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轉 法 輪

第七講


 

 殺生せっしょうの問題もんだい


 殺生せっしょうというのは非常ひじょうに微妙びみょうな問題もんだいで、煉功者れんこうしゃへのわれわれの要求ようきゅうもかなり厳きびしく、煉功者れんこうしゃは決けっして殺生せっしょうしてはいけないのです。佛家ぶっけだろうが、道家どうけだろうが、奇き門もん功法こうほうだろうが、どの門もんどの派はでも、それが正法しょうぼうの修煉しゅうれんであるかぎり、みなこれを絶対ぜったい視しし、殺生せっしょうを禁きんじています。これは間違まちがいのないところです。殺生せっしょうによって起おこる問題もんだいはあまりにも大おおきいので、皆みなさんに詳くわしく説明せつめいしなければなりません。殺生せっしょうとは、原始げんし佛教ぶっきょうでは主おもに人ひとを殺ころすことを指さしていましたが、これは最もっとも重大じゅうだいなことです。後あとになると、大おおきな生命せいめい、大おおきな家畜かちく、あるいはやや大おおきな生命体せいめいたいをも重おもく見みるようになりました。修煉界しゅうれんかいではなぜ殺生せっしょうを一貫いっかんして重大じゅうだいなことと見みてきたのでしょうか? 昔むかし、佛教ぶっきょうでは、死しぬべからざるものが殺ころされたら、孤独こどくにさまよう幽霊ゆうれいになると言いっていました。昔むかしから言いわれた、浮うかばれない魂たましいの済度さいどをするというのは、そういう人々ひとびとのためのことなのです。その済度さいどをしてやらないと、これらの生命せいめいは食たべ物ものも飲のみ物ものもなく、非常ひじょうに苦くるしい境地きょうちに置おかれることになるのです。これは昔むかし、佛教ぶっきょうで言いわれたことです。
 われわれは、人ひとが他人たにんに良よくないことをすれば、その他人たにんに大おおきな徳とくを代償だいしょうとして与あたえると言いっています。これは普通ふつう、他人たにんの物ものを横取よこどりすることを指さしています。ところが突然とつぜん一ひとつの生命せいめいを終おわらせるとなると、それが動物どうぶつであれ、他たの生物せいぶつであれ、相当そうとう大おおきな業力ごうりきを造つくってしまうことになります。殺生せっしょうは、昔むかしは主しゅとして人ひとを殺ころすことを指さし、それによって造つくられる業ごうは比較的ひかくてき大おおきいものでした。しかし一般いっぱんの生命体せいめいたいを殺害さつがいすることも軽かるいものではなく、直接ちょくせつ大おおきな業力ごうりきを生しょうじます。特とくに煉功者れんこうしゃの場合ばあいは、修煉しゅうれんの過程かていで、異ことなる次元じげんにおいて少すこしずつ難儀なんぎが設もうけられていますが、それらはすべてあなた自身じしんの業力ごうりき、あなた自身じしんの難なんです。異ことなる次元じげんのそれぞれに設もうけられているのは、あなたをさらに向上こうじょうさせるためです。心性しんせいが向上こうじょうしさえすれば、乗のり越こえることができるのです。しかし突然とつぜんこんなに大おおきな業力ごうりきが生しょうじたら、どうやって乗のり越こえるのですか? あなたの心性しんせいでは、とうてい乗のり越こえられないので、それによってあなたはまったく修煉しゅうれんできなくなるかも知しれません。
 われわれの見みるところでは、人ひとが生うまれた時とき、この宇宙うちゅう空間くうかんの一定いっていの範囲はんい内ないで、たくさんの彼かれが同時どうじに生うまれ、同おなじ顔かおをし、同おなじ名前なまえを称しょうします。やることも大同小異だいどうしょういなので、彼かれの全体ぜんたいの一部分いちぶぶんだとも言いえます。これには次つぎのような問題もんだいが絡からんできます。もしある生命体せいめいたい(他ほかの大おおきな動物どうぶつの生命体せいめいたいも同おなじ)が突然とつぜん死しんでしまいますと、他たの各かく空間くうかんにいる彼かれは、まだ最初さいしょに定さだめられていた生命せいめいの道みちのりを歩あゆみ終おえておらず、まだ多おおくの年月ねんげつを生いきていかなければならないので、死しんだその人ひとは孤独こどくにさまよう境地きょうちに落おち、宇宙中うちゅうじゅうをさまようことになるのです。昔むかしは、孤独こどくにさまよう幽霊ゆうれいは食たべ物ものも飲のみ物ものもなく、非常ひじょうに苦くるしいのだと言いいましたが、そうなのかも知しれません。しかしわれわれは確たしかに見みたのですが、彼かれらは非常ひじょうに怖こわい境地きょうちにあって、各かく空間くうかんの彼かれがみな生命せいめいの道みちのりを歩あゆみ終おえるのをずっと待またなければなりません。そうしてはじめて一緒いっしょに落おち着つくところを探さがすことができるのです。時間じかんが長ながくなればなるほど、彼かれの耐たえる苦くるしみが大おおきくなります。彼かれの耐たえる苦くるしみが大おおきくなれば、彼かれを苦くるしめる業力ごうりきが、彼かれを殺ころした殺生せっしょう者しゃの身みにどんどん加くわえられていくので、どれだけの業力ごうりきをよけいに背負せおってしまうかお分わかりでしょう? これはわれわれが功能こうのうを通とおして見みたものです。
 われわれは次つぎのようなことも見みてきました。人ひとが生うまれた時とき、ある特定とくていの空間くうかんに、その人ひとの一生涯いっしょうがいの存在そんざい形式けいしきがあります。つまり、その人ひとの生命せいめいのどの時点じてんで、何なにをすべきなのかは、すべてそこにあるのです。誰だれがその人ひとの一生いっしょうを段取だんどりしたのでしょうか? いうまでもなく、もっと高たかい次元じげんの生命体せいめいたいがそれを行おこなっているのです。例たとえば、常人じょうじん社会しゃかいにおいて、彼かれが生うまれたあと、家いえにも学校がっこうにも、あるいは大人おとなになれば職場しょくばにも、みな彼かれの存在そんざいがあり、彼かれの働はたらきを通つうじて社会しゃかい各かく方面ほうめんとのつながりが結むすばれます。つまり社会しゃかい全体ぜんたいの構成こうせいはすべてこのように配置はいちされているのです。ところがこの生命体せいめいたいが突然とつぜん亡なくなれば、最初さいしょに定さだめられた配置はいちの通とおりにいかなくなり、変化へんかが起おこります。そうなると配置はいちを乱みだした人ひとを、高たかい次元じげんの生命体せいめいたいは許ゆるしません。皆みなさん考かんがえてみてください。修煉者しゅうれんしゃとして、われわれは高たかい次元じげんへ修煉しゅうれんしようとしていますが、高たかい次元じげんにいる生命体せいめいたいでさえ彼かれを許ゆるさないという状況じょうきょうになった時とき、彼かれはまだ修煉しゅうれんなどできるのでしょうか? 彼かれの師しさえ、このことを段取だんどりした高たかい次元じげんの生命体せいめいたいより次元じげんが低ひくい場合ばあいもありますので、彼かれの師しもひどい目めに合あわされ、みな打うち落おとされるのです。考かんがえてみてください。これが並大抵なみたいていの問題もんだいと言いえるでしょうか? ですからいったんこのようなことをしたら、修煉しゅうれんはなかなか難むずかしくなるのです。
 法輪大法ファールンダーファーを修煉しゅうれんする学習者がくしゅうしゃの中なかには、戦争せんそう時代じだいに、戦場せんじょうに行いったことのある人ひとがいるかも知しれません。あの戦争せんそうは大おおきな天象てんしょう変化へんかによってもたらされた状態じょうたいで、あなたはその状態じょうたいの中なかの一いち分子ぶんしに過すぎません。もし天象てんしょう変化へんかの下もとでその通とおりに動うごく人ひとがいなければ、常人じょうじん社会しゃかいにある種しゅの状態じょうたいがもたらされることがないのですから、天象てんしょうの変化へんかとはいえなくなります。それらのことは大おおきな変化へんかに従したがって変化へんかするものなので、その事ことの全すべてをあなたのせいにすることはできません。ここでお話はなししているのは、個人こじんの企たくらみのために、あるいは私利しり私欲しよくを満足まんぞくさせるために、あるいは自分じぶんの何なにかが影響えいきょうを蒙こうむりそうになったので、どうしても悪わるいことをせざるを得えなくなって生しょうじた業力ごうりきのことです。およそ大おおきな空間くうかん全体ぜんたいの変化へんか、社会しゃかい形勢けいせいの大おおきな変化へんかに及およぶことは、みなあなた個人こじんの問題もんだいではありません。
 殺生せっしょうはかなり大おおきな業力ごうりきを造つくります。でもそれなら、家いえで食事しょくじを作つくっているわたしが、殺生せっしょうしてはいけないとなると、家族かぞくの者ものは何なにを食たべればよいだろう、と思おもう人ひとがいるかも知しれません。この具体ぐたい的てき問題もんだいについては、わたしはとやかく言いいたくありません。わたしは煉功者れんこうしゃに法ほうを説といているのです。常人じょうじんにどう暮くらせばよいのかをいい加減かげんに教おしえているわけではありません。具体ぐたい的てきな問題もんだいについてどうすればよいかは、大法ダーファーに照てらして判断はんだんし、良よいと思おもうようにすればよいのです。常人じょうじんはやりたいようにやっていますが、それは常人じょうじんのことです。誰だれもが真しんに修煉しゅうれんするというのは不可能ふかのうです。しかし煉功者れんこうしゃに対たいしては、高たかい基準きじゅんで律りっするべきなので、これは煉功者れんこうしゃに出だされた条件じょうけんなのです。
 人間にんげんや動物どうぶつだけでなく、植物しょくぶつにも生命せいめいがあり、また他たの空間くうかんにおいてはいかなる物質ぶっしつも生命せいめいを現あらわしてきます。天目てんもくが法眼通ほうげんつうの次元じげんにまで開ひらいた時とき、石いしや壁かべやすべてのものが話はなしかけてくれ、あいさつしてくれるのに気きづくでしょう。「それなら、わたしたちが食たべる穀物こくもつや野菜やさいにも生命せいめいがあることになる。また家いえに蝿はえや、蚊かなどが現あらわれたら、どうすればよいのか? 夏なつ、蚊かに刺さされていまいましくても、刺さすがままにさせて手てをこまねいているのか? 蝿はえが食たべ物ものにとまって汚きたなくても、殺ころしてはいけないのか」と考かんがえる人ひとがいるかも知しれません。断ことわっておきますが、われわれは、もちろん勝手かってに理由りゆうもなく生命せいめいのあるものを殺害さつがいしてはいけないのです。だからといってまた、小心翼々しょうしんよくよくな人ひととして、いつも些細ささいなことにとらわれ、歩あるく時ときも、蟻ありを踏ふみつぶすのを恐おそれて跳はねるようにして歩あるいたりしてもいけません。それでは、生いきることにさえ疲つかれてしまいます。これもまた執着しゅうちゃくではないでしょうか? 跳はねるようにして歩あるけば、蟻ありは踏ふみつぶさなくても、たくさんの微生物びせいぶつを踏ふみつぶしているでしょう。さらに細こまかく見みればもっと多おおくの小ちいさな生命体せいめいたいを、また真菌しんきんや細菌さいきんを踏ふみつぶしているかも知しれません。それでは、われわれは生いきることもできなくなってしまいます。われわれはそんな人ひとになってはならず、それでは修煉しゅうれんできないのです。大局たいきょくに目めを向むけ、堂々どうどうと修煉しゅうれんすべきです。
 人間にんげんは生いきている以上いじょう、人間にんげんとして生いきる権利けんりがあるので、生活せいかつの環境かんきょうも人間にんげんの生活せいかつの要求ようきゅうに適応てきおうすべきです。われわれは故意こいに生命せいめいのあるものを傷きずつけてはいけませんが、だからといって些細ささいなことにこだわりすぎてもいけません。例たとえば、野菜やさいにも穀物こくもつにも生命せいめいがあるからといって、飲のみ食くいをやめるわけにはいきません。そんなことでどうやって煉功れんこうできるのでしょうか? おおらかに対処たいしょすべきです。例たとえば歩あるく時とき、蟻ありや虫むしが足あしの下したに入はいり込こんで踏ふみつぶされたら、それは死しぬべきだったのかも知しれません。あなたが故意こいに殺ころしたわけではないからです。生物せいぶつ界かいや他たの微生物びせいぶつの世界せかいにおいても生態せいたいバランスの問題もんだいがあり、多おおすぎるとやはり氾濫はんらんになります。ですからわれわれは堂々どうどうと修煉しゅうれんするようにと言いっています。家いえに蝿はえや蚊かが入はいったら、それを追おい払はらうか、網戸あみどを付つけて入はいらせないようにします。しかし追おい払はらえない時ときは、殺ころしても仕方しかたがありません。人ひとの住すむ空間くうかんですから、人ひとを刺さすものなら追おい払はらうのは当あたり前まえで、追おい払はらっても出でなければ、手てをこまねいて人ひとを刺ささせるわけにはいきません。煉功者れんこうしゃのあなたは抵抗ていこう力りょくがあるからかまいませんが、家族かぞくの人ひとは煉功れんこうしておらず、常人じょうじんなので、伝染病でんせんびょうの問題もんだいもあり、子供こどもの顔かおが刺さされているのを見みて、放ほうっておくわけにはいきません。
 皆みなさんに例れいを一ひとつあげてお話はなししましょう。釈迦牟尼しゃかむにの若わかい頃ころのこんな逸話いつわがあります。ある日ひ、釈迦牟尼しゃかむには湯浴ゆあみをしようと思おもって、森林しんりんの中なかで、弟子でしに浴槽よくそうを掃除そうじさせました。弟子でしがそこへ行いって見みると、浴槽よくそうの中なかに虫むしがいっぱいいます。掃除そうじするには虫むしを殺ころさなければなりません。弟子でしは戻もどって来きて釈迦牟尼しゃかむにに、「浴槽よくそうの中なかに虫むしがいっぱいいます」と言いいました。釈迦牟尼しゃかむには弟子でしの顔かおを見みずに、「浴槽よくそうをきれいに掃除そうじして来きなさい」と一言ひとことだけ言いいました。弟子でしが浴槽よくそうのところに行いって見みると、手てのつけようがありません。手てを下くだせば虫むしを殺ころすことになりますので、一ひと回まわりして再ふたたび戻もどって来きて釈迦牟尼しゃかむにに、「尊師そんし、浴槽よくそうの中なかは虫むしがいっぱいで、掃除そうじすると虫むしを殺ころすことになります」と言いいました。釈迦牟尼しゃかむには彼かれをちらっと見みて、「お前まえに掃除そうじさせるのは浴槽よくそうなのだ」と言いいました。弟子でしははっと悟さとって、直ただちに浴槽よくそうをきれいに掃除そうじしました。これは一ひとつのことを示唆しさしてくれます。つまり虫むしがいるからといって、われわれは風呂ふろにも入はいらないというわけにはいかないのです。蚊かがいるからといって、われわれは他ほかの所ところを探さがして住すむわけにもいきません。穀物こくもつにも野菜やさいにも生命せいめいがあるからといって、われわれはやせ我慢がまんして飲のみ食くいしないわけにはいきません。そうではなくて、われわれはこの関係かんけいを正ただしく処理しょりし、正々堂々せいせいどうどうと修煉しゅうれんすべきです。われわれが故意こいに生命せいめいのあるものを傷きずつけなければ、それでけっこうです。人間にんげんにも同おなじく人間にんげんの生活せいかつ空間くうかんと生存せいぞん条件じょうけんがあるべきで、それも守まもる必要ひつようがあります。人間にんげんはやはり生命せいめいと正常せいじょうな生活せいかつを維持いじしなければならないのです。
 以前いぜんに一部いちぶの偽にせ気功きこう師しが、一日ついたちと、十五日じゅうごにちには殺生せっしょうしてもいいと言いいました。二に本ほん足あしのものなら殺ころしてもいい、と言いった者ものもいます。あたかも二に本ほん足あしのものは生命せいめいのあるものではないかのようです。一日ついたち、十五日じゅうごにちの殺生せっしょうは殺生せっしょうではないとすると、それはただ土つちを掘ほるようなものだとでも言いうのですか? 偽にせ気功きこう師しは、彼かれの話はなしていることと求もとめていること、つまりその言動げんどうから見みわけることができるものです。およそこのようなことを言いう気功きこう師しは、ほとんどが憑つき物ものに取とり付つかれているのです。狐きつねに取とり付つかれた気功きこう師しが鶏肉とりにくを食たべるしぐさを見みてごらんなさい。骨ほねまで食くいつくさんばかりに、ガツガツとむさぼり食たべているのです。
 殺生せっしょうは重大じゅうだいな業力ごうりきを生しょうじるだけでなく、そのうえ慈悲じひ心しんの問題もんだいにもかかわってきます。われわれ修煉者しゅうれんしゃは慈悲じひ心しんを持もたなければならないのではないでしょうか? 慈悲じひ心しんが現あらわれて来くれば、衆生しゅじょうはみな苦くるしんでいるのだと思おもい、誰だれを見みてもこの人ひとは苦くるしんでいるのだと思おもうようになります。そういうことが現あらわれるはずです。
 
 

 肉食にくじきの問題もんだい


 肉食にくじきの問題もんだいも非常ひじょうに微妙びみょうな問題もんだいですが、肉にくを食たべることは殺生せっしょうではありません。皆みなさんはもう長ながい間あいだ法ほうを学まなんできましたが、われわれは皆みなさんに肉にくを食たべるなと要求ようきゅうしたことはありません。多おおくの気功きこう師しはあなたが講習会こうしゅうかいに入はいると、直ただちに、今いまから肉にくを食たべてはいけないと宣告せんこくします。突然とつぜん肉にくを食たべてはいけないと言いわれても、まだ心こころの用意よういが出来できていない、とあなたは思おもうかも知しれません。もしかすると今日きょうの家いえの料理りょうりは、鶏とりの煮込にこみや魚さかなの煮付につけであるかも知しれず、美味おいしそうな香かおりがするのに、食たべてはいけないというのです。宗教しゅうきょうでの修煉しゅうれんも同おなじく、強制きょうせい的てきに肉にくを食たべさせません。一般いっぱんの佛家ぶっけ功こうも、一部いちぶの道家どうけ功こうも同おなじことを言いい、食たべてはいけないとしています。われわれはあなたにそのようにはさせていませんが、しかしわれわれもこれを重おもんじています。ではわれわれはどういうふうに見みているのでしょうか? われわれのこの功法こうほうは法ほうが人ひとを煉ねる功法こうほうです。法ほうが人ひとを煉ねる功法こうほうでは、数々かずかずの状態じょうたいが功こうの中なかから、法ほうの中なかから現あらわれてくるのです。煉功れんこうの過程かていにおいて、異ことなる次元じげんに異ことなる状態じょうたいが現あらわれます。ある日ひあるいは今日きょう、わたしの講義こうぎが終おわるとすぐ、肉にくを食たべられなくなり、匂においも生臭なまぐさく感かんじ、食たべたら吐はきたくなる、という状態じょうたいに入はいる人ひとがいるかも知しれません。人為的じんいてきに抑おさえて食たべさせなかったり、自分じぶんで抑制よくせいして食たべないのではなく、心こころの底そこから現あらわれてくるのです。この次元じげんに到達とうたつすれば、功こうのおかげで自然しぜんに食たべられなくなり、無理むりに呑のみ込こもうとすれば、本当ほんとうに吐はき出だしてしまうことすらあります。
 古ふるい学習者がくしゅうしゃならみな知しっているように、法輪大法ファールンダーファーを修煉しゅうれんするとそのような状態じょうたいが現あらわれ、異ことなる次元じげんに異ことなる状態じょうたいが現あらわれてくるのです。肉にくに対たいする欲求よっきゅうが強つよく、日頃ひごろよく肉にくを食たべる学習者がくしゅうしゃもいます。他ほかの人ひとが肉にくは生臭なまぐさいと感かんじている時ときでも、彼かれは生臭なまぐさいと感かんじないで、まだ食たべられます。彼かれのこの心こころを無なくさせるためには、どうすればよいでしょうか? 肉にくを食たべるとすぐに腹痛ふくつうが起おきるが、食たべなければ痛いたくない、という状態じょうたいが現あらわれてきます。それはもう食たべてはいけないという知しらせです。われわれの法門ほうもんではこれから以降いこう肉にくと無縁むえんになるのかと言いうと、そうではありません。この問題もんだいにどのように対処たいしょすればよいのでしょうか? 食たべられないとは、本当ほんとうに心こころの底そこから食たべられなくなることです。目的もくてきは何なんでしょうか? 寺院じいんの中なかで修煉しゅうれんし強制的きょうせいてきに食たべさせないのも、われわれの場合ばあいのように自然しぜんに食たべられなくなるのも、いずれも肉にくに対たいする欲望よくぼうと執着心しゅうちゃくしんを捨すてさせるためです。
 食卓しょくたくにもし肉にくがなければ、全然ぜんぜんご飯はんが喉のどを通とおらない人ひともいます。それが常人じょうじんの欲望よくぼうです。ある日ひの朝あさ、わたしが長春ちょうしゅんの勝利しょうり公園こうえんの裏門うらもんを通とおりかかった時とき、三人さんにんの人ひとががやがやと騒さわぎながら裏門うらもんから出でて来きて、その中なかの一人ひとりが、「練功れんこうなんかつまらない。肉にくを食たべてはいけないなんて、十じゅう年ねん早はやく死しぬと言いわれてもわたしは食たべないわけにはいかない!」と言いいました。なんて強つよい欲望よくぼうでしょう。皆みなさん考かんがえてみてください。この欲望よくぼうは無なくすべきものではないでしょうか? 間違まちがいなく無なくすべきです。人ひとは修煉しゅうれんの過程かていにおいて、ほかでもないさまざまな欲望よくぼうや執着心しゅうちゃくしんを無なくすのです。はっきり言いいますと、肉にくを食たべたい心こころが取とり除のぞかれていなければ、それは執着心しゅうちゃくしんが取とり除のぞかれていないことではありませんか? そんなことで圓満えんまん成就じょうじゅにまで修煉しゅうれんできますか? ですから執着心しゅうちゃくしんであるかぎり、それを取とり除のぞかなければなりません。しかしだからといって、これから永遠えいえんに食たべないというわけではありません。肉にくを食たべさせないこと自体じたいが目的もくてきではなく、執着心しゅうちゃくしんを取とり除のぞくのが目的もくてきです。もし肉にくが食たべられない時期じきにおいて、この執着心しゅうちゃくしんを無なくしたら、その後ごまた食たべられるようになります。匂においも生臭なまぐさくなく、食たべてもそれ程ほどまずくなくなるかも知しれません。この時ときになれば食たべればよろしい。問題もんだいはありません。
 食たべられる時ときになると、あなたの執着心しゅうちゃくしんはすでに無なくなり、肉にくに対たいする欲望よくぼうもなくなっています。ところが大おおきな変化へんかが起おこるはずで、つまりそれ以降いこう肉にくが美味おいしくなくなるのです。家いえの料理りょうりに肉にくがあれば食たべますが、なければ欲ほしくもなく、食たべても美味おいしいとは思おもわない、という状態じょうたいが現あらわれます。しかし常人じょうじんの中なかで修煉しゅうれんするということは非常ひじょうに複雑ふくざつなことで、家いえの料理りょうりにいつも肉にくがあると、時間じかんが経たつにつれてまた美味おいしく感かんじるようになり、その後ごぶり返かえしが起おきるのです。修煉しゅうれんの全ぜん過程かていでは、ぶり返かえしが何なん回かいも現あらわれてきます。突然とつぜんあなたはまた食たべられなくなりますが、食たべられない時ときは食たべなくてけっこうです。本当ほんとうに食たべられない場合ばあいは、食たべても吐はき出だしてしまいます。食たべられるようになったら食たべればよいのです。自然しぜんに任まかせるようにしてください。肉にくを食たべるかどうか自体じたいが目的もくてきではなく、その執着心しゅうちゃくしんを捨すてることこそが肝要かんようです。
 われわれの法輪大法ファールンダーファーという一門いちもんでは、向上こうじょうが割合わりあいに速はやく、心性しんせいさえ高たかまれば、どの次元じげんも速はやく突破とっぱできます。もともと肉にくにあまり執着しゅうちゃくせず、あってもなくても意いに介かいさない人ひともいます。このような人ひとは、この状態じょうたいを一いっ週間しゅうかんか二に週間しゅうかん持続じぞくすれば、この心こころを削けずりとることができます。一ヵ月いっかげつ、二にヵ月かげつ、三さんヵ月かげつ、場合ばあいによって半年はんとし、持続じぞくしなければならない人ひともいますが、よほど特別とくべつな事情じじょうがないかぎり、一いち年ねん経たたないうちにまた食たべられるようになります。それは肉にくがすでに人間にんげんの食たべ物ものの主要しゅような部分ぶぶんとなっているからです。しかし寺院じいんで専修せんしゅうする者ものは肉にくを食たべてはいけません。
 肉食にくじきに対たいする佛教ぶっきょうの認識にんしきについてお話はなししましょう。最初さいしょの原始げんし佛教ぶっきょうでは、肉にくの戒いましめがありませんでした。釈迦牟尼しゃかむにが弟子でしを連つれて森林しんりんの中なかで苦行くぎょうしていた当時とうじ、肉にくを戒いましめるという戒律かいりつはまったくありませんでした。なぜなかったのでしょうか? 釈迦牟尼しゃかむにが法ほうを伝つたえていた二に千せん五ご百ひゃく余よ年ねん前まえの当時とうじ、人類じんるい社会しゃかいは非常ひじょうに後おくれていたので、一部いちぶの地域ちいきには農業のうぎょうがありましたが、まだ農業のうぎょうがない地域ちいきもたくさんありました。耕地こうち面積めんせきは非常ひじょうに狭せまく、いたるところ森林しんりんでした。穀物こくもつはなかなか手てに入はいらない貴重きちょうなものでした。原始げんし社会しゃかいから抜ぬけ出でたばかりの人間にんげんは、主しゅとして狩かりで生活せいかつを営いとなんでいたので、多おおくの地域ちいきでは肉食にくじきを主しゅとしていました。釈迦牟尼しゃかむには、人間にんげんの執着心しゅうちゃくしんを最大限さいだいげんに捨すてさせるために、弟子でしたちにいかなる財産ざいさんや物ものなどにも触ふれさせず、彼かれらを連つれて食たべ物ものを乞こい求もとめ、托鉢たくはつしました。与あたえられたものは何なんでも食たべますが、修煉者しゅうれんしゃとして食たべ物ものを選えり好ごのみしてはいけないのですから、与あたえられた食たべ物ものの中なかには肉にくがあった可能かのう性せいもあります。
 しかしながら原始げんし佛教ぶっきょうの中なかに戒葷かいくんの説せつがあります。葷くんの戒いましめは原始げんし佛教ぶっきょうから始はじまったものですが、現在げんざいでは肉にくを食たべることを葷くんとしています。実際じっさいは当時とうじの葷くんは肉にくではなく、葱ねぎ、生姜しょうが、大蒜にんにくなどを指さしていました。なぜそれを葷くんと見みなしたのでしょうか? 現在げんざい多おおくの僧侶そうりょもそれをはっきり説明せつめいできません。彼かれらは実際じっさいに修煉しゅうれんすることを重おもんじないので、多おおくのことが分わからないのです。釈迦牟尼しゃかむにの伝つたえたものは、「戒かい・定じょう・慧え」と言いいます。戒かいは常人じょうじんの一切いっさいの欲望よくぼうを戒いましめること。定じょうは修煉者しゅうれんしゃが完全かんぜんに禅定ぜんじょうに入はいって、坐禅ざぜんの中なかで修煉しゅうれんし、完全かんぜんに入定にゅうじょうすることです。入定にゅうじょうと修煉しゅうれんを妨さまたげるあらゆるものは、重大じゅうだいな妨害ぼうがいと見みなされました。誰だれかが葱ねぎや生姜しょうが、大蒜にんにくを食たべたら、非常ひじょうに強つよい匂においがします。当時とうじの僧侶そうりょは森もりの中なかや洞窟どうくつの中なかで七しち、八はち人にんが車座くるまざになり、車座くるまざごとに坐禅ざぜんしましたので、もし誰だれかがそれらのものを食たべたら、強つよい、刺激しげき的てきな匂においを放はなち、坐禅ざぜんや入定にゅうじょうを邪魔じゃまし、甚はなはだしく人ひとの煉功れんこうを妨さまたげます。ですからそれらのものを葷くんとして食たべてはいけないという戒律かいりつが定さだめられました。人体じんたいから修煉しゅうれんの結果けっか生しょうじた多おおくの生命体せいめいたいもみな、そのどろどろとした匂においを嫌いやがります。葱ねぎや生姜しょうが、大蒜にんにくも人ひとを刺激しげきして欲望よくぼうを起おこさせ、たくさん食たべると癖くせにもなりますので、それらのものを葷くんとしたわけです。
 昔むかし、多おおくの僧侶そうりょはかなり高たかい次元じげんまで修煉しゅうれんし、功こうを開ひらいた、あるいは半なかば功こうを開ひらいた状態じょうたいに達たっした時とき、修煉しゅうれん過程かていにおける戒律かいりつはどうでもいいことだと分わかったのでした。その心こころを捨すてることができさえすれば、その物質ぶっしつ自体じたいは作用さようをなさないもので、真しんに人ひとを妨さまたげるのはほかでもないその心こころなのです。ですから歴代れきだいの高僧こうそうも、肉食にくじきという問題もんだい自体じたいが肝心かんじんではなく、肝心かんじんなのはその心こころを捨すてられるかどうかにあり、執着心しゅうちゃくしんさえなければ空腹くうふくを満みたすために何なにを食たべてもかまわない、ということを知しっていました。寺院じいんではそのように修煉しゅうれんして来きたので、多おおくの人ひとはもうそれに慣なれてしまいましたし、そのうえ、もはや単たんなる戒律かいりつの問題もんだいというより、すでに寺院じいんの規律きりつ制度せいどとなって、食たべてはいけないことになっているので、みなその修煉しゅうれん方法ほうほうにも慣なれてきました。済公さいこう和尚おしょうを例れいに取とりますと、小説しょうせつの中なかで彼かれは特別とくべつ目立めだつように作つくり上あげられています。和尚おしょうは肉にくを食たべてはいけないのに、彼かれは肉食にくじきするのですから、ひときわ目立めだつことになります。実際じっさいは、済公さいこう和尚おしょうは霊隠寺れいいんじから追おい出だされたのですから、生活上せいかつじょうの危機ききから食たべ物ものはおのずと彼かれにとって主要しゅような問題もんだいとなりました。空腹くうふくを満みたすために、彼かれは手当てあたり次第しだいに物ものを食たべましたが、いかなる食たべ物ものにも執着心しゅうちゃくしんがないので、空腹くうふくさえ満みたしてくれるなら、何なんでもよかったのです。そこまで修煉しゅうれんした彼かれには、この道理どうりが分わかっていました。本当ほんとうのところ、済公さいこうにしても偶然ぐうぜんに一いち度どか二に度ど肉にくを食たべたに過すぎません。和尚おしょうが肉にくを食たべると聞きくと、物書ものかきはすぐ興味きょうみをかき立たてられます。書物しょもつの題だいは人ひとを驚おどろかせば驚おどろかすほど読者どくしゃを引ひきつけるものです。小説しょうせつは実じつ人生じんせいに由来ゆらいしながら、実じつ人生じんせいを超こえる、と言いわれるではありませんか。そこで彼かれは際立きわだたせられたのです。実際じっさいは、その執着心しゅうちゃくしんを本当ほんとうに無なくしたのであれば、空腹くうふくを満みたすために何なにを食たべてもかまわないのです。
 東南とうなんアジア、あるいはわが国くにの南方なんぽう、広東カントン省しょうと広西省こうせいしょう一帯いったいでは、一部いちぶの居士こじたちは、自分じぶんのことを佛ほとけを修おさめる人ひととは言いいません。まるで「佛ほとけを修おさめる」という言葉ことばが時代遅じだいおくれになったかのように、彼かれらは自分じぶんが精進しょうじん料理りょうりを食たべる者ものだと言いいます。精進しょうじん料理りょうりを食たべて佛ほとけを修おさめるのだという意味いみです。これでは、佛ほとけを修おさめることがあまりにも簡単かんたんすぎると思おもわれています。しかし精進しょうじん料理りょうりを食たべるだけで佛ほとけを修おさめることができるのでしょうか? 皆みなさんもご存ぞんじのように、それはただ人ひとの執着しゅうちゃく、欲望よくぼうの一ひとつに過すぎません。彼かれらはたった一ひとつの心こころ、その心こころだけを捨すてるに過すぎません。ほかにまだ嫉妬心しっとしん、闘争心とうそうしん、歓喜心かんきしん、顕示心けんじしんなどさまざまな心こころがあります。人間にんげんの心こころはたくさんあり、あらゆる心こころ、あらゆる欲望よくぼうを全部ぜんぶ捨すててはじめて圓満えんまん成就じょうじゅに到達とうたつできるのです。この肉食にくじきに対たいする心こころだけを捨すてれば、佛ほとけを修おさめることができるとでも言いうのですか? そんな言いい方かたは間違まちがいです。
 食事しょくじについては肉にくだけでなく、どんな食たべ物ものにも執着しゅうちゃくしてはならず、他ほかのものも同おなじです。わたしはどうしてもこれを食たべるのが好すきだという人ひとがいますが、それも欲望よくぼうです。修煉者しゅうれんしゃはあるレベルに達たっすると、この心こころが無なくなります。もちろんわれわれの説法せっぽうはかなりレベルが高たかく、異ことなる次元じげんのものを結むすび合あわせて説といていますので、一気いっきにそこまで達たっするのは不可能ふかのうです。どうしてもあれが食たべたいと言いっても、本当ほんとうに修煉しゅうれんしていってその心こころを捨すてるべき時ときが来きたら、間違まちがいなく食たべられなくなり、食たべても本来ほんらいの味あじではなく、何なんの味あじなのか分わからないものになっているかも知しれません。わたしが勤つとめていた時とき、職場しょくばの食堂しょくどうはいつも赤字あかじでしたが、結局けっきょくつぶれてしまいました。つぶれてから皆みなは弁当べんとうを持参じさんするようになりました。朝あさ、弁当べんとうを作つくって、あわただしく出勤しゅっきんするのはなかなか大変たいへんでした。時とき々饅頭マントウを二ふたつ買かって、豆腐とうふに醤油しょうゆをかけて食たべました。このような質素しっそなものなら問題もんだいないはずですが、常つねに食たべていると癖くせになってやめられなくなります。その心こころもあなたに捨すてさせなければなりません。豆腐とうふを見みただけで、口くちの中なかが酸すっぱくなって、どうしても喉のどを通とおらなくなってきます。それというのも、あなたに執着心しゅうちゃくしんが生しょうじるのを防ふせぐためです。もちろんこれはある次元じげんまで修煉しゅうれんしたあとの話はなしなので、最初さいしょの間あいだはこのようなことはありません。
 佛家ぶっけでは酒さけを飲のんではいけないことになっています。酒さけの徳利とっくりを提さげている佛ほとけを見みたことがあるでしょうか? ないでしょう。わたしは肉にくが食たべられなくなると言いっていますが、常人じょうじんの中なかで修煉しゅうれんしていて執着心しゅうちゃくしんをなくしたら、将来しょうらい再ふたたび食たべても問題もんだいありません。しかし酒さけの場合ばあいは、やめてから再ふたたび飲のんではいけません。煉功者れんこうしゃの身体からだにはみな功こうがあるではありませんか? さまざまな形態けいたいの功こう、一部いちぶの功能こうのうは、身体からだの表面ひょうめんに顕現けんげんしてくるもので、非常ひじょうに純粋じゅんすいで清きよいものです。酒さけを飲のむと、それがさっと一斉いっせいに身体からだを離はなれ、次つぎの瞬間しゅんかんあなたの身体からだに何なにもかもなくなります。みなあの匂においを嫌いやがるのです。その習性しゅうせいに染そまれば非常ひじょうに厄介やっかいです。酒さけは心性しんせいを乱みだすものです。では、なぜ一部いちぶの大道だいどうを修煉しゅうれんする者ものが酒さけを飲のむのでしょうか? 彼かれらは主元神しゅげんしんを修煉しゅうれんするのではなく、主元神しゅげんしんを麻痺まひさせているのです。
 酒さけを命いのちと思おもうような人ひともいれば、酒さけに目めがない人ひともおり、すでにアルコール中毒ちゅうどくになっている人ひともいます。酒さけを飲のまないとご飯はん茶碗ちゃわんを持もち上あげる気きにもならず、全然ぜんぜん我慢がまんできません。煉功者れんこうしゃはそうあってはいけません。飲酒いんしゅは必かならず癖くせになり、それは欲望よくぼうですので、人ひとの嗜好しこう神経しんけいを刺激しげきして、飲のめば飲のむほど病やみつきになります。考かんがえてください。煉功者れんこうしゃとしては、この執着心しゅうちゃくしんを捨すてるべきではないでしょうか? この心こころも捨すてなければなりません。人ひとによっては「そういうわけにはいかない。ぼくはいろんなつき合あいがあるから」、あるいは「ぼくは営業えいぎょうマンで、飲のまないと事ことがうまく運はこばない」と考かんがえているかも知しれません。わたしはそうは思おもいません。普通ふつうの商談しょうだんの場合ばあい、特とくに外国がいこく人じんと取とり引ひきや付つき合あいをする時とき、ジュースやミネラルウォーターやビールなど、それぞれ自分じぶんの好すきな飲のみ物ものを注文ちゅうもんして飲のみます。無理強むりじいしませんし、それぞれ自分じぶんのを飲のみ、好すきなように飲のめばよいのです。特とくにインテリの間あいだではそういうことはなおさらありません。それが普通ふつうです。
 喫煙きつえんも執着しゅうちゃくです。タバコを吸すうと気持きもちがしゃきっとすると言いう人ひとがいますが、それは自みずからを欺あざむき人ひとを欺あざむく言いい方かたです。仕事しごとをして疲つかれた時とき、あるいはものを書かいて疲つかれた時とき、休憩きゅうけいしようと思おもい、タバコを吸すう人ひとがいます。タバコを一服いっぷく吸すうと目めが覚さめるような気きがしますが、実際じっさいはそうではなく、ひと休やすみしたからです。人ひとの考かんがえは錯覚さっかくを生うむこともあれば、幻覚げんかくを引ひき起おこすこともあります。そのうちに本当ほんとうに一ひとつの観念かんねんが形成けいせいされ、錯覚さっかくが生しょうじ、喫煙きつえんで目めが覚さめるような気きがします。実際じっさいはまったくありえないことで、タバコにそのような働はたらきはありません。喫煙きつえんは人間にんげんの身体からだに良よいことはまったくなく、長ながく吸すった人ひとは、医師いしが解剖かいぼうして見みれば、気管きかんも肺はいも真まっ黒くろになっています。
 われわれ煉功者れんこうしゃは、身体からだの浄化じょうかを目指めざしているのではありませんか? 絶たえず身体からだを浄化じょうかして、絶たえず高たかい次元じげんへ進すすんで行いきます。なのに、あなたが身体からだの中なかにそんなものを吸すい込こむのは、まったく逆行ぎゃっこうしているのではないでしょうか? そのうえ、それは一種いっしゅの強つよい欲望よくぼうでもあります。悪わるいと知しりながらやめることができない人ひとがいます。それは正ただしい考かんがえに導みちびかれていないために、簡単かんたんにはやめられません。一人ひとりの修煉者しゅうれんしゃとして、あなたは今日きょうから、それを執着心しゅうちゃくしんとして捨すててみてください。やめられるかどうかを試ためしてみてください。皆みなさんに忠告ちゅうこくしますが、真しんに修煉しゅうれんしたい人ひとは今いまからタバコをやめてください。必かならずやめられることを保証ほしょうします。この講習会こうしゅうかいの会場かいじょうにタバコを吸すいたいと思おもう人ひとは誰だれもいないでしょう。そのようにあなたはやめたければ必かならずやめられます。再ふたたびタバコを口くちにすれば、変へんな味あじがするにきまっています。この本ほんを読よむ人ひとでも、この部分ぶぶんを読よめば同おなじ作用さようがあります。もちろん修煉しゅうれんしたくなければ、われわれは面倒めんどうを見みませんが、修煉者しゅうれんしゃとしてはやめるべきだと思おもいます。わたしがかつて例れいを挙あげて説明せつめいしたように、タバコを口くちにくわえて坐すわっている佛ほとけや道士どうしはどこにいますか? そんなものがありますか? 修煉者しゅうれんしゃとしてのあなたの目標もくひょうは何なんですか? それをやめるべきではないですか? ですから修煉しゅうれんしたいならタバコをやめてくださいと言いっているのです。それはあなたの身体からだに害がいを与あたえますし、一種いっしゅの欲望よくぼうでもありますので、修煉者しゅうれんしゃに要求ようきゅうされるものとは相反あいはんするものです。
 

 嫉妬しっと心しん


 わたしは法ほうを説とく時とき、嫉妬しっと心しんの問題もんだいによく触ふれます。なぜでしょうか? 嫉妬しっと心しんは中国ちゅうごくではきわめて強烈きょうれつに現あらわれており、すでに日常にちじょう茶飯事さはんじになっていて、自分じぶんでもそれと感かんじられないほど強烈きょうれつなものとなっています。中国人ちゅうごくじんはなぜ嫉妬しっと心しんがそんなに強つよいのでしょうか? それには根源こんげんがあります。中国人ちゅうごくじんは昔むかし、儒教じゅきょうの影響えいきょうを深ふかく受うけていました。そのため性格せいかくはわりあい内向ないこう的てきで、怒おこる時ときでも喜よろこぶ時ときでも顔かおに出ださず、修養しゅうようや忍にんを重おもんじます。すでにこれが習慣しゅうかんとなってしまったため、われわれ民族みんぞく全体ぜんたいとしてかなり内向ないこう的てきな性格せいかくになってきたのです。いうまでもなく、秀ひいでているものを内うちに秘ひめるから、それにも長所ちょうしょがあります。しかし弊害へいがいも存在そんざいし、良よくない状態じょうたいをもたらすこともあるかも知しれません。特とくに末法まっぽうの時期じきになって、この良よくない部分ぶぶんはいっそう目立めだつようになり、いっそう人ひとの嫉妬しっと心しんを増長ぞうちょうさせます。誰だれかに良よいことがあったと分わかれば、直ただちにひどく妬ねたみます。そこで職場しょくばや職場しょくば以外いがいで褒賞ほうしょうをもらったり、あるいは良よいことがあっても、誰だれも口くちに出だしません。他ほかの人ひとが知しると心こころのバランスがとれなくなるからです。西洋人せいようじんはこれを東方とうほう嫉妬しっと、あるいはアジア嫉妬しっとと呼よんでいます。アジア全体ぜんたいが中国ちゅうごくの儒教じゅきょうの影響えいきょうを強つよく受うけたので、それぞれ多少たしょうはありますが、われわれ中国ちゅうごくにだけはとりわけ強つよく現あらわれています。
 それは今いままで行おこなわれてきた絶対ぜったい平均へいきん主義しゅぎとも関係かんけいがあります。どうせ天てんが落おちて来きたら皆みなが死しぬ、何なにか良よいことがあればみんなでそれを均等きんとうに享受きょうじゅし、賃上ちんあげは全員ぜんいん一律同額いちりつどうがくだ、みんなが同おなじだというこの考かんがえ方かたは、一見いっけん正ただしいように見みえますが、しかし、実際じっさいは同おなじであるはずがありますか? やっている仕事しごとは違ちがうし、責任せきにんの大おおきさも違ちがいます。この宇宙うちゅうには、「失うしなわなければ得えられず、得えるには失うしなわなければならぬ」という理りがあります。常人じょうじんの中なかでは、働はたらかなければ得えられず、多おおく働はたらけば多おおく得え、少すくなく働はたらけば少すくなく得えるとなっています。多おおく働はたらけば多おおくもらうのは当あたり前まえのことです。今いままでは絶対ぜったい平均へいきん主義しゅぎが実行じっこうされ、人間にんげんは生うまれた時ときはみな同おなじで、後天こうてんが人間にんげんを作つくり替かえたのだ、という言いい方かたをしてきました。それはあまりにも極端きょくたんな言いい方かたで、どんなことでもあまり極端きょくたんにいくといけません。なぜ人間にんげんが生うまれる時とき、男女だんじょの区別くべつがあるのですか? 姿すがたかたちも違ちがうでしょう? 生うまれつき病気びょうきの人ひと、奇形きけいのある人ひともいますので、同おなじではないのです。高たかい次元じげんから見みれば、他たの空間くうかんに人ひとの一生涯いっしょうがいのすべてがそこに存在そんざいしているので、同おなじであるはずがあるでしょうか? 何なんでも平均へいきん化かしたがりますが、運命うんめいの中なかにそれがなければ、どういうふうに均等きんとうにするのですか? 違ちがうものは違ちがうのです。
 西側にしがわ諸国しょこくの人ひとは性格せいかくが比較的ひかくてき外向的がいこうてきで、嬉うれしい時ときも分わかるし、怒おこる時ときも分わかります。それにはその長所ちょうしょもありますが、忍耐にんたい強づよくないという短所たんしょもあります。この二ふたつの性格せいかくは観念かんねんが違ちがうので、何なにかをする際さいに違ちがう結果けっかが現あらわれてきます。中国人ちゅうごくじんは誰だれかが上司じょうしに褒ほめられたり、あるいは何なにか恩恵おんけいを与あたえられたら、まわりの者ものは心こころのバランスがとれなくなります。ボーナスをちょっと多おおくもらったら、他人たにんに知しられないように、こっそりとポケットに隠かくします。今日こんにちでは労働ろうどう模範もはんをつとめるのも辛つらいもので、「君きみは労働ろうどう模範もはんだから優秀ゆうしゅうだ。君きみのような人ひとは、朝あさ早はやくから夜よる遅おそくまで働はたらくべきなので、この仕事しごとは全部ぜんぶ君きみに任まかせたよ。君きみは良よくできて、俺おれたちはどうせ駄目だめだから」と、あてこすりをされますので、良よい人ひとになるのも辛つらいものです。
 外国がいこくではまったく違ちがいます。ボスがその人ひとの真面目まじめな勤務きんむぶりを見みて、ボーナスを多おおく与あたえたとします。すると彼かれは嬉うれしそうに皆みなの前まえで一枚いちまい一枚いちまいと数かぞえ、「ほら、今日きょうボスがボーナスをたくさんくれたよ」と、ニコニコしながら話はなしても大丈夫だいじょうぶです。ところが中国ちゅうごくでは、誰だれかがボーナスを多おおくもらうことになったら、上司じょうしさえも「早はやくしまっておけ、他人たにんに見みられないように」と言いうのです。外国がいこくでは、子供こどもが学校がっこうで百点ひゃくてんを取とったら、嬉うれしくて走はしりながら「ぼく百点ひゃくてん取とったぞ、ぼく百点ひゃくてん取とったぞ!」と叫さけんで、家いえまで走はしって帰かえるでしょう。隣となりの人ひとはドアを開あけて「おーい、トム、偉えらいぞ」、別べつの人ひとも窓まどを開あけて「おーい、ジャック、すごいなあ」と褒ほめるでしょう。こんなことが中国ちゅうごくで起おこったら大変たいへんなことになります。「ぼく百点ひゃくてん取とったよ、ぼく百点ひゃくてん取とったよ!」と子供こどもが学校がっこうから家いえへ走はしりながら叫さけんだりしたら、「それがどうしたというのだ。たかが満点まんてんじゃないか。はしゃぐな! 百点ひゃくてんはお前まえしか取とったことがないわけじゃないぞ!」と、隣となり近所きんじょはドアも開あけないうちから罵声ばせいを上あげているでしょう。観念かんねんが違ちがうと結果けっかも違ちがいます。中国人ちゅうごくじんの観念かんねんは人ひとに嫉妬心しっとしんを生しょうじさせ、他人たにんに良よいことがあったら、その人ひとのために喜よろこぶどころか、自分じぶんの心こころのバランスがとれなくなります。こういうことが起おきてくるのです。
 数年すうねん前まえまで、絶対ぜったい平均へいきん主義しゅぎが実行じっこうされていたので、人ひとの思想しそう観念かんねんがすっかり混乱こんらんしてしまいました。具体ぐたい的てきな例れいを挙あげましょう。ある人ひとは、自分じぶんは職場しょくばで誰だれよりも優すぐれており、何なんでもよくでき、なかなか大たいしたものだと思おもっています。心こころの中なかでは、「工場こうじょう長ちょうや社長しゃちょうをやれと言いわれればやれるし、もっと高たかいポストだってこなせる。総理大臣そうりだいじんでもやれないことはない」と思おもっていました。上司じょうしも同僚どうりょうたちも、この人ひとは大変たいへんなやり手てで、才能さいのうがあるなどと褒ほめていました。ところで彼かれのグループにあるいは同おなじ事務じむ室しつに、何なにをやっても駄目だめで、何なんの取とり柄えもない人ひとがいたのですが、ある日ひのこと、彼かれではなく、その駄目だめな人ひとが抜擢ばってきされて、しかも彼かれの上司じょうしになってしまいました。彼かれは心こころのバランスがとれなくなり、あちこちで不満ふまんを訴うったえ、心中しんちゅう穏おだやかでなく、この上うえなく嫉妬しっとするのです。
 常人じょうじんには認識にんしきできない理りを一ひとつ、皆みなさんにお話はなししましょう。あなたが自分じぶんでは何なんでもよくできると思おもっていても、運命うんめいの中なかにそれがありません。ところがある人ひとは何なにをやっても駄目だめに見みえていても、運命うんめいの中なかにそれがあるから、幹部かんぶになったのです。常人じょうじんがどう考かんがえても、それはしょせん常人じょうじんの考かんがえに過すぎません。もっと高たかい次元じげんの生命体せいめいたいから見みれば、人類じんるい社会しゃかいの発展はってんは、定さだめられた発展はってんの規律きりつに従したがって進展しんてんしているだけなのであり、人ひとが一生いっしょうの間あいだに何なにをするかが、その人ひとの能力のうりょくに応おうじて段取だんどりされているわけではありません。佛教ぶっきょうでは因果応報いんがおうほうを唱となえていますが、段取だんどりは業力ごうりきに応おうじてなされていますから、あなたにいくら力量りきりょうがあっても、徳とくが無なければ、一生いっしょう何なにも得えられないかも知しれません。ある人ひとは何なにをやっても駄目だめでも、徳とくが多おおいので、高官こうかんになり、金かね持もちになります。常人じょうじんにはこの理りが分わかりませんので、自分じぶんにふさわしいことをやらせて貰もらうべきだといつも思おもっています。ですからその人ひとの人生じんせいは争あらそいの繰くり返かえしであり、心こころがずたずたに傷きずつけられ、とても辛つらい思おもいをし、疲つかれていると感かんじ、心こころはいつも平静へいせいでいられません。すると食事しょくじも睡眠すいみんもろくに取とれず、気落きおちしてやる気きを失うしない、年としを取とってくると身体からだもがたがたになり、あらゆる病気びょうきに見舞みまわれるのです。
 修煉者しゅうれんしゃであるわれわれは、なおさらそのようにすべきではありません。修煉者しゅうれんしゃは自然しぜんに任まかせることを重おもんじるべきです。自分じぶんのものなら、無なくなることはないし、自分じぶんのものでなければ無む理りに争あらそっても得えられません。もちろんそれは絶対ぜったい的てきではありません。何なにもかもそんなに絶対ぜったい的てきであれば、人間にんげんが悪わるいことをする問題もんだいもなくなります。つまり、その中なかに不安定ふあんていな要素ようそが若干じゃっかん存在そんざいしている可能かのう性せいがあります。しかし煉功者れんこうしゃの場合ばあいは、本来ほんらい、師しの法身ほうしんが守まもってくれていますから、他人たにんがあなたのものを取とろうとしても取とれません。ですからわれわれは自然しぜんに任まかせるように言いっているのです。時ときに、それが自分じぶんのものだと思おもい、他ほかの人ひともあなたのものだと言いってくれても、実際じっさいはあなたのものではない場合ばあいがあります。あなたは自分じぶんのものだと思おもい込こむかも知しれませんが、最後さいごになるとあなたのものでなくなります。その点てんから、そのことに対たいしてあなたが無頓着むとんちゃくでいられるかどうかを見みますが、無頓着むとんちゃくでいられなければそれは執着心しゅうちゃくしんなので、この方法ほうほうを用もちいて利益りえきにこだわる心こころを取とり除のぞかなければならないのです。そういうことです。常人じょうじんはこの理りが悟さとれないので、利益りえきをめぐって争あらそったり、闘たたかったりするわけです。
 嫉妬心しっとしんは常人じょうじんの中なかで現あらわれた場合ばあい、凄すさまじいものがありますが、修煉界しゅうれんかいにおいても、昔むかしからずっと顕著けんちょに現あらわれています。さまざまな功こう派はの間あいだで互たがいに認みとめようとせず、あなたの功こうが良よいとか、彼かれの功こうが良よいとか、あげつらいますが、わたしから見みれば、いずれも病気びょうき治療ちりょうと健康けんこう保持ほじの次元じげんのものに過すぎません。互たがいに争あらそっている功こう派はのほとんどは、憑つき物ものがもたらしたでたらめな功こうで、心性しんせいを重おもんじないものばかりです。ある人ひとは二に十じゅう年ねんあまり練功れんこうしていても功能こうのうが出でていませんが、他ほかの人ひとは始はじめたばかりなのに、功能こうのうが現あらわれたとします。すると「俺おれは、二に十じゅう年ねん以上いじょう練功れんこうしても功能こうのうが出でていないのに、彼かれに功能こうのうが出でたって、どんな功能こうのうが出でたというのか?」と、彼かれは心中しんちゅう穏おだやかではありません。「あいつは憑つき物ものに取とり付つかれているのだ。走火入魔そうかにゅうまだ!」と心こころの中なかで大変たいへんな怒いかりようです。気功師きこうしが講習会こうしゅうかいを開ひらいても、そこに坐すわって聞きいている人ひとの中なかには、「なにが気功師きこうしだ。言いっているのは俺おれが聞ききたくもないことばかりだ」と認みとめようとしない人ひともいます。気功師きこうしは確たしかにこの人ひとより講演こうえんが下手へたかも知しれませんが、しかしその気功師きこうしが言いっているのは自分じぶんの門派もんぱのものです。ところが問題もんだいのこの人ひとは何なんでも学まなび、どの気功師きこうしの講習会こうしゅうかいにも参加さんかし、修了証書しゅうりょうしょうしょが山やまほどあるので、確たしかに物もの知しりで、あの気功師きこうしよりもたくさん知しっています。しかしそれが何なんの役やくに立たつというのですか? どれもこれも病気びょうき治療ちりょうと健康けんこう保持ほじのものばかりで、たくさん身みにつければつけるほど、信息しんそくが乱みだれ、ますます複雑ふくざつになり、ますます修煉しゅうれんしにくくなります。すっかり乱みだれてしまったからです。真しんに修煉しゅうれんするには専一せんいつでなければならず、いかなるずれもあってはいけません。真しんに道どうを修おさめる人ひと同士どうしでも互たがいに認みとめないことがありますが、闘争心とうそうしんを無なくさなければ、嫉妬しっと心しんが生しょうじやすいのです。
 物語ものがたりを一ひとつお話はなししましょう。『封神演義ほうしんえんぎ』の中なかの申公豹しんこうひょうは、姜子牙きょうしがのことを年としも取とったし能力のうりょくもないと見みていましたが、しかし元始天尊げんしてんそんはこの姜子牙きょうしがに神かみを封ほうじさせました。申公豹しんこうひょうは心こころの均衡きんこうが保たもてなくなりました。「なぜ彼かれに神かみを封ほうじさせるのか? この申公豹しんこうひょうのすごさといったら、俺おれの頭あたまは切きり落おとされても元通もとどおりに戻もどせるのだ。どうして俺おれに神かみを封ほうじさせないのか?」と、彼かれはこの上うえなく嫉妬しっとして、いつも姜子牙きょうしがの邪魔じゃまをしたのでした。
 釈迦牟尼しゃかむにの時代じだいの原始げんし佛教ぶっきょうでは、功能こうのうを重おもんじていましたが、現在げんざいの佛教ぶっきょうでは、功能こうのうを口くちにする度胸どきょうのある人ひとはいません。功能こうのうのことを言いうと、走火入魔そうかにゅうまだと決きめつけられてしまいます。「何なにが功能こうのうだ?」と全然ぜんぜん認みとめようとしません。なぜでしょうか? 現在げんざいの和尚おしょうにはどういうことなのかまったく分わかっていないのです。釈迦牟尼しゃかむにには十じゅう大だい弟子でしがおり、目犍連もくけんれんは神通じんつう第一だいいちだと釈迦牟尼しゃかむにに認みとめられていました。釈迦牟尼しゃかむにには女おんな弟子でしもおり、その中なかに蓮花色れんげしきというのがいて、やはり神通じんつう第一だいいちでした。佛教ぶっきょうが中国ちゅうごくに伝つたわって来きてからも同様どうように、歴代れきだいに多おおくの高僧こうそうを輩出はいしゅつしましたが、達磨だるまは中国ちゅうごくに来くる時とき一本いっぽんの葦あしで川かわを渡わたったのです。ところが歴史れきしの発展はってんにつれ、神通力じんつうりきはどんどん排斥はいせきされるようになってきました。主要しゅような原因げんいんは寺てらの大和尚だいおしょう、住職じゅうしょく、方丈ほうじょうなどが、必かならずしも大根基だいこんきを持もつ人ひととは限かぎらないからです。彼かれらは方丈ほうじょうや大和尚だいおしょうになっていますが、それは常人じょうじん社会しゃかいにおける職位しょくいの一ひとつに過すぎず、彼かれらも修煉者しゅうれんしゃであり、違ちがいは専業せんぎょう修煉者しゅうれんしゃだということだけです。あなたは家いえで修煉しゅうれんする在家ざいけ修煉者しゅうれんしゃです。修煉しゅうれんして成就じょうじゅできるかどうかは、すべてその心こころの修煉しゅうれんにかかっています。みんな同おなじで、少すこしの違ちがいもあってはいけないのです。ところが炊事すいじ係がかりの小坊主こぼうずが、必かならずしも小根基しょうこんきの人ひととは限かぎりません。小坊主こぼうずは苦くるしみに耐たえれば耐たえるほど功こうを開ひらきやすいのですが、大和尚だいおしょうは楽らくをすればするほど功こうを開ひらきにくくなります。ここに業力ごうりき転化てんかの問題もんだいがあります。小坊主こぼうずはつね日ひごろ苦労くろうしているので、業ごうを滅めっすることが速はやいし、悟さとりを開ひらくのも速はやく、もしかするとある日ひ彼かれは突然とつぜん功こうを開ひらくかも知しれません。功こうを開ひらき悟さとりを開ひらく、あるいは半なかば悟さとりを開ひらくと、神通力じんつうりきも出でて来きますので、寺中てらじゅうの和尚おしょうがみな彼かれに教おしえを請こい、彼かれを尊敬そんけいします。すると住職じゅうしょくは耐たえられなくなり、このままでは住職じゅうしょくはやっていけないと思おもって、「なにが悟さとりだ? 走火入魔そうかにゅうまだ! 早はやく追おい出だせ」と怒鳴どなりつけます。小坊主こぼうずは寺院じいんから追おい出だされてしまいます。こうして時間じかんが経たつにつれて、われわれ漢かん民族みんぞく地域ちいきの佛教ぶっきょうでは、功能こうのうを口くちにする度胸どきょうのある人ひとはいなくなりました。済公さいこうは、峨眉山がびさんから木材もくざいを運はこび出だし、寺てらの井戸いどから一本いっぽん一本いっぽん外そとへ抛ほうり上あげたほど、すごい力量りきりょうを持もっていましたが、それにもかかわらず、最後さいごにはやはり霊隠寺れいいんじから追おい出だされたのです。
 嫉妬心しっとしんという問題もんだいはかなり重大じゅうだいです。なぜならそれは、われわれが修煉しゅうれんして圓満えんまん成就じょうじゅできるかどうかという問題もんだいに直接ちょくせつかかわってくるからです。嫉妬心しっとしんを無なくさなければ、人ひとの修煉しゅうれんした一切いっさいの心こころが脆弱ぜいじゃくなものになります。ここには一ひとつの決きまりがあります。すなわち人間にんげんは修煉しゅうれんの中なかで、嫉妬しっと心しんを無なくさなければ正果しょうかを得えられないもので、そうしなければ絶対ぜったいに正果しょうかを得えることはできないのです。業ごうを持もちながら往生おうじょうすると阿弥陀佛あみだぶつが語かたったことがあるのを、皆みなさんはお聞ききになったことがあるかも知しれませんが、しかし嫉妬しっと心しんは無なくさなければ駄目だめです。つまり他たの方面ほうめんで少すこし足たりないところがあっても、少々しょうしょうの業ごうを持もちながら往生おうじょうして、再ふたたび修煉しゅうれんしてもよいかも知しれませんが、嫉妬しっと心しんは無なくさなければ絶対ぜったいに駄目だめです。今日きょう、わたしは煉功者れんこうしゃに向むかって話はなしていますが、頑迷がんめいに固執こしつして悟さとらないようではいけません。あなたが達成たっせいしようと思おもう目的もくてきはより高たかい次元じげんへ修煉しゅうれんすることですので、嫉妬しっと心しんは必かならず無なくさなければなりません。だからこそわれわれはこの問題もんだいを単独たんどくに取とり上あげたわけです。
 

 病気びょうき治療ちりょうの問題もんだい


 病気びょうき治療ちりょうについてですが、わたしは病気びょうき治療ちりょうを教おしえているわけではありません。法輪大法ファールンダーファーの真修しんしゅう弟子でしは誰だれも人ひとの病気びょうきを治療ちりょうしてはならず、あなたが病気びょうき治療ちりょうを少すこしでもすると、わたしの法身ほうしんがあなたの身体からだに付ついているあらゆる法輪大法ファールンダーファーのものを全部ぜんぶ回収かいしゅうします。なぜこの問題もんだいをこんなに重おもく見みているのでしょうか? それは大法ダーファーを破壊はかいする行為こういだからです。自分じぶん自身じしんの身体からだを損そこねるのは言いうまでもありませんが、いったん病気びょうき治療ちりょうをやりだすと、腕うでがむずむずして、人ひとを見みたら誰だれでもかまわずに診みてあげようとし、自分じぶんを誇示こじしようとする人ひとがいます。それは執着心しゅうちゃくしんではありませんか? 人ひとの修煉しゅうれんはこれによって甚はなはだしく影響えいきょうを受うけます。
 多おおくの偽気功師にせきこうしは、気功きこうを習ならって人ひとの病気びょうきを治なおしたいという常人じょうじんの心理しんりを掴つかんで、そういうことを教おしえるのです。気きを発はっしたら病気びょうき治療ちりょうができると言いい触ふらしますが、笑止千万しょうしせんばんな話はなしではありませんか? あなたも気きを持もっており、相手あいても気きを持もっているのに、なぜあなたの発はっした気きで人ひとの病気びょうきを治療ちりょうできるのですか? 逆ぎゃくに相手あいての気きにやられるかも知しれません! 気きと気きの間あいだには制約せいやく作用さようがありません。人ひとは高こう次元じげんで修煉しゅうれんする時ときに功こうが現あらわれ、そこから発はっするものは高こうエネルギー物質ぶっしつなので、確たしかに病気びょうき治療ちりょうができ、病気びょうきを制圧せいあつでき、抑制よくせいの働はたらきをもちますが、しかし根治こんちはできません。ですから真しんに病気びょうきを治療ちりょうするには、功能こうのうがあってはじめて徹底的てっていてきに病気びょうきを治なおすことができます。それぞれの病気びょうきに対たいして、それに対応たいおうする治療ちりょうの功能こうのうがあり、その病気びょうき治療ちりょうの功能こうのうだけで千せん種類しゅるい以上いじょうあります。つまり病気びょうきの数かずだけの治療ちりょう功能こうのうがあります。そういった功能こうのうがなければ、いくら手品てじなをしても無駄むだです。
 数年来すうねんらい、一部いちぶの人ひとが修煉界しゅうれんかいをずいぶん撹乱かくらんしました。しかし真しんに病気びょうき治療ちりょうと健康けんこう保持ほじのために出でてきた気功きこう師し、最初さいしょにこの道みちを切きり開ひらいた気功きこう師しで、人ひとに病気びょうき治療ちりょうを教おしえる者ものがいたでしょうか? 彼かれらは自分じぶんで人ひとの病気びょうきを治療ちりょうするか、さもなければいかに修煉しゅうれんするか、いかに身体からだを鍛練たんれんするかなどを教おしえました。功法こうほうを一通ひととおり教おしえてくれますが、あとは自分じぶんで鍛練たんれんを通とおして病気びょうきを治なおすというものでした。後あとになって偽にせ気功きこう師しが出でて来きて気功きこう界かいをひどい混乱こんらんに陥おとしいれましたので、病気びょうき治療ちりょうをしようとすれば間違まちがいなく憑つき物ものを招まねいてしまいます。当時とうじの状況じょうきょうの下もとで、一部いちぶの気功きこう師しも病気びょうき治療ちりょうをしていましたが、それは当時とうじの天象てんしょうに合あわせるためでした。といってもそれは常人じょうじんの技能ぎのうではないので、いつまでも保たもっていけるものではありません。あの時ときの天象てんしょう変化へんかによってもたらされたものなので、あの時期じきの産物さんぶつです。後あとになって、専もっぱら人ひとに病気びょうき治療ちりょうを教おしえることをやりだすと、でたらめになりました。一人ひとりの常人じょうじんが三日みっかや五日いつか習ならっただけで、病気びょうき治療ちりょうができるはずがありますか? わたしはこの病気びょうきを治なおせます、あの病気びょうきを治なおせますと言いう人ひとがいます。言いっておきますが、およそこのような人ひとは必かならず憑つき物ものに取とり付つかれています。あなたは背中せなかに取とり付ついているものが何なにか分わかりますか? 憑つき物ものに取とり付つかれていても、自分じぶんではそれに感かんづいておらず知しらないので、自分じぶんは腕うでが良よく、力ちからを持もっていると思おもっているのかも知しれません。
 本当ほんとうの気功きこう師しは、長年ながねんの厳きびしい修煉しゅうれんを経へて、ようやくこのような目的もくてきを達たっすることができます。あなたは人ひとの病気びょうき治療ちりょうをする時とき、人ひとのために業力ごうりきを消去しょうきょしてあげられるほどの強大きょうだいな功能こうのうを持もっているのかどうか、自省じせいしてみたことがありますか? あなたは真伝しんでんを得えたのでしょうか? 二日ふつかや三日みっか習ならっただけで、病気びょうき治療ちりょうができると思おもうのですか? 一人ひとりの常人じょうじんの手てで病気びょうき治療ちりょうができると思おもうのですか? 偽にせ気功きこう師しはあなたの弱点じゃくてんを掴つかみ、人ひとの執着心しゅうちゃくしんを掴つかんでいます。あなたは病気びょうき治療ちりょうを求もとめているのですね? よしよしとばかりに、彼かれは病気びょうき治療ちりょう教室きょうしつを開設かいせつし、専もっぱら治療ちりょう手法しゅほうを教おしえてくれます。気針きばりや、光照法こうしょうほうや、排出はいしゅつや、補おぎないとか、点穴てんけつとか、一把抓イーパーズゥアなど、名目めいもくはかなり多おおいのですが、ねらいはあなたの金かねです。
 一把抓イーパーズゥアについてお話はなししましょう。人ひとはなぜ病気びょうきになるのでしょうか? われわれの見みるところでは、病気びょうきとあらゆる不幸ふこうを引ひき起おこす根本こんぽん的てきな原因げんいんは業力ごうりきであり、あの黒くろい物質ぶっしつの業力場ごうりきばです。それは陰性いんせいで良よくないものです。一方いっぽう、良よくない霊体れいたいも陰性いんせいのもので、いずれも黒くろに属ぞくするもので、環境かんきょうが合あうので、そこにやってくるのです。それは病気びょうきに罹かかる根本こんぽん的てきな原因げんいんであり、病気びょうきのいちばん主要しゅような源みなもとです。もちろん他ほかにも二ふたつの形式けいしきがあります。一ひとつは、ごくごく小ちいさくて密度みつどの非常ひじょうに高たかい小ちいさな霊体れいたいで、業力ごうりきの固かたまりのようなものです。もう一ひとつはパイプで輸送ゆそうされて来くるような形かたちで、めったに見みられませんが、みな先祖せんぞからずっと積つみ重かさなってきたものです。そんな情況じょうきょうもあります。
 最もっとも一般いっぱん的てきな例れいから説明せつめいしましょう。例たとえばどこかに腫瘍しゅようができたとか、どこかに炎症えんしょうが起おきたとか、どこかに骨増殖症こつぞうしょくしょうが起おきたなどは、他たの空間くうかんでは、まさにその箇所かしょに一ひとつの霊体れいたいが居座いすわっており、かなり深ふかい空間くうかんに一ひとつの霊体れいたいがいるのです。普通ふつうの気功きこう師しには見みえず、一般いっぱんの超ちょう能力のうりょくでも見みえず、ただ人ひとの身体からだに黒くろい気きがあることだけしか見みえません。黒くろい気きのあるところに病気びょうきがある、という言いい方かたは正ただしいのです。しかし黒くろい気きが病気びょうきを引ひき起おこす根本こんぽん的てきな原因げんいんではなく、さらに深ふかい空間くうかんの中なかにその霊体れいたいがおり、その場ばがその霊体れいたいから発はっせられたのです。ですから排出はいしゅつとか、泄せつとか言いう人ひとがいますが、好すきなように排出はいしゅつさせてみればよいでしょう! しばらくするとまた生しょうじて来きます。力ちからの強つよいものは、排出はいしゅつされたかと思おもうと、自分じぶんで回収かいしゅうできますから、すぐに戻もどって来きます。いくら治療ちりょうしても治なおりません。
 超ちょう能力のうりょくでは、黒くろい気きのあるところに病やまいの気きがある、と見みています。漢方かんぽうの診方みかたでは、そこは経絡けいらくが通つうぜず、気血きけつがうっせきし、経絡けいらくが詰つまっているということです。西洋せいよう医いの診み方かたでは、そこに潰瘍かいようがあり、腫瘍しゅようができたとか、骨増殖症こつぞうしょくしょうあるいは炎症えんしょうが起おきたとか言いいます。この空間くうかんに反映はんえいされてきたのは、ほかでもないそのような形かたちです。もしそれを取とり除のぞいてしまえば、こちらの身体からだに何なんの異常いじょうもなくなることに気きづくでしょう。椎間板ついかんばんヘルニアや、骨増殖症こつぞうしょくしょうなどの病気びょうきは、それを取とり除のぞいて、あの場ばを追おい払はらえば、直ただちに治なおります。再ふたたびレントゲン検査けんさをしたら、骨増殖症こつぞうしょくしょうのかけらもなくなります。根本こんぽん的てきな原因げんいんはそれが作用さようをしているからです。
 三日間みっかかんで病気びょうき治療ちりょうができるようになる、あるいは五日間いつかかんでできるようになるから、一把抓イーパーズゥアを教おしえてあげようと言いう人ひとがいます。では抓つかんで見みせてください! 人間にんげんはいちばん弱よわいものですが、あの霊体れいたいはかなり凄すごいものです。あなたの大脳だいのうを制御せいぎょして、思おもいのままにあなたを翻弄ほんろうし、あなたの命いのちを奪うばうこともいとも簡単かんたんにやってのけます。あなたはそれを抓つかみ出だすと言いいますが、どうやって抓つかみ出だすのでしょうか? あなたの常人じょうじんの手てはそれに触ふれることなどできません。あなたがそこでむやみに手てを動うごかしても、それに相手あいてにされないばかりか、むやみに抓つかむなんて馬鹿ばかげていると笑わらわれてしまうだけです。もし本当ほんとうにそれに触ふれることができれば、あなたの手ては直ただちに傷いためつけられますが、それは本当ほんとうの怪我けがとなります! わたしは以前いぜんそのような人ひとを見みたことがあり、両手りょうてにどこも悪わるいところはなく、いくら検査けんさしても、異常いじょうはありませんが、しかしその手ては上あげることができず、いつも垂たれたままです。わたしもこのような患者かんじゃに会あったことがあります。彼かれの他たの空間くうかんにある身体からだが怪我けがをしたので、それこそ本当ほんとうの不具ふぐになったのです。その空間くうかんの身体からだが怪我けがをしたのですから、不具ふぐにならざるを得えないのではないでしょうか? 先生せんせい、わたしは不妊ふにんの手術しゅじゅつを受うけました、あるいはわたしは何なにかを摘出てきしゅつされましたが、それでも煉功れんこうできますか、とわたしに聞きく人ひとがいますが、それは影響えいきょうありません。他たの空間くうかんの身体からだは手術しゅじゅつを受うけておらず、煉功れんこうはあちらの身体からだが作用さようしているからです。ですから先さきほど言いったように、それを抓つかもうとしても、触ふれることもできず、相手あいてにもされません。本当ほんとうに触ふれたら、手てを傷いためつけられるかも知しれません。
 国くにの大だい規模きぼな気功きこう活動かつどうを支持しじするため、わたしは弟子でしたちを連つれて北京ぺきんでの東方とうほう健康けんこう博覧はくらん会かいに参加さんかしました。二に回かいの博覧はくらん会かいとも、われわれがいちばん注目ちゅうもくを浴あびました。第一回だいいっかいの博覧はくらん会かいでは、われわれ法輪大法ファールンダーファーはスター功こう派はと称しょうされる栄誉えいよにあずかりました。第だい二に回かいの博覧はくらん会かいでは、人ひとが多おおくてどうしようもありませんでした。他たの功こう派はの展示てんじブースには人ひとがそれほどいませんでしたが、われわれのブースのまわりはぎっしりと混こみ合あっていました。三みっつの列れつが並ならびました。一いち列れつ目めは午前ごぜんの受付うけつけなのですが朝あさ早はやくから満員まんいんになりました。二に列れつ目めは午後ごごの受付うけつけを待まっていました。もう一いち列れつはわたしのサインを待まっていました。われわれは病気びょうき治療ちりょうをしないはずなのに、なぜそれをやるのでしょうか? それは国くにの大だい規模きぼな気功きこう活動かつどうを支持しじし、この事業じぎょうに貢献こうけんするためです。そのためにわれわれは参加さんかしたわけです。
 わたしは、連つれていった弟子でしに自分じぶんの功こうを分わけあたえましたが、それは百ひゃく種しゅ以上いじょうの功能こうのうで合成ごうせいされたエネルギー団だんです。さらに、彼かれらの手てを密封みっぷうしましたが、それでも、手てを咬かまれて怪我けがをしたり、水みずぶくれができたり、血ちが出でたりすることがよくありました。そのような霊体れいたいはそれほどすごいのですから、あなたは常人じょうじんの手てでそれに触ふれる勇気ゆうきがありますか? それよりも、そもそもあなたにはそれを抓つかむことはできません。功能こうのうがなければ、抓つかみようもありません。なぜなら他たの空間くうかんでは、あなたが何なにかをやろうと考かんがえ、頭あたまに浮うかべただけで、それにはすぐ分わかるのです。抓つかもうとしたら、素早すばやく逃にげられてしまいます。患者かんじゃがあなたから離はなれるやいなや、直ただちに戻もどって患者かんじゃに取とり付つきますので、病気びょうきも再発さいはつします。それをやっつけるには、手てを伸のばしてぱっとそれを釘くぎづけにするような功能こうのうが必要ひつようです。釘くぎづけにしたあと、われわれはもう一ひとつ、昔むかしは摂魂大法せっこんたいほうと呼よんだ功能こうのうを持もっています。その功能こうのうはもっとすごいもので、人ひとの元神げんしんをまるごとつかみ出だすことができます。するとその人ひとは直ただちに動うごけなくなります。この功能こうのうは指向しこう性せいを持もっており、われわれはそのものに照準しょうじゅんを合あわせてつかむのです。皆みなさんもご存ぞんじのように、如来佛にょらいぶつが手ての中なかの鉢はちをちょっと向むけると、あれほど大おおきかった孫悟空そんごくうが、あっという間まに小粒こつぶになってしまいます。この功能こうのうにはまさにそのような働はたらきがあります。霊体れいたいが大おおきかろうが小ちいさかろうがかまわず、あっという間まに手てに抓つかみとり、小ちいさくします。
 そのほかに、手てを患者かんじゃの肉体にくたいの中なかに突つっ込こんで、抓つかみ出だすという言いい方かたがありますが、それはいけないことです。そういうことをすれば常人じょうじん社会しゃかいの人間にんげんの思惟しいをすっかり撹乱かくらんさせるから、絶対ぜったいに許ゆるされませんし、たとえやれるにしてもやってはならないのです。突つっ込こむのは、他たの空間くうかんの手てです。例たとえば心臓しんぞうに病気びょうきがあって、こちらの手てが心臓しんぞうの部位ぶいに向むかって抓つかもうとすれば、他たの空間くうかんのその手てはもう入はいっているのです。その手てがあっという間まに、速すみやかに抓つかみとると、こちらの手ても抓つかみにいって、両方りょうほうの手てが一ひとつに合あわされば、手てに抓つかみとってしまいます。かの霊体れいたいは非常ひじょうに凶暴きょうぼうで、手てに抓つかまれていても動うごき回まわり、中なかへ潜もぐろうとしたり、咬かんだり、叫さけんだりします。手てに握にぎっていれば小ちいさいように見みえますが、手てを放はなすととてつもなく大おおきく変かわります。これは誰だれにでも扱あつかえるようなものではなく、そういう功能こうのうがなければ、まったく扱あつかえません。われわれの想像そうぞうと全然ぜんぜん違ちがって、そんな簡単かんたんなことではありません。
 もちろん気功きこうで病気びょうきを治療ちりょうする形式けいしきは、昔むかしからずっと存在そんざいしていましたし、将来しょうらいも存続そんぞくが許ゆるされるかも知しれません。しかし条件じょうけんが必要ひつようです。すなわちその人ひとは修煉者しゅうれんしゃでなければなりません。修煉しゅうれんの過程かていにおいて、慈悲じひ心しんにより、少数しょうすうの良よい人ひとに対たいしてこういうことをするのはかまいません。しかし自分じぶん自身じしんに威徳いとくが足たりないのですから、人ひとの業ごうを徹底的てっていてきに滅めっすることができず、難なんはそのまま残のこり、ただ具体ぐたい的てきな病気びょうきが治なおっただけです。一般いっぱんの小しょう気功きこう師しは修煉しゅうれんして得道とくどうした者ものではありませんので、先送さきおくりさせることだけしかできません。あるいは別べつの災わざわいに転化てんかさせるかも知しれませんが、しかし先送さきおくりさせる過程かていについては本人ほんにんは分わかっていない可能かのう性せいがあります。もし副意識ふくいしきを修煉しゅうれんする功法こうほうなら、副意識ふくいしきがやっているのです。一部いちぶの功法こうほうの練功れんこう者しゃはかなり有名ゆうめいなようですが、名声めいせいの高たかい多おおくの大だい気功きこう師しには功こうがなく、功こうはすべて副元神ふくげんしんの身体からだについています。つまり、修煉しゅうれんのある過程かていの中なかではそうすることが許ゆるされます。一部いちぶの人ひとはその次元じげんに長ながくとどまり、十じゅう数年すうねん、数すう十じゅう年ねんの歳月さいげつを費ついやして修練しゅうれんしていても、その次元じげんを抜ぬけ出だすことができないため、一生いっしょうの間あいだ人ひとの病気びょうき治療ちりょうをしているのです。彼かれらはずっとその次元じげんにいるから、そうすることを許ゆるされましたが、法輪大法ファールンダーファーを修煉しゅうれんする弟子でしは絶対ぜったいに病気びょうき治療ちりょうをしてはいけません。患者かんじゃにこの本ほんを読よんで聞きかせ、患者かんじゃがそれを受うけ入いれられれば、病気びょうきは治なおるのです。しかし、業力ごうりきの大おおきさの違ちがう人ひとに対たいして、効果こうかも違ちがってきます。
 

 病院びょういん治療ちりょうと気功きこう治療ちりょう


 病院びょういん治療ちりょうと気功きこう治療ちりょうの関係かんけいについてお話はなししましょう。一部いちぶの西洋せいよう医いは気功きこうを認みとめません。これは多数たすうと言いってもいいです。彼かれらは、「気功きこうで病気びょうきを治療ちりょうできるなら、どうしてまたわれわれの病院びょういんを必要ひつようとするのですか?」という言いい方かたをします。「それなら、われわれ病院びょういんに代かわってやってもらいましょうか! あなたたちの気功きこうは、手てを差さし出だすだけで病気びょうきを治なおせるし、注射ちゅうしゃも薬くすりも入院にゅういんもいらないのだから、われわれの病院びょういんに代かわったらよいじゃないか」と言いいます。この言いい方かたはまったく理屈りくつに合あわず、理不尽りふじんです。気功きこうのことを理解りかいしていない人ひとがいますが、実際じっさい、気功きこうによる治療ちりょうは、常人じょうじんの中なかの治療ちりょう方法ほうほうのようにしてはいけません。それは常人じょうじんの中なかの技能ぎのうではなく、超常的ちょうじょうてきなものです。超常的ちょうじょうてきなものである以上いじょう、広ひろい範囲はんいにわたって常人じょうじん社会しゃかいを妨さまたげるようなことが、許ゆるされると思おもいますか? 佛ほとけはすごい力ちからを持もっているではありませんか。一人ひとりの佛ほとけが手てを振ふれば、全ぜん人類じんるいの病気びょうきが消きえてしまいます。なのになぜそうしないのでしょうか? ましてあれほどたくさんの佛ほとけがいるのに、なぜ慈悲じひ心しんを出だして病気びょうきを治なおしてくれないのでしょうか? それはつまり常人じょうじん社会しゃかいはこのようになっているのであり、生老病死しょうろうびょうしもこんな状態じょうたいになっているものだからです。みな因縁いんねん関係かんけいがあり、因果応報いんがおうほうがあるもので、債務さいむがあれば返かえさなければならないからです。
 もしあなたが他人たにんの病気びょうきを治なおしてあげたら、この理りを破やぶったことに等ひとしいのです。つまり悪わるいことをしても、償つぐなわなくてよいことになってしまいます。それでよいのでしょうか? 修煉しゅうれんしている人ひとは、問題もんだいを根本こんぽん的てきに解決かいけつできるほどの力ちからを持もっていない時ときは、慈悲じひ心しんから病気びょうき治療ちりょうを行おこなうことが許ゆるされます。あなたに慈悲じひ心しんが現あらわれたので、そうすることが許ゆるされるのです。しかしあなたがこのような問題もんだいを解決かいけつすることができる力ちからを本当ほんとうに持もつようになると、広ひろい範囲はんいにわたって解決かいけつすることは許ゆるされません。そうすればあなたは常人じょうじん社会しゃかいの状態じょうたいを甚はなはだしく妨さまたげることになりますので、許ゆるされないのです。ですから気功きこうが常人じょうじんの病院びょういんに代かわることは絶対ぜったいにいけないことです。それは超常的ちょうじょうてきな法ほうなのです。
 もしこの中国ちゅうごくで気功きこう病院びょういんを建たてることが許ゆるされて、大だい気功きこう師しがみな出でて来きてそれをやりだしたら、どのような状態じょうたいになるのでしょうか? 常人じょうじん社会しゃかいの状態じょうたいを維持いじしていくためには、そんなことは許ゆるされないのです。もし気功きこう病院びょういんや気功きこう診療しんりょう所しょ、気功きこうによるリハビリセンターや療養りょうよう所しょを建たてたとして、いったんやりだすと、気功きこう師しの治療ちりょうレベルはがた落おちになって、治療ちりょう効果こうかも直ただちに駄目だめになってしまいます。なぜでしょうか? 常人じょうじんの中なかのことに手てを染そめたので、常人じょうじんの法ほうと高たかさを同おなじくしなければならず、常人じょうじんの状態じょうたいと同おなじ次元じげんにいなければならないので、その治療ちりょう効果こうかも病院びょういんのと同おなじでなければならないのです。ですから治療ちりょう効果こうかが駄目だめになったため、治療ちりょうするのに幾いくつかの治療ちりょう過程かていが必要ひつようだとか言いい出だします。だいたいそうなります。
 気功きこうによる病院びょういんを作つくるにせよ、作つくらないにせよ、気功きこうが病気びょうきを治療ちりょうできることは、誰だれも否定ひていできません。気功きこうは社会しゃかいにおいてこれほど長ながい間あいだ普及ふきゅうしており、大勢おおぜいの人ひとが練功れんこうを通つうじて確たしかに病気びょうき治療ちりょうと健康けんこう保持ほじの目標もくひょうには達たっしています。気功きこう師しにより病気びょうきが先送さきおくりされただけにしろ、何なににしろ、とにかくその病気びょうきは現在げんざいなくなっています。つまり気功きこうが病気びょうきを治療ちりょうできることは、誰だれも否定ひていできません。気功きこう師しに診みてもらう病気びょうきはほとんど難病なんびょうです。病院びょういんでは治なおらないから、運試うんだめしに気功きこう師しのところに行いってみたら、治なおったのです。病院びょういんで治なおるのなら気功きこう師しには頼たのみません。特とくに最初さいしょの頃ころは、気功きこうについて人々ひとびとはほとんどこういうふうに考かんがえていました。気功きこうは確たしかに病気びょうきを治療ちりょうできるのです。ただ常人じょうじん社会しゃかいの他ほかのことと同おなじようにしてはいけないだけです。広ひろい範囲はんいにわたって干渉かんしょうすることは絶対ぜったいに許ゆるされませんが、小規模しょうきぼにあるいはあまり大おおきな影響えいきょうが出でない場合ばあいは、ひそかにやるなら許ゆるされます。しかし徹底的てっていてきに病気びょうきを治なおすことはできません。これも間違まちがいのないところです。自分じぶん自身じしんが気功きこうで身体からだを鍛きたえ病気びょうきを治なおすのがいちばん良よいのです。
 病院びょういんでは病気びょうきを完治かんちできないとか、今いまの病院びょういんの治療ちりょう効果こうかはどうのこうのと言いう気功きこう師しがいます。われわれはどう言いったらいいでしょうか? もちろん多方面たほうめんの原因げんいんがありますが、最もっとも主要しゅような原因げんいんは、わたしから見みれば、やはり人類じんるいの道徳どうとく水準すいじゅんの低下ていかによって、いろいろ奇々怪々ききかいかいな病気びょうきが現あらわれたためです。病院びょういんでは治療ちりょうできず、薬くすりを飲のんでも効きき目めがなく、それに偽薬ぎやくも多おおいのですが、社会しゃかいがここまで退廃たいはいしてきたのはすべて人為じんい的てきです。誰だれも他人たにんを責せめるまでもなく、みんながそれぞれ一役ひとやく買かっているのです。ですから誰だれでも修煉しゅうれんすれば必かならず苦難くなんに遭遇そうぐうするのです。
 病院びょういんで検査けんさしても分わからないのに、確たしかに病気びょうきはあるという場合ばあいがあります。あるいは病気びょうきがあることは検査けんさによって分わかりましたが、病名びょうめいが分わからず、見みたこともない病気びょうきの場合ばあいがあります。病院びょういんは一律いちりつに「現代病げんだいびょう」と称しょうします。病院びょういんは病気びょうき治療ちりょうができるのでしょうか? いうまでもなくできるのです。病院びょういんが病気びょうきを治療ちりょうできないのなら、人々ひとびとが病院びょういんを信用しんようし、診みてもらいに行いくはずはないでしょう。病院びょういんはやはり病気びょうき治療ちりょうができるのです。ただその治療ちりょう手段しゅだんが常人じょうじんの次元じげんのものであるのに対たいして、病気びょうきとは超常的ちょうじょうてきなものであるということです。かなり重おもいものもあります。ですから病院びょういんは、病気びょうきがあれば早はやく治療ちりょうしなさいと言いいます。重おもくなれば治療ちりょうできなくなり、投薬とうやく量りょうが多おおくなると患者かんじゃが中毒ちゅうどくになることもあります。現在げんざいの医療いりょう水準すいじゅんは科学かがく技術ぎじゅつの水準すいじゅんと同おなじで、いずれも常人じょうじんという次元じげんにあるのですから、治療ちりょう効果こうかもそれに見合みあうものです。一ひとつはっきりさせなければならないことがあります。一般いっぱんの気功きこうによる治療ちりょうと病院びょういんでの治療ちりょうは、どちらも病気びょうきを引ひき起おこす根本こんぽん的てきな原因げんいんである難なんを後半こうはん生せいあるいは将来しょうらいに先送さきおくりするだけで、業力ごうりきそのものは全然ぜんぜん動うごかされていません。
 漢方かんぽうのことについてもお話はなししましょう。漢方かんぽうの病気びょうき治療ちりょうは気功きこうによる治療ちりょうと非常ひじょうに近ちかいのです。中国ちゅうごくの古代こだいでは、漢方かんぽうの医者いしゃはだいたい超ちょう能力のうりょくを持もっていたのです。孫思邈そんしばく、華佗かだ、李時珍りじちん、扁鵲へんじゃくなどの大だい医学いがく者しゃは、みな超ちょう能力のうりょくを持もっており、医学いがく書しょにも記録きろくがあります。しかし往々おうおうにしてこのような精華せいかともいうべきものは現在げんざい批判ひはんされるようになっており、漢方かんぽうの受うけ継ついだものは、漢方薬かんぽうやくの処方箋しょほうせんや経験けいけんの模索もさくに過すぎません。中国ちゅうごく古代こだいの医学いがくは相当そうとう発達はったつしており、現代げんだい医学いがくよりも進すすんでいました。「現代げんだい医学いがくはなんと進すすんでいることだろう。CTスキャナーで人体じんたいの内部ないぶを見みることができるし、B超ちょう音波おんぱ、X線写真せんしゃしんなどもある」と思おもう人ひとがいるかも知しれません。現代げんだいの医療いりょう設備せつびは確たしかに進すすんでいますが、わたしから見みれば、やはり中国ちゅうごく古代こだいの医学いがくには及およびません。
 華佗かだには曹操そうそうの脳のうの中なかに腫瘍しゅようがあるのが見みえ、手術しゅじゅつで頭蓋骨ずがいこつを切きり開ひらいて腫瘍しゅようを取とり出だそうとしました。それを聞きいた曹操そうそうは華佗かだが自分じぶんを殺ころそうとしているのではないかと思おもい、華佗かだを投獄とうごくしました。結局けっきょく華佗かだは牢獄ろうごくで亡なくなりました。曹操そうそうは病気びょうきが再発さいはつした時とき、華佗かだを思おもい出だして呼よぼうとしましたが、華佗かだはすでに死しんでいました。その後ご、曹操そうそうは本当ほんとうにその病気びょうきで亡なくなりました。華佗かだはなぜ知しっていたのでしょうか? 彼かれには見みえたのです。これは人間にんげんの超能力ちょうのうりょくであり、昔むかしの大医学者だいいがくしゃはみなこのような力ちからを持もっていました。天目てんもくが開ひらいてから、一ひとつの方向ほうこうから同時どうじに人ひとの四よっつの面めんが見みえ、前まえから後うしろ、左ひだり、右みぎが見みえます。さらに一ひとつ一ひとつの断面だんめんをスライスするように見みることができます。またこの空間くうかんを通とおして病気びょうきになった根本こんぽん的てきな原因げんいんが何なにであるかを見みることもできます。現在げんざいの医療いりょう手段しゅだんでここまでできますか? ずいぶんかけ離はなれており、あと千年せんねんはかかるでしょう! CTスキャナー、B超ちょう音波おんぱ、X線せんなどで人体じんたい内部ないぶを見みられますが、設備せつび自体じたいがかなり大おおきく、携帯けいたいもできないうえ、電気でんきがなければなんの役やくにも立たちません。しかし天目てんもくはどこへ行いってもついており、エネルギー源げんも要いらないのですから、比くらべものになりません!
 今いまの薬くすりはどうのこうのと言いう人ひとがいますが、わたしは必かならずしもそうではないと思おもいます。中国ちゅうごく古代こだいの薬草やくそうは、本当ほんとうにたちどころに病気びょうきを治なおすことができました。多おおくのものはもう伝つたわっていませんが、民間みんかんに伝つたわっているのは少すくなくありません。わたしが斉斉哈爾チチハルで講習会こうしゅうかいを行おこなった時とき、街まちで露店ろてんを出だして抜歯ばっしをやっている人ひとを見みました。東北とうほく人じんのような身みなりではないので、南方なんぽうからやってきた者ものだとすぐ分わかりました。来くるものは拒こばまず、誰だれにでも抜歯ばっししてあげるので、抜ぬかれた歯はが山やまほど積つまれていました。歯はを抜ぬくのが目的もくてきではなく、自分じぶんの水薬みずぐすりを売うるのが目的もくてきです。その水薬みずぐすりは濃こい黄色きいろの気きを発はっしていました。歯はを抜ぬく時とき、水薬みずぐすりの瓶びんの蓋ふたを開あけ、頬ほおを隔へだてて病やんだ歯はに向むけて、外そとから水薬みずぐすりの黄色きいろの気きを吸すわせます。水薬みずぐすりはほとんど減へっておらず、再ふたたび蓋ふたをしてそこに置おきます。それからポケットから一本いっぽんのマッチ棒ぼうを取とり出だし、薬くすりの宣伝せんでんをしながら、病やんだ歯はにマッチ棒ぼうを当あて、ちょっと横よこに動うごかすと、歯はがポロリと落おちました。痛いたくもなく、わずかな血痕けっこんがあるだけで、出血しゅっけつもしません。皆みなさん考かんがえてみてください。マッチ棒ぼうは力ちからを加くわえれば折おれるものなのに、それを使つかって歯はを抜ぬくことができたのです。
 中国ちゅうごくの民間みんかんに伝つたわっている一部いちぶのものは、西洋医学せいよういがくの精密せいみつ機器ききなどより優すぐれていると思おもいます。効果こうかを見比みくらべればよいのです。マッチ棒ぼうでちょっと動うごかすだけで歯はが抜ぬけます。西洋せいよう医いの方ほうは、歯はを抜ぬくのに、まず麻酔ますいの注射ちゅうしゃをしますが、こちらから注射ちゅうしゃしたりあちらから注射ちゅうしゃしたりして、それだけでも痛いたいのに、麻酔ますいがかかってから、ペンチで抜ぬきます。抜ぬいているうちに下手へたをすると折おれて根ねが残のこってしまいます。ハンマーとのみで心臓しんぞうがドキドキして震ふるえてしまうほど、削けずったり敲たたいたりします。さらに精密せいみつな機器ききで穴あなをあけたりします。人ひとによっては、飛とび上あがらんばかりに痛いたいうえに、大量たいりょう出血しゅっけつする人ひともいます。あなたはどちらが良よいと思おもいますか? どちらが進すすんでいるのでしょうか? 道具どうぐだけで見みてはならず、その実際じっさいの効果こうかを見みるべきです。中国ちゅうごく古代こだいの医学いがくは相当そうとう発達はったつしていたのです。今いまの西洋せいよう医学いがくはこれから何なん年ねん経たっても追おいつかないでしょう。
 中国ちゅうごく古代こだいの科学かがくは、西洋せいようから学まなんだ現代げんだい科学かがくとは違ちがい、まったく別べつの道みちを歩あゆんだので、異ことなる状態じょうたいをもたらすことができました。ですから現在げんざいの認識にんしき方法ほうほうで中国ちゅうごく古代こだいの科学かがく技術ぎじゅつを認識にんしきしてはなりません。中国ちゅうごく古代こだいの科学かがくは、直接ちょくせつ人体じんたい、生命せいめい、宇宙うちゅうを相手あいてに研究けんきゅうしていたので、別べつの道みちを歩あゆんだのです。その当時とうじ学校がっこうへ行いく人ひとは、みな坐禅ざぜんを重おもんじ、坐すわる姿勢しせいにも厳きびしかったのです。筆ふでを持もてば、気きを運はこび、呼吸こきゅうを整ととのえることを重おもんじていました。どのような仕事しごとをしても心こころを浄きよめ、息いきを調整ちょうせいすることを重視じゅうしし、社会しゃかい全体ぜんたいがこのような状態じょうたいにあったのです。
 「中国ちゅうごくの古代こだい科学かがくに従したがって行いったとしたら、今日こんにちの自動車じどうしゃや、汽車きしゃがありえたのか? 今日こんにちの近代きんだい化かがありえたのか?」と言いう人ひとがいます。現在げんざいあなたが身みを置おいている環境かんきょうから、そうではない別べつの状態じょうたいを認識にんしきしてはなりません。自分じぶんのものの見方みかたを変革へんかくさせるべきだと思おもいます。たとえテレビがなくても、人ひとは見みたいものはいつでも見みられるものを頭あたまの前まえに持もっていますし、功能こうのうも持もっています。汽車きしゃ、自動車じどうしゃがなくても、坐すわったままで飛とぶことができるし、エレベーターも要いりません。今いまとは違ちがった社会しゃかいの発展はってん状態じょうたいがもたらされたかも知しれません。必かならずしも今いまのこの枠わくの中なかに限かぎられることはありません。他たの星ほしから来きた人ひとは空そら飛とぶ円盤えんばんで瞬時しゅんじに往来おうらいし、大おおきくなったり小ちいさくなったりすることができます。それらが歩あゆんでいるのはさらに異ことなる発展はってんルートで、別べつの科学かがく方法ほうほうなのです。