制約
せいやく
を
受
う
けるようになります。あなたがそんな
念
ねん
を
起
お
こさなければ、あなたはそんな
念
ねん
を
起
お
こすわけもないのですが、
相手
あいて
もそのことを
思
おも
いつきません。しかし、
絶対
ぜったい
とは
言
い
えません。いまの
環境
かんきょう
では、テレビのスイッチを
入
い
れれば、
何
なん
でも
出
で
てきますので、
人
ひと
は
欲望
よくぼう
をそそられやすいのです。ただ
普通
ふつう
は、あなたはその
情況
じょうきょう
の
中
なか
で
制約
せいやく
作用
さよう
を
発動
はつどう
させることができます。
将来
しょうらい
、
高
たか
い
次元
じげん
で
修煉
しゅうれん
する
時
とき
になれば、わたしが
教
おし
えなくても、どうすればよいかあなた
自身
じしん
が
分
わ
かります。その
時
とき
は、
違
ちが
う
状態
じょうたい
が
現
あら
われてきますが、
和
なご
やかな
生活
せいかつ
を
保
たも
っていれば
結構
けっこう
です。ですから、こういうことは
大
おお
げさに
考
かんが
える
必要
ひつよう
はなく、あまり
気
き
になるとそれはそれでまた
一種
いっしゅ
の
執着心
しゅうちゃくしん
になります。
夫婦
ふうふ
の
間
あいだ
には、
色
いろ
の
問題
もんだい
がありません。しかし
欲望
よくぼう
はあります。そこで
淡々
たんたん
として、
心理
しんり
的
てき
にバランスが
取
と
れればそれでいいのです。
さて、どのような
色魔
しきま
に
遭
あ
うことがあるのでしょうか?
定力
じょうりき
が
不足
ふそく
している
者
もの
の
場合
ばあい
は、
夢
ゆめ
の
中
なか
に
現
あら
われたり、
寝
ね
ている
時
とき
または
坐禅
ざぜん
している
時
とき
に、
突如
とつじょ
現
あら
われてきたりします。あなたが
男性
だんせい
ならば、
美女
びじょ
が
現
あら
われ、あなたが
女性
じょせい
ならば、
心
こころ
の
中
なか
で
愛慕
あいぼ
しているタイプの
男
おとこ
が
現
あら
われてきますが、しかも、
一糸
いっし
まとわぬ
姿
すがた
です。あなたの
心
こころ
が
動
どう
じれば、すぐ
漏
も
れてしまいかねませんが、すると
取
と
り
返
かえ
しのつかないことになります。
考
かんが
えてみてください。
煉功者
れんこうしゃ
にとって、
精血
せいけつ
の
気
き
は
命
めい
を
修
おさ
めるためのものですので、いつまでもこのように
漏
も
らしてはいけません。それに、あなたは
色欲
しきよく
という
試練
しれん
の
関門
かんもん
を
通過
つうか
できなくてよいのですか? この
問題
もんだい
は
誰
だれ
でも
遭
あ
うことであり、
必
かなら
ず
遭
あ
うに
違
ちが
いないので、お
話
はな
ししました。わたしは
説法
せっぽう
する
時
とき
、きわめて
強
つよ
いエネルギーを
出
だ
して、あなたの
頭
あたま
の
中
なか
に
注
そそ
ぎ
込
こ
んでいます。この
会場
かいじょう
を
出
で
たら、わたしが
具体
ぐたい
的
てき
に
何
なに
を
話
はな
したのか
思
おも
い
出
だ
せないかも
知
し
れませんが、
本当
ほんとう
に
何
なに
かに
遭遇
そうぐう
した
時
とき
は、あなたはわたしの
今
いま
の
話
はなし
を
思
おも
い
出
だ
すでしょう。
煉功者
れんこうしゃ
としての
自覚
じかく
を
持
も
っていれば、その
瞬間
しゅんかん
に
思
おも
い
出
だ
すことができ、そして
自分
じぶん
を
抑制
よくせい
することができます。そうすればその
関門
かんもん
は
通過
つうか
することができます。もし
一回目
いっかいめ
に
乗
の
り
越
こ
えられなければ、
二
に
回
かい
目
め
は
自分
じぶん
を
制御
せいぎょ
するのが
難
むずか
しくなります。しかし、
次
つぎ
のようなケースもあります。
一回目
いっかいめ
は
乗
の
り
越
こ
えられませんでしたが、
目
め
が
覚
さ
めたあと、
悔
くや
しくてたまりません。このような
気持
きも
ちや
状態
じょうたい
が、
強
つよ
く
印象
いんしょう
に
残
のこ
っていれば、
再
ふたた
びそれに
遭
あ
う
時
とき
には、
自分
じぶん
自身
じしん
を
制御
せいぎょ
することができ、
乗
の
り
越
こ
えることができます。しかし、
乗
の
り
越
こ
えられなくても
平気
へいき
でいられる
者
もの
は、
今後
こんご
もっと
自己
じこ
制御
せいぎょ
が
難
むずか
しくなります。
絶対
ぜったい
そうなります。
こういうことには、
魔
ま
による
妨害
ぼうがい
もあれば、
師
し
があなたに
試練
しれん
を
与
あた
えるために
作
つく
り
出
だ
したものもあります。どちらの
場合
ばあい
もあり、
誰
だれ
でもこの
関門
かんもん
を
通過
つうか
しなければなりません。
常人
じょうじん
から
修煉
しゅうれん
を
始
はじ
める
第一歩
だいいっぽ
がこの
関門
かんもん
で、
誰
だれ
でも
遭
あ
うことがあります。
例
れい
を
一
ひと
つ
挙
あ
げましょう。
武漢
ぶかん
で
講習会
こうしゅうかい
を
開
ひら
いた
時
とき
のことで、
学習者
がくしゅうしゃ
で、
三十才
さんじゅっさい
ぐらいの
若者
わかもの
がいました。
今
いま
のような
講義
こうぎ
を
聞
き
いて、
家
いえ
に
帰
かえ
った
彼
かれ
は、
坐禅
ざぜん
を
始
はじ
めるとすぐに
入定
にゅうじょう
できました。すると、
片方
かたほう
から
阿弥陀佛
あみだぶつ
が
現
あら
われ、
片方
かたほう
から
老子
ろうし
が
現
あら
われました。これは
彼
かれ
が
体験
たいけん
談
だん
に
書
か
いたものですが、
現
あら
われてきて、ちらりと
彼
かれ
を
見
み
て、
何
なに
も
言
い
わずに
姿
すがた
を
消
け
しました。
今度
こんど
は、
観音
かんのん
菩薩
ぼさつ
が
現
あら
われてきて、
手
て
に
花瓶
かびん
を
持
も
ち、
花瓶
かびん
から、
白
しろ
い
煙
けむり
のようなものが
立
た
ち
上
の
ぼりました。
坐禅
ざぜん
をしている
彼
かれ
は、それらがはっきり
見
み
えましたので、
大変
たいへん
嬉
うれ
しく
思
おも
いました。しかし、その
煙
けむり
が
急
きゅう
に
何
なん
人
にん
かの
美女
びじょ
に
変
か
わりました。
美女
びじょ
はあの
飛天
ひてん
の
仙女
せんにょ
で、それはそれは
美
うつく
しいのです。
美女
びじょ
たちが
踊
おど
り
出
だ
しましたが、その
姿
すがた
は、この
上
うえ
なく
綺麗
きれい
です!
彼
かれ
は、ここで
煉功
れんこう
している
自分
じぶん
に
観音
かんのん
様
さま
がご
褒美
ほうび
に、
美女
びじょ
を
降
お
ろし、
飛天
ひてん
の
仙女
せんにょ
たちに
踊
おど
りをさせているのだ、と
思
おも
いました。いい
気分
きぶん
になっていると、
美女
びじょ
たちがぱっと
一糸
いっし
まとわぬ
姿
すがた
になり、いろんなしぐさをしながら
首
くび
や
腰
こし
に
手
て
を
回
まわ
して
抱
だ
き
付
つ
いてきました。われわれの
学習者
がくしゅうしゃ
は
心性
しんせい
の
上達
じょうたつ
が
速
はや
いので、この
若者
わかもの
もすぐ
警戒
けいかい
しました。
彼
かれ
が
真
ま
っ
先
さき
に
考
かんが
えたのは、「
僕
ぼく
は
普通
ふつう
の
人
ひと
ではない。
煉功者
れんこうしゃ
だ。
法輪大法
ファールンダーファー
を
修煉
しゅうれん
している
僕
ぼく
にはこんなことをしないでほしい」ということでした。この
一念
いちねん
が
起
お
きた
途端
とたん
に、さっと
何
なに
もかも
消
き
えてしまいました。それらはもともと
幻影
げんえい
だったのです。そこで、
阿弥陀佛
あみだぶつ
と
老子
ろうし
が
再
ふたた
び
姿
すがた
を
現
あら
わしました。
老子
ろうし
は
若者
わかもの
を
指
ゆび
さしながら、「
孺子
じゅし
教
おし
う
可
べ
し」と
阿弥陀佛
あみだぶつ
に
微笑
ほほえ
みながら
言
い
いました。つまり「この
人
ひと
は
教
おし
えがいがある」という
意味
いみ
です。
歴史
れきし
においても、あるいは
高次元空間
こうじげんくうかん
においても、
人
ひと
が
修煉
しゅうれん
できるかどうかを
判断
はんだん
するのに、
人
ひと
の
欲望
よくぼう
、
特
とく
に
色欲
しきよく
のことが
重視
じゅうし
されてきました。ですから、それらには
本当
ほんとう
に
淡泊
たんぱく
でなければなりません。
一方
いっぽう
、われわれは
常人
じょうじん
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
しているので、
完全
かんぜん
にそれを
断
た
ち
切
き
るようにと
要求
ようきゅう
しているわけではありません。
少
すく
なくとも、
現段階
げんだんかい
ではそういうことに
淡泊
たんぱく
でなければならず、これまでと
同
おな
じようにしてはいけません。
煉功者
れんこうしゃ
としてはこうしなければならないものです。
煉功
れんこう
の
時
とき
にあれこれと
妨害
ぼうがい
が
現
あら
われてきた
場合
ばあい
、まず
自分
じぶん
自身
じしん
から
原因
げんいん
を
探
さが
し、まだ
何
なに
か
捨
す
てなければならないものがあるのではないかと
考
かんが
えるべきです。
自分
じぶん
の
心
こころ
より
魔
ま
が
生
しょう
じること
自分
じぶん
の
心
こころ
より
魔
ま
が
生
しょう
じるとはどんなことでしょうか?
人間
にんげん
の
身体
からだ
はどの
空間
くうかん
においても
物質
ぶっしつ
的
てき
な
場
ば
を
持
も
っています。ある
特殊
とくしゅ
な
場
ば
の
中
なか
で、
宇宙
うちゅう
のあらゆるものが
影
かげ
のように、あなたの
空間
くうかん
の
場
ば
に
映
うつ
ってきます。
影
かげ
とはいえ、
物質
ぶっしつ
的
てき
な
存在
そんざい
です。あなたの
空間
くうかん
の
場
ば
にあるすべてのものは、あなたの
大脳
だいのう
の
意識
いしき
によって
支配
しはい
されています。つまり、
天目
てんもく
でものを
見
み
る
時
とき
、
心
こころ
が
動
どう
ずることなく
静
しず
かに
見
み
れば、
真実
しんじつ
が
見
み
えますが、
念
ねん
が
少
すこ
しでも
生
しょう
じれば、
見
み
えたものはすべて
幻
まぼろし
になります。それがつまり「
自分
じぶん
の
心
こころ
より
生
しょう
じる
魔
ま
」のことで、また「
心
こころ
による
変化
へんげ
」とも
呼
よ
ばれています。
修煉者
しゅうれんしゃ
としての
自覚
じかく
を
持
も
っておらず、
自分
じぶん
自身
じしん
を
制御
せいぎょ
できない
煉功者
れんこうしゃ
もおり、
功能
こうのう
を
求
もと
めたり、
小手先
こてさき
の
技
わざ
などに
執着
しゅうちゃく
したり、
甚
はなは
だしきに
至
いた
っては
他
た
の
空間
くうかん
から
聞
き
こえてくるものにさえ
執着
しゅうちゃく
し、それを
希求
ききゅう
したりしています。こういう
人
ひと
こそ
最
もっと
も
自分
じぶん
自身
じしん
の
心
こころ
から
魔
ま
が
生
しょう
じやすく、
最
もっと
も
堕
お
ちやすいのです。どんなに
高
たか
く
修煉
しゅうれん
した
人
ひと
でも、このことが
起
お
きると、とことんまで
堕
お
ち、
完全
かんぜん
に
駄目
だめ
になってしまいます。ですから、これはきわめて
重大
じゅうだい
な
問題
もんだい
です。
心性
しんせい
の
試練
しれん
は、ほかのことで
一度
いちど
乗
の
り
越
こ
えられなくて
転
ころ
んでも
起
お
きあがれば
修煉
しゅうれん
を
続
つづ
けることができますが、それと
違
ちが
って、
心
こころ
より
魔
ま
が
生
しょう
じればもう
駄目
だめ
で、その
人
ひと
の一
生
しょう
が
台
だい
なしになってしまいます。
特
とく
に、
煉功
れんこう
して
一定
いってい
の
次元
じげん
で
天目
てんもく
が
開
ひら
いた
人
ひと
に、このことが
起
お
きやすいのです。それから、
自分
じぶん
の
意識
いしき
がいつも
他
ほか
からの
信息
しんそく
に
撹乱
かくらん
を
受
う
けやすく、
他
ほか
からの
信息
しんそく
をそのまま
信
しん
じてしまう
人
ひと
にも、このことが
起
お
きます。このように、
天目
てんもく
が
開
ひら
いた
人
ひと
は、さまざまなところからの
信息
しんそく
に
撹乱
かくらん
されやすいのです。
一
ひと
つ
例
れい
を
挙
あ
げましょう。
低
ひく
い
次元
じげん
で
修煉
しゅうれん
している
時
とき
に、
心
こころ
が
動
どう
じないことは
容易
ようい
なことではありません。
師
し
のことがはっきり
分
わ
からない
場合
ばあい
もあります。そんなある
日
ひ
、
突然
とつぜん
、
背
せ
が
高
たか
く、
堂々
どうどう
とした
体躯
たいく
の
大
だい
仙人
せんにん
が
訪
おとず
れてきました。その
大
だい
仙人
せんにん
が
二言三言
ふたことみこと
あなたのことを
褒
ほ
め、
何
なに
かを
教
おし
えてくれて、あなたがそれを
受
う
け
入
い
れたとします。するとあなたの
功
こう
が
乱
みだ
れてしまいます。あなたはのぼせあがって、その
大
だい
仙人
せんにん
を
師
し
と
仰
あお
ぎ、
彼
かれ
について
学
まな
ぶことになるかも
知
し
れません。しかし、その
空間
くうかん
では、
身体
からだ
を
大
おお
きくしたり
小
ちい
さくしたりすることができますが、
彼
かれ
自身
じしん
も
正果
しょうか
を
得
え
てはいないのです。
目
め
の
前
まえ
に
現
あら
われた
大
だい
仙人
せんにん
を
見
み
て、あなたは
感激
かんげき
せずにはいられません!
歓喜
かんき
心
しん
が
起
お
きると、
彼
かれ
について
行
い
ってしまうのではありませんか?
自分
じぶん
自身
じしん
を
制御
せいぎょ
できない
修煉者
しゅうれんしゃ
は、
済度
さいど
し
難
がた
いうえ、
自分
じぶん
自身
じしん
をいとも
簡単
かんたん
に
駄目
だめ
にしてしまいます。
天人
てんにん
はすべて
神
かみ
ではありますが、
彼
かれ
らも
正果
しょうか
を
得
え
ておらず、
同
おな
じように
六道
ろくどう
の
中
なか
で
輪廻
りんね
するものです。あなたが
勝手
かって
にその
人
ひと
を
師
し
と
仰
あお
ぎ、
彼
かれ
についていって、どこへ
連
つ
れていかれるのか
分
わ
かりますか?
彼
かれ
でさえ
正果
しょうか
を
得
え
ていないので、あなたの
修煉
しゅうれん
は
無駄
むだ
になるのではありませんか? しまいにはあなたは
功
こう
を
乱
みだ
されてしまいます。
人間
にんげん
にとって
心
こころ
が
動
どう
じないことは
至難
しなん
です。
皆
みな
さんにはっきり
言
い
っておきますが、これはきわめて
厳粛
げんしゅく
な
問題
もんだい
で、
将来
しょうらい
、
多
おお
くの
人
ひと
にこの
問題
もんだい
が
起
お
きると
思
おも
います。
法
ほう
はわたしが
説
と
いてお
聞
き
かせしましたが、
自分
じぶん
を
制御
せいぎょ
できるかどうかは、すべてあなた
次第
しだい
です。
今
いま
お
話
はな
ししたのは
一
ひと
つの
状況
じょうきょう
です。
他
た
の
門派
もんぱ
の
覚者
かくしゃ
に
会
あ
っても、
心
こころ
が
動
どう
ずることなく、ひたすらこの
一門
いちもん
で
修煉
しゅうれん
するのです。いかなる
佛
ほとけ
、いかなる
道
どう
、いかなる
神
かみ
、いかなる
魔
ま
に
対
たい
しても、
心
こころ
が
動
どう
じることがなければ、
必
かなら
ず
成功
せいこう
するに
違
ちが
いありません。
自分
じぶん
の
心
こころ
より
魔
ま
が
生
しょう
じる
例
れい
として、また
次
つぎ
のような
状況
じょうきょう
もあります。
亡
な
くなった
肉親
にくしん
が
現
あら
われて、あなたの
心
こころ
を
乱
みだ
す
場合
ばあい
です。これをやってほしい、あれをやってほしいとあなたに
泣
な
きついたりして、いろんなことが
出
で
てきます。あなたは
心
こころ
が
動
どう
じないでいられますか? それはあなたの
最
もっと
も
可愛
かわい
がっていた
子
こ
、あるいは
最愛
さいあい
の
両親
りょうしん
だったりします。
亡
な
くなった
両親
りょうしん
があれこれと
頼
たの
んできて……いずれもやってはならないことばかりという
時
とき
、やってしまえばあなたが
駄目
だめ
になります。
煉功者
れんこうしゃ
というのはこんなにも
難
むずか
しいのです。
佛教
ぶっきょう
が
乱
みだ
れているとよく
言
い
われています。
儒教
じゅきょう
的
てき
なものも
佛教
ぶっきょう
に
混
ま
じり
込
こ
んで、
親孝行
おやこうこう
や
子供
こども
への
愛
あい
なども
佛教
ぶっきょう
に
取
と
り
込
こ
まれていますが、
佛教
ぶっきょう
にはもともとそういう
内容
ないよう
はありません。これはどういう
意味
いみ
でしょうか? すなわち、
人
ひと
の
本当
ほんとう
の
生命
せいめい
は
元
げん
神
しん
なので、
元
げん
神
しん
を
生
う
んでくれた
母親
ははおや
こそあなたの
本当
ほんとう
の
母親
ははおや
です。
六道
ろくどう
の
中
なか
で
輪廻
りんね
する
間
あいだ
、あなたの
母親
ははおや
は
人
ひと
であるのもいれば、そうでないのもおり、
数
かぞ
え
切
き
れないほどいます。そして、
生
う
まれ
変
か
わる
度
たび
ごとにあなたがどれくらい
子供
こども
を
持
も
ったのかも
分
わ
かりません。
誰
だれ
が
母親
ははおや
で、
誰
だれ
が
子供
こども
なのか、
死
し
んでしまえば、お
互
たが
いに
誰
だれ
も
分
わ
からなくなりますが、
造
つく
った
業
ごう
だけは
相変
あいか
わらず
返
かえ
さなければなりません。
人間
にんげん
は
迷
まよ
いの
中
なか
にあって、どうしてもそういうことにしがみつきます。
亡
な
くなった
子供
こども
がどれほど
可愛
かわい
かったかと
言
い
って、どうしても
忘
わす
れることができない
人
ひと
がいます。あるいは
亡
な
くなった
母親
ははおや
がどんなにやさしかったかと
言
い
って、
悲
かな
しみに
暮
く
れ、
残
のこ
りの
人生
じんせい
を
捨
す
てて
後
あと
を
追
お
いかねない
人
ひと
もいます。よく
考
かんが
えてみてください。それはまさにあなたを
苦
くる
しめるためのものではありませんか? そういう
形
かたち
で、あなたを
楽
らく
に
暮
く
らさせないようにしているのです。
常人
じょうじん
には
理解
りかい
できないかも
知
し
れませんが、そういうことに
執着
しゅうちゃく
すれば、あなたはまったく
修煉
しゅうれん
ができません。ですから
佛教
ぶっきょう
にはそのような
内容
ないよう
がないのです。
修煉
しゅうれん
したければ、
人間
にんげん
の
情
じょう
を
捨
す
てなければなりません。もちろん、われわれは
常人
じょうじん
の
社会
しゃかい
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
をしているので、
親孝行
おやこうこう
をするのも、
子供
こども
をしつけるのも
当然
とうぜん
です。どんな
環境
かんきょう
の
中
なか
でも
人
ひと
には
親切
しんせつ
にしなければならず、まして
自分
じぶん
の
身内
みうち
のものの
場合
ばあい
はなおさらです。
親
おや
だろうと
子供
こども
だろうと
誰
だれ
に
対
たい
しても
同
おな
じように、
何事
なにごと
につけてまず
人
ひと
のことを
優先
ゆうせん
に
考
かんが
えるならば、それはもはや
私心
ししん
ではなく、
慈悲
じひ
心
しん
によるもので、
慈悲
じひ
そのものです。
情
じょう
というのは
常人
じょうじん
のもので、
常人
じょうじん
とはほかならぬこの
情
じょう
のために
生
い
きているものです。
多
おお
くの
人
ひと
は
自分
じぶん
自身
じしん
を
制御
せいぎょ
できないために、
修煉
しゅうれん
を
難
むずか
しくしています。
佛
ほとけ
からこれこれのお
告
つ
げがあったとか
言
い
う
人
ひと
がいます。
今日
きょう
は
一難
いちなん
があるとか、
不都合
ふつごう
なことが
起
お
きるので、どうすればそれを
避
さ
けられるとか、あるいは
今日
きょう
の
宝
たから
くじの
一等
いっとう
賞
しょう
は
何番
なんばん
で、それを
引
ひ
き
当
あ
てるよう
教
おし
えてくれるとか、およそこのように
常人
じょうじん
の
社会
しゃかい
であなたに
何
なに
か
得
とく
をさせようとするものはすべて
魔
ま
であり、
生命
せいめい
の
危険
きけん
がある
時
とき
脱出
だっしゅつ
方法
ほうほう
を
教
おし
えてくれるような
場合
ばあい
は
別
べつ
として、それ
以外
いがい
はみなそうです。
常人
じょうじん
の
中
なか
で
得
とく
ばかりを
考
かんが
えて、
試練
しれん
に
立
た
ち
向
む
かおうとしなければ、
心性
しんせい
の
向上
こうじょう
はありえません。
常人
じょうじん
の
中
なか
で
楽
らく
に
暮
くら
していれば、どうやって
修煉
しゅうれん
しますか? あなたの
業力
ごうりき
はどうやって
転化
てんか
するのですか?
心性
しんせい
を
向上
こうじょう
させ、
業力
ごうりき
を
転化
てんか
させる
環境
かんきょう
はどこにあるのでしょうか?
皆
みな
さんはくれぐれもこれをよく
覚
おぼ
えておいてください。
魔
ま
はあなたのことを
褒
ほ
めてくれたりすることがあります。あなたの
次元
じげん
がどれほど
高
たか
く、あなたがどんなに
高位
こうい
の
大佛
だいぶつ
であり、
大
だい
道士
どうし
であるとか、いかに
素晴
すば
らしいかなど、いろいろ
言
い
ってくれますが、すべて
嘘
うそ
です。
本当
ほんとう
に
高
たか
い
次元
じげん
をめざして
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
は、いかなる
心
こころ
も
捨
す
てなければなりませんので、これらの
問題
もんだい
に
遭
あ
った
時
とき
は、くれぐれも
用心
ようじん
するようにしてください!
煉功
れんこう
の
際
さい
に、
天目
てんもく
が
開
ひら
きました。
天目
てんもく
が
開
ひら
いたら
開
ひら
いただけの
修煉
しゅうれん
の
難
むずか
しさがあり、
天目
てんもく
が
開
ひら
いていない
人
ひと
には
開
ひら
いていないなりの
修煉
しゅうれん
の
難
むずか
しさがあって、いずれにしても
修煉
しゅうれん
は
容易
ようい
なことではありません。
天目
てんもく
が
開
ひら
いたら、さまざまな
信息
しんそく
に
撹乱
かくらん
されて、
自分
じぶん
を
制御
せいぎょ
することはなかなか
難
むずか
しいのです。
他
た
の
空間
くうかん
では、
何
なに
もかも
艶
あで
やかで、
美
うつく
しく、
素晴
すば
らしいので、あなたの
心
こころ
はわずかな
事
こと
にも
動
どう
じかねません。
心
こころ
が
動
どう
じると、
邪魔
じゃま
が
入
はい
り、あなたの
功
こう
も
乱
みだ
れてしまいます。たいていそうなります。ですから
自分
じぶん
の
心
こころ
から
魔
ま
が
生
しょう
じる
人
ひと
は、
自分
じぶん
自身
じしん
を
制御
せいぎょ
できない
時
とき
に、
次
つぎ
のような
状況
じょうきょう
も
現
あら
われます。たとえば、ちょっとした
邪念
じゃねん
が
起
お
きれば、
大
おお
きな
危険
きけん
を
招
まね
きかねません。ある
日
ひ
、この
人
ひと
は
天目
てんもく
が
開
ひら
きました。しかもとてもはっきり
見
み
えています。そこで、
彼
かれ
は
思
おも
いました。「この
煉功場
れんこうば
では、わたしの
天目
てんもく
がいちばんよく
開
ひら
いており、もしかすると、わたしは
普通
ふつう
の
人
ひと
ではないかも
知
し
れない。
李先生
りせんせい
の
法輪大法
ファールンダーファー
を
学
まな
べただけではなく、こんなに
上達
じょうたつ
して、
誰
だれ
よりも
優
すぐ
れているのだから、わたしは
普通
ふつう
の
人
ひと
ではないのだ」こう
考
かんが
えただけですでに
間違
まちが
っていますが、
彼
かれ
はさらに
続
つづ
けます。「もしかしたら、わたしは
佛
ほとけ
かも
知
し
れない。
自分
じぶん
自身
じしん
を
見
み
てみたいものだ」。そう
思
おも
って
自分
じぶん
を
見
み
てみると、
本当
ほんとう
に
佛
ほとけ
の
姿
すがた
をしています。それはなぜでしょうか? すなわち
彼
かれ
の
身
み
のまわりの
空間場
くうかんば
の
範囲
はんい
内
ない
にある
物質
ぶっしつ
すべてが、
彼
かれ
の
意識
いしき
によって
演化
えんか
するからです。それは「
心
こころ
による
変化
へんげ
」とも
呼
よ
ばれます。
宇宙
うちゅう
から
対応
たいおう
してくるものは、みな
彼
かれ
の
意識
いしき
によって
変化
へんげ
します。
彼
かれ
の
空間場
くうかんば
の
範囲
はんい
内
ない
にあるものはすべて
彼
かれ
の
支配
しはい
下
か
にあり、
影
かげ
も
物質
ぶっしつ
的
てき
な
存在
そんざい
なので、
例外
れいがい
ではありません。
彼
かれ
がわたしは
佛
ほとけ
かも
知
し
れない、もしかすると、
佛
ほとけ
の
身
み
なりをしている、と
思
おも
いますと、
本当
ほんとう
に
佛
ほとけ
の
服装
ふくそう
をした
自分
じぶん
が
見
み
えます。おや、わたしは
本当
ほんとう
に
佛
ほとけ
なんだ、と
嬉
うれ
しくてたまりません。
小
ちい
さい
佛
ほとけ
ではないかも
知
し
れない、と
思
おも
って
見
み
てみると、
果
はた
して
大
おお
きな
佛
ほとけ
だったりします。ひょっとしたら
李洪志
りこうし
よりも
高
たか
いかも
知
し
れない! そう
思
おも
って
見
み
てみると、なんと
本当
ほんとう
に
李洪志
りこうし
よりも
高
たか
く
見
み
えました。
耳
みみ
から
聞
き
かされる
人
ひと
もいます。
魔
ま
が
彼
かれ
を
妨害
ぼうがい
しようと、あなたは
李洪志
りこうし
よりも
高
たか
いとか、
李洪志
りこうし
よりどれほど
高
たか
いとか、
彼
かれ
に
言
い
い
聞
き
かせます。
彼
かれ
はそれを
信
しん
じてしまいます。これからどうやって
修煉
しゅうれん
するのか
考
かんが
えもしません。あなたは
修煉
しゅうれん
したことがありますか、
誰
だれ
が
修煉
しゅうれん
を
教
おし
えてくれたのですか?
使命
しめい
を
持
も
って
常人
じょうじん
社会
しゃかい
に
来
き
た
本当
ほんとう
の
佛
ほとけ
ですら、
改
あらた
めて
一
いち
から
修煉
しゅうれん
しなければならないのです。
元
もと
の
功
こう
は
持
も
たせてもらえず、ただ、いまの
修煉
しゅうれん
が
速
はや
く
進
すす
むだけです。こうして、その
人
ひと
にいったんこのようなことが
起
お
きると、もう
自
みずか
ら
抜
ぬ
け
出
だ
せずに、
執着心
しゅうちゃくしん
がすぐ
高
こう
じてきます。
高
こう
じてくると、どんなことでも
憚
はばか
らずに
口
くち
にします。「
俺
おれ
が
佛
ほとけ
なのだ。
君
きみ
たちはほかの
人
ひと
に
学
まな
ばなくてよい。
俺
おれ
が
佛
ほとけ
なのだから、この
俺
おれ
が
教
おし
えてやろう」。
彼
かれ
はそうなってしまうのです。
長春
ちょうしゅん
にもこのような
人
ひと
がいたではありませんか?
最初
さいしょ
はなかなか
良
よ
かったのですが、そのうちおかしくなったのです。
自分
じぶん
が
佛
ほとけ
で、
最後
さいご
には
誰
だれ
よりも
高
たか
いとうぬぼれますが、それというのも
自分
じぶん
自身
じしん
を
制御
せいぎょ
できずに、
執着心
しゅうちゃくしん
をつのらせたためにそうなったのです。なぜこんなことが
起
お
こったのでしょうか?
佛教
ぶっきょう
では、
何
なに
が
見
み
えても
気
き
にせずに、すべて
魔
ま
の
幻
まぼろし
なので、ひたすらに
入定
にゅうじょう
して
修煉
しゅうれん
するようにと
教
おし
えています。どうして
見
み
てはいけないと
教
おし
え、
執着
しゅうちゃく
してはならないと
言
い
うのでしょうか? こんなことが
起
お
きないようにするためです。
佛教
ぶっきょう
の
修煉
しゅうれん
には
特
とく
に
修煉
しゅうれん
を
強化
きょうか
するものもなければ、
経典
きょうてん
にもこういう
問題
もんだい
への
対処
たいしょ
方法
ほうほう
は
書
か
かれていません。
釈迦牟尼
しゃかむに
は
当時
とうじ
この
法
ほう
を
教
おし
えていませんでした。
自分
じぶん
の
心
こころ
より
魔
ま
が
生
しょう
じる
問題
もんだい
や、
心
こころ
による
変化
へんげ
という
問題
もんだい
を
避
さ
けるために、
修煉
しゅうれん
時
じ
に
見
み
たすべての
光景
こうけい
を
魔
ま
の
幻
まぼろし
だと
言
い
ったのです。ですから、いったん
執着心
しゅうちゃくしん
が
起
お
きて、
魔
ま
の
幻
まぼろし
が
現
あら
われてしまいますと、
人
ひと
はそれから
抜
ぬ
け
出
だ
そうとしてもなかなかできません。
下手
へた
をすると、その
人
ひと
は
駄目
だめ
になり、
魔
ま
の
道
みち
に
入
はい
ってしまうかも
知
し
れません。
彼
かれ
は
自分
じぶん
のことを
佛
ほとけ
だと
言
い
っている
以上
いじょう
、すでに
魔道
まどう
に
入
はい
っており、しまいには
憑
つ
き
物
もの
か
何
なに
かを
招
まね
いてしまうこともあり、
完全
かんぜん
に
駄目
だめ
になってしまいます。
心
こころ
も
悪
わる
くなり、
完全
かんぜん
に
堕
お
ちてしまいます。こういう
人
ひと
は
案外
あんがい
多
おお
いのです。いま
現在
げんざい
、この
講習会
こうしゅうかい
にも、うぬぼれている
人
ひと
がいて、ものを
言
い
う
態度
たいど
まで
違
ちが
います。
自分
じぶん
のことをいったいなんだと
思
おも
っているのですか。
佛教
ぶっきょう
においても、このことは
強
つよ
く
忌避
きひ
されているのです。
今
いま
お
話
はな
ししたのは「
自分
じぶん
の
心
こころ
より
魔
ま
が
生
しょう
じる」ということで、それはまた
心
こころ
による
変化
へんげ
とも
呼
よ
ばれます。
北京
ぺきん
にはこのような
学習者
がくしゅうしゃ
がいて、
他
ほか
の
地域
ちいき
にも
現
あら
われていますが、
煉功者
れんこうしゃ
に
対
たい
する
大
おお
きな
妨害
ぼうがい
となっています。
「
先生
せんせい
、どうしてそういう
問題
もんだい
を
処理
しょり
してくれないのですか?」と、わたしに
聞
き
く
人
ひと
がいます。
考
かんが
えてみてください。もし、
修煉
しゅうれん
の
道
みち
において
生
しょう
じる、あらゆる
障害
しょうがい
物
ぶつ
をことごとく
片付
かたづ
けてあげてしまったら、あなたはどうやって
修煉
しゅうれん
するのでしょうか?
魔
ま
の
妨害
ぼうがい
があってこそ、
最後
さいご
まで
修煉
しゅうれん
できるかどうか、
本当
ほんとう
に
道
どう
を
悟
さと
れるかどうか、
妨害
ぼうがい
に
動
どう
ぜずにいられるかどうか、この
法門
ほうもん
を
堅持
けんじ
できるかどうかがはっきり
分
わ
かります。「
荒波
あらなみ
は
砂
すな
を
洗
あら
う」という
言葉
ことば
がありますが、
修煉
しゅうれん
はまさにそうで、
最後
さいご
に
残
のこ
ったものこそ
真
しん
の
黄金
おうごん
です。こんな
形
かたち
の
妨害
ぼうがい
でもなければ、
人間
にんげん
の
修煉
しゅうれん
はあまりにも
易
やさ
しすぎます。わたしから
見
み
ても
易
やさ
しすぎますし、まして
高
たか
い
次元
じげん
にいる
大覚者
だいかくしゃ
から
見
み
れば、「
何
なに
をしているんだ? それが
人間
にんげん
を
済度
さいど
することなのか?」と
不平
ふへい
に
思
おも
われるに
違
ちが
いありません。
進
すす
む
道
みち
に
障害
しょうがい
物
ぶつ
が
一
ひと
つもなく、
一気
いっき
に
最後
さいご
まで
修煉
しゅうれん
しようとするなど、そんなものが
修煉
しゅうれん
と
言
い
えましょうか?
修煉
しゅうれん
すればするほど
楽
らく
になり、
何
なに
も
妨害
ぼうがい
するものもないようでは、お
話
はなし
にもならないではありませんか? というわけで、わたしもその
問題
もんだい
を
考
かんが
えています。
初期
しょき
段階
だんかい
では、このような
魔
ま
をたくさん
処理
しょり
しましたが、いつまでもそれをやり
続
つづ
けるのもいけないと
思
おも
っています。「あなたは
人間
にんげん
の
修煉
しゅうれん
をあまりにも
易
やさ
しくしすぎている。
人間
にんげん
にはせいぜいそれぐらいの
難
なん
しかなく、
人
ひと
と
人
ひと
との
間
あいだ
のこともたかが
知
し
れている。なのにまだ、さまざまな
心
こころ
が
捨
す
てられていない!
迷
まよ
いの
中
なか
で、あなたの
大法
ダーファー
そのものについて
認識
にんしき
できるかどうかも、まだ
問題
もんだい
なのだ!」と、わたしも
大覚者
だいかくしゃ
たちに
言
い
われています。こういう
問題
もんだい
があるので、
妨害
ぼうがい
があり、
試練
しれん
があるのです。
先
さき
ほどお
話
はな
ししたようにこれは
魔
ま
の
一
ひと
つの
形
かたち
です。
本当
ほんとう
に
一人
ひとり
の
人間
にんげん
を
済度
さいど
しようとすることは
非常
ひじょう
に
難
むずか
しく、
人
ひと
を
駄目
だめ
にするのは
実
じつ
に
簡単
かんたん
です。あなた
自身
じしん
の
心
こころ
がちょっと
歪
ゆが
んだだけで、すぐ
駄目
だめ
になります。
主
しゅ
意識
いしき
を
強
つよ
くもつべし
人間
にんげん
が
生
う
まれ
変
か
わる
度
たび
ごとにしてきた
良
よ
くないことは、
人
ひと
に
災
わざわ
いをもたらし、
修煉者
しゅうれんしゃ
に
業力
ごうりき
という
障碍
しょうがい
を
作
つく
ってしまいました。だから
生老病死
しょうろうびょうし
というものがあります。これらは
一般
いっぱん
の
業力
ごうりき
ですが、そのほかに
修煉者
しゅうれんしゃ
への
影響
えいきょう
がきわめて
大
おお
きい、
強烈
きょうれつ
な
業力
ごうりき
もあり、
思想業
しそうごう
というのがそれです。
人間
にんげん
は
生
い
きているかぎり、
物事
ものごと
を
考
かんが
えなければなりません。しかし、
常人
じょうじん
の
中
なか
で
迷
まよ
う
人間
にんげん
が、
名誉
めいよ
、
利益
りえき
、
色欲
しきよく
、
意地
いじ
などのために
生
しょう
じた
意識
いしき
は、
時間
じかん
が
経
た
つにつれて、しだいにある
種
しゅ
の
強
つよ
い
思想
しそう
業力
ごうりき
となってしまいます。なぜならば
他
た
の
空間
くうかん
では、すべてのものに
生命
せいめい
があり、
業
ごう
も
例外
れいがい
ではありません。
人間
にんげん
が
正法
しょうぼう
を
修煉
しゅうれん
するには、
業
ごう
を
消去
しょうきょ
しなければなりません。
業
ごう
を
消去
しょうきょ
するとは
業
ごう
を
滅
めっ
し、
転化
てんか
させることです。
当然
とうぜん
のことながら、
業力
ごうりき
が
承知
しょうち
しないため、
人間
にんげん
には
難
なん
や
障碍
しょうがい
が
現
あら
われてくるのです。しかし、
思想
しそう
業力
ごうりき
は
直接
ちょくせつ
人間
にんげん
の
脳
のう
を
妨害
ぼうがい
することができるため、
師
し
や
大法
ダーファー
を
罵
ののし
ることを
思
おも
いつかせたり、
邪悪
じゃあく
なことや
人
ひと
を
罵
ののし
る
言葉
ことば
を
考
かんが
えさせたりすることがあります。そのため、
一部
いちぶ
の
修煉者
しゅうれんしゃ
はどういうことだったのかが
分
わ
からないまま、
自分
じぶん
がそう
思
おも
ったのだと
誤解
ごかい
してしまいます。また
憑
つ
き
物
もの
のせいだと
思
おも
う
人
ひと
もいますが、しかしそれは
憑
つ
き
物
もの
によるものではなく、
思想
しそう
業
ごう
が
人間
にんげん
の
脳
のう
に
反映
はんえい
されたためにそうなったのです。
主
しゅ
意識
いしき
がしっかりせず、
思想
しそう
業
ごう
に
左右
さゆう
されたまま
悪
わる
いことをする
人
ひと
もいますが、そうなるとその
人
ひと
はもうおしまいで、
堕
お
ちてしまいます。しかしほとんどの
人
ひと
は
強
つよ
い
主観
しゅかん
思想
しそう
(
主
しゅ
意識
いしき
)を
持
も
って、それを
排除
はいじょ
し、それに
対抗
たいこう
することができます。そうであれば、その
人
ひと
は
済度
さいど
できる
人
ひと
です。
善悪
ぜんあく
の
分別
ふんべつ
がつき、つまり
悟性
ごせい
の
良
よ
い
人
ひと
ですので、わたしの
法身
ほうしん
が
手助
てだす
けをして、そのような
思想
しそう
業
ごう
の
大部分
だいぶぶん
を
消去
しょうきょ
してあげるのです。このようなケースは
比較的
ひかくてき
多
おお
く
見
み
られますが、しかしひとたび
思想
しそう
業
ごう
が
現
あら
われてきた
時
とき
に、それに
打
う
ち
勝
か
つことができるかどうかは、
本人
ほんにん
次第
しだい
です。
動揺
どうよう
しない
人
ひと
なら、
業
ごう
を
消
け
すことができます。
心
こころ
を
正
ただ
しくもつべし
心
こころ
が
正
ただ
しくないとはどういうことでしょうか? それはいつも
煉功者
れんこうしゃ
としての
自覚
じかく
が
欠
か
けていることです。
煉功者
れんこうしゃ
は、
修煉
しゅうれん
するにあたって
難
なん
に
遭遇
そうぐう
することがあります。
難
なん
は
人間
にんげん
同士
どうし
の
摩擦
まさつ
に
現
あら
われるかも
知
し
れず、その
時
とき
はいがみ
合
あ
いや
足
あし
の
引
ひ
っ
張
ぱ
り
合
あ
いが
起
お
きて、あなたの
心性
しんせい
を
直撃
ちょくげき
します。これはわりに
多
おお
く
起
お
きることです。その
他
ほか
に、どんなことが
起
お
きるのでしょうか?
急
きゅう
に
身体
からだ
の
調子
ちょうし
がおかしくなったりもします。
業
ごう
の
償
つぐな
いですから、いろいろな
形
かたち
となって
現
あら
われてきます。ある
時期
じき
になると、
功
こう
が
本当
ほんとう
に
存在
そんざい
するのかどうか、
修煉
しゅうれん
はできるものなのか、
果
はた
して
高
たか
い
次元
じげん
へ
修煉
しゅうれん
していけるだろうか、
佛
ほとけ
は
本当
ほんとう
に
存在
そんざい
しているのか、などについて、あなた
自身
じしん
が
紛
まぎ
らわしく
思
おも
い、
迷
まよ
ったりすることが
起
お
きます。
将来
しょうらい
、あなたに
錯覚
さっかく
を
与
あた
えて、それらすべてが
存在
そんざい
しておらず、みんな
偽物
にせもの
だ、とあなたに
思
おも
わせるようなことも
起
お
きるかも
知
し
れません。
動揺
どうよう
するかどうかを
試
ため
すのです。
絶対
ぜったい
動揺
どうよう
しないという
決意
けつい
があり、いざという
時
とき
に
本当
ほんとう
に
動揺
どうよう
しなければ、あなたはおのずと
乗
の
り
越
こ
えることができます。なぜならあなたの
心性
しんせい
がすでに
向上
こうじょう
しているからです。ところが、
今
いま
はあなたはまだそれほど
安定
あんてい
していないので、すぐにこのような
魔難
まなん
を
出現
しゅつげん
させたら、あなたはとても
悟
さと
れず、
修煉
しゅうれん
もまったくできなくなります。あらゆる
方面
ほうめん
から
魔難
まなん
は
現
あら
われてくるものです。
修煉
しゅうれん
する
過程
かてい
においては、
人間
にんげん
はこのようにして
高
たか
い
次元
じげん
へ
修煉
しゅうれん
しなければならないのです。しかし、
体調
たいちょう
がすぐれないと、すぐ
病気
びょうき
にかかったと
思
おも
い
込
こ
む
人
ひと
もいます。どうしても
煉功者
れんこうしゃ
としての
自覚
じかく
を
持
も
たず、ちょっとしたことでも
病気
びょうき
だと
思
おも
い
込
こ
み、「どうして
面倒
めんどう
なことがこんなに
多
おお
いのか?」と
思
おも
ったりします。はっきり
言
い
っておきますが、
多
おお
くのものはすでに
消去
しょうきょ
してあげました。あなたのその
面倒
めんどう
なことは
本来
ほんらい
よりずっと
小
ちい
さくなっており、もし
消去
しょうきょ
してあげなかったら、
今
いま
の
面倒
めんどう
なことに
遭
あ
って
死
し
んでしまったか、
寝
ね
たきりになっているかも
知
し
れません。ちょっとした
面倒
めんどう
なことに
遭
あ
ったぐらいで
我慢
がまん
できないなど、そんな
甘
あま
いことがどこで
通用
つうよう
しますか?
例
れい
を
挙
あ
げましょう。
長春
ちょうしゅん
で
講習会
こうしゅうかい
をした
時
とき
に、
根基
こんき
が
非常
ひじょう
に
良
よ
い
人
ひと
がいて、
素晴
すば
らしい
素材
そざい
だ、とわたしも
気
き
に
入
い
っていました。そこで、
彼
かれ
に
与
あた
える
難
なん
をちょっと
大
おお
きくし、
速
はや
く
借
か
りを
返済
へんさい
させ、
功
こう
を
開
ひら
かせ、
私
わたし
はこのようにするつもりでした。しかしある
日
ひ
、
彼
かれ
は
脳血栓
のうけっせん
になったかのように、ばったり
倒
たお
れてしまいました。
身体
からだ
が
動
うご
けなくなり、
手足
てあし
も
自由
じゆう
が
効
き
かなくなったように
感
かん
じたので、
病
びょう
院
いん
に
運
はこ
ばれました。ところが
間
ま
もなくベッドから
降
お
りられるようになりました。よく
考
かんが
えてみてください。
脳血栓
のうけっせん
になった
場合
ばあい
、こんなに
速
はや
くベッドから
降
お
りられ、
手足
てあし
も
動
うご
けるようになるのでしょうか? しかし、
彼
かれ
は
逆
ぎゃく
に、
法輪大法
ファールンダーファー
を
学
まな
んだせいで
倒
たお
れたのだ、などという
言
い
い
方
かた
をしています。
脳血栓
のうけっせん
がこんなに
速
はや
く
治
なお
るものなのか、
彼
かれ
はよく
考
かんが
えもしませんでした。
仮
かり
に
法輪大法
ファールンダーファー
を
学
まな
んでいなければ、
今日
きょう
ばったり
倒
たお
れたら、そのまま
死
し
んでしまうか、
寝
ね
たきりになって、それこそ
本当
ほんとう
に
脳血栓
のうけっせん
になってしまうかも
知
し
れないのです。
ですから
人間
にんげん
は
済度
さいど
しにくいものだと
言
い
うのです。
彼
かれ
にあれほど
多
おお
くのことをしてあげたのに、
悟
さと
らないだけでなく、
逆
ぎゃく
にあんなことを
言
い
うのです。
古
ふる
くからの
学習者
がくしゅうしゃ
で、わたしにこんなことを
言
い
う
人
ひと
もいました。「
先生
せんせい
、わたしは
身体
からだ
のあちこちの
調子
ちょうし
がおかしくて、よく
病
びょう
院
いん
へ
行
い
きましたが、
注射
ちゅうしゃ
をしてもらっても、
薬
くすり
を
飲
の
んでも、まったく
効
き
き
目
め
がありません。どういうことでしょうか」。よくも
恥
は
ずかしげもなくわたしに
言
い
えたものです!
効
き
かないのは
当然
とうぜん
です。もともと
病
びょう
気
き
ではないのです。どうして
効
き
くでしょうか?
検査
けんさ
してみればよい。どこも
悪
わる
いところがなく、ただ
調子
ちょうし
が
悪
わる
いだけです。ある
学習者
がくしゅうしゃ
は
病
びょう
院
いん
で
注射
ちゅうしゃ
してもらったところ、なんと
注射
ちゅうしゃ
器
き
の
針
はり
が
何本
なんぼん
も
曲
ま
がり、
最後
さいご
には
薬
くすり
も
噴出
ふんしゅつ
してしまって、どうしても
注射
ちゅうしゃ
ができません。そこでやっと「そうか、わたしは
煉功者
れんこうしゃ
だ。
注射
ちゅうしゃ
などしてはいけないのだ」と
分
わ
かり、ようやく
注射
ちゅうしゃ
を
中止
ちゅうし
することにしました。ですから、
魔難
まなん
に
遭
あ
った
時
とき
は、くれぐれもこの
問題
もんだい
に
気
き
をつけてください。わたしが
病
びょう
院
いん
へ
行
い
かせないと
勘違
かんちが
いして、
病
びょう
院
いん
が
駄目
だめ
なら
気
き
功
こう
師
し
に
診
み
てもらおうと
思
おも
う
人
ひと
がいます。どうしても
病
びょう
気
き
だと
思
おも
い
込
こ
み、
気
き
功
こう
師
し
のところへ
行
い
くのです。
本当
ほんとう
の
気
き
功
こう
師
し
がそう
簡単
かんたん
に
見
み
つかりますか? もし
偽
にせ
気
き
功
こう
師
し
だったら、あなたは
即座
そくざ
にやられて
駄目
だめ
になってしまいます。
その
気功
きこう
師
し
が
本物
ほんもの
かどうか、あなたはどうやって
見分
みわ
けられるのですか?
気功
きこう
師
し
の
多
おお
くはただ
自称
じしょう
しているだけです。わたしは
測定
そくてい
のテストを
受
う
けたことがあり、
手元
てもと
に
科学
かがく
研究
けんきゅう
機関
きかん
の
測定
そくてい
資料
しりょう
を
持
も
っています。しかし、
多
おお
くの
気功
きこう
師
し
は
偽物
にせもの
であり、
単
たん
に
自称
じしょう
しているだけで、あちこちで
人々
ひとびと
を
騙
だま
しているのです。
偽
にせ
気功
きこう
師
し
でも、
病気
びょうき
を
治療
ちりょう
することができます。どうしてできるのでしょうか?
彼
かれ
には
何
なに
かが
憑
つ
いているからで、
憑
つ
き
物
もの
がなければ
人
ひと
を
騙
だま
すことさえできません! その
憑
つ
き
物
もの
も
功
こう
を
出
だ
すことができ、
病気
びょうき
を
治
なお
すことができます。それもまたエネルギーなので、
常人
じょうじん
を
操
あやつ
ることはいとも
簡単
かんたん
です。しかしお
話
はな
ししたように、
憑
つ
き
物
もの
が
病気
びょうき
を
治
なお
すという
時
とき
に、あなたの
身体
からだ
に
何
なに
を
送
おく
っているでしょうか?
超
ちょう
ミクロの
世界
せかい
で
見
み
れば、みなその
憑
つ
き
物
もの
の
姿
すがた
です。そんな
憑
つ
き
物
もの
が
身体
からだ
に
乗
の
り
移
うつ
ってきたら、あなたはどうすればいいでしょうか? 「
神
かみ
を
招
まね
くのは
易
やさ
しいが、
送
おく
り
出
だ
すのは
難
むずか
しい」という
言葉
ことば
があります。
常人
じょうじん
のことをとやかく
言
い
っても
仕方
しかた
がありませんが、
常人
じょうじん
のままでよい
人
ひと
は、
一
いち
時
じ
的
てき
に
心地
ここち
よくなればそれで
結構
けっこう
でしょう。しかし、あなたは
煉功者
れんこうしゃ
で、
絶
た
えず
身体
からだ
を
浄化
じょうか
しなければならないのではありませんか? そんな
憑
つ
き
物
もの
が
乗
の
り
移
うつ
ってきたら、いつになったらそれを
排除
はいじょ
できるでしょうか? それに
憑
つ
き
物
もの
にも
一定
いってい
のエネルギーがあります。そこでこう
思
おも
う
人
ひと
がいます。「どうして
法輪
ファールン
が
憑
つ
き
物
もの
の
進入
しんにゅう
を
許
ゆる
すのでしょうか?
先生
せんせい
の
法身
ほうしん
がわれわれを
守
まも
ってくださるのではないのですか?」。この
宇宙
うちゅう
には「
自
みずか
ら
求
もと
めるものには、
誰
だれ
も
干渉
かんしょう
できない」という
理
り
があります。あなた
自身
じしん
が
求
もと
め、
希求
ききゅう
していれば、
誰
だれ
も
干渉
かんしょう
できません。わたしの
法身
ほうしん
はあなたを
止
と
めたり、
悟
さと
らせたりはしますが、いつまでもそんな
状態
じょうたい
にいると
見
み
れば、
無理
むり
やり
修煉
しゅうれん
させるわけにはいかず、あきらめざるを
得
え
ません。
無理
むり
やり、
強制
きょうせい
的
てき
に
修煉
しゅうれん
させることはできないのです。
理
り
も
法
ほう
もはっきり
教
おし
えてあげましたが、それでも
自分自身
じぶんじしん
を
向上
こうじょう
させようとする
意欲
いよく
が
湧
わ
いてこないのだとすると、
誰
だれ
を
恨
うら
むことができますか? あなた
自身
じしん
が
欲
ほ
しがっているから、
法輪
ファールン
もわたしの
法身
ほうしん
も
干渉
かんしょう
しません。これは
絶対
ぜったい
です。また、
他
ほか
の
気功
きこう
師
し
の
講義
こうぎ
会場
かいじょう
へ
講義
こうぎ
を
聞
き
きに
行
い
って、
家
いえ
に
帰
かえ
ったら、
身体
からだ
の
調子
ちょうし
が
悪
わる
くなった
人
ひと
がいますが、それは
当然
とうぜん
なことです。なぜ
法身
ほうしん
があなたを
守
まも
ってあげなかったのでしょうか? あなたはなぜ
行
い
ったのですか。
聞
き
きに
行
い
って、
求
もと
めていたのではありませんか?
耳
みみ
に
入
い
れようと
思
おも
わなければ、それがどうやって
耳
みみ
に
入
はい
ったのでしょうか? また、
自分
じぶん
の
法輪
ファールン
まで
変形
へんけい
させた
人
ひと
もいますが、はっきり
言
い
いますが、この
法輪
ファールン
はあなたの
命
いのち
よりも
貴重
きちょう
なのです。それは
一種
いっしゅ
の
高
たか
い
次元
じげん
の
生命体
せいめいたい
で、
勝手
かって
に
壊
こわ
してはいけません。いま、
偽
にせ
気功
きこう
師
し
がたくさんいて、
中
なか
にはとても
有名
ゆうめい
な
人
ひと
もいます。この
間
あいだ
、
中国
ちゅうごく
気功
きこう
科学
かがく
研究
けんきゅう
会
かい
の
責任
せきにん
者
しゃ
に
次
つぎ
のような
話
はなし
をしました。
古代
こだい
に、
妲己
だっき
が
朝廷
ちょうてい
に
災
わざわ
いをもたらし、あの
狐
きつね
は
相当
そうとう
暴
あば
れましたが、それでも
今
いま
の
偽物
にせもの
の
気功
きこう
には
及
およ
びません。
偽物
にせもの
の
気功
きこう
が
中国
ちゅうごく
全体
ぜんたい
に
災難
さいなん
をもたらし、
数
かぞ
え
切
き
れないほどの
人
ひと
がひどい
目
め
に
遭
あ
わされています!
見
み
たところ
健全
けんぜん
そうですが、どれほど
多
おお
くの
人
ひと
の
身体
からだ
にそういうものが
付
つ
いているでしょうか? それが
発
はっ
せられると、すぐ
乗
の
り
移
うつ
ってくるので、
猖獗
しょうけつ
をきわめています。
常人
じょうじん
にはただ
外観
がいかん
だけからではなかなかそれが
分
わ
からないのです。
「
今日
きょう
、この
気功
きこう
講演
こうえん
会
かい
に
出
で
て、
李洪志
りこうし
からいろいろ
聞
き
いて、
気功
きこう
がこんなに
奥深
おくぶか
いものだったのか!
今度
こんど
、どこかで
他
ほか
の
気功
きこう
講演
こうえん
会
かい
があれば、それもまた
聞
き
きに
行
い
こう」と
思
おも
う
人
ひと
がいるかも
知
し
れません。
忠告
ちゅうこく
しておきますが、
決
けっ
して
行
い
ってはいけません。
聞
き
けば、
良
よ
くないものがすぐ
耳
みみ
に
入
はい
り
込
こ
んでしまいます。
一人
ひとり
の
人間
にんげん
を
済度
さいど
するのはきわめて
難
むずか
しいことで、あなたの
考
かんが
えを
直
なお
すことも
難
むずか
しく、あなたの
身体
からだ
を
調整
ちょうせい
することもきわめて
難
むずか
しいのです。
偽
にせ
気功
きこう
師
し
はいくらでもおり、たとえ
本当
ほんとう
の
正法
しょうぼう
伝授
でんじゅ
を
受
う
けた
気功
きこう
師
し
でも、
本当
ほんとう
にきれいなのでしょうか?
非常
ひじょう
に
凶暴
きょうぼう
な
動物
どうぶつ
もおり、その
気功
きこう
師
し
本人
ほんにん
の
身体
からだ
には
乗
の
り
移
うつ
れないにしても、
彼
かれ
にはそれを
追
お
い
払
はら
う
力
ちから
がありません。
彼
かれ
は
多
おお
くのさまざまな
憑
つ
き
物
もの
に
対抗
たいこう
する
力
ちから
は
持
も
っていません。
特
とく
に
彼
かれ
の
弟子
でし
はなおさらです。
彼
かれ
らの
出
だ
した
功
こう
には、さまざまなものが
入
い
り
交
ま
じり、いろいろなものがあります。その
気功
きこう
師
し
自身
じしん
はまともであっても、
彼
かれ
の
弟子
でし
はそうではなく、さまざまな
憑
つ
き
物
もの
がついているのです。
あなたが
本当
ほんとう
に
法輪大法
ファールンダーファー
を
修煉
しゅうれん
しようとすれば、
聞
き
きに
行
い
ってはいけません。もちろん、
法輪大法
ファールンダーファー
を
修煉
しゅうれん
するつもりがなければ、つまり
何
なん
でも
練
ね
りたければ、
聞
き
きに
行
い
ってかまいません。
私
わたし
はあなたのことに
干渉
かんしょう
しませんし、あなたは
法輪大法
ファールンダーファー
の
弟子
でし
ではありません。
何
なに
か
問題
もんだい
が
起
お
こっても、
法輪大法
ファールンダーファー
のせいにしないでください。
心性
しんせい
の
基準
きじゅん
で
己
おのれ
を
律
りっ
し、
大法
ダーファー
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
してはじめて
本当
ほんとう
の
法輪大法
ファールンダーファー
の
人
ひと
になれます。ある
人
ひと
は、「
他
ほか
の
気功
きこう
をやっている
人
ひと
と
付
つ
き
合
あ
ってもいいですか?」と
聞
き
きました。
相手
あいて
はただ
気功
きこう
をやっているに
過
す
ぎませんが、あなたは
大法
ダーファー
を
修煉
しゅうれん
しているのです。この
講習会
こうしゅうかい
を
受講
じゅこう
し
終
お
わった
時点
じてん
で、あなたとその
人
ひと
の
次元
じげん
の
差
さ
がどれほど
大
おお
きいか
計
はか
り
知
し
れません。この
法輪
ファールン
は、
幾代
いくだい
もの
人
ひと
が
修煉
しゅうれん
して
形成
けいせい
したもので、
強大
きょうだい
な
威力
いりょく
を
持
も
っています。もちろん、
付
つ
き
合
あ
いたければ、
相手
あいて
からどんなものも
受
う
け
入
い
れず、もらわず、ただ
普通
ふつう
の
友人
ゆうじん
として
付
つ
き
合
あ
うなら
差
さ
し
支
つか
えありません。しかし、もし
相手
あいて
が
本当
ほんとう
に
何
なに
かに
憑
つ
かれていれば、それはまずい。
付
つ
き
合
あ
わないほうが
無難
ぶなん
です。
夫婦
ふうふ
で
違
ちが
う
気功
きこう
をやっている
場合
ばあい
がありますが、それはあまり
問題
もんだい
になりません。あなたは
正法
しょうぼう
を
修煉
しゅうれん
しているので、
一人
ひとり
が
煉功
れんこう
すれば、まわりの
者
もの
に
恩恵
おんけい
を
与
あた
えることになります。
配偶
はいぐう
者
しゃ
が
邪道
じゃどう
をやっている
場合
ばあい
、
邪道
じゃどう
のものが
憑
つ
いているかも
知
し
れないので、あなたの
安全
あんぜん
のために、
配偶
はいぐう
者
しゃ
の
身体
からだ
も
浄
きよ
めてあげるのです。
他
た
の
空間
くうかん
では、
何
なん
でも
浄
きよ
めてあげなければなりません。
家庭
かてい
の
環境
かんきょう
まで
浄
きよ
めなければなりません。
環境
かんきょう
を
浄
きよ
めてあげなければ、さまざまなものに
妨
さまた
げられることになり、あなたはどうやって
煉功
れんこう
できるでしょうか?
しかし、
一
ひと
つだけ、わたしの
法身
ほうしん
が
浄
きよ
めてあげられない
場合
ばあい
があります。ある
学習者
がくしゅうしゃ
がある
日
ひ
、わたしの
法身
ほうしん
が
家
いえ
にやって
来
く
るのを
見
み
て、
大喜
おおよろこ
びしました。
先生
せんせい
の
法身
ほうしん
が
来
き
てくださったのだから、「どうぞお
上
あ
がりください」と
言
い
いましたが、わたしの
法身
ほうしん
は「この
部屋
へや
は
大変
たいへん
乱
みだ
れている。ものが
多
おお
すぎる」と
言
い
い
残
のこ
して、
帰
かえ
っていきました。
一般
いっぱん
的
てき
には、
他
た
の
空間
くうかん
の
霊体
れいたい
が
溢
あふ
れているような
時
とき
には、わたしの
法身
ほうしん
はそれを
整理
せいり
し
片付
かたづ
けてあげます。しかし
彼
かれ
の
部屋
へや
にはでたらめな
気功
きこう
読本
どくほん
がいっぱい
散
ち
らかっていました。
彼
かれ
はそれが
分
わ
かりましたので、それらの
本
ほん
を
燃
も
やしたり、
売
う
ったりして、
片付
かたづ
けました。そうすると、その
後
ご
、わたしの
法身
ほうしん
がまた
来
き
てくれたと
言
い
うのです。これは
学習者
がくしゅうしゃ
がわたしに
話
はな
したことです。
人
ひと
に
占
うらな
ってもらう
人
ひと
もいます。ある
人
ひと
はわたしにこう
尋
たず
ねました。「
先生
せんせい
、わたしは
法輪大法
ファールンダーファー
を
修煉
しゅうれん
していますが、『
周
しゅう
易
えき
』や
占
うらな
い
関係
かんけい
のものに
興味
きょうみ
があり、これからもそういうものを
使
つか
っていいでしょうか?」。これにはこう
答
こた
えましょう。あなたがもし
一定
いってい
のエネルギーを
持
も
っている
場合
ばあい
には、あなたが
言
い
ったことは
必
かなら
ず
作用
さよう
するのです。そうでないことをあなたがそうだと
言
い
えば、
本当
ほんとう
にそうなってしまいます。そうなると、あなたは
悪
わる
いことをしたことになります。
常人
じょうじん
はきわめて
弱
よわ
いもので、その
人
ひと
に
関
かん
する
信息
しんそく
も
不安定
ふあんてい
で、
変化
へんか
の
可能
かのう
性
せい
が
十分
じゅうぶん
ありうるのです。あなたが
口
くち
に
出
だ
して
言
い
ってしまうと、ある
難
なん
が
本当
ほんとう
に
実在
じつざい
してしまうかも
知
し
れません。
業力
ごうりき
の
大
おお
きい
人
ひと
であれば、その
借
か
りを
返
かえ
さなければなりません。なのに、あなたがいつも
彼
かれ
に
良
よ
いことがあると
言
い
ってあげたりすると、
業力
ごうりき
の
返済
へんさい
ができなくなるのではありませんか? あなたは
人
ひと
に
害
がい
を
与
あた
えていることになりはしませんか? どうしてもそういうものが
捨
す
てられなくて、
執着
しゅうちゃく
している
人
ひと
がおり、いかにも
大
たい
した
腕
うで
があるように
振舞
ふるま
っていますが、それは
執着
しゅうちゃく
ではないでしょうか? しかも、あなたが
本当
ほんとう
に
知
し
っている
場合
ばあい
でも、
煉功者
れんこうしゃ
として
自
みずか
ら
心性
しんせい
を
守
まも
るためには、
勝手
かって
に
常人
じょうじん
に
天機
てんき
を
漏
も
らしてはならない、という
理
り
があるのです。『
周
しゅう
易
えき
』で
本当
ほんとう
かどうかをどんなに
推定
すいてい
しても、
一部
いちぶ
のものはそもそもすでに
真実
しんじつ
ではなくなっています。
常人
じょうじん
社会
しゃかい
では、
占
うらな
いというものの
存在
そんざい
が
許
ゆる
されます。あなたが
本当
ほんとう
に
功
こう
を
持
も
っている
人
ひと
なら、わたしに
言
い
わせれば、
本当
ほんとう
の
煉功者
れんこうしゃ
こそ、
高
たか
い
基準
きじゅん
で
自分
じぶん
を
律
りっ
しなければなりません。しかしまた、
他人
たにん
に
頼
たの
んで
占
うらな
ってもらう
人
ひと
もいます。「
僕
ぼく
の
運勢
うんせい
はどうなの?
煉功
れんこう
はどこまで
進
すす
んでいるの?
何
なに
か
難
なん
はないだろうか
占
うらな
ってほしい」などと
人
ひと
に
占
うらな
ってもらいます。もし、
占
うらな
いで
難
なん
が
来
く
ることが
分
わ
かってしまえば、あなたはどうやって
向上
こうじょう
するのでしょうか?
煉功者
れんこうしゃ
の
一生
いっしょう
はすでに
変
か
えられており、
手相
てそう
、
人相
にんそう
、
生年月日
せいねんがっぴ
などによるものは、
身体
からだ
に
所持
しょじ
している
信息
しんそく
などとすでに
違
ちが
っており、
変
か
えられています。
人
ひと
に
占
うらな
ってもらう
時
とき
、あなたはすでに
彼
かれ
の
言
い
うことを
信
しん
じています。でなければ、どうして
占
うらな
ってもらおうとするのでしょうか?
彼
かれ
に
言
い
えるのは
表面
ひょうめん
的
てき
なもので、
以前
いぜん
のあなたのことです。しかしあなたの
実質
じっしつ
はすでに
変
か
わっています。よく
考
かんが
えてみてください。
人
ひと
に
見
み
てもらった
以上
いじょう
、それを
聞
き
き入れ、
信
しん
じてしまうのではありませんか? それによって、
精神
せいしん
的
てき
に
負担
ふたん
がかかってくるのではありませんか?
負担
ふたん
がかかると、
気
き
が
気
き
ではなくなりますが、それは
執着心
しゅうちゃくしん
ではありませんか? この
執着心
しゅうちゃくしん
をどうやって
取
と
り
除
のぞ
けばよいでしょうか? これによって、
人為的
じんいてき
に
難
なん
をまた
一
ひと
つ
増
ふ
やしただけではありませんか?
新
あたら
しく
生
しょう
じた
執着心
しゅうちゃくしん
は、よけいに
多
おお
くの
苦
くる
しみに
耐
た
えて、はじめて
取
と
り
除
のぞ
くことができるのではありませんか?
一
ひと
つ
一
ひと
つの
難
なん
関
かん
に、
修煉
しゅうれん
して
向上
こうじょう
していくか
堕
お
ちていくかの
問題
もんだい
がかかっています。ただでさえ
難
むずか
しいのに、さらに
人為的
じんいてき
に
難
なん
を
作
つく
ってしまえば、どうやって
乗
の
り
越
こ
えていくのでしょうか? ほかでもないこのことによって、あなたは
難
なん
や
厄介
やっかい
なことに
遭遇
そうぐう
するかも
知
し
れません。あなたの
変
か
えられたあとの
人生
じんせい
の
道
みち
は、
人
ひと
に
見
み
られてはいけないものです。
人
ひと
がそれを
見
み
ていつどの
段階
だんかい
に
難
なん
があると
教
おし
えてくれたとすれば、あなたはどうやって
修煉
しゅうれん
していけるでしょうか? ですから、
絶対
ぜったい
に
見
み
てもらってはならないのです。
他
た
の
法門
ほうもん
の
誰
だれ
に
見
み
てもらってもいけないばかりでなく、
同
おな
じ
法門
ほうもん
の
弟子
でし
に
見
み
てもらってもいけません。そもそも
誰
だれ
も
言
い
い
当
あ
てることはできません。なぜなら、あなたの
生涯
しょうがい
はすでに
変
か
えられており、
修煉
しゅうれん
するための
生涯
しょうがい
となっているからです。
「
他
ほか
の
宗教
しゅうきょう
の
本
ほん
や
気功
きこう
の
本
ほん
を
読
よ
んでいいでしょうか?」と
尋
たず
ねる
人
ひと
がいます。
宗教
しゅうきょう
の
本
ほん
、
特
とく
に
佛教
ぶっきょう
の
本
ほん
は、いずれも
人々
ひとびと
にいかにして
心性
しんせい
を
修煉
しゅうれん
するかを
教
おし
えるものです。われわれも
佛家
ぶっけ
ですから、
問題
もんだい
はないはずです。しかし
一
ひと
つだけ、
多
おお
くの
経典
きょうてん
は、
翻訳
ほんやく
する
際
さい
に、すでに
一部
いちぶ
の
内容
ないよう
に
誤
あやま
りがありました。それに
加
くわ
えて、
多
おお
くの
経典
きょうてん
の
解釈
かいしゃく
は
異
こと
なった
次元
じげん
で
行
おこ
なわれ、
勝手
かって
な
定義
ていぎ
を
与
あた
えられています。それこそ
法
ほう
を
乱
みだ
すことです。
勝手
かって
に
経典
きょうてん
を
解釈
かいしゃく
している
人
ひと
は、
佛
ほとけ
の
境地
きょうち
からあまりにも
遠
とお
く、
本当
ほんとう
の
内容
ないよう
をまったく
理解
りかい
していないので、
物事
ものごと
に
対
たい
する
認識
にんしき
も
違
ちが
っています。
経典
きょうてん
の
内容
ないよう
を
完全
かんぜん
に
理解
りかい
することは
決
けっ
して
容易
ようい
なことではなく、
自分
じぶん
だけで
理解
りかい
して
悟
さと
ることは
難
むずか
しいのです。しかし、あなたは「わたしはどうしても
経典
きょうてん
に
興味
きょうみ
がある」と
言
い
うかも
知
し
れません。いつも
経典
きょうてん
を
中心
ちゅうしん
に
学
まな
ぶのなら、その
法門
ほうもん
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
することになります。なぜかと
言
い
いますと、
経典
きょうてん
もその
一門
いちもん
の
功
こう
と
法
ほう
を
合
あ
わせたもので、
経典
きょうてん
を
学
まな
べば、その
法門
ほうもん
のものを
学
まな
んだことになります。このような
問題
もんだい
が
絡
から
んでいるのです。もしある
経典
きょうてん
の
中
なか
に
入
はい
り
込
こ
んで、それに
従
したが
って
修煉
しゅうれん
すれば、その
法門
ほうもん
に
行
い
ってしまうかも
知
し
れないので、われわれの
法門
ほうもん
ではなくなります。
修煉
しゅうれん
は、
昔
むかし
から「
不二法門
ふじほうもん
」のことが
重
おも
んじられており、
本当
ほんとう
にこの
法門
ほうもん
で
修煉
しゅうれん
しようとするならば、この
法門
ほうもん
の
経
きょう
だけにしてください。
気功
きこう
の
本
ほん
については、
修煉
しゅうれん
したければ、
読
よ
まないようにと
忠告
ちゅうこく
しておきます。
特
とく
にこの
頃
ごろ
刊行
かんこう
されたものは
読
よ
まないことです。『
黄帝内経
こうていないけい
』とか、『
性命圭旨
せいめいけいし
』、あるいは『
道蔵
どうぞう
』の
類
たぐ
いも
同
おな
じです。それらの
本
ほん
には
悪
わる
い
事
こと
は
書
か
かれていませんが、さまざまな
次元
じげん
の
信息
しんそく
が
含
ふく
まれています。それ
自身
じしん
が
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
なので、
読
よ
むと、あなたに
入
はい
ってしまい、
乱
みだ
れてしまいます。ここは
一理
いちり
あると
思
おも
っただけで、それが
出
で
てきて、あなたの
功
こう
に
加
くわ
えられます。
別
べつ
に
悪
わる
いものではなくても、
突然
とつぜん
異物
いぶつ
が
加
くわ
えられたら、どうやって
修煉
しゅうれん
を
続
つづ
けることができるでしょうか? やはり
問題
もんだい
が
起
お
きるのではありませんか? テレビの
電子
でんし
部品
ぶひん
に
異質
いしつ
なものを
一
ひと
つでも
余計
よけい
に
取
と
り
付
つ
ければ、このテレビはどうなると
思
おも
いますか? すぐ
故障
こしょう
してしまいます。それと
同
おな
じ
理屈
りくつ
です。それに、この
頃
ごろ
の
気功
きこう
書
しょ
にはインチキなものが
多
おお
く、さまざまな
信息
しんそく
が
入
はい
っているのです。われわれの
学習者
がくしゅうしゃ
の
一人
ひとり
が
気功
きこう
書
しょ
をめくってみたら、
中
なか
から
大蛇
だいじゃ
が
一匹
いっぴき
飛
と
び
出
だ
してきました。
詳
くわ
しいことは
話
はな
したくありません。
以上
いじょう
は、
煉功者
れんこうしゃ
が
自分
じぶん
自身
じしん
に
正
ただ
しく
対処
たいしょ
できないことによって、
引
ひ
き
起
お
こされた
厄介
やっかい
なこと、
言
い
い
換
か
えれば、
心
こころ
が
正
ただ
しくないため
招
まね
いた
厄介
やっかい
なことについてお
話
はな
ししました。これらのことを
明
あき
らかにすれば、
将来
しょうらい
問題
もんだい
が
起
お
こらないようにどうすればよいのか、どうやって
弁別
べんべつ
できるかを、
皆
みな
さんに
知
し
ってもらうのに
役
やく
に
立
た
つと
思
おも
います。いまの
話
はなし
は、それほど
厳
きび
しく
言
い
っていないように
聞
き
こえるかも
知
し
れませんが、
往々
おうおう
にしてこの
点
てん
において
問題
もんだい
が
起
お
こり、
往々
おうおう
にしてこのあたりで
問題
もんだい
が
起
お
こりますので、くれぐれも
注意
ちゅうい
してください。
修煉
しゅうれん
はきわめて
苦
くる
しく、
非常
ひじょう
に
厳粛
げんしゅく
なことです。ちょっとでも
油断
ゆだん
すれば、
堕
お
ちてしまい、
長
なが
い
間
あいだ
の
努力
どりょく
が
一瞬
いっしゅん
にして
台
だい
なしになるかも
知
し
れないのです。ですから
心
こころ
を
必
かなら
ず
正
ただ
しくもたなければなりません。
武術
ぶじゅつ
気功
きこう
内修
ないしゅう
の
功法
こうほう
以外
いがい
に、
武術
ぶじゅつ
気功
きこう
というのもあります。
武術
ぶじゅつ
気功
きこう
をお
話
はな
しする
前
まえ
に、
今
いま
修煉界
しゅうれんかい
にたくさんの
気功
きこう
の
説
せつ
があるということについて、
一言
ひとこと
強
つよ
く
言
い
わなければなりません。
昨今
さっこん
は
美術
びじゅつ
気功
きこう
だの、
音楽
おんがく
気功
きこう
だの、
書道
しょどう
気功
きこう
だの、
舞踊
ぶよう
気功
きこう
だのが
現
あら
われてきました。
何
なに
から
何
なに
まで、みな
気功
きこう
なのでしょうか? わたしは
不思議
ふしぎ
に
思
おも
いました。それは
気功
きこう
をかき
乱
みだ
している、いやかき
乱
みだ
しているどころか、まったく
気功
きこう
を
踏
ふ
みにじっているのです。それらの
理論
りろん
的
てき
根拠
こんきょ
は
何
なん
なのでしょうか?
絵
え
を
画
えが
く
時
とき
、
歌
うた
を
歌
うた
う
時
とき
、
踊
おど
る
時
とき
、
字
じ
を
書
か
く
時
とき
に、ある
恍惚
こうこつ
とした
状態
じょうたい
、いわゆる
気功
きこう
態
たい
に
入
はい
れば、
気功
きこう
だと
言
い
えるのですか? そんなふうに
認識
にんしき
してはいけません。それは
気功
きこう
を
踏
ふ
みにじるものではありませんか?
気功
きこう
は
間口
まぐち
が
広
ひろ
く、
奥行
おくゆ
きも
深
ふか
い、
人体
じんたい
修煉
しゅうれん
の
学問
がくもん
です。
恍惚
こうこつ
とした
状態
じょうたい
だけで
気功
きこう
と
言
い
えるのですか? では、
恍惚
こうこつ
としながら
便所
べんじょ
へ
行
い
くのは
何
なに
になりますか?
気功
きこう
を
踏
ふ
みにじっているのではありませんか?
間違
まちが
いなく
踏
ふ
みにじっているのです。
一昨年
いっさくねん
の「
東方
とうほう
健康
けんこう
博覧
はくらん
会
かい
」で、
書道
しょどう
気功
きこう
とかいうものがありました。
書道
しょどう
気功
きこう
とはどんなものかと
覗
のぞ
きに
行
い
ったら、その
気功
きこう
の
人
ひと
が
筆
ふで
で
字
じ
を
書
か
いていて、
書
か
き
終
お
わったら、
一
いち
字
じ
ずつに、
掌
てのひら
から
気
き
を
発
はっ
しましたが、
発
はっ
せられた
気
き
は
真
ま
っ
黒
くろ
でした。
頭
あたま
に
金
かね
と
名誉
めいよ
のことしか
考
かんが
えていないのに、
功
こう
などありえますか? その
気
き
もろくなものではないはずです。なのに、
高
たか
い
値段
ねだん
を
付
つ
けて
売
う
っていました。しかし
買
か
う
人
ひと
は
外国人
がいこくじん
ばかりでした。それを
買
か
った
人
ひと
はひどい
目
め
に
遭
あ
うに
違
ちが
いありません。
真
ま
っ
黒
くろ
な
気
き
など、ろくなことはありません。その
人
ひと
自身
じしん
も
顔色
かおいろ
が
黒
くろ
くて、
金
かね
の
穴
あな
に
首
くび
を
突
つ
っ
込
こ
んでおり、
金
かね
のことしか
考
かんが
えていないのに、
功
こう
などありえますか? しかし、
名刺
めいし
には
肩書
かたが
きがいっぱい
並
なら
べられており、
国際
こくさい
書道
しょどう
気
き
功
こう
などと
書
か
かれていました。こんなものでも
気
き
功
こう
と
言
い
えるでしょうか?
よく
考
かんが
えてみてください。この
講習会
こうしゅうかい
から
帰
かえ
ると、
八
はち
割
わり
、
九
きゅう
割
わり
の
人
ひと
は
病気
びょうき
が
治
なお
っただけではなく、
功
こう
、
本物
ほんもの
の
功
こう
が
出
で
てくるのです。あなたの
身
み
に
付
つ
いているものはすでにかなり
超常的
ちょうじょうてき
なもので、
自分
じぶん
一人
ひとり
での
修煉
しゅうれん
なら、
一生
いっしょう
かかってもそれは
得
え
られません。たとえ
若者
わかもの
が
今
いま
から
修煉
しゅうれん
し
始
はじ
めたとして、
一生
いっしょう
かかっても、わたしが
与
あた
えたこれらのものは
得
え
られないでしょう。しかもそれは
正真正銘
しょうしんしょうめい
の
明師
めいし
に
教
おそ
わる
場合
ばあい
の
話
はなし
です。われわれは
何
なん
代
だい
もの
人
ひと
の
積
つ
み
重
かさ
ねによって、この
法輪
ファールン
とこれらの
機
き
制
せい
を
形作
かたちづく
ってきましたが、それをいっぺんにあなたに
植
う
えつけたのです。ですから、
簡単
かんたん
に
手
て
に
入
い
れたからといって、
簡単
かんたん
にそれを
失
うしな
ったりしないように、
皆
みな
さんに
忠告
ちゅうこく
しておきます。これは
何
なに
よりも
貴重
きちょう
なもので、どんな
価値
かち
をもってしても
量
はか
れないものです。この
講習会
こうしゅうかい
から
帰
かえ
ると、あなたは
本物
ほんもの
の
功
こう
、
高
こう
エネルギーの
物質
ぶっしつ
を
持
も
つようになります。
家
いえ
に
帰
かえ
って
字
じ
を
書
か
けば、
上手
じょうず
か
下手
へた
かは
別
べつ
として、それに
功
こう
が
入
はい
っています! だからといって、
講習会
こうしゅうかい
を
卒業
そつぎょう
したら、みな
名前
なまえ
に「
師
し
」をつけて、
誰
だれ
でも
書道
しょどう
気功師
きこうし
になっていいのでしょうか? こんなふうに
物事
ものごと
を
見
み
てはいけません。
本当
ほんとう
に
功
こう
のある
人
ひと
、エネルギーを
持
も
っている
人
ひと
は、
意識
いしき
的
てき
にそれを
発
はっ
する
必要
ひつよう
はありません。
触
さわ
ったものすべてにエネルギーが
残
のこ
り、ぴかぴかと
光
ひか
るのです。
ある
雑誌
ざっし
に、
書道
しょどう
気功
きこう
講習会
こうしゅうかい
の
記事
きじ
が
載
の
っていました。どうやって
教
おし
えるのかとめくってみたら、こう
書
か
かれていました。まず
呼吸
こきゅう
を
整
ととの
え、
息
いき
を
吸
す
って、それから
坐禅
ざぜん
して、
丹田
たんでん
に
意識
いしき
を
集中
しゅうちゅう
させる。
十五分
じゅうごふん
から
三十分
さんじゅっぷん
ぐらい
坐禅
ざぜん
して、イメージで
丹田
たんでん
の
気
き
を
腕
うで
に
引
ひ
き
上
あ
げてから、
筆
ふで
を
執
と
り
墨汁
ぼくじゅう
をつけて、それから
気
き
を
筆先
ふでさき
に
運
はこ
ぶ。
意念
いねん
がそこに
達
たっ
すると
字
じ
を
書
か
き
始
はじ
める、と
言
い
うのです。これは
詐欺
さぎ
ではありませんか?
気
き
をどこそこに
引
ひ
き
上
あ
げたら、
何々
なになに
気功
きこう
というのですか? では、ご
飯
はん
を
食
た
べる
前
まえ
にちょっと
坐禅
ざぜん
をして、
箸
はし
の
先
さき
に
気
き
を
運
はこ
んでから
食
た
べれば、それは
食事
しょくじ
気功
きこう
ということになるのですか? それなら
食
た
べたものもすべてエネルギーと
言
い
えるのですか? こういうことが
行
おこ
なわれているのです。これでは
気功
きこう
を
踏
ふ
みにじっていることになります。
気功
きこう
が
底
そこ
の
浅
あさ
いものと
見
み
られていますが、そういうふうに
見
み
てはいけません。
ところが
武術
ぶじゅつ
気功
きこう
は、
独立
どくりつ
した
気功
きこう
の
一門
いちもん
と
言
い
えます。なぜかと
言
い
いますと、それには
何千年
なんぜんねん
もの
伝承
でんしょう
過程
かてい
があって、まとまった
修煉
しゅうれん
の
理論
りろん
と
修煉
しゅうれん
方法
ほうほう
があるので、
整
ととの
ったものと
見
み
なすことができるからです。とはいえ
武術
ぶじゅつ
気功
きこう
は、
内
ない
修
しゅう
の
功法
こうほう
において、
最
もっと
も
次元
じげん
の
低
ひく
いものです。
硬性
こうせい
気功
きこう
は
一種
いっしゅ
のエネルギー
物質
ぶっしつ
の
固
かた
まりで、
単
たん
に
格闘
かくとう
のためのものです。
例
れい
を
一
ひと
つ
挙
あ
げましょう。
北京
ぺきん
のある
学習者
がくしゅうしゃ
は、われわれ
法輪大法
ファールンダーファー
の
講習会
こうしゅうかい
を
卒業
そつぎょう
してから、
手
て
に
不思議
ふしぎ
な
力
ちから
がついてしまいました。ベビーカーを
買
か
いに
店
みせ
へ
行
い
きましたが、
丈夫
じょうぶ
かどうか
試
ため
そうと
思
おも
ってちょっと
押
お
しただけで、ベビーカーがばらばらになってしまいました。
彼
かれ
は
不思議
ふしぎ
に
思
おも
いました。
家
いえ
に
帰
かえ
って
腰掛
こしか
けようと、
椅子
いす
をちょっと
押
お
したら、
椅子
いす
も
砕
くだ
けてしまいました。わたしにどういうことなのかと
尋
たず
ねてきましたが、
執着心
しゅうちゃくしん
を
引
ひ
き
起
お
こしてはいけないと
思
おも
いましたので、
教
おし
えてあげませんでした。それは
自然
しぜん
な
状態
じょうたい
で、とにかくいいことだから、
自然
しぜん
に
任
まか
せて、
構
かま
わないように、と
言
い
ってあげました。この
功能
こうのう
をうまく
使
つか
えば、
石
いし
でも
握
にぎ
った
途端
とたん
、
粉々
こなごな
になります。それが
硬性
こうせい
気功
きこう
ではありませんか? しかし、その
人
ひと
は
別
べつ
に
硬性
こうせい
気功
きこう
をやったことはなかったのです。
内修
ないしゅう
の
功法
こうほう
においてもこのような
功能
こうのう
が
普通
ふつう
に
現
あら
われます。しかし
心性
しんせい
の
制御
せいぎょ
が
難
むずか
しいので、
功能
こうのう
が
現
あら
われても
使
つか
わせません。
特
とく
に、
低
ひく
い
次元
じげん
で
修煉
しゅうれん
している
間
あいだ
は、
心性
しんせい
がまだ
上
あ
がってきていないため、
低
てい
次元
じげん
で
現
あら
われるこのような
功能
こうのう
を
表
おもて
に
出
だ
させないようにしています。
時間
じかん
が
経
た
つにつれて
次元
じげん
が
向上
こうじょう
してきたら、そんなものも
用途
ようと
がなくなりますので、
表
おもて
に
出
で
なくなります。
武術
ぶじゅつ
気功
きこう
はどうやって
練
ね
るのでしょうか?
武術
ぶじゅつ
気功
きこう
を
練
ね
るには、
気
き
を
運
はこ
ぶことが
重
おも
んじられています。しかし
初
はじ
めは
思
おも
い
通
どお
りに
気
き
を
運
はこ
べません。
運
はこ
ぼうと
思
おも
って
運
はこ
べるようなものではなく、なかなかうまくいかないものです。どうすればいいでしょうか? まず、
手
て
や
身体
からだ
の
両側
りょうがわ
の
肋骨
ろっこつ
、あるいは
足
あし
、すね、
腕
うで
、
頭
あたま
などから
鍛
きた
えます。どう
鍛
きた
えるのでしょうか?
手
て
や
掌
てのひら
で
木
き
を
叩
たた
いたりする
人
ひと
もいれば、
手
て
で
石
いし
をパンパンと
叩
たた
いたりする
人
ひと
もいます。
骨
ほね
がぶつかって
痛
いた
くないはずがありません。ちょっと
力
ちから
を
入
い
れると、
血
ち
も
出
で
てきます。そこまでやってみても、
気
き
は
思
おも
う
通
とお
りになりません。どうしましょう?
今度
こんど
は
力
ちから
いっぱい
腕
うで
を
振
ふ
ります。
血
ち
を
逆流
ぎゃくりゅう
させてしまうので、
腕
うで
と
手
て
が
腫
は
れ
上
あ
がってきます。
本当
ほんとう
に
腫
は
れてくるので、それから
石
いし
を
叩
たた
くと、
骨
ほね
にクッションができて
直接
ちょくせつ
石
いし
に
当
あ
たらず、それほど
痛
いた
くなくなります。
練功
れんこう
を
続
つづ
けているうちに、
師
し
に
教
おそ
わりながら
徐々
じょじょ
に、
気
き
を
運
はこ
ぶことができるようになります。しかし、
気
き
を
運
はこ
べるだけではまだ
駄目
だめ
です。
本当
ほんとう
に
格闘
かくとう
する
時
とき
、
相手
あいて
は
待
ま
ってくれません。もちろん、
気
き
を
運
はこ
べるようになった
時
とき
は、すでに
殴
なぐ
られても
耐
た
えられるようになっています。かなり
太
ふと
い
棒
ぼう
で
殴
なぐ
られても、
気
き
を
運
はこ
ぶと
膨
ふく
らんでくるから、
痛
いた
くないのです。しかし、
気
き
は
初期
しょき
の
最
もっと
も
原始
げんし
的
てき
なもので、
練功
れんこう
が
進
すす
めば、
高
こう
エネルギーの
物質
ぶっしつ
に
転化
てんか
されます。
高
こう
エネルギーの
物質
ぶっしつ
に
転化
てんか
された
時
とき
、
徐々
じょじょ
に
密度
みつど
の
高
たか
いエネルギーの
固
かた
まりができます。その
固
かた
まりは
霊的
れいてき
なものを
持
も
っているので、
功能
こうのう
の
固
かた
まりでもあり、つまり
一種
いっしゅ
の
功能
こうのう
です。しかし、それは
格闘
かくとう
に
使
つか
われ、
殴
なぐ
られても
耐
た
えられるためのもので、
病気
びょうき
の
治療
ちりょう
には
役立
やくだ
ちません。あの
高
こう
エネルギー
物質
ぶっしつ
は
別
べつ
の
空間
くうかん
にあり、この
空間
くうかん
を
通
とお
らないので、こちらの
時間
じかん
より
速
はや
いのです。
人
ひと
を
攻撃
こうげき
しようとする
時
とき
は、
気
き
を
運
はこ
ばなくても、
考
かんが
えなくても、
功
こう
がすでにそこに
届
とど
いているのです。
人
ひと
から
殴
なぐ
りかかられ、それを
受
う
けとめようとする
時
とき
は、
功
こう
がすでにそこに
届
とど
いています。
手
て
の
動
うご
きがいくら
速
はや
くても、
功
こう
の
速
はや
さには
及
およ
びません。
両側
りょうがわ
の
時間
じかん
概念
がいねん
が
違
ちが
うからです。
武術
ぶじゅつ
気
き
功
こう
では、
鉄砂掌
てっさしょう
、
朱砂掌
しゅさしょう
、
金剛腿
こんごうたい
、
羅漢脚
らかんきゃく
などを
鍛練
たんれん
によって
得
え
ることができますが、いずれも
常人
じょうじん
の
中
なか
の
技
わざ
です。
常人
じょうじん
でも
鍛
きた
えさえすれば、
身
み
につけることができるのです。
武術
ぶじゅつ
気功
きこう
と
内修
ないしゅう
の
功法
こうほう
の
最大
さいだい
の
違
ちが
いは、
武術
ぶじゅつ
気功
きこう
は
運動
うんどう
の
中
なか
で
鍛
きた
えるので、
気
き
が
皮膚
ひふ
の
下
した
を
走
はし
ります。
運動
うんどう
の
中
なか
で
鍛練
たんれん
しており、
入静
にゅうせい
できないので、
気
き
は
丹田
たんでん
に
入
はい
らず、
皮膚
ひふ
の
下
した
、
筋肉
きんにく
の
中
なか
を
通
とお
っています。したがって、
命
めい
を
修
おさ
めることもできなければ、
修煉
しゅうれん
して
奥深
おくぶか
い
功夫
こうふ
を
得
え
ることもありません。われわれのような
内修
ないしゅう
の
功法
こうほう
は、
静
せい
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
することを
要求
ようきゅう
しています。
一般
いっぱん
に
内修
ないしゅう
の
功法
こうほう
では、
気
き
が
丹田
たんでん
に
入
はい
り、
下腹部
かふくぶ
に
入
はい
ることを
重
おも
んじ、
静
せい
の
中
なか
での
修煉
しゅうれん
を
要求
ようきゅう
し、
本体
ほんたい
の
転化
てんか
を
求
もと
めるので、
命
めい
を
修
おさ
めることができ、
修煉
しゅうれん
してさらに
高
たか
い
次元
じげん
まで
到達
とうたつ
することができます。
皆
みな
さんも、
小説
しょうせつ
に
出
で
てくる
金鐘罩
きんしょうとう
、
鉄布衫
てっぷさん
、
百歩穿楊
ひゃっぽせんよう
などのような
功夫
こうふ
をお
聞
き
きになったことがあるだろうと
思
おも
います。それから
軽功
けいこう
を
持
も
つ
人
ひと
は、
空
そら
を
飛
と
んだりすることができるとか、また、
別
べつ
の
空間
くうかん
を
自由
じゆう
に
行
い
き
来
き
することさえできる
人
ひと
もいるとか
書
か
かれていますが、そのような
功夫
こうふ
はあるのでしょうか? あります。
間違
まちが
いなくあります。しかし、
常人
じょうじん
の
中
なか
にはありません。
本当
ほんとう
にこのような
高
たか
い
功夫
こうふ
を
修練
しゅうれん
して
得
え
た
人
ひと
でも、
勝手
かって
にそれを
人
ひと
に
見
み
せてはいけないのです。というのは、そういう
功夫
こうふ
は、
単
たん
なる
武術
ぶじゅつ
の
鍛練
たんれん
で
得
え
られるものではなく、
完全
かんぜん
に
常人
じょうじん
の
次元
じげん
を
超
こ
えているので、
内修
ないしゅう
の
功法
こうほう
に
従
したが
って
修煉
しゅうれん
しなければいけません。
心性
しんせい
が
問
と
われているのですから、
心性
しんせい
を
向上
こうじょう
させ、
物質
ぶっしつ
的
てき
利益
りえき
に
淡泊
たんぱく
でなければなりません。そういう
功夫
こうふ
を
修煉
しゅうれん
して
得
え
ることができますが、それを
得
え
た
時点
じてん
から、
常人
じょうじん
の
中
なか
で
勝手
かって
には
使
つか
えなくなります。
人
ひと
のいないところで
一人
ひとり
で
試
ため
してみるのはかまいません。
小説
しょうせつ
には、
剣法
けんぽう
の
奥義書
おうぎしょ
をはじめ、
宝物
たからもの
や
女
おんな
のために、
殺
ころ
し
合
あ
ったり
奪
うば
い
合
あ
ったりすることが
書
か
かれており、
誰
だれ
もがすごい
力
ちから
を
持
も
ち、
神
かみ
のように
飛
と
び
回
まわ
れることになっています。よく
考
かんが
えてみてください。
本当
ほんとう
にこのような
功夫
こうふ
を
持
も
っている
人
ひと
は、
実
じつ
は
内修
ないしゅう
の
修煉
しゅうれん
によってそれを
得
え
たのではありませんか?
心性
しんせい
を
重
おも
んじているからこそ、それを
修煉
しゅうれん
して
得
え
ることができたのです。
名利
みょうり
やさまざまな
欲望
よくぼう
にはとっくに
淡泊
たんぱく
になっているのですから、
人
ひと
を
殺
ころ
すなんてありえるでしょうか?
金銭
きんせん
をあんなふうに
大事
だいじ
に
思
おも
うことがありえるでしょうか? とても
考
かんが
えられません。あれは
芸術
げいじゅつ
の
中
なか
の
誇張
こちょう
に
過
す
ぎません。
人間
にんげん
は
精神的
せいしんてき
な
刺激
しげき
を
求
もと
めているので、
刺激
しげき
的
てき
であればあるほどよい。
作者
さくしゃ
はそれをよく
心得
こころえ
ているので、どんどん
刺激
しげき
的
てき
な、
興奮
こうふん
させるようなことを
書
か
きます。
突拍子
とっぴょうし
もないことを
書
か
けば
書
か
くほど
喜
よろこ
ばれます。それが
芸術
げいじゅつ
の
中
なか
の
誇張
こちょう
です。
本当
ほんとう
にそういう
功夫
こうふ
を
持
も
っている
人
ひと
がそんなことをするはずがありません。パフォーマンスとして
人
ひと
に
見
み
せびらかすことはなおさらありえないことです。
顕示
けんじ
心理
しんり
多
おお
くの
学習者
がくしゅうしゃ
は
常人
じょうじん
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
しているため、いろいろな
心
こころ
が
捨
す
てられず、そうした
多
おお
くの
心
こころ
がすでに
当然
とうぜん
なものになっていて、
本人
ほんにん
も
気
き
づきません。この
顕示
けんじ
心理
しんり
もいろいろなところに
現
あら
われており、
良
よ
いことをする
時
とき
にさえ
現
あら
われてきます。
普段
ふだん
から
自分
じぶん
の
名誉
めいよ
や
利益
りえき
のために、ちょっとした
良
よ
いことがあると、それをことさらに
言
い
いふらしては、
自分
じぶん
がいかにすごいか、
強
つよ
いかを
吹聴
ふいちょう
します。われわれの
中
なか
にも、そういう
人
ひと
がいます。
修煉
しゅうれん
が
少
すこ
し
上達
じょうたつ
したとか、
天目
てんもく
がちょっとはっきり
見
み
え
始
はじ
めたとか、
動作
どうさ
が
綺麗
きれい
だとか、なんでも
顕示
けんじ
しようとします。
わたしは
李
り
先生
せんせい
がこれこれを
言
い
ったのを
聞
き
いた、などと
言
い
いふらす
人
ひと
もいます。
皆
みな
が
聞
き
き
耳
みみ
を
立
た
てて、
彼
かれ
を
囲
かこ
みます。すると
彼
かれ
は
自分
じぶん
の
理解
りかい
で
尾
お
ひれをつけて、
噂
うわさ
を
広
ひろ
げます。
目的
もくてき
は
何
なん
ですか?
自己
じこ
顕示
けんじ
にほかなりません。また、
噂
うわさ
を
広
ひろ
げることが
好
す
きな
人
ひと
もいて、
互
たが
いに
伝
つた
え
合
あ
っては、
面白
おもしろ
おかしくしゃべっており、
情報通
じょうほうつう
を
自慢
じまん
しているかのようです。こんなにたくさん
学習者
がくしゅうしゃ
がいる
中
なか
でも、
自分
じぶん
がいちばん
分
わ
かっており、
誰
だれ
よりも
自分
じぶん
がいちばん
物知
ものし
りであるかのような
顔
かお
をしています。
本人
ほんにん
にとってそれはもうごく
当
あ
たり
前
まえ
のことで、
無意識
むいしき
にやっているかも
知
し
れません。
彼
かれ
の
潜在
せんざい
意識
いしき
に、ほかならぬ
顕示
けんじ
心理
しんり
というのがあるのです。でなければ、
噂
うわさ
を
流
なが
して
何
なに
になるでしょうか? それから、
先生
せんせい
がいついつ「
山
やま
に
戻
もど
る」とか
言
い
っている
人
ひと
もいますが、わたしは
山
やま
から
出
で
てきたわけでもないのに、どうして
山
やま
に
戻
もど
るというのですか? また、
先生
せんせい
がいつ
誰
だれ
それに
何
なに
を
言
い
ったとか、
誰
だれ
それに
特別
とくべつ
指導
しどう
をしたとか、
言
い
う
人
ひと
もいます。そんなことを
言
い
い
広
ひろ
げて
何
なに
に
役立
やくだ
ちますか?
何
なん
の
役
やく
にも
立
た
ちません。その
人
ひと
の
執着心
しゅうちゃくしん
、
一種
いっしゅ
の
顕示
けんじ
心理
しんり
が、われわれにかいま
見
み
えただけです。
また、わたしにサインを
求
もと
める
人
ひと
もいますが、
目的
もくてき
は
何
なん
でしょうか?
相変
あいか
わらず
常人
じょうじん
の
考
かんが
えで、サインしてもらえば、
記念
きねん
になると
思
おも
っているのでしょう。
修煉
しゅうれん
をしなければ、サインをしてあげても
何
なん
にもならないのです。わたしの
本
ほん
の
一文字
ひともじ
、
一文字
ひともじ
はみなわたしの
姿
すがた
かたちと
法輪
ファールン
で、すべてわたしの
言葉
ことば
なのに、それでもサインをもらおうとするのですか。サインをもらうと、
先生
せんせい
からの
信息
しんそく
が
自分
じぶん
を
守
まも
ってくれると
思
おも
っている
人
ひと
もいるでしょう。まだ
信息
しんそく
などにこだわっているのです。われわれは
信息
しんそく
などを
言
い
いません。この
本
ほん
はもういかなる
価値
かち
でも
量
はか
れないものです。まだほかに
何
なに
を
求
もと
めようとするのですか。こういうことはすべてそういった
心
こころ
から
出
で
てきたものです。
一部
いちぶ
の
人
ひと
はわたしのまわりで
仕事
しごと
をする
学習者
がくしゅうしゃ
たちを
見
み
て、
良
よ
いものか
悪
わる
いものかの
区別
くべつ
もせずに、その
話
はな
しぶりや
立
た
ち
居
い
振舞
ふるま
いの
真似
まね
をしています。
本当
ほんとう
はどこの
誰
だれ
であろうと、
法
ほう
は
一
ひと
つしかなく、この
大法
ダーファー
に
従
したが
っているかどうかが、
本当
ほんとう
の
基準
きじゅん
です。わたしのまわりの
人
ひと
は
特別
とくべつ
な
指導
しどう
など
受
う
けていません。
彼
かれ
らは
研究
けんきゅう
会
かい
の
係員
かかりいん
に
過
す
ぎず、みんなと
同
おな
じですので、そういう
心
こころ
をもたないようにしてほしいのです。そういう
心
こころ
をもつと、あなたは
知
し
らないうちに
大法
ダーファー
を
破壊
はかい
する
役割
やくわり
を
果
は
たすことになります。
人
ひと
の
耳目
じもく
をそばだたせるような
噂
うわさ
を
流
なが
したりすると、トラブルまで
引
ひ
き
起
お
こしかねません。
学習者
がくしゅうしゃ
が
執着心
しゅうちゃくしん
をかき
立
た
てられ、
争
あらそ
って
先生
せんせい
の
近
ちか
くで
何
なに
か
特別
とくべつ
なことを
聞
き
こうとしたりします。こういうことは、いずれも
同
おな
じ
問題
もんだい
ではありませんか?
その
顕示
けんじ
心理
しんり
はほかにどんな
問題
もんだい
を
引
ひ
き
起
お
こすのでしょうか? わたしが
功
こう
を
伝
つた
えだしてから、もう
二
に
年
ねん
経
た
ちましたが、われわれの
法輪大法
ファールンダーファー
を
修煉
しゅうれん
している
古
ふる
い
学習者
がくしゅうしゃ
の
中
なか
で、
一部
いちぶ
の
人
ひと
はそろそろ
功
こう
を
開
ひら
こうとしており、また
一部
いちぶ
の
人
ひと
は
漸悟
ぜんご
の
段階
だんかい
にさしかかっていて、ある
時
とき
から
突然
とつぜん
、
漸悟
ぜんご
状態
じょうたい
に
入
はい
ります。どうして
当時
とうじ
これらの
功能
こうのう
が
出
で
なかったのでしょうか? あなたを
一気
いっき
に
非常
ひじょう
に
高
たか
いところまで
押
お
し
上
あ
げても、あなたの
常人
じょうじん
の
心
こころ
が
取
と
り
除
のぞ
かれていなかったため、
駄目
だめ
だったのです。もちろんあなたの
心性
しんせい
はすでにかなり
高
たか
かったのですが、まだ
多
おお
くの
執着心
しゅうちゃくしん
が
捨
す
てられていなかったので、それらの
功能
こうのう
を
持
も
たせるわけにはいかなかったのです。この
段階
だんかい
を
過
す
ぎて、
安定
あんてい
してきたら、あなたをいっぺんに
漸悟
ぜんご
状態
じょうたい
に
進
すす
ませます。この
漸悟
ぜんご
状態
じょうたい
では
天目
てんもく
が
高
たか
い
次元
じげん
で
開
ひら
かれ、いろいろな
功能
こうのう
も
出
で
てきます。
実
じつ
を
言
い
いますと、
本当
ほんとう
に
修煉
しゅうれん
すれば、
最初
さいしょ
からいろいろな
功能
こうのう
が
現
あら
われており、あなたはすでにかなり
高
たか
い
次元
じげん
に
入
はい
っているので、
相当
そうとう
多
おお
くの
功能
こうのう
を
持
も
っているのです。
近
ちか
いうちに、
多
おお
くの
人
ひと
にこのような
状態
じょうたい
が
現
あら
われてくると
思
おも
います。それから、
高
たか
い
次元
じげん
へ
修煉
しゅうれん
できない
人
ひと
もいます。
彼
かれ
の
身
み
に
付
つ
いているものと
彼
かれ
の
忍耐
にんたい
力
りょく
を
合
あ
わせても
限
かぎ
られているので、かなり
低
ひく
い
次元
じげん
のまま
功
こう
を
開
ひら
き、
悟
さと
りを
開
ひら
き、
完全
かんぜん
に
悟
さと
りを
開
ひら
くのです。こんな
人
ひと
も
現
あら
われてきます。
こういうことをお
話
はな
しするのは、いったんそういう
人
ひと
が
現
あら
われてきた
場合
ばあい
、くれぐれも
彼
かれ
らのことを
偉
えら
い
覚者
かくしゃ
などと
思
おも
ってはいけないことを、
皆
みな
さんに
知
し
ってほしいからです。これは
修煉
しゅうれん
におけるきわめて
厳粛
げんしゅく
な
問題
もんだい
で、
大法
ダーファー
に
従
したが
っているものだけが
正
ただ
しいのです。
他人
たにん
の
功能
こうのう
や、
神通力
じんつうりき
や、
何
なに
かが
見
み
えるのを
見
み
て、すぐその
人
ひと
について
行
い
き、その
人
ひと
の
言
い
うことを
聞
き
いたりしてはいけません。そんなことをすれば、あなたもその
人
ひと
を
駄目
だめ
にするかも
知
し
れません。その
人
ひと
は
歓喜心
かんきしん
が
生
う
まれたせいで、しまいには
何
なに
もかも
失
うしな
い、その
功能
こうのう
や
神通力
じんつうりき
も
閉
と
じられてしまい、ついに
下
した
へ
堕
お
ちていくのです。
功
こう
を
開
ひら
いた
後
あと
でも
堕
お
ちることがあり、
制御
せいぎょ
できなければ、
悟
さと
りを
開
ひら
いた
後
あと
でも
堕
お
ちることがあります。
佛
ほとけ
でさえ
自分
じぶん
をうまく
制御
せいぎょ
できないと
堕
お
ちるのです。ましてあなたは
常人
じょうじん
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
する
人
ひと
ですから、なおさらのことです! ですから、いくら
多
おお
くの
功能
こうのう
が
出
で
ていようと、いくら
大
おお
きい
功能
こうのう
、
神通力
じんつうりき
が
現
あら
われていようと、
絶対
ぜったい
しっかりと
自分
じぶん
を
制御
せいぎょ
しなければなりません。この
頃
ごろ
、ここに
坐
すわ
っているかと
思
おも
うと
姿
すがた
が
消
き
え、しばらくするとまた
現
あら
われてきたりする
人
ひと
がいますが、つまりこのようなことです。それよりもっとすごい
神通力
じんつうりき
も
現
あら
われてきます。あなたはこれから
先
さき
どうすればよいでしょうか? われわれの
学習者
がくしゅうしゃ
、
弟子
でし
なら、こういうことが
自分
じぶん
の
身
み
に
現
あら
われようと、
人
ひと
の
身
み
に
現
あら
われようと、
崇拝
すうはい
したり、
求
もと
めたりしてはいけません。
心
こころ
が
動
どう
じただけで、あなたはただちに
駄目
だめ
になり、
堕
お
ちてしまいます。もしかするとあなたの
次元
じげん
はその
人
ひと
より
高
たか
いが、
神通力
じんつうりき
が
現
あら
われていないだけかも
知
し
れません。しかし
少
すく
なくともあなたはこの
問題
もんだい
において
堕
お
ちてしまいますので、
皆
みな
さんはくれぐれもこの
問題
もんだい
に
気
き
をつけてください。われわれはすでにこの
問題
もんだい
をたいへん
重要
じゅうよう
なことであると
位置
いち
づけています。なぜならそういうことがそろそろ
現
あら
われてきますので、いったん
現
あら
われてきたら、
自分
じぶん
を
制御
せいぎょ
できないといけないからです。
修煉者
しゅうれんしゃ
は、
功
こう
が
現
あら
われ、
功
こう
を
開
ひら
き、あるいは
本当
ほんとう
に
悟
さと
りを
開
ひら
いた
場合
ばあい
でも、
自分
じぶん
のことを
偉
えら
いと
思
おも
ってはいけません。
彼
かれ
に
見
み
えたことは、
彼
かれ
のいる
次元
じげん
でのことに
限
かぎ
られています。なぜなら、
修煉
しゅうれん
の
到達
とうたつ
点
てん
は、
悟
さと
りの
到達
とうたつ
点
てん
であり、
心性
しんせい
の
基準
きじゅん
の
到達
とうたつ
点
てん
であり、
知恵
ちえ
の
到達
とうたつ
点
てん
でもあるからです。したがって、それより
高
たか
い
次元
じげん
のことは
信
しん
じられないかも
知
し
れません。
信
しん
じないからこそ、
自分
じぶん
の
見
み
たものが
絶対
ぜったい
で、それしかないと
思
おも
い
込
こ
むのです。
実
じつ
はまだまだ
先
さき
が
長
なが
いのですが、
彼
かれ
の
次元
じげん
はそこまでしかないのです。
一部
いちぶ
の
人
ひと
はその
次元
じげん
で
功
こう
を
開
ひら
くことになっており、さらに
上
うえ
へは
修煉
しゅうれん
できないので、この
次元
じげん
で
功
こう
を
開
ひら
き、
悟
さと
りを
開
ひら
くのです。
今後
こんご
われわれの
修煉者
しゅうれんしゃ
の
中
なか
には、
世間
せけん
の
小道
しょうどう
で
悟
さと
りを
開
ひら
く
者
もの
もいれば、
各々
おのおの
の
次元
じげん
で
悟
さと
りを
開
ひら
く
者
もの
もおり、
正果
しょうか
を
得
え
て
悟
さと
る
者
もの
もいます。
正果
しょうか
を
得
え
て
悟
さと
ることこそ
最高
さいこう
です。
異
こと
なる
次元
じげん
のどこでも
見
み
ることができるばかりでなく、どの
次元
じげん
にも
姿
すがた
を
現
あら
わすことができるのです。
世間
せけん
の
小道
しょうどう
の
最
もっと
も
低
ひく
い
次元
じげん
で
功
こう
を
開
ひら
き、
悟
さと
りを
開
ひら
いた
場合
ばあい
でも、
一部
いちぶ
の
空間
くうかん
、
一部
いちぶ
の
覚者
かくしゃ
の
様子
ようす
が
見
み
え、それらと
交流
こうりゅう
することができますが、その
時
とき
に、
得意
とくい
になって
喜
よろこ
んだりしてはいけません。なぜなら
世間
せけん
の
小道
しょうどう
で、
低
ひく
い
次元
じげん
で
功
こう
を
開
ひら
いても、
正果
しょうか
が
得
え
られないからです。これは
間違
まちが
いありません。ではどうすればよいでしょうか? その
次元
じげん
にとどまるしかありません。それからさらに
高
たか
い
次元
じげん
をめざして
修煉
しゅうれん
するのは、その
後
あと
のことです。そこまでしか
修煉
しゅうれん
できないのに、
功
こう
を
開
ひら
かなければどうするのですか? このまま
修煉
しゅうれん
しても
上
あ
がる
見込
みこ
みがありませんので、
功
こう
を
開
ひら
くのです。もうたどり
着
つ
ける
最後
さいご
のところまで
修煉
しゅうれん
したということです。こういう
人
ひと
がたくさん
現
あら
われてきます。どんなことが
現
あら
われてこようと、
心性
しんせい
をしっかり
制御
せいぎょ
しなければなりません。
大法
ダーファー
に
従
したが
っているものだけが
本当
ほんとう
に
正
ただ
しいのです。
功能
こうのう
といい、
功
こう
を
開
ひら
くことといい、みなあなたが
大法
ダーファー
の
中
なか
で
修煉
しゅうれん
して
得
え
たものにほかなりません。もし
大法
ダーファー
を
二
に
の
次
つぎ
にして、
自分
じぶん
の
神通力
じんつうりき
を
最
さい
重要
じゅうよう
視
し
し、あるいは
悟
さと
りを
開
ひら
いた
人
ひと
は
自分
じぶん
の
認識
にんしき
こそ
正
ただ
しいと
思
おも
い、
極端
きょくたん
な
場合
ばあい
は、うぬぼれて
自分
じぶん
が
大法
ダーファー
を
超
こ
えているとさえ
思
おも
ったりしたら、その
時点
じてん
で、あなたはすでに
堕
お
ち
始
はじ
め、
危
あや
うくなり、だんだん
駄目
だめ
になっていきます。そうなった
時
とき
は、
修煉
しゅうれん
が
無駄
むだ
になるので、
本当
ほんとう
に
厄介
やっかい
なことになります。
下手
へた
をすると
堕
お
ちていき、
修煉
しゅうれん
を
台
だい
なしにしてしまいます。
もう
一
ひと
つはっきり
言
い
っておきますが、この
本
ほん
の
内容
ないよう
は
数
すう
回
かい
の
講習会
こうしゅうかい
で
説法
せっぽう
したものを
合
あ
わせたもので、すべてわたしが
話
はな
したことです。
一
ひと
つ
一
ひと
つの
言葉
ことば
はいずれもわたしが
話
はな
したもので、それを
一文字
ひともじ
一文字
ひともじ
テープから
起
お
こして、
弟子
でし
たち、
学習者
がくしゅうしゃ
たちが
手伝
てつだ
って
録音
ろくおん
に
基
もと
づいて
書
か
き
写
うつ
してくれたものを、わたしが
何
なん
回
かい
も
何
なん
回
かい
も
書
か
き
直
なお
したのです。すべてがわたしの
法
ほう
で、わたしが
説
と
いているのはこの
法
ほう
だけです。